説教要旨 「天からの権威」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章23-27節 23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 /nはじめに  本日の聖書では、祭司長や民の長老が、イエス様の言動に対して「何の権威でしているのか」「誰がその権威を与えたのか」と問い正しています。「権威」(英語でオーソリティ)とは、辞書によれば一番目に、裁定・命令などを強制し得る権力・権威(一般に人を信服させる威信、権威)二番目に委任、権限、職権、認可、承認と説明されています(以下、九番目まで説明があります)。ある神学者は権威を「外的な権力・物理的力」と「内的な力」に分けて考えます。外的な力は、その背景にあるもので成り立っており(たとえば戦争中の軍隊)、背景がなくなれば力も消滅するような性質のものです。それに対して内的な力から出てくる権威は、外側の状況の変化に影響されることはありません。 /n宗教的指導者が問題にしたこと  質問をしてきた彼らは、エルサレム神殿において外的な権力をもっていた人達でした。彼らはイエス様が神殿の境内で商売をしていた人達を追い出した出来事について、又、その他の言動について、その根拠を問いました。イエス様の言動を見過ごしにしてしまったら、自分達の威信が傷ついたままになると考えたのでありましょう。 /nイエス様のこたえ  イエス様は彼らの質問に正面からお答えになりませんでした。イエス様がなぜ神殿で商売している人々を追い出したのかといえば、神殿が、真の礼拝が行われるのにふさわしい場所でなくなっていた(宗教の堕落)からであり、イエス様の行為は、神の子として神様から与えられた権威のもとでなされたということです。しかしそれを語れば、自分を神とし、神を冒涜したこととなり、イスラエル社会では決して許されず、死を意味しました。イエス様が死刑にされたのは結局はこの罪によるものでしたが、今この時点が、ご自分の「その時」とは考えておられませんでした。彼ら達の悪意のわなにかからない為にイエス様は質問を返されました。 /nバプテスマのヨハネの洗礼は、天からのものか?人からのものか?  ヨハネは、今のままでは救われないこと、滅びが待っていること、それゆえに悔い改めの洗礼が不可欠であることを語りました。多くの人々が洗礼者ヨハネのもとで、悔い改めの洗礼を受けました。イエス様は、ご自分の言動の根拠を問い正す彼らに対して、ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか、と尋ねられたのです。 /n分りません  「天から(神様から)」と答えたならば、なぜあなた達は信じなかったのか、と問われるでしょう。何よりもバプテスマのヨハネがイエス様をメシア・救い主と認めていますので、イエス様を受け入れない彼らの信仰は自己矛盾に陥ります。一方、ヨハネの洗礼はヨハネ個人のものだといえば、ヨハネの洗礼を神様から来ていると信じる多くの人々は、祭司長や長老達の不信仰を問題にして、反感を持つだろうと考えました。そこで彼ら達が出した結論は、「分らない」というものでした。 /n「無知」を装う  人は常に曖昧性の中に自分の身を置こうとします。無難であり、自分を隠せるからです。本当にわからないものをわからないというのは正直であり、真実です。しかし彼らは「無知」を装いました。なぜなら自分を罪ある者としたくなかったのです。自分を罪ある者と認めるならば、悔い改めてイエス様の前にひざまずかなければなりません。それはしたくないのです。神殿を背景にした自分達の権威を損なうことは耐えがたく、彼らは自己保身の為に、見せかけの無知を装いました。 /n優先順位  「何が本当なのか?」ではなく「何をいうのが安全か。」「どうすることが自分を守る道なのか」と、外側の権威を優先させて生きる生き方は、人を臆病にし、硬くし、悔い改めの機会を失います。彼ら達は真理の道に戻る機会を、自ら閉ざしてしまった人々でした。私達はどうでしょうか。人から与えられた権威の下で自己を守る道か、それともイエス様と同じ権威の下に身を置いて神に従う道か。決断を求められています。

2008年元旦礼拝 牧師 佐藤義子

/n[テサロニケの信徒への手紙一] 5章12-28節 12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、 13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。 14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。 16 いつも喜んでいなさい。 17 絶えず祈りなさい。 18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 19 ““霊””の火を消してはいけません。20 預言を軽んじてはいけません。 21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。 23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。 25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。 26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。 27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。 28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。 /n  19世紀に生きたイギリスの牧師にスポルジョンという人がいます。彼の残した説教の中に「妥協はしない」と題したものがあります。アブラハムがしもべに、息子のための嫁さがしを命じている聖書の個所を取り上げたものです。アブラハムが僕に命じたことは、一人息子イサクの妻は、現在アブラハムが住んでいるカナンの娘から探すのではなく、アブラハムの一族が住んでいるアブラハムの故郷、メソポタミアのハランの町に行って探すように、というものでした。(カナンとハランがどれくらい離れているかを、聖書に添付されている地図1頁で確認してください。)しもべはアブラハムに尋ねます。もしも自分が見つけた女性が、ハランからカナンに移り住むことを嫌がる時には、その時には、息子の方を、アブラハムの故郷ハランに移り住んでもらっても構わないでしょうか、という質問です。アブラハムの答えは明快でした。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」(創世記24:6-8)  説教題の「妥協はしない」というのは、おそらくここからつけたものでしょう。スポルジョンは説教で語ります。しもべが出発前に主人の意見を聞く。私達も仕事をする前に、まず神様に向かって語り、聞く。その仕事の困難さを考えているならそれを打ち明け、神様が何を期待し、又助けて下さるかを聞きましょう!と。私達は、最初に地上における目に見える人や事柄に対して向き合おうとするけれども、そうではなくて、まず神様に向かって祈ってから、それから人や事柄に向かうということです。しもべは、自分に命じられたことの中で心配していることを尋ねます。その結果、主人アブラハムからは明快な答えを聞くことが出来ました。  このしもべに与えられた仕事は、主人の後継ぎの結婚という、とても責任の重い仕事であり、むつかしい仕事でもありました。彼は知らない土地を長旅しなければなりませんでしたし、主人の息子にふさわしい女性をみつけねばなりませんでした。その女性は、息子イサクの喜びとなり、イサクの愛すべき伴侶となるのです。そしてアブラハムが神様に与えられた約束を受け継ぐ者となるのです。しもべは、自分に与えられた使命を果たすために努力を惜しんではなりませんでした。自分の能力の限りを尽くして、主人から与えられた使命を果たさなくてはなりませんでした。神様の導きと守りがなければ、出来ることではありません。彼が、たとえ「この人だ」と確信する女性を見つけ出したとしても、はたして彼女は生まれ故郷を離れて遠い国にいくことを承知するだろうか。自分が伝えるイサクという人物と、聞いただけで結婚を承知するだろうか、との心配もあります。さらには彼女がメソポタミアを去ってカナンに来るということは、それまでの生活からの断ち切りが求められますし、農耕の定住生活から、天幕の移住する生活へ切り替わることを意味します。スポルジョンはこの説教で、私達をしもべにたとえて、キリスト者として生きるということが、どういうことなのかを考えさせます。  さて今年度の聖句として私達に与えられた御言葉は、「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」との御言葉です。この御言葉のあとに、こうあります。「これ、キリストイエスによりて、神の汝らに求め給う所なり。」私達の訳では「これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 /n常に喜べ  常に喜ぶとは、どういうことでしょうか。聖書においては、たとえばフィリピ書では「主において」という言葉と一緒に用いられていますし、テサロニケの手紙1章にはこのようにあります「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」。すなわち聖書が教える喜びは、嬉しいことがあったから喜ぶ、悲しいことがあったから喜べないというような、目に見える事柄によって左右される喜びではありません。順境の中にあっても逆境の中にあっても、変わることなく喜びにとどまる、永続性を伴う喜びです。