2020年10月18日の説教要旨 詩編90:1-12・Ⅱコリント書5:1-10

「聖霊の守り」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

詩編90編1節に「祈り、神の人モーセの詩」とあります。モーセは、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と告白ました。人間にとって神様は、私達を守って下さる場所、避難所であることを確認しています。そのことは、「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々変わりなく、永遠に至るまで」私達の神であられることを意味しています。そして神様は、人を、元の塵に返すことで、人は はかない存在であることを述べています。朝に花を咲かせ、夕べにはしおれて枯れていくように、私達の人生は短く、苦労に満ちた生活となっていることを告白し、神様の目からすれば、千年といえども一日が過ぎ去るようでしかなく、人生はほんの一瞬にしか過ぎないゆえに、神様の慈しみを願い祈っています。

さらに人は、神様の前に罪を犯し、その犯した罪を隠そうとしても、神様は明らかにすると告げます。私達生きる者はアダムとエバが罪を犯した時から罪の呪いの生活の中に入れられました。人は神様のかたちに造られ、永遠に生きることのできる者であったにもかかわらず、蛇の誘惑を得て、善悪を知る知識の木から実を食べ、神様に従わなかった罪の代償として「死」がこの世界に入り込みました。私達は、彼らの犯した罪を受け継ぐ結果となり、神様の怒りの中で生活していると言えると思います。

*「生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますように」

この罪からの脱出の道は、私達の過去に犯した罪(神様から離れた生活)を告白して神様の赦しを得ることです。それは、私達が神様の前に自らを低くして、へりくだることから始まります。

このモーセの祈りは、私達も又、生かされている日々を正しく数え、キリストにある生活を歩めるように、「神様からの知恵ある心」を得ることができるように、主と共に歩み続けることができるように、と願い祈る大切さを教えてくれるのです。

*地上の住みかと天の住みか

 「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」と、本日のコリントの手紙5章は始まります。私達の身体は、この地上において、やがて衰え朽ちていき、塵にかえります。ヨブ記では「人は塵の中に基(もとい)を置く土の家に住む者」(4:19)とあり、私達の身体が塵(土)から造られている住み家であることが分かります。

しかし天にある住みかは、永遠の住みかであることが記されています。

*保証としての“霊”

パウロは、彼の証の中で、イエス様を信じる者達には天にある住みかが用意されていることを伝え、信仰を与えられた者はその保証として、生きた神の霊が与えられていることを力強く述べました(5節)。そしてパウロにとって自分自身の霊が肉体から離れることは喜びであり(8節)、今ある身体は一時的な仮住まいの場所(地上の幕屋)であり、復活の身体においては、永遠の栄光の希望の光があることを記しています。

裁きの座の前に立つ

私達すべての人間は、必ず神様の裁きの座の前に立つことになります。地上での生活が、人を傷つけたままの状態であったり、悔い改めようとしない者が、クリスチャンの中にいるかもしれません。自分は救われているから、神様に会えるから、天国に行けるから・・と、自分の過ちや弱さから目を背ける人々に、この手紙は、「それぞれが身体、肉体によって行ったことに応じて神様からの報いを受けねばならない」と告げています。

パウロは、地上を住みかとしていても、天にある住みかであっても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と切望しています(9節)。

 神様は、今日も真実なお方です。今日、私達の心の中に祈らなければならないこと、悔い改めなければならないことが思い浮かんだのなら、神様に赦していただけるように祈りましょう。 私達が信じて祈り求めるのなら、その答えを必ず与えて下さいます。

2020年8月30日の説教要旨 詩編131編・マタイ18:1-5

「心の清い者」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに

本日の 詩編131編は、澄んだ敬虔に満ちた詩で、詩編の中でも最も美しいものの一つに数えられています。夕刻、太陽が谷の上を静かに照らしながら沈みかける情景と共に、それがまるで、夕べの鐘のように響きわたる光景を思い浮かべることが出来ます。その中で著者ダビデは、素直な、まっさらな心を持つ子供のように神の前に跪(ひざまづ)き、祈りを捧げている姿が想像できます。

この祈りは、若い時に苦労を得て大変な状況を乗り越えてきた後に、神様との交わりを通して平安を見出した人の心を表しています。ダビデが神様から与えられた安らぎは、神様と共にある魂の平安によるものでした。

*誰が一番偉いのか

本日の、マタイ福音書での弟子達の質問は、「天国、神の国では 誰が一番、偉いのでしょうか」です。弟子達の「神の国」のイメージは、人が住む社会と同じように、人々に対してそれぞれの地位や順序が与えられて生活していると考えていたのでしょう。そしてイエス様が弟子達の中からペトロ、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネの3人だけを選んで高い山に連れて行ったり(17章)、神殿税をペトロの分まで納めた(17:27)ことを間近に見て、他の弟子達も、自分達がイエス様から呼ばれる機会があるとの期待感、或は、劣等感のような感情が生まれ、それがきっかけで誰がこの中でより偉いのかという議論に発展したと考えることができます。このような思いは、自分を周りと比べた時に すぐに起こってしまう思いでもあります。

*幼い子供のように

「だれが一番偉いか」の質問に対して、先ずイエス様は「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」(2節)とあります。「子供」は、幼い子供を表す原語が用いられています。イエス様は弟子達に自分をまわりの人と比べることが大事ではないことをはっきり示され、心を入れ替えて、幼い子供のように自らを低くすることが大切であることを教えられました。

私にとって幼い子供のイメージは、自己主張が激しく、何かを要求する時、やって貰えるまでは泣き止まないなどの印象があったので、この「子供のようになる」というのは、あまりピンときませんでした。しかし子供がそのようにするのは、自分では出来ないことを知っているので助けを求めるサインとして、手を貸して欲しい人に、自らができる限りの表現で訴えているのだと考えることも出来るでしょう。イエス様が ここで一人の子供を呼び寄せて弟子達の中に立たせて、このたとえ話をしたのは、幼い子供は、与えられる教えや助けを、素直に受ける者だということを伝えようとしているのではないでしょうか。

