説教要旨 「福音のはじめ」 川上麻里先生(岩沼教会伝道師)

/n[イザヤ書] 55章6-7節 6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる /n[マルコによる福音書] 1章1-8節 1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 /nはじめに  天地を創造された神は人間をとても愛して下さり、親しい友人のような交わりを持ちたいと思っておられます。あなたは今、神とそのような交わりを持っておられるでしょうか。もし、私にとって神がとても遠くにおられる方であるなら、その神との交わりを妨げているものは何でしょうか。それはきっと、神なしで生きていけるという思い、自己中心が、あなたと神の間を(隔てたのです。)聖書ではそれを「罪」であるというのです。 /nイエス・キリスト  罪とは「的外れ」という意味です。今、救われてクリスチャンになった私でさえ、かつては自己中心で傲慢な人間でした。私は無神論者の家庭で育ち、何で神を必要とするのかわかりませんでした。このような私に神が近づいて罪を示して下さったのは、生きる意味を失って死のうとさえした時、自分が自分ではどうしようもなくなった時でした。憐れみ深い神様は、神を神とも思わない傲慢な私のために死んで下さり、私の罪をまったく赦して取り除いて下さったのです。この神こそ私達の愛する神の御子イエス・キリストでした。このお方は私だけでなくあなたの罪をも赦し、父なる神との交わりを回復して下さいました。あなたも、このキリストを信じることによって、天の父なる神と親しく語り、交わることが出来るようになるのです。 /n祈り  クリスチャンになると祈ることを知ります。祈りの冒頭には必ず「天におられる父なる神様」と呼びかけ、最後には「イエス・キリストの御名によってアーメン」と祈ります。イエス・キリストの名前によって祈るなら、すべて父なる神様に通じていく。こんな素晴らしいことはありません。ここに神との交わりが成立するのです。人間は一人でこの世に生れ、一人で死んでいかねばなりません。家族や友人も永遠のものではないのです。そういう意味では人は誰しも孤独な存在です。それはクリスチャンであっても同じです。しかし神に祈る人は、天からくる喜びを知る人です。たとえ人間同士でつまずき傷つけ合うことがあっても、神に祈るなら、必ずそこから解決が与えられるのです。誰でも人に言えない悩みうめきを抱えて生きています。人に理解されない悲しみ・痛みを持って生きています。 そのような私のすぐそばに来て、「わたしに(委ねなさい」とすべての重荷、わずらいを取り去ってくださるのが、私達の主イエス・キリストです。 /n神の子イエス・キリスト  今朝のマルコ福音書の冒頭は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一言から始まります。マルコの福音書の特長は、第一に「最初に書かれた福音書である」、第二に「誕生の記述がない」、第三に「イエス・キリストとは誰なのか」を速やかに語っています。この第三の答えが、冒頭の「神の子イエス・キリスト」なのです。  イエスとはギリシャ語の読み方で、ヘブル語では「ヨシュア」となります。ヨシュアとは、「ヤハウェ(神)は救いなり」という意味があります。キリストとは「油注がれた者・救い主」という意味です。つまりイエス・キリストとは、イエスは神の子でありキリストだというのです。この(福音)(良き知らせ)が、これから始まる物語であるということです。イエスがどんな神の子で、どのような救いをもたらしたのかが、このマルコ福音書16章の中に書かれています。 /nバプテスマのヨハネ  さて福音書の初めに登場するのは何とイエスではなく、道を整える者としての洗礼者ヨハネです。2節のカッコ内は旧約聖書の引用です(イザヤ書3章の他、マラキ書3章、出エジプト記23章)。洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)は偉大な預言者の再来として現われました。なぜここに洗礼者ヨハネが登場しなければならなかったのでしょうか。それは、神との交わりの回復のために、どうしても必要なことがあったからです。彼の役目は人々を悔い改めに導くことでした。彼の声は荒野に響き渡り、人々の心の奥深くにある罪をえぐり出したのです。主の道をまっすぐにするというのは、まさに人々が神の福音を受け入れやすい状態を作ることに他なりません。今まで神のことに無関心だったり、自分の罪を考えたこともなかった人、この世の生活に十分満足していた人に飢え渇きを起こさせ、もっと素晴らしいお方を迎えられるように一人一人の魂を整えたのです。彼は罪の赦しの為、悔い改めの洗礼を授けていました。人々はヨハネのメッセージを聞く為に、ぞくぞくとやって来ました。ユダヤの全土、エルサレムの全住民が自分の場所を離れて彼のもとに集まってきたのです。 /n神の声を聞く  ここに隠されている真理は、人々が「自分の居場所から出かけて行って、福音を聞こうとした」ことです。私達も神の声を聞く為には慣れた生活の場所を離れなければならないのです。生活の変化を恐れたり、出て行くことにちゅうちょしていては、いつまでたっても福音を自分のものにすることは出来ません。あなた自身が変わりたいと思うならば、神の恵みの中に出ていくことを決心することです。今の時代の私達の出ていく場は教会です。神のメッセージが語られ、罪のゆるしと救いが宣言される場所が教会だからです。 教会は神の声を聞く場所なのです。 /n方向転換  「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは(背いた)お前達をいやす。」(エレミヤ書3章22節)。神に背けるイスラエルの民に、神は大きな愛をもって悔い改めを(うながしておられました。再三再四呼び掛けられました「私に立ち帰れ」と。「立ち帰れ」とは、神に背を向けていた人が向きを変えて、神の方を向くことです。「悔い改め」とはそのように心の方向転換のことなのです。神は想像を絶するほどの愛で人の罪を赦そうとされるのです。又、背きの罪を赦すだけではなく、ここでは「いやす」とさえおっしゃるのです。背きのゆえに傷ついた私達をいやすとは、一体どんな大きな愛でしょう。どんなに神を忘れ、神をおろそかにした人でも、神は悔い改めのチャンスを用意しておられるのです。 /n集団から個人へ  旧約時代と新約時代はイエス・キリストを境にして変わりました。神の目は、集団から個人に向けられました。エレミヤ書では「背信の罪」はイスラエル全体のことでした。しかし洗礼者ヨハネのもとに来た人は、各々、自分の罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けたのです。今、神は一人一人に呼びかけておられます。あなたは今、神の前に赦していただかなければならないことはありませんか。神にさからって生きていませんか。私達は誰一人として罪を逃れる人はいないのです。聖書の民・神の民・選びの民であった「イスラエル」でさえ、悔い改めることなしに福音を受け入れることは出来ませんでした。パウロは、ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪のもとにある(ロマ書3:9)と指摘しました。神の民も、そうでない異邦人も、全て同じ罪のもとにあるということなのです。今まで律法を守れば救われると思っていたユダヤ人でさえ本質的に罪が支配している事をパウロは大胆にも指摘しました。 /n罪を告白し、祈る  ではクリスチャンは一度罪を告白したらそれで良いのでしょうか。  確かに救いの為に必要な悔い改めは一度で十分です。けれども主イエス様が教えて下さった主の祈りには罪の赦しの祈りがあります。主の祈りを、私達は礼拝の中でだけで祈っていますが、礼拝の中だけの祈りではありません。私達の生活のただ中で祈る時、その力が発揮されてくるのではないでしょうか。私は今日この礼拝に初めて参加させていただき、「ざんげの祈り」に喜びを感じました。悔い改めは、神の恵みの大きな一歩なのです。悔い改めは神の前に自分を(空)しくして聖霊の働きやすい心となるのです。自分の罪を認めること・・これほど福音に対する備えはありません。自分が正しく自分が中心でこの世が廻っている間は見えなかったものが、見え、聞こえなかったものが、聞こえてくるからです。神の前に自分を低くして赦しを求める心こそ、神様の賜物・プレゼントなのです。新しい選択・新しい人生は、自分の罪を告白し、悔い改めることから始まります。 /nイエス・キリストを指し示したヨハネ  さて聖書に戻りますが、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めを勧めたのは、彼の後に来られる方の為でした。彼の後に来たのは、まぎれもなく福音そのものの御方、イエス・キリストです。しかしこの時、まだイエス様は現れてはいませんでした。ヨハネはまだ見ぬ救い主の為に「私は、その方の履物のひもをとく値打もない」と言いました。履物のひもを解く行為は当時奴隷の仕事だったようですけれども、ヨハネは自分を、その方の奴隷の値打ちもないほどだと自らを低くしています。