「わたしだ。恐れることはない」  牧師 佐藤義子

/n詩編54:3-9 /nヨハネ福音書6:16-21 /nはじめに  今日の聖書箇所の前には、イエス様の話を聞きにきた大勢の群衆の為に、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人々の空腹を満たされたという奇跡の出来事が記されています。その後イエス様は、弟子達だけを先にガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムに渡らせるため、舟に乗せ、御自分は、群衆を解散させてから、祈る為に一人、山に登られました。 /n山に退かれた イエス様が山に登られたのは、奇跡を見た人々が、御自分を王にしようと捜していたので、そこから避けるためでもありました。(6:15)。群衆がイエス様を王にしようと考えたのは、イエス様の奇跡の業の中にかつてのモーセの姿を思い起こしたからでしょう。群衆は、イエス様が王になって、自分達のこの地上での幸福のために働いてほしいとの願いがありました。言い換えれば、群衆は自己目的追求の為にイエス様を利用するという思惑がありました。ですからイエス様は、それを「知り」山に退かれたのです。 /n人間の大きな誤り イエス様は、人間を罪の支配から救い出す為に神様が送って下さった方です。いいかえれば「神様からの大きな私達人間への贈り物」であり賜物です。私達はイエス様を、私達の救い主として信じ、感謝を持ってイエス様を受け入れ、このお方に従うのです。ところが群衆は、自分達の利益の為にイエス様を連れ出そうとしました。ここに主客転倒があります。 ある学者は、「群衆はイエス様を受けようとせず、自ら掴み(つかみ)取ろうとした」と表現します。「贈り物」ならば、只感謝を持ってそのまま受けると同時に、贈り主である神様の私達への愛の心を知り、その愛をいただきます。そこに人格的な愛の交流が成立します。しかし自分から手を伸ばして、その贈物を掴み取ろうとする者は、自分の利益と欲望を満足させることが目的で、贈り主に対する関心はなく、愛の交流は成立しません。しかも、自ら掴み取ろうとする者は、贈物を自分の思い通りに動かそうとしますから、もう贈り物は恵みではなくなり、自分の要求が残ります。 /n「彼らは恐れた」 一方、弟子達は向こう岸を目指してこぎ出しましたが、強い風が吹いて湖が荒れだしました。25-30スタディオンの距離(約5・6キロ)を行ったところ、舟が前に進まなくなり弟子達は苦労していました。舟に水でも入ってきたら舟が沈むのではないかと不安になります。たとえ漁師経験者がいても、いや経験者なら尚のこと強風という自然の猛威と戦うことの、人間の限界を知りつくし、恐怖も伴っていたことでしょう。 その大変なさ中に、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。「彼らは恐れ」(19節)ました。すでに暗くなっていましたから、最初は何が近づいてきたのかわからず、恐れ、おびえたのです。 /n「わたしだ。恐れることはない。」(20節) 自然の猛威に対する恐れと、何ものかが近づいてきたという恐れを吹き飛ばしたのは、イエス様の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしだ。恐れることはない</span>。」との一言でした。この一言が、それまでの弟子達の労苦・困難・思い煩いを吹き飛ばし、肩に力が入り緊張していたその状況を打ち破りました。 弟子達は大喜びでイエス様を舟にお乗せしようとしましたが、舟はまもなく目的地に到着したのでした。 日常的には弟子達は、いつもイエス様を愛し尊敬し信頼していました。しかし今日の箇所では、弟子達はイエス様が海上にいる自分達を助けに来てくれるとは考えませんでした。だからこそ近づいて来る何かを見て、おびえたのです。イエス様は、群衆からは退かれましたが、人間の魂を救うというイエス様の仕事を助けるために選び出した弟子達への愛は、片時も離れることはありませんでした。体は離れていても、弟子達が今、どこで、どのような状況の中に置かれているかはご存じでした。そして、御自分を必要としている時はどこにいようとも、来て下さり「わたしだ。恐れることはない。」と言って下さいます。 この言葉は、信じる私達に今も、同じように語りかけて下さっています。

「偽りの信仰者」    伝道師 平賀真理子

/n イザヤ書10:1-4 /n マルコ福音書12:38-40         /nはじめに  イエス様は「律法学者に気をつけなさい」(38節)と言われました。 「気をつけなさい」は、「じっと見つめてわかる」という言葉が使われています。イエス様が、律法学者をじっと見つめて観察された結果、次の五つのことを挙げられました。「長い衣(学者であることを表す)を着て歩き回りたがる」、「広場で挨拶(地位や権力や財産によって、他人がひれ伏す)されたがる」、「上座(祝い事などの宴会で、その地位の為に来賓としてもてなされたり、更には礼拝でさえも、特別席に座るよう丁寧な扱いを受ける)に座りたがる」、 「やもめの家を食い物にする(当時の男尊女卑のユダヤ社会においては、未亡人は大変弱い立場にあり、社会全体で、彼女達の暮らしを支えていた。そのようなやもめの家に入り込み、宗教上大事なことだからと、彼らは自分達の生活を肩代わりさせていた)」、「見せかけの長い祈りをする」という五つの行動です。 /n罪の性質 最初の三つは、自分の、社会的立場が上であることを見せびらかしたがる具体例と言えるでしょう。彼らは神様を忘れて思い上がり、その地位にあぐらをかいています。究極の姿が「やもめの家を食い物にする」です。又、「見せかけの祈り」とは、イエス様は人間の心を見抜く方なので彼らの祈りが本物の祈りではない(本物の信仰者ではない)ことがはっきりわかったのでしょう。これらの批判は「神の義」から見ての「怒り」といえます。しかし彼らは罪の意識もなく、社会的立場の高さにいい気になっています。その傲慢さこそ神様が最も嫌われるものであり、サタンの性質を受け継いでいるものです。宗教的なユダヤ人達の中で、更に宗教的であろうと期待される律法学者の、その罪の性質を、イエス様は悲しまれたことでしょう。 /n神の掟の根本にある「御心」 律法学者が求めたのは、「律法の一つ一つをしっかり守るために、深く解釈した上で、細かく規定する」ことでした。それは「律法」が、イスラエルの民に与えられた大切な掟だからです。 しかし、神の掟である律法を、人間の限界ある知性で細かく分析したことから、彼らの姿勢が誤った方向にいってしまったのではないかと思われます。大事にされるべきことは「神様の御心」です。最も貧弱であったイスラエルの民を、神様は選び愛されました。そこから全人類へと救いのご計画を進める為でした。そのために「律法」を授け、忠実であることを望まれたのです。律法の一つ一つが神様の愛の発露なら、それを細かく研究することは悪いことではありません。しかし神様の愛の根本は無償の愛であり、それは特に弱い者に対して、最も顕著に表れる性質を持っていることを大前提に、考えておかなくてはなりません。 /n御心を最優先に  イエス様は、神様の御心は、無償の愛から来る「人間の救い」であることを明らかにされました。(参照:ヨハネ4:34)。この世の価値観で、自分を大きく見せようとしていた律法学者達は、サタンの誘惑から逃れられず、神様の御心について考えることを忘れさせられているようです。 (神様の愛の性質から、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められます)。   律法学者を現代にあてはめるならば、牧師・伝道師・聖書学者などですが、神様の御言葉を本来良く知っているはずなのに人の目ばかり意識し、神様の前に正しく行わなかった者は、「人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(40節)とあります。しかしこの御言葉は、すべての信仰者(皆様)にも向けられています。なぜなら信仰者は、家庭・学校・職場などで、御言葉を先に聞いて知っているはずの立場にいるからです。 /n偽りの信仰者とならないために 私達は、御言葉を正しく知り、聖霊をいただけるように祈り求めることが赦されています。聖霊によって私達は、信仰に応じて神理解が与えられます。信仰に応じて神様への理解が深まっていくのであれば、日々、祈りを深め、神様に願い続けたいと思います。そして、人の目でなく、神様の目を意識した生活をするために、日々、御声を聞き、一貫してへりくだりの道を歩まれたイエス様に従って歩んでまいりましょう。

