「インマヌエルの恵み」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 8章9ー13節 9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。 10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。 11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。 12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。 13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。 /n[マルコによる福音書] 3章7ー19節 7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。 /nはじめに  前回は、安息日に手の不自由な人を癒されたイエス様に対してファリサイ派を中心とする反対勢力がイエス様を亡きものにしようとする計画を立て、ここに十字架への道が始まったことをお話しました。  今日の箇所は、イエス様が神の国の福音をできるだけ広める為に、反対派の本拠地である「会堂」を出て御自分の本拠地ガリラヤ湖畔に戻ってこられた時のことです。イエス様が来ると知った人達は、地元のガリラヤ地方からだけでなくユダヤ全土や、国境を越えた地域からイエス様の「そばに」押しかけました。 /nそばに  今日の新約聖書には「そばに」という表現は合計5回でてきます。前半の「そばに」は、目的を表す前置詞が使われ、イエス様の新しい教えや癒しの業に救いを求めて来た人々の切実さが表されています。後半の「そばに」は、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあるように、「共に」「一緒に」と言う意味で、飲む、食べる、祈る、笑う、泣く、住むなど人間の基本的な行動の動詞と一緒に使われる言葉です。この言葉は7節の「弟子たちと共に」でも使われています。イエス様が、神の国を広めるために、使徒や弟子たちと行動を共にし、交流し、愛していこうとされている恵みを読み取ることができます。又、たとえ話で比ゆ的に語られる民衆とは違い、使徒達は神の国の性質や働きについて直接的にイエス様から解き明かしを受け、学びを深めていくことができました。イエス様からそのように愛を受け、育くまれ、学んで、信仰者として一人立ちして外の世界に出され、福音を宣べ伝えられるようになり、同時にイエス様の力を分けていただいて、悪霊を追いだす力をいただくことが出来るようになりました。 /n12使徒の選び   イエス様が山に登り、特別な働きのために12人の使徒を選ばれたことが13節以下にありますが、特にシモン(ペトロ)・ヤコブとヨハネ(雷の子ら)は別の名前が与えられ、12人の中でも核になる存在でした。最後に出てくる「イスカリオテのユダ」には、「このユダがイエスを裏切った」と説明がつけられています。これを見ても、悪魔に支配されたこの世の罪深さを思います。この「罪」が最終的に神の御子イエス様を十字架につけるのです。逆に、そのような罪をあがなってまでも神様は人間を愛したい、一緒に歩もうと呼び掛けて下さっているのです。 /n群衆と使徒  今日の聖書の二つの段落は実に対照的です。前半は自分が救われる為に神の御子の権能を利用しようとした群衆について記され、後半には、イエス様の招きに従い自分の生涯を献げ、役割を与えられた使徒達について記されています。どちらもこの時、イエス様の「そば」にいる恵みを与えられています。違うのは、「従う覚悟」と「神様が期待する役割」です。群衆にとってイエス様は、無料で病気を治してくれる都合のいい医者であり、自分の利益のための神様です。一方、使徒にとって、イエス様は自分の全生涯をかける救い主です。彼らは、神の国建設の働き手であり、その働き手としてふさわしくなるよう、イエス様のもとで教育を受け、成長させられていくのです。私達はどちらでしょうか。なぜ今、私達はイエス様の「そばに」いるのでしょうか。   /n「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」  イエス様はこのように福音宣教を始められましたが、まだその御旨は完了していません。御言葉を知らない人々の救いが残っているからです。しかし私達は神様が共にいて下さる恵みを知っています。私達は神様の恵みを得てイエス様の教えを生涯かけて信じ、従っていく決意をした者です。そのことを心から感謝し、イエス様が取り組まれた「この世に神様の御国を建てるため」の御旨に用いていただけるように、成長させていただけるように、神様に祈り求めてまいりましょう。

「神に受け入れられる人」」 佐藤義子 牧師

/n[申命記] 10章12ー18節 12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、 13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。 16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。 17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、 18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 /n[使徒言行録] 10節1ー48節 1 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、 2 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。 3 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。 4 彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。 5 今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 6 その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」 7 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、 8 すべてのことを話してヤッファに送った。 9 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。 10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、 11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。 12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。 13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。 14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。 