「あなたの息子は生きる」 牧師 佐藤義子

/n <span class="deco" style="font-weight:bold;">詩編37:30-40</span> /n <span class="deco" style="font-weight:bold;">ヨハネ福音書4:46-54</span>          /nはじめに ユダヤからサマリヤを通り、目的地のガリラヤに到着したイエス様一行は、ガリラヤの人達に歓迎されました。というのは、イエス様がエルサレム滞在中になさった「奇跡」を見た人達がそこにいて、イエス様の評判が、エルサレムから遠く離れたガリラヤにまで伝わっていたからです。 イエス様は、カナという町に行かれました。ここは、イエス様が最初の奇跡をされた町でもありました。イエス様が町に来られたニュースは、カナから20マイル(約32キロ)も離れたカファルナウムに住む、王の役人の耳に入りました。彼には病気の息子がいて、その病気は悪化し、絶望的な状態でした。彼は息子を助けたい一心でイエス様に会いにやってきました。 /nまちがった信仰 彼はイエス様に、カファルナウムの家に来て息子を癒してほしいと頼みました。ところがイエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない</span>。」(48節)と、厳しい言葉を返されました。 イエス様がこの世に来られたのは神様の御計画によるものでした。その目的は、私達が毎週礼拝の中で「懺悔の祈り」をささげた後に、司会者によって宣言される「罪の赦し」に表わされています。罪の赦しの宣言は、以下の御言葉です。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである</span>。」(ヨハネ福音書3:16-17)。 神様は、罪の中で生き、「死」という形で滅びるしかなかった私達人間の命を救い出して、「罪の赦し」と「永遠の命」を与えて下さるために、イエス様をこの世に遣わされました。イエス様は、その全生涯を通して目に見えない神様のことを伝え、御自分が救い主として遣わされたゆえに、神様を信じ、御自分を信じるように導かれました。しかし、イエス様のなさる「奇跡」だけを追い求めて、イエス様の語る御言葉そのものには耳を傾けず、イエス様を神の御子として受け入れない人達が沢山おりました。それゆえ、「あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。 /nあなたの息子は生きる  王の役人は、愛する息子を失うかもしれないという窮地の中で「主よ、子供が死なないうちにおいで下さい。」と訴え続けました。イエス様は彼を憐れみ、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">帰りなさい。あなたの息子は生きる</span>」と約束されました。この父親にとって、イエス様が自分と一緒に来てくれるのではなく、この「言葉だけ」を与えられたことは予想外だったことでしょう。しかしこの父親は、イエス様の言葉を信じて、息子のもとへ帰って行きました。 帰る道すがら、彼は迎えに来たしもべ達に会い、息子が危篤状態を脱したことを知りました。時間を確かめると、イエス様から「息子は生きる」との約束の言葉をいただいた丁度その時間でした。 /n信仰の変化 イエス様は、私達の目がイエス様にしっかりと向けられ、私達の心がイエス様に服従し、イエス様から離れない完全な信頼をもってイエス様にお委ねするという信頼が起こされるように奇跡の業を用いられます。 王の役人が最初にイエス様のところに来た時の信仰は、息子の病気を癒してほしいと、イエス様を「奇跡を行う方」として信じる信仰でした。ところが、あとから与えられた新しい信仰(53節:彼もその家族もこぞって信じた信仰)は、自分の利益のみを求める信仰ではなく、イエス様の中に、神様だけが与えることのお出来になる、最善で、完全なものを認める、ゆるぎのない信仰です。  この信仰は、私達の生涯の中で、どんなことが起ころうとも、たとえ、死に向かわなければならなくなったとしても、神様の恵みが私達といつも共にあるという信仰であり確信です。 イエス様は、御自分を求めてくる人々に、その要求を神様への交わりにまで高める道へと導びいてくださるお方なのです。

  宗教改革記念礼拝 「神の言葉で生きる」

