4月1日の説教要旨 「キリストの復活」 牧師  平賀真理子

イザヤ書41:10-17 マルコ福音書16:1-8

はじめに

本日はイースターです。「主の復活」を共に祝えることを、心から感謝いたします。本日は、最初に書かれたと言われている「マルコによる福音書」の中で「主の復活」の証言を読んでいきたいと存じます。

 

マルコによる福音書の本編の最後

今日の新約聖書箇所マルコ福音書16章1節―8節の後に、聖書では「結び」として9節以降の記述がありますが、専門家の研究によって、後の時代の人々の付加だとされています。従って、今日の箇所が、マルコ福音書の本編の最終部分です。そして、この箇所を詳細に読むと、復活の主には、従ってきた者の誰もが、未だ出会っていないとわかります。証言の内容は、十字架上で亡くなったイエス様の御遺体を納めたはずの墓が空っぽだったこと、天使によって「主の復活」が宣言されたこと、そして、それを聞いた女性達が恐ろしいと思ったことです。

 

主の御遺体に香油を塗って差し上げたいと行動した女性達

イエス様が十字架にかかって息を引き取られたのは、過ぎ越し祭の週の金曜日の午後3時でした(マルコ15:34-37)。ユダヤ教では安息日は土曜日で、具体的には、金曜日の日没から土曜日の日没までです。安息日は労働することが禁じられたので、イエス様が亡くなった日の午後3時から夕方までの2時間程度しか、作業する時間がなかったことが想像できます。主の御遺体を十字架から降ろして運んで、横穴式の墓に納めるだけで精一杯の時間だったと思えます。主を信じ従ってきた女性達が香油を塗って差し上げたいと思っても実行不可能だったでしょう。安息日は土曜日の日没に終わりますが、当時のランプの弱い明かりでは、お墓の中での作業は難しいことから、彼女達は、香油を塗る準備を整え、日曜日の日の出を待ち、主のお墓に来たのでしょう。主の十字架を前に逃げた男性の弟子達とは違い、従ってきた女性達の中では、主への敬意を示そうと行動できた者達がいたのです。

 

人間の心配を先んじて取り除いてくださる神様

お墓へ来た女性達の道中での心配は、お墓の入り口にある大きな石を動かす力のある人を見つけねばならないだろうということでした。ところが、これはもう、事前に神様が取り除いてくださっていました。彼女達の望みは、主は死んだままではおられずに復活するという神様の御計画と一致していたため、神様が人間より先に働いてくださったのです。*天使の言葉「預言どおりにイエス様は復活なさった」

彼女達にとっての次の望みは、お墓の中の御遺体に香油を塗ることでしたが、それは叶えられませんでした。なぜなら、その御遺体自体が存在していなかったからです。そこにいたのは、白い長い衣を来た若者でした。これが「復活の主」かと思いきや、この人は天使です。原語では白く輝く上衣という意味があって、これは「天使」を暗に示しています。天使は、彼女達が探しているイエス様は復活なさり、死人のいる墓にはおられず、復活してガリラヤに行かれたので、そこでお目にかかれると弟子達に伝えなさいと告げました。それはイエス様の生前の預言「わたしは復活した後、弟子達より先にガリラヤへ行く」(14:28)の実現でした。(事前に言われた預言が実現することが神様であることの証拠です!)

 

十字架を乗り越えた女性達も「主の復活」の真実を前に圧倒された!

天使から言葉をかけられた女性達は「震え上がり、正気を失って、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)と証言され、ここで、この福音書は終わりです!最初に書かれた大事な福音書が、こんな表現で終わるのかと私は長年疑問でした。しかし、東日本大震災を経験し、7年たって落ち着いた今だから言えることがあります。自分の想定を超える圧倒な出来事について、あの時、本当に恐ろしかった、その思いをすぐには表現できず、平静を装っていたと。次元は違うかもしれませんが、自分の想定を超えた、神様が働かれた圧倒的な出来事に対し、人間はまず恐ろしくて、しかも、誰にも言えないと心を閉ざす反応をするのだと今ならわかります。「恐ろしかった」で終わるのは、この出来事が絵空事でなく、彼女達が本当に体験した事実だという裏付けです。「キリストの復活」は本当に起こりました!人間を圧倒する神様主導の出来事「主の復活」により、後代の私達信仰者も恵みを賜り、救われているのです。

3月25日の説教要旨 「十字架への道」 牧師  平賀真理子

ゼカリヤ書9:9-10 マルコ福音書14:32-42

はじめに

今日から受難週です。受難週は受難節の最後の週ですが、受難節の中にありますから、「克己・修養・悔い改め」という目標は継続されます。教会での礼拝でそのように決意しても、私達はこの世の生活に戻れば、迫りくる仕事や人間関係に埋没して、この目標を忘れることが多いのではないでしょうか。私達は忘れっぽさという弱さを抱えています。

 

エルサレムの人々の忘れっぽさと主の決意

イエス様がこの世を歩まれた約2000年前のユダヤ人達も忘れっぽいようでした。イエス様がエルサレムの都にお入りになった日に、この都の民衆の多くが、イエス様こそ神様が約束なさった「救い主」だと期待し、「大歓迎」の意を表す棕櫚の枝を振って迎えるという出来事がありました(「棕櫚の聖日」の由来)。ところが、その5日後には、彼らは宗教指導者達に扇動されて、イエス様を十字架につけるように叫び出したのです。何という忘れっぽさ、変わり身の早さでしょうか!

