「我に返る」  牧師 佐藤義子

/n[詩編] 37編7-9節 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。 怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。 悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。 /n[ルカによる福音書] 15章11-32節 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 /nはじめに  日本キリスト教団では、10月の第一日曜日を「世界宣教の日」として、宣教師の方々を覚えて祈ります。宣教師の方々からも、ご自分の活動について報告があり、毎年教団から冊子が送られてきます。現在、ベルギー、ドイツ、インド、インドネシア、台湾、カナダ、アメリカ、ブラジル、ボリビア、アルゼンチンの10カ国に20名近い宣教師を送っています。(日本で働かれている外国の方もおられます)。言葉も文化も歴史も違う外国での伝道には、さまざまな労苦が伴います。神様の召命に応えて歩んでおられる宣教師の活動を覚えて祈りたいと思います。ぜひ、冊子もお読みください。 /n「放蕩息子のたとえ」 今日の聖書は、有名なイエス様の譬え話の一つです。二人の兄弟がいて、弟は、父親が元気でいるのに自分の遺産相続分を要求し、家を出て遠くに行き放蕩の限りを尽くします。無一文になり、住んでいた地方が飢饉に襲われ、食べるのに困り、ある人の所に身を寄せますが、そこで豚の世話を頼まれます。(ユダヤ人にとって豚は汚れており、豚飼いの仕事は屈辱でした)。彼は豚のえさを食べたいと思うほど空腹に苦しみ、そこで初めて「我に返り」、父親を思い出します。 /n帰宅 そして、家には雇い人がいて豊かに食べていたことを思い出します。彼は、父に赦しを乞い、自分も雇い人の一人にしてもらおうと決心して自分の家に向かいます。帰って来た息子を、まだ遠く離れていたのに父親は見つけて、憐れに思い、走り寄って抱きます。息子は、「お父さん、私は天に対しても、又、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と自らの過ちを告白し、雇い人として家に置いてもらうよう頼むつもりでしたが、父親は息子に終りまで言わせず、僕達に命じて着換えや指輪や履物の用意をさせ、息子のために祝宴を開きます。 /n神の愛   父親とは父なる神様のことです。家出し、堕落した弟息子は私達人間のことです。父親のもとにいれば安全で平安の日々が保証されているにもかかわらず、弟息子は自由を求め、家を捨て、自己の欲望を満足させる為に財産を使い果たしてしまいました。同じように人間は、神に逆らい神から離れるならば、やがて困窮し、貧しさと欠乏の中で滅びの道へと進んでいくのです。 しかし弟息子は、命の危険が迫った時、初めて「我に返り」(口語訳「本心に立ち返って」)ました。弟息子は、父を、財産をくれる親ではなく、一人の人間として向き合いました。彼は自分の罪を告白し、あやまり、息子と呼ばれる資格はないと言い切りました。悔い改めた(生まれ変わった)息子として戻って来たのです。父は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、彼を、再び息子として受け入れました。これが神の愛です。 /n兄息子 他方、弟の帰宅を喜び迎えることの出来なかった兄についても、イエス様はくわしく語っています。兄は、弟の為の祝宴が開かれていると聞いて怒り、なだめる父親に、自分がどんなにこれまで働いてきたかを訴え、父親の不公平さをとがめます。兄息子は、正しい者はその報いを受け、罪人が滅びるのは当然という、当時のファリサイ派や律法学者の態度を代弁しています。父は兄息子に言います。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。 今も多くの方々が世の束縛や自己の欲望の中で(神から離れた罪の世界の中で)苦しんでいます。私達は、神様のところに立ち帰る人々が多く起こされ、伝道所を訪れる方々を放蕩息子の父親のように待ち、その方々を心から喜び、お迎えしたいと思います。

