2023年1月22日の説教要旨 詩編111編・ルカ福音書4:16-30

「主を尋ね求めよう!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日のルカ福音書の前には、イエス様がヨルダン川で洗礼を授けられて祈っておられると聖霊が降り(3:22)、その後40日の間、悪魔から誘惑を受けられましが、その間、何も食べず断食されたことが記されています。断食を通してイエス様の霊的感覚は優れたものとなり、神様の霊をもって悪魔に勝利しました(4:1~13)。

 本日の4章16節以下には、イエス様が育った故郷ナザレにおいて起こった最初の出来事が記されています。

*ユダヤ教の会堂にて

安息日にイエス様は、ナザレの会堂を訪れました。イエス様が敬虔なユダヤ教徒の一人として安息日には規則正しく、ユダヤ教の会堂で礼拝を守られていたことが証言されています。当時の会堂での礼拝順序は(明確でない部分もありますが)、シェマ一「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4~」から始められ、祈りに続いて聖書朗読 (旧約の律法と預言書の箇所)、祈り、説教、そして祈りがなされていたと考えられています。又、ユダヤ人男性なら誰でも、礼拝で聖書 の言葉を朗読することが許されていたそうです。そこでイエス様は、聖書を  朗読するために立ち上がりました。

*イエス様が読まれた聖書箇所

立たれたイエス様に、係の者は、預言書のイザヤの巻物(当時、各書は一巻ずつ巻き物として存在)を渡しました。イエス様は、お開きになると、「次のように書いてある個所が目に留まり」朗読されました(17~19節)。

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

 そしてイエス様は巻物を閉じて係の者に返して腰を下ろすと会堂にいる全ての人々の目がイエス様に注がれました。イエス様は、人々が注目している中、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。今日とは、過去のその日のことではなく「耳にした時、その日、聞くことによって」実現したと語りました。

*会衆の反応

人々のイエス様に対する最初の反応は好意的であり、その恵み深い言葉に驚きを覚えています。ところが、22節の後半で、「この人はヨセフの子ではないか。」と、イエス様のこの世に於ける家族的背景に目を向けて、自分達と同じ故郷の出身者でありながら、イエス様の恵み深い言葉との思いもつかない違いに、戸惑いから生じた言葉と考えられます。

イエス様の姿を幼い時から見ていたことが、かえって現在のイエス様の本当の姿や語られる言葉を理解することを妨げてしまったのでしょう。イエス様は彼らの反応を見て、「旧約時代(エリヤやエリシャの時代)でも、神様から選ばれて救われた人は、預言者の出身地以外の人達(やもめとシリア人ナアマンの例をあげて)だった」と語られたことにより、会衆は憤慨して、イエス様を山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。

*主の御業を愛する人は皆、それを尋ね求める。

私達は神様に選ばれ信じる者達です。本日の詩編「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげる。主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。」(1~2節)にあるように、いつもどんな時にも神様に心を向け、神様を尋ね求めて日々を歩んで行こうではありませんか。心を尽くすとは、自発的な思いであり心の奥底から100パーセント、全ての想いを神様に向け、感謝の言葉をささげ、神様に信頼し、神様を愛し通し、信じ続けていく、主を尋ね求めていくことです。主に 贖われた(救われた)私達の生活は、いつでもどこでも、いかなる状況の中でも、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして私達の主に感謝する、主を礼拝することにあると思います。私達はこの神様の言葉を携えて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年1月15日の説教要旨 詩編101編・ルカ福音書5:1-11

「神様、いらっしゃい!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編101編はダビデの賛歌で、2節には 「完全な道について解き明かします。」とあります。「完全な道」とは、道徳的、倫理的、知識的な意味での「完全」ではなく、かつて主がアブラハムに「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。(創世記17:1)」と言われ、又、「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。(詩編119:1)」とあるように、「まったき道を踏む」ことと「主の律法に歩むこと」は同じであり、神様への信頼の道、神様とのかかわりの道、共に歩む道です。「解き明かす」を他の訳では「心を留める」と訳しています。ダビデは王として、神様への信頼の道、神様と共に歩む道に心を留めつつ、与えられた使命に生きていきました。

