「信じること、祈ること」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編]20編2-10  苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ/聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。 あなたの供え物をことごとく心に留め/あなたのいけにえを快く受け入れ/あなたの心の願いをかなえ/あなたの計らいを実現させてくださるように。 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ/我らの神の御名によって/旗を掲げることができるように。/ 主が、あなたの求めるところを/すべて実現させてくださるように。 今、わたしは知った/主は油注がれた方に勝利を授け/聖なる天から彼に答えて/右の御手による救いの力を示されることを。 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。/ 彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。 主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。 /n[マルコによる福音書]9章14-29節   一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。 /nはじめに 今日の新約聖書は「山上の変容」の出来事の直後に起こった出来事です。イエス様が、神様からの証しを受けて山を下りるところは、モーセが神様から十戒を授かって山を下りた話を彷彿(ほうふつ)させます。ユダヤの民は、モーセが山へ登った後なかなか戻ってこないので、自分達を導いてこられた「主」である神様を忘れ、愚かにも、持っていた金(きん)を集めて子牛を作り、それを「神」とする不信仰の罪を犯してモーセと神様の怒りをかいました。イエス様と三人の弟子は、山上で素晴らしい体験をしましたが、山を下りた所では、他の弟子達が、霊にとりつかれた息子を救うことが出来ず、群衆に取り囲まれて、律法学者達と議論をしておりました。 /nイエス様の嘆き 山の下にいた弟子達は、イエス様から与えられていた「悪霊を追い出す権能」がなくなっており、危機に陥っていたのです。イエス様は、「いつ迄私はあなた方と共にいられようか」と嘆かれました。十字架の時が近いのに、山上に同行した三人の弟子も事の重大性が分かっていないようだし、山の下にいた他の弟子達も、イエス様の不在で霊の力が弱るような信仰では、「地上に神の国を立てる」という神様のご計画を力強く遂行することは叶わないでしょう。 「いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか」は、弟子達の成長の遅さに、更なる忍耐を要することへの嘆きが感じられます。 /n「おできになるなら・・お助けください」 この息子の病気は、マタイ福音書によれば「てんかん」です。発作が起これば水や火の中、地面の上など所かまわず倒れこむので、いつも命の危険にさらされていました。おそらく父親は、それ迄も多くの医者や宗教家達に診てもらったことでしょう。しかし、今回も、頼ろうとした弟子達は治すことが出来ず、今、山から下りてきたイエス様に最後の砦として願い出たのでしょう。悲惨な経験を不幸にも積み重ねてきたので、父親はつい「おできになるなら」と、付け加えたのかもしれません。最初から逃げる体制をとりながら物事を頼む父親は、100パーセント信頼しているとは言えません。 /n「『出来れば』と言うか。信じる者には何でもできる」。 信じるとは、相手にすべてを委ねて、相手の力とその結果を受け入れることです。イエス様は天地万物を創られた父なる神様の御子としての力をお持ちです。父親はイエス様の言葉によって、自分の姿勢が間違っていたことを悟り、息子の回復を心から信じるように方向転換を促されました。父親の、「信じます。信仰のない私をお助け下さい」を、こう補って読むことも可能でしょう。「イエス様の御言葉に従って、神の御子の御力を信じるようになりたいと思います。今までの間違った姿勢をお赦しください。悔い改めて、神様の御力を100パーセント信じます。長く苦難の中にあった私を救って下さい。神様はその事がお出来になります・・」。 これは、罪の告白と新たな信仰の表明です。 /n「なぜ、私達は霊を追い出せなかったのでしょうか」 弟子達の、この質問に、イエス様は「祈りによらなければ出来ない」と答えられました。写本によっては、「祈りと断食」となっています。人間の生活への関心、特に食欲を抑えて神様へと思いを注ぎ、神様との対話である祈りに集中することの重要性を教えられます。キリスト教の祈りは、初めに自分の願望を祈るのではなく、まず、神様の御名があがめられること、神の御国が地上にも来ること、神様の御心が地上にもなされることを祈り、その後で、自分達の生活や罪の赦しを希うのです。礼拝で皆と一緒に祈る「主の祈り」のとおりです。それらの祈りを、イエス様の御名をとおして祈ることで、イエス様の父なる神様に聞いていただけると、私達信仰者は信じています。 /n主を信じること、主に祈ること 神様に100パーセント委ねることは、最初は難しいかもしれません。しかし、そうしたいと願っていれば、神様からそういうふうに変えていただけます。今日の箇所の父親のように、です。そうすることで、主にある平安を得、本来の自分(分裂していない自分)を見出すこともできるようになります。かつて自己分裂の中でもがき、苦しくて叫んでも聞いてもらえなかったのに、今や、一方的な憐みによって、神様につながり、本来の良さをもった自分が与えられるという救いに与ったことに喜びを覚えます。イエス様の御名を心から信じ、イエス様の御名によって祈ることで神様に聞いていただけるのです。その経験は積み重なっていきます。その豊かな恵みに心から感謝を捧げたいと思います。今、私達の身近では困難な状況が広がっています。しかしイエス様の恵みを受けている私達は、主を信じること、主に祈ることを通して光をいただき、周りにともし続けることができます。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ5:16~18)

「神の子とされる」    牧師 佐藤 義子

