「神の平和」  牧師 佐藤義子

/n[詩編]97編 7-12節 すべて、偶像に仕える者/むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。 シオンは聞いて喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る/主よ、あなたの裁きのゆえに。 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。 /n[フィリピ信徒への手紙] 4章 1-9節 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 /nはじめに 日本基督教団では、毎年8月第一週の日曜日を、平和聖日として守っています。フィリピ書3章20節に、「私達の国籍は天にある」(口語訳)とあります。イエス・キリストを信じる者は、この地上における国籍とは別に「神の国」の「国籍」を持っています。神の国の民とされた者には、終末の時、復活の約束が与えられています。では、天に国籍を持つ者は、この地上において、どのように生きるべきでしょうか。 /nどこに立つか 今日読んだ1節には、「主によってしっかりと立ちなさい」とあります。 「主によって立つ」は、「信仰の中に立つ」、「恵みの中に立つ」、「福音の中に立つ」という言い方もされます。「主によって立つ」者は、その存在自体が「主」に属していますから、「主」によって生き方が定められます。主体が「主であるイエス・キリスト」、従が「わたくし」です。つまり、「わたくし」は、イエス・キリストに従う者、イエス・キリストを主人として、その主人につかえる「しもべ」といえます。(これに対して、神様を信じない者は、主体も従も「わたくし」(=自分が最高決定者)ということになります。) 主によって立つ者、すなわち天に国籍を持つ教会の人々に対して、4節以下では、教会がどのような群であるかを指し示します。 まず、教会を支配しているのは喜びです。この喜びは、イエス・キリストを主として仰ぐことを根拠とした喜びであり、その喜びの中に留まり続けるようにと命じています。   *「あなたがたの広い心が全ての人に知られるようになさい」(5節) 「広い心」とは、権利とか建前にしがみついたり、こだわったりせず、よりよい善のため、とりわけ愛する者の為に、本来あるべき姿から離れて行動する、柔軟で寛容な考え方を意味します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6-)とあるように、です。そしてこの後すぐに再臨が近づいていることを告げます。この「広い心」は、再臨のイエス・キリストに関心が向けられ、私達が主の御前に立つことを考えたなら、誰に対してもかたくなにならず、しがみついている様々なことから解き放たれて、こだわりが消え、柔軟で寛容な広い心を持つことが可能となるということでしょう。 /n「どんなことでも思い煩うのはやめなさい」(6節) 思い煩いとは、自分の未来を何とか自分の手の内に握ろうとする人間のあがきであるともいえます。しかし思い煩いは、「先ず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)という戒めを妨げるものです。 未来を左右するのは神様だけです。ですからパウロは、悩み心配する代わりに、「祈る」ことによってキリスト者の特権を用いるように導きます。キリスト者の祈りは、感謝と賛美が伴います。私達の為に正しく配慮して下さる神様の前に、すべてのことを神様の支配に委ねる信仰をもって祈るのです。キリスト者の祈りは、この世の御利益宗教のように願い事だけ祈るのではなく、感謝を基礎とする信頼の表明でもあります。  /n神様の平和   神様は、私達を救う為に、御子イエス・キリストを私達のもとに遣わされました。私達が、それぞれの罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて受け入れ、従う時、思い煩いから解放され、感謝を込めて、求めていることを神様に打ち明けることが出来ます。そしてその時、私達の心の中はこの世のものではない、神様の平和(神様の恵み・神様の憐れみ)に満たされます。 「神様の平和」は、神様だけからくる「平和」なのです。

「神の祝福を拒む者と喜ぶ者」    伝道師 平賀真理子

/n[創世記]1章27-28節、2章24節 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 /n[マルコによる福音書]10章1-16節 (1)イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。 (2)ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。(3)イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。(4)彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。(5)イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。(6)しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。(7)それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、(8)二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。(9)従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(10)家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。(11)イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。(12)夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(13)イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。(14)しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(15)はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(16)そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 /nはじめに  「夫が妻を離縁することが律法に適っているかどうか?」ファリサイ派の人々は、イエス様に尋ねました。律法には、離縁と再婚についての掟が書かれています(申命記24章)。 /nイエス様の答え 「モーセは何と命じたか」と、イエス様は彼らのよりどころとするモーセの律法に立ち返って質問されました。彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。イエス様は、「そのような掟が書かれたのは、人々の頑固な心の故であり、積極的に離婚を勧めているのではない」ということを指摘されました。「心が頑固」とは自分の醜い欲望を是認して、自分の都合のいいようにまかり通そうとする心の性質を示しています。それこそが、まさに「罪」であり、この人間の止むに止まれぬ「罪」こそがイエス様を十字架に付けることになるのです。 /n結婚の祝福 ファリサイ派の質問に対して、イエス様は次のことを明らかにされました。「天地創造主なる神様は、人間をご自分の似姿として創られ、男と女に分けて創られたこと、そして、一人の男と一人の女の二人が一つとされるという結婚の形を通して、ご自分の創られた世界を治めるようにされ、それが神様の祝福として人間に用意されたものであったこと」です。 神様の祝福は、単に二人が肉体的に一つになる事だけでなく、全存在的(肉体的、精神的、霊的、社会的)に一体になるという包括的なことを意味します。 /n「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」 イエス様は、モーセよりも更に根本の、偉大な神様の御心を根拠として離縁の問題を読み解かれました。神様の打ち立てて下さった祝福としての結婚が包括的なものである以上、二人で、その形を、少しずつ時間とエネルギーを懸けて、建設的に造り上げていくことが、神の国の民として求められていることでしょう。 /n姦通の罪 イエス様はこのあと、結婚した妻を(自分の欲望を中心に考えて)離縁して他の女をめとる男も、逆に、女性から離縁を切り出し、他の男性と再婚する女性も、相手に対して姦通の罪を犯すことになると警告しました。 結婚は、人間に対する神様の祝福ではありますが、同時に自分中心になりやすい罪深い人間にとっては、一つの試練ともなり得ます。 テサロニケ書には次のように記されています「実に、神の御心は、あなた方が聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。(略)神が私達を招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせる為です。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです」(I:4:2-)  /n「子供達を来させなさい。妨げてはならない。」  この後、人々が祝福を求めて子供達を連れて来ましたが、弟子達は叱りました。イエス様はこれを見て憤られ、子供達を抱き上げ手を置いて祝福されました。神様の祝福は、神様に向かおうとする人々に対しては開かれており、豊かに、広がりゆくものなのです。 私達は、神様の祝福を喜ぶ者として、神様の平安の中で導かれて歩んでいきたいと思います。

