「神から出た教え」  牧師 佐藤 義子

/n詩編146:1-10 /nヨハネ福音書7:10-18 /nはじめに  今読んでいただいた聖書は、ユダヤ教の三大祭りの一つである、仮庵の祭りでの出来事です。仮庵の祭りについては、旧約聖書の申命記(16:13-)、レビ記(23:34-43)・民数記(29:12-14)にも記されていますが、モーセの時代以後長い間この祭りは行われず、バビロン捕囚から帰ってから再開されたことがネヘミヤ記8章で伝えられています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されている通りに仮庵を作りなさい。(略)こうして人々はそこで過ごした。それはまことに大きな喜びの祝いであった</span>。」  この祭りは後に、イスラエル民族がエジプトを脱出して40年間の荒れ野の旅を続けた時、天幕を張りテント生活をしてきたことを思い起こす時として過ごすようになりました。イエス様の時代も、この祭りの時には、おびただしい巡礼者が、エルサレムに集まりました。 /nイエス様と兄弟達との根本的な違い 7章の初めには仮庵の祭りが近づいてきたので、ガリラヤにいたイエス様の兄弟達も祭りにいく準備をしていたとあります。兄弟達はイエス様に、ガリラヤのような田舎ではなく、大勢の人達が集まるエルサレムに上ってイエス様の実力を示し、自分がメシアであることを世間にアピールしたらどうだと促しています。私達の社会では力のある人が歓迎され、力のある人の所に人は集まります。イエス様の兄弟達は、まさにこの世の生き方に倣い、イエス様の力を世間に見せつけて人々の心をつかめと勧めたのです。それに対してイエス様は「私の時はまだ来ていない」と拒否されました。 「私の時」という「時」は、御自分のことをはっきりとおおやけに示す『時』のことです。それは十字架への道が開始される時でもあります。イエス様の「時」は神様がお決めになることであり、イエス様は決められたことに従順に従うだけなのです。兄弟達はこの世に同調し、この世の流れにのって生きているのでこの世との矛盾も戦いも抵抗もありません。 しかしイエス様は、この世が行っている悪をはっきりと指摘するので、この世はイエス様を憎みます。兄弟達の生き方は、人々が賞賛するやり方であり判定基準はこの世の人々に委ねる道です。イエス様はこの世の根本的な間違いを指摘し悔い改めを求められます。聖書は、「兄弟達もイエスを信じていなかった(神の子救い主として)」と証言します。 /n「神から出た教え」   今日の聖書では、祭りに行かないと答えたイエス様が、その後人目を避けてエルサレムに上り、祭りの中頃、神殿の境内で、人々に旧約聖書から教えられたと伝えています。それを聞いたユダヤ人達はイエス様が学問をしたわけでもないのに聖書を良く知っているので驚いたと記されています。それに対して、イエス様はこう言われました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」</span>  イエス様の教えの中に神ご自身の御声を聞くかどうかは、その人が、神様との生きた交わりをもっていること、本当の信仰を持っている者、神様の御心を行おうとする者であるかどうかが問われます。   私達の語る言葉が人間から出ているなら、その言葉はその語った人に帰っていきます。けれどもその言葉が神様から出てくるなら、それは神様の栄光を表わし、目を神様に向けさせ、神様に対する感謝と神様への愛を引き起こします。自分を高めようとする者は、真理を手に入れることは出来ません。神様の栄光を表わそうとする者、神様を中心として歩む者だけが真理にとどまることをイエス様はここで教えておられます。 私達は、自分の意志を貫くことを最優先に考えたがります。しかしその前に先ず「イエス様のように神様の御心を行う者になりたい!」との願いと祈りをもって、今週の歩みを歩んでいきたいと願うものです。

「インマヌエル(神は我々と共におられる)」牧師 佐藤義子