「あなたの息子は生きる」 牧師 佐藤義子

/n <span class="deco" style="font-weight:bold;">詩編37:30-40</span> /n <span class="deco" style="font-weight:bold;">ヨハネ福音書4:46-54</span>          /nはじめに ユダヤからサマリヤを通り、目的地のガリラヤに到着したイエス様一行は、ガリラヤの人達に歓迎されました。というのは、イエス様がエルサレム滞在中になさった「奇跡」を見た人達がそこにいて、イエス様の評判が、エルサレムから遠く離れたガリラヤにまで伝わっていたからです。 イエス様は、カナという町に行かれました。ここは、イエス様が最初の奇跡をされた町でもありました。イエス様が町に来られたニュースは、カナから20マイル(約32キロ)も離れたカファルナウムに住む、王の役人の耳に入りました。彼には病気の息子がいて、その病気は悪化し、絶望的な状態でした。彼は息子を助けたい一心でイエス様に会いにやってきました。 /nまちがった信仰 彼はイエス様に、カファルナウムの家に来て息子を癒してほしいと頼みました。ところがイエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない</span>。」(48節)と、厳しい言葉を返されました。 イエス様がこの世に来られたのは神様の御計画によるものでした。その目的は、私達が毎週礼拝の中で「懺悔の祈り」をささげた後に、司会者によって宣言される「罪の赦し」に表わされています。罪の赦しの宣言は、以下の御言葉です。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである</span>。」(ヨハネ福音書3:16-17)。 神様は、罪の中で生き、「死」という形で滅びるしかなかった私達人間の命を救い出して、「罪の赦し」と「永遠の命」を与えて下さるために、イエス様をこの世に遣わされました。イエス様は、その全生涯を通して目に見えない神様のことを伝え、御自分が救い主として遣わされたゆえに、神様を信じ、御自分を信じるように導かれました。しかし、イエス様のなさる「奇跡」だけを追い求めて、イエス様の語る御言葉そのものには耳を傾けず、イエス様を神の御子として受け入れない人達が沢山おりました。それゆえ、「あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。 /nあなたの息子は生きる  王の役人は、愛する息子を失うかもしれないという窮地の中で「主よ、子供が死なないうちにおいで下さい。」と訴え続けました。イエス様は彼を憐れみ、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">帰りなさい。あなたの息子は生きる</span>」と約束されました。この父親にとって、イエス様が自分と一緒に来てくれるのではなく、この「言葉だけ」を与えられたことは予想外だったことでしょう。しかしこの父親は、イエス様の言葉を信じて、息子のもとへ帰って行きました。 帰る道すがら、彼は迎えに来たしもべ達に会い、息子が危篤状態を脱したことを知りました。時間を確かめると、イエス様から「息子は生きる」との約束の言葉をいただいた丁度その時間でした。 /n信仰の変化 イエス様は、私達の目がイエス様にしっかりと向けられ、私達の心がイエス様に服従し、イエス様から離れない完全な信頼をもってイエス様にお委ねするという信頼が起こされるように奇跡の業を用いられます。 王の役人が最初にイエス様のところに来た時の信仰は、息子の病気を癒してほしいと、イエス様を「奇跡を行う方」として信じる信仰でした。ところが、あとから与えられた新しい信仰(53節:彼もその家族もこぞって信じた信仰)は、自分の利益のみを求める信仰ではなく、イエス様の中に、神様だけが与えることのお出来になる、最善で、完全なものを認める、ゆるぎのない信仰です。  この信仰は、私達の生涯の中で、どんなことが起ころうとも、たとえ、死に向かわなければならなくなったとしても、神様の恵みが私達といつも共にあるという信仰であり確信です。 イエス様は、御自分を求めてくる人々に、その要求を神様への交わりにまで高める道へと導びいてくださるお方なのです。

「分かって、信じる」 牧師 佐藤義子

/nイザヤ書45:20-25 /nヨハネ福音書4:27-42 /nはじめに イエス様が旅の途中、サマリヤの町の井戸のそばで、疲れて休んでおられた時、一人の女性が井戸の水を汲みに来ました。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く交流がなかったことや、見知らぬ男の人と女の人が話をすることは当時考えられなかったことから、普通であれば、二人の間に何か起こるということはあり得ませんでした。しかしイエス様は、水汲みに来たこのサマリヤの女性に声をかけて、「水を飲ませて下さい」と頼んだことから、二人の会話が始まります。水を頼まれた女性は驚いて、「どうして、私に頼むのですか」と聞き返します。イエス様は女性に、「あなたが私のことを知っていたら、あなたの方から私に水を求めたでしょう」と答えます。そして更に、「この井戸の水を飲む者は又、渇くけれども、私が与える水を飲む者は、決して渇かない。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われました。 /nその水を下さい  女性はイエス様の言葉を聞き、「もう水汲みに来ないでいいように、その水を下さい」と頼みました。しかし、イエス様が語られたのは、肉体の渇きを癒す水ではなく魂の渇きを癒す水のことでした。イエス様は、女性が肉体の渇きのことしか考えていないのを見て、もっと大切な、根本的なことに目を向けるように会話を導かれます。それは彼女の「今、現実」の生活に目を向けることでした。女性が、正午の暑い時を選んで水汲みに来たということは、人目を避けて来たのであり、その理由があるはずです。 イエス様は女性に、夫を呼んでくるように言われました。女性は「私には夫はいません」と答えます。実は、女性は過去に5回離婚を繰り返し、今一緒に住んでいるのは、正式な夫婦関係を結んでいない男性であることが、イエス様によって明らかにされていきます。 /n選択 女性は、家庭を築くことに失敗し、今なお、人目を避ける生活が続いていたのでしょう。イエス様は、この女性の魂の渇きに目を留められていました。そして女性が、自分の内面に目を向けて魂の渇きを自覚し、その魂に注がれるべき「命の水」を求めるようにと導かれました。 自分の過去と現在を明らかにされた女性には二つの道がありました。一つは、自己弁護と自己正当化への道(そうなるにはそれなりの理由があり、環境が悪かった、相手が悪かった)です。それは自分を守る道、自分を変えない道、イエス様を拒否してこの場から逃げる道です。 それに対してもう一つの道は、真理から目をそむけず、正直に、自分自身を見つめて悔い改める道であり、それはイエス様の前にひざまずき、イエス様に服従する道であり、イエス様から「生ける水」をいただく道です。女性は、後者を選びました。イエス様を受け入れたのです。 /n「分かって、信じる」   女性は、イエス様の言葉を聞いている内に、キリストと呼ばれる救い主が来られることを思い起こしました。そのことを伝えた時、イエス様は、御自分がキリスト(救い主)であることを明らかにされました。  女性は水がめを置いたまま町に行き、人々にイエス様のことを伝えて、直接会いに来るように呼びかけました。もはや女性は、人目を避けて生きる女性ではなく、イエス様から「生ける水」をいただいた女性となりました。多くの人々がイエス様の所にやって来て、イエス様の話を直接聞きました。そして女性に言いました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達が信じるのは、自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです</span>」。 キリスト教信仰は、自分が直接(聖書から)聞いて、分かって、信じるのです。

