「主の御前における命」   伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書49:5-6 /nヨハネ福音書11:40-53 /nはじめに 前回は、ラザロの姉妹マルタがイエス様に、「あなたがこの世に来ると預言されていた神の子・救い主と信じています」と告白をしたことに注目しました。その後、イエス様が死んだラザロに対して、神様の御業をなさるため墓穴に入ろうとされた時、信仰告白をしたばかりのマルタがそれをさえぎろうとしました。人間的な思いで、墓穴から死臭が漏れたらイエス様に対して失礼だと気を利かせたのでしょう。 しかしイエス様が求められたのは、この世の常識から来る予測ではなく、イエス様を神様の栄光を現わすお方として絶対的な信仰を示すことでした。 /n神の栄光 イエス様はマルタに、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言われました。神様の御力を奇跡で示し、人々に信じる気持を起こさせ、信じる者に永遠の命を授ける・・。そのことが「神の栄光」であると読み解けます。イエス様は、御自分が神様から派遣されたことを証しするために死者をよみがえらせるという「この世ではあり得ない奇跡」「神様の御業としか思えない奇跡」を行なわれたのです。 /n神様への絶対的信頼 この出来事の前にイエス様は、自分の願いは必ず叶(かな)叶えてもらえるとの、神様への絶対的信頼を表明しています。神様の御心を第一として歩んでおられるイエス様には、「神様の栄光を現わす出来事は願う前から叶う」という確信がありました。そしてイエス様の「出てきなさい」とラザロへの決定的な命令をもって、ラザロは、死の世界から光の世界へ戻ってきたのです。彼を縛っていた布はほどかれ、彼は「死」から解放されました。この出来事は、まさしく人智を越えた「奇跡」です。 /n私達にも起こった奇跡 しかしそれは同時に、私達一人一人の人生に起こった「奇跡」をも指しています。救い主イエス様と出会う前、私達は表向きはともかく心の奥底では、この世の価値観や罪の世界にがんじがらめになって、本来の自分を輝かせて生きていなかったのではないでしょうか。 そこへ、「主と出会う」奇跡が与えられたのです! 死んだように生きていた人間でも、主との出会いが与えられ、信仰をもって主の呼びかけに応えるならば、誰でも人智を越えた大きな力を戴き、暗闇から救い出される・・。ラザロの奇跡は、そのことが証しされているのです。 /n議会の決定 ラザロの復活を多くのユダヤ人が目撃して、その内の多くの人々がイエス様を信じました。しかし中には、イエス様を良く思っていないファリサイ派の人々にこのことを報告した人がいました。彼は本当に大事な事=「イエス様は神様から遣わされたメシア」に気付かず(信じることが出来ず)、この世の権威を重んじたのです。その結果、議会が招集され、大祭司カイアファから、イエス様の存在をなくすことこそが、ユダヤを戦禍から救うことになるとの結論が出されました。彼の発言(一人の人間の死が、民全体を救う)は、本人の考えではなく、その年の大祭司として、人類を救う神様のご計画を預言させる、的確な言葉となりました。 /n主の御前における命 父なる神様は、御子の命を犠牲にしてまでも、私達人間が神の国の民として生きるように、救いのご計画を進められました。私達の汚れた罪を、イエス様が十字架の死で肩代わりして下さったことにより罪が赦されたのです。「イエス様は神様から遣わされた救い主」として信じる者には、「新しい命・主の御前に立てる命」が与えられています。それは、本当に喜んで感謝して生きる命、「永遠の命」です。この命を与えられ、「神の国の民」とされた恵みに誠実に応えて生きる者であり続けられるよう、今週も聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

「わたしもその中にいる」  牧師 佐藤義子

/n 詩編147:1-7 /nマタイ福音書18:10-20 /nはじめに  この地上にキリスト教会が出来たのは、ペンテコステ(聖霊降臨日)の日でした。その日、約束されていた聖霊が弟子達に降り、弟子達は聖霊を受けて、十字架で殺されたイエス様こそ神の御子・救い主であると語りました。この弟子達の説教を聞いて、信じた人々の群れが教会の始まりです。ですから、教会の土台はイエス・キリストです。教会が教会となっていくために、又、私達が「神の国の民」とされていくために大切なことを、イエス様はマタイ福音書18章で教えています。 第一に、天の国で一番偉い存在は誰か。<自分を低くして、子供のようになる人が、天の国でいちばん偉い>。 第二に、信仰の仲間をつまずかせることの罪の深さ。<信仰の弱い人をつまずかせるなら、その、つまずきになった部分を切り捨てなさい>。そして今日読んだところの、「神様の御心は一人も滅びないこと」。また、「教会の仲間が罪を犯した時には、どうしたら良いのか」。そして最後に、神様から赦された者が、もし隣人を赦さなければ、どうなるかについて語られています。 /n小さい者を軽んじてはいけない  十節の後半では、小さい者を一人でも軽んじないように教えています。詩編91篇には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主は、あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。</span>」とあります。