しかし、お言葉ですから、

本日のルカ福音書には、イエス様がガリラヤ湖畔に立っておられると、神様の言葉を聞こうとして群衆が押し寄せて来たことが記されています。イエス様が多くの病人を癒された奇跡を見たからです。イエス様が語る神様の言葉や奇跡は人々の心に留まり、人々を惹きつける力がありました。

イエス様は、二そうの舟が岸にあるのをご覧になると、漁師逹が舟から上がって網を洗っていたので、そのうちの一そうの所有者であるペトロの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになりました。そして、腰を下ろして舟から群衆に神様の言葉を教え始められました。話し終えた時、ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロは、夜通し働いても小さい魚一匹も取ることができなかったので、その働きは骨を折るだけで無駄になると思ったことでしょう。しかも網には多くの不要物が付着していますから、それらを取り除くためには、その後も又、網を洗う作業をしなければなりません。けれどもペトロは、次のように答えています。「先生、私達は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。

ペトロは、疲れていたはずです。心の中では疑いの思いもあったことでしょう。しかしペトロはイエス様の言葉に従いました。そして舟を沖に漕ぎ出し、網を下すと驚くことが起こります。網にはおびただしい魚が入り、そのために網が破れそうになったため、もう一そうの仲間に合図をして手を貸してくれるように頼み、2そうの船は魚でいっぱいになり、舟が沈みそうになったと記されています。

恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる

ペトロはイエス様の言葉に従い、神様の奇跡を目の当たりにしました。ペトロはイエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。ペトロも一緒にいた者達も皆驚きました。ペトロは神様のあまりの凄さに恐れを感じたことでしょう。私達も起こるはずのないこと、起こりえないことが起きてしまったり、見たり触れたりした時、神様に恐れを感じてしまうと思います。けれどもイエス様はペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と告げたのでした。

人間をとる漁師になる」

漁師は本来、売るため、食べるために魚を捕りますが、この「人間を捕る漁師」とは、多くの人達に永遠の命であるイエス様を与えて、生かす者になる、イエス様のことを伝える者になる、そのような者に変えられる、変わっていく、ということです。このことをイエス様は私達にも伝えようとしています。そして神様の言葉の中には命がある、道がある、真理があるということを教えようとしています。神様は一方的に神様の方から私達人間に近づいて来られ、私達に神様の言葉を語りかけて下さっています。その言葉はすべての地上にいる者達、世界の人達に語りかけられていて、語りかけられた私達には、その言葉を聞いて、受け入れるか、受け入れないか、の選択権が与えられています。

私達は今週も、心の中にイエス様が来て下さることに期待して神様に向かって心から「ようこそ来て下さいました。私をようこそ捕らえて下さいました。」「神様、いらっしゃい!」と、歩みを始めて参りましょう。

2023年1月8日の説教要旨 イザヤ書52:7-10・使徒言行録10:34-48

「全ての人の主」       加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の使徒言行録10章の始めでは、カイサリアにコルネリウスという人がいて「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でしたが、ユダヤ人ではありませんでした。しかし彼は、ユダヤ人の信じている神様を信じていました。ある日、彼に天使が現れて、ペトロという使徒を招くように、と、お告げを受けました。それで彼は、召使と兵士の3人をペトロの所に送り出しました。翌日、ペトロのところにも、神様は幻を通して語りかけられました。天から大きな布が四方を吊るされて下りてきて、その中にあらゆる獣や、地を這うものや、空の鳥が入っており、「これを屠(ほふ)って食べなさい」と、言われる幻でした。

神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない

ユダヤ人は、神の民として自分達を清く保つために律法を守っていて、ペトロが見たその布の中には、汚れていて食べてはならないと言われている生き物が沢山入っていました。ペトロは、神様から食べなさいとの命令に、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」とこたえました。ペトロにとって律法を守ることは当然のことでした。しかしペトロに神様は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と三度もくり返され、布は天に引き上げられました。

