説教要旨 「ユダの裏切り」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章14-25節 14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、 15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。 17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。 28 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」 19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。 20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。 21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。 24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」 /nはじめに  12弟子の一人ユダが祭司長のところに行き「あの男(自分の生涯をかけて今まで従ってきた主イエス・キリストのこと)をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(15節)と尋ねました。居場所を探す敵方の当局に、ユダはイエス様の身柄を引き渡す用意があることを告げたのです。なぜ、ユダはこのような気持になってしまったのか。いくつかの小さな点ともいえる出来事が、ある時のある点でつながり、それまでの方向とは全く別の方に引っ張ってしまうことがあります。又、たった一度の出来事が、これ迄のすべての歩みを空しくさせてしまうこともあります。昨年秋の礼拝で、佐々木哲夫先生はユダの裏切りについて語られた時、ベタニヤでの出来事を引用しながら、弟子達の期待とイエス様の現実の食い違いを挙げられ、イエス様よりも自分の主義主張を優先させたことにあると語られました。「だから、目を覚ましていなさい」(24:42)との御言葉は、サタンの介入を許した(ヨハネ13:27)ユダにならない為の、私達の魂への言葉でもあります。 /n過(すぎ)越(こし)の祭り  今日の聖書の20節からは過越の食事の場面の出来事が記されています。過越の祭りは、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時に、神様の大きな恵みと憐れみによってモーセという指導者が与えられ、エジプトを出て自由の民とされた、その「出エジプト」の際の食事を再現し、子供達・孫達に選民イスラエルの歴史を語り伝えていく祭りです。 /n「わたしを裏切ろうとしている」  日没後に始められたこの正式な会食の途中で、イエス様は突然12人の弟子達に向かい「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」と言われました。一瞬、時が止まったような、重い沈黙が流れたことでしょう。そしてその沈黙に耐えられず誰かが口を開いて「主よ、まさか私のことでは」と一人がいうと、他の人もかわるがわる言い始めました。自分は裏切らないと思いつつも、イエス様に私ではないと念を押してもらわなければ不安な弟子達の姿が伝えられています。人間は誰でも裏切る可能性を持っているということです。ペテロが「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(35節)と大変頼もしい返事をしたにもかかわらず、三度もイエス様を知らないと言った話はあまりにも有名です。 /n「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。人の子は、聖書に書いてある通りに、去っていく。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」  鉢(パンや肉を浸すスープを入れてある器)は手を伸ばすか回すかして会食したので、特定の人を指す言葉ではないようです。人の子(イエス様)がこの世を去るのは、聖書の預言の成就です。イエス様は神様のご計画に従って歩むのみです。即ち、人間の救いのご計画に向かって、愛する弟子の裏切り行為の中を、毅然としてご自分の道を進まれていくのです。同時に、裏切る者の責任は問われます。その者は不幸だ、と言われます。神の御子キリストを売り渡す者は、滅びの道に行くしかないからです。 /n悔い改めの時を逃したユダ  イエス様から「裏切る者は神の裁きを担わなくてはならない」ことを言われた時、ユダはその恐ろしさの前で悔い改めることも出来たはずでした。しかし彼は心を頑(かたく)なにして、自分の秘密が暴露されることの方をより恐れました。彼は知らないふりをして「まさか私のことでは」と悲しんでみせ、裏切りをあたかも嫌っているかのように振る舞いました。このユダの言葉に対して、イエス様は「それはあなたの言ったことだ」と、ユダが自分の心の中にあることを明らかにした言葉として返答されました。教会で罪を語るのは、罪を赦して下さったお方がいることを伝える為です。すべての方が、罪の赦しを受けるように招かれています。招きに答えるとは、自分の中にある罪を認めて悔い改めることです。  ユダは、イエス様の有罪の判決が下ったのを知って後悔して銀貨30枚を返しにいきますが、断られて首をつって死んだと27章に記されています。何とも悲惨な結末です。ユダは自分で自分をさばいたのです。人は自分をさばくことはできません。裁く方はただお一人神のみです。神様のなさることを人はしてはならないのです。ユダは悔い改めるべき時を失い、赦しをうける機会を逃しました。 /nおわりに  今朝は「ユダの裏切り」と説教題をつけて語ってきました。では今朝の聖書の主人公はだれかと問われるならば、それは神様であり、御子キリストです。私達は、この御子イエス・キリストが十字架への道を歩んでくださったからこそ、今、罪ゆるされ、平安と恵みの中を歩むことができるのです。コリント2章には、今や恵みの時、今こそ救いの日、とあります。ここにおられるすべての方が、私達と一緒に、神様に従う真理の道を歩まれるよう祈るものです。

説教要旨 「最も重要な教え」 牧師 佐藤義子

/n[申命記] 6章4-9節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 /n[マタイによる福音書] 22章34-40節 34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38 これが最も重要な第一の掟である。 39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 /nはじめに  旧約聖書には、律法と呼ばれるものがありました。これはモーセを通して神が人間に守るべき教えとして与えられた戒めです。イエス様の時代、当時のユダヤ教徒はどのくらいの数の戒めを知り、そして守っていたのでしょうか。註解書によればその数は613だといいます。これを248と365に分け、初めの248(人間の体の骨の数)は「○○しなければならない」教えで、後の365(一年の日数)は「○○してはならない」教えだと言われます。 /nファリサイ派の質問  以前もイエス様をわなにかけようと、税金を皇帝に納めるべきか否かと尋ねたファリサイ派の人々(15節以下)が、再び質問しにやってきました。「律法の中で、どの掟が最も重要か」という問いです。民衆はイエス様の語る神の国の福音に耳を傾け、その教えに驚き、目を見張り、尊敬しました。