人々から「小さい者」と思われていても、神様を信じる者には神様の守りがいつもあり、神様の守りは、天の使いを通して働かれていることを教えています。 そしてイエス様は、100匹のうちの一匹が迷い出た時、羊飼いは99匹を山に残して一匹を捜しに行くたとえ話をされました。神様の国で、神の民とされた者は、一人でも滅びの世界に戻ってはならない。離れた時は、羊飼いのように捜しに行き、連れて帰るのです。私達は、お互いに愛をもって励まし合い,支え合いながら、信仰生活を共に全うしていきたいと願っています。 /n兄弟への忠告  兄弟とは同じ信仰者、主にある兄弟姉妹のこと(教会の仲間)です。神様を信じ、イエス様を信じて従っていく時、私達は、信仰と祈りによって悪から守られます。しかし悪の力はすさまじく、悪魔サタンは、いろいろな手法を用いて信仰者を誘惑し神様から遠ざけようと試みます。その結果、誘惑に負けたり、試みられて罪を犯すことがあります。信仰の仲間の一人が罪を犯した時、そのことを知った人は忠告しなければなりません。放っておけば、罪の空気は教会の中に拡がります。罪の芽は早いうちに刈り取らなければなりません。忠告は、最初二人だけのところでします。その人が忠告を受け入れたら、教会は強く立ち続けることになります。受け入れない時には、さらに一人か二人を連れて説得にあたります。「そのことが罪である」と確定されるためには、二人又は三人の証人が必要だからです。それでも忠告を聞き入れない時、教会は、その人を、天の国の民とはみなさずに、信仰を持つ以前の時の関係に戻すことになります。これは神様の教会をきよく保つためです。 /n教会への委託  教会には、イエス様から「権威」が委託されています。悔い改める者には「罪の赦し」を宣言します。その一方で、罪ある者を裁きます。それは、愛を破壊し、不正を犯し、主にある兄弟姉妹を否定した時です。 イエス様は、教会の仲間が罪におちいらないように、罪を遠ざけるようにとの願いで結びつくことを求めておられます。悪に対する戦いは、私達を祈りへと導きます。イエス様は、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または、三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:19) と約束されました。 私達がどこにいても、心を一つにしてイエス様の名前を呼び求める時、イエス様はいつでもどこにでも来て下さり、私達と共にいて下さるとの約束です。そして私達の祈りは、イエス様が神様に執り成して下さるのです。何と力強い励ましと恵みの約束でしょうか。共に祈りましょう!

「救い主の誕生」 牧師 佐藤義子

/nイザヤ書9:5-6 /nルカ福音書2:1-14          /nはじめに   今日は3本目のローソクに火がともされました。来週はクリスマスです。今日の聖書は、ヨセフとマリアがヨセフの出身地ベツレヘムに旅したこと、そしてイエス様がお生まれになった時のことです。マリアは臨月を迎えていましたので、この旅がどんなに大変だったかは想像できます。しかも、ベツレヘムは旅人で混雑しており、どの宿屋も人と家畜で一杯でした。皆、自分のことで忙しく、初めてのお産を迎える若い女性をのことを気づかう人はおらず、飼い葉桶が唯一、赤ちゃんにとって安全なベッドでした。 聖書はこう記します。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」</span> /n何も持たずに・・。ただ神の国と御霊のみ。 イエス様のこのような生涯の始まりについて、ある人はこう語ります。「神様がイエス様を、この世のすべてのものを何も持たせることなく私達の間に置かれた・・」「イエス様の生きていかれる国は神の国であり、イエス様に与えられた賜物は『御霊の所有』でした」と。 /n羊飼いに告げられた大きな喜び 宿の中は暗いままです。産まれた幼子に何か変わったことが起こったわけではありません。 しかし外では素晴らしいことが起こっていました。徹夜で羊の群れの番をしていた羊飼いに、多くの人々が待って待って待ち続けた「<span class="deco" style="font-weight:bold;">救い主がお生まれになった</span>」という「<span class="deco" style="font-weight:bold;">大きな喜び</span>」が告げられたのです。 救い主誕生によって、それ迄罪の世界に生きていた私達が、神様の支配のもとで生きることが出来るようになり、神様と人間の断絶に和解の道が備えられました。 地上に平和の到来を告げる神様の救いのみ業です。

説教要旨   「主にのみ仕える」   牧師 佐藤 義子

