「神の栄光を見る」  牧師 佐藤 義子 

/nエレミヤ書 1:4-10 /nヨハネによる福音書 11:28-44 /nはじめに  日本キリスト教団では、10月第二日曜日を「神学校日」「伝道献身者奨励日」と定め、神様の御用の為に自分の生涯を献げることを奨め励まし、又、神学校を覚えて祈り、献金を通して支える日でもあります。私達の伝道所では四年前、遠藤兄が献身されました。現在、卒業論文を終えて、来春伝道者として新しい一歩を踏み出す予定です。   伝道者として生涯を神様に献げる、との献身の思いがどのように与えられるのか、100人いれば100通りの献身の姿があります。本日読んだエレミヤ書では、神様が、母の胎内に入る前からエレミヤを預言者として選び出していたと伝えています。その召命に対して、エレミヤは「私は若者にすぎない。私は語る言葉を持たない」と断わりました。神様はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを誰の所へ遣わそうとも、行って私が命じることを全て語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて必ず救い出す」と約束されました。   預言者エレミヤの生涯は大変苦労の多いものでした。エレミヤは、次のように告白しています「私は一日中、笑い者にされ人が皆、私をあざけります。主の言葉のゆえに、私は一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、私の心の中 骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして 私は疲れ果てました。私の負けです。」(20章)。  私の母教会の牧師(大谷賢二師)も、戦中・戦後の伝道生活の中で警察から目をつけられたり、暴力団からのいやがらせが多くあったそうです。その地域は、多くの伝道者が伝道をあきらめて撤退した地域と聞きました。大谷師は多くの困難に耐えて、ついに毎週100人以上で礼拝をささげるまでになりました。勿論、神様の御業が働いた結果です。 伝道者が困難を乗り越えられるのは、神様が共にいて下さり、助けて下さり、無価値な自分を用いて下さることの光栄と喜びがあるからといえるでしょう。今日の日を覚えて、伝道者が多く起こされるよう祈っていただければ幸いです。 /nラザロの復活  イエス様がマルタとマリアのところに到着した時には、ラザロは既に墓に葬られ4日もたっておりました。イエス様が来られたことを聞いたマルタはすぐ村の入り口まで迎えに行き、そこでイエス様から「ラザロは復活する」と聞かされます。マルタは、復活は終末の時のことだと理解します。それに対してイエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われました。 /n「私を信じる者は、死んでも生きる」 イエス様のこの言葉はわかりにくいのですが、その理由として私達は「今、自分は生きている」と考えているからです。私達は肉体的に生き、呼吸していれば「生きている」と考えますが、イエス様は違います。 私達が神様から遠く離れて生きている状態は「死んで」おり、その死んだ状態の人間を、「生きた」状態に回復させる為にイエス様が来られたのです。人間は生まれながら罪の中にあり、神様から離れた死の状態にあるので、そこからよみがえらなければ命はなく、イエス様が命の始まりであることを教えています。 /n「信じるなら神の栄光が見られる」   イエス様がラザロの墓の石を取り除けるように言った時、マルタは、遺体の死臭を気にしました。しかしイエス様は、「もし信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われ、石がのけられると、まず天を仰いで神様に感謝の祈りを捧げました。 祈りの後に、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれるとラザロは生き返り、墓から出て来たのです。これがラザロの復活の出来事、奇跡です。この奇跡が神様の栄光を表わしています。ここには、神様の力が現れ出ることに よって、神様が崇められ、神様の御名が称えられます。イエス様はこれらすべてのことを神様に願い、神様が聞き届けられることを確信して、この奇跡を通して、信じる者に神様の栄光を見させられたのでした。

 「立派な信仰」   牧師 佐藤義子