*神様の願い

神様は私達に、今まで培った経験、知恵や知識、資格や評判などにとらわれずに、ただ子供のように神様に立ち返り、神様の望まれる救いの道へ向きを変え、心から悔い改めることで自分自身を見つめ直すことが必要だと言っているのだと思います。

この方向転換は、この世で生きる者にとっては難しいと思えるかもしれません。しかしイエス様は私達に子供のようになることを求めておられます。幼い子供は失敗するのが当たり前です。できなくても何度もチャレンジをして、そして出来ない時は、素直な気持で誰かに助けを求めます。

*子供を受け入れる者は、イエス様を受け入れる者(5節)

私達はこのような子供を受け入れ、愛していく心の準備はできているでしょうか。イエス様は、弱い小さく見える子供や、弱しく頼りがいのない人、何か助けを必要としている人達を受け入れなければ、神の国に入ることは出来ない、イエス様を受け入れる者にはなれないことを私達に伝えようとしています。私達は今、全てを捨てて神様の願う、神様が私達に与えて下さった本来の場所へ戻り、その道へ歩もうとするならば、素直な目で物事が見えるようになり、清い心で神様が示される、その道を歩んで行くことができると思います。 その一歩として、まずは私達のできることを神様に献げて行きましょう。

2020年8月2日の説教要旨 詩編2編・マタイ福音書17:1-13

「主イエスの変貌」     加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編2編は、ダビデがイスラエルの王として、油を注がれた出来事(*)を思い起こさせています。(*油はオリーブ油。油注ぎ=油は神の霊の象徴でもあり、王や祭司の聖別、献身のしるしともなる)。7節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」は、イエス様が洗礼を受けられた時に聞こえた神様の言葉「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」、又、本日の、雲の中から聞こえた言葉「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(5節)と共通点がある言葉です。又ヘブライ書でも「キリストも、大祭司となる栄誉を・・『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」(5:5)との言及があり、大きな意味を持つ言葉であると言えます。

*弟子達と高い山

今日の聖書の「高い山」(マタイ17:1)は、神様ご自身が重要な啓示を表す場所、神様と出会う場所として用いられています。例えばモーセはホレブの山で「柴が火で燃えているのに燃え尽きない柴」を見て神様と出会い(出3章)、その場所で「十戒」を受け取りました(同19:20)。預言者エリヤも命を狙われていた時、み使いに励まされてホレブの山に着き、そこで神様に出会い(列王記19:3~)、彼の後継者エリシャに油を注ぐように告げられました。そして本日の聖書は、イエス様がペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れて登られたこの高い山に、モーセとエリヤが登場し、神様の啓示がなされています。イスラエルの人々は、モーセを通して与えられた教えを守り続け、主の日(マラキ書3:19~・終末の神様の裁きの日、イスラエルの人々にとっては救いと希望の日)が訪れる前に、エリヤが再び現れるという約束(同23節)を待ち望んでいました。ペトロ達は自分達の主であり師であるイエス様がこの二人と語り合っている姿に、どれほどの驚きをもって見つめたことでしょうか。

*ペトロの反応

 ペトロは、余りにもその光景が素晴らしかったので、イエス様達三人の為に仮小屋を建てたいと申し出ました。中近東の世界では大切なお客様をもてなすために仮庵(仮小屋)を建てる習慣があったようです。ペトロは突然の出来事に混乱しながらも、仮小屋を建てて歓迎し、そして少しでも長く、この素晴らしい出来事が続いて欲しいと願ったのでしょう。

*弟子達の恐れ

弟子達は、光り輝く雲の中から神様の声が聞こえた時、ひれ伏し、非常に恐れました。父なる神様は今弟子達に、父なる神様ご自身がイエス様と共にいて、イエス様を愛していることをお示しになり、「これに聞け」と語ります。イエス様が語る言葉は、まさに父なる神様の御心であり、神様の言葉であることを宣言したのです。

弟子達は、この神様の声に、神様の臨在に、非常に恐れて顔をあげることさえ出来なくなったのでした。するとイエス様は弟子達に近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言いました。

弟子達が顔を上げて見ると、イエス様のほかには誰もいませんでした。イエス様は山を下りる時、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と、弟子達に命じられました。

*神様の現れ

私達は、今、この主の栄光を見ることが赦されています。弟子達が神様の栄光、イエス様の真っ白く輝くその姿を見たように、私達にもご自身の姿を現わそうとして下さっています。

達の心の中には、聖霊が宿っています。その聖霊の助けによって、私達は、心の目で、霊の目でイエス様の姿を見ることが出来、感じ取ることが出来るのです。それは、日々の生活の中の祈りや、口ずさむ讃美の中で、又、礼拝の中や、心を合わせてお互いのことを祈る時に、神様の栄光や素晴らしさを感じ取ることが出来るのかもしれません。 私達が神様の前に静まり、心を向け祈る時、私達がどこの場所にいても、イエス様の姿や栄光、その現れ、その力を感じ取ることができるのです。

2020年6月7日の説教要旨 詩編 89:6-15・マルコ福音書 4:35-41

「主イエスを信じて進め」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとっての奇跡とは、どういうものですか。

今日の箇所から5章の終りまでは奇跡について書いてあります。

本日はその最初の奇跡の出来事を共に聞きましょう。

*「向こう岸」

この日、イエス様はガリラヤ湖のほとりで教えていました(4:1)。夕方になってイエス様は弟子達に、「向こう岸に渡ろう」と言われました。

5章1節には「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とありますので、「向こう岸」とは異邦人が住んでいる所でした。又、この地方の人々は豚を飼っていました(同:11節)。豚は、ユダヤ人から見れば、汚れたものとされていました。ですから、イエス様が示した「向こう岸」は、汚れた土地・場所を指していると言えます。

