8月28日の説教要旨 「悔い改め」 牧師 平賀真理子

イザヤ書81623 ルカ101316

 はじめに

今日の新約聖書は、前の段落の続き、つまり、72人の弟子達の派遣にあたり、イエス様が弟子達に語ってくださった御言葉です。

 ソドムより罪が重い町々

前の段落の最後で、罪深いために、天からの火で滅ぼされたというソドムの町の名が出ました(創世記19:1-29)。そのソドムにも増して罪が重いのが、福音を聞いても受け入れない人々、また、受け入れない人だらけの町々であると示されました。そう言いながら、イエス様は、かつて実際に体験された、福音を受け入れない町々を思い出されたのでしょう。今日の箇所の中で、5つの町の名が挙げられています。コラジン、ベトサイダ、ティルス、シドン、カファルナウムです。

 福音宣教の拠点カファルナウムと近隣の町コラジンとベトサイダ

その中でも、福音宣教の拠点カファルナウムは最も恵みに溢れた町、福音が一番多く語られたはずの町です。しかし、福音やイエス様を受け入れなかったために、「陰府にまで落とされる」=一番下に貶(おとし)められるようになるとイエス様が預言されたと15節に書かれています。また、近隣には、聖書の後ろに載っている地図6で見てわかるとおり、コラジンとベトサイダがあります。この2つの町も、カファルナウムの次に福音がよく語られた町だったに違いありません。ですから、福音を聞く恵みをたくさん与えられたはずです。イエス様の御言葉を聞いたり、力ある御業を目の当たりにしたはずです。にもかわらず、その町の人々の多くが、福音やイエス様を受け入れなかったのです!13節では、この2つの町の名の後に「不幸だ」とありますが、これは意訳されています。元の文章には、「ああ、コラジンよ!ああ、ベトサイダよ!」と言って、悲嘆にくれる感嘆詞が書かれているだけです。これらの町の罪深さ故に滅びていく様子が、主には見えていたのでしょう。

 異邦人の町ティルスとシドン

ティルスとシドンは、ユダヤ民族の領域に隣接した異邦人の町々でしたが、イエス様の福音を遠くから聞きに行ったり来たり(6:17)、イエス様への大いなる信仰ゆえに娘を癒してもらった「カナンの女」のいたこと(マタイ15:21-28)で、聖書にも記録されている町です。ユダヤ人の伝統的な見方からすれば、神様から遠いはずの異邦人のティルスやシドンの人々の方が、まだ、神様の御心に近いとイエス様は思っておられたことがわかります。それは最高に大事な一点、つまり、福音やイエス様を受け入れるという点において、ユダヤ人達よりも、これらの町々の異邦人達の方がまだ可能性があると思われたからです。

 新しい基準による祝福と罰の掟

このように見てくると、もはや古い基準=神様が選んだユダヤ民族かどうかという旧約の基準よりも、重要とされる基準が新たに立ち上がっていることがわかります。それは、神の国の福音や「救い主」イエス様を受け入れるかどうかという新約の基準です。そして、神様の恵みによって祝福されるべき使命を負った町や人々が、その祝福を受け入れなかった時には、恵みとは逆の罰を受ける定めにあることが、ここではっきり示されています。恵みが大きい分、罰も大きなものになることを、福音を聞く恵みを得た者は肝に銘じておかねばなりません。

 弟子達を受け入れる=イエス様を受け入れる=天の父なる神を受け入れる

今日の箇所の最後16節によって、ルカ福音書がこの御言葉をこの箇所に置いている理由を類推できます。イエス様は、その憐れみから、弟子達を派遣する前に、受け入れられないという憂き目に遭っても力を落とさないように、励ましておられるのです。福音伝道の大事な使命を帯びた弟子達の後ろには、イエス様がついていてくださること、更にその後ろには、天の父なる神様がついていてくださることを、イエス様は宣言されたのです。この「派遣される弟子達」の中に、実は、私達も含まれています。

 悔い改め

13節には、「粗布をまとい、灰の中に座る」という旧約時代の悔い改めの態度が記されています。主の十字架と復活の恵みを賜っている私達は、外見上はこの姿をする必要はありませんが、その心積りは受け継ぐべきです。私達は神の国の民とされているのに、度々この世の価値観に戻ってしまっていないでしょうか。そのような時、「悔い改め」が必要です。再び神様に心を向け、神様の御心に適った生き方へ再度踏み出せるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

8月7日の説教要旨 「平和の主の道」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1115 ルカ95156

 はじめに

今日の新約聖書箇所として「サマリア人から歓迎されない」という小見出しがついた段落が与えられました。しかし、その中の最初の節の51節は、ここから19章半ばの主のエルサレム入城までの旅路が始まることを示しています。ルカ福音書は全部で24章ですが、その半分弱の約10章分を使い、イエス様の十字架への道の途中の出来事をたくさん記しています。苦難の道の途中にあっても、イエス様は、従う人々を愛し、導くことをおろそかになさらなかったことが証しされています。

 「天に上げられる時期が近づく」(51節)

イエス様は神の御子として、天の父なる神様から、救いの必要な人間ばかりのこの世に降りてこられました。そして「救い主」としての使命=イエス様だけに託されていた使命が、人間の罪を贖うために命の犠牲(神の御子の死)=十字架上での死です。人間的に見れば、これは敗北と受け取られるでしょう。しかし、神様から見れば、全く逆、勝利です!