/n詩編103:6-13 /nマタイ福音書15:21-28           /nはじめに     今日の聖書の前半には、ユダヤ教指導者達が首都エルサレムからやって来て、イエス様の弟子達が「昔の人の言い伝え」を破り、食事の前に手を洗わないことを非難したことが記されており、今日の箇所は、そのようなことがあった後の出来事です。イエス様は、ゲネサレトを出発しティルスとシドンの地方へ行かれました。ここは、地中海に面したフェニキア地方にありユダヤの国境の外側にあります。イエス様がこの異邦人の住む地域に足を向けられたのは、日毎に高まる宗教指導者達からの非難や論争、又、救いと癒しを求めて休みなくイエス様のもとを訪れる群衆達への、愛の業から一時期離れて、弟子達と共に静かな時を求められたのかもしれません。 /n「私を憐れんで下さい」  ところがこの地方に来た時、イエス様は「主よ、ダビデの子よ!」と、その地に生まれたカナン人の女性に呼び掛けられました。「ダビデの子」とは、救い主はダビデの子孫から生まれるとの信仰により、救い主・メシアを意味する言葉です。この女性は長い間、娘の病気で苦しんできましたので、異邦人でありながら、イエス様の噂を聞いて、「自分達の苦しみを取り除いて下さる方はこの方しかいない」と強く確信したのでしょう。女性はイエス様に向かって、「私を憐れんで下さい」と叫び続けました。 /n「イエスは何もお答えにならなかった。」(23節)  女性はイエス様達一行から離れようとせず、叫びながらついてきます。これに困った弟子達がイエス様に解決を求めますと、イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。</span>」と答えられました。「失われた羊」とは、旧約聖書(エゼキエル書34章)が背景にあり「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は自分の羊を探す。私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする</span>。」(12節・16節)、イスラエルの民が信仰を失い、さまよう姿をあらわしています。 /n「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」 神様は、「御自分の民」として選んだイスラエルの民を救い出す為に、イエス様を地上に送り、神様のもとに立ち帰らせようとされました。イエス様の救いは「イスラエルの民」に限定して、そこに集中されました。しかしカナンの女性は大胆にも、今度はイエス様の前にひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と訴えました。イエス様は、女性の願いを聞き入れることは出来ない理由を、「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」と説明されました。子供達とは選民イスラエルのことです。小犬とは異邦人(カナンの女性)のことです。すなわち、子供の食事が犬の食事よりも優先されるように、イスラエルの民が優先されるのは、神様が定められた救いの秩序だと言われます。 /n「主よ、ごもっともです。しかし・・子犬もパン屑はいただくのです。」 「子犬もパン屑はいただく」との女性の応答に、イエス様は「あなたの信仰は立派(大きい・偉大だ・見上げたもの)だ。」と、大変喜ばれました。それは、女性がイエス様の言葉をすべて正しいと受け入れた上で、もし子供も食べて満腹し、その子供が落としたパン屑を子犬が食べて満腹するのであれば、それは、神様の定めた秩序に反することでもなく、又、イエス様の使命を妨げることにもならない、と信じたことです。    この女性は、ユダヤ教指導者達にはないイエス様への純粋な信仰と、イエス様の沈黙にも耐えた、(助けてほしいとの)強い、真剣な願い、そして、救いの御計画の秩序を受け入れながらも神様の恵みの大きさを信じる信仰がありました。私達も、神様を絶対とし、自分の分をわきまえながら、日々働いて下さる神様の大きな恵みを信じて歩んでいきたいと願うものです。

「安らぎを与える主」  牧師 佐藤義子

/n詩編95:1-7 /nマタイ福音書 6:5-15 /nはじめに 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである</span>。」   ここで言われている「疲れ」「重荷」は、当時の人々を苦しめていた律法を守ることと関係しています。イスラエル民族は、神様から選ばれた民、「選民」と言われます。民族の祖先にアブラハムを持ち、モーセの時代には、神様から十戒を初めとする「律法」を与えられた民族です。律法の民とも呼ばれ、彼らは律法を守ることによって、高い倫理性をもって生きてきた人々でありました。  しかし、イエス様の時代、律法を重視するあまり、さまざまな弊害も出ておりました。人々は日常生活の中で、律法を守りながら生きることの苦労を強いられていました。