2月28日の説教要旨 「『ともし火』のたとえ」 牧師  平賀真理子

詩編119105112 ルカ福音書81618

 はじめに

 今日の新約聖書の直前の箇所では「種を蒔く人のたとえ」とその説明が書かれています。イエス様ご自身によって、明確に説明されています(11~15節)。「種」、つまり「蒔かれた種」は「神の言葉」です。また、種が落ちた土地の状態は、神の言葉を聞いた人の心の状態をたとえたものです。「ともし火」のたとえも、その延長線上で語られ、理解できるものです。

 「ともし火」は「神の言葉」

16節は、たとえの表現ですが、説明が無ければ、人間の一般的な行動が単に書かれているだけです。しかし、ここでの「ともし火」は、「種」と同じで、「神の言葉」であると理解することができます。ともし火は、闇を照らすために灯します。だから、ともし火を隠したりする人は、まず、いません。ともし火から生まれる光が闇を照らし、人は見えるようになります。だから、光が見えるように、その源のともし火は、上に、表に、隠されないで掲げられます。

 神様からくる光

私達のような、聖書が書かれた後の時代の信仰者は、この「光」は、神様からくる光として、真理の性質を帯びていることを知らされています。イエス様は御自分のことを「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と証しなさいました。また、イエス様は「光を与える御方」でもあります(ヨハネ9章)。その「光」のことを、もっと根源的に考えれば、ヨハネによる福音書の冒頭に書かれていることが思い浮かぶでしょう。イエス様は、父なる神様と世の初めから共にあって、言(ことば)であり、命であり、人間を照らす光であるという内容です。そのような御方が、御自分の本質でもある「神の言(ことば)」を教えてくださるという恵みが、約2000年前に本当に起こったのです。そして、「神の言(ことば)」を聞いて従う者には、本当の命を与えてくださり、更に「神の言(ことば)」をこの世に広めるという重要な役目を任せてくださるのです。

 まことの光であるイエス様

先に挙げたヨハネによる福音書1章によれば、「まことの光は、この世に来て、すべての人を照らす」とあります。「まことの光」とたとえられているのがイエス様のことです。同じ個所で「神の言(ことば)」とも言われているイエス様は、「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とも証されています。神の子となる資格を人間達に与えるための御業が「十字架と復活」です。十字架と復活によって、イエス様は、「既に(この)世に勝っている(ヨハネ16:33)」のであり、真理の光を輝かし続けることのできる御方です。

 イエス様を受け入れた人、その名を信じる人々

「まことの光」であるイエス様、そして「神の言」とたとえられるイエス様を受け入れた人、その名を信じる人々とは、御言葉を掲げて、その真理の光の中を歩む者達です。このような者達は、この世の長であるサタンが好む不正や、今が良ければいいといった「事なかれ主義」に妥協できません。生きる指針が、「神の言葉」であり、主の生き方にあるのですから、この世の多くの人が従っている方法に無感覚に従って生きることは決してできません。しかし、この世への未練を断ち切れない人にとっては、知らない方が良かったという厳しい道ともなります。この世の人が難なく行う行動一つ一つが、「神の国の民」にとっては、試みの時となるでしょう。

 「神の国」の原則

しかし、17節の御言葉が、弱っている私達の信仰を奮い立たせます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」のです。この世に妥協する方法は、根本的解決にならず、本当の解決がより困難になることばかりです。一方、神様の真理の原則に従えば、初めは葛藤や苦しみがあっても、結果的に罪を重ねずにすみ、神様からくる光の中を堂々と歩めます。私達を「神の国」に招いてくださるイエス様は、神様がくださる本当の救いを与えてくださることができる御方です。「神の国の民」は、神の言葉を理解し、心に刻み、それに自分を従わせる人、そして、それを表に輝かす人です。最後の18節の「持っている人、持っていない人」は、「神の国の原則」をたとえていると言えるでしょう。前者は、神の言葉を守り、福音を広める恵みを与えられている人であり、神様の御心に適う人として、神様の祝福を益々受けるようになります。後者は、本当の救い・神様の恵みから益々遠ざかることを示しています。私達は前者を目指し、御言葉に従っていきましょう。

2月21日の説教要旨 「光を与える方」 牧師 佐藤 義子

詩編 18:26-35・ヨハネ福音書 9:1-12

はじめに

私は学生時代、聖書を読む時の姿勢として、当時の学長から、「私にとって」、「今」、「ここで」という三つの視点を教えられました。それは、聖書を読む時、ここに書いてあることは、この「わたし」にとって、過去でも未来でもなく「今現在」、自分の置かれている「この状況の中で」、何を語っているかを聞きなさいということでした。その後、牧師になってから、有志の集まる牧師会の勉強会で学んだことは、「あなたは今、聖書の出来事の中で、どこに自分を置いて読んでいますか?」という視点です。

(*多くの場合、第三者的な読み方で、そこに自分はいないのでは?)