/n[申命記]7章6-11節 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。 あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。 /n[ガラテヤの信徒への手紙] 4章1-7節 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。 /nはじめに 本日より、日本キリスト教団の「聖書日課」に従って、礼拝での聖書を取り上げていきたいと思います。これは、英国に本部をもつジョイント・リタージカル・グループが発行する、四年を一つのサイクルとして聖書を読み進んでいくプログラムを土台として、日本キリスト教団の「聖書日課編集委員会」が教会暦と合わせて作成しています。これ迄のように一つの福音書や手紙を読み通すという形ではありませんが、聖書を神様の言葉として聞く私達にとって「今朝、神様は聖書のどの言葉をもって私に語ろうとしておられるのか」を聞きとり、神様に従う毎週でありたいと願います。 /n不自由に気付かない 私達は、聖書の神様(創造主)を知らなかった時、どのような神様を神としていたのでしょうか。パウロの時代、宇宙万物を構成する四つの要素「地水火風」の背後に霊の力があると信じる信仰や、天体(月とか星)に霊の力を信じる信仰、自然界に住みついて自然現象を司り、人間の日常生活に影響を及ぼす超自然的な霊を信じる信仰などがありました。日本でも、結婚式は大安の日に、葬儀の日は友引の日を避ける、とか、立派な家を建てて住んだけれども、家族の病気が続くのは方角が悪いからと言われて大改造した話や、引っ越しを繰り返した話も聞きます。さらに、縁起が良い、悪いという言葉で、根拠のないまま自分の行動がそれにより左右された話なども聞きます。占いや迷信は、何かの霊が自分を支配しているかのように考え、恐れを抱き、時にはそれを信仰の対象にしています。それらに縛られて(奴隷状態)、多くの人々は、不自由な生活を強いられながら、そのことに気付かず、それを当たり前のように受け入れています。 /n未成年から成人へ そのような束縛された生き方を、今日読んだガラテヤ4章3節では「未成年」という表現を使っています。3節には「同様に私達も、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」とあります。日本では20歳で成人として認められますが、それ迄は一人前とはみなされず、たとえ家の全財産の相続者であっても、相続することは出来ません。しかし時が来て成人になった時には相続出来るように、神様の救いの御計画における「神様の時」が満ちた時、初めて私達は霊的において、成人になる道が開かれました。それは、神様の独り子、イエス・キリストがこの地上に遣わされて、私達を、「諸霊の奴隷状態」から救い出し、神の子として下さった時のことをさします。 /nイエス・キリスト派遣の目的 神様が、御子イエス・キリストを私達のもとに遣わして下さったのは、「律法の支配下にある者を贖い出して、私達を神の子となさる為」(5節)でした。本来なら神のもとにおられたイエス・キリストだけが神の御子であられたのですが、神様は私達人間をも神の子として受け入れて下さる為に、イエス様を私達と同じように「女から」(4節)、しかも、律法の支配下(律法の奴隷)にあるユダヤ人の一人として生れさせられました。律法の奴隷とは、律法を重んじるあまり律法に様々の解釈をほどこして生活上の細かい規則を作り、それを守ることによってのみ救われると信じ、非常に不自由な生活を、正しいとして生きていた人々のことです。 /n神の子として自由に生きる道 「諸霊」の奴隷であれ、「律法」の奴隷であれ、不自由な奴隷状態の中にいた私達を救い出し、神の子としての自由を与える為にイエス・キリストは神様から遣わされてきました。私達は御子によって「神の子」とされ、イエス様と同じように神様を「天の父よ」と、親しく祈ることが出来るようになりました。このことに感謝し、二度と奴隷状態に戻ることなく、「神の子」とされた道を感謝しつつ歩み続けたいと願うものです。

「山上の変容」    伝道師 平賀真理子

/n[マラキ書]3章19-24節 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 /n[マルコによる福音書] 9章2-13節 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」 /nはじめに 「山上の変容」という題は、何のことか想像しにくいと思いますが、「イエス様が高い山で姿を変えられた」出来事をいいます。その高い山に、イエス様は、核となる三人の弟子を連れて何かをなさろうとしていることに思いを巡らせてみたいと思います。 /n変容 「変容」とは、イエス様の姿が「変わり」(2節)から取られている言葉で、外見だけでなく中身も変わることです。 「服は真っ白に輝き(3節)」となっていることから、イエス様が「神的存在」になっておられると理解できます。更に「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた(4節)」とあります。ユダヤ人にとって、モーセは「律法(十戒を含む)」を意味し、エリヤは「預言者」を意味します。「旧約聖書」のことを「律法と預言者」とも言いますので、イエス様がここで、「旧約聖書の完成者」となったことを証ししていると言えるでしょう。同じ内容の、ルカ福音書9章によれば、モーセとエリヤは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)とあります。直前にはイエス様ご自身の、「死と復活」の預言がありますから、今日の聖書箇所でも、「メシアは苦しみを受け、人々の罪の贖いの為の死を遂げる」ことを三人で話し合っていると読み取ることができるでしょう。  七節では、雲の中から父なる神様の、「死を遂げる」覚悟を決めたイエス様を祝福するかのように声がします「これは私の愛する子、これに聞け」と。イエス様と共に高い山にいた弟子達は、イエス様によって、霊における感覚が開かれ、幻のような天の啓示の出来事を見聞きします。  このことを理解する為に、外国語が分かる人とそうでない人の場合を考えてみます。外国語が分かればその意味を知り、新しい情報や世界が得られます。分からなければ、言葉は単なる音でしかなく、そこに意味はありません。山上の変容という「幻」のような出来事も、それを受信できる者と(例えば、パウロの回心の時のように・・サウル、サウルと呼びかける声を聞いた)、出来ない者(同行していた人達は、ものも言えずに立っていた)に分けられているのかもしれません。ですから、「この出来事=幻」と拒絶せずに、この出来事の意味を理解していきたいと思います。 /n理解して信じて聞き従う イエス様と共にいた弟子達は、この出来事の証人となる恵みを受けていますが、意味は理解せず恐れの中にいました(6節)。弟子達は直前にイエス様が語られた、「苦難の僕」の道をイエス様が歩まれる、ということを理解し、受け入れることが求められ、神様から「これに聞け」との言葉に従うことが求められていたのです。「これに聞け」は、ただ声を聞くだけではなくて、「聞き従え」ということです。「理解して信じて聞き従う」・・これがメシアであるイエス様の歩みに対して弟子達に求められたことでしたが、弟子達には難しいことでした。 /n「復活まで、今見たことを誰にも話してはいけない」 イエス様はこの山上の出来事を、他言することを禁じられました。 イエス様はご自分が、「苦難の僕(イザヤ書53章)のメシア」であることを知り、それは出来れば避けたいと思われるほど苦しく辛いことでしが、父なる神様のご計画に、従順に従うことを決意されておりました。ところが弟子達がその事を理解しないまま「山上の変容」の出来事だけを伝えるならば、イエス様を「栄光のメシア」としてのみ期待します。復活の後であれば、「苦難の僕」が「死に勝利する栄光」を得られるので、初めて、メシアの受難の意味が理解できるようになるからです。 二千年後の私達は、この意味が解き明かされ、真実が知らされています。今だからこそ私達はイエス様の御言葉を「理解して信じて聞き従う」信仰の歩みを進めるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

「キリストは近くにおられる」 倉松 功先生(元東北学院)