ユダヤ教の場合、律法の十戒は10あるだけですが、律法研究者達は、十戒を徹底的に守る為の細則をつくり、たとえば安息日の守り方については、歩くのは何キロまで、物を持つのは何グラムまで、怪我をしても手当はここまで、などと人々に教えました。そのように、神殿への供え物について、宗教的儀式について、すべては細かい規定に縛られていたのです。そして、それらを守らない者達には、「罪人」のレッテルがはられ、神の国に入ることは出来ないと考えられていました。  昔、日本でも、仏教や神道などの諸行事は、伝統にのっとって定められ、人々の生活を支配していました。決められたことをすべて順序に従って執り行うことは、時には犠牲を強いられ、重荷となることは想像できます。イエス様は、神様を信じて正しく生きていきたいと思っている人達が、現実には律法を守ることが困難で、そのことで疲れを覚え、重荷を負う人々に、律法から解放して、休息と平安を与えようと招かれているのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい</span>」   「くびき」とは、畑を耕したり車を引かせる為に、牛などの家畜の首に棒をはめる木製の道具で、家畜を服従させ、仕事をしやすくする道具です。イエス様は「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と言われます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは柔和で謙遜な者だから</span>」  柔和な人とは、自分を神様の貧しいしもべとして、神様の意志に完全に従順に従う人、それゆえに、隣人に対しては怒りや傲慢な思いを抱かない人のことです。それは、ほとんど「謙遜(けんそん)」と同じ意味といえます。イエス様は小さい者や弱い者をも大切にして、怒りや傲慢さは全くなく、ゆるす忍耐をもって私達を教え、導いて下さるのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる</span>」  「そうすれば」とは、「イエス様のくびきを負ってイエス様に学ぶなら」、ということです。イエス様が約束される休息と平安は、この世の与えるものとは違います。なぜならそれは神様からくる休息と平安だからです。肉体の疲れは肉体を休めることで解決します。しかし、心の重荷、魂の重荷を下ろして休む場所は、この世にではなく、イエス様のところに用意されているのです。 私達は、これまで負ってきたくびき(この世の価値観、伝統、風習、常識・・)を、イエス様のもとで取り外し、イエス様のもとで休息した後に、今度は、イエス様が下さるイエス様のくびきをつけて、イエス様と共に新たな歩みを始めましょう。イエス様は柔和で謙遜なお方ですから、私達の歩む道は険しく辛くとも、イエス様から学ぶ時、そこにイエス様が下さる「安らぎ」が待っています。安らぎを与えて下さるイエス様の招きに、すべての方達が、喜んで応える者になりたいと祈り願うものです。

「神の国に入る道」    牧師 佐藤義子

/n詩編119:33-40 /nマタイ19:16-30             /nはじめに 今日の聖書には、三つのことが語られています。一つは、イエス様と金持ちの青年との会話。二つには、人間にとって不可能なことが、神には可能であるということ。そして三つ目に、終末への約束と警告です。 /nお金持ちの青年 お金がある、まじめな青年がイエス様の所に来て、「永遠の命」を得る為にはどんな善いことをすればよいかと質問しました。「永遠の命」とは、信仰の熱心なユダヤ教徒が熱心に望んでいたもので、それは、救い主の支配のもとで祝福に満ちた来るべき世に住むことを意味していました。ユダヤ教では終りの日(終末)に、ある者は復活して永遠の命に入り、ある者は永遠に続く恥と憎悪の中に置かれるということが預言されています。(旧約聖書・ダニエル書12:1)。 このお金持ちの青年は、聖書で約束されている永遠の命を、今より確実に得る為に、イエス様のもとに来たのです。 /n「命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 イエス様はこの青年に、もし永遠の命を得たいのなら、掟を守りなさいと言われました。青年はどの掟かと聞き返し、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい</span>」とイエス様から言われた時、即座に「そういうことはみな守ってきました」と答えています(マルコ福音書では「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」)。この青年は、倫理的な生活面において、まじめに生きてきたのでしょう。「まだ何か欠けているでしょうか」と続けて問いました。 /n青年の質問 「まだ何か欠けているか」と問う青年は、「永遠の命」は、律法を守る生活を積み上げて来た人間の努力・宗教的な実績によって獲得できると考えていたことがわかります。だからこれ迄も、その努力を欠かさなかったし、今後も努力するつもりでした。自分の善い行ないと引き換えに、永遠の命が手に入ると考えていたこの青年に、イエス様はこう言われました。「もし完全になりたいのなら、・・貧しい人々に施しなさい。」 /n「賜物として」受ける 永遠の命は、自分の努力で獲得するものではなく、全くの神様からの賜物として与えられるものです。もし目に見える善行や、業績によるならば、行為の完璧さが求められるでしょう。それは不可能です。 彼は、自分の限界に気付き、これまでの生き方の原則を捨てて、「永遠の命」は、賜物として、恵みとして受けるものであることを知り、謙虚な姿勢へと変わったならば、イエス様のもとから去ることはなかったでしょう。しかし彼は、イエス様の言われたことを、付け加えるべき善行の条件として聞き、その結果、財産放棄は出来ないと、悲しみながらも去って行きました。イエス様は、このあと「<span class="deco" style="font-weight:bold;">金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい</span>」と言われました。 /n「永遠の命を得る」=「神の国に入る」 先週、説教されたウェイド宣教師は、「神の国には主権者がおられます。御国の民とされた者は、命をはじめとして、肉体、体力、能力、健康、財産、家族、賜物など、すべては神様からいただいた神様のものです」と語られました。ところが青年は、自分の財産に執着し続けました。 /n金持ちが神の国に入ることは・・ お金持ちが富から自由になることは、らくだが針の穴を通るよりむつかしいと、イエス様は、その困難さを弟子達に語りました。弟子達は驚き、それでは救われる人がいないのではないかと答えますと、イエス様は、「人間には出来ないが神は何でも出来る」と答えられました。神様だけが、人の心を変えることが出来るお方です。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる</span>」  終末については、私達には多くのことが隠されています。信仰生活が長いことが自慢になるわけではありません。その人が今、どれほど喜んで、神様に感謝して、神様に従う生活を送っているかが大切です。 イエス様は、従う者への終末の祝福の約束と、警告を語られています。神の国について、私達はさらに学んでいきたいと願っています。

「異邦人の救い主」  牧師 平賀真理子

/n詩編67:2-8 /nマタイ福音書2:1-12            /nはじめに  イエス様ご降誕直後の最初の礼拝者は、ユダヤ社会で低く見られていた羊飼い(ルカ福音書)と、ユダヤ人達が「異邦人」とさげすんでいた外国人(東方の占星術の学者)です(マタイ福音書)。主イエス様は、特に社会で虐げられた人々の救い主として、又、神様の約束から外れていた異邦人の救い主としてこの世に来られたというメッセージを、ここから聞くことが出来ます。 /nご降誕の時期と場所  マタイ福音書によれば、ご降誕はヘロデ王の治世(在位BC37年-BC4年)の時、場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは、かつて栄えたイスラエル王国のダビデ王の故郷の町です。東方から来たとは、恐らくアラビア半島か更に東のペルシャをさします。占星術の学者達は当時、天文や気象などを科学的に分析して農業などの生産を支える役割も担っていました。  現在、降誕時期はBC7年-4年、降誕日を12月25日と設定したのは、ローマ帝国がキリスト教を国教とする為に、既存の太陽の祭りと融合させて人為的に決めたようです。すなわち大事な救い主の生まれた時も場所も、実は人間には詳しくは明かされていない。この世における大事な出来事は神様の主権のもとにあり、人間には、おおいがかかったように秘められているということです。私達人間は、ただ神様が示して下さる出来事を注意深く観察し、御心を推し量りつつ行動することしか赦されていないのではないでしょうか。 /n占星術の学者達  学者達は自分の研究の結果、その星が救い主誕生のサインとわかるや否や、自分達の活動をやめて救い主を拝みに行きました。それは神様にとって大事なことであり、神様はそのような者を守って下さいます。  学者達は、ユダヤ教指導者達からの情報を得て、救い主誕生の地ベツレヘムへの道を辿り、星の導きを得ます。彼らがその星の動きを信じた結果、幼子イエス様に辿りつきました。神様の助けに支えられて真理への探究心と救い主を拝みたいとの信仰の結合によって、彼らの望みはかなえられました。