壮絶な死を遂げなくてはならなくても、父なる神様の御心に従順だったイエス様には、その後、「復活」という誰も賜ることのなかった栄誉が与えられました。神様から与えられた「復活の体」で弟子達と過ごし、その後は天に昇り、今や父なる神様と同じ「神様の位」に就かれています。

 「エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)

ルカによる福音書によれば、主の十字架と復活は、神の民ユダヤ人の都「エルサレム」で起こりました。イエス様がエルサレムに向かうとは、その先に栄光の復活があるとはいえ、まずは十字架にかかるということです。人間の肉体を与えられて、この世を歩んでいた主にとって、それは、激しい苦痛と屈辱を受けることを意味していると主はご存じのはずです。だから、主と言えども、決意を固める必要があったのでしょう。

 「サマリア人も救いの中に」

「栄光の救い主」ではなく、まずは「苦難の僕」としてエルサレムへ向かうイエス様が、ユダヤ人達が嫌うサマリア人の村を最初に通ろうとしたことには、意味があると思われます。サマリア地方はユダヤ地方の北側に位置し、ガリラヤ地方で宣教されていたイエス様がエルサレムに行くには、サマリア地方を通るのが近道です。けれども、当時、ユダヤ人はサマリア人の村を避けてヨルダン川の東から遠回りしてエルサレムに入りました。サマリア人は、元々は「神の民」イスラエルの民だったのですが、侵略してきた異民族に荒らされて、宗教的にも人種的にも純粋でなくなったということで、ユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、それでサマリア人達もユダヤ人を嫌ったからです。この状況は、イエス様も当然御存じのはずです。なのに、決意を固めた後に「救い主」として初めて通る道として、主はサマリア人の村を選ばれたのです。約束を必ず果たされる神様が、人間の事情に左右されず、最初の約束を守ってくださり、サマリア人を「神の民の救い」の中に含んでくださったと考えられるでしょう。

 「サマリア人は歓迎しなかった」

神様の大いなる愛を受けているにも関わらず、その村のサマリア人達はイエス様を歓迎しなかったことが記されています。サマリア人から見れば、仲たがいしているユダヤ人の救いのためにイエス様が自分達の村を通るのですから、面白くなかったでしょう。しかし、もっと普遍的なことが暗示されていると思われます。人間は人間的な理由で、イエス様を「救い主」として、歓迎できないということです。(エルサレムでも一時的に歓迎されたものの、最終的には歓迎されませんでしたし、福音宣教する時も、まずは歓迎されないことが多いものです。)

 「弟子2人の発言」と「平和の主の道」

主を歓迎しないサマリア人に対して、弟子のヤコブとヨハネが、村を焼き滅ぼすことを提案しました。反対者に対して、彼らは全滅させる方法を取ろうとしました。しかし、イエス様は、歓迎しない人々の罪をも背負うために、我が身を滅ぼすという十字架にかかった御方です。これが神様の方法です。従わない人間のために神様御自身が犠牲になるのです。弟子2人とは全く逆です。父なる神様の御心に従って、イエス様は「自分を犠牲にする道」を従順にたどられました。これこそが、「神の霊」を受けた本当の平和の主の道です。私達は、「平和の主の道」を正しく理解し、それに倣いたいものです。「山上の説教」の御言葉を思い起こします。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)私達は主と同じ「神の子」と呼ばれる幸いを賜わるのです!

7月17日の説教要旨 「弟子たちの教育」 牧師 平賀真理子

イザヤ書53610 ルカ9:3745

 はじめに

イエス様は人々の噂をよそに、弟子達がイエス様をどういう御方かを本当に理解しているかということに心を配られました。それには、一番弟子のペトロが期待に応え、「神からのメシア(救い主)」(9:20)という信仰告白をしました。そこで初めて、イエス様は御自分の定めを、弟子達に信頼して打ち明けられました。

 「救い主」とは?

当時のユダヤ人達は、自分達の所に来る「救い主」とは、ローマ人(異邦人)の支配という苦境から自分達を解放し、ユダヤ人の国を打ち立ててくれる強い王様のような御方だと思い込んでいました。ただ一人、イエス様だけが本当の「救い主」とは、旧約聖書に預言された「苦難の僕」の定め(イザヤ52:13-53:12)の道を歩まねばならないと御存知でした。また、そのことで、多くの人々がイエス様を救い主として受け入れることにつまずくこともわかっておられました。初めて御自分の厳しい定めを弟子達に伝えた後、彼らを見ても、理解していないことは明らかでした。

彼らの理解が進むように祈られた結果、天上での出来事のような「山上の変容」(ルカ9:28-36)が3弟子の前で起こったのでしょう。天の父なる神様の声がして、3弟子達は神様が「救い主」と保証するイエス様に従うことをより一層強く決意することができたのだと推測できます。

 悪霊に取り憑かれた子の父親の報告

イエス様が神様から遣わされたことを証しする出来事「山上の変容」に呼応して、翌日、悪霊に取り憑かれた子とその父親が、山を下りたイエス様の所に助けを求めて来ました。そして、少し前に、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力を授けた(9:1)弟子達が、この子の悪霊には打ち勝てなかったことを、その子の父親から知らされました。

 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(9:41)

