9月16日の説教要旨 「神によって生きている」 平賀真理子牧師

創世記2:7-9 ルカ福音書20:27-44

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、聖書で証しされている神様の御心とこの世の人間の関心事がいかに食い違っているかが示されています。私達が、この世で生きていく中での問題、その多くを人間関係が占めているように思います。もっと集約すると、夫婦関係と親子関係です。その順番で、今日の箇所の前半と後半で、その問題が示されています。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の相違点と一致点 

イエス様は福音宣教の旅をなさり、都エルサレムに来られました。イエス様の語る御言葉や病いの癒しの御業は素晴らしく、民衆はイエス様を送ってくださった神様を賛美するようになりました。しかし、ユダヤ教指導者達は、イエス様にまつわる出来事を素直に受け止めることができませんでした。そのような指導者達には、大きく分けて2つのグループがありました。その一つが「ファリサイ派」ですが、「律法学者」と呼ばれる人々の多くが、ここに属していました。そして、都エルサレムには「サドカイ派」と呼ばれる人々がいました。この2つのグループは様々な点で見解が異なりました。今日の箇所に関連して言えば、「復活や天使や霊」について、ファリサイ派は肯定、サドカイ派は否定というふうに、です。但し、イエス様への反感という点では一致していました。

 

 「復活にあずかる者はめとることも嫁ぐこともない」

エルサレムに来られたイエス様は、この反対派の人々から論争を仕掛けられました。彼らは論争でイエス様を負けさせて、人々のイエス様への期待を消し去ろうと企てました。まず、ファリサイ派を中心とする人々が質問しましたが、イエス様は「神の知恵」で、彼らを論破なさいました。そこで、サドカイ派の出番です。サドカイ派が常々疑問に感じていた「復活にまつわる問題」について質問しました。もし、復活があるなら、7人の兄弟と結婚した女性は、復活の時に誰の妻になるのかという内容でした。ここでサドカイ派は、今まで主張してきたように、結局、復活は無いという答えをイエス様から引き出したかったと思われます。しかし、イエス様は、サドカイ派の質問の大前提が間違っていると指摘なさいました。サドカイ派は、次の世でも、人間はこの世と同様に結婚すると考えました。しかし、神の御子イエス様は、違うとおっしゃったのです。次の世ではめとることも嫁ぐこともない、即ち、この世の夫婦関係は次の世まで続くものではないし、人間は一人一人に対して、もっと大事なことが課せられていると述べようとなさっています。

 

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」

この35節には、見逃してはならない条件が含まれています。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる」という条件です。誰がそれを認定するのでしょうか。神様です!「神の国の主」=「聖書で証しされる神様」が、御自分の御心に従おうとした人間一人一人に対して、「神の国」で復活する価値があると認定してくださり、永遠の命を与えられるのです。だから、「死ぬことがない」とも言えるのです。

 

 「すべての人は神によって生きている」

続いて、イエス様は、サドカイ派が尊敬する「偉大なる指導者モーセ」も、御自分の証しする「神様」に出会ったのだと話されました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は御自分を名乗られましたが、多くの人々はこれを「ユダヤ人の先祖を守り導いた神の証し」と思っていました。しかし、イエス様は、遠い昔に肉体的には死んでいたとされた「アブラハム・イサク・ヤコブ」は、死んだ後の世界で復活して神様と共に生きていると証しした御言葉だと理解し、「生きている者の神」と言われました。そして、「すべての人は神によって生きている」と締めくくられました。人間は、本来、神に相対して一人一人が生きている、神の基準で生きる存在であると、イエス様は教えようとなさったのです。

 

 この世の人間関係よりも、救い主に謙虚に従うことを優先!

次に、イエス様からの質問を通して、偉大なダビデ王さえ、子孫として生まれると預言された救い主に対して、謙遜だったと示されました。神様と神様が送られる救い主に対し、人間は謙遜であるべきです。その姿勢が反対派には欠けていました。親子関係等の様々な人間関係よりも神様から賜った救い主に謙虚に従うことを私達は優先したいものです。

9月9日の説教要旨 「神の国の到来に備えて」 平賀真理子牧師

イザヤ書24:17-23 ルカ福音書21:29-36

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様による預言の後半部分です。この前にもイエス様は預言なさっていて、その内容は、エルサレムの滅亡と天変地異ということでした。一見恐ろし気な内容ですが、しかし、イエス様を救い主と受け入れて生きた者は、その出来事の果てに、主が再臨なさる希望が持てるという内容で、それを踏まえた上での後半です。

 

 「いちじくの木のたとえ」

小見出しは「いちじくの木のたとえ」とありますが、今日の箇所ではいちじくの木だけでなく、「ほかのすべての木」も30節以下のこと、つまり、木の葉っぱが出始めると、人間は夏が近いと悟るという事実を主は挙げておられます。当時の一般庶民は、暦や時計を持っておらず、自分達の感覚で分かる変化を認識して初めて、時の変化を知ることができました。特に、農業・漁業・林業・牧畜業に従事していた人々は、その現象に敏感であり、その知識を継承していたという背景があります。イエス様は、御自分の最大の関心事「この世に神の国が到来する」前にも、同じように「徴」が現れることを、語っておられるのです。この直前に語られた恐ろし気な現象が起こった時に、信仰者のない人々が怯えても、御自分を救い主と受け入れた信仰者達には、神様の絶対的な守りがあり、かえって希望が持てると主は語られてこられました。なぜなら、都の滅亡と天変地異と主の再臨こそが、地上に「神の国」が到来する「徴」となるからであり、「神の国の到来」こそが、父なる神様と御子なるイエス様の最大の関心事、かつ、喜びであり、「終末」は終わりを意味するのではなく、その先に、信仰者が神様と共に喜べる世界の到来という意味があるのだということを主は教えてくださっているのです。