主役は、いつもイエス様

新約聖書では、それがどのような場面であれ、主役は常に「イエス様」です。私達はイエス様のお言葉に、しっかり耳を傾けます。そのほか、さまざまな人物が登場します。今日の福音書では、イエス様と、同行していた弟子達と、生まれつき目が見えず物乞いをしていた盲人と、この盲人を以前から見ていた人々です。

私はこの出来事を読む時、以前は弟子(イエス様への質問者)の側に身を置いて読んでいました。しかし牧師会で学んだ後では、弟子ではなく盲人として自分をそこに置かなければイエス様には出会えないのではないかと思いました。

 弟子達の質問

イエス様と弟子達の一行が通りすがりに物乞いをしていた盲人を見た時、弟子の一人が「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と尋ねました。当時のイスラエルの人達は、神様がなさることはすべて神様の正しい秩序のもとでなされるので、悪を行えば苦痛が、罪を犯せば、その結果として苦悩が生れると考えていたからです。特に十戒の中に「神様に対して拒む者には、その罪を子孫の三代、四代にまでも問う」との文言があるため、生まれながら負っている障害は、生まれた子供の両親か、その先祖の罪の結果だと考える人達が多かったようです。弟子達もそのように考えていたのでしょう。

  因果応報に対するイエス様のお考え

この盲人は、生まれながら目が見えないという困難を背負っていただけでなく「物乞い」という人の憐れみに頼らなければ生きることが出来ず、又、18節で両親が登場していますから、親の保護も受けられない状況にいたことになります。さらに追い打ちをかけているのは、弟子の問いに見られるような「その不幸をもたらした原因」は、「本人か親か先祖の罪」とする社会からの冷たい目でした。

弟子達の犯人捜しのような質問に対して、イエス様は「本人でも両親の罪のためでもない。」と言い切られました。盲人にとってイエス様のこのひとことは、それまで抱えて来た重苦しい重圧、周囲の人々からの裁くような空気、あるいはどこかで自分を責めるような思いなど、これまで背負ってきたすべてから解放される言葉でした。

「神の業が、この人に現れるためである。」

さらにイエス様は、盲目の理由は「神の業が、この人に現れるため」と言われました。<自分自身を盲人に置き換えるならば>自分の境遇を嘆き、将来に希望が持てず、あきらめの気持が自分を支配している時、イエス様は、私が今ここにいるのは、「神様のみ業が、現れるため」と言われます。わたしという存在を通して神様の偉大さがおおやけにされる。それまで無価値だと考えていた自分の運命が、神様に役立つために用いられる。そうなるために、私は今、ここにいる!と、言われます。

さらにイエス様は「わたしは世にいる間、世の光である」と言われて、安息日であるにもかかわらず、禁止されていた作業(つばきを使って土を作り、盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗うように」とお命じになりました。その結果、盲人の目は見えるようになりました。

私達は光として来られたこのイエス様を「私の救い主」として信じることにより闇から救い出され、光の道を歩み続けていくことが出来ます。

2月14日の説教要旨 「『種を蒔く人』のたとえ」 牧師  平賀真理子

イザヤ書6:9-10 ルカ福音書8:4-15

 はじめに

 イエス様は、よく、例え話を用いて、人々に話をなさいました。特に、この「種を蒔く人」のたとえは、例え話自体と、イエス様ご自身からの説明が、聖書に共に書かれています。それで、後の時代の私達は、例え話の本当の意味をすぐに知ることができます。でも、イエス様の御許に来た群衆は、4節から8節の例え話と「聞く耳のある者は聞きなさい」という御言葉だけを聞いたことをあえて認識しておきたいところです。

 種の4種類の成長結果

イエス様は話を聞きに来た一般民衆のほとんどが従事していた農業の中から、興味を持ってもらえるよう、「種まき」の話をされたのでしょう。4~8節では「種」と「種を蒔く人」と「種が落ちた土地の状況」が語られる主な内容です。「種を蒔く人」の「種を蒔く」という同じ行為により、4種類の成長結果となったことが話されています。1つ目は、種が鳥に食べられて種自体がなくなり、芽さえ出なかったこと、2つ目は、芽は出たが、根が張れずに枯れてしまったこと、3つ目は、芽が出て茨と共に伸びたが、茨に覆われて成長できなかったこと、4つ目は、良い土地に育ったために百倍の実をつけるほど成長したことでした。これだけ聞くと、農業の技術的な話?とか、種まきをする注意点?という疑問がわいてきそうですが、次の11~15節にあるように、この例え話が神の国の福音宣教の結果を預言されたものであることが明らかにされていきます。