「賛美を忘れた九人」   牧師 佐藤義子

/n[詩編]22編25-30節 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。 /n[ルカによる福音書]17章11-19節 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がエルサレムに向かう旅の途中の出来事です。場所はサマリヤとガリラヤの間、丁度境界線のあたりにある村のようです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人が敵対関係にあったことは知られていますが、今日、登場する重い皮膚病(初めの訳ではらい病)の、十人の中に、一人のサマリヤ人がいたということから、病で苦しむ者にとっては民族の対立を超えて、いやしのために、一緒にイエス様に助けを求めたと思われます。 /n重い皮膚病 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭をおおい、『私は汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は、独りで宿営の外に住まねばならない」とレビ記にあります(13:45)。 この病は、皮膚および皮下神経が犯されて奇形を起こし外観も醜くなり皮膚の感覚もなくなる為、当時、「神に打たれてなる病」と考えられました。彼らは「罪ある者、汚れた者」とみなされ、肉体的な苦痛のみならず、精神的にも耐えなければなりませんでした。 /n「祭司たちの所へ行って、体を見せなさい。」(14節)  イエス様に遠くから「憐れんで下さい」と呼ばわった十人に、イエス様は、祭司のもとに行くよう言われました。レビ記14章に、この病が治った時にするべきことは、まず祭司に体を見せて、確かに治っていると判断されれば、清めの儀式を受けることが定められていました。祭司の所に行くのは、この病が治った人達です。ところが彼らは大声でイエス様に癒してほしいとお願いしただけです。それにもかかわらず、イエス様は彼らに、祭司の所に行くようにと指示されたのです。   彼らはその言葉に従いました。彼らはイエス様を全面的に信頼し、言われた通りに祭司の所に向かったのです。その途中で奇跡が起き、彼らは全員癒されました。あれほど苦しんできた病が癒されるという出来事が、彼らの人生の中で起こったのです。天にも昇る心地だったでしょう。苦しみが強ければ強いほど、喜びも又、大きいものです。 /n賛美と感謝 その直後、一人のサマリヤ人が、自分に起こった神様のわざを大声で賛美しながら、その神様の御業へと導いて下さったイエス様に感謝をささげるために戻って来ました。戻ったのは、彼、一人だけでした。 イエス様は言われました、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(17節-) イエス様の失望と落胆は大きかったに違いありません。 /n戻らなかった九人  九人のユダヤ人は、サマリヤ人が戻るのを見ても、「彼はユダヤ人でないのに癒してもらったのだから当然」と見過ごしたのでしょう。自分達(選民)は、このような恵みを受けるのは当然と思い上がり、癒される前の自分がどんなにみじめで辛い日々をすごしてきたのか、どれほどイエス様の癒しを待ちわびていたのか忘れたのです。忘れてならないイエス様の恵みに対する感謝も、この奇跡を起こされた神様の業への賛美も忘れ、自分に夢中で(一刻も早く社会復帰へ!)、自己を優先させました。 /n「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(19節)   賛美と感謝を忘れなかったサマリア人は、イエス様の救いが肉体だけにとどまらず、精神、その心を含めたすべての救いにまで及びました。この救いは神の国に入り、神の民とされたことを意味します。 神様を知っていながら「私は運が良い!」「ラッキー!」という言葉で神様の恵みを終らせるなら、それは神様の恵みを無駄にした九人と同じです。私達は優先順位を間違えず、先ず賛美と感謝から始めましょう。