 「自分の十字架を背負う」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]50章4-9節 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。 /n[ルカによる福音書]14章25-35節 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」 *はじめに 今日のルカ福音書を初めて読まれた方は、あまりにも内容がきびしくて驚かれたのではないでしょうか。キリスト教は愛の宗教といわれているのに、愛する家族も自分をも「憎む」という言葉が登場するのですから・・。 今朝は、ご一緒に、このイエス様の言葉の意味を学びたいと思います。 /n一時的か、本物か。 この、イエス様の言葉は、大勢の群衆がイエス様を慕ってついて来ていた時の言葉です。イエス様についていけば、いつでもイエス様の話を聞くことが出来、その教えは耳に心地よく響き、イエス様と一緒にいると不安や恐れからも解放されたのでしょう。 しかしイエス様は、慕って来る人達がイエス様と生死を共にするくらいの覚悟をもっているのか、次のように言われました。 「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に、自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」 /n弟子の条件 「憎む」とは、憎しみを持つことのように想像しますが、これは、「第一のものを第一にすることを妨げるすべてのもの」を「より少なく愛する」ことです。私達人間は情に弱く、ともすると優先順位を入れ替えてしまうことがあります。すなわち、イエス様に従うよりも、自分の家族、更に自分の命などを第一に考えてしまうことがあります。このことをイエス様は良くご存じでありました。それゆえに、私達がイエス様に従おうとする道を、最も強く妨げる家族や自分への執着心を自覚させて、警告されました。 /n第一のものを第一に イエス様は、第一のもの、「あなたの創り主である神様からの召命」を最優先にする覚悟が、あなたにありますか、と、ここで問うているのです。エフェソ書(5:21-)では、夫婦は互いに仕えあい、夫は妻を愛するように教えており、父親は子供を怒らせないように育てることを命じています。又、テモテ書(3章)では、教会のリーダーは自分の家庭を良く治めている者、子供達を従順な者に育てていることが条件ですから、夫婦・親子間の愛は不可欠であり、愛し合うことは根本的な戒めです。 けれども、ここで言われるのは、優先順位の第一にくるべきものは血縁ではなく、まず「イエス様に従う」ということなのです /n自分の十字架を背負ってついて来る者 「十字架を背負う」という表現は、刑場に赴く死刑囚の姿です。死刑囚として刑場に向かう者は、家庭・社会・今迄の業績・社会的信頼など、これ迄生きて来た場所から切り離され、身に付けてきた全てのものが取り外されます。   イエス様の背負われた十字架は、私を含めた全人類の罪をあがなう(身代わりになって罰を受ける)ためのものでした。 「私」の背負う十字架は、イエス様に従うために犠牲にする家族愛や自己愛、罪につながるあらゆる欲望、社会的な名誉や富など、これまで自分にとって価値のあるもの、魅力的であったすべてのものを十字架につける(捨てる)覚悟をしてイエス様についていくことです。   自分の十字架を背負ってイエス様に従って行く者には、「永遠の命」「神の国」「罪の支配から救われて新しく生きる人生」が約束されます。 /n二つの譬え話   イエス様は、この後、「塔を建てる人」の話と、「戦いに行く王様」の二つの譬え話をされて、イエス様の弟子になろうとする者は、先ず自分にその覚悟があるのかどうか、自分がこれから立ち向かわなければならないあらゆる事柄を想定し、腰を据えて考えることを命じられました。何事も、途中でやめてしまうならば、始めないほうが良いからです。 私達の「信仰告白」は、覚悟を伴っている「信仰告白」でしょうか。 私達は「死に至るまで忠実」(黙示録2:10)でありたいと願うものです。

「贖い主と弟子」    伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]53章10-12節 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 /n[マルコによる福音書]10章32-45節 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 /nはじめに 今日の聖書の前半は、イエス様が「三度ご自分の死と復活を予告する」箇所です。8章では弟子ペトロの「イエス様は救い主(メシア)です」との告白がなされます(29節)。イエス様はペトロの信仰告白を大変喜ばれて、「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上に教会を建てる。」と宣言されました(マタイ16:16)。イエス様が父なる神様から授かった使命は、福音の宣教活動を通じて「イエス様を救い主として信じます」と告白する人々を基盤とする神の国を地上に打ち立て、生まれながらの人間がサタンに与えている支配権を、神様にお返しすることでした。  イエス様は、ご自分を信じて従ってきた弟子達に、人間の救いと御自分の歩みに関する天の秘密を明かされました。「ご受難と復活」です。この予告は三度も繰り返されていることから、このことがいかに重要であったかが想像できます。 /n天の秘密 イエス様の時代から2000年後に生きる私達は、聖書を通してイエス様の「ご受難と復活」の言葉を、次のように理解出来ます。 「イエス様は、父なる神様のご計画を実現する為に、救い主としてこの世に遣わされました。神様の愛の対象として造られた人間は、創造主である神様を信じ続けることが出来ず、神様に逆らうという不従順の繰り返しによって人間の「罪」は大きく膨れ上がり、ついに神様との断絶に至ったのです。自己中心の欲望にまみれた神様から離れた世界で、長い間苦しみ続けていた人間を、神様は憐れみ、人間を罪から救うという「救いのご計画」を立てて下さったのです。  神様は汚れのない聖なるお方で、罪にまみれた人間とつながることは出来ません。神様と人間が再び関係を回復するには、神様から人間を断絶させている“罪”を取り除くことが不可欠でした。 人間社会では、ある人があまりにも大きな負債を抱えて、返済しきれない場合、誰か他の力ある人に、負債を肩代わりしてもらうことが行われます。ところが人間の「罪」の負債を、肩代わり出来る人は一人もいません。すべての人が罪を犯していたからです。それゆえ神様は、人間の思いを超えた、救いの御計画を立てられたのです(イザヤ書52:13~53:12)。 /n十字架の血による贖い(あがない) 人間の中には罪を犯さない正しい人が一人もいない為、神様はご自分の独り子である御子イエス様を、罪多きこの世に遣わされました。イエス様は人間として生れ、その生涯を通して罪を犯されませんでした。そして、人間の「罪」という負債を肩代わりして、神様からの赦しを得る代償として、十字架にかけられ、その血を流されたのです。このことによって初めて人間の罪は赦され、清められ、神様とのつながりを回復する道が出来たのです。 これは、罪のない正しい人の「死をもって、罪を贖う(あがなう)」という方法でした。 /n「わたしは仕えるために来た」(45節) 今日の聖書は、イエス様は罪を犯されなかったにもかかわらず、「罪に定められて」殺されるために、今、弟子達の先頭に立ってエルサレムに向かっているところです。弟子達は驚き、従う者は恐れたと聖書は伝えています。イエス様は12人の弟子達を呼び寄せて、「(私は)、人々の手に引き渡され、侮辱され、殺される。そして三日の後に復活する。」と三度目の受難と復活の予告をされました。 復活は死に対する勝利です。 それに対する弟子達の反応は、ヤコブとヨハネが、将来、イエス様の右と左に座らせてほしいと、自分達を、他の弟子達よりも抜きんでた地位に置くように願い出るという、自己中心的な言葉だったのです。 イエス様は、「それは私の決めることではない」と答えられました。そして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教えられました。 イエス様ご自身こそ、私達人間の為にご自分の命を献げられ、私達人間に仕える道を歩み通されて、私達の模範となって下さったお方です。