*聖霊の導きによる異邦人伝道

ペトロが今見た幻のことを考えていると、コルネリウスの使いがペトロの家を捜し当ててやってきました。すると聖霊がペトロに、「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と、コルネリウスのところへ行くように促しました。ペトロは使いの者達から、コルネリウスも天使からお告げを受けたことを聞いて、彼らと一緒に出発してカイサリアに到着し、ペトロの話を聞くために大勢の人が集まっていたところで福音を語りました。これまでペトロは、同胞のユダヤ人たちに、「イエス・キリストこそ我々が待ち望み、聖書に預言されていた救い主である」ことを語ってきましたが、今度は、接触(交わり)を拒んできた異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に対して初めて福音を伝えたのです。イエス様のことを伝える言葉には力があり、命があり、愛が伴います。そこで聞いていた人達の上に聖霊が降りました。ペトロと一緒に来た人は、聖霊の賜物が異邦人にも注がれるのを見て大いに驚きました(45節)。

 わたしたちもペトロと同じように、このことのためにな自分が用いられる、あるいは遣わされていると感じたことはないでしょうか。特に、新年を迎えたこの時期、多くの人々が神様を求めて神社やお寺にお参りに行く姿を目にしましたが、その人達がある日、何かのきっかけにより、真実の霊、神様の霊に触れる時、彼らは神様の霊に出会い、神様の所へ、神様を礼拝するために、教会へと足を運ぶことになることを私達は知っています。そのことを神様に期待し、信じていきたいと思います。

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」イザヤ52:7

神の御子イエス様が人のかたちを取られてこの地上に来られたことは、私達にとって、とても素晴らしい出来事です。そのイエス様の語る神様の言葉や、不思議な業や、奇跡などは多くの人々に大きな影響を与え、それらはイエス様が亡くなられた後では、イエス様の行いや神様の出来事を伝えることになったのが弟子たちであり、ペトロであり、私たち神様を信じる者たちに委ねられています。ですから私達は、神様の言葉に目を向け、神様の霊の中で憩い、歩み、私達に委ねられている福音、神様のこと、イエス様のことをさらに知る必要があると思います。

このことは、わたしたちの心に平和をもたらし、幸福をもたらし、救いをもたらすことを本日の聖書は伝えています。私達は、このイエス様の霊、神様の言葉に胸を弾ませながら、2023年の歩みが祝福されるように祈り、期待をしながら今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年12月25日・クリスマス礼拝の説教要(ミカ書5:1-3・ルカ福音書2:1-20)

「全ての者たちの喜びの日」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 クリスマスの今日、神様は私たちにどのようなことを教えようとしているのでしょうか。一つの輝く星が私たちの歩む道しるべとなり、その光が私たちの心の中にも灯るように期待し、本日の聖書の言葉に耳を傾けて参りたいと思います。

*誕生の地・ベツレヘム

 本日のミカ書5章の1節「エフラタ」は、ベツレヘムの古名と言われています。イスラエルの王ダビデはベツレヘム出身のエフラタ人「エッサイ」の息子でした(サムエル記上17:12)。預言者ミカは、この小さな氏族から、「主のため」にイスラエルを治(おさ)める者が出ること、それは、遠い昔から定められていたと告げています。このことは、変更されることのない神様のご計画であり、ベツレヘムは、メシア(救い主)出現の地として預言され、神様によって選ばれた場所であったと知らされます。

*御計画の実現への道

本日の、ルカ福音書2章1節に、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とあります。この命令が出た時代は、これまで派閥の争いの時代からローマによる平和の時代が実現していた時でもありました。もし、この「ローマ全領土に住民登録をせよ」との勅令が皇帝から出なかったならば、ヨセフとマリアはベツレヘムに行くことはなかったでしょう。なぜならナザレからベツレヘムまでの距離はおよそ220キロ離れていましたから、その距離の移動は困難な旅であったからです。皇帝による住民登録の命令が神様の深いご計画の中でなされたということは誰も知ることなく、ナザレにいたヨセフと、既にお腹の中にイエス様を宿していたマリアを「ベツレヘム」へと移動させたのでした。

