「本当の信仰者」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書25:1-5 /nマルコ福音書12:41-44           /nはじめに  本日の聖書は、イエス様のご生涯の、最後の一週間の「論争の火曜日」での出来事の一つです。 最初は、ユダヤ教の指導者達から質問を受けてイエス様がお答えになる形をとっていましたが、指導者達はイエス様からどんなに誤りを指摘されても、反対の立場を決して変えようとしませんでした。彼らの役割は神様の教えを第一とし、それを民に伝え、来たるべき救い主を証しすることでした。しかし彼らは、職人階級出身のイエス様がメシアであるはずはないと決めつけ、悪霊の頭だと言ったり、神様を冒涜していると非難する姿勢を変えませんでした。それは、この世を仮に治めているサタンの性質を、彼らが受け継いでしまったいることを表しています。ユダヤ教指導者達は「律法」に詳しく、更に神様の御心を知っていると期待されていましたが、自分の利益、名誉、知識、偏見、思い上がりなどで自分の判断を絶対化して、神様の御声を聞くことを怠ったからです。 そしてついに救い主出現を前にして、サタンの最後のあがきがユダヤ教指導者達の姿を通して映し出されました。本来、「救い主の証人」となるのに一番ふさわしい彼らは、「エリート」という人間社会の中での優越感に溺れ、その待遇に甘えていたがゆえに、肝心なところで不信仰を重ねる形となったのです。 /n貧しいやもめ イエス様の目は、彼ら指導者達にではなく違う人々に向けられました。本来なら、救い主として、エルサレム神殿の中央に迎え入れられるはずのイエス様が、そこから外側の庭に向かって信仰者を探しておられたのです。そこには大勢の一般民衆がいて、特に献金を沢山して目立つ金持ち達が多くいましたが、イエス様が見つけて喜ばれたのは、献金額の多い金持ちではなく、その社会では軽んじられていたやもめ(未亡人)の信仰でした。 私達はイエス様の外の形に囚われない姿勢・考え方を知ることができます。 イエス様が評価されたのは、一般民衆の中でも最も弱い立場にいる女性、貧しくて何の権力もない一女性でした。後ろ盾となるべき夫を亡くし、経済的に困窮していたと思われます。当時の社会では、彼女の存在すら無視されてもいいような女性でした。又、ユダヤ教では女性は神殿の中の「聖所・至聖所」に入れず、その外側に設けられた庭(女子の庭)迄でした。その庭にあった賽銭箱にはラッパの形を逆さにした金属製の容器が13個ついていて、各々に献金の用途が絵によって示されていたそうです。金属製ですからコインの量に比例した音が響きます。やもめの捧げたレプトン銅貨は最小単位のコインで、薄くて貧相であり、わずか2枚であれば、その音もかすかで頼りなげな感じだったでしょう。 /n生活費を全部 しかし私達の主・イエス様は、人間の価値基準を越えて確かに存在する「神への信仰の強さ」が全てに優先されることを教えられます。イエス様は何が人間の心の中にあるかを良く知っておられる方です(ヨハネ2:25)。彼女の献金額はほんのわずかでしたが、それでも彼女は神様に思いの全てを向けて、その表れとして生活費全部を献金したのでしょう。神様に対する全き信頼と愛を見ます。  「生活費」を広義に解釈すると「人生、生活、一生」という意味があるようです。この世での自分の姿を神様の前にさらけ出し、へりくだり、自分を嘆いたり自暴自棄にならずに、神様の前に希望を持って、自分のすべてを献げ尽くしたやもめの信仰を、イエス様は喜ばれたのでしょう。 イエス様が渇望されたのは、神様が人間を愛する熱情と同じ位に神様を全き心で愛し、へりくだる者を愛する神様にふさわしい謙虚な信仰を持ち、自分を献げ尽くすことに喜びを感じ、それを貫き通す信仰です。それは、神の御子である身分に固執されず、私達の所にまで降りて来られ、私達の救いの為に全てを喜んで献げて下さったイエス様の御生涯そのものです。徹底した信仰を神様に献げられる「本当の信仰者」へと成長していくことを願い、その助けを聖霊に祈り求めてまいりましょう。

