12月15日待降節第3主日の説教要旨  

マラキ書3:19-24・ヨハネ福音書 1:19-28

「荒れ野で叫ぶ声」  遠藤尚幸先生(東北学院中高 )

洗礼者ヨハネ

 今朝私たちに与えられている聖書の言葉は、「ヨハネ」という一人の人について書かれていました。ここで「ヨハネ」として登場する人物は「洗礼者ヨハネ」とも呼ばれる人です。この人は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに登場する人物でもあります。たとえば、マタイ福音書3:1-6ではこんな書き方をされています。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネによる福音書1:26でヨハネが「わたしは水で洗礼を授けるが」という言葉の背景にあるのは、まさにこの福音書が伝えるヨハネの姿です。彼は、当時のユダヤの人々に悔い改めを迫りました。それは、神様の前で自らの罪を告白し、神様の方を向き直しなさい、という呼びかけでした。当時の人々は、荒れ野で叫ぶ彼の声に導かれ、彼から悔い改めのしるしとして洗礼を授けられました。これが、ヨハネが「洗礼者」と呼ばれた所以です。興味深いことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はどれも、この洗礼者ヨハネから、主イエス・キリストが洗礼を授けられた場面を記していることです。主イエスは神の子です。本来、神様の前で罪を告白する必要のない方が、ヨハネから洗礼を受けて下さった。神の子が 最も低い姿で、私たち人間のところまで降りて来てくださった。

この大きな喜びを三つの福音書は伝えています。

しかし、それらと比較して気づくことは、このヨハネによる福音書だけが、この大いなる喜びとも言える主イエスの洗礼の出来事を記していないということです。ですから私達はむしろ、このヨハネ福音書を通して、洗礼者ヨハネという人を知る時に、他の福音書とは少し異なる形で、このヨハネの姿を見ている、ということができます。

福音書が四つあるというのは、このような豊かさを知る時でもあります。

 

*光を証する者

 では、ヨハネによる福音書において「洗礼者ヨハネ」はどのように描かれているのか。それが、1:19にある「証し」という言葉です。ヨハネの役割はヨハネ福音書において、この一点に集約されると言っても過言ではありません。ヨハネは証しをするために来た。彼は何を証するために来たのか。それは、少し前の、1:6以下に記されています。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

 ヨハネの役割は、光について証しをすることであった。これが、ヨハネによる福音書が伝えるヨハネの姿です。光とは、この世界すべてを照らす光である主イエス・キリストを指します。主イエスの到来に先立って、ヨハネは現れた。そしてこのヨハネが、主イエス・キリスト到来の道備えをした。光を指し示した。ヨハネは、当時影響力のあった人物でした。 彼は人々から、来るべき救い主、もしくは、当時 救い主到来の直前に来ると言われていた預言者エリヤの再来、もしくは民を導く指導者的な預言者かと噂されていた人物でした。19節後半に「祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして」とあるのは、エルサレムの権力者たちが、彼のもとへ使者を遣わしたということです。ヨハネはこの人々から、「あなたは、どなたですか」と問われ、メシアか、エリヤか、預言者かと質問されていきます。

*わたしはキリストではない

 ヨハネは、「あなたは、どなたですか」と問われた時に、「わたしはメシアではない」と言い表しました。「メシア」とは、原文では「キリスト」です。「わたしはキリストではない」。言い換えれば、「私は救い主ではない」ということです。ヨハネの証の第一声は、自らがキリストではないと言い表すことにありました。「わたしはキリストではない」「わたしの後から来る方、ナザレ出身のイエスこそキリストである」。これは彼の信仰告白そのものです。私は救い主ではない。それは、目の前にいる祭司やレビ人、その他のユダヤ人に対して、ということでもあるでしょうけれども、ヨハネ自身についてもそうだということができます。

私自身を救う者も、私ではない。神様の前に罪を告白する。神様の方を向き直す。悔い改める。これらの出来事を、真の意味で完成してくださるのは、わたしではなく、主イエス・キリスト その方のみである、ということです。神様ご自身の御手によって、私自身の救いが成し遂げられるということです。私自身が神様から最も遠い状況にあるときですら、神様は私たちを決して見捨てず、私たちを救うことができる。私たちは、神様の御手の中に、自らの不誠実さ、弱さ、欠けを委ねることができる。

この恵みの内に生きることができる幸いこそ、私たち一人一人に与えられた信仰であり、喜びです。そういう意味で、ヨハネは、自らの内ではなくて、神様ご自身にのみ、救いがあることを ここで大胆に語っています。

彼が生きているのは、律法第一主義のユダヤの社会でした。律法を忠実に守らない者は救われないと考えられていた社会です。罪人は、神様に近づくことなど決して不可能だと考えられていた社会です。その社会のただ中で、ヨハネは大胆に、主イエス・キリストその方の恵みを、恐れず公言するのです。救いは主イエス、その方にこそある。 私たちもまた、自らの手の内に救いがあるのではありません。主イエスが私たちを救ってくださる。何の功(いさお)のない私たちを愛し、十字架でその命を捧げ、ただ一方的な恵みによって私たちを神の子とし、救いに入れてくださった方が主イエス・キリストその方です。

