「万事を益とされる神」  牧師 佐藤義子

/n詩編118:5-9 /nロマ書8:28-32 /nはじめに   今日のロマ書8章28節は「神を愛する者達」との言葉から始まっています。聖書は、神様の愛について沢山書かれており、毎週私達は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである</span>。」との言葉を「赦しの言葉」として聞くことが出来ます。神様の愛がどれほど大きいものか、聖書を読めば読む程、私達は神様から愛されていることを知るようになります。 しかし今日の聖書は、「私達人間の、神様への愛」を与えられた人達が主語です。神様を信じて、又、御子イエス様を信じてバプテスマを受けたクリスチャンは、神様から愛が降り注がれていることを知った者として、その応答として神様を愛するようになります。 「神様を愛する者」とは、神様が共にいて下さることを忘れず神様を求め、神様に信頼し、神様に従い(御言葉に従い)、神様を礼拝することです。 /n神さまの御計画   聖書はさらに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神を愛する者たち</span>」のことを「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御計画に従って召された者たち</span>」と言い換えています。この教会に導かれて今、ここにおられる方の中には、「自分で決めて」ここにいると考える方もいらっしゃるでしょう。確かに、そのようにも言えます。しかし聖書は、あなたが神を愛する者となったのは、「神様の御計画の中にあった」と言うのです。そして、そのように神様が導いて下さったと言っています。 /n万事が益となるように働く   聖書はさらに、神様の御計画の中で導かれて、神様を愛する者とされた者たちには、その身に起こるすべてのことが益となるように共に働くといっています。多くの宗教は、信じれば良いことが起こる(ご利益がある)と勧誘します。聖書では、神様を信じれば、つらいことは何もなくなり良いことしか起こらないなどとは言いません。クリスチャンになっても、いろいろなことが起こります。(使徒パウロの人生のように・・)。苦しいこと,つらいこと、人にはわかってもらえないこと、生活の苦しみ、人間関係の苦しみ、家族の重荷、孤独や不安、さまざまな障害・・などが起こり得ます。しかし人生の中でどのようなことが起こったとしても、私達を導かれる神様は、それらすべてのことを用いて、私達にとって真の益である「救い」と「真実の命」をもたらしてくださる・・。 そのことを、信仰を与えられたクリスチャンは知っているというのです。  困難や艱難は、それ自体喜ばしいものではありません。しかしそれらが、私達を、神様の目的に導くように用いられるというのです。ですからクリスチャンは、どのような事柄に遭遇しても、驚いたり、あわてたりすることなく、それらが自分自身の救いへの祝福へと変えられることを確信して歩み続けることが出来るのです。 /n御子の姿に似た者 29節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は前もって知っておられた者達を、御子の姿に似た者にしようとあらかじえ定められました。</span>」とあります。神様は私達の命の根源であり、神様の永遠の思いの中に、私達を受け入れる場所があり、私達は神様から前もって知られていた存在であると記されています。その私達を、神様は「御子キリストに似た者とする」ことをあらかじめ定められたと言うのです。神様は、イエス様の生き方を私達の生き方の原型となさり、そのように生きるように私達の使命を定められました。 /n神は私達の味方 31節に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対出来ますか。」</span>とあります。私達は罪のため神様との断絶関係にありましたが、イエス様が十字架で死なれたゆえに、私達は赦されて神様との和解が与えられました。イエス様を下さったこの神様の愛を受け入れた者は、神様の子とされ、神様との交わりが与えられ、神様は「私達の神」となって下さったゆえに「私達の味方」です。神様が私達の味方であるなら、誰もこの交わりを破れません。私達は全ての敵に対して「勝利者」です。神様に愛され神様を愛する者の道を、確信をもって共に進んでいきましょう。