「主の救いの実現を信じる」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書 52:7-12 /nルカによる福音書 1:26-45     /nはじめに  今日の聖書は、有名な受胎告知の場面とそれに続くマリアのエリサベト訪問の箇所です。マリアが天使ガブリエルの挨拶を受けた時、水汲みをしていたとも言われています(現地には「マリアの井戸」というものがあります)。 私は、婚約中のマリアが水汲みしながらも、新しい家庭生活が祝福されたものになるよう祈っていたのではないかと思います。日常生活の一こまに天使が突然やってきたという出来事は、本当はとても驚かされることです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる</span>」と、いきなり言われて、マリアは「何のことかと考え込み」ました(29節)。「主があなたと共におられる」の原語は「インマヌエル」という祝福の意味を持つ言葉で、イザヤ書7章にある「救い主の男の子の名前」であることをイスラエル人なら誰でも知っており、マリアもきっと思い起こしたことでしょう。 /n受胎告知 マリアの戸惑いの中、ガブリエルは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産む</span>」と告げます。マリアはその預言に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えます。実際には、まだ夫婦生活をしていないから、そのようなことはあり得ないとの、人間界の常識です。しかしガブリエルは、これは神の霊「聖霊」のなさる業であり人智を越えたことであると宣言し、その証しとして親類エリサベトの妊娠を告げます。(エリサベトは年をとり、妊娠適齢期を過ぎていた)。それを聞いて、マリアは、不妊の女と言われながら「約束の子、イサク」を神様から授かったアブラハムの妻であり、民族の礎となった「サラ」を思い出したかもしれません。 エリサベト妊娠の知らせは、マリアに、人間の知識や行動の限界を悠々と越えて、神様の恵みの業が我が身にも起こるのだ、ということを、理解させることになったでしょう。又、彼女に信仰の素養があったこともその理解を助けたことでしょう。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神にできないことは何一つない</span>!」という言葉を、マリアは本当の意味で心から受け入れることが出来たと思います。そして自分に子が授かるという奇跡が起こり得ることを理解し、それが神様の選びであり恵みであるならば、人間として受け入れるしかない!「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」(38節)とは、マリアの信仰を表す言葉であり、私達の目標にすべき言葉です。 /n受胎告知の言葉を受けて・・ この後マリアは、エリサベト訪問のために「出かけ」ます。(私ならこのことを受け入れることに精一杯で、悶々と悩んで動けなくなるのではないかと思います)。「出かけて」(39節)は、立ち上がって=死から立ちあがる復活の語源になっています。驚きや恐怖の状況から、神様の恵みを授かり、それを受け入れることによって立ち上がり、次の一歩を進めることが出来る!という希望を、この、マリアの行動から見てとれます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">いかに美しいことか 良い知らせを伝える者の足は</span>。」(イザヤ書52:7)   このマリアこそ「神の御子がこの世に生まれた!」という最初の良い知らせを携えた者、福音伝道者の最初の人物だったと言えるでしょう。マリアの訪問を受けて挨拶を聞いたエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました。  奇跡を受けて、それを感謝して受け入れた者同士が、互いに喜びを交流し、その源である神様を讃美するという美しい光景が、ここに(エリサベトとマリアの間に)ありました。 /n今日の聖書から学ぶこと 今日の聖書から学ぶのは、第一に、マリアの信仰の土台に聖書の知識があったこと(神様のこと、イスラエル民族の歴史や、神様の前に正しく歩むことが良いことであることを知っていたこと)。第二に、マリアもエリサベトも思い上がる人々ではなかったこと。第三に、マリアは人間的な自分の思いよりも神様の御言葉の預言を第一として受け入れたこと。そして第四に、信仰によって神様の呼びかけを受け入れた者同士は、本当の深いところでの交流ができ、それが更なる喜びとなり力となる!と知らされたことです。私達の教会の中でも、そうありたいと願っています。