一時的突発的衝動的な歓びとは区別され、イエス・キリストを根拠とする、イエス・キリストを信じる者の喜びであり、湧き上がってくる喜びです。しかし「喜べ」と命令形になっているのは、本人の自覚が必要であるということであり、努力が求められるからです。信仰からくる喜びは、神様が私と共にあって働いて下さるとの喜びであり、たとえ逆境の中にあっても、そのことが神様のゆるしたもうことであり、神様のご計画の中に置かれていることだと受け止められるならば、この喜びを奪うものはいないのです。  さきほどのアブラハムの話でいうならば、しもべの与えられた使命は重く、困難の伴う仕事でありました。しかし彼は、その仕事をおそれながらも喜んで担いました。私達はイエス様を信じる信仰が与えられているゆえに、それを家族、友人に伝えていく使命があります。その使命は重く、自分のような不完全な弱い者には、それを果たしていくことは不可能だとしりごみします。自分は口下手である。自分は消極的である。自分は何々だから、それは無理だ・・と。もっと別な、もっと口の上手な人がやればよいと考えます。しかし、あの偉大な指導者モーセも口下手でした。彼は神様にこのように断わっています。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたがしもべにお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全く私は口が重く,舌の重い者なのです。」神様は、このモーセの言葉を受け入れられたでしょうか。受け入れられませんでした。神様はこのように答えられています「一体、誰が口を聞けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また、見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と。(出エジプト記4章10-) /n絶えず祈れ  私達が御言葉を通して、教えられ、命じられていることは、私のわざではなく、神様のわざです。神様のわざは、私達の力が不十分でも、神様が私達を通して働いてくださるゆえに、しりごみするようなことではないのです。アブラハムのしもべが祈ってこれに向かった時、イサクの妻になるべき人は、向こうの方から近寄ってきたのです。(創世記24章11節-21節)  つまり、私達の使命が果たせるのは、私達の祈りを神様が聞いて下さった時なのです。私達の使命は、イエス様のことを伝えることと同時に、今、自分自身がおかれているその場で、真剣に誠実に生きるということでありましょう。夫であれば夫として真剣に誠実に生きる。妻であれば妻として真剣に誠実に生きる。親であれば親として真剣に誠実に子供に向かう。子供であれば、親に対して誠実に生きる。学生であれば勉学に対して真剣に取り組む。仕事があれば、仕事に対して真剣に誠実に取り組む・・。しかし私達の生活は一つだけでなく、複雑に入り組んでおり、バランスよくまんべんなく、パーフェクトに生きることは困難であります。しもべが心配したように、 ようやく主人の息子の嫁となるべき人物に出会っても、その人物が結婚は承諾しつつ、故郷を離れるのはいやだということも起こり得ます。事柄は必ずしも私達が願うようにはいきません。その時にはどうすべきか。しもべがご主人の考えを聞いたように、私達は神様に祈り尋ねるのです。答えが出ないときには答えがでるまで祈り続けるのです。神様は必ず私達にわかる仕方でその方法を示して下さいます。 /nすべてのこと感謝せよ  シュラッターという神学者は、私達が感謝できるのは、私達が、神様の現臨の中に生きている時であり、私達の魂が神様を対話の相手として、自分の行動の隅々までゆきわたっている場合だけであると限定しました。そうである時、すべてのことが感謝のもととなり、どんな経験の中でも、神様の恵みが絶えることなく、良い贈り物を届けて下さり、私達はその贈り主を知るゆえに、そのお方に感謝して神様を崇めます。  私達は喜ぶことがあるにもかかわらず見過ごし、あるいはその喜びを芽を自分から摘み取っていないでしょうか。  私達は祈りを沈黙させてはいないでしょうか。上を見上げる時間を惜しみ、横と下ばかりに時間を費やしていないでしょうか。  私達は感謝を絶やしてしまっていないでしょうか。  もしそうであるなら、私達はすでにイエス・キリストを失なっています。私達は日々、イエス様によって神様の恵みを受け取っています。そこから、かき乱されることのない喜びと、絶えることのない祈りとすべてのものを包む感謝が生じるのです。  2008年、仙台南伝道所の歩みが、そして伝道所にかかわるすべての者が、この御言葉を愛し、この御言葉と共に、この御言葉のもとで歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「信じて祈る」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章18-22節 18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。 20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。 21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。 22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」 /nはじめに  本日は今年最後の日曜日(聖日)です。しかし教会暦から言いますと新年は12月2日の待降節から始まっており、本日は降誕節の最初の日曜日です。(教会暦は、待降節-降誕節-受難節-復活節-聖霊降臨節と五つの節に分けられ、待降節は11月30日に最も近い日曜日から4回の日曜日を含む期間をさします。)教会暦は、クリスマスのように毎年12月25日と決まっている祝日と、復活節やその50日後にくるペンテコステ(聖霊降臨日)のように毎年変わる祝日があります。イースター(復活日)は、春分の次の満月の次の日曜日と定められた為、毎年移動します。  私達の日常生活では、明日は大晦日で世の中はきぜわしく動いておりますが、教会では先週クリスマス礼拝をささげたばかりで、1月の6日迄はクリスマスの飾りはそのままにしておくのが習慣になっています。日本の教会ではあまり一般的になっていませんが、クリスマスから12日後の1月6日は東方から博士達が星に導かれてイエス様を礼拝しに来たということで、イエス様が異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に、初めて救い主として現れたことを祝う日(顕現日・公現日)です。 /nいちじくの木を呪う  本日の聖書は、朝早い途上でイエス様が空腹を覚えていちじくを見たけれども実をつけていなかったので、イエス様がその木を呪われていちじくは枯れてしまった、という個所です。マルコ福音書には「いちじくの季節ではなかったから」と説明があります。季節でないにもかかわらず、実をつけていないとの理由でイエス様がいちじくを呪われ、いちじくの木は枯れてしまったという話は、私達にとってわかりにくい話です。 /nいちじくとは・・  旧約聖書ではイスラエルをいちじくで象徴する例が出てきます(エレミヤ24章・8:13・ホセア9:10)。ミカ書にはイスラエルの民の腐敗に対する嘆きの言葉にいちじくが出てきます。「悲しいかな、私は夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、私の好む初なりのいちじくもない。主のいつくしみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった」(7:1)。つまり葉ばかり茂って実のない いちじくの木を引用し、一見敬虔そうであるけれども実質のないイスラエルの民の道徳的腐敗を語っています。 /n「今から後いつまでも、お前には実がならないように」  ここで実をつけていないいちじくを呪われたのは、イスラエルの民が、(直前に記されているように)エルサレム神殿を礼拝の場所ではなく商売の場所へと堕落させてしまっていること、更にイエス様をメシア・救い主として受け入れようとしないことへの裁きの言葉として読むことが出来ます。 /nいちじくが枯れた奇跡  弟子達がイエス様にいちじくが枯れた理由を尋ねますが、イエス様はそこから「実を結ぶ信仰」について教えられます。人間の常識では不可能と思えることでも神様の力に信頼するならば、それは成るということです。イエス様はてんかんで苦しむ息子を連れてきた父親に、「出来れば、というか。信じる者には何でもできる」と言われました。「求めよ、さらば与えられん。」との言葉はあまりにも有名ですが、しかし私達は、聖書で繰り返し教えられているこの神様への絶対信頼が、多くの目に見える事柄に邪魔され影響を受け、次第にしぼんでいくことがあるのではないでしょうか。以下は、ある神学者の言葉です(蓮見和夫氏が紹介)。  「最悪の罪は、祈らないということです。私達をしばしば驚かすキリスト者の明らかな言行不一致は、祈りのないことの結果であり、そのとがです。祈りを欲しないことは、祈らないという罪のさらに背後にある罪です。しかしその結果、祈り得なくなるのです。それこそ祈りを欲しない人の受ける罰にほかなりません。それは精神的失語症、あるいは精神的餓死です。あなたは額に汗してパンを得なさい。これは肉体的労働と同じく、精神的労働についても言われた真理です・・」。  祈りは聞かれます。自己中心的な欲望の為ではなく、神様の栄光を現し、神様の御心にかなう祈りならば必ず聞かれます。私達はもっと大胆に確信をもって祈りましょう。自分自身の為に、家族と隣人の為に!!

