2023年5月28日ペンテコステ礼拝の説教要旨 創世記11:1-9・使徒2:1-11

「聖 霊」       加藤 秀久牧師     

*はじめに

「神様の霊、聖霊」について私達はどのようなイメージを持つでしょうか? 私がイエス様を救い主として受け入れた時、「聖霊」は何か特別な神様からの贈り物の霊のことで、私の心が正しく神様の方へ向かなければ、聖霊を受けることができないだろうと思っていましたし、神様に信仰の告白をして洗礼を受けた後、この聖霊を受けられる資格が与えられると思っていました。けれども神様は、「霊霊」を受けることのできる資格とか権利のようなものが必要であるなど、私達に言っておられません。

五旬祭(五旬節・ギリシャ語はペンテコステ)

 本日の、使徒言行録2章では、始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。この五旬祭は「七週の祭(大麦に鎌を入れ始める時から7週を数えた日)」と呼ばれて、古くは小麦の刈り入れの祭でしたが、後にイスラエルの民がエジプトから逃れた「過越の日」から50日目に、シナイ山で神様と契約を結んだ日を記念する祝祭日となりました。旧約聖書のレビ記23:15-16には次のように記されています。

あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。・・五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる」。その日には収穫した初物の献げものとして上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を奉納物とすること、小羊・雄牛・雄羊などのささげ物の規定と共に、この日に聖なる集会を開くこと、どこへ住もうとも、「代々にわたって守るべき不変の定めである」。

それだからこそ、イスラエルの民にとってこの五旬祭は、仕事を休み神様を礼拝する聖会の日、神様との出会いを待ち望む日でもあるのです。

*聖霊降臨

 「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

一人一人にとどまるようなこの現象は、神様の力強さ、心が熱くなる思い、全身に電気が通ったような思いを与えたことでしょう。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と伝えています。

*バベルの塔

 本日の創世記11章に記されていますように、神様に造られた人達はもともと一つの言語で意志疎通が出来ていました。ところが、神様から祝福を受けていた人々は、建物を建てる素晴らしい技術を、彼ら自らが名を上げるため、神様のおられる天まで届く高い塔を建て始めてしまいました。神様はこの、人間のおごり高ぶりを許さず、それまで用いていた言語を混乱させ、互いに通じないようにされました。

近年高層ビルの建設技術の発展は目まぐるしい進歩をとげています。その中で私達人間は、神様に造られ生かされている恵みを忘れがちです。私達には天地を造られた創造主がおられることを忘れずにいることが大切であり、自分の知恵や名誉を誇るのでなく、神様の素晴らしさ、偉大さを称え、伝えるために生きるべきと思います。

*わたしたちの、心の中にある受信機

 バベルの塔のように人間に何か混乱を招く出来事は、先週お伝えしたように、私達の心の中にある神様との受信器を使うチャンスにもなります。私達はこの受信機で、神様による聖霊の息吹き、炎のような舌を受け入れることができるからです。この「霊の働き」は凄く偉大なもので、私達の心の内を走り巡り、今まで混乱していた言語を再び一つの言語として理解できるように、私達が互いに理解し合える言葉へと導きます。  私達が一つ所に集まり、心を合わせて祈りを献げるならば、私達にもペンテコステで起きた出来事、聖霊の流れ・現われを毎週の礼拝の中で体験できるはずです。「聖霊降臨」は私達神様を信じる者にとってとても重要で、全てを新たにさせる神様からの贈り物、神様からの霊のシャワー、霊の降り注ぎとして考えることができるかと思います。この素晴らしい恵みに感謝して、神様と共に今週の歩みを始めて参りましょう。

2023年5月21日の説教要旨 詩編105:12-24・マタイ28:16-20

「キリストの昇天」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

本日の旧約聖書、詩編105編12~24には、神様から選ばれた民(選民)に、神様からの大いなる祝福、守り、導きがあったことが記されています。特に、族長ヤコブの息子のヨセフが用いられて、イスラエルの人達が飢饉という出来事を通してエジプトに住むようになった様子を描いています。

