「終末についての御言葉(1)」 伝道師 平賀真理子

/n詩編46:2-12 /nマルコ福音書13:1-13 /nはじめに  本日の聖書には、地震、戦争、飢饉という言葉があり、「今は終末だろうか?」と不安に思われる方もいらっしゃるかもしれません。そんな折に与えられた御言葉を、じっくり追いながら学んでいきたいと思います。 ユダヤ教の総本山エルサレム神殿で、本当は、救い主として迎えられるはずであったイエス様は、ユダヤ教の有力者達によって排斥されました。  イエス様は、彼らと討論しながら彼らの誤りを指摘されましたが、彼らはイエス様を救い主と認めることはできませんでした。エルサレム神殿は、古い形を固守したが故に、新しい形を受け入れられなかった「不信仰」のシンボルとなりました。にもかかわらずイエス様の弟子の一人は、「何とすばらしい建物でしょう」と、表面的な見方のままです。  イエス様は、エルサレム神殿が「人間の救い」の役目を果たさないなら、外見はどんなに立派でも、近い将来、崩れて滅びると言われました。 /n二つの質問 イエス様は不信仰のエルサレムを出て、そこを見下ろせるオリーブ山に来た時、弟子達(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)がひそかに尋ねました。彼らは最初にイエス様に呼び集められた弟子達です。素晴しいエルサレム神殿が崩壊するのは「終末」の時と考えて質問したのです。 「終末」は、「終りの日」・「主の日」と言われ、神様が審判と救いの完成の為にご自身を現わされる日であることがユダヤ教の中で知られていました。弟子達は二つの質問をしています。最初の質問は、いつ「終末」が来るのか。そして、第二の質問は、終末の「前触れ」としての出来事は何かです。 /n終末の前ぶれについて イエス様は、二番目の質問「前触れ」について、偽の「救い主」を語る者達の出現、戦いや地震や飢饉などを挙げられました。しかし、これらは起こるに決まっているが、まだ世の終りではないと言われます。 「起こるに決まっている」とは、神様の救いを理解できず、信仰を表すことができない「この世」は、主の御心に沿わず、崩壊していくようになっているのです。そして戦争・地震・飢饉などは「産みの苦しみの始まり」と言われます。これは、古い形の信仰に生きる世界から、新しい形の信仰の下に広がる世界へと移り変わる時(生まれる前)に伴う「苦難」です。御子イエス様がこの世に来られ、神の国の福音を広め、イエス様の救いを信じる者達が神の国の民となる世界、誰もが本当の神様の愛の主権の下で平安に生きる世界は、「産みの苦しみ」の後、到来するのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は自分の事に気をつけていなさい</span>。」(9節) イエス様は「あなた方は自分の事に気をつけていなさい。」と言われました。何をどう気をつけるのでしょうか。それは今後の出来事における弟子達の態度です。イエス様を救い主と信じるゆえに、権力者からの迫害があり、そこではイエス様について証言を求められます。力ある反対者達の前で自分の信仰を表現するのです。しかし神様のご計画によれば、信仰者がそのような目に遭うことで、「主が来てくださった!救いがこの世で成就される!」という福音が、全ての人々に広まることになるのです。人間の思いもよらないことです!「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される</span>」(詩編46:9)。 更に、迫害の中でも助け主として「聖霊」が共に居てくださり、信仰者を通して聖霊が語ってくださることを教えています。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない</span>」(10節) 人間が、今の自己中心の世界を卒業し、全く逆の「神様の愛」を根本にした世界を生み出していくには、「産みの苦しみ」が待っています。 主の福音が広まるために弟子達は、純粋で強い信仰を貫き迫害に負けず、イエス様が救い主であると証しし、多くの人達が殉教していきました。「主の十字架」により、この世に対する神様側が勝利していることは確かです。私達も又、信仰によって新しい「神様主権の世」を創りだす手伝いが許されていることを感謝し、主の証人としての歩みを励みましょう。

「神の養いの中で」  遠藤尚幸神学生(東京神学大学)