説教要旨 「幼子イエスへの旅」 東北学院大学 佐藤司郎先生

/n[マタイによる福音書] 2章1-12節 1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11 マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 /nはじめに  今日の聖書には、「羊飼い達」は出てきません。その代わり「占星術の学者達」が登場します。又、救い主の誕生を告げる「天使の声」はなく、その代わり「一つの星」が現れます。しばしば起こることは、こうしたものが私達の頭の中で(一つの画面の中に)まとめられて考えられるということです。そこでクリスマスの飾りの中で(或いはページェントの中で)、羊飼達と学者達が一緒に並んで飼い葉桶の周りを囲んでいることになります。しかし、あちらに出てくるものはこちらにはなく、こちらにあるものは、あちらにはない。あえて言うならそれらは互いに取り換えの出来るものといって良いでしょう。けれども、決して別のものに置き換えることが出来ない方がここに登場致します。その方こそ、クリスマスの中心=イエス・キリストです。この生まれたばかりの幼な子に、きょう、私達は思いを向ける為に、祈る為に、賛美を献げる為に集まっています。私達は伝えられている2000年前の最初のクリスマスの様子に思いを向けたいと思います。 /n不思議な出会い  聖書によれば、その夜、幼な子イエスのもとに、不思議な星の導きにより東の方から占星術の学者たちが来て、幼な子を拝し、宝の箱を開け黄金、乳香、没薬を贈り物として献げるということが起こりました。御子イエスと占星術の学者達との不思議な出会い・・人間的に考えれば、おそらく決して起こる事のないようなそういう出会いです。人間的にはおそらく起こり得なかったであろうということは、いくつかの点で推測出来ます。  第一に、彼らは外国人であったということです。彼らは東の方から・・ペルシャ(今のイラン)から、あるいは反対に、シェバ(アラビア)から来たという説もありますが、よそから来た外国人です。エルサレムに着いて彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねています。「ユダヤ人の」という言い方はマタイ福音書では外国人(異邦人)の言い方として知られています。ユダヤの救い主とは関係のない人達でありました。第二にもっと彼らを聖書の世界から遠ざけていたのは職業・・占星術(星占い)です。天体の動きを読み取り、地上の出来事の預言をする。それが彼らの役目です。天体観測といえば科学者ですが、星の動きと地上の出来事を関連させるとなると単に科学者と呼ぶわけにはいかない。「まじない」といわれるようなことにかかわっていたはずで、いかがわしさはぬぐいきれない。こういう人達に対して聖書では、自然も歴史も治めているのは神様だと考えていましたので、まじないに携わる者は神様の権限を侵す者として忌み嫌われていました。つまり占星術は偶像礼拝と迷信の源だと考えられていました。この点でも彼らは聖書の世界から(イエスから)最も遠くにいた人達でした。このような人達がまことに不思議な仕方で幼な子イエスに出会い、聖書の神とかかわり合いを持つようになった。それが今朝、私達に示されている物語の中心です。 /nその方の星を見た  聖書には、占星術の学者達が星に導かれて、エルサレムの町の中心に突然あらわれたと書いてあります。彼らが口にした言葉は「私達は東方でその方の星を見たので」。これが、彼らをして何千キロの旅をさせた理由でした。「星を見たので」・・たったこれだけです。それ以上のことは聖書では何も説明しておりません。むしろ、そういう意味で、私は、この個所はクリスマスの度ごとに読んだり聞いたりして、実はいつも心高められる・・そういう思いがいたします。  本来神と関係なく生きていたその彼らの所にも星が輝いた。無論、星の導きそのものは迷信につながるようなものも持っていたでしょうが、そうしたことも含めて彼らが最も身近に知っていたものを用いて、彼らの生活(星占いという彼らのなりわい)を通して神ご自身が本当の救い主に出会う道を開いて下さったということ、神の光の届かない所はないというのがこの物語が明らかにしている真実であります。「その方の星を見たので」・・。彼らを普段の生活からその外へと踏み出させたのは、その星の光、星の輝きです。その星に彼らは吸い寄せられるようにしてやってきたのです。長年の天体研究の成果がその場合どのように役立ったかはわかりません。むろんそれだけではなかったでしょう。やはり不思議です。彼らの知識の延長線上に幼な子イエスへの旅の決意がなされたというふうには思われないのです。そこで思い出すのはキルケゴール(19世紀のデンマークのプロテスタントの思想家)が、晩年しばしば「飛躍」ということを言ったことです。信仰には飛躍が必要だと申しました。或いはシモーヌ・ヴェ-ユ(20世紀のカトリックの女性思想家)は、「私達が立っている為には、常に下へと向かわせる重力を受けている。私達を上へと引き上げる恩寵・恵みということがなければ信仰は成立しない」と言いました。上からの引き上げの力が起こらないと(働かなければ)・・と言っています。そうした飛躍がなければ、そうした恩寵がなければ、この占星術の学者達も「私達は東方でその方の星を見たので拝みにきたのです」という明確な言葉を語ることは出来なかったように私には思われます。「その方の星」・・そうです。私達の内なる星ではない。内なる光ではない。私達の上に輝く御子イエス・キリストの星が彼らを旅立たせたのです。 /n神なき所から神と共に生きることへ  こうして占星術の学者達はその遍歴の旅を通して、それ迄自分達と何の関係もなかった御子イエス・キリストとかかわりを持ち始めます。神の救いの歴史の中に入っていったといっても良いでしょう。神の救いの歴史に彼らが入っていくということは、反対に神の救いの歴史が彼らの中に入り込んでいくということです。それは、神が彼らと共に生きようとされたということです。そして彼らが神と共に生きるようになるということです。人は誰も、もはや神なしではないということ。それがここで起こっていることです。偶像礼拝や迷信の中にいたあの占星術の学者達。ただ星に導かれて幼な子イエスを拝した姿は私達自身の姿として見ることが出来るとしたら、彼らも私達も もはや神なしではない、ということです。イエス・キリストがお生まれになったということ、クリスマスということ、それは神なき所から救われたということです。ですからこの場合の救いとは、私達の悩みがいっぺんに解消したり、病気がすぐに治ったり、幸福をつかむ、という以上に、神と共に生きることが出来るということ、神をあてにしていいということです。もし私達の悩みが解消されるのが救いであるならば、悩みがなければ救われなくて良い、というのでしょうか。もし幸福をつかむということが私達の救いであるとするならば、幸福をつかんだら神様はいらない、ということでしょうか。そうではないのです。神なき所から救われるということ。これが聖書の救いです。神が共にいて下さるということ。私達自身の人生を神の地平の中に見出して、神との関係において新しく生きることがゆるされるということ。これがここにおいて占星術の学者たちの中に起こったことであり、私達にも起こるべきことです。それはもはや死の影の谷を歩まないで済むということではなくて、死の影の谷を歩む時でも恐れない、意気阻喪しない、なぜなら神が共におられるから、と告白することが出来るからです。 /n神の歴史の中に入っていこうとしなかった人  占星術の学者達はイエスと出会い、神の歴史の中を入っていきましたが、神の歴史に入っていこうとせず、これを否定し自分の歴史を変えて押し広げようとした(その為、占星術の学者達と幼な子イエスとの出会いを妨げようとした)人がおりました。当時のユダヤの王ヘロデです。大王と呼ばれ残虐で知られていた彼は、35年にわたってユダヤを専制支配しました。キリストがこのヘロデ時代の最後に生まれたのです。