ヨセフは兄たちによって奴隷としてエジプトに売られ、宮廷の役人である侍従長に買い取られましたが、その侍従長の誤解による怒りによって、監獄に入れられてしまいます(創世記39章)。しかしヨセフは王の夢を解き明かしたことがきっかけとなり、王様に次ぐ地位に就くことになります。やがて飢饉が全国に広がり、食料を求めて兄達がカナンの地からエジプトに下ってきた時、ヨセフは兄達と再会し、その後、父ヤコブとその子孫を皆、エジプトに呼び寄せます(創世記46章・総数70名)。

*「主はご自分の民を大いに増やし 敵よりも強くされた。」

こうしてイスラエルの人達は、エジプトで大いに力を増し、ひどい目にあいながらも、彼らの子孫を増やし、神様に信頼する信仰を育てていったのでした。ヨセフは、神様との会話・幼い時から神様の霊に触れ、神様が語られる声に耳を傾けながら、その体験を大切にしてきたように思われます。詩編105編を読む時、これらの歴史的出来事が、天地を創造された神様のご計画であったと受け止めて、自らも追体験し、自分達が選民イスラエルであり神様の救いの御手がある、との告白が伝わってきます。

イスラエルの人々の中には、神様の声を聞くことのできる預言者達たちがいましたが、彼らはどのようにして、その声・神様の霊を感じ取ることができたのでしょうか?

*神様の霊を受け取る受信機

神様の霊は、神様に創造された全ての者たちの心の中に宿っています。

私達は、神様の霊と共に、神様に養われた存在であることで分かると思います。毎日私達が神様やイエス様と話をしたい、との気持はどこで考え、どこから沸き起こるのでしょうか?それは、私達の心の最も奥深くの所で、神様と交信をしているからだと思います。私達には、神様と交信する道具(受信機)が心の中に備え付けられていると考えられます。但しこの受信器は、赤ちゃんの時は頻繁に使っていましたが、地上での生活習慣や生き方を学び、大人になるに従って少しずつ知恵や知識も備わり、いつしか神様との受信器を使わなくなり、必要としなくなり、この受信器を心の片隅に置き去りにしてしまう結果を招いていると思います。

しかし、私達がこの受信器を全く使わなくなったとしても、神様は、この受信器の電源をOFFにせず、一方的に私達に必要な言葉や神様の霊を送り続け、受信器を交信できる周波数に合わせられるように操作して下さり、会話ができるようにして下さっています。

聖霊を受けなさい」 

イエス様の復活の出来事は弟子達や婦人達にとって驚くべき出来事でした。婦人達から聞いた弟子達は、イエス様が指示されたガリラヤの山に登り、イエス様にお会いし、ひれ伏しました。イエス様は、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。(19~20節」と言われて天に昇られました。他の福音書には、復活のイエス様が弟子達を祝福した後「彼らに息を吹きかけて言われた聖霊を受けなさい(ヨハネ福音書20:19)とあります。

それによって弟子達はイエス様のことを世界中に伝えていくことになりました。霊の吹きかけは、神様に造られた者達に与えられている霊の働きを活発にします。今も、神様と日頃よく会話や祈りをささげている人は、神様のお考えが霊の内で理解することができてイエス様が神様であることを認めています。ところが聖書は、「疑う者もいた」(17節)と伝えています。私達はイエス様を信頼し、日々の歩みの中でイエス様を中心として、心の中に聖霊の炎をともし続ける必要があります。

今週もイエス様の語りかけに耳を傾けながら歩み始めて参りましょう。

2023年5月7日の説教要旨 申命記7:6-11・ガラテヤ3:23-4:7

かけがえのない民」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

ガラテヤ書2章19節でパウロは、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と記しています。

「律法(ト-ラ-)」は、神様が人間に与えた唯一の基準と規範であり、ユダヤ教では「律法」(旧約聖書の最初のモーセ五書(創世記~申命記)全体を意味するようになった)を守ることが神様に受け入れられることであり、救われる前提でした。ですから人々は律法に縛られて、自由になれない生き方になっていたようです。そのような人々にパウロは、「わたしは、律法に対しては律法によって死んだ」と言いました。