/n詩編68:23 /nマタイ福音書6:25-34     /nはじめに  初めて仙台南伝道所に来たのは、今から約8年前の2005年でした。誘われて、おそるおそる教会という場所に足を踏み入れた時のことを今でも思い出します。それから一年後の2006年4月に仙台南伝道所で洗礼を受けました。同じ年、私は社会人にもなりました。社会人生活をしながら毎週日曜日、車で高速に乗り、古川から約30分かけてこの伝道所に通いました。そういう生活を続ける中で、自分は何の為に生き何の為に死んでいくのか。又、神様が自分に与えられている仕事は何か、を考えるようになりました。その中で牧師になる(献身)という一つの道が示されました。牧師に相談し、祈り、受洗から3年後の2009年に会社を退職し、東京神学大学に進学することを決めました。 それからもうすぐ4年の月日が経とうとしています。上京当時は知り合いもなく、将来の見通しもあったわけではなく、不安の中で始まった学生生活でしたが、その後、現在在籍している教会との出会いが与えられ、様々な人々との出会い、神学校での学びと教会での学びに支えられながら進んでいきました。自分自身の信仰が揺さぶられ、打ち砕かれ、また、想像以上の沢山の恵みが与えられた4年間でもありました。仙台南伝道所の皆様には、この4年間、お祈りと奨学金という支えをいただきました。離れていても共に礼拝を守る群れとして、いつも繋がっていると感じてきました。 今朝は、今年初めての主の日の礼拝を、この仙台南伝道所で共に守ることのできる幸いを、心から神様に感謝しています。 /n神学生時代  神学校での4年間は、大変恵まれた4年間でありましたが、その反面、不安や恐れのない4年間ではありませんでした。さまざまな思い悩みがありました。夏期伝道実習では、実習先の牧師から、厳しい言葉をいただきました。ある時には聖書そのものが読めなくなる経験もしました。又、説教を聴いても御言葉が響いてこない時期もありました。伝道者を志す者として「神様に召された」という思いが、逆に自らを苦しめるものとなっていきました。東京の教会に於いても、神学生として厳しいお叱りを受けることも多々ありました。振り返ってみれば、辛く悲しい思い悩まずにはいられないような現実と向き合うこの4年間でもありました。 /n私達の思い悩み  考えてみれば、人生において誰しもが、「思い悩み」を持って生きているのではないでしょうか。生きていれば病気もします。自分の命のことを考えます。人間はなぜ死ぬのか、また何の為に生まれて来たのか・・。そのような、私達にとって避けることの出来ない思い悩みが誰にもあります。右に行っても左に行っても、さほど影響のないような、ごくごく小さな思い悩みの時もありますが、反対に、人生に大きな影響を及ぼす重要な決断を迫られるような思い悩みもあります。言ってみれば私達の日々の生活は、このような、思い悩まずにはいられない決断の連続と言ってよいかもしれません。時には、どちらに行こうとも、もうどこにもたどり着けないような「行き詰まり」さえ経験することがあります。 /n「思い悩むな」  そういう私達の、思い悩まずにいられない現実に対して、聖書は今朝、私達にこう語ります。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。</span>」(マタイ福音書6:25)。 さまざまな思い悩みがある私達の日常生活の中で、主イエスが「思い悩むな」と言って下さることは、それだけで意味があり、素晴らしいことだと思います。まさに、思い悩まずにはいられない私達に対する、神様の励ましの言葉であると言えるでしょう。 しかしその一方で、この言葉を容易には受け取ることの出来ない自分に気付きます。「思い悩むな」と言われて私達は思い悩むことをやめることが出来ない自分自身の姿と直面させられるのではないでしょうか。 /n「空の鳥をよく見なさい。」  「<span class="deco" style="font-weight:bold;">空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか</span>。」(マタイ6:26)  思い悩みの現実にある時、その中心は「自分」です。25節に「自分の命」・「自分の体」という言葉が続きます。神様を見ないで、自分ばかり見る。自分のことしか考えない。そういう私達の現実に対して、主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」と教えて下さいます。空の鳥は種も蒔きません。刈入れもしません。倉に納めもしない。けれども天の父はこの鳥を養って下さいます。又、主イエスは続けて「<span class="deco" style="font-weight:bold;">野の花がどのように育つのか、注意して見なさい</span>」と言われます。野の花は働きもせず、自らを紡ぐこともありません。けれども野の花は、「栄華を極めた王」ソロモンよりも着飾っていると言っています。野の花はいつ捨てられるか分からないような、そういう小さな存在です。