説教要旨 「幼子のようになる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 18章1-5節 1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 /nはじめに  弟子達はイエス様に「一体誰が、天の国で一番偉いのか」と聞きました。一番,二番というのは私達が生きる人間社会においては日常茶飯事に使われている言葉であり、人の間に序列をつけることです。この質問の根底には、自分は偉くなりたい(出来たら一番偉くなりたい)、「他人よりも自分が!」という気持があります。さらにユダヤ教の影響があります。ユダヤ教では信仰を、己をたてる道、己を立派にする道と考えていました。 /nイエス様のこたえ  弟子達の問いは明らかに天の国を誤解している質問です。しかしイエス様は弟子達が正しく理解出来るように,一人の子供を弟子達の前に呼び、立たせて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。」と説明されました。 /n「天の国に入る」  弟子達は天の国に、仲間達とそのままエレベーターで移動出来るかのような感覚で話しているのに対して、イエス様は「天の国に入る」条件を語られました。 /n「はっきり言っておく、心を入れ替えて・・」  私達が心を向けるべきことは、「天の国で誰が一番偉いか」ではなく、「天の国に入る者とされる」ことです。このイエス様の言葉は他の三つの福音書にも記されていて(マルコ福音書10:15、ルカ福音書18:17、ヨハネ福音書3:3,5)、いずれも「はっきり言っておく」という前置きがあります。初期の教会で、重要な役割をもって伝承されてきた言葉です。私達の教会でも「心を入れ替えて子供のようになる」との御言葉を、洗礼時・役員選挙時・ 牧師招聘時の基準として大切に心に蓄えたいと思います。 人間の生まれながらの本性は、上に上に、大きく大きくなろうとします。「心を入れ替えて」とは方向転換をすることです。自分を他人より立派なものにするという競争社会の生き方(ゼベダイの息子達の母親や他の弟子達の姿を参照・・マタイ20:20-)からの方向転換です。 /n幼子とは?  幼子は社会的な地位を持たず、求めず、自分が出来ないことを知り、無条件の信頼の中で生きています。偉くなろうと思わず,ありのままです。 こう思われる為にこうするという偽善がなく、背伸びすることも、小さくなることもせず、貪欲でなく、自分にふさわしい小さなことで満足します。しかし私達は再び幼子に戻ることは出来ません(ヨハネ3:4)。 /n幼子になる道  ある聖書学者は創世記のアダムとエバの話を引用します。二人は食べてはならない実を食べて、自分達が裸であることに気付き神様の前に出られませんでした。3章21節によれば、神様はこの二人の為に皮の衣を作って着せられました。私達も今のままではアダムとエバのように神様の前に立つことが出来る義を持っていません。その為神様は、私達に皮の衣(イエス・キリストの義)を与えられました。 /nイエス・キリストの義をいただく  幼子のようになる道が、イエス・キリストを信じて義とされることであるならば、それは自分の努力によってではなく、神様の恵みの中で行われることであり、具体的には聖霊の働きによるものです。弟子達は「天の国で一番偉い者とされる」という目標を信仰だと考えましたが、それは信仰ではなく誇りです。信仰とは自分の偉さを見つめるのではなく、イエス・キリストの偉大さを知り、神様の愛から確信を得るものです。上を仰ぎ見て「あなたこそ慈愛に富んだお方である」と賛美しながら生きることです。 /n「私の名のために、このような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(5節)  イエス様は子供と、ご自分とを一つにされました。子供は小さく力もない弱い存在です。子供と目線を合わせる為には、かがまなければなりません。イエス様がご自分を低くされたように,子供(のような存在)を受け入れる低さがなければ、「天の国に入ることはできない」のです。

説教要旨 「主の言葉は永遠に残る」 飯島 信先生(池袋台湾教会)

/n[ペトロの手紙一] 1章22-25節 22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。 25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。 /nはじめに  ペトロの手紙一は大きく三つに分けられます。�「救い」についての解説、�「救い」を望みつつ、この世の生活をどのように過ごすべきか � 勧告です。主題は、教会内部の結束と迫害に対する忍耐です。今朝私達に与えられた聖書は、キリスト教信仰の基となる「救い」についての解説と、その救いを確信させようとしている箇所です。 /n「あなたがたは、・・兄弟愛を抱くようになったのですから」 (1章22節)  1章15節に「聖なる者となりなさい」とあります。聖なる者とは真理(神から賜った救い)を受け入れた者であり、魂が清められた者です。信仰のゆえの患難(かんなん)に満ちた状況であればこそ、聖なる者達が 偽りのない清い心で深く愛し合い、結びつくことが重要であって、この互いを結びつけるものが兄弟愛です。この兄弟愛こそが教会のあるべき姿、交わりの本質、土台を示すものです。 /n兄弟愛は可能か  このような兄弟愛の実践は可能か?信仰を持つゆえに与えられた患難に満ちた迫害の中にあって、人は自分を守ることで精一杯であり、時として自分を守る為に他の人を犠牲にすらするのではないか・・? このような疑問に対してペトロの手紙の著者は、兄弟愛を可能にするのは、信仰者が「新たに生まれた者」(自然の草木のように朽ちる種からではなく神の変わることのない生きた言葉という朽ちない種から生まれた者)だからだと語ります(23節)。そして、あの有名なイザヤ書を引用します。 /n「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」  この元になっているのがイザヤ書40:6-8です。 >> 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが 私達の神の言葉はとこしえに立つ。」 <<  このイザヤ書の言葉の前には、バビロン捕囚の地からのイスラエルの民の帰還の預言があり、この言葉は人間の無常について語っています。天上からの呼びかけと地上からの応答・・二つの霊の対話です。 神(ヤハウェ)の栄光の前にはすべての被造物はやがて滅び、カルデヤ (バビロニア)の文化の繁栄でさえ 野の花のごとくやがて枯れ しぼまねばならない。アラビアの砂漠の熱風が吹けばたちまち枯れてしまう。しかし神(ヤハウェ)の言葉のみは変わることなく、永遠である。と語ります。   /n詩編103篇  このイザヤ書の言葉は、詩編103編と呼応しています。 >> 「主は私達をどのように造るべきか知っておられた。私達がちりにすぎないことを 御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」(14節-16節) <<  人の一生は短く、しかし神のいつくしみは永遠である。すなわち人は神によって土のちりから造られ、死して又、土のちりに帰るもの。しかし神はこの人間を常にかえりみて いつくしみ給う、と歌います。 /n人間の一生のはかなさと、それに対する永遠に立つ神の言葉  いかなる迫害の下にあっても、たとえ殺されることがあっても、信仰に固く立ち続けなさい。なぜなら人間の命ははかなく、栄枯盛衰は繰り返されるが、主の御言葉は歴史を貫いて永遠(とこしえ)に 変わることがないから、とイザヤ書も詩編も語っています。 ……………………………………………… /n小説「クオ・ヴァディス」Quo Vadis Domine(シェンキェヴィチ著)  私はこの春、神学校時代の仲間と共に小説「クオ・ヴァディス」の舞台ともなったアッピア街道に立ちました。この小説は紀元1世紀のローマを舞台に皇帝ネロの迫害下で信仰を守り通す初期キリスト教徒を描いたものです。小説では、迫害を避けてローマから逃げていくペテロが、アッピア街道を、自分とは逆にローマに向かって歩み来る人の姿を認めます。その箇所を少し読みます。 _________________________________________________________ 次の日の明け方、カンパニア平原に向ってアッピア街道を進んでゆく二つの黒い人影があった。一人はナザリウス(少年)、もう一人は使徒のペテロで彼はローマとそこで苦しみを受けている同信の仲間を後にして行くのであった。(略)道は人通りがなかった。・・旅人たちがはいている木の靴が、山の方まで国道に敷き詰めてある石だたみを踏む度に、あたりは静けさを破ってこつこつとひびいた。やがて太陽が丘の狭間から上ったが、それと同時に ふしぎな光景が使徒の目を射た。金色の環が空を上へ上へとはのぼらずに、丘を下って道をこちらへ進んでくるように彼には思われたのである。ペテロは立ち止まって言った。「あの明るいものが見えるかね。私達の方へ近づいてくるようだが」「何も見えません」ナザリウスは答えた。しかし使徒はすぐに片手で目をおおって言った。「誰かが日の光の中をこちらへ歩いてくる」しかし彼らの耳にはかすかな足音すら聞こえなかった。あたりはしんと静まり返っていた。ナザリウスに見えたのはただ,遠くでまるで誰かがゆすぶっているように木の葉がゆれ動いたことだけであった。(略)「ラビ(先生)、どうなされました」彼は心配そうに叫んだ。ペテロの手からは旅の杖が、はたと地に落ちた。目はじっと前を見つめている。口があいて、顔には驚きと喜びと恍惚の色が浮かんだ。突然彼は両手を前に広げてひざをついた。口からはしぼり出すような叫び声がもれた。「キリスト!キリスト!」彼は頭を地につけた。長い沈黙が続いた。やがてむせび泣きに途切れる老人の言葉が静寂を破ってひびいた。「クオ・ヴァディス・ドミネ?」(ラテン語。主よ、どこへ行かれるのですか?)その答えはナザリウスには聞こえなかったが、ペテロの耳は、悲哀を帯びた甘美な声がこう言ったのを聞いた。「おまえが私の民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」 使徒は身動きもせず、一語も発せずに、顔をほこりの中に埋めたまま地面にひれ伏していた。ナザリウスは、使徒が気絶したか、それとも死んだかと思ったほどであった。けれどもペテロはやがて起き上がって、ふるえる手で巡礼の杖を取り上げ、ひとことも言わずに七つの丘の都のほうへ向き直った。少年はこれを見ると、こだまのように使徒の言葉を繰り返した。「クオ・ヴァディス・ドミネ?……」「ローマへ」使徒は小声で答えた。そして引き返した。 _________________________________________________________ そしてペトロは捕らえられ殉教の死を遂げます。 /nパウロも・・ パウロも同じでした。キリスト教の歴史、それはこの初期キリスト教徒達の歩みを追うまでもなく迫害と殉教の歴史でした。ヨーロッパにおいても、そして日本においてもキリシタン迫害の歴史です。 /nなぜ?  キリスト教はなぜこのような迫害と殉教の歴史をたどらねばならなかったのか。その歴史に耐え、信仰を捨てなかった私達の先達の中に生き生きと脈打っていた信仰の真実とはどのようなものであったのか。このことを考える時、思い起こさずにはいられない御言葉があります。 /nフィリピの信徒への手紙 1:21-24  >> 「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」 << /nなぜ、パウロは自分の生と死について、このように語れたか。  それは、ガラテヤの信徒への手紙 2:20にあります。 >> 「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 << /nおわりに  >> 「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる。」 <<  私は、この言葉にこそキリスト教2000年の歴史を貫いて生き続けるキリスト者の生命の輝きを見るのです。そしてその輝きは2000年をはるかに越え、あの旧約の時代から約束された主の言葉の解き放つ永遠の輝きとなって、私達の(神に従う)道を照らし続けているのを覚えるのです。 (文責 佐藤義子)

説教要旨 「つまずかせないようにしよう」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章22-27節 22 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。 23 そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。 24 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。 25 ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」 26 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。 27 しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」 /nはじめに  イエス様は苦しみを受けられ、殺され、三日目に復活することを三回にわたり弟子達に予告されました。22節は第二回目の予告です。第一回目は、「あなたは神の子です」とのペテロの告白直後でした。この時は、ペテロは直ちにこの予告を否定して、イエス様から「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず人間のことを思っている」と叱られました。今回は「弟子達は非常に悲しんだ」(23節)とあります。 /n神殿税  この後、イエス様の宣教の拠点であるカファウルナウムでの出来事が記され、ここからエルサレムへの十字架の道が始まります。一人の徴税人がペテロの所にやってきて「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と質問します。これは「あなた達の先生はイスラエルの聖なる秩序に不忠実であるのか。律法を無視して聖なる共同体への参加に無頓着で、わずかばかりのお金を拒むのか。」という意地悪な質問です。  神殿税は、当時全ての20歳以上のユダヤ人男子に課せられ、毎年、金額にして半シケル(二日分の賃金相当)を納めなければなりませんでした(出エジプト記30:13‐14参照)。