*「その日の夕方」

イエス様は御言葉を語ることが連日続き、疲れがたまっていたのでしょう。そのため夕方になってイエス様は、あまりの疲れからか群衆を避けて、弟子達に「向こう岸に渡ろう」と告げたと思います。ガリラヤ湖は、海抜マイナス213mの地点にあり、昼間強烈な直射日光を受け、湖面の水温が24度位まで上昇します。ところが夕方になると、東側の上空の空気が急に冷えて、それが絶壁の切れ目から突風となり、湖面に吹き付けてくる特徴を持っていました。突然荒れ狂うガラリヤ湖のことは、元漁師のペトロも知っており、夕方、沖へ出す危険も承知の上で舟を出したのでした。

*「イエスは、・・眠っておられた」

ペトロにとって、イエス様のお言葉は絶対的で、向こう岸に渡ることは何か意味があり、同時に、無事に岸に着くことも信じて安心していたと思います。一方イエス様は、お疲れになって『(とも)の方で枕をして眠っておられた』(38節)とあります。そんな中、突然の突風が起きました。

まるで私達が「近い内に地震が来るよ」と聞いているものの、まだ大丈夫と、安心仕切っている時に、突然、大地震に襲われるような状況だと想像できます。突然の激しい突風により弟子達はすぐさま反応して舟の舵を取ったことでしょう。しかし舟の揺れが激しくなり、波は高くなり、辺りの光景は凄まじさを増していきました。どうにもならないと判断した弟子達は、イエス様を起こして助けを求めたのでした。

*「清い生活の場所」から「世俗の場所」へ

「向こう岸」には汚れた町が待っていました。仮に弟子達の舟が「清い生活をする場所」としたら「向こう岸」は悪のはびこる町「世俗の生活の場所」と言ってもいいでしょう。だからこそイエス様は人々にたとえ話や、病の人を癒すことを弟子達に見せて、弟子達が信仰をしっかりと持つように教えられたのだと思います。

波が穏やかな時は、弟子達の心は平安に包まれ、ゆっくりのんびりした気持で、奇跡やたとえ話を思い起こしていたでしょう。しかし突風で、舟が波に飲まれそうになった時、弟子達はパニックに陥りました。それは丁度、私達の信仰生活にも照らし合わせることができると思います。不安な出来事や問題が起きた時、我を忘れて冷静な判断が出来なくなり、周りが見えなくなり、その問題だけに気が向いてしまう。そのような動揺した感情に、イエス様は「黙れ、静まれ」と言ったと思います。

黙れ」は、「ものを言うことをやめる、無言になる、自分の意見を主張しない」意味があります。イエス様は弟子達の感情を乱す原因になった嵐に対して「黙れ、静まれ」と命令することで、穏やかな湖に戻し、弟子達の心にも落ち着きを与えることができたと思います。

嵐を静めた後、イエス様は弟子達に「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」、他の福音書では、「信仰の薄い者たちよ(マタイ8:26)」「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25」と言われています。どれもイエス様は弟子達に、信仰の弱さ、足りなさを指摘し、「しっかり信仰を持ちなさい」と励ましていると思います。 私達も、嵐のような忙しい毎日の生活の中でイエス様の力強い助けがあることを信じ、祈り求めて一週間の歩みを進めて行きたいと思います。

2020年5月24日の説教要旨 詩編103:1-5 マルコ福音書2:1-12

「主によって自由になる」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の聖書は、直前の、重い皮膚病の人の癒しから幾日かが過ぎて、イエス様が再びカファルナウムを訪れた時のことです。イエス様が、再び村にやって来たことが人々の間で広まり、数日前になされた癒しを見聞きした人々がこの癒しを求め、又、権威ある教えや話を聞くために、その家に集まって来ました。その家は戸口の辺りまで、隙間のないほどに大勢の人々が集まり、人々の中には奇跡を期待する人達や、直接話を聞きたい人達、又、イエス様の話に感動している人達など、その場はいろいろな思いで一杯だったに違いありません。

*4人の男と、中風の人

そのようなところに、4人の男が中風の人を運んできました。イエス様の所に近づこうとしましたが、群衆にはばまれて近づくことが出来ません。しかし4人の男達はあきらめたくありませんでした。なぜならイエス様なら、この人をきっと助けて下さる、イエス様は必ず何とかして下さると信じていたからです。彼らは、イエス様がおられるあたりの屋根をはがして屋根の上から中に入ろうとしました。当時の家屋の屋根は、おそらく横梁の上に角材を並べて、その上に木の枝や柴を編み、粘土で塗り固めた平屋根と思われますので、屋根をはがそうと思えば簡単にできたと考えられます。そこで4人の男達は屋根に上りイエス様がおられるあたりの屋根をはがし、病人の寝ている床をイエス様の所へ、つり下ろしました。

*「子よ、あなたの罪は赦される」

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。なぜ、「あなたの罪は赦される」と中風の人に言ったのでしょうか。この言葉を聞いた全ての人達は、イエス様の言われた言葉に戸惑いを感じたのではないでしょうか。人々は、イエス様の癒しの業を期待していたはずです。しかしイエス様は、人々の期待を裏切る形で、「罪の赦しの宣言」を行なっています。

つまり、人間は、「目に見える癒し」を求めていますが、本当に必要な癒やしは「罪の赦し」であることをイエス様はここで明らかにしているのです。人間を縛りつけているものは「病」ではなく「罪」であることを指摘しているのです。人々に、本当の「癒しと自由」を与える為には、何よりも「罪の赦し」が必要であり、「罪からの解放」が必要であることを、イエス様はここで告げていると考えることができます。

*私達にも必要な「罪の赦しの宣言」

 私達の罪とは何でしょうか。どのような罪が原因で、イエス様のもとに近づくことを妨げているのでしょうか。それは、忙しさからくる神様との交わりのなさか、それとも知らずに行なってしまった隣人に対する無関心・無反応なのか、あるいは家族とのいざこざからくる自己中心的態度からなのか・・。どのような罪であるにしても、罪を犯し続けることは、身体の器官に病を冒すことになり、最終的には身体が不自由になってしまうというのです。それゆえイエス様は、病に対しての「癒しの宣言」ではなく、「罪の赦し」を宣言されたのだと思います。中風の人は皆の見ている前で立ち上がりました。そして床を自らの手で担ぎ、その場を去って行きました。人々はこの出来事に驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神様を賛美しました。