ヨハネ自身も多くの弟子を作り、ヨハネ教団といわれるものを形成していたにもかかわらず、自分をそのように言いました。洗礼者ヨハネはあくまで後から来られるイエス・キリストを指し示す者でしかありませんでした。けれどもヨハネのことを、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:12)と言われました。  なぜでしょうか。それは彼の役割が罪を告白するまでのものでしかなかったからです。もし罪を指摘されるだけで終ったならば、その人はどうやって立ち上がれるでしょう。水のバプテスマは悔い改めの洗礼ですが、イエス様の洗礼は救いをもたらす洗礼だったのです。ヨハネは言います。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」イエス・キリストは神の子ですから、彼には神の霊が豊かに注がれているのです。マタイとルカでは「聖霊と火でバプテスマをお授けになる方」と書かれています。これは裁きをも表しているのではないでしょうか。一体誰が、聖霊と火によるバプテスマに耐えられるでしょうか。それは心から神の前に自分を低くして悔い改めた魂ではないでしょうか。聖霊と火には大きな力があります。火は不必要なもの・役に立たないものを焼きつくす力があります。聖霊は人々の心の奥にひそむ汚れた思いさえ見抜いてしまいます。見かけはきれいに飾っていても、聖霊は魂の中に入って真実を明らかにするのです。だから主イエス様は「隠されているもので知られずに済むものはない。」(マタイ10:26)と言われたのです。 /n神の愛が電流のように  私達は今、「聖霊と火によって洗礼を授けてくださる方こそ救い主イエス・キリストである」と信じています。今は、受難節です。主の御苦しみをより深く心に刻み、主の苦しみは「私達、罪にあえぐ一人ひとりを救い出して神の御国へ連れていく為である」ことを心に留めたいと思うのです。あの方の死と復活-イエス・キリストの死と復活-なしに、私達の真の救いはないからです。そして何よりも、「あのお方の死が私の為である」と心から思える時、きっと神の愛が電流のように流れて、体のすみずみまで沁(し)み渡ることでしょう。まことの悔い改めし魂にこそ、神の愛が豊かに注がれるのです。   (文責:佐藤義子)

説教要旨 「神のものは神に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 22章15-22節 15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。 /nはじめに  当時のユダヤ人はローマの支配下に置かれていた為、国内の神殿税の他にローマ政府に納めなければならない人頭税(14歳{女子12歳}から65歳迄)がありました。申命記17章には「必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上にたてることは出来ない」とあり、十戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあります。ローマ皇帝に税金を納める行為は、その王権を認めることになり偶像崇拝者の仲間になることだと考えられ、人々の間には抵抗感や拒否反応がありました。 /nわなをかける  そのような背景のもとで、ファリサイ派の人々がイエス様の言葉じりを捕えてわなにかけようと納税問題を取り上げたのです。しかも彼らは立場の違うヘロデ派のグループと結託してやってきました。わなは巧妙にかけられました。「先生、私達はあなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」この賞賛の言葉は、「納税はローマ皇帝の統治に服従することであり、神がイスラエルに定めた道とは正反対だから、神の道を教えるあなたは、賛成のはずがありませんね」「この問題について、反ローマの態度を掲げることは誰をもはばからない勇気を必要とすることであり、あなたにはそれがありますね」ということです。そして自分達がこれからする質問に対して、正直に答えるようにとの強い命令を含みながら、「皇帝への納税は、律法に適っているか、いないか教えてください」と、表面上はいかにもけんそんに尋ねたのです。「律法に適う」と答えれば「神の教えに背く」として、民衆の気持はイエス様から離れていきます。「納める必要はない」と答えるならば、ヘロデ派からローマヘの反逆者の烙印が押され、イエス様を亡き者にするための、一番の近道になることでしょう。 /nイエス様の答え  イエス様は彼ら達の悪意を見抜かれ、税金を納めるデナリオン銀貨を持ってくるよう求められました。銀貨のおもてには、皇帝の肖像と共にテベリウス・神・アウグストスの息子という文字が刻まれており、裏に皇帝の母リビアの像と最高司教の文字が刻まれていたということです。イエス様は「これは誰の肖像と銘か」と尋ねられ、彼らが「皇帝のものです」と答えると、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。ユダヤの人達がローマという外国の銀貨・そこに彫られていた肖像や文字に必要以上にこだわり、納税という行為に自分の良心を苦しめているけれども、神様という方はご自分の為にそのようなことにこだわる方ではない。皇帝の要求が、税金というお金にかかわっていることであるならば喜んでそれを満たしなさい。ローマから来るものは、安心してそこへ送り返して差し支えないということです。 /n「神のものは神に返しなさい」  イエス様はさらに、「神のものは神に返すように」と求められました。神様は皇帝に属するものはお求めになりませんが、神様に属するものは求められます。ファリサイ派の人達は神様を唯一の主として礼拝しながら、神様に属するものを神様から奪っています。たとえば神様の神聖さを汚し、お金の方を神聖なものであるかのように振舞い、神様に属する平和よりも争いの方を選んでいます。又人間は神様から命の霊を吹き込まれ神様に似せて造られている(特にユダヤ人には賜物として神様の言葉と戒めが与えられていた)にもかかわらず、上から与えられたものを再び神様への奉仕という形で上に昇らせることをせず、与えられた光を輝かせず、神様に栄光を帰さず、恵みに感謝をささげず、御言葉に対して信仰をささげることに自分達のその熱心さを使わず、皇帝の肖像付き銀貨での税金を納めるか否かで頭を悩ませ心を使っていたのです。イエス様は見える地上の事柄の中に偽りの重要性を見抜かれ、それを取り去られました。イエス様はご自分を十字架の死に差し出すことによって、神のものでありながら罪のものとなっていた私達を、再び神様のもとへと返して下さいました。「神のものは神に」・・今生きる私達へのメッセージです。

説教要旨 「礼服を着る」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 22章1-6節 1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」 15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 /nはじめに  今日のたとえは王様が主役です。王は愛する王子の為に結婚の披露宴を開きます。結婚は本人にとっても喜びでありますが、親である王にとっても大きな喜びです。私達は結婚式に招かれた時、新郎新婦の新しい門出を喜ぶと同時に、育ててきた両親と喜びを共にいたします。たとえの中の王は神様、王子とはイエス・キリスト、最初に招待されていたのは選民イスラエル(ユダヤ人)のことです。ユダヤ人は当然、祝いの席に座り、招かれた者の光栄を思い味わいつつ、王や王子と共にこの日を祝い、喜びを受け取るように定められていた人々でした。 /n招待を拒否  ところが彼らは、この光栄ある招待を断るどころか無視(5節)しました。一人は畑に一人は商売に出かけました。彼らは生きる為の経済活動を優先させました。その他の人々は家来を捕まえて殺してしまいました。人は、パンを食べなければ生きていかれません。畑の労働も、商売も大切です。しかし「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)のです。 この婚宴への招待は、招待状を受け取っていた彼らにとって、もはや喜びではなかっただけでなく、王子に対して憎しみさえ抱いていた、ということが想像されます。 /nそこで王は・・  来ようとしない彼らに対して、王は はじめ忍耐をもって別の家来を使いに出しますが(4節)、彼らの応対を知った王は怒り、軍隊を送って町を焼き払ってしまいます。(これはローマ軍によって、紀元70年にエルサレム神殿が破壊され、徹底的に滅ぼされたことを意味しているといわれています。) /n代わりに招かれた者  王は、『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい。』と命じます。そこで家来達は通りに出て行き、善人・悪人問わず、誰でも招きましたので婚宴は客で一杯になりました(8節-10節)。祝いの席には招かれていたユダヤ人ではなく、異邦人が座りました。 /nところが・・  その中に一人だけ礼服をつけずに来た者がいました。王はその理由を尋ねますが彼は答えません。