                 <span class="deco" style="font-weight:bold;">                東北学院大学 佐々木哲夫先生</span></span> /n申命記8:1-10 /nマタイ4:1-11     /nはじめに  本日は宗教改革記念の礼拝です。 今を去ること約500年前の1517年、マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に、95カ条の提題の紙を貼りだしたことを記念しての礼拝です。  宗教改革は、ルターにとどまらず、その後のジャン・カルヴァンの改革に至るまで、広範囲に及ぶものでありました。宗教改革の全貌を取り扱うには時間的な制約もありますので、本日は、宗教改革の中でも重要な事柄であった「聖書の言葉に基づく信仰」という点に注目して考えたいと願っております。 /n聖書の権威 ルターが修道士になった頃もそうでしたが、カトリック教会のミサではラテン語の聖書が用いられ、ラテン語で典礼が行われていました。 宗教改革の50年ほど前、1455年、ドイツで印刷技術がグーテンベルクによって発明されていましたので、聖書はすでに印刷されておりました。しかしその聖書は、ラテン語の聖書でした。ドイツの人々はドイツ語を母国語としていましたので、ラテン語を必ずしも理解出来たわけではありません。聖書を手にすることもむつかしい。手にしたとしてもラテン語で書かれていたので読むことも出来ない。そういう環境におかれていたのです。 おそらく神の言葉に触れるのは、司祭の、日常の言葉を通してであったと思われます。人々は、神から遠い位置に置かれていたのです。 しばらくして1537年、ルターは、「シュマルカルデン信条」を記して公会に提出していますが、その中で次のように記しています。 「神の言葉が、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であってもくつがえすことが出来ない」。すなわち教皇も、教会会議も、それが最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであることを主張したのです。 /n『人はパンだけで・・・ない』と、(旧約聖書に)書いてある。 「聖書の言葉に基づく信仰」という理念は、ルターが言った言葉ですが、それはルターが初めてということではありません。すでに、イエス・キリストに見られます。本日の聖書に「イエスはお答えになった『人はパンだけで生きるものではない。』(マタイ4:4)とありますが、この言葉は、ことわざになっているほどに有名です。インターネットで調べますと(ことわざ辞典)、次のように記されておりました。「これは新約聖書の言葉である。人は物質的な満足だけを目的として生きるものではなく、精神的な満足を得るためにこそ生きるべきである」。 日本文化の価値観の中の一つに「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。人は生活が楽になって初めて礼儀に心を向ける余裕が出来るのだということです。そういう日本の中で「人はパンだけで生きるものではない」と、まるで正反対の価値観を語ると思われることを言いますと、抵抗感を感じる人もいるかもしれません。 「パン」か、「神の言葉」か、という二者択一では無くて、人はパン「だけ」で生きるのではないというのですから、パンも、神の言葉も、両方、必要だと説明する向きもあるかと思われます。  このマタイ福音書の箇所を良く読みますと、イエス・キリストとサタンが議論している場面で、サタンは自分に従わせようとしてイエス・キリストを説得します。イエス・キリストは、旧約聖書の言葉で応じるという構図になっています。よく読むとイエス・キリストは<span class="deco" style="font-weight:bold;">「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある</span>。」そうイエス・キリストは言うのです。これは、イエス・キリストの言葉というよりも、旧約聖書の言葉を引用しているのです。ある意味では、イエス・キリストもサタンも、議論の前提として、旧約聖書を置いているということですので、私達もこの箇所を理解するためには旧約聖書を理解しなければならないということになると思います。  そこで、申命記8:3-10をもう一度読みます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。