 土地の状況に起因する成長結果の違い(実を結べない3種類)

種の成長結果は、種の落ちた土地の状況によることがわかります。土地の状況とは、本当の意味では、神の言葉が降って来た人(心の状態)のことです。

1つ目の道端(畝と畝の間で人の通り道)に落ちて、人に踏みつけられ、鳥に食べられたとあるのは、「神の言葉を聞いても、ないがしろにし、挙句の果てには、悪魔に取られてしまう人」を例えています。

2つ目の石地のものとは、「神の言葉を育てるために耕すことを怠っている」心の状態にある人のことです。種の成長のために土という環境を整えることが大事なことです。それを怠ると、まだ成長過程の植物は、根も弱くて硬い石に打ち勝つことができないことを「試練に遭うと身を引いてしまう人たち」と表現しています。

3つ目の茨の中に落ちたものとは、心配事や富や生活の楽しみの方を、神の言葉を信じて生きることよりも優先して生きている人達のことです。ある程度、信仰を続けることはできるかもしれませんが、信仰者として本来結ぶべき、信仰の実をつけることができない人々です。信仰の実とは、別の言い方をすれば、「聖霊の結ぶ実」とも言えます。それは「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ書5:22-23)です。

 良い土地に落ちた種の成長

4番目の良い土地に落ちたものとは、「立派な善い心で」と言われる人たちです。では、立派な善い心とはどういう心か、それは、すぐ次に書かれています。「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」です。まず、御言葉を聞き、それを心に留める、そしてそれに従って行動するということです。その時に必要とされるのが「忍耐」と書かれています。この「忍耐」の元々の言葉は、「重い荷を背負ってじっと留まる」という意味から生まれたものです。しかし、その忍耐の果てには、信仰者として実を結ぶ恵みが与えられています。実を結ぶとは、2つの意味があると思います。一つは、種が百倍にもなることであり、もう一つは、その種の成長にふさわしい状態の土があるということが外からもわかるということです。イエス様が御自分の使命として大事になさった神の国の福音がその人の心に育って実った結果、種と表現される信仰者がたくさん生まれることが示され、福音を告げる使命を担う者や、イエス様の証人として生きる者が豊かに生まれることが示されています。

 「神の国の秘密を悟ることができる」恵み

10節では、イエス様が、たとえを用いて話す理由を、イザヤ書6章9-10節を引いて語られました。「神の国の秘密」を理解することを許されていた弟子達と許されない群衆がいました。ここに「神の選び」が起こっています。神の国の民として招かれる人を選ぶのは、神様の主権の一つです。私達信仰者は神の国の秘密を悟ることができる弟子達に繋がっています。主の選びに心から感謝し、主の御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人になれるよう、聖霊の助けを祈り求めたいものです。

2月7日の説教要旨 「奉仕する人々」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書17:9-14 ルカ福音書8:1-3

 はじめに

 今日の新約聖書の1節には「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」とあります。似た内容が4章43節にあります。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」とのイエス様の御言葉です。救い主による「本当の救い」が必要な人がたくさんいて、その救いを父なる神様から託されている!という熱い思いによって、神の御子イエス様の宣教の旅は続けられたのでしょう。

 「神の国の福音」宣教の旅をとおして

宣教という使命は大事な使命の一つです。しかし、イエス様は「救い主」である御自分にしかできない使命を成し遂げなければならない時が迫っていることを切実に感じておられたのではないでしょうか。それは「人間の罪の贖いのために、十字架にかかる」という使命です。預言と同じ御業を行っておられたイエス様を「救い主」として受け入れるべきユダヤ教指導者達(ファリサイ派や律法学者達)が、御自分を排除しようとしていることを知って、イエス様はますます嘆かれたことでしょう。この権力者達は、自分の都合で、神様を持ち出したり、無視したりしています。これが人間の罪深い姿の一つです。私達にも当てはまる姿です。そんな人間達の大きな罪のために十字架にかからねばならないという使命が迫っている……。だから、神の国の福音を宣教するという役割を、招き、愛し、育んでこられた大事な弟子達に譲って行かねばならないと覚悟されていたのではないでしょうか。だから、12使徒として御自分で選ばれた重要な弟子達が宣教の旅を一緒にすることをお許しになったのでしょう。御自分と行動を共にすることで、「神の国の福音」を宣教することを御自分からすべて学んでほしいという主の切実な思いを感じます。