今日の聖書によれば、東方から来た学者達と「その方はどこにおられますか」という問いに不安を感じた王は、ユダヤ人の王と称されるイエスを探し出して殺そうとします。しかし見つけられずベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。イエスがお生まれになった時、まさに闇が深く時代と視界を覆っておりました。重要なことはイエス・キリストの誕生を喜ばない、かえって亡き者にしようとしたそのような闇の世を、御子イエス・キリストはご自分の生の場所としたことです。そこで生きようとされた、そこで生きたということです。そこが神のものとなる為です。そこで生きる私達が神のものとなる為です。彼は十字架を引き受け、闇の世の力に自らをさらすことによって、かえってその闇の力そのものに死をもたらした。復活によって明らかにされたのはそのことでありました。 /n御子イエスの誕生  世のクリスマスはイルミネーションで飾りつけられ賑わっています。しかし聖書の示す御子イエスの誕生とは、そうした華やかなものとは無関係でした。御子イエスはこの世に、この世をあがなう為に来られたのです。神と人とを結びつける為に、神が人と共に生きる為、人となってこの世に来られたのです。今日の聖書が示す幼な子イエスの姿は、ヘロデのように暴力と権力によってではなくてその無力において、栄光ではなくその苦しみにおいて、人々を助け,平和をもたらす真の王の到来を示しています。 /n神の言葉  イエスを拝した彼らは、まるで急いで舞台から消えていくように、再び自分の国に帰っていきました。その時故郷で輝いたあの光はもうそこにはありませんでした。聖書はこれをこう伝えています。「ところが『ヘロデの所へ帰るな』と夢でお告げがあったので・・」。確かにあの星はもはや輝いていません。暗闇・ヘロデの世界です。神なき異教の地に彼らは戻ろうとしたのです。私達は上を見上げ、あるいは周りを見ます。どこかに私達を導いてくれる目印はないものか。それはもはやどこにもないのです。聖書はその代わり、「夢でお告げがあった」と伝えています。そしてそれは「ヘロデの所へ帰るな」というまさに言葉でありました。そうです。頭上に輝く星ではなくて、占星術の学者達に神の言葉が、神の戒めが、神の定めが、神の道が示されます。神の指し示す道、別の道、それは私達の心の中に響く神の言葉です。自分の国に帰った学者達を待っていたのは依然として異教の世界であり、暗闇の世界です。でも神が彼らと共に歩もうとされたということ、彼らが神と共に歩むことが許されるようになったということ、彼らの歩みを確かにするものが彼らの心に響きます。神の言葉です。御子イエス・キリストへと導かれて出会い、喜びを共に心にお迎えした彼らを、私達を、導くのは神の言葉です。それは私達に別の道を指し示すのです。 /n和解の福音 今年も国内でも海外でも,まことに悲惨な事件が相次ぎました。一昨年ドイツから来た友人が日本に着いて「ストレス社会」という言葉を口にしました。皆、追われるようにして自分一人の幸せを追いかけて、他人を思いやる、一人一人を大切にする、神様によって創られ神様に愛されたかけがえのない人間として私も愛する、ということがなくなった。神を愛するということは神が愛されたものを愛するということでなければならない。国を愛することも大切ですが、隣人を愛するということの方がもっと大切なことではないでしょうか。或いは、社会における虚偽や不正が後を絶たない。真の神がいないゆえに神の前に良心的に生きることが総崩れになっている。それが現代の日本です。或いは、聖書は私達に和解の福音・・つまり私達はすでに他者としての神に受け入れられているということ・・を告げています。そのように、私達も他者に対して心を開き、受け入れるようにと促されています。しかしそれはどうだったでしょうか。あの前の戦争を反省し、アジアの人々と和解と平和に生きるという道をこの国は本当に歩もうとしているのか。ヘロデの権力者の道ではない。殺戮と戦争の道ではない道です。別の道です。武器に頼らない国としての生き方、私達の生き方です。イエス・キリストの中に示された生き方です。一言でいえば、神を愛し、隣人を自分のように愛する道です。暴力や差別を否定する道です。神の言葉が私達に示す道です。どこを見ても星はない。上を見てもだめなのです。神の言葉がこの暗いこの世の中でも輝き、私達に確かな道を示すのです。暗闇に輝く光、イエス・キリストに従って,その御言葉に従って,今から、そしてここから、過ぎゆこうとしているこの年の残りの日々を、そして来たらんとする新しい年を、たとえ暗闇であっても、暗闇が深ければ夜明けは近いのだから、神の言葉に示される道を通って望みの忍耐において歩みたいと思います。20世紀を代表した神学者カールバルトは、1968年12月のアドベントの死の前日、60年来の友人トゥルナイゼンと電話で暗い世界情勢について話し、最後にこういったと伝えられています。「しかし、意気消沈しちゃあ だめだ。絶対に。主が支配したもうのだからね。」 クリスマスから歩む。幼な子イエスから歩む。インマヌエル(神共にいます)から歩む。つまり御言葉から歩むということは、この世の主、教会の主、私達一人一人の主の恵みのご支配のもとで、絶対に望みをなくさないという意味です。それが、今年、このクリスマスに神が私達に語られていることです。

説教要旨 「私の目が救いを見た」 牧師 佐藤義子

/n[ルカによる福音書] 2章21-35節 21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。 25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 31 これは万民のために整えてくださった救いで、 32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 /nはじめに  3本目のローソクに火がともりました。待降節の第一週目にともされた最初のローソクは、待つ時間の長さを表すようにずいぶん小さくなりました。私達にとって待降節の「待つ」という意味は、クリスマスを待つというよりもイエス様が再びおいでになる「再臨を待つ」というニュアンスの方が強いのですが、イエス様誕生以前のユダヤの人々にとってメシア待望の思いは、私達の想像をはるかに超える強いものであったと思います。 /n救いのご計画  多くの民族の中から神様はユダヤの民を「神の民」として選ばれ、人類に対する救いのご計画を預言者を通して明らかにされていました。救い主が与えられるという約束です。メシア(救い主)はエッサイの家系から出ると預言されておりました(エッサイはダビデ王の父)。ユダヤの人々は神の民(選民)でありながら、その歴史は悲惨でした。一時期非常に栄えた時代がありましたが(紀元前1000年前後にわたるサウル王・ダビデ王・ソロモン王の治世)、その繁栄は長続きせず、ソロモンの死後 国は分裂し、北(イスラエル)王国は紀元前8世紀にアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南(ユダ)王国も紀元前6世紀にバビロニヤ帝国に滅ぼされ、以来、ペルシャ、ギリシャ、ローマと常に外国の支配下におかれました。彼らは国を持てないまま、長い長い時代を苦しんで生きてきましたが、メシア待望の信仰が消えることはありませんでした。メシアを、この世的な地上での繁栄をもたらす王として待ち望む人々が多くいた中で、シメオンは違いました。 /nシメオン  聖書は彼をこのように紹介します。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンが聖霊に導かれて神殿の境内に入ってきた時、両親に連れられてきた生後40日のイエス様に会ったのです。 シメオンは幼子イエス様を腕に抱き、神様をたたえて言います「主よ、今こそあなたは・・この僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。 幼子イエス様を見て、シメオンは神様の約束の救いの「成就」を見たと告白したのです。何という信仰告白でしょう。彼の確信は聖霊の賜物によるものでした。正しく生き、信仰あつく、聖書の約束を信じて聖霊の賜物をいただいたシメオンに想いを寄せながら、自らの信仰を吟味したいと思います。 /n心にある思いがあらわにされる  シメオンは、神様の救いは「異邦人を照らす啓示の光」であると語り、マリアにはイエス様の将来を予告し、彼の存在は「多くの人の心にある思いがあらわにされる為」と語りました。イエス様は暗闇に生きる私に神様を伝える光として来られました。ヨハネ福音書では、イエス様は道であり真理であり命であると語られています。イエス様が来られたことにより、私達はイエス様に従う者になるのか、違う道をいくのか、心にある思いがあらわにされます。待降節のこの時、神様が私の罪を赦し私の魂を救う為に、そして永遠の命を与える為に、この罪の世の中にイエス様を誕生させて下さったことを深く味わいたいと願うものです。