 

 「この時代は滅びない」(32)

「この時代」とは、イエス様がお語りになった当時だけを指すのではなく、「同じ時代の人々」という意味があります。また、それだけでなく、御自分を救い主と受け入れた人々のことだと思われます。「主と心を同じくする人々」のことです。だから、これは、現代の信仰者である私達も決して滅びないと、主が保証してくださっていることでもあります。

 

 「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」(33)

主が預言なさった「都の滅亡と天変地異」は、「天地が滅びる」ようだと受け取る人もいるでしょう。また、33節を言葉通りに読むと、天地は、神様が造られた被造物なので、滅ぶこともあり得るとも言えます。その一方、永遠なる神様(父なる神様と御子イエス様と「主の御言葉」)は決して滅びることはないのだから、主を信じて結ばれている弟子達も決して滅びないと、イエス様は弟子達に熱心に伝えようとなさっておられます。

 

 「心が鈍くならないように注意しなさい。」(34)

但し、人間をよくご存じのイエス様は私達に宿題を出されていると感じます。34節-36節を見ましょう。人間は、救われたと言われると安心し切ってしまい、放縦や深酒や生活の煩いなど、信仰を持つ前と同じ問題によって、信仰心が鈍ることがあると主は見抜いておられます。だから、信仰者に対し、「終末の日」が不意に罠のように襲うから、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命令なさいました。信仰者として、心の準備が整った状態で「終末=主に出会う日に備えてほしい」という、イエス様の願いが現れています。

 

 「いつも目を覚まして祈りなさい」(36)

ここでの「目を覚ます」とは、もちろん、肉体的に眠らないで起きているということではなく、「信仰において」目覚めているということです。教会生活を続けていると、「洗礼によって、罪の赦しを受けたのだから、その後は教会には行かない」と言って、俗世間に戻ってしまい、教会での信仰の訓練を避けようとする人を時々見かけます。彼らは、信仰的に成長するチャンスを逃しており、それは主の御心ではありません。

また、キリスト教での「祈り」とは「主との対話」で、私達日本人が行う「願い事の羅列」は、「祈り」とは言えません。主に自分の思いを打ち明けても良いのですが、祈りの最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主の御心を聴いて従う姿勢が求められます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:39)に倣って、私達も祈り続けましょう。

9月2日の説教要旨 「世の終末と私達の希望」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 ルカ福音書21:20-28

 

 はじめに

今日の新約聖書の前半は、イエス様のエルサレムについての預言です。神の都と呼ばれたエルサレムが恐ろしい状況で滅亡するいう内容です。しかし、これは、聖書で証しされている神様が「御自分の気分で都を滅ぼす」わけではありません。神様は、ユダヤ人を「イスラエルの民(神の民)」として、選び、愛し、育まれました。そして、約2千年前に、「今だ!」ということで、御自分の御子イエス様を救い主として、この世に送ってくださったのでした。それも、「唐突に」ではなく、ずっと前から「神の民に救い主を送る」という預言を預言者達に授けていました。

 

 前に預言され、後に実現されるに至る「神様による人間の救い」

特に、旧約聖書のイザヤ書以降には、そのような預言が幾つか含まれています。旧約聖書にいつも触れていたのが、ユダヤ教指導者達です。祭司長や律法学者達です。彼らが居るのがエルサレム神殿を中心とするエルサレムという都です。ここで、イエス様が「救い主」として受け入れられれば、このエルサレムは「神様による人間の救い」を受け入れたことになります。そして、それまで人間が受けていた「この世の長サタンの支配」から抜け出て(救われて)、神様がユダヤ人を起点の民として、世界中の人間に御言葉を伝え、全ての民族がそれを信じ、この世の皆が神様の支配を受ける「神の民」となるように、神様は御計画されたのです。

 

 エルサレムのユダヤ教指導者達の頑なな拒絶

ところが、エルサレムのユダヤ教指導者達はイエス様を最初から排除しようとしたことが、ルカ福音書の記述から読み取れます。彼らは、民衆の支持を失わせようと論争を仕掛けましたが、イエス様の「神の知恵」溢れる答えによって負けてしまいました。それでも、彼らはイエス様を「神の御子・救い主」とは認めませんでした。また、それ以前に、イエス様は、憐れみ深い神様の御心を示していないという彼らの罪を指摘なさったこともあって、彼らは悔い改めず、イエス様を拒み続けました。「神の救いの御手」を拒んだ町には、神の裁きが徹底的に降る定めです。

 

 イエス様を救い主として受け入れないという罪とその罰

ユダヤ教指導者達は、目の前の「ナザレ人イエス」を救い主だと受け入れなくても大したことにはならないと油断していたのでしょう。ところが、実は、イエス様の到来で、神様の出来事である「人間の救い」は、既に始まっていました!彼らはそれを見逃しました!更に、指導者の決定的な判断ミスで、「身重の女とか乳飲み子を持つ女(23節)」という社会的弱者が大変苦しめられることになるとイエス様は預言なさいました。本来は、弱者を憐れむ神様がそうしないほど、神様の御子に逆らう罪は非常に重く、その罪への罰を「神の民」は必ず受けなければならないのです。

 

 神様から受ける罰=エルサレム滅亡は、実際に起こった!