*律法によって死ぬ

それまで長い間、律法を守ること、律法に従うという「行為」が、神様によって「義とされる=ただしいとされる」と考えられてきましたが、パウロは「人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした(2:16)」と語り、そのことを可能にしたのは「イエス・キリストの十字架の死」であることを語っています。

旧約の時代には、「罪の赦し」を願う時、動物を屠って祭壇の側面にその血を注ぎました。今や神様が御子イエス・キリストを送って下さったことにより、罪のないイエス様の「十字架による血」によって全人類の罪が赦され、贖(あがな)われました。この出来事により私達はイエス・キリストの十字架を信じる信仰によってバプテスマを受けて救われるのです。

律法の実行によって救われる考えから完全に解放され自由にされました。

*キリストを着る

この福音を信じる信仰によって「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(3:26~27)」と、パウロは語ります。原語では「あなたがたは皆」の前に「誰一人例外なく」という言葉が記されています。誰一人として例外なくイエス様を信じる信仰によって洗礼を受けた者は、イエス様に結ばれて神様の子供とされたことが告げられています。神様の子供とされることは、イエス様と同じ「相続人」(3:29と4:7)とされることです。「キリストを着る」という表現から、イエス様のたとえ話(ルカ福音書15章)の「放蕩息子」を思い起します。父のもとに帰って来た放蕩息子に、父親は「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」と言いました。ここで、父親が帰った息子に対して自分の子供としての資格(身分)を回復している姿を見ます。私達はまだ神様も聖書の教えも知らなかった時、悪の存在するこの世界で罪の奴隷とされて生きていました。しかし私達には帰るべき父の家があることを知り、帰った時、このたとえのように父である神様は私達を父の子として迎えて下さり、私達にイエス・キリストを着せて下さいました。「神の子とされたことは、御子の霊を私達の心に送って下さった事実から分かります(4:6)。」「あなたはもはや(罪の)奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです(4:7)。」

*神の宝の民

あなたがたは、もしキリストのものだとするなら・・(信仰によって)アブラハムの子孫であり、約束による相続人です(3:29)」。「あなたは、主の聖なる民である。あなたの神は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守られたゆえに・・奴隷の家から救い出されたのである(申命記7:6~)」。神様を信じる私達は、神様は信頼出来て愛に満ち溢れたお方であると知っています。私達にはいつも、神様から与えられた約束されたものがあり、そこに希望と願いを持って御前に出て祈ることが出来、共に集まれる場所があることを感謝しています。

4月30日の説教要旨 出エジプト16:1-16・Ⅰコリント8:1-13

「良い食べ物」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

エジプト王の宮廷の責任者とされたヨセフは、飢饉の為にカナン地方から食料を買いに来た兄達に自分の身を明かして、カナンの地から父ヤコブをはじめすべての家族(総勢70名・46:27)をエジプトに呼び寄せました。彼らは最良の地に住むことが許され食料も豊かに与えられ、子供も増えていきました。しかしヨセフも、その世代の人々も皆亡くなり、ヨセフを知らない新しい王が国を治め始めると、イスラエル人の人口が増して強力になりすぎた為、王は強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待しました。労働はいずれも過酷をきわめ、助けを求める彼らの叫び声は激しさを増し、イスラエルの人々は神様に祈り、助けを求めました。その叫び声は神様に届き、彼らの苦しみを御心に留められた神様は、ミディアン地方でしゅうとの羊の群れを飼っていたモーセを選び、エジプト王のもとへ遣わして、イスラエルの人々を、約束の地カナンに連れ帰るように導かれたのでした。

わたしがあなたたちの神、主である。

 本日の出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエルの人々は無事に荒野に入ることが出来ましたが、脱出後一か月くらいに、シナイの荒れ野に行く途中「シンの荒れ野(聖書のうしろにある地図2)」に向かっていた時、イスラエルの人々の共同体全体が、モーセとアロン(モーセの兄・モーセの語るべき言葉の口の役割を担う・出エジプト4:14~)に向かって不平を述べ立てました。「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言いました。彼らの不平を聞かれた神様は、人々を神様の前に集めさせ、人々が荒れ野の方を見ると、主の栄光が雲の中に現れました。そこでモーセは、神様の語る言葉を伝えました『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。