説教要旨 「わたしの家は、祈りの家」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章12-17節 12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」 14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。 15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、 16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」 17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。 /nはじめに  本日、待降節第2週目に入りました。先週、キャリー牧師が説教で語られたように、「待降節は多忙な日々をスローダウンして平静になり、『誰が現実にすべてを支配しているか』を思い起こす時」として過ごし、父なる神様が、私達を罪の支配から救い出す為にイエス様を遣わして下さったことに心を向け、今も変わらぬ愛のもとで私達を導いて下さっていることを感謝しつつ過ごしたいと思います。 /n宮清め  今日の聖書は「宮きよめ」と呼ばれている大変有名な個所でもあります。平和の象徴である「ろば」に乗ってエルサレムの町に入られたあの柔和なイエス様が宮にいた人々を追い出された、という出来事に私達は驚かされます。イエス様のご生涯においてこのような力をもって対処されたのは、おそらくこの時が初めの終わりではなかったかと思います。なぜイエス様はそのようなことをなさったのかをご一緒に考えてみたいと思います。 /n神殿における売買  イスラエルの人々にとって神殿は大変大きな存在でした。過越しの祭りや、仮庵の祭り、七週の祭りなどの大きなユダヤ教の祭りの時には世界各地からエルサレムに集まり、犠牲の捧げもの(牛や羊、貧しい人は鳩)をささげました。これらは聖なるものとして無傷であることが求められ、持ち込む場合は祭司による検査が必要であったので,人々はすでに神殿当局に認可されて売られていた動物や鳩を神殿で買い求めていました。献金も古いヘブルの貨幣と定められていた為、両替が必要でした。 /n神経をマヒさせる日常の光景  イエス様が神殿でご覧になったのは、動物や鳩を売り買いする人々、両替人の台がずらりと並び、そこでお金を計算し取引する人々でした。おそらく動物の鳴き声や人々の声の飛び交う騒々しいこれらの光景は、イスラエル人にとっては見慣れた姿であったのでしょう。しかしそこは神殿の境内であり、異邦人はそこでしか祈ることが出来ませんでした。 /n神殿は祈りの場所  神殿(教会)は神の家です。神殿で人は神様に心と思いを向けます。神殿での仕事は祈りです。人は、神様が自分と共にいて下さり、祈りを聞いて下さり、神様の憐れみといつくしみの中に自分が置かれていることを確信して神様と語るのです。神殿の境内で商売をしていた人達は、祈る目的でそこにいたのではなく、そして、買い求める人達は律法の規定にあるからそれを購入するのであり、それをすることが神の前で自分の責任を果たすことだと考え、そのことが自分達の信仰の証であり、その安心感にどっぷりつかっていたと考えられます。 /nイエス様の教え  イエス様はイザヤ書56:7とエレミヤ書7:11を引用され、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」と言われました。彼らが神殿に依存しているのは神への祈りの為ではなく、神殿があたかも強盗の隠れ家のように、商売の為、自己正当化の為に利用して、日々の生活が神様から離れていることを、実力行使で示されたということでしょう。 /n私達の教会生活  私達は今日の聖書から、毎週礼拝に教会に向かう時の自分の意識を吟味したいと思います。「祈りの家に行く」との思いで毎週来ているのか、又、ここでの礼拝が、神様の前で悔い改めの時、ゆるしをいただく恵みの時、感謝をささげる喜びの時、祈る力をいただく励ましの時、となっているか・・。イエス様がこの出来事を通して伝えようとされたことをしっかり受け止めたいと願うものです。

説教要旨 「もはや戦争を学ばない」 Rev.Cally Roger Witte

/n[イザヤ書] 2章1-5節 1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。 2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。 5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 /n 今日、皆さんんと共にあることは、私の大きな喜びです。今回の日本訪問は、私の最初の日本訪問であり、日本のクリチスチャンと一緒に礼拝すること、ましてや説教をすることは初めてです。今日、私が皆さんと共にあることは、とても光栄です。ありがとうございます。 私は皆さんに米国合同教会および世界宣教部からもご挨拶させていただきます。世界宣教部とは、米国合同教会が他の教派と一緒に活動している世界宣教の部門です。 ここ、仙台に来ることが出来ましたことは、私にとって本当に喜びです。というのも、仙台には、私達の教会の実に多くの信仰に満ちた宣教師が、過去5,60年にわたり仕えてきているからです。 2,3週間前ですが、私はカリフォルニアにあるピルグリム・プレースを訪問しました。そこは、教会で奉仕をされてきた方々が引退して住んでおられるコミュニティで、私は隠退された数人の宣教師を訪問する幸運に恵まれました。そして私は、彼らから深い仙台への愛と、仙台における宣教についての話を聞くことが出来ました。 さて、私は、皆さんの牧師である佐藤牧師と、ご主人、そして米国合同教会宣教師のマーチー先生やジェフリー・メンセンディーク先生と知りえましたことを喜んでおります。 私は又、世界宣教のインターンとして数ヶ月後にここに来ることになる若い婦人を推薦したいと思います。皆さまは、きっと歓迎してくれると思います。 この家の教会での特別な時を皆様に感謝したいと思います。 私は、皆様に、Happy New Year とも言いたいと思います。と申しますのは、クリスチャンにとっては、今日は、新しい年の最初の日曜日、つまり、教会のこよみでは、最初の日曜日であるからです。教会の暦では、これまで、聖霊降臨節として通常の時を過ごしてきましたが、今日、全く新しい年、新しい歩みを始めることで、この聖霊降臨節をきっちりと終わらせるのです。そしてすべてのことが再び始まります。神様の時間において始まるのです。 私達の周囲の社会は、アメリカのように、クリスマスが世俗的な一大消費のお祭りになっている所では、増大する消費者消費を期待しながら、企業の年間利益報告を待ちつつ、この年を終えようとしています。又、私達の周りのすべての人々は、せわしなく歩み、ますます仕事に集中していますが、このクリスマスの待降節は、私達を全く異なる、新しいものへと招いています。 