*私達もイエス様の十字架により自由にされた者

 神であるイエス様は、2000年前に私達と同じ人となり地上に来られました。それは私達人間の中にある罪を取り去り、自由にして下さるためです。この罪を取り去るために、イエス様は、ご自身で十字架に架かる必要がありました。罪のない方が、罪ある私達のために死なれる必要があったのです。それはイエス様が私達一人一人を大切に想い愛しているからです。罪は、絶えず私達の周りにあり、私達の心の隙間を見つけて入り込もうとしています。ですから私達は、悪い行いや考え、習慣があったとしても、日々、イエス様に赦しを求めてイエス様と共に歩んで参りましょう。イエス様は、今日も私達のそばにいて下さいます。 イエス様を求める その心を、神様は喜んで下さいます。

2020年5月17日の説教要旨 詩編107:17-21 マタイ福音書8:5-13

「御言葉の力」   加藤秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとってイエス様の言葉、聖書の言葉とは、どのようなものですか。私にとっては、時に厳しいと感じることもありますが、やはり優しく、温かいものであり、励まし、慰め、安らぎを与えて下さる言葉です。

詩編107編では、私達の愚かさ(無知、背き、罪)は、時に肉体にまで及び、病を起こすと警告しています。しかし主の癒しの言葉が人々の萎えた心、病人の病を癒します。主の言葉は癒しをもたらすと約束されているのです。そして私達がこの驚くべき御業を喜び、主の慈しみと憐みに感謝して主を称えようと呼びかけます。私達が信じる御言葉には力があります。なぜなら、御言葉には癒しをもたらす力があるからです。

*百人隊長の願い

本日の聖書は、カファルナウムの町で、一人の百人隊長がイエス様に助けを求めに来た時のことです。百人隊長は100人の兵士を統率するローマの将校で、彼は異邦人でした。ルカ福音書7章では、彼がユダヤ教の求道者であり、地域の人達のために会堂を建てるなど人格的に信頼されていたことが伝えられています。百人隊長はイエス様に近づいて「主よ、私の僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます。」と癒しを求めました。

「中風」は、身体的な機能を麻痺させる脳の疾患で、動きが制限されて、人の手を借りなければならず、生きる意欲を無くしてしまうほどの病です。「ひどく苦しんでいる」とは身体上だけでなく精神的な苦しみも含まれていると考えられます。隊長は動けなくなった僕の為に、癒やされる道を探していたのでしょう。そしてイエス様の噂を聞き、自ら町へ出向き自分が異邦人であることを承知の上で、イエス様のもとを訪れたのだと思います。

*イエス様の応答と百人隊長

 イエス様は百人隊長の願いに「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。すぐに百人隊長の家に行き、僕の病気を治そうとされたのです。ところが百人隊長は、イエス様と一緒に家に帰ることを拒みました。

なぜでしょうか。百人隊長は何を考えていたのでしょうか。

彼はユダヤ人が異邦人を「汚れた者」と考えていることを知っていました。そのため、イエス様を自宅の中にまで入っていただくことなど、とんでもないことだと思ったのでした。

*百人隊長の信仰

百人隊長は、権威ある者の言葉には人を従わせる力があることを承知していました。百人隊長自身も権威の下、命令には絶対服従であったのでしょう。そこで百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエス様に答えました。

イエス様も権威のあるお方ですから「治れ」といえば、どんな病気でも治る。イエス様のお言葉さえあれば、すべてのものはそれに従う…ということをよく理解していました。「ひと言おっしゃってください」は、イエス様に対する絶対的な信仰によるものでした。

*「あなたが信じたとおりになるように。」

この言葉を聞いてイエス様は「ユダヤ人の中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と感心されました。百人隊長の信仰は感嘆と賞賛に値するものでした。イエス様は百人長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、その時、僕の病気は癒されました。

今日の詩編、20節に「主は御言葉を遣わして彼らを癒し 破滅から彼らを救い出された。」とあり、33編9節には「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように立つ」とあります。

イエス様が、確かに父なる神様からの力を持って地上で活動され、 神様の約束を実現されることに気付かされます。そして11節に「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」とある「大勢の人」とは、おそらく百人隊長のようなイエス様を信じる信仰を持つ異邦人のことを指していると考えます。死に勝利したイエス様は、人の病をも癒す力を持ったお方です。そしてイエス様の癒やしは御言葉によってなされます。私達がこの御言葉を信じるとき、その御言葉は、確かに力をもって働いて下さるのです。

2020年4月19日の説教要旨 詩編16:7-11 ヨハネ福音書 20:24-31  

「命を受けるための道」  佐藤義子牧師

*はじめに

私達は、先週の日曜日イースター礼拝をおささげしました。今朝はヨハネ福音書20章を通して、復活されたイエス様が、マグダラのマリアと、弟子達およびトマスと出会われた出来事をご一緒に学びたいと思います。

*マグダラのマリア

イエス様の御遺体に塗るための油と香料を用意して、日曜日の早朝まだ暗い中を、マグダラのマリアはお墓に向かいました。しかしお墓には遺体はなく、マリアからそのことを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐお墓にかけつけますが、お墓には、遺体が包まれていた亜麻布と、頭を包んでいた覆いがあっただけでした。二人の弟子はそのことを確認した後、家に帰って行きました。(20:9「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」) 

しかしマリアは、帰ることが出来ず、お墓の外で立って泣いていました。泣きながらお墓の中を見ると、二人の天使が遺体のあった頭の方と足の方に座っていました。マリアは天使とは分からず、イエス様の遺体が取り去られたことを訴えます。遺体に執着(しゅうちゃく)していたマリアは、さらに、復活さたイエス様から声をかけられた時でさえイエス様とはわからず、園の管理人と思いこみ、遺体のことを聞いています。