/n 申命記6:13-19 /n ルカ福音書4:1-13           /n はじめに  今日の聖書は、イエス様の荒れ野の誘惑の出来事です。この出来事は、イエス様が成長されて、神様から神の御子としての働きへと召し出す声を聞かれ、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた直後のことでした。神の御子としての働きを始めるそのスタートを切る直前に、イエス様は、神様によって荒れ野に導かれ、悪魔の誘惑を受けられました。悪魔の原語の意味は「悪しき告発者」です。悪魔の力は私達の罪の上に立ち、私達を滅ぼすために私達の罪を大きく明瞭にします。そして、私達の悪を探し出し、告発し、人間と神とを分離・敵対させるのが仕事です。荒れ野での誘惑も、イエス様と神様との深い交わりを絶つことが目的でした。 /n 荒れ野の誘惑の意味 イエス様の、神の御子としての働きとは、すべての人を神様のもとに立ち帰らせること、すべての人が悔い改めを通して罪の赦しが与えられ、神の国の民とされること、すべての人がイエス様を神の御子と信じイエス様に従うことです。この目的のために、イエス様はこれからどのような方法・仕方でご自分を人々の前に現わされようとしているのか。神様は、御子イエス様が、その使命を果たされるにあたり、その姿勢と覚悟を、この世の闇の支配者である悪魔の前で明確になさるために、荒野へ導かれたように思います。2節には、イエス様が40日間、何も食べずに空腹を覚えられたとあります。40日の断食後の空腹感は、私達の想像を絶するものであったでしょう。肉体を持つ人間の極限状況の中で、悪魔はイエス様を、三度にわたって、自分の支配下に置こうと誘惑を試みるのです。 /n「石をパンに変えよ」 空腹のイエス様に、悪魔は「あなたが神の子ならば、石をパンに変えよ」と誘惑した目的は、自分の命を保つためならば、神の子に与えられている奇跡を行う力を使っても何の問題もないだろうというわけです。拡大解釈するならば、石を(人間の命を基本的に支える)パンに変える奇跡を行うなら、イエス様が人々にご自分を神の子と信じさせる目的は、成功するだろうとの誘惑があります。(ヨハネ6:26参照)。イエス様はこの誘惑に対して、申命記8章3節「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる</span>」と答えられました。神様を信頼して生きる者は、生命維持のために自分の力でパンを獲得するのではなく、養って下さる神様から必要なものを受け取ること、又、命を支える手段はパンだけではない。神様が「光あれ」と言われて光があったように、神様が「生きよ」と言って下さるなら、私達には生きる道が備えられるということです。大切なことは、私達の肉体への配慮ではなく、私達の魂が神様に向かい、神様からの言葉と神様の命をいただくことです。 /n「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」  第二の誘惑は、「全世界の国々のすべての権力と繁栄を与える」です。イエス様がこれから人々に伝道していく時、何か手段となるような地位も栄誉も権力も富も何もありません。それに対して悪魔はそれらすべてを持ち、多くの人々はそれを得ようと必死です。そこで悪魔は、もしもイエス様が「神様」にではなく「悪魔」にひれ伏すなら、それらすべてを与えると誘いました。悪魔は、この世における悪魔の支配をイエス様に承認させようとしたのです。この誘惑に対し、イエス様は申命記6章13節「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕える</span>」の御言葉で退けました。ここに「神様への無条件の信頼」と「神様への完全な服従」があります。 /n「神殿の屋根から飛び降りてみよ」  第三の誘惑は、悪魔が聖書の言葉「どこにおいても、天使が助ける」(詩編91:11-12)をもって、イエス様に「神の子」証明をさせることでした。しかしイエス様は、ご自身が神の子であることを証明するために神様が天使を遣わされることを良しとされませんでした。神殿から飛び降りることは神様の御命令ではありません。御命令でなければ何もしない。ただ神様に服従して導きを待つ。イエス様は、申命記6章16節「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達の神、主を試してはならない</span>」で答えられました。こうしてイエス様は、私達信仰者にも、悪魔の誘惑に勝利する道を明らかに示されたのです。神様に対するゆるぎない信頼と完全な服従、生も死もすべては神様の御手の中にあるゆえ、神様に自分の全存在を委ねる道です。

イースター礼拝  「死者の中から復活された」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 28章1-10節 1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 /nはじめに  イエス様の弟子でありながらユダヤ人達を恐れてそのことを隠していたヨセフ(ユダヤ人の町アリマタヤの出身)が、十字架上のイエス様の遺体を取り降ろす許可をローマ総督ピラトから得ました。そして取り降ろした遺体にニコデモと共に香料を添えてきれいな亜麻布に包み、岩に掘ったヨセフ所有の新しい墓に遺体を納めました。墓の入り口に大きな石を転がしてふさぎ、そこから立ち去ったのは、安息日に入る金曜日の日没前のことでした。 /n日曜日  今日の聖書の箇所は、安息日が終り(土曜日の日没)日曜日の朝まだ十分明けない内に二人の女性が墓を訪れた時の出来事です。墓は封印され番兵も置かれていました。(弟子達が遺体を盗み、復活のうわさを流すことを祭司長達が恐れた為です)。二人の女性は家にじっとしていることも出来ずに墓のそばでイエス様の死を悲しみ、又、イエス様を偲びたかったのでありましょう。 /n主の天使が降る  ところが墓についた二人は思いもかけない光景を目にします。大きな地震が起こり天使が墓の入り口の石をころがしてその上に座り「あの方は死者の中から復活された」と告げたのです。 /n復活  復活とは死んだ者がよみがえったということです。驚くべきことです。