一方、イエス様はこれ以前から、一貫して、御自分は「人々の罪の贖いのために死ぬ定め」と弟子達に語り続けてこられ、十字架にかかる都に入る時も、「時が来た!」と決意をもって進まれたと思われます。

 

この時のイエス様御一行の「過ぎ越しの食事」=「最後の晩餐」

この時は、ユダヤ人達が「過ぎ越しの祭り」を祝う週でした。神様がユダヤ達を苦境から救ってくださった「出エジプト」という出来事を覚える祭りを行う時でした。特に、木曜日には「過ぎ越しの食事」を身近な人々と共に取る習慣がありました。イエス様御一行も、その食事をしました。これがいわゆる「最後の晩餐」と言われるものです。

 

ゲツセマネの祈り

この後、「ゲツセマネの祈り」の出来事が起こります。「ゲツセマネ」とはエルサレムの中心から少し離れた園で、イエス様一行はここで度々祈っていたと思われます。「十字架の時」が刻一刻迫る中、イエス様は、十字架の死を受け入れるために、祈りにおいての苦闘をなさいました。

 

模範となる祈り

イエス様は「十字架の死」が神様の御心だと重々御存じでしたが、一方では、神様がそれを避けるようになさってほしいという本心を注ぎ出す祈りを献げるためにゲツセマネに来られました。しかし、祈りを通して、主が最終的にたどり着いたのは、「御心のままに」という御言葉でした。イエス様の神様に対する、この祈りは私達信仰者の模範となる祈りです。本心を隠さず打ち明けていいのです。(これ程に苦しんだ御方に向かって私達は祈れるのです。同じ経験をされた主だから、苦しみをわかってもらえると信頼して思いを注ぎ出せるのです。)しかし、最後には「神様の御心のままに」と神様の御心に自らを委ねる姿勢が必要です。

 

主の必死の祈りに対して、主要な三弟子達は居眠り!

また、ここで注目したいのは、主に伴われた、主要な三弟子「ペトロ・ヤコブ・ヨハネ」の姿です。イエス様は、彼らに単に近くに居てほしいと言うだけでなく、御自分が悲しみ、苦しみ、悶えながらも必死に祈る様子を見せ、今後の出来事の重大性を認識する最後のチャンスをお与えになったと見ることができると思われます。イエス様が大事な祈りの間に3回も彼らの様子をご覧になりに来られたのです。ところが、彼らはこの重大な局面で眠ってしまっており、3回ともイエス様にそのことがばれてしまったのでした。「心は燃えても、肉体は弱い」(38節)とあるように弟子達は疲れていたと想像できます。また、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)の御言葉からわかるのは、霊的に、サタンが彼らを狙い、眠くなるように試みたと見ることもできるでしょう。弟子達が神様の御子を支えることを妨害しようとしたのです。

 

主を支えられない弟子達⇒主の孤独な十字架への道

神様の御計画を前に、地上で主を霊的に支える人が一人もいない、その状況下で、救い主の死が霊的に最終決定し、この世の現実として展開していったと私は思います。主の孤独な十字架への道が決定してしまったのです。しかし、私達はこの三弟子を決して責めらません。自分も同じような愚かさや弱さを抱えていると知っているからです。そのような「私」のために十字架にかかられた主に、更に感謝を献げましょう。

3月18日の説教要旨 「人の罪を贖う『主の十字架』」 牧師  平賀真理子

哀歌3:18-33 マルコ福音書10:32-45

はじめに

今日の新約聖書箇所は、見出しにあるとおり、イエス様が御自分の死と復活の3度目の予告の段落から始まります。「人の子(ここでは、イエス様を指す)」の死と復活こそ、人々を罪から救うために神様が御計画くださったことで、イエス様はその重大な意味を弟子達に伝えたいと願い、愛する弟子達に3度も宣言なさったのでしょう。

 

エルサレムに向かうイエス様の御姿

3度目の予告の前に、マルコ福音書では、イエス様が一行の先頭を進んで行かれたとあり、それを見た弟子達は驚き、従う者達は恐れたと書かれています。イエス様は神様の御計画が実現することを第一に歩まれたので、たとえ御自分が死ぬことになろうとも、それが、御自分の贖い主の使命であり、これが神様の御心だと確信しておられます。だから、自分が死ぬ定めの都へ敢然と向かうことがおできになったのです。

 

「救い主の死と復活」の予告の重大性を理解していない弟子達

イエス様は、御自分の救い主としての道が、まずは「苦難の僕」であり、それは、弟子達を始めとする人間達の救い主のイメージ「栄光の王」とは全く逆の姿であり、これが大きなつまずきになること予想し、3度も予告された訳です。しかし、予告は3度とも、弟子達は、その重大性を全く理解できていないことをマルコ福音書は書き残しています。1度目の予告(8:31)の直後に、一番弟子のペトロが予告の意味を理解できずにイエス様をいさめ、逆に主から叱責されたことが記されています。2度の予告(9:31)の直後には、弟子達が自分達の中で誰が一番偉いかを競っていたと書かれています。そして、3度目も、主要な弟子二人が、主の死を理解しつつ、その後の自分達の地位の約束を取り付けようと願い出ています。主の死を迎えるにあたり、主を思いやるのではなく、まず最初に自分達の利益を優先している姿を見て、イエス様は、弟子として大事な心構えを教えようとされています。