弟子達に授けた御自分の力と権能がわずかな間に衰えたのか、悪霊の力が弟子達では手に負えない程だったのかわかりませんが、強力な悪霊が、まだ、人を苦しめていることをイエス様は嘆かれたのではないでしょうか。

 「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければナならないのか。」(9:41)

この「あなたがた」は弟子達を含む、その場にいた人々みんなに向けられた言葉です。イエス様は、御自分の力と権能を授けた弟子達が悪霊に打ち勝てない現実を前に、やっぱりイエス様じゃなきゃだめだという人々の思いを突き付けられています。けれども、イエス様には、この世での御自分の時がわずかだとわかっています。そして弟子達に教えても理解は進んでいない、そして人々はイエス様がずっといてくださると思って頼り切って来る、そんな期待と重圧の渦の中にイエス様はおられました。

 「神の愛」を源にした、主の御力と権能による癒し

このように、イエス様は大変な状況の中におられましたが、御自分の苦しみは脇に置いて、苦しんで御自分を頼って来る人を見ると助けずにはいられない「神の愛」に突き動かされ、悪霊を追い出して子供を癒し、心配する父親にお返しになりました。この強力な悪霊に、ただ一人打ち勝てたイエス様の力と権能は、やはり神様からのものだと人々は確信を深め、神様の偉大さに感動していました。

 2度目の受難告知

人々の感動の中、イエス様は突き付けられた課題にすぐに取り組まれました。「弟子たちの教育」です。もう一度、弟子達に御自分の定めをお告げになったのです。それは最初の受難告知より短いものです。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。(9:44後半)「人の子」とは、イエス様が救い主である御自分を指すときに用いられる言葉です。「人々の手に引き渡されようとしている」とは、後に実際に行われる「主の十字架」を預言しています。最初の受難予告の中の受難の部分だけ特に強調されています。

 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」(44節)

神様のご計画により、弟子達は、主の御言葉を当時は理解できないように隠され、主に質問もできず、後に聖霊の助けによってわかるようになります。ただ、御言葉を「よく耳に入れておきなさい。」と教えられました。真理は人間にはすぐに理解されなくても、後に理解が深まるよう導かれます。私達も弟子として、福音の理解が徐々に深まることを祈りつつ、御言葉を覚えることに励みましょう。

7月10日の説教要旨 「山上の変容」牧師 平賀真理子

イザヤ書4219 ルカ9:2836

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の直前には、一番弟子ペトロの信仰告白があり、イエス様が御自分の受難予告をなさる出来事が記されています。ペトロの信仰告白によって、弟子達がイエス様を「神からのメシア(救い主)」とわかっていると思われました。しかし、「イエス様が多くの苦しみを受け、人々に排斥され、殺され、しかも3日目に復活する」という受難予告の内容は、人間がすぐ理解できる範囲を超えていました。弟子達の様子をご覧になったイエス様は、祈りの中で、このことを父なる神様に報告し、弟子達がわかるようにしてくださいと祈られたのかもしれません。

 祈りをもって始められるイエス様

今日の箇所は、イエス様が最も信頼する3人の弟子、ペトロ・ヨハネ・ヤコブを連れ、祈るために山に登られたという記述から始まります。ルカによる福音書では、大事な場面で、イエス様が祈りをもって始められることを度々記しています。神の御子イエス様でさえ、このように祈っておられます。私達も主に倣い、祈りを増やしていきたいものです。

 山上の変容

祈りの後、「イエスの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた(29節)」とあります。イエス様が山の上で、地上とは違う御姿、即ち、天の側の御方としての輝く御姿になられたことを、「山上の変容」もしくは「山上の変貌」と言います。3人の弟子達は、更に、地上とは思えない出来事を目の当たりにします。旧約聖書や祖先の言い伝えでしか聞いたことのないモーセやエリヤがイエス様の所に来て語り合う姿を見たのです。

 イエス様と語り合うモーセとエリヤ

モーセと言えば、神の律法である「十戒」を神様からいただいた指導者、エリヤと言えば、最高・最大の預言者です。この2人で、律法と預言者を象徴します。旧約聖書を別の言い方で「律法と預言者」と言うので、旧約聖書を体現する2人がイエス様と語り合うとは、イエス様が旧約聖書(における神の救い)を引き継ぐと示されていると言えるでしょう。

 エルサレムで遂げようとしておられる最期=十字架

また、ルカ福音書だけに記されている「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(31節)」とは「主の十字架」を意味しています。神の御子・救い主であるイエス様が御自分の命を犠牲にすることによって、人間の罪をすべて肩代わりしてくださることです。このイエス様を「救い主」と信じる者が、その救いの恵みをいただくことができるようになることを意味します。

 眠気に襲われる弟子達

天の出来事が地上で起こっているとしか思えないような、この「山上の変容」において、3弟子達は「ひどく眠かったが、じっとこらえて」とあります。彼らが天に心を向けず、この世の出来事ばかりに捕らわれているゆえの眠気であるという説があります。それでも彼らは眠気を必死にこらえ、続きを見ることができました。ルカ福音書でのテーマの一つである、「この世での試練を忍耐していると、栄光の救いを受けられるようになる」という意味が見て取れます。