納税時期にはパレスチナの町や村に告示が出され、アダルの月(2月-3月)15日になると徴税所が設けられました。 /n神殿税の目的  エルサレム神殿を維持するのには莫大な維持費がかかりました。毎日、朝と晩には子羊の犠牲とブドウ酒と粉と油がささげられました。又,毎日香もたかれ、更に祭司の服などもこの税で用意されました。神殿税を納めることで自分がユダヤ人であり、ユダヤ教団に属しているとの意思を表わし、更にユダヤ教団の経済的負担に責任を担うことを意味しました。たとえ外国にいようと又、豊かであろうと貧しかろうと、この税を納めることで自分達は聖なる共同体に参加していることを表わしました。 /nイエス様からの質問  ペテロが納税について話をする為に家に入った時、イエス様の方から税金について言い出されました。王様が税金を集めるのは自分の子供からか、他の人々からか、という質問をされたのです。ペテロは「他の人々からです」 と答えました。するとイエス様は「では子供達は納めなくてよいわけだ。」と言われました。王の子供達には納税の義務がないように、神の子供は、神の為に建てられている神殿の税金は払う必要がないということです。イエス様は神を父としておられるゆえに、すべてのものを神様と共有されており、ご自分の一切を神様にささげられていました。弟子達もイエス様を通して神の子とされているゆえに、神殿税からは自由であることを教えています。 /nイエス様と神殿の関係  神殿で毎日行われていた罪の償いの犠牲は、まもなくイエス様の十字架の死による贖いで、その意味がなくなろうとしています。又当時の神殿は、祈りの家であるはずが堕落していました(21章)。更に「神殿の崩壊」をイエス様は予告されています(24章)。[* 神殿は紀元70年にローマによって破壊された。] イエス様は、律法で定められた神殿税からは自由な立場におられた方でした。   /n「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」  律法からは自由であられたイエス様でしたが、(にもかかわらず) この後、奇蹟によってペテロに納税に必要なお金の用意をされました。「つまずかせる」とは人々の前に石などを置いて、人々がつまずいて倒れるということです。もしイエス様が神殿税を納めなければ、人々の批判や怒りが起こり、そのことによって彼らに罪を犯す機会を与えてしまいます。その為、イエス様は御子であられる特別な権利を行使されませんでした。 /nつまずかせず、真理にしたがう  ここで思い起こすのは宗教的な理由で肉を食べない人達の前では、肉は食べない、というパウロの言葉です(コリント8章)。「弱い人をつまずかせない」。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と教えます。これらは、妥協を教えているのではなく、弱い相手に、無理をさせて罪を犯させてしまわないように、との愛が根底にあり、本質を譲るものではありません。その証拠に、イエス様は、「十字架」という何よりも大きなつまずきとなる道を避けずに、自ら自由意志で選び取って歩まれました。私達の歩みも、本質にかかわることにおいては、つまずきとなっても譲らず、しかし、相手が罪を犯すような誘惑につながる時には、つまずかせない為の「愛を根底にした神様からの知恵」をいただいて歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「からし種一粒ほどの信仰」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章14-20節 14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、 15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 /nはじめに  今日は8月の最初の日曜日で、日本キリスト教団が平和聖日と定めている日です。世界の現実は平和とはほど遠く、毎日のようにイラクでは自爆テロに巻き込まれての死者は絶えず、アフガニスタンではタリバンによる韓国人拉致が起こり死者がでています。家族の方々の緊張は私達の想像を越えたものだと思います。更にイスラエルとパレスチナの対立は根強く復讐が繰り返されています。国家間の戦争、或いは内戦による難民や孤児達の姿がテレビで放映される度、私達の胸は痛みます。なぜ人は争い続けるのでしょうか。平和とほど遠いのは、世界のことだけに終らず、日本でも地域で、学校で、勤務先で、家庭内で平和が奪われている現実があります。これは人間の罪の結果であるといえますし、それは即ち、この世では、悪の力が猛威をふるっているのです。 /n「平和」についての聖書のおしえ  イエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる」(山上の説教)と言われました。6月の伝道所開設記念礼拝では「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐は私のすること、わたしが報復すると主はいわれると書いてあります。」(ロマ12章)を聞きました。又、イエス様は弟子達に「ふさわしい人を選び、その家にとどまり、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は与えられる」(10:12‐13)と約束されました。本日の平和聖日において、私達は平和から遠いところで生きている人々を覚えて、その地に平和が実現するように祈るとともに、私達自身が直接身を置き、かかわる所が、平和であるように祈りたいと思います。  __________________ /n父親の願いに対して答えられなかった弟子達  本日の聖書には、てんかんの病を持つ息子の父親の、いやしへの願いと、それに対するイエス様の応答、さらには信仰についての教えが記されています。イエス様の不在中、弟子達には息子をいやすことは出来なかったというのです。  「イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出しあらゆる病気や患いをいやす為であった」(マタイ10章)とありますから、12弟子にはいやす力が与えられていました。にもかかわらず・・です。嘆く父親と、いやすことが出来なかった弟子達を前にしてイエス様はその不信仰を嘆かれ、彼らが本当の正しい信仰を持つ迄には、どれだけの時と忍耐を必要とするのだろうかと言われました(17節)。山上では、確かに生きて働いておられる神様のご臨在がありました。しかし山の下では、不信仰が蔓延しているのです。 /nイエス様のいやし  イエス様は「その子をここに、私の所に連れて来なさい」と言われ、息子をいやされました。同じ内容がマルコ福音書にもありますが(9章)、以下のような会話が記されています。(父親)「おできになるなら、私共を憐れんでお助け下さい」。 (イエス様)「出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」 /n弟子がいやせなかった理由  なぜ私達はいやせなかったのか、と弟子が聞きました。イエス様はその理由を「信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・略」と言われました。からし種一粒ほどの信仰とは、イエス・キリストを見つめることから始まります。