礼服は、王の結婚披露宴の招待に感謝し、敬意を表すものです。逆の言い方をするならば、礼服を着ないことは、招いてくれた相手に、そして招待されたことに対して、軽く見ているということです。王は彼を外の暗闇に放り出すよう側近に命じました。私達は王(神様)の恵みによって招かれて、神の国の祝いの席についていると考えることが出来ます。神様から招かれたことに対して畏敬の念を持ちつつ、招かれた恵みを感謝するものです。礼服を着ていない者とは、「罪を赦されながら、尚、罪を自分のもとにとどめようとする者」「キリストを自らの主と呼びながら、自分自身にだけ仕えている者」という解釈があります。また礼服は、あふれる喜び(義でない私達が義とされた喜び、聖でない私達が聖とされていく喜び)を表していると言われます。私達は祝いの席に礼服をつけて座っているでしょうか。 /n「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(14節)  御言葉を聞く機会が与えられながら聞こうとしない人や、御言葉を聞いても素通りしてしまう人が多い中で、「選ばれる人」とは、御言葉を聞く機会を逃さず、聞くにふさわしい態度で聞き、聞いた御言葉にとどまる人です。御言葉にとどまり従っていこうとすれば必ず戦いが起こります。戦いが起これば弱い私達は助けを求めて祈ります。御心にかなう祈りは必ず聞かれます。今現在、自分の置かれている状況がどんなに厳しい状況にあっても、毎週の礼拝は、神様に招かれている祝福の場であることを覚えて、礼服を着て臨み、御言葉にとどまり続けながら歩みたいと願うものです。

説教要旨 「神の国にふさわしい実を結ぶ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章33-46節 33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。 /nはじめに  今朝の聖書のたとえは、ぶどう園を作った主人が、ぶどう園を農夫達に貸して旅に出ます。ところが、収穫の時期になって収穫を受け取る為に遣わしたしもべ達は、農夫達に殺されてしまいます。主人は別のしもべ達を以前よりも多く送りますが同じように殺されてしまいます。最後に主人は、息子であれば主人の代りとして敬うだろうと考えて息子を遣わしますが、農夫達は跡取り息子がいなくなれば、ぶどう園は自分達の自由になると考えて、この息子をも殺してしまいました。 /nたとえの意味  ぶどう園とはイスラエルの民、ぶどう園の主人は神様です。農夫とは、イスラエルの民を指導する責任を持った人達、しもべとは神様の意志を伝える預言者達のこと、主人の息子はイエス・キリストです。収穫とは人々の信仰の実・信仰の果実のことでしょう。 /n神の愛と宗教的指導者達の反逆  主人は野獣からぶどうを守る為に「垣をめぐらし」、収穫したぶどうからぶどう汁を絞る為に「搾り場を掘り」、収穫を盗人から守る為に「見張りのやぐらを立て」ました(33節)。主人がぶどう園に必要十分な配慮をしたように、神様はイスラエルの民をエジプトから導き出し、彼らに律法を与え、カナンに定着させ、指導者を選び、民を指導者達に委ねました。しかし彼らはその責任を果たさず、神様の意志を伝える多くの預言者達(旧約聖書のイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、アモス書など参照)が遣わされても聞く耳を持たず、遣わされた預言者達を憎み、殺してしまいました。新約の時代に入り神様はバプテスマのヨハネを遣わしましたが、ヨハネも又、正しいことを言った為に捕えられ殺されました。最後に神様は、独り子イエス・キリストを地上に遣わされましたが、キリストご自身、ご自分がまもなく殺されることを預言しています。 /nブドウ園の主人が旅から戻ってきたら・・?  この問いに、彼らは「主人はこの農夫達を殺して、ぶどう園は収穫を納める ほかの農夫達に貸し与えられるでしょう。」と答えました。彼らは自分達がたとえの農夫の立場にいることを自覚していません。 /n旧約聖書の言葉の引用  イエス様は「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 私達の目には驚くべきこと」(詩篇118編22節・23節)を引用しました。退けられた石とはイエス様のことです。イエス様は人々に捨てられ十字架で殺されていくけれども、後になってイエス様が人間の罪を贖う為に重要な救いの業をなされて神の右に座する(親石となる)。これは神様の御業で、私達には驚くべきことです。 /n「神の国はあなたたちから取り上げられる」  イエス様は、祭司長達や民の長老に向かって「神の国は取り上げられる」と言われました。彼らは自分達が宗教的指導者として正しく責任を果たしていると考えており、神様に逆らっているなど思いもよらなかったことでしょう。しかし神の国は彼らから「取り上げられる」のです。たとえで、農夫がぶどう園を任されたのは、主人の一方的な選びと愛によるものでした。この神の特別な配慮による恵みの賜物を忘れて彼らは傲慢になっていました。祭司長や民の長老という特権意識におぼれ、やがては自己絶対化・自己保身に陥り、バプテスマのヨハネを受け入れず、今目の前のイエス様をも拒否しています。伝統が、自己正当化が、彼らの魂の目を盲目にしてしまったのです。主人は必ず旅から帰ってきます。その時に、大いなる憐れみと恵みは取り上げられるのです。 /n「神の国は、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」  悪い農夫から取り上げたぶどう園は、収穫物を主人にきちんと納める別の農夫達に貸し出されます。悪い農夫はイエス様に反抗するユダヤ人、別の農夫とはイエス様を神の子と信じる新しい神の民-キリスト者の群-教会です。神の国にふさわしい実とはイエス様の教えにとどまること、神様の正しさが私達の生活を貫いていくことです。そのように日々生活をしていくことです。隣人を愛する、隣人を赦す、復讐をしない、人を裁かない、神様に求めて祈る、欲することを隣人にするなど、聖書の御言葉が道案内をしています。実を結ぶ神の民とされていきましょう。

説教要旨 「後で心を変えて信じる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章28-32節 28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 /nはじめに  今日の個所は、イエス様の方から祭司長達に「あなた達はどう思うか」と質問をしています。イエス様が語られたたとえは、父親が二人の息子のうち、兄にぶどう園に行って働くように命じましたが、彼は父親に逆らい「いやです」と断りました。父親は弟の方の息子にも同じようにぶどう園に行って働くよう命じました。弟は「お父さん、承知しました。」と快く返事をしましたが、結局は出かけませんでした。一方、兄の方は父親に逆らったことを後悔し、後からぶどう園に出かけて働きました。 /n「どちらが父親の望みどおりにしたか」  イエス様のこの質問に、祭司長・長老達は「兄の方です」と答えました。誰が見ても明らかです。イエス様はその答えを聞いて彼らに言われました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦達の方が、あなた達より先に神の国に入るだろう。なぜならヨハネが来て義の道を示したのに、あなた達は彼を信ぜず、徴税人や娼婦達は信じたからだ。あなた達はそれを見ても後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 /nイエス様の宣告  イエス様が言われたことは、「神の国には祭司長のような宗教的指導者達よりも徴税人や娼婦達が先に入る」でした。それは当時の人々の考えとは全く逆でした。祭司長や長老達は律法を守り、人々を教える立場です。それに対して徴税人や娼婦は、異邦人であるローマ人とかかわりを持ち、律法を守らず、両者とも神の国から最も遠い人達と考えられていました。なぜ徴税人や娼婦達が先に神の国に入るのでしょうか。常識を破ったこの言葉の根拠がこの21章32節に明確に述べられています。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた達は彼を信ぜず、徴税人や娼婦達は信じた」。義の道を宣べ伝え、神の義に至る道を示し、神の支配を伝え、その門戸を開いたヨハネを祭司長達は拒み、徴税人や娼婦達は素直に受け入れました。 /n悔い改めのバプテスマ(洗礼)  ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けました。今迄の自分の生き方は、自分を第一に考え、神様を神様として認めず、自分の判断・自分の考えを優先し、自分自身が最高の位を占めていた。そのことを神様の前に罪として告白し、悔い改めることが悔い改めのバプテスマです。神様は私の創造主であり、私達は神様に従って生きるように造られているにもかかわらず、そのように生きてこなかったことを悔い改めるのが悔い改めのバプテスマです。悔い改めのバプテスマを受けた者は、それ迄の古い自分に死んだということでありヨハネは、自分より後からくるイエス様がその人を「聖霊と火」(マタイ3:11)で新しく造り変えると伝えました。 /nたとえの意味  たとえの「兄」とは、徴税人や娼婦のように神様から与えられた律法を守らず、正しい道に従わず、神様への服従を拒否した人達でした。しかし兄が後で考え直してぶどう園に行ったように、彼らも後から神様の義の道を示したバプテスマのヨハネの声に耳を傾けて悔い改め、神様に従う道に戻りました。一方弟とは、祭司長や律法学者達のような宗教的指導者達のことです。父親に良い返事(律法を認め、律法に従うことを正しいこととする)をして、喜んで神様に奉仕をする約束もしましたが、いざ、ヨハネやイエス様を通して神様から服従を求められても、それに聞き従おうとせず、結局は神様に逆らっているのです。 /n私達へのメッセージ  たとえの「弟」とは、自分を信仰ある者、神様の意志を満たしていると考えていて、実はそうでない者を描いています。自分の考えや感情、言葉だけで「神様」と言い、聖書の考え方に賛成をするのだけれども、神様の意志の実行には至らない人々です。「岩を土台として家を建てた人」ではなく、「砂の上に家を建てた人」のことです。私達はぶどう園に行って働く者になるのでしょうか。それとも返事だけで終るのでしょうか。*迷いや葛藤の中にいる自分をそのまま神様の前に投げ出して神様に受け止めていただく。*神様に降参して悔い改めてゆだねる。・・それが信仰の一歩でありましょう。ロ-マの信徒への手紙2章にこうあります。 >> 「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるのです。」(13節) <<

説教要旨 「新しい朝に」 石巻山城町教会 鈴木淳一牧師

/n[創世記] 32章23-33節 23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。 /n[コリントの信徒への手紙二] 12章7b-10節 7b それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 /nはじめに  夜明け前です。川の水の面も暗くひっそりとしています。この暗さの中で、ヤコブは自分の妻、側女、子供、牛・羊など向こう岸に渡して、今、一人になっています。ヤコブはずっと前に、何も持たずに父イサクのもとを発ちましたが、その間、時間が随分経つ内、財産もいろいろ増えました。妻や子供達もたくさん持つようになりました。ところが今、再び一人になったのです。自分の持ち物を全て向こう岸に渡し、暗闇の中で一人になっています。 /n暗闇  この暗闇は、ヤコブにとって彼の人生の陰の部分を表しています。彼の罪や後ろめたさがこの暗闇の中にあるのです。ヤコブは今、一人になって、この自分の陰の部分と一人向き合おうとしています。彼は兄エサウと父イサクを欺(あざむ)きました。エサウの「長子の祝福」が欲しい為に母リベカと計略をたてて、父イサクを騙(だま)したのです。兄エサウはそのことを根に持って弟ヤコブを憎むようになり、殺意まで持つようになったのです。この事を知って母リベカはヤコブに逃げるように勧めます。そのようなわけで、ヤコブは兄エサウを避けて故郷から離れました。ところが、考えてみて下さい。それにもかかわらず、ヤコブは神様から祝福を受けて念願が叶ったというのですけれども、果たして幸福で嬉しい人生になったでしょうか。兄を騙(だま)したという後ろめたさと、いつ兄が襲って来るかわからない、そういう不安の中で生きていたのではないでしょうか。人には決して言うことの出来ない、暗い過去におびえて生きる人になったのです。 /n暗闇での格闘  ヤコブは義理の父・ラバンの家から多くの財産と大勢の家族を伴ってくるわけですが、そこには「長子の権利」を騙(だま)し取られ、悔しい日々を送っている兄エサウが待っていたのです。ヤコブはもうすぐそのようなエサウに会わなければならないのです。兄エサウはきっと怒りを抑えながらヤコブを殺す機会を待っていたかもしれません。そのような兄エサウとの再会を前にして、ヤコブが兄の敵意をどうにか和らげようと図り、又一方で、エサウが攻撃してきた時の為に必死で備えをする様子が聖書にはよく記されています。いったい自分の実(じつ)の兄に会うのに、こんなに不安で恐れていなければならないとはなんて不幸なことでしょうか。いろいろな人を狡猾に騙(だま)して生きてきたヤコブは今、そのような人生の裏側の暗さに直面しているのです。表(おもて)は確かに成功者に見えます。父から祝福を得たし、子供も財産もたくさん持つようになりました。しかしその成功の裏にある狡猾さ、人を欺(あざむ)いてきたことが彼を不安にしているのです。今ヤコブについて語っていますが、この、人生の裏側・暗い部分、それによる不安・恐れというのは、私共の人生にもあります。この陰の部分が時折、私共の生活の中で顔を出すのです。ヤコブは今、まだ夜明け前の暗闇の中に不安と恐れに包まれています。そして唯一人,神の前に立っています。彼が神様の前で取り組まなければならなかったことは、自分の人生の暗い部分、自分の過去、罪に直面することであり、今その時が来たのです。しかし、その格闘の背後には神様がおられます。つまり、自分自身の暗い部分を通して神様と格闘したのです。暗闇の中で、唯一人で戦いました。  私共もヤコブのように、唯一人になって自分の暗い部分の中で格闘するしかない時があるのです。そしてその格闘の時間を通してこそ神様に出会うことがあります。ヤコブは出来れば避けたい相手、殺されるかもしれない危機を前にして、神様との格闘の機会が与えられました。私共も人生の内でヤコブのような危機に直面することがあるのではないでしょうか。その時こそ神様に出会い、神様と組み合いをする一つのチャンスかもしれません。 /n祝福への執念  ところでヤコブはそのような格闘に勝ったのでしょうか。或いは負けたのでしょうか。 >> 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言った・・」(26-27節) <<  ヤコブは、腿の関節が外れているにもかかわらず、その人を去らせようとしません。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と、粘り強く必死に祝福を求めていたのです。そこでその人は仕方なく、ヤコブを祝福します。出口がない危機に直面して全てをかけたヤコブの祈りであったに違いありません。私共もある問題や危機に直面した時、それを神様の前に出して神と格闘する迄、根気強くその問題に神様の答をもらおうと取り組んでいるでしょうか?「神様、どうか私の過去の罪をお赦し下さい。そして私を祝福して下さい」と粘り強く願っているでしょうか?ヤコブのように・・。 ヤコブの祝福に対する執念というのは、この時ばかりではないのです。兄エサウとの敵対関係になったのも、もともと兄エサウが父から譲ってもらうべき長子としての祝福を、父を騙(だま)して奪い取ったのです。ヤコブは手段と方法を選ばないで、何よりも祝福に固執した人でありました。  _____________________  ある日、兄エサウは疲れ切って野原から帰ってきました。兄エサウは狩猟をする人でした。その時ヤコブは煮物をしていました。お腹が空いていたエサウはヤコブにその煮物を食べさせてくれるように願うのです。その時ヤコブは言います「まず、長子の権利を譲って下さい」。お腹が空いて死にそうになったエサウは、長子の権利等どうでも良いと言いながら、誓いを迫るヤコブの言いなりになって煮物を得る為に「長子の権利」をヤコブにすんなりと譲ってしまうのです。 神様は「長子の権利」よりも「煮物」を選んだエサウを選ばず、ずる賢こく狡猾ではあったけれども、長子の権利を重んじて神様の祝福を求め願ったヤコブを選んで下さいました。エサウの最大の失敗は神様の祝福を軽んじたところにあったといえるでしょう。人間にはお腹がすいても死にそうになっても、命をかけて守らなければならないということがあるのです。どのようなことがあっても絶対に譲ってはならない、そのような領域がある。エサウはそれを知らなかった。軽んじたのです。 /nヤコブからイスラエルへ  ヤコブは神の人との格闘の末に名前が変わります。「もはやヤコブではない。イスラエルと呼ばれるのだ」と神の人から言われます。ヤコブという名前は「足をつかむもの」という意味で、ヤコブが生まれる時に、兄の踵(かかと)をつかんで生まれてきたのでそのように名が付けられました。それは奇しくもヤコブの性格をよく表わしているのです。負けず嫌いで奪い取ろうとする性格、その通りヤコブは祝福を自分のものにする為に、騙(だま)しあざむき、又逆に自分もあざむかれ、だまされ、傷だらけの人生になりました。しかし今、そのような自分の性格と過去のゆえに、不安と恐れの時間に置かれていたのです。それでも今、ヤコブはイスラエルに代わりました。足をつかむ者は、神と戦う人・イスラエルになったのです。名前が新しくなるというのはもう古い人ではなくなったということです。もはや彼は、人の足をつかむ狡猾なヤコブではなく、神と戦って勝った祝福された者・イスラエルになったのです。神から選ばれた者として変えられたのです。神がヤコブの人格の暗さ、罪だらけの暗い人生に光を当てて下さったのです。