「五人の賢いおとめ」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]23編 1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[マタイによる福音書]25章1-13節 1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 /nはじめに  この大地震の中にあって、このように守られて、礼拝をいつものようにおささげすることが出来ることをまず最初に神様に感謝致します。そして、今日までに、ここにおられる方の御家族の安全の確認が出来たことを神様に感謝いたします。又、伝道所の会員であるA兄の安全確認できましたが、御両親の確認はまだですので、守られていることを信じて、出来るだけ早く確認したいと願っています。  携帯も固定電話もつながらない中、伝道所は博子姉の緊急電話用電話を使って、神奈川にいる私の息子の電話を経由して、多くの方々と連絡がとれました。さらに断水がなく、プロパンガスの使用が可能であり、さらに、たきぎや練炭などの燃料がありました。更に、博子姉が昔、来客用に作った沢山の布団がありました。それらがすべて用いられて、伝道所が一時的に避難所の役割を担うことが出来たことは本当に感謝なことでした。 /n万事が益となるように共に働く  ロマ書には、「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私達は知っています」とありますが、この御言葉が本当に真実であることが、この数日おこりました。地震時にはここにおられる三人の方の御主人が、それぞれ秋田、茨城、名古屋に出張中でした。伝道所に避難していた家族は心配しつつ祈りました。二人の方と連絡がとれ、最後の一人の方も、ローソクの明かりのもとで祈ったその夜、遅く、不思議なプロセスを経て安全が確認されました。一人は昨夜戻り、あとの二人の方は今、こちらに向かっています。安否確認のプロセスおよびこれまでの経過をここでくわしくお伝え出来ませんが(後でその機会があると思います)が、まさに、「万事が益となるように共に働いた」プロセスであり、神様を崇めました。 /n詩編23編  今日読みました詩編23編は、試練の中にある人々を慰め励ましてきた詩編として、よく知られています。作者は自分を羊にたとえて、主は羊飼いであり、私には何も欠けることがない。主は私を、柔らかい草の生えている場所で、草を食べさせ、身を横たえることの出来る安全な場所で休ませて下さり、さらに、疲れと渇きをいやす水が豊かにあるところに、私を先導して下さるので、私の魂は、霊的な神様の言葉である食物と水を得て、元気を回復させていただけると告白しています。そして主は、私を救いに至る道に導いて下さり、たとえ、狭く険しく見通しのきかない場所を通らなければならない時も、羊飼いの持つ鞭や杖で私達羊を、猛獣や、道から外れないように守り、いつも主が共にいて下さるゆえに、私に災いが襲ってきても恐れたり心配したりしないと告白します。主の守りは、敵の前でも平然と食事が出来るほど安全確実であり、主に従う者には恵みが迫って来るという喜びの歌です。そして最後に作者は、自分の命のある限り、主の恵みといつくしみがうしろから私を追って覆って下さり、生涯、私は主の宮に住むと歌います。 /n災いを恐れない  この作者の信仰告白は、私達の信じる神様がどのような神様であるのかを力強く伝えています。そして私達がこの神様を信じる限り、どのような状況の中に置かれても、平安を失うことはありません。私達も又、「たとい我、死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ」と、この困難な時でも、平安の中を、主を賛美しつつ、歩んでいきたいと思います。 /n賢いおとめと愚かなおとめ  次に読みました新約聖書も又、よく知られているイエス様の譬え話です。「賢い」というのは、頭が良いとか知識があるという意味ではなく、読んでおわかりのように、ランプの光を必要としていた最も大切な時に、ランプの光を確保し、祝宴の席に座ることの出来た人達のことです。そして「愚か」とは、ランプの光を最も必要としていた時に、補充の油を買いに行かねばならず、結婚式の祝宴に出かけながら、結果として喜びの席に座れなかった人達のことです。この十人は、同じ花嫁の友人であり、花嫁と一緒にわくわくしながら花婿が迎えに来るのを待っておりました。にもかかわらず、半分は祝宴に、半分は祝いの席から閉め出されてしまったのです。 /n天の国  これは、天の国の譬え話とあります。天の国とは、神様が支配されておられるところで、度々、結婚式の祝宴に譬えられる喜びに満ちた場所です。イエス様は、そこに入ることの出来る人について語っておられるのです。  多くの人々は、死んだら天国に行かれると思っています。そのような希望を持ち、そのように信じています。よほど悪いことをしない限り天国は皆が行けると考えている人々が多いのです。しかし聖書には、入りたいと願う十人の内、全員が入れるのではなく、半分の人しか入れなかったという厳しい結果を伝えています。入れた「賢い」人とは、予備の油を用意していた人達です。 /n予備の油  「予備の油」とは具体的には何を意味しているのでしょうか。何か立派な行為でしょうか。