「再び罪を犯すな」   牧師 佐藤義子

/n 詩編51:3-21 /nヨハネ福音書8:1-11 /nはじめに イエス様はこの日、朝早くエウサレム神殿の境内に行かれると、イエス様の教えを聞きたくて人々が集まってきました。イエス様はそこに座り、教え始められました。ところが突然、律法学者達が一人の女性を連れて来て、真ん中に立たせ「この女性は、律法の中でも厳しく禁じられている姦淫を行った女性である。律法は、石打ちの刑で死刑を命じている。ところであなたはどう考えるか。」とイエス様に質問してきたのです。 /n姦淫の罪 姦淫とは夫と妻以外の男女の、不義の関係を言います。十戒でも殺人と並んで姦淫は禁止されており、レビ記に「人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあり、この前に「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。」とあります。申命記にも「姦淫の罪を犯した男女は共に石で打ち殺さねばならない」とあり、その後に「あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」と、イスラエル共同体が神様の祝福をいただく為には、神様の戒めを守ることが大前提となっておりました。 /nイエス様の教え イエス様は、姦淫が重い罪であることを否定していません。それどころか、山上の説教では「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである</span>」。イエス様は、このように、性的な領域に於いて純潔を求められておりました。 /n沈黙  イエス様は、律法学者達の質問に答えようとはされず、地面に何か書き始められました。なぜイエス様は答えようとされなかったのでしょうか。 それは、彼らの質問がイエス様を訴えるための「わな」であることをご存じだったからです。イエス様は神様の愛を語り、「罪人」と呼ばれる人達の「友」として慕われておりました。律法学者達には、このイエス様の憐れみ深い心や柔和さが、罪に対する判決を和らげてしまうという危機感がありました。もしイエス様が死刑と言えば民衆の心はイエス様から離れるし、死罪を否定するなら、律法の破壊者として告訴できます。 /n「罪を犯したことのない者が先ず・・」 返事をされないイエス様に、律法学者達はしつこく問い続けました。イエス様がついに口を開かれました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい</span>」。自分は同じ罪を犯していないから「裁く権利がある」と考えていた人々は、イエス様の一言で、年長者から順にこの場を去っていきました。自分の内面をみつめ、良心にやましさを感じて、その場にいたたまれなくなったのでしょう。 聖書には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正しい者はいない。一人もいない</span>」(ロマ3:10)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている</span>」(同:23)とあります。 /n「再び罪を犯すな」 イエス様は、姦淫の罪を憎まれ、その戒めを破った人間の弱さに対しては嘆き悲しまれたことでしょう。しかし誰も彼女を罪に定めることが出来なかったことを聞き、罪のないイエス様でしたが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない</span>。」と言われました。この言葉は、女性のこれから生きる道をまっすぐにし、悪から女性を守り、清めようとするものです。罪を犯した女性は、この言葉の前に、心からその罪を悔い改めたに違いありません。イエス様が来られたのは、裁くためではなく人々が救われるためでした(ヨハネ3:17)。神様は私達に今も呼び掛けておられます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めて、お前達の全ての背きから立ち帰れ。罪がお前達をつまずかせないようにせよ。私は誰の死をも喜ばない。お前達は立ち帰って、生きよ</span>」(エゼキエル18:30-)。

