「主イエスと共に生きる」牧師 佐藤義子

先週(12月1日)の礼拝説教要旨  /nイザヤ書51:4-8 /nテサロニケ5:1-11           /nはじめに  本日は、仙台南伝道所において初めて礼拝がささげられてから満11年を迎えた記念の日です。今年の記念日は特別です。なぜなら私達には新しい礼拝堂が与えられて、来週から新しい礼拝堂で礼拝することになっているからです。これは大きな喜びです。この場所で初めて礼拝をささげるようになった時からの願いと祈りを、神様が受け入れてくださり、実現に至らせてくださったからです。  礼拝堂建設は大きな出来事であり、そのわざを起こして下さった神様に心からの感謝をささげます。それと同時に忘れてならないことは、教会は建て物ではなく、神様を信じ、イエス・キリストを神の子・救い主であることを信じる信仰共同体であるということです。どんなに立派な建物が与えられたとしても、その建物の中に、神様に賛美と祈りをささげる人々がいなければ、それは教会ではありません。逆の言い方をすれば、11年間、私達の伝道所は「礼拝堂」をもたなかったけれども、賛美と祈りをささげる信仰共同体の群れ(=教会)として歩み続けることが出来たということです。これからは場所を佐藤博子姉の家から、新会堂に移して、そこでは、必ず毎週、日曜日の礼拝が行われており、そこにいけばクリスチャンに会うことが出来、そこにいけば神様に出会える場所があり讃美歌を大きな声で歌うことが出来、何でも祈れることが出来るのです。教会とは、建て物ではなく信仰共同体のことであることを、改めて心に刻みたいと思います。   /n教会のメッセージは「福音」 この11年間、毎週の礼拝において何が語られてきたのか、これから新しい礼拝堂で何を語り続けていこうとしているのかを問われるなら、それは「福音」です。福音とは「喜びの訪れ」という意味です。教会は喜びの訪れを伝える場所です。どんな喜びなのでしょうか。それは、今までは神様は目に見えず、ただ頭の中で想像するしかありませんでしたが、神様が御子イエス・キリストを、私達の住むこの地上に送って下さった!(これが本当のクリスマスの喜び)ので、私達は想像ではなく、実際に神様がどういうお方であるか(聖であり、義であり、愛である神)を知ることが出来るようになりました。そして神様が私達人間をどれほど大きな愛で今も愛し続けて下さっているかを、私達は礼拝を通して、聖書を通して、祈りを通して、又、実際の生活の中で、日々知ることが出来るようになりました。 /nイエス・キリストは、再び来られる 今日の聖書、テサロニケの手紙では、イエス・キリストの再臨について記されています。聖書はその時を、「この世の終りの時」として伝えます。その時、準備のない者は、あわてふためきますが。聖書には、私達がその時にどう備えておくべきかを教えています。それが8節です。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望をかぶととしてかぶり、身を慎んでいましょう</span>。」とあります。「胸当て」「かぶと」は戦う時の武具です。再臨に備えて武具が必要なのは、せっかく神様の恵みによって信仰が与えられても、その信仰が、使いものにならない状況に陥る人達が出て来るからです。私達を神様から引き離そうとする力が、「矢」や「剣」にたとえるならば、それを迎える武具が「信仰と愛」であり、「希望」なのです。神様は私達を罪の支配から救い出して下さった。私達は罪から救われた者として、今は、イエス・キリストと共に歩んでいます。やがて必ずやってくる終りの日に、私達は、神の国に招かれる希望の中に置かれています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">キリストは私達のために死なれましたが、それは、キリストと共に生きるようになるためです</span>。」(10節)

「神に望みを置く」  佐々木哲夫先生(東北学院大学)