 「神の国の福音」

さて、その「神の国の福音」をもう一度、よく考えてみたいと思います。

「神の国」は「神様が王として支配している世界」と説明されています。「神様の愛」が行き届いた世界と言えます。「神様の愛」の特徴は、無償の愛、自己犠牲の愛、弱い者を愛する愛です。そして、その神様は何よりも私達人間一人一人を愛しておられます。神様から離れたがる、罪深い私たちが、「神の国」に入るためには救い主による罪の贖いが必要なのです。その罪の贖いのために救い主がこの世に来てくださり、私達人間と同じ姿になり、御自分の命を犠牲にする贖いとして「十字架にかかる使命」を引き受けてくださる、それこそが、人間にとっての「福音」=「喜ばしい知らせ」なのです。ですから、「神の国」は、イエス様がこの世に遣わされた時から始まっているのです!

 救われた感謝としての奉仕に生きる婦人達

12使徒達を「神の国の福音」の伝道者として教育するための重要な宣教の旅に、同行を許された婦人達がいたこと、しかも、名前が具体的に記されていることは驚きです。他の古代社会と同じように、当時のユダヤは男性中心の家父長制社会でした。しかし、イエス様とその周りでは、人間社会の性別の壁を悠に超えていることが示されています。3人とも、恐らく、イエス様によって、「悪霊を追い出して病気を癒していただいた」のだと思われます。特に、「マグダラの女と呼ばれたマリア」と「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」は、ルカ福音書24章の「十字架の後の復活」の場面で、イエス様の御言葉を思い出して、御言葉どおりのことが起こったと使徒達に伝えるという重要な働きに用いられたことが、名前を挙げて記録されています。

彼女達は、人間の力で治せない病気になって絶望していた故に、「神様の救い」を切実に求めるようになり、イエス様との出会いとその救いという恵みをいただくことができたのでしょう。人間的に考えれば、絶望する体験は本当に避けたいですが、神様を無視して生きたがる人間には、そのことをとおして、やっと真剣に神様を求めるように変わることが多いものです。この婦人達は、病気という絶望に真剣に向き合った、そこで、神様の救いを求めた、そして本当の救いに導かれたのです。だから、イエス様の救いが本物であることを切実に感じたのだと思います。絶望の淵にいたからこそ、イエス様からの救いの素晴らしさを本当に知ることができる、その体験をした人が、自分を救ってくださった神様への感謝の応えとして、自ら奉仕する人に変えられていきます。私達も、もう一度、主に出会って救われた時の喜びを思い出し、主の御旨のために奉仕したいものです。

1月31日の説教要旨 「あなたの道」 吉田 新 先生(東北学院大学)

テサロニケの信徒への手紙一3:11-13

 はじめに

 本日は「キリストとは私たちにとって誰か」「私たちに何をなさる方なのか」について、聖書から共に学びたいと思います。

 ドイツの街並みと石畳

私が長く住んでいたドイツは街並みをとても大切にします。昔からの街並みを保存することに力を注ぎます。このことで一つ驚いたのは、住んでいた町の道です。私が住んでいたのは歴史的な建物が立ち並ぶ地域でしたが、この地域の道はすべて石畳です。アスファルトの道もありましたが、原則は石畳。石畳はあまり頑丈ではありません。自動車やトラックなどの重い車両が通り続ければ、壊れてがたがたしてしまいます。ですから、石畳は新しく敷き直す必要があります。こぶしぐらいの石を一つ一つ組み合わせて、ずれがないように道に並べていきます。気の遠くなるような作業です。

 古代の道

アスファルトを流すだけの現代の道と違い、かつて、このようにして道をつくりました。聖書の世界も同じです。イエス様やパウロが生きた時代、ローマ帝国が地中海を支配していた時代、ローマ帝国は支配した各地に交通網を整備しました。ローマ帝国が敷いた道は、主に人々が行き来する交易路としての役割がありましたが、さらに重要なのは軍隊を迅速に移動させるための道です。

キリスト教の教えが地中海全般に広まることができたのは、この道のお陰だと言えます。キリスト教の伝道者の多くは、ローマ帝国内に整備された街道を歩いて、様々な地域を行き来しました。その中でも特に有名なのはパウロです。パウロの生涯の移動距離は1万6000キロメートルと言われています。東京からニューヨークまで約1万899キロメートルですから、パウロはそれ以上の距離を旅したことになります。パウロは陸路だけではなく、海路、つまり船を使って移動しています。しかし、船では行けない場所は徒歩です。パウロにとって伝道とは、道を歩くことに他なりません。パウロは伝道のために訪れた街に教会を建て、その教会の人々に向けて手紙を出します。本日、お読みした「テサロニケの信徒への手紙 一」も その一つです。