17 ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、 18 声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。 19 ペトロがなおも幻について考え込んでいると、““霊””がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。 20 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。 21 ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。 22 すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」 23 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。 24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。 25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。 26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」 27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、 28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」 30 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、 31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。 32 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』 33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」 34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」 44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。 /nはじめに  本日の聖書は、内容から6つに分けられます。コルネリウスが見た幻について、ペトロが見た幻について、ペトロとコルネリウスの使者との面会、ペトロとコルネリウスとの対面、ペトロの宣教、そして異邦人にも聖霊が降(くだ)ったという出来事です。 /nコルネリウス  彼は、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」人でした。ある日、幻の中で天の使いからペトロという人を招きなさいと命じられます。彼はすぐに使者を遣わしました。 /nペトロ  他方、ペトロも幻を見ます。幻に、獣や空の鳥など(レビ記11章で清くないとされるもの)が入っている大きな布のような入れ物が天から降りて来て、それを食べるように言われます。ペトロは、清くない物は食べたことがないと断りますが「神が清めたものを、清くないなどといってはならない」と声が聞こえ、このやりとりが三度あって入れ物は引き上げられます。ペトロが幻の意味について思案に暮れている時、コルネリウスの使者が到着します。すると神の霊が、ペトロに彼らと一緒に出かけるようにと促します。 /n異邦人との面会  ユダヤ教徒はユダヤ人以外の外国人(異邦人)と付き合うことは禁じられていたので、ペトロは異教徒を家に招き入れて話をすることなど考えられませんでした。しかし彼は神の霊に従うという信仰の決断をして、使者を家に泊らせ、翌日、彼らと一緒に出発しました。 /nコルネリウスとペトロの対面  コルネリウスは、親類や親しい友人達を呼び集めて、ペトロの到着を待っていました。ペトロはコルネリオと会い、彼の幻の話を聞き、家で待っていた大勢の異邦人に福音を伝える宣教の使命を確信します。 /nペトロの説教  ペトロは、自分が見た幻から始まる一連の出来事が、すべて神様のご計画の中にあり、ユダヤ人とか異邦人とかの区別なく、「神様を畏れて正しいことを行う人は、神様に受け入れられる」ことを宣言しました。そして、イエスを救い主として信じる者は誰でもキリストの名によって罪の赦しが与えられることを宣言したのです。 /n聖霊が異邦人に降る  ペトロがまだ語っている最中に、そこにいた異邦人達の上に聖霊が降(くだ)りました。ペトロは異邦人にも聖霊が降ったのを見て、その場で彼らに水の洗礼を授けました。 /n異邦人への救いは、神様の御計画。  コルネリウスは、自分の民族の宗教に甘んじることなく、ユダヤ教の伝える天地創造主である神様を信じ、聖書の教えに従い、隣人への愛に忠実でした。家長としての役割も果たし、幻で与えられた指示にもすぐ従いました。神様を愛し、人を愛し、真実を求めて生きていたコルネリウスを、神様は異邦人への救いの道を開かれる時の証人とされました。 ペトロは、清くない物を食べるようにと言われた天からの声を、最初は理解できませんでしたが、神様に従順でありたいと願う信仰によって、「神様は人を分け隔てなさらない」ことを知らされ、民族の壁を越えて宣教の使命を果たしました。 私達はこの神様の導きに従って歩む者です。

「生きておられる神」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 19編2-7節 2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。 6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように 7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。 /n[使徒言行録] 14章8-20節 8 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。 9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、 10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。 11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。 12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。 13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。 14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで 15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 16 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。 19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。 