「我は汝らを知らず」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 25章1-13節 1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 /nはじめに  ユダヤの結婚式は夜から始まります。聖書にある十人のおとめとは、花嫁の家で、花嫁と共に花婿が迎えに来るのを待っている人たちです。花婿が来る前に、花婿の友人は先ぶれとして花婿の到着を知らせます。これを聞くと花嫁の友人達は途中まで花婿を出迎えて、花嫁のいる場所へ案内し、その後、一行は花婿の家に向かい結婚式と祝宴が行われました。(順序には他の説もあります)。すべては夜行われるので足元を照らす明かりは必需品です。十人のおとめ達はそれぞれ明かりの用意をしていました。 /n花婿の到着が遅れて・・  考えていた以上に花婿の到着が遅れた為、十人のおとめ達は眠ってしまいました。真夜中になってから先ぶれとして遣わされた花婿の友人の声がしました。花婿がまもなく到着します。みな起きて各々持ってきた明かりを点検しましたが明かりはすでに消えかかり、油の補充が必要でした。五人のおとめ達は予備の油を壺に入れて持ってきていましたので、花婿を出迎えたらすぐ出発できる状態でした。ところが他の五人のおとめは予備の油を用意していませんでした。このままでは花婿と一緒に祝宴の場所迄行くことは不可能です。そこで予備の油を持っていたおとめ達に油を少し分けてもらえないかと頼みましたが、みな、自分の分しかないと断られ、結局、店まで油を買いに出ることになりました。 /n不在の間に・・  その間に花婿は到着し、花嫁と五人のおとめ達一行は婚宴の場所へと向かいました。婚宴会場の中に入ったと同時にとびらは閉められました。不審者から婚宴を守る為に、会場には鍵がかけられました。後から婚宴会場についた彼女達は扉をたたきますが、主人から「はっきり言っておく。わたしはお前達を知らない」といわれます。 /nたとえの意味  花婿とは、イエス・キリストのことです。おとめ達とは信仰によってイエス・キリストが来られるという希望と確信に基づいて再臨を待っているキリスト者です。この世の中がどんなに悲惨でも、どんな試練が襲ってきても、神様は歴史を導き、イエス様が私達に対して約束された約束を必ず果たされる日が来るとの希望を与えられているキリスト者です。しかし約束の成就、希望の到来の為には、それを受け取るために必要なもの(油)を切らしてはなりません。 /n用意のないおとめ  予備の油を用意していなかった五人のおとめ達は、油が切れて明かりが消える時のことを考えなかった人達です。彼女達は花婿が来るのを楽しみにし、喜こんで待ち、当然、婚宴の席につけると思い込んでいたでしょう。けれども花婿がついた時に彼女達は共に行くことが出来ませんでした。そして後から追いかけても、扉には鍵がかけられたのです。 /n学ぶこと  神様の前で罪を悔い改め、その罪が赦されたキリスト者は祝宴に招かれて、花婿の到着を待つおとめにたとえられます。しかし招かれていても準備を怠るならば祝宴の席に座ることは出来ないことを、このたとえは警告しています。私達は賢いおとめにならなければなりません。賢いおとめとは来るべきものに対して目を開いており、ただ漫然と生きることをしない人達のことです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(7:21)。とあります。用意の出来ているおとめの一人にしていただく為には、毎週の礼拝に集い、日々、聖書に親しみ、日々祈りを大切にしていくことは不可欠です。婚宴の席に座るのは、扉があいている「今」という時です。神様の恵みと憐れみの中で、私達は賢いおとめとして御言葉に従う者とさせて下さいと祈り願うものです。

「全財産を管理させられる僕」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章45-51節 45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。 46 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 47 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 48 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、 49 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。 50 もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、 51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 /nはじめに  今日の聖書のたとえは、主人が長い旅に出ていて今は留守であるという設定です。僕(しもべ)は、主人がそばにいる内は本当に忠実であるかどうか明らかにはなりません。なぜなら主人の目の届く所では、服従することは当然であり、自分勝手に行動する機会もないからです。けれども、主人が不在になった時、その僕)がどういう(僕)であるか明らかになります。 /n二人のしもべ  この僕(しもべ)は、他の仲間)の世話を託されていたと考えられます。一人の(僕)は決められた時間通りに使用人達に食事を整えました。彼は自分の仕事が目に見える形では他の使用人達の食事の世話であっても、この仕事が主人の家を守る大事な仕事であることを自覚していたでしょう。イエス様は「言われたとおりにしているのを見られる僕)は幸いである」と言われました。「見られる」とは、発見するというような偶発的な意味があります。この「忠実で賢い」僕)は、毎日を同じようにたんたんと自分に委ねられた仕事をしていたにすぎず、命令に服従することが不在の主人に対して自分の忠実さを示すことでありました。「忠実」と訳されている語は、他に「信頼に耐える」「信任を受けている」「真実な」「確実な」とも訳される言葉です。この言葉が名詞になると信仰者となります。又「賢い」は、他に「分別のある」「思慮深い」「慎重な」と訳される言葉です。主人がある日突然に帰宅して、いつも通りに決められた時間に食事の用意をしていたしもべを、イエス様は「幸いである」と祝福し、「はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるに違いない」と言われました。つまり忠実で賢い僕は更に重い責任を任せられるのです。  このたとえを語られた時、イエス様は十字架の死を目前にしておられました。弟子達はイエス様が地上から去られた後、イエス様の言葉を守り、忠実な服従によってイエス様の意志を行い、イエス様が再び来られる日を仰ぎ見て、忠実に賢くふるまうように求められています。イエス様の不在がもたらす誘惑を、弟子達ははっきりと知らなくてはなりません。 /n悪いしもべ  たとえでは、他の(僕)は主人の不在を喜び、その帰りがずっと遅れると考え傲慢になり、あたかも自分が主人かのように振舞い、他の使用人達に暴力をふるいます。更に主人の不在を自分自身のために利用し、あらゆる快楽を喜び楽しもうとします(48節)。しかし主人は彼の不意を襲い、その思い上った支配を終わらせます(50節)。この(僕)は、ただ単に不忠実であるというばかりではなく自分自身をも偽り、自分の生きる時を空しく過ごしたことになります。このような僕)は、偽善者が受ける報いと同じ報いを受けることになると警告しています(51節)。 /n世界史を見る  このような警告をイエス様は弟子達になさいましたが、しかしその後のキリスト教会の歴史を見る時、イエス様の警告された危険がどれほど大きなものであったかを知らされます。イエス様の昇天後、教会の指導者達をはじめとする多くの信仰者達は傲慢になり世界を支配したのでありました。地上の快楽のとりこになることは、再び地上に来られるイエス様を仰ぎ見る視線とは一致しません。 /n私達は・・  今の時代もなお、主人であるイエス様は不在です。教会は、弟子達、使徒達に託された神の国の業を継承し、宣教を委託されています。私達は主人から委託された仕事、すなわちイエス様の言葉を大切にして忠実な服従によってその意志を行っているだろうか。イエス様が再び来られることを待ち望みつつ、その時「幸いなしもべ)」であるかと問うものです。私達は聖書を通して語られるイエス様の言葉、神様の言葉に対して全身で受け止め、本気で信じて従う者にさせていただきたいと願うものです。