私達人間は、死の前には全く無力です。全ての人間は死ぬことが定まっています。誰一人例外はありません。なぜ死ぬのでしょうか。死ななければならないのでしょうか。それは「罪の支払う報酬」であると聖書は教えます(ロマ6:23)。最初の人アダムによって罪がこの世に入り、同時に罪によって死が入り込んできました。この死が全ての人におよびます。全ての人が罪を犯したからです。 /n罪を犯されなかったイエス様  イエス様には死ぬ理由はどこにもありません。罪を犯されなかったからです。死ぬ必要のないイエス様がなぜ死んだのでしょうか。それは私(あなた・全ての人)の罪を引き受けられたからです。 /n復活は神のわざ  イエス様は十字架につけられ殺されました。死んだ後、墓に葬られたことは私達人間と同じです。(この世においては、死を宣告されると多くの人達は絶望します。なぜならすべての終着駅として死を考えているからです。)しかしそこから先は違いました。イエス様は死者の中から復活されたのです。「復活された」とは「神によってよみがえらされた」という受身の言葉です。イエス様の誕生がそうであったようにイエス様の復活も又、神様のわざです。 /n死の先  イエス様の復活は死に勝利されたことを意味します。それによって肉体の死は一時の通過点に過ぎずその先があることを知らされました。それが天の国(神の国)です。イエス様がこの地上におられた時に語られた多くの話はこの神の国についてでした。人は目に見える世界だけに目を奪われ、喜び悲しみ苦しみ悩みます。しかしイエス様は告別の説教で次のような言葉を残されています。「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」「神を信じ、私を信じなさい」「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとにいくことは出来ない」。又、復活後、疑うトマスに向かって「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われました。 /n私達は神の子供  私達人間に命を与えて下さった神様は、私達の、神様への不従順の罪を赦し、罪の奴隷となっている私達人間を罪の支配から救い出す為に、御子イエス・キリストを遣わされました。そして私達の罪をすべてイエス様に転嫁して負わせ、罪の報酬としての死をイエス様に引き受けさせられたのでした。イエス様の死によって今や私達は罪を赦された神の子供となりました。 /nイースター(復活日)  イースターはイエス様が死に勝たれてよみがえったことを祝う日です。復活されたイエス様は、聖霊の働きを通して今もなお私達と共にいて私達を守り導き励まして下さいます。復活のイエス様を心から感謝し(だから絶望しない)、復活のイエス様と共に歩む一週間でありたいと願うものです。

説教要旨 「イエス・キリストの変貌」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章1-13節 1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。 /nはじめに  本日の聖書には、イエス様の姿が変わったという大変不思議なことが記されています。場所は高い山、イエス様についていったのは12弟子の内わずか3人(ペテロ・ヤコブとその兄弟ヨハネ)です。この3人はイエス様が十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園でイエス様のすぐ近くまでついていった弟子でもあります。おそらくイエス様はこの3人を選び、ご自分がいなくなった時に重要な役割を担うよう特別に訓練されていたのかもしれません。この日イエス様は「祈る為に山に登られ」(ルカ福音書 9:28)ました。十字架の道へ進もうとされていることが、確かに神様の御心に沿うものかどうか、そのことの確信を得る為の祈りと考えられています。 /nイエス様の変貌  山の上で、イエス様の姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、服は光のように白く(2節)なり、更に、旧約時代の偉大な人物モーセ(BC1300年頃)とエリヤ(BC9世紀)が現れてイエス様と語り合って(3節)いました。(モーセは旧約の律法を代表し、エリヤは旧約の預言者を代表する人物で、旧約聖書はイエス様を指し示しています。)三人が語り合っていた内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」(ルカ9:31)です。これは、神様が人間を救うという深い偉大な御計画が、今まさに成就の時を目前にしている、ということを意味しているのでしょう。 /nペテロの反応  この世の、空間と時間の世界で生きている者が、一瞬、神様の世界・永遠の世界を垣間見るという出来事に出会った弟子の一人ペテロは、驚きと喜びから「私がここに仮小屋を三つ建てましょう」と奉仕を申し出ます。太陽の暑さや夜露からイエス様とモーセとエリヤを守り、この瞬間の栄光を少しでも長く続かせたいと願ったからでしょう。しかし霊の世界では、人間の言葉や思いは神様の言葉によってさえぎられます。ペテロの話が終らない内に光輝く雲が彼らを覆い、雲の中から神様の声が聞こえました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。イエス様が洗礼を授けられた時も、神様の霊が注がれる中で同じ言葉が天から聞こえています(マタイ福音書3:17)。