20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。 /nはじめに  今日の聖書には、リストラ(地名)で起こった3つの話が記されています。一つは、生まれた時から歩いたことがなかった男の人がいやされた話。二つ目は、パウロとバルナバが、神の化身と間違えられたこと。三つ目は、追いかけてきたユダヤ人達により石を投げつけられ、倒れたことです。 /nまことの癒し主  9節に、「この人が、パウロの話を聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」たとあります。ロマ書に、<span style="font-weight:bold;">「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」(10:14)</span>とあります。この男の人はパウロの話に耳を傾けました。信仰はまず聞くことから始まります。そしてこの人は聞いたことを信じて聴き続けました。パウロは彼を見つめ、彼の信仰を見て、彼の信仰がいやされるにふさわしい信仰であることを認めて、大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と呼びかけました。この呼びかけは、神様から聖霊をいただいているパウロを通しての、神ご自身の呼びかけでもあります。この人は、この呼びかけによって、生まれて初めて「自分の足で立ち、躍り上がって歩き出し」ました。14章の3節に<span style="font-weight:bold;">「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」</span>とありますが、この不思議な業の主体は常に「主」イエス・キリストであることを、使徒言行録は伝えています。これによって賛美され、崇められるべきお方は神であり、主キリストです。 /n伝説  この地方には、かつてゼウス神と、神の使いヘルメスが変装して地上を訪問した時、神と知らずに冷たく迎えた者と、暖かく迎えた者についての伝説がありました。人々は今目の前で起こったいやしの行為者であるパウロとバルナバを神の化身として崇め、二人にいけにえを捧げようとしました。それを知った二人は、驚きと嘆きで服を裂き、群衆の中に飛び込んでいきました。そして、群衆の誤った神に対する考え方を正し、天地創造主である本当の神、「生ける神」に立ち帰るように叫びました。 /n「生ける神」  生ける神とは「天と地と海と、その中にある全てのものを造られた神」(15節)のことです。この神様と比べるなら人間の手による偶像は無の世界、死の世界に属します。生ける神様は、異邦人にはこれまで彼ら自身が悪の道を歩むに任せておられたので、異邦人は、神について勝手に自分達で考え出した宗教を作り、空しい偶像を作り出しました。しかし神様は異邦人にご自分を現す手段として、天から雨を降らせ、雨と共に土を豊かにして実りの季節を与え、食物を得ることによって彼らの心を喜びで満たして、神様のいつくしみを表わしてきました。この、心に喜びが与えられるという神様のいつくしみの業こそ神様のしるしであるから、今こそ空しいことを捨て去り、パウロ達を神々として祭るような、馬鹿げた愚かな、古い宗教に終止符を打ち、生きて今も働いておられる神様に立ち帰るよう説得したのでした。 /n石打ち  この後、伝道を阻止しようとやって来たユダヤ人達が、又もや群衆を扇動してパウロ達に石を投げつけました。パウロは倒れたまま動かなくなったので、ユダヤ人達は死んだと思い町の外へと引きずり出しました。20節にはパウロの周りを「弟子達」が取り囲んだとあります。「弟子達」とは新しくイエス・キリストを信じた人々です。このリストラの地でも、新しいキリスト者の群が生まれていたのです。死んだように見えたパウロでしたが、神はパウロを殺させませんでした。彼は起き上がり、町に再び入り、翌日には、次の伝道地デルベに向かいました。ここに、パウロの命を守り、起き上がらせ、歩く力を与えておられる主イエス・キリストの力を見ます。伝道は着実に前進していきました。

説教要旨 「テサロニケ伝道とベレア伝道 牧師 佐藤義子

/n[サムエル記下]22:26-32 26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には策略を用いられる。 28 あなたは貧しい民を救い上げ/御目は驕る者を引き下ろされる。 29 主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる。 30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。 31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。 32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。 /n[使徒言行録]17章1-15節 1 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。 2 パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、 3 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。 4 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。 5 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。 6 しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。 7 ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」 8 これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。 9 当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。 10 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。 11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 12 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。 13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。 14 それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。 15 パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。 /nはじめに  パウロ達がフィリピを出て向かった先はマケドニアの首都、テサロニケでした。ここでパウロは三回の安息日にわたってユダヤ人の会堂で伝道しました。パウロの語ったことは、1.メシアは必ず苦しみを受けることになっていたこと(イザヤ書53章4-5など)。2.メシアは死者の中から復活することになっていたこと(詩編16:10など)。3.