  「 霊の結ぶ実」   牧師  佐藤義子

/n詩編95:1-7 /nガラテヤ書5:13-26 /nはじめに 私達人間が救われる為に何が必要かと言えば、悔い改めて、イエス様を信じること以外には何もありません。「律法」は、イエス様が来られる前は必要なものでした。何が正しく何が間違っているのか、道しるべの役割をしていました。そしてそれ迄は、律法を行ないさえすれば神の国に入ることが出来ると教えられていました。しかし人間は律法を完全に守ることは出来ませんでした。安息日の規定でもわかるように、ユダヤ教指導者達は律法の精神である神を愛し、隣人を愛することを忘れて、律法の外側の形だけ守ることに一生懸命でした。その姿は、イエス様から「白く塗られた墓」(外側だけきれいにして、内側は汚い骨で満ちている:マタイ23章)と断罪されています。 /n行為でなく、信仰によって救われる 律法を守ることで人間は救われると教えられた時代は、イエス様が来られたことで終りました。というのは、イエス様が、神様と断絶していた私達人間のために命を献げて、神様との和解の道を開いて下さったからです。    それが十字架です。私達人間が神様と断絶していたのは、私達の罪のためでした。その罪を神様から赦していただくために、罪のないイエス様が、人間の罪を引き受けて十字架で血を流されました。その血によって神様は私達人間の罪を赦し、私達と神様との間に和解がもたらされたのです。  イエス様を信じる信仰・・・イエス様が神の御子であり、神から遣わされ、私達の為に犠牲となられ、それによって私達は罪が赦され、神様の世界に招き入れられ、永遠の命が与えられたことを信じる信仰、この信仰によって私達は救われたのであり、この信仰によって誰もが救われるのです。 /nまちがった信仰 パウロの伝道によって生れたガラテヤの教会に、あとからパウロに敵意を抱く指導者が入り込み、救われる為には信仰のほかに、律法に従うように、さらに、割礼も必要であると教えました。彼らはユダヤ教から改宗した人達で、ユダヤ教的な考えをそのまま持ち込んできたのです。  パウロは、この福音理解の誤解に対して徹底的に戦いました。今日の聖書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">兄弟達、あなた方は、自由を得る為に召しだされたのです</span>。」(13節)とあります。イエス・キリストを信じる信仰によって救われた人々が、今になって割礼を受けることで救いを完成させるかのように考えるならば、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私パウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります</span>」(5:2)。パウロが恐れていたのは、ガラテヤの人達が、自分達が救われたのは、イエス様の十字架で流された血によって罪が赦され、そのことを信じて、悔い改めて救われたのに、割礼が救いの条件のように(人間の行為が救いに力を与えるかのように)錯覚することでした。パウロは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です</span>」(6節)と教えます。 /n愛によって互いに仕える パウロは、生まれながらの本能に従う生き方ではなく、又、律法によって自己を律するユダヤ教的な生き方でもなく、第三の道として、イエス・キリストを信じることによって、あらゆる束縛から解放されるキリスト者の自由を教えました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私には、全てのことが許されている。しかし、すべてのことが益になって私達を造り上げるわけではない</span>」とコリント書(10章)で言っているように、今日の聖書でも、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさいと勧めます。 /n霊の結ぶ実 クリスチャンは、自分の感情に従って生きる者から、神様から送られる霊の導きに従って生きるように、根本的に変えられた者です。霊の導きに従う時、必ず実を結びます。それは「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」です。これらは律法によってではなく、苦しい修行の結果でもなく、御霊の導きに従って生きる中で、御霊の持つ力によって生れてくる実であり、結果的に律法の精神(神を愛し、隣人を愛する)をも満たしています。御声に従って歩んでいきたいと祈ります。

  「復活の主と弟子達(2)」   伝道師  平賀真理子

/n詩編33:6-19 /nヨハネ福音書21:20-25    /nはじめに   前回は、復活の主・イエス様が一番弟子のペトロに信徒達のリーダーとして群れを率いる役割を渡された出来事を学びました。更にその先には、主と同じ「<span class="deco" style="font-weight:bold;">行きたくない所に連れて行かれる</span>」(18節)こともイエス様は預言されました。それはペトロが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の栄光を現わすようになる</span>」(19節)為でした。ペトロは死を恐れるあまり十字架を前にして、イエス様を知らないと言ってしまう大きな過ちを犯したにもかかわらず、イエス様は赦して下さいました。のみならず、この世に神の国を広げる働きの後継者として用いられたのです。多く赦された者は、より多く愛するようになります。 /n「ペトロが振り向くと」(20節) イエス様に赦されて更に主を愛するようになったペトロにとって、主と同じ道(=この世から否定され苦しみを受ける道)をたどるということは、感謝であり、後継者としての任務を果たす恵みの出来事です。普通の人にとっては苦しみ以外の何ものでもないことが、信仰者にとっては大きな恵みと受け取ることができるのです。イエス様から「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の羊を飼いなさい</span>」と依頼されたことは、ペトロにとって喜びです!そして任務遂行の為には主の御言葉どおり、ただただ「イエス様に従う」だけでよいのです。    ところがペトロは「振り向き」ました。主が御言葉を下さったその直後、ペトロは別の人のことが気になってしまったのです。相手は自分よりも主から愛されていると思われる弟子でした。その人が自分と同じ「苦しみの道」を歩むのか、それとも苦しみを避けられるのかが気になったのです。神様の国の為に大事な役割を告げられたペトロが発した言葉は、神様のご計画でも与えられた役割への感謝でもなく、振り向いて目に入ってきた別の弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」との質問でした。   ペトロは本当に、愚かで弱い私達人間の代表だと知らされます。神様の憐れみゆえに神の民として再び招かれながら、この世のことに気をとられています。私達も同じです。悔い改めて、神様に心を向けたいと思います。   /n「あなたに何の関係があるか。あなたは・・」    今日の聖書で読み取る第一のことは、イエス様のペトロに対しての御言葉です。ペトロにとって、主から愛されていた別の弟子の定めは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたに何の関係があるか</span>。(全くない!)<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは、わたしに従いなさい</span>。」という御言葉です。私達は、他人と比べて愛や能力や期待の大きさを測り、そのことで自分の価値を測ろうとしがちです。智恵も愛情も能力も限界ばかりの人間世界の中で、狭い範囲を囲って競争し、そのことで一喜一憂します。そのような罪の世界の習性に慣れてしまっている私達は、イエス様のペトロへの言葉によって目を覚ますよう促されます。 「神様には、それぞれの人間の心や賜物に応じた計画がある。それは、神様とその人との縦の結びつきであって、信仰の仲間同士であっても、横から口をはさむことでは全くない。人間がまずすべきことは、それぞれが、縦の線である神様との結びつきを強めることであり、イエス様の御言葉、御心、御計画に従うことである。」と主は言われているのです。 /n「あなたは、わたしに従いなさい。」    イエス様が言われた意味は、こういうことではないでしょうか。  「あなたのやるべきことは、ただ一つ。私を見つめて、私につながり、私に従うことなのだよ。あなたにとって、他の人の運命は二の次だよ。私の姿を見失わないようにしなさい。なぜなら私の復活の姿をあなた方に示す前には、あなた方は私を見失って元の世界(漁師)に戻りかけていたではないか。再びそうなってはならない。むしろ神の国のリーダーとしての、あなた独自の道を私は備えている。それは神様の栄光を現わす恵みの道であり、私につながっていることでそれを続けていくことができるのだよ。だから『<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは、わたしに従いなさい</span>』」。 これは、私達一人一人にかけられている御言葉でもあります。私達は、家庭や職場や学校において神の国を広める役目を実は担っているのです。「あなたは、私に従いなさい。」とイエス様は招いておられます。喜んで従う者になりたいと願います。聖霊の助けを祈っていきましょう。