「目を覚ましていなさい」  牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章32-44節 32 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 33 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 34 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 /nはじめに  本日の聖書個所から25章にかけて、終末を意識して生きるキリスト者の生き方を、イエス様がたとえをもって教えられています。たとえは七つに及び、本日はその内の三つ(いちじくの葉・ノア・泥棒)を学びます。 /nいちじくのたとえ  パレスチナでは常緑樹の木が多い中で、いちじくの木は冬に葉を落とします。そして春は短く新芽を出すのが他の木よりも遅く、「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたこと」(32節)を知ります。同じように、イエス様の言動を通して新しい時代の到来を知るようにと教えています。さらに、最も堅固にみえるこの天と地も滅びる時を迎えますが、その中で決して滅びることのないイエス様の言葉は、神様との新しいかかわり方が可能となる時代が始まったしるしです。 /nノアのたとえ  ノアの時代、地上で人々は神様の前で堕落し、不法に満ちていました(創世記6:11)。それゆえに地上および人々は洪水によって滅ぼされました。なぜノアは助けられたのでしょうか。聖書はこう伝えています。「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(同9節)。更にヘブル書11章にノアついての記述があります。「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けた時、恐れかしこみながら、自分の家族を救う為に箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(7節)。洪水が起こるその日まで、人々は飲み食いし、めとったり嫁いだりしていたと聖書にあります。聖書は日常生活にのみ心を奪われている人々の危険性を語ります。ノアのたとえを通して学ぶべきことは、洪水を境に救われる者と滅びる者とが峻別されるということです。ノアは(おそらく人々の嘲笑を受けながら、)神に命じられた通り、とてつもない大きな箱舟を来る日も来る日も造り続けました。そしてノアは、友人、知人、近隣の人たちを箱舟に誘ったことでしょう。しかし人々はノアを相手にせず、地上が水浸しになるなど信じなかったに違いありません。それゆえ助かったのはノアとその家族だけでした。  続く40-41節に「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女がうすをひいていれば、一人は連れて行かれもう一人は残される」とあります。畑を耕すとか、うすをひくとかは日常の仕事です。ある神学者は「我々が見るところでは、この二人にはそう差がない。しかし、神の目から見ると、二人の差は決定的である。それは、一人は目覚めており、一人は目覚めていない。恐ろしいことであるが、信じ方が違うということになる。一人は、この世のことに心を失っていない。それは、自分をこの世に渡していないということである。信仰生活は簡単である。問題になるのは、この世に携わっている時、この世に自分を渡しているか、それとも神様に仕えて仕事をしているかである。このことは、天と地の違いがある。その違いの前には、「どんな仕事をしているか」などということは問題ではない。つまらないと思える仕事でも、神様の前に立って仕事をしていれば意義がある。家庭生活でも同じである。」と語っています。 /n泥棒のたとえ  泥棒の侵入があらかじめわかっているならば、誰も絶対に泥棒を家に入れるようなことはしません。ところが泥棒の存在を忘れてうっかり鍵をかけ忘れた所から泥棒は侵入します。ここでは、再臨、終末が突然にやってくることを教えると同時に、キリスト者はその時に備えて、緊張を忘れてはならないことを教えています。 /nだから・・  終末・再臨の時、救われる者と滅びる者とが分かたれます。イエス様は終末の突然性と予測不可能性をあげて「だから目を覚ましていなさい」(42節)と警告されます。私達は毎週日曜日の礼拝にしっかりつながり、天に属する者として、救われる者の道を歩みたいと願っています。その為に、日々、聖書を読む習慣を身に着け、出来る限り聖書の御言葉を心の内にたくわえたいものです。日々、祈りをもって一日を始め、祈りをもって一日を終り、その日に向けて「用意して」(44節)いましょう。

「賜物としての聖霊」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[詩篇] 51:12-14 12 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 13 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。 14 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 /n[使徒言行録] 2章32-42節 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 /nはじめに  本日はペンテコステを記念する礼拝です。50を意味するギリシャ語に由来するペンテコステという言葉は五旬節(五旬祭)とも訳されています。過越しの祭りから数えて50日目にユダヤでは麦の収穫を祝う祭(春の穀物収穫祭)が執り行われて、それをペンテコステと呼んでいました。本日のペンテコステの礼拝は麦の収穫を感謝する礼拝ではなく、もっと特別な、イエス・キリストにかかわる礼拝です。  イエス・キリストは、最後の晩餐(過越しの祭の食事会と思われる)の翌日に十字架にかけられています。そして3日目に復活し、その後40日間にわたって弟子達など人々の前に現れました。そしてやがてイエス・キリストは天に昇る。弟子達は地上に残される・・。そんな状況の中で弟子達はペンテコステの祭りを迎えました。ペンテコステの日の出来事とは一体何であったのか。そしてその日を境にして一体何が変わったのか、ということをご一緒に考えてみたいと思います。 /n40日間とペンテコステの出来事  ペンテコステの日に起きた出来事とそれ迄の40日間の出来事との兼ね合いで考えてみたいと思います。聖書は大きく三つのことを集中して記録しています。第一は、「復活した,ということを弟子達に認識させる」ということに集中しています。たとえば、エマオに行く途上にあった弟子達二人が、イエス・キリストが十字架で死にそして復活したということを聞いたその道すがら、一人の人(復活したイエス・キリスト)が現われましたが、弟子の二人はイエス・キリストと認識することが出来ず、話の中でこんなことを言っています。