この方の恵みのうちに、私たち一人一人の人生はあります。

誰一人、この恵みからこぼれ落ちる者はいません。

*主イエスとの出会い

 今日、私たちは、ヨハネの証を通して、主イエス・キリスト その方と出会います。ヨハネだけではありません。あの主イエスを裏切り、見捨てた弟子たちもまた、後に、ヨハネと同じように、ただ主イエス・キリストを伝える「声」としての働きを始めました。皆、主イエスが十字架につけられる時には、主など知らないと言って逃げ去った弟子たちです。ユダヤの指導者たちに、まっすぐに、主イエスを証したヨハネの足元にも及ばない、弱さ、欠けをもった弟子たちです。しかし、彼らもまた、主イエスとの出会いを通して、ヨハネと共に「わたしはキリストではない」ということを知りました。弟子たちもまた、主イエスの十字架の恵みを知り、この罪深い自分もまた、ただ一方的な恵みによって救われていることを知り、全世界に、主イエス・キリストの福音を伝え始めたのです。彼らだけではありません。弟子たちの次の世代も、その次の世代も、2000年後の今の私たちの世代も、皆、ヨハネや、主イエスの弟子たちと同じように、それぞれの時代に、主イエス・キリストの証人として立たされているのです。

*共に礼拝を守る

 共に礼拝を守る時、私たち一人一人が主イエスの証人です。私たちは、今日、一人一人がこの時代に、ヨハネのように、主の弟子たちのように、公言して隠さず「わたしはメシアではない」と、この世界に言い表しています。たとえ明日、自らの地上の生涯が終わろうとも、私たちはキリストの証人としてここに立つのです。私たちが誰かを救うのではない。私たちが自らを救うのでもない。あの方が、クリスマスの夜ベツレヘムの飼い葉桶の中で、この地上の誰よりも低く生まれ、十字架の死に至るまで、徹底して、私たち一人一人を愛し抜いてくださったキリストが、私たちを救います。主イエスが来られます。今、私たち一人一人は、 この方の証人として生かされているのです。

10月13日・神学校日・伝道献身者奨励日の説教要旨

エレミヤ書31:1-9・ヨハネ福音書11:38-44

 「神の逆接」      日高貴士耶(きしや)神学生

*はじめに

 エレミヤ書ではイスラエルの歴史の中で、最も痛みの深い時代に向けて語られた預言者の言葉が連なっています。エレミヤ書は、しばしば悲しみの書物であるように思われています。ダビデ王以来引き継がれてきたユダ王国の終わりの姿をまざまざと描きだしています。巨大な国家バビロニアが攻めてきて、その大きな暴力の中で国が滅んでいく、そのような時代に向けて、神の言葉を説き続けたのがエレミヤです。

この悲しみの歌を収めた哀歌は、しばしばエレミヤによって書かれたものであると理解されてきました。そのために私たちの聖書では、エレミヤ書のすぐ隣に哀歌が収められているのです。エレミヤ書の中にも、悲しみと痛みが渦巻いているところがあるからでしょう。

その悲しみのただ中に、エレミヤ書31章が刻み込まれています。この悲しみも、悲惨も、痛みにも、確かに神の言葉が届くということを宣言しているのかのようです。 「おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」(注*4節)悲しみの歴史が進み行くエレミヤ書のただ中で、希望の言葉が語り始められるのです。  (注*聖書協会訳)

*「その時には」(1節)

 新しい時代が来ることが、神様の言葉の中で、脈打つように宣言されています。 「その時には」。 あらゆるものが転換する時のことが語られるのです。エレミヤの目の前で繰り広げられる悲しみと苦しみの時代、果てしのない罪の時代は「その時」、神様の力によって転換されて行く。

私たちは一歩また一歩と神の民の歩みをここで進めながら、その時を待ち続けているのです。

クリスチャンでいることの幸せのひとつは、自分の人生をわたしの人生の中で全て実現する必要がないことです。多くの人が、この世界の中で、自分の人生を実現しようとして必死になっています。

人よりも良い生活をして長生きすることだけが、まるで人生の価値を決めることであるかのようです。

しかし、ここでは、教会では別の生き方が大切にされてきたのです。それは、私たちの人生の終わりを見据えながら生きるような生き方ではなく、ただ神様がわたしたちに教えてくださった「その時」が来るのを待ち続ける生き方なのです。その時、私たちは全てが神様の慈しみの中にあったことを見出すでしょう。その時、私たちは神様と顔と顔とを合わせるようにして、礼拝をしていることでしょう。その時、まことの慰めが私たちを包み込むでしょう。そしてその確かな希望の中で、またこの日の歩みを、神の民の歩みを、私たちは神様を礼拝し、祈りながら進めています。