/n創世記 2:15-17 /n1テモテへの手紙 6:17-20 /nはじめに 本日は収穫感謝を覚えての礼拝です。今の季節は、丁度、果物や穀物の実りの季節の時ですから、果物や穀物の収穫感謝ということを連想致します。特に日本では稲作の豊作を期待する時期でもあり、勤労感謝の祝日の時でもあり、さまざまに理解されるところです。 ところで教会の収穫感謝礼拝は、アメリカに移住した清教徒達(ピルグリム・ファーザーズ)に由来しているものだと言われております。1620年に、清教徒達が新大陸プリマスに到着しました。その年の冬は、大変寒くて多くの死者を出すに至ります。特にイギリスから持ってきた穀物の種は、新大陸の土に合わなかったのでしょうか、実りが乏しく清教徒達は飢餓の危機に瀕したのです。そのような時に先住民のインディアンが、食物や衣類を持って来て彼らを助けてくれた。又、新大陸での穀物の栽培方法をも教えてくれたということで翌年は実りを豊かに迎えることになり、入植者と先住民とは、神の恵みに感謝し、豊かなご馳走を一緒にいただいたということです。この出来事は今日アメリカの祝日の一つである、サンクスギビングデ-として祝われております。その日夕食は、親族や友人が集まり、七面鳥を丸焼きにして食卓を囲むというような行事になっています。私達の教会は、本日の礼拝を、私達を養って下さる神に感謝する礼拝として守りたいと願っております。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は人を園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた</span>。」 さて、今日の聖書にあるように、神様は最初の人アダムを、木の実りをもって養って下さいました。エデンの園のアダムに、主は次のように語りかけています。「園のすべての木から取って食べなさい」。アダムは、園の木の実で生きることが出来たのです。エデンの園では、食べることが保証されていた、生活が保障されていたということです。しかしそれは遊んで暮らすということを意味するものではありませんでした。神はアダムに、園を耕す労働に従事するようにしています。楽園においても労働があったということになります。作家のC・Hルイスは、その著作の中で、天国と地獄を想像しています。「天国でも、やはり労働があるのだ。人々は協力して働くのだ」と書く一方で、「地獄では願うと何でも瞬時に形となって現れ、それを得ることができる。労働することがない。食べ物も自由に願えば与えられる」と記しております。何か、地獄の方が良さそうな状況ですが、実はそこには協力がなく、絶対的な孤独がある。そんなことを、ルイスは記しております。神様から養われるということと、人の労働ということの関係について考えさせられます。 /n人は、顔に汗を流してパンを得る さて、エデンの園のどの木からも取って食べても良かったのですが、一つだけ例外がありました。善悪の、知識の木からは決して食べてはならないというのです。理由は、かなり強い表現が使われているのですが、「食べると必ず死んでしまう」(17節)というのです。なぜ神様は善悪の知識の木からは食べてはならないと言うのか、というのは本日の主題から外れますので詳細に立ち入ることはしません。ただ、善悪の知識の木の実を食べることによって、人類に罪が入ってくることになった。そのことはご承知のとおりです。その時にアダムとエバは、園にあるもう一本の木、「命の木」からはまだ取って食べることをしていませんでしたので、神は、命の木から採って食べることを禁じたとあります。人類に「罪」と同時に「死」が入りこんだ瞬間であります。この出来事以降、人が食べる物は確かに神から与えられた賜物なのですけれども、人は顔に汗を流して働いてパンを得、生きて、やがて死に、ちりに帰る、という生涯を送ることになったというのです。 /n菜食から肉食も やがてアダムから世代を数えて10代目の時に、ノアが登場致します。ノアの洪水の話も皆さんご承知の通りです。あの洪水が引いて、箱舟がアララト山の上に止まり、新しい時代が始まった時に、主は、ノアを祝福しています。雲の中に虹が現れると、神は、「この祝福を心に留める」と言いましたので、この祝福のことを「にじの契約」とも言っております。その祝福の中で、神は、次のように言っています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」(</span>創世記9:1-3)。 換言するならば、洪水の前の人々は菜食でしたが、洪水の後は肉食が許されたということです。聖書はさまざまなことを記しておりますので、なぜ洪水後に肉食が許されたのかと思い巡らすところですが、聖書の記述は、その理由を記しておりません。ユダヤの伝承はこういうことを色々考えて、そのことについて記しています。その中には、洪水後の動物はノアの箱舟によって救われた動物たち、その一対から繁殖したものであり、すべて、家畜としての動物なので食べることが許された、という説明がありました。しかし聖書には、明確な説明は記しておりません。ただ確かなことは、すべての収穫は人間に与えられた「神からの恵み」であるということでした。 /n「富は神からの賜物であり、恵みである」という本質 さて時代が進みまして、穀物を多く栽培し、実りを蓄積する者が現れてきます。又、羊や山羊を繁殖させて多くの群れを持つ者も現れてきます。富める者が現れてきます。収穫は神の賜物でありますから、富める者は、神から大きな祝福を与えられた者であり、逆に、貧しい者とは神の祝福にあずからない者、信仰の薄い者と、ユダヤの中ではみなされるようになりました。 しかし「すべては神から与えられたもの、エデンの園で与えられたもの、ノアの洪水の後に与えられた食べ物すべては、神からの賜物であり神の恵みである。」・・・そのような本質が、やがて見失われていきました。富は自らの手腕で勝ち得たものと考える者が、少なからず登場する社会となっています。特に穀物や家畜など、目に見える姿で富を所有し、認知した時代から、時間が経つにつれて、例えば、「富」というものが「貨幣」という形で所有される経済時代に進みますと、「富は神からの賜物」という直感的な理解が薄れてきました。そして、そうではなくて、「富は自分の力で得たもの」と考えるようになってくるのです。 /n「神に望みを置く」 本日開きました新約聖書のテモテの手紙は、一世紀の時代を背景としています。パウロが手紙の中でテモテに告げました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように</span>。」と記したのです。 この聖書の箇所は特別に解説を加えるような必要はない程に、明確な内容です。イエス・キリストの時代、一世紀の状況は、経済が進歩した時代であり、今日の私達の時代と似ている状態でありました。むしろ、今日の私達のほとんどは、一世紀の富める者をはるかに越えて、豊かな生活を営んでいるともいえます。 今朝の収穫感謝の礼拝において、私たちはもう一度、聖書の言葉「私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」の言葉を持って、あのエデンの園でアダムを養い、ノアの後の時代を養ってくださっている神に、今もなお、私達は収穫を感謝しつつ、心新たに信仰の思いを確かにしたいと願うものであります。