「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人達が言った通りで、あの方は見当たりませんでした」。それを聞いて、復活したイエス・キリストが、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者達の言ったことすべてを信じられない者達」と嘆いたというのです。この二人の弟子達が「復活したイエス・キリストが実は自分達の横に立って話をしてくれたのだ」と認識出来たのはその日の夜に食事を共に囲んだ時、パンを裂いてもらった時でした(ルカ24:13-)。イエス・キリストが復活したということは弟子達にとってなかなか実感し難い出来事でした。死が終りではなく復活という出来事があるのだ、終末の出来事が先取りとしてこのイエス・キリストに起きた、ということを弟子達はなかなか理解することが出来なかったのでした。 /n第二のこと  集中的に聖書が語っている第二のことは、復活したイエス・キリストの体についてです。あの疑い深いトマスは、自分で指をわき腹のさされた穴に当て、手に打ち付けられた釘の後を触らなければ信じられないと言いました。イエス・キリストは「触りなさい」と言って「<span style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい</span>」(ヨハネ20:27)と語ったあの場面です。あの場面でイエス・キリストは、戸にはみな鍵がかけられてあったのに、真ん中に来て立ったと記されています。しかも彼らと一緒に食事をしたとあります。イエスはシモン・ペテロに「私を愛するか」と問い、ペテロは「はい、私があなたを愛しているのは、あなたがご存知です」と答えると「私の小羊を飼いなさい」と言われたのも、食事が終わった後の場面です(ヨハネ21:15-)。復活したイエス・キリストが、幽霊のような幻影ではなくて触れることが出来、又食事をとる、そのような方である。不思議な出来事、そして常ならぬ姿としてのイエス・キリスト。聖書が集中して語ることは、復活したイエス・キリストがイエス・キリストである、ということと、その姿でありました。 /n第三のこと  集中的に聖書が語っている第三のことは、その復活したイエス・キリストが弟子達に命令を与えたということです。 <span style="font-weight:bold;"> 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>又<span style="font-weight:bold;">、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」</span>そしてイエスは弟子達が見ている前で天に挙げられて、雲のかなたに見えなくなってしまった、と聖書は記しています。イエスはこの言葉を与えて天に昇ってしまった。他方弟子達はこの約束の言葉と共に地上に残されてしまった。そして数日後に巡ってきたのが、ユダヤの祭り・ペンテコステの祭りであったのです。 /nペンテコステの日の出来事  ペンテコステの祭りの日に弟子達は一つ所に集まっていました。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると弟子達は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めたというのです。聞きなれない言葉をしゃべり出す弟子達、それを見て祭りに集まっていたユダヤの人達は「どうも祝いの葡萄酒を飲みすぎて酔っ払っているのではないだろうか」と怪しんだというのです。それを聞いたペテロは毅然として語り始めます。 /nペテロの説教(説教の最後の部分が本日のテキスト)  ペテロは人々に告げます。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。イエス・キリストの死と復活の意味を、ペテロはここではっきりと人々に告げました。周りの人達はぶどう酒に酔って訳の分らない言葉を語り始めていると見ましたが、ペテロは「聖霊が降った」ことの本質的な(内的な)意味をここで明確に示したのです。「あのイエス・キリストはメシアである」と。 /nどうしたら良いのですか?  人々はペテロの説教を聞いて大いに心を打たれ、「兄弟達、私達はどうしたら良いのですか」と聞きました。ペテロは「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」と答えています。これがペンテコステの日に起きた出来事です。 /nこの出来事を境にして何が変わったのか。  「ペテロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(41-42節)。それ迄の弟子達はイエス・キリストの思い出に生きていた120人程の小さな集団でした。しかしこのペンテコステの日の出来事を境にして、特にイエス・キリストの<span style="font-weight:bold;">「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>というあの約束の言葉が動き出した日でもありました。その日に三千人ほどが仲間に加わったとあります。まさに教会が誕生した瞬間でした。 /n教会の存在の原点  さて教会は二千年ほどの時を経て存続しております。エルサレムから見れば地球の反対側に位置する日本にも、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた者達が存在し、使徒の教えである聖書の言葉を聞き、相互の交わりをなし、パンを裂くこと(聖餐式)を守り、祈ることに努めています。聖霊を与えられた弟子達が神の言葉を全世界に告げ知らせた結果、教会は全世界に建て上げられていきました。教会というものが存在すること自体が、「賜物として与えられた聖霊」によって実現されたものでありました。いうならば「教会は賜物としての聖霊それ自体を証しするもの」です。教会こそがまさにイエス・キリストの約束の言葉の実現でありました。ペンテコステを記念するこの朝の礼拝において、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」初代教会のその姿、教会の本来的な姿、存在の原点というものを、今日においても再確認したい。それがペンテコステの礼拝の思いであります。

説教要旨 「そのとき」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章15-31節 15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。 18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。 19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。 21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。 23 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。 24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 25 あなたがたには前もって言っておく。 