*わたしたち

この出来事について想いを巡らせる時、いつも何気なく起こっている私達の行動の背後には、「必ず」と言っていいほど神様のご計画と、お導きがあるとの、「神様のご計画の凄さ」を知ることが出来るのではないでしょうか。私達の人生の中で神様のご計画が行われる時、私達側から神様の計画を止めることは出来ません。神様のご計画は誰にでも同じように与えられているように私には思えます。それは誰かに後ろから手を置かれ押されているような感覚で、どんどん押し進められて前に歩むことが出来る、扉のようなものが次から次へ開かれていくというような体験(又は感覚)を皆様はお持ちではないでしょうか。

*御子イエス様を信じる前の私達

 過去の私の場合、クリスマスは家族や仲の良い友人達と食事などをする日、誰かと過ごす日、誰かと集まる日として捉えていたと思います。

どうしてそのように考えていたのか。それは、テレビ・ラジオ・新聞雑誌・書籍・広告などのマスコミによる情報や知識からではないかと思います。これらの情報は必ずしも間違っているとは言えませんが、ほとんどが「イエス様を告白しない霊、暗闇の支配者、悪魔サタンの霊」の働きがあり、真実に向き合うことを困難にさせています(エフェソ6:12参照 )。

*羊飼いのクリスマス

イエス様を信じる私達には聖書があり、真実の出来事、正確な情報があります。クリスマスには神様の導き、現れが羊飼い達にも起こりました。夜通し羊の群れの番をしていた時、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らして「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった」と言いました。羊飼い達は急いでベツレヘムへ行き「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て(16節)ました」。 私達も正しい情報を受け始めるとその言葉に耳を傾け始めます(聖書の言葉、神様との交わり、神様を体験するなど)。そしてその出来事が本当だったこと、確かであったと悟る(理解する)ことが出来ます。さあ、私達も今、神様の輝くその光に導かれて、イエス様の誕生を見に行こうではありませんか。

2022年12月18日の説教要旨 創世記18:1-15・ルカ1:26-38

「主イエスの誕生予告」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の創世記には、アブラハムが天幕の入口に座り、目を上げて見た時、そこに三人の人が枯れに向かって立っていたとあります。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、ひれ伏して歓迎しました。6節からは、アブラハムの最大のもてなしを見ることができます。上等の小麦粉で作った「パン菓子」と柔らかくておいしそうな「子牛」の料理で もてなし、しかもアブラハムは立って彼らの世話をしたことが述べられています。アブラハムの態度は極めて礼儀正しく、当時の遊牧民逹にとっての旅人への礼儀であり、風習や文化も大切にしていたように思われます。

*三人の客人

 この客人の訪問の目的は、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。(10節)」という予告をするためでした。

アブラハムに子が与えられるとの約束は、15章で「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。(4節)」と言われ、さらに17章で「わたしは彼女(妻サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。(16節)」と、神様から聞いていましたが、今回の訪問では「来年の今ごろ」という時期として「一年後」が示されています。しかしアブラハムは男の子が生まれることを初めて聞いた時、「ひれ伏した。しかし笑って、ひそかに「百歳の男に子供が生まれるだろうか。」(17章)と言っています。サラも本日の箇所で、「すぐ後ろの天幕の入り口で聞いて」「ひそかに笑った」(18:10・12)と記されています。

主はアブラハムに、「なぜサラは笑ったのか」と問いただし、続いて、その理由を、主自らが語ります。「なぜ年を取った自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ」と。そして笑ってしまった根本的な理由を明らかにされます。「主に不可能なことがあろうか。」と。

このあと、21章の1~2節には、「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。」と記されています。

神様の約束はこうして実現していきました。

*祭司ザカリアと処女マリア

先週学んだ祭司ザカリアは、アブラハムとサラのように、主の言葉を受け止めて信じることが出来なかったため、子供が誕生するまで口が利けなくなりました。

本日のルカ福音書では、マリアが、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との、天使ガブリエルの言葉に戸惑い、何のことかと考え込みました(28節)。続く天使の言葉は「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」でした。この言葉を聞いたマリアは、自分は男の人を知らないので、それはあり得ないと答えますが、天使が、ザカリアの妻のことを伝えて「神にできないことは何一つない。」と言われますと、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と答えています。