</span>」 /n「神の言葉」が先立って必要である  この申命記は、モーセによってエジプトから導きだされ、荒れ野をさまようイスラエルの民たちのことが言われているのです。あのイスラエルの民は、エジプトから出て、荒れ野でひもじい思いをしていました。そして彼らはつぶやきます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト記16:3)。 こんな不平を、イスラエルの人々は指導者であるモーセにつぶやいた。 「腹が減った。奴隷であったとしてもエジプトにいて、腹一杯食べた時のほうが良かった」と不平を言った時に、神が与えたのが、朝に「マナ」、夕には「うずら」だったわけです。マナはパン、うずらは肉として与えられたものです(森永製菓のビスケット「マンナ」がここからとられたのは有名な話)。  神が食べ物を与えた。人々がそれを食べた。その時に、申命記の「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる</span>」と語られているのです。 驚くべきことに、生きる為に必要なパンと肉が与えられた。すでにパンと肉が与えられた人々に、その言葉が語られた。「パン」が必要か、「神の言葉」が必要か、ではなくて、すでにパンを与えられた人々に、『人はパンだけで生きるのではない』と語られたのです。すなわちパンか、神の言葉か、ではなく、「神の言葉が先立っている、先立って必要だ」ということをこの時に語られたということです。 /nキリスト御自身の言葉 ところでその後、イエス・キリストは劇的な変化を示します。 どういう変化かと申しますと、旧約聖書から引用するのではなくて、「ご自分の言葉」によって言葉を伝えている。ガリラヤ湖畔の山上において、イエス・キリストは民衆や弟子達に語るのです。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。その日の苦労は、その日だけで十分である。</span>」(マタイ6:31-) ここでは、イエス・キリストはもう旧約聖書から引用すると言う形ではなくて、自らの言葉として語っているのです。 /nキリストの教え 二つの点に注目したいと思います。 第一は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その日の苦労はその日だけで十分である</span>」。 今日のんびりと過ごしなさいと言う意味ではありません。一日の内にはかなりの労苦がある。苦労がある。苦労という言葉を直訳すると「恨みや悪意」という意味で用いられる言葉です。ですからそうなまやさしい苦労ではないということが想像されます。 第二に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">思い悩むな</span>」。 心配するな、心引き裂かれて思い煩うな、と、イエス・キリストは自分の言葉でそう言っているのです。心配事はその日だけにしなさい、と言っているように聞こえます。それはそうです。しかしそれが出来ない。それこそ、それが出来れば苦労がないのです。ストレスがたまる、心が折れる、ということを経験していますので、そうは言われてもそう簡単には出来ないとの気持が起きるのですが、イエス・キリストは視点を変えて見なさいと言います。 26節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか</span>。」 28節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ</span>」。   自然を見よ。鳥を見よ。花を見よ。それはある程度、効果があるとは思います。実際、山に登って気分が良いとか、気分転換になったと言う人は少なからずおります。しかしここで大切なことはその根底にある事柄です。 /n神と共に生きている。だから、何よりもまず・・ イエス・キリストは告げます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる</span>」(同32-33)。 イエス・キリストは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その日の苦労は、その日だけで十分である</span>。」と語りましたが、当てのない楽天的な言葉で語ったわけではない。一生懸命生きよ、というのですが、しかし単に励ましているのではない。