「永遠の命に至る水」  牧師 佐藤義子

/n詩編84:2-8 /nヨハネ福音書4:7-15          /nはじめに 週報の右上にありますように、本日の礼拝がこの伝道所において500回目に当たることを覚えて神様に感謝致します。第一回目の礼拝は、2002年12月1日でした。それから毎週日曜日、休むことなく礼拝が守られてきたことは、ただただ神様の恵みと導きによるものです。この礼拝を通して、一人でも多くの方々が神様と出会い、「永遠の命に至る水を飲む」者とされますよう祈り願いつつ、歩み続けていきたいと思います。 /nユダヤ人とサマリヤ人 今日の聖書は「イエス様とサマリヤの女」の前半部分です。イエス様は、ユダヤ地方で宣教活動をしておられましたが、ファリサイ派の人達との無用の論争を避ける為に、ユダヤを離れてガリラヤに向かわれました。 ユダヤからガリラヤに行く近道は、サマリヤを通る道でした(約三日の道のり)。しかしユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。祖先は同じイスラエル民族でありながら、王国が南北に分裂し歴史の違いもあって、北のサマリヤ人は異民族との混血がすすみ、信仰も異教徒の影響を受けて変質しました。一方、南のユダヤ人は、バビロン捕囚の生活を余儀なくされますが、混血を避け、信仰もエルサレム神殿への思いを貫き、ユダヤ人としての誇りをもって伝統を重んじ、信仰生活を歩み続けていました。ユダヤ人から見れば、サマリヤに住む人々はもう異邦人と同じで、軽蔑の対象でもあり口を聞くことはありませんでした。旅の時も、ユダヤ人はサマリヤを避けて、ヨルダン川を渡る迂回路(二倍かかる)を選ぶことも多かったようです。しかしイエス様と弟子達は、シカルというサマリヤの町に入られました。 /nサマリヤ人の女性 イエス様は旅に疲れて、昔、族長ヤコブが掘ったという井戸の傍に座られました。時は暑いお昼、弟子達は食料を買いに出かけていました。そこにサマリヤ人の女性が井戸の水を汲みにやって来ました。ここで聖書は私達に驚くべき出来事を伝えます。 イエス様がサマリヤ人の女性に声をかけた、しかも「水を飲ませて下さい」と頼んだという出来事です。当時おおやけでの男女間の会話も、ましてユダヤ人とサマリヤ人との会話もあり得ないことでした。女性は、相手が自分達を嫌い、軽蔑しているユダヤ人の男性と見て驚き「どうして私に頼むのですか」と聞き返します。女性は、目の前の水を求める旅人の、のどの渇きに目を向けず、これまでの民族間の敵対関係に目を向けて、「なぜ?」と聞き返しているのです。この女性の応答の中に、私達は人間の持つ「罪」を見ます。イエス様はご自分の疲れやのどの渇きを優先させず、この女性の「魂の渇き」を見抜かれて、女性をその渇きから救うことを優先されました。   /n永遠の命に至る水 イエス様は女性に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の賜物のことを知っていたら</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが、私が誰であるか知っていたら</span>」(10節)、<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの方から私に水を下さいというでしょう</span>」と言われました。「神の賜物」も「私」も、イエス様のことです。誰でもイエス様を知るならば、私達の方からイエス様に願い出て、「水を下さい」と頼むようになります。なぜなら、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。</span>」(14節)からです。 しかし、イエス様から水をいただく前に、私達は、先ず、自分自身のことを知らなければなりません。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である</span>」(ルカ5:31)からです。自分の心・精神・生き方には問題はないと自負する人は、自分の魂の渇きに気付かない人です。しかし自分自身の中に欠けている部分を見出し、自分の魂に満ち足りた思いがないことを知る者は、その欠けた部分を満たして下さるお方がいると知れば、喜んでその方のもとにやって来るでしょう。イエス様は、サマリヤの女性が人目をさけて、炎天下に水を汲みに来なければならない現実を明らかにされていかれます。 聖書は、イエス様こそ魂の飢え渇きを癒して下さるお方であると宣言します。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。</span>」(ヨハネ7:37) /n詩編84:2-8 /nヨハネ福音書4:7-15          /nはじめに 週報の右上にありますように、本日の礼拝がこの伝道所において500回目に当たることを覚えて神様に感謝致します。第一回目の礼拝は、2002年12月1日でした。それから毎週日曜日、休むことなく礼拝が守られてきたことは、ただただ神様の恵みと導きによるものです。この礼拝を通して、一人でも多くの方々が神様と出会い、「永遠の命に至る水を飲む」者とされますよう祈り願いつつ、歩み続けていきたいと思います。 /nユダヤ人とサマリヤ人 今日の聖書は「イエス様とサマリヤの女」の前半部分です。イエス様は、ユダヤ地方で宣教活動をしておられましたが、ファリサイ派の人達との無用の論争を避ける為に、ユダヤを離れてガリラヤに向かわれました。 ユダヤからガリラヤに行く近道は、サマリヤを通る道でした(約三日の道のり)。しかしユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。祖先は同じイスラエル民族でありながら、王国が南北に分裂し歴史の違いもあって、北のサマリヤ人は異民族との混血がすすみ、信仰も異教徒の影響を受けて変質しました。一方、南のユダヤ人は、バビロン捕囚の生活を余儀なくされますが、混血を避け、信仰もエルサレム神殿への思いを貫き、ユダヤ人としての誇りをもって伝統を重んじ、信仰生活を歩み続けていました。ユダヤ人から見れば、サマリヤに住む人々はもう異邦人と同じで、軽蔑の対象でもあり口を聞くことはありませんでした。旅の時も、ユダヤ人はサマリヤを避けて、ヨルダン川を渡る迂回路(二倍かかる)を選ぶことも多かったようです。しかしイエス様と弟子達は、シカルというサマリヤの町に入られました。 /nサマリヤ人の女性 イエス様は旅に疲れて、昔、族長ヤコブが掘ったという井戸の傍に座られました。時は暑いお昼、弟子達は食料を買いに出かけていました。そこにサマリヤ人の女性が井戸の水を汲みにやって来ました。ここで聖書は私達に驚くべき出来事を伝えます。 イエス様がサマリヤ人の女性に声をかけた、しかも「水を飲ませて下さい」と頼んだという出来事です。当時おおやけでの男女間の会話も、ましてユダヤ人とサマリヤ人との会話もあり得ないことでした。女性は、相手が自分達を嫌い、軽蔑しているユダヤ人の男性と見て驚き「どうして私に頼むのですか」と聞き返します。女性は、目の前の水を求める旅人の、のどの渇きに目を向けず、これまでの民族間の敵対関係に目を向けて、「なぜ?」と聞き返しているのです。この女性の応答の中に、私達は人間の持つ「罪」を見ます。イエス様はご自分の疲れやのどの渇きを優先させず、この女性の「魂の渇き」を見抜かれて、女性をその渇きから救うことを優先されました。   /n永遠の命に至る水 イエス様は女性に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の賜物のことを知っていたら</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが、私が誰であるか知っていたら</span>」(10節)、<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの方から私に水を下さいというでしょう</span>」と言われました。「神の賜物」も「私」も、イエス様のことです。誰でもイエス様を知るならば、私達の方からイエス様に願い出て、「水を下さい」と頼むようになります。なぜなら、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。</span>」(14節)からです。 しかし、イエス様から水をいただく前に、私達は、先ず、自分自身のことを知らなければなりません。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である</span>」(ルカ5:31)からです。自分の心・精神・生き方には問題はないと自負する人は、自分の魂の渇きに気付かない人です。しかし自分自身の中に欠けている部分を見出し、自分の魂に満ち足りた思いがないことを知る者は、その欠けた部分を満たして下さるお方がいると知れば、喜んでその方のもとにやって来るでしょう。イエス様は、サマリヤの女性が人目をさけて、炎天下に水を汲みに来なければならない現実を明らかにされていかれます。 聖書は、イエス様こそ魂の飢え渇きを癒して下さるお方であると宣言します。   「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。</span>」(ヨハネ7:37)