*マリアの言葉から見えるマリアの信仰

 マリアの生まれながらに備わっている性格は、心が素直であるだけではなく、とても考え深く物事をきちんとわきまえていて、又、自分ではよく分からないことに対しては、いったん心に納めて考えるという慎重さが見られます。マリアの、天使ガブリエルに応えた言葉は、彼女自身の信仰の深さ、真実の出来事をしっかりと受けとめようとしています。この、「お言葉どおり、この身に成りますように」との神様への信頼の言葉は、イエス様のゲッセマネの祈り「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください (22:42)。」と重なります。神様はマリアの信仰をご存じで、イエス様の母としてふさわしいと選ばれたのでしょう。

お言葉どおり、この身に成りますように」は、いつの時代でも、今日の、この礼拝においても私達の信仰の基準です。神様からの聖なる霊の助けをいただいて、この信仰に立ち、クリスマスをお迎えしましょう。

2022年12月11日の説教要旨 創世記17:15-22・ルカ1:5-25

「ヨハネの誕生予告」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は何かしたいことがある時、計画を立てて、少しずつ準備をしていきますが、神様はどのようにイエス様をこの世界に遣わす準備を進めて来られたのでしょうか。アドベント(待降節)第一週目はイエス様の父・ヨセフに注目して聖書に耳を傾けましたが、本日は、イエス様の母マリアと親戚関係にあるエリサベトの夫・ザカリアに注目して、イエス様の誕生を待ち望むこの季節にふさわしいみ言葉に耳を傾けたいと思います。

*祭司ザカリア

ザカリアと妻エリサベトは神様の前に正しい人でした。しかし二人の間には子供がなく、すでに年を取っていました。当時の祭司は24組に分かれ、組ごとに1週間の当番が割り当てられ、ザカリアの組が当番になった時、「香をたく係」がザカリアに割り当てられました。

神殿に大勢の人が集まった祈りの時間、ザカリアはただ一人、香をたくために聖所の中に入りました。ザカリアが香をたいている間、大勢の民衆は外で祈りをささげていました。すると聖所では主の天使が現れ、香壇の右に立ちました。ザカリアは不安になり、恐怖の念に襲われました。

*喜ばしい知らせ

 主の天使ガブリエルは、「わたしは、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた」(19節)と語り、ザカリアの妻エリサベトに男の子が生まれることを告げて、その子の名前をヨハネと名付けるようにと言いました。

さらに「その子は、主に先立って行き、人々を主のもとに立ち帰らせ、準備の出来た民を 主のために用意する者となる」(預言者エリヤのように)ことが語られました。ザカリアにとって、この知らせはこの上もない喜びになるはずです。しかし彼は、天使の言葉をすぐに信じることが出来ませんでした。夫婦は年を取っていたからです。けれどもザカリヤは祭司でしたから、イスラエルの歴史の中では、老年のアブラハムとサラに約束の子が与えられたことやサムエルの母ハンナのことも知っていたでしょう。

それでも彼は、天使の言葉をすぐには受け入れられなかったのです。

その結果、天使の予告が実現する迄、彼は口がきけなくなりました。

*わたしたちの戸惑い=不信仰

ザカリアはなぜ、天使の言葉をそのまま信じることが出来なかったのでしょうか。私は、ザカリアに「戸惑う気持」があったからではないかと思います。「その子をヨハネと名付けなさい」との命令は、ユダヤ人社会では子供の命名は父親の責任でしたから、これまでの伝統や慣習を打ち破る出来事になり、さらに、与えられる子供がザカリア自身が大切にしてきた祭司の家系を継ぐ者となるのではなく、異なる使命である「預言者」の務めを担うことになる・・との「戸惑い」です。

 私自身、かつて献身したい気持が与えられた一方で、違う方向へと、父親が言うような将来に向けて世界をたくさん見たい、などの気持があったと思います。それだからこそ神様は、私に待つこと、神様の計画の時まで忍耐と希望を持って「待つ」ことを教えて下さったと思います。