 「救いの約束」     牧師 佐藤義子

/n出エジプト記6:2-13 /nヘブライ11:23-29           /nはじめに  モーセが生まれた時代、イスラエルの民はエジプトの国で厳しい重労働のもとに置かれながらも、人口が増え続けたため、エジプト王は脅威を感じて、生まれて来る男の子をみな殺すように助産婦に命じました。しかし神を畏れていた助産婦は男の子でも殺さず、モーセの両親は赤ん坊を3カ月間、隠して育てました。隠しきれなくなったので、籠の中に生まれた男の子を入れ、ナイル河の葦の茂みの間に置きました。子供を見つけたエジプトの王女はふびんに思い、モーセと名付け、息子として育てました。 /n「信仰によって」  今朝読んだヘブル書11章は、信仰によって神様に認められた旧約聖書に登場する人々について語られています。その中の一人が「モーセ」です。モーセについて聖書は五つの出来事を取り上げて、信仰がどのように働いたのかを伝えます。 第一に、モーセの両親は「信仰によって」、王の命令を恐れずにモーセの命を守ったこと。 第二に、成人したモーセが、自分がイスラエル人であることを知った時、「信仰によって」エジプト王女の息子として生きる道を捨て、神の民であるイスラエルの民として生きる道を選んだこと。 第三に、モーセが神様から与えられた使命「イスラエルの民のエジプト脱出」を果たす為に、「信仰によって」エジプト王との交渉のすべてを成し遂げたことです。国の最高権威をもつ王を怒らせたら自分の命はないことを承知で、王を恐れなかったことです。それが出来たのは、信仰によって「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」からだと聖書は伝えています。 第四に、エジプト脱出直前に神様が起こされた災いの最後に、最初に生まれた子供が死ぬという災いがありましたが、イスラエルの民は、その災いから逃れるために、神様から教えられた通り、小羊の血を鴨居にぬることによって免れることが出来ました。これも信仰による行為です。 第五に、モーセに導かれたイスラエルの民が、陸地を通るように紅海をわたった奇跡も、「信仰によって」なされました。 /n神の民と共に虐待される道を選ぶ 今朝は特に、二番目の、モーセが「信仰によって」王女の息子として生きるのではなく、ヘブライ人として生きる道を選んだことに焦点をあてて学びたいと思います。モーセは、富、権力、名声というこの世で価値あるものとされていたものを捨て、自分の同胞と共に生きる道=「唯一の神を信じる神の民」として生きる道=虐待される道を選びました。その理由を聖書は、「キリストのゆえに受けるあざけりを、エジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです」(26節-)と伝えます。なぜなら、この世の価値観で生きることは、何も残らず、何の報いもないことを知ったからです。この世の幸せは過ぎゆくものであり、自分を楽しませる罪ある生き方は、最後は死で終ります。モーセが選んだ道は苦難の多い道でしたが、しかしその道の向こうには、神様が下さる報いが約束されていました。神様から与えられる報いは、この世のものとは違い、目に見えない世界に属するものです。それは、神様が直接支配される神の国に入ることを意味します。伝道者パウロは、ロマ書の中で、「現在の苦しみは、将来私達に現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思う」と言っています。 /n救いの約束のもとで生きる 信仰とは神様への絶対信頼、絶対服従です。そこに、神様から命を与えられた人間の、本当の平安があります。目に見えない神様は、御子イエス様をこの地上に送って下さり、目に見える形で神様を現して下さいました。神様を絶対信頼する時に、私達もモーセのように神様以外に恐れるものはなくなり勇気が与えられ、この世の価値観から離れて何が本当に価値あるものかを知らされます。信仰によって、私達は、見える世界だけでなく見えない世界に目を向け、神様が与えておられる「救いの約束」のもとで、神の国の民の一員として歩むことが出来るのです!

「苦しみを受ける主」伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書53:6-12 /nマルコ福音書15:6-20 /nはじめに イエス様は、同胞のユダヤ人達の有力者達から成る最高法院での裁判に於いて、ご自分を神の子とした「冒とく罪」により「死刑」の宣告を受けました。当時、ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤでは、ローマの許可がなければ死刑執行は許されないため、最高法院は、イエス様の身柄をローマ皇帝の代理としてユダヤに遣わされていた総督ピラトに引き渡しました。ローマ帝国にとってユダヤ地方の統治とは、ローマの支配に反対する人々やその活動を封じ込めることが第一の仕事になっていたと思われます。そして又、反対者の制圧さえしておけば、その他のユダヤ人達には多少甘くする方法で、ローマの人気を上げることも可能だったようです。 /n神ではなく、人を見たピラト 過越祭における恩赦(囚人一人の解放)は、そのような背景のもとで、総督ピラトの人気取りの政策の一つだったのでしょう。ピラトのもとに押しかけて来た「群衆」は、恩赦を利用して、暴徒として投獄されていたバラバ(恐らく政治犯)の釈放を叫びました。それは、群衆を背後から操り、扇動したユダヤ教の有力者である「祭司長達」から出た行為でした(11節)。 ピラトは、イエス様が自分に引き渡されたのは、祭司長達の妬みの為だとわかっており、イエス様は無実であるとの判断により、釈放する方向へ誘導しました。群衆には「どんな悪事を働いたと言うのか」と死刑になるような悪事は何もないことを認めさせようとします。しかし三度の警告にもかかわらず、祭司長達に扇動された「群衆」の意思は変わらず、「イエスを十字架につけろ」と激しく叫び立てる声の前に、ユダヤ人の評価も欲しいピラトの決断は揺らぎ、最後にピラトは、イエス様の無実は分かっていながら、人間として仰ぐべき「神の御顔」ではなく、人の顔色を見て、イエス様を鞭打ち、十字架へと引き渡してしまいました。このように神様を無視して、人間を優先させることこそ、神様の悲しまれる罪の一つなのです。それに加えて16節以下から、罪人としてローマ兵士が加わります。 /nローマ兵士の罪 ピラトがイエス様の死刑判決を下した結果、ピラトの配下にある兵士達は、図に乗って、被告人イエス様を傷つけました。鞭で相当傷ついておられたにもかかわらず、イエス様の服を自分達の冗談で脱ぎ着させたり、茨の冠を造ってかぶせたり、葦の棒で叩いたり、つばをかけたり・・という描写を読むだけでも、何と残忍な事だろうと胸が痛みます。更に悲しいことには、イエス様に向かって偽りの礼拝をしたのです。どんなにか御心を痛められるこれらの出来事に忍耐されたでしょうか。 /n身代わりの犠牲とあがない イエス様は、恩赦になる「バラバ」のために、身代りに犠牲となられました。それは一人の人間「バラバ」のためだけに限らず、神様を無視して生きる「この世」のことを第一にして「神様を二の次」にして生きる姿勢を変えることの出来ない、罪に捕らわれた私たち人間の為にも、身代わりとして犠牲になられたのです。私たち人間は、神様からいただく「永遠の命」や、神様が人間に下さる神様の愛を軽く考えて、自分の都合の良いように盗もうとしている「大罪」を犯しているからです。 しかし、こんな罪深い人間、人種や身分を越えた全ての人間の罪を贖(あがな)うために、主は十字架にかかられる使命が与えられ、それは父なる神様の御心として決して避けられないことを、イエス様ご自身、とうに知っておられました。今日読んだ旧約聖書「苦難の僕」が御自分の使命であることをイエス様だけはご存知で、すでに預言されていました(10:33)。 /n「だれでもわたしのもとに来なさい。」 イエス様は、父である神様の御計画に従って歩んでおられるだけなのに、そのことを理解しない周りの者達の罪で責められ、多くの苦しみを受けられました。いかに苛酷な役割だったことでしょう。それでも主は、忍耐されました。もしそのような試練が自分に訪れた時は、黙って耐え抜かれた主の痛み、苦しみに思いを馳せて助けを祈りましょう。必ず主は、その重荷を共に担ってくださいます。その辛さを誰よりもわかって下さるお方です。  最後にこの御言葉をお伝えします。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。</span>」(マタイによる福音書 11:28-30)