旧約聖書で預言されていたメシアは今、自分が伝えているイエスであること(イザヤ11:1-)でした。「旧約聖書の預言は、イエス・キリストにおいて成就した!」そのことを、パウロは安息日に会堂に集まって来たユダヤ人およびユダヤ教に関心を持ち、旧約聖書を学んでいる異邦人の人々に語ったのです。 /n力と聖霊と強い確信とによって  後にパウロは、テサロニケ教会宛てにこのように書いています(1:5)。「<span style="font-weight:bold;">私達の福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と、強い確信とによったからです。</span>」さらに2章初めには「<span style="font-weight:bold;">兄弟達、あなた方自身が知っているように、私達がそちらに行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知っての通り、私達は以前、フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、私達の神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなた方に神の福音を語ったのでした。</span>」パウロの説教は、テサロニケにおいて、ユダヤ人のある人達と、多くのギリシャ人および、かなりの数の上流階級の婦人達の信仰を呼び起こし、ユダヤ教からキリスト教への改宗者が生れました。 /n妨害  メシアがイエスであると信じた人々は改宗しましたが、信じないユダヤ教徒たちはパウロ達を妬み、暴力で伝道を阻止しようとしました。彼らはパウロ達が滞在していたヤソンの家を襲い、訴えようと探しますが見つからなかったので、代わりにヤソンの家にいたヤソンと数人の人々を捕えて町の当局者に引き渡しました。そして、「彼らは皇帝の勅令に背いて『イエスと言う別の王がいる』と言っている」と訴えました。当時皇帝は絶対でしたから「別の王イエス」と言う言葉は、皇帝に対立する言葉として人々の間には緊張が走り、動揺したことが伝えられています。しかしパウロ達が見つからなかったので、ヤソンは裁判や処罰からは免れ、かくまった罪で保証金を支払い、釈放されました。他のキリスト者は、パウロ達の命を守る為に、直ちに夜の内に、パウロとシラスをベレアに向けて送り出しました。 /n素直・熱心・聖書を調べる  パウロ達はベレアの町でも、ユダヤ人の会堂に入り伝道しました。ベレアのユダヤ人はテサロニケのユダヤ人と比べて素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていました(11節)。その結果、多くの人が信仰をもつに至りました。「素直」は、「善良」「良い性質」「礼儀正しい」とも訳されます。 聖書の言葉に触れた時、あるいは説教を聞いた時に、「果たして自分は本当にこのままの生き方で良いのだろうか」と思い始めた時、人は、自分の生涯に対して素直に、礼儀正しく向かい合うことが出来るのではないか、そして次のステップ、すなわち福音を聞く「耳」と、信じる「信仰」が与えられるのではないかと思います。 パウロは後に、「<span style="font-weight:bold;">このようなわけで、私達は絶えず神に感謝しています。なぜなら私達から神の言葉を聞いた時、あなた方は、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなた方の中に、現に働いているものです。</span>」(テサロニケ2:13)と記しています。 /nどのような妨害に会おうとも  テサロニケのユダヤ人達は、ベレアまでパウロ達を追いかけて来て伝道を妨害しました。しかし、どのような妨害に会おうとも、パウロはこのように語っています。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます</span>」(一コリント10:13)。 こうしてパウロのヨーロッパにおける伝道は、次の地、アテネへと拡がっていきます。神様がパウロを用いられ、パウロも又、与えられた使命を果たすべく、ひたすら主の業に励んだように、私たちの今週の歩みが主の御用に役立つものとなりますように主の守りの中で、励んでいきたいと願うものです。

「福音にあずかる道」 牧師 佐藤義子

/n[民数記]6章1-5節 1 主はモーセに仰せになった。 2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、 3 ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。 4 ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。 5 ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。 /n[使徒言行録]21章17-26節 17 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。 18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。 19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。 20 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。 21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。 22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。 23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。 24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。 25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」 26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。 /nはじめに  パウロの三回目の、御言葉を伝え続けた伝道旅行が終り、エルサレムに到着したパウロ達一行は、同じ信仰の仲間達から喜んで迎えられました。翌日パウロは、同行した7人とルカ(使徒言行録の著者であり医者)と共に、当時エルサレム教会の指導者となっていたヤコブ(イエス様の兄弟)を訪問しました。エルサレム教会の長老達もそこに集まっていました。19節には、「<span style="font-weight:bold;">パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。</span>」と記されています。おそらく18:23以下に記された、エフェソで出会った12人のキリスト者に聖霊が降った出来事、ユダヤ人祈祷師達が、主イエスの名を語って悪霊を追い出そうとした時、悪霊につかれた男が祈祷師に飛びかかりひどい目に合わせた出来事、それによって主イエスの名が崇められるようになったこと、魔術師達が魔術の書物を焼き捨てたこと、更にはエフェソの銀細工人達がパウロを目の敵にして大集会を開いた中でパウロが守られたことなど報告したのでありましょう。