説教要旨 「身代金として命を献げる為に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 20章17-28節  17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。 18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」 20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 /nはじめに  今日の聖書には、イエス様の三回目の「十字架の死と復活」の予告がされています。イエス様の受難は、まずユダヤ人に引き渡されて死刑が宣告され、その後異邦人(ローマ人)に引き渡され、侮辱され、むちで打たれてから十字架刑の執行を受けるという予告です。そして死の後、三日目に復活することが宣べられています。 最初にイエス様がこの予告をされた時(16:21)、弟子のペテロはむきになって否定しました。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエス様はペテロに、「サタン引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱りました。二回目の受難予告の時(17:22)は「弟子達は非常に悲しんだ」と記されています。今回は、イエス様は一般の人々から12人の弟子達を引き離して(17節)「今,私達はエルサレムに上っていく」と言われました。その決意の言葉から弟子達は、エルサレムの旅の先にはイエス様の受難と死が待っていることを感じとったでありましょう。 /nヤコブとヨハネとその母の願い事  この後、ヤコブとヨハネ(兄弟)の母親が願い事をする為に、二人の息子と一緒にイエス様のところにやってきました。この二人は12弟子の中でもペテロと一緒にいつもイエス様と行動を共にしていた弟子でした。母親の願いとは、将来、自分達の息子をイエス様の右と左に座らせて欲しいというものでした。それが母として息子の為に出来る最大のことであると考えて、その約束を希望として生きていこうとしたのでしょう。 /n三つの問題点   しかしこの願いに対してイエス様は三つのことを教えられています。一つは、イエス様が将来王座につくことになるのは、これから迎えることになる受難の一つ一つのプロセスを、神様から与えられた使命として従順に従うその結果です。イエス様の左右に座る者は、イエス様と並んで、イエス様と共に苦難の道を歩くことを意味します。イエス様は二人に、 「私が飲もうとしている杯(受難と死)を共に受けられるか」と尋ねられました。二人は即座に「出来ます」と答えています。しかしこの後二人は(ペテロも一緒に)、ゲッセマネで悲しみもだえて祈られるイエス様のすぐそばで眠ってしまいましたし、剣や棒を持って捕えにきた人々を前にしてイエス様を見捨てて逃げ去っています。イエス様は二人に「確かにあなたがたは私の杯を飲むことになる」といわれました。これはイエス様の復活と昇天後、聖霊がくだった後の伝道者としての二人をさしています。(使徒言行録12:1‐2他) /n二つ目の問題点  二つ目の問題点は、母親は願う相手を間違えているということです。イエス様は確かに神の国において主でありたもうお方です。しかしイエス様の力の根源は父なる神様への服従に基づいており、父なる神様の決定こそイエス様の原則です。誰が左右に座るかということは、父である神様がお決めになることです。 /n三つ目の問題点  三つ目の問題点は、この願い事を知って腹をたてているほかの弟子達も含めて、「天の国においては、この世のあり方とは違う」ということがわかっていないことです。この世では、支配者は支配される者に力をふるい、彼らを従わせることが偉大なこととして評価されています。弟子達は 自分を他者より優位にたたせようとしています。イエス様は 「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆のしもべになりなさい。」(26節-27節)と教えられました。 /nへりくだり、従順であられたイエス様  イエス様は周囲から抜きんでて他人を見下げるような、他人を小さくするような力を退けます。他者を大きくし、他者を高め、他者を強くするように力を用いることを教えられます。イエス様は、人を富ませることはあっても、ご自分を富ませることはなさいませんでした。そして最後に、私達人間を罪の支配から救い出して自由を与える為に、ご自身の命を身代金としてささげられました。私達の命と体が罪にとらわれていたのを、御自分の死と引き換えに、罪から解放してくださいました。イエス様はこのために、つまり、人々に仕え、命をささげる為に来られたと語られています。 /n<フィリピ書2章3節-11節>  「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリストイエスにもみられるものです。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上の者,地上の者、地下の者がすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」とおおやけに宣べて、父である神をたたえるのです。 /n  本日の礼拝は、召天者記念礼拝として守っています。生まれながらの私達人間は、罪ふかく、誰一人として天の国に行くことは出来ません。もしイエス様が来て下さらなかったら、私達にとって死は絶望でありました。死はすべてのものを無に帰するものではなく、聖書の信仰によるならば、死は刑罰の意味を持っています。ロマ書7章には「罪が支払う報酬は死です」とあるように、死は、罪の結果として与えられたものです。しかし神様は、イエス・キリストを遣わして人間が受けねばならなかったこの刑罰を代わりに引き受けて下さいました。このイエス・キリストの一回的な死によって、全人類の罪が赦されたのであり、それによって死はもはや信じる者にとっては刑罰でも、恐怖でもなくなりました。 死は、イエス・キリストを信じる者にとっては「永遠の命」に至るプロセスです。 ここに飾りました写真の方々は、イエス・キリストを信じる信仰を家族に、(そして隣人に)遺していかれた方々です。信仰は伝達、継承されていくべきであります。基督教の命は、信仰者が、キリストの復活の証人として家族に、隣人に伝えていくことにあります。写真の方々によって伝えられた信仰が今、ここで礼拝をささげる群れへとつながっていることを覚えて、神様に感謝したいと思います。

宗教改革記念礼拝 「キリストによる和解」 原口尚彰 先生

/n[コリントの信徒への手紙二] 5章16-21節  16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 /n  多くの教会では、マルティン・ルターの宗教改革を覚える日として、10月31日に最も近い日曜日を宗教改革記念礼拝として守っています。1517年10月31日、ドイツの小さな町 ヴィッテンベルク大学の聖書学の教師マルティン・ルターが、城教会の扉に95か条の提題を貼り出しました。提題はラテン語で書かれ、聖職者・神学者達に対して神学的な討論を呼びかけた文書でした。中味を簡単にいえば、当時は免罪符というものが売られており教会建築などに当てられていましたが、ルターの根本的な批判は「人の罪が赦されるのは真摯(しんし)な悔い改めというものがなければいけない。それは他人が代わる事は出来ないし、ましてや立派な信仰者の功徳(くどく)にあずかる為に、お札をお金で買って罪を赦されることはない」というものでした。95か条の提題を貼り出す前も、後も、ルターは何度もそのことを語っています。この当然すぎる主張が大きな反響を呼び,教会の権威への挑戦という意味を持ちました。ルターは同じ文章をマインツの大司教アルブレヒトのもとに届け、アルブレヒトはそれを教皇庁に送りました。教皇庁はこれを非常に問題にして異端とし、ルターは教皇庁の審問を受けることになりました。最初は免罪符というお札の効力の問題でしたが、討論をする過程で、もっと根本的な「人はどうして救われるか」「福音とは何か」「教会はどうあらねばならないか」という議論に入っていきました。その結果、当時の教会と正面衝突をすることになりました。ルターはもともと新しい教会を作るという意図はありませんでしたが、結果として1521年、カトリック教会は彼を破門することになりました。  その年、ルターはヴォルムスでの神聖ローマ帝国の国会で審問を受け、今迄の彼の言動を取り消すかどうかを問われました。彼は「聖書と良心に照らして、全く取り消す余地はない。」と答えました。その結果、彼は神聖ローマ帝国の市民権を停止されました。当時の教会はルターの主張に耳を傾けませんでしたが、神学者や一般市民(貴族・諸侯・庶民・農民)の多くがルターに賛同し、彼の主張はドイツ中に広まり、  ヴィッテンベルク がドイツの宗教改革の中心になりました。更に彼の主張は(活版印刷の技術も手伝って)ヨーロッパ中に広がりました。