*妻エリサベト

 ザカリアの務めの期間が終った後、妻エリサベトは「身ごもりか月の間身を隠していた」(24節)ので、彼女の身に起こったことは噂されることもありませんでした。彼女は、神様の行われるご計画を人々に報告することは、自分の役目ではないと考えていたことでしょう。そして、このことは、神様のご計画がおおやけになり、神様の恵みがイスラエルの人々に、何を準備しているのか、何を示すのかを「神様自らが教えて下さる」と考えていたのかもしれません。彼女は「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と告白します(25節)。当時の社会では子供が出来ないことは、自分の祈りが神様から退けられて恥ずべきことと考えていたので、大きな苦しみとなっていたことでしょう。しかし神様の大きな恵みにより、今は息子が与えられる喜びで、すべてが素晴らしいものに変わっていきました。さぁ、私達も神様の御計画を思い起しつつ、希望を持ってイエス様のお誕生をお迎えする準備を整えて参りましょう。

2022年11月27日の説教要旨 イザヤ書7:10-14・マタイ1:18-25

「主の到来の希望」       加藤 秀久牧師

*はじめに

私達には、どんなに偉くても偉くなくても、貧しくてもお金持ちの人にも、生まれた日・誕生日があります。その日を祝うのは、大体その人が生きている時だけかと思います。しかし神様を信じる者の間では、イエス様の誕生日だけは、何年も何十年も何百年も何千年もお祝いされています。なぜでしょうか。それは、イエス様が生まれた時から今に至るまで、変わらぬお方であって生きているからです。

主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(7:11)

本日の旧約聖書は、イスラエル王国が、北イスラエルと南ユダに分裂した後の今から約2700年位前のことで、南王国ユダで活動していたイザヤの時代の話です。当時、アッシリアに対抗してアラムの国と北イスラエルの国が同盟を結んでおり、南王国ユダにも同盟に入るよう打診されていましたが、アハズ王の心は揺れ動いていました。預言者イザヤは神様の言葉を聞き、アハズ王に対して「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と伝えました。これは「主に願い求める、主を尋ね求める、主に伺う」ことで、神様を第一にすることを意味します。しかしアハズ王は、「わたしは求めない(7:12)」と答えました。それは自分自身の考え方、能力、自分の情熱によって歩み、他の神々を礼拝するような習慣がその人の身に沁みついてしまうこととなります。

*王国の歩みとわたし達

イスラエルの国が人々の要求により王政になった時、神様が選ばれた初代の王はサウルでした。しかし彼は主を尋ね求めて従うことをしなかったため、神様は彼を退けてダビデを選ばれました。ダビデは主を信頼し、主を尋ね求める者の象徴的存在です。ダビデは「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。(詩篇27:4)」と祈り願っています。私達は神様を何よりも第一に主を尋ね求めて主に伺っているでしょうか。

*イザヤの「インマヌエル」預言

本日のマタイ福音書1章23節では、イザヤ書7章14節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」が引用されています。「インマヌエル」とは、「神は私達と共におられる」の意味ですが、本来、神様の「神性」と、人間の「人性」が共にある存在の意味で、神様と人間とが一つになった特別な存在であり、その「しるし」は「処女から産まれる男の子」でした。この予告は主の御使いから(マリアと婚約中の)ヨセフに、夢の中で告げられました。ヨセフは結婚前にマリアが妊娠したことを知り、ひそかに縁を切ることを決心します。しかし御使いから、マリアが聖霊によって身ごもったこと、生まれ出る子供は「自分の民を罪から救う(21節)」こと、そして700年前のイザヤの「預言の実現(成就)」であることが告げられたのでした。

*神様の御計画

ヨセフは子供の名前を選ぶことが出来ませんでした。それは神様の霊による誕生であり、神様がすでに名前を付けていたからです。

私達も、神様がすでに私達の為に計画されていることを変えることが出来ないことを知る必要があります。私達はこの地上に生まれ、子供から大人へと成長させられた中で、多くの人達との出会いがあり、それを通して様々な場面で神様の存在を知り、何よりも今、このようにして神様に出会い、信仰生活を送れることの素晴らしさ、嬉しさ、喜びが常にあります。これらは神様の呼びかけによらなければ、「インマヌエル」である主が共におられなければ、与えられなかったものであり、私達は生きることも死ぬこともできない者です。それだからこそ神様のご計画は素晴らしく、偉大なものとして受けとめることができるのです。