<span class="deco" style="font-weight:bold;"></span> /nゼカリヤ書8:16-23 /nマタイによる福音書1:18-25     /nはじめに   本日から待降節に入ります。キリスト教の暦では、救い主の誕生を待つ季節から始まります。待降節第一主日の今日、ローソクの1本に火が灯りました。これから日曜日毎に2本目、3本目にも火が灯り、4本灯りますとクリスマスを迎え、降誕節に入ります。 /n「褒(ほ)むべきかな 主のみ恵み、今日まで旅路を守りたまえり。」  これは、讃美歌534番の最初の歌詞です。今朝の礼拝は、仙台南伝道所にとって礼拝開始10周年という節目にあたる礼拝です。「伝道所の歴史」としての10周年は、日本キリスト教団の伝道所として開設されてから数えますので10年まであと1年半ありますが、ここ、佐藤博子姉の応接間で礼拝をささげるようになってから10年がたちました。週報ナンバーを見ると523回目の礼拝です。この回数を見ただけでも神様が、毎週・毎週、守り導いて下さってきたことがわかり感謝の思いを深くします。  コリント第一の手紙1:10に、「神は、(これほど大きな死の危険から)私達を救って下さったし、また救って下さるでしょう。これからも救って下さるに違いないと、私達は神に希望をかけています。」とあります。私達も同じ信仰で、これからも神様に希望をかけて歩み続けていきたいと願っています。 /n伝道メッセージ  開拓伝道で何を伝えたいかと問われるならば、「神様が、その独り子を私達に送って下さったのは、神様から離れて苦しんで生きている私達人間が、神様の守りと祝福の中で生きていくためです。神様のもとに立ち帰り、神の御子イエス様を信じて、神の国の民とされて、真理の道を共に歩んでいきましょう!」です。伝道とは、このメッセージを携えて、自分自身がそれまでの生き方から変えられた喜びと共に、聖書が示す真理の道に向かって歩ける幸いを、「あなたも御一緒に!」と呼びかけることでもあります。けれどもこの呼びかけは、人間として生きる根本的な土台の部分に光をあてることになり、簡単には呼びかけに応える人達は出てきません。しかし今日の旧約聖書に「一つの町の住民は他の町に行って言う『さあ、共に行って、主の恵みを求め、万軍の主を尋ね求めよう』言われた人は「わたしも喜んでいきます」(21節)とあり、礼拝に誘い合って行く姿が記されています。又、異邦人がユダヤ人に「あなた達と共に行かせてほしい。我々は、神があなた達と共におられると聞いたからだ。」(23節)と、神を信じる者達の言動が評判となり、一人のユダヤ人に、十人の異邦人が礼拝に共に行きたいと頼む姿が記されています。   クリスチャンの言動を通して、神様が彼らと共にいることが明らかにされた時、このような光景が生まれることを聖書は伝えているのです。 /nインマヌエル  今日の新約聖書には、マリアの婚約者であるヨセフの夢に現れた天使の言葉が記されています。天使の告知は、「『自分の民を罪から救うお方』が生まれる。そのお方は、今聖霊によってマリアの胎内に宿っている」というものでした。「罪から救うお方が生まれる」とは、罪によって出来た神様と人間との断絶関係が廃棄され、罪の赦しが人間に与えられる。その罪の赦しをもたらすお方が、マリアから生まれ出る幼子であるということです。このことはすでにイザヤ書7章で預言され「その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)と福音書は引用しています。「エル」は「神」、「インマヌ」は「我々と共に」、インマヌエルは「神は我々と共におられる」です。「人間が罪から救われる」とは、神様との断絶の原因である罪が赦されて、神様がいつも私達と共にいて守り、導き、支え、励まし、慰め、いつでも「インマヌエル」と告白出来る関係に入ることです。

「主の十字架と平和」  伝道師 平賀真理子

/nゼカリヤ書 9:9-10 /nエフェソ 2:11-22    /nはじめに     今日は、私達の主イエス・キリストのエルサレム入城を記念する日です。 エルサレム入城は、旧約聖書のゼカリア書9:9~10の預言の実現です。当時の王=支配者は、弱い者を強い力で支配し、軍隊で使われる「馬」を使用しましたが、ゼカリヤ書で預言される「王」は、弱い民衆の農作業や水汲みなどの家事で使われた「ろば」で入場します。ろばは、おとなしい性格であるため、柔和・謙遜を象徴するものと考えられていました。ゼカリヤ書は、神様から派遣される「王」は、柔和・謙遜な方であり、その象徴である「ろば」でエルサレムに入られること、その方からもたらされる本物の平和こそが、全世界に広がるようになると預言します。 /n大歓迎のあとに・・  ゼカリヤ書で預言された「王」とは人々が待望していた「救い主」です。