少し後に、チューリッヒにはツヴィングリという改革者が、又、もう少し後に、ジュネーブにはジャン・カルヴァンが中心となり改革がすすめられ、大きな運動になっていきました。  ルターの行動の根本にあったのは、社会を変えるというよりも我々の信仰のあり方そのもの、「人間はどのようにして救われることが出来るのか」ということであり、彼はそれを聖書-パウロの言葉-に従って 「神の義」ということを問題にしました。神の義についての彼の根本的な確信・認識に照らして当時の教会のやっていることが正しいのか?彼がそれを問題にする背景には、彼が救いを求めて修道院に入り、修道士として非常に厳しい修道生活をした、その修道院での彼の霊的な歩みが根本にありました。彼は神の義が恐くて仕方がありませんでした。いくら善行や修行を積んでも罪の意識は少しもなくならず、神の前に自分の罪意識は深くなるばかりでした。彼にとって神の義は、義にしたがって裁く義でありましたから、彼は裁きを恐れました。その過程の中で彼が見出した結論は「人が神から義とされるのは、律法のわざや良いことを行ったからではない。ただイエスキリストを信じる信仰によって神の前によしとされる」。このことは、パウロがロマ書やガラテヤ書で語っていますが、そこに立ち至りました。神の義とは、神は正しい方で、審判者として人間を裁くのではない。むしろ罪ある人間を良しとする。それはキリストのゆえに出来る。キリストを信じる者を義とする。それは人間にとって、自分が良い行ないをしたとか良い人間であるという功績として受けるのではなく、ひたすら恵みとして受けるものである。このことをルターは「恵みの賜物」と言っています。「恵みの神」の発見、「福音」の再発見ともいわれるこのことは、聖書で言われていたことが教会の長い歴史の中で見えなくなっていたということで、そこに立ち帰ったということです。  新たに再発見された「福音の理解」に従って、ルターは「教会の教えと実践」の全体を見直しました。その結果、福音主義の教会が成立して、私達もその流れの中に立っています。ルターの「実践」の部分の改革では「礼拝」の改革が一番大きかったのではないかと思います。礼拝が正しい形であるべきというのは当然のことでありました。当時の礼拝はラテン語によるミサで、特別な教育を受けた者や聖職者にしかわかりませんでした。聖書朗読と説教の割合は小さく、中心は聖餐式(カトリックでは聖体拝領)でした。キリストの体と血にあずかる。しかもぶどう酒は聖職者のみで、信徒はパンにあずかることが礼拝でありました。宗教改革でまずやったことは、礼拝をわかるものにする為、民衆の言葉であるドイツ語で礼拝がなされました。礼拝では説教(御言葉が語られて説き明かしがなされる)を自分達の言葉で聞くことが出来る。その言葉を繰り返し繰り返し聞くことによって信仰が養われるという私達の礼拝のかたちはここからきています。  当時の礼拝の様子を描いた絵が残されていますが、16世紀の教会にはイスがなく全員立って礼拝をささげていました。讃美歌は聖歌隊が歌い、音楽的には高度でしたが会衆は聞くのみでした。ルターは、会衆が参加出来る簡単な讃美歌(聖書のメッセージを載せた)を作り,広めました(267番「神はわがやぐら」等)。又、当時の聖書はヒエロニムスが訳したウルガタ(ラテン語訳)聖書でしたが、ルターは信徒一人一人が聖書を読めなければならないと考え、ドイツ語に聖書を翻訳しました。<テューリンゲンのヴァルトブルク城に幽閉されていた時、原語のギリシャ語からドイツ語の新約聖書を完成(1922年9月)、その二年後、原語のヘブライ語から旧約聖書を完成させ、このルター訳聖書はドイツの標準語の形成にも大きな役割を果たしました。>  又、ルターは信徒の教育についても心を配りました。教会を廻った時、牧師も信徒もキリスト教教理の基本についてあまりわかっていないことに気付き、牧師の為には「大教理問答書」信徒の為には「小教理問答書」を執筆しました。現在でもルター派の教会では、小教理問答書を受洗者の教育の為に用いています(内容は、十戒・主の祈り・使徒信条・洗礼と聖餐について)。その後「ハイデルベルク信仰問答」(改革派)、「ウェストミンスター教理問答」(長老派)が生まれました。  今日は、改革者ルター・教育者ルターに焦点をあててお話しました。それらを踏まえた上で、その後のカトリック教会の歩みについて少しお話したいと思います。  現在のカトリック教会は16世紀のカトリック教会と同じではありません。大きく様変わりをしました。現在カトリック教会は16世紀に対立した福音主義教会と和解をしようとしています。16世紀にはルターを中心とする宗教改革の流れに対してカトリック教会はノーと言いました。16世紀の中頃トリエント公会議を開いたカトリックは,プロテスタントが「信仰のみ」といえば、「善いわざも!」と言い、プロテスタントが「聖書のみ」といえば、「教会の伝承も!」と言いました。しかしカトリックの歴史を見ると、改革に反対しただけではなく自分達の教会を内側から改革していこうとする動きもありました。  イグナティウス・ロヨラは新たな修道会を作りました(イエズス会)。そして世界中に宣教師を派遣し、その中にはインド、インドネシアを経由して日本にやってきた宣教師がいました。それから数百年たち20世紀の後半になってカトリック教会は大きく改革の方向に舵(かじ)を切りました。教皇ヨハネ23世が召集した第二バチカン公会議で、現代世界における教会の思い切った刷新をしました。その中に、教会憲章では教会を「地上を旅する神の民」といっています。プロテスタントでは、教会は何よりも「聖徒の交わり」といいました。正しく御言葉が語られ、正しく聖礼典が行われる所が教会であり教会は建物・組織を意味するものではないとの主張にカトリックは近づいてきました。礼拝に関する定め「典礼憲章」の中ではミサによる聖書朗読・説教の重要性を強調しました。多様性における一致が基本理念でありましたが、各国語によるミサをやっても良いことになりました。それ以後、各国の国語で礼拝が持たれるようになりました。又,会衆全体で典礼聖歌が歌われます。現象面では五百年たって、カトリック教会とプロテスタント教会は礼拝が非常に似たものとなってきました。  又、公会議ではエキュメニズム(教会一致運動・違う教派の教会が互いに協力しあい、相互理解を深める運動)についても採択されました。その中で東方教会(ギリシャ正教やロシア正教など)やプロテスタント教会を「分かたれた兄弟」と呼び、教会一致のための対話を始めました。カトリックが舵(かじ)をきったので、カトリック主導で様々な神学的な対話を行うようになりました。例えば私が体験したのは、アメリカで1970年代から80年代にかけて代表的なカトリックの神学者とルター派の神学者が集まり定期的に協議をし、教会の重要な教義について一致点を見出していました。洗礼の理解や、ニカイア信条・使徒信条など古代の信条については両者ともあまり変わりませんでした。教会の職務については、カトリックは教皇制があるので難しいです。最後に義認の問題について「神の前にいかにして人は義とされるか」というところまでやりました。予想するよりも多くの一致が出来てきました。ドイツでも同じような試み(草の根的な協議)がなされ、それを踏まえた上で、カトリック教会全体とルター派の教会(世界ルーテル連盟)の代表者達が1990年代、協議を持ち、(ルター派の立場)「教会が立ちもし、倒れもする義認についての教え」「人は神の前にどうやって義とされ、救われるか」の基本的な合意がなされ、1998年、両方の教会の名前で義認についての共同宣言がなされました。「人が神に義とされるのは『恵み』により『キリスト』による」。この原則を共通理解として確認しました。そして16世紀に宣言された相互の断罪は現在の両方の教会には妥当しないこと、それは歴史の一頁であるとしました。  そして次の年の10月31日、ドイツのアウグスブルグで両方の教会の代表が共同の儀式を行い共同宣言を出しました。こんにちの10月31日はルター宗教改革記念日と同時に、カトリック教会とルーテル教会が歴史的和解をしたことを覚える日ではないかと思います。宗教改革記念日は宗教改革を覚えるだけでなく、我々が和解という大きな流れの中にいる、ということを考える日ではないかと思います。  最後になりましたが、さきほど読んだ第二コリント5:16-21は和解の務めについて語っている箇所です。この箇所においてパウロは勿論、「キリストにおける神と人との和解」ということを言います。人間の犯した罪は、神と人との間をそこないます。神と人間との間は敵対関係にあります。その敵対関係を解消して本来の関係に戻す為には両者は和解をする必要があるわけです。神は人間に対して罪の責任を問わないで、かえって御子を通してその罪を取り除いて下さいました。御子イエス・キリストが罪を負って十字架にかかって下さった。その死を通して罪を赦して下さった。そのことによって和解が実現した、ということが大前提になっています。  パウロのような宣教者の務めは、この事実をまず語ります。そして聞く者に、神が与えて下さったこの和解にあずかるようにすすめる、ということを強くいっています。しかし神と人が和解したとはどういう意味なのか。そこから人と人の和解が当然出てこなければいけません。神と人の和解-平和-を語る教会や聖職者がお互いに対立して争うということは和解の精神にもとるものです。  16世紀にはお互いに断罪をしました。しかし500年たちましてその歩みの中でルターが発見した福音の基本的な理解にカトリック側が歩み寄ってきました。両方が同じキリストの体につながる枝として和解したということは非常に意味があるといわざるを得ません。私達はこのように歴史的和解の流れの中に,歴史的な和解の光の中にいるのではないでしょうか。  そのことを覚えながら、私達も神と人との和解、人と人との和解、和解の精神のうちに歩んでいきたいと思います。(文責 佐藤義子)