私共は自分の罪に向かい合う時、それはとても辛い時間です。しかしその向こう側に神様がおられる、そしてその戦いの中で神様の御手によって私共の暗い部分は明るくなるのです。独り子イエス・キリストを私共の為にお送り下さった神様はヤコブの為に、ヤコブの一番辛い時間、ヤコブの所に降(くだ)っていかれたのです。  人は神の御手によって変わります。見方も価値観も変わります。神の祝福には、人を根本から変える力があります。ヤコブが神の人との格闘を終え、神様から祝福され、そこを去ると太陽は昇ってきました。夜明けになったのです。それはヤコブ自身にとってきっと忘れられない素晴らしい夜明け、朝であったに違いありません。自分の罪や狡猾さからきた暗闇から解放された朝でありました。 ヤコブの暗い人生に神様からの光が差し込んできたのです。 /n夜明け  その後、ヤコブは兄エサウと再会するのですけれども、このエサウはヤコブを赦して受け入れるという、実にほほえましい場面が出てきます。神様がヤコブを変えただけでなく更にエサウの憎しみをも変えて下さった。しかし{ヤコブが神様の祝福を重んじ強く願い求めた。だから神様に選ばれた}とは言えないのではないでしょうか。それは、そこにはヤコブが生まれる以前に神様の大きな恵みがあった。不義な者を選び、義として下さる憐れみ深い神、その神様の選びがあったのではないかと思います。人間的には罪だらけのヤコブを義とし、祝福して下さる神様であった。そして祝福の光によってヤコブの陰は消え光の内を歩む人となったのです。これがペヌエルを過ぎてヤコブが迎えた夜明けでした。暗い時間は過ぎ去り、今、光の中を歩むヤコブ-いえイスラエルになったのです。 /nパウロのとげ  しかしヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていました。弱さを持つ人間になったのです。それゆえ今、自分の力でなく神様に頼る人生になりました。恵みによって生かされる、神のものとなったのです。新しい朝を迎え、新しい人生を歩み始めたヤコブが一つの弱さを持つようになったように、パウロも、思い上(あが)ることがないように一つのとげが与えられました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(?・12:5)と言っています。彼はいつも自分を苦しめる刺(とげ)がありました。弱さがあったのです。パウロはそれを取り除いて下さるように三度、神様に願いました。その時、神様から言われたのです。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(同9節)。そこでパウロはこのように告白します。「私は弱い時にこそ強いのです(同10節)。もはや自分の力で生きる人間ではなく、主の力によって生きる者となったのです。 パウロは名門の家庭に生まれ、当時有名な先生のもとで学び、最高の学問であったギリシャ哲学にも精通していました。又、律法を熱心に守っていた宗教人であったのです。パウロはユダヤ人でありましたが、特別な権利のしるしであったローマの市民権を持っていました。いわば当時の人々が欲しがるすべてのものを持っていたといっても過言ではないでしょう。しかし主イエス・キリストに出会った時にそれが誇りではなく、むしろ主から与えられた棘(とげ)、その「弱さ」が誇りであるということを知ったのです。棘(とげ)がある人間になったパウロを、主は、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として選び、用いて下さるようになったのです。 /n祝福への道  又、神様は、独り子イエス・キリストを通して私達をも選んで下さった。私達がどのような者であるにせよ、どのような過去を持っているにせよ、どのような弱さ・とげがあるにせよ、それは関係がありません。私共の暗闇の部分に向き合い、又、神様の祝福を願い求める時、主なる神様は必ず祝福して下さる。その時、暗闇の時間は過ぎ去り太陽が昇る夜明け、「新しい朝」が訪れるのです。 そして自分の弱さを通して、主によって新しく生まれ変わった自分自身を見ることができるのです。

説教要旨 「天からの権威」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章23-27節 23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 /nはじめに  本日の聖書では、祭司長や民の長老が、イエス様の言動に対して「何の権威でしているのか」「誰がその権威を与えたのか」と問い正しています。「権威」(英語でオーソリティ)とは、辞書によれば一番目に、裁定・命令などを強制し得る権力・権威(一般に人を信服させる威信、権威)二番目に委任、権限、職権、認可、承認と説明されています(以下、九番目まで説明があります)。ある神学者は権威を「外的な権力・物理的力」と「内的な力」に分けて考えます。外的な力は、その背景にあるもので成り立っており(たとえば戦争中の軍隊)、背景がなくなれば力も消滅するような性質のものです。それに対して内的な力から出てくる権威は、外側の状況の変化に影響されることはありません。 /n宗教的指導者が問題にしたこと  質問をしてきた彼らは、エルサレム神殿において外的な権力をもっていた人達でした。彼らはイエス様が神殿の境内で商売をしていた人達を追い出した出来事について、又、その他の言動について、その根拠を問いました。イエス様の言動を見過ごしにしてしまったら、自分達の威信が傷ついたままになると考えたのでありましょう。 /nイエス様のこたえ  イエス様は彼らの質問に正面からお答えになりませんでした。イエス様がなぜ神殿で商売している人々を追い出したのかといえば、神殿が、真の礼拝が行われるのにふさわしい場所でなくなっていた(宗教の堕落)からであり、イエス様の行為は、神の子として神様から与えられた権威のもとでなされたということです。しかしそれを語れば、自分を神とし、神を冒涜したこととなり、イスラエル社会では決して許されず、死を意味しました。イエス様が死刑にされたのは結局はこの罪によるものでしたが、今この時点が、ご自分の「その時」とは考えておられませんでした。彼ら達の悪意のわなにかからない為にイエス様は質問を返されました。 /nバプテスマのヨハネの洗礼は、天からのものか?人からのものか?  ヨハネは、今のままでは救われないこと、滅びが待っていること、それゆえに悔い改めの洗礼が不可欠であることを語りました。多くの人々が洗礼者ヨハネのもとで、悔い改めの洗礼を受けました。イエス様は、ご自分の言動の根拠を問い正す彼らに対して、ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか、と尋ねられたのです。 /n分りません  「天から(神様から)」と答えたならば、なぜあなた達は信じなかったのか、と問われるでしょう。何よりもバプテスマのヨハネがイエス様をメシア・救い主と認めていますので、イエス様を受け入れない彼らの信仰は自己矛盾に陥ります。一方、ヨハネの洗礼はヨハネ個人のものだといえば、ヨハネの洗礼を神様から来ていると信じる多くの人々は、祭司長や長老達の不信仰を問題にして、反感を持つだろうと考えました。そこで彼ら達が出した結論は、「分らない」というものでした。 /n「無知」を装う  人は常に曖昧性の中に自分の身を置こうとします。無難であり、自分を隠せるからです。本当にわからないものをわからないというのは正直であり、真実です。しかし彼らは「無知」を装いました。なぜなら自分を罪ある者としたくなかったのです。自分を罪ある者と認めるならば、悔い改めてイエス様の前にひざまずかなければなりません。それはしたくないのです。神殿を背景にした自分達の権威を損なうことは耐えがたく、彼らは自己保身の為に、見せかけの無知を装いました。 /n優先順位  「何が本当なのか?」ではなく「何をいうのが安全か。」「どうすることが自分を守る道なのか」と、外側の権威を優先させて生きる生き方は、人を臆病にし、硬くし、悔い改めの機会を失います。彼ら達は真理の道に戻る機会を、自ら閉ざしてしまった人々でした。私達はどうでしょうか。人から与えられた権威の下で自己を守る道か、それともイエス様と同じ権威の下に身を置いて神に従う道か。決断を求められています。

2008年元旦礼拝 牧師 佐藤義子