そこにはあふれる愛といつくしみと恵みがあります。それを下さいと求めるのです。求める者には与えられます。私達はそれを受け取るのです。 /n信仰について  信仰はみずからが生み出すものではなく、与えて下さるものを受ける事だといわれます。与えられていることに気付かなかったり拒んでいることもあります。私達が聖書を通して語りかけて下さるイエス様を見つめ、イエス様と向き合い、イエス様が指し示している神様を仰ぐ時、私達は自分を縛っていたものから自由にされて、それ迄捨てられないと思っていたものが色あせて見えてきます(フィリピ3:7‐参照)。 信仰が与えられるということは新しく生まれるということです。人生が変わるということです。遠かった神様がすぐ近くにいて、自分を守り、導き、支えてくれる、そのような人生を歩むようになることです。 /n信仰の力  「山に移れと命じてもその通りになる」(20節)とは、信仰には、私達の常識や経験が不可能と判断することも可能にする力があるということです。山を創られた神様を仰ぎ見る信仰者は、山と同じように神様の秩序に従います。創り主である神様が山を移すことをお望みになるならば、そのようになるとの信仰です。 /nからし種一粒ほどの信仰  からし種を畑にまけば成長して大きくなり、空の鳥がきて枝に巣を作るほどの木になります(マタイ13:32)。からし種一粒ほどの信仰とは、生きている信仰、命が宿っている信仰、成長していく力を内に秘めている信仰のことです。薄い信仰とは「生きていない信仰」です。神様を信じているといいながら実際の生活には何の力も与えていない信仰です。生きた信仰は、全知全能の神様を信じて祈ります。すべてのことが神様の御心によって行われることを信じます。からし種のように小さな信仰でも祈ることが出来、恵みを求めることが出来ます。恵みが与えられると、信仰はその恵みで成長していきます。私達は毎週礼拝に招かれ、恵みの座に連なり、聖書を通してイエス・キリストの言葉にふれ、生ける神様の力を知れることは本当に感謝なことです。今週も与えられている信仰を通して沢山の恵みを戴きながら成長し、求道中の方々は、信仰が必ず与えられることを信じて祈りつつ歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「イエス・キリストの変貌」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章1-13節 1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。 /nはじめに  本日の聖書には、イエス様の姿が変わったという大変不思議なことが記されています。場所は高い山、イエス様についていったのは12弟子の内わずか3人(ペテロ・ヤコブとその兄弟ヨハネ)です。この3人はイエス様が十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園でイエス様のすぐ近くまでついていった弟子でもあります。おそらくイエス様はこの3人を選び、ご自分がいなくなった時に重要な役割を担うよう特別に訓練されていたのかもしれません。この日イエス様は「祈る為に山に登られ」(ルカ福音書 9:28)ました。十字架の道へ進もうとされていることが、確かに神様の御心に沿うものかどうか、そのことの確信を得る為の祈りと考えられています。 /nイエス様の変貌  山の上で、イエス様の姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、服は光のように白く(2節)なり、更に、旧約時代の偉大な人物モーセ(BC1300年頃)とエリヤ(BC9世紀)が現れてイエス様と語り合って(3節)いました。(モーセは旧約の律法を代表し、エリヤは旧約の預言者を代表する人物で、旧約聖書はイエス様を指し示しています。)三人が語り合っていた内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」(ルカ9:31)です。これは、神様が人間を救うという深い偉大な御計画が、今まさに成就の時を目前にしている、ということを意味しているのでしょう。 /nペテロの反応  この世の、空間と時間の世界で生きている者が、一瞬、神様の世界・永遠の世界を垣間見るという出来事に出会った弟子の一人ペテロは、驚きと喜びから「私がここに仮小屋を三つ建てましょう」と奉仕を申し出ます。太陽の暑さや夜露からイエス様とモーセとエリヤを守り、この瞬間の栄光を少しでも長く続かせたいと願ったからでしょう。しかし霊の世界では、人間の言葉や思いは神様の言葉によってさえぎられます。ペテロの話が終らない内に光輝く雲が彼らを覆い、雲の中から神様の声が聞こえました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。イエス様が洗礼を授けられた時も、神様の霊が注がれる中で同じ言葉が天から聞こえています(マタイ福音書3:17)。今、受難の道への歩みを始めようとされたこの時、再びイエス様は、「神様の心に適う者」と証言されたのです。 /n山の上 と 山の下  山上での、栄光に包まれたイエス様のお姿こそ、本来の神の御子の姿であり、その後の復活の姿でもあります。(「神の身分でありながら・・・僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ書2:6)。3人の弟子達はこの光景と、更に雲の中からの神様の御声を聞き恐怖に襲われました。ひれ伏している弟子達にイエス様は近づき、手を触れ「起きなさい。恐れることはない」と言われました。彼らが顔を上げると、イエス様以外誰もおらず霊の世界の出来事は終っておりました。イエス様が、これから山を下りられて人間の救いの為に、神様の御計画を一歩一歩果たされていくのです。その道は犯罪人の一人として人々からあざけられ、つばきされ、残酷な十字架という死刑が待っている道です。 /n復活するまで誰にも話してはならない  3人の弟子達はこの栄光のイエス様を見た証人でしたが、復活するまで語ることを禁じられました。イエス様のメシアとしての働きは、受難と十字架の死と復活をもって成し遂げられます。受難と死と復活を通らない内に、弟子達がこの栄光のイエス様を語るならば、人々は自分勝手な「メシア像」をイエス様に押しつけ、この世の権威を与えようとするでしょう。メシアに隠されている十字架の死と復活を経た神様の救いの御計画など予想も出来ずに、栄光だけのメシア像を求める群衆達は、かつてバプテスマのヨハネを好きなようにあしらって(11節)殺したように(バプテスマのヨハネは自分達の救いの為に、エリヤの働きとして神から遣わされた人)、イエス様に対しても同じようにする(12節)ことを、ここでもイエス様は予告されています。