神学者・旧約学者として良く知られている米国合同教会の現在のメンバーであり、福音派的改革派のDr.ウオルターブルゲマンが次のように書いています。 「待降節は、私達を、マヒしてしまった忍耐や、慣れ親しんだ期待から目覚めさせ、神様が与えようとしている新しい贈り物(ギフト)の見地から、私達の歩みを新たに考えるようにと招いている」。 しかしまず第一に、私達は、気の狂わんばかりの人生の慌ただしさからスローダウンして待たなければなりません。待降節は、待つ時であり、平静になる時であり、誰が現実にすべてを支配しているかを思い起こす時です。 イエス様の誕生をお祝いするこのクリスマス・シーズンの準備において、個人や家庭・教会が、この特別な4週間に行う多くのすばらしい習慣があります。 私の子供たちがまだ小さかった頃、(実は27才と30歳になった今でも)私達はこのアドベントの伝統である4本のローソクに火をともすこと、平和、希望、愛、喜びを表すローソクを、アドベントの日曜日ごとに一本一本と、火をともしていくのを今も愛しています。又、クリスマスイブまでの日を数えながら、毎朝、朝食の時に、アドベントカレンダーの小さな窓を開けていくことや、その日の為の聖書の個所を読むことを愛しています。 私達は又、小さな飼い葉おけの場面のコレクション、まぶねのキリストのセット、キリスト降誕のセットなどをもっており、それらをアドベントの最初の日曜日に、家のまわりに置きました。これらは、マリア、ヨセフ、幼子キリストの彫像であり、又、羊飼いと一匹二匹の羊、そして拝みにきた三人の王、あるいは学者でした。私達の家庭では、幼子イエス様をセットから隠して、それを24日のクリスマス・イブに持ち出すために、待つのです。 しかし、大事なことは、このアドベントは、神様が私達のためにどのような世界を望んでいるかを考えること、そして、「すべての者の平和と善意のメッセージ」という驚くべき知らせを熟考する季節であり、時なのです。この時は、待つ時であり、静止し、神様を知る時です。 神様がどんなに人類を愛しておられるかを深く考える時です。それは、貧しい人々、抑圧された人々、囚われている人々、この世の物質主義や消費主義に、どういうわけか、とりこになっている私達すべてに対して、権力と支配が振るわれている人々に対して、神様は、良き知らせをもたらす為に、イエス様を派遣されたということです。まさに、新しい年、新しい時です。 私達はイエス・キリストにおいて、新たな道、新たな命を与えられるのです。 今日、私が注目したい聖書の箇所は、預言者イザヤからのものです。それは美しい節であり、芸術作品ともいえる詩的な言葉です。ある人は、市民権運動の指導者、マルティン・ルサーキング博士の美しい、人を奮い立たせる演説に結びつけています。というのは、この節、言葉は平和・正義・そしてすべての人をいやす預言者の幻について、のべているからです。 この新しい年において、私達は、戦争に替えて平和を求めるイザヤの言葉を聴きます。それは 私達に、もはや、戦争を学ばないことを求め、私達のつるぎを、「すき」に替えることを求め、又、私達の戦争の武器を、善きものの為に、平和の為の道具に替えることを求めています。 私達は又、世界中が恐ろしい戦争と殺りく、紛争と闘争の中にあって、この驚くべき言葉を聞きます。確かに、我々アメリカのクリスチャンは、イラクにおける戦争の中にあって、この言葉を聞かなければなりません。そこでは、私達の国の行動が、400万の人々が故郷から逃れなければならない原因を引き起こしました。その内の200万人は隣国へ避難を求め、国に残った後の200万人は,まさに彼らの命がおびやかされ、彼らのこの世の財産を投げ出さざるを得なくしています。 私達は、戦争の主導者や、自国の政府の暴力によって迫害されたスーダンのダルフールの飢えた人々をテレビで見る時でさえも、このイザヤの美しい希望の言葉、この平和のビジョンに耳を 傾けます。又、私達は、しばらくの間、官憲がインターネットのアクセスを切るまでは、前のビルマ、今のミャンマーでの自由のためのデモ隊の取り締まりをテレビで見たその時でさえも、イザヤの言葉に耳を傾けます。私達は地域社会や職場、又私達の家庭でさえも、やはり不正があるのを知っています。その時でさえも、私達は平和と希望のこれらの言葉、正義に満ちた世界のヴィジョンに耳を傾けます。私達は又、他の側面でも、平和の欠如を理解するようになっています。たとえば、不正に直面しても、私達が行動できないようにマヒさせるテロの脅威、私達の人間活動によって引き起こされた美しい惑星である地球に対する損壊、経済生活において、生死の境界線上にある人々の、ますます増大する怒りを理解するようになっています。 イザヤは、イスラエルの人々の美しい町エルサレムが燃やされ、とどめることが出来ないように見える強国によって打ち壊されたのを見ていたその人々に対して、この信じられないほどの美しい、素晴らしい、聖霊に満ちた言葉を語りました。彼らは、次々と来る帝国によって、何世紀にも渡って、脅威、破壊、そして、捕囚を経験しました。彼らは一方で、現実には不可能で気違い沙汰であるような平和の預言者イザヤの言葉を聴き、他方では、信仰の耳を持って、これらの言葉を究極的な希望として聞きました。彼らは、どんな帝国やどんな破壊的な力よりも強い、唯一つの力があることを知っていました。預言者イザヤの言葉は、その時代には明らかであり目に見える物と、全く異なる、未来の神様の約束でありました。 イザヤの言葉は、数世紀の間、生き続けました。それらは、世界中の人々に希望と勇気を与えています。それらは、私達の最も深い、切なる思いを表しています。それらは存在し、そして、 究極的に行使される神様の力を知っている言葉です。それらは、ブッシュ大統領が何とか実際に聞くようにと私が叫びたい言葉です。戦争ではない、平和こそ、まさに神様の御心です。 イザヤ書2章の初めからのこの数節は、優美であり、恵みに満ちており、忘れることが出来ない、心を高揚させる言葉です。それらは、私達が平和をもたらす可能性を持つことができると信じる世界中の人々を、又、まさに神様が管理していると信じる人達を励ましてきました。 神様は、この幻を現実へともたらす神様です。 しかし、それには、私達が準備してなすべき仕事があります。この待降節・この日々に、私達は戦争の道具を平和の道具へとつくりかえるように、と呼びかけられています。 これは神様が、諸国の間に判決を下すのを私達に語るビジョンであり、又、神様が人々の間の 紛争に判決を下すのを語る幻です。「彼らは剣を打ち直して「すき」とし、やりを打ち直して「鎌」とする。国は国に向かって、剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」 私が、日本の政府が憲法9条を取り去らないようにと呼びかける会議に参加する為、アメリカから日本に来たのは、大いなる謙遜のもとに(へりくだって)・・です。私の国が、やすやすと戦争を起こす時、私やアメリカから来た誰かが、あなた方に、「もはや戦争を学ばないように」と、どんな権利で言えるのでしょうか。 私は、日本の宗教指導者にとても感謝しています。彼らは、人々に、もう一度、「すき」を武器に替えない、再び、鎌をやりに替えない、戦争を学ばない、戦争を準備しない、もう二度と戦争をしない、と励まし続けているからです。 私は、我々もアメリカ憲法に9条をもったらと願います。そして、いつか神様が私の国にもそのような幻へと導いてくれるように祈っています。 皆様の国は、戦争の恐ろしさを知っています。皆様方は、いかに戦争を学ばないで平和を学ぶか、そして、平和のために助けとなることを、私達すべての人に教えることができます。 イエス・キリストは、平和の君、世の光、私達すべてを自由にするために来ました。 このことこそが、私達が待降節を待ち続けることの意味です。このことこそ、私達が平静になり、神様を知ることが出来る時、私達が心から深く考えることによって得られる、良き知らせです。 Amen and Amen!

