「救い主降誕の出来事」  伝道師 平賀真理子

イザヤ書12章1-6節 ルカによる福音書2章8-21節 「救い主降誕の出来事」  伝道師 平賀真理子 /nはじめに  今日は、羊飼い達に焦点を当てて、御言葉を読んでいきたいと思います。なぜなら、彼らこそ最初に救い主を礼拝するという栄誉に与(あずか)ったからです。 羊飼いは、当時のイスラエル社会の中では、蔑まれた階層の人々でした。ユダヤ教徒が大事にしている「安息日に礼拝する」ことや、「律法を学び覚える」ことは、職業上困難でした。それで当時、彼らは「不信仰な人々」「罪人に近い存在」とされ、低い立場に甘んじざるを得なかったのです。 /n天使 2000年前、救い主ご降誕のその日、その地方にいた羊飼い達は、いつも通り夜の暗闇の中を、羊を守る為に見張っていました。真っ暗な、厳しい状況の中で、星だけが頼りです。 3月11日の東日本大震災の時、停電のため、一帯の電気が消えて暗闇が広がりました。あの夜、野宿のような形で夜を過ごした人達から、電気の消えた暗闇の恐ろしさ・寒さと、星の美しさをよく覚えていると聞きます。   暗闇の中で仕事をしていた羊飼いたちの所に、突然、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたことに彼らは圧倒されます。そこに現れた天使は、神様からの喜びの知らせである、「救い主ご降誕」を伝える役目を帯びています。羊飼いたちは、光り輝くその眩しさに圧倒されます。 /n救い主(メシア)のしるし     苦しんでいるイスラエルの民に、神様が約束された「救い主」が生まれた、しかも羊飼い達のいる同じ地方で!その待ち焦がれたニュース!その上に天の軍勢として天使達が大勢現れ、讃美を捧げるのです。その出来事、羊飼い達が見聞きした出来事は、彼らが神様の救いの証人に選ばれたことを意味しています。 彼らは、現場・ベツレヘムへ行って、その出来事を見ることを志し、行動を開始します。羊飼い達がいたであろう草地や山から、宿屋のある街まで、暗闇の中、探し当てるにはかなりの困難があったでしょう。 /nメシアのしるし 「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」。これが救い主としての「しるし」です。羊飼い達は、そういう新生児を探しあてました。 神様の人間に対する救いの出来事が、主の天使によって知らされた通り行われたことを、羊飼い達は、確かに人々に伝え、神様を崇め、賛美しながら、自分の場所に帰って行きました(20節)。 ユダヤ教の指導者達が語り継いできた「救い主ご降誕」を、虐げられてきた羊飼い達が直接体験するという誉れある立場に高められたことこそ、神様の業の素晴しさの一つ、とも言えるでしょう。 /n大きな喜び 自分の置かれた状況を儚(はかな)んで自分の人生の意味を知りたいともがく苦闘、自分を取り巻く人間関係において信頼を築けずに消えてしまいたいと思う衝動、いつまで厳しい状況に耐えればいいのか不安という暗闇、多くの人が神様を信じることなく、絶望の中を生きています。  しかし、暗闇や過酷な状況に耐えながらも、神様を信じる信仰を失わず、神様からくる御言葉や光を素直に信じる者の、信仰に基づく行動は、その人を真実へと導きます。羊飼いが、天使の言葉を頼りに、救い主を探し求めた姿を私達に置き換えれば、神様の御言葉(聖書)を学んで、神様を祈り求めていく姿なのかもしれません。そして(神様の恵みと導きのもとで)探し当てた喜びは非常に大きくて、抑えきれずに、周りに伝えるほどになるのです。羊飼い達が人知ではあり得ない「しるし」を受け入れてイエス様に導かれた時の、あの大きな喜びと同じ喜びです。

「世界の王への礼拝」  牧師 佐藤義子

ミカ書 5章1節 マタイによる福音書 2章1-15節 /nはじめに 今日読んでいただいた新約聖書は、東方の学者達の来訪の出来事について記されている箇所です。私達が驚かされるのは、救い主がお生まれになったというこのニュースを、ユダヤ人ではなく外国人が最初に受け取ったことです。ユダヤで救い主(キリスト)が生まれることは、旧約聖書で預言されており、今朝読んだミカ書も、その一つです。 どれほど多くのイスラエルの人達が、どれほど長い間、救い主を待ち望みながら、その思いを果たせぬまま、地上を去っていったことでしょう。そして、今、ようやく神様の約束が成就するという大事な時に、イスラエルの人々は、異邦人からこのニュースを聞かされることになりました。 彼らは、星に導かれて、東の方から来た占星術の学者達でありました。 /nひとつの星   民数記に「ひとつの星がヤコブから進み出る。」(24:17)とあります。ヤコブとはイスラエル民族のことであり、ここでは「メシア」が星と表現されています。占星術の学者達が、この「星」のことを聞いており、惑星の運動の法則によって、木星と金星(あるいは木星と土星)が出会い、重なる年があることをつきとめたのではないかと考える説があります。ヘロデ王は、突然、外国からの旅人から「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられるか」と問われて、あわてて聖書を調べさせ、メシア誕生の地がベツレヘムであることを知ります。それを聞き、学者達はイエス様の誕生の場に立ち会うことが出来ました。   /n不安 不安に感じたのは、ヘロデ王だけでなく、エルサレムの人々も同様であったと聖書は伝えます。本来なら、待ちに待った救い主誕生の喜びのニュースでしたが、「選民ユダヤ人」というエリート意識から来る傲慢さが、異邦人の言葉を素直に聞くことを拒み、世界の王であるキリスト誕生に際して、礼拝の祝福にあずかれなかったのかもしれません。 /n救い主誕生   メシア誕生の場所は、この地上における最も貧しい場所でした。しかし見えるところがどんなに貧しくても、又、一切の華々しさがなくて人目には隠されていても、神様の働きはすべてご計画どおりに進められていきました。学者達をそれまで導いてきた星が、イエス様の誕生の場所で止まった時、彼らは「喜びにあふれ」ました。この「喜び」こそ、救い主が私達の為にお生まれになった、という「喜び」であり、信じる者すべてに与えられる喜びです。神様は、学者達にヘロデの所に戻らないよう命じると共に、ヨセフを通して幼子イエス様とマリアをエジプトに導いたのでありました。 私達は、見える世界だけでなく、目に見えない神様のご計画のもとに、神様を信じて生きて行く道が与えられています。