26 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」 29 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 30 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 31 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 /nはじめに  私達はまだ見ぬことに対して信じることに慎重であり臆病です。この世の中は偽りが横行し、信じていても騙されることが多い為に自分で自分をガードし、与えられるものを警戒します。科学が発達するにつれ、ますます信じるということが困難な時代になっています。その一方で、価値観の多様化がすすみ、いつでもどこにいても簡単に多くの情報を得ることが出来る時代になると一体どこに自分の軸足を置いたらよいのか、何をもって自分の基準とするかが問題になってきます。自分の判断基準を持たない者は、良いか悪いかということさえも周囲を見て数の多い方になびくことになり、そのように生きていると、いつしか自分で判断することが出来なくなるという危険性をはらんできます。 /n教会は聖書を正典として聞く  教会で聖書が語られるのは、聖書がキリスト教の正典だからです。正典(カノン)のもともとの意味はまっすぐな棒、さお、定規という意味です。そこから尺度、基準、原則という意味に使われています。(ラテン語ノルマは規範、標準、模範の意)。教会は、人間が人間として生きていく上でなくてはならない価値基準、判断基準となるべきものがこの「聖書」であることを信じ告白しています。聖書を学ぶならば、神を知り、人間を知り、更に、人間が神に逆らう存在であり、神に許されなければならない存在であり、そのために神は御子イエス・キリストを地上に送って下さり、イエス・キリストは私達に「言葉」を通して神様の救いのご計画を明らかにして下さった、ということを知ることが出来ます。 人間はなぜ生きているのか、人間はどのように生きるべきか、何が正しく何が間違っているのか、世界はどのように創られ、どのように終るのか、そのことがこの一冊の聖書に記されています。 /n終末の予告  イエス様は今日の聖書の個所で、ダニエル書の預言が実現するその時に備えてどうすべきかを教えます。預言の通り、聖なる場所(神殿-現代では教会)を荒らす憎むべき破壊者がこの世界の終りにやってきます。その時すべてをそのままにして先ず逃げることを教えています。悪から逃げる、その破壊者がもたらす災いから逃げる、悪に対してもたらされる神様の裁きから逃げる・・16節では「山に逃げなさい」と教えます。 /n大きな苦難  その時に受けなければならない苦難は、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難(21節)と言われています。この苦難の時を神様は選ばれた人達の為に、ちぢめて下さるともいわれます。この苦難の時、にせもののメシア(救い主)や、にせものの預言者が表れて大きなしるしや不思議なわざを行ない人々を惑わそうとします。(にせものでも、大きなしるしや不思議な業は行なえることに注意!) /n再臨の予告  本物のメシアであるイエス様は「稲妻がひらめき渡る」ように、誰の目にも明らかなかたちで来ます。再臨の時、天変地異が起こります。イエス・キリストがこの地上に来た時にはベツレヘムの馬小屋でひっそりと誕生され、地上の生活においても栄光を直接現わすことはありませんでした。しかし再臨の時には、大いなる力と栄光を帯びて来られます。「天の雲にのって」(30節)とは神様の臨在を表す表現です。その時神様から選ばれた人達(信仰を与えられた者達)が天使によって呼び集められる(31節)との言葉で予告は閉じられています。 /n希望  神様を信じる者は神様の所有とされ、この世の終りの日にイエス様のもとに一つに集められるという約束(希望)を聞き,信じる者は幸いです。「知恵ある心を得ることができますように(詩篇90:12)」と祈りましょう。

説教要旨 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章3-14節 3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」 /nはじめに  神殿を出られたイエス様がオリーブ山に座っておられた時、弟子達が近付いて来て終末はいつ起こるのか、どんな前兆があるのかを「ひそかに」質問しました。本日の聖書個所から25章にかけて、その質問に答える形で弟子達だけに向けられた説教が記されています。 /n初めと終り  すべての事柄には初めがあり、そして終りがあります(入学式-卒業式、就職-退職、スタート地点-ゴール地点、月初め-月末、新年-年末、誕生―死)。この世界も「天地創造」という初めの時があって、「終末」という終りの時があることを、聖書は当然のように語ります。  終末については旧約聖書(ダニエル書)に預言の記述がありますが、新約聖書にも福音書以外にコリント書、テサロニケ書、ヨハネの黙示録などに記されています。(その内容は必ずしも一致していない為、神学者の間でも議論があり、終末観は人それぞれ違います。終末のイメージは違っても)私達は毎週礼拝の中で、使徒信条「(主は)かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審き給わん」とイエス・キリストの再臨(イエス様が再び来られる)を信じ、告白しています。私達は未来のことを見ることは出来ませんが、聖書の言葉を信じる信仰が与えられ、聖書を通して語られるイエス・キリストの言葉が真実であり真理であることを、聖霊の助けによって確信しています。 /nそのことはいつ起こるのですか  弟子達のこの質問に対して、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使達も子も知らない。ただ父だけがごぞんじである。」(36節)と答えられました。 /n終末にはどんなしるしがあるのですか  この質問に対してイエス様は、にせメシアの出現、戦争の勃発とそのうわさ、各地での飢饉や地震をあげています。又、信仰者に直接ふりかかる災難については、外からの迫害、内からの離脱者、裏切り行為、偽預言者の出現と相互不信、信仰の衰退が予告されます。そしてこれらは世の終りではなく「産みの苦しみの始まり」(8節)と教えられました。戦争・飢饉・地震については、すでに国内・国外において多くの事例があります。偽メシアについても「イエスの方舟」など時折あやしげな教祖の話を耳にします。聖書ではこれらに加え、さらに外からの迫害、それによる多くの人のつまずき、裏切り、人々の間での憎しみ、にせ預言者によるまどわし、不法のはびこり、愛の冷却など、私達にとって厳しい状況が起こることが伝えられます。 /n私達に求められていること  「人に惑わされないように気をつけなさい」(4節)「あわてないように気をつけなさい」(6節)「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)。私達は聖書を通して、このようなことが起こりうることを知らされています。それゆえにこれらの事柄が今、私達の目の前で起こってもそれにまどわされたり振り回されたりしないで冷静に忍耐をもって受け止めるならば「最後まで耐え忍ぶ者」として「救い」が約束されています。 /n終末  終末は時間の世界(歴史)の終わる時です。それは神様のご計画の中で定められた「時」(神の御子イエス・キリストが永遠の世界から時間の世界に入られたように)です。終末に伴うさまざまな苦難は「産みの苦しみの始まり」(8節)といわれていますが、産婦が子供をこの世に送り出す時に陣痛なくしては子供の誕生という喜びにあずかることが出来ないように、この世界の終りの時(それは新しい神の国が開かれる時)に、世界は激しい痛みに襲われるのです。その時に備えて私達は今、信仰を強化しなければなりません。神様の憐れみをいただきながら、どんなことにも耐え忍ぶ力をいただき、愛の二重の戒め「主なる神を愛する」「自分を愛するように隣人を愛する」を大切に歩む者とされたいと願うものです。