*夕方にはうずら、朝にはマナ

 私たち人間は、目の前に危険が迫ったり直面すると、普段は冷静に振舞えるにもかかわらず、それが出来ず、心の中にあった本音が現れて言ってしまうことがあります。イスラエルの人々が旅を続ける中、疲れやストレスがたまり、喉の渇きや食料不足による空腹を覚える時、エジプトで食べられたり、飲んだりした時のことを思い出して、荒れ野という過酷な場所で、その不満が一気に表に出てきてしまったのでしょう。 

けれども主なる神様は、夕方には「うずら」に宿営を覆わせ、朝には宿営の周りに「露」を降りさせ、この露が蒸発すると、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました(16:13~)。それは蜜の入ったウェファースのような味がして、民は「マナ」と名付けました(31節)。彼らは神様がモーセを通して命じた通り、家族に応じてある者は多く、ある者は少なく集め、翌朝まで残しておかないこと、又、六日目には二倍の量を集めて七日目の安息日には休むなどの決まりを守りました。イスラエルの人々は、目的地に着くまでの40年にわたり、この恵みの「マナ」を食べて旅を続けました(16:35)。

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)

 本日の、Ⅰコリント書の8章の1-13節には、偶像に供えられた肉について語られています。4節には「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」とあり、続く7節には「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。」とあるように、偶像になじんできた習慣にとらわれている人にとっては「この肉は偶像に備えられた後、食肉用におろされたもの」と聞くと、食べるか食べないかの葛藤が心に起こることが語られます。そして、自分が正しい知識を持っていると考えている人達の、その人の自由な態度が、弱い人達を罪に誘うことにならないように気を付けなさいと警告しています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ」ます。私達は、与えられている聖書の御言葉を通して「良い食べ物」を与えられ、そして、与えていく者になりたいと願っています。

5月14日(日)10時半

〇主日礼拝 

説教:「良い知らせを伝えるために」佐藤由子牧師

聖書:イザヤ書61章、ルカ福音書4:16-30

讃美歌:66、510、2編189、541

聖書・讃美歌は、教会で準備しています。

どなたでもお気軽にお越しください。

入退出自由(祈祷中はお待ちください)。


2023年4月16日の説教要旨 詩編16編・ルカ福音書24:13-35

「晴れやかな報告」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

先週、私達は、イエス様の復活の出来事を見てきました。イエス様と一緒にガリラヤから来て奉仕していた婦人逹が、お墓に行って見ると、墓の中に納めたはず(23:53)のイエス様の遺体は見当たらず、空でした。その為、婦人達が途方に暮れていると、御使いが現れて、イエス様は復活され生きておられること、かつて語られたイエス様の言葉を思い出すようにと言われます。それで婦人達は思い出して、墓から帰り、弟子達にこの出来事を知らせましたが、弟子達は、婦人達を信じませんでした。

*イエス様を「イエス様」とわからない

三日目のこの日、二人の弟子がエルサレムから約11キロ位離れたエマオという村へ向かって歩きながら この一切の出来事について話し合っていました。そこへ、(復活された)イエス様ご自身が近づいて来て、弟子達と一緒に歩き始めました。しかし、弟子達の目は遮(さえぎ)られていて、イエス様だと気付くことは出来ませんでした。

私達の生活の中でも同じような出来事が起こっているように感じられます。たとえば水の中に顔を付けて目を開くと、どこかぼやけて周りが良く見えず、何か覆いのようなものが掛かっているような状況です。この時、弟子達と一緒に歩いて下さる旅人は見えていても、はっきりとは見えていなかったのでしょう。けれど、イエス様の十字架の出来事や、今起こっている出来事を共感できる仲間として、一緒に歩くことが出来たのではないかと考えられます。ヨハネ福音書20章でも、マリアに現れた復活したイエス様を、彼女は園丁(えんてい・管理人)だと思い込み、会話している様子が記されています。このことから、復活されたイエスの姿は、どこか別の姿・違う様子になっていたと想像できます。