 

「杯」「洗礼(バプテスマ)」

「栄光の時に、主に次ぐ地位を望んだ」二人の弟子達に対し、イエス様は、まず苦しみを共にする覚悟があるかを尋ねたのです。御自分の飲む杯を飲み、御自分が受ける「洗礼」を受けることができるかと質問なさいました。この「杯」とは、旧約聖書に出てくる表現で、神様が一人一人にお与えになる「定め」「役割」を指します。また、ここでの「洗礼」も、(イエス様が洗礼者ヨハネから受けた「洗礼」を指すのではなく、)この世に来られたイエス様が天に帰られる前に果たさなければならない「血の洗い」を指します。つまり、「杯」も「洗礼」も、具体的には「主が十字架刑で死ぬ定め」の例えで、壮絶な受難を意味しています。主の弟子には、同じような苦しみを受ける覚悟で主に従えるかが問われるのです。

但し、「杯」という表現には、苦しい定めに限られるのではなく、本来は、「神様がくださる定め」として喜びなども含まれる場合があります。また、「洗礼」も一度死なねばならない訳ですが、しかし、そこから新しく生きるという意味があります。救い主はまず死ぬ定めですが、次にはよみがえるのです!3度の予告すべてで、主は「死」だけでなく、「三日の後に復活する」と予告なさっていることも覚えたいものです。

 

「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(45節)

救い主が最終的に栄光を賜るとしても、なぜ最初に死なねばならないのでしょうか?45節の御言葉「多くの人の身代金として自分を献げる」が、明確な理由として宣言されていることに注目したいと思います。これがイエス様の主要な役割(定め)です。「身代金」は現代の私達の間では、残念ながら、誘拐事件の時に聞くことになる言葉です。イエス様から見れば、この世で生きる人間は、サタンに誘拐されている者達と思われるのではないでしょうか。イエス様は、サタンに誘拐されている人間達を「神の国」に取り返そうとして、「救い主としてのこの世の御自分の命」、即ち、「とても尊い身代金」を献げてくださったと言ってよいでしょう。「身代金を払う」ことが「贖う」ということです。だから、イエス様は、私達一人一人の「贖い主」と言えるのです。受難節のこの期間、「主の十字架上の死によって、この私の罪が贖われた!」ことに、感謝の思いをより一層深められるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

3月18日の説教要旨 「人の罪を贖う『主の十字架』」 牧師  平賀真理子

哀歌3:18-33 マルコ福音書10:32-45

はじめに

今日の新約聖書箇所は、見出しにあるとおり、イエス様が御自分の死と復活の3度目の予告の段落から始まります。「人の子(ここでは、イエス様を指す)」の死と復活こそ、人々を罪から救うために神様が御計画くださったことで、イエス様はその重大な意味を弟子達に伝えたいと願い、愛する弟子達に3度も宣言なさったのでしょう。

エルサレムに向かうイエス様の御姿

3度目の予告の前に、マルコ福音書では、イエス様が一行の先頭を進んで行かれたとあり、それを見た弟子達は驚き、従う者達は恐れたと書かれています。イエス様は神様の御計画が実現することを第一に歩まれたので、たとえ御自分が死ぬことになろうとも、それが、御自分の贖い主の使命であり、これが神様の御心だと確信しておられます。だから、自分が死ぬ定めの都へ敢然と向かうことがおできになったのです。

「救い主の死と復活」の予告の重大性を理解していない弟子達

イエス様は、御自分の救い主としての道が、まずは「苦難の僕」であり、それは、弟子達を始めとする人間達の救い主のイメージ「栄光の王」とは全く逆の姿であり、これが大きなつまずきになること予想し、3度も予告された訳です。しかし、予告は3度とも、弟子達は、その重大性を全く理解できていないことをマルコ福音書は書き残しています。1度目の予告(8:31)の直後に、一番弟子のペトロが予告の意味を理解できずにイエス様をいさめ、逆に主から叱責されたことが記されています。2度の予告(9:31)の直後には、弟子達が自分達の中で誰が一番偉いかを競っていたと書かれています。そして、3度目も、主要な弟子二人が、主の死を理解しつつ、その後の自分達の地位の約束を取り付けようと願い出ています。主の死を迎えるにあたり、主を思いやるのではなく、まず最初に自分達の利益を優先している姿を見て、イエス様は、弟子として大事な心構えを教えようとされています。

「杯」「洗礼(バプテスマ)」

「栄光の時に、主に次ぐ地位を望んだ」二人の弟子達に対し、イエス様は、まず苦しみを共にする覚悟があるかを尋ねたのです。御自分の飲む杯を飲み、御自分が受ける「洗礼」を受けることができるかと質問なさいました。この「杯」とは、旧約聖書に出てくる表現で、神様が一人一人にお与えになる「定め」「役割」を指します。また、ここでの「洗礼」も、(イエス様が洗礼者ヨハネから受けた「洗礼」を指すのではなく、)この世に来られたイエス様が天に帰られる前に果たさなければならない「血の洗い」を指します。つまり、「杯」も「洗礼」も、具体的には「主が十字架刑で死ぬ定め」の例えで、壮絶な受難を意味しています。主の弟子には、同じような苦しみを受ける覚悟で主に従えるかが問われるのです。