説教要旨 「後にいる者が先に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 20章1-16節  1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 /nはじめに  今日の聖書はイエス様が天の国について語られたたとえ話の一つです。内容は、ぶどう園を持っている主人が収穫の時、労働者を雇う為に夜明けに広場に出かけて行きます。そして仕事を得るために待っていた人々に、当時の一日の賃金である一デナリを支払う契約をしました。主人はこの後、再び9時に広場に行き、何もしないで立っている人々に、ふさわしい賃金を払う約束をしてぶどう園に送ります。さらに12時と3時に再び出かけていきます。その度ごとに仕事を待っている人達をぶどう園に送りました。最後に5時ごろ出かけていくと、その時も仕事を求めて立っていた人達がおりました。彼らを雇う人がいなかったのです。主人は、日没前の1時間しかないにもかかわらず彼らを雇います。 /n精算  労働の時は終り、支払いの時が来ました。主人は最後に来た者から賃金を払うように監督に命じます。労働時間が1時間の者から始まり、3時間、6時間、9時間、最後に夜明けと共に働いた者に支払われました。一時間しか働かなかった者達に一デナリの賃金が支払われたのを見た最初に雇われた者達は、自分達はそれに上乗せしてもらえるだろうと期待しました。しかしぶどう園の主人はすべての労働者に、労働時間に関係なく同じ一デナリを支払いました。 /n不平  夜明けと共に働き始めた最初の労働者達は、自分達はまる一日暑い中を辛抱して働いたのに、たった一時間しか働かなかった者達と同じに扱われたと不平を言いました。それに対する主人の答は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。」でした。「私は最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、私の気前の良さを妬むのか。」と言いました。 /n主人と労働者  主人とは神様のことです。地上の人間は、みな、自分の本当の主人に出会い、自分の仕事を得たいと願っています。しかし多くの人々は、自分の本当の主人(命を与え、この地上に存在させ生かして下さる方)に会えずにいます。たとえで、主人に出会うことが出来た労働者とは、神の国の民として招かれた人達です。彼らはとても幸せな人達です。 /nたとえの意味  たとえで、広場に行く時間や主人に声をかけられた時間の違いは何を意味しているのでしょうか。「先の者」はユダヤ教徒、「後の者」はキリスト教徒と読む人もいますし、すぐ前に登場したペテロを「先の者」と読み、ペテロより後からイエス様に従った者を「後の者」と読むことも出来ます。或いは、夜明けから日没までを人生にたとえて、救われる時期を「先の者」と「後の者」というふうに考えることも出来ます。一般社会では、働く時間数が多ければ報酬も多いのが当たり前です。しかし神様は、一人一人の努力や仕事量、業績に応じて報いを与える方ではありません。天の国は、神様の視点ですべてが行なわれます。主権は神様にあります。神様がご自分の祝福をご自分の民に対してどのように分配なさろうと、それは神様の全くの自由意志によります。主人は不平を言った者に、「私の気前の良さをねたむのか」と言いました。「ねたむのか」は「あなたの目が悪いのか」という意味の言葉です。ねたみは神様のなさることを神様の視点で見ることの出来ない悪い目を持っているということです。 /n「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」  ぶどう園での労働も、最後に来た者が最初に賃金を受け取ることが出来たのも、時間に関係なくすべての人が一日分の賃金を与えられたのもすべては雇い主(神様)の憐れみによります。「先にいる者が後になる」とは、この憐れみを忘れて自分の体験からいつしか傲慢になり、他の人と比較して不公平だとふてくされ、他の者が自分と同じ報酬を受けることを喜ばない人です。そしてあたかも神様が不正をしているかのようにつぶやく人です。私達は、今一度、神様の主権の前に頭を低くして、先走りすることなく、人と比較するのでなく、自分に与えられた分を感謝し、今ここにいることに心から感謝をささげたいと思います。

説教要旨 「永遠の命を得るために」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 19章16-30節 16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。 29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。 30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 /nはじめに  今日の聖書は、たくさんの資産をもっている金持ちの青年が、永遠の命を得たいとイエス様のところに来ましたが、イエス様から富を貧しい人々に施し,天に富を積むように言われて悲しみ立ち去ったという話です。 /n永遠の命を得る方法  この青年が求めていた「永遠の命」とは、信仰の熱心なユダヤ教徒が切望していたものでした。地上を去った後、神様の支配のもとで祝福に満ちた来るべき世に住む「生命」のことで、復活の希望も、律法を守ることや安息日を守ることも、永遠の命を得る道につながっていました。富める青年は、永遠の命を確実に得るために、どんな善いことをすればよいのか、その方法をイエス様に尋ねたのです。 /n「なぜ、善いことについて私に尋ねるのか。善い方はおひとりである」  イエス様は青年の偽善を見抜かれました。善いことについて知りたければ人に聞くのではなく善であられる神様に聞くべきです。神様の意志は律法に明確に表されています。その戒めを聞けば良いのです。青年はそのことを知りながら、それを脇に押しやり、戒め以外に何か特別なことを期待したのでしょう。イエス様は神様以外に善き方はおらず、善き教師も存在しないことを教えました。そして、永遠の命を得たいのなら、神様が与えた律法・・掟を守りなさい、と言いました。青年は、どのおきてかと問い返しました。イエス様は誰でもが知っている十戒の後半部分(殺すな・姦淫するな・盗むな・偽証するな・父母を敬え・隣人を自分のように愛せ よ)を示しました。彼は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と答えています。(20節) /n「もし完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、私に従いなさい。」  イエス様は、自分に満足しているこの青年の目を開き、自分の罪を知らせて、ただ一人善い方である神様にのみ目を向けさせ、神様を通してのみ「永遠の命」を求めていくように導かれました。その為には、ご自分と青年とを引き離している「富」に目を向けて、その富を貧しい人々に施し、この地上にではなく天に宝を積む道があることを示されました。そしてイエス様に従うこと…神様を仰ぎ見て、決して破られない神様との結びつきを得る道を示されました。 /n行為で永遠の命は手に入らない  幼い頃から律法を学び、熱心に律法を守ってきたこの青年は、行為で神様の心を動かせると考えていました。それゆえイエス様の言われたことを、神様が求める救いの条件として聞きました。財産放棄しなければ、神様は「永遠の命」を与えられないと考えてしまったのです。これは、神様の報いは行為の結果与えられると考える人達が陥いる落とし穴でもあります。 /n青年はどう聞くべきであったのか。  青年は、自分は律法を完璧に守ってきたと思っていたけれども、実はそうではない人間であったことに気付き、「行為で永遠の命を得る」ことは不可能であることを認め、自分の経歴や歩みに依存するこれ迄の生き方を放棄してイエス様の前にひれ伏したならば、彼の新しい道は開かれたでしょう。永遠の命とは人間の努力によって勝ち取るものではなく、神様の一方的な恵みの賜物として与えられるものであることがわかったならば、彼の生き方は根本的に変えられたことでしょう。そして、自分を束縛していたすべてのものから解放されて、唯一の、善き教師であられる神様にのみ信頼して生きることを学んだでしょう。しかし彼はイエス様の言葉を、「更なる行為の要求」と聞きました。その結果、富を捨てることは出来ない!と悲しみながら(22節)立ち去りました。私達は、この青年のようにイエス様との間を隔てるものを持っていないでしょうか。また、行為で神様の報いを期待していないでしょうか。富める青年の話は、私達への警告でもあります。