 「雲」の中からの御声

続いて、イエス様とモーセとエリヤは、神様の臨在を示す「雲」に覆われ、3弟子から隔離されます。そして、雲の中からの御声がするのを3弟子は聞くのです。イエス様の父なる神様からの御言葉です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」(35節)「これ」とは、イエス様のことです。「選ばれた者」というのが、ルカ福音書での特徴です。父なる神様が「人間の救いのために選んだ者」という意味です。「これに聞け」とは、神様の選んだ、御子イエス様に聞き従いなさいという意味です。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた(36節)」のですから、雲の中に覆われた3人のうち、神様の救いの御業を完成するために選ばれたのは、イエス様だけだと示されています。

 聖霊によって真理をことごとく悟るようになった弟子達

「山上の変容」を、直後に3弟子が他言しなかったのは、真意を理解できなかったからでしょう。十字架と復活の後、主の預言どおりに「聖霊を受けて」初めて、3弟子は、主の救いの御業と与えられる恵みについて目を開かれたのです(参照:ヨハネ16:13)。そして、彼らは福音書に記し、後代の信仰者である私達に神様がなさった出来事として伝える働きをしたのです。私達も忍耐強く信仰生活を続け、主の恵みを更に理解できるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

6月5日の説教要旨 「約束の聖霊を受けた人々」 牧師 平賀真理子

イザヤ571419・使徒言行録23742

 はじめに

ここ(37節)で書かれている「人々」とは、エルサレムに住む住民で、「聖霊降臨」の物凄い音や振動に驚いて集まって来た人々です。この「人々」は、その後、信徒達に「炎のような舌」が分かれ分かれに降るのを見、また、信徒達が聖霊から力を与えられて外国語で「神の偉大な業」を語るようになった、ペンテコステの出来事を目の当たりにしました。それに続いて、イエス様がお選びになった「使徒」の代表であるペトロが行った説教を聞くことになった人々です。

 ペトロの説教を聞いて受け入れた人々

人間的な弱さのあるペトロですが、この時の説教の第一部(14-36節)によって、「人々」に、救い主イエス様を十字架に付けた責任を痛感させ、彼らがイエス様に対して変わらなければならないことを理解させることができました。これはペトロ個人の力というよりも、聖霊の御力をいただけたからだと言えるでしょう。「人々」は、それ以前には指導を仰ぐことになるとは思ってもいなかった「ナザレ人イエス」の弟子達に対し、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問い、それに答えて、ペトロは、イエス様を救い主として理解できた人が次に行うべき行動を指導しました。

 悔い改め、イエス・キリストの名による洗礼

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)というのが、ペトロの答えであり、主の約束でもあるのです。「悔い改める」とは、一言でいうなら、「心を入れ替える」です。更に詳しく説明すると、「神様なしで生きてきたこれまでの生き方を、神様を心の中心に据えた生き方に180度方向転換すること」です。38-39節で言うなら、イエス様の本当の価値を知らずに生きてきて、(積極的でなかったにせよ、)イエス様を十字架で殺す側にいた「人々」に対して、イエス様を無視したり、心の中で否定したりして、自分の好き勝手に生きるのをやめて、イエス様の本当の価値を理解して、その御方を心の中心に据える生き方を今すぐ始めなさい。」と勧めているわけです。

ペトロの説教(第一部)で語られたように、イエス様は神様によって救い主とされた御方であり、死から甦って復活された御方であり、更に、約束された聖霊降臨に至っては、弟子達だけでなく、ここに書かれた「人々」も証人とされました。この「人々」は、もうイエス様を知らないと言って生きていくことはできません。神様のご計画によって彼らの多くが、救い主イエス様の本当の価値を知り、更に、その救いの恵みを受けることが゙許されていることを知らされました。「イエス・キリストの名による洗礼」とは、神様と人間を隔てていた「罪」を、イエス様の十字架の贖いによって、取り除いていただくものです。「主の御名による洗礼」を受けることで、神様から「御自分の民」として認められるのです。

人間は、イエス・キリストの名による洗礼を受けて、罪を赦されることになり、神様とつながることができるようになります。その結果、神の霊である「聖霊」を受けて、神様の御用のために働くことを喜びと感じるように変えられていきます。神様につながるようになれることや神様の御用のために用いられることを喜べるようになるには、多くの場合、信仰の成長が必要です。信仰の目が成長していなければ、聖霊の助けを受けていると気づくことが出来ないからです。逆に言うと、自分の身に起こっている聖霊の助けをもっと知って、更に喜びに満たされるために、信仰の成長を求めていきたいものです。

 主が招いてくださる者ならだれにでも

39節には、イエス様が切り開いてくださった新しい考えを読み取ることができます。それまでは、神の民として神様が選ばれたユダヤ民族がまず救われるという考えが支配的でしたが、ユダヤ民族でなくても、イエス様を救い主として信じさえすれば、ユダヤ人でない「遠くにいる人々」も、イエス様によって同じように救われて、主が招いてくださる「神の民」となれることが示されています。

「邪悪なこの時代から救われなさい」(40節)というペトロの勧めには、「人々」がイエス様につながり、本当の意味で救われてほしいという愛が溢れています。

 「初代教会」が大事にしていたこと

こうして、エルサレムで最初の教会「初代教会」が生まれ、「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと(聖餐)」「祈り」が大事にされました。私達もこれら全てを網羅する「礼拝」を第一に生きる信仰者へ成長できるよう、祈り求めましょう。