その花を神様は装って下さいます。この野の花の姿を見る時、私達は、野の花を越えて神様の養いがあることを教えられるのではないでしょうか。これらの主イエスの言葉は、「自分ばかり見るのではなく、あなたを養い、あなたを守り導いて下さる神様にこそ 目を留めなさい」ということを私達に教えてくれています。 /n「海の深い底から」  昨年8月に、私の所属する教会の先生と共にボランティアチームに参加し、宮古に行ってきました。宮古には2月に続いて二度目です。行く途中、ある教会に寄りましたが、その教会の先生が、2月には行かなかった場所に案内して下さいました。そこでは震災時に約160名余りの人が避難しましたが、120名以上の方が津波の被害で亡くなった場所でした。その建物の中の壁は剥がされ、天井は傷つき、当時の凄まじさを まざまざと見せつけられ、恐ろしさを感じました。その場所の一番大きな部屋の中心には現在祭壇が置いてあり花が置かれています。その前で、先生が聖書を読んで下さいました。 それが今朝の旧約聖書の御言葉です「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主は言われる。『バシャンの山からわたしは連れ帰ろう。海の深い底から連れ帰ろう。</span>』」(詩編68:23)   先生は、その場所は本当に地獄のような場所だったと、当時の状況を知る人から聴いたそうです。そしてこう語られました。「主なる神様は、私達が海の底に行っても、地獄の底に行っても必ず連れ帰るという約束をして下さっています。まさに、地獄だと言われたその場所からもイエス様が連れ帰って下さる、という約束を信じたいと思います」と。 私達はその祭壇の前で、祈りを捧げました。私は、「海の深い底から連れ帰ろう」という神様の約束の言葉に、どんなに辛く受け入れ難いような現実の中にも、主イエス・キリストの 救いの約束があることを教えられました。「海の深い底から連れ帰ろう」、そう神様は約束をして下さっている。想像を絶するような、まるで地獄のような場所にもイエス・キリストが立っておられることを知りました。   今日1月6日は、教会歴で「公現日」(*注)です。12月25日のクリスマスに、私達の為に生まれたイエス・キリストが、おおやけの前に「救い主」として現れた日として制定されています(*注:東方の博士が星に導かれてキリストを礼拝したことが中心となり、クリスマスから12日後の1月6日に祝う。顕現日ともいう)。 イエス・キリストは、遠い昔に生まれたお方でありながら、同時に今ここで、礼拝を守る私達の目の前に立たれています。又、イエス・キリストは、私達が人生につまずき、もうこれ以上どこにも進めないような、 思い悩みから逃れられない現実の中で、私達と共にいてくださいます。 /n神の養いの中で  マタイ福音書6:31以下に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである</span>。」とあります。思い悩みの現実の中に投げ出される時、人生の行き詰まりを感じている時、私達はその絶望の淵に立って私達を救おうとされている「一人のお方」に出会います。絶望の淵にこそ神様の守りがあることを知らされます。もうそこから先に進む事のできない、そのような時にその淵に立ち、私達と共にいて下さるイエス・キリストと出会います。 神様は私達に必要なものをすべて御存知です。それは、私達が思い悩み、自分のことを考えている以上に、神様が私達のことを考えて下さっていると言い換えることが出来ます。その確かな証拠として、神様はその独り子イエス・キリストを私達に与えて下さいました。人生に行き詰まり、自分の事しか考えないような罪深い私達の現実の中に、神様は主イエス・キリストを遣わされたのです。イエス・キリストは神の子でありながら、私達の罪のために十字架に架かって死なれました。ですから、私達が今立っている(生かされている)場所は、何の保証も無い場所ではありません。 そこは、イエス・キリストの十字架の死によって私達の罪が赦され、神様が私達の父となって下さり、守り養って下さっている場所です。現実の只中で、この場所こそが、神様の養いの中にあります。 /n「神の国と神の義を求めなさい」  33節にはこう続きます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる</span>」。  「神の国」とは、神様のご支配と言い換えることが出来ます。「神の義」とは、神様の御心に従って生きていくことと言い換えることが出来ます。私達は、何よりも先ず、神様によるご支配を求め、御心が何であるかを 聴きつつ生きることにこそ、思い悩みから解放される唯一の道があることを知らされます。そのようにして初めて、私達の人生に必要なものが備えられていきます。 