「メシアについての問答」   伝道師 平賀真理子

/n詩編110:1-7 /nマルコ福音書12:35-37 /nはじめに  今日の聖書箇所直前で、イエス様は、律法学者から質問を受けて、最も重要な掟「主なる神様を全身全霊で愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること」について教えられています。「神様の愛」は、愚かで弱い私達人間が神様からの愛に答えられなくても、それにもかかわらず愛して下さるというものでした。 相手の反応に左右されるのではなく、本気で「愛したい」という意志に貫かれた、主体的で永続的であると言うこともできます。 又、神様の愛は、相手にも主体性を与えようとされます。親が子供に良い教育を受けさせようとしても、子供は親の愛の意味がわからず、勉強させられるとの重荷ばかり感じて逃れようとしますが、自分でそれをしなければならなくなった時、初めて人生や学びに対して主体的になるように、神様は私達が主体的に行動することを求めておられます。 /nイエス様への誤解 イエス様に質問した律法学者は、イエス様の言われることを良く理解したので、その知識においてイエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは神の国から遠くない</span>」(34節)と言われました。が、彼は、「あなたは神の国に入る」とは言われていません。おそらく彼は、イエス様を信じて従う道を選ばなかったと思われます。この世の権威と結びつきやすい学問の世界では、「救い主はダビデ王の子孫から・・」と信じられており(サムエル記下7:12-参照)、職人階級出身(大工の息子)のイエス様とメシアは結び付かなかったのでしょう。 /nメシアの預言  イエス様は、学者達が重要視しているダビデを引き合いに出しながら、「詩編110編」を引用されました。神の霊を受けて書かれたこのダビデの賛歌は、「三位(父・子・聖霊)一体の神」を証ししています。36節の最初の「主」は「父なる神」を指し、「わたしの主」と言い表されている方は、(ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」)「救い主・神の御子イエス様」のことを指しています。 110編は、イエス様が十字架の受難に従順に従われたので、悪に打ち勝ったことによる栄光として、復活後、父なる神のおられる天に戻られたことの預言です。父なる神様は、御子イエス様を愛し、来るべき日に、サタンを完全に屈服させ、この世界を、御自分の支配下に置かれます。 /nメシアの働き   ユダヤ教の有力者達は「メシアは、ローマの支配下で虐げられている自分達を解放し、ユダヤ人国家を作る政治的な王」と考えていました。しかしイエス様が説く「メシア」は、先ず「霊的な救い」を成し遂げる役割でした。サタンの支配下に陥っている人間の苦しみや悲惨さから人間を霊的に救うことが第一の任務でした。  イエス様は、ダビデがメシアに、霊的な面で「わが主」と呼んで敬意を払っていることを指摘されます。律法学者達の「メシアはダビデの子孫であるべき」ことは二の次です。イエス様が詩編を引用されたのは、聖霊によって、霊である神様の本質やその御心を知り、従う者こそが「メシア」であり、それが「御自分である」ことを示すためでした。   イエス様をメシアとして受け入れない学者達と違い、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾け」(37節)ました。群衆は、イエス様の御言葉を、サタンに邪魔されずに受け入れることができたのでしょう。 /n私達の生きる道  私達は今日の聖書を他人事として聞くならば、それこそサタンの思う壷です。 サタンは、人間を、この世の出来事や自分の利益のことで頭を一杯にさせて神様を忘れるように仕向け、自分の罪を認めることから遠ざけ、又、自分と同じ罪に他人を引きずりこむような罪へと誘導します。   私達は、イエス様の招きに応える者として導かれています。それによって父なる神様につながることを赦されています。そのことは 私達に大いなる平安をもたらしてくれます。又、イエス様に願えば、助け主としての聖霊が私達を助けてくれます。私達は、神様の下での永遠の救いに与っています。その救いを、御自分の犠牲によって勝ち取ってくださったイエス様に感謝しつつ、歩んでいきましょう。 先週(6月17日)の礼拝説教要旨 詩編110:1-7・マルコ福音書12:35-37 「メシアについての問答」伝道師 平賀真理子 *はじめに  今日の聖書箇所直前で、イエス様は、律法学者から質問を受けて、最も重要な掟「主なる神様を全身全霊で愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること」について教えられています。「神様の愛」は、愚かで弱い私達人間が神様からの愛に答えられなくても、それにもかかわらず愛して下さるというものでした。相手の反応に左右されるのではなく、本気で「愛したい」という意志に貫かれた、主体的で永続的であると言うこともできます。又、神様の愛は、相手にも主体性を与えようとされます。親が子供に良い教育を受けさせようとしても、子供は親の愛の意味がわからず、勉強させられるとの重荷ばかり感じて逃れようとしますが、自分でそれを しなければならなくなった時、初めて人生や学びに対して主体的になるように、神様は私達が主体的に行動することを求めておられます。 *イエス様への誤解 イエス様に質問した律法学者は、イエス様の言われることを良く理解したので、その知識においてイエス様は「あなたは神の国から遠くない」(34節)と言われました。が、彼は、「あなたは神の国に入る」とは言われていません。おそらく彼は、イエス様を信じて従う道を選ばなかったと思われます。この世の権威と結びつきやすい学問の世界では、「救い主はダビデ王の子孫から・・」と信じられており(サムエル記下7:12-参照)、職人階級出身(大工の息子)のイエス様とメシアは結び付かなかったのでしょう。 *メシアの預言  イエス様は、学者達が重要視しているダビデを引き合いに出しながら、 「詩編110編」を引用されました。神の霊を受けて書かれたこのダビデの賛歌は、「三位(父・子・聖霊)一体の神」を証ししています。36節の最初の「主」は「父なる神」を指し、「わたしの主」と言い表されている方は、(ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」)「救い主・神の御子イエス様」のことを指しています。 110編は、イエス様が十字架の受難に従順に従われたので、悪に打ち  勝ったことによる栄光として、復活後、父なる神のおられる天に戻られ   たことの預言です。父なる神様は、御子イエス様を愛し、来るべき日に、 サタンを完全に屈服させ、この世界を、御自分の支配下に置かれます。  *メシアの働き   ユダヤ教の有力者達は「メシアは、ローマの支配下で虐げられている自分達を解放し、ユダヤ人国家を作る政治的な王」と考えていました。しかしイエス様が説く「メシア」は、先ず「霊的な救い」を成し遂げる役割でした。サタンの支配下に陥っている人間の苦しみや悲惨さから 人間を霊的に救うことが第一の任務でした。  イエス様は、ダビデがメシアに、霊的な面で「わが主」と呼んで敬意を払っていることを指摘されます。律法学者達の「メシアはダビデの子孫であるべき」ことは二の次です。イエス様が詩編を引用されたのは、聖霊によって、霊である神様の本質やその御心を知り、従う者こそが「メシア」であり、それが「御自分である」ことを示すためでした。   イエス様をメシアとして受け入れない学者達と違い、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾け」(37節)ました。群衆は、イエス様の御言葉を、サタンに邪魔されずに受け入れることができたのでしょう。  *私達の生きる道 私達は今日の聖書を他人事として聞くならば、それこそサタンの思う壷です。人間を、この世の出来事や自分の利益のことで頭を一杯にさせて、神様を忘れるように仕向け、自分の罪を認めることから遠ざけ、又、自分と同じ罪に他人を引きずりこむような罪が、私達の日常生活に潜んでいないでしょうか? 私達は、イエス様の招きに応える者として導かれています。それによって父なる神様につながることを赦されています。そのことは私達に大いなる平安をもたらしてくれます。又、イエス様に願えば、助け主としての聖霊が私達を助けてくれます。私達は、神様の下での永遠の救いに与っています。その救いを、御自分の犠牲によって勝ち取ってくださったイエス様に感謝しつつ、歩んでいきましょう。 /n詩編110:1-7 /nマルコ福音書12:35-37 *はじめに  今日の聖書箇所直前で、イエス様は、律法学者から質問を受けて、最も重要な掟「主なる神様を全身全霊で愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること」について教えられています。「神様の愛」は、愚かで弱い私達人間が神様からの愛に答えられなくても、それにもかかわらず愛して下さるというものでした。相手の反応に左右されるのではなく、本気で「愛したい」という意志に貫かれた、主体的で永続的であると言うこともできます。又、神様の愛は、相手にも主体性を与えようとされます。親が子供に良い教育を受けさせようとしても、子供は親の愛の意味がわからず、勉強させられるとの重荷ばかり感じて逃れようとしますが、自分でそれを しなければならなくなった時、初めて人生や学びに対して主体的になるように、神様は私達が主体的に行動することを求めておられます。 *イエス様への誤解 イエス様に質問した律法学者は、イエス様の言われることを良く理解したので、その知識においてイエス様は「あなたは神の国から遠くない」(34節)と言われました。が、彼は、「あなたは神の国に入る」とは言われていません。おそらく彼は、イエス様を信じて従う道を選ばなかったと思われます。この世の権威と結びつきやすい学問の世界では、「救い主はダビデ王の子孫から・・」と信じられており(サムエル記下7:12-参照)、職人階級出身(大工の息子)のイエス様とメシアは結び付かなかったのでしょう。 *メシアの預言  イエス様は、学者達が重要視しているダビデを引き合いに出しながら、 「詩編110編」を引用されました。神の霊を受けて書かれたこのダビデの賛歌は、「三位(父・子・聖霊)一体の神」を証ししています。36節の最初の「主」は「父なる神」を指し、「わたしの主」と言い表されている方は、(ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」)「救い主・神の御子イエス様」のことを指しています。 110編は、イエス様が十字架の受難に従順に従われたので、悪に打ち  勝ったことによる栄光として、復活後、父なる神のおられる天に戻られ   たことの預言です。父なる神様は、御子イエス様を愛し、来るべき日に、 サタンを完全に屈服させ、この世界を、御自分の支配下に置かれます。  *メシアの働き   ユダヤ教の有力者達は「メシアは、ローマの支配下で虐げられている自分達を解放し、ユダヤ人国家を作る政治的な王」と考えていました。しかしイエス様が説く「メシア」は、先ず「霊的な救い」を成し遂げる役割でした。サタンの支配下に陥っている人間の苦しみや悲惨さから 人間を霊的に救うことが第一の任務でした。  イエス様は、ダビデがメシアに、霊的な面で「わが主」と呼んで敬意を払っていることを指摘されます。律法学者達の「メシアはダビデの子孫であるべき」ことは二の次です。イエス様が詩編を引用されたのは、聖霊によって、霊である神様の本質やその御心を知り、従う者こそが「メシア」であり、それが「御自分である」ことを示すためでした。   イエス様をメシアとして受け入れない学者達と違い、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾け」(37節)ました。群衆は、イエス様の御言葉を、サタンに邪魔されずに受け入れることができたのでしょう。  *私達の生きる道 私達は今日の聖書を他人事として聞くならば、それこそサタンの思う壷です。人間を、この世の出来事や自分の利益のことで頭を一杯にさせて、神様を忘れるように仕向け、自分の罪を認めることから遠ざけ、又、自分と同じ罪に他人を引きずりこむような罪が、私達の日常生活に潜んでいないでしょうか? 私達は、イエス様の招きに応える者として導かれています。それによって父なる神様につながることを赦されています。そのことは私達に大いなる平安をもたらしてくれます。又、イエス様に願えば、助け主としての聖霊が私達を助けてくれます。私達は、神様の下での永遠の救いに与っています。その救いを、御自分の犠牲によって勝ち取ってくださったイエス様に感謝しつつ、歩んでいきましょう。