「弟子と味方」   伝道師 平賀真理子

/n[レビ記]2章13節 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。 /n[マルコによる福音書]9章38-50節 38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49 人は皆、火で塩味を付けられる。 50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 /nはじめに 今日の聖書では、イエス様の名前を利用して悪霊退治をしている人に、弟子のヨハネが、止めさせようとしたことをイエス様に報告をしています。止めさせた理由は「私達に従わないので」(38節)です。 「私達」とはイエス様がリーダーの「弟子達グループ」であれば良いのですが、イエス様抜きの「弟子達」であればかなり問題です。つまり「自分を高くして、他人を貶(おとし)める」という謙遜やへりくだりとは逆の、過去の過ちの繰り返しです。自分達のようにイエス様に人生全てを賭けて従う者だけが弟子であり、そうでない者は仲間に入れない。神様の恵みが彼らに与えられるのを喜べない者は、神の国の民としてふさわしくないのです。 /n「私達に逆らわない者は、私達の味方なのである。」(40節) イエス様の名前を使うことをやめさせようとしたとの報告を聞いたイエス様は、「やめさせてはならない」と言い、彼らは、悪霊退治をした後、すぐにイエス様のことを悪く言えず、彼らは味方である、と弟子を忍耐強く諭されました。更に具体例として「あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と言われています。神様の救いのご計画に何らかの働きがあった者は、神様の豊かな恵みから漏れることはありません。わずかな知恵しか持たない人間は、神様の知恵に到達することは出来ません。神様の救いのご計画に、「味方」と言われる人々のわずかな働きが、人間が思う以上に価値のある働きをするのかもしれません。神の国の為の働きの報酬は、主人である神様がお決めになることで、人間の限りある判断で、救われる可能性のある者を排除してはならないのです。 /nつまずかせる イエス様の価値を知り、その弟子の為に行動する者を、イエス様は、「私を信じる小さな者」(42節)と言われます。「信仰の幼い者」と言い換えることも可能でしょう。その者はやがて信仰において成長し、神の国の民として立派な働きをすることになるかもしれません。  一方、この世的な価値基準を捨て切れていないのが弟子達です。弟子達は、イエス様の教えが分かっておらず、「神の国の民」とは言い難く、そのままでは、将来のある信仰の幼い者達のつまずきになるという危機感がイエス様にはおありだったのでしょう。「つまずかせる」ことは、神様の前で、きわめて、責任の重い大罪です。 /n「片方の手が(足が・目が)つまずかせるなら・・」(43節ー) 手、足、眼。どれも人間に罪を犯させるきっかけになる感覚や手段になったりします。イエス様は、体が完全でも、罪に陥って永遠の命にあずかれない(神の国に入れない)よりは、大事な体の健全さを失っても、永遠の命に与る(神の国に入る)ほうが素晴らしいことだと言われます。 自分自身をつまずかせる罪に対する罰は、「地獄の消えない火の中に落ちる」です。旧約の世界では、神からの裁き、徹底した「滅び」です。 /n「火で塩味を付けられる」(49節) ここでの「火」は、神様の御性質を表す具体的な事象と言えるでしょう。「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神」とあります。又、預言者イザヤが召命を受けた時、炭火で唇を清められ、それ以降、神様の預言を語る者とされました(イザヤ書6章)。「火」は、神様の莫大なエネルギーを示すものとして、更に、人も物も全てを清める力を表すものとして象徴的に使われます。 /n「自分自身の内に塩を持ちなさい」(50節) 「塩」とは、「救い主イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」と言えるでしょう。それは、どんな時にも主イエスを救い主と信じ、そのために働くことを感謝する信仰と、その信仰への神様の祝福と言えるでしょう。そうであるなら、恵みが広がるように、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださるように」(エフェソ3:17)と、未だ弟子になる決意を与えられない「味方」の人が、聖霊によって変えられるように祈っていきたいと思います。