2月14日の説教要旨 「『種を蒔く人』のたとえ」 牧師  平賀真理子

イザヤ書6:9-10 ルカ福音書8:4-15

 はじめに

 イエス様は、よく、例え話を用いて、人々に話をなさいました。特に、この「種を蒔く人」のたとえは、例え話自体と、イエス様ご自身からの説明が、聖書に共に書かれています。それで、後の時代の私達は、例え話の本当の意味をすぐに知ることができます。でも、イエス様の御許に来た群衆は、4節から8節の例え話と「聞く耳のある者は聞きなさい」という御言葉だけを聞いたことをあえて認識しておきたいところです。

 種の4種類の成長結果

イエス様は話を聞きに来た一般民衆のほとんどが従事していた農業の中から、興味を持ってもらえるよう、「種まき」の話をされたのでしょう。4~8節では「種」と「種を蒔く人」と「種が落ちた土地の状況」が語られる主な内容です。「種を蒔く人」の「種を蒔く」という同じ行為により、4種類の成長結果となったことが話されています。1つ目は、種が鳥に食べられて種自体がなくなり、芽さえ出なかったこと、2つ目は、芽は出たが、根が張れずに枯れてしまったこと、3つ目は、芽が出て茨と共に伸びたが、茨に覆われて成長できなかったこと、4つ目は、良い土地に育ったために百倍の実をつけるほど成長したことでした。これだけ聞くと、農業の技術的な話?とか、種まきをする注意点?という疑問がわいてきそうですが、次の11~15節にあるように、この例え話が神の国の福音宣教の結果を預言されたものであることが明らかにされていきます。

 土地の状況に起因する成長結果の違い(実を結べない3種類)

種の成長結果は、種の落ちた土地の状況によることがわかります。土地の状況とは、本当の意味では、神の言葉が降って来た人(心の状態)のことです。

1つ目の道端(畝と畝の間で人の通り道)に落ちて、人に踏みつけられ、鳥に食べられたとあるのは、「神の言葉を聞いても、ないがしろにし、挙句の果てには、悪魔に取られてしまう人」を例えています。

2つ目の石地のものとは、「神の言葉を育てるために耕すことを怠っている」心の状態にある人のことです。種の成長のために土という環境を整えることが大事なことです。それを怠ると、まだ成長過程の植物は、根も弱くて硬い石に打ち勝つことができないことを「試練に遭うと身を引いてしまう人たち」と表現しています。

3つ目の茨の中に落ちたものとは、心配事や富や生活の楽しみの方を、神の言葉を信じて生きることよりも優先して生きている人達のことです。ある程度、信仰を続けることはできるかもしれませんが、信仰者として本来結ぶべき、信仰の実をつけることができない人々です。信仰の実とは、別の言い方をすれば、「聖霊の結ぶ実」とも言えます。それは「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ書5:22-23)です。

 良い土地に落ちた種の成長

4番目の良い土地に落ちたものとは、「立派な善い心で」と言われる人たちです。では、立派な善い心とはどういう心か、それは、すぐ次に書かれています。「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」です。まず、御言葉を聞き、それを心に留める、そしてそれに従って行動するということです。その時に必要とされるのが「忍耐」と書かれています。この「忍耐」の元々の言葉は、「重い荷を背負ってじっと留まる」という意味から生まれたものです。しかし、その忍耐の果てには、信仰者として実を結ぶ恵みが与えられています。実を結ぶとは、2つの意味があると思います。一つは、種が百倍にもなることであり、もう一つは、その種の成長にふさわしい状態の土があるということが外からもわかるということです。イエス様が御自分の使命として大事になさった神の国の福音がその人の心に育って実った結果、種と表現される信仰者がたくさん生まれることが示され、福音を告げる使命を担う者や、イエス様の証人として生きる者が豊かに生まれることが示されています。

 「神の国の秘密を悟ることができる」恵み

10節では、イエス様が、たとえを用いて話す理由を、イザヤ書6章9-10節を引いて語られました。「神の国の秘密」を理解することを許されていた弟子達と許されない群衆がいました。ここに「神の選び」が起こっています。神の国の民として招かれる人を選ぶのは、神様の主権の一つです。私達信仰者は神の国の秘密を悟ることができる弟子達に繋がっています。主の選びに心から感謝し、主の御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人になれるよう、聖霊の助けを祈り求めたいものです。

1月24日の説教要旨 「罪の赦しと愛」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1:18-20 ルカ福音書7:36-50

 はじめに

 今日の旧約聖書の箇所で、「私達の罪が緋のよう(真っ赤)であっても、雪のように白くなることができる。主に進んで従うなら実りを受ける」と証しされています。罪の赦しがおできになるのが、唯お一人、私達の主イエス・キリストです。今日の新約聖書の箇所では、そのイエス様に実際に出会った人々が取った態度から、どのように主を迎えたのか・または受け入れなかったかが、明確にされています。3つの態度に分かれているので、そこから考えてみたいと存じます。