          「救い主降誕への備え」  伝道師 平賀真理

イザヤ書9章1-6節 ルカによる福音書2章1-7            /nはじめに 今日の聖書の箇所では、私達の主、イエス様が、この世に人間として来てくださった次第が、具体的に述べられています。 一節に、皇帝アウグストゥスから勅令が出たとありますが、このアウグストゥスこそ、ローマ帝国で初めて「皇帝」つまり「王」になった人物でもあります。彼はジュリアス・シーザーの養子であり、その功績と栄光を引き継ぎ、帝国を発展させました。それでローマ市民に英雄視され、敬意をもってつけられた称号に「神の子」とか「救い主」がありました。 天から、本物の「神の子」「救い主」であるイエス様を送り出す直前に、人間界の中では、「神の子」「救い主」と呼ばれる人物が立てられたのです。人間が定めた王アウグストゥスは、軍隊という武力で人々を支配しました。一方、天からの王、イエス様は、神様からの御言葉をもって、人々の心を支え、現在に至っています。 /n住民登録 帝国の支配下にあった属州の民は、皇帝の一声(勅令)で、故郷に戻り住民登録をしなければならず、それは、先祖の町から遠く離れている人々にとっては、肉体的、経済的に大きな負担でした。更に、盗賊などの生命の危険も伴います。その人々の中に、神の御子イエス様の両親という役目を担ったヨセフとマリアがいました。神様はこの二人を弱い立場のまま、むしろそのことも用いて、本当の神の救いが何かを示そうとされました。  ガリラヤのナザレの町に住んでいたヨセフは、住民登録の勅令が出なければ、遠いベツレヘムへ行くことはなかったでしょう。「救い主は、ダビデの子孫から、ダビデの町ベツレヘムで生まれる」という預言は、サムエル記下(7:12)をはじめ、イザヤ書、詩編、ゼカリヤ書などにあります。神様は、ご自分の御計画を予め預言者に託され、「救い主ご降誕」の預言を成就される為に、人間の働きを用いられたのです。 /n本物の救い主誕生  ヨセフと身重のマリアにとって、故郷への旅は苛酷でした。頼る人も、物も部屋も情報もない困難の中で、二人は大変な役割を、信仰(神様への信頼)ゆえに、乗り切ったのでしょう。本来なら盛大にお祝いされるべき本物の「神の子・救い主イエス様のご降誕」は、謙虚さを愛される父なる神様の性質に倣って、この世で最も謙虚な様子となりました。 ローマ帝国の、「この世の救い主」が贅沢に過ごしていた、まさにその時、神様から遣わされた本物の「救い主・イエス様」は、帝国属州の、片隅の家畜小屋で、貧しく低くされた中で、お生まれになりました。 /n人類の罪からの救いの完成 このようにお生まれになったイエス様の、その後の歩みを思います。神様は、イエス様を、やがては十字架につけて、死なせるという過酷な定めにされました。しかしそれで終わらず、神の子イエス様の「復活」によって、「人類の罪からの救い」を完成させられました。その御業の第一歩として、「救い主・イエス様ご降誕」を、神様が、まず準備して下さいました。次に、多くの人々を、その「罪からの救い」に今なお招き、私達の心に呼び掛け、働きかけてくださっています。  「神、我らと共にいます(インマヌエル)」の称号を持つイエス様は、そのために、人間となられ、私達と共に歩んでくださっています。信じる者には、その恵みが惜しみなく与えられています。私達は、そのことを既に知らされています。そのことを感謝して受け、イエス様に繋がって、その思いを周りにいる方々に伝えていきたいと願っています。