但し、「杯」という表現には、苦しい定めに限られるのではなく、本来は、「神様がくださる定め」として喜びなども含まれる場合があります。また、「洗礼」も一度死なねばならない訳ですが、しかし、そこから新しく生きるという意味があります。救い主はまず死ぬ定めですが、次にはよみがえるのです!3度の予告すべてで、主は「死」だけでなく、「三日の後に復活する」と予告なさっていることも覚えたいものです。

「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(45節)

救い主が最終的に栄光を賜るとしても、なぜ最初に死なねばならないのでしょうか?45節の御言葉「多くの人の身代金として自分を献げる」が、明確な理由として宣言されていることに注目したいと思います。これがイエス様の主要な役割(定め)です。「身代金」は現代の私達の間では、残念ながら、誘拐事件の時に聞くことになる言葉です。イエス様から見れば、この世で生きる人間は、サタンに誘拐されている者達と思われるのではないでしょうか。イエス様は、サタンに誘拐されている人間達を「神の国」に取り返そうとして、「救い主としてのこの世の御自分の命」、即ち、「とても尊い身代金」を献げてくださったと言ってよいでしょう。「身代金を払う」ことが「贖う」ということです。だから、イエス様は、私達一人一人の「贖い主」と言えるのです。受難節のこの期間、「主の十字架上の死によって、この私の罪が贖われた!」ことに、感謝の思いをより一層深められるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

3月11日の説教要旨 「死に勝利した復活」 牧師  佐藤義子

イザヤ書25:7-10 Ⅰコリント書15:54-58

はじめに

イエス様と弟子達は、ガリラヤ地方を拠点に伝道活動をなさっていました。この後、この一行がエルサレムへ向かうことも、「後の時代の信仰者」である私達は知らされています。ガリラヤからエルサレムへは南下するはずですが、今日の新約聖書箇所では、イエス様御一行は、逆の方向=北のフィリポ・カイサリアに赴かれたと記されています。

フィリポ・カイサリア地方で

この地方は2つのことで、イエス様御一行が従っている本当の神様とは、本来相容れない性質を持つ所です。一つは、ギリシア神話に出てくる神々の一つである「パーン」という神を崇拝する宮があったということ、もう一つは、ローマ帝国が後ろ盾となって代官に任じられたヘロデ大王の息子フィリポが、ローマ皇帝に献げるため、このフィリポ・カイサリアの都を造ったという経緯があることです。前者は異教の神、後者は権力を持つ人間のために造られた所だったというわけです。しかし、だからこそ、本当の神様とその御力を求めるユダヤの群衆からイエス様達は逃れることができたのかもしれません(ユダヤ教では異教の人々と交際すると汚れると教えていました。)。この静かな環境で、エルサレムに出発する直前に、イエス様は弟子達に大事なことが伝わっているか確認し、更に重要事項を教えようとなさったのです。

ペトロの信仰告白「あなたは、メシアです。」(29節)

イエス様は弟子達に、まず、人々が御自分を何者だと言っているかをお聞きになりました。(恐らく、次の質問の布石だと思われます。)人々はイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」「預言者エリヤ」「預言者の一人」と言っていると弟子達は答えました。「洗礼者ヨハネ」とは、神様によって、イエス様に洗礼を授ける役割を与えられた人です。この時点で、既に彼は権力者に殺されていたのですが、人々はイエス様を、立派だった「洗礼者ヨハネ」と同じくらいすごい御方だと感じていたことを示しています。また、「エリヤ」はユダヤ教の中で最高の預言者として敬愛されていて、イエス様はその人に近いと思われていたようでもあります。また、最小の評価としても、イエス様の御言葉や御力は、人々が神様の御力を感じるのに充分だったので、「預言者の一人」と考えて間違いはないだろうと噂されていたことが、弟子達の答えからわかります。

けれども、イエス様が弟子達に一番聞きたかったことは、「人々が」ではなくて、「弟子達が」イエス様のことを何者だと言うのか、でした。主の二番目の質問に、ペトロが「あなたは、メシアです。」と答えました! イエス様を「救い主」として理解し、信じ従う人間がいて、その人が天地に向けて公言できる、この「信仰告白」こそ、イエス様にとって、本当の弟子を立てることができたという証しとなります。そして、同じように信仰告白できる人を増やすことが福音宣教の目的でしょう。ところが、イエス様は、彼らの信仰告白の内容を他の人々に話さないように戒めました。これは、イエス様の本当の弟子達以外に明かされるのは非常に責任が重いので、彼ら以外には秘密にした方がよいと、憐れみ深い「救い主」であるイエス様が判断されたからだと思われます。

「受難の予告」を信頼する弟子達に知らせてくださったイエス様

弟子の代表としてのペトロの信仰告白により、この世にイエス様の福音宣教の基盤ができたことが示され、イエス様は、その信頼できる受け手である弟子達に向けて、御自分の近い将来の定めを告げたのです。即ち、「受難の予告」です。弟子を始めとする人間達は「救い主」と言えば「栄光の主」だと当然予想しますが、イエス様が父なる神様から示された「救い主」の姿は「苦難の僕」でした。これは、人間の思考とは全く逆で、弟子達がこの内容に決して躓いてほしくないとイエス様が願われたと思われます。でも、案の定、「信仰告白」という功績を立てたはずのペトロさえ、主の御言葉とその思いを砕くように、主をいさめ始め、躓いたのです。ペトロだけでなく、弟子達全体に向かい、イエス様は人間の考えではなく、神様の御心を第一に求めるように教えました。それは自分の考えや利益や名声を捨て、自分の十字架を背負い(捨ててではなく)、「十字架の主」に従う道です。しかし、主の十字架の果てに、主の復活があります!私達=主に従う弟子達はその豊かな恵みも賜わるのです!