「正しい服従」   牧師 佐藤 義子

/n[出エジプト記]23章10-13 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。 /n[ルカによる福音書]14章1-6 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 彼らは、これに対して答えることができなかった。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がファリサイ派のある議員の家で、安息日の祝いの食事に客人として招待された時のことが記されています。1節の終りに「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。うかがうとは、悪意ある目で偵察するという意味があります。イエス様の食事の席の前に、水腫をわずらった人がおりました。水腫とは異常な分量の組織液やリンパ液が体内にたまる病気で、エルサレムには多く見られたといいます。人々がうかがっていたのは、その水腫の病の人に対してイエス様が癒そうとなさるか、それとも安息日の規定に従う(=何もしない)か、ということでした。イエス様は、当日の招待主をはじめ、そこに招かれた人達が、どのような気持でご自分を見ていたのかを、全て見通されていました。そこで、イエス様の方から彼らに質問しています。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」</span>と。 /n沈黙 当時の考え方からすれば、病気を治すのは仕事のひとつとされ、安息日に働くことは禁じられていましたので、治療のたぐいは、してはならないことでした。(命に危険が及ぶ場合には、何らかの処置をとることは認められた)。 イエス様からの質問に対して、「彼らは黙っていた」(4節)とあります。6章では、イエス様が安息日に手のなえた人を癒した時、ファリサイ派の人達が怒り狂って、イエス様を何とかしようと話し合ったと記されていますから、ここでも彼らは、イエス様が律法を破るのではないか、もし安息日の規定を破ってこの水腫の人を癒すならば、自分達はその証人として訴え、社会から追放しようという思いがあったのではないかと想像されます。 /nイエス様は安息日でも癒された イエス様の質問に、その場にいた律法の専門家もファリサイ派の人々も沈黙を守り、答えようとしなかったので、イエス様は病人の手を取り病気を癒してお帰しになりました。ご自分の問いに、実践で答を示されたのです。 「律法では、安息日であっても病気を治すことは許されている」という根拠として、イエス様は、<span class="deco" style="font-weight:bold;">「もし、あなた達の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」</span>と、彼ら達の現実を取り上げました。人々は、自分の家族や飼っている動物の為なら、安息日であっても労働禁止条項を気にすることなく無条件で助けていたからです。 今、イエス様が、目の前の水腫をわずらったこの人を助けることはそれと同じであることを語られたのです。 /n律法の精神  神様の意志の表れである「律法」の精神は、究極的には「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことです。 しかしこの日集まっていた人達は、自分自身の延長線上にある家族や財産は、安息日規定を越えて助ける(愛する)けれども、それ以外の他者に対しては「安息日遵守」を要求し、他者が労働禁止条項を破ることには神経をとがらせていることをイエス様は指摘されました。 /nイエス様は安息日の主   私達も又、律法の中心である「神を愛し、隣人を愛する」ことを戒めとして与えられております。 私達はこの戒めを守りたいと願っています。 安息日は神様の日であり、恵みの日であり、喜びの日です。 神様を愛する者は、神様が望んでおられるように安息日をも過ごしたいと願うでしょう。   イザヤ書にはこのように記されています。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「安息日に歩き回ることをやめ    <span class="deco" style="font-weight:bold;">  わたしの聖なる日にしたいことをするのをやめ   <span class="deco" style="font-weight:bold;"> 安息日を<span class="deco" style="font-weight:bold;">喜びの日と呼び </span> </span> </span>  <span class="deco" style="font-weight:bold;">主の聖日を尊ぶべき日と呼び     <span class="deco" style="font-weight:bold;"> これを尊び、旅をするのをやめ</span> </span>     <span class="deco" style="font-weight:bold;">したいことをし続けず、取引を慎むなら  </span> <span class="deco" style="font-weight:bold;">そのとき、あなたは主を喜びとする。」(58:13)</span> </span>     私達は、毎週日曜日を「安息日」として守り、過ごしています。 イザヤ書にあるように、私達は日曜日を他の日と区別し、礼拝を捧げる日として尊び、喜びの日として過ごしましょう。 そして神様の日として、神様の御意志に沿う歩み・・隣人を自分のように愛する・・を歩んでいく者とされたいと願うものです。

