「神のものは神に」  伝道師 平賀真理子

/n出エジプト記 20:4-6  /nマルコ福音書12:13-17 /nはじめに イエス様の地上での最後の一週間の三日目の出来事です。この日イエス様を神殿から追い出そうとして、祭司長、律法学者、長老達はイエス様の言葉じりをとらえて陥れる為、ファリサイ派やヘロデ党の人をイエス様のところに遣わしました。ファリサイ派とヘロデ派は、本来は、相いれない者同士です。しかし「イエス追放」という共通の目的に向かって、一時的に手を結んでいます。彼らは、自分達の敵意を隠す為に、イエス様を褒め(「あなたが真実な方であることを知っています」)、イエス様を油断させ、失言を引き出そうと考えたようです。 /n言葉のわな 彼らはイエス様に「あなたは・・真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と敬意を装った後、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか」と質問したのです。この質問は、神の民であるイスラエル民族が、異邦人の国の皇帝に税金を納めることの是非を問うものです。「納めるべき」と答えれば、「異邦人支配を容認した」と責めることが出来ます。又、民衆は重税で苦しめられていたので、イエス様の人気は失墜するでしょう。「納めるべきでない」と答えれば、ローマ寄りのヘロデ派の人々が黙っていません。どちらに答えてもイエス様を追い込めます。 /n「銀貨を持って来て見せなさい」 しかしイエス様は人の心に何があるかを知っておられる方です。彼らの 醜い意図を見抜きつつ、それでも忍耐して質問に答えるため、まず彼らにローマのデナリオン銀貨を確認させました。貨幣にはローマ皇帝の肖像と銘がありました。イエス様は、「皇帝のものは皇帝に」と言われ、その後で更に、「神のものは神に返しなさい。」と答えられたのです。   /nこの世の大原則 イエス様の答えは、納税だけでなくこの世の大原則を示されています。それは、神様が本来この世を造られたのであるから、この世のすべては神様に返されるべきものであるということです。神様の造られた世界にあって、皇帝などは一時的に権力を借りているにすぎず、その繁栄も一時的なものです。しかも権力をめぐり、この世は、残忍、嫉妬、狡猾、欺瞞などが渦巻く世界になってしまいました。 /nイエス様の目的 神様は人間を深く熱烈に愛しておられたので、サタンのわなによって悪に染まった人間とこの世を、神様が本来造った性質に取り戻すために、最終的に御子イエス様をこの世に送り、イエス様の歩みを通して救いのご計画を実行されたのでした。「もともと神のものであった人間やこの世を、神に返す」。これこそイエス様が来られた目的です。イエス様の十字架の血潮に贖われて、神様のものとされた信仰者の私達は、本当の意味で神様に返されるにふさわしいものとなっているでしょうか。 /n神様の祝福 今日の旧約聖書には、「私を愛し、私の戒めを守る者には幾千代にも及ぶ祝福を与える」とあります。神様のことを第一に思い、その御心を知り、御言葉を守る者に、神様は永遠に祝福を与えて下さいます。 私達はイエス様の教え、弱い者への愛、へりくだりの心を中心に、誠実に生きることが求められているのではないでしょうか。日々の祈り、聖書の学び、愛に基づいた働き、そして主日ごとの礼拝によって、神様のものとされた私達の霊に、神様の像が深く刻まれていくのです。 「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。…御父は、私達を闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。私達は、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」                        (コロサイ1:9-)。