*「二人の目は遮られていて」(24:16)

二人の弟子達が「イエスだとは分からなかった(16節)」とありますが、目の前に何か、覆(おお)いがかけられたような状態については、パウロがコリント書Ⅱ・4:3~4で、次のように記しています。

わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

パウロは、悪魔の霊的な力が私達人間に働き、イエス様の存在を知ることが出来ないように覆いをかけることがあることを伝えています。その為、私達が暮らす地上での生活には、私達を神様から離れさせようと、誘惑や苦しみ、悩み・悲しみを通して悪の霊的な力が働いています。

*二人の目は開かれた

この二人の弟子達も又、婦人達が、イエス様の遺体を見つけられず、そこで天使達から「イエスは生きておられる」と言われたことを聞いたにもかかわらず、この出来事を、「イエス様の復活」の預言の成就として理解して受けとめることが出来ませんでした。

イエス様は二人の弟子に、次のように言っています。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。(25~26節)」そして、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明しました。この時、二人の弟子にかかっていた覆いは取り除かれ、「私達の心は燃えていた!と、あとで振り返っています。

*わたしたちの信仰

イエス様は、彼らと一緒の食事の席に着き、賛美の祈りを唱えパンを裂いて渡すと、弟子達の目が開かれてイエス様だと分かりました。

本日の詩編16編は、私達を神様から離れさせようする悪の霊の働きによる覆いが取り除かれた私たち信仰者の告白です。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしに命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます(8~11)。」

2023年4月9日・イースターの説教要旨 詩編30編・ルカ福音書24:1-12

「イエス様はどこですか?」   加藤 秀久牧師     

*はじめに

私たちの日々の歩みには様々な事が起こります。心が晴れやかな日もあれば落ち込む日もあります。本日の詩編30編に、私達の心の様々な変化の中にあっても神様は共におられ、私達を見ていて下さる、見守っていて下さることが語られ、特に12節では「主は、わたしの嘆きを踊りに変え粗布(あらぬの)を脱がせ、喜びを帯として下さいました。」とあります。

 神様は、私達の嘆き、悲しみ、苦しみ、重荷を取り去って、私達の魂が喜びに満たされて神様をほめ称える者となり、心から神様の前で踊るものと変えて下さることが述べられています。このことは、本日のルカ福音書で伝えられる、天使からイエス様の復活を聞いて、神様をほめ称えて喜ぶ婦人逹の晴れやかな気持を表現している詩編のようにも感じられます。*ガリラヤから来た婦人たち

 本日のルカ福音書の婦人達については、直前の聖書箇所23:55~56に記されています。そこにはイエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちが、イエス様の、亜麻布で包まれた遺体が納められる様子とお墓を見届けたことや、帰宅後、香料と香油を準備したこと、又、安息日の掟に従って休んだことが記されています。そして本日の箇所には、(三日目の)週の初めの日の明け方早く、婦人たちが準備しておいた香料を持ってお墓に行ったことが記されています。10節には婦人達の名前・・「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」が記されていて、同じルカ書の8:2~3には、この婦人たちが、イエス様のガリラヤでの神様の言葉を宣べ伝えた始めの頃からイエス様に従い、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と、伝えています。

この婦人たちは、イエス様と共にエルサレムにまで来て、イエス様が捕えられた時にも、十字架につけられた時にも、イエス様から離れることなく、これらのことを見ていた(23:49)のです。彼女たちは、ずっと、イエス様のことを見守ってきた人達なのでした。

*「あの方は、ここにはおられない」

 週の初めの日の明け方早く、婦人たちがお墓に行ってみると、お墓の入り口に大きな石が置いてあったにもかかわらず、その石がお墓のわきに転がしてあり、中に入って見ても遺体は見当たりませんでした(3節)。途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れ」ました。