/n[詩編]23章1-6節 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[フィリピ信徒への手紙] 4章5-8節 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 /nはじめに 3月11日に起きた地震、津波、そしてその結果である放射能汚染、そういった事柄を私共はどういうふうに聖書の御言葉によって理解するか、どう受け止めるか、そういうことが私達に課せられていると思います。これらの出来事を理解し受け入れるということについて、聖書のどの御言葉で理解するのか、二つの典型的な考え方、受け取り方があるように私には思えます。その一つは「神の怒り」です。人間の罪、人間の傲慢。それに対する神の怒り、として受けとめる考え方です。その根拠として、詩編18:8やイザヤ書13:11、13などの御言葉があげられます。 「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。」(詩篇18:8)。 「わたしは、世界をその悪のゆえに 逆らう者をその罪のゆえに罰する。 また、傲慢な者の驕り(おごり)を砕き 横暴な者の高ぶりを挫く(くじく)。」(イザヤ書13:11)。 「わたしは天を震わせる。大地はその基から揺れる。万軍の主の怒りのゆえに その憤りの日に。」(イザヤ書13:13)。 それに対してもう一つの見方があります。その根拠として詩編46:3、4、8・イザヤ54:10があげられます。 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦(とりで)の塔。」(詩編46:3、4、8)。 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ書54:10)。 きわめて対照的な聖書の言葉であります。私は今回の出来事を、後者の御言葉で受け取ってよいのではないかと思います。 今朝、読んでいただいたフィリピ書「主はすぐ近くにおられます。神の平和が、キリスト・イエスによって守られるでしょう。」と、詩編23編「主はわたしの牧者」との御言葉は、「万軍の主はわたしたちと共にいます。」「主の慈しみは移らず 揺らぐことはない。」という旧約聖書の内容をさらに深めることができるのではないかと思います。 /n「主はわたしの牧者(口語訳)「私には何も欠けることがない。」(1節) 聖書はしばしば「私とキリストとの関係」を「羊飼いと羊」に譬えて記しています。たとえば「わたしは良い羊飼いである。(ヨハネ福音書10:11)や、99匹の羊を残して迷える羊を探す羊飼いの話(マタイ福音書18:12-)があります。しかし中でもこの23編が良く知られています。今朝は23編を読んでいきたいと思います。   冒頭に「主はわたしの」とあります。主とはイエス・キリストのことです。キリストは「私の」羊飼いです。キリストは私達一人一人に、どのような羊飼いとして立っておられるのでしょうか。先ず「私には何も欠けることがない。」と言われています。すべてが満足出来ていると理解することが出来るでしょう。安全である、安心である、という気持もそこにあるかもしれません。しかし内容を読んでいきますと、現実の世界において死の恐れとか苦しみとか、そういうものがないわけではありません。現実の生活では、私を苦しめる者がいる、死の陰が迫っている、災いがあるとも書いてあります(4節5節)ので、「何も欠けることがない」というのはどういう意味かを理解することが、23篇の重要な課題といえるでしょう。   /n「主(キリスト)は、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」(2節) 死の陰の谷、死の危険もある。それにもかかわらず「何も欠けることがない」と満足している理由は、「キリストは、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」からです。これは、 羊と羊飼いとの典型的な姿でしょう。この「青草の原に休ませ・・」の中に一つだけ見逃してならない言葉があると思います。 /n「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(3節) それは、「青草・・」と「死の陰の谷・・」の間にある「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」という言葉です。私達はこの意味を考えなければなりません。「正しい道に導かれる」を、キリスト者として最後に大事なことがあると語ったフィリピ書4:8の言葉と比べてみたいと思います。「終わりに兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 フィリピ書では丁寧に、おおよそ正しいこと、誰が見ても正しい、誰もが持っている正しさ、人間的な正しさ、人間的な真理、相対的な、きわめてありふれた、しかし誰でもが知っているまこと、正しさを言っています。それは、私共人間が考え、行なっている正しさであり、知っている真理であると理解できます。パウロは、「私共は日常、これを大事にしなければならない。」と言っています。それに対して詩編23編では、「正しい道」と、ひと言で言っています。「正しい道」と言われているのは、キリストが知っている真理、キリストが持っておられる真理、キリストが説いておられる正しさ、真理です。「相対的」に対して「絶対的」といえる、その真理が私共に示されます。 私共が考えている日常的な正しさではない「絶対的な真理」がキリストによって示される。それによって「青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ことになるのです。一人一人がキリストによって正しい道に導かれ、憩いの水のほとりに連れていかれるのです。おおよそ正しいのではなくて、絶対的な真理、正義の中の正義、キリ ストが示される真理、キリストというお方・神の子というお方において実現される真理、私達を動かして下さる真理、私達に対してその真理に目を開かせて下さる、私達に対して関係する真理。これが聖書の語る真理であり正義である、その道に私達を導いて下さるのです。    もう少し例をあげるならば、宗教改革者マルティン・ルターが「神の義」によって宗教改革者として立ち上がることが出来ましたが、その義も又、抽象的な義ではなく、「義に目覚めさせる、義とする働きをもった義」でした。それがここで言われている「正しい道」です。「正しい道」があるわけではなくて、キリストにおいて、キリストが持っており、キリストが私達に与えて下さる義、キリストが私達に働いて下さる、私達を動かして下さるもの。それが正しい道であり真理であるといえます。ですから「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」と言えるのです。   /n「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭(むち)、あなたの杖 それがわたしを力づける。(4節) これは具体的にはどういうことを背景にしているのでしょうか。「ダビデの詩」(1節)とありますから、ダビデに寄せて作られた詩と考えて見ると、ダビデ王が直面した苦しみ、災い、死の陰の谷を考えて良いかもしれません。ダビデ王は王の中の王と言われながら、彼が仕えたサウル王からいつも死の恐怖を与えられていました。それだけでなく、息子アブサロムの反乱がありました。そのことも背景として考えられます。