そこには秘訣がありました。 一人だけで一生懸命生きているのではなくて、あなた方に必要なことをご存知であり、みな加えて与えられる「神」が共に生きている。神と共に生きている。だから、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。ということが肝要なのだというのです。 さきほど私が述べたような理屈は、まさにイエス・キリストの言葉でいえば、「信仰の薄い者たちよ」と一蹴されてしまうことでしょう。 否むしろ、何よりも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の国と神の義を求めなさい</span>」というのは、実に信仰者に与えられている秘訣なのです。 さて、イエス・キリストはこのような言葉を、旧約聖書と同じ権威をもって人々に語りました。初代教会は、そのことを正しく理解しました。すなわち、旧約聖書と新約聖書を等しくキリスト教の「正典」と定めたのです。「正典」というのは、キリスト者の信仰と生活の規範・物差し・基準ということです。  ルターは、その聖書の言葉を、「堅き岩」、「土台」、「物差し」、「規準」としたのです。  私達も、宗教改革の伝統に生きている教会として、改めて、旧約聖書・新約聖書の言葉を土台として生きている、ということを再確認したいと願うのであります。

「新しい契約」  伝道師 平賀真理子

/nエレミヤ 31:27-34 /nマルコ 14:23-26 /nはじめに   イスラエルの民は、神様が本当に自分達の救いの為に「エジプトからの脱出」の出来事を通して働いて下さったことを覚えて、「過越祭」を代々、祝ってきました。先祖の困難に思いを馳せ、神様の偉大な助けと導きを感謝し続けたのです。そして又、イエス様が、ご生涯最後の過越の食事を弟子達となさることは、イエス様ご自身も切望されていたことでした。 イエス様が、最後の食事を弟子達となさることには二つの意味がありました。一つは、イエス様が、神様とイスラエル民族の間に交わした救いの約束を完成されること。もう一つは、神様とイスラエル民族との間に結んだ「民の律法の遵守と、神様の祝福」という契約が、人間の罪によって破られてしまった歴史の中で、契約を結び直されるということでした。 /n人間の神への不信仰と、神の愛 初めの契約が破られた人間側の「罪」とは、出エジプトへと救い出して下さった唯一の神様を、イスラエルの民は信じ続けることが出来ず、近隣の土地の偶像の神々への信仰に陥り、又、守るべき律法(十戒など)を守り続けることが出来なかったことです。神様は長い間忍耐されましたが、人々は神様に立ち帰ることなく、罪によって神様から遠ざかり、苦しみに喘ぐ生活を送るようになりました。それでも神様は人間を見捨てることなく、人間の悲惨な状況を救おうと、地上に御子イエス様を誕生させられました。 /n御子の誕生  神様は、御自身がどのような方であるのか(義や知恵や愛など)を、イエス様の御言葉や歩みによって、人間に分かるように知らせようとされました。しかし本当の意味で、弟子達も民衆も、イエス様をしっかりと認識して受け入れることは出来ませんでした。それでも人間を愛して下さる神様は、神様を信じる者との間に、新しい契約を打ち立てられたのです。 /n新しい契約 エレミヤ書によれば、新しい契約を結ぶ民は、「神様の律法を胸の中に授かり、心に記される」人々であり、「主を知っている」者です。それは、一人一人の心の中で起こされる信仰によるものです。新しい契約を結んだ人々に対して、神様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その悪を赦し、再びその罪に心を留めることがない</span>」と、エレミヤ書31:34に記されています。  しかし、そうなるためには、その人の罪が清くされねばなりません。聖である神様は、その御性質上汚れた者を受け入れることは出来ないのです。そして人間は、人間だけの力で清くなれないことは自分のことでも、旧約聖書の何千年の歴史でも既に明らかです。 /n罪が赦され、清くされるために 神様の前に罪を償おうとすれば、人は、「命をもって」償わなければなりません。旧約の時代は、それが動物の血で肩代わりされていました。しかし、イエス様が来られたのは、何回も繰り返される動物の犠牲ではなく、ただ一回限り、罪のない神の御子・イエス様の血が流されることによって得られる、人間の罪の償い(と神様からの赦し)の為でした。 (参照:へブル書9:22「<span class="deco" style="font-weight:bold;">血を流すことなしに罪の赦しはありえない</span>」)。「自分の罪をイエス様が贖って下さる。イエス様の犠牲の死によって、自分の罪が赦される。」そのことを知り、信じて、イエス様を遣わされた神様を自分の神様とし、この神様の民とされることを約束した者は、神様の教えを胸に授けられ、心に記されるのです。 /n聖餐 聖餐は、イエス様が最後の過越の食事の時に、「パン」を「主の体」、「ぶどう酒」を「主の血」として「わたしの記念として行いなさい」と言われたことから、キリスト教会では洗礼と共に約2000年間守られています。洗礼は、自分ではどうしてもぬぐえない自分の罪をイエス様が贖って下さり、赦して下さったことを信じて、「イエス様は主である」と公に告白して受けるものです。洗礼後は聖餐によって、主の贖いの死を思い起こし、自分自身の救いの出来事を感謝し、再臨と神の国を待ち望みます。聖餐によって、イエス様を信じる者達は、本当にイエス様と結び付けられ、又、信じる者同士も ずっと結ばれ続けるのです。(後略)。

「聖霊降臨の恵み」伝道師 平賀真理子

/n申命記4:23~24・35~37 /n使徒言行録2:1-13 /nはじめに 聖書の後ろにある「用語解説」で「聖霊」を調べますと、「聖霊」とは「神の霊」の別の名とあります。「神」とは聖書で証しされている神様のことで、「聖霊」はその神様の霊のことです。 イエス様の人間としての歩みは聖霊によって始まり、神の国の宣教を始める「公生涯」も洗礼直後に聖霊が降るところから始まっています。更に弟子達にも「聖霊」が働き、彼らを導き助けてくれることを、イエス様ご自身が預言されています(参照:ヨハネ福音書14章・16章、使徒言行録1:8)。その預言通りのことが最初に、実際に起こった!それが、「ペンテコステ」の出来事です。 /n神様の恵み 神の霊である聖霊が、一人一人に降(くだ)る。そして、私達のそばに来て、共に歩んで下さる。神様の意志に背き、神様に従うことを拒んで、罪の世界で苦しんでいた人間にとって、それはまさしく「神様の恵み」であり、奇跡的な出来事でした。イエス様の十字架による「罪の贖い」と、イエス様の復活に示される「罪への勝利」がなくては、そのような恵みはあり得なかったのです! /n福音宣教のために 今日の聖書では、イエス様を信じる者達が一つになっているところに「聖霊」が降りました。神様からのエネルギー、人間への愛の強さを思わせる、ものすごい音と共に「聖霊」が降り、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。「炎」は、神様の人間への激しい愛の強さ=「熱情」を表す表現と言えるでしょう。又、「舌」は、いろいろな国や地域の言葉、母国語と読み取れます。それぞれの弟子達が、「神様の救いの業」の一部を担う役割を与えられ、「神の国の福音の宣教」を全世界に広げる役割を与えられたと取ることができます。 /n2000年前から今日まで  この出来事は、2000年前に起こった、私達に関係ない出来事ではありません。聖書で述べられているように、イエス様を救い主と告白するのは、聖霊の御力をいただいて、初めてなされることです。そこに神様の働きが示されるからです。聖霊を受けて、迫害にも負けずに、福音を伝えようとする人々が起こされ続けたからこそ、遠いパレスチナから 日本の、現代に生きる私達の人生のそれぞれの時期に到達したのです!これが単なる偶然の積み重ねでしょうか。そうではありません。イエス様がこの地上を去られてから後、福音伝道をずっと導いてこられたのが「聖霊」です。その聖霊の恵みを受けて、私達は、信仰の喜びを得る ことができた(できる)のです! /n聖霊を受けるにふさわしくなるには? 聖霊を受けたいと願うならば、神様が大事だと思うことを、自分も大事にすることです。神様は、御自分が造られた人間が、本来の姿を取り戻す・・つまり罪の世界に生きている人間が、神の国の民として救われることを望んでおられます。そのために福音が示されました。私達は、福音=「救い主イエス様の御言葉と御業」が、自分自身にとって大きな恵みだということを知ることが大切です。そのために週の初めの礼拝と、日々聖書を読み、祈ることです。それによって私達は、実は、聖霊をいただくための準備をしているのです。聖霊降臨の恵みは2000年前の弟子達だけの特権ではなく、準備をもって信じて祈り求める者なら誰でも、(神様が決められた)その時に、受けることができます。イエス様の愛のまなざしが、信じる者に注がれています。福音の証し人として生きるキリスト者に、いつでも聖霊の助けを求める道が用意されているのです。