恐れて地に顔を伏せた婦人たちに、二人の御使いは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言いました。そうです!御使い逹はガリラヤでイエス様の言われたこと・・『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』ことを、思い出すようにと言われたのです。そう言われて婦人たちは、イエス様の言葉を思い出しました(8節)。

*復活の知らせは、先ず、婦人たちに告げ知らされた

 本来であれば、この出来事・・「天使から、イエス様の復活の知らせを受け取ること」は、先ず、使徒たちに起こることではなかったのかと思われます。けれどもこの出来事は、イエス様のそばにずっと寄り添い、従い続けてきたガリラヤから来た婦人たちに起こりました。当時の男性中心の社会では有り得ない順序です。ですからこの知らせを聞いた弟子達は、伝えられた内容を受けとめることが出来ず、婦人たちをも信じることが出来ませんでした。ただ一人ペトロは、「立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞき、亜麻布しかなかったので、驚きながら家に帰り」ました。

*死の闇の世界からよみがえられたイエス様

私達が思い悩み、途方に暮れて呆然(ぼうぜん)としている時、神様は救いの御手をのばして私達をそこから救い出して下さいます。イエス様を愛し、寄り添い、真剣に従っていた婦人達と同じように、今日も私達に呼びかけておられる御声に、今週も聴き従って歩んでまいりましょう。

2023年4月2日の説教要旨 ゼカリヤ書9:9-10・ルカ書19:28-44

             「いと高き方」       加藤 秀久牧師     

*はじめに

  本日のルカ福音書の28節に「イエスはこのように話してから」とあり、その内容を見ると、「ムナ」のたとえ話が記されています。「ムナのたとえ話」は、王の位を受ける為に主人が遠い国へ旅立つことになり、10人の僕に1ムナずつお金を渡して、留守中、それで商売をするように言って出かけます。主人が帰ってきた時、そのお金で利益を上げた僕と、布に包んで何もしなかった僕に対して、主人からの裁きが下ったという内容です。

又、たとえ話の初めに、「人々がこれらのことに聞き入っている時」とあり、「これらのこと」をさかのぼって見ると、「ザアカイ」が救われた出来事が記されています。徴税人ザアカイ(税金を徴収する仕事をする人、嫌われ者だった)は、エリコの町に入られたイエス様を一目見ようと、いちじく桑の木に登りました。木の下まで来られたイエス様は、ザアカイの名前を呼び「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたので、ザアカイは喜んでイエス様を彼の家に迎え、イエス様と同じ時を過ごし話をすることで、ザアカイの心に変化が起こりました。ザアカイに救いがもたらされたのです。この出来事に続いて「ムナ」のたとえ話が語られます。

*イエス様の決意と子ろば

ルカによる福音書の9:51には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されています。

その日以来、イエス様は、ご自分の目的、使命をはっきりと意識されて、本日の19章28節に「イエスは、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と、イエス様が弟子達より先を歩かれたことを伝えています。

そして、エルサレムまでの距離 約三キロ離れた所のオリーブ畑と呼ばれる山のふもとにあるベタニアとベトファゲに近づいた時イエス様は二人の弟子に「まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて引いて来なさい理由を聞かれたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」と使いに出しました。 誰も乗ったことのない子ろばは、まだ軛(くびき:首に木の枠をはめて、馬車や荷車をつないで引かせる)を負ったことがなく、ゼカリヤ書9:9には「娘エルサレムよ、・・見よ、あなたの王が来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」と預言されています。<くびき:(マタイ11:29-30)イエス様は「わたしのくびき」を負いなさい。イエス様のくびきは軽くて負いやすく、私達の重荷(悩み苦しみ)を生涯、一緒に背負い、担って下さると約束されています。> 

*託宣

ゼカリヤ書9章1節には「託宣」とあります。「託宣」とは、預言者を通して、特に重要な大切な神様の言葉を語る時、声を大にして叫ばざるを得なかった神様からのメッセージを叫ぶような声で語られた言葉で、その内容の重要性を表わしています。この言葉が使われる時は必ず、神様の裁きが語られ、特にゼカリヤ書9:1-8にはイスラエルの人達を取り巻く町々に対して、神様の裁きが語られています。