イエス様が語られた福音の言葉や奇跡の業を通して、人々はイエス様こそ待望の救い主だと思ったのです。イエス様がエルサレムの町に入られた日、人々は服や木の枝(しゅろ)を道に敷いてイエス様を「王」として大歓迎しました。その5日後の金曜日、イエス様は十字架にかけられ殺されました。 /n敵意  殺されることになった直接の原因は,ユダヤ教指導者達の「敵意」でした。敵意こそイエス様を十字架につけたものです。神様は、イスラエルの民が最も貧弱な民であったゆえに、御自分の民として選び愛し、その証しとして「律法」を授けられました。しかしイエス様の時代のユダヤ教は、それを忘れ、律法を形式的に守ることを重要視しました。又、「選びの民」としての責任を果たすよりも「選び」を傲慢に受け取りました。イエス様が彼らを痛烈に批判(マタイ23:1~36他)したことや、民衆のイエス様人気に対する「敵意」から、ユダヤ教指導者達はローマの役人と、付和雷同的な民衆を焚きつけて、イエス様を十字架につけるように画策したのです。  彼らは神様の御心を聴くことより、自分達の権威の失墜を恐れたのです。                 /nこの世に対する勝利  イエス様は、福音を伝えていく生活の中で、彼らに時に厳しく、時には忍耐強く教えられましたが、最後は彼らのやり方に任されました。これこそ神様の勝利の方程式です。罪の子達のやり方に負けているように見えて、実はそれを越える「本当の救い」の業がこの世に繰り広げられることになったのです。十字架は最も残酷な刑罰の一つで、人間の知識から言えば、これに神の御子がかかることは明らかに敗北です。にもかかわらずイエス様は、十字架上の苦しみを忍耐され、神様のご計画に徹底的に従うという尊い犠牲によって、不従順を続けた人間達の罪のすべてに対して神様からの赦しをもたらして下さいました。これこそこの世に対する勝利の証です。 /n「十字架と復活」を信じる信仰  神様から選ばれたユダヤ人だけが救われる時代は終り、イエス様の「十字架と復活」を信じる者なら誰でも救われる時代になったのです。神様は聖なる方であり、人間が罪に染まった状態では交流できませんが、十字架による罪の赦しを信じた者は、聖なる神様と交流することができるようになり、本当の平和の状態に置かれるのです。 /n十字架と平和  今日の聖書では、エフェソのキリスト教会が、ユダヤ教からの改宗者と異邦人のキリスト教徒との間にわだかまりがあったことを伝えています。それに対して、双方が、イエス様の十字架に立ち帰れば、自分を縛っていた「敵意」や「罪」を、主が御自分と一緒に十字架上で滅ぼして下さり、一人の人間が新しく造られるように結び合わされて成長出来ることが語られます。現代の教会でも、年齢・性別・育てられた環境の違いなどから生まれる信仰の違いなど、「隔ての壁」による分裂が起こっています。  しかし私達は、今日の御言葉から、「主の十字架によって敵意を滅ぼされている恵み」に立ち帰る必要を知らされます。私達は等しく主の十字架によって罪を赦され、主の復活と共に私達も復活の恵みにあずかることが許されています。この一点で、教会は「平和の共同体」たり得ます。主の十字架による平和こそが、救いの出来事であり、神様の賜物であり、恵みです。              /n希望のない戦い 最初の「救いの計画」に入っていなかった異邦人の私達は、聖書で証しされているような神様のことを知りませんでした。そして、訳がわからないまま悪い思いに捕らわれている自分、望まない悪いことをしてしまう自分、又、自己中心的な思いをむき出しにしてぶつかってくる家族や周囲の人々、弱い者が強い者に平然と利用される社会・・・等の中で、希望を持てずに生き続けなければならない、希望のない戦いを一生続けていかなくてはならないと思ってきました。 /n福音を知らされて しかし、福音を知らされた後の私達は、希望のなかった状態から本当の平和の状態へ招き入れられ、復活の恵みに共にあずからせていただいたことが分かりつつあります。それは神様を知らなかった頃の、絶望とは逆の、「希望」の世界です。神様から遠かった私達が、神様の聖なる民へと変えられたのです。愛と柔和・謙遜のイエス様が、私達の所にも来て下さったのです!ここに魂の本当の平安、救いの真実があります!  /n「父なる神・子なるイエス様・聖霊」の働き 十字架の苦難を、私達の敵意や罪のために耐え忍んで下さり、それだけでなく、御自分の、勝利の復活の恵みを共有しようとして下さる神の御子・イエス様。世の初めから、人間を本当に救おうと徹底的に愛して働きかけて下さる父なる神様。私達が洗礼を受けてから今日に至るまで、イエス様を土台とする信仰を成長させるために、常に私達に働きかけて下さっている聖霊。ありとあらゆる方向から、私達は神様の恵みを受けています。完璧な救いによる完全な平和を与えられていることを心から感謝します。その恵みを、謙遜な思いを持って感謝して受け、それを讃美致しましょう。  今日の御言葉通り、主の十字架の犠牲によって、本当の救いや平和が与えられていることを心に留めましょう。受難週である今週一週間は、特に、主の御苦しみやそれにも勝る愛に対する感謝を覚えて過ごせるように、聖霊の助けを祈ってまいりましょう。                

「実で見分ける」 牧師 佐藤義子

/nミカ書3:1-8 /nマタイによる福音書7:15-20 /nはじめに 私達は、自分に与えられた人生を生きていく上で、導き手が必要です。幼い時は、両親によって導かれ、成長に伴い幼稚園・保育園や、入学以降に出会う教師達、さらには人生の先輩ともいえる人達と出会い、アドバイスや指導を受けながら、今日の自分があるのではないかと思います。 しかし、それらの人々との出会いとは区別される出会い、自分の人生観や価値観に決定的な影響を与えるのは、自分に命を与え、自分を生かして下さる創造主である神様との出会いではないかと思います。旧約聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしには何の楽しみもない』と言うようにならない前に、そのようにせよ</span>。」(コヘレトの言葉12:1)とあります。日本では神道や仏教の影響が強く、聖書が伝える創造主であり、イエス・キリストの父である神様のことを聞く機会が限られています。その中で、若い日を過ぎたあとでも、こうして生きている間に神様と出会うことが出来ることは、本当に素晴らしいことであり、大きな神様の恵みです。 /n偽預言者を警戒しなさい 今日の聖書は、神様のことを知った後の信仰の導き手について、イエス様が「偽預言者を警戒しなさい」と警告している箇所です。私達の社会でいえば、宗教的な指導者(キリスト教会では、牧師・神学教師など)の中に、にせものがいるという警告として聞きます。 旧約の時代には、神様が選び、神様の言葉を聞き、それを人々に伝える預言者がおりましたが、それと同時に偽(にせ)の預言者も存在しました。預言者エレミヤはこのように語っています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">万軍の主はこう言われる。お前達に預言する預言者達の言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ 主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る</span>」。 偽預言者は、人々に空しい希望を抱かせ、神様を信頼しない人々に「平和」を約束し、頑固に自分を変えない人々に「災いは起こらない」と語ります。神様は聖なる方・正しい方ですから、悪を憎み、神様への不従順に対しては怒る方です。しかし偽預言者は、人々の耳に心地良い言葉しか語ろうとしません。真の預言者であれば、聞く人によって語る言葉を変えたり、語る結果を恐れたりせずに、神様の言葉をそのまま伝えるのです。 /n偽ものの内側はおおかみ イエス様は、偽預言者を、羊の皮を身にまといその内側は貪欲な狼であると譬えました。12弟子を伝道に遣わす時にもイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送りこむようなものだ</span>」と言われました。聖書で「羊」とは羊飼いであるイエス様に養われるキリスト者のことです。ここで「狼」と言われるのは、イエス様に従おうとする人々をまどわし、イエス様にではなく自分に人々の関心を向けさせ、自分の思想を広めたり、自分に利益がくるように人々を導く人達です。 /nいばらからぶどうは取れない イエス様は「ほんもの」と「にせもの」を区別するために、いばらとぶどう、あざみといちじくを引用します。