「いかに幸いなことか」  佐々木哲夫先生(東北学院大学)

  (伝道所開設8周年記念感謝礼拝) /n詩編1:1-6   /nマタイ福音書 5:1-12   /nはじめに  詩編は150の詩から成り立っています。150もありますから、内容も様々です。たとえば困難な状況に置かれた詩人が、その状況を神に嘆き訴える詩、信仰の確信を表明したり、神を賛美したりする詩、又心の底から絞り出す願いを神に叫び求める詩など幅広い内容となっています。そのような150の詩編の冒頭に置かれたのが今日の詩編、第一篇です。いうなれば、詩編全体の序文と評されているものです。たとえば宗教改革者のジャン・カルヴァンは、詩編注解の中で次のように記しています。「この詩編を、全巻の冒頭に序詞として置いたのは、すべての信仰者に、神の律法を瞑想する義務を思い起こす為であった。」さらに続けて、「天来の知恵に心を傾ける者は幸福となり、反対に神をあなどる者は、たとえ暫くの間、自らを幸福な者と考えるとしても、ついには、はなはだしい不幸に陥るだろう。」  私達も今朝、この詩編第一編に心を傾けたいと思います。 /n二種類の人間 詩編一篇を概観してみますと二種類の人間・・神に従う者と神に逆らう者、その両極端の人間が対照的に描かれていることに気が付きます。 最初に、神に従う者が描かれています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人</span>。」(1節-2節)と記されていますが、逆説的にこの表現は、神に逆らう者の姿をも表わしています。すなわち、神に逆らう者とは、「計る者」「罪ある者」「傲慢な者」のことです。最初の「計らう者」とは、神に対して悪意、又は邪悪さをもってことを企てる者のことです。「罪ある者」とは、的(まと)から外れて生きている者、「神」という目標から外れて生きている者のことです。「傲慢な者」とは、「あざける者」のことです(詩編119編参照「傲慢な者は、私を、はなはだしく見下しますが・・」)。「傲慢な者」は、神の教えを放棄して、裁きなど恐れず、あざける者の姿を表現しています。悪意ある計画を計り、神から外れて歩んで、神をあざける。そういう混然一体となって「神に逆らう者」の姿を浮き彫りにしています。 他方、神に従う者はそうではない。そういう生き方とは一線を画します。一線を画すだけでは無くて、むしろ主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむというのです。この第一篇はそのような、神に従う者と神に逆らう者の生き方の違いだけではなくて、その生き方が招く「結果」にも言及しています。 /n生き方が招く結果 神に従う者の結果は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす</span>。」(3節)というのです。対照的に、神に逆らう者の生き方の結果は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに耐えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない</span>。」(4節-5節)と記されています。カルヴァンの表現を借りるなら、「悪しき者が眠りから覚める時、正しい者の集いに加えられていないことに気付かざるをえないだろう。困難な時代にあっても常に神がこの世のことがらを統べ治め、混乱から秩序を造りだされるということを考えようではないか。」と説明されます。ここで印象深い表現は、「表面は立派なものだが風が吹けば飛ばされてしまうもみ殻のようだ」と、「もみ殻」という言葉を使っています。 /nマタイ福音書では 新約聖書では、マタイ福音書5章で、神に従う者の姿がくわしく描写されています。神に従う人は、「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者」、そういう者達であり、そういう者達が受ける結果は「天の国、慰め、地を受け継ぐ、満たされる、憐れみを受ける、神を見る」です。特に最後の「神を見る」という描写は、かなり衝撃的です。といいますのは、旧約聖書で、神は燃え尽きない柴の中から「モーセよ、モーセよ」と呼んだ場面が描かれていますが、呼ばれた時にモーセは、神を見ることを恐れて顔を覆ったと伝えられているからです。モーセは、神から呼ばれているにもかかわらず、なぜ神の顔を見ることを恐れたのか。それは、あまりにも神は清い存在であるので、その清い存在である神を見るならば、汚れている人間はその汚れのゆえに、あまりにも自らの汚れがはっきりと示されるがゆえに滅びてしまうと恐れたからであります。旧約聖書では、神を見るというのは特別なことでありました。 まさに「神を見る」そのことは、心の清い者だけに許されていることです。マタイ福音書において、「神に逆らう者」とは迫害する者のことです。そして、11節-12節には次のようにまとめられています。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 /n私達は今日の聖書から何を聞くか このように旧約聖書においても、新約聖書においても、神に従う者と、神に逆らう者の姿は対照的な姿として描かれており、そしてその生き方の招く結果が描かれています。そのような聖書の箇所を、今日の私達はどのように読むか、どのような意味を聖書は今日の私達に与えてくれるのか、ということです。私達はこのような聖書の箇所を読んで、何を教えてくれるのか、ということです。 さまざまなことが教えられることですが、その内の一つを私達は教えられたいと思うのです。それは、私達は「日常をどう生きるか」ということです。さきほど旧約聖書と新約聖書を見ました。特に旧約聖書の、詩編の第一篇の詩人の課題は、「悪意ある計画を計る者、神から外れて歩む者、神をあざ笑う者達と共なる生き方、そういう日常をどう生きるか、ということが問題であったと思われます。マタイ福音書の課題は、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることが少なからず起きた日常において、自分達はどう生きるかとういうことが問題であったのでありましょう。詩編の注解を記したカルヴァンの課題は、宗教改革に反対する者達の意見や迫害にさらされるそんな日常に、教会の徳を高めるために、どう生きたら良いかということでありました。 いずれの時代においても、日常における信仰者の葛藤が描かれているのです。 /n私達の日常 では、私達にとっては日常とはどのようなものでしょうか。私達の日常とは、灰色の、平凡でつまらなくて、そういうことの繰り返しである・・そんなことなのでしょうか。そうではないと考えます。 信仰者の日常は、そうではなく、「主の教えを愛し、その教えを夜も昼も口ずさむ。そして流れのほとりに植えられた木のように実を結ぶ。モーセにも増して神を見る」、そのような豊かな日常に生かされているということではないでしょうか。特に、先の東日本大震災で亡くなった多くの犠牲者達のことを思う時に、彼らが望んでも生きることの出来ない日常に私達は「今」、生かされているということに特別に留意したいと思うのです。すなわち私達にとっての課題は、「今」という、この生かされている日に、いかに生きるべきか、ということです。私達は、ある意味では神に逆らう者と共に生きている。それが日常です。 /n「永遠」と出会っている世界の日常を生きる しかしこの日常の中で、かろうじて永遠をみつめながら生きているというものではありません。そうではなくて、「永遠」とすでに出会っている世界、そして日常を生きているということです。そのことを自覚したいと思うのです。私達がこの世界で造り出すこと、体験すること、苦悩すること、そういう様々なことは、日常に埋没して消え去ってしまうというのものではなく、むしろ永遠に向かって造り出し、体験し、苦悩しているということです。 永遠に連なっている今を生きている、ということです。それが、今、この時代に生きるキリスト者の責任です。すなわち詩編やマタイ福音書の言葉は、今日の私達の信仰者に語りかけられている神の言葉なのです。 ところで、永遠がすでにこの私達の日常と出会っている、この日常に私達は生きていると申しましたが、それは抽象的な概念ではないのです。 歴史の中の具体的な出来事、すなわち、主イエス・キリストがこの世界に到来したという出来事に裏打ちされている表現です。主イエス・キリストを見る時、私達はまさに「神を見る者」とされるのです。 特に本日、この礼拝は、仙台南伝道所の開設の記念の礼拝です。 まことの創立者であるイエス・キリストを見つめる。特に、イエス・キリストの十字架の出来事を想起する。そういうことによって私達の日常は「いかに幸いなことか」と、呼び得るほどに確かなものとされるということを覚えたいと思います。 「いかに幸いなことか」と、旧約聖書の詩人や新約聖書の記者達は記した、その「いかに幸いなことか」と呼び得る「幸いな日常」をしっかりと歩む者とされたい。それが今日の聖書の箇所から私達に語りかけている言葉であるということを覚えたいと思います。