*東京神学大学

「神学校日」として、私たちは一年のこの日を、特別に伝道者たちを養成している場所のために、特別に祈る日としています。私たち 日本キリスト教団の最大の神学校はわたしのいる、そしてまた由子先生が卒業された東京神学大学です。明治以来の日本の様々な神学校が合併して行く中で、きっとそこには深い祈りもあったことでしょう。それまでの様々な教派が持っていた神学校を一つにしようとして東京神学大学を生み出したのです。日本の教会が、祈りながら受け継いできた財産が、この東京神学大学に集められてきたのです。そしてそれは一つの流れになりながら、今この時に至っているのです。そこには困難なことが幾つもあったことでしょう。今も、東京神学大学は現職の学長を病で失うという悲しみと困難の大きい状況に置かれています。学生たちも教職員たちも悲しみが深い。しかし、そうしながら、それでも私たちは私たちの祈りを受け継ぎ、信仰と学びの財産を次の世代に受け渡しながら歩んで行くのです。

一人、また一人と、ここで伝道者が生まれ、福音の言葉を携えて、日本の地に出かけていきます。私たちはこうして信仰を受け継ぎ、祈りを受け継ぎ、そうしてまた新しい福音の言葉を語る者たちを立てて、育てて行くのです。神学校はそのような私たちの祈りと行いの明白に見える形のひとつでしょう。私たちのこの小さな歩みの一つひとつには神様の言葉があるのです。

*「しかし、その時には」

私たちの歩みがその答えを見出すその時がやってくる。そう、私たちの人生はそのようなものです。喜びがどこまでも深い時にも、悲しみがどこまでも深い時にも、絶望が心を満たそうとしている時にも、神様の言葉が響きだす。 「しかし、その時には」。わたしたちの現実に働く神の力を聖書の言葉は確かに語っている。わたしたちの日々、進み続ける現実の物語に対して、「神の逆接」が勝利を収めるのです。

*神の逆接

説教題を「神の逆接」としました。礼拝の説教にしては少し変わった説教題かもしれません。しかし、まさに私たちが共に聞いたエレミヤ書の言葉は、まさに神様の逆接に満ちた箇所なのです。

逆接、それは文の間の関係性を、反対を意味するものとして提示する言葉です。わたしたちの世界の現実に対して、「しかし」という言葉が連なりながら、新しい現実が立ち現れてくるのです。

しかし、それは神の「しかし」なのです。エレミヤ書が語る言葉はそのような神の「逆接」、神の「しかし」に満ちています。エレミヤ書全体に対する逆接であるかのように、ここでは将来に待ち受ける救いと喜びの言葉が溢れ出している。神様が「しかし、その時が来る」、「あなたたちが再び立てられ、慰めを受けるその時が来る」とおっしゃる。 捕囚を前にして、ひとつの国が暴力の中に消え入れられようとしていた時に、神様はおっしゃったのです。「しかし、おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」。

*強制移住

巨大な帝国バビロニアがユダの国に侵略してきました。そこである者たちはバビロニアの国に強制移住をさせられました。自分の育った愛する土地から引き離されて、暴力的に他の国に移住させられたのです。

古代の中近東の世界では最も恐ろしい処置の一つでした。

またある者は滅びゆく国の姿を見て、逃げて行きました。その中には、かつてファラオの奴隷として暮らさなければならなかったエジプトまで逃げる者もいました。ユダヤ人たちは、この大きな帝国の力のもとに、世界中に散り散りになっていくしか方法がなかったのです。

新しい土地には幸福が待っている保証はありません。奴隷にされるかもしれません。外国人ですから、人並みの扱いをしてもらえる保証もありません。彼らは世界中に散らされていった。

*神の逆接の言葉

自分の弱さを思い知りながら、生きていかなければならない時がある。自分ではどうすることもできないほどの大きな力に押さえつけられるようにしながら 生きて行かざるを得ないと思っていた者たちの上に、神の言葉が、神の逆接の言葉が響きだしてくるのです。

「しかし」、神はイスラエルの民を再び集められる。

神の言葉は全てを転換させる力に満ち溢れているのです。

きっと皆さんの人生も、聖書の言葉の中で転換させられ、変えられてきたことでしょう。由子先生はまさに、そういう人だと思います。

聖書の言葉が、強い力をもって私たちを変えてくる。そして私たちの命をも、確かに蘇り(よみがえり)の命へと造り変えてくださった。

今日は、ラザロの蘇りの箇所も読んでいただきました。主イエスはラザロの墓の前で確かに宣言されるのです。

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)。

ラザロの姉妹マルタはその少し前に言いました。「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」。厳しい言葉です。現実と悲しみに満ちた言葉です。そこに主イエスが言われた、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」(同40節)。

神様は私たちの人生に大きな逆接の言葉を置かれるのです。 「しかし、あなたには復活の命がある。あなたには救いがある」。そして私たちは神様の逆接の中で、復活の生命をこの世界の中で生き始めているのです。