それは、自分達がこれ迄築いてきた権威が崩されていくことでもあり、彼らにとって、イエス様は無視出来ない脅威の存在でした。その為に彼らはイエス様の影響力にとどめを刺そうと、答えに窮するような質問を用意しました。この問いは、彼らの間でも、議論になっている問いでした。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。イエス様は律法を613から成る集合と考えず一つのものとして考えました。そしてその中心にある核として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(38節)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(39節)を取り上げられました。これは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)と、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)からの引用です。 /n神への愛と隣人への愛  イエス様は、神様への愛と隣人への愛の二つの教えを一つとし、同じ重要性をもっていることを教えられました。律法が613であろうと、1000、2000あろうとも、すべての戒めがここから出てここに帰るというのです。私達の心が神様への愛によって動かされているならば、私達の全生活を神様のレールの上に乗せることになります。神様を愛するとは隣人を愛することです。なぜなら神様が人間を大切に考え、隣人に対する私達の愛を求めているからです。神様を愛しているという人が人間を軽く考えることはできません。又、人間を大事に考えるならば、神様を軽く見ることはできません。なぜなら神様を見失ったら私達の心から愛が乾いていくのです。神様は、私達が人間に仕えることによって神に仕え、神に仕えることによって人間に仕えることを命じておられます。 /n私達の生きる基準  神様への愛、そして人への愛が芽生えて活発になると、どうしたらもっと愛せるようになるのか、どういうふうにして神様に仕え、隣人に仕えていけばいいのか、その手段、方法を熱心に考えるようになります。ここで、イエス様が教えておられる愛は、神の愛(アガペーの愛)です。神様の愛(神様が一人子イエス?キリストを私の為に遣わして下さった)を学んだ者は、その愛が私一人にとどまらず、家族にも友人にも親族にも知人にも及ぶことを知り、そのことに心を傾けていきます。神への愛と隣人への愛の教えは、私達の義務?責任の基準を私達に与えてくれるのです。  イエス様は、このいましめを示すことによって、正しいことと正しくないこと、あるいは義務と罪がごちゃまぜになることがないようにされました。何が善で、何が悪であるのかを示されました。とりわけ教会の中においては、この教え、神への愛と隣人への愛が、中心に据えられているかどうかが、教会が教会であり続けているかどうかの基準となります。イエス様は「律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいている」と言われました。「律法全体と預言者」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は、この二つのいましめが、ちょうつがいの金具の働きをしている、とイエス様はいわれました。 /n「神への愛」と「隣人への愛」の内実  それは十戒に示されています。神を愛するということは神を神とすることであり、神以外の者を神としない、神でない偶像を拝まない、神の名前をそまつにあつかわない、礼拝を厳守する、神が与えた両親を敬う、ことです。隣人を愛するとは、隣人の命を守り、隣人の家庭を守り、隣人の自由を守り、隣人の名誉を守り、隣人の財産を守ることです。又、それは山上の説教にも示されています。たとえば、憐れみ深くあること、平和を愛すること、義のために迫害を受けること、隣人に腹をたてたり、ばか?愚か者といわないこと、仲たがいをしているならば和解をする、あるいは自分に負い目を持つ者を赦す、人をさばかない、ということです。  私達は、律法やいましめにがんじがらめにしばられているのではなく、そうではなく、神様からの祝福の道への招きとしてこの二つの戒めが与えられています。私達はこの招きにこたえるのか、それとも背を向けるのか、道は二つです。すべての道はここから始まり、ここに帰ることを思い、私達のすべての判断?決断?実践がここに基準を置いている歩みでありたいと願うものです。

説教要旨 「生きている者の神」 牧師 佐藤義子

/n[出エジプト記] 3章13-15節 13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。 /n[マタイによる福音書] 22章23-33節 23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。 24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。 26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。 27 最後にその女も死にました。 28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」 29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。 /nはじめに  本日の聖書にはサドカイ派の人々が登場します。彼らはイエス様に質問をしますが、その目的は自分達の「復活はない」という考えを論証する為に、そして復活を語るイエス様の矛盾を指摘し、イエス様が答えに窮する姿を期待して来たのです。彼らのような、自分達の権威を見せびらかす為、又、相手の社会的評価を引きずり下ろすことを目的に、悪意をもって質問する姿の中に、私達は人間にひそむ罪をみることが出来ます。そしてこの問答がイエス様のエルサレム入城後の十字架にかかられる週の出来事であり、あの手この手でイエス様を陥れようとする反対者達の勢いを見ます。 /nサドカイ派とは  彼らは主に祭司階級に属し、富があり、大祭司を選ぶ特権を持ち、保守的な人達でした。同じユダヤ教でありながらファリサイ派との大きな違いは、ファリサイ派が書かれた律法だけでなく口伝律法や習慣的規則をも重んじていたのに対して、サドカイ派の人達は旧約聖書の中でモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)だけをモーセの権威による書物として認め、そこに復活の記述がないことから復活はないと主張していました。復活を信じない=肉体が死ねば魂も共に死ぬ、との考えです。[ファリサイ派の人々は、ダニエル書やイザヤ書、エゼキエル書などを根拠に復活はあると主張し、復活を否定する者は来るべき世にあずかることは出来ないと主張。] /nレビレート婚  サドカイ派からのイエス様への質問は、モーセ律法の中にあるレビレート婚(申命記25:5以下に記述)を取り上げて、復活の矛盾をつくものでした。それは夫に死なれた妻が子供がなく残された場合、夫の兄弟がその妻をめとって子孫を残さなければならないという規定です。サドカイ派は、レビレート婚を適用すると復活の時はこの女は誰の妻になるのかと質問しました。レビレート婚を定めた律法を否定するのか、それとも復活はないとの自分達の主張に同意するのか、どう答えるのかを試したのです。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。「あなたたちは、聖書も神の力も知らないから思い違いをしている」。  