今、受難の道への歩みを始めようとされたこの時、再びイエス様は、「神様の心に適う者」と証言されたのです。 /n山の上 と 山の下  山上での、栄光に包まれたイエス様のお姿こそ、本来の神の御子の姿であり、その後の復活の姿でもあります。(「神の身分でありながら・・・僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ書2:6)。3人の弟子達はこの光景と、更に雲の中からの神様の御声を聞き恐怖に襲われました。ひれ伏している弟子達にイエス様は近づき、手を触れ「起きなさい。恐れることはない」と言われました。彼らが顔を上げると、イエス様以外誰もおらず霊の世界の出来事は終っておりました。イエス様が、これから山を下りられて人間の救いの為に、神様の御計画を一歩一歩果たされていくのです。その道は犯罪人の一人として人々からあざけられ、つばきされ、残酷な十字架という死刑が待っている道です。 /n復活するまで誰にも話してはならない  3人の弟子達はこの栄光のイエス様を見た証人でしたが、復活するまで語ることを禁じられました。イエス様のメシアとしての働きは、受難と十字架の死と復活をもって成し遂げられます。受難と死と復活を通らない内に、弟子達がこの栄光のイエス様を語るならば、人々は自分勝手な「メシア像」をイエス様に押しつけ、この世の権威を与えようとするでしょう。メシアに隠されている十字架の死と復活を経た神様の救いの御計画など予想も出来ずに、栄光だけのメシア像を求める群衆達は、かつてバプテスマのヨハネを好きなようにあしらって(11節)殺したように(バプテスマのヨハネは自分達の救いの為に、エリヤの働きとして神から遣わされた人)、イエス様に対しても同じようにする(12節)ことを、ここでもイエス様は予告されています。

説教要旨 「何をして欲しいのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 20章29-34節     29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。 30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。 34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。 /nはじめに  聖書の基本的な読み方として「私にとって」「今」「ここで」の読み方を以前お話しました。私達は「ああ、この話はあの人に丁度良い話だ。あの人に聞かせたい・・」などと思うことがないでしょうか。そのような時は、話が自分の前を素通りしてしまっています。「私にとって」という意味は、神様があの人にではなく自分に何を語っておられるかを聞くことです。二番目の「今」とは、過去でも未来でもなく「今の自分」ということです。三番目の「ここで」は、現在置かれている「自分の状況」の中で聞くということです。 /n二人の盲人の叫び  イエス様がエリコの町を出てエルサレムに向かうことを知り、群衆は自分達も過越の祭りの為にエルサレムに行くので後についていきました。イエス様を慕ってのことでしょう。その途中、道端に座っていた二人の盲人が突然「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんで下さい」と叫びました。それを見た群衆は叱りつけて黙らせようとしました。叫ぶ盲人は、イエス様や自分達の行く手を阻む邪魔な存在として映ったのでしょう。又当時のユダヤ人は、盲人その他の障害を負う人々は神様の祝福から外された人達と考えていました。群衆は、この二人がイエス様の足を止めさせることのないように、盲人を叱り、黙らせようとしたのでしょう。 /n盲人のイエス様への思い  盲人はこれまでイエス様が中風の人、手のなえた人、足の不自由な人、口の利けない人、何よりも自分達と同じ目の見えない人を癒されたうわさやイエス様の教えについて聞いていたに違いありません。二人の心にはイエス様に対する信仰が芽生え育ち、イエス様こそメシア、救い主であるという確信を持ったのでしょう。そこにイエス様がお通りと聞いたのです。千載一遇のチャンスです。自分達の叫びを阻む群衆の叱り声に負けてはいられません。誰も自分達の存在をイエス様に伝えてくれなければ、自分達で頑張るしかありません。31節に「二人はますます」とあります。声を張り上げて「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんで下さい」と叫びました。 /n「何をして欲しいのか」  この個所のすぐ前のゼベダイの息子達の母の願いとは対照的に、盲人の願いはこれ迄の暗い苦しみの淵からの叫びであり、その声はイエス様の耳に届きました。イエス様は彼らを呼び「何をして欲しいのか」と尋ねました。イエス様が盲人の思いを知らないはずはありません。しかしイエス様は尋ねられます「何をして欲しいのか」と。この問いは盲人達の信仰告白を引き出します。「主よ、目を開けていただきたいのです」。 /n「主よ」  わずか6節だけの聖書箇所で、盲人の「主よ」との呼びかけは3回もなされます。彼らは自分達が「誰に」「何を願うべきか」を知っていました。(「自分が何を願っているか、分かっていない」とイエス様から言われた前出の母とは対照的です。)このお方こそダビデの子(メシア)であり、自分達の苦しみを知り、願いを聞き届けて下さる唯一のお方であるとのゆるぎない信仰がここにあります。 /n私達の信仰の目も・・  イエス様は盲人を深く憐れみその目に触れられました。盲人は、彼らの確信通り見えるようになり、イエス様に従う者となりました。私達も「主よ、憐れんで下さい」と信仰をもってイエス様を呼び求め、「何をして欲しいのか」と尋ねられたら、「信仰の目を開けていただきたいのです」と願いましょう。「自分の信仰の視力は大丈夫」と考えているなら、「見えると言い張る所にあなたがたの罪がある」(口語訳ヨハネ9:41)と聖書は警告しています。私達はイエス様がはっきり見えていないことを知り、盲人のようにイエス様に憐れんでいただき、自分に最も必要な願いを聞いていただいて、今週も、喜んで従う者になりたいと願うものです。