ここで注目すべきは「<span style="font-weight:bold;">神が・・行われたことを報告した</span>」ということです。「わたしは○○をしてきました」ではなく、「神」がなさった報告です。ここにキリスト者の語る姿が描かれています。  続いて報告を受ける側の反応にも注目したいと思います。「<span style="font-weight:bold;">これを聞いて、人々は皆神を賛美し</span>」(20節)です。キリスト者の集会は、語る者も聞く者も、神様を中心として、最終目的は神様を賛美することなのです。 /n悪意あるうわさ  エルサレムの長老達は、パウロについて心配していることがありました。それは、パウロがキリスト教に改宗したユダヤ人達に、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、律法を守ることから離れるように教えているという「悪意のあるうわさ」でした。勿論これは誤解です。パウロが語ったのは、律法を守ることで救われると考えている人々に、律法が神の国に入る条件ではなく、主イエス・キリストが私達の罪の為に十字架で死んで下さったことで、神様は私達の罪を赦して下さった。私達はこのキリストを信じることによって救われると語ったのです。 /n「うわさは根も葉もない」と分かってもらう提案  ヤコブをはじめエルサレム教会の長老達は、パウロを正しく理解していたでしょう。しかし熱心に律法を守っているユダヤ人キリスト者の間に広がるうわさを信じる人達は、パウロがエルサレムに滞在していることを知るならば、必ず騒ぎ出してパウロを捕えようとするでしょう。そこでエルサレム教会の指導者達が考えたことは、ユダヤ人に対してパウロ自身が身の潔白を証明するために、律法に定められていることを実践することでした。それによってパウロは決して律法をないがしろにしておらず、律法を守る人物であることが明らかになり、誤解も解けるだろうという提案でした。 /n「<span style="font-weight:bold;">福音のためなら、私はどんなことでもします。</span>」(一コリント9:23)  パウロの考えからすれば、この提案・・すなわち四人の誓願者と共に神殿に行き、清めを受け、彼らの頭をそる費用を出すという「律法を守る行為」をあえて行なう必要はありませんでした。彼は律法から自由にされていたからです。しかしパウロはこの提案を受け入れました。  なぜでしょうか。それは伝道者の使命感と、キリストの愛と、教会の一致の為と考えられます。パウロは「<span style="font-weight:bold;">ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。</span>」(一コリント9:20)と記しています。  救いの為に謙虚に最善を尽くし、不必要な争いや分裂を避け、教会の一致の為に愛をもって行動したパウロの姿をここに見ます。

「我はカイザルに上訴せん」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]11編1-7節 1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。 2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。 3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。 4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。 5 主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み 6 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。 7 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 /n[使徒言行録]25章6-12節 6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。 7 パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。 8 パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。 9 しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」 10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」 12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。 /nはじめに  ローマがユダヤ地方の総督として派遣していたフェリクスのもとで、パウロの裁判は開かれました。しかし告訴したユダヤ人の側では、パウロを有罪にする証拠も証明も出来ませんでした。この裁判の前に総督フェリクスは、千人隊長リシアから「パウロとユダヤ人との間にある問題を調べた結果、それはユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はなかった」との報告を受けていました。さらに彼自身、キリスト教のことをかなり詳しく知っていました(24:22)。  フェリクスの、総督という地位や権力から考え、この状況であれば今、目の前にいるパウロを無罪放免することは可能でした。が、彼はそうしませんでした。彼は、エルサレムにいる千人隊長がカイサリアにやって来た時に判決を下すと言って、裁判の判決を延期したのです。 /n総督フェリクス  フェリクスは妻がユダヤ人であるということもあり(24節)、パウロを、キリスト者の指導者の一人であることを認めて、パウロの監禁中たびたびパウロを呼び出しては、イエス・キリストへの信仰についてパウロから聞きました。彼がパウロに対して抱いていた思いは、丁度ヘロデ王がバプテスマのヨハネに対して抱いていたように、良心の呵責を持ちつつ、正しい言葉が聞けることへのパウロへの好意的な関心がありました(参照:マルコ6:20)。パウロはためらうことなく、正義について、節制について、又、来るべき神様の裁きについて話したので、彼はそのような時は恐れて話を打ち切りました。フェリクスはパウロの無実を知りながら、彼を軟禁状態のまま二年間も裁判を開きませんでした。それは、ユダヤ教指導者達から憎まれたくないこと、そして釈放金としてわいろを受けようとする下心があったからだと聖書は伝えています。 /n総督フェストゥス  二年後フェリクスは転勤となり、フェストゥスが赴任してきました。彼は保留となっていたパウロの裁判を、着任後まもなく開きました。ユダヤ人達は、前回と同じように重い罪状を言いたてましたが立証には至りませんでした。ところがフェストゥスはパウロに、「お前は、エルサレムに上って、そこで裁判を受けたいか」と尋ねたのです。(9節) /n自己保身  フェストゥスは、自分がパウロを釈放すれば、ユダヤ人指導者層を赴任したばかりで敵に回すことを覚悟しなければならないことを察知し、「自分はあなた達の敵ではない」とユダヤ人にアピ-ルする為、彼らの願い通り、エルサレムでの裁判の道を開こうとしたのでしょう。  