神様からの罰を受ける預言は、数十年後に実現しました。紀元66年から70年まで「ユダヤ戦争」となり、エルサレム神殿を含むエルサレムの町全体は、ユダヤ人が「異邦人」と蔑んだローマ人達の強力な軍隊により、徹底的に滅ぼされました。その後、20世紀に入るまで約1900年間、エルサレムは異邦人達に支配され、ユダヤ人達は心の故郷エルサレムを回復できない「離散の民」として、世界中をさまようことになりました。

 

 天変地異の預言が例えていることと私達が持てる希望

更に、所謂(いわゆる)「終末」の預言として、エルサレム滅亡後には、天変地異が起こり、天体や地上や海上で大きな異変が起こるために、神様の御業を知らない「諸国の民」は「なすすべを知らず、不安に陥る(25節)」と、主は預言なさいました。しかし、「そのとき、人の子(救い主なるイエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る(27節)」と続きます。救い主イエス様と出会った時、私はそれまでの価値観が全く覆され、心の中で「天変地異が起きた」ように感じました。天変地異の預言は、福音との出会いで、以前の心の体系が大いに揺さぶられる経験を例えていると言えるかもしれませんし、それだけではなく、「終末の出来事」として実際に起こることかもしれません。ただ、信仰者はその出来事の有無を心配することから解放されています。イエス様を救い主と信じることによって罪を贖われた私達は、どんな状況でも神様につながっているという希望を持ちつつ、主の来臨を待っていられるからです!

8月26日の説教要旨 「命をかち取る」 平賀真理子牧師

出エジプト記4:10-12 ルカ福音書21:7-19

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の5-6節のやりとりが前提となっています。エルサレム神殿の素晴らしさをほめたたえる者達に対して、イエス様が「それはやがて崩れる」と預言されました。人々は、外側に表れたものを称賛しましたが、一方、イエス様のお答えは、実は、外側だけが崩れると意味しているのではなく、もっと深いのです。

 

 まだ建設中のエルサレム神殿の崩壊の預言

6節のイエス様の御言葉を聞いた人々は、壮麗な神殿の崩壊だけが語られたと受け取り、それがいつ起こるのか、そして、その前兆を教えてほしいと願いました。実のところ、この時、エルサレム神殿は、まだ完成していませんでした(紀元64年に完成)。まだ建設中の建物が崩壊するなんて、人々は想像できず、そんなことはありえないと思ったかもしれませんし、イエス様の預言が本当になったらどうしようと心配になって質問した人がいたかもしれません。

 

 エルサレム神殿を中心としたユダヤ教の信仰体系の崩壊

ここで思い出していただきたいのが、この頃のユダヤ教はエルサレム神殿を中心とした信仰体系になっていたということです。首都であり、神の都であるエルサレムにある神殿で、自分の罪を贖う動物の犠牲を献げて礼拝することが大変重要だと信じられていました。エルサレム神殿が崩れてなくなるとは、単なる建物の消滅ではなく、エルサレム神殿の権威の崩壊、そして、彼らの社会の崩壊、更には、この世の崩壊までを意味していたわけです。また、当時のユダヤ教では、この世の終わりを「終末」と呼び、「終末」にメシアが来て、人々を裁くと言われていましたから、「終末が来る時」を前もって知り、神様の裁きに備えたいと考える人も当然いたことでしょう。

 

 「終末」に怯える人間が抱く恐れ、イエス様が人間に対して抱く心配

イエス様は質問者達の思惑をおわかりになった上で、「人々の恐れ」を利用して、「自分が救い主だ」とか「終末が近づいた」という偽キリストに従わないように警告なさったのです。また、恐れを抱えた人間は戦争や暴動のニュースを聞いただけで「終末だ」と怯えることもイエス様は御存じで、そうではないと教えてくださいました。更に、「民vs民、国vs国」といった対立や、地震・飢饉・疫病の頻発、恐ろしい現象や天に現れる著しい徴で、人間は「終末が来た」と恐れるようになるとイエス様は予見し、人間の誤解を指摘なさったのです。一方、当のイエス様が心配なさっていたことは、12節以下、つまり、イエス様を救い主として受け入れた人々が、受け入れない人々によって迫害されること、場合によっては「殉教者」として殺されることです。それは、人間的に見れば、大変恐ろしい「終わり」です。外側に表れる天変地異や人災ともいえる戦争や暴動の前に、信仰者の内側=心に、「終末」のような恐ろしい出来事が必ず起こるから、それに備える必要があると教えておられるのです。

 

 権力者の前での弁明の時に、主が「言葉と知恵」を授けてくださる

信仰者は、権力者達の前で信仰について語る機会が与えられるであろうとイエス様は預言なさいました。人前で語る教育を受けていない庶民出身の信仰者にとり、そんな機会は恐怖以外の何物でもないでしょう。そんなピンチの時、イエス様は信仰者に「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」を授けると約束なさいました!神様からの言葉や知恵は、人間を越えた、欠けのない、完璧なものです。使徒言行録には、実際にそのことが起こったという証しが幾つもあります。