「クリスマスの意味」  牧師 佐藤義子

/n詩編116:5-11 /nマタイ11:25-30     /nはじめに   今、町ではクリスマスの飾りや音楽で賑やかですが、教会では町にはない「中身のある」クリスマスの時を過ごしています。それは、天の神様のところにおられた神の御子イエス・キリストが、この地上に人間の子として、マリアを母として誕生されたことが、神様の御計画によるものであることを知らされているからです。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">イエス様は、神でありながら人となられた</span>。 考えてみれば非常に不思議な出来事であり、まさに「奇跡」です。 /n預言の成就 しかしこの奇跡は、突然起こったわけではなく、神様は何百年も前から預言者達の口を通して、人々にメシア(救い主)誕生の予告をしておりました。人々を救う為に神様が救い主を与えられるという約束は、親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと、何百年という気の遠くなるような年月の間、伝え続けられ、人々はその時を待って待って待ち望んでおりました。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">そしてついに神様の時が満ちて、神の御子が人としてお生まれになったのです</span>。 /nクリスマスの意味 イエス様は、 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私のくびきを負い、私に学びなさい。」</span>と招かれます。 御子イエス様は、私達にない「平安」をもっておられます。 私達人間は、神様から遠く離れ、罪のゆえに苦しんでいます。 その私達を救い出すためにイエス様は来て下さったのです! イエス様を信じて、イエス様に従順に従い、イエス様のもとで学ぶ時、私達の全生涯は、平安で満たされるのです。

「世の終りまで共にいる主」  牧師 佐藤義子

/n詩編16:5-11 /nマタイ28:1-20     /nはじめに  私達は先週の日曜日、イースター礼拝において、聖書から、イエス様の復活は、神様の業であることを学びました。イエス様が十字架て死なれたことは、神様の救いの御計画の中で避けて通ることの出来ない出来事でした。なぜなら私達が神様から罪を赦していただくためには、罪のない方の犠牲の血が流されなければならなかったからです。このことは、神様が私達を愛して下さるゆえの救いの御計画ですから、その結末がイエス様の十字架の死で終ることはあり得ないことでした。神様は命と死を支配されるお方です。それゆえ神様は、イエス様の死を滅ぼして甦らせたのでした。 /nうその噂 今日の聖書には、イエス様の復活の出来事と、その後の祭司長達の行動、そしてイエス様の、地上での最後の御命令が記されています。  イエス様の遺体を置いていた墓が空になったことを見届けた番兵達は、この事実を、エルサレムの祭司長達にありのままに報告しました。その結果、祭司長達はは、このことが外部に流れたならば民衆達が騒ぎだし、神の子を十字架につけたと、自分達に責任を追及してくるかもしれず、又、復活を否定した自分達への信頼も失墜することから、彼らが考えたことは、うそ・偽りのうわさを流すことでした。彼らは、墓がからになったのは、番兵達が眠っている間に弟子達が遺体を盗んだからだと番兵達に言わせることにして、その報酬に多額のお金を与えました。さらに、番兵達の責任問題については、自分達が総督に説得し、罰がおりないようにすると約束したのです。こうして兵士達は、言われるままに嘘の証言を広めました。 こうして祭司長達は、最後まで神様に逆らう道を歩み続けたのでした。 この嘘の噂により、弟子達の福音伝道は大きな痛手を受けたことでしょう。 しかしどのような妨害があろうとも、キリストの十字架と復活の出来事は、復活の証人達によって伝えられ、その結果教会が生まれ、十字架と復活の証言は、全世界の教会を通して、今もなお、伝え続けられていることは、私達が良く知っているところです。 /nイエス様の、最後の御命令  さて、11人の弟子達は、復活されたイエス様に会う為に、イエス様が指示されたガリラヤの山に登りました。そこで復活のイエス様を、神として、礼拝されるにふさわしい方として拝みました。イエス様は、弟子達のそばに近寄り、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」</span>と言われました。これは、イエス様が、天上と地上におけるすべての権限を神様から与えられたということです。なぜならイエス様が十字架の死に至るまで、神様に忠実に服従されたからです。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。</span>」と命じられました。 イエス様が天上でも地上でも、すべての者の主であるならば、すべての者は、イエス様に服従して、イエス様から学ぶべきなのです。 弟子達の使命は、世界の人々をキリストの弟子とすることでした。 それに伴い、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授ける」ことと、「イエス様の戒めを教えて、それを守らせること」を命じられました。  このイエス様の最後の御命令には、約束が伴っておりました。それは、イエス様は「世の終りまで、いつも、共にいて下さる」という約束です。これは大きな約束です。イエス様は、全生涯をつらぬいて、いつも私達と共にいて、助け守って下さるという約束を下さったのです。かつてイエス様は、「あなた方は世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われました。  私達は苦難に打ち勝ち、死に勝利して復活され、神様から全権・委任された権威をもっておられるイエス様の弟子として、歩むことが出来る幸いを思います。これからも、世の終りまで、共にいて下さる主と共に歩み、困難に立ち向かい、イエス様から与えられている伝道の使命を、少しでも担える者として、造り上げられていきたいと願うものです。