もしイエス様の誕生がなければ、私達の罪の贖いの出来事も、聖霊も受けることは出来ず、聖書を見ることも読むことも出来なかったはずです。イエス様は、天に於いても地に於いても神であり、王の王、唯一のお方です。この王様が今日もこの礼拝の中に現れ、私達の真ん中、中心にいることを信じ感謝しつつ、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年11月20日の説教要旨 詩編11編、エペソ書5:21-33

主の変わらない祝福」        加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編1節では「主を、わたしは避けどころとしている。」と信仰の表明があり、危険が迫っていることが伝わってきます。その状況が2~3節で「闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」と説明し、「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか。」と、友人達の言葉が聞こえてきています。本来あるべき社会秩序がくつがえされて、いつしか、しがらみや不正がはびこり闇に閉ざされてしまったような状況に現在、作者は置かれているのです。

主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。」(4節)

しかし、たとえ社会が闇に閉ざされているような状況であっても、主なる神様は人間の世界を越えた天から「御目は人の子らを見渡しそのまぶたは人の子らを調べ(4節)」られます。私達一人ひとりが何を拠り所としているか、誰を頼みとし、どこに隠れ家を置いているかを明らかにされます。

*わたしたち

私達は、神様を信じ、神様に守られているとの確信をしっかり心に刻むことが大切です。作者は「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人にむけてくださる。」と告白しています。神様は正義を行い、信仰生活を正しく送っている者達にはその御顔、御姿を現して下さいます。私達は毎日、神様に目を向けて歩いているでしょうか。 私達は時々、神様によって試される時があります。私達はどんな時でも「主に従う人に御顔を確かに向けて下さる神様」を避けどころとして歩み続けましょう。

*妻と夫

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)

本日のエフェソ書の御言葉は、私達がイエス様に対する畏れをもって、イエス・キリストを主と認めて信仰生活を送り、人々に仕え、支え合っているのかが問われているように感じます。この前の6節以下には、光の子として(光から善意と正義と真実が生じる(8~9節)歩み、霊に満たされ、いつも感謝しながら(18~20節)歩むように勧めています。キリストに仕える者逹がお互いに仕え合うことは、夫婦の関係と同じようなものであり、妻は夫に「主に仕えるように仕えなさい」と、神様に従うことから始まっています。イエス様が教会(信仰者の群れ)の頭(かしら)であり救い主であるように、妻も夫に仕えなさいと教えます。一方 夫には、イエス様が教会を愛し命を捨てるほど愛されたように、妻を愛することを教えています。イエス様がそうされたのは、神様の言葉と洗礼とによって教会を清めて、聖なる汚れのない、栄光に輝く教会を立たせるためです(26~27節)。夫婦も、夫は妻を自分のように愛し、妻は夫を敬うように(33節)教えています。そのことを通して私達の神様との関係も良い方向へと進み、良い実を結ぶことができることを伝えているようです。

*神様とわたしの関係

 私は先日、正教師面接で「あなたはキリストの花嫁として、教会に仕え、キリストに仕えることが神様から与えられた召命であることを信じますか」と問われました。私は、<イエス様に初めて出会い、信仰を告白した時からイエス様と共に歩んでいるのだから、今、再びこの問いに、告白(誓い)は必要なのか?>と考えていた中で、<私はイエス様のことを真剣に受け入れ、イエス様の霊をこの体に身に付けているだろうか。私は本当に神様に耳を傾け、聞いてきたのか・・。そういえば最近、神様の声、神様の霊を感じていないのでは?> <果たしてこのような私が、正教師としてキリストの花嫁として歩むことに誓いをたててよいのか?>など短い時間で思い巡らしていた時、すぅーと、私の身体の中に神様の霊が入ってだんだん大きくなるのを感じました。そして若い時に与えられた「人々に神様の言葉を伝えていきたい」との思いに立ち返り、今、その召命に従うこと、信じることだと思いました。 

今は目に見えず、不安な部分が沢山ありますが、将来、神様の計画が起こり、目で見て体験することになるだろうとも感じました。皆さんも、これから先、神様の御前で何かの誓い(約束)をする時があるかもしれません。神様がいつも共に在り、神様の深い愛と祝福をお祈り致します。