「悔い改めなければ」  牧師 佐藤 義子

/n[アモス書]5章6-9節 主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。 裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。すばるとオリオンを造り/闇を朝に変え/昼を暗い夜にし/海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主。主が突如として砦に破滅をもたらされると/その堅固な守りは破滅する。 /n[ルカによる福音書]13章1-9節 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 /nはじめに 今朝の福音書には二つの段落がありますが、内容は一つです。どちらも私達に「悔い改めなければ滅びる」と警告しています。今は、イエス様の執り成しによって救われる道がまだ開かれている時です。しかし、来年迄の猶予期間内に悔い改めることをしなければ、救いの道は閉ざされます。 /nある不幸な出来事 イエス様に、ある出来事が報告されました。それはピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことでした。古代イスラエルでは、自分の罪に対する神様の怒りをなだめ、罪の赦しを得る為、又、神様に近づき、神様と交わる手段として動物の犠牲をささげる宗教的慣習がありました。旧約の預言者達は形式的な動物犠牲よりも精神的な悔い改めが大切であることを訴えましたが、バビロン捕囚以後、動物の犠牲を捧げることが礼拝の重要な要素となりました(牛・やぎ・羊など。貧しい人は鳩等)。 この事件のくわしいことはわかっていませんが、恐らく礼拝を捧げに来たあるガリラヤ人達がピラトの怒りにふれ、ピラトはこの人達を犠牲の動物と一緒に兵士達に切り殺させたようです。このようなことは、ユダヤ人社会にとって、特別にショックに感じられる出来事でした。 /n神の裁き? このことを報告した人達は、これはガリラヤ人に下った厳しい神の裁きであると考えました。特にファリサイ派の人々は、災難を受けた人々は他の人々より罪が深かったから、そして人々に知られていない罪を彼らが沢山犯したからだと考えていたようです。イエス様に報告した人達は、この災難はガリラヤ人達の特別な罪が罰せられたのであり、この災いは自分達にはふりかからなかったと考えて安心していたのです。 /n「決してそうではない。」 イエス様は、他人の災難と比較して自分は罪人ではないという自己満足に陥り、悔い改めを怠っている人達に、「決してそうではない」と、はっきり因果関係を否定しました。そしていちじくの木の譬えを話されたのです。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植え、三年間実を結ぶのを待ったけれども木は実をつけなかった。そこで主人は園丁に、木を切ってしまうように命じたが、園丁は、こやしをやってみるので来年まで待ってほしい。それでもだめなら切り倒して下さいと頼んだ話です。 /n譬え話の意味 ぶどう園の主人は父なる神様です。実を結ばない木を、あと一年待ってほしいと頼んだ園丁はイエス様です。実を結ばない木は、悔い改めることをしない人のことです。イエス様は、悔い改めをしなければ私達の魂は間違いなく滅びると明言されます。滅びの反対は救いです。もし悔い改めれば、滅びから救われて天の国(神の国)に招かれ、永遠の命を与えられる約束があります。道は二つだけで、選ばなければなりません。 /n悔い改める   悔い改めるとは、これ迄の、自分自身に仕える生き方(=自分自身の思いを最優先させる)をやめて、神様に仕える生き方に変えて、神の御子・イエス様を信じて受け入れ、その教えに従って生きていくということです。自分がしたいからするのでなく、神様が自分に何を望まれているのかを最優先に考えて生きることです。それが譬え話の「実をつける」ことです。

「試練を越えて」  原口尚彰先生(東北学院大学)