説教要旨 「主がお入り用なのです」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章1-11節 1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。 /nはじめに  今日の聖書は、毎年、受難週の初めの日曜日(しゅろの日曜日Palm Sunday)に読まれる個所でもあります。イエス様はご自分の受難と復活を予告されましたが、その苦しみを受ける為にエルサレムに近いオリーブ山沿いのベトファゲまでやってきました。町についた時、イエス様は二人の弟子を使いに出しました。(かつて伝道の為に12人の弟子を遣わされた時も、二人一組でした)。ある学者は、二人というのは助け合う為でありワンマンにならない為であり、弟子達が自分の能力や資質によって立っているのではなく、遣わされた者であることを忘れない為だと言います。 /nエルサレム入城  イエス様はエルサレムの町にお入りになるにあたり、勝ちどきをあげて自分の国に帰ってくる王のように、入城することを考えておられました。但し一番違うところは、馬ではなく「ろばに乗って」ということです。馬が戦いの象徴とすれば、ろばは平和の象徴です。イエス様は平和の王として神様から遣わされました。人間は罪の為に、神様から離れて断絶関係にありましたが、神様から、罪の赦しをいただく為に、これから「和解の使者」として受難の時を迎えようとされているのです。イエス様をメシと信じる人々のメシア像は、ローマからの独立を勝ち取る為に戦う馬に乗る王の姿であり、ろばに乗る王ではありませんでした。けれどもイエス様が二人の弟子を遣わした目的は、エルサレムにお入りになる時に乗る「ろば」を連れてくることでした。 /n二人の弟子の仕事  イエス様は「向こうの村に行けば、すぐろばが見つかり、そのろばと一緒に子ロバがつながれている。それをほどいて引いてきなさい」と言われました。二人の弟子はろばを探すために奔走することなく、言われた通りに従うことで、イエス様の手足としての役割を果たしました。 /n旧約聖書の成就  子ロバにのってメシアがエルサレムに入られることは、ゼカリヤ書で預言されていたことでした。マルコ福音書には、二人の弟子がロバのひもをほどいた時、そこに居合わせたある人々が「その子ロバをほどいてどうするのか」と聞いてきた・・とあります。二人はイエス様から教えられた通り「主がお入り用なのです。」と答え、彼らは許してくれたと伝えています。私達は今日の聖書において、確かに神様の救いのご計画が神様の御手の中で着々と進められていくのを見ることが出来ます。 /n主がお入り用なのです  見慣れぬ二人の旅人が勝手にろばをほどくのを許可した村人の判断は、「主がお入り用なのです」というその一言で十分であったようです。このようなことは、見える地上ではあり得ないことです。しかしイエス様が必要とされるものにはそのプロセスにおいて、見えない神様が確かにかかわっておられることを、私達は聖書を通して確信させられます。私達の一つ一つのわざも、神様のご計画の中に置かれる時、今も生きて働いておられる神様が、人知を超えて実現へと導いて下さいます。

説教要旨 「何をして欲しいのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 20章29-34節     29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。 30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。 34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。 /nはじめに  聖書の基本的な読み方として「私にとって」「今」「ここで」の読み方を以前お話しました。私達は「ああ、この話はあの人に丁度良い話だ。あの人に聞かせたい・・」などと思うことがないでしょうか。そのような時は、話が自分の前を素通りしてしまっています。「私にとって」という意味は、神様があの人にではなく自分に何を語っておられるかを聞くことです。二番目の「今」とは、過去でも未来でもなく「今の自分」ということです。三番目の「ここで」は、現在置かれている「自分の状況」の中で聞くということです。 /n二人の盲人の叫び  イエス様がエリコの町を出てエルサレムに向かうことを知り、群衆は自分達も過越の祭りの為にエルサレムに行くので後についていきました。イエス様を慕ってのことでしょう。その途中、道端に座っていた二人の盲人が突然「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんで下さい」と叫びました。それを見た群衆は叱りつけて黙らせようとしました。叫ぶ盲人は、イエス様や自分達の行く手を阻む邪魔な存在として映ったのでしょう。又当時のユダヤ人は、盲人その他の障害を負う人々は神様の祝福から外された人達と考えていました。群衆は、この二人がイエス様の足を止めさせることのないように、盲人を叱り、黙らせようとしたのでしょう。 /n盲人のイエス様への思い  盲人はこれまでイエス様が中風の人、手のなえた人、足の不自由な人、口の利けない人、何よりも自分達と同じ目の見えない人を癒されたうわさやイエス様の教えについて聞いていたに違いありません。二人の心にはイエス様に対する信仰が芽生え育ち、イエス様こそメシア、救い主であるという確信を持ったのでしょう。そこにイエス様がお通りと聞いたのです。千載一遇のチャンスです。自分達の叫びを阻む群衆の叱り声に負けてはいられません。誰も自分達の存在をイエス様に伝えてくれなければ、自分達で頑張るしかありません。31節に「二人はますます」とあります。声を張り上げて「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんで下さい」と叫びました。 /n「何をして欲しいのか」  この個所のすぐ前のゼベダイの息子達の母の願いとは対照的に、盲人の願いはこれ迄の暗い苦しみの淵からの叫びであり、その声はイエス様の耳に届きました。イエス様は彼らを呼び「何をして欲しいのか」と尋ねました。イエス様が盲人の思いを知らないはずはありません。しかしイエス様は尋ねられます「何をして欲しいのか」と。この問いは盲人達の信仰告白を引き出します。「主よ、目を開けていただきたいのです」。 /n「主よ」  わずか6節だけの聖書箇所で、盲人の「主よ」との呼びかけは3回もなされます。彼らは自分達が「誰に」「何を願うべきか」を知っていました。(「自分が何を願っているか、分かっていない」とイエス様から言われた前出の母とは対照的です。)このお方こそダビデの子(メシア)であり、自分達の苦しみを知り、願いを聞き届けて下さる唯一のお方であるとのゆるぎない信仰がここにあります。 /n私達の信仰の目も・・  イエス様は盲人を深く憐れみその目に触れられました。盲人は、彼らの確信通り見えるようになり、イエス様に従う者となりました。私達も「主よ、憐れんで下さい」と信仰をもってイエス様を呼び求め、「何をして欲しいのか」と尋ねられたら、「信仰の目を開けていただきたいのです」と願いましょう。「自分の信仰の視力は大丈夫」と考えているなら、「見えると言い張る所にあなたがたの罪がある」(口語訳ヨハネ9:41)と聖書は警告しています。私達はイエス様がはっきり見えていないことを知り、盲人のようにイエス様に憐れんでいただき、自分に最も必要な願いを聞いていただいて、今週も、喜んで従う者になりたいと願うものです。

説教要旨 「ユダの裏切り」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