「平和があるように」 牧師 佐藤義子

/n詩編71:14-19 /nマタイ福音書10:5-15 /nはじめに 今日の聖書は、イエス様が12弟子を選ばれて、伝道に派遣するにあたり語られた言葉です。第一に、派遣先について。第二に、何を伝えるのか。第三に、何をするのか。第四に、所持品について。第五に、滞在先についてです。イエス・キリストの教えが全世界に拡がっていく時、その最初に遣わされた12弟子達は、イエス様から何を命じられて送り出されたのか、大変興味深い箇所でもあります。 /n派遣先 弟子達の派遣先は、異邦人(ユダヤ人以外)の町ではなくイスラエルの人々(ユダヤ人)に限定されています。申命記(旧約聖書)にはこう記されています。「あなたは、主の聖なる民である。あなたの神、主は・・すべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導きだし、奴隷の家から救い出されたのである」(7:6-8)。すべてのことには順序があります。最初は「イスラエルの家の失われた羊」=(神を知りながら神から離れているユダヤ人)です。 /n何を伝えるか イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい</span>。」と命じられました。それまでは、天の国(神様のおられるところ)は、人々の、想像に基づいた、漠然としたものだったでしょう。しかしイエス様は天から(神様のおられるところから)来て下さり、天の国について教えられました。天の国は近づいたのです。天の国はもう見知らぬ国ではなくなりました。イエス様を信じる者は、イエス様を通して、この地上において罪が赦され、神の子とされ、神様の支配を受けることが出来る喜び、さらに永遠の命が与えられるという喜びが与えられます。これが福音(ふくいん)の使信です。   /n何をするのか イエス様は弟子達に「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病をわずらっている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」と命じました。このわざは神様の業でありイエス様御自身がなさった奇跡のわざです。イエス様は、この奇跡のわざの力を、これから遣わそうとする弟子達に、与えられました。 /n所持品について 所持品は「なし」です。弟子達の語る福音も病人を癒す力も、すべてイエス様からいただいたものです。ただで受けたものはただで与えます。弟子達が必要とする食物は、旅先で福音を聞いた人達や、愛の奉仕を受けた人達が、その報酬として与えるでしょう。これは、仏教の、托鉢や施しを受けることではなく、「働く者が食物を受けるのは当然」だからです。何も持たずとも神の働き人は、神が養うこともして下さるのです。 /n滞在先  イエス様は、「町や村に入ったら、ふさわしい人は誰かを良く調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。」と言われました。滞在先は慎重に選ばなければなりません。伝道の妨げになるような人の所では良い働きは出来ません。福音を聞く耳があり、客を親切にもてなす人、キリストの使者ということで喜んで迎え入れてくれる人が、ふさわしいと言えましょう。滞在先を決めたら、町を離れるまで変えてはなりません。その家に入ったら、「あなたに平安・(平和)があるように」と祈願・祝福を祈ることを命じています。「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」と言われました。 /n弟子を引き継ぐ 私達も、祝福と平和を携えて伝道する時、反応は、聞く人と拒む人に分かれます。弟子達の時代から常にそうでした。私達は伝えた相手の終末に関して責任を持つ必要はありません。しかし伝える責任はあります。なぜなら「<span class="deco" style="font-weight:bold;">今や恵みの時、今日こそ救いの日</span>」(2コリント・6:2)だからです。