二人の総督に共通しているのは、「白を白、黒を黒」と言わない生き方を選んでいるということです。パウロの無実を知りながら、ユダヤの統治がやりにくくなることを恐れ、ユダヤの指導者層を自分の側にとどめておくための方策を優先させたのです。それは無難に任務を果たす為、自分の生活の安定の為、言いかえれば自己保身のためでした。 /n二つの生き方  パウロにとって、復活の希望がある以上「死」は恐怖ではなく、逆に、この地上から去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましいとまで言っています(フィリピ書1:23)。しかしユダヤ人の訴えが事実でない以上、無実は立証されなければなりません。真実は歪められてはならないのです。この法廷でパウロは、「もし悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません」(11節)と述べ、結論として「<span style="font-weight:bold;">我はカイザル(皇帝)に上訴せん</span>」(文語訳)と答えました。パウロは、この上告によって、囚人としてローマの法廷に立つことを宣言したのです。  ここに二つの生き方が示されます。一つは、(二人の総督のように)自分の利益を優先させる生き方、他方は、(パウロのように)神を信じ、神を畏れる者の生き方です。そこには嘘、偽りはありません。正しいことと間違っていることを明確に区別し、自己保身の道ではなく神様の言葉に従う道です。私達もパウロに倣って、従う者の道を歩んでいきましょう。

「信じること、祈ること」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編]20編2-10  苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ/聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。 あなたの供え物をことごとく心に留め/あなたのいけにえを快く受け入れ/あなたの心の願いをかなえ/あなたの計らいを実現させてくださるように。 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ/我らの神の御名によって/旗を掲げることができるように。/ 主が、あなたの求めるところを/すべて実現させてくださるように。 今、わたしは知った/主は油注がれた方に勝利を授け/聖なる天から彼に答えて/右の御手による救いの力を示されることを。 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。/ 彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。 主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。 /n[マルコによる福音書]9章14-29節   一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。 /nはじめに 今日の新約聖書は「山上の変容」の出来事の直後に起こった出来事です。イエス様が、神様からの証しを受けて山を下りるところは、モーセが神様から十戒を授かって山を下りた話を彷彿(ほうふつ)させます。ユダヤの民は、モーセが山へ登った後なかなか戻ってこないので、自分達を導いてこられた「主」である神様を忘れ、愚かにも、持っていた金(きん)を集めて子牛を作り、それを「神」とする不信仰の罪を犯してモーセと神様の怒りをかいました。イエス様と三人の弟子は、山上で素晴らしい体験をしましたが、山を下りた所では、他の弟子達が、霊にとりつかれた息子を救うことが出来ず、群衆に取り囲まれて、律法学者達と議論をしておりました。 /nイエス様の嘆き 山の下にいた弟子達は、イエス様から与えられていた「悪霊を追い出す権能」がなくなっており、危機に陥っていたのです。イエス様は、「いつ迄私はあなた方と共にいられようか」と嘆かれました。十字架の時が近いのに、山上に同行した三人の弟子も事の重大性が分かっていないようだし、山の下にいた他の弟子達も、イエス様の不在で霊の力が弱るような信仰では、「地上に神の国を立てる」という神様のご計画を力強く遂行することは叶わないでしょう。 「いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか」は、弟子達の成長の遅さに、更なる忍耐を要することへの嘆きが感じられます。 /n「おできになるなら・・お助けください」 この息子の病気は、マタイ福音書によれば「てんかん」です。発作が起これば水や火の中、地面の上など所かまわず倒れこむので、いつも命の危険にさらされていました。おそらく父親は、それ迄も多くの医者や宗教家達に診てもらったことでしょう。しかし、今回も、頼ろうとした弟子達は治すことが出来ず、今、山から下りてきたイエス様に最後の砦として願い出たのでしょう。悲惨な経験を不幸にも積み重ねてきたので、父親はつい「おできになるなら」と、付け加えたのかもしれません。最初から逃げる体制をとりながら物事を頼む父親は、100パーセント信頼しているとは言えません。 /n「『出来れば』と言うか。信じる者には何でもできる」。 信じるとは、相手にすべてを委ねて、相手の力とその結果を受け入れることです。イエス様は天地万物を創られた父なる神様の御子としての力をお持ちです。父親はイエス様の言葉によって、自分の姿勢が間違っていたことを悟り、息子の回復を心から信じるように方向転換を促されました。父親の、「信じます。信仰のない私をお助け下さい」を、こう補って読むことも可能でしょう。「イエス様の御言葉に従って、神の御子の御力を信じるようになりたいと思います。今までの間違った姿勢をお赦しください。悔い改めて、神様の御力を100パーセント信じます。長く苦難の中にあった私を救って下さい。神様はその事がお出来になります・・」。 これは、罪の告白と新たな信仰の表明です。 /n「なぜ、私達は霊を追い出せなかったのでしょうか」 弟子達の、この質問に、イエス様は「祈りによらなければ出来ない」と答えられました。写本によっては、「祈りと断食」となっています。人間の生活への関心、特に食欲を抑えて神様へと思いを注ぎ、神様との対話である祈りに集中することの重要性を教えられます。キリスト教の祈りは、初めに自分の願望を祈るのではなく、まず、神様の御名があがめられること、神の御国が地上にも来ること、神様の御心が地上にもなされることを祈り、その後で、自分達の生活や罪の赦しを希うのです。礼拝で皆と一緒に祈る「主の祈り」のとおりです。それらの祈りを、イエス様の御名をとおして祈ることで、イエス様の父なる神様に聞いていただけると、私達信仰者は信じています。 /n主を信じること、主に祈ること 神様に100パーセント委ねることは、最初は難しいかもしれません。しかし、そうしたいと願っていれば、神様からそういうふうに変えていただけます。今日の箇所の父親のように、です。そうすることで、主にある平安を得、本来の自分(分裂していない自分)を見出すこともできるようになります。かつて自己分裂の中でもがき、苦しくて叫んでも聞いてもらえなかったのに、今や、一方的な憐みによって、神様につながり、本来の良さをもった自分が与えられるという救いに与ったことに喜びを覚えます。イエス様の御名を心から信じ、イエス様の御名によって祈ることで神様に聞いていただけるのです。その経験は積み重なっていきます。その豊かな恵みに心から感謝を捧げたいと思います。今、私達の身近では困難な状況が広がっています。しかしイエス様の恵みを受けている私達は、主を信じること、主に祈ることを通して光をいただき、周りにともし続けることができます。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ5:16~18)