*イエス様の死と復活の予告

二人の弟子をはじめ他の弟子達も、イエス様がなぜ「誰も乗ったことのない子ろば」を必要とされたのかを理解することは出来ず、おそらくイエス様を歓迎した群衆逹も本当のところは分からずにいたのでした。

イエス様は弟子達にこれまで「人の子は必ず多くの苦しみを受け、指導者達から捨てられ、殺され、三日後によみがえる」ことを述べてきました(ルカ18:31~他)。しかし弟子達がイエス様の言葉を理解することが出来たのは、イエス様が天に昇られ神様の栄光を受けられた後です。

*今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日

大勢の群衆はイエス様を出迎えて「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と声高らかに賛美し始めました。私達がザアカイのようにイエス様を迎え入れ、たとえ話の1ムナをふやした僕のように再び来られるイエス様をしっかりと待ち、諦めずに希望を持ち続け信じ続けることが出来る人になることを、イエス様は私達に望んでおられます。神様が計画された私達の歩みには、必ず喜びがあることを信じて、今週の歩みを始めて参りましょう。

2023年3月19日の説教要旨 詩編29編1-16・ルカ書9:28-36

「栄光に輝く主」     加藤 秀久牧師

*はじめに

先週、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエス様の問いに、ペトロは、「神からのメシアです」と信仰告白したことを学びました。このあとイエス様は、これからご自身が受けようとされる受難(私たちの罪・過ち・負い目を赦すために十字架にかかること)と、復活の予告をされて、さらに、イエス様についていきたい者は、先ず自分を捨てて、日々の生活の中で自分の背負うべき十字架を背負い、イエス様を信じて従がうようにと弟子達におしえられたことを学びました。

本日のルカ福音書には、それから八日後の出来事が記されています。

*イエス様と、モーセとエリヤ

イエス様は、弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて祈るために山に登られました。イエス様が祈っておられるうち、イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました(29節)。そこに、イエス様と語り合う二人の人物 、モーセとエリヤが現れました。

モーセはイスラエルの人々をエジプトから導き出し、神様から「律法」を与えられた人であり、エリヤは、列王記(上)17章から、(下)2章までに登場する預言者です。旧約聖書最後のマラキ書3:19以下には、「来るべき主の日」の預言の中に、モーセとエリヤの名前を見ることが出来ます。

イエス様と語り合うモーセとエリヤは、「栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた(31節)」とあります。この「栄光に包まれて現れ」という表現から、モーセとエリヤが天にいる存在、神様の国にいることを示し、イエス様がこれから十字架にかかり、その死を乗り越えて復活し、天に昇られる旅立ちの予告をしているように考えられます。

これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け

 栄光に輝くイエス様と語り合っていた二人が、イエス様から離れようとした時、ペトロは「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです(33節)」と言いました。ペトロは自分でも何を言っているのか分からず、おそらく、天にいる存在の現れを見て、この地上でもとどまっていて欲しいという想いから、その可能性を願ってのことでしょう。

やがて雲が現われ、彼らが雲の中に包まれていき、雲の中から声が聞こえます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。その声がした時、そこにはイエス様だけがおられました。神様はこうしてイエス様の栄光に満ちた不思議な光景を弟子達に見せられました。イエス様だけが天と地との間を取り持つ存在であることを現わしています。

*神様の栄光

 本日の詩編29編は、神様の栄光を称えています。「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主の御声は力を持って響き 主の御声は輝きを持って響く(3-4)」。「主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き・・(5-6)」

この詩編作者は、天上における神様の栄光と力が地上に現われる時には、神様の声は雷鳴として響き、恐るべき威力をもたらし、名高いレバノン杉が落雷によって引き裂かれるほどであると称えます。神様の御声は聖なる輝きを伴って響く、と、神様の力強さに打たれて神様の栄光を称えています。神様の栄光は、昔も今もこれからも私達の生活する世界の至る所にまでおよびます。 