3月4日の説教要旨 「受難の予告」 牧師  平賀真理子

イザヤ書48:6b-11 マルコ福音書8:27-33

はじめに

イエス様と弟子達は、ガリラヤ地方を拠点に伝道活動をなさっていました。この後、この一行がエルサレムへ向かうことも、「後の時代の信仰者」である私達は知らされています。ガリラヤからエルサレムへは南下するはずですが、今日の新約聖書箇所では、イエス様御一行は、逆の方向=北のフィリポ・カイサリアに赴かれたと記されています。

フィリポ・カイサリア地方で

この地方は2つのことで、イエス様御一行が従っている本当の神様とは、本来相容れない性質を持つ所です。一つは、ギリシア神話に出てくる神々の一つである「パーン」という神を崇拝する宮があったということ、もう一つは、ローマ帝国が後ろ盾となって代官に任じられたヘロデ大王の息子フィリポが、ローマ皇帝に献げるため、このフィリポ・カイサリアの都を造ったという経緯があることです。前者は異教の神、後者は権力を持つ人間のために造られた所だったというわけです。しかし、だからこそ、本当の神様とその御力を求めるユダヤの群衆からイエス様達は逃れることができたのかもしれません(ユダヤ教では異教の人々と交際すると汚れると教えていました。)。この静かな環境で、エルサレムに出発する直前に、イエス様は弟子達に大事なことが伝わっているか確認し、更に重要事項を教えようとなさったのです。

ペトロの信仰告白「あなたは、メシアです。」(29節)

イエス様は弟子達に、まず、人々が御自分を何者だと言っているかをお聞きになりました。(恐らく、次の質問の布石だと思われます。)人々はイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」「預言者エリヤ」「預言者の一人」と言っていると弟子達は答えました。「洗礼者ヨハネ」とは、神様によって、イエス様に洗礼を授ける役割を与えられた人です。この時点で、既に彼は権力者に殺されていたのですが、人々はイエス様を、立派だった「洗礼者ヨハネ」と同じくらいすごい御方だと感じていたことを示しています。また、「エリヤ」はユダヤ教の中で最高の預言者として敬愛されていて、イエス様はその人に近いと思われていたようでもあります。また、最小の評価としても、イエス様の御言葉や御力は、人々が神様の御力を感じるのに充分だったので、「預言者の一人」と考えて間違いはないだろうと噂されていたことが、弟子達の答えからわかります。

けれども、イエス様が弟子達に一番聞きたかったことは、「人々が」ではなくて、「弟子達が」イエス様のことを何者だと言うのか、でした。主の二番目の質問に、ペトロが「あなたは、メシアです。」と答えました! イエス様を「救い主」として理解し、信じ従う人間がいて、その人が天地に向けて公言できる、この「信仰告白」こそ、イエス様にとって、本当の弟子を立てることができたという証しとなります。そして、同じように信仰告白できる人を増やすことが福音宣教の目的でしょう。ところが、イエス様は、彼らの信仰告白の内容を他の人々に話さないように戒めました。これは、イエス様の本当の弟子達以外に明かされるのは非常に責任が重いので、彼ら以外には秘密にした方がよいと、憐れみ深い「救い主」であるイエス様が判断されたからだと思われます。

「受難の予告」を信頼する弟子達に知らせてくださったイエス様

弟子の代表としてのペトロの信仰告白により、この世にイエス様の福音宣教の基盤ができたことが示され、イエス様は、その信頼できる受け手である弟子達に向けて、御自分の近い将来の定めを告げたのです。即ち、「受難の予告」です。弟子を始めとする人間達は「救い主」と言えば「栄光の主」だと当然予想しますが、イエス様が父なる神様から示された「救い主」の姿は「苦難の僕」でした。これは、人間の思考とは全く逆で、弟子達がこの内容に決して躓いてほしくないとイエス様が願われたと思われます。でも、案の定、「信仰告白」という功績を立てたはずのペトロさえ、主の御言葉とその思いを砕くように、主をいさめ始め、躓いたのです。ペトロだけでなく、弟子達全体に向かい、イエス様は人間の考えではなく、神様の御心を第一に求めるように教えました。それは自分の考えや利益や名声を捨て、自分の十字架を背負い(捨ててではなく)、「十字架の主」に従う道です。しかし、主の十字架の果てに、主の復活があります!私達=主に従う弟子達はその豊かな恵みも賜わるのです!