「愛しているならば、掟を守る」  牧師 佐藤義子

/nエレミヤ書31:31 /nヨハネ14:8-17       /nはじめに   今日の聖書はイエス様が十字架にかかられる前に、弟子達に語った訣別の説教ともいわれる箇所の一部です。弟子達はイエス様が十字架の苦難と死を予告していましたので、とても不安になっていました。イエス様が弟子達に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神を信じ、私を信じなさい</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は父の所に帰るが、あなた達はその道を知っている</span>」と語られた言葉に対して、トマスは「わからない」と答えます。弟子でも、この時点では神様のおられる天への道を理解することは出来ていなかったのです。  イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は道であり、真理であり、命である</span>」と言われ、イエス様を信じることが、「神様につながる唯一の道」であると教えられました。 /n「私を見た者は、父を見たのだ。」   するとフィリポが「父をお示しください」と言い出しました。「神を見たい。神がいるというなら見せてくれ。そうすれば信じる」と、この世の人々は言いますが、イエス様と寝食を共にしたフィリポが言ったのですから、イエス様の失望は9節の言葉で想像できます。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。<span class="deco" style="font-weight:bold;">私を見た者は父を見たのだ。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。</span>」 /n神は霊である。  風は目に見えませんが、木の葉がゆれれば私達は風が吹いていることがわかるように、霊も同じで、目に見えませんが存在します。霊である神様は私達人間に神様を示す為に、イエス・キリストをこの地上に送って下さいました。神様が愛の方であることを私達はイエス様を通して知ることが出来、神様が正義のお方であることも、聖なるお方(清いお方)であることも、私達はイエス様を通して知ることが出来ます。私達が、神様に出会いたいならばその方法は一つ。イエス様に出会うことです。 /n聖霊の働き  私達は地上で、肉眼で、イエス様とお会いすることは出来ません。しかし、聖書を通して知ることが出来ます。私達は、神様から送られるキリストの霊である「聖霊」の働きをいただく時、イエス様を信じることが出来、イエス様を通して神様を知り、神様に出会うことが出来ます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">愛しているならば、私の掟を守る</span>」  「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい</span>。」(13:34)と言われたイエス様は、「あなた方は、私を愛しているならば、わたしの掟を守る」(14:15)とも言われました。又、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す</span>。」(21節)と言われています。  そもそも弟子達同士は、お互いに関係があったわけではありません。彼らの唯一共通していたことは、イエス様御自身の愛で、愛されたことでした。イエス様は地上を去るにあたり、イエス様が弟子達を愛されたその愛で「互いに愛し合う」という、この「掟」を与えていかれました。  生まれながらの私達は、無条件に愛し合うことは困難です。しかし、真理の霊である「聖霊」の働きが伴う時、私達は、私達を愛して下さるイエス様の愛で、互いに愛し合うことが出来る道へと導かれていきます。 私達はイエス様を愛しています。イエス様が下さった掟も守る者となりたいです。そのために私達は、イエス様から愛されていることを更に深く知り、このイエス様の愛をいただけるよう祈り求めていきましょう。

「聖霊の力」  マーチー・デイビット先生(東北学院大学

/nコロサイ書3:1-17         /nはじめに  「クリスチャンである」ということの、多くの喜びの中の一つの、大変楽しいことは、「音楽や聖書を読むことを通して神様を礼拝出来る」ことだと思います。私達は一緒に歌い賛美する中で、私達を造り、イエス・キリストによって永遠の命を与えて下さった神様と一つになることが出来ます。 使徒パウロが、コロサイの教会に手紙を書いた時には、こういう考えがあったと思います。15節から17節までをもう一度読みます。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭しあい、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」</span> /n音楽の力 私は子供の頃から音楽をやっています。他の人達と同じように、強く、音楽の影響を受けたことに驚いています。音楽は霊感を与えることが出来ます。笑わせることも出来ます。悲しかったり怒ったり、がっかりしている時、なだめてくれることも出来ます。どうしてこんなに音楽に影響されてきたのか、はっきりわかりませんが、これは本当のことです。しかも、ある特定の曲を聞いた後では、私の人に対する態度や、世界に対する見方が大変改良されました。私達は音楽の力で、私達の置かれた状況を超越することも出来ます。神様からいただいた全ての賜物を楽しむように言われた生活に参加することも出来ます。このような音楽の力は、人間であることの一つの偉大な素晴らしい真理だと思います。 /nゴスペルソング   何年か前、アメリカの話です。会社のある若い幹部が、サンフランシスコの近くの、62メートル位のがけの端で、自分の車を止めました。彼は、Bill Mansdorferさんと言います。彼は自殺するつもりでした。けれども初めは、近くの家で自殺する理由を手紙に書きたかったのです。自分の生活や、いろいろな失敗で悲観してしまったこの人は、自殺の理由を手紙に書き始めました。手紙を書いている内に、衝動的にラジオをつけました。するとラジオからゴスペルソングを歌う女の人の声が聞こえました。 (ゴスペルソングとは、自分の心の気持を表現する歌です)。彼は、そのような、ゴスペルソングを聞きました。これは思いがけないことでした。 「神様はあなたの心の痛みがわかっている。 苦しみの強さをよくわかっている。 暗い闇にいる時は神様に信頼しなさい。 無駄ではない。 神様は、あなたの悲しみが分かっている。 流している涙を見ている。 あなたのそばにいてささやいている。 『よろめくな。心配するな』と。   /n音楽の力と助け主である聖霊 その歌を聞いた途端、Bill Mansdorferさんの人生は変わってしまいました。神様の方が、自分の心と生活を、自分より良く分かっているということにやっと気が付くようになったのです。神様は私達の生活状態が良い時でも悪くなった時でも、私達を進んで喜んで助けて下さることが良くわかるようになったので、彼は自殺の計画をただちにやめてしまいました。