 「ヨハネの誕生」  牧師 佐藤 義子

イザヤ書40章3-5節 ルカによる福音書 1章5-25節、57-66節 /nはじめに 待降節に入り、2本目のローソクに火がともりました。 今日でこの伝道所で礼拝を始めて九周年を迎えました。九年間の、神様の溢れる恵みを感謝すると同時に、今なお私のような者が牧師として立てられていること、神様が真理子先生を伝道師として与えて下さっていること、九人の会員が与えられていること、そしてこのクリスマスにお二人の方がバプテスマを受けられ、私達の群に加えられるという喜びが与えられていること等、これらの大きな恵みに只、只、神様に感謝をささげるものです。 願わくは、今日で471回目の礼拝をささげる仙台南伝道所が、やがて1000回、2000回目の礼拝へとつなげられ、この地域にあって しっかりと根を張り、神様の御栄光を表わしていく教会へと成長させていただけるように、共に祈っていきたいと思います。 /n捕囚からの解放 本日の旧約聖書イザヤ書は、バビロンに捕囚の民として捕らわれていたイスラエルの民に解放の予告が宣べられている箇所です。「呼びかける声」(3節)は、「主の為に(私達の神の為に)、荒れ野に道を備えよ、荒れ地に広い道を通せ」と呼びかけます。道路整備の目的は、エルサレムに帰ってくる捕囚イスラエルの民の為ではなく、神様の救いの活動がスムーズに 行われる為です。「道なきところに道を作り、でこぼこの道を平らにする」とは、イスラエルの民が、長い間の異国での捕囚生活で、不信仰、不従順、偶像崇拝などの罪を、神様の前に悔い改めて、それらを全て取り除き、「神の民としてふさわしい礼拝者となる」ことを意味します。  この時の、荒れ野に叫ぶ声が、それから約500年後、再び、荒れ野でひびき渡ることになります。それは、神様の独り子が救い主として地上に遣わされるという、神様の壮大な救いの御計画が、いよいよ実現する時を迎えたからです。それに先立って、人々の心がメシア(救い主)をお迎えするにふさわしくなる為に、その準備する者として選ばれたのが、祭司ザカリヤと妻エリサベトの夫婦によって生まれ出る子供でした。 /n誕生の予告  ザカリヤとエリサベトは「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(6節)夫婦でした。ただ二人は子供に恵まれないまま年を重ねておりました。この年、祭司ザカリヤが聖所で香をたいていた時、突然、香壇の右に立った天使から、夫婦に男の子が与えられること、生まれ出る子には「ヨハネ(神は恵み深くありたもうの意)」と名付けるように、と言われます。そして生まれ出る子は、この世から分けられ、ただ神にのみ仕える者となり、その誕生の始まりから聖霊に満たされており、父と子供達の関係の回復、及び、神に逆らう者を、「神に立ち帰らせる」使命が与えられていると伝えます。 ザカリアは天使の言葉を信じることが出来ず、その「しるし」を求めたために、この予告が実現する迄「おし」になります。そしてすべてが天使の言った通りとなった時(二人が幼子に「ヨハネ」と名付けた時)、ザカリアの口はゆるみ、讃美と預言の言葉を語り出しました。 /nヨハネのメッセージ 成長したヨハネは、荒れ野に呼ばわる声として、不信仰、不従順の人々に、神のもとに立ち帰るように悔い改めを迫り、人々が救い主を受け入れる為の心の準備をさせて、最後はヘロデ王によって殺されました。 私達はこの待降節の時、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と語った洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾け、遅い信仰の成長を悔い改め、イエス様をお迎えするにふさわしい過ごし方をしたいと願うものです。

「神の救いを仰ぐ」  牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]52章4-10節 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。 (7節)いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。  その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。  歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。 /n[ヨハネによる福音書] 5章24節 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。            /nはじめに 本日から待降節(アドヴェント)に入りました。教会の暦では、待降節から一年が始まります。(教会暦:待降節-降誕節-受難節-復活節-聖霊降臨節)。待降は、主のご降誕を待ち望むという意味がありますが、アドヴェントは「来臨」という意味がありますので、待降節はイエス様が人として生まれられたご降誕の日を迎える心の準備をすると共に、再臨(終末に再びイエス様が来られる)への準備の時ともなっています。 今日は、全世界の教会で、4本あるローソクの1本に火がともりました。クリスマスまでの四週間、アドヴェントにふさわしい過ごしかたをしていきたいと願っています。 /nイエス様をお迎えする準備 私達は、四週間後に我が家にイエス様がおいでになると知らされたら、どうするでしょうか。部屋の大掃除のこと、おもてなしのこと、友人知人達への案内状や、イエス様にお会いしたら、ぜひお聞きしたいこと・・など、イエス様が来られると考えただけで、頭の中はくるくると廻り始め、落ち着かない日々が始まるのではないでしょうか。 しかし、ルカ福音書10章に記されているマルタとマリアの話の中で、イエス様をもてなす為にせわしく働いていたマルタに、イエス様は次のように言われました。「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」 アドヴェントがイエス様のご降誕および再臨の、心の準備をする時であることを思う時、この四週間、思い悩む事柄を一つ一つ神様にお委ねし、心の中にある捨てるべきものを捨てて、マリアのように私達の心をイエス様に明け渡し、静かに御言葉を聞く心の備えをしたいと願うものです。   /n回復の預言 本日の旧約聖書、イザヤ書52章は、捕囚の民であったイスラエルの民を、神様が本来の姿に戻すという回復の預言です。イスラエルの民は、再び「神の民」として、異国バビロンからエルサレムに帰還し、エルサレムの神殿において、神様を礼拝する日を迎えるという預言です。 エルサレムに、神様が「王」として帰って来るというその「良い知らせ」を伝える預言者の足は何と美しいことか、と7節から始まる喜びの知らせは、見張り(エルサレムの城壁から辺りの警護に勤める者)たちの歓声を呼び起こし、さらに、この見張りの歓声は、エルサレムの人々の喜び歌う姿へと連鎖していきます。8節では、捕囚民が解放されて、エルサレム神殿の礼拝の時に用いるさまざまな祭具を担って、バビロンからエルサレムに戻って来るのを目の当たりにすると預言します。このことは、神様が、捕囚の民を慰め、贖われた証しであって、これはエルサレムだけの喜びに終ることなく、今や、世界の国々、地の果てまでも、全ての人が、神様の救いを仰ぎ見るという力強い預言です。 この捕囚民のエルサレム帰還は、数年後に実現しました。さらにすべての人が神さまの救いを仰ぎ見るとの預言も、二千年前に実現しました。   /n信じる者   今日の新約聖書でイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている</span>。」と言われます。 旧約聖書のメシア(救い主)誕生の預言は成就しました。聖書を通して語られる神の御子イエス・キリストの言葉を信じ、御子を遣わされた父なる神様を信じる者は、その信仰を通して、死ぬべきものから命へと移され、永遠の命を与えられます。