御心に適う願いは神様がかなえて下さいます。 /n王と人々は不安を抱いた  一方、「ユダヤの新しい王の誕生」との、外国人(占星術の学者)からの情報は、今の王がその座を追われることを意味します。王とその一族だけでなく王を受け入れて生きている都の人々が、近い将来、不穏な戦いを予想して不安を抱きました。昔ではバビロン捕囚、近くでは「マカバイ戦争」(独立戦争)での経験を思い起こし、現政権が倒れることは命の危険をも予感する、あってほしくない出来事でした。 /n生きて働かれる神様の御業を感知する 神なき人間の世界は悲惨なものです。自分を愛して支配して下さる神様の存在を知らなければ、多くの人間は甘い誘惑に弱く、自分だけが楽しめれば周りの人は関係ない!で済まそうとします。これこそが罪の本性です。逃れられないその罪の状態から人間を救い出す為に、イエス様は神様から使命を託され、その罪の贖いが後の「主の十字架」です。ユダヤ人は救い主について聖書(ミカ書5:1)で知らされていましたが、ユダヤ教指導者達は、この救い主出現が自分の時代に起こると思っていなかったようです。神様の「その時」が彼らの「今」でした。   私達は主の招きにより福音を知らされ、御言葉を知らされています。生きて働く神様が、今私達にも実際にライブで働きかけて下さっていて、聖霊によってそれが起こっていることを全身全霊で感知することが求められています。御言葉を学びつつ、神様を本当に求める信仰者が集まり、捧げる礼拝の中でこそ、神様の御業を知り、感じることができるのです。  神様の御心は、罪の虜(とりこ)になった人間全体の救いであり続けていることを異邦人である私達は、この降誕節に神様の恵みに対して感謝の思いを深め、礼拝でも更に大きく賛美していきたいと願います。 /n詩編67:2-8 /nマタイ福音書2:1-12            /nはじめに  イエス様ご降誕直後の最初の礼拝者は、ユダヤ社会で低く見られていた羊飼い(ルカ福音書)と、ユダヤ人達が「異邦人」とさげすんでいた外国人(東方の占星術の学者)です(マタイ福音書)。主イエス様は、特に社会で虐げられた人々の救い主として、又、神様の約束から外れていた異邦人の救い主としてこの世に来られたというメッセージを、ここから聞くことが出来ます。 /nご降誕の時期と場所  マタイ福音書によれば、ご降誕はヘロデ王の治世(在位BC37年-BC4年)の時、場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは、かつて栄えたイスラエル王国のダビデ王の故郷の町です。東方から来たとは、恐らくアラビア半島か更に東のペルシャをさします。占星術の学者達は当時、天文や気象などを科学的に分析して農業などの生産を支える役割も担っていました。  現在、降誕時期はBC7年-4年、降誕日を12月25日と設定したのは、ローマ帝国がキリスト教を国教とする為に、既存の太陽の祭りと融合させて人為的に決めたようです。すなわち大事な救い主の生まれた時も場所も、実は人間には詳しくは明かされていない。この世における大事な出来事は神様の主権のもとにあり、人間には、おおいがかかったように秘められているということです。私達人間は、ただ神様が示して下さる出来事を注意深く観察し、御心を推し量りつつ行動することしか赦されていないのではないでしょうか。 /n占星術の学者達  学者達は自分の研究の結果、その星が救い主誕生のサインとわかるや否や、自分達の活動をやめて救い主を拝みに行きました。それは神様にとって大事なことであり、神様はそのような者を守って下さいます。  学者達は、ユダヤ教指導者達からの情報を得て、救い主誕生の地ベツレヘムへの道を辿り、星の導きを得ます。彼らがその星の動きを信じた結果、幼子イエス様に辿りつきました。神様の助けに支えられて真理への探究心と救い主を拝みたいとの信仰の結合によって、彼らの望みはかなえられました。御心に適う願いは神様がかなえて下さいます。 /n王と人々は不安を抱いた  一方、「ユダヤの新しい王の誕生」との、外国人(占星術の学者)からの情報は、今の王がその座を追われることを意味します。王とその一族だけでなく王を受け入れて生きている都の人々が、近い将来、不穏な戦いを予想して不安を抱きました。昔ではバビロン捕囚、近くでは「マカバイ戦争」(独立戦争)での経験を思い起こし、現政権が倒れることは命の危険をも予感する、あってほしくない出来事でした。 /n生きて働かれる神様の御業を感知する 神なき人間の世界は悲惨なものです。自分を愛して支配して下さる神様の存在を知らなければ、多くの人間は甘い誘惑に弱く、自分だけが楽しめれば周りの人は関係ない!で済まそうとします。これこそが罪の本性です。逃れられないその罪の状態から人間を救い出す為に、イエス様は神様から使命を託され、その罪の贖いが後の「主の十字架」です。