ある神学者は、「今日のキリスト教の世界においても、この二つの欠乏(聖書を知る事の欠乏と神の力を知る欠乏)ははなはだしく、大体において考え方がサドカイ派の人々と同じたぐいである」と言っています。クリスチャンにとって聖書を知ることと神の力を知ることは不可欠です。聖書だけを知って神の力を知らない者は、聖書の文字に捕われて神様の力の自由な活動を見ることは出来ませんし、逆に神様の力を知っているけれども聖書を知らない者は、神様の力がどの方向に働いていくのかわからず悪の力と混同することが起こります。 /n「復活の時には天使のようになる」  復活の時は、誰の妻とか誰の夫とか、人間が誰かに属している形で神の前に立つことはないことをイエス様は教えられました。コリントの手紙15章には「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」とあります。サドカイ派の一番の問題は、復活はないと主張する根拠がこの世の延長としての死後の世界を考えていたからです。(中略)私達には知らない事・わからないことが多くあります。それは、私達が創られた存在、被造物だからです。創ったお方(全知全能の神)がすべてをご存じです。私達は「聖書も神の力も知らないまま思い違いをする」ことがないように、聖書をよく読み、神の力を知る真の信仰の道(それは同時に祝福への道)へと導かれたいと願うものです。最後に、コリントの手紙2章をご一緒に読みたいと思います。

説教要旨 「福音のはじめ」 川上麻里先生(岩沼教会伝道師)

/n[イザヤ書] 55章6-7節 6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる /n[マルコによる福音書] 1章1-8節 1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 /nはじめに  天地を創造された神は人間をとても愛して下さり、親しい友人のような交わりを持ちたいと思っておられます。あなたは今、神とそのような交わりを持っておられるでしょうか。もし、私にとって神がとても遠くにおられる方であるなら、その神との交わりを妨げているものは何でしょうか。それはきっと、神なしで生きていけるという思い、自己中心が、あなたと神の間を(隔てたのです。)聖書ではそれを「罪」であるというのです。 /nイエス・キリスト  罪とは「的外れ」という意味です。今、救われてクリスチャンになった私でさえ、かつては自己中心で傲慢な人間でした。私は無神論者の家庭で育ち、何で神を必要とするのかわかりませんでした。このような私に神が近づいて罪を示して下さったのは、生きる意味を失って死のうとさえした時、自分が自分ではどうしようもなくなった時でした。憐れみ深い神様は、神を神とも思わない傲慢な私のために死んで下さり、私の罪をまったく赦して取り除いて下さったのです。この神こそ私達の愛する神の御子イエス・キリストでした。このお方は私だけでなくあなたの罪をも赦し、父なる神との交わりを回復して下さいました。あなたも、このキリストを信じることによって、天の父なる神と親しく語り、交わることが出来るようになるのです。 /n祈り  クリスチャンになると祈ることを知ります。祈りの冒頭には必ず「天におられる父なる神様」と呼びかけ、最後には「イエス・キリストの御名によってアーメン」と祈ります。イエス・キリストの名前によって祈るなら、すべて父なる神様に通じていく。こんな素晴らしいことはありません。ここに神との交わりが成立するのです。人間は一人でこの世に生れ、一人で死んでいかねばなりません。家族や友人も永遠のものではないのです。そういう意味では人は誰しも孤独な存在です。それはクリスチャンであっても同じです。しかし神に祈る人は、天からくる喜びを知る人です。たとえ人間同士でつまずき傷つけ合うことがあっても、神に祈るなら、必ずそこから解決が与えられるのです。誰でも人に言えない悩みうめきを抱えて生きています。人に理解されない悲しみ・痛みを持って生きています。 そのような私のすぐそばに来て、「わたしに(委ねなさい」とすべての重荷、わずらいを取り去ってくださるのが、私達の主イエス・キリストです。 /n神の子イエス・キリスト  今朝のマルコ福音書の冒頭は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一言から始まります。マルコの福音書の特長は、第一に「最初に書かれた福音書である」、第二に「誕生の記述がない」、第三に「イエス・キリストとは誰なのか」を速やかに語っています。この第三の答えが、冒頭の「神の子イエス・キリスト」なのです。  イエスとはギリシャ語の読み方で、ヘブル語では「ヨシュア」となります。ヨシュアとは、「ヤハウェ(神)は救いなり」という意味があります。キリストとは「油注がれた者・救い主」という意味です。つまりイエス・キリストとは、イエスは神の子でありキリストだというのです。この(福音)(良き知らせ)が、これから始まる物語であるということです。イエスがどんな神の子で、どのような救いをもたらしたのかが、このマルコ福音書16章の中に書かれています。 /nバプテスマのヨハネ  さて福音書の初めに登場するのは何とイエスではなく、道を整える者としての洗礼者ヨハネです。2節のカッコ内は旧約聖書の引用です(イザヤ書3章の他、マラキ書3章、出エジプト記23章)。洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)は偉大な預言者の再来として現われました。なぜここに洗礼者ヨハネが登場しなければならなかったのでしょうか。それは、神との交わりの回復のために、どうしても必要なことがあったからです。彼の役目は人々を悔い改めに導くことでした。彼の声は荒野に響き渡り、人々の心の奥深くにある罪をえぐり出したのです。主の道をまっすぐにするというのは、まさに人々が神の福音を受け入れやすい状態を作ることに他なりません。今まで神のことに無関心だったり、自分の罪を考えたこともなかった人、この世の生活に十分満足していた人に飢え渇きを起こさせ、もっと素晴らしいお方を迎えられるように一人一人の魂を整えたのです。彼は罪の赦しの為、悔い改めの洗礼を授けていました。人々はヨハネのメッセージを聞く為に、ぞくぞくとやって来ました。ユダヤの全土、エルサレムの全住民が自分の場所を離れて彼のもとに集まってきたのです。 /n神の声を聞く  ここに隠されている真理は、人々が「自分の居場所から出かけて行って、福音を聞こうとした」ことです。私達も神の声を聞く為には慣れた生活の場所を離れなければならないのです。生活の変化を恐れたり、出て行くことにちゅうちょしていては、いつまでたっても福音を自分のものにすることは出来ません。あなた自身が変わりたいと思うならば、神の恵みの中に出ていくことを決心することです。今の時代の私達の出ていく場は教会です。神のメッセージが語られ、罪のゆるしと救いが宣言される場所が教会だからです。 教会は神の声を聞く場所なのです。 /n方向転換  「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは(背いた)お前達をいやす。」(エレミヤ書3章22節)。神に背けるイスラエルの民に、神は大きな愛をもって悔い改めを(うながしておられました。再三再四呼び掛けられました「私に立ち帰れ」と。「立ち帰れ」とは、神に背を向けていた人が向きを変えて、神の方を向くことです。「悔い改め」とはそのように心の方向転換のことなのです。神は想像を絶するほどの愛で人の罪を赦そうとされるのです。又、背きの罪を赦すだけではなく、ここでは「いやす」とさえおっしゃるのです。背きのゆえに傷ついた私達をいやすとは、一体どんな大きな愛でしょう。どんなに神を忘れ、神をおろそかにした人でも、神は悔い改めのチャンスを用意しておられるのです。 /n集団から個人へ  旧約時代と新約時代はイエス・キリストを境にして変わりました。神の目は、集団から個人に向けられました。エレミヤ書では「背信の罪」はイスラエル全体のことでした。しかし洗礼者ヨハネのもとに来た人は、各々、自分の罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けたのです。今、神は一人一人に呼びかけておられます。あなたは今、神の前に赦していただかなければならないことはありませんか。神にさからって生きていませんか。私達は誰一人として罪を逃れる人はいないのです。聖書の民・神の民・選びの民であった「イスラエル」でさえ、悔い改めることなしに福音を受け入れることは出来ませんでした。パウロは、ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪のもとにある(ロマ書3:9)と指摘しました。神の民も、そうでない異邦人も、全て同じ罪のもとにあるということなのです。今まで律法を守れば救われると思っていたユダヤ人でさえ本質的に罪が支配している事をパウロは大胆にも指摘しました。 /n罪を告白し、祈る  ではクリスチャンは一度罪を告白したらそれで良いのでしょうか。  確かに救いの為に必要な悔い改めは一度で十分です。けれども主イエス様が教えて下さった主の祈りには罪の赦しの祈りがあります。主の祈りを、私達は礼拝の中でだけで祈っていますが、礼拝の中だけの祈りではありません。私達の生活のただ中で祈る時、その力が発揮されてくるのではないでしょうか。私は今日この礼拝に初めて参加させていただき、「ざんげの祈り」に喜びを感じました。悔い改めは、神の恵みの大きな一歩なのです。悔い改めは神の前に自分を(空)しくして聖霊の働きやすい心となるのです。自分の罪を認めること・・これほど福音に対する備えはありません。自分が正しく自分が中心でこの世が廻っている間は見えなかったものが、見え、聞こえなかったものが、聞こえてくるからです。神の前に自分を低くして赦しを求める心こそ、神様の賜物・プレゼントなのです。新しい選択・新しい人生は、自分の罪を告白し、悔い改めることから始まります。 /nイエス・キリストを指し示したヨハネ  さて聖書に戻りますが、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めを勧めたのは、彼の後に来られる方の為でした。彼の後に来たのは、まぎれもなく福音そのものの御方、イエス・キリストです。しかしこの時、まだイエス様は現れてはいませんでした。ヨハネはまだ見ぬ救い主の為に「私は、その方の履物のひもをとく値打もない」と言いました。履物のひもを解く行為は当時奴隷の仕事だったようですけれども、ヨハネは自分を、その方の奴隷の値打ちもないほどだと自らを低くしています。ヨハネ自身も多くの弟子を作り、ヨハネ教団といわれるものを形成していたにもかかわらず、自分をそのように言いました。洗礼者ヨハネはあくまで後から来られるイエス・キリストを指し示す者でしかありませんでした。けれどもヨハネのことを、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:12)と言われました。  なぜでしょうか。それは彼の役割が罪を告白するまでのものでしかなかったからです。もし罪を指摘されるだけで終ったならば、その人はどうやって立ち上がれるでしょう。水のバプテスマは悔い改めの洗礼ですが、イエス様の洗礼は救いをもたらす洗礼だったのです。ヨハネは言います。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」イエス・キリストは神の子ですから、彼には神の霊が豊かに注がれているのです。マタイとルカでは「聖霊と火でバプテスマをお授けになる方」と書かれています。これは裁きをも表しているのではないでしょうか。一体誰が、聖霊と火によるバプテスマに耐えられるでしょうか。それは心から神の前に自分を低くして悔い改めた魂ではないでしょうか。聖霊と火には大きな力があります。火は不必要なもの・役に立たないものを焼きつくす力があります。聖霊は人々の心の奥にひそむ汚れた思いさえ見抜いてしまいます。見かけはきれいに飾っていても、聖霊は魂の中に入って真実を明らかにするのです。だから主イエス様は「隠されているもので知られずに済むものはない。」(マタイ10:26)と言われたのです。 /n神の愛が電流のように  私達は今、「聖霊と火によって洗礼を授けてくださる方こそ救い主イエス・キリストである」と信じています。今は、受難節です。主の御苦しみをより深く心に刻み、主の苦しみは「私達、罪にあえぐ一人ひとりを救い出して神の御国へ連れていく為である」ことを心に留めたいと思うのです。あの方の死と復活-イエス・キリストの死と復活-なしに、私達の真の救いはないからです。そして何よりも、「あのお方の死が私の為である」と心から思える時、きっと神の愛が電流のように流れて、体のすみずみまで沁(し)み渡ることでしょう。まことの悔い改めし魂にこそ、神の愛が豊かに注がれるのです。   (文責:佐藤義子)

説教要旨 「神のものは神に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 22章15-22節 15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。 /nはじめに  当時のユダヤ人はローマの支配下に置かれていた為、国内の神殿税の他にローマ政府に納めなければならない人頭税(14歳{女子12歳}から65歳迄)がありました。申命記17章には「必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上にたてることは出来ない」とあり、十戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあります。ローマ皇帝に税金を納める行為は、その王権を認めることになり偶像崇拝者の仲間になることだと考えられ、人々の間には抵抗感や拒否反応がありました。 /nわなをかける  そのような背景のもとで、ファリサイ派の人々がイエス様の言葉じりを捕えてわなにかけようと納税問題を取り上げたのです。しかも彼らは立場の違うヘロデ派のグループと結託してやってきました。わなは巧妙にかけられました。「先生、私達はあなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」この賞賛の言葉は、「納税はローマ皇帝の統治に服従することであり、神がイスラエルに定めた道とは正反対だから、神の道を教えるあなたは、賛成のはずがありませんね」「この問題について、反ローマの態度を掲げることは誰をもはばからない勇気を必要とすることであり、あなたにはそれがありますね」ということです。そして自分達がこれからする質問に対して、正直に答えるようにとの強い命令を含みながら、「皇帝への納税は、律法に適っているか、いないか教えてください」と、表面上はいかにもけんそんに尋ねたのです。「律法に適う」と答えれば「神の教えに背く」として、民衆の気持はイエス様から離れていきます。「納める必要はない」と答えるならば、ヘロデ派からローマヘの反逆者の烙印が押され、イエス様を亡き者にするための、一番の近道になることでしょう。 /nイエス様の答え  イエス様は彼ら達の悪意を見抜かれ、税金を納めるデナリオン銀貨を持ってくるよう求められました。銀貨のおもてには、皇帝の肖像と共にテベリウス・神・アウグストスの息子という文字が刻まれており、裏に皇帝の母リビアの像と最高司教の文字が刻まれていたということです。