「希望は私たちを欺くことがない」 佐々木哲夫先生 (東北学院大学

/n[詩編] 62編1-13節 【指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。】わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。〔セラわたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。 /n[ローマの信徒への手紙]5章1-5節 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 /nはじめに 最近は、「希望」と言う言葉を聞くことが多くなりました。今般の国会で、野田首相が所信表明演説の締めくくりを、「国民が希望を持つような政治をしようではありませんか」との言葉で閉じていました。 私達が「希望」という言葉を聞きますと、ギリシャ神話の「パンドラの箱」を連想します。パンドラが黄金の箱を開くと、そこから出て来たものは病気、盗み、妬み、憎しみ、悪だくみ・・など、世のあらゆる悪がそこから出てきました。慌ててその箱を閉めようとした時に、最後にその箱から出てきたのが「希望」でした。もしこの箱が万が一、開けられた時の為に、箱の底に、プロメテウスがしのばせて置いたものでした。 どんなにひどいことが起きても、希望を持って生きていく為に置いたものでした。 今日よりも明日は必ず良くなる、こうなりたい、ああしたい、将来に実現を期待する、願う。それが私達の知っている希望です。 /n聖書に登場する「希望」 他方、本日読んでいただいた新約聖書には「希望」という文字が三か所記されております。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の栄光にあずかる希望</span>」(2節)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">練達は希望を生む</span>」(4節)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">希望は私たちを欺くことがありません</span>」(5節)です。 ここに記されている「希望」は、私達が承知している希望と同じものなのでしょうか。異なるとすると、どのように異なっているのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。 本日の聖書は、説教でしばしば引用される個所でもあります。 特に有名なのは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む</span>」という言葉です(4節-5節)。 /n苦難 最初の「苦難」は、私達がこの世で出会う様々な問題・・・衣食住のこと、健康のこと、年齢を重ねることによる不自由、仕事のさまざまな問題、生きていく上で解決しなければならない様々な問題を「苦難」と言い表しております。「苦難」という表現の時は勿論、苦痛が伴います。他の箇所では「迫害」とも訳されており、決して解決がそう簡単なものではない、楽ではない、そういう問題のことです。この解決しなければならない問題に直面する時に、逃げることなく、しっかりとその苦難を引き受ける。その為には「忍耐」が必要とされてきます。 /n忍耐 パウロは手紙の中で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">大いなる忍耐を持って、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって</span>」その忍耐を貫き通したと記しています(2コリント6:4-7参照)。それゆえ、この苦難を引き受ける時に「忍耐する」というのは、決して受け身の姿勢を意味しているのではなくて、むしろ、問題解決の為に自分は何が出来るのか、という対応策を模索する積極的な姿勢を意味して「忍耐」といっているわけです。 しかしてそれは、「練達を生む」と聖書は記すのです。 /n練達 「練達」という言葉は、「練られた品性」など、さまざまに訳されている言葉で、直訳するなら「テストに合格している」ということです。 すなわち「苦難と忍耐」というテスト、そのテストに合格の判定を得た心、しかも強い心で、柔和で純真な心、まるで火の中を何度もくぐりぬけた鍛錬された名刀のようなもの。「苦難」を、忍耐を持って引き受けると、それは人を磨き上げていく。それを聖書は「テストに合格したような確かな人間性を備えたものとなる」という。その「練達」がまさに「希望を生む」というのです。 /n希望 この「希望」は、「神の栄光にあずかる希望」(2節)、「私たちを欺くことのない希望」(5節)、両方合わせて「神の素晴らしさに自らも参与したいと願う希望。それは私達を決して裏切らない」というものでありましょう。 /n欺くことがない 「欺くことがない」という言葉も、直訳するなら「私達に恥をかかせない」という意味です。砂漠の旅人が見る「しんきろうのオアシス」のように、近づくと消えてしまう、裏切られて終りになるような希望・・ではない希望です。この希望は、パンドラの箱から出てきた希望とどのような違いがあるのでしょうか。少なくとも希望には二つの種類があるようです。 /n二つの種類  ところでヴィクトール・フランクルも又、「希望」について、興味深い示唆を与えてくれています。彼は106年前、1905年にウィーンに生れて、フロイドやアドラーに師事した精神科のお医者さんでした。結婚して二人の子供に恵まれて、ウィーンで平和な生活を続けていたのですが、第二次世界大戦の、ドイツ軍のヒトラーのオーストリア併合によって、その生活は破壊されていきます。彼の一家全員と両親は逮捕されて、アウシュビッツの収容所に送られました。逮捕の理由は、彼らが「ユダヤ人であった」ということだけです。やがて奥さんと子供達と両親は、ガス室や飢えの為に亡くなってしまいます。彼だけが奇跡的に助け出されて、戦後、収容所での体験をもとに、さまざまな著述を著し、有名な「夜と霧」を著したのです。その書物の中に「希望」についてのエピソードが記されています。  1944年の暮から1945年の新年の間に、アウシュビッツの収容所で、大勢の死者が集中的に出た。原因は、クリスマスには自分達は解放されて家に帰れるという素朴なうわさが皆に拡がり、その希望に身を委ねた。苛酷な労働に従事し、食べ物も少なく栄養失調になり、狭い、健康的でない収容所で、伝染病もある場所で生きてきた彼らが、希望が失望に変わった時に落胆し、大勢の人が体調を崩して亡くなってしまった。  希望が失われた時に人は生きる気力を失い、病原菌に対する力をも失ってしまった・・彼はお医者さんなので、そのような解説を加えていました。そのような体験をした後に、フランクルは収容所から解放され、ウィーンの市民大学で三つの連続講演を行いました。その中で「希望」というもの、「心の支え」というものには、二つの種類があることを語っています。 /n将来と永遠  一つの種類は、「将来に支えを置く」場合、もう一つは、「永遠に支えを置く」場合の、二つがあるというのです。特に後者の、「永遠」に支えを置く希望は、将来いつの日か解放されて外の世界で自由な生活を送る、ということを支えにする必要がなかったので、無理な要求を将来に背負わせることがない。むしろ逆に、気持を毎日しっかり持てたというのです。非常に逆説的な出来事ですが、収容所生活の中で、一番気分がふさぐのは、「いつこの生活が終るのか」、「いつまで続くのか」、その期日が分からなかった、というのが収容所仲間の一致した証言でありました。  フランクルは収容所での生活を通し、今を生きる、今を苦悩する、と、いうことにも意味があり、又、困難に対してどのような態度をとるのか、そのような時に、その人が持っている本来的なものが表れるということを体験した。 「生きるか・死ぬか」という極限状況に置かれた時に、「永遠」に希望を置く人と、「将来」に希望を置く人とでは違った生き方が表れたというのです。 いうならば、「永遠」に支えを置く希望はむしろ、「今を生きる力」となった。困難に忍耐する力を与え、練達した人間性を育んだというのです。 フランクルのこの証言は、まことに逆説的な響きをもつものです。「永遠」に根ざした希望は、人を高貴にし、今を生きることに確かな実を与えてくれるというのです。   /n神の栄光にあずかる希望 翻って、本日の聖書を見ますと「<span class="deco" style="font-weight:bold;">苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む</span>」と語りかけてきます。その「希望」というのは、神の栄光にあずかる希望であり、私たちに恥をかかせることのない希望なのです。これはまさに「永遠を支えとする希望」のことです。  私達は二つの希望を知っている者であると言えます。 私達は「将来を支えとする希望」と「永遠に支えを置く希望」を知っている者です。 特に、「永遠を支えとする希望」は、「将来」の為にではなくて「今」の為に生きる。今に生きる「今」という時を見つめます。いうなれば、今を精いっぱい生きることで、生きる意義を見出し得る希望であるということがいえます。 今を生きる。その今の連続の先に将来があり、将来は、生きる「目標」でもありますが、「結果」でもある。今を精いっぱい生きることによってこそ、将来の結果が与えられる。そのような生き方を確証してくれる、保証してくれる。それが神の栄光にあずかる希望です。 神の栄光にあずかる希望は、永遠的な広がりを持つと同時に、現実的な手段をも私達に与えてくれます。人生から何が与えられるのだろうかと将来に期待して生きるのではなくて、むしろ、自分は今、何をなすべきかと考える。「今」を一生懸命生きる原動力となる希望、しかもそれは私達を欺かない、恥をかかさない希望である。 収穫感謝の喜びの中で、私達はこの二つの希望をもって前進していきたいと願うものであります。