(召天者記念礼拝) 「復活の時」牧師 佐藤義子

/n 詩編105:1-11 /n マルコ福音書12:18-27             /nはじめに  本日は、召天された方々を覚える記念の礼拝です。毎年、11月の最初の日曜日の召天者記念日を迎える度に、私は信仰を与えられて生涯をおくることが許されているキリスト者の幸せを神様に感謝しています。なぜ幸せかと申しますと、ここに飾られている写真の方々も、ここにいる私達も、神様を知り、神様から知られているからです。そして神様を知っている者は、三つの命をもって生きる者であることを、聖書は私達に教えています。 /n霊の命  三つの命とは、体の命、精神(こころ)の命、霊の命です。テサロニケの手紙に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたの霊も魂(口語訳では心)も体も何一つ欠けたところのないものとして守られるように</span>」との、祈りの言葉が記されています。神様を知らない人々は、自分の中に霊の命があることを知りません。人間は、神様からの呼びかけによって心が開かれて信仰が起こされ、神様と交わり、信仰の世界へと導かれます。聖書は、神様によって呼び覚まされた人間の霊的命を最も重要な命として考えています。霊的命がまだ目覚めていない人は、体と心がどんなにすぐれていても、十分ではないのです。 だからこそ私達は、多くの方々に神様に出会っていただきたくて伝道するのです。というわけで、ここにおられる方々は、すべて神様から呼びかけを受け、心が開かれて信仰が与えられた者であり、又、その途上にいる者です。与えられている霊の命が、いつも健やかに成長し続けられるように、私達は教会にしっかりとつながって歩んでいきたいと祈り、願っています。 /nサドカイ派の質問  今朝の聖書は、「復活」を信じないサドカイ派の質問と、それに対するイエス様の返答です。質問とは「もし復活があるなら、再婚した兄弟達にとり、女は誰の妻になるのか」です。この問いの背景には、家名が絶えない為、又、家の財産を守る為、子供のないまま夫を亡くした妻が、夫の兄弟に嫁ぐように定められていた結婚形態(レビラト婚)があります。 /n「あなたたちは聖書も神の力も知らない。」  イエス様は、サドカイ派の質問は大変な思い違いからきており、それは、彼らが聖書も神の力も知らないからであると断定しました。彼らは、「天上」のことを「地上」の延長としか考えませんでした。しかし復活の時には「男も女もなく天使のようになる」とイエス様は教えられました。神様の力は、人間の頭では考えられないことを創造します。人間は神様を簡単にとらえることは出来ません。さらに神様は生きている者の神です。かつてモーセに現れた神は、地上ではすでに死んでいたアブラハム、イサク、ヤコブの神として現れています。神様がアブラハム、イサク、ヤコブにカナンの地を与えると約束された以上、この約束により、甦らされた彼らの前に、神様は生きた者の神としてあるのです。 /n復活 「復活」は、「天上」のことがらです。私達は地上で肉体をもって生きており、天上のことは聖書を通して、又、信仰を通して知る以外、道はありません。私達の知識は一部分であり、復活については、おぼろにしか映らない鏡を見るようです(第一コリント13:12)。 私達が住む地上は、時間と空間の世界ですが、天上の世界は永遠の世界です。  死者の復活については、第一コリント書15:32以下およびヨハネ第一3:2以下に記されています。 私達は今、地上で生きていますが、私達が復活する時、私達はイエス様に似た者とされる約束が与えられています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分達の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです</span>。」(第一コリント15:58)