「一匹の羊」    牧師 佐藤義子

/n[詩編]23編1-6節 1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[ルカによる福音書]15章1-10節 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 /nはじめに 今日の聖書の直前には、「聞く耳のある者は聞きなさい」とのイエス様の言葉があり、そして1節に、徴税人や罪人が、皆、話を聞こうとしてイエス様に近寄ってきたとあります。彼らは、ユダヤ人社会から疎外された人達でしたが、イエス様の話を聞く為にイエス様に近寄ってきたのです。それに対して2節では、ファリサイ派の人々や律法学者達が自分達の社会が相手にしないような人達をイエス様が受け入れて、交わっていること、さらに食事なども一緒にしていることを批判し、不平をつぶやいたのです。 /nファリサイ派や律法学者の立場 彼らは、旧約聖書で教える神様の義(神様が教える正しさ)に従うことにおいては忠実でした。自分の良心にかけて、真理であることに熱心でした。(私達のように、頭でわかりながらも妥協の多い生き方-たとえばウソも方便など-をしている者達に比べたら、比べものにならないほど、自分に厳しい生き方をしていた人達が多かったのだろうと推測いたします。) 自分が正しく生きることに熱心な人は、そうでない人に対して、見方は厳しくなります。なぜなら自分は自分の本能や欲望に対して戦い、節制をし、努力をしているのに対して、彼らは努力せず、自分の気持と戦うこともせず、律法に無頓着で、思うまま好きなように生き、その結果、失敗し、困難に陥り、疎外されても、それは自業自得だと考えるからでしょう。   イエス様が彼らを受け入れることは、彼らの生き方を肯定しているようで、そのような態度が、ユダヤ人社会の規律を乱し、律法の権威を落としめ、又、罪人や徴税人の生き方でも良い、という空気を生み出すことを懸念したのかもしれません。 /nイエス様は求める人々を拒まれない しかしイエス様は、「今、現在、あなたは罪人だから、徴税人だから、」ということで、心を閉じることはありません。どのような人であろうとも、「イエス様の話を聞きたい」という気持さえあれば、いつでも心を開いて迎え入れました。 ところが今日の箇所では、徴税人や罪人達に向かって話しているのではなく、ご自分を批判、非難しているファリサイ派や律法学者の人達に向かってイエス様は語られています。 /n一匹の羊 ルカによる福音書15章では、イエス様は三つの譬え話をされています。 最初の譬えは百匹の羊を飼っている人が、一匹の羊を見失った話です。羊飼いは、羊が狼などに襲われるのではないか、岩山に足をすべらして谷底に落ちるのではないか、と、必死で探しまわります。そしてついに見つけたなら、待たせている99匹の羊と共に、見つけた羊を担いで、羊の囲いまで連れ帰り、見つけた喜びを自分の喜びだけにせず、友達や近所の人を呼び集めて分かち合うのです。   /n「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。   神様を信じて神様に従うことで、人は初めて人として正しく生きることが出来ます。しかし人間は、アダムとエバ以来、罪をもって生まれ、罪の中に生き、神様から離れて、自分を神とする生き方をするようになりました。そこで神様はイエス様を遣わし、人間はイエス様を通して神様とつながって生きることが出来るようになりました。本当の神様から離れた生き方をしている者は「失われた魂」、すなわち羊飼いから離れて自分の思うままの道に迷い出た羊です。羊は羊飼いと一緒にいて初めて、良い牧草地や水辺に導かれ、更に、狼や、岩山からの危険からも守られるのです。私達は、羊飼いから離れないでいる羊でしょうか? /n大きな喜び   見失った羊を見つけ出した羊飼いの喜びが大きなものであるように、神のもとに立ち帰る一人の人が起こされるなら、天において大きな喜びが起こります。律法学者やファリサイ派の人々も、共にこの大きな喜びにあずかるようにと、イエス様は譬えをもって招かれたのです。イエス様が来られたのは、失われた者を捜して救うためであるからです。

「身をゆだねる信仰」    牧師 佐藤義子

/n[詩編]52章3-11節 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないが お前の考えることは破滅をもたらす。舌は刃物のように鋭く、人を欺く。 お前は善よりも悪を/正しい言葉よりもうそを好み〔セラ 人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。〔セラ これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。 「見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。 /n[ルカによる福音書]8章40-56節 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」 イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。 イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。 /nはじめに 今日の聖書には二人の人が登場します。一人は会堂長ヤイロです。会堂長とはユダヤ教の会堂で行われる毎週の礼拝の世話役であり、会堂全体の管理をする、町の有力者でもありました。今ヤイロは愛する一人娘が死にそうな状況にありました。彼は社会的にも経済的にも家庭的にもおそらく恵まれた人生を歩いていたことでしょう。娘は12歳くらいとありますが、これまで娘の成長を楽しみながら育ててきたことでしょう。 /n足もとにひれ伏す信仰 イエス様が向こう岸から戻って来られた時、大勢の群衆がイエス様を迎えましたが、そこにヤイロもやって来て、イエス様の足もとにひれ伏し、自分の家に来て娘を助けて下さるようにと願い出ました。彼が町のリーダー的な存在でありながら、大勢の群衆の前でイエス様の足もとにひれ伏したことから、自尊心を捨てイエス様により頼んでいることがわかります。 /nもう一人の人物 イエス様は、ヤイロの願いを受けて、ヤイロの家に向かう途中、尚、群衆が近くに押し寄せて来ました。その群衆にまぎれこんで、一人の、出血が止まらず、12年間も苦しんでいた女性がおりました。ユダヤ教においては、「血」は不浄であり汚れているとされ、社会生活からも隔離されていました。彼女は「医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえ」ず苦しんでいました。限界を迎えていたことでしょう。残された道はただ一つ、人づてに聞くイエス様の評判です。イエス様なら治して下さるはずだ、と彼女は確信を持ちました。 しかし汚れているということで人前に出ることは禁じられています。それでも出て行くしかありません。彼女は、イエス様に触りさえすれば・・と、群衆にまぎれこみ、後ろから誰にもわからないように、イエス様の服のすそにある房にさわったのです。その途端、いやされました。 /n「私に触れたのは誰か?」 イエス様の、この質問に、ペトロは、群衆が押し合って、たまたまイエス様の身体に触れただけだと答えましたが、イエス様は触れた者を探されました。なぜなら本来、癒しはイエス様と向かい合ってイエス様の御意志のもとに行なわれるべきものだからです。神様の癒しの力がこっそり使われるべきではないのです。女性は震えながら進み出てひれ伏し告白しました。どんな罰が下ろうとも、それを受ける覚悟で名乗り出たのでしょう。ここで彼女は、触れた理由と、癒された奇跡の出来事を告白しました。 /n「安心して行きなさい」 イエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われました。癒したのは神様の力です。しかしその力をいただけたのは12年間の彼女の苦闘の祈りと、イエス様に対する絶対信頼、信仰です。律法を破ったことも、黙ってイエス様の裾に触れて、神様の力をいただいたことに対しても、何のとがめも罰もなく「安心して帰って良い」と今の彼女が最も必要とする慰めと励ましの言葉を、私達はここで聞きます。 /nヤイロの信仰 一方、イエス様を自分の家に案内する途中で、ヤイロは娘が亡くなったとの知らせを受け取りました。しかしイエス様はヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」と語られました。ヤイロは信じました。家に着くと、イエス様は3人の弟子と娘の両親だけを部屋に入れて、娘に呼びかけられました。そして娘は生き返りました。イエス様がご一緒ならば、恐れることは何もないのです。 聖書はいつも私達に、さまざまな困難にぶつかった時、その苦しみの根本的解決をどこに求めていけば良いのか教えてくれます。それは私達の経験、知恵、知識ではなく、私達に命を与えて生かして下さっている神様であり、御子イエス様です。身を委ねる信仰が求められています。