2022年11月13日の説教要旨 出エジプト33:7-11・ヘブライ8:1-13

「救いの約束」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちは、神様との関係を大事にしているでしょうか。又、私達にとってイエス様とは、どのようなお方でしょうか。

モーセによってエジプトから導き出され、旅を続けていたイスラエルの民がシナイの荒れ野に到着し、山に向かって宿営をしていた時、神様はモーセを山の頂に呼び寄せられたので(出エジプト記19章)、モーセはシナイ山(31:18・別名ホレブ山(33:6)に登り、神様から二枚の石の板(十戒)をいただきました。しかしモーセの下山が長引いたため待ちくたびれた人々は金の子牛の像を造り、その像を神としていけにえをささげ、飲み食いし、たわむれていました。山を下りて来たモーセは人々の乱れた姿を見て、神様からいただいた掟の板を投げつけて山のふもとで砕き(32:19)、この日三千人の人々が滅ぼされました(同28節)。民が犯した大きな罪による神様の怒りの前で、モーセは罪の赦しを必死に求め願いました(32:31)。

*臨在の幕屋

 本日の33章では、モーセが人々の宿営から遠く離れた所に天幕を張り「臨在の幕屋」と名付け、この幕屋を「神様と出会う聖なる場所、祈りの場」としました。それで人々は、モーセがその幕屋に向かう時、自分の天幕の入り口で見送り、モーセが臨在の幕屋に入ると、雲の柱が臨在の幕屋の入り口に立ちました。人々は雲の柱を見ると全員起立して自分の天幕の入り口で、悔い改めの時として礼拝しました。神様はモーセに、かつてイスラエルの族長(アブラハム、イサク、ヤコブ)に誓った「約束の地(カナン)」に向かって出発するように命じられましたが、神ご自身は民がかたくなな民であるがゆえに共に行かないと言われました(3~4節)。しかし12節以下には、モーセがイスラエルの民は「神の民」であることや、旅は神様ご自身がモーセを選び導かれた旅であることを伝え、同行を強く願いましたので、神様はこの願いを聞き届けられました。臨在の幕屋では「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られ(33:11)」ました。

モーセの歩みを知る時、私達はイエス様の姿と重なる部分を見ることが出来ます。

*わたしたちのイエス様

 本日のヘブライ書8章の小見出しに「新しい、優れた約束の大祭司」とあり、イエス様が私達にとって、約束された大祭司であることが語られています。イエス様は、「天におられる大いなる方(神様)の右の座に着き、真の幕屋(過ぎゆく地上の幕屋に対して、永遠に存在する天の幕屋)で仕えておられる」こと、大祭司は「供え物といけにえとを献げるために、任命されています(8:3)」が、イエス様は、ただ一度、ご自身を献げることによって、罪のためのいけにえをささげることを成し遂げられました(7:27)とあり、「わたしたちの大祭司は、(モーセより)はるかに優れた務めを得ておられます」「更にまさった契約の仲介者になられた(6節)と記されています。モーセは、神様から律法をいただき、神様の指示に従い幕屋を建て、神様と契約を結びました。しかしイエス様は、古い契約に代わって新しい契約の仲介者になられたのです。

*はるかに優れた務め

 イエス様は完全なお方で何一つの罪も見当たらないお方です。そして、一度だけの完全な罪の贖いとしてご自身を献げられました。その結果、これまでの祭司のように自分のため、又、人々のために毎日のいけにえを献げる必要は永遠になくなりました。イエス様は、私達のためにいつも側にいて下さり、神様に近づく者のためにとりなしの祈りをしておられます。そして今や、文字に刻まれた律法が私達の外側から、(守るべきもの・強制)ではなく、律法は、私達の内側(思いに置き、心に記す・神を愛して、従いたい)から起こり、小さな者から大きな者に至るまで神様を知ることが出来るようにされました(8:10~)。古い契約は律法を守るために努力しなければなりませんでしたが、私達は新しい契約の下で、大祭司イエス様の一回限りの十字架による罪の赦しによって、神様の恵みと慈しみのもとで、喜んで主に従い、近づくことが出来ます。

私達はイエス様を身に付けて今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。