「復活の証人」  牧師 佐藤義子

/n イザヤ書55:6-13 /n 使徒言行録2:22-24・32-39      /nはじめに  今朝、皆様と共に、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝を捧げることが出来ることを神様に感謝致します。  イエス様が十字架につけられて息をひきとられた後、その遺体を十字架から下ろす許可をとったのは、弟子達ではなくアリマタヤ(ユダヤ人の町)出身で、身分の高い議員のヨセフでした。彼は勇気を出して遺体の引き渡しを総督ピラトに願い出て許可を得ます。そして亜麻布を買い、遺体を包み、ニコデモが持ってきた香料を添えて、岩を掘って作った新しい墓に納め、入口に大きな石を転がしてふさぎました。金曜日の日没から始まった安息日が終り、三日目の日曜日の明け方のことでした。安息日が終るのを待ちかねたように婦人達はイエス様の遺体に油を塗る為にお墓に行きました。婦人達はお墓の前の大きな石を、誰がどけてくれるか心配していました。ところがマタイ福音書によれば、お墓に着いた時、大地震が起こり、天使が石をわきに転がしてその上に座り、イエス様の復活を告げたのです。 /n信じることができなかった弟子達 復活されたイエス様にも出会った婦人達は、そのことを弟子達に伝えますが、誰も信じませんでした。その後、弟子達が集まっていた所にイエス様は来られました。ヨハネ福音書によれば、この時不在であったトマスは、「わたしはイエス様の手に釘あとを見て、この指を釘あとに入れてみなければ、又、この手をわき腹に入れてみなければ決して信じない」と言いました。その後再び弟子達のところに来られたイエス様は、トマスに、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい</span>」と言われました。 /n弟子が伝えた伝道メッセージ  今朝の聖書は、イエス様の復活・昇天後の弟子達が、聖霊を受けて、説教している箇所です。ここで語られたメッセージは、イエス・キリストという一人のお方を通して行なわれた、そして今も続く神様の行為です。イエス様は多くの奇跡・不思議なわざ・しるしを行なわれました。それは神の子でなければ出来ないことでした。しかし、ユダヤ人指導者達は自分達のねたみ・敵意のためイエス様を十字架で殺してしまったのです。 /n神様の御計画  しかし、イエス様をこの地上に送られたのは、神様の御計画であり、すべてを御承知の上で、神様はイエス様をこの世に遣わされました。 イエス様が十字架への道を歩かれたのも、父なる神様を仰ぎ見て、それが神様の御意志であることを知り、その御意志に服従された結果です。    十字架の死は、神様が人間を愛するが故に、人間を罪から救うための「あがないの死」として、イエス様に課せられた使命であったがゆえに、それに続く復活があるのです。復活は神様のわざ、神様の行為であり、旧約聖書でも預言されています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです</span>。」(36節) /n教会が伝え続けるメッセージ  この言葉は、聞いた人々の心に鋭く突き刺さりました。彼らは大きなお祭りのために世界各地からエルサレムに戻って来ていたユダヤ人です。彼らは十字架刑に直接かかわりませんでしたが、自分達民族が待望していたメシアを、外国人の手を借りて殺してしまったと聞かされ、自分達が重大な間違いを犯したことを知ったのです。そこで、自分達はどうすべきかと、ペトロに尋ねました。ペトロは明瞭に答えています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます</span>」。  今日は、復活節(イースター)です。私達人間が殺したイエス様を、神様が復活させて下さった日です。復活は死に勝利した証しであり、私達は、弟子の信仰を継承し、聖書の証言を信じる「復活の証人」です。 教会は、今迄もこれからも、神様の救いの御計画と、神様がこれ迄して下さったこと、引き続きして下さっている神様のわざを伝え続けます。