「だから、わたしも働く」  牧師 佐藤義子

/n詩編32:1-7 /nヨハネ福音書5:1-18 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がなさった奇跡の中でも「ベトザタの池の奇跡」(口語訳「ベテスダの池」)として良く知られています。この出来事ではイエス様と、38年間病気で苦しみ、歩くことの出来ない人、そして、熱心なユダヤ教徒達が登場します。  初めに38年間という時間を考えてみます。例えば私の場合、満州に生れて、日本に引き揚げてきて、子供時代を経て高校を卒業し会社に勤め、神学校に行き、大学紛争をはさんで7年後に卒業して学校の先生になり、結婚し、三人の子供が与えられ育てていた年月です。それは大変長い長い時間です。この長い時間を、この人は、病気という状態で、エルサレム神殿の「羊の門」とよばれる門の近くの池を囲む回廊で、他の同じような体の不自由な人々と一緒に過ごしていました。何歳からかわかりませんが、毎日神殿に来る大勢の人達を見ながら、神様はなぜこのような不公平をお許しになるのかとうらめしく思い、自分の人生に絶望したこともあったかもしれません。しかし長い間、同じ状況が続く内に、あきらめに似た気持を抱くようになっていたかもしれません。私達の想像をはるかに超えた人生です。 ある日イエス様は祭りの為エルサレムに来られ、回廊に横たわる大勢の病人や、目の見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人達の中から、この、38年間病気で苦しんでいた人に目をとめられました。 /nいやし イエス様が最初にこの人に「良くなりたいか」と尋ねた時、この人は、「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。」と答えています。 「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていてもいやされたからである。」と、ヨハネ福音書の最後に説明があります。 ここは間欠泉であったらしく、活性を帯びた水が時々噴出し、この活性の強い水に触れた人が、それによって治癒したことが背景にあるようです。彼は孤独であり、助けてくれる家族、友人はいませんでしたが、治りたいとの思いはこの言葉に溢れています。 イエス様は、この言葉を受けて、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。彼は即座に癒されて、イエス様の言葉通り、それまで横たわっていた担架か布団を持って歩き出しました /n「律法で許されていない」 その日は、律法ですべての行動が制限されている安息日でした。彼が病から解放され、喜んで床を担いで歩いていたところを、ユダヤ人達から「律法破り」と、とがめられたのです。彼は、自分に歩けと言った人がいて、自分は、ただその人の言うことを聞いただけだと釈明をします。ユダヤ人達は、律法を破ることを命じた者が誰かを追求しました。癒された男はイエス様の名を知りませんでしたが、この後イエス様と再会し、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない」と言われました。ところが彼はユダヤ人達のところに行き、自分に律法を破らせたのは「イエス」だと知らせました。そこでユダヤ人達のイエス様への迫害が始まったのです。   /n「私の父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」   迫害するユダヤ人に対して、イエス様は神様を父と呼び、父なる神様は昼も夜も24時間、365日、働いておられることを主張されました。イエス様は神様の御子として神様に従順であり、神様に逆らって行動されることはありません。熱心なユダヤ教徒達が、どんなに律法を引き合いに出して、その正しさを主張しようとも、イエス様は、「目に見える行為の律法遵守」を超えて、律法の精神である「神様の愛の業」に生きられるのです。父なる神様も、御子イエス様も、今も働いておられます。   それゆえに、神様を信じ、イエス様を信じる私たちですから、私達も又、神様の愛のわざに参与させていただけるよう、必要な時はいつでも働けるように、心も体も整えて、今週も歩んでいきたいと願うものです。