説教要旨 「最も重要な教え」 牧師 佐藤義子

/n[申命記] 6章4-9節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 /n[マタイによる福音書] 22章34-40節 34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38 これが最も重要な第一の掟である。 39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 /nはじめに  旧約聖書には、律法と呼ばれるものがありました。これはモーセを通して神が人間に守るべき教えとして与えられた戒めです。イエス様の時代、当時のユダヤ教徒はどのくらいの数の戒めを知り、そして守っていたのでしょうか。註解書によればその数は613だといいます。これを248と365に分け、初めの248(人間の体の骨の数)は「○○しなければならない」教えで、後の365(一年の日数)は「○○してはならない」教えだと言われます。 /nファリサイ派の質問  以前もイエス様をわなにかけようと、税金を皇帝に納めるべきか否かと尋ねたファリサイ派の人々(15節以下)が、再び質問しにやってきました。「律法の中で、どの掟が最も重要か」という問いです。民衆はイエス様の語る神の国の福音に耳を傾け、その教えに驚き、目を見張り、尊敬しました。それは、自分達がこれ迄築いてきた権威が崩されていくことでもあり、彼らにとって、イエス様は無視出来ない脅威の存在でした。その為に彼らはイエス様の影響力にとどめを刺そうと、答えに窮するような質問を用意しました。この問いは、彼らの間でも、議論になっている問いでした。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。イエス様は律法を613から成る集合と考えず一つのものとして考えました。そしてその中心にある核として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(38節)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(39節)を取り上げられました。これは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)と、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)からの引用です。 /n神への愛と隣人への愛  イエス様は、神様への愛と隣人への愛の二つの教えを一つとし、同じ重要性をもっていることを教えられました。律法が613であろうと、1000、2000あろうとも、すべての戒めがここから出てここに帰るというのです。私達の心が神様への愛によって動かされているならば、私達の全生活を神様のレールの上に乗せることになります。神様を愛するとは隣人を愛することです。なぜなら神様が人間を大切に考え、隣人に対する私達の愛を求めているからです。神様を愛しているという人が人間を軽く考えることはできません。又、人間を大事に考えるならば、神様を軽く見ることはできません。なぜなら神様を見失ったら私達の心から愛が乾いていくのです。神様は、私達が人間に仕えることによって神に仕え、神に仕えることによって人間に仕えることを命じておられます。 /n私達の生きる基準  神様への愛、そして人への愛が芽生えて活発になると、どうしたらもっと愛せるようになるのか、どういうふうにして神様に仕え、隣人に仕えていけばいいのか、その手段、方法を熱心に考えるようになります。ここで、イエス様が教えておられる愛は、神の愛(アガペーの愛)です。神様の愛(神様が一人子イエス?キリストを私の為に遣わして下さった)を学んだ者は、その愛が私一人にとどまらず、家族にも友人にも親族にも知人にも及ぶことを知り、そのことに心を傾けていきます。神への愛と隣人への愛の教えは、私達の義務?責任の基準を私達に与えてくれるのです。  イエス様は、このいましめを示すことによって、正しいことと正しくないこと、あるいは義務と罪がごちゃまぜになることがないようにされました。何が善で、何が悪であるのかを示されました。とりわけ教会の中においては、この教え、神への愛と隣人への愛が、中心に据えられているかどうかが、教会が教会であり続けているかどうかの基準となります。イエス様は「律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいている」と言われました。「律法全体と預言者」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は、この二つのいましめが、ちょうつがいの金具の働きをしている、とイエス様はいわれました。 /n「神への愛」と「隣人への愛」の内実  それは十戒に示されています。神を愛するということは神を神とすることであり、神以外の者を神としない、神でない偶像を拝まない、神の名前をそまつにあつかわない、礼拝を厳守する、神が与えた両親を敬う、ことです。隣人を愛するとは、隣人の命を守り、隣人の家庭を守り、隣人の自由を守り、隣人の名誉を守り、隣人の財産を守ることです。又、それは山上の説教にも示されています。たとえば、憐れみ深くあること、平和を愛すること、義のために迫害を受けること、隣人に腹をたてたり、ばか?愚か者といわないこと、仲たがいをしているならば和解をする、あるいは自分に負い目を持つ者を赦す、人をさばかない、ということです。  私達は、律法やいましめにがんじがらめにしばられているのではなく、そうではなく、神様からの祝福の道への招きとしてこの二つの戒めが与えられています。私達はこの招きにこたえるのか、それとも背を向けるのか、道は二つです。すべての道はここから始まり、ここに帰ることを思い、私達のすべての判断?決断?実践がここに基準を置いている歩みでありたいと願うものです。

「主の道を整える」 平賀真理子伝道師

/n[イザヤ書] 40章3節 3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 /n[マルコによる福音書] 1章1-8節 1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 /nはじめに  今日、礼拝で御言葉を取り継ぐ任を与えられ、神様に感謝を捧げたいと思います。又、欠けたところの多い私を伝道師として受け入れて下さった仙台南伝道所の兄弟姉妹の皆様に心から感謝しています。月1回の説教を担当させていただくことになり「マルコによる福音書」を選びました。マルコによる福音書は「マタイ福音書」「ルカ福音書」の基本資料にもなっているといわれる「初めての福音書」です。伝道者として初めの一歩を踏み出す私にふさわしいと受け取りました。 /n「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1節)  この言葉はマルコ福音書の本質を最も短くまとめた実に的確な表記です!主イエスが神の子としてこの世で歩みながら、人々に悔い改めを勧め、神の国の到来を告げる、という喜ばしい知らせをもたらして下さったことを明示しています。その御生涯の最期では、人々の罪を贖う為に十字架にかかったけれども死に勝利し、神の支配を勝ち取られたこと、そのこともまた、「よき知らせ」即ち「福音」です。 /n「道を整える」(3節)  道を整える為には具体的にどうすればいいか。もし整えようとする道に草がぼうぼう生えていたら、刈り取るでしょう。ごみが落ちていたら、拾って別のごみ置き場に捨てに行くでしょう。石ころを取り除き,ほうきで地面を念入りに掃き清めるでしょう。地盤が悪かったら踏み固めるでしょう。不要なものは捨て、必要なことは、よりたくさん念を押して行い、計画を順序良く進めるでしょう。「整える」で思い出すことがあります。母教会の先輩(技術コンサルタント)が教会の会報に「整理整頓」について書かれたことです。整理とは,いる物といらない物を分けていらない物を捨てること、整頓とは、いる物を順序良く並べることだとありました。 /n信仰生活の整理整頓  信仰生活においても、いる・いらないを分ける時は明確な基準が必要です。信仰生活の「整理」とは礼拝出席と日々の聖書拝読と朝夕の祈りの死守でしょうか。「整頓」とは、御言葉を心に刻み、折にふれて家族や友人、また落ち込んだ時の自分に対しても、語りかけることができるように準備できることでしょうか。自らの姿勢を問われています。 /n旧約における「主の道を整える」とは・・  イザヤ書40章-55章(第二イザヤ)は、「イスラエルの民が異教の地バビロンでの苦しい捕囚生活からもうすぐ解放される」という慰めに満ちた預言から始まります。3節の「主の為に、荒れ野に道を備え 私達の神の為に、荒れ地に広い道を通せ。」は、故郷エルサレムへ向かって、又、主に向かって、もう一度神殿で礼拝を献げることが出来るように、信仰という道を立て直すことを意味しています。異教の地での偶像礼拝を悔い改め、そのことを公に言い表して、きちんとやめて、全存在をかけて方向転換をし、主なる神のみを信じる生活に立ち帰ることです。 /n新約時代の「主の道を整える」とは・・  「罪を告白し、悔い改めの洗礼を受ける」(4-5節)ことです。聖書によれば、一番大きな罪は主イエスと、御子をこの世に下さった神様を信じることが出来ないことです。洗礼は、罪の告白によって罪が赦された結果もたらされる恵みです。多くの方々がその恵みにあずかってほしいと願っています。私自身、告白前の苦しい締め付けられるような感覚と、祈っていただいた時の解放された自由な感覚は忘れることができません。苦しみから救いへと180度の転換の体験は、主への道を整え、より強い結びつきとなり、主から捕らえられる喜びを得ることができます!今日の聖書では、主イエスはまだ登場せず、洗礼者ヨハネが、あらかじめ、神様が準備していた人として描かれています。「らくだの毛皮に腰に革の帯」という姿は(列王記下1章8節の)エリヤを想起させます。エリヤは、イスラエル民族にとっては、救い主の先駆けとして再び現れると信じられていた人物です。ヨハネ=エリヤとなれば、ヨハネが主イエスを自分の後に来る偉大な方と証言すれば、イエス=メシアとなります。 /n「洗礼者ヨハネは水による洗礼、主イエスは聖霊による洗礼」  洗礼者ヨハネは多くの民衆に水による洗礼を施しています。しかし主イエスの業は、もっと大きいものでした。使徒言行録に記されているように、全生涯を終えられた後、弟子たちに聖霊が降り注いだこと(2章)、聖霊の導きで全世界に福音が広まったこと(全章通じて)が、主イエスのこの世への勝利による、全世界への聖霊による洗礼だと解釈できます。私達は、主イエスの勝利によって、聖霊の恵みの中に浸り続けることができる立場にます。その幸いを認識できるところにいます。恵みの中で、神様との絆を整え、まっすぐにし、より強固なものにするよう求められています。今週も、主を仰ぎ見、感謝する一週間であるよう、祈りたいと思います。