説教要旨 「福音の力」 倉松功先生(もと東北学院院長)

/n[詩篇] 71:1-8 1 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 2 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 3 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 4 わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。 5 主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 6 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。 7 多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。 8 わたしの口は賛美に満ち/絶えることなくあなたの輝きをたたえます。 /n[ローマの信徒への手紙] 1章16-17節 1 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 2 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 /nはじめに  「福音」という言葉は良い知らせ・Good News といわれるものです。ロ-マの信徒への手紙の冒頭には、福音とは「御子イエス・キリストに関するもの」(3節)と記され、マルコ福音書には「神の子・イエス・キリストの福音」(1:1)と記されています。「・・の」は所有格ですから、イエス・キリストの持っている福音=イエス・キリストご自身の福音、であり、福音はイエス・キリストと切り離すことが出来ないだけでなく、主イエス・キリストご自身が福音であると理解して良いと思います。 /n福音をイエス・キリストに置き換える  「私は福音を恥としない。福音は・・」という言葉を「私は主イエス・キリストを恥としない。(なぜなら)主イエス・キリストは、・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(16節)と読みますと、主イエス・キリストがもっと具体的に私達に迫ってくると思います。 /n救いをもたらす神の力  この言葉はイエス・キリストの内容、イエス・キリストがどういう御方であるかを最も簡潔に語った言葉ではないかと思います。「救い」という言葉は、一人一人違うのでよくわからない言葉です。その人がどういうふうに救われたか、その人の救いがどうなっているのか、その人の救いがどのように起こったのか、わかりません。実際、福音書を読みましても「中風の患者が救われた」「ヤイロの娘が救われた」と具体的にありますが、それぞれ状況が違い、その人の生きている中でどういう救いが起こったのか外からはなかなかわかりません。そういう中で福音書には、「罪よりの救い」「死の体からの救い」「命を救う」との表現が多いのではないかと思います。具体的に一つの例を見ていきたいと思います。 /nザアカイの例(ルカ福音書19章)  「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)。(「今日、救いがこの家に起こった」と訳すこともできる。)この言葉は、主イエスに向かってザアカイが示した態度を主イエスがご覧になって語った言葉です。 それはザアカイの「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)します。又、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」という告白に対してでした。ザアカイは徴税人で、同胞のユダヤ人からローマの占領軍の為に税金を集める仕事をうけ負っていました。徴税人は家族の生活の為、税金を上乗せして集めていましたから、人々からは罪深い男と見られていました。その彼が「半分を貧しい人々に施します」と告白したのです。これは大変具体的な告白です。「新しい人になろうとする」「これまでと違った生活をしようとする」その力一杯のザアカイの生活の中で出来た、「新しい人になること」を決意している告白の言葉であるといえると思います。 /n悔い改め  「誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」この言葉は、疑わしい生活の中にあったザアカイの持っていた罪の意識(これでは駄目だ。やむを得ないかもしれないけれど、これではダメという罪の自覚)を含んだざんげの気持が入っている悔い改めの言葉だと思います。新しい生活への決意、それはざんげの言葉と一緒になってザアカイから主イエスに告白の言葉として告げられたものです。 /n「今日、救いがこの家に来た」  この前後の関係を見ると、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」との主イエスの言葉があります。ザアカイのざんげは、この主イエスのザアカイに対する熱い心(愛といっても良い)が、告白をうながしたことは間違いないでしょう。「今日、救いがこの家に来た」と、救いをもたらした主イエス、そこに「福音・救いの力」というものが表れていると見ることができるように思います。「福音」というのは人間を新しくする。「新しくする」というのは主イエスによってもたらされる神の救いの力によって「新しくされる」。そこに福音が表れる。力である主イエス・キリストがそこに立っておられる、来ておられる、ということです。 /n「福音には、神の義が啓示されている」(17節)  「福音=主イエス・キリストには神の義が表れている。明らかに示されている。」といえます。「キリストにおいて明らかにされた神の義」とはどういうものであったでしょうか。それを一言で説明しているのが讃美歌262番「十字架のもとぞ いと安けき、神の義と愛の合えるところ(一緒になっている)」です。この神の義は、福音のもとに表れる(正義がそこに現れる)、或いは、悪を裁き罪をこらしめるということにとどまらず、神の義と愛が一緒になっている。つまり神の義がイエス・キリストに表れるということは、敵をも愛し、罪をも赦す。そういう愛、救いの力と同時に神の義が表れている。それがイエス・キリストに表れた神の義でしょう。 /nザアカイに見る神の義と神の愛  別の見方をすれば、イエス・キリストにおいて神の義と愛があらわれているということがザアカイに見た救いに具体化されている、といえないでしょうか。ザアカイの「四倍にして返す」というざんげ・・それはまさに、神の義が直接ザアカイの生活の中に反映しているともいえましょう。そして「財産の半分を施す」は、キリストの愛に基づく新しい生活への歩みを示しているといえましょう。神の裁き「正義」というものと、「神の愛」によってうながされた人間の在り方、というものがザアカイに反映しているといえます。「福音に神の義が表れる」ということはそういうことです。実際、「主イエス・キリストにおいて神の義が表れる」ということは大変重要な言葉であって、宗教改革はこの言葉から始まりました。ルターは詩編71篇の2節をロマ書1章17節のこの言葉を媒介にして理解し、それによって宗教改革へとうながされました。 /n「恵みの御業(みわざ)によって助け、逃れさせてください。」(詩篇71:2)  口語訳聖書はこの個所を「あなたの義をもって私を助け、私を救い出して下さい」と訳しています。