「自由を得させる真理」  牧師 佐藤義子

/n詩編125編 /nヨハネ福音書8:31-38 /nはじめに  今読んでいただいたヨハネ福音書の最初には、「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人達に言われた」(31節)とあります。30節に、「これらのことを語られた時、多くの人々がイエスを信じた」(30節)とあるので、それ迄イエス様のことを信じていなかったユダヤ人達が、イエス様の話を聞くうちに、イエス様を信じるようになったことがわかります。  ところがこの後、59節には、イエス様の言葉を聞いていたユダヤ人達が、手に石を持ってイエス様に投げつけようとした為、イエス様は神殿から出て行かれたことが記されています。イエス様を信じたはずのユダヤ人達が、イエス様との会話により敵対者となっていくことに驚かされます。 /n本当にイエス様の弟子になる イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当に私の弟子である。」(31節)と言われました。イエス様の言葉に、絶えず信頼をもってとどまるということは、イエス様から離れない。イエス様を信じ続ける。信頼し続ける。イエス様に目を向け続ける。脇見をしないことです。 具体的には、イエス様の言葉に導かれる。イエス様の言葉が私達の思いと意志を動かしていくということです。そうするならば、私達は空しい空虚な思いや、空想や、偽りと決別し、人を自由にする「真理」を知ることが出来るとイエス様は言われます。 /n「真理はあなたたちを自由にする」 ところがイエス様を信じたはずのユダヤ人は、イエス様が続いて言われた「真理はあなたたちを自由にする」と言う言葉に反発しました。つまり、自分達はもともと自由であり、誰かの奴隷になって不自由な状態になったことはないと主張したのです。それに対してイエス様は、「罪を犯す者は罪の奴隷である。」すなわち、「あなたは罪の奴隷だ」と言われたのです。 /n罪の奴隷  罪とは何でしょうか。簡単にいえば、神様への不服従(戒めを破る)です。 例えば、十戒の中に「偽証してはならない」があります。ところが人間社会では、自己弁護、自己正当化のために「うそ」が入ってきます。「うそ」をつくことは罪です。うそをつかざるを得ない状態は、鎖につながれた不自由な奴隷状態にあります。生まれながらの人間は、さまざまな欲望を持っています。そしてその欲望を満たすために、頭では悪いと知りながらコントロールがきかず、罪の奴隷となっています。    この罪の奴隷状態にある私達人間が、「真理」を知ることによって自由になれる。自由を得ることが出来るとイエス様は言われたのです。イエス様は同じヨハネ福音書で「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われました。イエス様ご自身が、神様の真理を現されたのです。イエス様が語られる言葉すべてが真理です。ところがこの世には、神様の支配される世界に生きることを阻止し、そこから引き離そうとする誘惑、力が至る所に存在します。 私達が「自由」になるということは、これら真理に逆らうものすべてから解放されることです。イエス様を信じて、イエス様が教えて下さっている言葉にとどまり続けるならば、私達はこの世の伝統や風習、価値観、人の目、その他全ての束縛から解放されて、自由に生きる(神の子として生きる)ことが出来るのです。このためにイエス様は来てくださいました。 /n本当の弟子になりたい イエス様は、私達を罪の奴隷から解放して下さる為に(その鎖を切り離して下さる為に)、十字架にかかって死んで下さいました。そして三日目に復活して、死(罪)に対して勝利者となられました。 イエス様が地上で繰り返し語られたことは、神様を愛することと、私達が互いに愛し合うことです。イエス様はその見本を示されました。私達はイエス様の本当の弟子になりたいと思います。それには、御言葉にとどまることによって、真理であるイエス様を益々深く知ることであり、それによって、私達を神様から引き離す力から自由にされることです。 今週も御言葉に導かれて歩んでいきたいと祈るものです。

「ぶどう園と農夫のたとえ」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書5:1-7 /nマルコ福音書12:1-12 /nはじめに   ユダヤ教指導者達は、イエス様のなさった「宮清め」だけでなく、神の御子にしかできないイエス様の力ある業や説教や癒しによって、群衆の尊敬が、自分達からイエス様へと移っていくことへの嫉妬や敵意がうずまいていました。しかも群衆は、イエス様を通して神様の力の偉大さを知り、神様を心から讃美していたのです。 神様がイスラエルの民を御自分の民として選んだのは、彼らが他のどの民よりも貧弱であったからだと聖書に記されています(申命記7:7)。神様は弱い者を憐れまずにはおれない御方です。その御心こそ第一に尊重されるべきでした。その神様の愛を分かりやすく人々に示したのがイエス様です。しかしユダヤ教指導者達は、律法の細々した規定や解釈に気を取られ、それが分からず、イエス様をどうにか追い払おうとしています。又、自分達から離れていった民衆の心を再び取り戻そうとしています。 イエス様は、真実に対してはっきり従う決断をしない彼らに対して、きっぱりと線を引きました。しかし憐れみの心を持って真実を理解させ、救いに入ってほしいと思われて、彼らの姿を知らせるために、本日の「ぶどう園と農夫」の話をされたのではないかと思います。 /nぶどう園 「ぶどう園」と言えば、イスラエルの人々はイザヤ書5:1~7を思い出したことでしょう。「ぶどう園を心をこめて造った人」とは「神様」です。「ぶどう」は、「イスラエルの民」です。「ぶどうの良い実」とは「イスラエル民族の神様(ヤハウェ)への信仰」であり、「実が酸っぱい(ぶどう)」は、「神様への不信仰」のことです。具体的には「偶像礼拝」です。 主人が「ぶどう園を見捨てる」とは、不信仰の民全体を裁かれることで、悲しみや苦しみに民全体を引き渡すというたとえです。   /n農夫  イエス様は、旧約聖書と同じ背景を使いながらユダヤ教指導者達を、「ぶどう園の農夫」にたとえました。最初にぶどう園の主人が、いかに智恵を使い愛情をかけてぶどう園を造ったのか、手順を挙げて表現しています。「主人」はこの世を造られた神様と考えて良いでしょう。「ぶどう」はイスラエルの民と考えて良いでしょう。「農夫」はそれを管理し育てる役割を託されています。そして良い実りをもたらし、その収穫を渡すように主人から期待されています。この農夫の役割こそ本来、民の信仰を育て上げ、それを神様に捧げるはずのユダヤ教指導者=大祭司・律法学者・長老達が担うはずでした。しかし彼らは、その役割を担うことなく、自分達の権威を保持する為に預言者達にひどい仕打ちをします。 /n「捨てた石が隅の親石となる」 たとえでは、農夫達は送られてくる主人のしもべを殺してしまいます。主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、最後に息子を送ります。これこそ父なる神様が人間を救いたいという愛ゆえに、この世に送った御子イエス様のことです。ところが自分達の利益に目が眩んだ農夫達によって息子も殺されるという描写は、イエス様がユダヤ教指導者達の働きかけによって十字架にかけられる受難の道のりを示しています。主人の忍耐も息子の死迄で、そこから徹底した裁きが始まります(9節)。   イエス様は詩編118編を引用し、「捨てられた石が隅の親石となる」という神様の業を語られます。それは、ユダヤ教指導者達がイエス様を排除しても、神様は排除されたイエス様をメシアとして用いられるということです。神様の業は人間には理解しがたく、不思議としか言いようがないと詩編は告白します。私達が信じるイエス様は、人によって捨てられ、神様によってメシアとされた「神の御子・イエス様」です。