7月22日の説教要旨 「神の御言葉、とこしえに」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書40:6-8 ヨハネ福音書1:14

 はじめに

本日は、皆さんと一緒に、聖書の御言葉を味わいたいと思います。イザヤ書40章6節-8節に集中して、お話をしていきたいと思います。

 

 「草は枯れ、花はしぼむ」→この世の「栄枯盛衰」を表す

砂漠は温度が高い所ですから、朝に草が生えても夕方には焼けて干からびてしまいます。しかし、ここで、イザヤは植物のことを言いたいのではありません。栄えていたものもいずれは衰えます。企業も団体も国もそうです。これは万物の法則と言えるでしょう。栄枯盛衰はこの世界の定めです。この世界に全く変わらずにいつまでもあり続けるものがあれば、それは頼りがいがあるに違いありません。

 

 この世に、本当の意味で頼りがいがあるものがあるのか?

この世で頼りがいのあるものは何でしょうか?答えとして、今も昔も「お金」だったり、「幸福」とか「愛」とか「家庭」とか「健康」等があげられるでしょう。しかし、死にゆく時はすべて捨てていかなければなりません。この世で完全なものはありません。

 

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」

今日の旧約聖書の御言葉「神の言葉はとこしえに立つ」は、旧約聖書全般を通しての教えです。いつまでも神の言葉はなくならない、存続すると言っています。それはそれでわかりますが、何か頼りないと私達は感じます。言葉は、言いっぱなしで人をその気にさせますが、私達は手で触れて確かめることのできるものを信頼したいと思ってしまいます。

 

 人間が発するのではなく、神様からいただいた「預言」

このイザヤの預言は約2500年前になされましたが、この時代に頼りになったのは、多くの兵隊や軍隊、大きな要塞、豊かな食料や宝石などだと考えられた時代です。そんな時代に「神の言葉がとこしえに立つ」と宣言した教えは、この時代では、異様なことでした。これは人間には言えないことで、神様が預言者イザヤや民に教えてくださった大切な御言葉だと心に留めたいと思います。

 

 イスラエル民族の歴史を振り返って

イスラエルの民の国家であるイスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の時、大変栄えました。しかし、その王国もやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。そして、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国だけになりました。それもまた、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされました。南王国の王様と貴族は、バビロニアの都バビロンに連行されました。イスラエルの民にとってつらいことは、国を失っただけでなく、「神から見捨てられた」ことで、大変に絶望しました。アブラハムの時代から、神様にお前達は特別だと言われていた民にとって、ショックだったことでしょう。その時こそ、預言者達が活躍し、彼らは、イスラエルの神様に従わなかったことで不幸がもたらされたと言いました。こういう中で、イスラエル民族は、旧約聖書を巻物として整え、今まで気づかなかったことに気づいていくようになります。

 

 奴隷に自分達の神々の像を拝ませたバビロニア帝国

さて、バビロニアは、征服した敵国の人々を奴隷にして、都バビロンで繁栄しました。そのバビロニア帝国は、年2回のお祭りをして、バビロンの神殿(高さ90m)で、奴隷達をバビロンの神々の巨大な像の前で跪かせて拝ませました。イスラエル民族は神の像を刻まない民なのは幸いだったと言えるでしょう。ところが、約50年後にバビロニア帝国は東から興ったペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民は晴れて故郷に帰れるようになりましたが、故郷は廃墟と化し、復興の苦労が続きました。

 

 バビロンにあった、巨大な神々の像の末路

バビロンから解放される時、イスラエル民族は凄いものを見ました。それまで拝まれていたバビロンの神々の巨大な像を撤去せよということで、家畜を使って、多くの巨大な像が丸太の上を砂漠に向かって転がされ、砂漠の果ての死の世界にまで運ばれる様子です。彼らはこの時、「草は枯れ、花はしぼむ」ことが身に染みてわかったのです。この世の物、地上の物は土くれのように失われると教えられたのです。

 

 「神の言葉を心に刻め」

イザヤ書46章1節以降にそのことが表現されています。ここで言われる「ベル」は「マルドゥーク」というバビロンの最高神の別称ですし、「ネボ」はその息子と言われています。その巨大な神々の像が横たえられて、家畜によって運ばれ、重荷となり、沈んでいく、滅んでいく…。

ここに、繁栄したバビロニア帝国が滅びた様、神々を祭った人々の滅びが描かれています。地上のものを神と祭ってはならないとイスラエルの民は悟ったのです。砂漠で神の像を刻んだ宗教は全部滅びました。十戒にあるように「あなたがたはいかなる像でもって神を刻んではならない」のであり、「神の言葉を心に刻め」と「神の民」は言われていたのです。この戒めを守って生きていくことこそ、神の民に相応しいのです。これがイザヤ書40章になり、それが新約聖書に受け継がれました。

 

 旧約聖書を受け継いだヨハネ福音書:「神の言葉が肉となった」

ヨハネによる福音書1章14節には、「神の言葉」が肉となり、私達の間に宿られた、それが、イエス・キリストであるとあります。そのことをヨハネは感動の思いで記しています。民が長い間待ち望んだ神の言葉が、人間となったことが素晴らしいのです!