似ていても一方は実を結ぶ食料となり、他方は障害物となること、又、同じ実を結ぶ木でも良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶこと。その事実から私達は導き手を判断せよと教えられます。マルティン・ルターも「善い義しい人が善い義しい行いをする。どんな場合にも人格が、あらゆる善い行為に先立ってあらかじめ善であり義でなければならない。」と言っています。 /n真の導き手 神様はヨシュアに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない</span>」と言われました。真の導き手は聖書の教え、イエス様の教えから右にも左にもそれない人です。又、キリストに結ばれキリストの恵みに与っている人です。さらには御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結んでいる人といえるでしょう。 私達自身も実を結ぶ木、しかも善い実をならせる木として成長させていただきましょう。礼拝を通して信仰が養われていくように。又、日々の聖書や祈りを通して神様と交わる時を大切に、今週も歩みましょう。

主イエスと共に生きる

 「神に望みを置く」  佐々木哲夫先生(東北学院大学) 創世記2:15-17・?テモテ6:17-20 *はじめに 本日は収穫感謝を覚えての礼拝です。今の季節は、丁度、果物や穀物の 実りの季節の時ですから、果物や穀物の収穫感謝ということを連想致します。特に日本では稲作の豊作を期待する時期でもあり、勤労感謝の祝日の時でもあり、さまざまに理解されるところです。 ところで教会の収穫感謝礼拝は、アメリカに移住した清教徒達(ピルグリム・ファーザーズ)に由来しているものだと言われております。 1620年に、清教徒達が新大陸プリマスに到着しました。その年の冬は、大変寒くて多くの死者を出すに至ります。特にイギリスから持ってきた 穀物の種は、新大陸の土に合わなかったのでしょうか、実りが乏しく清教徒達は飢餓の危機に瀕したのです。そのような時に先住民のインディアンが、食物や衣類を持って来て彼らを助けてくれた。又、新大陸での穀物の栽培方法をも教えてくれたということで翌年は実りを豊かに迎えることになり、入植者と先住民とは、神の恵みに感謝し、豊かなご馳走を一緒にいただいたということです。この出来事は今日アメリカの祝日の一つである、 サンクスギビングデ-として祝われております。その日夕食は、親族や 友人が集まり、七面鳥を丸焼きにして食卓を囲むというような行事に なっています。私達の教会は、本日の礼拝を、私達を養って下さる神に 感謝する礼拝として守りたいと願っております。 *「神は人を園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」 さて、今日の聖書にあるように、神様は最初の人アダムを、木の実りをもって養って下さいました。エデンの園のアダムに、主は次のように語りかけています。「園のすべての木から取って食べなさい」。アダムは、園の木の実で生きることが出来たのです。エデンの園では、食べることが保証されていた、生活が保障されていたということです。しかしそれは遊んで暮らすということを意味するものではありませんでした。神はアダムに、園を耕す労働に従事するようにしています。楽園においても労働があったということになります。作家のC・Hルイスは、その著作の中で、天国と地獄を想像しています。「天国でも、やはり労働があるのだ。人々は協力して働くのだ」と書く一方で、「地獄では願うと何でも瞬時に形となって現れ、それを得ることができる。労働することがない。食べ物も自由に 願えば与えられる」と記しております。何か、地獄の方が良さそうな状況ですが、実はそこには協力がなく、絶対的な孤独がある。そんなことを、 ルイスは記しております。神様から養われるということと、人の労働と いうことの関係について考えさせられます。  *人は、顔に汗を流してパンを得る さて、エデンの園のどの木からも取って食べても良かったのですが、一つだけ例外がありました。善悪の、知識の木からは決して食べてはならないというのです。理由は、かなり強い表現が使われているのですが、「食べると必ず死んでしまう」(17節)というのです。なぜ神様は善悪の知識の木からは食べてはならないと言うのか、というのは本日の主題から外れますので詳細に立ち入ることはしません。