説教要旨 「サタン、引き下がれ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章21-28節 21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 /nはじめに  サタンとは悪魔の別名であることは知られており、サタンとか悪魔という言葉に対して過剰反応をする人達も多く存在します。しかし説教題につけた「サタン、引き下がれ」(私の前にではなく私の後に退け の意)はイエス様が実際に使った言葉であり、しかも言われた相手はイエス様の弟子の代表格であるペテロでした。なぜこんな激しい、厳しい言葉をイエス様は愛する弟子に使われたのでしょうか。 /n「このときから・・打ち明け始められた」(21節)  キリスト教では「時」ということを大変大事に考えます。最も良く知られている言葉が、コヘレトの言葉3章です。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失なう時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」・・。ここで言う「この時」とはペテロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白をした時をさしています。イエス様は弟子達に、ご自分のこれからのことを明らかにされる「時」を選ばれました。そして、この時からイエス様の新たな別の歩み・・・「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」(21節)道への第一歩を始められたということです。 /nペテロの反応  イエス様の「自分は必ずエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺され・・」との、愛するイエス様の死の予告を聞いたペテロはすぐ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22節)といさめました。神の御子がそんな死に方をするなどあってはならない。そのような認め難いことを決して言ってはいけないと、心からそう思っての、とっさに出てきた言葉だったでしょう。 /n「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者」  ペテロの言葉の背景には、ペテロの願望がありました。神の御子なら当然それにふさわしい終り方-栄光に満ちた終り方-がある筈だという思いです。まして同じ民族の宗教的な指導者を敵に廻し、敗北の死を甘んじて受けることなど考えたくもなかったでしょう。しかしこのペテロの言葉に対して「サタン、引き下がれ」という言葉がペテロに向けて発せられました。「あなたはわたしの邪魔をする者」。(あなたは私の行く手にあってつまずかせ、私を倒そうとしている の意)。さらにあなたは「神のことを思わず,人間のことを思っている」と言われました。 /nペテロが聞き漏らした言葉  イエス様が弟子達に打ち明けられた言葉は「必ず・・することになっている」という神様の御計画を明らかにしたものでした。神様に従ってこれまでも歩まれてきたイエス様が、メシアとしてのご自分の地上での最後の歩みに向けて今、歩み始めたのです。しかしペテロはこの言葉に注目せず、イエス様の受難と死ということのみに反応しました。イエス様が伝えようとした神様の救いに向けたご計画について考える余地はまったくありませんでした。ペテロが善意でイエス様をいさめ、励まし勇気づけたとしても、それが神様の意志に反する以上、それはサタンの言葉となりサタンの働きとなります。イエス様は神様の意志に従って進むのみです。 /nペテロと同じあやまちを繰り返さないために  私達もペテロと同じあやまちに陥る誘惑が起こり得ます。目の前にいる人間の気持ちを配慮するあまり、神様の意志を問うことを忘れることがあります。人を愛することはイエス様の教えですが、神様の御意志を問う(イエス様ならどうされるか)ことを忘れた人への愛は、ペテロのように間違った言動を引き起こします。人を高めることで神様が軽んじられてはなりません。まず神様を仰ぎ、神様が今自分に求められていることは何かを考え知りたいと祈る時、神様は最善の道を示して下さるに違いありません。 /n「私について来たい者は、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」 (24節)  イエス様についていくことに伴う重荷(この世の論理・価値観などとの戦い他)は、イエス様が共に負って下さるゆえに、その荷は軽く、そこには安らぎがあります(マタイ11:28-30)。今週もイエス様に従って歩みたいと願うものです。

説教要旨 「あなたは私を何者だというのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章13-20節 13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 /nはじめに  本日の聖書の箇所は、4章途中から始まったイエス様の教えとその活動の中心的部分となる結びでもあり、クライマックスの部分ともいわれています。イエス様の働きを実際に目で見、聞いてきた弟子達が、今イエス様から「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われた場面であり、弟子の代表としてペテロが明確に信仰を告白した場面だからです。 /n大なことを打ち明ける前に  フィリポ・カイサリア地方に行った時のことでした。イエス様はここで初めてご自分がエルサレムで死ぬことを弟子達に打ち明けられますが、この重大なことを語られる前に、イエス様が語られ、又,行なってきた出来事を通して、人々がご自分をどのように見ているのかを弟子達に尋ねられました。この質問は、第二の質問を引き出すための問いです。 /n人々のこたえ  ある人々はイエス様を洗礼者ヨハネがよみがえったのだと考えました。ヘロデ王が神の道に背いて洗礼者ヨハネを殺したので、神様がヨハネをよみがえらせて人々に説教を続けさせている、と考えました。彼らはイエス様の説教の中に、ヨハネが語った罪への裁きと悔い改めによる赦しを聞いたからでありましょう。又、エリヤだと考えた人(マラキ書3:23参照)、エレミヤだと考えた人(エリヤと同様、終末に現れるとの伝説)、預言者の一人と考えた人達がいた一方で、待望のメシヤであると考える群衆はいませんでした。それは当時の人々は、メシヤとは、自分達をローマの圧制から救い出してくれる偉大な王(かつてのダビデ王のように)としてこの世の権力を握る人を想像していたようです。イエス様の奇蹟の力を見ても、そのへりくだる身の低さは自分達の運命を変えてくれるようなメシア像とかけ離れていたことでしょう。 /nそれでは、あなたがたは?  人々の評価・評判についての質問の後、イエス様が弟子達にされた質問は「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか?」でした。弟子を代表してペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。この告白は、教えられたことを口にしたのではなく、全く自由な自発的な返事としてなされた信仰告白でした。 /n生ける神の子  「生きておられる神」の御子とは、「あなたは命の根源であり、創造者であられる神様の御子であられる」「あなたは神様のすべての約束を満たすお方、神様のすべての意志を実行するお方、すべての悪に対して勝利されるお方、永遠の命をもたらすお方、あなたこそ、そのお方です」という告白です。 /n信仰を告白せしめる主体   「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」(17節)。 ペテロが、イエス様をそのようなお方だと見ることが出来たのは人間の力によるものではない、とイエス様は言われました。 