 ファリサイ派シモンの態度

 1つ目は、イエス様を食事に招いたファリサイ派の人の態度です。40節から、この人はシモンという名前だとわかります。ファリサイ派シモンはイエス様に「一緒に食事をしてほしいと願った」(36節)とあります。当時のユダヤ教の社会では、聖書の話を語る巡回教師を自宅に招くのは、大変功績のあることと思われていたようです。また、大事なお客様が来られた時は、興味ある人は誰でも一緒に家に入る風習があったそうです。「重要なお客様と多くの人々をもてなすことのできる立派な人」との評価、シモンは、その評価を期待していたのかもしれません。ところが、シモンは自分の願いでイエス様を招いたのに、イエス様から思いやりの不足を指摘されました。旅人の足を洗うための水の用意、親愛の情を表す接吻、頭への香油塗り(尊敬を表す)、この3つです。シモンの心の中に、イエス様に対する尊敬・感謝・愛が足りなかったから、この3つの行為ができなかったのでしょう。ファリサイ派のシモンがイエス様との出会いを望んだのは、純粋な敬愛の情からではなく、単なるイエス様への関心と人々からの自分への評価のためだったと思われます。食事に招くという外面は尊敬を示しているようですが、内面では、自己中心の罪のためだったと、聖書の記述から推測できます。

 罪深い女の態度

2つ目は、「罪深い女」(37節)と書かれた女性の態度です。この女性は、具体的に言えば「娼婦」だというのが、多くの学者の共通の見方です。この女性は、ユダヤ教から見たら、姦淫の罪を犯している「罪人」です。特に、ファリサイ派の人々はこのような「罪人」を疎外しました。一緒にいると穢れが移ると考えたのです。しかし、イエス様は、これ以前に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)と宣言なさいました。当時の価値観とは真逆のこの御言葉は、驚きを持って広まったことでしょう。「罪深い女」と呼ばれた女性は、この御言葉により、「自分も神の国に入れる」という大きな慰めと励ましを受けたはずです。だから、勇気を振り絞って、自分を見下すファリサイ派の人の家に行って、敬愛と感謝を表したいと切に願って、香油の壺を持参したのでしょう。この女性は、ファリサイ派シモンには不足していた3つの行為を補うことになりました。足を洗うこと、接吻すること、香油を塗ることです。足を洗う水と拭き取る布の代わりに、この女性は救い主イエス様に出会って感極まって流した涙と髪の毛を使いました。接吻と香油塗りの2つは、各々顔と頭にするものですが、主の足元で行いました。この女性は主の御前で謙虚な思いから自分を低くしたのでしょう。敬愛するイエス様からの救いの恵みへの感謝により、このような態度が生まれたと思われます。

 イエス様のなさった例え話(41-42節)

イエス様はシモンに、ある金貸しから借金をしている二人が借金を帳消しにしてもらった例え話をなさいました。それは、借金の額の多い方の人が、少ない人よりも金貸しを愛することを教える例えです。借金とは「罪」のことです。正しい人と思われているファリサイ派のシモンでさえ、神様の御前においては、確かに罪ある人間であり、「罪深い女」と変わらないのです。「罪を赦された」という自覚をより多く持つ人間の方が、罪の自覚を少ししか持たない人間よりも、救いの感謝をより多く持ち、救い主をより多く敬愛すると教えておられます。

 同席の人たちの態度

3つ目は、同席の人たちの態度です。「『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。』と考え始めた(49節)」のです。イエス様や福音を始めて知らされた人たちの態度の予告とも見ることができます。そういう方々がイエス様の「罪の赦しの権威と信じる者との愛の交わり」を肯定的に考え始めるために、信仰者である私達は、主の証し人として歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

1月10日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス②」 牧師 平賀真理子

イザヤ4219 ルカ福音書72435

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」はイエス様に洗礼を授けるという大役を担った人ですが、このヨハネが弟子達をイエス様の許に派遣し、「あなたは本当に救い主ですか。それともまだ後から来る、別な方が救い主なのですか。」と質問しました。イエス様は、「はい」「いいえ」という単純な答え方をしませんでした。救い主の御業として、ユダヤ人なら誰もが知っている預言者の言葉を語り、そのとおりのことが御自分の御許で起こっているのだから、そのことを通して、御自分が救い主(「メシア」)であることを悟らせようとされました。答えの最後には、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られました。他の福音書と照合してみると、洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授けた際に、イエス様に聖霊が降ったのを見て、イエス様が「神の御子」、つまり、「救い主」であると確信したと思われます。しかし、その後、イエス様と一緒に活動していたとか、緊密に連携していたという記録は見当たりません。洗礼者ヨハネは、イエス様への信仰を確かにいただいたのですが、「信じ続ける」といういう点で、僅かに揺らいだのではないでしょうか。自分が宣教してきた「義と裁きの救い主」のイメージに固執し、イエス様が行っていた「愛と憐れみの救い主」の現実の御姿と違っていて、それを受け入れられなかったのではないかと思います。

 洗礼者ヨハネに対するイエス様の御言葉

洗礼者ヨハネが派遣した弟子が帰った後、イエス様は御許にいた群衆に向かい、洗礼者ヨハネのことを語り始められました。極めて高い評価です。今までの預言者よりも優れているとおっしゃいました。ヨハネは神様の義と裁きを強調しましたが、神様から離れた生活を送っていたイスラエルの人々の心を180度方向転換させ、神様の御心を第一にする生き方をするように宣べ伝え、悔い改めの洗礼を施し、更に、イエス様に洗礼を授ける役目も行ったのですから、神様から与えられた役割を充分に果たしたのです。28節の前半にある「女から生まれた者のうちヨハネより偉大な者はいない」とは、それまで生まれた人間の中で一番偉大だと言われている訳ですから、最高の褒め言葉と言えるでしょう。けれども、28節の後半は、この評価と全く逆の意味の言葉に変わります。「神の国で最も小さい者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」と言われました。神様の御計画である「人間の救い」は、イエス様を救い主と信じて救われます。イエス様への信仰があって初めて「神の国の民」となれるのです。イエス様を信じることで、主の十字架と復活の恵みによって、自分の罪が赦され、神様と繋がることができます。それを「神の国に入る」と言います。洗礼者ヨハネは、神様が御計画された「人間の救い」の始まりを告げる者であり、始まりの始まりですが、イエス様からの救いの恵みを、この時点ではまだ受けていません。それよりも、イエス様の救いの恵みを受けている信仰者の方が偉大なのです。イエス様が私達にくださった救いの御業の恵みがとてつもなく大きいということです。