「神の生きた言葉」      牧師 佐藤義子

/nエレミヤ書10:10-16 /n1ペトロ1:17-25 /nはじめに  先週の日曜日、伝道所の2012年度の定期総会が開かれ、今年度の歩みの目標に四つのことを掲げました。第一に、毎週の「礼拝」を大切に守る。第二に、神様の恵みに感謝し、自分を神様にささげる献身のしるしである「献金」を大切にする。第三に、毎日の生活の中で、「御言葉」を読み、「祈る」時間を確保する。第四に、伝道所にこられた方々を「大切に迎え入れ」、会員がその方々のために何が出来るかを考えていく・・ことです。 /n礼拝を大切に守る  イザヤ書には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">安息日を喜びの日と呼び・・これを尊ぶなら、その時、あなたは主を喜びとする。」</span>とあります(59:13-14)。 毎週日曜日に礼拝をささげられることは喜びであり、そこで私達が礼拝し賛美する神様(父・子・聖霊)は、私達にとって喜びの存在であると聖書は告げています。なぜなら私達は神様から愛されているからです。神様と私達は幼子と親の関係にあり、イエス様は私達に、祈る時は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天におられる私達の父よ</span>」と呼び掛けて、願い求めることを教えて下さいました(マタイ6:9)。 /n動物犠牲による罪のゆるし 神様は「聖(きよい方)」であり、「義(ただしい方)」であり、完全な方であるのに対して、人間はあまりにも不完全で罪深く、神様との契約(約束)である律法も破り続けていましたから、その関係は断絶に近いものでした。イスラエルの人々は自分達が犯した罪を、牛や羊をささげることによって神様に赦しを乞いました。エルサレム神殿では毎日、人々を代表して祭司が神様に、「いけにえ」をささげていました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">血を流すことなしには罪の赦しはありえない</span>」(ヘブライ書9:22)からです。 しかし長い間続いた、この罪の赦しの為の動物犠牲は、イエス様の死をもって終りました。それは、動物の血によっては「<span class="deco" style="font-weight:bold;">決して罪を除くことは出来ない</span>」(同10:11)からであり、イエス様が「<span class="deco" style="font-weight:bold;">ただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために</span>」(同9:26)来て下さったからです。  今日の聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方がむなしい生活から贖われたのは、・・きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです</span>」とあります。 神様は独り子イエス様を地上に送られ、イエス様に全人類の罪を負わせ、この世の罪をあがなう為にイエス様を「いけにえ」とされました。それが十字架の死です。この死により信じる者すべての罪が赦されました。 /n恵みのわざ 歴史的に見れば、イエス様の死はユダヤ人の「ねたみ」によるものでしたが、目に見えない神様の御計画によれば、すべての人が神様との交わりを失って、絶望と罪の中に放置されていたところを、神様は御子イエス・キリストの十字架で流された尊い血潮によって罪を赦し、罪の世から人々を救い出すという「恵みのわざ」を行われました。私達が罪の支配下から、神様の恵みの世界へと救い上げられるための唯一の道は、「イエス・キリストの十字架の出来事は、私の為であった」ことを信じて、「悔い改めて神様に立ち帰る」ことです。神様を信じ、御子イエス様を信じる信仰が、私達の罪を赦し、罪から私達を解き放つのです。 /n新生 今日の聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生れたのです</span>」とあります。信仰が与えられたクリスチャンは、「神様の生きた言葉によって新たに生れた者」だと宣言しています。 「新生」(NEW BIRTH)は、悔い改めた後に新たに受ける信仰の経験をさす言葉です。神様に背き、この世の霊の力(迷信や、おまじないや、占いなど)に影響され、縛られていた者が、神様が下さる聖霊の働きによって、自分自身の本質的部分が全く新しくされ、古い生活と断絶し、新しく神様の命を受ける経験をすることです。神様の言葉は、人間を新しく創造し、完全に造り変える力をもつのです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御父は、御心のままに、真理の言葉によって私達を生んでくださいました</span>。」(ヤコブ書1:18) クリスチャンは、神様の生きた・真理の言葉によって生まれた者です。