説教要旨 「結婚の奥義」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 19章1-12節 1 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。 2 大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。 3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。 4 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」 5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 7 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」 8 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。 9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」 10 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。 11 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。 12 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」 /nはじめに   ユダヤにおいて当時、男が女に離縁状を渡す離婚には二つの考え方がありました。一つは、夫に(離婚する)権利は無制限に与えられているとする考え方、他方は、結婚を解消するには、まじめな真剣な根拠がなければならないとの考えです。どちらも男は離婚する権利を持っていることを疑いませんでした。この日ファリサイ派の人は、イエス様を試そうとして「何か理由があれば、離縁は律法にかなうか」と問いました。これは、理由がありさえすれば離婚をしてもいいのか、という質問です。 /nイエス様の答え  イエス様は創世記(2:24)から、神様が男と女とを造られたこと、結婚は、神様が男と女とを結び合わされることを説明して、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(6節)と答えられました。結婚によって、二人は別々ではなく一人の人間になったかのように一つの人格として考えられています。イエス様は、神様が定められた秩序と、神様の意志を根拠にして、「離婚はそれに反することである」と教えられました。 /nそれに対して・・  ファリサイ派の人達は、神様の意志を考える前に、人間の側に自由に決める余地を残そうとしました。どうしたら男は離婚を正当化出来るだろうか、と熱心に考えたのです。イエス様が、結婚という神様のみ業を人は破壊し分離させてはならないと教えられたことに対して、ファリサイ派の人達は、律法を引用して「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記 24:1)とあるではないか、律法にあるということは神様が離婚を認めている証拠だと主張しました。 /n律法に書いてある理由  神様は、確かに離縁状を渡すことをお許しになった。しかしそれは、人間の悪い衝動を野放しにしない為に律法で規制しているのであって、神様の完全な意志がそこにあらわれているのではない。「あなたたちの心が頑固なので、・・」(8節)これが、ファリサイ派への答えです。 /n再婚も姦通の罪・・  イエス様は律法解釈で混乱している人々に、新たな教えを語られました。男の人が自分の妻を離縁して独身のまま終らず、別の女の人と結婚するならば、それは姦淫にひとしく結婚を冒涜するものであると言われました。なぜなら神様は最初の妻と結び合わせたのですから、彼は、自分の愛と真実を神様の前に証ししていかねばならないからです。 /n「妻を迎えない方がましです」(10節)  弟子達はイエス様の言葉を聞いて恐れを覚えました。彼らは結婚とは人格と人格の結びつきであるとは考えませんでしたし、結婚が自分の全生涯をそこにかけるような、互いに自分をささげあうような、そのような重い決断を必要とするとは考えず、何か困難なことが起これば離婚も認められると考えていたからです。弟子が「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と、結婚にちゅうちょするような言葉を言った時、イエス様は、結婚の「解消」と同じように、結婚を「放棄」することも人間の気ままに委ねられていることではないことを語られました。 /n結婚の奥義  イエス様が引用された創世記には、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)といわれたことが、女を創られた経緯として記されています。原語(ヘブル語)では、「私は彼のために、彼と向き合う者としての助け手を、彼の為に彼女を造ろう」です。  夫婦の関係は「向き合う関係」ともいえます。互いに相手を先入観で見るのではなく 広い心で新しいものを見出そうとして、もう一度よりよく見ようとして見る・互いに相手によって問われるその問いに向き合う・互いに対して持っている疑問を避けたり面倒だと逃げたり無視したりしない・・このような「向き合う関係」を作り上げて、「父母を離れて一体となる」ことが神様の秩序であり神様の意志であることを私達は今一度、しっかりと確認したいと思います。 「結婚は神様が結び合わせてくださったもの」との確信と信頼で築かれた家庭は、どのような荒波が襲っても神様が守ってくださいます。

説教要旨 「七の七十倍ゆるす」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書]18章21-35節 21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」      /nはじめに   ペテロがイエス様に質問しました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」  当時のユダヤ教指導者達は同じあやまちは三度までゆるされるが、四度目からは赦されないと教えておりました。ペテロは当時の「三度」を二倍にして、さらに一度加えた数「七回」までかと聞いたのでした。 /nイエス様のこたえ  その答えは驚くべきものでした。「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」でした。これは、1回2回と数えて覚えていられる数ではありません。すなわち「無限に、無制限に、限りなく」赦しなさいとイエス様は教えられたのです。 /nたとえ  このあとイエス様は一つの譬え話をされました。それは王様と借金を返せなくなった家来の話です。家来は多分地方長官と考えられ、集めた税金の一万タラントを使い込んでしまったと考えられます。当時、ガリラヤとベレアを治めていたヘロデ・アンティパスが受け取った年貢は200タラントといわれ、父ヘロデ大王でも年収900タラントといわれますから、一万タラントはヘロデ大王の年収の10年分以上の額にあたります。この莫大な借金をした家来が返済出来ないことを知った王様は、全財産を処分し、家族を奴隷に売って、ともかく返済するように命じました。(当時、奴隷は一人500デナリオンと言われました。1デナリオンが当時の1日分の賃金で、1タラントは6000デナリオン)。返済出来ない家来は王の前にひれ伏し、待ってくれるように嘆願します。王様は「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにして」(27節)あげました。投獄を免れ自由が保証された上に、全部の借金が返済免除になったのですから、ものすごい事がここで起こったということです。 /nところが・・  この家来は帰り道、自分が100デナリオンを貸している仲間に出会いました。彼は仲間に「借金を返せ」と要求します。仲間はひれ伏して「どうか待ってくれ」と頼みます。しかし彼はその願いを聞き入れず、仲間を牢屋に入れてしまいます。これを知った王様は,家来が仲間を憐れまなかったことを怒り、再び借金返済を迫って牢に入れました。 /nたとえの意味  王は「神様」、一万タラントという莫大な借金を負っている家来は 「私達人間」のことです。この話は「人間は一生かかっても つぐなうことの出来ない罪を負っていること」。「その大きな罪を神様に赦していただきながら、その一方で、小さな人間同志の罪を赦さないでいる。」その愚かさ、しかもそのことに気付いていないことを教えています。  私達が人を1回赦した、2回3回と数えている間は赦したのではなくただ我慢しているだけです。