つまり原語は、神の「義」とも「恵み」とも訳される言葉です。宗教改革は「神の義」がイエス・キリスト(福音)に表われる時に、罪人である私共を赦して義として下さる「神の愛」が表れる、と理解することから始まりました。それは神の愛、恵みの業が神の義とも訳されると同じように、聖書全体を通した神の救いの力を表現した言葉です。 /n「それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(17節後半)  17節前半は、イエス・キリストにおける事柄、後半は私共に対する主イエス・キリストに表れた福音との関係について語っています。「神の義は信仰を通して実現される」。ここに私共の立つ立場、イエス・キリストへの私共の対し方が出ていると思います。福音が主イエス・キリストである。主イエス・キリストに神の義が表れている。そのイエス・キリストに対する信頼、と理解することが出来ます。ザアカイはイエスキリストを信頼した。「ぜひ、あなたの家の客になりたい」と言ったイエス・キリストを受け入れた。「私はあなたを迎えるのにふさわしくない」という言葉は出ていません。「罪を赦してザアカイを受け入れ客となる」イエス・キリストを素直に受け入れた。信仰とは信頼です。17節後半は「初めから終わりまで信仰を通して、福音であるイエス・キリストは私共の中に受け入れられていく。それは主イエスに対する信頼に他ならない。」といえます。キリストにおいて明らかにされた神の義は悪や罪を裁くと同時に罪人への愛を示している。それが救いの力です。 /n「正しい者は信仰によって生きる」  「正しい者」とは主イエス・キリストを信頼することによって、救いの力を信頼することによって正しい者とされた者です。主イエス・キリストは私共に(丁度ザアカイの時のように)近づいてこられます。「二・三人集まる所には私もその中にいる」(マタイ18:19)といわれるように、御言葉を通して私達に迫ってくる主イエスです。そういう主イエスによって呼び起こされるのが主イエスに対する信頼です。信頼である信仰によって新しくされる。信頼によって私共は生涯を歩むことがゆるされている。そのことがハバクク書に「神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)と記されています。ここでは「正しい者は信仰によって生きる」と書いています。決して私達は初めから正しいわけではありません。誰一人、初めから正しい人はいないのです。キリストが近づくことによって、救いの力によって正しい者とされるのです。それはキリストに対する信頼によって生きることです。それを「神に従う人は信仰によって生きる」と書いているのです。   

説教要旨 「ああ、エルサレム、エルサレム」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 23章37-24章2節 37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。 39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。 2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 /nはじめに  今日の説教題を「ああ、エルサレム、エルサレム」と口語訳聖書から選びました。「ああ」というため息は、その根底に相手への「愛」があり、一生けん命に教えよう、伝えようと努力してきたけれども伝わっていかない、わかってくれないその口惜しさ、嘆き、悲しみが含まれています。 /nエルサレム  イエス様が呼びかけているのは、エルサレム神殿を中心として生活している「神の民として選ばれたイスラエル」の人達です。彼らの歴史は一口にいえば神様への不従順の歴史でした。預言者アモスは「主はこう言われる『ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに私は決してゆるさない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖も後を追った偽りの神によって惑わされたからだ。』」(2:4)。「善を求めよ、悪を求めるな。お前達が生きることができるために。」(5:14)正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。」(5:24)と神の教えに逆らって生きる人々に語りました。預言者イザヤは、イスラエルの国がエジプトの国に頼ろうとした時、「わざわいだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。・・・エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき助けを受けている者は倒れ、みな共に滅びる。」(31:1-2)と語りました。預言者ホセアは、「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。」(12:7)と呼びかけました。 /n偶像崇拝  イスラエルの人々は預言者を通してこうした神様の言葉を聞き、時に悔い改めることもありましたが、しかし再び神様から離れ、目に見える偶像へと走り、悪を行う繰り返しでした。預言者はその時代の人々からは決して歓迎されませんでした。神様が最も嫌われたのは偶像崇拝です。偶像崇拝は神でないものを神とすることです。「国々の偶像は金銀にすぎず人間の手で造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、のどがあっても声をだせない。偶像を造り、それにより頼む者は皆、偶像と同じようになる。」(詩篇115)。 私たちの国日本は、偶像の国といっていいほど、たくさんの偶像があります。私自身子供時代は水神町という水の神様を祭っていた町にすんでいましたし、小学校の修学旅行では鎌倉の大仏を見に行きました。中学校の修学旅行では平泉の中尊寺をみて、高校では京都の仏閣めぐりもしました。しかし詩篇にあるように、偶像は何にも言いません。偶像から自分の間違いを指摘されることはありません。結果的に自分が思うように行動する。つまり神に祈りながら、自分が神の立場に立ってしまい、自分が基準になっています。 /n何度集めようとしたことか  イエス様は、37節で、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前達は応じようとしなかった。」と過去のこれまでの不従順の歩みを嘆いています。めんどりがひなを集めるという表現は、親鳥がひなに食物を与え、安全なねぐらと、外敵から保護するという神様の守りをあらわす言葉であり、イザヤ書には「つばさを広げた鳥のように、万軍の主は、そのように、シオンの山とその丘の上に降ってたたかわれる。」とあります。このイエス様の「何度集めようとしたことか」という言葉の中に、イスラエルの長い歴史の中で、神様がイスラエルの民を愛し預言者を送り神様の言葉を語り続けてきたこと、そして今、最後に、預言者ではなく、神の御子イエス様を遣わされて、こうしてあなたがたに神様からのメッセージを伝え続けてきたけれど、あなたがたは、私をそして私の父・神をかたくなに拒み続けた、という悲痛な思いが伝わってきます。 /nその結果・・  その結果、彼らは38節で裁きが宣告されます。「見よ、お前達の家は見捨てられて荒れ果てる」と。ここに、ユダヤ教の歴史的な使命が終わったことが宣言されているのです。  24章の一節には、神殿の境内を出ていく時弟子達が神殿の建物を指差したとあります。他の福音書では弟子の一人が、「先生、ご覧下さい。何とすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう。」