「復活の主と弟子達(1)」  伝道師 平賀真理子

/n詩編23:1-6 /nヨハネ福音書21:15-19 /nはじめに   今日の新約聖書は、復活の主・イエス様が姿を現わされ、失望していた弟子達を、食事によって力づけた後の出来事として記されています。   イエス様がなさったことは、御自分の宣教活動で広まった「この世における神の国の民」を率いる牧者の役割を弟子に譲ることを宣言されることでした。選ばれた弟子はシモン・ペトロです。彼はイエス様のことを「メシア」(救い主)と告白した弟子で、この告白により、イエス様は天の国の御自分の権威を、ペトロに授けることを宣言されています。(マタイ16章)。 /n繰り返された問いと応答 今日の箇所で、イエス様はペトロに、他の弟子より御自分を「愛しているか」を聞かれています。そして、「私の羊を飼いなさい。」とは、イエス様を信じて従う者達を教え導き守る役目を「ぺトロ、お前に渡すのだよ」という意味です。ここで印象的なのは、イエス様がペトロに三回も「わたしを愛しているか」と問い、「愛している」と三回も答えさせていることです。ペトロはイエス様をメシアとして告白した弟子ですが、大きな失敗もしました。イエス様の十字架という苦難の前に、イエス様と共に死ぬことを誓ったにもかかわらず、その死が間近になると、三回もイエス様を知らないと言ってしまったのです。嫉妬深い敵対者であるサタンから見れば、「ペトロは自分の性質を受け継いでおり、神の国の民ではない」と主張するでしょう。イエス様は、「知らない」との裏切りの発言を越える、価値ある発言を導くことで、ペトロをサタンの追求から守り、罪の世界へ再び沈みかけたペトロを、御自分の方へ導かれたのです。 /n「わたしを愛しているか」 イエス様の「わたしを愛しているか」の、最初と二回目の「愛」の語は、「神様の人間に対する愛」と同じ性質で愛するかという意味ですが、ペトロが答えた「愛する」は、二度とも人間同士の「愛」でした。そこで三回目のイエス様の「愛するか」は、ペトロが用いた「愛」に変えられました。ご自分の言葉の深い意味が分からないペトロを憐れみ、へりくだられたのでしょう。 /n「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」  イエス様の、「わたしを愛しているか」の質問に、ペトロは「はい、愛しています」と言わずに、「愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。自分を厳しく見つめるならば、「責任を持って強い意志で主を愛しぬいてはいない」という不信仰に気付くはずです。しかし、ペトロは自分の大きな罪は脇に置き、厚かましく主に甘えているのではないでしょうか。主の御言葉の重みを理解できない愚かさと、罪に対する悔い改めの不徹底さと自己中心性・・。ペトロを指さして、自分には関係のないことだと笑っていられない、と自分の心が訴えかけてきます。 /n罪の心 限られた能力しか持たない私達が、全知全能の神様のご計画の全てを理解することなど出来ません。それなのに私達は、自分の知識や感覚を越えたものを、「信じられない」と排除しようとする罪の心が働きます。罪の世界の習性に引きずられて罪に陥った時にも、悔い改めることから目をそらそうとします。又、他人の罪を見て自分の罪はまだ軽いと考えるなど、懺悔しなくてはならないことが多くあることに気付きます。 /n「わたしに従いなさい」 このあとイエス様はペトロに「わたしに従いなさい」と言われました。「従う」は、生死を共にするという意味を含むこともあります。運命を共にすることほど人を結びつけるものはないでしょう。 復活の主・イエス様は、罪を重ねてしまう愚かな弱い私達にも「わたしを愛しているか」「わたしに従いなさい」と、今も招いておられます。この招きに信仰をもって従うことは、神様の愛のように、へりくだる性質を持って愛していくことであり、時には大きな自己犠牲を強いられるかもしれません。しかしそれは、神様から創られた私達人間の魂が本当に満たされる生き方でもあります。主の御前にふさわしい歩みができるよう祈りましょう。