「招待を軽視する客」    牧師 佐藤義子

/n[詩編]9章8-13 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。 /n[ルカによる福音書]14章15-24節 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」 /nはじめに 今日のルカ福音書14章1節に、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。イエス様は時々、食事に招待されて、いろいろな話をされたり、時には病人を癒されたことが聖書に伝えられています。当時ユダヤ教においては、巡回する教師を、特に安息日に食事に招くことは一つの功績とみなされていたそうです。この日の招待者は「議員」ですから、社会的にも地位は高く、裕福であったと想像されます。 ただ「人々はイエスの様子をうかがっていた」とありますから、同席した人達は、イエス様を愛して信頼していたというよりも、イエス様を観察し、何かあれば議論するような雰囲気があったのではないかと思われます。 /nイエス様の教え  イエス様はここで、招待客が上座に座りたがっているのをご覧になり、人から招待されたら末席に座るように教えられました。上座に座りたいという願望は名誉欲です。自分を人より高く置こうとする欲望は、空しさと危険が伴います。名誉は自分の力で自分のものにすることが出来ず、ただ受け取るのみです。イエス様は「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)と教えられます。もしも私達が高くされることがあるならば、それは神様によって高くされるのであり、神様が下さる恵みに依り頼むことを知っている者がそれを受けるのです。 /n「招くなら、お返しが出来ない人を」 次にイエス様は、招待主に、「招くなら、貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と、言われました。その理由は、「その人達はお返しが出来ないから、あなたは幸いだ」ということです。招待とは、招いた人々に、無限に恵みを与えることにあります。そうするならば、終末のその時、天国で報われるからです。 /n祝宴にあずかれるという過信 客の一人が「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言いました。神の国は、旧約の時代から、神様がご自分に属する者達のために備えた祝宴として考えられていたからです。彼は神の国の食事の席に、自分も招かれていることを確信していました。しかし、彼の言葉に対して、イエス様は譬えをもって、多くの人達が神の国の食事にあずかろうとするけれども、そこに入ることは出来ないと教えられました。 /nイエス様のたとえ話 譬えは、主人が盛大な宴会を催そうとして大勢の人を招いたけれども、招かれた人は出席を断り、代わりに招かれなかった人々によって宴会の席は満たされるという話です。当時、宴会は習慣的に招待が二度告知されました。一度目は予告、二度目は当日『準備が整った』との知らせです。すでに招かれている人達は当日になると、自分の買った畑を見に行く、牛を買ったので調べに行く、新婚だから、などの理由で招待を断りました。自分の財産と幸せを優先させ、招待主が用意したものを軽視したのです。主人は大変怒り、町の広場や路地へ行き、貧しい人や体の不自由な人などを招き、通りや小道からも人々を連れて来させました。 /n神の国で食事をする人 主人は神様。しもべはイエス様。最初の招待客は選民ユダヤ人。そして食事の席についたのはユダヤ人が日頃、軽蔑していた異邦人(私達日本人も異邦人)です。イエス様は、私達に神の国について知らせ、入る道を示し、招いておられます。それは、御子イエス様を信じ、神様に対する不従順を悔い改め、イエス様の教えに従って生きることです。 「今日、あなた達が神の声を聞くなら、神に反抗した時のように、心を頑なにしてはならない」(ヘブル書3:15)。 「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(?コリント6:2)。