「苦しみを受ける主」伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書53:6-12 /nマルコ福音書15:6-20 /nはじめに イエス様は、同胞のユダヤ人達の有力者達から成る最高法院での裁判に於いて、ご自分を神の子とした「冒とく罪」により「死刑」の宣告を受けました。当時、ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤでは、ローマの許可がなければ死刑執行は許されないため、最高法院は、イエス様の身柄をローマ皇帝の代理としてユダヤに遣わされていた総督ピラトに引き渡しました。ローマ帝国にとってユダヤ地方の統治とは、ローマの支配に反対する人々やその活動を封じ込めることが第一の仕事になっていたと思われます。そして又、反対者の制圧さえしておけば、その他のユダヤ人達には多少甘くする方法で、ローマの人気を上げることも可能だったようです。 /n神ではなく、人を見たピラト 過越祭における恩赦(囚人一人の解放)は、そのような背景のもとで、総督ピラトの人気取りの政策の一つだったのでしょう。ピラトのもとに押しかけて来た「群衆」は、恩赦を利用して、暴徒として投獄されていたバラバ(恐らく政治犯)の釈放を叫びました。それは、群衆を背後から操り、扇動したユダヤ教の有力者である「祭司長達」から出た行為でした(11節)。 ピラトは、イエス様が自分に引き渡されたのは、祭司長達の妬みの為だとわかっており、イエス様は無実であるとの判断により、釈放する方向へ誘導しました。群衆には「どんな悪事を働いたと言うのか」と死刑になるような悪事は何もないことを認めさせようとします。しかし三度の警告にもかかわらず、祭司長達に扇動された「群衆」の意思は変わらず、「イエスを十字架につけろ」と激しく叫び立てる声の前に、ユダヤ人の評価も欲しいピラトの決断は揺らぎ、最後にピラトは、イエス様の無実は分かっていながら、人間として仰ぐべき「神の御顔」ではなく、人の顔色を見て、イエス様を鞭打ち、十字架へと引き渡してしまいました。このように神様を無視して、人間を優先させることこそ、神様の悲しまれる罪の一つなのです。それに加えて16節以下から、罪人としてローマ兵士が加わります。 /nローマ兵士の罪 ピラトがイエス様の死刑判決を下した結果、ピラトの配下にある兵士達は、図に乗って、被告人イエス様を傷つけました。鞭で相当傷ついておられたにもかかわらず、イエス様の服を自分達の冗談で脱ぎ着させたり、茨の冠を造ってかぶせたり、葦の棒で叩いたり、つばをかけたり・・という描写を読むだけでも、何と残忍な事だろうと胸が痛みます。更に悲しいことには、イエス様に向かって偽りの礼拝をしたのです。どんなにか御心を痛められるこれらの出来事に忍耐されたでしょうか。 /n身代わりの犠牲とあがない イエス様は、恩赦になる「バラバ」のために、身代りに犠牲となられました。それは一人の人間「バラバ」のためだけに限らず、神様を無視して生きる「この世」のことを第一にして「神様を二の次」にして生きる姿勢を変えることの出来ない、罪に捕らわれた私たち人間の為にも、身代わりとして犠牲になられたのです。私たち人間は、神様からいただく「永遠の命」や、神様が人間に下さる神様の愛を軽く考えて、自分の都合の良いように盗もうとしている「大罪」を犯しているからです。 しかし、こんな罪深い人間、人種や身分を越えた全ての人間の罪を贖(あがな)うために、主は十字架にかかられる使命が与えられ、それは父なる神様の御心として決して避けられないことを、イエス様ご自身、とうに知っておられました。今日読んだ旧約聖書「苦難の僕」が御自分の使命であることをイエス様だけはご存知で、すでに預言されていました(10:33)。 /n「だれでもわたしのもとに来なさい。」 イエス様は、父である神様の御計画に従って歩んでおられるだけなのに、そのことを理解しない周りの者達の罪で責められ、多くの苦しみを受けられました。いかに苛酷な役割だったことでしょう。それでも主は、忍耐されました。もしそのような試練が自分に訪れた時は、黙って耐え抜かれた主の痛み、苦しみに思いを馳せて助けを祈りましょう。必ず主は、その重荷を共に担ってくださいます。その辛さを誰よりもわかって下さるお方です。  最後にこの御言葉をお伝えします。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。</span>」(マタイによる福音書 11:28-30)