「イエス・キリストは偶像じゃないのですか」と問う人がいます。しかし、初期の教会の人々は、イエス・キリストを像に刻まず、偶像化しませんでした。その言葉や教えを心に刻みました。その御言葉を大事にすることを使徒パウロは「信仰」と呼び、ガラテヤ書4章で「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」という内容を記しました。この「形」は言葉です。この言葉を信仰として心に刻み、愛に満ちて生きていくように言われています。このように、イザヤ40章8節は未来に向けて語られた言葉であり、これがイエス・キリストに集約して、預言が完成して、新約聖書に記されています。

 

 福音書の疑問:主イエスが言葉を発するだけで実現するのはなぜ?

主が言葉が発するだけで、なぜ事実が伴うかという問いが生まれます。癒しにおいて、イエスが「清くなれ」と言うと相手は即刻癒されました。中風の人に床を担いで歩きなさいと言うとその通りになりました。

修辞学者でもあったアウグスティヌスは、言葉は何かを指し示すために使うものであると言っており、だから「言葉が肉を取り、イエスにおいて、言葉と現実が一つになったのだ」と言ってやまないのです。

一つの例として、主イエスが、ナインで一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、その息子に甦(よみがえ)るように言われて、そのとおりに生き返った出来事がありました。イエスの御言葉が素晴らしいだけでなく、現実にその通りになりました!人々は旧約の預言が、現実に肉となってイエス・キリストになったことに感動しているのです。旧約で教えられた「神の言葉」が、私達の中に現れたのが、イエス・キリストです。

 

 今や、「神の言葉」は主イエスの中に現れている!

 「言葉」とは出来事の葉っぱです。旧約聖書の時代では、神の言葉を頭につけたり、衣の裾に書き入れたりしていたのですが、今や、新約時代になりますと、イエス・キリストの中に神の言葉は凝縮されて現れたのです!人々は、この御方を心に受け入れて、生活を始めたのです。

 

 ヨハネ福音書における「主イエスの御言葉」

「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とは、何かの奴隷になっている私達を、真理(キリスト御自身)が解き放ってくださっていると言えます。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の御言葉も挙げたいと思います。主は、私達人間に、何かをしなさいとはおっしゃっていません。わたし(主イエス)自身が道であり、真理であり、命であるから、わたしの上を通っていけ」とおっしゃっいました。その他にも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)という御言葉もあります。人はその御言葉につながり、そのまま聞いて心に留めるべきであり、イエス御自身が貴い「神の言葉」です。また、死んだラザロも、主イエスに出て来なさいと言われて、甦りました!(11章)主イエス御自身も、3日目の復活を預言し、現実になりました。私達は新しい目や新しい心をもって、聖書を読むべきです。

 

 聖書の読み方

今日の旧約聖書箇所のイザヤの預言が、主イエスに具体的に示されていることが新約聖書に現れており、その恵みに私達は預かっています。私達はそのように受け止めて聖書を読んでいきたいと願います。

6月10日の説教要旨 「本当の喜びを知る」 有馬味付子牧師(成増キリスト教会協力牧師)

ヨブ記19:25-27 ヨハネ福音書3:1-21

 はじめに

本日は仙台南伝道所の開設14周年記念感謝礼拝です。神様によって、仙台南伝道所に集められた方々と共に礼拝できることを感謝します。

 

イエス様を信じる者達は死んだ先に希望を持てる

一昨年、この伝道所の佐藤博子姉が亡くなられました。彼女の笑顔は多くの人々を魅了しましたが、そんな博子姉も亡くなりました。人間は誰でも死にます。しかし、私達には死んだ先に大きな希望があります。イエス様を知らない人は「死んだら終わり」と考え、希望がありませんが、私達、イエス様を信じる者には希望があります。

 

ヨブの希望「死んだら神様に会える!」

 今日の旧約聖書箇所「ヨブ記」に書かれたヨブは、絶望の中で語っています。「死んで肉体は滅びても、必ず神様に会う」と信じていました。ヨブは神様に誠実に歩んでいましたが、サタン(神様から人間を引き離そうとする力)は、ヨブを神様から引き離そうとしました。サタンは、神様に「あなたがヨブに多くの祝福を与えているから、ヨブはあなたを敬うのです。ヨブの全ての物を奪えば、あなたを呪うに違いありません。」と言いました。神様は、サタンがヨブを打つのを許したので、ヨブは7人の息子と3人の娘と財産である家畜や奴隷を全て失うことになりました。こんな目に遭っても、ヨブは神様を呪わなかったので、サタンは、ヨブを更に苦しめました。大変なかゆみを伴う、ひどい皮膚病でヨブを覆いました。ヨブの妻は「神様を呪って死ねばいい」とまで言い、3人の友人も「あなたには自分の知らない、隠れた罪があるのだ」と責めました。更には、周りの人々にもヨブは馬鹿にされる状態でした。猛烈な痛みや苦しみの中でも、ヨブは「死んだ後に神様に会える」、しかも、「私の敵ではなく、味方として神様に会える」と信じていました。ヨブを救った、この希望は私達の希望です。