「さあ、来て、食事をしなさい」  牧師 佐藤義子

/n詩編16:1-11 /nヨハネ福音書21:1-14 /nはじめに 先週のしゅろの日曜日から始まった一週間を、私達はイエス様の苦しみに共にあずかる受難週として過ごしました。 伝道所では、受難週黙想会(月-金)を通して、イエス様の「告別の説教」や、イエス様が「弟子達の足を洗い」、「最後の晩餐」を経て、「ゲッセマネの園で祈り」、その後ユダに案内されてやってきた兵士や千人隊長、およびユダヤ人の下役達によって「捕えられ」、大祭司の「尋問」を受け、更に総督ピラトによる「裁判」を受けたこと、イエス様が無実であることを知っていたピラトは、最後までイエス様を釈放しようと努めましたが、ユダヤ人による「殺せ、殺せ、十字架につけよ」との、暴動にまで発展しそうな怒号の前に、ついに「死刑を許可」したこと、そして金曜日、イエス様は「十字架につけられた」こと、昼の12時ごろになると全地は暗くなり、それが3時まで続き、3時にイエス様は大声で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">すべて成し遂げられた</span>」と叫ばれ、「息を引き取られたこと」を、共に心に覚えました。 /n復活 ユダヤの一日は日没から始まり土曜日は安息日です。安息日にはイエス様の遺体も下ろせなくなります。そこでイエス様を信じながらもユダヤ人を恐れて自分の信仰を隠していたアリマタヤ出身のヨセフは、ピラトから遺体を十字架からおろす許可をとり、ニコデモ(ヨハネ福音書3章参照)と一緒にユダヤ人の埋葬の習慣に従い、イエス様の遺体をきよめ、香料と共に遺体を亜麻布に包んで、新しいお墓に納めました。 三日目の日曜日の朝、まだ暗いうちにマグダラのマリアが墓に行くと、墓は「空」になっていました。マリアが墓の外で泣いていると、イエス様が現れて声をかけられました。イエス様は復活されたのです! その後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけた家にいた弟子達の所に、復活されたイエス様は来られて平和を祈られました。どんなに大きな喜びが弟子達に訪れたことでしょう!この時、弟子トマスは不在でした。彼は、自分の目でイエス様の手に釘跡を見、指を釘跡に入れてみなければ、又、手をわき腹に入れなければ決して信じないと言いました。 八日後、イエス様は再び来られトマスに言われました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの指をここに宛てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。見ないのに信じる人は幸いである</span>。」   /nガリラヤの海で ヨハネ福音書はこのあと結びの言葉で完結します。本日読んだ21章は後で付け加えられたものですが、私達に多くのメッセージを与えます。  今日の箇所は、ガリラヤの海でペトロと他の6人の弟子が漁に出掛けたものの、夜通し働いても収穫はなく、夜が明けました。すると岸から一人の男の人が声をかけてきます。弟子達は収穫が何もないことを告げると、その人は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">舟の右側に網を打つように</span>」と指示してきました。その通りにすると大漁となり、重くて網を持ちあげることが出来ませんでした。この時ヨハネは「主だ」と言い、ペトロは湖に飛び込みました。 /n「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」 ペトロが岸に泳ぎ着くと、陸には炭火が起こしてあり、その上に魚が乗せられパンも用意されておりました。イエス様はペトロに今取った魚を持ってくるように言われ、網を陸に引き揚げて魚を数えると153匹もありながら、網は破れていませんでした。 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">さあ、来て、朝の食事をしなさい。」</span>と招かれました。 夜通し働き疲れ切った身体に、この奇跡の業と暖かい朝の食事への招きの言葉は、弟子達にどんなに大きな喜びと力を与えたことでしょう。 ここに、私達は、「死」によってすべてが終ってしまったかのように見えた弟子達とイエス様との「交わりの回復への招き」を見ます。食事への招きは、イエス様の復活が、疑う余地のない現実の出来事として受け入れられました。 この肉体的な祝福は霊的な祝福へと移っていきます。又、一匹も取れなかった魚が、イエス様が来られたら153匹も取れて、網も破れなかったことは、イエス様が共におられる限り弟子達の宣教によって救われる魂の数はおびただしく、しかも、網(教会)は破れることなく存続し続けることを象徴していると理解出来ます。 今を生きる私達にも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">さあ、来て、朝の食事をしなさい。」</span>とイエス様は招かれます。