/n[コリントの信徒への手紙一] 10章13節 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。      /nはじめに 3月11日に起こった大震災から半年近く経過して、私達の日常生活もやっと落ち着きを取り戻してまいりました。人命救助や緊急避難の段階は過ぎ、復旧・復興の途上にある段階にきていますが、少し落ちついてきたこの時点で、もう一度、大震災の意味について、聖書に基づいて、考えてみたいと思います。 今回の大震災は、近代日本を襲った最大の地震であり、私達の予想をはるかに越えて起こりました。地震学者の研究によりますと、平安時代(869年)に、東北を襲った大地震と同程度だったといわれております。もしそれが正しいとするならば、日本列島では1000年に一度起こるかどうかの大地震に私達は見舞われたということになります。世界の震災の歴史をみても、マグニチュード9を越える地震はまれでして、最近100年ではチリ沖地震、スマトラ沖の地震くらいです。この未曾有の大地震の結果、建物や道路や町が破壊され、特に沿岸部の石巻や気仙沼や南三陸町の地域は津波に襲われて、町は大変に破壊され、土台だけを残して廃墟になってしまいました。そのため多くの人達が命を亡くしましたし、現在も行方不明です。生き残った人達も家を失くして避難所暮らしを強いられ、自分の家は無事であっても、しばらくは電気も水道もなく、少量の水や食料で暮らさなければならない経験を、皆様もされたと思います。又、福島第一原発の近隣地域に住んでいる人々は、津波によって引き起こされた原発事故のために、町村ごとに避難を強いられ、現在に至っています。 大地震や津波など自然災害は人命を奪い、人の生活基盤を破壊する恐ろしい出来事であるということは前もっていえるわけであります。しかし、キリスト教信仰の立場から、この大震災をどうとらえるかは、又、おそらく別のところにあるのではないかと思います。 /n祈祷会でささげられた祈り  3月11日の2日後は日曜日でした。その日、私は作業着を着てリュックサック(聖書・讃美歌・水と非常用の食料)を持って、教会迄歩いていきました(一時間くらい)。教会は無事で、やはり作業着を着た牧師夫妻が迎えてくれました。当日は20人位の人達が集まりました(通常は80人位)。何より、お互いが無事であったことを確かめ、喜び合いました。長い距離を歩いてきた人や避難所から来た人もおりました。しかし水道と電気が通じなくて礼拝堂は暗くて使えず、窓が多く比較的明るい集会室がありましたので、そこでローソクを灯して礼拝を行いました。礼拝後、祈祷会をもちました。生き残ったことへの感謝の祈りが強くありました。苦難の中にある人達の助けや慰めを祈る祈りもありました。 その中にざんげの祈りがいくつかありました。なぜ「ざんげの祈り」かというと、この大震災・大災害は、普段自然を破壊し、自然を浪費し続けている我々人間への神の裁き・警告ではないか。私達人間はそれを反省しなければいけない、という祈りでありました。 /n天災と天罰 この時、私が思い出したのは、関東大震災の時になされた「天譴論(てんけんろん・天のけん責)」の議論です。これは、「大震災は私達の行ないの悪の故であり、天が懲らしめている」という議論です。この議論は、渋沢栄一(当時東京商工会議所会頭)が言い始めた議論で、明治維新以来、東京は、政治、経済の中心となって繁栄を続けてきた。その中で人々はおごり、私利私欲に走り、道徳的に乱れた日本に与えた天のけん責が関東大震災であるという趣旨です。これはかなりの反響を呼びました。キリスト教会でも、この議論に賛同する人が多く、無教会の内村鑑三や、日本基督教会の牧師である植村正久も同意しています。 /n今回の震災と罪悪の因果関係 文明生活を享受している現代人が、繁栄の中で享楽的になったり、退廃的になったりしてモラルが低下しているのは事実であるでしょう。そしてそのことを反省するのも大事かもしれません。しかしそのことと、大震災が起こったという事実の中に、本当に因果関係があるのでしょうか。確かに聖書には、創世記のソドムとゴモラの話のように、自然災害と罪悪との関係を見ることは出来ます(創世記18:20、19:24参照)。しかし、今回起きた大災害とあてはめて結論を出すのは、きわめて危険なことのように思われます。なぜかというと、震災で命を奪われた人達が、震災を生き延びた私達よりも物欲的で不道徳な生活を送っていたかというと、そういうことは全く言えません。特に今回は、関東大震災と違い、日本の繁栄のおごりの中心であった首都圏ではなくて、むしろ過疎化、高齢化が進んでいた東北地方を襲ったわけであり、特に津波で多くの被害を受けた三陸地方では、漁民が海で魚を取って暮らす場所であり、華美や奢侈やおごりからは縁が遠かったということを考えると、災害と人間の罪悪や物欲と結び付ける因果関係はなかったと結論せざるを得ません。 /n宗教の語るべきこと さて、震災の中で宗教が語るべきことは何でしょうか。おそらく裁きを語って悔い改めを迫るのではなくて、むしろ慰めや希望ではないかと思います。震災の為に命を亡くした家族がいますが、その人達の死を弔うことであり、天における平安を祈ることでなければならないと思います。特に生き残った人達は、愛する者を突然に失った悲しみの中にあって、自分達だけが生き残った、身内を助けることは出来なかった、そのことへの強い罪責感をもっております。その中で残された人々に、残された命の大切さを語る、慰めや励ましを語る、そのことこそ宗教は語らなければいけないのではないでしょうか。 天譴論に賛同した内村鑑三も、裁きを語って悔い改めを迫る側面と共に、苦難の中にある人々に慰めと希望をも語っています。「今は悲惨を語るべき時ではありません。希望を語るべき時であります。夜はすでに過ぎて光が臨んだのであります。皆さん、光に向かってお進みください。・・今から後は、イザヤ書40章以下の預言者として彼らを慰め、彼らを鼓舞し、彼らの傷を癒さなければならない。」又、同じように震災天罰論を説いた植村正久牧師も、震災の中でさまざまな救援活動に携わることを、「神の愛のわざに参加する」こととして、目前の課題に取り組むよう積極的に勧めました。  今回の震災は、たまたま同じ時に、同じ場所にいたという偶然的な理由によって、そこにいたすべての人に等しく及び、同じ被災者になりました。そして今回、私達は生き延びることが許されたことへの御恵み、命の大切さを感じると同時に、私達の安否を問うてきた家族や親せきや友人達のつながりの強さを実感させられました。同時に普段は挨拶を交わす程度の近所の人達との情報の交換や助け合いを経験致しました。又、教会によっては、教会が避難所になったり、物資の供給場所として救援物資の配布やボランティアの派遣を行ない、がれきの撤去など、教会が地域の人と共に生きるという体験をしました。日本基督教団東北教区センター「エマオ」も、震災後早くから今も救援活動を行っています。 /n信仰の立場から  信仰の立場からすると、震災は、神が人間に与えた試練の一つであるといえると思います。試練は神が私達に与える苦難でありますが、試練によって信仰を放棄する危険が一方ではあります。しかし試練を通して信仰が練り清められる、深まるということもあります。先程読んでいただいた、コリントの手紙一 10:13は、著者パウロが、自分自身や初代教会の人々が遭遇したさまざまの苦難、その苦難を信仰の試練として受けとめ、さらに希望を語っている箇所です。信仰を持ったら苦しいことはなくなるか?そうではないと思います。信仰を持とうが持つまいが、苦難は向こうからやってくる。パウロをはじめ初代教会の人々は、むしろ信仰を持つゆえに、多神教的な信仰に生きる周辺社会とさまざまな軋轢(あつれき)を経験し、さまざまな苦難に耐えなければなりませんでした。  たとえばフィリピ書1:29では、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです</span>。」と言っています。又、テサロニケ一 3:3では、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています</span>。」と言っています。パウロはそのことを教えていたわけです。これを書いたパウロは自分自身のことを、第二コリント書11章にくわしく書いています。彼は、巡回伝道者として地中海世界を巡り歩く中で、ありとあらゆる困難や苦難を体験した人でした。しかしそのたびに、神によって解決の道を与えられ、伝道者の道を歩き通した人であります。 /n今日の聖書 今日、読んでいただいたコリント一 10:13には 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます</span>。」とあります。  この言葉はパウロ自身の伝道者としての長い経験、体験の中に裏付けられた確信でありました。 /n信仰から生まれる確信 さて、信仰を持つことによって、私達は人生の苦難を、おそらく避けることは出来ないでありましょう。しかしその苦難を、神の与えた試練として受けとめて、そこに何らかの意味を見出し、又それを乗り越える力と希望を与えるのが信仰ではないかと思います。 人間の目には解決が容易に見えないような時があります。しかしその時も、神は私達を決して見捨てない。共にいて、解決を与えて下さる。つまり、「逃れる道を必ず神は用意して下さる」。この確信が、おそらく人間に希望を与え、再び立ち上がる力を与えるのではないかと思います。 _________________________ /n参照 <コリントの信徒への手紙二 11章23節-29節>      「<span class="deco" style="font-weight:bold;">苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったこともたびたびでした。ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上での難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずに、おり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。誰かが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか</span>。」