「恵みによって召し出す神」  牧師 佐藤 義子

/nエレミヤ書1:4-8 /nガラテヤ書1:11-24 /n今、読んでいただいたエレミヤ書には、若き日にエレミヤに臨んだ神様の言葉が記されています。それは「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生れる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」というものでした。この時エレミヤは、「わたしは若者にすぎません」と、神様からの召命を拒みますが、神様は「若者にすぎないと言ってはならない。誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。」と語りました。 /n「母の胎内にある時から選び分け」 そして、今日のガラテヤ書でも、パウロがこのように言っています。 「しかし、私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(2:15)と。 パウロは、イスラエル民族として純粋な血筋の中で生れ、律法を守る点では熱心なユダヤ教徒であり、ガマリエルというユダヤ教の大指導者のもとで訓練を受けてきました。彼はその熱心さのゆえにキリスト教徒を迫害しました。その彼が、迫害を目的にダマスコの町に向かっていた時、突然、天からの声を聞いたのです。それはイエス様の「なぜ、私を迫害するのか」との言葉でした(使徒言行録9章)。彼はこの出来事を通して180度変えられ、後に、今読んだように、「私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神」と、神様を崇めているのです。 /nユダヤ教とキリスト教  ユダヤ教で最も大切にされるのは「律法」です。律法を守ることこそ救いの道であり、天国に行く道でした。ユダヤ人の「シェマー」と呼ばれる基本的信仰告白は、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)であり、神を愛することは、十戒を中心とした律法を守ることでした。 ところがキリスト教は、十字架で殺されたイエスこそ神から遣わされた神の子・救い主であり、神はこのイエスを死から復活させ、神の右に挙げられ、約束の聖霊を送って下さった。だから悔い改めて、イエスを「救い主」と信じる者は救われる。信仰こそ救いの道と宣べ伝えました。 律法を行うことで人は救われると教えてきたユダヤ教に対し、「イエスをキリスト(救い主)と信じることこそ神の国の民とされる道である」ことが宣べ伝えられたのです。 パウロは、(神を冒涜した罪によって殺された)イエスを、神の子と信じて、自分の全存在を支配する「主」として仰ぎ、従うように教えるキリスト教は、ユダヤ教の敵であり、撲滅すべき相手と考えて迫害したのです。その彼が、今や、「自分は母の胎内にある時から選び分け、キリスト教伝道者として外国人に遣わされている」と告白しています。 /n恵みによって召し出す神 神様を良く知らない時は、何でも自分の意志や考えでやっていけると思います。しかし信仰が与えられ、神様のご計画があることを知らされた時、私達はエレミヤのように、そしてパウロのように従わなければなりません。又、神様の御計画を知りたいと願い、祈るように導かれます。例えば、全てのことには神の定められた時がありますが、(コヘレトの言葉3章)、私達は「今がその時だろうか」と祈ります。自分の願いでなく、神様の御心を第一に考えられるようになります。パウロを恵みによって召し出した神は、私達をも恵みによって召し出されるお方です。