 

 信仰ゆえに起こる「終末」を励ましてくださるイエス様

信仰者がもっと恐れるのは、家族や友人という親しい人々から迫害され、殺されるに至ることです。更に、「わたしの名のために」、つまり、「イエス様が自分の救い主」という信仰ゆえに、信仰者は「すべての人に憎まれる」と主はお語りになっています。何も後ろ盾がなければ、まさに「終末」のように恐ろしいことです。けれども、信仰者を「髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)ほど、主御自身が完璧な後ろ盾として守ってくださると保証してくださっています!信仰者はただ、どんな状況下でも信仰を貫くという「忍耐」によって、神様につながる「人間本来の命」をかち取るよう、主は願い、私達信仰者を励ましておられるのです。

8月19日の説教要旨 「内側を見る神様、外側を見る人間」 平賀真理子牧師

詩編4:3-6 ルカ福音書20:45-21:6

 はじめに

私達の主イエス様は、神の都エルサレムに入られてから、反対派の人々に論争を挑まれました。しかし、仕掛けた反対派の人々が、神様の知恵をお持ちのイエス様に完璧に負けてしまったという出来事が起こったのです。イエス様は「神様の知恵」によって、反対派が全く反論できない答えを示されました。その機会に、反対派の人々がその態度を悔い改め、イエス様を受け入れる機会を御自ら与えようとなさったと思えます。しかし、彼らは悔い改めずに、イエス様を亡き者にしようという決意を益々固めていきました。エルサレムの有力者達が頑な心のままで御自分を救い主として受け入れないなら、近い将来、大切な神殿が崩れるという裁きを受けるとイエス様は預言されました(21:6)。

 

 信仰深いと外側に装っている「律法学者達」

その前に、神様の御前に、間違った態度で信仰している律法学者と、神様に喜ばれる信仰を持つ人である「やもめ」を、イエス様が続けて示して教えてくださったように、ルカ福音書は記しています。

まずは、民衆を前に、イエス様はお弟子さん達に、律法学者の間違った態度を指摘して、彼らに気を付けるようにおっしゃいました。有力者の中でも「神様の御言葉」に最も詳しいはずの「律法学者達」は、その御言葉にではなく、周りの人間に自分が尊敬に値する人物だと見られることに最大の関心があることが、その行動からわかるからです。地位が高いことを示す長い衣を着て歩き回ったり、礼拝が行われる会堂でも、日常生活の中の宴席でも上座に座って偉い立場にあることを世間に示したがるのです。更に、イエス様が最も許せなかったのは、夫に先立たれた寡婦、社会的弱者の象徴として考えられていた「やもめ」から、宗教的・法律的アドバイス料、または祈祷料を名目に多額の謝礼を要求する律法学者が結構居たことです。神様の御言葉を知っている律法学者がこんな態度を取ることは、イエス様にとって許しがたいことでした。彼らの行動は、神様の御心とは全く真逆です。神様の御言葉を通して、御心を当然知っているはずの律法学者達が、それに従わないならば、必ずあると言われる「裁き」の時に、知らない人よりも罪が重いとされ、厳しい裁きを受けると言われたのです。律法学者の間違いを指摘なさるのは、御自分の死後、弟子達が、当時の律法学者のように、指導者になることを見越しておられたからでしょう。御自分の弟子達は、偽物の信仰者であってはならないというイエス様の思いがにじみ出ています。

 

生活費を全部神様に献げた「やもめ」

イエス様は、律法学者にいつも搾取されている「やもめ」達の内の一人で、エルサレム神殿での献金において、立派な信仰を示した女性をご覧になり、その信仰をとても喜ばれたことが2番目の段落に書かれています。レプトン銅貨2枚とは、現在で言えば、約100円~200円です。

当時の献金システムでは、献金者は名前と金額とその主旨を係の人に告げ、係の人が復唱していたようです。近くの人々に丸聞こえです。金額だけ聞けば、お金持ちの人々はもっと多くを献金できたことでしょう。しかし、イエス様は、金額ではなく、献金者の心の内側をご覧になると示されています。生活費の余りを献金するのではなく、生活費全部を最初に献金するほど、この「やもめ」は神様へ全幅の信頼を寄せています。主は、外側に示される金額ではなく、生活費に対する割合の切実さを、心の内側にある信仰に比例するものとして重要視なさっています。

 

「神の神殿」の内側にあるべきもの 

続く段落(21章5-6節)でも、人間が外側だけを重視することが明らかになっています。ユダヤ人が大事にしているエルサレム神殿で、人々が見ているのは、建物に使われた石と、奉納物による飾りです。神殿において、神様への信仰という内側ではなく、建物に現れた外側を人間は見ています。本当は、エルサレム神殿の内側には「イエス様を救い主とする信仰」が立てられるべきなのに、人間は外側に現れた形の美しさや数の多さを見ています。神様と罪深い人間とは、価値観が正反対です。新約時代においては、私達信仰者が「神の神殿」です。教会でも自分一人であっても外側を飾るのではなく、その内側に主に対する信仰が立てられているかを吟味し続けられよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