イエス様は「これは誰の肖像と銘か」と尋ねられ、彼らが「皇帝のものです」と答えると、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。ユダヤの人達がローマという外国の銀貨・そこに彫られていた肖像や文字に必要以上にこだわり、納税という行為に自分の良心を苦しめているけれども、神様という方はご自分の為にそのようなことにこだわる方ではない。皇帝の要求が、税金というお金にかかわっていることであるならば喜んでそれを満たしなさい。ローマから来るものは、安心してそこへ送り返して差し支えないということです。 /n「神のものは神に返しなさい」  イエス様はさらに、「神のものは神に返すように」と求められました。神様は皇帝に属するものはお求めになりませんが、神様に属するものは求められます。ファリサイ派の人達は神様を唯一の主として礼拝しながら、神様に属するものを神様から奪っています。たとえば神様の神聖さを汚し、お金の方を神聖なものであるかのように振舞い、神様に属する平和よりも争いの方を選んでいます。又人間は神様から命の霊を吹き込まれ神様に似せて造られている(特にユダヤ人には賜物として神様の言葉と戒めが与えられていた)にもかかわらず、上から与えられたものを再び神様への奉仕という形で上に昇らせることをせず、与えられた光を輝かせず、神様に栄光を帰さず、恵みに感謝をささげず、御言葉に対して信仰をささげることに自分達のその熱心さを使わず、皇帝の肖像付き銀貨での税金を納めるか否かで頭を悩ませ心を使っていたのです。イエス様は見える地上の事柄の中に偽りの重要性を見抜かれ、それを取り去られました。イエス様はご自分を十字架の死に差し出すことによって、神のものでありながら罪のものとなっていた私達を、再び神様のもとへと返して下さいました。「神のものは神に」・・今生きる私達へのメッセージです。

説教要旨 「礼服を着る」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 22章1-6節 1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」 15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 /nはじめに  今日のたとえは王様が主役です。王は愛する王子の為に結婚の披露宴を開きます。結婚は本人にとっても喜びでありますが、親である王にとっても大きな喜びです。私達は結婚式に招かれた時、新郎新婦の新しい門出を喜ぶと同時に、育ててきた両親と喜びを共にいたします。たとえの中の王は神様、王子とはイエス・キリスト、最初に招待されていたのは選民イスラエル(ユダヤ人)のことです。ユダヤ人は当然、祝いの席に座り、招かれた者の光栄を思い味わいつつ、王や王子と共にこの日を祝い、喜びを受け取るように定められていた人々でした。 /n招待を拒否  ところが彼らは、この光栄ある招待を断るどころか無視(5節)しました。一人は畑に一人は商売に出かけました。彼らは生きる為の経済活動を優先させました。その他の人々は家来を捕まえて殺してしまいました。人は、パンを食べなければ生きていかれません。畑の労働も、商売も大切です。しかし「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)のです。 この婚宴への招待は、招待状を受け取っていた彼らにとって、もはや喜びではなかっただけでなく、王子に対して憎しみさえ抱いていた、ということが想像されます。 /nそこで王は・・  来ようとしない彼らに対して、王は はじめ忍耐をもって別の家来を使いに出しますが(4節)、彼らの応対を知った王は怒り、軍隊を送って町を焼き払ってしまいます。(これはローマ軍によって、紀元70年にエルサレム神殿が破壊され、徹底的に滅ぼされたことを意味しているといわれています。) /n代わりに招かれた者  王は、『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい。』と命じます。そこで家来達は通りに出て行き、善人・悪人問わず、誰でも招きましたので婚宴は客で一杯になりました(8節-10節)。祝いの席には招かれていたユダヤ人ではなく、異邦人が座りました。 /nところが・・  その中に一人だけ礼服をつけずに来た者がいました。王はその理由を尋ねますが彼は答えません。礼服は、王の結婚披露宴の招待に感謝し、敬意を表すものです。逆の言い方をするならば、礼服を着ないことは、招いてくれた相手に、そして招待されたことに対して、軽く見ているということです。王は彼を外の暗闇に放り出すよう側近に命じました。私達は王(神様)の恵みによって招かれて、神の国の祝いの席についていると考えることが出来ます。神様から招かれたことに対して畏敬の念を持ちつつ、招かれた恵みを感謝するものです。礼服を着ていない者とは、「罪を赦されながら、尚、罪を自分のもとにとどめようとする者」「キリストを自らの主と呼びながら、自分自身にだけ仕えている者」という解釈があります。また礼服は、あふれる喜び(義でない私達が義とされた喜び、聖でない私達が聖とされていく喜び)を表していると言われます。私達は祝いの席に礼服をつけて座っているでしょうか。 /n「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(14節)  御言葉を聞く機会が与えられながら聞こうとしない人や、御言葉を聞いても素通りしてしまう人が多い中で、「選ばれる人」とは、御言葉を聞く機会を逃さず、聞くにふさわしい態度で聞き、聞いた御言葉にとどまる人です。御言葉にとどまり従っていこうとすれば必ず戦いが起こります。戦いが起これば弱い私達は助けを求めて祈ります。御心にかなう祈りは必ず聞かれます。今現在、自分の置かれている状況がどんなに厳しい状況にあっても、毎週の礼拝は、神様に招かれている祝福の場であることを覚えて、礼服を着て臨み、御言葉にとどまり続けながら歩みたいと願うものです。

説教要旨 「神の国にふさわしい実を結ぶ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章33-46節 33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。 /nはじめに  今朝の聖書のたとえは、ぶどう園を作った主人が、ぶどう園を農夫達に貸して旅に出ます。ところが、収穫の時期になって収穫を受け取る為に遣わしたしもべ達は、農夫達に殺されてしまいます。主人は別のしもべ達を以前よりも多く送りますが同じように殺されてしまいます。最後に主人は、息子であれば主人の代りとして敬うだろうと考えて息子を遣わしますが、農夫達は跡取り息子がいなくなれば、ぶどう園は自分達の自由になると考えて、この息子をも殺してしまいました。 /nたとえの意味  ぶどう園とはイスラエルの民、ぶどう園の主人は神様です。農夫とは、イスラエルの民を指導する責任を持った人達、しもべとは神様の意志を伝える預言者達のこと、主人の息子はイエス・キリストです。収穫とは人々の信仰の実・信仰の果実のことでしょう。 /n神の愛と宗教的指導者達の反逆  主人は野獣からぶどうを守る為に「垣をめぐらし」、収穫したぶどうからぶどう汁を絞る為に「搾り場を掘り」、収穫を盗人から守る為に「見張りのやぐらを立て」ました(33節)。主人がぶどう園に必要十分な配慮をしたように、神様はイスラエルの民をエジプトから導き出し、彼らに律法を与え、カナンに定着させ、指導者を選び、民を指導者達に委ねました。しかし彼らはその責任を果たさず、神様の意志を伝える多くの預言者達(旧約聖書のイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、アモス書など参照)が遣わされても聞く耳を持たず、遣わされた預言者達を憎み、殺してしまいました。