「主イエスの権威」  伝道師 平賀真理子

民数記16:1-7 マルコ福音書11:27-33 /nはじめに  今日の新約聖書は、イエス様が過越祭のためにエルサレムに入られて、三日目の出来事です。一日目、イエス様は祭りで集まってきたイスラエル人達に救い主として大歓迎を受けました(11:1-11)。二日目は、「宮清め」(エルサレム神殿が本来なら「祈りの家」としてあるべきなのに、商売人達の儲けのために利用されているのを見て、イエス様が商売人達を追い出された)をされました。このことはイスラエル社会で最大の尊敬を受けていたユダヤ教指導者達、及び神殿の運営方針に対して間違っていると批判したことになります。 /n「何の権威で」「誰が権威を与えた?」 イエス様は宣教の初めから、権威ある者として他のユダヤ教指導者達とは違っており、ファリサイ派の人々はその凄さを悟り、自分達が生き残るには、もはやイエス様を亡き者にすべきであると動き始めました(3章)。それまで自分達の教えをありがたく受けていた一般民衆が、自分達よりもイエス様の教えや癒しを見聞きし、その力に感動して受け入れる様子が、何よりもファリサイ派の人々を嫉妬させたことでしょう。  「宮清め」の翌日、イエス様が神殿の境内を歩いておられると、ユダヤ教指導者たちが問いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えているのか」。「このようなこと」とは、「宮清め」の行為自体とその後の神殿での教える行為、さらに大きくとらえると、今迄の、イエス様の宣教活動全般、更にはユダヤ教批判のことを指すと思われます。「何の権威で」「誰が権威を与えたのか」との問いは、「祭司階級でもなく、職人階級出身の『イエス』には、神に選ばれて高い身分にある自分達を超えて、現状を批判する権利はない」との非難が込められています。 /n「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」 イエス様は、この問いに答える条件として、「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」を答えるように求めました。ユダヤ教指導者達は、祭司階級にあることに誇りを持ち、その価値観に従うなら、洗礼者ヨハネこそ祭司階級の両親を持ち、救世主の道を真っすぐにする者として生きた人でした。ヨハネは、預言者達が語って来た「救世主の先駆者」として生まれる前からイスラエルの人々に期待され、生まれた後も人々に尊敬される生き方をし、水による洗礼で多くの人を悔い改めに導きました。イエス様は、ご自分を救世主だと証しした洗礼者ヨハネのことや、彼の施した洗礼のことを指導者達に思い起こさせようとされました。イエス様から問い返された指導者達は、しどろもどろになります。出身階級といい、聖書の預言と言い、彼らが頼りにする根拠そのものから、「ヨハネの洗礼は神様からきたもの」であることに思い至ったのです。 /n「分からない」 神様の約束の預言と実現としての洗礼者ヨハネ。そのヨハネが「この人こそ救世主」と証ししたのがイエス様でした。それなのに、ユダヤ教指導者達は人間的判断で、イエス様を「救世主」と認めませんでした。もしヨハネを、神様からの権威が与えられていたと認めるならば、ヨハネの証しを信じないことは、神様からの権威を信じないことになり、ひいては神様を信じないということにもなりかねません。それは、彼らの宗教的指導者の立場を否定することになります。あわてた彼らは、逆の、「人からの権威」という答を考えますが、それでは民全体の信仰とは異なり、人々からの支持を失います。彼らは「分からない」と答えました。 /nイエス様の愛による支配  イエス様は、神様の真実の前に、正直に答えようとしない宗教的指導者達との問答をこれで終りにされました。この世の権威は自分の利益や名誉を求めて他人をどこまでも押さえつけようとします。 この世の全ての権威を持っておられながら、忍耐強く、仕える愛で私達を導いて下さるイエス様に感謝を捧げます。その思いが「礼拝」という形で多くの兄弟姉妹と共に神様への賛美として献げられることも感謝です。  今週一週間、私達に起こる出来事を通して神様から何を語りかけられているか、よく知ることができるように、聖霊の助けを祈って過ごしてまいりましょう。