  「救いの時、信仰の実」     伝道師 平賀真理子

/n[ミカ書]7章1-2節 悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。 主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。 /n[マルコによる福音書]11章12-25節 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 /nはじめに 私たち人間は、自分の無力さを知った時、無条件に「そこから救われたい!」と思います。魂は、神様が造られた本来の平安な世界を知っているのかもしれません。人は困った時にのみ神様を思い出し、「救って下さい」と祈ります。神様は、そんな罪深い人間を救う為に、まずイスラエル民族を選び出し、常に「救いの手」を差し伸べてこられました。それがこの厚い旧約聖書に証しされています。ところがイスラエル民族は神様に対して不従順を繰り返してきました。それでも神様は人間を愛するがゆえに、全人類を罪から救う為、御子イエス様をこの世に送って下さいました。イエス様の宣教活動中に、イエス様への信仰を表した人々は救われました。 /n最後の一週間 イエス様のご生涯の最後の一週間は、神様の「救いの時」の恵みが豊かに示されています。今日の聖書は、二日目と三日目の早朝の出来事です。イエス様一行は、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実を求めて近寄りましたが葉の他、何もありませんでした(季節ではなかった)。「いちじく」は聖書の中で度々取り上げられます。特にホセア書では、神様がイスラエル民族を、ご自分の民として見出した喜びを「いちじくの・・初なりのように見た」(口語訳9:10)と表現されています。他の民族に先駆けて、イスラエル民族を一番に愛されたことを言われたのでしょう。いちじくは年二回実を結びます。早春に緑色のこぶがつき(初なりの実)、それが成熟しつつある間に第二のつぼみが出て、秋口においしい果実がなるそうです。神様は、「いちじくの初なりの実」を、選民イスラエルに求められたのです。 /nイエス様といちじく イエス様もイスラエル民族に、「初なりの実」を期待されたのでしょう。「空腹を覚えられた」は「切望した」の意味があります。選民イスラエルに、「イエス様をメシアと信じる信仰の実」を示すことを切望されたと理解できます。しかし今、メシア(イエス様)が神の都エルサレムに来ている時に、「信仰の実」を示すことが出来なかったことを、「葉の他は何もなかった」と表現しているようです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)は「救いの時」をわきまえられなかった選民イスラエルは、もはや選びから外されたとの嘆きでしょう。 /n宮清め その後、エルサレム神殿に入られたイエス様一行は、境内で、神様に献げる犠牲(動物や鳩)の売り買い、両替などの商売人達が神殿に敬意を払わず、我が物顔して商売しているのをご覧になり、旧約聖書を引用して非難されました。神殿は、まず神様と人間の心の交流(礼拝)を行う聖なる場所であるゆえに、イエス様は、一切の商売を止めさせました。 /n枯れたいちじく  翌朝早く一行は再び「いちじくの木」を見ましたが、根元から枯れていました。このことは、神様の救いの時に信仰の実を示さなかった者の行く末が「滅び」であることを示しているように思います。或いは逆に、こうも言えるでしょう。「御言葉や御心」に従って進まれるイエス様の、この世に打ち立てた主権こそが、本当に凄いものである、と。その主権の大きさについてイエス様は、神様の力を少しも疑わず信じることが出来れば「信仰によって山を動かす」ことも可能であると証ししています。 /n信仰の実をささげる 御子イエス様の到来によって全ての民に啓示された福音を、私達は聞き信じる幸いを与えられています。今や「神殿」とはエルサレム神殿ではなく私達自身のことです(「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(?コリ3:16)。 長年待ち続けた「救い」の時が到来しています。今こそ神様への応答として「信仰の実」を献げられるよう「救い」を受け取りましょう。