赦すというのは、相手があやまった瞬間それで終りにすることです。ルカ福音書には「1日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回「悔い改めます」と言ってあなたの所に来るなら、赦してやりなさい」(17:4)と教えています。 /n私達の負っている借金とは・・  神様は私達に命を下さいました。家族を与えて下さいました。私達に能力や賜物や健康を与えて下さり、生きていくのに必要な太陽や空気、水など自然の恵みを与えて下さり、必要な食物で養って下さいます。  私達は造り主である神様に従って正しく生きていかなければならないのに、うそをついたり、人を憎んだり、赦さなかったり、自己中心に生き、自己主張をしながら、自己保身的に生きてきました。正しくないことを知りながらの言動、自己制御すべき時にブレーキが利かなくなったりもしてきました。何よりも神様をないがしろにして生きてきました。今、私達が裁判所で立たされた被告のように神様の前に立つならば、無罪判決を宣告される人は誰一人いません。すべての人は有罪と宣告されます。この有罪こそ、一万タラントの借金です。 /n借金の返済免除  神様は、たとえの王様のように私達を憐れみ、このつぐないきれない借金を無償で(イエス様の十字架の死と引き換えに)免除して下さいました。  自分自身が、神様の前にあっては、一万タラントという一生かかっても返済不可能な莫大な借金をしている者であり、イエス・キリストの十字架のゆえに「無償のゆるし」を与えられたことを信じることが出来た者は幸いです。この借金の重みを知れば知るほど、赦された喜びと感謝は大きくなっていくでしょう。 /n仲間を赦さなかった家来  たとえに登場する「家来」は、一万タラントという借金に真剣に向かい合わなかったゆえに、自分が赦されたことの背景にある「王様の大きな大きな憐れみと恵み」に鈍感になって、わずか100デナリオン(自分の借金の60万分の一)の貸しを赦そうとしませんでした。  振りかえって見ると、私達人間は、自分の利益や名誉が損なわれると怒り、正義と裁きを要求します。何かあれば当然のように隣人につぐないを要求します。自分の権利が失われることに敏感です。人を赦すことがなかなか出来ません。私達もこの家来のように、人に貸していることは忘れず、自分自身に「無罪放免」が与えられた事実を忘れています。 /nたとえの結論  イエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(35節)と言われます。これは厳しい警告です。神様の「無償の赦し」を忘れて、私達が仲間の罪をいつまでも赦さないならば「無罪放免」は取り消されます。私達が自分に与えられた赦しを忘れて他者を苦しめるならば、この地上が終る時、二度目の裁き(終末の裁き)で再び有罪となるというのです。  イエス様を信じる信仰と悔い改めを通して「私の罪」(莫大な借金)は神様から赦されています。この大きな憐れみと恵みを味わい、感謝し、この恵みの中で,私達の心に起こる「赦せない気持」に向かい合い、七を七十倍までも赦しなさいと言われたイエス様に従いたいと願うものです。 /nおわりに  神様の憐れみについての聖書の箇所を一緒に聞きたいと思います。 >> 詩編103:8-13  「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。主は私達を罪に応じてあしらわれることなく 私達の悪に従って報いられることもない。天が地を越えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠いほど 私達の背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」 << >> 詩編145:8-9  「主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを 憐れんでくださいます。」 << >> マタイ5:7  「憐れみ深い人々は、幸いである、その人達は憐れみを受ける。」 << >> ヤコブ書 2:13  「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」 << >> 第一ペテロの手紙 3:9  「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐ為にあなたがたは召されたのです。」 << >> ヨハネ第一の手紙 3:15‐18 「兄弟を憎む者は皆人殺しです。あなたがたの知っている通り、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは私達のために命を捨ててくださいました。・・世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」 <<

説教要旨 「心を一つにする」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 18章15-20節 15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 /nはじめに  今日の聖書は、教会の規律について・その根拠・祈りの力について・祈りの権威は、教会の中に働いておられるイエス・キリストの現臨(イエス・キリストがここにおられる)にあることが語られます。 /n教会の規律について  教会の群れに属する者が明らかに信仰の道から外れたことをした時、そのことを知った者は見過ごしにせず「二人だけのところで忠告する」ように教えています。忠告は正しい道に戻すという意味があります。教会は、罪の支配から救われた者達の「信仰告白共同体」であり、互いに対して責任を共に負っている所です。罪を知った者が事柄をおおやけにせず一対一で語るのは相手への配慮であり、もし忠告を受け入れたならば、道を外れた「主にある兄弟」を取り戻せたことになります。(15節) /n第二段階  教会がいつも正しくある為には罪をそのまま温存させてはなりません。罪は、その人の周囲の人々をもおびやかすようになるからです。もし、忠告が聞き入れられなかった時、「他に一人か二人」を連れて行って再び話さなければなりません。ユダヤ法でも、すべてのことは複数の証人によって確定されました(申命記19:15)。新約聖書にもあります(「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。」テモテ5:19)。これは、性急さをとどめ、事柄を明確にするためです。 /n第三段階  しかしそれでも忠告が聞き入れられなかった時、教会の群れ全体でその人と向き合い、罪から離れるように勧告します。その人は罪から離れるか、教会の人々の愛から離れるか、選ばなければなりません。その人がかたくなであり続けるならば「主にある兄弟姉妹としての交わり」は終り、以後は,その人を「異邦人か徴税人(神様の支配の外で生きる者)と同様に見なす」(17節)関係へと変わります。教会が教会として立ち続けるためには、教会を聖なる場所として清く保ち、罪の告白・ざんげの祈りが口先だけに終ることがないように、又、つまずきの石を教会の中に置いたままではいけないのです。 /n教会の権威  教会は、イエス様が弟子達に託した「罪の赦し」の宣言(ヨハネ20:22‐23)の使命を継承している所です。教会にはそのような権威と責任が与えられていることを私達は信じるのです。悪に対する戦いは、祈りへと導きます。 /n祈りの力  二人が地上で心を一つにして祈る時、祈りはかなえられるとイエス様は約束されます。心を一つにして祈るとは、一人の祈りが他の人の祈りになるほど固く結合することです。二人が神様に対して同じ確信を抱いて祈る時、同じ賜物が二人を元気づけて感謝へと誘い、共に神様の恵みを経験することになります。祈りは、神様の意志に従って祈るということが前提です。 >> 「何事でも、神の御心にかなうことを私達が願うなら、神は聞き入れてくださる。」(Ⅰヨハネ5:14) << >> 「神に願うことは何でもかなえられます。私達が神のおきてを守り、御心に適うことを行なっているからです。そのおきてとは、神の子イエス・キリストの名を信じ,この方が命じられたように,互いに愛し合うことです。」(同3:22) <<  祈りの模範は「主の祈り」です。まず神様をたたえ、讃美し、神様に栄光が帰せられることを願ってから、私達のなくてならぬものを祈り求めます。  /nイエス・キリストの現臨   イエス様の名の下に、心を一つにして集まる所には、イエス様ご自身がその中に現臨される(そこに一緒におられ、交わりを続けられる)という恵みと幸いの約束がここにあります(20節)。イエス様の名前によって宣教され、イエス様の名前によって悪霊が追い出され、イエス様の名前において洗礼が授けられ、イエス様の名前が信仰告白として表されます。復活され天におられるイエス様は至る所に現臨することがお出来になるのです。私達の祈りはイエス様によって地上から天へと引き上げられます。ここに、今、イエス様が共におられます。何という幸い!何という恵み!