 恵みの時代に生きた人々の心と態度

イエス様は、洗礼者ヨハネについて語られた後、今度は「洗礼者ヨハネと御自分を通しての神様の救い」に対して、その恵みの時代に生きている人々がどういう状態かを例えで表現されました。

自分達の思いが先にあって、相手がそれに合わせて自分の思い通りに動いてくれない、だから座って歌っているだけという子供に似ているとおっしゃっています。裁きを強調する洗礼者ヨハネに対しても、救いの喜びを告げるイエス様に対しても、この2人に接することのできた恵みの時代に生きた人々は、人間的な批判ばかりしていました。自分達が「神様からの救い」に対してどうすべきかを真剣に考えず、積極的な信仰を持たないことを嘆かれました。

 イエス様の素晴らしさを証明するよう求められている私達

しかし、最後の35節でイエス様は信仰者達への希望を語ってくださいました。「知恵の正しさ」というところの「知恵」とは「神の知恵」です。そして、聖書には「キリストは、私達にとって神の知恵となり」とあります(Ⅰコリント1:30)。神の知恵を体現されたイエス様を、救い主として信じる者達がその救いの恵みを感謝して、ふさわしい歩みをすることで、イエス様の素晴らしさを更に証明するという意味です。聖霊によって主を信じる恵みをいただいた私達は、「救い主」イエス様を証しする人生を新たに与えられているのです。

1月3日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス①」 牧師 平賀真理子

イザヤ6114 ルカ福音書71823

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」は私達の主イエス様に洗礼を授けた人として知られています。それだけでなく、救い主がこの世に現れた時に、人々が救い主を受け入れられるように、人々の心を備える役目がありました。それは預言者によって、「道を備える者」(イザヤ40:3)と預言されていました。当時の人々は、もちろん「救い主」を待っていましたが、その前の先駆者が来ることをも待望しており、預言どおりの先駆者が現れたのです!また、洗礼者ヨハネは尊敬される祭司一族の出身であり、世俗から離れて修道生活を送る立派な人だったので、救い主の先駆者ではなく、「救い主」ご自身ではないかと思われる程でした。ところが、マタイによる福音書やヨハネによる福音書では、ヨハネ本人が、「自分は救い主ではないし、救い主はもうすぐ来られる」とはっきり証ししています。

 洗礼者ヨハネの役割

洗礼者ヨハネの役割について、3つの内容が考えられます。一つは、この世の人々の心を「救い主」到来のために備えること(悔い改めに導く)、二つ目は、救い主イエス様に洗礼を授けること、三つ目は、イエス様こそ「救い主」であることを公けに宣言することです。今回は、ルカによる福音書では、この3つがどのように表現されているか見ていきましょう。

 人々を悔い改めに導く洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書1章では、イエス様のご誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生の経緯が詳しく書かれています。「主の天使による誕生の告知」や、「聖霊に満たされて母親の胎内にいる時から救い主を感知したこと」などは、洗礼者ヨハネが神様の御心の下で生まれたことや、救い主を証しする賜物に恵まれていたことを表現していると思えます。また、3章では、このヨハネが、人々を悔い改めに導くために、どのような教えを述べたのかが、他のどの福音書よりも具体的に書かれています。

 イエス様に洗礼を授ける洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書では、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと明確に書かれていません。しかし、その直前に行ったヨハネの悔い改めの洗礼とその教えが詳しく書かれていて、「民衆が洗礼を受けていると、イエス様も洗礼を受けた」とあるので、イエス様が民衆と同様に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが自明のこととして表現されたと見ることができるでしょう。

 「イエス様こそ救い主」と公けに宣言しているか?

ルカによる福音書3章16節から17節で、洗礼者ヨハネは、「自分よりも次元の違う優れた御方(救い主)が来られること、自分は水で洗礼を授けているが、その救い主は聖霊と火で洗礼を授ける御方である」と証ししています。けれども、ルカによる福音書では洗礼者ヨハネが「イエス様が、その『救い主』である」と公けに宣言したとは書いていません。更に、今日の新約聖書箇所によると、「あなたが本当に来るべき御方として人々が待ち望んだ救い主ですか。それとも別な方が救い主なのですか。」と直接聞きに弟子を派遣しています。