主イエスと共に生きる

 「神に望みを置く」  佐々木哲夫先生(東北学院大学) 創世記2:15-17・?テモテ6:17-20 *はじめに 本日は収穫感謝を覚えての礼拝です。今の季節は、丁度、果物や穀物の 実りの季節の時ですから、果物や穀物の収穫感謝ということを連想致します。特に日本では稲作の豊作を期待する時期でもあり、勤労感謝の祝日の時でもあり、さまざまに理解されるところです。 ところで教会の収穫感謝礼拝は、アメリカに移住した清教徒達(ピルグリム・ファーザーズ)に由来しているものだと言われております。 1620年に、清教徒達が新大陸プリマスに到着しました。その年の冬は、大変寒くて多くの死者を出すに至ります。特にイギリスから持ってきた 穀物の種は、新大陸の土に合わなかったのでしょうか、実りが乏しく清教徒達は飢餓の危機に瀕したのです。そのような時に先住民のインディアンが、食物や衣類を持って来て彼らを助けてくれた。又、新大陸での穀物の栽培方法をも教えてくれたということで翌年は実りを豊かに迎えることになり、入植者と先住民とは、神の恵みに感謝し、豊かなご馳走を一緒にいただいたということです。この出来事は今日アメリカの祝日の一つである、 サンクスギビングデ-として祝われております。その日夕食は、親族や 友人が集まり、七面鳥を丸焼きにして食卓を囲むというような行事に なっています。私達の教会は、本日の礼拝を、私達を養って下さる神に 感謝する礼拝として守りたいと願っております。 *「神は人を園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」 さて、今日の聖書にあるように、神様は最初の人アダムを、木の実りをもって養って下さいました。エデンの園のアダムに、主は次のように語りかけています。「園のすべての木から取って食べなさい」。アダムは、園の木の実で生きることが出来たのです。エデンの園では、食べることが保証されていた、生活が保障されていたということです。しかしそれは遊んで暮らすということを意味するものではありませんでした。神はアダムに、園を耕す労働に従事するようにしています。楽園においても労働があったということになります。作家のC・Hルイスは、その著作の中で、天国と地獄を想像しています。「天国でも、やはり労働があるのだ。人々は協力して働くのだ」と書く一方で、「地獄では願うと何でも瞬時に形となって現れ、それを得ることができる。労働することがない。食べ物も自由に 願えば与えられる」と記しております。何か、地獄の方が良さそうな状況ですが、実はそこには協力がなく、絶対的な孤独がある。そんなことを、 ルイスは記しております。神様から養われるということと、人の労働と いうことの関係について考えさせられます。  *人は、顔に汗を流してパンを得る さて、エデンの園のどの木からも取って食べても良かったのですが、一つだけ例外がありました。善悪の、知識の木からは決して食べてはならないというのです。理由は、かなり強い表現が使われているのですが、「食べると必ず死んでしまう」(17節)というのです。なぜ神様は善悪の知識の木からは食べてはならないと言うのか、というのは本日の主題から外れますので詳細に立ち入ることはしません。ただ、善悪の知識の木の実を食べることによって、人類に罪が入ってくることになった。そのことはご承知のとおりです。 その時にアダムとエバは、園にあるもう一本の木、「命の木」からはまだ取って食べることをしていませんでしたので、神は、命の木から採って 食べることを禁じたとあります。人類に「罪」と同時に「死」が入りこんだ瞬間であります。この出来事以降、人が食べる物は確かに神から与えられた賜物なのですけれども、人は顔に汗を流して働いてパンを得、生きて、やがて死に、ちりに帰る、という生涯を送ることになったというのです。 *菜食から肉食も やがてアダムから世代を数えて10代目の時に、ノアが登場致します。ノアの洪水の話も皆さんご承知の通りです。あの洪水が引いて、箱舟が アララト山の上に止まり、新しい時代が始まった時に、主は、ノアを祝福しています。雲の中に虹が現れると、神は、「この祝福を心に留める」と言いましたので、この祝福のことを「にじの契約」とも言っております。 その祝福の中で、神は、次のように言っています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」(創世記9:1-3)。 換言するならば、洪水の前の人々は菜食でしたが、洪水の後は肉食が許されたということです。聖書はさまざまなことを記しておりますので、なぜ洪水後に肉食が許されたのかと思い巡らすところですが、聖書の記述は、その理由を記しておりません。ユダヤの伝承はこういうことを色々考えて、そのことについて記しています。その中には、洪水後の動物はノアの箱舟によって救われた動物たち、その一対から繁殖したものであり、すべて、家畜としての動物なので食べることが許された、という説明がありました。しかし聖書には、明確な説明は記しておりません。ただ確かなことは、すべての収穫は人間に与えられた「神からの恵み」であるということでした。 *「富は神からの賜物であり、恵みである」という本質 さて時代が進みまして、穀物を多く栽培し、実りを蓄積する者が現れてきます。又、羊や山羊を繁殖させて多くの群れを持つ者も現れてきます。 富める者が現れてきます。収穫は神の賜物でありますから、富める者は、 神から大きな祝福を与えられた者であり、逆に、貧しい者とは神の祝福にあずからない者、信仰の薄い者と、ユダヤの中ではみなされるようになりました。 しかし「すべては神から与えられたもの、エデンの園で与えられたもの、ノアの洪水の後に与えられた食べ物すべては、神からの賜物であり神の恵みである。」・・・そのような本質が、やがて見失われていきました。富は自らの手腕で勝ち得たものと考える者が、少なからず登場する社会となっています。特に穀物や家畜など、目に見える姿で富を所有し、認知した時代から、時間が経つにつれて、例えば、「富」というものが「貨幣」という形で所有される経済時代に進みますと、「富は神からの賜物」という直感的な理解が薄れてきました。そして、そうではなくて、「富は自分の力で得たもの」と考えるようになってくるのです。  *「神に望みを置く」 本日開きました新約聖書のテモテの手紙は、一世紀の時代を背景と しています。パウロが手紙の中でテモテに告げました。「この世で 富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と記したのです。 この聖書の箇所は特別に解説を加えるような必要はない程に、明確な内容です。イエス・キリストの時代、一世紀の状況は、経済が進歩した時代であり、今日の私達の時代と似ている状態でありました。むしろ、今日の私達のほとんどは、一世紀の富める者をはるかに越えて、豊かな生活を営んでいるともいえます。 今朝の収穫感謝の礼拝において、私たちはもう一度、聖書の言葉 「私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」の言葉を持って、あのエデンの園でアダムを養い、ノアの後の時代を養ってくださっている神に、今もなお、私達は収穫を感謝 しつつ、心新たに信仰の思いを確かにしたいと願うものであります。

「神の愛」 倉松 功 先生(元 東北学院院長)