2月25日の説教要旨 「悪と戦うキリスト」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書2:1-13 マルコ福音書3:20-30

はじめに

今日の新約聖書箇所は、23節以降のイエス様の例え話を端緒とした御言葉が中心です。しかし、その前の記述は、その御言葉が語られた状況が説明されており、そのことをよく知ると、御言葉の意味を、より一層はっきりと読み取ることができます。ご一緒に見ていきましょう。

今までの先生達とは違う圧倒的な御力で人々を救ったイエス様

ここに至るまでに、マルコ福音書では、イエス様のなさったことが、大まかに分けて二種類書かれています。一つは、イエス様の御言葉が「権威ある者としての教え」(1:21-22)として、人々を驚かせたことです。それまでのユダヤ教指導者達とは全然違うものだったと思われます。

もう一つは、悪霊を追い出したり、病いに苦しむ人々を癒したりする御業を行ってくださったことです。これも、それまでそのことに従事していた専門家とは、全く違う次元の、圧倒的な力を、イエス様は示されたと記されています。苦しみに直面していた人々は、イエス様の圧倒的な御力は神様からいただいていると素直に理解し、それに頼ろうとしました。苦しみは人間的に見れば避けたいものですが、しかし、苦しみを通して、人々は更に真剣に神様に頼ろうとするものです。それで、「群衆」がイエス様に押し寄せていると描かれているわけです。

神様から御力をいただくイエス様を認めない二つのグループ

今日の箇所には、そうでない人々が二グループ出てきます。一つは、イエス様の「身内の人たち」、もう一つは「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。前者は、ユダヤ人社会の中で、家族の一員が常識と違った言動を取れば、その家族が、常識に戻す責任があると考え、それを第一に考えて行動しています。この「身内の人たち」は、イエス様の御業の内容を率直に見極めようとするよりも、「気が変になっている」という人々の噂を信じて、イエス様の御業を止めさせようとしました。また、後者も、ユダヤ社会での責任、特に「神様を信じる」件での人々の動きには責任があると思っていました。自分達とは違う、圧倒的な神様からの御力で、福音を語り、悪霊を追い出し、病いを癒せる「ナザレ人イエス」を調査するために、中央の都エルサレムから離れたガリラヤに下って来ました。イエス様を排除したいという自分達の思いを第一に実現することが第一の目的だったと思われます。

反対派を論理的に論破なさったイエス様

この「律法学者たち」は、イエス様の御業に現れた神様の御力を素直に認めず、あろうことか、その圧倒的な力の源を、本当の神様とは全く逆の「ベルゼブル(異教の神々の一つ)」と言ったり、イエス様御自身を「悪霊の頭」と呼び、悪評を立てようとしたのです。これに対して、イエス様は例え話によって彼らの主張を完璧に論破なさいました。23節後半から27節までの例え話は、論理的で、誰でも理解できると思えます。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」

では、その例え話と28節から29節までの御言葉が、内容の上で、つながっているように思えるでしょうか?理解するためには、29節に出てくる「聖霊」の働きについてのユダヤ教の伝統的な教えが参考になります。まずは、「神の真理」がこの世に啓示される出来事が起こるということ、次に、その出来事について、それが神様が起こしてくださっていると人間に悟らせること、それが「聖霊の働き」です。「群衆」はイエス様の御業を神様からのものと理解している=「聖霊の働き」を理解し、認めています。一方、「身内の人たち」や「律法学者たち」は、イエス様の御業の上に「聖霊の働き」が確かにあるのに、それを決して認めませんでした。「聖霊」は「神の霊」、つまり、イエス様が最も愛する「父なる神様」の霊であり、父なる神様の御心によっていただく賜物です。それを認めず、他の名で呼ばれることをイエス様は決してお赦しにはなれません。「聖霊」を「汚れた霊(30節)」と言われることはお赦しになれません。イエス様は「聖霊」を認めず、他の名で呼ぶ「悪」と。論理的に、敢然と戦われました。

「聖霊の働き」を祈り求めることができるという私達の幸い

今や、私達は、イエス様を救い主と信じる信仰で、主の恵みを賜わること=「聖霊の働き」を祈り求めることが許されています。その源である「主の十字架の贖い」を再び想起し、「復活」の恵みに感謝しましょう。

2月18日の説教要旨 「荒れ野の誘惑」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書31:31-34 マルコ福音書1:12-15

はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が救い主として歩まれる「公生涯」の初めに、洗礼を受けた後、荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を受けたと記されています。まずは、その順番に従って考えていきましょう。

罪がないのに、罪を清める洗礼を受けたイエス様

イエス様は救い主として「公生涯」を始めるにあたり、洗礼をお受けになりました。罪のない神の御子なら、罪を洗う洗礼は必要ありません。けれども、イエス様は御自分が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」(神様の御心に適うという意味)とおっしゃって、洗礼をお受けになりました。それは、罪のないイエス様が、救う対象である私達罪深い人間と同じ立場になってくださることを示しています。

それから、“霊”によってイエス様は荒れ野に連れ出されたとあります。“霊”とは「聖霊」「神の霊」「主の霊」という意味です(聖書の初めの「凡例」の三の⑵参照)。だから、神様が、人間と同じ立場で洗礼を受けたイエス様に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けるように導かれた訳です。

洗礼の後に、悪魔の誘惑⇒信仰者(受洗者)への試練の先取り

私達と同じ立場になるため、イエス様が洗礼をお受けになって誘惑を受けたなら、その順番が、私達が信仰の歩みと逆だと思われませんか?悪魔の誘惑や人生における試練を経て、人間はこの世の限界や偽りを感じ、真実を求めて教会に来て、福音に出会い、洗礼を受けることになるという順番の方が多いでしょう。しかし、イエス様の歩みは正反対の順番を示しておられます。これは、公生涯の始まりの後に、悪魔が信仰者にも誘惑(試練)を仕掛けてくるということを暗示しています。それは、神様に愛される者を、サタンも狙うからなのです。イエス様だけでなく、信仰者も、洗礼によって「公生涯」が始まると言っていいでしょう。受洗者は、神様の御前に神の国の民として生き方を見守られているのです。サタンは私達受洗者=神の民が神様からの愛を受けている故に、自分側に引き込もうと激しく誘惑するのです。イエス様の洗礼の後の悪魔の誘惑は、洗礼後の「神の民」への悪魔の誘惑の先取りです。