私達は時々、マリアと同じようなことをしてはいないでしょうか。イエス様がすぐそばにおいでになるのに、自分から探して「遺体」を引き取ろうとする愚かさです。しかしよみがえられたイエス様は、マリアの、この悲しみの涙を放ってはおかれず、弟子達より先にマリアに現れて下さり、そして、弟子達への伝言を託されたのでした。

*弟子達への聖霊授与

 同じ日曜日の夕方、弟子達が迫害を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた時、復活されたイエス様は来られて真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架による傷口をお見せになりました。そして弟子達に息を吹きかけ、世界伝道へと遣わすために「聖霊を受けなさい」と、「聖霊の賜物」と「罪を赦す権威」(および、赦されない罪への権威)をお与えになりました。この「聖霊の賜物と罪を赦す権威」は、「あなたは生ける神の子です。」との信仰告白を土台として建てられた、「教会」の伝道者及び共同体に託され、2000年来、継承され続けています。

*トマス

弟子達にとって、よみがえられたイエス様との再会はどんなに大きな喜びと励ましとなったことでしょう。ところがその日、弟子達と行動を別にしていたトマスは、復活のイエス様にお会い出来ず、この喜びを共にできず、聞いても信じることが出来ず、イエス様の復活は、自分の目と手で確かめるまで信じないと言いました。復活のイエス様にお会いする素晴らしい恵みのひと時を逃してトマスはどこに行っていたのでしょうか。又、他の弟子達との関係はどうなるのでしょうか。 

*「見ないのに信じる人は幸いである。」

イエス様は、八日間という時間を経たのち、疑いと不信仰の中にいたトマスを弟子仲間に戻すために再び弟子達を訪ねられ、「あなたがたに平和があるように」と言われました(この平和は、神様の業、賜物です)。

そしてトマスに「あなたの指をここに当てて・・あなたの手を伸ばし・わき腹に入れなさい」と、望むことをするように言われた時、トマスの口から出た言葉は「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。

見ないのに信じる人は幸いである。」とイエス様が言われた通り、2000年を越える今も、教会で、又、私達の伝道所で、イエス様を見ないのに信じる幸いな方々」が起こされています。 *「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(31節)。信仰は、聖霊が働くことによって私達に届けられ、確信が与えられます。そして信じた者には永遠の命が与えられています。「イエス様を信じる者は死んでも生きる」(11:25)のであり、私達信仰者は「信仰の実りとして魂の救いを受けている」(Ⅰペトロ1:8)のです。

2020年3月29日の説教要旨  詩編119:105・ヨハネ福音書 12:27-36

「光のあるうちに」    佐藤 義子牧師

*はじめに

来週の日曜日は、イエス様がエルサレムの町に入城した棕櫚(しゅろ)の主日であり、受難週に入ります。本日の聖書は、過越祭の礼拝の為、エルサレムの町に入られたイエス様が、群衆に語られている言葉です。12章27節に「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」とあります。イエス様の心が騒いでおられる。イエス様でも、そのような状態の時を過ごされたことを改めて知らされます。イエス様にはこの時、すでに逮捕状が出されていました。

父よ、私をこの時から救ってください』の、「この時」とは、23節の「人の子が栄光を受ける時が来た」の「時」であり、御自分の命をささげる時です。ですからこの祈りは、ご自分が死ななければならない道とは別の道を祈っているように思われます。が、内村鑑三は、「この時から救って」の『から』は、「その中から」という意味を含む(原語)ので、正確には、「苦痛を免れることではなく、苦痛の中に入り、この道を通過して、その後に、その中から」私を救ってください、と、読んでいます。

*しかし

イエス様の祈りは、このあと、「しかし」という言葉をはさんで、御自分の進むべき道は、神様の御意志に従う道であること、それが受難の道、死へと向かう道であり、それを担うためにイエス様は生れてきたのであり、地上に遣わされてきた、と言われ、祈りは「父よ、み名の栄光を現して下さい」(神様のみ名が崇められ、神様のみ名が輝くように)で終りました。その時、大きな出来事が起こりました。

*天からの声

それは、天からの神様のみ声が聞こえたのです。み声は「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」です。神様はこれまでイエス様を導き、イエス様が語られた言葉や業により、神様のみ名が崇められてきましたが、これからも続けて神様の御業が行なわれるとの約束の言葉です。「神様が神様であられること」「神様のお名前が崇められていくために、これからの十字架と復活という出来事の中で、神様の御業を行われていく」との約束です。

しかしその場にいた群衆は、この大きな出来事が、ある者は「雷」の音として聞こえ、ある者は「天使の声」と聞きました。しかしイエス様は、このみ声は、その場にいた群衆のためと言われています。イエス様が神の御子であることが分からない、信じていない人達のためでしたが、正しく聞くことが出来た人はいなかったようです。

*「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)

今、世界で起こっている新型コロナウイルスの出来事の中に神様からのメッセージがあるとするなら、それは何かと考えます。多くの方々もそれを聞きたいと神様に祈っていることでしょう。ある人はバベルの塔を例にしながら、人間のおごり高ぶりに対する神様からの警告と考え、ある方々は終末を意識して過ごすといわれます。私達は日常的にいろいろな出来事に遭遇しますが、それらを通しても、今も生きて働いておられる神様からのメッセージがあるように思われます。み声(聖書のみ言葉)を聞くのは、聖霊の働きをキャッチするアンテナが不可欠です。「目を覚ましていなさい」を心に刻みたいと思います。

*「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(36節)

イエス様は、十字架は、神様のこの世に対する裁きであると伝えます。そして信仰を持つようにと語られます。イエス様は、すべての人を照らす光(ヨハネ福音書1章4節)としてこの世に来られました。

イエス様は「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と呼びかけます。

今しなければならないことは決断であること、今はまだ光がそこにある。だからじっとしていないで行動すること。やがて暗闇がやって来る。もしイエス様によって恵みを得ようとするなら、今、それを得ること。人生においては、すべてのことが時のある時間になされねばならないこと・・をイエス様は教えられます。「光の子」とは闇から解放された者、恐れから解放され、疑いから解放され、誰も取り去ることが出来ない喜びを内に持つ者です。最後に、12章44節~50節をお読みいたします。 「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。