「主として受け入れる」    伝道師 平賀真理子

/n[詩編]25編12-21 主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り/子孫は地を継ぐであろう。主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。 悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。 御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。 御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し/恥を受けることのないようにしてください。 あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら/そのことがわたしを守ってくれるでしょう。 /n[マルコによる福音書]9章30-37節 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 /nはじめに イエス様一行は、フィリポ・カイサリア地方から南の方に移動を始められました。フィリポ・カイサリアは、ペトロが初めてイエス様を「救い主」と告白した場所です。その事でイエス様は、神様の大事なご計画「神の御子が多くの苦しみを受け、殺され、三日後に復活する」ことを、弟子達に明かされました。「イエス様の十字架と復活による人類の救い」が、いよいよ具体的に動き始めてきたのです。 /n弟子達の無理解 その道中で、イエス様は弟子達にご自分の「受難の死と復活」について二度目の預言をされ、「(わたしは)人々の手に引き渡され、殺される」と付け加えられました。それでも弟子達はイエス様が「苦難の僕としてのメシア(救い主)」であることを理解せず、イエス様は「ダビデ王のような栄光のメシア」であるとの先入観の中にとどまっていました。「イエス様は、神様への従順を通して復活という栄光を得られる」との奥義を理解した弟子は一人もいませんでした。さらに誰ひとり「詳しく教えて下さい!」と頼むこともしませんでした。「弟子達はこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)からです。 <当時の弟子達だけでなく、私達も又、主の御心が分からないといって、ただ恐れるのでは、その距離は広がるばかりではないでしょうか。> 弟子達が、カファルナウムにある家に到着するまでの間、議論していたことは、仲間内で誰が一番偉いかということでした。「何を議論していたのか」とイエス様に問われ、弟子達は答えられませんでした。それが主の御心に添わないことだと分かっていたからです。 /n「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える人になりなさい。」 そこでイエス様は、再び神の国の人間の価値について教えられました。 神の国は神様が共におられる世界です。神様の愛は、弱い者や力のない者に注がれます。そして打ち砕かれ、へりくだる霊の人にご自分の命を得させると語られます。(イザヤ書57:15)。 イエス様は、一人の小さな子供を弟子達の前に立たせ、抱き上げて言われました「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。 子供は社会的に見て、最も弱く、力のない存在です。この世の損得や、大人の目線で考えれば、子供を受け入れることは損を被ることになります。しかし神様の目では、子供は最も愛すべき歓迎すべき対象であり、喜びです。 「わたしの名のために子供を受け入れる」とは、イエス様の十字架と復活を通してイエス様が贖い主であられることを知った上で、弱さ、不利益を抱える者を受け入れることです。それは、「苦難の僕としてのイエス様」を受け入れることであり、同時に、イエス様を遣わした父なる神様を受け入れることでもあります。 /n受け入れる 「受け入れる」という言葉は「ウェルカム」という歓迎の意味を含んだ言葉です。 私達はイエス様を「主」として歓迎しているでしょうか?生活の中心として仰いでいるでしょうか? イエス様が子供を抱き上げられたように、その弱さ・小ささ・無力さゆえに子供をいとおしんで大事にすることこそ、「主」を「主」として歓迎して生きることになるのでしょう。 神の国の民として、ふさわしくへりくだって生きる者とは、主に救われたことを感謝して生きる者です。 日常生活において、イエス様より自分自身の欲望を歓迎して受け入れてしまった時は、神様の前に懺悔し、変えていただけるように、特に礼拝の中で祈り求めていきましょう。 今週も、聖霊の助けを祈りつつ、本当の弟子の道を歩んでまいりましょう!