「イエス様の祈り」    牧師 佐藤義子

/nイザヤ書53:1-12 /nヨハネによる福音書17:13-26 /nはじめに 本日は、しゅろの主日、英語ではパームサンデーと呼ばれる日曜日です。 しゅろは「なつめやし」のことで、イエス様が、最後にエルサレムの町にロバの子に乗って入られた時、群衆はこの木の葉を振って歓迎したことがヨハネ福音書に記されています(12章)。この木は、勝利を表わすそうです。黙示録7章には、白い衣を着た大群衆が手になつめやしの枝を持ち、小羊の前に立っている描写があります。白い衣を着た群衆とは、十字架の血で清められた信仰者のことで、小羊とはイエス様のことです。  歓喜をもってイエス様を出迎えた群衆は、同じ週の金曜日に「十字架につけよ」と叫ぶ群衆に変わりました。アメリカにいた時、パームサンデ-に教会から、しゅろの枝が配られました。教会によっては、そのしゅろの枝は一年後燃やされ、その灰を受難節(約40日)の初日、「灰の水曜日」に、頭上にかぶり「ざんげのしるし」としているそうです。 /n祭司の祈り ヨハネ福音書の14章から16章にはイエス様が弟子達に語った「告別の説教」が記されていますが、今日の聖書は続いて祈られたイエス様の「祈り」です。この祈りは宗教改革時代以来「大祭司の祈り」と呼ばれます。それは、イエス様が「大祭司」のように、残される弟子達の為、さらにはイエス様を信じる全ての者の為にささげられた祈りだからです。  イエス様は、弟子達を父なる神様に委ね、弟子達に完全な喜びを残していこうとされました。その喜びとは、弟子達がイエス様と結ばれていることを知り、イエス様は弟子達を父なる神様の所に連れて行って下さることを知ることにより与えられる喜びです。又、イエス様は、弟子達がこの世から憎しみを受けていることに対しても祈られました。弟子達はイエス様の言葉によって、この世から選び出された人達です。「この世」は自分の所属であった筈の弟子達を、神の国に属する者として奪い去られたゆえに、再び取り戻そうと働きかけます。イエス様は、弟子達が受ける苦痛、戦い、苦悩から解放されることではなく、悪いことから(サタンから)守られることを祈られました。 /n「真理によって、彼らを聖なる者として下さい。」 神様に属する者は清くされたものです。それは信じる者が神様を仰ぐ時、神様の前にひざまずき、謙遜にさせられ、神様の神聖さにあずかるからです。彼らの清さを形づくるものは真理です(「あなたの御言葉は真理です」17節)。真理の霊が弟子達に与えられ、その全存在・全生活の中で神様と結ばれるように祈られます。父なる神様が、弟子達を、聖なる者として分離して下さるなら、たとえこの世にいても、悪に対する防護壁が立ち、彼らは守られます。 /n信じる者すべての人の為に祈る イエス様は、弟子達が結ぶであろう実として与えられる「信じる人々」の為にも祈られました。信じる群が大きくなればなるほど、彼らが聖なる真実の愛によって結びあわされるように祈られます。分裂を克服するものはただ一つ、全ての者が唯一の神様に従うことです。教会の一致は、イエス様と父なる神様との一体の上に建てられ、そこに、教会は自分達の一致の根拠と原則を置きます。イエス様の最後の祈りは、信じる全ての人々が、神様の永遠の愛から御子イエス様に流れ出る「ご自身の栄光」を見ることが出来るように、イエス様と共にいるようにして下さいとの願いでした。イエス様に与えられた神様の永遠の愛は、信じる者全ての人が見ることが出来、さらに、この愛の中を生きることが出来るのです。