イエス様をそのようなお方だと認識させたのは神様の働き、神様のわざであるというのです。   イエス様のこの言葉を聞く時、信仰とはみずから生み出すものではなく、まさに神様から与えられたことを素直に受け、告白することだという思いを強くします。 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書10:17) /n新しい名前  ペテロが信仰告白をした時、イエス様は新しい名前、シモン・バルヨナ(ヨナの子シモン)から、シモン・ペトロ(私達はペテロと 呼んでいます)を与えました。イエス様は、このペテロ(岩の意味)の信仰告白の上にわたしの教会を建てると言われました。(18節)。教会はイエスをメシア、生ける神の子であるとの信仰告白の上に建てられています。教会とは建物を指すのではなく、この信仰告白のもとに集められた群(信仰告白共同体)です。仙台南伝道所はまだ会堂はありませんが「イエス様を神の子・メシアと告白する信仰者の群-教会」です。 /n天の国の鍵  イエス様はこのあと、ペテロに天の国の鍵を授けるといわれました。鍵とは扉を開けたり閉めたりするものです。ペテロが宣教の使命を託されて御言葉を語る時、それを受け入れた者には扉を開き、拒む者には、神様の恵みの中に入る扉を閉める決定権を委ねられたということです。裁判官が有罪か無罪かを決定するようにペテロは神様からの力を与えられて、彼の裁きも赦しもそのまま天において遂行されるという約束です。事実、ペンテコステの日に「ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わ」りました(使徒言行録2:41)。このペテロに授けられた天の国の鍵は,その後今日まで教会のわざとして引き継がれています。すべてのキリスト教会において、イエス・キリストの言葉が語られ、それを聞く人々には「あなたはイエス様を神の子、救い主として受け入れますか」との(恵みの)問いが用意されています。そして「イエス様は生ける神の子です。天におられる神様が私達を罪から救う為に遣わされてきた神の御子です」と告白する時、教会は扉を開けて、罪の赦しを宣言し、バプテスマ式を執行いたします。 /nメシアであることを誰にも話すな  イエス様は、たった今告白されたこのメシアの事実を誰にも言ってはいけないと言われました。それは、この時を境として以後、十字架に向かっての歩みを始めることになるからです。イエス様のメシアとしての歩みはこの時点では完成されていません。今は、他の人々にイエス様がメシアであることを明らかにする時ではないのです。これから弟子達は十字架への厳しい道のりをイエス様と共に歩いていくのです。弟子達はイエス様の中に、今告白した「神の子」を見,続ける限りにおいて、 イエス様のもとにとどまり続けることが出来るのです。私達も、いついかなる時も(試練の中でも)、この告白のもとに歩みたいと願います。

説教要旨 「レプトン銅貨二枚」東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[イザヤ書] 55章1-2節 1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。 2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 /n[ルカによる福音書] 21章1-4節 1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 /nはじめに  十字架を目前にした最後の一週間の間に、イエス・キリストは少なからず激しい議論を行なっています。例えば税金の問題に関しては「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(ルカ20: 25)、又復活に関しての議論では「神は死んだ者の神ではなくて生きている者の神である」(同38)と語っています。そして聞く人々に、はっきりと示す為にたとえを用いました(ぶどう園の農夫のたとえ話など・・同9‐)。又、言葉だけでなくて「宮清め」の場面では両替商の台を倒したり(ルカ19:45 -)、他の場面では、道すがらいちじくの木を枯らすということを通して弟子達に教える(マルコ11:12-)などしていましたが、イエスはひとときエルサレムの神殿にたたずみ、宮もうでをする人々を眺めておりました。 /n神殿の庭で  神殿の「婦人の庭」では献げものをする人達、祈りをもってささげる人達で混雑していました。その庭には13箇所の入り口があり、そこから自由に入ることが出来、又そこには13個のラッパの形をしたさい銭箱が備えられていました。当時のお金はおおかた銅貨などの硬貨が一般的であり、さい銭箱に投げ入れると銅貨がラッパの筒に当って大きな金属音が響いていました。おそらく多く献げる人のさい銭箱からは大きな音が響き、大きな音には多くの人々が注目した、そんな様子をイエス・キリストはひととき眺めていたのです。 /n貧しいやもめ  そこに一人のやもめがやって来ます。彼女の身なりから判断するのに、かなり貧しい状態にあるということは明らかでした。さい銭箱から響いてくる献げ物の音も他の人達とは違っておりました。かすかな音しか聞こえてきませんでした。レプトン銅貨二枚だったからです。その様子を見ていたイエス・キリストは弟子達を呼び寄せて、「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。あの金持ち達は皆,あり余る中から献金したが、この人は貧しい中から生活費を全部入れた。」と語ったのです。 /nこの話の意味は?   たとえば、「あり余る中から献げたささげ物は量的には多いけれど、心を込めてささげる貧しい者のささげ物は、たとえ小額であっても価値的にはむしろ多く献げたと評価出来る。献げる者の心のあり方が対比されている。そのことを教えている」と、理解することも出来るでしょう。片や、当時はお金持ちは信仰深い結果として神の祝福が与えられており、反対に貧しい者は信仰の報いを受けているのだ、と考えられていました。しかし「そうではない。『先の者が後になる。』 とか 『幼子の素直さが、賢者の賢さよりも評価される』というイエス・キリスト一流の価値の逆転をここでも教えているのだ」と考えることも出来るでしょう。 ここでは、聖書の言葉にとどまりながら、レプトン銅貨2枚の物語を考えてみたいと思います。 /nレプトン銅貨2枚  レプトン銅貨は非常に小さい金額の銅貨で、大人の1日分の日当の128分の一に相当すると計算されています。当時レプトン銅貨2枚で買えるのは小麦粉一つかみだったと考えられています。それはその人がその日、1日の命をつなげることが出来る最低量の食物と考えられていました。ユダヤ教の指導者の教えに、この話に類似する教えがあります。・・ある貧しい女性が一握りの小麦粉を献げにやってまいります。 ユダヤ教の祭司はそれを見て、こんな少ないささげ物とは何ていうことだ。こんな少ない量で何が出来るというのか、とこの女性をさげすみます。しかしこの時、神の言葉が響いてきて「この女性をさげすんではならない。彼女は自分の命をささげたのだ。」という言葉が響いてきます。そしてその言葉でユダヤ教の指導者は夢から覚めたという話 です・・。  