8月12日の説教要旨 「神様の知恵」 平賀真理子牧師

箴言81221  ルカ福音書202026

 はじめに

私達の主イエス様は、十字架にかかる定めを前にしながらも、神の都エルサレムに果敢に入っていかれました。一方、この都で権力を持っていた「祭司長や律法学者や長老達」(以下、「反対派」)は、自分達の座を簡単に明け渡さず、イエス様に論争を挑みました。民衆に人気のあったイエス様に対し、反対派の人々は、「面白くない」という感情や、自分達の既得権益を脅かされる危機感を持ったことでしょう。

 

「エルサレム神殿での活動は、天からの権威?人からの権威?」

まず、反対派は、イエス様のエルサレム神殿での宣教活動の根拠=何からの権威をいただいて、そのようなことをしているのかを、二者択一の形で尋ねました。それに対して、イエス様は、御自分について答えても、彼らの反対する気持ちは変わらないことを見抜き、洗礼者ヨハネの洗礼の権威をお尋ねになりました。何が何でも反対という感情から離れて、御自分を救い主と証しした洗礼者ヨハネの言葉を思い出させ、彼らに悔い改めを促されたと思われます。しかし、反対派は、悔い改めるどころか、「メンツがつぶされた」と感じたことでしょう。

 

同じパターンで仕返しを謀る反対派とその「回し者たち」

恥をかかされたと考えたであろう反対派の人々は、同じ二者択一の質問で、民衆のイエス様に対する期待を失墜させようとしました。しかも、1度目の質問で懲りたのか、自分達は隠れて、「回し者」と表現される人々を派遣しました。この人々は、実のところ、神様を大事に思っておらず、そのようなふりをした人々、そして、反対派の人々に取り入り、幾らかの利益を得ようとした人々と推測できるでしょう。

反対派の人々はこの回し者たちと共に、作戦を練り、イエス様に挑んだに違いありません。実は、反対派にとって、イエス様への2度目の挑戦です。一刻も早く、自分達の前からイエス様を消したいと願い、策を弄したのでしょう。彼らは、大人数という「数」と、自分達の「知恵」を武器に、神様から派遣されたイエス様に挑みました。彼らは、神様が示してくださった真実よりも、自分達の利益や名誉が大事とする「罪」に捕らわれており、しかも、卑怯です。結局、正しい人のふりしかできず、その本質は神様から離れた「罪人」であると示されています。

 

罪に罪を重ねる反対派の人々

反対派の人々は、常日頃は、異邦人であるローマ帝国の支配を憎んでいたのですが、イエス様に対しては、ローマ帝国の支配と権力を当てにしています。自分達の欲望のためには節操を簡単に捨てています!

 

イエス様は「真理に基づいて神の道を教えておられる(21)」御方

回し者達の発言の前半部分(21節)は、実は、反対派の人々がイエス様のことを、心の奥底では理解していたと示されています。これを本心から言うならば「信仰告白」です。けれども、ここではそうではなくて、相手を気持ちよくさせて油断させるためのお世辞(罠)だったわけです。

 

「ローマ帝国に税金を納めるべきか、否か」という質問の裏の悪意

異邦人の国ローマ帝国に税金を納めるべきか、否かという二者択一を迫る質問は、どちらを答えても、イエス様を追い込むことができると反対派は予想していました。「納めるべきである」と答えれば、税金に苦しんでいた民衆が、イエス様を「救い主」として受け入れられなくなるし、また、「納めるべきでない」と答えれば、ローマ帝国から派遣されている総督に訴える口実にできると狙っていたわけです。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

イエス様の答えは、彼らの知恵をはるかに超えていました!実際に税金徴収の時に使う「デナリオン銀貨」を確認させ、皇帝の肖像と銘があるものならば、それは皇帝の所有を意味するので、皇帝に返すように言われたのです。誰もが納得する答えです。更に、この後に続く御言葉「神のものは神に返しなさい」に、反対派は、自分達の愚かさを痛感し、主の知恵が人間の知恵を越え、非の打ち所がないと悟ったのです。実は、この御言葉は、時空を超えて、私達信仰者にも語られていると言えます。時空を超えた「神様」の知恵の御言葉だからです。信仰をはじめ、神様から賜るものを想起して感謝し、お返しするよう、求められています。

8月5日の説教要旨 「『ぶどう園と農夫』のたとえ」 平賀真理子牧師

詩編80:15-20 ルカ福音書20:9-19

はじめに

私達の主イエス様の、この世での最後の一週間の出来事を読んでいます。神の都エルサレムでの出来事です。この都に居た権力者達は、イエス様に対し、反感を持っていました。彼らは、政治と宗教の両方に対して、最高権力を持つ「最高法院」の議員達です。具体的には、「祭司長や律法学者達や長老達」などです(以下、「反対派」と記す)。彼らは、イエス様に対する民衆の支持をなくそうとして、イエス様に論争を吹きかけ、失言させようと画策していったのです。

 

救い主(イエス様)と神の民(イスラエル民族)についての預言 

反対派が仕掛けた論争の最初の論争が、今日の箇所の直前の段落にある「権威についての問答」です。その論争の後に、イエス様は民衆の前で「ぶどう園と農夫」のたとえを語られました。反対派の人々もそこに居ました。彼らの多くは宗教指導者でもあり、旧約聖書の中の有名な「ぶどう園」のたとえを思い出したはずです。イザヤ書5章1-7節に記された預言です。この話の「ぶどう」とはイスラエル民族のたとえであり、このぶどうを植えたのが「わたし(ここでは「神様」)の愛する者」と書かれています。そして、結局、この「ぶどう」は良い実を実らせず、酸っぱい実しかならなかったと表現されています。神様の愛する者である御子イエス様が一生懸命宣教したにもかかわらず、イスラエル民族は「信仰の実」を実らせられなかったと、ずっと昔に預言されていたのです。イエス様は、御自分を認めないことを画策していた反対派に、御自分や御自分に託された神様の御心を悟ってくれることを願っておられたのだろうと思われます。