「イエス・キリストの死」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章45-56節 45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53 そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。 /nはじめに  本日は、日本キリスト教団が定めた伝道献身者奨励日であり、神学校日です。伝道者奨励日とは、神様があなたを伝道者として召しておられるかもしれないということを考えていただく日であり、又、献身して神学校で学んでいる神学生や神学校を覚えて祈り、応援する日でもあります。 イエス様の言葉に、「収穫は多いが、働き手が少ない」「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」があります。聖書の言葉は信仰の決断を促す時や、迷いの中から大きな決断をする時に、私達を後ろから押してくれます。また、決断に確信を与えてくれます。 日本のクリスチャン人口は1パーセントに満たず、ほとんどの家庭はキリスト教に無理解であるといっても良いでしょう。牧師、伝道者になるといえば、家族・親族からの猛反対を受けるのが常です。しかし、反対される中で伝道者は神様からの召命を信じ、十字架の福音を語り続けます。かつて迫害の中で伝道が続けられた結果、福音はユダヤから全世界へ、日本へ、仙台へ、この山田の地まで届けられています。キリスト教は自分だけに留めておく宗教ではありません。伝えて初めて生きた宗教となります。 /n何を伝えるか  福音の内容は、私の罪(そしてすべての人の罪)が神に赦されたということです。私達人間は生まれながらに罪人です。「私達には創り主なる神様がおられる」ということを聞いても信じようとしない。聖書で語られる罪とは、神に対する不信仰と不従順です。人間と神様の間に横たわっていた罪という断絶を、イエス・キリストが十字架にかかり、罪のない命を犠牲として神に献げられました。それゆえに神様の赦しが与えられました。自分に罪がないという人でも、イエス様の教えに従い得ない現実があります。愛しなさいといわれても愛せない。赦しなさいといわれても赦せない。イエス様の教えを頭で理解していても、そのように生きることが出来ない。そういう私達のすべてが十字架によって赦されたのです。(コリント15:3参照) /n「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」  今日の聖書の箇所は、十字架上のイエス様を伝えている個所です。昼の12時に全地が暗くなり3時に及んだとあります。暗闇は悪の力の最後の時であり、神様がこれまでの世界秩序に終止符を打つしるしといわれます。3時頃、イエス様は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。これは詩編22編2節です。詩篇22編は、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながらなお 神に信頼の祈りをささげる悲痛な叫びです。 /n十字架の意味  歴史的に見るならば、罪のないイエス様を十字架につけたのはイスラエルの宗教指導者達であり、ピラトであり、十字架につけよと叫んだ群衆であるといえるでしょう。しかしその一方で、イエス・キリストの受難と十字架による死は、すでにイエス様ご自身の口から予告されていました(マタイ16:21)し、神の御子イエス様が地上に来られたのは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)というイエス様ご自身の言葉があります。さらに最後の晩餐でイエス様は、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(マタイ26:27-28)と言われました。十字架の死は、私達に罪の赦しを与える為の、神様の救いのご計画が最初にありました。 /n神殿の幕  イエス様は再び叫び声をあげられ、息を引き取られました(50節)。その時、神殿の幕が上から下まで裂けたとあります。これはエルサレム神殿の一番奥にある至聖所と聖所を隔てる幕のことで、至聖所には一年に一度だけ大祭司が人々の罪のあがないの為に入ることが許されていました。神様のおられる聖なる場所と考えられていた至聖所の、その隔ての幕が破られたということは、聖なる神様と罪ある人間との断絶の時代が終わり、大祭司によるとりなしの時代も終り、神様への道がイエス様を通して私達の前に開かれたという象徴的な出来事でありました。(後略)。