「恵みにより救われる」  牧師 佐藤義子

/n[詩編]36章6-10節 /n[エフェソ信徒への手紙]2章1-10節 /nはじめに   私達は、自分の生きている世界のことを何となくわかっているような気になっていました。しかし大震災で、私達を取り巻く環境が一変した時、実はそうではないこと、私達人間の想定範囲は、きわめて限られたものであったことが明らかになりました。多くの命が失われ愛する家族を失ない、今なお深い喪失感の中で先に進めない方達や、敷かれていたはずのレールが、突然目の前から消えて、不安と焦燥感の中にいる方達、又、先日も、失業手当が切れる時期を控えて、深刻な状況が報道されておりました。  人間が生きる為には、衣食住や、家族や、将来の夢や希望も大切であり、それらを突然失った方々の力になりたい、助けたいと、本日も、七ヶ浜や蒲生の被災家屋の修復作業のため、アメリカから応援に駆け付けて働いておられるサマリタンズ・パースの方々が、ご一緒に礼拝をささげています。 /n私たちは死んでいた! 今日読んでいただいたエフェソの手紙2章の1節には、突然、今生きている人に向かって「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたは死んでいた</span>」との言葉が出てきます。 さらに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は過ちと罪を犯して歩んでいた</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちも皆、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした</span>」とあります。この手紙はエフェソの教会の信徒達に送られた手紙ですが、聖書は常に今を生きる私達に向けて語られている神様の言葉ですから、「あなた方」という部分を「私」に置き換えて読み進みたいと思います。 そうしますと今日の箇所は、「以前の私は、過ちと罪を犯して歩んでおり、神の怒りを受けるべき者として死んでいた」となります。この箇所からも、聖書は「生きる」とか「死ぬ」という言葉を、一般的な意味で使っていないことがわかります。 聖書で「死ぬ」とは、呼吸が止まることではなく、自分の過ちと罪の結果、神の怒りを受けた者。神に従わない不従順な者に働く霊に従って、肉の欲望の赴くままに生活していた者が神の怒りを受けている状態のことです。 エフェソの信徒達は、「以前は死んでいた」けれども、今は生きています。 /nキリスト・イエスによって共に復活する 神様を畏れないこの世の支配者、サタンとか悪とか呼んでいますが、その霊に従って、肉体の欲望や心の欲望のままに行動した結果、生まれながらの人間は、肉体は生きていても死んでいるということです。 ではどうしたら死から命に向かうことができるのでしょうか。死から命に向かうために、聖書は、そこにはまず神様の豊かな憐れみと、神様の人間へのこの上ない愛があったことを伝えています。罪で死んでいた人間を、神様はイエス様と共に復活させて下さったこと、それは一方的な神様の恵みによるものだと4節以下に記されています。  この恵みを受ける信仰が与えられたことで、信じる者は救われたのです。 /n恵みにより、信仰によって救われる 今、私達が生きている世界が終った後に、神様の創られた世界が完成する時がやって来ます。神様はイエス・キリストを私達に遣わして下さり、その死によって、私達の罪を贖って下さいました。その限りない豊かな恵みは、来るべき世において、栄光を受けられたキリストのご支配を直接受けることの約束へと続きます。神様の恵みが私達に注がれ、私達の中に働く時、私達の心は神様に向かい、神様の恵みを確信することが出来ます。 この信仰が与えられる時、救いが起こります。神様の恵みが救いをもたらすのです。救いは「神様の恵み」によって起こるので、私達が神様のために何かをする必要はなく、救われた人は、誰も自分を誇ることはできません。 /n神の作品として生きる  口語訳で10節には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達は神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日をすごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである</span><span class="deco" style="font-weight:bold;">。</span>」とあります。  私達はそのように造られているのですから、そのように歩んでいきましょう。聖書はいつもそうですが、例外なくすべての人に語られています。聴く耳をもって従っていきたいと願うものです。