 

「僕」(預言者)は排除され、「愛する息子」(御子イエス様)は殺される

今回のたとえ話では、ぶどう園の持ち主の「僕」が3人出てきます。これは、イエス様以前の「預言者」達のたとえです。この話の中で「僕」は持ち主から派遣されていたにもかかわらず、そこで働く農夫達は、「僕」を追い出しています。「農夫」とたとえられたのが、ユダヤ社会の指導者達であり、かつて預言者達を排除する愚行、つまり、神様の御言葉や御心を拒否する不信仰を繰り返してきた姿をたとえています。イエス様は、反対派の人々に過去の失敗例を思い出させようとなさり、悔い改めない限り、「愛する息子が殺された」ように、彼らが御自分を殺すことになると御存じだったと思われます。その過ちの結果、イスラエル民族は、都エルサレムを滅ぼされ、国土を持たない「離散の民」とされることがイエス様には見えていて、その悲惨な将来を避けるために、イスラエル民族の指導者達に、悔い改めて、御自分を受け入れてほしいと切に願っておられたのだと思います。

 

「隅の親石」

「ぶどう園と農夫」の話に続いて、イエス様は「隅の親石」のたとえもお話しになりました。「隅の親石」は「家を建てる者の捨てた石」とも言われています。エルサレム神殿を中心とした「ユダヤ教の信仰共同体」を立てる役割のユダヤ教指導者達が「家を建てる者」とたとえられ、その人達が「捨てた石」とは、反対派が排除しようとするイエス様をたとえています。人間が不要と判断したものを、神様は重要として立てられるとされています(神様と罪の人間とは価値観が逆です)。そして、この「石」(イエス様)の威力に、人間は一たまりもなく、この「隅の親石」に反対する者は「死」しかないと言われています。ここで言われる「死」とは、医学的な死ではなく、神様から隔絶されること、神様と何の関係もないものとされるという宗教的意味の死です。これが、聖書で問題視される「死」です。

 

イエス様による「新しい救い」を受け入れることのできる恵み

反対派は、2つのたとえ話が自分達へ語られていると理解しながらも結局、受け入れず、悔い改めませんでした。更に、彼らは、神様を第一に畏れるべきなのに、それよりも人間を恐れました。これも「罪」の姿です。この「罪」も背負い、イエス様は十字架にかかられました。救い主の死が人間の罪を贖うとされるのが「新しい救い」です。反対派をはじめ、人間は、自分の力だけでは罪から解放されないのですが、神様の助けを受ける恵みを得て、イエス様を救い主と受け入れる人々は確実に増やされています。その証しとして、私達信仰者は立てられてもいるのです!

7月29日の説教要旨 「天からの権威、人からの権威」 平賀真理子牧師

出エジプト記11521 ルカ福音書2018

はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、イエス様が、この世で歩まれた最後の一週間の箇所に入りました。イエス様が神の都エルサレムに入った出来事を「エルサレム入城」、その後に、エルサレム神殿で商売人達をイエス様が追い出した出来事を「宮清め」と言います。今日は、その後に行われた、イエス様と反対派の人々との論争の箇所です。

 

エルサレム神殿を、神様の御言葉で満たしたイエス様

「宮清め」の後、つまり、エルサレム神殿で本来行われるべきでない商売を直接排除なさった後に、イエス様は、まず、中身として大事なことを行われました。それは、神様についての「本当の教え」、または、御自分の教えを信じることによる「救い」を民衆に伝えることです。エルサレム神殿を、この世の「金銭」ではなく、「神様の御言葉」で満たしていかれたのです。このことは、後の時代の信仰者の私達から見れば、なんと素晴らしいことをなさったのか!という思いにさせられますが、既に自分達に都合の権利を得ていた人々(反対派)の立場から見れば、イエス様を一刻も早く排除したいと思ったことでしょう。

 

反対派(祭司長、律法学者、長老達)からの質問とイエス様の逆質問

だから、彼らは、イエス様の言動の源について質問しました。イエス様が神殿内で教えている、その言動は、誰の許可を取って行っているのか?という問いです。そして、結局、誰からも権威をもらっていないことを明確にして、エルサレム神殿で教えさせないことをもくろんでいたと思われます。これに対して、イエス様は、逆質問する形をお取りになりました。しかも、その逆質問は、イエス様御自身の権威について直接の問いではありません。御自分ではなく、「ヨハネの洗礼」の権威についての質問でした。これに対して、反対派の人々は、「自分達の質問に答えず、逆質問する権利がどこにあるのか?」などと言わず、その質問に答えられなくて右往左往しています。イエス様からの逆質問は彼らの矛盾を深く突くものだったのです。

 

 「ヨハネの洗礼」の権威は、天から?、人から?