「罪人たちによる裁判」 伝道師 平賀真理子

/n ダニエル書7:13-14 /n マルコ14:53-65           /nはじめに  イエス様はユダの裏切りによって反対者達に引き渡されましたが、うしろで操っていたのは、宗教的権威をもつ人々であり、最高法院議員という政治的な権力を持つことができた「祭司長、律法学者、長老達」でした。彼らは「安息日の遵守」や「罪人達との交際による汚れを避ける」など、律法を大切に守り、又教えました。「律法」は、神様の御意思を示すものですが、彼らはそのことを忘れ、「形を守る」こと、すなわち、本質よりも目に見えるものにこだわりました。 それに対してイエス様は、「神様の愛」という本質を語り、神様の愛と力の表れとしての「奇跡」も行われました。彼らはイエス様と自分達との優劣を比較し、その結果嫉妬し、相手を亡きものにしようとしました。今日の聖書は、彼らが自分達の念願通り、「イエスを殺す」ことを決める箇所です。 /n裁判 彼らの心の奥底は、イエス様に対する嫉妬と憎悪の感情で満たされていました。けれどもそれを、正当な法的手段で包み隠そうとして裁判を開きました。裁判は通常、大事な祭りや大事な安息日には開かれません。この時は大事な過越祭でした。又、通常、夜は開かれません。この裁判は夜、行なわれました。裁判の場所も、大祭司の私的な邸宅の一部である庭でした。さらに、裁判では「証言が食い違った」(59節)とありますが、証言は細かい所まで一致しなければ、その内容は有効とされないのだそうです。刑の執行についても違法でした。死刑執行には、一日は必ず置くことが決められていましたが、イエス様の場合、数時間後に刑が執行されています。 /n沈黙の中のひとこと  裁判における数多くの証言は、どれも決定的なものではありませんでした。イエス様ご自身も、虚しい証言の一つ一つには沈黙を守られました。しかし、大祭司の、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いには、敢然と肯定の返事をされました「わたしがそうである」と。 「自分は神の子である」と言うことは、ユダヤ社会では神様への最大の冒瀆と考えられていましたし、イエス様も、その言葉でご自分が死罪になることは分かっておられました。それでもこのことを否定したり、曖昧にしたりすることはなさいませんでした。偽証は罪だからです。 /n判決 それに引き換え反対者達は、自分達だけでなく人々にも偽証するよう求めたのです。人を罪に誘導し、罪の仲間に引きずり込む・・、これも罪人の典型的なパターンです。 今日の旧約聖書(ダニエル書)にある「メシア」の姿は、大祭司達にもよく知られていました。イエス様が、御自分をメシアとして証言された言葉を聞き、大祭司は衣を引き裂いたとあります。これは宗教的な汚れ(神への冒瀆)を体験したことの、最大の怒りや嘆きの表現です。この直後、大祭司は「死刑判決」を下しました。 /n「唾をはきかけ、こぶしで殴りつけ、平手で打った」 判決後、イエス様に対して暴力が行われました。この世の権威の下にいる人々が、有罪とされた「弱い」者には力を用いて相手の尊厳を傷つけても許されると誤解したからです。何が真実かではなく、日頃、虐げられている自分のうっぷんをはらす人間の弱さ愚かさを知らされます。 /n十字架の背後には罪の赦しと神様の愛 このような反対者達や部下達の罪深さを見る時、自分の中にも同じような弱く愚かで自己中心的な罪を見つけます。この私達人間の罪を背負い、その罪が赦される為の犠牲として、イエス様は罪人達による裁判で苦しまれ、屈辱的な十字架の死を孤独の中で遂げられました。その歩みの過酷さを思います。しかしイエス様は、父なる神様の前に従順に従い続けた結果、「復活」の栄光を与えられ、信じる者達には新しい信仰と、信仰の共同体である教会が与えられることになりました。十字架は私の罪のため、しかしそれはその先に神様のもとでの、本当の人間としての祝福を、神様が私達に与えたいと願われておられるからです。 今週も、神の国の民として歩めるように、聖霊の助けを祈り求めましょう。 

「キリストの洗礼」    牧師 佐藤義子 