「種まきと刈り入れ」     牧師 佐藤義子

/n[詩編]139編1-6節 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。 その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。 /n[ヨハネによる福音書]4章31-38節 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 /nはじめに 本日の聖書は、イエス様が、水汲みに来たサマリヤの女と出会い、水を飲ませてほしいと頼んだことから始まります。 イエス様の生涯は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)というメッセージを、一人でも多くの人々に宣べ伝える生涯でもありました。6節では、イエス様が旅に疲れて井戸の傍に座っておられたこと、弟子達が食べ物を求めて町まで出かけていったことが記されています。時は正午頃とあります。この時間帯は暑くて普通の人は水を汲みに来る時間ではありません。このサマリヤの女は誰とも顔をあわせたくない事情をもっており、あとで、そのことが明らかになります。 /nサマリヤの女との会話  イエス様から「水を飲ませて欲しい」と頼まれたサマリヤの女は、驚いて、その理由(ユダヤ人がサマリヤの女に頼むことはあり得なかった)を聞きます。イエス様は、「私が誰であるかを知っていたら、あなたの方から生きた水を私に求めたでしょう」と答え、さらに、「井戸の水を飲む者は又、渇くが、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語られました。イエス様と語る内、サマリヤの女はイエス様がメシアかもしれないとの気づき、水がめを置いたまま、町の人々にイエス様のことを知らせにいきます。やがて食料を買いに行っていた弟子達が戻り、イエス様に食事をすすめました。 /nイエス様の食べ物 イエス様は弟子達に、「私にはあなた方の知らない食べ物がある」と言われました。それは、空腹を満たす食物では無く、霊的な意味で活力を回復させる為の食べ物のことでした。イエス様は次のように言われています。  「私の食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。 イエス様はサマリヤの女と出会い、神様から遣わされたご自分の使命を果たすことに専念されました。イエス様と出会った女性はイエス様の前に心を開き、変化が起こりました。彼女は町に行き町の人々にイエス様のことを伝えました。その結果、町の人々がイエス様の所に集まって来て、イエス様を信じました。 イエス様は、弟子達が食物を買いに行っている間に、もう一つの食物(神様の御心を行い、神様から託された業をなされたこと)を神様から受け取られたことを、弟子達に教えられたのでした。 /n種まきと刈り入れ 続いてイエス様は、弟子達に「種まきと刈り入れ」に関する二つのことわざを取り上げて語られました。 一つは「刈り入れまでまだ4カ月もある」という言葉です。これは種をまいて収穫するのに4カ月かかる。待たなければならないという意味ですが、イエス様は、もう畑は色づいて刈り入れを待っており待つ必要がないと言われました。これは人々の魂の救いについての言葉です。魂の救いは、人間の知恵による経験法則には必ずしも適用しないといわれます。事実サマリヤの女は、イエス様に出会って、会話の中で、イエス様を信じました。そればかりではなく、イエス様のことを人々に伝えに行くのです(種まきと収穫が同時)。      もう一つのことわざは、「一人が種をまき、別の人が刈り入れる」です(37節)。一般的な意味では、空しさや不正を耐える気持があります。しかしイエス様は、このことわざを、神様が私達を招かれる奉仕に当てはめられました。神様への奉仕は他の人の奉仕を土台とし継続していくものです。すべての者は自分自身の為に働くのでなく、神様を仰ぎ見ます。それゆえに種を蒔く者は、その結果や実りを見なくてもかまわず、刈りいれる者は、他の人がやってきたことを感謝して引き継ぎ、自分の仕事として結びつけて実りを得ます。そして両者ともその実りを喜ぶのです。教会で行われている魂への種まきと刈り入れの業にそれを見ます。