イエス様のお答えと私達

洗礼者ヨハネの質問に、イエス様は自分が救い主であると明言せずに、預言どおりの御業から悟るように答えられました。この世で苦しんでいる人々を実際に救っている「救い主の御業」です。けれども、この時、まだイエス様ご自身の弟子さえ、イエス様を救い主と信仰告白していなかったので、ご自分でヨハネにはっきり答えるのは時期尚早だと思われたのでしょう。また、「救い主」についての人々の理解とイエス様ご自身の「救い主」の理解が違っていることをご存知でした。前者はイスラエル民族限定の政治的な王様を考えていましたが、イエス様ご自身は「救い主」はイスラエル民族だけでなく、異邦人を含む全人類の救いを成就するものであり、また、この世だけでなく、永遠の「救い」を成就する定めだとわかっておられたのでしょう。また、イエス様は「わたしにつまずかない者は幸いである」ともおっしゃいました。イエス様を救い主として福音を宣べ伝えた弟子達をはじめとしてそこに繋がる信仰者の私達は聖霊の助けをいただいて、イエス様への信仰を与えられる恵みをいただきました。主の十字架と復活の恵みによって降るようになった聖霊の助けで、私達が「イエス様こそ救い主」と信仰告白できたのです。「聖霊によらなくては、だれも『イエスは主である』と告白できない」(Ⅰコリント12:3)のです。私達は本当に大きな恵みをいただいていることに感謝して、今週一週間も聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

12月27日の説教要旨  「シメオンとアンナの証し」 牧師 平賀真理子

イザヤ5247 ルカ福音書22538

 はじめに

 日本では、12月25日が過ぎると、クリスマス気分は終わってしまい、お正月の準備がなされていきますが、教会では、1月6日の公現日までは降誕節として、神様の御子のご降誕を祝うべき期間です。

 シメオンとアンナ

 イエス様は、神様によって、ヨセフとマリアの夫婦の初めての子供として、この世に生まれることになりました。この信仰深い夫婦は、律法に従って、「初子を献げる儀式」をエルサレム神殿で行うことにしました。この時、ヨセフとマリアと幼子イエス様に出会う恵みをいただいたのが、シメオンとアンナです。聖書では、シメオンは高齢であるという記述はありませんが、「高齢の男性」と教会では伝えられています。アンナは「非常に年をとっている」と2章36節にあるとおりの高齢の女預言者です。2人とも、神様の御心をまず第一に考える信仰深い人々でした。

 聖霊に導かれて幼子イエス様に出会ったシメオン

シメオンについては、神様の御前に「正しい人であり、信仰があつく」とあり、更には「イスラエルが慰められるのを待ち望み」と説明されています(25節)。自分の救いだけに関心があるのではなく、周りの人々も救われることを望んでいる、まさしく信仰者の鑑と言えるでしょう。そして注目すべきことは、シメオンの上に聖霊がとどまっていたことです。25節から27節にまでに、聖霊について3回も言及され、強調されています。シメオンは、聖霊によるお告げをも受けて「死ぬまでに救い主に絶対会える」と確信が与えられ、聖霊の導きにより、主に出会うことができました。それだけではなく、幼子イエス様を腕に抱き、その存在を自分の感覚全部で体感することができたのです。

 シメオンの賛歌

 29節から32節までは「シメオンの賛歌」といって、待降節や降誕節に想起される3つの賛歌の一つです(ザカリアの賛歌、マリアの賛歌)。神様が自分へのお告げのとおりに救い主に出会わせてくださり、安心してこの世を去ることが出来ることへの感謝が献げられています。神様は私達人間が死んだ後でも永遠におられる確かな存在です。神様に全てを委ねてこのような絶対的な安心の下で死ぬことができるということこそ、長年信仰深い生活を続けてきた高齢者への大いなる恵みと言えるでしょう。30節で「あなたの救いを見た」と述べていますが、この「救い」こそ、イエス様のことです。そしてシメオンは、その「救い」が神様によって準備されたと証しし、32節では、「救い」であるイエス様によって、イスラエルの民と、そうでない「異邦人達」双方に光り輝くような「救い」がもたらされることを証ししています。

 「救い主」の定めを預言したシメオン

34節から35節には、シメオンが母マリアに告げた言葉が書かれています。「救い主」到来という恵みを受けるこの世の人々は、イエス様を「救い主」として「信じる」か「信じない」か、どちらかに分かれます。中間のグレーゾーンはありません。「信じる」者は、救い主の存在や御言葉によって、過酷な現実から立ち上がることができます。一方、「信じない」者は救い主の存在や真実の御言葉によって倒される時がやってきます。34節後半から35節を見る限り、多くの人々は、罪に染まった悪い思いから、イエス様を救い主と信じられずに、苦しめることが暗示されています。これは「主の十字架」に対する預言といってもよいでしょう。聖霊の恵みの下にあったとはいえ、この世で長く過ごした高齢の信仰者だからこそ、主の重要な定め=人々の罪の償いのための十字架 を告げることができたのだと思われます。

 アンナの証し

36節から37節を読むと、アンナは若い時に夫に死に別れて、長い間、孤独と貧困に苦しんだのではないかと思います。恵まれた状況とは言い難いでしょう。しかし、アンナは苦境に置かれたために神様から離れたのではなく、むしろ神殿を離れずに断食や祈りに励みました。自分の利益や快適さよりも、神様の御心に適う生活を選んだのです。恐らく、神様からの報い(ごほうび)として、アンナも幼子イエス様に出会う恵みを与えられたのでしょう。そして、その恵みを自分だけの喜びとしてしまい込まずに、周りの人々と共有したいと願い、幼子イエス様のことを「救い主」として証しする役割を感謝しつつ喜んで果たしたと思われます。私達も良き証し人として用いられるように信仰深く歩んでまいりましょう。