と感嘆の声をあげていることが記されています。このエルサレム神殿は、ヘロデ大王が建てたものですが、それまでの規模の二倍のものを作ろうと、紀元前20年に着工されたものでした。神殿の境内の外側には、南北450m東西300mの回廊がめぐらせてあり、神殿は、長さ12m,高さ4m,幅6mの堅い白亜の大理石で作られ、前の部分は金でおおわれ、朝日が昇ると、さんぜんと輝く神殿を、巡礼者たちは大きな感動で仰ぎ見たそうです。神殿の中には、トーラーと呼ばれる律法が置かれ、そこは神とイスラエルの民との契約が証されている場所でもありました。人々は、エルサレムの都は、神の永遠の契約の保護のもとにあることを信じて疑いませんでした。けれども、神殿の完成が紀元64年と、じつに84年の歳月をかけて完成したエルサレム神殿は、そのわずか6年後にイエス様の予告通り滅ぼされるのです(紀元70年にローマによって)。同じ節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると」とあります。この「出ていく」という聖句は、イエス様が神殿からいなくなった後、神殿は空虚な場所となってしまった、ということを伝える象徴的な言葉として読まれています。どんなに人々が集まろうと、どんなに祈りがささげられようと、ファリサイ派や律法学者たちの権威のもとで教えられるユダヤ教は、預言者たちを殺し、神の御子イエス・キリストを拒み、決して信じようとしないかたくなさと共に、律法の内実をないがしろにして、見える部分だけを美しく飾ろうとする偽善の宗教へと堕落し、ついに神不在の神殿宗教となりました。 /n今や、キリスト教徒が「神の民」を継承  イエス様を信じる時、神様の臨在がそこにあります。神の声は直接聞こえなくても、神の言葉である聖書が私たちの道しるべです。聖書の言葉を私達が豊かに蓄えれば蓄えるほど、必要に応じて、聖霊の働きと共に、その御言葉が神様の言葉として聞こえてきます。この経験を繰り返すことで、神様が近くにおられることを知ることができます。神様が私達と共におられることを知るならば、祈りも又、いつでもどんな時でもたやすく口から出てくるでしょう。多くの日本人が、一年に一度だけ初詣にいって祈るのとは対照的に、私達は毎日何回でも自由に祈ります。朝に一日を恵みの中で過ごせるように祈り、日中は助けが必要な度に祈り、夕べには一日が守られた感謝の祈りをささげます。助けを必要とするとき、(たとえば、自分の怒りを鎮めてください、ショックから立ち上がらせて下さい。やさしい気持ちを与えて下さい、意欲を増し加えて下さい。誤解がとけるように、気持ちが通じるように、など)神様を仰ぎ見て祈ります。  私達は、イエス様の悲痛な嘆きと愛を今日の聖書から知ることが出来ました。今一度、私達の生きる生き方を真剣に問い直し、イエス様がその生涯を通して教えてくださった神様を信じて生きる道を、これからも喜びをもって学びつつ歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「偽善者は不幸だ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 23章13-36節 13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 14 *学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。 15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。 18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。 20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。 21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。 22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。 23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。 25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。 27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。 29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。 30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。 31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。 33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。 34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。 35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。 36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」 /nはじめに  今日の聖書は、山上の説教とは全く対照的にイエス様の言葉とは思えないほど激しく、そして厳しい言葉が続いています。口語訳聖書では「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」と訳されています。ある人は、この「わざわい」という言葉は、雷のようなきびしさをもって圧倒し、電光のような明るさをもって容赦なく露出する。これは打ちのめすと同時に、隠れたものを明るみに出すと書いています。この災いというギリシャ語には、怒りと悲しみが含まれているといいます。 /n偽善者  イエス様は律法学者とファリサイ派の人々を「偽善者」と呼びました。この言葉はギリシャ古典劇の主演俳優から、やがて役者をあらわすようになり、演技をする者-仮面をかぶる者-みせかけ-偽善-となりました。イエス様が彼らを偽善者と呼んだのは、神様を観客席において仮面芝居を演じているという意味です。 /n偽善の中身  第一には、天の国について語りながら、自分も入らず入ろうとする人をも入らせない。第二には、異教徒をユダヤ教徒にしようと一生懸命だが、彼らがユダヤ教に改宗すると自分より悪い地獄の子にしてしまう。第三には、「責任回避・言い逃れ」の論理。第四には、収入、収穫の十分の一の献げものについての律法を守ることには細心の注意をはらいながら、他方、律法の教える最も重要な正義や慈悲、誠実については気にとめない。第五には、儀式的なきよめの規定に基づいて、器の外側をきれいにするように主張するが、彼ら自身は、見える外側と見えない内側が全く相反していること、第六も、彼らの矛盾点(白く塗られた墓のように、外部の美しさと内部の汚れを合わせ持っている点。そして最後の指摘は、彼らの過去と現在を問題にします。彼らは、殺害された預言者達をいかに尊敬しているかを示す為に、墓を建てたり記念碑を作ったり飾りたてたりしました。そして自分達がその時代に生きていたら、殺す側にはつかなかっただろうと言いました。イエス様は、それらの行為は彼らが殺人者の子孫であることを告白しているだけでなく、現在もキリスト教会が送りだしている預言者を迫害して殺している、と断罪します。 /n「へびよ、まむしの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」(33節)  イエス様は当時の宗教的リーダーであり、権威をもっていた律法学者とファリサイ派に対する悔い改めへの希望を放棄されました。