ただ、善悪の知識の木の実を食べることによって、人類に罪が入ってくることになった。そのことはご承知のとおりです。 その時にアダムとエバは、園にあるもう一本の木、「命の木」からはまだ取って食べることをしていませんでしたので、神は、命の木から採って 食べることを禁じたとあります。人類に「罪」と同時に「死」が入りこんだ瞬間であります。この出来事以降、人が食べる物は確かに神から与えられた賜物なのですけれども、人は顔に汗を流して働いてパンを得、生きて、やがて死に、ちりに帰る、という生涯を送ることになったというのです。 *菜食から肉食も やがてアダムから世代を数えて10代目の時に、ノアが登場致します。ノアの洪水の話も皆さんご承知の通りです。あの洪水が引いて、箱舟が アララト山の上に止まり、新しい時代が始まった時に、主は、ノアを祝福しています。雲の中に虹が現れると、神は、「この祝福を心に留める」と言いましたので、この祝福のことを「にじの契約」とも言っております。 その祝福の中で、神は、次のように言っています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」(創世記9:1-3)。 換言するならば、洪水の前の人々は菜食でしたが、洪水の後は肉食が許されたということです。聖書はさまざまなことを記しておりますので、なぜ洪水後に肉食が許されたのかと思い巡らすところですが、聖書の記述は、その理由を記しておりません。ユダヤの伝承はこういうことを色々考えて、そのことについて記しています。その中には、洪水後の動物はノアの箱舟によって救われた動物たち、その一対から繁殖したものであり、すべて、家畜としての動物なので食べることが許された、という説明がありました。しかし聖書には、明確な説明は記しておりません。ただ確かなことは、すべての収穫は人間に与えられた「神からの恵み」であるということでした。 *「富は神からの賜物であり、恵みである」という本質 さて時代が進みまして、穀物を多く栽培し、実りを蓄積する者が現れてきます。又、羊や山羊を繁殖させて多くの群れを持つ者も現れてきます。 富める者が現れてきます。収穫は神の賜物でありますから、富める者は、 神から大きな祝福を与えられた者であり、逆に、貧しい者とは神の祝福にあずからない者、信仰の薄い者と、ユダヤの中ではみなされるようになりました。 しかし「すべては神から与えられたもの、エデンの園で与えられたもの、ノアの洪水の後に与えられた食べ物すべては、神からの賜物であり神の恵みである。」・・・そのような本質が、やがて見失われていきました。富は自らの手腕で勝ち得たものと考える者が、少なからず登場する社会となっています。特に穀物や家畜など、目に見える姿で富を所有し、認知した時代から、時間が経つにつれて、例えば、「富」というものが「貨幣」という形で所有される経済時代に進みますと、「富は神からの賜物」という直感的な理解が薄れてきました。そして、そうではなくて、「富は自分の力で得たもの」と考えるようになってくるのです。  *「神に望みを置く」 本日開きました新約聖書のテモテの手紙は、一世紀の時代を背景と しています。パウロが手紙の中でテモテに告げました。「この世で 富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と記したのです。 この聖書の箇所は特別に解説を加えるような必要はない程に、明確な内容です。イエス・キリストの時代、一世紀の状況は、経済が進歩した時代であり、今日の私達の時代と似ている状態でありました。むしろ、今日の私達のほとんどは、一世紀の富める者をはるかに越えて、豊かな生活を営んでいるともいえます。 今朝の収穫感謝の礼拝において、私たちはもう一度、聖書の言葉 「私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」の言葉を持って、あのエデンの園でアダムを養い、ノアの後の時代を養ってくださっている神に、今もなお、私達は収穫を感謝 しつつ、心新たに信仰の思いを確かにしたいと願うものであります。

 「神の知恵を知る道」   牧師 佐藤 義子