「贖い主と弟子」    伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]53章10-12節 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 /n[マルコによる福音書]10章32-45節 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 /nはじめに 今日の聖書の前半は、イエス様が「三度ご自分の死と復活を予告する」箇所です。8章では弟子ペトロの「イエス様は救い主(メシア)です」との告白がなされます(29節)。イエス様はペトロの信仰告白を大変喜ばれて、「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上に教会を建てる。」と宣言されました(マタイ16:16)。イエス様が父なる神様から授かった使命は、福音の宣教活動を通じて「イエス様を救い主として信じます」と告白する人々を基盤とする神の国を地上に打ち立て、生まれながらの人間がサタンに与えている支配権を、神様にお返しすることでした。  イエス様は、ご自分を信じて従ってきた弟子達に、人間の救いと御自分の歩みに関する天の秘密を明かされました。「ご受難と復活」です。この予告は三度も繰り返されていることから、このことがいかに重要であったかが想像できます。 /n天の秘密 イエス様の時代から2000年後に生きる私達は、聖書を通してイエス様の「ご受難と復活」の言葉を、次のように理解出来ます。 「イエス様は、父なる神様のご計画を実現する為に、救い主としてこの世に遣わされました。神様の愛の対象として造られた人間は、創造主である神様を信じ続けることが出来ず、神様に逆らうという不従順の繰り返しによって人間の「罪」は大きく膨れ上がり、ついに神様との断絶に至ったのです。自己中心の欲望にまみれた神様から離れた世界で、長い間苦しみ続けていた人間を、神様は憐れみ、人間を罪から救うという「救いのご計画」を立てて下さったのです。  神様は汚れのない聖なるお方で、罪にまみれた人間とつながることは出来ません。神様と人間が再び関係を回復するには、神様から人間を断絶させている“罪”を取り除くことが不可欠でした。 人間社会では、ある人があまりにも大きな負債を抱えて、返済しきれない場合、誰か他の力ある人に、負債を肩代わりしてもらうことが行われます。ところが人間の「罪」の負債を、肩代わり出来る人は一人もいません。すべての人が罪を犯していたからです。それゆえ神様は、人間の思いを超えた、救いの御計画を立てられたのです(イザヤ書52:13~53:12)。 /n十字架の血による贖い(あがない) 人間の中には罪を犯さない正しい人が一人もいない為、神様はご自分の独り子である御子イエス様を、罪多きこの世に遣わされました。イエス様は人間として生れ、その生涯を通して罪を犯されませんでした。そして、人間の「罪」という負債を肩代わりして、神様からの赦しを得る代償として、十字架にかけられ、その血を流されたのです。このことによって初めて人間の罪は赦され、清められ、神様とのつながりを回復する道が出来たのです。 これは、罪のない正しい人の「死をもって、罪を贖う(あがなう)」という方法でした。 /n「わたしは仕えるために来た」(45節) 今日の聖書は、イエス様は罪を犯されなかったにもかかわらず、「罪に定められて」殺されるために、今、弟子達の先頭に立ってエルサレムに向かっているところです。弟子達は驚き、従う者は恐れたと聖書は伝えています。イエス様は12人の弟子達を呼び寄せて、「(私は)、人々の手に引き渡され、侮辱され、殺される。そして三日の後に復活する。」と三度目の受難と復活の予告をされました。 復活は死に対する勝利です。 それに対する弟子達の反応は、ヤコブとヨハネが、将来、イエス様の右と左に座らせてほしいと、自分達を、他の弟子達よりも抜きんでた地位に置くように願い出るという、自己中心的な言葉だったのです。 イエス様は、「それは私の決めることではない」と答えられました。そして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教えられました。 イエス様ご自身こそ、私達人間の為にご自分の命を献げられ、私達人間に仕える道を歩み通されて、私達の模範となって下さったお方です。

「恵みにより救われる」  牧師 佐藤義子

/n[詩編]36章6-10節 /n[エフェソ信徒への手紙]2章1-10節 /nはじめに   私達は、自分の生きている世界のことを何となくわかっているような気になっていました。しかし大震災で、私達を取り巻く環境が一変した時、実はそうではないこと、私達人間の想定範囲は、きわめて限られたものであったことが明らかになりました。多くの命が失われ愛する家族を失ない、今なお深い喪失感の中で先に進めない方達や、敷かれていたはずのレールが、突然目の前から消えて、不安と焦燥感の中にいる方達、又、先日も、失業手当が切れる時期を控えて、深刻な状況が報道されておりました。  人間が生きる為には、衣食住や、家族や、将来の夢や希望も大切であり、それらを突然失った方々の力になりたい、助けたいと、本日も、七ヶ浜や蒲生の被災家屋の修復作業のため、アメリカから応援に駆け付けて働いておられるサマリタンズ・パースの方々が、ご一緒に礼拝をささげています。 /n私たちは死んでいた! 今日読んでいただいたエフェソの手紙2章の1節には、突然、今生きている人に向かって「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたは死んでいた</span>」との言葉が出てきます。 さらに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は過ちと罪を犯して歩んでいた</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちも皆、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした</span>」とあります。この手紙はエフェソの教会の信徒達に送られた手紙ですが、聖書は常に今を生きる私達に向けて語られている神様の言葉ですから、「あなた方」という部分を「私」に置き換えて読み進みたいと思います。 そうしますと今日の箇所は、「以前の私は、過ちと罪を犯して歩んでおり、神の怒りを受けるべき者として死んでいた」となります。この箇所からも、聖書は「生きる」とか「死ぬ」という言葉を、一般的な意味で使っていないことがわかります。 聖書で「死ぬ」とは、呼吸が止まることではなく、自分の過ちと罪の結果、神の怒りを受けた者。神に従わない不従順な者に働く霊に従って、肉の欲望の赴くままに生活していた者が神の怒りを受けている状態のことです。 