 「隣人になる」  牧師 佐藤義子

/n[レビ記]19章17-18節 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 /n[ルカによる福音書]10章25-37節 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」        /nはじめに 本日の「良きサマリア人」の話は、イエス様の譬え話の中でも「放蕩息子」と並んで最もよく知られている話です。イエス様がこの話をされたのは、一人の律法学者の質問がきっかけでしたが、この律法学者は、イエス様を試そうとする悪意がありました。イエス様への人々の信頼が失なわれることを、ひそかに期待していたようです。 /n永遠の命 律法学者の質問は、「永遠の命を受け継ぐ為には、何をしたらよいのか。どうすれば永遠の命がもらえるか」というものでした。悪意を別にすれば、この質問は人間にとって、とても大切な質問です。 永遠の命とは死んでも生きる命のことです。神の国(天の国)に入る道を尋ねたと言っても良いでしょう。聖書では、この世界が終る時(終末)、生きている者も死んだ者もすべて、二つの道に分かれることを教えています。一つは「神の国・永遠の命への道」、もう一つは「滅びの道」です。 日本人がもし、聖書に書いてある通り、死んだ後にこの二つの道があることを、先祖から代代伝えられていたら、きっとイエス様の時代の人達と同じように「どうしたら神の国に入れるのか・永遠の命を受け継ぐことができるか」を、もっと真剣に考えるのではないでしょうか。しかし残念なことに、多くの日本人は、死んだら誰でも一足飛びに天国に行かれると考えているようです。それゆえ、このような質問をする人はなく、現在の生き方が死後のあり方を決定するという緊張感はありません。 だからこそ、先に信仰を与えられた者は、聖書が伝える真理の道を伝えていく使命が与えられているといえます。 /n「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」 律法学者の質問に対して、イエス様は、まず、「神様の意志のあらわれ」である律法を参考にするように言われました。 律法学者の答えは、イエス様から「正しい」と言われるものでした。 /n律法の教え 一つは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6章5節)です。もう一つは、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)です。  イエス様は正しく答えた律法学者に「それを実行しなさい」と言われました。彼は再び、「では、私の隣人とは誰ですか」と尋ねたのです。 /n「良きサマリア人」 イエス様が語られたこの譬え話は、追いはぎに襲われ、半殺しにされて倒れていた一人のユダヤ人の傍を三人の人が通りかかり、祭司とレビ人の二人は、倒れた人を見ると道の向こう側を通って行ってしまいましたが、三番目に通りかかった旅の途中のサマリア人は、倒れている人を憐れに思い、油とブドウ酒を注いで傷口の手当を済ませた後、安全な場所に運び、健康が回復するまで看護するように配慮しました。彼はこの見知らぬ傷ついた人の為に、デナリオン銀貨二枚を宿屋の主人に渡しました(1デナリオンは1日分の賃金)。サマリア人にとって、これがおそらく自分が出来る最大の行為だったのでしょう。 /n「三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」  この律法学者は、義務には忠実であったと思われます。しかし愛さなくても良い時には愛することをしない人です。だから隣人を愛せと言われると、私の隣人は誰かと規定したがるのです。イエス様は、彼に、「誰が隣人になったか」と問い返されました。 「隣人を愛せよ」とは、「隣人」という特定の人物がいるのではなく、私の助けを必要としている人、私の助けを待っている人が「私の隣人」であり、「隣人を愛しなさい」といういましめは、「私が、その人(私の助けを必要としている人)の隣人になる気持(愛)を持っているかどうか」を、私自身に問いかけてくるのです。 愛の決まった形はなく、愛は自由に行動します。強制も命令も不要です。助けが必要と思うならば、自分から進んで助けるのです。 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">行って、あなたも同じようにしなさい。</span>」と言われます。