「神の業が現れるため」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

<ペンテコステ礼拝及び開設七周年記念> /n[ヨブ記] 42章1-6節 ヨブは主に答えて言った。 あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。 /n[ヨハネによる福音書] 9章1-5節 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。」 /nはじめに 本日の礼拝は仙台南伝道所開設七周年の記念の礼拝であり、又、ペンテコステの礼拝ともなっております。ペンテコステは、ギリシャ語の50を意味することから五旬節(ごじゅんせつ)とか五旬祭とか訳されております。ユダヤ人は過ぎ越し祭から数えて50日目に春の収穫(麦)を祝う祭を行なっておりましたので、ペンテコステは春の祭りでもありました。 イエス・キリストが十字架につけられて三日後に復活し、その後人々の前に現れて、やがて天に昇り、そういう出来事が起きた数日後に五旬祭がやってまいりました。イエス・キリストの十字架のあとのペンテコステの日に、弟子達は天から聖霊が降るという体験をいたします。いわゆる聖霊降臨の出来事です。 その日以来、弟子達はイエス・キリストにある礼拝を自覚的に守り始めます。それで私達はこのペンテコステの日を「キリストの教会が始まった記念の日」とも呼んでいます。今日、このペンテコステの日に、いにしえからの問題である「因果応報」の問題について考えてみたいと思います。 /n因果応報 因果応報というのは、それに従って、良いことは良い結果を生み、悪いことは悪い結果を生む。どのような時においても、勧善懲悪(良いことを行なった人はほめられて、悪いことを行った人はこらしめられる)という結果で終るならば、私達の心は平安の内に納得するのですが、正しい者がひどい目に合ってしまう、悪い者が栄える、となると、私達の納得はたちまち崩壊し、当惑してしまいます。筋が通らない、道理がたたない、理解し難い、不条理である・・心の中は穏やかではいられなくなるのです。 善良な市民が因果応報に合わない災厄に会う。これは不条理であり、どうしてこんな事が起きるのか、と嘆くことになります。不条理をどのように理解して受け止めればよいかという課題は、聖書の中の人物達が問いかけ、又、時代を超えて私達にもつきつけられている課題です。  本日は、旧約聖書の人物・ヨブが体験した不条理に注目しながら、不条理についてご一緒に考えたいと思います。 /nヨブ   ヨブ記を概観しますと、登場人物を四つに分けることが出来ます。順に挙げると、ヨブと家族、神、サタン、ヨブの友人達、のグループです。 ヨブ記は次の言葉から始まっております。「ウズの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ロバ五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。」  ヨブは全き信仰を有していた人物でした。当時、神の祝福と考えられていた子孫や財産が豊かに与えられ、しかも東の国一番の富豪であったということから、その地域で一番の信仰深さをもっていた者と言う評判をされていたのです。人々だけではなくて、神もヨブの信仰を認めていました。 神はサタンに語りかけます。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 神の言葉を聞いたサタンは抗弁致します。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 /nサタンの主張 サタンの主張は『ヨブは御利益があるから信心があるのだ。何も得るものがなければ信仰を捨ててしまう』というのです。「結果があるから原因がある」というのです。サタンはヨブを試みました。家畜や子供達を取り去って(即ち、神から与えられた祝福のすべてを奪って)しまいます。しかしヨブの信仰は揺らぐことはありませんでした。そして、神のヨブに対する評価も変わることがありませんでした。 しかしサタンは又、神に抗弁致します。実にサタンは神に逆らうものですが、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」サタンは、「ヨブの信心など、命の危険にさらされるならばふっ飛んでしまう」と主張したのです。そして再度ヨブを試みます。 /n三人の友人達 ヨブは全てのものを失い、そして自らの命にかかわる災厄をこうむる。いわれなき災厄です。不条理が襲いかかってきたのです。さてそんな時に友人達がやってまいります。テマン人エリファズ、シュア人のビルダド、ナアマ人のツォファルの三人の友人がお見舞いにきます。彼らは不条理というものを認めません。当時の常識的な考え方を持っていました。即ち、信仰深い者には神は祝福を与え、信心の足りない者や、罪を犯した者には裁きを与える。因果応報の考え方を持っていたのです。その彼らがヨブにお見舞いをしにやって来て語りかけます。 彼らはヨブの姿を見て、これはとても神の祝福が与えられた姿ではない。むしろ神から罰が降った結果の姿である。だからこのひどい最悪の悲惨な状況を除く為には(結果を変える為には)原因である「罪」をヨブが悔い改めなければならないという勧めをするのです。『考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ 正しい人が絶たれたことがあるかどうか。わたしの見てきたところでは 災いを耕し労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている。』 悪い事をしたから悪い結果を得たのだ。そういうふうにして、ヨブに、早くこの悲惨な状態から脱しなさい、悔い改めなさい、と勧めます。それが友人達の慰めの言葉でありました。 /nヨブの悩み その言葉を聞いたヨブも又そう思い、因果応報に従って考えました。ですから非常に困惑し、悩んだのです。なぜなら、こんな結果を招いた原因であるはずの罪を、自分の内に見出せない。悔い改めたいのだけれども、何を悔い改めていいかわからない。全き人ヨブでしたので深刻な状態に直面したのです。 もし、罪と言う原因がないのに災厄だけが、悲惨な結果だけが降りかかってきた、という事実があるとするならば、因果応報の法則に従って人を取り扱う神が、説明できない不公平を容認したことになる・・。あってはならない不条理が起きた!ヨブにとっては深刻でありました。 /n不条理  不条理という問題に直面したのはヨブだけではありません。ユダヤ人がユダヤ人というだけで虐殺されたホロコーストの体験も不条理でした。皆様も読んだり聞いたりしたことがあると思いますが、その不条理を伝えた本の一冊が、精神医学者のヴィクトール・フランクルの著した「夜と霧」でありました。彼は、ユダヤ人というだけの理由で逮捕され、アウシュビッツ収容所に送られ、彼の両親と妻と子供はガス室で殺されたり餓死をし、彼だけが奇跡的に生き伸びたのです。彼の本の中に次のような一節があります。 「人生から何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が我々に何を期待しているかが問題なのである」。 アウシュビッツから解放されて数年後の著作でありますが、「人生から何か、私達が与えられるのではないか、何か貰えるのではないかと期待して生きるのではなく、正しい行いによってむしろ人生に答えを与える生き方をするのが重要なのだ」というのです。 こんなフランクルの人生観に触れて、自分の生き方を180度転換させたのが、国際政治学者の姜尚中(カン サンジュン)です。在日コリアンとして生れ、苦しい青春時代を通して絶えず彼を悩ましたのは、自分はなぜ生きているか、であったといいます。「悩むことにも意味が」「病むことにも意味が」というフランクルの言葉に触れて、目からうろこが落ちる体験をしたと言います。 /n不条理を受け入れる 人は誰でも不条理を抱えて生きている。むしろ意味を見つけ出して、その不条理を受け入れる時、自分が自分と和解出来るのでないかと悟ったというのです。不条理の人生を嘆くのではなくて、不条理の人生に対して、自分なりの答えを投げかけ、そしてその人生をこつこつと歩む。そこに、生きる意義があると悟った、というのです。 フランクルや、姜尚中(カン サンジュン)もそうでありましたが、ヨブは不条理の人生にどのような意義を見出したのか。その答えが、本日のヨブ記42章の1節から6節です。 ________________________________________________________ ヨブは主に答えていった。 「あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 『これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。』 そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。 『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』  あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵(ちり)と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。」 ______________________________________________________ 「何の利益も与えられない」といって嘆くのではなくて、「神と共に生きる」。そこに、生きる生きがいを見い出した。「ただ生きるのではなくて、神と共に生きることこそ意義がある」と悟ったのです。 姜尚中(カン サンジュン)の言葉でいうならば「人間てすごい。捨てたものではない。」 フランクルの言葉でいうならば、「それでも人生にイエス(Yes)という。」 そしてヨブの言葉でいうならば、「今、この目であなたを仰ぎ見ます」という生き方です。 /n「誰が罪を犯したか」   この不条理という問題は、新約聖書にも出てまいります。今日引用したヨハネ福音書もその一例です。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子達がイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』」 時代は旧約から新約に過ぎ去っていますが、弟子達はやはり因果応報の考え方に従ってイエスに質問をしています。当時の常識的な考え方によれば、目が見えないのは、原因が必ずあるはずで、罪がそこにあるはずである。だから弟子達は誰が罪を犯したのかと聞き、生れた時から目が不自由であることは、本人が罪を犯す余裕はなく、本人以外の、一番近しい存在である両親が罪を犯した結果なのかと問うたのです。あくまでも因果応報の法則上です。 /n神はわれらと共にいて下さる。 イエス・キリストの答えは明快でありました。 『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れる為である。』 驚くべき言葉です。目が見えないことが神の業が現れる機会であるというのです。具体的にどのような業が現れるかということは、人、それぞれの場合で異なることですので、個別の事象を普遍的なこととして理解することは出来ませんが、しかし、どのような場合においても確かなこととして言えることは、不条理と思われる災厄においても尚、「神はわれらと共にいて下さる。」ということです。 ヨブは究極の不条理に置かれた時、なおかつ彼は「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と語り、生きる。しかし「ただ生きる」のではなく、「神と共に生きる道」を自覚的に保持致しました。 そんな生き方、それはペンテコステ以後の教会、イエス・キリストという救いの根拠を与えられている今日においても尚、私達の生きる信仰の告白として聞く。そして私達もその道を生きるものでありたいと願うものです。