 

イエス様とニコデモとの会話

これと同じ希望を、新約聖書のイエス様とニコデモとの会話から見ることができます。ニコデモは神様の国を求めていました。ニコデモは、イエス様の業を見て「神様の業だ」と思い、イエス様なら神の国について知っているだろうと思いました。しかし、イエス様のおっしゃることはちんぷんかんぷんで、わかりませんでした。ニコデモは、イエス様を信じる前の私達の状態、また、イエス様の言うことがさっぱりわからないという人の代表でもあると言えると思います。

 

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)

そんなニコデモにイエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とおっしゃいました。「神の国を見る」とは「神の国に入る」「永遠の命を得る」という言葉と同じ意味で、これこそが私達、イエス様を信じる者達のたった一つの希望であり、目的です。

 

「永遠の命とは、イエス・キリストを知ることです」

「神の国」は、イエス様が2千年前にこの世に来てくださって十字架で死なれた時から始まっています。イエス様を救い主として信じている私達は、先取りして「神の国」に入れられていると言えます。「イエス様を知ることが永遠の命を得られることだ」と聖書にあります(ヨハネ17:3)。そして、イエス様が再びこの世に来られる時(再臨の時)に、「神の国」は完全に実現します。「神の国」とは場所のことではなく、「神様主権が確立しているところ」「神の支配が隅々まで行き渡っているところ」と言えます。

 

 「神の国」では、神の御心を行うことが感謝であり、喜び!

「神の国」では、人間は、神の御心を行うことがうれしくてたまらないのです。感謝と喜びがそこにあります。ところが、今、私達は神様の御心に従うには努力がいります。わかっていてもなかなか出来ません。周りの人を愛すべきだと知っていても家族を愛せない、神様が第一と知っていても自分を第一にしてしまうといったことがよくあります。神の御心を行うことは、今は、自分との戦いを意味します。しかし、「神の国」では自分の意志で神の御心を行うことが喜びです。一人一人がそうなのですから、そんな人々で喜びに溢れているのが「神の国」です。死もなく、悲しみもなく、嘆きもなく、まさに平安な国が「神の国」です。ヨブは神の国に入って神様に出会うことを腹の底から願ったのです。

 

「新しく生まれ変わる」には聖霊の助けが必要

「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とのイエス様の御言葉は、ニコデモの言うように「もう一度母親の胎内に入って生まれる」ことではありません。「新しく生まれる」としか言いようのない、徹底的な変化を言います。それは、私達の心の奥の魂が揺り動かされること、人格が変革されること、生き方が根本的に変えられるようなことです。「自己中心」を捨てて「神様が第一」に変えられること、「神様に従順に従うことが最大の喜び」となることです。「新しく生まれる」のは自分では出来ず、「聖霊の助け」によってしか出来ません。ニコデモは聖霊の助けが自分に関係があると理解できませんでした。

 

「水と聖霊とによって生まれなければ」(5節)

水と聖霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とイエス様は言われました。「水と聖霊とによって」とは聖霊の導きと聖霊の助けによって「洗礼」を受けることです。「洗礼を受けたい」と思う志を人間に起こすのが聖霊であり、洗礼にまで導くのも聖霊です。「イエス様を救い主と信じられる」のも聖霊の力です。「洗礼を受ける」とは聖霊を与えられている証拠です。水による洗礼は、悔い改め、つまり、一度水に沈んで死に、新しく生まれ変わることを意味します。これが「水と聖霊とによらなければ」ということです。

 

 聖霊は「風」に例えられる

 イエス様は「聖霊」がわからないニコデモに対し、聖霊を「風」に例えて語られました。風が存在しないと言う人はいません。「聖霊」も同じです。「聖霊」を見せることも触ることもできません。しかし、「聖霊の力」を与えられた人は、それを体中に感じます。聖霊の助けがなければ生きていけないと感じます。聖霊に満たされると喜びに満たされ、元気になります。聖霊によって自分に出来ないことが出来ます。

 

聖霊の力を実感できるように祈り求める

ペンテコステは、イエス様の弟子達に、聖霊が見聞きできる形で与えられた出来事です。それにより、弟子達は猛烈に伝道に励みました。聖霊の力を実感できるのは一人一人違います。洗礼の時にわかる人もいるし、20年かかって実感できる人もいます。聖霊を実感できていない人は、聖霊がわかるように祈り求めれば、必ず与えられます。

 

「神の愛」を知る

16節17節が、今日のメッセージの締めくくりの言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」なんという、ありがたい言葉でしょう!