 道をまっすぐにする

この手紙の第3章では、パウロはテサロニケにもう一度、訪れたいという望みを託しています。しかし、それがかなわず、彼の協力者であるテモテを彼らのもとに遣わします。テモテが再び、パウロのもとに戻ったことを告げ、その最後に先ほどお読みした言葉を記します。11節「どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように」とあります。原文から私なりに訳し直します。「わたしたちの父なる神御自身、また、わたしたちの主イエスが、わたしたちの道をあなたがたのところへとまっすぐにしてくださいますように。」原文では「道を開く」では、「道をまっすぐにする」という意味です。新しく道を切り開くという意味ではなく、目的地へ辿りつけるように道を整えてくださるということです。

この一文、何気なく読み飛ばしてしまう箇所かもしれませんけれど、イエス・キリストがパウロにとってどのような存在であったのか、そして私たちにイエス・キリストは何をしてくださるのかを知るための大切な手掛かりを秘めていると思います。

道をまっすぐにするというのは、実は大変な作業です。石畳を敷き詰める前に、まず、地面を平らに整える必要があります。そして、でこぼこにならないように慎重に敷き詰めなくてはなりません。平地ではなく、山岳地帯や緩急が激しい場所の道をまっすぐにするとなるとなおさらでしょう。

 あなたの道

しかし、このような作業は私たちではなく、キリストが行ってくださるのです。私たちのために道をまっすぐにしてくださるのは、イエス・キリストです。何年もかけて、多くの道を歩いたパウロは、そのことを確信していたに違いありません。

わたしたちは自分の力で自分の道を歩かなければいけません。一生をかけて、自分の道を歩くのです。誰もその代わりができません。時に重い荷物を背負わなければならない時もある。疲れてその場に倒れ込むこともある。心がくじけることもある。もう、私は歩けないと嘆きたくなる時もある。でも、私たちの足で一歩一歩、歩いていかなくてはなりません。やさしい道だけではありません。困難な道もきっとあるでしょう。

しかし、一つのことだけ覚えていてほしい。

イエス・キリストが、あなたが歩いているその道を、あなたが歩きやすいように、まっすぐに整えてくださいます。だから、あなたは何も心配しなくていい。あなたは何も恐れることはありません。もう、泣かなくていいです。くじけないで、勇気をもって、歩き続けましょう。キリストは、あなたの道をまっすぐにしてくださいます。

1月24日の説教要旨 「罪の赦しと愛」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1:18-20 ルカ福音書7:36-50

 はじめに

 今日の旧約聖書の箇所で、「私達の罪が緋のよう(真っ赤)であっても、雪のように白くなることができる。主に進んで従うなら実りを受ける」と証しされています。罪の赦しがおできになるのが、唯お一人、私達の主イエス・キリストです。今日の新約聖書の箇所では、そのイエス様に実際に出会った人々が取った態度から、どのように主を迎えたのか・または受け入れなかったかが、明確にされています。3つの態度に分かれているので、そこから考えてみたいと存じます。

 ファリサイ派シモンの態度

 1つ目は、イエス様を食事に招いたファリサイ派の人の態度です。40節から、この人はシモンという名前だとわかります。ファリサイ派シモンはイエス様に「一緒に食事をしてほしいと願った」(36節)とあります。当時のユダヤ教の社会では、聖書の話を語る巡回教師を自宅に招くのは、大変功績のあることと思われていたようです。また、大事なお客様が来られた時は、興味ある人は誰でも一緒に家に入る風習があったそうです。「重要なお客様と多くの人々をもてなすことのできる立派な人」との評価、シモンは、その評価を期待していたのかもしれません。ところが、シモンは自分の願いでイエス様を招いたのに、イエス様から思いやりの不足を指摘されました。旅人の足を洗うための水の用意、親愛の情を表す接吻、頭への香油塗り(尊敬を表す)、この3つです。シモンの心の中に、イエス様に対する尊敬・感謝・愛が足りなかったから、この3つの行為ができなかったのでしょう。ファリサイ派のシモンがイエス様との出会いを望んだのは、純粋な敬愛の情からではなく、単なるイエス様への関心と人々からの自分への評価のためだったと思われます。食事に招くという外面は尊敬を示しているようですが、内面では、自己中心の罪のためだったと、聖書の記述から推測できます。