新約の時代に入り神様はバプテスマのヨハネを遣わしましたが、ヨハネも又、正しいことを言った為に捕えられ殺されました。最後に神様は、独り子イエス・キリストを地上に遣わされましたが、キリストご自身、ご自分がまもなく殺されることを預言しています。 /nブドウ園の主人が旅から戻ってきたら・・?  この問いに、彼らは「主人はこの農夫達を殺して、ぶどう園は収穫を納める ほかの農夫達に貸し与えられるでしょう。」と答えました。彼らは自分達がたとえの農夫の立場にいることを自覚していません。 /n旧約聖書の言葉の引用  イエス様は「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 私達の目には驚くべきこと」(詩篇118編22節・23節)を引用しました。退けられた石とはイエス様のことです。イエス様は人々に捨てられ十字架で殺されていくけれども、後になってイエス様が人間の罪を贖う為に重要な救いの業をなされて神の右に座する(親石となる)。これは神様の御業で、私達には驚くべきことです。 /n「神の国はあなたたちから取り上げられる」  イエス様は、祭司長達や民の長老に向かって「神の国は取り上げられる」と言われました。彼らは自分達が宗教的指導者として正しく責任を果たしていると考えており、神様に逆らっているなど思いもよらなかったことでしょう。しかし神の国は彼らから「取り上げられる」のです。たとえで、農夫がぶどう園を任されたのは、主人の一方的な選びと愛によるものでした。この神の特別な配慮による恵みの賜物を忘れて彼らは傲慢になっていました。祭司長や民の長老という特権意識におぼれ、やがては自己絶対化・自己保身に陥り、バプテスマのヨハネを受け入れず、今目の前のイエス様をも拒否しています。伝統が、自己正当化が、彼らの魂の目を盲目にしてしまったのです。主人は必ず旅から帰ってきます。その時に、大いなる憐れみと恵みは取り上げられるのです。 /n「神の国は、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」  悪い農夫から取り上げたぶどう園は、収穫物を主人にきちんと納める別の農夫達に貸し出されます。悪い農夫はイエス様に反抗するユダヤ人、別の農夫とはイエス様を神の子と信じる新しい神の民-キリスト者の群-教会です。神の国にふさわしい実とはイエス様の教えにとどまること、神様の正しさが私達の生活を貫いていくことです。そのように日々生活をしていくことです。隣人を愛する、隣人を赦す、復讐をしない、人を裁かない、神様に求めて祈る、欲することを隣人にするなど、聖書の御言葉が道案内をしています。実を結ぶ神の民とされていきましょう。

説教要旨 「後で心を変えて信じる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章28-32節 28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 /nはじめに  今日の個所は、イエス様の方から祭司長達に「あなた達はどう思うか」と質問をしています。イエス様が語られたたとえは、父親が二人の息子のうち、兄にぶどう園に行って働くように命じましたが、彼は父親に逆らい「いやです」と断りました。父親は弟の方の息子にも同じようにぶどう園に行って働くよう命じました。弟は「お父さん、承知しました。」と快く返事をしましたが、結局は出かけませんでした。一方、兄の方は父親に逆らったことを後悔し、後からぶどう園に出かけて働きました。 /n「どちらが父親の望みどおりにしたか」  イエス様のこの質問に、祭司長・長老達は「兄の方です」と答えました。誰が見ても明らかです。イエス様はその答えを聞いて彼らに言われました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦達の方が、あなた達より先に神の国に入るだろう。なぜならヨハネが来て義の道を示したのに、あなた達は彼を信ぜず、徴税人や娼婦達は信じたからだ。あなた達はそれを見ても後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 /nイエス様の宣告  イエス様が言われたことは、「神の国には祭司長のような宗教的指導者達よりも徴税人や娼婦達が先に入る」でした。それは当時の人々の考えとは全く逆でした。祭司長や長老達は律法を守り、人々を教える立場です。それに対して徴税人や娼婦は、異邦人であるローマ人とかかわりを持ち、律法を守らず、両者とも神の国から最も遠い人達と考えられていました。なぜ徴税人や娼婦達が先に神の国に入るのでしょうか。常識を破ったこの言葉の根拠がこの21章32節に明確に述べられています。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた達は彼を信ぜず、徴税人や娼婦達は信じた」。義の道を宣べ伝え、神の義に至る道を示し、神の支配を伝え、その門戸を開いたヨハネを祭司長達は拒み、徴税人や娼婦達は素直に受け入れました。 /n悔い改めのバプテスマ(洗礼)  ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けました。今迄の自分の生き方は、自分を第一に考え、神様を神様として認めず、自分の判断・自分の考えを優先し、自分自身が最高の位を占めていた。そのことを神様の前に罪として告白し、悔い改めることが悔い改めのバプテスマです。神様は私の創造主であり、私達は神様に従って生きるように造られているにもかかわらず、そのように生きてこなかったことを悔い改めるのが悔い改めのバプテスマです。悔い改めのバプテスマを受けた者は、それ迄の古い自分に死んだということでありヨハネは、自分より後からくるイエス様がその人を「聖霊と火」(マタイ3:11)で新しく造り変えると伝えました。 /nたとえの意味  たとえの「兄」とは、徴税人や娼婦のように神様から与えられた律法を守らず、正しい道に従わず、神様への服従を拒否した人達でした。しかし兄が後で考え直してぶどう園に行ったように、彼らも後から神様の義の道を示したバプテスマのヨハネの声に耳を傾けて悔い改め、神様に従う道に戻りました。一方弟とは、祭司長や律法学者達のような宗教的指導者達のことです。父親に良い返事(律法を認め、律法に従うことを正しいこととする)をして、喜んで神様に奉仕をする約束もしましたが、いざ、ヨハネやイエス様を通して神様から服従を求められても、それに聞き従おうとせず、結局は神様に逆らっているのです。 /n私達へのメッセージ  たとえの「弟」とは、自分を信仰ある者、神様の意志を満たしていると考えていて、実はそうでない者を描いています。自分の考えや感情、言葉だけで「神様」と言い、聖書の考え方に賛成をするのだけれども、神様の意志の実行には至らない人々です。「岩を土台として家を建てた人」ではなく、「砂の上に家を建てた人」のことです。私達はぶどう園に行って働く者になるのでしょうか。それとも返事だけで終るのでしょうか。*迷いや葛藤の中にいる自分をそのまま神様の前に投げ出して神様に受け止めていただく。*神様に降参して悔い改めてゆだねる。・・それが信仰の一歩でありましょう。ロ-マの信徒への手紙2章にこうあります。 >> 「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるのです。」(13節) <<

説教要旨 「新しい朝に」 石巻山城町教会 鈴木淳一牧師