説教要旨 「一匹の羊」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 18章10-14節  10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 11 *人の子は、失われたものを救うために来た。 12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 /nはじめに  これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(10節)とありますように、私達は気をつけていないと、小さな者を軽んじてしまうことがあることを警告しています。人は人に対して優劣をつけたがります。特に相手の人が自分より優れているか,そうでないかによって相手への態度を決めたがります。初対面の場合、その判断のもとになる情報を相手から聞きたがります。社会では、肩書きがある人、学歴や地位、財産など力がある人に対して、一目おく空気があります。 /n教会の中にも  教会にもこの世の価値観が入り込んできます。ヤコブ書に「私の兄弟達、栄光に満ちた、私達の主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、又、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたはこちらの席におかけください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、私の足下に座るかしていなさい』というなら、あなたがたは、自分達の中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。良く聞きなさい。神は世の貧しい人達をあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさったではありませんか。」(2:1-5)とあります。 /n小さな者  小さな者がどれほど大切であるか、イエス様は譬え話をされました。 主人公は100 匹の羊を飼っていました。彼は羊に草を食べさせ水を与え、獣や羊泥棒から杖や石投げを使って群れを守りました。家に戻る時に、一匹足りないことに気付きました。羊は視力が弱く、放っておけば自分で群れに戻ることは不可能といわれます。野獣にかみ殺されるか、谷底に落ちるか、羊泥棒にさらわれ売り飛ばされるか、飢え死にします。  飼い主はこのまま迷い出た羊を放っておくことはありません。99匹を山に残して迷い出た一匹を探しに行きます。そしてついに羊を見つけて、「99匹より、その一匹のことを喜ぶ」(13節)という譬え話です。 /n山とは教会  ある註解者は99匹が山に残されることに注目します。山はイエス様が集中的に福音を伝え教えられる場所であり、そしてイエス様が変貌された場所(17 章)でもあり、さらに又、復活したイエス様が弟子達を招いて宣教の使命を与えられた(28:16)場所でもありました。山は聖なる特別な場所で「教会」が暗示されていて、教会で100匹の羊が,羊飼いイエス様に導かれて養われていると理解します。しかしそこから一匹の羊が迷い出た、つまり、信仰の挫折、信仰から離れてしまった状態になった時、羊飼いの愛はそのまま放ってはおきません。 /n神様の御心  結論は「小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない」(14節)ということです。一人のとうとさ、かけがえのなさ、その一人を徹底的に探し求められる神様の愛を心に刻み、私達教会の群れも失われた羊を探し求めて連れ帰ることを忘れてはなりません。 /n教会の群れの所有者は神様です。  それゆえ弱くても、小さくても、神様の所有である羊どうし互いに軽んじないように気をつけましょう(10節)。エゼキエル書にこうあります。 >> 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群を探しだし、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっている時に、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。私は彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。私はイスラエルの山々、谷間、又,居住地で彼らを養う。私は良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。私が私の群を養い、憩わせる、と主なる神は言われる。私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(34:11‐16)。 << /nすべての人は、羊飼いに守られるべき羊  豊かな人も貧しい人も、若い人も高齢者も、健康な人も病める人も、障害をもっている人も、仕事のある人もない人も、教会の門から入ってくるように、門は開かれています。そして、教会の中には序列はありません。牧師は説教の役割が与えられ、信仰告白共同体の群れのお世話を、役員と一緒にしますが、序列ではありません。私達すべてが羊であり、羊飼いはイエス様です。私達は聖書を通してイエス様の言葉に聞き従っていく群れです。教会は、牧師や役員が所有している群れではなく、所有者は神様です。それゆえ、群れの中に弱い者、小さな者がいたとしても、神様の所有であるゆえに、私達は軽んじてはならないのです。強くても弱くても、大きくても小さくても、神様の目からご覧になれば、みな等しくかけがいのない、愛する羊、愛する魂なのです。 /n迷い出た羊は、1人では戻れない  迷い出た羊は一匹だけで生き延びることはできないように、教会から離れた魂は自分だけで命の泉から水を汲むことはむつかしく、滅びの道へとつきすすみます。この世の支配、私達を神様から遠ざけるこの世の罪の支配は、すさまじいほどに強く、私達の目をくらまします。小さな者が1人でも滅びることは、父なる神様の御心ではないゆえに、私達は互いに祈り合い、支え合い、羊飼いのイエス様の後をしっかりついていきたいと願うものです。

説教要旨 「神の言葉には力がある」 佐藤順子先生(東洋英和女学院

/n[ヨハネによる福音書] 4章46-54節 46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。 48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。 /nはじめに  私は東京の幼稚園から大学院まであるキリスト教主義学校で30年聖書の教師をしてきましたが、しばらく前から校長(高校)という立場で仕事をしております。そこで今日は、学校の中で感じたことから説教をさせていただきたいと思います。 /n生きる力を身につける  最近耳にする言葉に「・・力」というのがあります。昔から学力、能力、体力、理解力、集中力、忍耐力など言われてきましたが、最近では「生活力」「人間力」「友達力」などと言われます。これは新しいカリキュラムのもとで、子供達に生きる力を身につけさせるということが全面に押し出された結果ではないかと思います。生きる力を身につける、といわれるようになったのは、それなりの理由があったからだと思います。  今日、教育の世界では、いじめ、不登校、学級崩壊、社会体験や生活体験の衰退・減少、道徳観念の低下、家庭教育のあり方や学校との連携の問題、モンスター・ピアレント(monster parent)という言葉もこの頃あります。又受験準備教育の過熱化など、教師達も家庭の保護者達も本当に神経をすり減らしているというのが現実です。その上に、社会の急速な変化があります。