今回被災された方達は、津波で「死」を前にされましたが、このことは、後になって理解できるかもしれません。   /n「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる(5節)。  これは、私達にキリストの最後の晩餐を思い起こさせます。キリストは十字架にかかる前の晩、パンと杯を下さった時、「これは私の体である。これはあなた方の為に流す私の血、契約の血である。」と言われました。「香油を注ぎ」は祝福です。パンとブドウ酒をキリストの体と血であると弟子達に渡し、それによって弟子達を祝福して下さった。5節は礼拝の中で持たれる聖餐のことと理解することが出来ます。 /n「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う(6節) 「恵みと慈しみ」とは、キリストご自身のことです。キリストご自身が恵みと慈しみを垂れているのです。「私を追う」とは執拗に付け回すことです。恵みと慈しみであるキリストは私共のそばにいる。私共を追っている。これは聖餐に劣らない神の恵みであり、キリストがそばにいるという力強い詩人の言葉です。キリストがいつも私共のそばにいる。・・どうしてそれを理解できるでしょうか。礼拝です。聖書を通して語られる説教によって思い起こすのです。このことを津波のさなかに思い起こすのは、恐怖にさらされているのでむつかしいでしょう。しかし礼拝において繰り返しこの言葉を聴き、私共を追って下さるキリストに出会うことです。出会うということは、私共がそこに行かなければ、(追って下さるキリストに目を向けて、胸を開かなければ、)そこにいらっしゃるということがわからないのです。 ヘブライ書に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(4:15、16)とあります。 説教と聖餐が行われる礼拝に出席する。それ以外に恵みの座に近づくことは出来ません。「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ということに連なっているわけです。羊飼いが羊を青草の原に連れて行かれるということは、恵みの座、すなわち憩いの場である礼拝に出席することであり、礼拝の場に集うことです。礼拝によって与えられるものが「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」のです。 /n「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(6節) 「主の家」とは礼拝のことです。どのような建物や場所であろうとも、そこで礼拝がなされるところが主の家であり、私達の帰るところです。この23篇を読むことによって、私達はキリストが近くにおられることをもう一度思い起こすことが出来るのではないでしょうか。

「神の国を宣べ伝える」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]61章1-3節  主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。/わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。/打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。/主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。/彼らは主が輝きを現す為に植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。 /n[使徒言行録]28章17節-30節 三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤ人から何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。 『この民のところへ行って言え。/あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。/この民の心は鈍り、/ 耳は遠くなり/目は閉じてしまった。/こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、立ち帰らない。/わたしは彼らをいやさない。』 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。 /nはじめに パウロは自分のことを、多くの手紙の最初の部分で次のように紹介しています「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」「神の御心によって召されて使徒となったパウロ」「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」「私達の救い主である神と私達の希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」などです。 パウロはどこにいても、どんな状況下にあっても、イエス・キリストのことを宣べ伝えるという自分の使命、自分の務めを忘れることがありませんでした。振り返れば、第3回伝道旅行を終えて報告の為エルサレムに戻り、神殿にいた時、パウロは敵意を抱くユダヤ人によって拉致され、裁判は受けられたものの、それ以来自由は失われたままです。今回囚人としてローマに護送され、暴風や難破をくぐりぬけ、ようやく長旅が終り、宿舎に着きました。心身ともに、数日の休養を必要としたでありましょう。しかしパウロは到着後、一日おいた翌日には、もうローマ在住のユダヤ人の指導者達を彼の宿舎に招いています(17節)。このことを見ても、パウロは、与えられた自分の人生の時間もエネルギーもすべて、使徒とされた自分の使命・役割を果たす為に、忠実に用いていたことを知ることが出来ます。 /n先ずユダヤ人に パウロがユダヤ人指導者達を招いたのは、ローマ在住のユダヤ人に福音を伝える為でした。初めて会う彼らに、自分を正しく知ってもらう為、これまでの経緯を語り、自分が伝える福音の内容を聴いてもらう日時を定めました。パウロは伝道の対象を、途中から異邦人に向けて、伝道旅行を通して多くの異邦人教会を建て上げてきました。しかし初めて来たローマにおいて、福音は先ずユダヤ人に向けて語られました。   /nなぜ、「先ずユダヤ人」なのか。 神様はユダヤ人を選民として選び、ユダヤ人を救う為に「救い主」を地上に遣わされました。私達日本人がイエス・キリストの父である神様を全く知らなかった紀元前2000年頃からユダヤ人は既にアブラハムを族長とした神様とのかかわりの歴史があり、紀元前1300年頃には神様から律法(十戒)が与えられ、「律法の民」として倫理的に高い生活の歴史をもっています。救い主待望の信仰も預言者イザヤ(BC8世紀以降)や他の預言者によっても語られています。日本の歴史が大和時代から始まることを考えると、選民ユダヤ人の魂の救いが優先されるのは当然です。 /n信じるものと信じない者 多くのユダヤ人がイエスこそ救い主であるとのメッセージを受け入れる一方で、他の多くのユダヤ人は、イエス様の十字架の死につまずき、その救い主を自分達民族が殺したという事実を受け入れることを拒みました。拒否しただけで終らず、キリスト教徒を敵視し迫害したのです。パウロが、皇帝に直訴してローマに来たのも、迫害された結果でした。    ローマ在住のユダヤ人も「神の国について力強く証しする」パウロの言葉を、ある者は受け入れ、他の者は信じようとはしませんでした。 いつの時代でも、どこの国でも(現代の日本でも)、福音が語られるところ、信じる者と信じない者の二つに分かれます。 にもかかわらず、使徒言行録は 「パウロは、二年間、訪れる人すべての人を歓迎し、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」 と結びます。