/n詩編 89:2-15 /nマタイによる福音書 3:13-17            /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)から洗礼を授けられたことが記されています。 当時人々に洗礼を授けていたヨハネは、神様が私達人間を救う為に御子イエス・キリストをこの地上に遣わされるという救いの御計画の中で大変重要な役割を与えられた人でした。彼の誕生にあたっては、母親の胎内に入る前からすでに父親となる祭司ザカリヤに告知されていました(ルカ福音書1章)。ヨハネの使命は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">民を、神のもとに立ち帰らせ、準備の出来た民を主のために用意する</span>」ことでした。 /n洗礼者ヨハネに関する預言の成就  旧約聖書イザヤ書40章に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">呼び掛ける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る</span>。」(3-5節)との預言があります。  今日の聖書の直前に、ヨハネがユダヤの荒れ野で、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としており、ヨルダン川で人々に悔改めを促す説教をして、悔い改める者に洗礼を授けていたことが記されています。ユダヤの人々は旧約の時代から、長い間、救い主・メシアを待ち続けていましたから、多くの人々はヨハネこそ、自分達が待っていたメシアかもしれないと期待しました。ヨハネのメッセージは、やがてまもなく神様の裁きの時が来る。あなた達は自分の罪を悔い改めなければならない。というもので、生まれた時から律法(十戒など)を教えられていたユダヤ人には良くわかりました。ヨハネは、洗礼を授けるだけではなく、もう一つのことを人々に語りました。それは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる</span>。」(11節)でした。後から来るメシアは高い御力で神の国を支配され、「聖霊と火」でバプテスマを授けるのです。「聖霊」は新しい命を与えるもの、「火」は悪を滅ぼし尽くす力を持っています。火はあらゆる汚れを清めて、神様が現臨して下さる為の、聖化をもたらすものです。  /nイエス様のバプテスマ  バプテスマとは、「浸水する」という意味の動詞からきた名詞です。人々はヨルダン川に身を沈めることによって、自分達は正しいという誇りを捨て去り、神と人の前ではっきりと自分を罪人として表明しました。洗礼が、罪を告白し、悔改めることによって罪の赦しが与えられることならば、罪のない神の御子・イエス様は受ける必要がないと考えられます。ところが群衆に交じって、イエス様はバプテスマを受けに来られました。ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と聞いています。しかしイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです</span>。」と答えられています。 /n「正しいこと」とは神様の御心に適うこと  罪を犯していないイエス様がバプテスマを受けるということは、イエス様御自身が、御自分を、罪ある人間の側に身を置かれ、罪ある人間と同じ者としてその交わりに入ることです。フィリピ書には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました</span>」(2:6)とある通りです。イエス様が洗礼を受けられた時、天は開き、神様の霊がイエス様の中に入り、天からの声が聞えました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者</span>」。こうして神の御子・イエス様の、救い主としての公生涯が始められました。 イエス様は、私達に、聖霊と火でバプテスマを授けて下さるお方です。私達はこのバプテスマをも求めていかなければなりません。聖霊が私達に降る時、私達は新しく造り変えられていきます。私達は洗礼によって、古い自分と決別したはずですが、なお、私達は新しく造り変えられていく必要があります。悪の根が火で焼き尽くされ、聖霊を受けることによって、私達はイエス様に似る者とされていく約束が与えられています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」</span>(ロマ書8:29)