宗教改革記念礼拝 「世界を変えたもの」 倉松 功先生(元東北学院

/n[詩編] 71編 1-3節 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 15-16節 わたしの口は恵みの御業を/御救いを絶えることなく語り/なお、決して語り尽くすことはできません。 しかし主よ、わたしの主よ/わたしは力を奮い起こして進みいで/ひたすら恵みの御業を唱えましょう。 /n[マタイによる福音書] 4章17節 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 ◆四人の漁師を弟子        *はじめに  私共キリスト者にとって、世界を変えたものは二つあると思います。 一つは、キリストがこの世界に来られたことです。神がこの世界に、私共に、御子キリストを送って下さったことが世界を変えたものです。これは私達だけではなく、世界史においても、世界の精神史においても、世界を変えたということがいえる事柄であったといえるでしょう。 そのキリストは、福音を宣べ伝え始められた時に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ</span>」と告げられました。それによって世界が変わったといえますが、その変化は、政治、経済、武力などの力によって変えたというような、すぐに目に見える変化ではありません。それは一人一人の悔い改め、福音を信じることによる変わり方ですから、世界史や政治史、経済史などの変化と比較出来るものではなく、次元が違うといえます。 もう一つ、私達にとって世界を変えたものがあります。それは、プロテスタント教会の誕生です。ほかならぬ私達が属している教会ですが、このプロテスタント教会が誕生することによって、中世から近世にかけての流れが変わってきたのです。国が、民族によって統一された「国民国家」を造り上げるということが起こり始めますが、特にヨーロッパを中心として、とりわけ先進諸国で「国民国家」の誕生に大きな力をもってきたのがプロテスタント教会です。この場合も一人一人の悔い改め、精神の変化によってもたらされたということが出来るでしょう。 といいますのは、宗教改革は1517年10月31日に宗教改革者マルティン・ルターが、ヴィッテンベルクの城教会の扉に、95カ条の提題を掲示した(紙に書いたものを貼りつけた)ことから始まりました。その95カ条の提題の、第一条が、「私達の主にして、師であるイエス・キリストが『<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めよ<span class="deco" style="font-weight:bold;">』(マタイ4:17)と言われた時、キリストはそれによってキリストを信じる者の全生涯が悔い改めであることを求めておられたのである」です。   宗教改革は、「福音に帰る」、「聖書に帰る」、「キリストに帰る」と言われます。その事柄が、この提題の第一条にもあらわれているといえます。 *悔い改め ルターは「悔い改め」をどのように理解していたのでしょうか。  ルターは、「最高の悔い改めというものはない」と言いました。確かに人間は、悔い改めが厳しければ厳しいほど、自分を否定し、沈みます。場合によっては自分の命を絶つこともあります(たとえばユダの場合です)。ルターは、「本当の悔い改めというのは人間が新しくなるということである」と言いました。「新しい人になる悔い改め」とは、神に向かって、キリストに向かって祈る。福音に向かって悔い改めるということです。それは御言葉によって新しくされることを期待しているわけです。 *キリストの言葉を聞く  御言葉に向かって歩む私達にとって最も重要な事柄は、何と言っても御言葉そのものであり、御言葉を聞くということになります。 「礼拝」は、まさにそれであり、御言葉を聞くためには御言葉を語ること、すなわち「説教」が必要です。ルターは、宗教改革による教会を造り上げる時(1522年、それまで保護されていたヴァルトブルグからヴィッテンベルクに帰って来た時)、八つの説教を続けざまにしています。というのは、ヴィッテンベルグは改革の混乱のさ中にあり、宗教改革を力で推進しようとするグループが町を占めていて、教会の聖画像や彫刻を取り壊すということが起こっていたのです。  そこでルターは、その説教の中で、「改革というのは神の言葉を語ることによって起こるのであり、暴力的な力での改革ではない。」と語っています。ではルターの宗教改革の原則、宗教改革の精神、根本的主張は何であったのでしょうか。 *宗教改革  第一は、「聖書のみが信仰のよりどころ、権威の根拠である」。第二は、「キリストを信じる信仰のみによって義とされる(救われる)」です。これは、「キリストのみ」「信仰のみ」に分けることも出来ます。第三は、キリストへの信仰も、義とされて救われるのも、「神の恵みによる」(恩寵のみ)であると言われます。この三つのことを見ていきたいと思います。 *第一:聖書のみが信仰のよりどころである  聖書のみが信仰の拠り所という場合、聖書以外に信仰の根拠、典拠をもっていたローマカトリック教会に対する批判を含めています。  ローマカトリック教会においては、「カテキズム」(キリスト教信仰を教える書物、教理問答(信仰問答)のこと)があり、教皇がキリストに代わる代理者として教会の上に、完全で最高の権能(権力)を持っており、聖書解釈や教理についての決定権を持っている、としています(カトリック教会カテキズム参照)。こういう考え方・制度は、「聖書のみ」を掲げる者には受け容れることが出来ません。  又、カトリック教会では、七つのサクラメント(聖礼典)が制定されています。<七つとは、洗礼、聖晩餐(聖体拝領)、堅信礼、(信仰告白)、叙任(司教・司祭・助祭の任職)、病者への塗油、結婚、告解(罪の赦し)をいう>。  これに対して、「聖書のみ」を主張するプロテスタントは、二つだけをサクラメント(聖礼典)として執行します。それは「洗礼」と「聖餐」です。なぜならこの二つはキリストが定めたものであり、これを受けることによって直接神の恵みが与えられ、又、神の恵みの約束の言葉をもっていることから、サクラメントとして条件を満たしていると考えるからです。 *第二:キリストを信じる信仰のみ  ロマ書3:28に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです</span>。」とあります。 又、ガラテヤ書2:16に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました</span>」とあります。これは、ルターが宗教改革を推進していくにあたって、一番重要な事として主張したことです。それは当時、「信仰のみ」ではなくて、「信仰」プラスアルファとしての免罪符がありました。免罪符は、おふだを買い取ることによって「罪がつぐなわれる」、更に「赦される」というものでした。それに対するものとして、「信仰のみによって義とされる」が、ルターの宗教改革の、最初の具体的な行動であり、最後まで、ルターの宗教改革の根底にありました。 *信仰 その「信仰」は、いかにして与えられるかについて、パウロは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。</span>」(ロマ10:17)と言いました。聞かなければ信仰は与えられないのです。何を聞くのか。それは「神の言葉を聞く」のです。それゆえルターは、神の言葉(聖書)をドイツ語に翻訳し、それによって、すべての人が神の言葉を直接読むことが出来るようにしました。  私達にとっても、聖書の言葉を自分で読むということは欠かすことが出来ませんが、説教者を通して「聖書に基づく説教を聞く」ことは、ロマ書での「信仰は聞くことによる」ということです。ですからパウロは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか</span>。」(ロマ10:15、イザヤ52:7)と説教者を称えているのです。 *信じることによって義とされる  「義とされる」は、「義と認められる」と聖書にあり、「義と宣告される」との理解もあります。この「義」は私共が持っている義ではありません。私共は、神の前で義と認められるような完全な義をもっていません。 パウロは、「キリストが義と聖と贖いになられた」と言っていますが、キリストの義は私共の外にある。しかし神は、キリストのゆえに私共を義と認められる。キリストの義が私共の中に移されるということです。この点についてルターとカルヴァンも強調しており、カルヴァンは、「転嫁される」と言っています。それだけに、私共がキリストの義を受け入れる信仰が大切です。キリストの義を受け入れることによって、私共は新しい人になっていく。それが保証される。それが事実となっていく。それを聖霊の果実、聖霊の実ということが出来るでしょう。 *第三:恵みのみ  この「恵みのみ」は、「信仰のみ」にまさって重要なものではないかと思います。なぜならば、信じたいから信じるということは、私共には出来ないからです。どんなに聖書を読んでも、説教を聞いて信じたいという気持が起こってきても、「信じたいから信じる」というわけにはいきません。私共は「神の恵みの働き」(恵みとは、御言葉と共に働く力・聖霊の力)によって信仰が与えられる、ということが言えるでしょう。宗教改革の時代、重要な討論会が行われましたが、そこでも「信仰は聖霊によって与えられる」と言っています。それを恵みと表現し直しています。 「恵みのみ」ということは、私達の信仰の生活の発端から生涯にかけて重要です。 *おわりに 宗教改革の三つの原則(聖書のみ・キリストを信じる信仰のみ・恵みのみ)についてお話しましたが、私共はこのことを聞くにつけ、ルターが最初に語った「悔い改める」ということの重要性を思います。つまり、福音に向かって、キリストに向かって悔い改めるということは、具体的には「キリストの義を受け入れる」ということでしょう。受け入れることによって、私共に心の変化が与えられる。そしてキリストの義が私共に移されるのです。 「世界が変わる」ということがらは、教会と私達一人一人の悔い改めから始まっていきます。これは、精神の改革ですので、一人一人の悔い改めによって、悔い改めた一人一人が集まっている教会という集団を通して、世界が変わっていくのです。それは、神が、御子キリストを私共に送って下さったことにより、御子を中心として集まっている教会によって変わっていくということに連なっていくと思うわけです。 宗教改革を覚えて、神に感謝し、神に対して賛美をしたいと思います。