/n[創世記] 32章23-33節 23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。 /n[コリントの信徒への手紙二] 12章7b-10節 7b それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 /nはじめに  夜明け前です。川の水の面も暗くひっそりとしています。この暗さの中で、ヤコブは自分の妻、側女、子供、牛・羊など向こう岸に渡して、今、一人になっています。ヤコブはずっと前に、何も持たずに父イサクのもとを発ちましたが、その間、時間が随分経つ内、財産もいろいろ増えました。妻や子供達もたくさん持つようになりました。ところが今、再び一人になったのです。自分の持ち物を全て向こう岸に渡し、暗闇の中で一人になっています。 /n暗闇  この暗闇は、ヤコブにとって彼の人生の陰の部分を表しています。彼の罪や後ろめたさがこの暗闇の中にあるのです。ヤコブは今、一人になって、この自分の陰の部分と一人向き合おうとしています。彼は兄エサウと父イサクを欺(あざむ)きました。エサウの「長子の祝福」が欲しい為に母リベカと計略をたてて、父イサクを騙(だま)したのです。兄エサウはそのことを根に持って弟ヤコブを憎むようになり、殺意まで持つようになったのです。この事を知って母リベカはヤコブに逃げるように勧めます。そのようなわけで、ヤコブは兄エサウを避けて故郷から離れました。ところが、考えてみて下さい。それにもかかわらず、ヤコブは神様から祝福を受けて念願が叶ったというのですけれども、果たして幸福で嬉しい人生になったでしょうか。兄を騙(だま)したという後ろめたさと、いつ兄が襲って来るかわからない、そういう不安の中で生きていたのではないでしょうか。人には決して言うことの出来ない、暗い過去におびえて生きる人になったのです。 /n暗闇での格闘  ヤコブは義理の父・ラバンの家から多くの財産と大勢の家族を伴ってくるわけですが、そこには「長子の権利」を騙(だま)し取られ、悔しい日々を送っている兄エサウが待っていたのです。ヤコブはもうすぐそのようなエサウに会わなければならないのです。兄エサウはきっと怒りを抑えながらヤコブを殺す機会を待っていたかもしれません。そのような兄エサウとの再会を前にして、ヤコブが兄の敵意をどうにか和らげようと図り、又一方で、エサウが攻撃してきた時の為に必死で備えをする様子が聖書にはよく記されています。いったい自分の実(じつ)の兄に会うのに、こんなに不安で恐れていなければならないとはなんて不幸なことでしょうか。いろいろな人を狡猾に騙(だま)して生きてきたヤコブは今、そのような人生の裏側の暗さに直面しているのです。表(おもて)は確かに成功者に見えます。父から祝福を得たし、子供も財産もたくさん持つようになりました。しかしその成功の裏にある狡猾さ、人を欺(あざむ)いてきたことが彼を不安にしているのです。今ヤコブについて語っていますが、この、人生の裏側・暗い部分、それによる不安・恐れというのは、私共の人生にもあります。この陰の部分が時折、私共の生活の中で顔を出すのです。ヤコブは今、まだ夜明け前の暗闇の中に不安と恐れに包まれています。そして唯一人,神の前に立っています。彼が神様の前で取り組まなければならなかったことは、自分の人生の暗い部分、自分の過去、罪に直面することであり、今その時が来たのです。しかし、その格闘の背後には神様がおられます。つまり、自分自身の暗い部分を通して神様と格闘したのです。暗闇の中で、唯一人で戦いました。  私共もヤコブのように、唯一人になって自分の暗い部分の中で格闘するしかない時があるのです。そしてその格闘の時間を通してこそ神様に出会うことがあります。ヤコブは出来れば避けたい相手、殺されるかもしれない危機を前にして、神様との格闘の機会が与えられました。私共も人生の内でヤコブのような危機に直面することがあるのではないでしょうか。その時こそ神様に出会い、神様と組み合いをする一つのチャンスかもしれません。 /n祝福への執念  ところでヤコブはそのような格闘に勝ったのでしょうか。或いは負けたのでしょうか。 >> 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言った・・」(26-27節) <<  ヤコブは、腿の関節が外れているにもかかわらず、その人を去らせようとしません。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と、粘り強く必死に祝福を求めていたのです。そこでその人は仕方なく、ヤコブを祝福します。出口がない危機に直面して全てをかけたヤコブの祈りであったに違いありません。私共もある問題や危機に直面した時、それを神様の前に出して神と格闘する迄、根気強くその問題に神様の答をもらおうと取り組んでいるでしょうか?「神様、どうか私の過去の罪をお赦し下さい。そして私を祝福して下さい」と粘り強く願っているでしょうか?ヤコブのように・・。 ヤコブの祝福に対する執念というのは、この時ばかりではないのです。兄エサウとの敵対関係になったのも、もともと兄エサウが父から譲ってもらうべき長子としての祝福を、父を騙(だま)して奪い取ったのです。ヤコブは手段と方法を選ばないで、何よりも祝福に固執した人でありました。  _____________________  ある日、兄エサウは疲れ切って野原から帰ってきました。兄エサウは狩猟をする人でした。その時ヤコブは煮物をしていました。お腹が空いていたエサウはヤコブにその煮物を食べさせてくれるように願うのです。その時ヤコブは言います「まず、長子の権利を譲って下さい」。お腹が空いて死にそうになったエサウは、長子の権利等どうでも良いと言いながら、誓いを迫るヤコブの言いなりになって煮物を得る為に「長子の権利」をヤコブにすんなりと譲ってしまうのです。 神様は「長子の権利」よりも「煮物」を選んだエサウを選ばず、ずる賢こく狡猾ではあったけれども、長子の権利を重んじて神様の祝福を求め願ったヤコブを選んで下さいました。エサウの最大の失敗は神様の祝福を軽んじたところにあったといえるでしょう。人間にはお腹がすいても死にそうになっても、命をかけて守らなければならないということがあるのです。どのようなことがあっても絶対に譲ってはならない、そのような領域がある。エサウはそれを知らなかった。軽んじたのです。 /nヤコブからイスラエルへ  ヤコブは神の人との格闘の末に名前が変わります。「もはやヤコブではない。イスラエルと呼ばれるのだ」と神の人から言われます。ヤコブという名前は「足をつかむもの」という意味で、ヤコブが生まれる時に、兄の踵(かかと)をつかんで生まれてきたのでそのように名が付けられました。それは奇しくもヤコブの性格をよく表わしているのです。負けず嫌いで奪い取ろうとする性格、その通りヤコブは祝福を自分のものにする為に、騙(だま)しあざむき、又逆に自分もあざむかれ、だまされ、傷だらけの人生になりました。しかし今、そのような自分の性格と過去のゆえに、不安と恐れの時間に置かれていたのです。それでも今、ヤコブはイスラエルに代わりました。足をつかむ者は、神と戦う人・イスラエルになったのです。名前が新しくなるというのはもう古い人ではなくなったということです。もはや彼は、人の足をつかむ狡猾なヤコブではなく、神と戦って勝った祝福された者・イスラエルになったのです。神から選ばれた者として変えられたのです。神がヤコブの人格の暗さ、罪だらけの暗い人生に光を当てて下さったのです。私共は自分の罪に向かい合う時、それはとても辛い時間です。しかしその向こう側に神様がおられる、そしてその戦いの中で神様の御手によって私共の暗い部分は明るくなるのです。独り子イエス・キリストを私共の為にお送り下さった神様はヤコブの為に、ヤコブの一番辛い時間、ヤコブの所に降(くだ)っていかれたのです。  人は神の御手によって変わります。見方も価値観も変わります。神の祝福には、人を根本から変える力があります。ヤコブが神の人との格闘を終え、神様から祝福され、そこを去ると太陽は昇ってきました。