/n[マルコによる福音書] 14章43-50節 43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 /nはじめに  ユダヤのカリオテ村の出身者が、イスカリオテのユダと呼ばれていたイエス・キリストの弟子、12弟子の一人でした。彼は、イエス・キリストを裏切ったことから「裏切り者」の代名詞として知られている人物です。(マルコ福音書によれば)イスカリオテのユダはイエスを引き渡そうとして祭司長達の所に出かけて行き、彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダはどうすれば折り良くイエスを引き渡せるか、ねらっていたと記されています。最後の晩餐の後では、「私が接吻するその人がそうだ」と前もって合図を決めており、合図通り、先生であるイエス・キリストに近づいて接吻したと記されています。接吻するほどに近しい関係にあったイスカリオテのユダが行なった「裏切り」というのは、一体何だったのか。ユダの裏切りをめぐり、三つの点について考えてみたいと思います。 /n第一:ユダは欲得で裏切ったのか?  「裏切り」とは、敵に内通して主人や味方にそむくこと(広辞苑)です。特にユダは、イエス・キリストという先生(主人)を祭司長・律法学者・長老に引き渡すということで、イエス・キリストを裏切ろうとしていました。マタ福音書や他の福音書を見ると、ユダは、イエス・キリストを銀貨30枚で売り渡したと記されています。ということは、ユダは銀貨30枚のお金欲しさにイエスを売り渡したのか?ということです。ヨハネ福音書によれば、ユダは盗人であって金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたと記されています。しかし、確かに盗人ではありましたが、銀貨30枚は当時の労働者が一か月働いて得られる金額に相当する額です。危険を犯してまで先生を売り渡して得ようとする金額としては、それほど多くはないと思われます。 /n第二:ベタニヤでの出来事  ユダがイエスを裏切ろうと決断する直前に、一つの出来事がありました。ベタニヤの女性がイエス・キリストの頭に高価な香油を惜しげもなく注いだ、という出来事です。非常に高価な香油でした。ユダは「なぜ、この香油を300デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」と非難します。換算するならば、十か月分の労働賃金に相当する額です。銀貨30枚に比べたならおよそ10倍、大きなお金です。貧しい人に施せば社会の為になる。今でいえば、経済的に困っている人を救済するなどの社会福祉活動が出来る、という主張であったでしょう。しかし、そのやりとりに対して、イエス・キリストは次のように言います。「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日の為に、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」 /n先生と弟子達の食い違い  ところで、香油を注いだベタニヤの女性を非難したのは、一人イスカリオテのユダだけではなく、他の弟子達も一緒にそのことを批判したようです。即ちこの出来事は、弟子達の考えと、先生であるイエス・キリストの考えが微妙に食い違っていることをあらわにした事件でもありました。当時弟子達は、イエス・キリストの教えと行動は、この世において貧しい人々が豊かにされる為のものであり、最後には当時の支配者であるローマ帝国を打ち破ってイスラエルを独立させ、神の国を樹立させる・・そんな運動であると理解していたのでしょう。  ナルドの香油(ベタニヤの女性の注いだ香油)の出来事は、弟子達が考えていた考え方(神の国を樹立させる運動)とは全く異なる出来事として彼らに映りました。イエス・キリストは香油を注いだことを肯定した。そのことは、弟子達の理解・希望・主義主張をイエス・キリストは明確に否定する出来事して弟子達には映ったのでした。その直後からユダは動き始めています。ユダは、「先生であるイエス・キリスト」ではなくて、「自分の主義主張」を優先させ、行動し、それが裏切りという形で現れたのです。ユダの行動は彼独りの行動ではなくて、むしろ弟子達の思いを代表しての行動であったということになります。その証拠に、その後 弟子達はイエス・キリストのもと(十字架のもと)から逃げ去ったのです。 /n第三:イエス・キリストはユダに対して無力であったか?  第三に考えたい点は、イエス・キリストはユダのはかりごとに対して無力であったのか、言い換えるならば、ユダは救われる余地がない程に、決定的に滅びに定められてしまった罪人なのか?ということです。ユダは聖書の中で、使徒のユダと紹介されており、会計係を担当し、キリストに接吻して挨拶するほど近しい関係にあった側近中の側近の弟子です。そのような人物が救われる余地のないほどに滅びに定められていたと考えることは出来ませんし、ユダの罪を救えなしほど、無力なイエス・キリストであるとも考えられません。聖書は最後の場面で、キリストが弟子達にパンを裂きぶどう酒の杯を与えたと記していますが、こんな言葉を語っています。「<span style="font-weight:bold;">見よ、私を裏切る者が私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められた通りに去っていく。だが、人の子を裏切る者は不幸だ</span>」。弟子達はその言葉を聞いて「一体誰がそんなことをしているのか」と互いに議論し始めたと記されておりますし、イエス・キリストは又、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と彼に言われたとも記されています。あのレオナルド・ダ・ヴィンチが描き出そうとしているその決定的な瞬間です。哀れなことに、その時弟子達は自分達の内で誰が一番偉いだろうかと議論しているのでもあります。まさに、ユダの汚れは弟子達に共通の罪であり、罪の汚れでした。 /n裏切りの結末  しかしユダの場合、イエス・キリストを敵に渡したことが、たったそれだけのこと、と思っていたそのことが、十字架へとつながっていく展開に気がついたのです。ユダは驚きます。そこまでは考えていなかったのでありましょう。イエス・キリストを殺すということは、弟子としてこれまでの自分をも否定する出来事です。ユダは、イエス・キリストを裏切っただけではなく、自分自身をも裏切ったことに気が付きます。聖書は次のように記しています。「<span style="font-weight:bold;">イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長達や、長老達に返そうとして『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは,『我々の知ったことではない。おまえの問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。</span>」(マタイ27:3-5)。後に、イエス・キリストは十字架の上で、「<span style="font-weight:bold;">父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです</span>」と祈りましたが、その言葉はイスカリオテのユダにも妥当する言葉であったのでしょうが、ユダ自身がそのような言葉を拒絶してしまう生き方をしてしまったのです。 /n天を見上げる11人の弟子  さて、私が奉職している大学の礼拝堂正面のステンドグラスに、その後のイエス・キリストの姿、復活のイエス・キリストの天に昇る姿が描かれています。今まさに、天に帰ろうとしている復活のイエス・キリストです。そしてその下に、そのイエス・キリストを見上げている地上の人々が描かれています。信仰に目覚めた使徒達です。先日ある人が、この情景を「天を見上げている十二使徒達」としましたが、そこには11人しか描かれていないのです。最後の場面でイエス・キリストを見上げる使徒達の中には、ユダはいないのです。彼は結果として自ら捨てられた者、滅びる者となったのです。 /n復活の主を見上げる弟子達の延長線上に立つ。  私達はイエス・キリストの弟子達の延長線上にある者です。その延長線にはペテロがおり、イスカリオテのユダがおり、そしてパウロもいます。2000年の歴史を貫いて、多くの人々がその延長線上で実存をかけつつ生きてきました。その全ての人々にイエス・キリストは、「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と語りかけているのです。イエス・キリストの前から立ち去る者ではなく、最後の場面の11人の弟子達のように、復活のイエス・キリストを見上げる、そんな線上に私達も又、立ち続ける者でありたいと願う者であります。