 ユダヤ社会においては、救い主誕生の前に、主の道を備える者(マラキ3:1)が現れると預言されていて、それが「洗礼者ヨハネ」だとルカ福音書は証しするべく、このヨハネの誕生や、彼が行った悔い改めの説教と洗礼が神様の御計画であると伝えています。「もしかして救い主では?」と期待された、このヨハネは、自分はそうではなくて、その前に主の道を備える者に過ぎないと事前に語り、イエス様が自分の所に洗礼を受けに来た時に、「この御方こそ救い主であり、神の子である」(ヨハネ1:29ー34)と証ししました。このことは当時のユダヤ社会で有名な話で、反対派の人々も知っていたはずです。だから、彼らは「洗礼者ヨハネの洗礼」は「天(神様の呼び名の別称)からの権威」と知っていたはずなのです。

 

洗礼者ヨハネも救い主イエス様も「天からの権威」

洗礼者ヨハネの洗礼が「天からの権威だ」と答えたならば、そのヨハネが「救い主」と証ししたイエス様を主と認めないのは「神様への不信仰」です。反対派の人々にとって「不信仰」とされることこそ、受け入れがたい不名誉です。だから、彼らはヨハネの洗礼を「天からの権威」とは答えられません。また、もう一つの選択肢の「人からの権威」と彼らが答えたならば、「洗礼者ヨハネ」を神様から遣わされた人物であると信じて、彼から洗礼を受けた、大勢の民衆が、指導者達は、自分達とは見解が異なると知って暴動を起こすだろう、そんなことは指導者として避けたいと考えたのでした。神様の御業を認めようともせず、民衆の評価と勢いを第一に恐れた彼らは、結局、イエス様の逆質問に答えないことを選びました。実は、この逆質問は、彼らへの悔い改めへの招きでした。この機会に、彼らはよく考えて、または、真摯に祈り求めて、イエス様を「救い主」と受け入れることもできたのです。けれども、彼らはそれを拒みました。そんな彼らに、救い主イエス様も答えを拒んだのです。

 

イエス様を「救い主」と受け入れる者達(私達)への大いなる恵み

天からの権威による「救い主イエス様」を知りながら、面と向かわない者は、結局、主の救いに与れません。一方、何の功績もない私達が、主の救いを受け入れるように導かれました。その恵みに感謝しましょう!

 

7月15日の説教要旨 「祈りの家」 平賀真理子牧師

イザヤ書56:1-8 ルカ福音書19:45-48

 はじめに

イエス様がついに神の都エルサレムに入っていく、いわゆる「エルサレム入城」直後になさったことは、エルサレム神殿に入られたことでした。この神殿は、イスラエルの民にとって大変重要な場所で、イエス様が最初にここに入られたことは、本当の「救い主」として御自分を公けにする証しとなるはずでした。

「救い主」についてのイスラエルの民とイエス様との認識の相違

「主なる神様」は人類の救いの起点として、イスラエルの民を選び、導いてこらました。それは、出エジプトの出来事やバビロン捕囚後の帰還許可の出来事として、歴史の上でも顕著に現れました。イスラエルの民は、あのダビデ王やソロモン王の時に繁栄したイスラエル王国のような国が建てられることが「救い」だと思い込み、「救い主」は国を建てる政治的力のある御方であると期待したのです。ところが、イエス様は、「救い主」の使命は、人間を「主なる神様」を第一として生きるように変えることだと御存じでした。そのために、「神の国の福音」を告げ知らせ、人々を神様へと目を向けさせたのでした。また、「神の国」の先取りとして「神様の御力」が人間に及ぶとどうなるかを知らせるために、癒しなどの奇跡を行ってこられたのでした。「救い主」は、決して政治的権力を求めて働くものではないことを示しておられました。

 

イエス様が「父の家」で見たこと=祭司長達の罪深さ

イエス様は12歳の頃、エルサレム神殿を「自分の父の家」とおっしゃったことがあります(ルカ2:49)。この神殿に祭られている「主なる神様」が送ってくださった「救い主」が「父の家」に帰還した時、それまでに管理を任されていたはずの「祭司長達」は、本来なすべき「主なる神様への祈り」ではなく、この世で権力を持つ金銭を儲ける「商売」に心を奪われ、第一のこととして考えていたのでした。彼らは、神殿税を徴収する時に手数料を必要以上にたくさん要求しましたし、また、罪を肩代わりさせるための犠牲の動物を、神殿内の祭司長一族の経営する店で高値で買わせるように仕向けて暴利をむさぼっていました。神様の名を利用して、自己の利益を図った上に、それを悪いとも思わない、なんと罪深いのでしょう。イエス様は、これは、父なる神様の御心とは全く逆だと、「主なる神様」の独り子として、明確に示す必要がありました。優しいイメージのあるイエス様も、このような不義を見過ごすことはなさいません。

 

「古い救い」から「新しい救い」へ

イエス様がエルサレム神殿で商売人達を激しく追い出されたことは、教会では「宮清め」という呼び名で有名です。祭司長達と、また、彼らと結託した商売人達の不義を明らかにして悔い改めさせるという目的以外に、もう一つ、この「宮清め」には大きな意味があります。それは、イエス様が「古い救い」を終わらせ、「新しい救いの到来」を公けにすることです。神殿を託されていた祭司長達は、結局は罪深さから解放されませんでした。そんな彼らが、民の罪を清めることなどできませんでした。神殿で祭司長が罪人の肩代わりの動物を犠牲にするという「古い救い」は、人間の罪によって実現できませんでした。そこで、罪のない「神の御子」であるイエス様の大いなる命の犠牲によって罪が赦されて神の民とされるという「新しい救い」がイエス様の救いの御業によって、実現されることになったのです。イエス様の十字架が「自分の罪の贖いである」と信じるだけで、何の功績のない私達、後の時代の信仰者までも、救いの恵みをいただけるとは、本当に感謝なことです!