神様の恵みによって、彼はゴスペルソングから、人生の新しい希望と意志をいただきました。 音楽が私達に影響を与えるのと同じように、聖霊も私達に影響を与えます。たとえ音楽がどんなに素晴らしくても、神様の聖霊の力と比較すると、音楽はそんなに強くはないのです。音楽が私達を支える力には限りがあります。そして又、音楽は勝手にならないこともあります。私達がしたくないこと、しなくても良いことをさせるために、音楽はよく使われます。例えば音楽を使った広告は、私達のいらない物や欲しくない物を買わせようとします。又、軍隊の指導者は、戦わなくてもよい戦いを、熱狂的に戦わせる為に音楽を使います。 しかし神様の聖霊は違います。そのように人をだましたことがありません。私達はいつも聖霊を信頼することが出来ます。聖霊は、私達が神様と一つとなって生活出来るように導いて下さることを確信できます。イエス・キリストは、聖霊のことを「助け主」といわれました。そしてイエス・キリストを信じれば、その信仰を通して、私達はこの「助け主」から「愛」、「喜びもある、終らない人生」、又、「生きている神様と交わることが出来る人生」を、いただけます。 /n信仰は神の贈り物 信仰について驚くべきことの一つは、信仰を通して受け入れる「救い」と「永遠の命」と同じように、この「信仰」も、神からの贈り物であるということです。神が無償で提供して下さった「救い」の評価を理解しようとしても、我々の能力は、罪ある人としての利己的な生活や罪深い知力のために、大いに妨げられています。そのため神は、我々が信じることが出来るように、我々を助ける聖霊を備えて下さったのです。従って、真の意味において、我々の信仰すらも神の贈り物です。 /n霊の変貌 神の、約束された救いの福音(神の良い知らせ)を聞き、罪の赦しの必要を心から認める時、我々の霊性は、神の聖霊の働きによって、神からの新しい生命を受け、変貌しうるのです。聖書は、「造り変えられ」(ロマ12)「生まれ変わる」、また、「新しい創造」と表現しています。 「生まれ変わる」は我々の命の中に働く神の聖霊のわざです。ヨハネ福音書3章3節で、イエスは、ユダヤ人達の議員であるニコデモとの会話の中でこう言っています。<span class="deco" style="font-weight:bold;">「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることは出来ない」</span>。(口語訳))   パウロは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである</span>」(第2コリント5:17)と言っています。 神の国に入るということは(イエスはしばしば話しました)、私達の内に働く神の聖霊の働きによってもたらされる「霊の変貌」を受け取ることにすぎないのです。しかも実にイエス・キリストを信じる信仰によって、この「霊の変貌」は起こるのです。私達がイエス・キリストを信じた時に起こる「霊の変貌」を理解することはむつかしいです。なぜならそれは、「霊」の「変貌」だからです。科学的に評価しうるような事柄ではありません。なぜならそれは、我々自身の中から発してくるものではないからです。それは我々の外から、我々の創り主でもある超越の存在である神から我々に及んでくるものです。しかし、私達には完全にそのことが理解出来なくても、キリストを信じる者は、この「変貌」が現実であることを知るのです。 /n「霊の変貌」は、「新生」の始まり この内なる「霊の変貌」が、「新生」の始まりであり、信じる者の人生の前途(展望)は変わっていくのです。以前は、自己中心にあやつられ、いろいろな破壊的衝動に駆られていましたが、キリストと神の聖霊の働きを信じることによって、その人の感情は、我々を愛して下さる「神の方に」、又、「他の人々の方に」向かうようになっていきます。又、以前私達は、この世界の中に、自分だけの安全を構築しようと空しい努力を続けていたのが、私達がキリストを信じ、神との新しい交わりに入ることによって、今や私達の現在および未来の安全は、完全に打ち建てられるのです。 私達はもはや古い迷信や、偶像礼拝や数々の罪深い衝動などに縛られはしないのです。それより私達には新しい自由があるから、神が造ったこの世界で、神に結びついて生きている人として生きることが許されるのです。  パウロは、根本的に新しい生の方向について、エフェソ書で、 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、私達をこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私達をキリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして神は、キリスト・イエスにおいて私達にお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです</span>。」(2:3-7)と言っています。 この聖句はさらに続けて、私達は、キリスト・イエスを神の前に我々の代表として、神の変わらない慈愛を受ける者となる未来を待ち望むことが出来る、と述べます。 /n信仰者に約束された「命」 このような命は、イエス・キリストを信じる信仰を持った者に神が約束された命なのです。この「新生」と言うことは、基本的には「霊の変貌」ですが、その結果ははっきりしています。そしてそれは多く、我々の住むこの世界に属することです。イエス・キリストを信じる信仰によって、我々は神の国に入ります。「永遠の命」も受けますが、この「新生」は、今、始まります。 神の国は、この地上の国ではありません。霊の国であって、イエス・キリストが支配する国です。それは、根本的に異なる国です。そこでは、キリストを信じる全ての者は、神と人とに仕える自己犠牲の愛の命を生きるように求められます。このような命が可能なのは、キリストを信じる者の命の中に、聖霊が常に変わらず存在しているからです。 神の国は、私達が住んでいるこの現在の社会を去るということとは関係ない事柄です。それとは全く反対に、神は、私達に、キリストの代表としてこの世にキリストの愛のわざを進めるように求めます。 /n永遠の命 神様が約束して下さった命は、永遠の命です。 美しい音楽は、私達を一時的に元気よくさせます。 それにもかかわらず、神様だけが私達に、神様と共にいる永遠の命を、福音に引き上げて下さるのです。そしてこの「永遠の命」は、絶対の、御国の神様からいただける「賜物」なのです。 この賜物をいただく為には、私達は、イエス・キリストという神様の独り子を信じさえすれば良いのです。 今日、皆さんが、この神様の「永遠の命の賜物」を、自分から戴いて下さることを私は希望して祈ります。 このことは、私よりもイエス・キリストの使徒ヨハネがもっとはっきり、もっと強く、簡単に言っています。 ヨハネ福音書3章16節に書いてあります。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「神はその独り子をたまわったほどにこの世を愛して下さった。それは、 御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」</span>               