「必要なものが備えられてから」ではありません。「まず、神様のご支配と御心を求める」ことによって、私達はその時その時に必要なものを、「神様からの恵み」として受けとっていきます。それによって日々の思い悩みから解放され、神様の養いの中で安心して生きていけます。 このことは、私達の考えと逆の発想でありましょう。全てが備えられたから、神様のことを信じるのではありません。何一つ備わっていないそういう状況の中でも、神様のご支配と御心を求めて歩む。その歩みの 中で必要なものが備えられていくのです。そのことを知らされ、受け入れ、主イエスを救い主と信じて告白して歩んでいくことが私達にとっての信仰生活です。信仰生活とはそういう意味で、何一つ持たず、ただ主イエスのみに信頼して歩んで行くことと言い換えることが出来ます。そしてその時にこそ私達は、思い悩みから解放されていくのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である</span>。」   そのようにして、神の国と神の義を求めるという信仰生活が与えられてもなお、この言葉は、その日の苦労、その日の思い悩みは残るということが言われます。しかしその思い悩みは、もはや人生が行き詰ってしまうような、思い悩みではありません。なぜなら私達は、絶望の淵に立ち、私達を救おうとなさる主イエス・キリストが、私達と共にいることを知らされているからです。思い悩みの只中にある私達と共に、主イエスはいて下さる。たとえどのような辛く悲しい現実があろうとも、私達の与えられている希望は決して無くなることはありません。そして、その希望は、私達が死んだ後もなお、輝いています。 /nあなた方の父 主イエス・キリストは、天の父なる神様を「あなたがたの天の父」と、私達に教えて下さいました(26節)。イエス・キリストの父なる神様は、十字架の出来事を通して、私達の父ともなって下さいました。私達を愛し、守り、導き、海の深い底から連れ帰ろうと約束して下さる神様が、私達の「天の父」として、私達をご支配の中に置き、養って下さっています。それ故に私達は、自らの人生の日々を、神様の御心を求めて思い悩みを担いつつ、神様の守りの中で安心して歩んでいくことが出来ます。 私たちは今日も、父なる神様のご支配の中で養われ、生かされています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」 牧師 佐藤義子

/n 詩編98:1-9 /n ヨハネ福音書14:1-11 /nはじめに 今日の聖書は、イエス様の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">心を騒がせるな</span>。」という弟子達に対する言葉から始まります。心を騒がせるとは、心がかき乱される、不安に脅かされることです。この時の弟子達は、どういう状況だったのでしょうか。 三つのことが考えられます。 一つは、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」というイエス様の予告です。これまでイエス様を信じ、すべてを捨ててイエス様に従ってきた仲間から、脱落者がでるというのです。 二つには、(これが一番大きな原因と思われます)イエス様が弟子達から離れていくという予告です。イエス様から「わたしの行く所についてくることは出来ない」と言われ、この時ユダヤ人達の敵意・殺意は強く、弟子達は皆、イエス様との死別を覚悟し、厳しい状況に自分達が残されることを頭に浮かべたことでしょう。 三つには、リーダー格である弟子ペトロが、「あなたのためなら命を捨てます」とイエス様に言った時、イエス様は「あなたはわたしのことを三度知らないと言うだろう」と、ペトロがおおやけに、師であるイエス様を否認する予告をしたのでした。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい</span>。」 仲間の裏切り、イエス様との離別、リーダー格によるイエス様の否認・・。これらが弟子達の心を騒がせていたと想像できます。私達人間は、先が見えない時、希望が持てない時、挫折した時、敗北感を味わった時、心はかき乱され、失意の中で落ち込んでしまうことが常です。そのような状況に置かれて、尚、強く立ち続けていくには、どうしたら良いのでしょうか。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい</span>。」 これがイエス様からのメッセージです。何一つ明るい希望の持てるような状況にない、その中で、イエス様は尚、これまでと同じように「神を信じ、わたしをも信じなさい」と信仰を要請されているのです。