エフェソの信徒達は、「以前は死んでいた」けれども、今は生きています。 /nキリスト・イエスによって共に復活する 神様を畏れないこの世の支配者、サタンとか悪とか呼んでいますが、その霊に従って、肉体の欲望や心の欲望のままに行動した結果、生まれながらの人間は、肉体は生きていても死んでいるということです。 ではどうしたら死から命に向かうことができるのでしょうか。死から命に向かうために、聖書は、そこにはまず神様の豊かな憐れみと、神様の人間へのこの上ない愛があったことを伝えています。罪で死んでいた人間を、神様はイエス様と共に復活させて下さったこと、それは一方的な神様の恵みによるものだと4節以下に記されています。  この恵みを受ける信仰が与えられたことで、信じる者は救われたのです。 /n恵みにより、信仰によって救われる 今、私達が生きている世界が終った後に、神様の創られた世界が完成する時がやって来ます。神様はイエス・キリストを私達に遣わして下さり、その死によって、私達の罪を贖って下さいました。その限りない豊かな恵みは、来るべき世において、栄光を受けられたキリストのご支配を直接受けることの約束へと続きます。神様の恵みが私達に注がれ、私達の中に働く時、私達の心は神様に向かい、神様の恵みを確信することが出来ます。 この信仰が与えられる時、救いが起こります。神様の恵みが救いをもたらすのです。救いは「神様の恵み」によって起こるので、私達が神様のために何かをする必要はなく、救われた人は、誰も自分を誇ることはできません。 /n神の作品として生きる  口語訳で10節には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達は神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日をすごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである</span><span class="deco" style="font-weight:bold;">。</span>」とあります。  私達はそのように造られているのですから、そのように歩んでいきましょう。聖書はいつもそうですが、例外なくすべての人に語られています。聴く耳をもって従っていきたいと願うものです。

  「復活の主と弟子達(2)」   伝道師  平賀真理子

/n詩編33:6-19 /nヨハネ福音書21:20-25    /nはじめに   前回は、復活の主・イエス様が一番弟子のペトロに信徒達のリーダーとして群れを率いる役割を渡された出来事を学びました。更にその先には、主と同じ「<span class="deco" style="font-weight:bold;">行きたくない所に連れて行かれる</span>」(18節)こともイエス様は預言されました。それはペトロが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の栄光を現わすようになる</span>」(19節)為でした。ペトロは死を恐れるあまり十字架を前にして、イエス様を知らないと言ってしまう大きな過ちを犯したにもかかわらず、イエス様は赦して下さいました。のみならず、この世に神の国を広げる働きの後継者として用いられたのです。多く赦された者は、より多く愛するようになります。 /n「ペトロが振り向くと」(20節) イエス様に赦されて更に主を愛するようになったペトロにとって、主と同じ道(=この世から否定され苦しみを受ける道)をたどるということは、感謝であり、後継者としての任務を果たす恵みの出来事です。普通の人にとっては苦しみ以外の何ものでもないことが、信仰者にとっては大きな恵みと受け取ることができるのです。イエス様から「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の羊を飼いなさい</span>」と依頼されたことは、ペトロにとって喜びです!そして任務遂行の為には主の御言葉どおり、ただただ「イエス様に従う」だけでよいのです。    ところがペトロは「振り向き」ました。主が御言葉を下さったその直後、ペトロは別の人のことが気になってしまったのです。相手は自分よりも主から愛されていると思われる弟子でした。その人が自分と同じ「苦しみの道」を歩むのか、それとも苦しみを避けられるのかが気になったのです。神様の国の為に大事な役割を告げられたペトロが発した言葉は、神様のご計画でも与えられた役割への感謝でもなく、振り向いて目に入ってきた別の弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」との質問でした。   ペトロは本当に、愚かで弱い私達人間の代表だと知らされます。神様の憐れみゆえに神の民として再び招かれながら、この世のことに気をとられています。私達も同じです。悔い改めて、神様に心を向けたいと思います。   /n「あなたに何の関係があるか。あなたは・・」    今日の聖書で読み取る第一のことは、イエス様のペトロに対しての御言葉です。ペトロにとって、主から愛されていた別の弟子の定めは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたに何の関係があるか</span>。(全くない!)<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは、わたしに従いなさい</span>。」という御言葉です。私達は、他人と比べて愛や能力や期待の大きさを測り、そのことで自分の価値を測ろうとしがちです。智恵も愛情も能力も限界ばかりの人間世界の中で、狭い範囲を囲って競争し、そのことで一喜一憂します。そのような罪の世界の習性に慣れてしまっている私達は、イエス様のペトロへの言葉によって目を覚ますよう促されます。 「神様には、それぞれの人間の心や賜物に応じた計画がある。それは、神様とその人との縦の結びつきであって、信仰の仲間同士であっても、横から口をはさむことでは全くない。人間がまずすべきことは、それぞれが、縦の線である神様との結びつきを強めることであり、イエス様の御言葉、御心、御計画に従うことである。」と主は言われているのです。 /n「あなたは、わたしに従いなさい。」    イエス様が言われた意味は、こういうことではないでしょうか。  「あなたのやるべきことは、ただ一つ。私を見つめて、私につながり、私に従うことなのだよ。あなたにとって、他の人の運命は二の次だよ。私の姿を見失わないようにしなさい。なぜなら私の復活の姿をあなた方に示す前には、あなた方は私を見失って元の世界(漁師)に戻りかけていたではないか。再びそうなってはならない。むしろ神の国のリーダーとしての、あなた独自の道を私は備えている。それは神様の栄光を現わす恵みの道であり、私につながっていることでそれを続けていくことができるのだよ。だから『<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは、わたしに従いなさい</span>』」。 これは、私達一人一人にかけられている御言葉でもあります。私達は、家庭や職場や学校において神の国を広める役目を実は担っているのです。「あなたは、私に従いなさい。」とイエス様は招いておられます。喜んで従う者になりたいと願います。聖霊の助けを祈っていきましょう。