 「一粒の麦」  牧師 佐藤義子

/nイザヤ書63:7-9、 /nヨハネによる福音書12:20-26 /nはじめに  受難節に入り一ヶ月が過ぎました。この時期は私達キリスト者にとって、2000年前、「イエス様が私達(私)の罪のために十字架にかけられた」出来事を思い起こして、罪と向き合い、克己・修養・悔い改めの時です。 日本では、「罪」という言葉は、法を犯して刑務所に行くことを思い浮かべる為に、日常会話にはあまり登場しません。日本の文化は、「恥の文化」と言われ、「人間社会の人の目」を意識します。対する西洋の「罪の文化」は「人間社会の目」ではなく、「神様の目」を基準とします。 /n罪 神様は、聖であり、義である神様です。この神様への信仰を中心としている聖書には、「罪」と言う言葉は多種類におよび、真剣に取り上げられています。「的を外す、失敗する」「悪を行う」「背き、反逆」などの意味を持ちますが、「罪」の語は、罪の結果としての罪責(罪を犯した責任)だけでなく、その罪に対する罰、さらには償いをも示しています。「罪」は、罪の発端から結末、さらには罪の除去、そして罪からの救済まで互いに切り離すことの出来ない事柄として、取り上げられています。罪の考え方の基調となっているのは、人は神に似せてつくられた神様の作品であり、本来はエデンの園の住人であるということです。罪とは、神様に似せて作られた部分を失った人間の堕落であり悲劇であり、神様から離れることです。罪の反対は神様への「従順」であり「信仰」です。 /n罪の処置(後始末) 罪には、法的な罪、倫理的な罪、祭儀的な罪などありますが、全ての罪の根底に、神様からの「そむき」(離反)の罪を見る旧約聖書は、徹底的な罪のつぐないを求めています。その第一は「悔い改め」です。そして第二は「あがない」です。あがないとは、もともと捕虜や奴隷に対して、身代金を払って買い戻すような、法的手続きを意味します。人は自分の罪をつぐなう為に、「内面的な悔い改め」と共に、決められた「いけにえ」を捧げて、神様の憐れみにより与えられる「赦し」を求めました。 /n「栄光を受ける時が来た。」 今朝の聖書には、エルサレムに礼拝する為にやって来た数人のギリシャ人が、イエス様に会いたいと、弟子のフィリポの所にやってきた時のことが記されています。イエス様は、御自分のところにギリシャ人、つまり外国人がやってきたことを聞いて、御自分が栄光を受ける「時」が来たと語られました。イエス様が言われる「時」とは、御自分が十字架に付けられ、その後の復活・昇天を経て、神様の右の座に帰られる時のことです。その「時」が、今、来たと言われました。 /n「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 この意味は、「穀物の種は、豊かな実を結ぶ為には、死ななければならない。一粒の種は土に落とされ、土に埋もれなければ、いつまでもただ一粒のままでとどまっている。けれども、地中に埋もれて古い命を失うならば、やがてその殻を破って、多くの新しい命が生れ出る」ということです。そして、御自分を一粒の麦に譬えて、イエス様が地上での救いの業を果たす為には、死ななければならないことを意味しています。    この世的に考えるならば、「イエス様に外国人が会いに来た」のですから、これから新しい分野での伝道が始まる!と考えられます。しかし、イエス様は、いよいよ広く全世界の人々に神様の救いを届ける為に、御自分の命を、神様の祭壇に「あがない」として献げる「時」が来たと宣言されました。旧約時代の、「罪」のつぐないとして献げられた和解の供え物「いけにえ」は、新約時代「イエス様の一回限りの十字架の血潮」にとって代わることになりました。この出来事によって全ての人の前に「神様の赦しと救いの道」が開かれたのです。イエス様に会いたいというギリシャ人に与えられた本当の返事は、これから十字架に架かるイエス様を示し、そのイエス様につながり、苦難に従うことでした。そして、従う者にはイエス様も共にいて、大切にされることを約束されたのです。

「生きている者の神」    伝道師 平賀真理子

/n出エジプト記3:15-20 /nマルコ福音書12:18-27 /nはじめに   イエス様が十字架につけられたのは金曜日ですが、三日前の火曜日は、イエス様を敵視する有力者達との論争が多くなされました。その中で前回は、ファリサイ派とヘロデ派と言われる人々がイエス様に論争を仕掛けた時のことを学びました。彼らは、イエス様の真理に基づいた的確な答えを通して、逆に、自分達の仕掛けた罠にかかった形で敗れ去ります。そして今日の箇所では、イエス様は、サドカイ派と呼ばれる論敵に向き合います。 /nサドカイ派 サドカイ派は、ファリサイ派と共に、当時のユダヤ教の指導者グループを二分する勢力でした。 彼らは、エルサレム神殿で礼拝をささげることが神様に対する最大の信仰と考えていました。 当時首都エルサレムには「最高法院」があり、宗教と政治の権力が集中していました。サドカイ派の人々は、世襲で最高法院の議員になれる階層の人々で、イスラエル民族の中ではエリート中のエリート、いわば貴族のような人達と考えていいでしょう。 それでも彼らは宗教的価値を一番と考え、民族としての政治的独立は二の次に考えていました。そのため、ローマという異邦人の支配にも反抗せず、神殿礼拝が守れるならばローマに協力するという姿勢を持っていました。 サドカイ派はファイリサイ派と違い、見えない「霊」や「天使」の存在を信ぜず、又、「復活」もないと主張しました。現実主義に立ち、現実を軽視して未来に希望を抱かせるような復活を否定していたのです。彼らはイエス様に、律法(申命記25:5-10)を引き合いに出し、「もし復活があるなら、律法に従って「義兄弟婚」(子供がいないまま夫が死んだ妻は、夫の兄弟の妻になり、子孫を得る)をした女性は、復活時は誰の妻になるのか」と質問したのです。 /nイエス様の答え イエス様は、復活は勿論ある。けれども復活後は、人は、この世の婚姻関係に縛られることなく「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天使のようになる</span>」と答えられました。 そして彼らの、「復活も天使もない」という間違った主張と、「復活」を誤解しての質問に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」</span>と厳しく指摘されました。 /n復活  イエス様に論争を挑んだサドカイ派の人々は、「生きる」「死ぬ」という言葉を、この世の肉体上の命に結びつけて、「復活」を考えました。彼らはこの世に足の主軸を置いて、聖書や神様のことを論じようとしています。しかしイエス様の言われる「死んでいる」「生きている」は、「神様の前に」生きる・死ぬと言うことです。神様を信じ、御心を行おうとする者は、肉体上の生死にかかわらず永遠に生きているのであり、逆に神様の存在を知ろうともしない者、御心に従おうとしない者は、肉体的には生きていても神様の前に死んでいる状態にあるということです。 /n「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」  イエス様は、神様が御自分のことを、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」</span>と言われたことを引用され、アブラハム・イサク・ヤコブ(イスラエル人の祖先)は、神様を信じて生きたことで、神様の前に生きている状態であると言われました。(「永遠の命を得る」とも言い換えられるでしょう)。 アブラハムは神様の御言葉に従って、行き先も知らずに出発しました。 イサク・ヤコブもその信仰を受け継ぎました。彼らは、「死んでいた」状態から、神様のご計画に従って信仰の証しを立てて、神様の前に「生きている者」とされ、復活の恵みを与えられた人達です。 神様の前に生きるとは、「神様を信じて、御心に従って生きる」ことです。 御心とは「罪ある人間が救われること」です。 「イエス様の十字架の死」という大きな犠牲は「私達を救う神様の御心」であったことを知り、神様に感謝し、信仰を成長させていけるように祈り続けたいと願います。