<span class="deco" style="font-size:large;">宗教改革記念礼拝</span> /n詩編53:2-6 /nマタイ福音書9:13           /nはじめに 私達の教会は、プロテスタント教会です。カトリック教会は、ローマ教皇を立てて出来た教会ですが、プロテスタント教会というのは、当時の堕落したカトリック教会から離れて、「聖書に帰った」キリスト教であるということが出来ます。プロテスタント教会は、宗教改革によって始まりました。1517年10月31日に、ルターが95カ条の問題提起をヴィッテンベルク(ドイツ)のお城の付属教会の扉にはりつけました。95カ条の問題提起の、一番の中心点にあったのは、カトリック教会が発行した贖侑券(しょくゆうけん) の問題でした。 贖侑券(しょくゆうけん)は、カトリック教会が 第一回の十字軍を召集するのと同時期に出された「木の札」又は「紙札」のことで、最初の頃は、それを買うことによって自分の罪をつぐなうことが出来ると言われていました。しかしルターの時代になると、日本で「免罪符」として知られているように、罪のつぐないにとどまらず、「罪を赦す」ことにまで発展しました。しかも現世の罪だけではなく、煉獄(れんごく*注)にいる者の罪を赦す、と説いて人々に売っていたのです(お札を買うお金を箱に入れると同時に、魂が天国に昇る)。そのような「贖侑券」を売っていたことに対して、ルターは、「罪を赦すことが出来るのは、キリストだけであり、教皇でさえも出来ない」と主張したのです。その時以来、カトリック教会からのルターへの尋問と、それに対する討論が繰り返される内に、ルターが問題提起した内容は拡がり、明確になっていきました。それから三年後、今度は、カトリック教会がルターに対して、41の誤りを指摘して、その誤りを撤回しなければ破門し、教会から追放すると言ってきました。ルターはその指摘に対してくわしく反論し、自分の考えは殺されても撤回しないということから、ついにルターはカトリック教会から破門、追放されました。  しかしこの討論の中で語られた内容は、ルタ-だけではなく、ツヴィングリやカルヴァンといった宗教改革者達も、カトリック教会に対して、同じ主張をすることになり、さらに拡大していったのです。  *注 煉獄(れんごく):カトリック教会の教理。罪の償いを果たすまで、霊魂が苦しみを受けて浄化される所。 /nルターの主張 討論の中で、ルターは、「人は、信仰のみによって罪が赦される。信仰は、神の恵みによって与えられる。『<span class="deco" style="font-weight:bold;">誰も、聖霊によらなければ、信じることは出来ない</span>』(第一コリント12:3)」と語りました。 「信仰義認」とは、キリストを信じ、キリストに信頼することによってのみ救われる。すなわち、キリストのゆえに罪が赦されて、神によって義しい(ただしい)と認められることです。これが、宗教改革者達の共通の旗じるしとなり、拠り所となりました。 ロマ書3:28に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、・・イエスを信じる者を義となさる</span>」とあります。ルターもツヴィングリもカルヴァンも、宗教改革者達は、共に、「信仰によって義とされる」(信仰によって救われる)と言ったわけですが、それは自分で発見したのではなく、聖書に帰り、聖書を学んで、そのことに達したのです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ10:17)とあるように、聖書の御言葉を聞いて信仰に気付かされる、信仰を呼び起こされるということです。「信仰によって義とされる」ということは、私達の罪が赦されて義とされること。その為に神は、御子キリストを世界にお遣わしになって、キリストを十字架につけて犠牲にされる、それによって、その償いによって、私共の罪を赦して義とする、という手続きをとられたわけです。何で神様はそのようなことをなさったのか、私共にはなかなかわかりません。そこで今日は、神は、なぜそのようなプロセスを経て、そのことをなさったのか、そのことについて聖書から学びたいと思います。同時に、そのことについてルターが語っていることがらを、思い起こしてみたいと思います。 /n神の愛・・「キリストが十字架につけられた」 今朝、招きの言葉「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:13)を読んでいただきましたが、この言葉も重要なキリストにおける「神の愛」の表現だと思います。その神の愛について、学んでみたいと思います。 1518年、ハイデルベルク(ドイツ)に於いてルターは「神の愛と人の愛」について発題しました。神の愛は「アガペイ」、人の愛は「エロース」です。ルターは、「人の愛」は 人を外から見て起こる(生じる)ものであると語りました。たとえば、相手が語る思想や宗教、考え方、容貌、立ち居振る舞い、趣味等を見て相手を好きになったり愛するようになるのであり、相手を愛する愛は自分にとって好ましく、自分にとってプラスであるという「相対的な(比較できる)」愛であると語りました。相対的な愛ですから、更にもっと良い人が出てくれば、そちらを愛するということになります。 それに比べて「神の愛」は、見て生じたり、感じて生じる、あるいは判断して愛する愛ではありません。神は罪人を招く。神の愛は、悪人を良い人に変える愛であり、罪人を赦す愛であり、「人の愛」とは180度違います。この愛は、「犠牲愛」「贖罪愛」と言われたりしています。人間は、自分にとってプラスになる人を愛しますが、神の愛は、罪人・悪人を愛する。罪人を変えていく。そういう形で神の愛は起こる。これが「罪人を招く」というキリストの言葉に表れています。神の愛はキリストにおいて具体化されています。大事な事柄は、キリストが、それを具体化して語り行ったわけですが、その行いの中に、キリストご自身が十字架につけられる。そういう手続き、そういう贖い(あがない)、つぐないの業(わざ)をキリストご自身がなさった。そういうふうに父なる神は、キリストを用いられたということです。これは大変なことです。 /n罪を赦して義とする ルターは、ゲッセマネでキリストが、「死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)と、苦しみもだえて祈られた(ルカ22:44)祈りの中で、キリストは、私達が不条理だと思っていることを、私達に代わって涙を流されていると、言いました。人間の無理解、人間の苦しみを、キリストがゲッセマネで代わって下さっている。まさにここに「キリストが私達に代わる」ということの、ルターの、非常に深い理解がそこにあるように思います。神は、キリストを犠牲にすることで、人々の罪を赦して義とする、「義と認める」ことをなさいました。「義と認める」ということで、宗教改革者達が言った大切なことは、私共が「義」となって認められるわけではありません。私共が義しい(ただしい)と認められるということは、キリストが犠牲となっておられるわけですから、そのキリストの義を通してしか認められない。(キリストは「唯一の、救いを必要としない義人」であり、キリスト以外、神から義と認められる人は誰もいない)。キリストを信じることによって「義」が与えられる。「義」が私共のものになる。といっても私共が、キリストと同じように100パーセント「義」となっているわけではない。そのことを常に、改めて、聖霊の助けによって自覚する。御言葉によって自覚する・・。これが、私共ではないかと思います。「義と認められる」という「義」は、キリストがもっておられる「義」のことです。  このことを、「神の愛」の関連でみてみたいと思います。 /nヨハネの手紙一 4:8-11。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">愛することのない者は神を知りません。神は愛(アガペイ)だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛(アガペイ)があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです</span>。」 「信仰によって義とされる」、そのことの背後にキリストの十字架があります。その十字架こそ、「神の愛」なのです。 聖書は、そのように言っています。