もはや、彼らに忠告することは出来ず、彼らは裁きを逃れることはできません。イスラエルの歴史においては正しい人の血が流されてきました。その血痕が今も消えていないとイエス様は語ります(35節のアベルについては創世記4章・ゼカルヤについては歴代誌下24章を参照)。彼らの歴史は最初から最後まで神の人を排斥し殺害した歴史といえるでしょう。イエス様はご自分がやがて殺され、さらにその後も弟子達が迫害され、殺されるのを知っておられました。神様がイスラエルの民を選ばれたのに、その民が神様に逆らい、それ故、その血の報復がここで預言されているのです。 /nわたしたちの進む道  聖書は美しい言葉で綴られている文学ではありません。時には目をそむけたくなるような人間の罪が暴露され裁きが述べられます。聖書の光によって自分の罪が照らし出された時、私達にもファリサイ派と同じような偽善性があるという事実を厳粛に認めざるを得ません。その時、悔い改めてイエス様を信じる道へと方向転換(又は軌道修正)し、イエス様に従っていくことができる者は幸いです。それは天の国へつながる道を歩くことになり、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を与えられる道でもあります。「私は道であり、真理であり命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章)「イエス・キリスト以外のほかの誰によっても、救いは得られない。」(使徒4章)。  ここにおられるすべての方が、信じる者の道へと歩みだされることを願い、内側と、外側の二重の基準で自己矛盾を抱えるのでなく、聖霊の助けをいただきながら、いつも神様の前で生きることができるように祈りつつ、今週も歩みたいと願うものです。

説教要旨 「高ぶる者は低くされる」 牧師 佐藤義子

/n[サムエル記上] 2章1-10節 1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。 2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。 3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。 4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。 5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。 6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。 7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。 8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。 9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。 10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」 /n[マタイによる福音書] 23章1-12節 1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 /nはじめに  本日の聖書は、イエス様が群衆と弟子達に対して、律法学者達やファリサイ派の人々を見倣ってはならないことを教えられている個所です。私達はファリサイ派や律法学者と聞くと、彼らはイエス様を十字架へ追いやっていくイエス様に敵対した人々と考えて、自分とは関係のない人々と思いがちです。けれどもイエス様が彼らのどのようなところを断罪されたのかに注目し、それは自分にもあてはまると認めることができるならば、聖書の学びは私達に大きな意味をもってくるに違いありません。実際、キリスト教会においても、ファリサイ派(ユダヤ教徒)に匹敵するほどの危険な人達が現れて、マタイ福音書の著者は彼ら達に警告を発しなければならなかった、と考えられているからです。 /n「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」  イエス様は、律法学者やファリサイ派の言うことは行うように教えます。なぜなら彼らの教える律法は、神様がモーセを通して与えたものであるからです。律法とはモーセの十戒を中心とした教えです。イエス様は「私が来たのは律法を廃止する為ではなく完成する為である」(マタイ5:17)といわれ、さらに「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(同18)ともいわれました。律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することです。 /n「しかし、彼らの行いは、見倣(みなら)ってはならない。」  イエス様は彼らの行動を見倣うことを禁じます。なぜなら彼らは言行不一致であるからです。たとえば十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:8)とあります。律法学者やファリサイ派は、この戒めを厳格に守らせる為に、どこまでを「仕事」と規定するかを研究し、荷物を持って運ぶ場合は何キロまで、移動する場合は何メートルまで、・・というふうに、次第に細かい規定を作り上げ、エスカレートしていくことで、律法の重荷を重くしていきました。 /n「彼らは背負いきれない重荷を人の肩に載せる」  彼らは、すべき規則248、禁止条項365、計613もの細則を人々に強いたと伝えられています。初めから律法を守る意志のない人達は、罪人として社会から疎外されたようですが、律法を守ることが天国への道だと教えられている人々にとっては実行不可能な規則も多く、それが人々の日常生活の重荷になっていた現実がありました。 /n「そのすることは、すべて人に見せるため」  彼らは、人には律法遵守(じゅんしゅ)を要求しながら、自分は重荷を背負うことも、他の人の重荷を助けようともせず、何よりもイエス様が断罪されたのは律法を行う動機が人に見せる為であったことです。 /n生れながらの人間  聖書学者バークレーは、もし宗教が規則や規定を守ることだけを要求するなら、自分がそれをどんなによく守っているか、自分はどんなに敬虔な人間であるかを人前に示そうとする人物が必ず現れるといいました。目立ちたい、ほめられたい、認められたい、尊敬されたいという願いが強ければ強いほど、人の目を意識する誘惑に陥ります。生れながらの人間は、自分を自分以上に評価したい、されたいとの願いを持っています。その思いが「行動の基準を、外面に出る部分に置く」のです。本来、律法を守る事は神様に向かう人間の信仰から生まれる行為です。にもかかわらず、律法を守る行為が自己目的へと変わり、人々の賞賛が自分に集まることを期待するという逆転が起こるのです。 /n逆転の行動  当時人々は律法に従い、羊皮紙に書かれた4つの聖句(出エジプト記13:1-10,11-16、申命記6:4-9、11:13-21)の入った小箱をひもで結び、祈る時にひたいと左の腕につけ、又、肩掛けのようなものに青いひもでふさをつけて祈りました。イエス様は「(彼らは)小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」と、その目が人に向けられていることを指摘しました。このように、イエス様は私達の中にひそむ偽善的な部分に光をあてます。神のみを父としイエス様だけを教師として(9-10節)、へりくだりを教えて下さるイエス様に、今週も従うものになりたいと願います。