「主の主権と主の憐れみ」 伝道師 平賀真理子

/nエレミヤ書18:1-10 /nローマ書9:20-24 /nはじめに エレミヤは紀元前7世紀後半から6世紀前半にかけて、主(おも)にエルサレムで活動した預言者です。預言者とは「神の啓示を受け、神の名によって語る人」です。エレミヤ書はエレミヤの「召命」から始まります。エレミヤは、生まれる前から神様に選ばれ、生涯、神様が定められた「預言者」としての人生を歩み続けました。しかしそれは苦難の連続でした。 /n預言の実現 エレミヤが生きた時代、イスラエルの人々は「主」である神様を崇めることを忘れる人々が多く、神様はエレミヤに、多神教の神々ではなく本当の唯一の神であるご自分に立ち帰るように、人々に伝えることを命令されます。しかし、目に見えない神様を畏れることをしなくなった人々には、エレミヤの言葉は単なる人間の言葉にしか聞こえなくなっていました。又、神に立ち帰らなければ「滅び」が待っているとの審きの言葉は、人々には受け入れられないものでした。彼は、孤独な道を歩まされることになります。エレミヤは預言者としての使命を果たして語り続けましたが、結果として、イスラエルの民は「バビロン捕囚」という、祖国を追われ、敵国に連行され、不自由な生活を強いられるという悲劇を目の当たりにします。神様の御言葉は、更にエレミヤに臨み、「主が選んだ一部の人間は70年後に再び故郷に戻れる!」と伝えられます。エレミヤを通して語られた主の預言は、敵国の王の、本当に思いがけない命令で実現するのです。 /n主の主権 「悔い改めよ。そうでなければ滅びる!」との預言は、バビロン捕囚という形で実現しました。しかしそれで終わることなく、その後、「苦境からの解放」という希望の預言を、神様はエレミヤに語らせ実現されました。つまり、「神様がこの世に主権をもっておられる」ことを明らかにされたのです。 今日の聖書でも、「主(神)」の主権がはっきり示されています。エレミヤは、陶工が、「気に入らない作品」を作り直す様子を見て、「陶工」は、人間を創られた神「主」の比喩であり、材料の「粘土」は、人間やその群れとしての比喩であることを、はっきりわかったのです。主は「陶工」が気に入らない粘土を壊すように、今や、不信仰・不従順のイスラエル民族を壊そうとしていることを警告し、民が「悪を悔いる」ならば災いを思いとどまること、逆に、御自分が建てた王国でも、「従わない」ならば、幸いを与える予定を変更する権利を持っていることを告げられました。「主」が、この世のすべてに対して主権をお持ちなのです。私達はこの「主の主権」を忘れすぎているのではないでしょうか。 /n主の憐れみ 「主」が預言者を通して、何度も警告して下さっていることが、実は、主の「憐れみ」によるのです。主は、ご自分の選んだ民(イスラエル)の中から、悔改めて従う者を再び故郷へ戻ることが出来るとの希望を与え、その約束の実現へと導かれました。 さて今、私達は、東日本大震災を経験して価値観の転換という歴史の転換点にいます。神様なしの人間的観点だけで物事を進めていくことの限界を思い知らされました。政治の混乱・科学の限界・自然へのかかわり方など、人間の思い上がりで間違った方向に来ていました。私達が受けたきつい試練を通して、初めて人間は自分達の愚かさ・悪さに思い至り、神様なしでやれるとの傲慢さに気付き始めているのではないでしょうか。 今日読んだロマ書には、ユダヤ人でない私達「異邦人」にも、信じる者には「憐れみの器」として、神の民として召し出して下さったことが記されています。今こそ悔い改めて神様に立ち帰る時、神様はエレミヤに語った希望を、私達にも語って下さいます。神様を知る私達は、これ迄の人間の傲慢に基づいた価値観に迎合することから解放されて、神様の前にある人間として謙虚に生きる姿を示す時ではないでしょうか。 異邦人の私達に救いの道を開いて下さったのは、我らの主・イエス様の十字架による罪の贖いと、栄光の復活によってです。そのことに感謝し、主の御前に義しく歩むことができるよう聖霊の助けを祈りましょう。