なぜならイエス様がこれから行こうとされている「父の家」には沢山の住まいがあり、場所の用意が出来たら、弟子達を迎えに戻って来られるからです。 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている</span>」と、弟子達なら、その信仰によって知っているはずと言いました。 弟子のトマスは非常に驚き、「主よ、どこへ行かれるのか、私達には分かりません。」と答えます。今、イエス様を信じることこそが、これからのことに眼を開くことになるのに、トマスは無条件にイエス様を信じることが出来ず、イエス様の行き先も道も分からないと訴えます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない</span>。」  「真理」は、神様に所属し、神様だけが与えることが出来るものです。その真理をもっておられる神様と人間との間には、越えることのできない断絶があります。「道」とは、イエス様がその断絶の間に立ち、私達と神様との間をつなぐ、唯一の道になっておられるということです。「命」も又、神様に所属し、神様だけが与えることが出来るもので、私達を神様の所に行くことを可能にする力であり、私達を罪の中から神様のもとに引き上げる神様からの霊的な力です。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしを見た者は、父を見たのだ</span>。」 父である神様のところに行くには、イエス様が唯、一つの通路です。フィリポはイエス様に、「神様を示して下さい」と頼みました。人間は神様を見たいと思っているため、この世の中には数えきれない偶像が造り出されています。手で造った神々は、人間に真理を教える存在ではなく、人間に仕える、人間のための、人間の自由になる神々です。イエス様が教えられる「父なるまことの神」とは、「私が父の内におり、父がわたしの内におられる」と言われるように、イエス様と人格的に深く結合している神様です。イエス様は、神様の意志を御自分の意志として、無条件の絶対服従という道を歩まれました。 私達は、目に見えることだけに心を向けて、心を騒がせるのではなく、どのような状況が起こったとしても、希望を見出すことが困難な時でも、イエス様が教えられたように、神様を信じ、道となって最後まで導いて下さるイエス様を信じて、平安の中を歩んでいきたいと願うものです。

「天の国について(1)」  牧師 佐藤義子

/n詩編90:1-12 /nマタイ福音書13:24-33 /nはじめに 今日の聖書は、イエス様が語られた「天の国」の譬え話です。たとえ話は、人に何かを伝えたい時に、少しでもわかりやすく伝える為に用いられます。 ところが今日の聖書では、イエス様は、群衆に対して「たとえ話」をされますが、何を伝えたくてそのたとえを用いるのかを語られません。そのことを弟子達が不思議に思いイエス様に尋ねますと、イエス様はこのように答えられました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人達には許されていないからである。</span>」 /n天の国の秘密  秘密は「奥義」と言い換えられます。「天の国」とは、神様が支配されているところですから、天の国を正しく知る為には、神様のことを正しく深く学ぶことが必要です。イエス様は「奥義を悟ることが許されていない人」について、旧約聖書の言葉を引用されました。それは「心が鈍り、耳は遠く、目は閉じてしまった人。心で理解しない人、悔い改めない人」です。「耳が遠い」とは、聞くには聞くが決して理解しない人、「目を閉じてしまった人」とは、見るには見るが決して認めない人のことです。 /n天の国のたとえ  今日の聖書には、天の国についての三つの譬え話が記されています。 第一は「毒麦のたとえ」です。内容は、ある人が畑に良い種をまきましたが、同じ畑に、夜の内にこっそり毒麦の種をまいていった人がおりました。そうとは知らず良い麦だけを期待していたしもべ達は、芽が出て実り始めると毒麦に気付き、急いで主人に報告します。主人は「敵のしわざだ」と言い、育つままにしておくように指示します。そして収穫の時期になったら、最初に毒麦を集めて焼く為に束にして、その後、良い麦を集めて倉に納めるように命じます。このたとえには、天の国の奥義が隠されています。弟子達は、群衆と別れて家に戻ったイエス様に、このたとえの解き明かしを求めました。  イエス様は次のように説明されました。良い種を蒔くのはイエス様です。イエス様が蒔いた種からは良い麦だけが育ちます。良い麦とは、神様を愛し、隣人を愛し、神様の喜ばれる生き方をしたいと願いつつ生きていく者です。しかしこの世にはイエス様の敵も存在しており、人々が気付かぬ内に悪い種をまいていきます。