「だから、目を覚ましていなさい」 牧師 佐藤 義子

/n創世記6:9-13・7:10-16 /nマタイ福音書24:36-44 /nはじめに  大震災から今日で一年がたちました。昨年の3月11日は金曜日でしたが、翌々日の日曜日の礼拝までには電気は復旧せず、外からの光だけで礼拝を守りました。出席者は、伝道所に避難されていた会員・求道者8名でした(子供2人もいました)。 あれから一年、それぞれの体験は違いますが、お一人お一人、この震災で何を考え、何を学び、又、どのような歩みをしてきたのか、何が変わり、自分はどう変えられたかなど、礼拝後の集いで、そのようなことを語りあう懇談の時をもちたいと願っております。 ________________________________ /n終末についての質問とこたえ 本日の聖書の少し前の3節に、「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子達がやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終る時には、どんな徴(しるし)があるのですか。』」とあります。弟子達がひそかに尋ねた「終末」について、イエス様は大変ていねいに、そして誠実に答えておられます。「いつ」との質問に、こう答えられました。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「その日、その時は、だれも知らない。天使達も子も知らない。ただ、父だけがご存知である。」</span> 必ず、世の終りは来る。それは絶対に起こるということをイエス様は知っておられました。けれども時期については、父なる神様お一人だけがご存知であると語られました。イエス様は、この歴史という時間が終る日がやってくることと、その「時」が、隠されていることを弟子達に教えました。なぜ私達人間に隠されているかといえば、そのことは、神様が決断されることだからです。神様が行動なさる時に初めて「いつ、どのように起こるか」をイエス様は知ることが出来るのです。イエス様は、父なる神様が新しい使命をいつお与えになるか、ただ待たれるのです。 /nノアの洪水 終末・再臨は、ノアの洪水の時と同じようにやってくるとイエス様は語られました。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりという日常生活が行われ、洪水が襲って来るまで誰も何も気付きませんでした。 ノアは神と共に歩みましたが、地上に生きる人々は常に悪い事ばかり思い計っていたので、神様は滅ぼされました。 /n分断・選別  再臨の時、何が起こるのでしょうか。 イエス様は畑で労働する二人の男と、食事に必要な粉を得る為に、石臼を回す二人の女性を例にあげています。この人達は、外側から見る限り同じことをしています。しかしその時、一人はイエス・キリストとの交わりに引き揚げられ、もう一人はその場に残されます。私達の目から見れば、二人の間の区別はつかないけれども、その時には突然、分断・選別が起こると予告しています。 /n「だから、目を覚ましていなさい」 今日の結論はこうです<span class="deco" style="font-weight:bold;">。「だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなた方には分からないからである。」</span> イエス様は私達に信じることを通して永遠の命を与えて下さり、神の国の民として下さいました。私達は将来の約束と希望を与えられています。しかし私達の日常が、この世の思い煩いや、衣食住のこと、目の前のことに追われているならば、それは眠っている状態といえるでしょう。 今回の震災のように、ある日突然やって来る「その日」のことを、私達はいつも心の中に意識していることが大切です。その為には、毎週の礼拝を出来る限り守ることです。日々の信仰生活を大切にすることです。日々聖書を読み、心の内に御言葉をたくわえ、そして祈ることです。朝起きた時、夜眠る前、3度の食前、1分ずつでも、1日5分は祈れます。そして今日、自分が果たすべきことを、私達の御主人である神様に聞きながら実践することです。木にしっかりとつながる枝となりましょう。 終末とイエス様の再臨は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">思いがけない時に来る</span>」(43節)のです。