 

今や、私達一人一人が「祈りの家」

私達は、自分の罪の赦しの源である「主の十字架」での受難を想起し、礼拝において、この呼び集められた礼拝堂で、感謝の祈りを より一層熱心に献げる群れとなりたいものです。聖日の礼拝だけでなく、日頃の生活でも、感謝の祈りをもっともっと献げるようになりたいものです。Ⅰコリント書3:16には「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。「新しい救い」では「私達一人一人が祈りの家」なのです!そこに不義が入り込んでいたら、聖霊によって追い出して清めていただき、救い主イエス様への感謝の祈りで満たすことができるよう、祈り求めましょう。

7月8日の説教要旨 「神の訪れてくださる時」 平賀真理子牧師

申命記32:39-43 ルカ福音書19:28-44

はじめに

イエス様と弟子達一群が、エリコの町からエルサレムに入っていく、そのことが記されているのが、今日の新約聖書の箇所です。

 

「ムナのたとえ」を踏まえた上での「エルサレム入城」

まず、最初に、直前の段落の「ムナのたとえ」をイエス様が語られてから、エルサレムに向かって出発したと、このルカ福音書は前置きしています。イエス様がお建てになる「神の国」は、ユダヤの民が期待したものとは、全く別次元のものであるということを「ムナのたとえ」を想起させつつ、主のエルサレム入城の話が進んでいきます。「ムナのたとえ」で意味されていることは、「神の国」とは、イエス様を憐れみ深い救い主として信じる者達は、主の僕としてその恵みを増やすように働く国であるし、一方、イエス様を救い主として全く受け入れる気のない者は、その恵みから完全に締め出される国であるということです。イエス様を救い主とする信仰があるか否かで分けられる国なのです。例え話にあるように、そこでは、主人が一度不在となり、僕達が恵みを増やす時間が必要です。ここで、イエス様がこの世で人間として生きて歩む「恵みの時」が近々終わることが暗示されています。人々の罪を贖うために、主は命を捨てる定めを全うせねばなりませんでした。

 

ゼカリヤ書の預言どおりのことが実現した!

30節から35節までは、ゼカリヤ書にある「救い主についての預言」が、「エルサレム入城」の時に、本当に実現したということを意味しています。子ろばの手配に選ばれた二人の弟子は、当時は、はっきりと意味がわかって行動したわけではないでしょう。イエス様に命じられたままに行動したら、そのとおりのことが次々と起こり、主の死後に「あれは預言の実現だ!」と思い至り、語り継いだのだと思います。人間には理解できないことも、神の御子であるイエス様には、神様の御計画として、御自分が「子ろばに乗る救い主」としてエルサレムに入っていくとわかっておられ、粛々と実行なさったのだと思われます。

 

 ルカ福音書における「エルサレム入城」の特徴

イエス様が救い主としてエルサレムに入られたことを、教会では「エルサレム入城」と呼び、4つの福音書全てに記されているように、重要視しています。その中でも、ルカ福音書における「エルサレム入城」では、他の福音書の記述とは異なる特徴が2つあります。一つは「弟子達の歓喜と反対派の反感が対比して書かれていること」であり、もう一つは、「結局はイエス様を受け入れなかったエルサレムが近い将来崩壊することをイエス様が預言なさっていること」です。

前者では、他の福音書とは違って、エルサレム入城について、歓喜の声・賛美の声を上げるのは「弟子の群れ」(37節)です。それを止めさせるように、イエス様に要求したのがファリサイ派の人で、彼らは、イエス様が現れる前には民衆の尊敬を受けていた宗教指導者達でした。イエス様に反感を持つ彼らは、エルサレム入城も面白くなかったでしょうし、エルサレムの人々が、主の弟子達の歓喜に影響され、イエス様への人気が燃え上がることは避けたいと思っていたのでしょう。しかし、イエス様は、「エルサレム入城」は神様の御計画の実現だから、天地全体の喜びであり、弟子達を黙らせても、石が叫び出すと表現されたのです。

後者では、ファリサイ派をはじめとする宗教指導者達と、彼らに扇動された民衆とによって、イエス様が救い主として受け入れられなかったことが原因で、エルサレムの町とその住民が滅ぼされるという事態を、イエス様は先取りしてご覧になっていたことが示されています(約40年後、エルサレムはローマ帝国により、預言どおりに徹底的に破壊されました。)。エルサレム崩壊の様子が、大変悲惨だとイエス様は予めおわかりになり、泣き叫ぶほどに悲しまれたのです。

 

「神の訪れてくださる時」をわきまえる

破滅を逃れるには「神の訪れてくださる時をわきまえる」必要があると記されています(44節)。これは時空を超える神様の法則なので、私達にも該当します。信仰者には「神の訪れてくださる時」があります。過去には「洗礼を受けたい思いが与えられた時」、現在では「礼拝を献げる時」です。その恵みを理解して感謝する信仰者となれるよう、祈りましょう。