(召天者記念礼拝) 「復活の時」牧師 佐藤義子

/n 詩編105:1-11 /n マルコ福音書12:18-27             /nはじめに  本日は、召天された方々を覚える記念の礼拝です。毎年、11月の最初の日曜日の召天者記念日を迎える度に、私は信仰を与えられて生涯をおくることが許されているキリスト者の幸せを神様に感謝しています。なぜ幸せかと申しますと、ここに飾られている写真の方々も、ここにいる私達も、神様を知り、神様から知られているからです。そして神様を知っている者は、三つの命をもって生きる者であることを、聖書は私達に教えています。 /n霊の命  三つの命とは、体の命、精神(こころ)の命、霊の命です。テサロニケの手紙に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたの霊も魂(口語訳では心)も体も何一つ欠けたところのないものとして守られるように</span>」との、祈りの言葉が記されています。神様を知らない人々は、自分の中に霊の命があることを知りません。人間は、神様からの呼びかけによって心が開かれて信仰が起こされ、神様と交わり、信仰の世界へと導かれます。聖書は、神様によって呼び覚まされた人間の霊的命を最も重要な命として考えています。霊的命がまだ目覚めていない人は、体と心がどんなにすぐれていても、十分ではないのです。 だからこそ私達は、多くの方々に神様に出会っていただきたくて伝道するのです。というわけで、ここにおられる方々は、すべて神様から呼びかけを受け、心が開かれて信仰が与えられた者であり、又、その途上にいる者です。与えられている霊の命が、いつも健やかに成長し続けられるように、私達は教会にしっかりとつながって歩んでいきたいと祈り、願っています。 /nサドカイ派の質問  今朝の聖書は、「復活」を信じないサドカイ派の質問と、それに対するイエス様の返答です。質問とは「もし復活があるなら、再婚した兄弟達にとり、女は誰の妻になるのか」です。この問いの背景には、家名が絶えない為、又、家の財産を守る為、子供のないまま夫を亡くした妻が、夫の兄弟に嫁ぐように定められていた結婚形態(レビラト婚)があります。 /n「あなたたちは聖書も神の力も知らない。」  イエス様は、サドカイ派の質問は大変な思い違いからきており、それは、彼らが聖書も神の力も知らないからであると断定しました。彼らは、「天上」のことを「地上」の延長としか考えませんでした。しかし復活の時には「男も女もなく天使のようになる」とイエス様は教えられました。神様の力は、人間の頭では考えられないことを創造します。人間は神様を簡単にとらえることは出来ません。さらに神様は生きている者の神です。かつてモーセに現れた神は、地上ではすでに死んでいたアブラハム、イサク、ヤコブの神として現れています。神様がアブラハム、イサク、ヤコブにカナンの地を与えると約束された以上、この約束により、甦らされた彼らの前に、神様は生きた者の神としてあるのです。 /n復活 「復活」は、「天上」のことがらです。私達は地上で肉体をもって生きており、天上のことは聖書を通して、又、信仰を通して知る以外、道はありません。私達の知識は一部分であり、復活については、おぼろにしか映らない鏡を見るようです(第一コリント13:12)。 私達が住む地上は、時間と空間の世界ですが、天上の世界は永遠の世界です。  死者の復活については、第一コリント書15:32以下およびヨハネ第一3:2以下に記されています。 私達は今、地上で生きていますが、私達が復活する時、私達はイエス様に似た者とされる約束が与えられています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分達の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです</span>。」(第一コリント15:58)