ユダヤ人は救い主について聖書(ミカ書5:1)で知らされていましたが、ユダヤ教指導者達は、この救い主出現が自分の時代に起こると思っていなかったようです。神様の「その時」が彼らの「今」でした。   私達は主の招きにより福音を知らされ、御言葉を知らされています。生きて働く神様が、今私達にも実際にライブで働きかけて下さっていて、聖霊によってそれが起こっていることを全身全霊で感知することが求められています。御言葉を学びつつ、神様を本当に求める信仰者が集まり、捧げる礼拝の中でこそ、神様の御業を知り、感じることができるのです。  神様の御心は、罪の虜(とりこ)になった人間全体の救いであり続けていることを異邦人である私達は、この降誕節に神様の恵みに対して感謝の思いを深め、礼拝でも更に大きく賛美していきたいと願います。 /n詩編67:2-8 /nマタイ福音書2:1-12            /nはじめに  イエス様ご降誕直後の最初の礼拝者は、ユダヤ社会で低く見られていた羊飼い(ルカ福音書)と、ユダヤ人達が「異邦人」とさげすんでいた外国人(東方の占星術の学者)です(マタイ福音書)。主イエス様は、特に社会で虐げられた人々の救い主として、又、神様の約束から外れていた異邦人の救い主としてこの世に来られたというメッセージを、ここから聞くことが出来ます。 /nご降誕の時期と場所  マタイ福音書によれば、ご降誕はヘロデ王の治世(在位BC37年-BC4年)の時、場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは、かつて栄えたイスラエル王国のダビデ王の故郷の町です。東方から来たとは、恐らくアラビア半島か更に東のペルシャをさします。占星術の学者達は当時、天文や気象などを科学的に分析して農業などの生産を支える役割も担っていました。  現在、降誕時期はBC7年-4年、降誕日を12月25日と設定したのは、ローマ帝国がキリスト教を国教とする為に、既存の太陽の祭りと融合させて人為的に決めたようです。すなわち大事な救い主の生まれた時も場所も、実は人間には詳しくは明かされていない。この世における大事な出来事は神様の主権のもとにあり、人間には、おおいがかかったように秘められているということです。私達人間は、ただ神様が示して下さる出来事を注意深く観察し、御心を推し量りつつ行動することしか赦されていないのではないでしょうか。 /n占星術の学者達  学者達は自分の研究の結果、その星が救い主誕生のサインとわかるや否や、自分達の活動をやめて救い主を拝みに行きました。それは神様にとって大事なことであり、神様はそのような者を守って下さいます。  学者達は、ユダヤ教指導者達からの情報を得て、救い主誕生の地ベツレヘムへの道を辿り、星の導きを得ます。彼らがその星の動きを信じた結果、幼子イエス様に辿りつきました。神様の助けに支えられて真理への探究心と救い主を拝みたいとの信仰の結合によって、彼らの望みはかなえられました。御心に適う願いは神様がかなえて下さいます。 /n王と人々は不安を抱いた  一方、「ユダヤの新しい王の誕生」との、外国人(占星術の学者)からの情報は、今の王がその座を追われることを意味します。王とその一族だけでなく王を受け入れて生きている都の人々が、近い将来、不穏な戦いを予想して不安を抱きました。昔ではバビロン捕囚、近くでは「マカバイ戦争」(独立戦争)での経験を思い起こし、現政権が倒れることは命の危険をも予感する、あってほしくない出来事でした。 /n生きて働かれる神様の御業を感知する 神なき人間の世界は悲惨なものです。自分を愛して支配して下さる神様の存在を知らなければ、多くの人間は甘い誘惑に弱く、自分だけが楽しめれば周りの人は関係ない!で済まそうとします。これこそが罪の本性です。逃れられないその罪の状態から人間を救い出す為に、イエス様は神様から使命を託され、その罪の贖いが後の「主の十字架」です。ユダヤ人は救い主について聖書(ミカ書5:1)で知らされていましたが、ユダヤ教指導者達は、この救い主出現が自分の時代に起こると思っていなかったようです。神様の「その時」が彼らの「今」でした。   私達は主の招きにより福音を知らされ、御言葉を知らされています。生きて働く神様が、今私達にも実際にライブで働きかけて下さっていて、聖霊によってそれが起こっていることを全身全霊で感知することが求められています。御言葉を学びつつ、神様を本当に求める信仰者が集まり、捧げる礼拝の中でこそ、神様の御業を知り、感じることができるのです。  神様の御心は、罪の虜(とりこ)になった人間全体の救いであり続けていることを異邦人である私達は、この降誕節に神様の恵みに対して感謝の思いを深め、礼拝でも更に大きく賛美していきたいと願います。