/n[テサロニケの信徒への手紙一] 5章12-28節 12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、 13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。 14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。 16 いつも喜んでいなさい。 17 絶えず祈りなさい。 18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 19 ““霊””の火を消してはいけません。20 預言を軽んじてはいけません。 21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。 23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。 25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。 26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。 27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。 28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。 /n  19世紀に生きたイギリスの牧師にスポルジョンという人がいます。彼の残した説教の中に「妥協はしない」と題したものがあります。アブラハムがしもべに、息子のための嫁さがしを命じている聖書の個所を取り上げたものです。アブラハムが僕に命じたことは、一人息子イサクの妻は、現在アブラハムが住んでいるカナンの娘から探すのではなく、アブラハムの一族が住んでいるアブラハムの故郷、メソポタミアのハランの町に行って探すように、というものでした。(カナンとハランがどれくらい離れているかを、聖書に添付されている地図1頁で確認してください。)しもべはアブラハムに尋ねます。もしも自分が見つけた女性が、ハランからカナンに移り住むことを嫌がる時には、その時には、息子の方を、アブラハムの故郷ハランに移り住んでもらっても構わないでしょうか、という質問です。アブラハムの答えは明快でした。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」(創世記24:6-8)  説教題の「妥協はしない」というのは、おそらくここからつけたものでしょう。スポルジョンは説教で語ります。しもべが出発前に主人の意見を聞く。私達も仕事をする前に、まず神様に向かって語り、聞く。その仕事の困難さを考えているならそれを打ち明け、神様が何を期待し、又助けて下さるかを聞きましょう!と。私達は、最初に地上における目に見える人や事柄に対して向き合おうとするけれども、そうではなくて、まず神様に向かって祈ってから、それから人や事柄に向かうということです。しもべは、自分に命じられたことの中で心配していることを尋ねます。その結果、主人アブラハムからは明快な答えを聞くことが出来ました。  このしもべに与えられた仕事は、主人の後継ぎの結婚という、とても責任の重い仕事であり、むつかしい仕事でもありました。彼は知らない土地を長旅しなければなりませんでしたし、主人の息子にふさわしい女性をみつけねばなりませんでした。その女性は、息子イサクの喜びとなり、イサクの愛すべき伴侶となるのです。そしてアブラハムが神様に与えられた約束を受け継ぐ者となるのです。しもべは、自分に与えられた使命を果たすために努力を惜しんではなりませんでした。自分の能力の限りを尽くして、主人から与えられた使命を果たさなくてはなりませんでした。神様の導きと守りがなければ、出来ることではありません。彼が、たとえ「この人だ」と確信する女性を見つけ出したとしても、はたして彼女は生まれ故郷を離れて遠い国にいくことを承知するだろうか。自分が伝えるイサクという人物と、聞いただけで結婚を承知するだろうか、との心配もあります。さらには彼女がメソポタミアを去ってカナンに来るということは、それまでの生活からの断ち切りが求められますし、農耕の定住生活から、天幕の移住する生活へ切り替わることを意味します。スポルジョンはこの説教で、私達をしもべにたとえて、キリスト者として生きるということが、どういうことなのかを考えさせます。  さて今年度の聖句として私達に与えられた御言葉は、「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」との御言葉です。この御言葉のあとに、こうあります。「これ、キリストイエスによりて、神の汝らに求め給う所なり。」私達の訳では「これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 /n常に喜べ  常に喜ぶとは、どういうことでしょうか。聖書においては、たとえばフィリピ書では「主において」という言葉と一緒に用いられていますし、テサロニケの手紙1章にはこのようにあります「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」。すなわち聖書が教える喜びは、嬉しいことがあったから喜ぶ、悲しいことがあったから喜べないというような、目に見える事柄によって左右される喜びではありません。順境の中にあっても逆境の中にあっても、変わることなく喜びにとどまる、永続性を伴う喜びです。一時的突発的衝動的な歓びとは区別され、イエス・キリストを根拠とする、イエス・キリストを信じる者の喜びであり、湧き上がってくる喜びです。しかし「喜べ」と命令形になっているのは、本人の自覚が必要であるということであり、努力が求められるからです。信仰からくる喜びは、神様が私と共にあって働いて下さるとの喜びであり、たとえ逆境の中にあっても、そのことが神様のゆるしたもうことであり、神様のご計画の中に置かれていることだと受け止められるならば、この喜びを奪うものはいないのです。  さきほどのアブラハムの話でいうならば、しもべの与えられた使命は重く、困難の伴う仕事でありました。しかし彼は、その仕事をおそれながらも喜んで担いました。私達はイエス様を信じる信仰が与えられているゆえに、それを家族、友人に伝えていく使命があります。その使命は重く、自分のような不完全な弱い者には、それを果たしていくことは不可能だとしりごみします。自分は口下手である。自分は消極的である。自分は何々だから、それは無理だ・・と。もっと別な、もっと口の上手な人がやればよいと考えます。しかし、あの偉大な指導者モーセも口下手でした。彼は神様にこのように断わっています。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたがしもべにお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全く私は口が重く,舌の重い者なのです。」神様は、このモーセの言葉を受け入れられたでしょうか。受け入れられませんでした。神様はこのように答えられています「一体、誰が口を聞けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また、見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と。(出エジプト記4章10-) /n絶えず祈れ  私達が御言葉を通して、教えられ、命じられていることは、私のわざではなく、神様のわざです。神様のわざは、私達の力が不十分でも、神様が私達を通して働いてくださるゆえに、しりごみするようなことではないのです。アブラハムのしもべが祈ってこれに向かった時、イサクの妻になるべき人は、向こうの方から近寄ってきたのです。(創世記24章11節-21節)  つまり、私達の使命が果たせるのは、私達の祈りを神様が聞いて下さった時なのです。私達の使命は、イエス様のことを伝えることと同時に、今、自分自身がおかれているその場で、真剣に誠実に生きるということでありましょう。夫であれば夫として真剣に誠実に生きる。妻であれば妻として真剣に誠実に生きる。親であれば親として真剣に誠実に子供に向かう。子供であれば、親に対して誠実に生きる。学生であれば勉学に対して真剣に取り組む。仕事があれば、仕事に対して真剣に誠実に取り組む・・。しかし私達の生活は一つだけでなく、複雑に入り組んでおり、バランスよくまんべんなく、パーフェクトに生きることは困難であります。しもべが心配したように、 ようやく主人の息子の嫁となるべき人物に出会っても、その人物が結婚は承諾しつつ、故郷を離れるのはいやだということも起こり得ます。事柄は必ずしも私達が願うようにはいきません。その時にはどうすべきか。しもべがご主人の考えを聞いたように、私達は神様に祈り尋ねるのです。答えが出ないときには答えがでるまで祈り続けるのです。神様は必ず私達にわかる仕方でその方法を示して下さいます。 /nすべてのこと感謝せよ  シュラッターという神学者は、私達が感謝できるのは、私達が、神様の現臨の中に生きている時であり、私達の魂が神様を対話の相手として、自分の行動の隅々までゆきわたっている場合だけであると限定しました。そうである時、すべてのことが感謝のもととなり、どんな経験の中でも、神様の恵みが絶えることなく、良い贈り物を届けて下さり、私達はその贈り主を知るゆえに、そのお方に感謝して神様を崇めます。  私達は喜ぶことがあるにもかかわらず見過ごし、あるいはその喜びを芽を自分から摘み取っていないでしょうか。  私達は祈りを沈黙させてはいないでしょうか。上を見上げる時間を惜しみ、横と下ばかりに時間を費やしていないでしょうか。  私達は感謝を絶やしてしまっていないでしょうか。  もしそうであるなら、私達はすでにイエス・キリストを失なっています。私達は日々、イエス様によって神様の恵みを受け取っています。そこから、かき乱されることのない喜びと、絶えることのない祈りとすべてのものを包む感謝が生じるのです。  