この話で注目すべき点は、一握りの小麦の量(イエス・キリストの話でいえばレプトン銅貨二枚に相当する量)をささげており、この女性は自分の命をささげたと評価されています。むしろ問題はそれをさげすんだユダヤ教指導者の話です。 /nその日の律法学者との議論  おそらくイエス・キリストはレプトン銅貨二枚を献げる貧しいやもめの姿を神殿で見た時に、その日の激しい議論を再び思い起こしたことでしょう。・・「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(ルカ20:46‐47)。そんな非難をした後でありました。まさに婦人の庭で起きた出来事は、イエス・キリストにとって、自分の教えを具体的に弟子達に示す適切な出来事であったと理解され、すぐに弟子達を集め教えたのです。「あの貧しいやもめは誰よりも多く入れたのだ」。 /nイエス・キリストが見ていたもの  イエス・キリストのその時に意図していたのは、当時の律法学者や祭司達が語ることと、ご自分の語る福音との鋭い対比であったでしょう。イエス・キリストの語りたかったことは、豊かに神の国を実現する福音でした。十字架を目前にしたこの時に、イエス・キリストはレプトン銅貨2枚をささげる女性の話を弟子達に語ったのです。 どれだけささげるか、どのようなことをするか、外側の出来事を私達は見るものです。その日、婦人の庭での光景は、さい銭箱から響き上がる大きな音がその場を支配していたことでしょう。しかしその光景を見つつもイエス・キリストは異なるものを見ていました。真の価値を見ていました。換言するならば「何を大事にすべきか。」「何に重きを置くべきか。」それは人生観とでもいうべきもの・・を彼は見ていました。 /n旧約聖書の伝統を受け継ぐ価値観  私はこのイエス・キリストが神殿で見て語ったことというのは、イエス・キリストにおいて突然出て来たものではなく、それ迄に伝えられてきた価値観、長い旧約聖書の伝統を受け継ぐ価値観をイエス・キリストは明確にした、ということでもあると思います。 /n本日の旧約聖書、イザヤ書55章1節-2節 >> 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることが出来る。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」 <<   この箇所は実に印象深い箇所であります。「来て買え。求めて得よ。」 「買え」という表現がもともと使われていました。お金を払わず買え。価を払うことなく買って自分の手元におけ。食べよ。「金もないのに買え」というその意味は、「私に聞き従えば、良い物を食べることが出来、あなた達の魂はその豊かさで楽しむであろう。」 /n私達が受け継いでいる価値観  そのような価値観を伝統として旧約聖書は伝えており、今、イエス・キリストによって弟子達に伝えられ、そして又、(目前にしている)十字架の出来事によって明示され、確実なものとされ、今日の私達に伝えられている価値観でもあり、生き方でもあるのだ、ということを、 レプトン銅貨2枚を献げた女性の姿から今日学び取りたいと願うものです。(まとめなど 文責 佐藤義子)

説教要旨 「盲目の指導者」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章1-12節 1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。 2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。 4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。 5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。 6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。 8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。 9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。 10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。 11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。 /nはじめに  マタイ福音書の15章14節にはこのようなイエス様の言葉があります。「彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 本日の聖書には、イエス様に天からのしるしを迫った当時の宗教的指導者ファリサイ派とサドカイ派の人達が登場します。イエス様は彼らのパン種(教え)に注意するよう警告しました。誰を道案内人に選ぶかは、現代に生きる私達にも大変重要な問題です。 /nファリサイ派とサドカイ派  この二つの党派はユダヤ教内で対立していた大きな勢力でした。しかしイエス様に対しては、一緒になって「天からのしるし」を求めました。イエス様がこの世の権威にのっとっていない指導者であり、当時の宗教指導者の教えから全く自由に行動されていたことにいらだちを覚えながらも無視出来ず、彼らはイエス様が本当に神のもとから来た人間であるのか、自分達の納得する方法でその証拠(しるし)を要求し、見極めようとしたのです。 /n「しるし」(証拠)を求めること  「しるし」を信じるとは、「しるし」という目に見えるものを通して信じることで、直接イエス・キリストを信じることではありません。しるしを見て信じるなら信仰を必要としません。彼らは夕焼けや朝焼けで天候を見分けることを知っていながら、イエス様を時代のしるし(イエス様こそ預言されていたメシアである)として見ることが出来ませんでした。しるしを要求する彼らに対して、イエス様はヨナのしるし以外は与えられないと宣言されました。(ヨナが三日三晩大魚のお腹の中にいて再び陸に戻された出来事を、 イエス様の十字架と復活の出来事に重ね合わせて見る)。信じることを回避し、しるしを求める人々は,そこから前には一歩も進めず取り残されるという状況を、4節の言葉 (イエスは彼らを後に残して立ち去られた。)が暗示しているようです。 /n「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」  向こう岸に行かれたイエス様は、弟子達にファリサイ派とサドカイ派のパン種(教え)に注意するよう警告されました。パン種の発酵力は強く、この強さが良い意味で用いられると、神の国の発展する力や、社会を改善する力に譬えられますが、ここでは間違った彼らの教えの強い影響力をさしています。   /n注意すべきパン種  イエス様が注意を促したのは、彼らの偽善です。ファリサイ派の人達は、外側を清く保つことを第一にしました。それは旧約聖書の教えからきています。「あなた方は自分自身を聖別して、聖なる者となれ。私が聖なる者だからである。」(レビ記11:45)。彼らは清くないものからの分離を大切にして、外面的・形式的・儀式的に整えることを最優先にしました。内面的な部分は後回しになり 隠れている部分を大切に考えませんでした。そのような生き方は当然、偽善を生みます。又、サドカイ派の人達は目に見える神殿、目に見える祭司職に権威をもたせ、それらの権威の力によりかかっていました。