2020年3月22日の説教要旨  詩編119:97-104・ヨハネ福音書 12:1-8

「聖化された愛」      佐藤 義子牧師

*はじめに

 本日の説教題を「聖化された愛」としました。「聖化」とは、「あるものを聖なるものにすること」「聖なるものにされた状態」を言います。

「聖」という言葉は、神が聖であり、神から選ばれた民は聖なる民であることが根底にあります。聖には、俗世間、あるいは日常的なものから引き離すという意味、又、神に献(ささ)げられるために清められたものに使われます。

*イエス様を取り囲む環境

今日の箇所は、イエス様が過越の祭りの6日前にべタニアに行かれた時の出来事が記されています。この出来事のあと、イエス様は過越祭に行くため、エルサレムの町に入られ、弟子達への告別の説教・最後の晩餐・ゲッセマネの祈り・逮捕と大祭司による尋問・続くピラトからの尋問・そして死刑判決・十字架での死・・への道に向かって進んでいかれるのです。

今日の箇所の直前(11章最後)に、こうあります「祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。

イエスを逮捕するためである。」つまりこの時点で、イエス様には逮捕状が出されていました。逮捕される理由は一つもなく、ただ当時の宗教的指導者達にとってイエス様の存在が自分達に不利益をもたらすこと、権威が脅かされ、群衆の人気がイエス様に向かうことへの妬みにより、神を冒涜しているとの理由をつけてイエス様を殺そうとしていました。このことをイエス様はすべてご存じの上で、弟子達と共に、今、エルサレムの町に近いベタニアに来られたのです。エルサレムの町は、祭りの為に、世界各地から、大勢の人々が巡礼者としてやってきますので、町は人々で溢れるため、近隣のべタニアは巡礼者達の宿泊場所の一つでもありました。

*ナルドの香油

今日の出来事が起こった場所についてヨハネ福音書には記していませんが、マルタが給仕をしており、イエス様によって甦らせてもらった兄弟ラザロも同席していたことから、マルタとマリアの家ではないかと考えることが出来ます。イエス様たち一行が来られることを聞いて食事の会が催(もよお)されました。

この席で、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。その結果、家は香油の香りでいっぱいになりました(3節)。ナルドは、ヒマラヤやネパールの高地でとれる植物で、イエス様の時代、インドから輸入されていて大変高価なものでした。香油の量は1リトラ(約330g)とあり、ユダの言葉によれば、300デナリオンの価値(当時、1日の労働賃金が1デナリオン)があったようです。通常このような高価な強い香りのする香油は、敬意を表そうとする客の髪の毛に、ほんの一滴注いでいたということですから、この時のマリアの行動は、そこにいたすべての人を驚かせたに違いありません。

*マリアの行為

強い良い香りが部屋中に満ちる中、その場は一瞬、空気が止まったようになったのではないかと想像します。マリアのその行為は、マリアがどんなにイエス様を尊敬し慕っているか、誰の目にも明らかに映ったことでしょう。マリアは、これ迄のイエス様との出会いを通して、イエス様こそ神の御子救い主であられることを確信していたに違いありません。そしてイエス様の今回の訪問、今年の過越祭の時が最後になるかもしれないとの予感が、マリアを、このような大胆な行動へと向かわせたように思います。

 ある神学者(テニイ)は、「マリアは霊的な識別力を備えていた。

イエス様の心に共感した者が持つ洞察力があり、イエス様が自分達と共に長くおられることは出来ないと直感した」と書いています。

同席していた人々の中で、イエス様との地上での別れの時が,もうそこまで来ているとの思いと緊迫感を、マリアと同じようにもっていた人は、どれほどいたのだろうと思いつつ、私もマリアと同じようにイエス様の心を知ることが出来るようになりたいと思いました。

*空気を破ったユダ

マリアの行為から生まれたこの場の空気を破ったのは、弟子の一人、イスカリオテのユダでした。彼は、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施(ほどこ)さなかったのか。」(5節)と言いました。相手を批判し、裁き、その間違いを指摘し、その行為を責めている言葉です。

ユダにとっては、その行為は浪費・無駄使いであり、使われた香油は300デナリオンという大金にしか見えなかったようです。彼は会計係でした。かつて群衆の多くは、イエス様のパンの奇跡などを見てイエス様を王にしようと捜し回ったこともあり、ユダも又、イエス様がこの世に於いて力を行使することを期待していたでしょう。ところがイエス様の生き方は、それとは逆に、御自分を待っているのは「受難と死」であることを弟子達に語っていますので、ユダにとっては自分の期待が裏切られる中、自分の身を守るために、会計係として預かっているおおやけのお金から一部を抜き取っていたことが、ヨハネ福音書の著者によって書き加えられています。高価なナルドの香油を自分に預けてくれたなら、それを高く売りその一部を自分の懐に入れられたのに、と、その悔しさからマリアを詰問する言葉となったと思われます。そのような自分の損得感情を隠してユダはマリアに、「貧しい人々に施す機会をあなたは捨ててしまった」と責めたのです。

*サタンの働き

悪魔サタンの働きは、いかにも人間らしく、信頼出来そうなかたちや言葉をとって近寄って来ます。それゆえ一般社会において、ユダの言い分に同調する人が出てくる可能性は大きいのです。 私達はこのような偽善(サタンの働き)に対して、見破る上よりの知恵を求めていかなければなりません。又、私達は、ユダのマリアへの批判は「おかしい」と感じます。それは、その人が所有している物を、その人が好きなように用いるのは当然であり、他人がそのことに対して批判し、干渉するのは間違っていると考えます。しかし当時は女性の人格は低く、人前で男性に自分の考えを述べることなど出来なかったのでしょう。誰かが助け舟を出さない限り、この場において、マリアは「高価な物を無駄使いする女性」とのレッテルをはられてしまう場面です。