/n箴言1:7、2:1-12 /nコリント一 2:6-11    /nはじめに 使徒パウロは、熱心なユダヤ教徒であり、又、ファリサイ派の指導者として有名なガマリエルの門下生として厳しい教育を受けてきた人です。 「自分は律法に関しては非の打ちどころのない者であった」と自己紹介しているほどです。その彼が、イエス・キリストに出会い(天からの声を聞き)、キリスト教徒となり、さらにキリスト教の大伝道者となりました。では、パウロはそれ迄に身につけてきたユダヤ教の高い学歴と深い教養を、自分の武器の一つとして伝道で使おうとしたかといえば、答えはノーです。彼は、これらの知識はキリストのゆえに「損失」とみなすようになったと言っています(フィリピ書3:8)。今朝の聖書でも「この世の知恵」に関してイザヤ書29:14の、神様の言葉を引用します「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。</span>」(1:19)。 更に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらなかった</span>」(2:4)と述懐します。この世の知恵は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">滅びゆく支配者達の知恵</span>」(2:6)なのです。 /n宣教 では、伝道がこの世の知恵の言葉によらないとするならば、どうやって宣べ伝えるのでしょうか。今日の聖書で、パウロは、「“霊”に教えられた言葉」(13節)によって語り、神様が、世界の始まる前から定めておられた「隠されていた、神秘としての神の知恵」(7節)を語ると言っています。 そして人々が、人間の知恵によって信じるのではなく、神様の力によって信じるようになるために、自分がこれまで身につけてきた「この世の知恵の言葉」によらず、「“霊”と力の証明」によって伝道したことを告白しています。霊は、言葉以上のものです。なぜなら霊は、私達の命をその根底から揺り動かし、私達を神様に結びつけ、私達の中に愛を呼び起こすからです。そして御霊の働くところには力が伴なうのです。信仰が起こされるところには、必ず、“霊”と力が働いています。 人が神様に初めて向かう時、神様を知らなかったがゆえに犯してきた罪・・特に自分を神様の位置に置いて生きてきた罪・・を知らされ、心の中に悔改めが生まれます。その時、私達の内面の命の中に活動が起こり、その活動によって信仰は確かになり、私達の愛は強くされ、私達の神様への服従は完全なものとされていきます。これが霊と力です。 /n信仰者の目 神様の御業を見ることは、普通は隠されています。信仰を与えられた者だけが、ある事柄を見て、それを神様の恵みとして喜び、感謝して受けることが出来ます。信仰者の目は時代を超えて、神様の永遠の救いの御計画を見上げることが出来ます。「この世の知恵」と「神様の知恵」が完全に違っていることは、十字架に目を向ける時に明らかになります。  2000年前イエス様を十字架につけた人達は、イエス様を通して神様の栄光を見ることは出来ませんでした。なぜなら彼らは、イエス様をこの世の知恵で判断し、無力な者・有罪判決を受けた者とみなしたからです。イエス様を断罪した祭司や律法学者達は無知ではなく当時の人々が持ちうる知恵・知識を十分持っていました。彼らは神様を知っていたがゆえに、当時の律法にのっとって死刑を求刑しました。「人の目と心の思い」だけでは神様の知恵に到達し得ないことを先のイザヤ書は告げています。 /n<span class="deco" style="font-size:small;">神からの霊を受けた者が、神から恵みとして与えられたものを知る</span>  教会には神様の御業としての永遠の命の栄光が与えられており、その命は「キリストの体」を構成している私達(信仰者)の内面的命としっかり結びついています。この命は神様が愛する者たちに用意された命です。神様が召されるのは「この世の知恵で神様を理解している人々」ではなく、「神様を信じる者達」です。「イエス様は私の罪のために死なれた」と信じる信仰によって神様からの愛を受け取り、永遠の命の栄光が用意されている群れ(教会)の中に加えられました。そして目の前に起こる現実的な事柄の中に、力を伴なう“霊”の働きを見ることが出来、神様から恵みとして与えられたものを知るようになりました。神様は、今も常に働かれ、その愛は私達に日々降り注いでいます。日々起こる神様の御業を多く見ることが出来るように、今週も歩みたいと願うものです。