情報機器の発達、情報の氾濫、目に見えないバーチャルな世界での人との結びつき、そこから起こってくるさまざまな問題、子供達が知らない間に被害者・あるいは加害者になるという事件など問題が山のようにあり、こういうことを毎日見聞きしているのが現実です。このような現実社会の中で、子供達が自分自身を見失うことなく流れに押しつぶされないでしっかりと立って前を向いて歩けるように、「問題は何か」ということを見てとり、それをしっかり受けとめ、主体的にかかわりながら、「どうやって自分は生きるべきかということを教える」「生きる力を身につけさせる」ということは,非常に意味があることです。 /nスキル(skill)  「生きる力」といいますと、どうしても一種のskill(技術)のように取られてしまいます。skillは、熟練した技術、上手、腕前、技能、技と辞書にあります。生きる為skillを身につける、出会う問題にそのskillを時に応じて使い分けて立ち向かい問題を解決していくなら、それにこしたことはありません。けれども私達の人生において起こる問題は、そんなに簡単なものではなく、生きることそのものへの不安と恐怖、生きていくことに否定的になったり絶望的になったりする私達です。そのような時には、skillは全く意味がなく役に立ちません。 /n大人も同じ・・  生きることへの問題は、年をとるにつれて大人にも起こってきます。病気や老い、死の問題が私達を襲ってきます。生きる力が弱くなります。人間はいつの時代、いつの年齢にあっても、skillがあっても、生きる困難さがつきまとう、それが私達人間です。私達は将来のこと (年金や医療の問題、戦争や平和の問題、自然環境の問題など)に対してさまざまな不安や心配、恐怖などを持っています。これらに対して大人は大人なりに将来安心して生きていけるようにと備えを致します。備えは必要なことですが,どんなに備えをしても、何の為にこんな私が生きているのか、こんな私が生きていることに何の意味があるのかがわからなくなり、なぜ私だけがこんな目にあうのか、何で私は生き続けなければならないのかという問題は起こってきます。自分自身の 存在の意味と目的の不確実性の問題です。このような不安と恐怖、無意味さを抱いた時、生きる為のskillがあっても役にたちません。 /nさらに  私達を生かしている原動力の一つに誇り・名誉・自尊心があります。人より優れている点、強み、立派な点(家柄、学歴、経済力、高価なものを沢山持っている)など、人より少しでも優れていることは私達を強くさせる、ということもあります。しかしそれらは、生きる目的、意味には決して答えず、力にならないことを私達はよく知っています。 /nskillによらない生き方  では技術ではない生きる力とは何なのでしょうか。今日読んでいただいた聖書の箇所に目を向けながら、考えてみたいと思います。  ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを行なったイエス様は、再びカナに戻られて第二のしるし「王様の役人の息子をいやす」というしるしを行った出来事が記されています。内容は、ある王の役人に一人息子がおり、その息子は病気でした。しかも今にも死にそうなほどでした。イエス様が来られると聞き,役人はイエス様の所に来て「どうぞ息子のいる家まで来て息子の病気を治して下さい」と願い出ました。地位や名誉や体面などあったでしょうがそれらを全部かなぐり捨てて必死に願ったのでしょう。けれどもイエス様は、「あなたがたは奇蹟を見なければ決して信じない」と言われました。死にそうな息子を持つ父親にとってはとても冷たいものでした。でも役人はあきらめずに「息子が死なないうちにおいで下さい」とすがるように言いました。するとイエス様は「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃいました。 /n「帰りなさい」  「帰る」とは、もと居た所に戻るということですが、ここでは戻るより「行きなさい」を表す言葉が使われています。「あちらに行きなさい」ということです。あちらとは「新しい事態」が待ち受けている所、新しい事態とは「あなたの息子は生きている」ということです。口語訳聖書では「助かる」と訳されましたが、ここでは「生きる」と訳されています。これは死にそうだったのが助かった、病気が治った、死ぬの反対語、というより「新しく生きるようになる」という意味が込められています。 /n新しく生きる  どのように新しいのでしょうか。病気が治ったという新しさは勿論です。けれどもそれだけではなく、「イエス様の言葉には力があってイエス様の言葉で生かされたという信仰と喜びのある所」に行きなさい、というふうに私には感じられます。そう言われた役人は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)とあります。 /n「自分に」  口語訳聖書では「その人はイエスが自分に言われた言葉を信じて帰っていった。」となっています。この役人は今ここで必死に願っている「自分」に向かってイエス様が言われた言葉としてしっかり受けとめて帰っていったのです。 聖書の言葉を自分に語っている言葉として受け止め,信じることの大切さ。そこに新しい事態が生まれる、新しい生き方が与えられる、ということを示しているのだと思います。役人が「帰っていった」というのも、「まったく新しい事態が起こっている所に向かって行った」ということです。 /n同じ時刻にいやされた  役人がイエス様の言葉に対する確信に満たされて歩いている途中、迎えのしもべ達から息子が生きていることを教えられました。そして息子の病気が良くなった時間を聞いてみると「あなたの息子は生きる」と言われた同じ時刻であったことを父親は知るのです。イエス様の言葉が発せられた同じ時刻に、いやしがなされたことを知ったのです。どんなに驚いたことでしょう。けれどもこの父親はただ驚くだけではありませんでした。イエス様の言葉には大きくて不思議な力があること、死にそうな人を生かす力があることを知ったのです。そして家族の人達全員でイエス様を救い主と信じるようになったというのです。 /nしるし  この出来事は二度目の「しるし」であるとヨハネは記しています(54節)。 奇蹟がしるしといわれるのはイエス様が救い主であることを示しているからです。イエス様が救い主であることを明らかにして、それによってイエス様が救い主であることの栄光を表したのです。この奇蹟は「イエス様が救い主であることを示すしるし」になったのです。 /nこの話の中心は  この話の中心は役人の信仰、見ないで信じる信仰、イエス様の言葉を信じる信仰、ということではありません。彼の信仰は決して賞賛されてはいません。この話の中心はあくまでもイエス様です。もっと正確にいうなら「イエス様の言葉の力」です。イエス様はヨハネ福音書でいうなら「神の言葉」そのものです。肉体をもって来られた「神の言葉」です。では何を語る神の言葉でしょうか。いうまでもなく「神の愛」です。「神はあなたを愛していますよ」ということを伝える神の言葉です。「あなたがどんな人でもどんな状況にあっても、あなたを愛していますよ。」「あなたの罪を、独り子イエス様を十字架につけるほどまでして赦して下さるそのような愛を、神様はあなたに向かって注いでいますよ」ということを語る神の言葉です。 /n神様の言葉には力がある  神様の言葉には力があり人を生かす力があることを、役人の息子のいやしの出来事も語っておりますし、聖書全体で繰り返し繰り返し教えてくれます。誰かに愛されているということ、私は愛されている存在だと感じられること、このことが人を勇気づけ、生きようとさせるのです。これは人間の言葉もそうです。人からかけられた暖かい言葉、やさしい言葉、励ましの言葉でどんなに私達は嬉しく力を与えられたことでしょう。けれどもその言葉の持つ威力も限りがあります。