*聖化された愛

イエス様は、ユダの言葉に対してこう言われました。

この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日の為に、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

イエス様はマリアの行為を、「ご自身の葬りのため、埋葬の準備のための奉仕であり、日常的な来客に敬意を表す香油と区別され、特別な奉仕としてなされた行為」であることを伝えました。

イエス様の、この奉仕の意味づけにより、マリアの行為は、「時宜(じぎ)にかなった行為」であることが、おおやけにされました。マリアの、イエス様への、人目をはばからずに捧げた愛の奉仕は、イエス様によって聖化され、高められました。

この受難節の時に、私達はイエス様に何をささげたいと望むのか、何を喜んで受けていただけるのか、自分に与えられている賜物を思い起こしつつ、ささげるものが、主の御用に用いていただけることを願いつつ、今週一週間を歩みたいと願うものです。

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<参考までに>

*香油の物語については、すべての福音書に記されていますが、少しずつ内容が異なります。この出来事は、古くから初代教会に伝わった伝承の中の一つであり、福音書記者によって伝えたい事柄や強調したいことの違いが、違いとして表れていると考えられます。

○マタイ福音書(26:6-13):場所は、らい病のシモンの家。一人の女がイエス様の頭に香油を注ぎ、これを見て憤慨したのは弟子達。 

○マルコ福音書(14:3-9):マタイ福音書と同じ。憤慨したのはそこにいた何人かの人。

○ルカ福音書(7:36-50):場所は、ファリサイ派の家。香油を注いだのは一人の罪深い女であり、批判者はファリサイ派の人。

2020年3月15日の説教要旨 詩編100編・フィリピ書:3:1-11

「主イエスを知る」     加藤秀久神学生

*はじめに

主にあって喜びなさい」(口語訳フィリピ3:1)。私達は本当に、日々主にあって「喜びの生活」を送っているでしょうか。

本日お読みした詩編100編は、主を感謝すべき方として歌うことを奨励しています。

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(100:1) この詩編は、イスラエルにおいて、神殿に入場する時、神殿に集まった人々は主の門に進み出て、賛美を持って祝い歌われたと考えられています。又、礼拝式文の中でこの詩編が朗読され、神さまの「御名」と「恵み」と「真実」とが会衆に知らされました。この詩編は、神さまへの喜びを表し、この喜びこそ、私たちが、心を神さまに向ける信仰の活力になるのです。礼拝は、神さまへの喜びが大きく表現される場であり、同時に、主の民の喜びが湧き上がる場でもあります。

*「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

詩編は、私たちにこのように呼びかけています。礼拝は、神さまをほめ称(たた)え、賛美を歌うことから始まります。そして、神さまへの喜びの叫びは、主の前に集う人々の間だけに留まることなく、全地に、また世界中に響きわたって行くのです。人々は、この呼びかけに導かれて、神さまの御前に集うすべての者と結ばれて、信仰における神の家族としての大きな一体感を味わいます。

また2節の「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」との礼拝へのうながしは、神さまの臨在(りんざい) (見えない神が、その場に存在すること。そこにおられること) の素晴らしさと、そこから来る喜びに憩(いこ)い、与(あず)かるようにとの呼びかけが含まれます。礼拝の真の喜びは神様の存在を知り、その場所に立つこと、神さまの臨在に触れることです。神様を礼拝するために集まってきた人々は、神様に心を向けながら喜びと賛美をもって、神様のおられる場所に少しずつ近づいていきます。 礼拝は、私達人間が神様に出会い、神様への喜びに自分自身を委(ゆだ)ねる場であります。

*造り変えられていく喜び

また私たちは礼拝において、私達人間は、確かに「神さまから造られた者」であるとの認識、意識を持つことが出来ます。神さまの前に立つ時、私達はもはや「自分自身がどうありたいか」ではなく、神様が私達一人一人を、それぞれ違う形で造られたことを知らされます。そして私たちは、神さまのご計画に従って造り変えられていくことに、喜びと確信を持つことが出来るのです。 「感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」(4節)。これが、喜びにあふれる真の礼拝です。

*「主において喜びなさい

 さてパウロは、今日のフィリピ書3章1節で「主において喜びなさい」と言いました。なぜ「主において喜びなさい」と言ったのでしょうか。彼は獄中にいました。パウロはフィリピの教会の人達に直接会って神様のみ言葉を宣べ伝えて共に祈りたかったと思います。しかし出来ませんでした。そのような自分の思いが叶(かな)わないという状況の中で、パウロは「主において喜びなさい」と語っているのです。

私たちは日々の様々な生活・状況の中で、自らをその流れに任せて淡々と毎日の決まりきった行動をしていないでしょうか。そうであれば、私たちは、そのような中で果たして本当に「主において喜ぶ」ことができるのでしょうか。「主において喜ぶ」とは、今日お読みした詩編100編のような礼拝を通して神さまに出会い、神さまに触れることだと思います。一人一人、感じ方の違いがあるかもしれませんが、神様を礼拝する「思い」や「態度」が重要だと思います。

*パウロ(フィリピ書の著者)と神様との出会い

パウロの神さまとの出会いは、彼がキリスト者を迫害するために、ダマスコという場所へ向かう途中、十字架につけられて復活したイエス・キリストの声を聞くことから始まりました。

パウロは三日間、目が見えなくなり、その間、食べることも飲むことも出来ませんでした。しかしその後、パウロはアナニアという弟子によって手を置いて祈られると、目が見えるようになるという経験をしました。そしてパウロは洗礼を受けた時に、神様からの力・聖霊の力を得たような体験しました。これがパウロの、主の霊に満たされた瞬間であったに違いありません。パウロは主イエス・キリストの霊を、身近に体験することによって神様を感じ取り、イエス様を知ることで自らを神様に委ねていく信仰を得ました。それはきっと、不思議な出来事であり、生きたイエス・キリストを見るような感覚であったに違いありません。このような生きた神様と共に歩むことで、すべてにおいて神様に感謝して喜ぶことができました。(使徒言行録9章参照)