私達は、神様に反抗したり、裏切ったりします。イエス様を神の御子、キリストと信じない人々もまだまだいます。そんな罪と汚れに満ちた この世に、神様はイエス様を送ってくださり、イエス様を神の御子と信じる人を誰でも救ってくださいます。人間が一人でも滅ぶことを望まないのが神様です。それが「神の愛」です。神様の独り子を十字架につけるまでに、神様は人間達を愛された、この愛を知ることが本当の喜びです。

 

神様の愛を知るしか立ち直れない

つい最近も、親に虐待されて死亡した女児の事件が報道されました。かわいそうで言葉もありませんが、虐待された子は愛されたことがないので、愛を知りません。自尊感情や自己肯定感がありません。こういう人は、どうやって立ち直るか、それは、神様の愛を知ることしかありません。神様は私達を尊い宝物として愛してくださる、このことを知ることによってしか、立ち直れません。

 

神様の愛を知って、神様の御許(みもと)へ帰りましょう!

イエス様を神の御子と認めないことは、神様の愛を知らないことです。神様の愛を知らないのは、この虐待された子と同じです。この世で力があっても、成功しても、神様の愛を知らなければ、満たされない思いを抱えたままです。貧困、人間関係の問題等の様々な問題がありますが、その問題による絶望や孤独、これが一番辛いことです。人に愛されない、人に大切にされない、神様は、このような時こそ、「私の許(もと)に帰って来なさい!」と手を広げて待ってくださっています。神様の御許に帰ることこそ本当の喜びです。神様の愛を知ることこそ本当の喜びです。

 

4月22日の説教要旨 「新しい掟」 牧師  平賀真理子

レビ記19:9-18 ヨハネ福音書13:31-35

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の冒頭「ユダが出て行くと」とは、イエス様と弟子達の最後の晩餐の席から、ユダが反対派の方へ立ち去っていくことを意味しています。イエス様は、ユダの裏切りを事前に知りながら、容認なさいました。なぜなら、ユダの裏切りこそ、イエス様の十字架への道の始まりを示すものだったからです。

 

「今や、人の子は栄光を受けた」(31節)

まだ、この世においては「主の十字架」は実現していない段階でありながら、イエス様はそれが確定であり、しかももう既に始まっていると確信された上での「今」ということです。続いての「人の子」という言葉は、イエス様が御自分を救い主として語るときによく用いられた言葉です。ここでの「栄光を受ける」とは、「救い主」として人々の罪を贖う「十字架にかかる」ことであり、「受けた」という動詞によって、このことが確定したことを意味しています。イエス様が第一のこととした「父なる神様の御計画」が実現したも同然だというわけです。神様の御計画こそが実現するということは、聖書に証しされてきたことですが、それでも、「救い主」が命の犠牲を払うのは、イエス様御自身がそのことを受け入れて従順に従って初めて実現することです。イエス様は御自分に課せられた十字架がいよいよ実現する動きになっていることを、父なる神様からの視点で、喜んでおられるわけです。

 

「神が人の子によって栄光をお受けになった」(31節)

イエス様が従順に十字架への道を辿ることが、神様の御計画の実現、即ち、この世における神様の勝利を意味します。だから、イエス様の十字架への歩みこそが、神様に栄光を帰すことになるので、「神が人の子によって栄光を受けた」という表現を、イエス様はなさったのです。

 

「神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。」(32節)

32節のこの言葉こそ「イエス様の復活を意味するものだ」と後代の信仰者である私達は、そう教わっているのでわかります。しかし、当時のお弟子さん達は、何を意味するのかは、ほとんどわからなかったでしょう。(しかし、彼らは、これを記憶し、後代に伝え、聖書に記録されることになりました。このことも感謝です!)

 

「主の十字架と復活の予告」

このように見てくると、31節―32節もまさに、「主の十字架と復活」が示されていて、しかも、それは父なる神様の御心だから、実現されるということをイエス様が弟子達に教えておられた箇所だとわかります。

 

まもなく、この世を去るイエス様の弟子達への遺言

33節の第1文と第2文の間には、「わたし(イエス様)はまもなく、この世を去らなくてはならない」という一文を補って理解するとわかりやすくなると思います。十字架までのほんのしばらくは、イエス様はこの世におられますが、その後にこの世を去らなくてはならず、弟子達はイエス様を探し求めるようになると予め見抜かれたのです。(ユダヤ人にかつて語ったことはヨハネ福音書7章32節―36節に書かれています。)だから、愛する弟子達に新しい掟を遺言として残されました。34節です。

 

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 ここで注意したいことは「人間的な愛で愛し合いなさい」ではないことです。「わたし(イエス様)が愛したように」という条件が重要です。イエス様は弟子達を「神の愛」で愛されましたし、ここでの「愛する」という言葉も、「アガペー=『神の愛』で愛する」です。主の弟子達は、一般庶民出身で、イエス様の御言葉をすぐに理解できる能力のある者はほとんどいなかったようですが、彼らをイエス様は神様へ心を向けるように教え導いたのです。「人間の愛」は、自分の愛に応え得る者や、または自分の好みに合う者に対して注がれます。これを、倉松功先生は「自分の方に曲がった真善美への愛」であり、一方、「神の愛」は、人間を神様に向かうように変える力のある愛」と語られました。私達信仰者は洗礼を受ける際に「神の愛」で新たに造り変えられた経験があることを想起しましょう。「神の愛」は神様だけが注げますから、人間は神様から常に補充していただく必要があります。私達は、礼拝や聖書の学びを通して、「神の愛」を補充していただける、それも天から賜る恵みです!