 「我は、主を見たり」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]55章6-9節 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。 /n[ヨハネ福音書]20章11-23節 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 /nはじめに イースターおめでとうございます。 今から約2000年前、イエス様は十字架につけられ殺されました。先週は、イエス様の地上での苦しみの足跡をたどり、その意味を改めて心に刻む時として受難週の黙想会を持ちました。 イエス様が十字架で殺されたのは、目に見える世界の出来事からみれば、ユダヤ人による「ねたみ」のためでした。しかし聖書はもう一つの、神様の御計画を伝えています。この十字架の意味を知ることこそ私達が本当の意味で「生きる」ことが出来るようになることを心に覚えたいと思います。 /n人間の罪 聖書が私達に語る第一のことは、神様がおられるということです。神様はこの世界(空・陸・海)を造られ、鳥や動物や魚を創造され、最後に人間を、神様に似せて創られました。神様に似せて創られた人間は、神様に従順に従って生きている限り平和が約束されていました。ところが最初の人、アダムとエバは、神様の言葉に逆らって自分の欲望を満足させました。これが「罪」の始まりです。 神様は、人間が神様に従い、幸せに生きていけるようにモーセを通して「律法」を与えられました。律法は、神様を愛し隣人を愛することを命じています。「神様を愛する」とは、神様を神様とする。神様でない偶像を拝まない。神様の名前を自分の為に勝手に使わない。神様を礼拝する聖日(日曜日)を大切に守る。そして神様が与えて下さった両親を敬うことです(両親は子供を正しく教え導く責任を持つ)。「隣人を愛する」とは、隣人の命を守る。隣人の家庭を守る。隣人の自由を守る。隣人の名誉を守る。隣人の財産を守ることです。ところが人間は、「律法」を守ることが出来ませんでした。人間は、神様の言葉よりも自分の感情や欲望を優先する生き方(罪の世界)へと堕落していきました。その結果、神様と人間の間には深い断絶ができ、人間は、神様の怒りの前に滅びるしかありませんでした。 /n目に見えない神様の御計画 しかし神様は、滅びるしかない人間に対して、救いの御計画をたてて下さいました。罪を犯していない神の御子の流す血によって、人間の罪をあがなうという道(滅びるしかない人間の罪を赦すという和解の道)を用意されたのです。この神様の救いの御計画を、人間が信じることができるように、神様は旧約時代から預言者たちを通して予告されました(イザヤやミカなど)。この預言の実現が、イエス・キリストの誕生と生涯・十字架の死と復活です。私達はイエス様の十字架の死によって罪が贖われ赦されたのです。この福音、この喜びのニュースを信じる信仰が与えられ、信じるものとされた時、私達は「神の民」の一員とされるのです。 /nイエス・キリストの復活 それは、十字架の死から三日目の朝、まだ暗い内のことでした。マリアはお墓に行き、イエス様の遺体がなくなっていたのを目撃してペトロともう一人の弟子に知らせました(2節)。二人の弟子はすぐ走ってお墓がからであることを確認して家に帰っていきました。ところがマリアはこの後もお墓の外で立ったまま泣き、泣きながら身をかがめてお墓の中を覗きました。中には二人の天使がいてマリアに声をかけますが、マリアは遺体がなくなったことだけを嘆いています。その時復活されたイエス様がお墓の外から(マリアの後ろから)「なぜ、泣いているのか。誰を探しているのか」と声をかけられました。マリアは、その声が誰かを知ろうともせず、遺体が戻ることだけを願っていました。イエス様が、「マリア」と呼ばれた時、初めてマリアはイエス様に気付きました。 /n「わたしは主を見ました」   絶望の中で泣いていたマリアに、イエス様は新しい使命を与えられました。それはイエス様の復活と、復活後、父なる神様のもとへ昇天されることを弟子に知らせることでした。  イエス様を復活させた父なる神様こそ、死に対して勝利した私達の父なる神様です。復活の出来事は私達を絶望から希望へ、空(から)の墓から天へと私達の目を向けさせます。

「十字架を負って」  伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]53章4-10節 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 /n[マルコによる福音書]8章34-9章1節 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 /nはじめに 「メシア(救い主)」については、ペトロや他の弟子達もユダヤの民衆までが政治的に自分達を自由にしてくれる救い主であり、その方は栄光の姿で現れると思い込んでいました。しかしイエス様が弟子達に語られた「メシア」の姿は全く逆でした。人々の罪を代わりに負い、苦しみを受け、殺されるという惨めで辛いものであり、それを「メシア」が従順に行うことにより「人類を罪から救い出す」という神様のご計画が成就するのです。今日読んだイザヤ書にその事が書かれています。 神様が人々の罪を赦す為に、なぜ「贖(あがな)い」としてメシアを悲惨な姿で殺すという方法を取られたのでしょうか。それについてある神学者が、讃美歌262番の解説の中に書いていたのでご紹介しますと、 「…つまりイエスはみずからを、神よりのメシアとして、ここで果たさなければならない なにものかを果たしたのです。…人間の罪は神の律法によれば死に値するものであって、神の律法は罪に対して死を要求しているのです。……キリストが十字架上で、その受難と死によって、罪に対する神の律法の要求を果たしてくれたので、人間は、罪とその呪いから解き放たれて救われたのです。そしてそのすべてが神よりの恩恵として与えられている。これが十字架の救いです。」 /n人間の罪は神の律法によれば死に値する。 神様が私達に与えられた律法は、神様を第一に考えて神様を全身全霊で愛することと、隣人を自分のように愛することです。この二つの事を守れない者は死に値するのです。私達は「罪に対しては死を持って償(つぐな)うことを要求される」という事実を忘れがちではないでしょうか。 私達は目覚めている時間の多くを神様と対話(祈り)しているだろうか。御言葉の学びに時間を注いでいるか? さまざまな出来事に、神様への感謝や賛美を捧げているか? 最も近い隣人である家族や、親友や恋人を尊重して大事にし続けているか?困難な状況にある人を、自分の気分ではなくその人を主体に考えて援助しようとしているか?・・などの問いに、この一週間だけでも心に一点の曇りもなく「出来ている」と言える方は恐らくいないでしょう。「出来ていない」人は全て律法の違反者です。それは「罪」であり、「死」をもってしか償(つぐな)えません。 /n神様の赦し  神様は、その人間の罪過すべての責任を、最も愛する御子イエス様に負わせ、「死」をもって償(つぐな)わせ、人類の律法違反を赦されました。人間の中で最も惨めで低い立場に御子を置かれたのです。にも拘わらずイエス様は、神様の救いのご計画に従ったことで、神様から「復活」の勝利を与えられ、天に上り父なる神様の右に座するという栄光を授けられました。「低くされたのに、高くされた」(イザヤ52:13-15)のです。 /n<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って</span> 自分を捨てるとは、自分を忘れて、とも訳せます。主に従うことを第一に思い、自分の欲求を忘れられるかどうかが問われています。「自分の十字架」とは、キリストと共に十字架を負う精神、苦難そのものです。十字架刑は恥辱と最高の苦痛を与える刑罰でした。罪を贖(あがな)う「メシア」は「最高の苦しみを受け耐え忍ぶ」ことで、神様のご計画を成就せねばなりませんでした。 主に従いたい者も、そのような最高の苦しみを耐え忍ぶ覚悟を持つことが要求されています。 /n<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか</span> 神様に創られた命は永遠の命を持っていましたが、罪が入り込んで、生まれたままでは永遠の命を受けられなくなりました。「自分の命」を買い戻すのに払う代価が、イエス様の流された贖いの血です。主が受けられた苦難は、本来私達一人一人が負うべき苦難でした。今日から始まる受難週を、「自分の十字架を負って主に従う」者として歩みましょう。

「ローマ到着」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]84編1-13節 1 【指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。】 2 万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。 3 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。 4 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。 5 いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ 6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。 7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。 8 彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。 9 万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ 10 神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人を顧みてください。 11 あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。 12 主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません。 13 万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう。 /n[使徒言行録]28章1-16節 1 わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。 2 島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。 3 パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。 4 住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」 5 ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。 6 体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。 7 さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。 8 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。 9 このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。 10 それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。 11 三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。 12 わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、 13 ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。 14 わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。 15 ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。 16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。 /nはじめに  受難節第5聖日に入りました。受難節は主イエス・キリストのご受難を覚え、克己・修養・悔い改めの時として過ごす40日間でもあります。広辞苑によれば、克己とは、己(自分)の欲望、感情などを自分の意志で押さえ、うち克(か)つことです。修養とは、精神を磨き、優れた人格を形成するようにつとめることです。悔い改めについては、A.W.トウザーが書いたショート・メッセージをご紹介します。  「神にお出来にならないことがある。それは、神は私達の為に代わって悔い改めることが出来ないということである。神は全ての人に悔い改めるように命じられた。それは人間だけがすることの出来る働きである。一人の人が別の人のために悔い改めることは道義上不可能である。キリストもこれは出来なかった。主は私達の為に死ぬことが出来た。しかし私達の為に悔い改めることは出来ない。私達は救われる前に、自分自身の自由意志で神に向かって悔い改め、イエス・キリストを信じなければならない。  悔い改めは道徳的な改革を含む。間違った習慣は人間側の問題なので、人間だけが修正することが出来る。たとえば「うそ」をつくことは人間の行為であり、その全責任を自分で取らなければならない。悔い改める時、その人は「うそ」をつくことをやめる。神ではなく、その人が、自分自身でやめるのである。」 「<span style="font-weight:bold;">罪を犯す時、人は魂に取っ手をつけ、サタンが握れるようにする。 悔い改めは、その取っ手を取り除く。</span>」 /nマルタ島上陸  今日の聖書は、船が座礁して、パウロをはじめ200人以上の人々は泳いで全員無事に上陸した時の出来事です。