「救い主の十字架」   牧師 平賀真理子

/n詩編22:17-31 /nマルコ福音書15:21-32     /nはじめに  今年の受難節は3月5日から4月19日でイースターは4月20日です。少し早いですが、主の十字架における苦難の御姿を学びたいと思います。 イエス様は、ローマのユダヤ総督ピラトの裁判を受け、判決後に鞭を打たれました。鞭は先の方に骨片や小石などがつけられ、それで打たれると気絶し、死にそうになったそうです。しかし十字架前に死なせてはならず、今日の聖書のように、十字架を別の人間に背負わせたようです(21節)。 /nキレネ人シモン たまたまそこを通りかかった人が「キレネ人シモン」でした(キレネは今の北アフリカ)。過越祭のためかその他の理由か、エルサレムに来た目的は知る由もありませんが、シモンは人間的な見方からすれば偶然、主の十字架を肩代わりして負う役目を与えられたのです。しかしこれは、おそらく父なる神様のご計画の一端を顕著に表すものと見ることができるように思います。本来、主の十字架を共に負うのは弟子達のはずでした。ところが弟子達はイエス様の逮捕に恐れをなし、「死なねばならないとしたら共に死にます」と誓ったにもかかわらず逃げ去ってしまいました。予定されていた者(弟子達)ではなく、全く備えのなかった者(キレネ人シモン)が神様の特別な恵みにより十字架を負う大変重要な役目を果たすことになりました。 /n「アレクサンドロ」と「ルフォス」の父  シモンは「アレクサンドロとルフォスとの父」と記されています(21節)。この二人の名前は、当時の教会の人々(A.D.70年頃)には知られていたのでしょう。シモンも二人の息子も異邦人伝道の初穂として、父なる神様に選ばれたのではないでしょうか。  思えば私達も、神様の一方的な恵みの内に、福音を信じる者として変えていただきました。最初は「神様の導き」を無理やりな感じで受け取られた方もいらっしゃるかも知れません。しかしその選びによって、私達は、「罪の世」から解放されて「自由」の恵みを受けたのです。 /n「ヴィア・ドロロ―サ」(苦難の道)  裁判の場所から処刑場のゴルゴタの丘までの道を「ヴィア・ドロロ―サ」と呼ばれています。巡礼者達が主の苦難を偲んで歩む道です。  ゴルゴタの丘では、イエス様は十字架にかけられる直前、慣例に従い、没薬をまぜた葡萄酒を飲ませられようとします(十字架の苦痛を和らげる鎮痛剤として)。しかしイエス様はお飲みにならず十字架につけられました。旧約聖書詩編22編にある「救い主が罪人に囲まれて、悲惨な目に遭う」ことが、イエス様の十字架で本当に起こった!預言が成就した!との聖書の証言が、24節の詩編引用聖句を通して私達にも伝わってきます。 /n主に寄り頼む者の勝利  詩編22編は、ダビデ王が敵に囲まれて絶体絶命の中、神様に助けを求め、その救いを信じ続けて本当に助けていただき、そのことによって、神様を賛美する気持がわき起ることをうたっています。敵に囲まれ悲痛な心情から救いを得て、最後は神様の救いが世界中、子子孫孫に広がることを預言し、その世界を賛美しています。この詩編が預言として示されていることは、現状がいかに悲惨で負けているような状態でも、「主」により頼む者の最後は、「主」による勝利、時空を越えた喜びの世界の到来の「希望」を持つことができるということを暗示しています。イエス様がゴルゴタで、人間界の刑罰による死を迎えようとも、その先には「神様側の絶対的な勝利の希望」があるのです。 /nイエス様の愛  今日の聖書では、救い主イエス様の愛が三つの形で表わされています。一つは、十字架の前を通りがかった人々から「他人は救ったのに、自分は救えない」とののしられながらも御自分の為にその御力を使うことはなかったことです。二つには、筆舌に尽くしがたい苦痛の中に置かれても神様からの「人間の罪を肩代わりする使命」の為に、「神の御子」の身分を捨ててへりくだって忍耐されたことです。三つには、苦しみを伴う役割を、薬などで誤魔化さず、正面から受けられたことです。このイエス様が、後に授けられた復活の勝利により私達を招いておられます。