イエス様の言葉、神様の言葉は限りがありません。教会が伝えなければいけないこと、私が働いているキリスト教学校が伝えなければいけないことは、まさに神様の愛であり、聖書の言葉、神様の言葉だと思います。そしてそこから子供達が本当に生きる力が与えられるのだと思います。聖書の言葉を教えることなしに生きる力をつけさせることは出来ないと私は思います。 /n牧師の家庭に生まれて  私は牧師の家庭に生まれ、行きたくなくても日曜日毎に教会に行き、祈りたくなくても家庭の祈りで祈るという生活をしている内に、神様の言葉を信じる信仰が芽生え、聖書の言葉から励ましや慰めや力が与えられて今日までまいりました。そんなに裕福ではない,むしろ世間から見れば貧しい生活であったと思いますが、神様に仕え,教会の為に働く両親と家族の為に神様は一番良いことをして下さるということを身をもって 経験してきました。神様の言葉を信じて神様に頼る者に神様は決して悪いようにはなさらないと確信を抱くようになりました。 どのような状況の中でも,その只中に神様の言葉を語って下さるイエス様が共にいて下さること、その信仰によってどのような状況でも勇気と希望を見出して先に進むことが出来ました。生きることが出来る力としての信仰、私自身の信仰が弱くてもいつも神様が言葉を通して力づけ励まして信仰を少しずつ強めてきて下さったのです。両親の姿から、このような信仰に導かれ育てられたことを本当に感謝しています。 /n両親の残したもの   両親が亡くなった後、その住まいの整理をしましたが、つつましく生きた二人には財産などというものは一つもありませんでした。それでも私は両親が貧乏で不幸せであったなどと一度も感じたことはありませんでした。神様を信じ感謝と喜びの生活をしていた二人は、あるものに満足し、置かれた状況の中で神様を頼りに生き生きと生活し、亡くなった時に必要なものは十分過ぎるほど用意して神様に召されていきました。両親が残してくれたもの、それは救い主を信じる信仰、聖書に記されている神様の言葉を信じる信仰である、とつくづく思いました。この遺産こそ、お金やものや手につけた技術skillと比べものにならない、もっともっと高価で価値のある遺産であると思いました。 *p17*「帰りなさい。新しい状況が待っているところに行きなさい。あなたは生きる。」  こう言ってくれるのは神様の言葉であるイエス様だけです。神様の言葉を信じイエス様を救い主と信じること、これこそがどのような状況の時でも私達を生かす力であり、神様の言葉,イエス様の言葉こそが真に生きる力だと聖書は教えていてくれます。使徒パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者にとっては神の力です」(コリントⅠ1:18)と言いました。神様はたった独りの子供を十字架につけるほどにあなたを愛していますよという十字架の言葉が、私達にとって神の力であり生きる力であることを心にとめていきたいと思います。そしてキリストの教会と、それに連なるクリスチャンである私達、そして日本中に存在するキリスト教の学校が共に連携しながら、神様の言葉、イエス様の十字架を人々に伝える貴いつとめをしっかりと果たしていく者になりたいと願っております。 (文責 佐藤義子)

「つまずきを来たらす人はわざわいなるかな」 (文語訳)

/n[マタイによる福音書] 18章6-9節 6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。 7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。 8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。 9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」 /nはじめに  前回、天の国に入るには心を入れ替えて子供のようになること(地位を求めず、無条件の信頼の中で生き、偉くなろうと思わず、ありのままで、偽善がなく,貪欲でなく、自分にふさわしいことで満足するetc.)(18:3)を学びました。今日は「つまずき」について学びます。 /nつまずく  「つまずく」とはイエス・キリストの福音から離れる、信仰を捨ててしまうことです。つまずかせる者とは、信仰者を福音から離れさせてしまう人です。そのようなことをする位なら、その人は深い海に沈められた方が良いというきびしい言葉がここにあります。 /n「世は人をつまずかせるから不幸だ」  昔も今も、この世には人々を神様から離れさせる誘惑が数え切れないほどあり、それらは避けられないとあります。しかしもし私達が人々のつまずきの石となるならば、「わざわいなるかな」(説教題)です。 /n教会の中で・・  つまずきの問題は、著者マタイの教会にあったことが考えられますが、コリントやガラテヤの教会にもありました。パウロは相手をつまずかせない為にどのようにすべきかを「ローマの信徒への手紙14章」や「コリントの信徒への手紙8章,10章」で教えています。たとえば宗教上の理由で菜食主義を通している人達がおりましたが、この人達に対して、肉食主義者は軽蔑せず、菜食主義者の前には肉を置いてはいけないと教えます。又、宗教上の理由で特定の日や特別な何かを大事にしている人がいても、各自が自分の心の確信に従ってやっていることなので干渉する必要はないこと。又、キリスト者になっても長い習慣からなかなか抜けきれずに、古い考え方の中で信仰を守っている人達に対して批判してはいけないこと。自分はすべてのことにおいて自由であっても、他人が自分のやることにつまずくのであれば、他人の良心を傷つけない為に不自由を甘んじて受けるように教えます。彼らの弱い良心を傷つけることは罪を犯すこと(コリント8: 11‐12)なのです。 /nつまずきの原因を切り捨てよ  8節以下では、この世の罪の誘惑に自分自身の肉体がひきずられて つまずくようであれば、断固たる決断をもって肉体を切り捨てるように(悪を避ける為には最も高価なものをも捨てよ)と教えています。この厳しい言葉は、山上の説教「体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」で学びました。二度も同じ忠告があるということは、悪への誘惑がどれほど強いかを示しています。  教会は「小さい者」の群れです。私達の罪への堕落は結果的に他人をつまずかせることになり、神様の裁きを招くことになります。 /n戦いは終らない  「つまずきは避けられない。」(7節)のです。それゆえ、つまずきに対する戦いは終ることはありません。 /n十字架の意味を知る  ある神学者(関根正雄氏)が、教会の中で人をつまずかせる者は、十字架がわかっていない、と言いました。十字架のない所では行為が評価され、立派な信仰を目指すようになるというのです。人が行為で救われるなら十字架は必要でなくなります。人は律法を行ない得ないゆえにイエス様は十字架で死んで下さいました。それによって罪が赦され救われたのであって,誰一人神様の前に誇れるものはありません。  十字架によって私達に義が与えられ、それによって天の国に入る道が備えられたのに、十字架以外に天の国に入る基準があるかのように教える人は、人をつまずかせる「わざわいなるかな」と言われる人です。 /n正しく理解し、従う。  私達の伝道所は、自由な個人が互いに愛し合う「本当のキリストの弟子」(ヨハネ8:31)から成る教会を目指しています。その為にはイエス様の教えを正しく理解し、正しく従うこと以外にはありません。「生身の人間だから仕方がない」などと妥協せず、イエス様の教えと照らし合わせながら歩む努力と、イエス様が一人一人を大切にされたように、互いに愛をもって祈り支え合う(=つまずかせない)歩みをしていく為に、今週もイエス様にしっかりつながって歩みたいと願うものです。