 罪深い女の態度

2つ目は、「罪深い女」(37節)と書かれた女性の態度です。この女性は、具体的に言えば「娼婦」だというのが、多くの学者の共通の見方です。この女性は、ユダヤ教から見たら、姦淫の罪を犯している「罪人」です。特に、ファリサイ派の人々はこのような「罪人」を疎外しました。一緒にいると穢れが移ると考えたのです。しかし、イエス様は、これ以前に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)と宣言なさいました。当時の価値観とは真逆のこの御言葉は、驚きを持って広まったことでしょう。「罪深い女」と呼ばれた女性は、この御言葉により、「自分も神の国に入れる」という大きな慰めと励ましを受けたはずです。だから、勇気を振り絞って、自分を見下すファリサイ派の人の家に行って、敬愛と感謝を表したいと切に願って、香油の壺を持参したのでしょう。この女性は、ファリサイ派シモンには不足していた3つの行為を補うことになりました。足を洗うこと、接吻すること、香油を塗ることです。足を洗う水と拭き取る布の代わりに、この女性は救い主イエス様に出会って感極まって流した涙と髪の毛を使いました。接吻と香油塗りの2つは、各々顔と頭にするものですが、主の足元で行いました。この女性は主の御前で謙虚な思いから自分を低くしたのでしょう。敬愛するイエス様からの救いの恵みへの感謝により、このような態度が生まれたと思われます。

 イエス様のなさった例え話(41-42節)

イエス様はシモンに、ある金貸しから借金をしている二人が借金を帳消しにしてもらった例え話をなさいました。それは、借金の額の多い方の人が、少ない人よりも金貸しを愛することを教える例えです。借金とは「罪」のことです。正しい人と思われているファリサイ派のシモンでさえ、神様の御前においては、確かに罪ある人間であり、「罪深い女」と変わらないのです。「罪を赦された」という自覚をより多く持つ人間の方が、罪の自覚を少ししか持たない人間よりも、救いの感謝をより多く持ち、救い主をより多く敬愛すると教えておられます。

 同席の人たちの態度

3つ目は、同席の人たちの態度です。「『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。』と考え始めた(49節)」のです。イエス様や福音を始めて知らされた人たちの態度の予告とも見ることができます。そういう方々がイエス様の「罪の赦しの権威と信じる者との愛の交わり」を肯定的に考え始めるために、信仰者である私達は、主の証し人として歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

1月17日の説教要旨 「恵みによる召命」 牧師 佐藤 義子

サムエル記上 3:1-10・ガラテヤ書 1:11-24

 はじめに

ガラテヤ書の著者パウロが、熱心なユダヤ教徒からキリスト教伝道者へと変えられた大きな出来事については使徒言行録9章に記されています。又、フィリピ書3章にもパウロの自己紹介があります。今日のガラテヤ書では、パウロは以下のように語っています。

しかし、わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた時、わたしは、すぐ、血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムにのぼって、わたしより先に使徒として召された人達のもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

 パウロの召命

「血肉に相談」の「血肉」とは、目に見えない神様に対して使う「人間」のことです。パウロは、自分がキリスト教徒になったのは、人から伝道されたのではなく、「天からの光」と、「なぜ、わたしを迫害するのか」との自分に呼びかける天からの声でした(使徒9章)。自分がこれまで正しいと信じて行なってきたキリスト教徒への迫害という過ちと罪に対して、パウロは、そのことを13節で告白します。そして、その自分のやってきた過ちすべてをご存じのお方が、その罪をすべて引き受けて下さり、赦して下さり、深い憐れみをもって、この私を伝道者として選び出して下さったという、<人間の思いや考えを超えた>神様の大きな恵みに目を向けて、次のように告白します。

わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた

この召命観により、パウロは、キリスト教徒の指導者に挨拶に行くことよりも、エルサレムから離れたアラビアに一時期退くことを選びました。

ガラテヤの教会

この手紙の宛先であるガラテヤ教会は、パウロが伝えた正しい信仰を、後からやってきた別の指導者が、変質させてしまったという状況があり、パウロは、6節で以下のように嘆いています。「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と。

どういうことかと申しますと、ユダヤ教では、人が救われるのは、律法を完全に守ることによってであると教えていました。それに対してパウロが教えたのは、人が救われるのは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰による、というものでした。ところが、ユダヤ教からの改宗者の中には、自分達が幼い時から守って来た律法を、異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の外国人にも守らせようとする人達が大勢いて、パウロ自身を正当な使徒として認めようとしない人達が、パウロの、使徒としての「資格」に疑念を持たせるように人々を仕向けたのです。