主において喜びなさい」と言った後「これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と続けて言っています。

そうです。「喜ぶ」ことは私達にとって神様から守りを得ることなのです。

*真の割礼

あの犬どもに注意しなさい」(2節)。2節で「犬」という表現が使われています。犬はユダヤ人にとって汚れた動物であるため、異邦人に使われていましたが、パウロはここで「契約のしるしである割礼(かつれい)を強調するユダヤ主義者」を指すために使っています。(割礼=生後八日目に男児の包皮を切る宗教的慣習)。そして肉を頼みとしない「私たちこそ真の割礼を受けた者です。」と宣言しています(3節)。コロサイ書に「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」(2:11)とあります。つまり私達は、洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神様の力を信じて、キリストと共に復活させられたことこそが「割礼」なのだと書かれています。パウロは、もし目に見えるしるしや正しい行いが大切なのであれば、パウロ自身も誰にも負けないくらい誇れるものを持っていると言っています。

*肉に頼ろうと思えば・・

 パウロは生まれて8日目に割礼を受けました。これが意味することは、彼が生まれた時から律法を大切にする家系に生まれて、パウロ自身も、生まれた時から律法を守っていると考えることができると思います。「イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」(5節)は、アブラハム・イサク・ヤコブの流れの正統派家系に属する者であり、その中でも特別な地位を持つとされるベニヤミン族出身であり、純粋な血統を持つだけではなく、旧約聖書の言葉であるヘブル語を話すことができるヘブライ人でもあると言っているのです。

*「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者

ファリサイ派には「分離されたもの」という意味があります。神様の掟を守るために、普通の生活から分離して、律法に従う生活を送っている人々のことです。パウロはその一員であったと語っています。また、旧約聖書の教えでは、熱心であるという事は特に尊敬されるべきことでしたので、その点でも、パウロは律法を守らない教会の人々への迫害に携(たずさ)わるほどに熱心でした。彼は、律法を守ることに関しては非の打ちどころがない者だったと自ら告白しています。

*しかし・・

 しかし7節で、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった。」とあります。キリストを知ることによって、ほかの全てのものを「損失」とみなしたのです。さらに続けて8節で、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。」と語っています。

この「主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさ」とは、どういうものなのでしょうか。そして、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とは、一体どういうことなのでしょうか。私たちには、パウロのような主キリスト・イエスを知ることが出来るのでしょうか。 私は、出来ると信じています。

*私の体験

少し私のイエス様の体験談をお話したいと思います。

私はかつて、日本基督教団ではない教派に属する教会の礼拝に出席していました。私はその教会で、イエス様を私の救い主として受け入れました。その後は「神様のために何かをしなければならない、神様のために何かをするべきだ」という私自身の感情や考えから、教会の奉仕や仕事に一生懸命に取り組み、毎日の生活を送っていました。私はその日々の生活で、自らを忙しくする中で、次第に教会の礼拝に出席するのにも疲れを覚えていきました。それと同時に、神様に感謝する心を忘れていきました。

なぜそのようになったのか今、想い起こして考えてみますと、神様との交わりの時間、一対一の時間を作り、静まり、祈るということをしないでいたからだと思います。当時の私は、神様との交わりの時間を作ることが、その気になれば簡単に出来たはずでしたが、あえて日々の忙しさの中に身を置き、神様との時間を作るという選択をせずに、神様との関係作りをおろそかにしていました。これは、悪魔に攻撃されやすい、自らを否定しやすい環境に身を寄せていたことでもありました。いつのまにか私は、パウロと同じような習慣、神様との交わり<神様に祈り・委ねて・聞くということ>をしないでいたということでありました。

しかしそのような中で、ある時、私は兄に誘われて、ある伝道集会に出席しました。私はその集会で、集会に参加した人達と共に声を合わせて祈り、神様を賛美していると、今まで体験したことのない「神様がそばにいて下さる」という神様の臨在感を感じました。それは神様の圧倒的な存在感で、神様が一方的に私の方へ迫って来て、神様を拒むことすらできない、一方で、神様を受け入れることが当然のような不思議な感覚があり、神様が大きな愛で私を包んで抱きしめて下さっている、私がその場所に立っていることが出来ないほどの臨在感、その場にやっと立っていることが出来るような神様の臨在体験でした。私は神様が本当に今も生きていて、その生きた神様の大きな愛に触れることができた瞬間・体験でありました。

 私は、この時の神様の臨在体験が、パウロが体験したような、神様に対する感謝の気持や素晴らしさを知ることができた体験だと思います。まるでパウロが言っていた、神様の存在感・ご臨在を味わうことは、この世の中で起こっている出来事がどうでも良いように感じてしまうような同じ体験だったと思います。(「・・すべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくた(くず)と見なしています」(8節)

 それはまさしく、今朝の詩編100編(喜びの叫び)のようでした。私は、この体験がきっかけで、少しずつ神様との交わりの時間を作り、聖書の御言葉に耳を傾けるという時間を作り始めました。

*神から与えられる「義」

 9節後半に「義」と言う言葉が繰り返して使われていますが、簡単に説明しますと、自分が正しいことをするという、自分の行いの正しさではなく、神様との正しい関係を私たちは持っているという信仰によって、神様から「義」が与えられているということです。

*主イエスを知る

最後の10節11節においては、「キリストを知ること、復活の力を知ること、キリストの苦しみにあずかりながら、死者の中からの復活に達したい」と、パウロの熱い思いが溢れ出ているところです。私たち人間は、試練に会えば会うほど全てを投げ出したくなります。しかし、パウロは、イエス様を信頼して、イエス様と共に歩むことで、神様からのゆるぎない力を受けたのだと思います。

私たちも今直面している問題を、主に全て委ねて求めていくことをしたのなら、1節にあるような「主において喜ぶ」ことができて、主による平安を感じることができるのだと思います。 それゆえ、今週一週間、主を覚えつつ、主と共に喜んで歩みましょう。