それは良い種と同じように、人格の奥底に侵入します。欲望をかきたて、自分の利益を求め、人を憎み、人をさばき、悪魔の意志をおこなう生き方です。そして困ったことに、良い種も悪い種も同じ畑(世界)に蒔かれ、教会も例外ではないことです。   毒麦は雑草で、苗の時は小麦と良く似ていてほとんど見分けがつかず、穂が出て初めてそれと区別がつくそうですが、その頃には根が絡み合っています。小麦は根が弱く、毒麦の強い根が、小麦を一緒に引きぬいてしまうので、収穫までは毒麦をそのままにしておくのだそうです。たとえで、主人が、毒麦をすぐ抜くことを禁じたのは良い麦を収穫するためでした。収穫の時には毒麦は束にされ、焼かれます。イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">良い麦(正しい人々)は、父の国で太陽のよう輝く</span>」と語られました。 /nからし種とパン種 二番目に、天の国が「からし種」に譬えられます。それは畑や庭にまかれる他のどの種よりも小さいのですが、やがて、ほかのすべての植物を遥かに越えて、大きく成長し、鳥が巣をつくれる程になります。  三番目に、天の国が「パン種」(イースト菌)の働きに譬えられます。パンを焼く時、粉の中にイーストをまぜますが、その量は小麦粉に比べればほんのわずかです。しかし、それが入ればイースト菌の発酵作用は、まわりから始まり、ついには全部が発酵してふくらんできます。  イエス様が、小さなガリラヤの村にまかれた神様の言葉は、初めは、小さな働きとしてしか映らなかったでしょう。イエス様は御自分を人々の下に置き、謙虚に生きられました。しかし蒔かれた小さな種は、今や、全世界に拡がり、大きな働きをし、今も人々を神様の支配へと招いています。そして内に大きな力を秘めている神様の言葉は、毎週の礼拝で、私達にも蒔かれていることを覚え、この恵みを感謝するものです。

「主イエスと共に生きる」牧師 佐藤義子

先週(12月1日)の礼拝説教要旨  /nイザヤ書51:4-8 /nテサロニケ5:1-11           /nはじめに  本日は、仙台南伝道所において初めて礼拝がささげられてから満11年を迎えた記念の日です。今年の記念日は特別です。なぜなら私達には新しい礼拝堂が与えられて、来週から新しい礼拝堂で礼拝することになっているからです。これは大きな喜びです。この場所で初めて礼拝をささげるようになった時からの願いと祈りを、神様が受け入れてくださり、実現に至らせてくださったからです。  礼拝堂建設は大きな出来事であり、そのわざを起こして下さった神様に心からの感謝をささげます。それと同時に忘れてならないことは、教会は建て物ではなく、神様を信じ、イエス・キリストを神の子・救い主であることを信じる信仰共同体であるということです。どんなに立派な建物が与えられたとしても、その建物の中に、神様に賛美と祈りをささげる人々がいなければ、それは教会ではありません。逆の言い方をすれば、11年間、私達の伝道所は「礼拝堂」をもたなかったけれども、賛美と祈りをささげる信仰共同体の群れ(=教会)として歩み続けることが出来たということです。これからは場所を佐藤博子姉の家から、新会堂に移して、そこでは、必ず毎週、日曜日の礼拝が行われており、そこにいけばクリスチャンに会うことが出来、そこにいけば神様に出会える場所があり讃美歌を大きな声で歌うことが出来、何でも祈れることが出来るのです。教会とは、建て物ではなく信仰共同体のことであることを、改めて心に刻みたいと思います。   /n教会のメッセージは「福音」 この11年間、毎週の礼拝において何が語られてきたのか、これから新しい礼拝堂で何を語り続けていこうとしているのかを問われるなら、それは「福音」です。福音とは「喜びの訪れ」という意味です。教会は喜びの訪れを伝える場所です。どんな喜びなのでしょうか。それは、今までは神様は目に見えず、ただ頭の中で想像するしかありませんでしたが、神様が御子イエス・キリストを、私達の住むこの地上に送って下さった!(これが本当のクリスマスの喜び)ので、私達は想像ではなく、実際に神様がどういうお方であるか(聖であり、義であり、愛である神)を知ることが出来るようになりました。そして神様が私達人間をどれほど大きな愛で今も愛し続けて下さっているかを、私達は礼拝を通して、聖書を通して、祈りを通して、又、実際の生活の中で、日々知ることが出来るようになりました。 /nイエス・キリストは、再び来られる 今日の聖書、テサロニケの手紙では、イエス・キリストの再臨について記されています。聖書はその時を、「この世の終りの時」として伝えます。その時、準備のない者は、あわてふためきますが。聖書には、私達がその時にどう備えておくべきかを教えています。