「キリストの弟子となる」 牧師 佐藤 義子

/n[ダニエル書]7章13-14節 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。 /n[マタイによる福音書] 28章16-20節 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 /nはじめに 使徒言行録には、十字架にかけられ、三日目に復活されたイエス様は、その後40日にわたって弟子達に現れたことが記されています。 今日の聖書は、その後、父なる神様のところに戻られるイエス様が、この地上における最後の御命令と約束とを弟子達に与えられた箇所です。 /n「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。」  11人の弟子達は、復活のイエス様に会ったマグダラのマリアともう一人のマリアから、ガリラヤに行くようにとのイエス様からの伝言を聞き、この山に登ってきました。そして、復活されたイエス様にお会いし、礼拝しました。しかし11人全員がイエス様の復活を、生前の約束の成就として喜びをもって礼拝したのではなく、目の前におられるイエス様にお会いしても尚、「本当にこの方が、私達が従ってきたあのイエス様なのか。本当に十字架で殺されたあのイエス様が復活されたのか」と復活という現実を受け入れられずに、疑った弟子もいたということを聖書は伝えています。  「疑う」は、ドイツ語では「一つの状態であることが出来ず、二重の状態になる」という意味から成り立つ言葉です。同じマタイ福音書に、弟子達だけで、舟で向こう岸に渡ろうとした時、舟は逆風のため波に悩まされ、夜明け頃、イエス様が湖の上を歩いて弟子達の所に来られた時のことが記されています。ペトロはイエス様だとわかった途端、イエス様に頼んで、自分も水の上を歩いてイエス様の所に向かいます。途中強い風に気付き、急に怖くなり、沈みかけて、『助けてください』と叫びました。イエス様はペトロに向かって「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と、ここに、同じ「疑う」という言葉がでてきます。「疑い」は、このようにイエス様から目を離した時に起こるのです。 /n御命令と約束 山の上で、イエス様は弟子達に重大な命令と約束をされました。命令とは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」というものです。そして約束は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」です。  弟子にする対象は「すべての民」です。例外はありません。私もあなたもその中に含まれます。 この命令の前には「だから」という言葉があります。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから・・」です。つまり、全ての人をイエス様の弟子にするその目的は、イエス様が天地万物の権威を神様から授けられた方である。だから、イエス様の弟子となり、イエス様に従っていくことは、人間本来の姿であり、幸せな生き方であり、神様の御心であり、神の国の民となる道なのです。    イエス様の弟子は、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けることから始まります。バプテスマ(洗礼)を受けるということは、天地を創造された神様を信じ、神様は、私の罪を赦す為に御子イエス様をこの世に遣わしてくださったことを信じ、そして聖霊の働きを信じる信仰を公けに表わすことです。自分中心に生きる生き方を悔い改めて、神様を中心にして生きる生き方に変えることを決断することです。 /n弟子の道   キリストの弟子は、キリストの教えを守り、キリストに従う者になりたいと願います。キリストの教えの根本は神様を愛することと人を愛することです。さらに、キリストの弟子は、神様が聖であられるように私達も聖なるもの、清い者になることを願い、神様が義であられるように、私達も正しく、不義、偽りを憎む者になることを願い、そして全ての人が自分と同じキリストの弟子になることを願い、伝道の業に励みます。