2008年、仙台南伝道所の歩みが、そして伝道所にかかわるすべての者が、この御言葉を愛し、この御言葉と共に、この御言葉のもとで歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「信じて祈る」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章18-22節 18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。 20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。 21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。 22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」 /nはじめに  本日は今年最後の日曜日(聖日)です。しかし教会暦から言いますと新年は12月2日の待降節から始まっており、本日は降誕節の最初の日曜日です。(教会暦は、待降節-降誕節-受難節-復活節-聖霊降臨節と五つの節に分けられ、待降節は11月30日に最も近い日曜日から4回の日曜日を含む期間をさします。)教会暦は、クリスマスのように毎年12月25日と決まっている祝日と、復活節やその50日後にくるペンテコステ(聖霊降臨日)のように毎年変わる祝日があります。イースター(復活日)は、春分の次の満月の次の日曜日と定められた為、毎年移動します。  私達の日常生活では、明日は大晦日で世の中はきぜわしく動いておりますが、教会では先週クリスマス礼拝をささげたばかりで、1月の6日迄はクリスマスの飾りはそのままにしておくのが習慣になっています。日本の教会ではあまり一般的になっていませんが、クリスマスから12日後の1月6日は東方から博士達が星に導かれてイエス様を礼拝しに来たということで、イエス様が異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に、初めて救い主として現れたことを祝う日(顕現日・公現日)です。 /nいちじくの木を呪う  本日の聖書は、朝早い途上でイエス様が空腹を覚えていちじくを見たけれども実をつけていなかったので、イエス様がその木を呪われていちじくは枯れてしまった、という個所です。マルコ福音書には「いちじくの季節ではなかったから」と説明があります。季節でないにもかかわらず、実をつけていないとの理由でイエス様がいちじくを呪われ、いちじくの木は枯れてしまったという話は、私達にとってわかりにくい話です。 /nいちじくとは・・  旧約聖書ではイスラエルをいちじくで象徴する例が出てきます(エレミヤ24章・8:13・ホセア9:10)。ミカ書にはイスラエルの民の腐敗に対する嘆きの言葉にいちじくが出てきます。「悲しいかな、私は夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、私の好む初なりのいちじくもない。主のいつくしみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった」(7:1)。つまり葉ばかり茂って実のない いちじくの木を引用し、一見敬虔そうであるけれども実質のないイスラエルの民の道徳的腐敗を語っています。 /n「今から後いつまでも、お前には実がならないように」  ここで実をつけていないいちじくを呪われたのは、イスラエルの民が、(直前に記されているように)エルサレム神殿を礼拝の場所ではなく商売の場所へと堕落させてしまっていること、更にイエス様をメシア・救い主として受け入れようとしないことへの裁きの言葉として読むことが出来ます。 /nいちじくが枯れた奇跡  弟子達がイエス様にいちじくが枯れた理由を尋ねますが、イエス様はそこから「実を結ぶ信仰」について教えられます。人間の常識では不可能と思えることでも神様の力に信頼するならば、それは成るということです。イエス様はてんかんで苦しむ息子を連れてきた父親に、「出来れば、というか。信じる者には何でもできる」と言われました。「求めよ、さらば与えられん。」との言葉はあまりにも有名ですが、しかし私達は、聖書で繰り返し教えられているこの神様への絶対信頼が、多くの目に見える事柄に邪魔され影響を受け、次第にしぼんでいくことがあるのではないでしょうか。以下は、ある神学者の言葉です(蓮見和夫氏が紹介)。  「最悪の罪は、祈らないということです。私達をしばしば驚かすキリスト者の明らかな言行不一致は、祈りのないことの結果であり、そのとがです。祈りを欲しないことは、祈らないという罪のさらに背後にある罪です。しかしその結果、祈り得なくなるのです。それこそ祈りを欲しない人の受ける罰にほかなりません。それは精神的失語症、あるいは精神的餓死です。あなたは額に汗してパンを得なさい。これは肉体的労働と同じく、精神的労働についても言われた真理です・・」。  祈りは聞かれます。自己中心的な欲望の為ではなく、神様の栄光を現し、神様の御心にかなう祈りならば必ず聞かれます。私達はもっと大胆に確信をもって祈りましょう。自分自身の為に、家族と隣人の為に!!

説教要旨 「幼子イエスへの旅」 東北学院大学 佐藤司郎先生

/n[マタイによる福音書] 2章1-12節 1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11 マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 /nはじめに  今日の聖書には、「羊飼い達」は出てきません。その代わり「占星術の学者達」が登場します。又、救い主の誕生を告げる「天使の声」はなく、その代わり「一つの星」が現れます。しばしば起こることは、こうしたものが私達の頭の中で(一つの画面の中に)まとめられて考えられるということです。そこでクリスマスの飾りの中で(或いはページェントの中で)、羊飼達と学者達が一緒に並んで飼い葉桶の周りを囲んでいることになります。しかし、あちらに出てくるものはこちらにはなく、こちらにあるものは、あちらにはない。あえて言うならそれらは互いに取り換えの出来るものといって良いでしょう。けれども、決して別のものに置き換えることが出来ない方がここに登場致します。その方こそ、クリスマスの中心=イエス・キリストです。この生まれたばかりの幼な子に、きょう、私達は思いを向ける為に、祈る為に、賛美を献げる為に集まっています。私達は伝えられている2000年前の最初のクリスマスの様子に思いを向けたいと思います。 /n不思議な出会い  聖書によれば、その夜、幼な子イエスのもとに、不思議な星の導きにより東の方から占星術の学者たちが来て、幼な子を拝し、宝の箱を開け黄金、乳香、没薬を贈り物として献げるということが起こりました。御子イエスと占星術の学者達との不思議な出会い・・人間的に考えれば、おそらく決して起こる事のないようなそういう出会いです。人間的にはおそらく起こり得なかったであろうということは、いくつかの点で推測出来ます。  第一に、彼らは外国人であったということです。彼らは東の方から・・ペルシャ(今のイラン)から、あるいは反対に、シェバ(アラビア)から来たという説もありますが、よそから来た外国人です。エルサレムに着いて彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねています。「ユダヤ人の」という言い方はマタイ福音書では外国人(異邦人)の言い方として知られています。ユダヤの救い主とは関係のない人達でありました。第二にもっと彼らを聖書の世界から遠ざけていたのは職業・・占星術(星占い)です。天体の動きを読み取り、地上の出来事の預言をする。それが彼らの役目です。天体観測といえば科学者ですが、星の動きと地上の出来事を関連させるとなると単に科学者と呼ぶわけにはいかない。「まじない」といわれるようなことにかかわっていたはずで、いかがわしさはぬぐいきれない。こういう人達に対して聖書では、自然も歴史も治めているのは神様だと考えていましたので、まじないに携わる者は神様の権限を侵す者として忌み嫌われていました。つまり占星術は偶像礼拝と迷信の源だと考えられていました。この点でも彼らは聖書の世界から(イエスから)最も遠くにいた人達でした。このような人達がまことに不思議な仕方で幼な子イエスに出会い、聖書の神とかかわり合いを持つようになった。それが今朝、私達に示されている物語の中心です。 /nその方の星を見た  聖書には、占星術の学者達が星に導かれて、エルサレムの町の中心に突然あらわれたと書いてあります。彼らが口にした言葉は「私達は東方でその方の星を見たので」。これが、彼らをして何千キロの旅をさせた理由でした。「星を見たので」・・たったこれだけです。それ以上のことは聖書では何も説明しておりません。むしろ、そういう意味で、私は、この個所はクリスマスの度ごとに読んだり聞いたりして、実はいつも心高められる・・そういう思いがいたします。  本来神と関係なく生きていたその彼らの所にも星が輝いた。