   「最も重要な掟についての問答」    伝道師 平賀真理子

/nホセア書6:1-6 /nマルコ福音書12:28-34 /nはじめに  イエス様のご生涯の最後の一週間の中で、「論争の火曜日」と呼ばれている日に起こった一つの出来事から、御一緒に学びたいと存じます。   イエス様への,論争に挑んだ人に対するイエス様の応答を聞いていた人々の中には、一般庶民の他にイエス様の噂を聞いてイエス様の教えやその力を自分の目で確認したいと思う「学問の先生」のような「律法学者」がいました。「律法」は、イスラエル民族が、モーセを通して神様から直接いただいたと信じる「十戒」を基本としています(律法は更に、「旧約聖書」の最初の5巻を指す場合や、「旧約聖書全体」を指すこともあります)。  イエス様の、それ迄の質問者への答えが立派だったことを見た一人の律法学者が、前に進み出てイエス様に尋ねました。 /n「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」  沢山ある律法の中で一番重要なものを教えてほしいとの質問に、イエス様は、まず申命記6章4~5節を挙げられました。それは、ユダヤ教徒が毎朝毎晩 口にする「シェマー(聞け)」から始まる御言葉で、神様を唯一の方として尊敬し、信頼し、人間が「全身全霊で愛する」ことが求められている聖書の箇所です。イエス様は、「第一の掟」に続けて更に、第二の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)を教えられました。 /n「神様の愛=アガペー」  創世記には、神様が「世界」を創り、「人間」を創られたことが記されていますが、人間は神様に絶対的な信頼を貫くことが出来ず、又、悪の力・サタンに惑わされて神様の命令を守れず、神様の祝福を受けられなくなりました。そのような人間を切り捨てずに責任をもって救うという固い意志が「神様の愛」の特徴です。 人間の愛は、感情に基づいているので一時的であり、相手の反応次第でその度合いは変化します。一方、神様の愛は、一時的な感情に基づくことなく、長く続く意志に貫かれています。又、私達人間の反応に左右されず、御自分が愛すると決めたら、責任をもって愛し抜くご性質です。そして愛する対象に対しては100パーセント真剣で、片手間に愛する愛ではありません。 /n全身全霊で愛する  だからイエス様は、「神様を愛する」時、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい</span>」と、おっしゃっているのです。原語では、「心のすべてから、精神のすべてから、思いのすべてから、力のすべてをもって愛しなさい」です。  神様が人間を(私たちを)、そのように愛しておられることを、神の御子イエス様だけが理解しておられ、教えて下さっています。  神様に先に見出され、先に愛していただいている私達は、同じように、その憐れみに感謝して神様を愛したいと願うものです。 /n隣人を自分のように愛する 第二の掟である「<span class="deco" style="font-weight:bold;">隣人を自分のように愛する</span>」ことは、「神様の愛」によって初めて可能だといえます(神様の愛については第一コリント書13:4~7参照)。「神様の愛」は無尽蔵で、100パーセント真剣で、永続的で、主体的な愛です。この「神様の愛」を知り、私達がその恵みに満たされる時、自ずとその愛は誰か対象を求めて流れ出すでしょう。だからイエス様は、この二つを連動するものとして重要な掟として挙げられました。 /n掟を守る道  神様と私達人間が愛によってつながるためには、断絶の原因となった罪が取り除かれねばなりません。そのためにイエス様は遣わされ、神の御子として死ぬ定めにおかれました。私達人間は、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の贖い主と信じる信仰が与えられる時、神様とつながることが出来、最も重要な「第一と第二の掟」を守る者とされるのです。