「新たに生れる」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]40章25-31節 /n[ヨハネによる福音書]3章1-15節 /n はじめに   今年度の御言葉は、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れた者は肉である。霊から生れたものは霊である。」です。 元旦礼拝では、毎年「その年の聖句」を学んできましたので、今日も、この御言葉についてご一緒に学びたいと思います。 /n ニコデモの訪問 今日の聖書に登場するニコデモは、議員であり、ユダや教の中でも厳格なファリサイ派に属していました。ユダヤ教徒(特に指導者達)は、イエス様に対して距離を置いていました。二節には、ニコデモがイエス様を訪ねて来たのが夜であったことを記しています。それは、イエス様への訪問を人に知られたくなかったからでしょう。彼はイエス様の話を見聞きし、イエス様の言動は確かに正しいと認めつつも、その一方でイエス様のことを警戒している仲間の人達のことを気にしていたのです。 /n 心の自由と不自由 人はなぜストレートに自分の確信に従って行動出来ないのでしょうか。それは、人の目、人の噂を気にするからです。自分が良いと思うことを良い、悪いと思うことを悪いと言えるのは、その人の中に自由が確保されている時です。しかし、言うべきだと思うことを人前で言えず、こっそり言いに来るのは、その人の心が不自由な状態に置かれています。ニコデモは、人々の判断や、この世の栄誉を気にしながら、その一方で、自分の心の中に生れたイエス様への信頼を伝えるべきだと考えたようです。 人間に対しても神様に対しても、両方に心が向いているニコデモを、イエス様はすべて見通された上で、暖かい忍耐をもって迎えます。ニコデモは「ラビ(先生)、私共は、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことは出来ないからです」と言いました。 その言葉に対して、イエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることは出来ない。」と言われました。 /n 新たに生れる ニコデモは、「自分はイエス様を正しく理解している」と過信していました。けれどもイエス様は、「神様が、人間に対して行うことを理解する為には、あなたがまず新しく誕生することがなければならない」と言われたのです。人は、自然の誕生のままで神の国に入ることは出来ません。そこに入る為にはもう一度新しく生れなければならないのです。  「新たに生れなければ」と聞いたニコデモは、人が誕生を繰り返すことは不可能であると反論しました。 イエス様は、身体的な意味で新しく生れると言ったのではなく、新しい命がその人に吹きかけられ、新しく生きることが始まる時のことを言われたのです。この新しい命は、神様だけの所有であり、この神様の賜物をいただけた時のみ、神の国を見ることが出来、神の国に入ることが出来るのです。ニコデモが神様から新しい命を与えられて新しく生きる者とされるためには、創造者である神様がそのようにして下さらなければならず、人が出来ることは、祈り求めて、ただ受けることだけです。 /n「誰でも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。」   水と霊は新しい人を生み出します。その時人は、神様によって定められた生命力をもちます。新しく生れるとは、バプテスマの水を通して神様の赦しの領域に移されることです。神様が恵みをもってその人に近づく時、人は内側から捕えられ、形作られていきます。神様は霊において、その人に臨みます。神様は、その人の思いを支配し、その中に光を与えられます。神様は、その人の感覚や意志を呼び起こされます。(「新生」)。人間が自分自身から造りだす全てのものは肉の性質を帯びており、神様が私達に与えるものは霊です。霊は神様の本質と力です。

「救い主降誕の出来事」  伝道師 平賀真理子

イザヤ書12章1-6節 ルカによる福音書2章8-21節 「救い主降誕の出来事」  伝道師 平賀真理子 /nはじめに  今日は、羊飼い達に焦点を当てて、御言葉を読んでいきたいと思います。なぜなら、彼らこそ最初に救い主を礼拝するという栄誉に与(あずか)ったからです。 羊飼いは、当時のイスラエル社会の中では、蔑まれた階層の人々でした。ユダヤ教徒が大事にしている「安息日に礼拝する」ことや、「律法を学び覚える」ことは、職業上困難でした。それで当時、彼らは「不信仰な人々」「罪人に近い存在」とされ、低い立場に甘んじざるを得なかったのです。 /n天使 2000年前、救い主ご降誕のその日、その地方にいた羊飼い達は、いつも通り夜の暗闇の中を、羊を守る為に見張っていました。真っ暗な、厳しい状況の中で、星だけが頼りです。 3月11日の東日本大震災の時、停電のため、一帯の電気が消えて暗闇が広がりました。あの夜、野宿のような形で夜を過ごした人達から、電気の消えた暗闇の恐ろしさ・寒さと、星の美しさをよく覚えていると聞きます。   暗闇の中で仕事をしていた羊飼いたちの所に、突然、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたことに彼らは圧倒されます。そこに現れた天使は、神様からの喜びの知らせである、「救い主ご降誕」を伝える役目を帯びています。羊飼いたちは、光り輝くその眩しさに圧倒されます。 /n救い主(メシア)のしるし     苦しんでいるイスラエルの民に、神様が約束された「救い主」が生まれた、しかも羊飼い達のいる同じ地方で!その待ち焦がれたニュース!その上に天の軍勢として天使達が大勢現れ、讃美を捧げるのです。その出来事、羊飼い達が見聞きした出来事は、彼らが神様の救いの証人に選ばれたことを意味しています。 彼らは、現場・ベツレヘムへ行って、その出来事を見ることを志し、行動を開始します。羊飼い達がいたであろう草地や山から、宿屋のある街まで、暗闇の中、探し当てるにはかなりの困難があったでしょう。 /nメシアのしるし 「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」。これが救い主としての「しるし」です。羊飼い達は、そういう新生児を探しあてました。 神様の人間に対する救いの出来事が、主の天使によって知らされた通り行われたことを、羊飼い達は、確かに人々に伝え、神様を崇め、賛美しながら、自分の場所に帰って行きました(20節)。 ユダヤ教の指導者達が語り継いできた「救い主ご降誕」を、虐げられてきた羊飼い達が直接体験するという誉れある立場に高められたことこそ、神様の業の素晴しさの一つ、とも言えるでしょう。 /n大きな喜び 自分の置かれた状況を儚(はかな)んで自分の人生の意味を知りたいともがく苦闘、自分を取り巻く人間関係において信頼を築けずに消えてしまいたいと思う衝動、いつまで厳しい状況に耐えればいいのか不安という暗闇、多くの人が神様を信じることなく、絶望の中を生きています。  しかし、暗闇や過酷な状況に耐えながらも、神様を信じる信仰を失わず、神様からくる御言葉や光を素直に信じる者の、信仰に基づく行動は、その人を真実へと導きます。羊飼いが、天使の言葉を頼りに、救い主を探し求めた姿を私達に置き換えれば、神様の御言葉(聖書)を学んで、神様を祈り求めていく姿なのかもしれません。そして(神様の恵みと導きのもとで)探し当てた喜びは非常に大きくて、抑えきれずに、周りに伝えるほどになるのです。羊飼い達が人知ではあり得ない「しるし」を受け入れてイエス様に導かれた時の、あの大きな喜びと同じ喜びです。