上陸地はマルタ島と呼ばれ、かつてカルタゴが植民して支配していた島でした。聖書は、島の住民達が「大変」親切にしてくれて、「降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいてもてなしてくれた」と伝えています。それは冬に入る11月の寒い日で、雨にぬれながらも、たき火で、服を乾かし、体を温めてもらうという、その時の最大のもてなしであったことでしょう。200人以上の難を逃れてきた人々のため、住民は、自分達も多大な労苦を伴いつつ、素朴な愛をもって尽くしたことが想像されます。 /nご利益とたたりの信仰  パウロも、自ら、たき火の為に枯れ枝を集めて束にし燃やしました。その時、枯れ枝の中にいた「まむし」がパウロの手に絡みつきました。島の住民は、パウロの体に毒が回り死んでしまうに違いないと考え、パウロは難破して助かっても別の仕方で死ぬのは、パウロが殺人犯か何かで、正義の女神が生きることを許さないからだろうと考えたのです。  しかし何も起こらなかったので考えを変え、「死ぬはずの人が死なない」のは「パウロが神様だから」と考えました。この信仰は、日本人の中にも見出すことの出来る「ご利益とたたり」の信仰です。素朴な愛と親切を持ちながらも住民達は迷信と同居しており、パウロを生かしておられる生きた神様を知らない姿をここに見ます。 /nローマ到着  パウロが長官の父親の病を癒したことから、他の病人達もパウロのもとに来て癒してもらいました。その結果、島の人々はパウロ達に敬意を表し、三ヶ月後再びこの島から出航する時には必要なものを持ってきてくれました。そして目的の港に着いた時、パウロのことを伝え聞いた同じ信仰者の仲間達の出迎えを受けました。彼らはローマから約一日がかりで迎えに来てくれたのです。パウロは彼らを見て、神様の偉大な恵みと働きに感謝し、勇気づけられました。  思えば、第3回の伝道旅行から帰ってまもなく、エルサレムの神殿でユダヤ人達に捕えられ、何回かの裁判を経て、皇帝に直訴したゆえの、ローマヘの旅でありました。そしてその船旅も非常に苦しいものでした。今、ローマから迎えに来た信仰の仲間達を目の前にして、ようやくパウロの忍耐をもって待った長い時間が終ったのです。ついに、長いこと祈って待っていたローマでの、十字架の福音を宣べ伝える時を迎えたのでありました。  さて私達の人生はどうでしょうか。どんな人も、生涯ずっと順風満帆で終ることはあり得ません。今回の大地震や津波や、原発事故に関して多くの人達が「想定外」という言葉を使っていますが、私達の命は、明日をもわからない命であることを多くの人々が知りました。頭でわかっていたことを身をもって体験しました。私達はパウロのように、「神、我と共にあり」というインマヌエルの信仰を持ち続ける為には、日々、御言葉によって新しくされていくことが不可欠です。そして「祈りは呼吸」と言われるように、毎朝祈りを持って一日を始め、祈りをもって一日を終えるという積み重ねによって神様への信頼が深められていくことでしょう。パウロのローマヘの旅路を守って下さった方は、私達の人生の旅路をも、もちろん嵐の中でも、必ず守って目的地に着かせて下さるお方です。

「神の守り」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]111編1-10節 1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。 2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 3 主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。 4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み 5 主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め 6 御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。 7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実 8 世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。 9 主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。 10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。 /n[使徒言行録]27章27-44節 27 十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。 28 そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。 29 船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。 30 ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、 31 パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。 32 そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。 33 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。 34 だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」 35 こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。 36 そこで、一同も元気づいて食事をした。 37 船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。 38 十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。 39 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。 40 そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。 41 ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。 42 兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、 43 百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、 44 残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。 /nはじめに  受難節の第4聖日の礼拝を、ご一緒に守れることを感謝いたします。  礼拝の中で「使徒言行録」を読み始めたのは、2009年1月からですが、今日は司会者に27章の終りまで読んでいただきました。(使徒言行録は28章まで)。  使徒言行録を読み始めた時には、読み終える時期にこのような大震災が身近に起こるなど誰も予想していませんでした。先週から27章に入り、この箇所は、パウロ達が乗った船が暴風に襲われ、難破した出来事が記されています。