「目を覚ましていなさい」 牧師 佐藤 義子

/n詩編36:2-10 /nマタイ福音書25:1-13           /nはじめに ユダヤの結婚式は、この時代、夜から始まっていたということで、花嫁は友人達と自宅で待機し、花婿が迎えに来るのを待ちます。花婿が花嫁の自宅近くまで来ると、花婿の友人達が先触れとして、花婿がきたことを大きな声で触れ廻ります。その声を聞き、花嫁の友人達は途中まで花婿を迎えに行き、花嫁のところに案内し、その後、花婿と花嫁は友人達と一緒に、今度は花婿の家に向かい、そこで結婚式と祝宴が行われたということです。夜道を歩くのになくてならないものが、「ともし火」(ランプ)でした。 /n「その日、その時を知らないのだから。」 このたとえ話は、花嫁に付き添う10人のおとめ達に光をあてています。10人共、自分達は祝宴に招かれて出席出来ることを信じて疑わなかった人達です。しかしこの内の5人のおとめは、祝宴の喜びに加わることは出来ませんでした。花婿の到着が遅れたことにより、おとめ達は待っているうちに眠気が襲い、皆眠ってしまいました。花婿の友人達の呼び声で目を覚ました時には、おとめ達のランプの油は切れかかっていたのです。夜道はランプなしでは危険で歩けません。5人のおとめ達は予備の油を用意していたので素早く準備を整えて、花嫁と共に迎えに来た花婿の後に従って祝宴場所へと向かいました。しかし他の5人のおとめは、油の用意がなく油を買いに行かねばなりませんでした。その間に、祝宴場所の扉は閉められ、後から「開けてください」と頼んでも、扉の向こうからは、「わたしは、おまえ達を知らない」という声が返ってきただけでした。 /n譬えの意味  この譬え話は天の国の譬えです(1節)。花婿とはイエス・キリストのことです。10人のおとめ達は、私達のことです。信じる者はすべて天の国に入れると考えている者達に、イエス様は入ることが出来る「賢い、思慮深い者」と、入ることの出来ない「愚かな、思慮の浅い者」に分かれることを警告している、大変重い譬え話です。 /n油は分けてもらえない  愚かな、思慮が浅いおとめ達は、ランプには燃やす油が不可欠であることを忘れている人達のことです。自分達のランプの油が消えかかって、はじめてことの重大さに気付き、あわてて予備の油を用意していた思慮深いおとめ達に助けを求めました。が、断られています。油を入れる壺には持ち主の分しか入っていないからです。その油とは、御言葉を聞いて悟ることです。御言葉には力があります。私達が、聞いた御言葉を受け入れて、信じる時、私達の内に働いて力となって私達の生活の原動力となり、又、私達自身を変えていく力となります。しかし「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る</span>。」(13:19)とイエス様は警告しています。 /n「だから目を覚ましていなさい」 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから目を覚ましていなさい</span>」(13節)と言われます。 ここでは、ともし火を灯し続ける用意の出来ている状態を「目覚めている」と言われます。私達は神様を信じイエス様を信じて、聖書に書いてある通り、イエス様が再び来られることを信じて待ち望んでいます。そうであるならば、イエス様がいつ来られても、いつでも迎えられる用意が出来ている「賢い、思慮深いおとめ」として毎日を生きているのか、そのことを真剣に考える時を、今日、与えられています。 /n「今や、恵みの時、今こそ救いの日」 感謝すべきことは、扉はまだ閉められていないということです。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">今や、恵みの時</span>」とは第二コリント書の言葉です(6:2)。イエス様は、世の思い煩いや富への誘惑、困難や試練などが、私達に予備の油を忘れさせる要因として、種まきの譬え(13章)で教えておられます。今なら予備の油を用意出来る恵みの時!です。私達は毎週の礼拝にしっかりつながり、御言葉を聞いて悟る、賢い者として歩んでいきたいと願うものです。