夜明けになったのです。それはヤコブ自身にとってきっと忘れられない素晴らしい夜明け、朝であったに違いありません。自分の罪や狡猾さからきた暗闇から解放された朝でありました。 ヤコブの暗い人生に神様からの光が差し込んできたのです。 /n夜明け  その後、ヤコブは兄エサウと再会するのですけれども、このエサウはヤコブを赦して受け入れるという、実にほほえましい場面が出てきます。神様がヤコブを変えただけでなく更にエサウの憎しみをも変えて下さった。しかし{ヤコブが神様の祝福を重んじ強く願い求めた。だから神様に選ばれた}とは言えないのではないでしょうか。それは、そこにはヤコブが生まれる以前に神様の大きな恵みがあった。不義な者を選び、義として下さる憐れみ深い神、その神様の選びがあったのではないかと思います。人間的には罪だらけのヤコブを義とし、祝福して下さる神様であった。そして祝福の光によってヤコブの陰は消え光の内を歩む人となったのです。これがペヌエルを過ぎてヤコブが迎えた夜明けでした。暗い時間は過ぎ去り、今、光の中を歩むヤコブ-いえイスラエルになったのです。 /nパウロのとげ  しかしヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていました。弱さを持つ人間になったのです。それゆえ今、自分の力でなく神様に頼る人生になりました。恵みによって生かされる、神のものとなったのです。新しい朝を迎え、新しい人生を歩み始めたヤコブが一つの弱さを持つようになったように、パウロも、思い上(あが)ることがないように一つのとげが与えられました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(?・12:5)と言っています。彼はいつも自分を苦しめる刺(とげ)がありました。弱さがあったのです。パウロはそれを取り除いて下さるように三度、神様に願いました。その時、神様から言われたのです。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(同9節)。そこでパウロはこのように告白します。「私は弱い時にこそ強いのです(同10節)。もはや自分の力で生きる人間ではなく、主の力によって生きる者となったのです。 パウロは名門の家庭に生まれ、当時有名な先生のもとで学び、最高の学問であったギリシャ哲学にも精通していました。又、律法を熱心に守っていた宗教人であったのです。パウロはユダヤ人でありましたが、特別な権利のしるしであったローマの市民権を持っていました。いわば当時の人々が欲しがるすべてのものを持っていたといっても過言ではないでしょう。しかし主イエス・キリストに出会った時にそれが誇りではなく、むしろ主から与えられた棘(とげ)、その「弱さ」が誇りであるということを知ったのです。棘(とげ)がある人間になったパウロを、主は、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として選び、用いて下さるようになったのです。 /n祝福への道  又、神様は、独り子イエス・キリストを通して私達をも選んで下さった。私達がどのような者であるにせよ、どのような過去を持っているにせよ、どのような弱さ・とげがあるにせよ、それは関係がありません。私共の暗闇の部分に向き合い、又、神様の祝福を願い求める時、主なる神様は必ず祝福して下さる。その時、暗闇の時間は過ぎ去り太陽が昇る夜明け、「新しい朝」が訪れるのです。 そして自分の弱さを通して、主によって新しく生まれ変わった自分自身を見ることができるのです。

説教要旨 「天からの権威」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章23-27節 23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 /nはじめに  本日の聖書では、祭司長や民の長老が、イエス様の言動に対して「何の権威でしているのか」「誰がその権威を与えたのか」と問い正しています。「権威」(英語でオーソリティ)とは、辞書によれば一番目に、裁定・命令などを強制し得る権力・権威(一般に人を信服させる威信、権威)二番目に委任、権限、職権、認可、承認と説明されています(以下、九番目まで説明があります)。ある神学者は権威を「外的な権力・物理的力」と「内的な力」に分けて考えます。外的な力は、その背景にあるもので成り立っており(たとえば戦争中の軍隊)、背景がなくなれば力も消滅するような性質のものです。それに対して内的な力から出てくる権威は、外側の状況の変化に影響されることはありません。 /n宗教的指導者が問題にしたこと  質問をしてきた彼らは、エルサレム神殿において外的な権力をもっていた人達でした。彼らはイエス様が神殿の境内で商売をしていた人達を追い出した出来事について、又、その他の言動について、その根拠を問いました。イエス様の言動を見過ごしにしてしまったら、自分達の威信が傷ついたままになると考えたのでありましょう。 /nイエス様のこたえ  イエス様は彼らの質問に正面からお答えになりませんでした。イエス様がなぜ神殿で商売している人々を追い出したのかといえば、神殿が、真の礼拝が行われるのにふさわしい場所でなくなっていた(宗教の堕落)からであり、イエス様の行為は、神の子として神様から与えられた権威のもとでなされたということです。しかしそれを語れば、自分を神とし、神を冒涜したこととなり、イスラエル社会では決して許されず、死を意味しました。イエス様が死刑にされたのは結局はこの罪によるものでしたが、今この時点が、ご自分の「その時」とは考えておられませんでした。彼ら達の悪意のわなにかからない為にイエス様は質問を返されました。 /nバプテスマのヨハネの洗礼は、天からのものか?人からのものか?  ヨハネは、今のままでは救われないこと、滅びが待っていること、それゆえに悔い改めの洗礼が不可欠であることを語りました。多くの人々が洗礼者ヨハネのもとで、悔い改めの洗礼を受けました。イエス様は、ご自分の言動の根拠を問い正す彼らに対して、ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか、と尋ねられたのです。 /n分りません  「天から(神様から)」と答えたならば、なぜあなた達は信じなかったのか、と問われるでしょう。何よりもバプテスマのヨハネがイエス様をメシア・救い主と認めていますので、イエス様を受け入れない彼らの信仰は自己矛盾に陥ります。一方、ヨハネの洗礼はヨハネ個人のものだといえば、ヨハネの洗礼を神様から来ていると信じる多くの人々は、祭司長や長老達の不信仰を問題にして、反感を持つだろうと考えました。そこで彼ら達が出した結論は、「分らない」というものでした。 /n「無知」を装う  人は常に曖昧性の中に自分の身を置こうとします。無難であり、自分を隠せるからです。本当にわからないものをわからないというのは正直であり、真実です。しかし彼らは「無知」を装いました。なぜなら自分を罪ある者としたくなかったのです。自分を罪ある者と認めるならば、悔い改めてイエス様の前にひざまずかなければなりません。それはしたくないのです。神殿を背景にした自分達の権威を損なうことは耐えがたく、彼らは自己保身の為に、見せかけの無知を装いました。 /n優先順位  「何が本当なのか?」ではなく「何をいうのが安全か。」「どうすることが自分を守る道なのか」と、外側の権威を優先させて生きる生き方は、人を臆病にし、硬くし、悔い改めの機会を失います。彼ら達は真理の道に戻る機会を、自ら閉ざしてしまった人々でした。私達はどうでしょうか。人から与えられた権威の下で自己を守る道か、それともイエス様と同じ権威の下に身を置いて神に従う道か。決断を求められています。