言い換えれば、パウロをはじめ乗船した人々が自然の猛威の中に置かれ、死をも覚悟しなければならない極限状態の中にあるということです。それゆえ、その中身は異なりますが、今、私達それぞれが置かれている状況と重ね合わせながら読む時、聖書の言葉がより身近に響いてくるように思います。 今日の聖書は、ローマに護送されるパウロの乗った船が、パウロの反対を押し切って危険な航海に乗り出した為に、案の定、暴風に巻き込まれ、幾日もの間太陽も星も見えないまま、嵐の中を漂流し、乗客は絶望の中に置かれてから二週間たった時の話です。 /n「あの人達がいなければ、あなたたちは助からない」  真夜中に、船員が水の深さを測ると36mあり、更に進んで測ると27mと浅くなっていました。明らかに陸に近づいている兆候です。そこで、船が暗礁に乗り上げるのを防ぐ為に、船の後ろにいかりを降ろしたのですが、船員達はそれに乗じて自分達だけ逃げようと小舟を海に降ろしました。真夜中にもかかわらず、パウロは船員達の仕事を見守っていたのでしょうか。すぐにこのことを隊長と兵士に知らせました。今、船員がいなくなれば、残された人達は助かる見込みはありません。知らせを受けた兵士達は、船員が逃げていかないよう、小舟の綱を断ち切り、小舟を流してしまいました。そしてひたすら夜が明けるのを待ちました。 /n信仰者とそうでない者  第二コリント書に「私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)。とあります。  信仰がなければ、見える状況が絶望的であれば、絶望するしかありません。しかし信仰があれば、見える状況がたとえ絶望的であったとしても、「私達は四方から苦しめられても行き詰らず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。・・イエスの命が現れるために。」(同4:8)とある通りです。  276人の乗客乗員は、絶望の中で食欲もなく、二週間、何も食べていませんでした。パウロは彼らを励まし、生き延びる為に食べるように勧めました。そして、自分は必ず皇帝の前に立つという使命があって、神がそれをさせて下さるから、一緒にいるあなた達も必ず守られると語り、パンを取って神様に感謝の祈りを献げ、パンを裂いて食べ始めました。そこで人々も元気づいて、二週間ぶりに食事をとることが出来たのです。 /n神の守り  朝になり、陸地を目の前にしたものの、船は浅瀬にぶつかり乗り上げて動かなくなり、激しい波によって船が壊れ始めました。そのため兵士は囚人を殺そうとしました。囚人を逃がせば、兵士は代わりに囚人と同じ刑を受けねばならないからです。パウロにとって最後まで死の危険が伴っていたのです。しかし百人隊長はパウロの命を守ろうと、兵士達の計画を思いとどまらせました。そして全員、泳いで陸に上がることができました。この百人隊長の「パウロを『助けたい』」と思ったのも、全員が『無事』であったのも、28:1の『助かった』のも、すべて同じ原語で「救う」という意味の言葉です。  27章は、「神様によって救われた」キリスト者の証しの記録です。そして、それを読むわたし達も、この震災の中を神様によって救われた者たちです。

神の国を宣べ伝える 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]55章6-9節 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。 /n[ヨハネ福音書]20章11-23節 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 /nはじめに イースターおめでとうございます。 今から約2000年前、イエス様は十字架につけられ殺されました。先週は、イエス様の地上で苦しみの足跡をたどり、その意味を改めて心に刻む時として受難週の黙想会を持ちました。 イエス様が十字架で殺されたのは、目に見える世界の出来事からみれば、ユダヤ人による「ねたみ」のためでした。しかし聖書はもう一つの、神様の御計画を伝えています。この十字架の意味を知ることこそ私達が本当の意味で「生きる」ことが出来るようになることを心に覚えたいと思います。 /n人間の罪 聖書が私達に語る第一のことは、神様がおられるということです。神様はこの世界(空・陸・海)を造られ、鳥や動物や魚を創造され、最後に人間を、神様に似せて創られました。神様に似せて創られた人間は、神様に従順に従って生きている限り平和が約束されていました。ところが最初の人、アダムとエバは、神様の言葉に逆らって自分の欲望を満足させました。これが「罪」の始まりです。 神様は、人間が神様に従い、幸せに生きていけるようにモーセを通して「律法」を与えられました。律法は、神様を愛し隣人を愛することを命じています。「神様を愛する」とは、神様を神様とする。神様でない偶像を拝まない。神様の名前を自分の為に勝手に使わない。神様を礼拝する聖日(日曜日)を大切に守る。そして神様が与えて下さった両親を敬うことです(両親は子供を正しく教え導く責任を持つ)。「隣人を愛する」とは、隣人の命を守る。隣人の家庭を守る。隣人の自由を守る。隣人の名誉を守る。隣人の財産を守ることです。ところが人間は、「律法」を守ることが出来ませんでした。人間は、神様の言葉よりも自分の感情や欲望を優先する生き方(罪の世界)へと堕落していきました。その結果、神様と人間の間には深い断絶ができ、人間は、神様の怒りの前に滅びるしかありませんでした。 /n目に見えない神様の御計画 しかし神様は、滅びるしかない人間に対して、救いの御計画をたてて下さいました。罪を犯していない神の御子の流す血によって、人間の罪をあがなうという道(滅びるしかない人間の罪を赦すという和解の道)を用意されたのです。この神様の救いの御計画を、人間が信じることができるように、神様は旧約時代から預言者たちを通して予告されました(イザヤやミカなど)。この預言の実現が、イエス・キリストの誕生と生涯・十字架の死と復活です。私達はイエス様の十字架の死によって罪が贖われ赦されたのです。この福音、この喜びのニュースを信じる信仰が与えられ、信じるものとされた時、私達は「神の民」の一員とされるのです。 /nイエス・キリストの復活 それは、十字架の死から三日目の朝、まだ暗い内のことでした。マリアはお墓に行き、イエス様の遺体がなくなっていたのを目撃してペトロともう一人の弟子に知らせました(2節)。二人の弟子はすぐ走ってお墓がからであることを確認して家に帰っていきました。ところがマリアはこの後もお墓の外で立ったまま泣き、泣きながら身をかがめてお墓の中を覗きました。中には二人の天使がいてマリアに声をかけますが、マリアは遺体がなくなったことだけを嘆いています。その時復活されたイエス様がお墓の外から(マリアの後ろから)「なぜ、泣いているのか。誰を探しているのか」と声をかけられました。マリアは、その声が誰かを知ろうともせず、遺体が戻ることだけを願っていました。イエス様が、「マリア」と呼ばれた時、初めてマリアはイエス様に気付きました。 /n「わたしは主を見ました」   絶望の中で泣いていたマリアに、イエス様は新しい使命を与えられました。それはイエス様の復活と、復活後、父なる神様のもとへ昇天されることを弟子に知らせることでした。イエス様を復活させた父なる神様こそ、死に対して勝利した私達の父なる神様です。復活の出来事は私達を絶望から希望へ、空(から)の墓から天へと私達の目を向けさせます。