貴族階級の特権意識を持ち、世俗的で、物質的で、迎合的でした。両者に欠けていたものは、へりくだって真理に耳を傾ける姿勢、求道の精神でした。自分達は既に真理の教師であるとの自負心・自信が、彼らの聞く耳、見る目を失わせていました。 /n私達の警戒すべきパン種  私達も外側にこだわり中身をおざなりにする偽善を警戒しなければなりません。それと同時に、幼い時から見聞きしてきた仏教・神道・伝統・言い伝え・迷信・おまじないのたぐいの中にひそむパン種に注意しなjければなりません。たとえば、仏教の中に、死者を守り神とする信仰があります。私の知っている90代のクリスチャンのご婦人は、神様と亡くなった息子さんが自分を守ってくれていると信じておられます。もう一人の80代のご婦人は、息子さんの位牌と聖書の言葉を書いた紙を並べて飾っています。又、最近出席したあるキリスト教会の葬儀で読まれた教会員の弔辞の中に「千の風にのって」が引用されました。アメリカ人の歌詞の作者は、「私の墓の前で泣くな。私はそこにはいない」とは、復活の主を告げる言葉として書いたそうですが、訳した日本人は、聖霊を死者の霊に置き換えてしまったようです。にもかかわらず、キリスト者がそれを受け入れてしまっている現実があります。神様の位置に死んだ人間を置いてしまうのは、偶像崇拝にほかなりません。日本人キリスト者の中には信仰は信仰として、方角や、仏滅などの日を相変わらず気にしたり、迷信(・・をするとたたりがある)とかおまじない(・・すれば・・なる)、あるいは運勢などからきっぱり自由になれない方達もおられます。それこそイエス様が弟子達に注意を促したパン種の発酵力の強さでありましょう。私達が本当に畏れなければならない方は、天地万物を創られ,私達に命を与え、生かしてくださっている父なる神様であり、御子イエス・キリストです。イエス・キリストを神の子と信じる信仰こそすべてに打ち勝つものです。今週もイエス様から目を離さず、しっかり歩みたいと思います。 「日々、聖霊に満たされて」(A・W・トウザー著)より /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悪を憎み、善を愛せよ また、町の門で正義を貫け。」</span>アモス書5:15 /n私たちは不正を憎まないで、正直を愛することはできない。不純物を憎まないで、純潔を愛することはできない。うそをつくことと、欺瞞を憎まないで、真理を愛することはできない。 /nもし私たちがイエス・キリストに所属するならば、主と同じように、あらゆる形態の悪を憎まなければなら ない。 /n私たち人間は、イエス・キリストのように神に敵対する者を憎み、神で満ちているものを愛することが不完全なので、完全な形で聖霊を受けることが出来ない。 /n 正しいことを愛するために注ぎ出された偉大な愛と、悪に対する純粋で聖なる憎悪という面で、イエス・キリストに従う気がなければ、神は私たちに聖霊を注がれない。

説教要旨 「奇跡は賛美に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 15章29-31 29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。 31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。 /nはじめに  私達には生まれながら、見ることが出来る「目」聞くことが出来る「耳」かぐことが出来る「鼻」味わうことが出来る「舌」触れることが出来る「皮膚」―五官が与えられ、又、運動機能が与えられています。しかしその一方でこれらの機能が生まれた時から奪われている方々がいます。以前テレビで、医師から「あなたのお子さんには眼球がありません。」と告げられた母親の話を聞きました。私の知人のお嬢さんは、生まれた時から一切食べ物を飲み込むことが出来ず、栄養はすべて点滴でとります。その他、人生の途中から事故や病によって障がいを得る人達も多くいます。障がいと共に生きていく心の葛藤、社会からの差別、そして障がいによる現実の生活の困難さは生まれながらでも途中からでも同じです。 /n生まれつきの盲人  ヨハネ福音書9章には生まれながらの盲人がいやされた話が記されています。イエス様の弟子達が彼を見て質問しました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。イエス様は次のように答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエス様の答えは、原因はその人にはなく神様の側にあるというものでした。神様が、その人を通して御業を現すためである、というのです。イエス様は、神様がこれからこの盲人に何を行ない何をなさろうとしているのかを神様に問い、それに従われました。すなわちイエス様は、盲人の目にこねた土をぬって、シロアムの池で洗うようにと言われました。その言葉に従った彼の上に、神様のわざが現れたのです。 /n山に登り、座られた。  今日の聖書は、イエス様がカナンの女に出会った旅からガリラヤに戻られ、山に登られた時のことが記されています。山上の説教でもそうでしたが、イエス様は人々に教えられる時、腰を下ろして語られました。 大勢の群衆がやって来ましたが、彼らは、自分の力で来ることの出来ない人達(足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人,その他多くの病人)を連れて来た人達でした。日頃から障がいを負っている人達や、病気の人達と深くかかわっていた人達であり、イエス様の所に連れていきたいとの愛と熱意があり、イエス様に見ていただけば何とかしてくれるに違いないとの望みと期待を持ってイエス様のもとへとやってきた人々であったのでしょう。 /n「イエスはこれらの人々をいやされた」(30節)  イエス様の足下に横たえられた人々の上に大きなことが起こりました。「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」(31節)のです。彼らを連れてきて、このイエス様のいやしの奇蹟を見た人々は 「見て驚き、イスラエルの神を賛美した」(同上)と聖書は伝えています。 /nイスラエルの神  ここで「神」といわずに「イスラエルの神」となっているのは、彼らがイスラエルの民以外の民(異邦人)であったからではないかと考えられています。カナンの女が助けを求めた時イエス様は「私はイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」と、異邦人の救いはまだ来ていないことを言われましたが、ここでは、連れて来られた人すべてがいやされています。その結果異邦人が、奇蹟の背後に働かれている「イスラエルの神」すなわちイエス・キリストの父なる神様を賛美したのでした。 /n奇蹟の究極の目的  イエス様のなさる奇蹟は神様の業があらわれた結果であり、奇蹟の目的は、神様が賛美されること、神様に栄光が帰せられることです。神様を信じ従う者には、今もいろいろな形で神様のわざが起こっています。私達はその証人です。奇蹟を見た私達のすべきことは、神様を高らかに賛美し、神様の栄光をたたえることです。私達が創られた目的も実はここにあるということを心に覚えながら、この一週間の歩みが神様に感謝と賛美をささげる一週間でありたいと願うものです。