「律法を完成される方」 伝道師 平賀真理子

/n[申命記]10章 17-22節 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。 /n[マルコによる福音書]10章 17-31節 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 /nはじめに 今日の新約聖書は、二つの段落に分かれています。前半部は、金持ちの男の質問で、二つのことが問題となります。一つは、イエス様に対して「善い先生」と呼びかけに使った「善い」という言葉です。イエス様は「善い者」は神様お一人だけに当てはまる言葉であると彼を諭します。この金持ちの男は、「神様」を大事にしていると言いながら、実は、自分が有利になることで頭が一杯です。 /n金持ちの男の質問 もう一つは、「永遠の命を受け継ぐには何をするべきか」との問いについてです。聖書では、「永遠の命を受け継ぐ」と「神の国に入る」は、ほとんど同じ意味と捉えられています。罪に陥った人間を救ってくださったイエス様につながることで、「永遠の命が与えられる」=「永遠の命を受け継ぐ」と考えられています。 又、イエス様の十字架と復活の出来事によって、神様とつながることが可能になりました。神様の性質を受け継ぐことができ、神様の愛に満たされて過ごすことが出来る世界に入ることを「神の国に入る」と言います。 /n神の国に入る条件 イエス様は金持ちの男に、神の国に入る第一条件を示されました。それは、ユダヤ人なら誰でも知っている「十戒」の後半部分を守ることです。それを聞いた彼は、「そういうことはみな、守ってきました」と答えます。イエス様は彼をみつめ、慈しんで言われました。「欠けているものが一つ」と言われ、要求されたのは「持っている物を売り払い、そのお金を貧しい人々に寄付すること」で、その後で「イエス様に従う」ことでした。 「金持ちの男」は、このイエス様の招きに従いませんでした。彼は「永遠の命」を受け継ぐことに関心があり、イエス様に走り寄って質問したにもかかわらず、最終的には行動しませんでした。それどころかイエス様の指示に気を落とし、悲しみながら立ち去ったのです。 /n神様の愛 神様は、この世で弱い立場にある者を愛される方です。今日の旧約聖書(申命記)では、そういう人々の代表として、孤児、寡婦、寄留者(外国人)が挙げられています。彼らの人権、必要な食べ物や衣服への配慮が明確に記されています。弱い者を愛される性質、彼らに心を配り、助けようと行動される性質、それこそが、私達をも捉えて下さった神様の真髄です。イエス様が愛情を懸けられたのは、全て弱い立場にあった民衆や心身の障害を抱えた人々、障害ゆえに差別を受けていた人々でした。イエス様は、神様の本質を教えられ、福音の為に全身全霊を傾けられ、「律法を完成させる」という御自分の使命にあった答えをされたのです /n「人間にできることではないが、神にはできる。」(27節) 「金持ちの男」は、弱い(貧しい)人を愛するという神様の御性質に倣って、神の御子に従うという内容が、自分の欲求に合わず立ち去りました。 イエス様は、愛情を懸けたこの「金持ちの男」が離れていく様を見て、富に対する人間の執着が、神の国に入ることを阻止していると指摘されました。富だけでなく、人をこの世に縛るのは、安易な愛情、名声、簡単に手に入る楽しみなどが考えられます。その未練を捨てることの難しさは、「ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」ほどです。「金持ちの男」が求める、この世に合わせた基準や、悔い改めのないまま、神の国に入ることは絶対に無理であり、「人間にできること」ではありません。 悔い改めは、自分中心の生き方から神様中心に生きる生き方に方向転換することです。 この世の執着を捨てることは「出来ない」と考えている人間でも、悔い改めをもって真剣に救いを願うならば、「何でもお出来になる神様」は、どのような者でも「お救いになることが出来ます」。 「世界の主権は神様にある」ことを再確認し、そのような神様に、私達は眼を懸けていただいている、その恵みに感謝して歩みたいと思います。(後略)。