 「平和の主」    伝道師 平賀真理子

/n[ゼカリヤ書]9章9-10節 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。 /n[マルコによる福音書]11章1-11節 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様生前の最後の一週間の初日(日曜日)として、イエス様のエルサレム入城の出来事を記している箇所です。 イエス様は、ご自分がエルサレムで十字架に架かることを預言されていまが、それは、人々の罪を贖(あがな)う為の、神の御子の悲惨な「刑罰による死」でした。イエス様は、ご自分のことをメシア(救い主)として告白したペトロを中心とした12人の弟子を愛し、ご自分がこの世を去った後の、地上での神の国を築き上げる基盤として彼らを教育されました。弟子達は、イエス様の期待に応えるには不十分でしたが、イエス様は忍耐強く導かれております。 /n子ろばと柔和  イエス様一行がエルサレムに近づき、ベトファゲとベタニアの町にさしかかった時です。イエス様は弟子達に「子ろば」を連れてくるよう命じました。それは、ゼカリヤ書の預言に従って、メシアとして子ろばに乗り、エルサレム入城をなさる為でした。「子ろば」は頑丈だけれども体全体は小さくて、大人しい性格で、「高ぶることのない」(9節)身近な動物でした。又、預言では、エルサレムに来る王は「神様に従い、勝利を与えられた者」とされています。マタイ福音書では「柔和な方」とあります。どちらも、神様を頼りにして思い上がらない者です。「柔和」とは「貧しい、低くされた(申15:11、詩76:10)」から出た言葉であり、自己に頼らず、ただ神に信頼すること、他者に表わす謙遜(民12:3)を指し、神との関係の中で正しく自己を知り、それゆえに他者への関係を正しく知る者の有り様であって、キリスト者の貴い性質・態度として求められているものです。 /n証人とされる イエス様から命じられた二人の弟子は、その言葉に従って子ろばを連れてきました。主の預言や御言葉の正しさを証明する証人にされたのです。彼らは恐らく、自分達の行動の意味を理解していなかったでしょう。彼らは期せずして、そのような恵みに与(あずか)ったのです。主に従っていく時、そのような恵み、後で振り返って「神様のご計画に招き入れられて恵みだった」と思えることがあります。 /nエルサレム入城 二人の弟子は、自分の上着を子ろばの上に敷きました。この行為は、王に敬意を示し、即位を喜ぶ意味が含まれています(列王記下9章)。それに倣うかのように、群衆が道路に上着や葉のついた枝を敷いたりして、待ち続けたメシアをイエス様に重ね合わせ、「ホサナ」(詩編118:25~26)と叫びました。これは、ヘブライ語「ホーシャーナー」という言葉からきており、「主よ、我らを今、救い給え!」の意味ですが、この頃には「巡礼者の聖地に入る時の挨拶」又は、「主を賛美する呼びかけ」に変化していたようです。しかし群衆が期待したメシアは、ダビデのような王であり、ローマの支配や重税から自分達を救ってくれるメシアでした。 /n真のメシア イエス様の、メシアとしての役割は「苦難のメシア」(イザヤ52~53章)でした。この世を武力で抑えつけるのではなく、この世の暴力によって殺され、罪のない者として血を流すことで、人々の罪をあがない、神様からの赦しをいただくことが神様からのイエス様への使命でした。イエス様は、御心を第一とし、「人々の救い」と「神の国を造り上げる」ことに全てをかけられました。群衆や弟子さえもご自分を理解していないと思える時も、ご自分が世を去った後、弟子達が中核となって教会や神の国を造り上げていかれるように、忍耐強く教え愛し抜かれました。それは、人々に徹底的に仕え、柔和に、謙遜に生きていく「平和の主」のお姿です。イエス様の昇天後、弟子達は聖霊の助けにより教会の基礎を造り上げ、福音は全世界に広がっていきました。 私達も又、罪の世界の法則や価値観の中で苦しんでいた時、神様の一方的な愛によって救われたのです。神の民として歩める幸いを感謝し、今週も聖霊の助けによって神様の恵みの中で過ごし、本物の弟子として成長できるように、祈り求めてまいりましょう。