無論、星の導きそのものは迷信につながるようなものも持っていたでしょうが、そうしたことも含めて彼らが最も身近に知っていたものを用いて、彼らの生活(星占いという彼らのなりわい)を通して神ご自身が本当の救い主に出会う道を開いて下さったということ、神の光の届かない所はないというのがこの物語が明らかにしている真実であります。「その方の星を見たので」・・。彼らを普段の生活からその外へと踏み出させたのは、その星の光、星の輝きです。その星に彼らは吸い寄せられるようにしてやってきたのです。長年の天体研究の成果がその場合どのように役立ったかはわかりません。むろんそれだけではなかったでしょう。やはり不思議です。彼らの知識の延長線上に幼な子イエスへの旅の決意がなされたというふうには思われないのです。そこで思い出すのはキルケゴール(19世紀のデンマークのプロテスタントの思想家)が、晩年しばしば「飛躍」ということを言ったことです。信仰には飛躍が必要だと申しました。或いはシモーヌ・ヴェ-ユ(20世紀のカトリックの女性思想家)は、「私達が立っている為には、常に下へと向かわせる重力を受けている。私達を上へと引き上げる恩寵・恵みということがなければ信仰は成立しない」と言いました。上からの引き上げの力が起こらないと(働かなければ)・・と言っています。そうした飛躍がなければ、そうした恩寵がなければ、この占星術の学者達も「私達は東方でその方の星を見たので拝みにきたのです」という明確な言葉を語ることは出来なかったように私には思われます。「その方の星」・・そうです。私達の内なる星ではない。内なる光ではない。私達の上に輝く御子イエス・キリストの星が彼らを旅立たせたのです。 /n神なき所から神と共に生きることへ  こうして占星術の学者達はその遍歴の旅を通して、それ迄自分達と何の関係もなかった御子イエス・キリストとかかわりを持ち始めます。神の救いの歴史の中に入っていったといっても良いでしょう。神の救いの歴史に彼らが入っていくということは、反対に神の救いの歴史が彼らの中に入り込んでいくということです。それは、神が彼らと共に生きようとされたということです。そして彼らが神と共に生きるようになるということです。人は誰も、もはや神なしではないということ。それがここで起こっていることです。偶像礼拝や迷信の中にいたあの占星術の学者達。ただ星に導かれて幼な子イエスを拝した姿は私達自身の姿として見ることが出来るとしたら、彼らも私達も もはや神なしではない、ということです。イエス・キリストがお生まれになったということ、クリスマスということ、それは神なき所から救われたということです。ですからこの場合の救いとは、私達の悩みがいっぺんに解消したり、病気がすぐに治ったり、幸福をつかむ、という以上に、神と共に生きることが出来るということ、神をあてにしていいということです。もし私達の悩みが解消されるのが救いであるならば、悩みがなければ救われなくて良い、というのでしょうか。もし幸福をつかむということが私達の救いであるとするならば、幸福をつかんだら神様はいらない、ということでしょうか。そうではないのです。神なき所から救われるということ。これが聖書の救いです。神が共にいて下さるということ。私達自身の人生を神の地平の中に見出して、神との関係において新しく生きることがゆるされるということ。これがここにおいて占星術の学者たちの中に起こったことであり、私達にも起こるべきことです。それはもはや死の影の谷を歩まないで済むということではなくて、死の影の谷を歩む時でも恐れない、意気阻喪しない、なぜなら神が共におられるから、と告白することが出来るからです。 /n神の歴史の中に入っていこうとしなかった人  占星術の学者達はイエスと出会い、神の歴史の中を入っていきましたが、神の歴史に入っていこうとせず、これを否定し自分の歴史を変えて押し広げようとした(その為、占星術の学者達と幼な子イエスとの出会いを妨げようとした)人がおりました。当時のユダヤの王ヘロデです。大王と呼ばれ残虐で知られていた彼は、35年にわたってユダヤを専制支配しました。キリストがこのヘロデ時代の最後に生まれたのです。今日の聖書によれば、東方から来た学者達と「その方はどこにおられますか」という問いに不安を感じた王は、ユダヤ人の王と称されるイエスを探し出して殺そうとします。しかし見つけられずベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。イエスがお生まれになった時、まさに闇が深く時代と視界を覆っておりました。重要なことはイエス・キリストの誕生を喜ばない、かえって亡き者にしようとしたそのような闇の世を、御子イエス・キリストはご自分の生の場所としたことです。そこで生きようとされた、そこで生きたということです。そこが神のものとなる為です。そこで生きる私達が神のものとなる為です。彼は十字架を引き受け、闇の世の力に自らをさらすことによって、かえってその闇の力そのものに死をもたらした。復活によって明らかにされたのはそのことでありました。 /n御子イエスの誕生  世のクリスマスはイルミネーションで飾りつけられ賑わっています。しかし聖書の示す御子イエスの誕生とは、そうした華やかなものとは無関係でした。御子イエスはこの世に、この世をあがなう為に来られたのです。神と人とを結びつける為に、神が人と共に生きる為、人となってこの世に来られたのです。今日の聖書が示す幼な子イエスの姿は、ヘロデのように暴力と権力によってではなくてその無力において、栄光ではなくその苦しみにおいて、人々を助け,平和をもたらす真の王の到来を示しています。 /n神の言葉  イエスを拝した彼らは、まるで急いで舞台から消えていくように、再び自分の国に帰っていきました。その時故郷で輝いたあの光はもうそこにはありませんでした。聖書はこれをこう伝えています。「ところが『ヘロデの所へ帰るな』と夢でお告げがあったので・・」。確かにあの星はもはや輝いていません。暗闇・ヘロデの世界です。神なき異教の地に彼らは戻ろうとしたのです。私達は上を見上げ、あるいは周りを見ます。どこかに私達を導いてくれる目印はないものか。それはもはやどこにもないのです。聖書はその代わり、「夢でお告げがあった」と伝えています。そしてそれは「ヘロデの所へ帰るな」というまさに言葉でありました。そうです。頭上に輝く星ではなくて、占星術の学者達に神の言葉が、神の戒めが、神の定めが、神の道が示されます。神の指し示す道、別の道、それは私達の心の中に響く神の言葉です。自分の国に帰った学者達を待っていたのは依然として異教の世界であり、暗闇の世界です。でも神が彼らと共に歩もうとされたということ、彼らが神と共に歩むことが許されるようになったということ、彼らの歩みを確かにするものが彼らの心に響きます。神の言葉です。御子イエス・キリストへと導かれて出会い、喜びを共に心にお迎えした彼らを、私達を、導くのは神の言葉です。それは私達に別の道を指し示すのです。 /n和解の福音 今年も国内でも海外でも,まことに悲惨な事件が相次ぎました。一昨年ドイツから来た友人が日本に着いて「ストレス社会」という言葉を口にしました。皆、追われるようにして自分一人の幸せを追いかけて、他人を思いやる、一人一人を大切にする、神様によって創られ神様に愛されたかけがえのない人間として私も愛する、ということがなくなった。神を愛するということは神が愛されたものを愛するということでなければならない。国を愛することも大切ですが、隣人を愛するということの方がもっと大切なことではないでしょうか。或いは、社会における虚偽や不正が後を絶たない。真の神がいないゆえに神の前に良心的に生きることが総崩れになっている。それが現代の日本です。或いは、聖書は私達に和解の福音・・つまり私達はすでに他者としての神に受け入れられているということ・・を告げています。そのように、私達も他者に対して心を開き、受け入れるようにと促されています。しかしそれはどうだったでしょうか。あの前の戦争を反省し、アジアの人々と和解と平和に生きるという道をこの国は本当に歩もうとしているのか。ヘロデの権力者の道ではない。殺戮と戦争の道ではない道です。別の道です。武器に頼らない国としての生き方、私達の生き方です。イエス・キリストの中に示された生き方です。一言でいえば、神を愛し、隣人を自分のように愛する道です。暴力や差別を否定する道です。神の言葉が私達に示す道です。どこを見ても星はない。上を見てもだめなのです。神の言葉がこの暗いこの世の中でも輝き、私達に確かな道を示すのです。暗闇に輝く光、イエス・キリストに従って,その御言葉に従って,今から、そしてここから、過ぎゆこうとしているこの年の残りの日々を、そして来たらんとする新しい年を、たとえ暗闇であっても、暗闇が深ければ夜明けは近いのだから、神の言葉に示される道を通って望みの忍耐において歩みたいと思います。20世紀を代表した神学者カールバルトは、1968年12月のアドベントの死の前日、60年来の友人トゥルナイゼンと電話で暗い世界情勢について話し、最後にこういったと伝えられています。「しかし、意気消沈しちゃあ だめだ。絶対に。主が支配したもうのだからね。」 クリスマスから歩む。幼な子イエスから歩む。インマヌエル(神共にいます)から歩む。つまり御言葉から歩むということは、この世の主、教会の主、私達一人一人の主の恵みのご支配のもとで、絶対に望みをなくさないという意味です。それが、今年、このクリスマスに神が私達に語られていることです。