それが8節です。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望をかぶととしてかぶり、身を慎んでいましょう</span>。」とあります。「胸当て」「かぶと」は戦う時の武具です。再臨に備えて武具が必要なのは、せっかく神様の恵みによって信仰が与えられても、その信仰が、使いものにならない状況に陥る人達が出て来るからです。私達を神様から引き離そうとする力が、「矢」や「剣」にたとえるならば、それを迎える武具が「信仰と愛」であり、「希望」なのです。神様は私達を罪の支配から救い出して下さった。私達は罪から救われた者として、今は、イエス・キリストと共に歩んでいます。やがて必ずやってくる終りの日に、私達は、神の国に招かれる希望の中に置かれています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">キリストは私達のために死なれましたが、それは、キリストと共に生きるようになるためです</span>。」(10節)

「葬られた救い主」  牧師 平賀真理子

/nイザヤ5:8-16 /nマルコ15:42-47      /nはじめに 今日の新約聖書箇所では,私達の主イエス・キリストの遺体の埋葬の様子が詳しく証しされています。十字架の少し前のイエス様逮捕の時から、ぺトロを初めとする「弟子達」は逃げ去りました。彼らとは違った人物として、アリマタヤのヨセフの働きが新たに記されています。  4つの福音書の記述を拾い上げてみると、次のことが分かります。アリマタヤのヨセフは、ユダヤ社会で有力な議員であったにもかかわらず、イエス様に対する信仰を持っていたこと、しかし、主の生前は周りの人々を恐れてその信仰を公に出来ずにいたこと、一方、十字架と主の死を経験した後では、主のご遺体を引き取られるように自ら積極的に動き出し、「救い主」として相応しく遺体を取り扱い、新しい墓に埋葬したことです。 /nアリマタヤのヨセフの働きと神様の御計らい  有力議員ということは、地位に伴い、多くのお金も持っていることになります。そのような者は、多くの場合は思い上がっており、それをひたすら自分のために用いるために、神様からの祝福がないのです。しかし、この時、アリマタヤのヨセフは、富も地位も自分のためでなく、主の埋葬のため、ひいては、敬愛する主の尊厳のために使ったのです。  信仰告白を公にしないことに対して、先に信仰告白した者達は裁きの思いを抱くことがあります。しかし、神様は、未だ信仰告白していない、このヨセフを、主の埋葬という大事な働きに用いられました。主に愛された弟子達が本来するべきだった大事な役目を、このヨセフが果たしたのです。 /n主の十字架刑でも希望を失わなかったヨセフ   弟子達が主の十字架刑が現実のものとなった時に絶望してしまったにもかかわらず、アリマタヤのヨセフは「神の国を待ち望む」希望を捨てませんでした。このことも神様は受け取られたのでしょう。主は、至らないところを裁く方ではなく、僅かばかりの良いところを探して拾い上げてくださり、ご計画に用いてくださる方であるとの思いを強くします。 /nピラトと百人隊長 イエス様の埋葬を巡って、十字架刑の判決をしたローマ帝国総督のピラトと、部下の百人隊長が再び登場します。ピラトは最後までイエス様の不思議さに捉われながら、神の御子と認めませんでした。一方の百人隊長は、イエス様を「神の子」と既に信仰告白している人物です。神様の前に、人間界での上下関係など意味がないことが暗示されています。 /nマグダラのマリアとヨセの母マリア  主の十字架上での壮絶な死と埋葬を見守り続けたのは、主に従ってきた女性達でした。彼女達はユダヤ社会の律法では、希望を持つことができない者達でした。しかし、主の福音に照らされると、女性であるいう条件は、何の障害にもならなくなりました。主を信じ従い続けようとしているかどうかだけが、救いの条件となり、彼女達は、次なる希望「主の復活」の証人にされてゆくのです。 /n人間の肉体をとって世に来られたイエス様 主の埋葬には様々な人物が関わりましたが、最も思い起こすべき御方は、私達の救い主イエス・キリストです。イエス様は、神の御子でありながら、へりくだって人間として歩まれたことに感謝したいと存じます。ご誕生の時も旅先の家畜小屋の飼葉桶に寝かされる惨めな状況でしたし、宣教活動中も多くの困難に苦しめられましたし、最後は十字架で死刑になって亡骸を人間に晒して葬ってもらい、その後に暗い墓に入るという悲惨なものでした。しかし、イエス様が人間の肉体を持って過ごされて本当に悲惨な経験をされたが故に、同じように肉体を持ってこの世に生きている私達人間の本当の「救い主」の役目を全うされるようになったのです。主の十字架と、その先の復活こそ、私達の希望です。