「世界の王への礼拝」  牧師 佐藤義子

ミカ書 5章1節 マタイによる福音書 2章1-15節 /nはじめに 今日読んでいただいた新約聖書は、東方の学者達の来訪の出来事について記されている箇所です。私達が驚かされるのは、救い主がお生まれになったというこのニュースを、ユダヤ人ではなく外国人が最初に受け取ったことです。ユダヤで救い主(キリスト)が生まれることは、旧約聖書で預言されており、今朝読んだミカ書も、その一つです。 どれほど多くのイスラエルの人達が、どれほど長い間、救い主を待ち望みながら、その思いを果たせぬまま、地上を去っていったことでしょう。そして、今、ようやく神様の約束が成就するという大事な時に、イスラエルの人々は、異邦人からこのニュースを聞かされることになりました。 彼らは、星に導かれて、東の方から来た占星術の学者達でありました。 /nひとつの星   民数記に「ひとつの星がヤコブから進み出る。」(24:17)とあります。ヤコブとはイスラエル民族のことであり、ここでは「メシア」が星と表現されています。占星術の学者達が、この「星」のことを聞いており、惑星の運動の法則によって、木星と金星(あるいは木星と土星)が出会い、重なる年があることをつきとめたのではないかと考える説があります。ヘロデ王は、突然、外国からの旅人から「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられるか」と問われて、あわてて聖書を調べさせ、メシア誕生の地がベツレヘムであることを知ります。それを聞き、学者達はイエス様の誕生の場に立ち会うことが出来ました。   /n不安 不安に感じたのは、ヘロデ王だけでなく、エルサレムの人々も同様であったと聖書は伝えます。本来なら、待ちに待った救い主誕生の喜びのニュースでしたが、「選民ユダヤ人」というエリート意識から来る傲慢さが、異邦人の言葉を素直に聞くことを拒み、世界の王であるキリスト誕生に際して、礼拝の祝福にあずかれなかったのかもしれません。 /n救い主誕生   メシア誕生の場所は、この地上における最も貧しい場所でした。しかし見えるところがどんなに貧しくても、又、一切の華々しさがなくて人目には隠されていても、神様の働きはすべてご計画どおりに進められていきました。学者達をそれまで導いてきた星が、イエス様の誕生の場所で止まった時、彼らは「喜びにあふれ」ました。この「喜び」こそ、救い主が私達の為にお生まれになった、という「喜び」であり、信じる者すべてに与えられる喜びです。神様は、学者達にヘロデの所に戻らないよう命じると共に、ヨセフを通して幼子イエス様とマリアをエジプトに導いたのでありました。 私達は、見える世界だけでなく、目に見えない神様のご計画のもとに、神様を信じて生きて行く道が与えられています。