荒れ野の誘惑の内容と撃退法(マタイ4:111、ルカ4:1-13

私達は、イエス様が悪魔に勝利した「荒れ野の誘惑」の内容とその撃退法を知る必要があります。私達にも降りかかる誘惑だからです。その内容を、マタイ福音書の順番で見ると、以下の通りです。①自分の欲望を満たすためにこの世の物を変えたらよいではないか。②自分の願いを叶えるために、神様を試してみたらどうか。③一度だけ、少しだけでいいから、神様でないものを拝んでみたらどうか。以上です。3つ全部が、「神の民」である故になおさら、陥りやすい誘惑です。①の誘惑に対して、イエス様は、欲望(食欲)を満たすこの世の物ではなく、主=本当の神様の口から出る御言葉によって人間は本来生きるものだとお教えになりました(申命記8:3)。②の誘惑は、特に要注意です。神の民が願ったことをすぐ、神様が奇跡を起こして助けてくれるはずだから試してみたら?という誘惑です。私達は祈りでは自分の思いを当然素直に表しますが、神様の御心よりも、自分の思いを叶えるために神様を試すようにその御力を求めるのは本末転倒です。人間が神様を自分の思い通りに動かそうと企てることが罪なのです。イエス様は、再び、御言葉(申命記6:16)により「主を試してはならない」と誘惑を退けました。③も信仰生活でしばしば見かけます。神様に関わること(礼拝等)よりも、自分の都合を優先することを最初は1回だけと巧みに誘い、次第にその回数を増やし、最終的には信仰生活から離れさせる罠を悪魔は信仰者に仕掛けます。イエス様は、3度目も御言葉(申命記6:13)により、悪魔を拝むことを敢然と退け、「主にのみ仕える」と宣言されました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)

洗礼と試練の後、イエス様は「救いの時の到来」を天地に宣言なさいました。「時は満ち、神の国は近づいた。」という業をなさるのは神様です。神様が御計画して人間を救う時が押し寄せています。それを受ける側の人間がなすべきことは、悔い改め=自己の欲望中心の生き方を止め、神様の御心に従う生き方に変えることです。その準備ができた者の心に福音が入り、それを信じて生きる信仰を神様が与えてくださるのです。

2月11日の説教要旨 「絶えず祈る」 牧師  平賀真理子

詩編88:2-3  ルカ福音書18:1-8

はじめに

今日の新約聖書箇所は、「やもめと裁判官のたとえ」という見出しがついています。また、1行目には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とあります。説教題にもあるように、イエス様は弟子達に絶えず祈ることを求めておられるということです。

 

神様の御心が実現されることを喜ぶ「神の民」

「祈らなければならない」という箇所には、元々の言葉では「神様によって、祈るように定められている」という言葉が含まれています。これは私達には、あまり見出せない感覚だと思います。「神の民」ユダヤ人は「何事にも神様の御心が行われている。神様がが願われたことが実現すること」を、この世界の一つ一つを見ても、また、各々の人生を見ても、発見しようとします。そのことと向き合いながら生きていくのが「神の民」であると言えるでしょう。

 

本来の人間は、神様と心を合わせることを喜ぶ

神様が最初に創られた、本来の人間は神様の御心がすべてにおいて実現することを喜べたはずです。神様と心を合わせられるように本来人間は創られました。しかし、神様を心を合わせることに疑いを持ったために、人間は神様からいただくべき本当の幸いを失ったのです。

それは、神様から賜った自由意志を正しく用いられなかった人間の方に罪があるにもかかわらず、神様は人間達を根本から救おうと、御心にお決めになり、そのことが旧約聖書にずっとつづられています。

 

「神の民」として、神様から「祈り」を求められている幸い

神様による「人間の救い」という長い歴史の末に、イエス様がこの世に来てくださり、人々に「神の国」はどのようなものかを教えてくださいました。その御方を信じて受け入れることが新しい救いです。

この「神の御子・救い主」イエス様にとって、御自分の弟子達が、「神の民」として、神様へから祈ることを願われていることが、本当に喜ばしいことだったのです。逆に言えば、実は、罪ある人間はこのようにはなっていないという事実の裏返しでもあります。

 

「神の国」がこの世に実現することを「絶えず祈る」

イエス様は、御自分が「苦難の僕」としてエルサレムで殺される道をたどらねばならないと知りつつ歩んでおられ、もうすぐ目的地へ着こうとされています。その直前に、イエス様は弟子達に、「神の国」をこの世に実現することが一番大事だと伝えようとされています。この世にいる人間一人一人が「神の民」となり、神様からいただく幸い、希望に満ちた生き方をすることを求めておられます。だから、「絶えず祈る」内容としては、「神の国」がこの世に実現すること、広まることです。

 