4月3日の説教要旨 「弟子たちへの主の愛」 牧師 平賀真理子

詩編22:17-27・ヨハネ福音書20:24-29

 はじめに

イエス様は、金曜日に十字架にかかって息を引き取られましたが、三日目の日曜日の朝に復活されました。その同じ日の夕方、弟子たちの前に、イエス様は「復活の主」として御姿を現わしてくださり、弟子たちは大いに喜びました(ヨハネ20:19-23)。

 「復活の主」との最初の出会いの群れにいなかったトマス

ところが、ヨハネ福音書では、その喜ばしい出来事を体験できなかった弟子がいることを記しています。12弟子の一人「トマス」です。仲間と違い、その方に十字架の御傷があるかを確かめなければ「信じない」とトマスは言いました。自分の感覚を基準に、「主の復活」を測ろうとしました。

 「復活の主」と疑い深いトマスとの出会い

トマスを除いた弟子たちが復活の主に出会った日の8日後の日曜日、今度こそトマスは弟子たちと共にいました。そこへ、8日前と同じようにイエス様が現われ、「あなたがたに平和があるように。」と御言葉をくださいました。そして、イエス様は「何が人の心にあるのか、よく知っておられた(ヨハネ2:25)」ので、トマスに、「十字架の御傷を見たり、釘跡に指を入れたり、手をそのわき腹に差し入れたりすることで信じると言うのなら、そうしなさい。」と御自分の御体に触れて確かめることを許されました。

 イエス様の弟子たちへの愛

それは、トマスの立場に立ってくださった へりくだりの御姿です。これこそ、まさしく、「神様の愛」の特性です。弟子として愛した相手、特に成長が遅いと思われるトマスに、御自分を合わせておられます。きっと「忍耐」が必要だったでしょう。それでも、イエス様は「この上なく弟子たちを愛し抜かれた(ヨハネ13:1)」のです。

 トマスの特徴=人間の弱さと愚かさ

ヨハネによる福音書の中の他の箇所で、トマスの性格を表している所があります。一つは11章です。イエス様が愛したラザロという若者が死んだという知らせが来て、イエス様がラザロの所へ行こうと言われた時、イエス様が死へ赴こうとされていると勘違いして、自分も「一緒に死のうではないか(16節)」と言ったのです。しかし、主と共に本当に死ぬべき十字架への道にトマスが従った記述は、どの福音書にもありません。恐らく、他の弟子たちと同様、逃げ去ったのでしょう。勇敢なことを言っても実行できないという人間の弱さが浮き彫りになっています。もう一つの14章では、イエス様に従うことが救いの道であることが、トマスはわかっていなかったことも明らかになっています(5節)。肝心なことがわからず、愚かなトマスの姿はそのまま私たちの姿です。更に、今日の箇所で、トマスは自分の感覚などを通して確かめる「人間的な判断」=「科学的な判断」を、神様を信じる信仰の世界に持ち込んで、「復活の主」を疑う姿も見せています。

 主の愛を知ったトマスの信仰告白

そのようなトマスは、イエス様の自己犠牲の愛、へりくだる愛に直面し、自分がいかに罪深く、主を苦しめたかを感じ取ったのでしょう。しかも2度も苦しめました。1度目は十字架の時、2度目は「自分の確信のために御傷を見たり手を入れたりしたい」と言った時です。にもかかわらず、イエス様はトマスを見捨てず、「信じる者になりなさい」という励ましの御言葉をかけてくださっている、その深い愛を、トマスはようやく理解して、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白の叫びが口をついて出たのでしょう。

 「見ないのに信じる」⇒「御言葉を聞いて信じる」

そんなトマスへ、「わたし(主)を見ないのに信じる人は、幸いである(29節)」という御言葉を主はくださいました。トマスを含め、弟子たちは、約二千年前に実際に「復活の主」に出会うという特別な恵みをいただきました。その後、「復活の主」は「四十日にわたって彼ら(弟子たち)に現れ、神の国について話された」(使徒言行録1:3)後、天に上げられました。それ以降の時代に生まれた信仰者たちは「主の復活の証言」だけを聞いて信じた者、つまり「見ないのに信じる人」たちであると言えるでしょう。トマスへ語られた29節の御言葉は、後の時代の信仰者にも主が愛によって語り掛けてくださったと受け取れます。ロマ書10書13節にも「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。私たちは「見ないのに信じる人」=「福音を聞いて信じる信仰者」として、主に愛され、主の祝福に希望を持ちつつ、歩むことが許されています。