 恵みによって召し出して下さる神

パウロは自分の召命を、「恵みによって召し出して下さった神の御心による」と、確信をもって告白しています。「恵み」とは、神様から一方的に差し出されるものです。この言葉を借りるならば、ここにおられるすべての方は、恵みによって今日、この礼拝に招かれている者たちです。それゆえ誰一人、ここに自分がいることを誇ることは出来ません。又、クリスチャンになったことも大きな大きな恵みです。誰一人、私はクリスチャンにはならない、とか、なれない、と言うこともできません。パウロは自分の思いをはるかに越えて、神様の御計画の中で選び出され、伝道者として立てられ、その後の苦しく厳しい伝道活動を、神様は最後まで共にいて、全うさせて下さいました。イエス様に出会うまでに身につけたギリシャ的な教養や、ローマの市民権、熱心なユダヤ教徒でファリサイ派に属していたことなど、すべて一切がその後の異邦人伝道で豊かに生かされていきました。私達も又、恵みによって召して下さる神様に捕えられた時、これ迄のすべての歩みが豊かに用いられるのです。

 

1月10日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス②」 牧師 平賀真理子

イザヤ4219 ルカ福音書72435

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」はイエス様に洗礼を授けるという大役を担った人ですが、このヨハネが弟子達をイエス様の許に派遣し、「あなたは本当に救い主ですか。それともまだ後から来る、別な方が救い主なのですか。」と質問しました。イエス様は、「はい」「いいえ」という単純な答え方をしませんでした。救い主の御業として、ユダヤ人なら誰もが知っている預言者の言葉を語り、そのとおりのことが御自分の御許で起こっているのだから、そのことを通して、御自分が救い主(「メシア」)であることを悟らせようとされました。答えの最後には、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られました。他の福音書と照合してみると、洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授けた際に、イエス様に聖霊が降ったのを見て、イエス様が「神の御子」、つまり、「救い主」であると確信したと思われます。しかし、その後、イエス様と一緒に活動していたとか、緊密に連携していたという記録は見当たりません。洗礼者ヨハネは、イエス様への信仰を確かにいただいたのですが、「信じ続ける」といういう点で、僅かに揺らいだのではないでしょうか。自分が宣教してきた「義と裁きの救い主」のイメージに固執し、イエス様が行っていた「愛と憐れみの救い主」の現実の御姿と違っていて、それを受け入れられなかったのではないかと思います。

 洗礼者ヨハネに対するイエス様の御言葉

洗礼者ヨハネが派遣した弟子が帰った後、イエス様は御許にいた群衆に向かい、洗礼者ヨハネのことを語り始められました。極めて高い評価です。今までの預言者よりも優れているとおっしゃいました。ヨハネは神様の義と裁きを強調しましたが、神様から離れた生活を送っていたイスラエルの人々の心を180度方向転換させ、神様の御心を第一にする生き方をするように宣べ伝え、悔い改めの洗礼を施し、更に、イエス様に洗礼を授ける役目も行ったのですから、神様から与えられた役割を充分に果たしたのです。28節の前半にある「女から生まれた者のうちヨハネより偉大な者はいない」とは、それまで生まれた人間の中で一番偉大だと言われている訳ですから、最高の褒め言葉と言えるでしょう。けれども、28節の後半は、この評価と全く逆の意味の言葉に変わります。「神の国で最も小さい者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」と言われました。神様の御計画である「人間の救い」は、イエス様を救い主と信じて救われます。イエス様への信仰があって初めて「神の国の民」となれるのです。イエス様を信じることで、主の十字架と復活の恵みによって、自分の罪が赦され、神様と繋がることができます。それを「神の国に入る」と言います。洗礼者ヨハネは、神様が御計画された「人間の救い」の始まりを告げる者であり、始まりの始まりですが、イエス様からの救いの恵みを、この時点ではまだ受けていません。それよりも、イエス様の救いの恵みを受けている信仰者の方が偉大なのです。イエス様が私達にくださった救いの御業の恵みがとてつもなく大きいということです。

 恵みの時代に生きた人々の心と態度

イエス様は、洗礼者ヨハネについて語られた後、今度は「洗礼者ヨハネと御自分を通しての神様の救い」に対して、その恵みの時代に生きている人々がどういう状態かを例えで表現されました。

自分達の思いが先にあって、相手がそれに合わせて自分の思い通りに動いてくれない、だから座って歌っているだけという子供に似ているとおっしゃっています。裁きを強調する洗礼者ヨハネに対しても、救いの喜びを告げるイエス様に対しても、この2人に接することのできた恵みの時代に生きた人々は、人間的な批判ばかりしていました。自分達が「神様からの救い」に対してどうすべきかを真剣に考えず、積極的な信仰を持たないことを嘆かれました。