「神の平和」  牧師 佐藤義子

/n[詩編]97編 7-12節 すべて、偶像に仕える者/むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。 シオンは聞いて喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る/主よ、あなたの裁きのゆえに。 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。 /n[フィリピ信徒への手紙] 4章 1-9節 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 /nはじめに 日本基督教団では、毎年8月第一週の日曜日を、平和聖日として守っています。フィリピ書3章20節に、「私達の国籍は天にある」(口語訳)とあります。イエス・キリストを信じる者は、この地上における国籍とは別に「神の国」の「国籍」を持っています。神の国の民とされた者には、終末の時、復活の約束が与えられています。では、天に国籍を持つ者は、この地上において、どのように生きるべきでしょうか。 /nどこに立つか 今日読んだ1節には、「主によってしっかりと立ちなさい」とあります。 「主によって立つ」は、「信仰の中に立つ」、「恵みの中に立つ」、「福音の中に立つ」という言い方もされます。「主によって立つ」者は、その存在自体が「主」に属していますから、「主」によって生き方が定められます。主体が「主であるイエス・キリスト」、従が「わたくし」です。つまり、「わたくし」は、イエス・キリストに従う者、イエス・キリストを主人として、その主人につかえる「しもべ」といえます。(これに対して、神様を信じない者は、主体も従も「わたくし」(=自分が最高決定者)ということになります。) 主によって立つ者、すなわち天に国籍を持つ教会の人々に対して、4節以下では、教会がどのような群であるかを指し示します。 まず、教会を支配しているのは喜びです。この喜びは、イエス・キリストを主として仰ぐことを根拠とした喜びであり、その喜びの中に留まり続けるようにと命じています。   *「あなたがたの広い心が全ての人に知られるようになさい」(5節) 「広い心」とは、権利とか建前にしがみついたり、こだわったりせず、よりよい善のため、とりわけ愛する者の為に、本来あるべき姿から離れて行動する、柔軟で寛容な考え方を意味します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6-)とあるように、です。そしてこの後すぐに再臨が近づいていることを告げます。この「広い心」は、再臨のイエス・キリストに関心が向けられ、私達が主の御前に立つことを考えたなら、誰に対してもかたくなにならず、しがみついている様々なことから解き放たれて、こだわりが消え、柔軟で寛容な広い心を持つことが可能となるということでしょう。 /n「どんなことでも思い煩うのはやめなさい」(6節) 思い煩いとは、自分の未来を何とか自分の手の内に握ろうとする人間のあがきであるともいえます。しかし思い煩いは、「先ず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)という戒めを妨げるものです。 未来を左右するのは神様だけです。ですからパウロは、悩み心配する代わりに、「祈る」ことによってキリスト者の特権を用いるように導きます。キリスト者の祈りは、感謝と賛美が伴います。私達の為に正しく配慮して下さる神様の前に、すべてのことを神様の支配に委ねる信仰をもって祈るのです。キリスト者の祈りは、この世の御利益宗教のように願い事だけ祈るのではなく、感謝を基礎とする信頼の表明でもあります。  /n神様の平和   神様は、私達を救う為に、御子イエス・キリストを私達のもとに遣わされました。私達が、それぞれの罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて受け入れ、従う時、思い煩いから解放され、感謝を込めて、求めていることを神様に打ち明けることが出来ます。そしてその時、私達の心の中はこの世のものではない、神様の平和(神様の恵み・神様の憐れみ)に満たされます。 「神様の平和」は、神様だけからくる「平和」なのです。

「神の祝福を拒む者と喜ぶ者」    伝道師 平賀真理子

/n[創世記]1章27-28節、2章24節 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 /n[マルコによる福音書]10章1-16節 (1)イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。 (2)ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。(3)イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。(4)彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。(5)イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。(6)しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。(7)それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、(8)二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。(9)従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(10)家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。(11)イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。(12)夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(13)イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。(14)しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(15)はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(16)そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 /nはじめに  「夫が妻を離縁することが律法に適っているかどうか?」ファリサイ派の人々は、イエス様に尋ねました。律法には、離縁と再婚についての掟が書かれています(申命記24章)。 /nイエス様の答え 「モーセは何と命じたか」と、イエス様は彼らのよりどころとするモーセの律法に立ち返って質問されました。彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。イエス様は、「そのような掟が書かれたのは、人々の頑固な心の故であり、積極的に離婚を勧めているのではない」ということを指摘されました。「心が頑固」とは自分の醜い欲望を是認して、自分の都合のいいようにまかり通そうとする心の性質を示しています。それこそが、まさに「罪」であり、この人間の止むに止まれぬ「罪」こそがイエス様を十字架に付けることになるのです。 /n結婚の祝福 ファリサイ派の質問に対して、イエス様は次のことを明らかにされました。「天地創造主なる神様は、人間をご自分の似姿として創られ、男と女に分けて創られたこと、そして、一人の男と一人の女の二人が一つとされるという結婚の形を通して、ご自分の創られた世界を治めるようにされ、それが神様の祝福として人間に用意されたものであったこと」です。 神様の祝福は、単に二人が肉体的に一つになる事だけでなく、全存在的(肉体的、精神的、霊的、社会的)に一体になるという包括的なことを意味します。 /n「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」 イエス様は、モーセよりも更に根本の、偉大な神様の御心を根拠として離縁の問題を読み解かれました。神様の打ち立てて下さった祝福としての結婚が包括的なものである以上、二人で、その形を、少しずつ時間とエネルギーを懸けて、建設的に造り上げていくことが、神の国の民として求められていることでしょう。 /n姦通の罪 イエス様はこのあと、結婚した妻を(自分の欲望を中心に考えて)離縁して他の女をめとる男も、逆に、女性から離縁を切り出し、他の男性と再婚する女性も、相手に対して姦通の罪を犯すことになると警告しました。 結婚は、人間に対する神様の祝福ではありますが、同時に自分中心になりやすい罪深い人間にとっては、一つの試練ともなり得ます。 テサロニケ書には次のように記されています「実に、神の御心は、あなた方が聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。(略)神が私達を招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせる為です。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです」(I:4:2-)  /n「子供達を来させなさい。妨げてはならない。」  この後、人々が祝福を求めて子供達を連れて来ましたが、弟子達は叱りました。イエス様はこれを見て憤られ、子供達を抱き上げ手を置いて祝福されました。神様の祝福は、神様に向かおうとする人々に対しては開かれており、豊かに、広がりゆくものなのです。 私達は、神様の祝福を喜ぶ者として、神様の平安の中で導かれて歩んでいきたいと思います。