本日のルカ9:32では、ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると「栄光に輝くイエス」とそばに立っていた二人を見たと記しています。山上で語られたイエス様の、エルサレムで遂げようとしておられる最期が、「受難」の死で終るのではなく、「復活」の出来事へとつながることを、このあとの51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」でも知らされます。

すべての創造主であり支配者であられる神様から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われた御子イエス様を信じて、私達は 今週も、イエス様についていく道を歩んで参りましょう。

2023年2月26日の説教要旨 詩編66編・ルカ福音書4:1-13

「誘惑からの脱出」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私たちは、なぜ誘惑を受けるのでしょうか。私達が正しいこと(神様の教え・聖書の教え)をしようとすればするほど、その事から私達を引き離そうとする力が働いてしまう出来事が起こることがあります。

 本日のルカ福音書4章のすぐ前にはイエス様の系図が記され、その系図は、(マタイ福音書のアブラハムからの系図と違い)イエス様から始まってアダムへとさかのぼります。アダムは、エデンの園で罪を犯して園から追放されましたが、その後も人間は絶えず悪魔の誘惑にさらされることになりました。悪魔の誘惑にそそのかされて罪を重ねていく私達のために、神様は、アダムに代わる第二のアダムとして御子イエス様を、私達の生活する地上へ遣わし、悪魔の誘惑を受ける荒れ野へと導き出されました。

*悪魔の最初の誘惑・・神の子なら、石をパンに

 2節で、イエス様が荒れ野で何も食べずに40日間を過ごしたあと空腹を覚えられた時、悪魔の誘惑を受けられます。具体的な内容が3~12節に記されています。悪魔は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言いますが、イエス様は、「『人はパンだけで生きるものではないと書いてある」と答えられました。これは、旧約聖書の申命記8章2~3節にあり、以下の言葉が記されています。

あなたの神、主が導かれたこの40年の旅を思い起しなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めをまもるかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった

*二つ目の誘惑・・わたしを拝むなら、一切の権力と繁栄を与えよう

 6節で悪魔は、「国々の一切の権力と繁栄は私に任されているから私を拝むならあなたに与える」と言って誘惑します。この誘惑は一見、全てのものが悪魔の力によって治められているような錯覚を受けますが、マタイ福音書28:18でイエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と言われています。悪魔を拝むなら権力と繁栄を与えるとの誘惑に対してイエス様は申命記6:13「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、御名によって誓いなさい」と答えられました。

*三つ目の誘惑・・神が天使に命じて守らせるから、飛び降りてみよ

悪魔は、さらにイエス様を神殿の屋根の端に立たせて、そこから飛び降りるようにと言いました。けれどもイエス様は、再び申命記の言葉を引用して「あなたの神である主を試してはならない」(6:16)と答えられました。この後悪魔は、13節にあるように、「時が来るまでイエス様を離れ」ますが、やがてイエス様が十字架の死を迎えられたあと復活してイエス様が死に勝利される、その時が必ず来ることをここで暗示しているようです。

*「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ」(詩編66:1~2)

イスラエルの人達がバビロン捕囚で体験した屈辱的なことは、神様への信頼と悔い改めの心をもたらし、新しい決断(誓い)へと導かれていきました。神様への礼拝は、エルサレムに帰ってきた全ての者達のするべきことであり、同時にこのことは、私達、信じる者が地上で生活する時も同じです。

*わたしたち

 イエス様が悪魔に勝利されたのは、自分の必要を満たすために奇跡などを用いることなく、父なる神様に対する無条件の信頼と悪魔に対して、完全に神様に従う態度を示すことにありました。私たちの日々の生活の中でも、荒野でイエス様が会われたような試練と誘惑が存在し、困難や、いろいろなしがらみもあります。そのような中で私たちは、本当の光である神様を信頼して従い、詩編作者のように神様に向って喜び、ほめ歌い、讃美し、生涯、神様を礼拝して仕えていくことを『最高のささげもの』としていく道を歩み続けていきましょう(66:13~20)。