「これほど大きな救い」   牧師 佐藤 義子

/nヨナ書1:1-2:1 /nヘブル書2:1-4     /nはじめに  ヨナは、神様からニネベの都に神様の言葉を伝えるように命じられますが命令に背き、ニネベの町とは逆のタルシシュ行きの船に乗ります。ところが途中、海は大荒れとなり船は沈没しそうになり、この災難は誰が引き起こしたのか全員くじをひくことになり、くじはヨナに当たります。ヨナは自分が神の命に背いて逃げて来たことを白状し、自分を海に放り込むようにと言い、乗組員達は躊躇(ちゅうちょ)しながらもヨナを海に投げこみます。すると海は静まり、人々は神様を畏れます。海に投げ出されたヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚のお腹の中で生かされ、神様に、悔改めの祈りをささげます。そして、魚はヨナを陸地に吐き出します。 /n神様に従ったヨナ 神様は再びニネベ行きを命じ、ヨナは「直ちに」ニネベの町を巡り、命じられた通り語ります。それは「40日後に、ニネベの町は滅びる」でした。町の滅亡を伝える仕事は気が重かったことでしょう。しかも滅ぼされる理由は「彼らの悪」(1:2)の故です。罪を犯し、堕落した生活を送っている人々は、ヨナの言葉を聞く耳を持っていないかもしれませんし、「滅亡」を叫べば殺されるかもしれません。それでもヨナは叫び続けました。 ところがヨナの想像とは違い、ヨナの言葉を聞いた人々は断食して悔い改めていくのです。滅亡の預言は王様の耳にも入り、王様は、このことが起こらないように町中の人々に断食命令を出し、悔改めて悪の道から離れるように命じます。それをご覧になった神様は町の滅亡を思い直されます。 /nヨナの不満 ヨナは、神様が町の滅亡を思いとどまったことに対しては不服でした。義である神様が、悪に対して裁かれるのは当然であると考えていたからでしょう。それなのに神様は気持を変えられたのです。ヨナは神様に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしにはこうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です</span>。」と訴えています。 /n救いの御計画 ヨナは暑い日差しに苦しめられます。そこで神様はヨナのために、とうごまの木を生えさせ日陰をつくりヨナを日差しから守りました(とうごまの茎の高さは4mにもなり、大きな葉っぱが交互に出て日陰を作る)。ヨナはとうごまの木をとても喜びますが、翌日、神様は虫に木を食い荒らさせ、木は枯れてしまいます。ヨナは再び暑さにぐったりとして「死んだ方がまし」と神様に訴えます。その時、神様の言葉がこのように臨みます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。</span>」 /n「これほど大きな救い」 今日のヘブル書の3節に「これほど大きな救い」とあります。具体的には、終末における裁きの時、神様を信じて従った者達に約束されている「永遠の命」をさします。この救いは、イエス様から弟子達に、更に御言葉を聞いた全ての人々に、確かなものとして証しされています。 ですから、地上でどのような困難や迫害があっても、私達に与えられているこの「大きな救い」に対して、むとんちゃくでいてはならない。 もっとまじめに、もっと真剣に、神様に従って生活をしていくようにと警告しています。ニネベの人々や王様は自分達に滅びが待っていることを知らされた時、食べることも飲むこともせず、あら布をまといひたすら救われる為に祈り願い、悪の道を離れました。神様は私達に「大いなる救い」を与えて下さる為に独り子イエス様を下さいました。私達は「大きな救い」をいただいた者にふさわしく歩んでいきたいと願うものです。