「やもめと裁判官のたとえ」

とはいえ、神様から離れて過ごしてきた人間は、自分に困りごとがあって初めて、切実に祈るようになれるのかもしれません。今日の例え話の「やもめ」もそうです。彼女は困りごとに直面し、身近な裁判官に切実に訴えました。しかし、この相手である裁判官は、当時よく居た「不正な裁判官」でした。信仰心もなく、人間的に見ても尊敬できないような裁判官に対して、やもめの方は不当な方法はとらず、熱心に訴えることを繰り返すという正当な方法で相手を動かすことに成功しました。

この例え話で、裁判官は神様を、また、やもめは弟子達を比喩しています。この裁判官は神様と正反対の性質を持つ者として例えられています。不当な裁判官でさえ動かされるのだから、ましてや逆の性格の神様=人間を救うべく長い間計画立てて実現なさるような、大いなる愛の持ち主である神様なら、熱心な祈りという訴えを持つ人間の訴えを決して無視なさらないとわからせようとなさっています。

 

「神の国が来ること」を熱心に祈り続ける!

人間の救いに対する御業の時は、父なる神様だけがお決めになれる専権事項で、本来、人間は全く関われないものです。しかし、神様は、主の弟子達の祈りを心から待ってくださり、その祈りの熱心さによって、裁きの時(主の再臨の時)を速やかになさると教えておられます。主の問いかけ=「再臨の時までに神の国が来ることを信じていられるか」に対し、「はい!」と胸を張って言える弟子であり続けたいものです

2月4日の説教要旨 「神の国が来る」 牧師  平賀真理子

ダニエル書2:44 ルカ福音書17:20-37

はじめに

今日の新約聖書箇所は、前半=20節-21節が、イエス様に反対するファリサイ派の人々からの質問への答えということで述べられた御言葉で、後半=22節―37節は、イエス様を信じて従う弟子達への御言葉です。イエス様を中心に2つのグループは、全く逆の立場にありますが、イエス様は、各々の理解度や心の向きに応じてお話をなさいました。

その中心にある事柄、つまり、イエス様が一番大事になさっていたことは、天の父なる神様のことを証しし続けることです。今日の箇所もまさしく、「天の父なる神様が、人間に対して御計画してくださり、人間にくださるはずの『神の国』」について語られています。

 

ファリサイ派の人々の「救い主待望」の内容

ファリサイ派の人々はもちろん「救い主」を待ち望んでいましたが、彼らのイメージする「救い主」は、「王様」のイメージです。きらびやかに、派手に登場し、自分達の国をあっという間に建てられるイメージであり、それは大変この世的で、人間的な考え方の範囲を越えられないものでした。彼らは、自分達の想像どおりの「救い主」によって、自分達が優遇される「神の国」が来るものだと思っていたのです。

当時、ユダヤ人達は、異邦人であるローマ人達の支配に苦しめられていたので、「救い主」の登場を一刻も早く望んでいました。だから、待ちきれないという思いで「いつ?」と尋ねたのです。

 

「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある」

しかし、ファリサイ派のイメージする「救い主」や「神の国」とは、全く異なる「救い主」「神の国」が来るということをイエス様は御存じだったのです。だから、ファリサイ派の「いつか?」という問いには直接お答えにならずに、そもそも彼らの言う「神の国」の姿の想定がまちがっていることを気づかせようとなさっています。「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある。」と聞いて、神の国は地理上に存在するのではなく、一人一人の人間同士の関係性において神の国は成り立つ、だから、一人一人が神の民としてふさわしくあらねばならないというふうにも解釈できると思います。

しかし、もっと深く読み取ることが出来ます。イエス様に反対しているファリサイ派の人々に向かい、「実は、あなたがたはすでに『救い主』であるわたし(イエス様)と同席している、待ち焦がれていた『神の国』の始まりの中にあなたがたは入れられているのです」という内容が語られているのです。彼らが理解するかしないかに関わらず、神様の御計画が彼らに押し寄せていることを、イエス様は意味しておられるのです。

 

「神の国」の恵みを既に知っている弟子達に、主が更に望むこと

一方、弟子達は「救い主」であるイエス様の招きを受けて従っているのですから、彼らは「神の国」の始まりの中に入れられていることを理解しているはずです。その前提に立った上で、イエス様は「神の国」について、近い将来の出来事に備えて弟子達を教えようとなさいました。

人間のイメージでは「栄光の姿」のはずの「救い主」が、近い将来に「苦難の僕」として十字架にかかることは、いくら弟子であっても、つまずきの石となりかねないことをイエス様は見抜いておられました。しかし、弟子達は御自分がこの世を去った後、この世に「神の国」を広めるための働き手となってもらわなくてはなりません。弟子達が「主の十字架」により、「神の国」がこの世に来るという「神様の御計画の成就」を信じられなくなっては困るのです。その先に、主の復活があり、その後に「主の再臨」が御計画されていることを弟子達は信じ続けていかなくてはならず、それに備えて、イエス様は教えておられるのです。

 

「人の子」=「再臨の主」によって「神の国」は完成する!

後半の「人の子」とは、イエス様が再臨の主として来られる時の御自分を指す言葉です。主と共に居て「神の国」の恵みを知った弟子達も、十字架、復活、昇天という一連の御業の後、主の再臨を信じて待つという忍耐の時を過ごさねばならないことを、主は教えてくださっていたのです。必ず来る「主の再臨」に備え、私達は、人の言葉に惑わされず、いつどこで主の再臨の時を迎えてもいいように、主の約束を信じ、求め続けましょう!再臨の主によって「神の国」は完成するのです!