「異邦人の問い」 伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書53:7-10 /nマルコ福音書15:1-5           /nはじめに ユダヤの最高決議機関である最高法院が、イエス様の死刑を決議したのは真夜中であり、しかも大祭司の私邸で行われたもので、「公的」とは言い難いものでした。そこで議員達は、夜明けとともに最高法院を公的に開いて、捕まえたイエス様を確実に死刑にすべく、ローマ帝国から派遣されていたユダヤ総督のピラトに、その身柄を引き渡したのです。 /nピラト  私達は礼拝で毎週、「使徒信条」の中で「…主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」と告白します。ピラトはローマから派遣された第5代ユダヤ総督として、その在任はAD26年から36年迄との記録が残っています。当時の信徒達にとり、ピラトはイエス様の処刑を許した異邦人として、はっきりと記憶されていたのでしょう。私達信仰者は、ピラトのもとで実際に大変な苦しみを受けたイエス様の、裁判の屈辱と十字架の苦痛を実感として受け取ることができます。 /n「お前がユダヤ人の王なのか」 ピラトのイエス様に対する質問は、「お前がユダヤ人の王なのか」です。異邦人であるピラトにとっては、おそらく最大の関心事である「権力を握る」こと、つまり「王となる」意思がイエス様にあるかどうかが気になります。今、イエス様が、ローマ帝国の支配を打ち倒して、新しくユダヤの王権を立てるつもりなのかを聞いているのでしょう。もしそうであれば、ローマ側から見て、死刑に値する罪として裁くことができます。 /n「神の国」の王 イエス様は、神様が選んだイスラエル民族の「救い主」として、この世に来られました。イエス様は神の御子であり、神の国の「王」であられますが、異邦人が言う「王」とは全く違います。異邦人が理解するには難しいすれ違いです。(参照:ヨハネ18:36「わたしの国はこの世には属していない。」) /n「それはあなたの言っていることです」  ピラトは、この世の考え方で、イエス様を「ユダヤ人の王なのか」と聞きましたが、律法や神の御心を考えないで生きる異邦人と、神を信じるイスラエルの民の土台が違います。「それはあなたの言っていることです」。これがイエス様の返答です。異邦人ピラトの発した質問に、神の御子イエス様は、相手に合わせる形での返答をされませんでした。 /nイエス様の従順 イエス様を正しく理解できなかったのは異邦人だけではありません。イスラエル民族が待望する「メシア=救い主」は、外国人支配から自分達を解放する政治的な強い「王」を期待しましたから、イエス様を「メシア」として受け入れることは出来ませんでした。イエス様も御自分の「救い主」としての使命が「苦難の僕」(イザヤ書53章)であり、彼らの意識と全く違うことも御存じでした。彼らはイエス様のお話や奇跡を見聞きしながらも、自己保全のためイエス様を殺したいとの感情のとりこになっていました。その彼らの不利な訴えに対してイエス様は弁明せず沈黙を守り続けました。それは、イエス様が苦しみ死ぬことにより、すべての人の罪の贖いをさせるという父なる神様の御心が既に示されており、イエス様は「それに従うのみ」との決断をされていたからです。一方、ピラトにとって弁明の機会が与えられているのに弁明しないのは常識を越えることでした。ピラトは沈黙されるイエス様に、「何も答えないのか」と不思議に思った、と聖書は伝えています。 /nイエス様の歩まれた道 イエス様の十字架への道は、確かに神様の示された「苦難の僕としての救い主」でしたが、それはいかに苛酷であり孤独であり耐えがたく、無念であったことでしょう。私達信仰者も、信仰ゆえに理解されず、考え方の違いで責められることがあります。黙って耐えることしかできないと思える時があります。その困難な時こそ、孤独の中を黙って耐えられたイエス様が自分を支え、苦難を共に歩んで下さり心に入って下さいます。心の中に主の姿をますます刻みつけ、今週も聖霊の助けを祈ってまいりましょう。

「神のものは神に」 牧師 佐藤義子

/n詩編52:3-11 /nマタイ22:15-22           /nはじめに 今日は10月の第一日曜日で「世界宣教の日」です。私は毎年この日が来ると、日本におられる外国人宣教師の方々や、海外に派遣されている宣教師の方々を思い起こします。又、先月には思いがけなく私達の伝道所にもウェイド宣教師が来て下さいました。アメリカ人でありながらアフリカという全く環境の違う場所で、家族と共に生活し宣教された方です。現在はインディアン伝道をされています。自分がアメリカ人であることから全く信頼関係を持てなかった状況の中で、祈りながらの日々、ある日神様から示されて、リーダー格のインディアンの方に対して、「過去のアメリカ人がインディアンの方々に犯した罪」に対して心から赦しを乞うた、その時、何かが変わり、そこから新しい関係が始まったことを伺いました。信頼のない所に信頼関係が生まれるために労苦し、御言葉と祈りによって神様からの力をいただきながら、パウロのように日夜、伝道されているすべての宣教師の方々が、この一年も神様の守りの中で良いお働きが出来るように祈ります。 /n仕組まれた質問  今日の聖書には、ファリサイ派の人々がイエス様をわなにかける相談をして、ヘロデ派と手を組んで、一つの質問をしたことが記されています。質問とは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか?」です。 どちらの答えをしても困るように仕組まれています。当時ユダヤはローマに支配されており、ユダヤ人は国内の為に神殿税を払っていましたが、その他にローマ政府に納めなければならない人頭税がありました。ところが、申命記17章にはユダヤ人以外の王を立ててはいけないと定められています。もしローマという外国の皇帝に税金を納めるなら、そこの王権を認めることになり、それは偶像崇拝者の仲間になることだと考えて、ローマへの納税は、自分達の良心が許さないと拒否する人々が多くいたようです。彼らはそのため、家や畑を没収されたりしました。一方、税金を納めている人達も、本当は納税すべきでなく、自分達は悪いことをしているという思いがあったようです。もしイエス様が、納税は「律法に適う」と言えば、納税を神の教えに背くものとして良心の痛みを感じている人々の気持はイエス様から離れます。逆に、税金を納めるべきでないと答えるなら、納税は国民の義務と考えるヘロデ派を前にして、ローマへの反逆者の烙印(らくいん)が押されます。 /n「皇帝のものは皇帝に」  これがイエス様の答えです。ローマ皇帝の要求が、税金というお金にかかわることだけならば、納税で自分の良心を苦しめる必要はなく、そこに納め、返せばよいのです。納税は、信仰の本質にかかわるものではないのです。 /n「神のものは神に返しなさい」    イエス様は、このあと続いて「神のものは神に返しなさい」と求められました。神のものとは神様から与えられたものです。それは、旧約時代に預言者を通して与えられた「神様の言葉・律法」です。神様から与えられた御言葉と律法は、私たちを神と人への奉仕へと導きます。神様が与えて下さる光は輝かなくてはならず、神様のぶどう畑は、神様の為に実を結ばなくてはなりません。神様が下さる恵みに感謝をささげ、神様が統治されるところでは服従をささげ、御言葉には信仰をもって応答していくことが期待されています。 /n神様がわたしたちに与えておられるもの  さらに私達は神様から多くのものを与えられています。命を始めとして、命を宿す肉体、肉体を管理する能力、体力、知力、特技、長所、さらには家族、友人、知人との出会い、仕事などの収入の道など、どれ一つとっても、それらはすべて神様が下さったもの、或いは、与えられたものが土台となって、さらに与えられたものといえるでしょう。「神のものは神に」とは、神様から与えられたものを、ふさわしい内容で神様にお返しする、神様の御用のために用いることです。今週も、神様の御意志に従がうことが出来るように、イエス様と共に歩んでいきたいと祈り、願うものです。