 イエス様の素晴らしさを証明するよう求められている私達

しかし、最後の35節でイエス様は信仰者達への希望を語ってくださいました。「知恵の正しさ」というところの「知恵」とは「神の知恵」です。そして、聖書には「キリストは、私達にとって神の知恵となり」とあります(Ⅰコリント1:30)。神の知恵を体現されたイエス様を、救い主として信じる者達がその救いの恵みを感謝して、ふさわしい歩みをすることで、イエス様の素晴らしさを更に証明するという意味です。聖霊によって主を信じる恵みをいただいた私達は、「救い主」イエス様を証しする人生を新たに与えられているのです。

1月3日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス①」 牧師 平賀真理子

イザヤ6114 ルカ福音書71823

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」は私達の主イエス様に洗礼を授けた人として知られています。それだけでなく、救い主がこの世に現れた時に、人々が救い主を受け入れられるように、人々の心を備える役目がありました。それは預言者によって、「道を備える者」(イザヤ40:3)と預言されていました。当時の人々は、もちろん「救い主」を待っていましたが、その前の先駆者が来ることをも待望しており、預言どおりの先駆者が現れたのです!また、洗礼者ヨハネは尊敬される祭司一族の出身であり、世俗から離れて修道生活を送る立派な人だったので、救い主の先駆者ではなく、「救い主」ご自身ではないかと思われる程でした。ところが、マタイによる福音書やヨハネによる福音書では、ヨハネ本人が、「自分は救い主ではないし、救い主はもうすぐ来られる」とはっきり証ししています。

 洗礼者ヨハネの役割

洗礼者ヨハネの役割について、3つの内容が考えられます。一つは、この世の人々の心を「救い主」到来のために備えること(悔い改めに導く)、二つ目は、救い主イエス様に洗礼を授けること、三つ目は、イエス様こそ「救い主」であることを公けに宣言することです。今回は、ルカによる福音書では、この3つがどのように表現されているか見ていきましょう。

 人々を悔い改めに導く洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書1章では、イエス様のご誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生の経緯が詳しく書かれています。「主の天使による誕生の告知」や、「聖霊に満たされて母親の胎内にいる時から救い主を感知したこと」などは、洗礼者ヨハネが神様の御心の下で生まれたことや、救い主を証しする賜物に恵まれていたことを表現していると思えます。また、3章では、このヨハネが、人々を悔い改めに導くために、どのような教えを述べたのかが、他のどの福音書よりも具体的に書かれています。

 イエス様に洗礼を授ける洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書では、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと明確に書かれていません。しかし、その直前に行ったヨハネの悔い改めの洗礼とその教えが詳しく書かれていて、「民衆が洗礼を受けていると、イエス様も洗礼を受けた」とあるので、イエス様が民衆と同様に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが自明のこととして表現されたと見ることができるでしょう。

 「イエス様こそ救い主」と公けに宣言しているか?

ルカによる福音書3章16節から17節で、洗礼者ヨハネは、「自分よりも次元の違う優れた御方(救い主)が来られること、自分は水で洗礼を授けているが、その救い主は聖霊と火で洗礼を授ける御方である」と証ししています。けれども、ルカによる福音書では洗礼者ヨハネが「イエス様が、その『救い主』である」と公けに宣言したとは書いていません。更に、今日の新約聖書箇所によると、「あなたが本当に来るべき御方として人々が待ち望んだ救い主ですか。それとも別な方が救い主なのですか。」と直接聞きに弟子を派遣しています。

イエス様のお答えと私達

洗礼者ヨハネの質問に、イエス様は自分が救い主であると明言せずに、預言どおりの御業から悟るように答えられました。この世で苦しんでいる人々を実際に救っている「救い主の御業」です。けれども、この時、まだイエス様ご自身の弟子さえ、イエス様を救い主と信仰告白していなかったので、ご自分でヨハネにはっきり答えるのは時期尚早だと思われたのでしょう。また、「救い主」についての人々の理解とイエス様ご自身の「救い主」の理解が違っていることをご存知でした。前者はイスラエル民族限定の政治的な王様を考えていましたが、イエス様ご自身は「救い主」はイスラエル民族だけでなく、異邦人を含む全人類の救いを成就するものであり、また、この世だけでなく、永遠の「救い」を成就する定めだとわかっておられたのでしょう。また、イエス様は「わたしにつまずかない者は幸いである」ともおっしゃいました。イエス様を救い主として福音を宣べ伝えた弟子達をはじめとしてそこに繋がる信仰者の私達は聖霊の助けをいただいて、イエス様への信仰を与えられる恵みをいただきました。主の十字架と復活の恵みによって降るようになった聖霊の助けで、私達が「イエス様こそ救い主」と信仰告白できたのです。「聖霊によらなくては、だれも『イエスは主である』と告白できない」(Ⅰコリント12:3)のです。私達は本当に大きな恵みをいただいていることに感謝して、今週一週間も聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。