行いでは救われないと聖書は語ります。なぜならファリサイ派のように、表面だけをきれいにみせる偽善の行いがあるからです。では何か。「祈り」だと考える人もいます。確かに祈りを知らなければ天の国に入るのは困難です。けれども祈りだけではありません。「天の国」があることを信じ、「天の国」に入りたいと願い、入る為の準備をすることです。準備とは、イエス様を神の御子と信じ、その教えに従うことです。イエス様の教えに従うとは、神様を愛することと、人を愛することです。神様を愛するとは、神様を神様とすることです。つまり神様とは、私を越えた存在ですから、自分を最優先させるのではなく、神様が最優先であることを素直に、当然のこととして受け入れることです。 自分が何をしたいかではなく、神様が何を望んでおられるかを第一に考えることです。そして、神様を愛する者は、神様を崇め、神様を賛美すること、ほめたたえることを喜びとします。 /n偉大な神様の御業  私はこの地震で、停電の暗闇の世界から朝の光の世界に移って行くのを見ました。そしてやみから光を輝き出させた神様の偉大な業(創世記1:3)をほめたたえました。人間の誰が、この光を創り出すことができるでしょうか。神様しかおられません。地震で経験したあの闇が暗くて寒くても、陽が昇れば、気温も上がります。神様は、私達に命を与えて下さった方です。私達は、神様の赦しのもとで生かされているのです。私達の命も死も神様の御手の中にあります。  神様は、私達を愛しておられることを知らせる為に、御子イエス様を遣わされました。私達は目に見えない神様がどういうお方であるのか、イエス様を通して知らされています。そして聖書は、人が救われるのはその人の行いでは無く、「信仰」であると繰り返し語っています。 /n必ず終りは来る  今日の聖書は、この救いに入ることの出来る期間は、永久に続かないこと、ある時、思いがけない時に閉じられることを警告しています。実際、宮城県沖地震のような大きな地震は確実に近いうちに来ると言われていました。しかし私達は、地震がくることを知識として知りながら、一昨日突然起こって見ると、私達の準備がどれほど不十分であったかを思い知らされています。準備はいつでも出来る・・という過信があり、その内、その内、と言っている時に大地震はやってきたのです。同じように、天の国の祝宴の扉は、必ず閉まる扉です。  その扉が、今は開いています。ここにおられるすべての方は私も含めて天の国の祝宴に招かれている方々です。私達は五人の賢いおとめと同じように、予備の油を用意し、良き備えをもって、救いの道を歩んでいきたいと願うものです。

「パウロとアグリッパ王」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]1章2-4節 2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。 3 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。 4 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。 /n[使徒言行録]26章24-32節 24 パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」 25 パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。 26 王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。 27 アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」 28 アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」 29 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」 30 そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。 31 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。 32 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。 /nはじめに  総督がアグリッパ王の願いを受けて、町の主だった人々も集めてパウロを鎖をつけたまま引き出し話をさせた時、パウロはまず、自分がユダヤ人として幼い時から旧約聖書を学び、厳格なファリサイ派の一員として律法に忠実に従い信仰生活を送ってきたこと、そしてキリスト教徒達をひどく迫害してきたことを告白します。その迫害している最中に、天からイエス様の声を聞き、イエス様が神の御子、救い主であることを伝える使命を与えられたこと、彼はこの使命を受け入れて、それに従ったことを語りました。彼がしてきたことは、人々に、今の生活を悔い改めて神様のもとに立ち帰り、神様に喜ばれる行いをするようにという勧めでした。彼の宣教は「救い主は苦しみを受け、又、死者の中から最初に復活して、全ての人に光を語り告げることになる」ということを伝えたのであり、自分は、聖書に書かれていること以外は何も語らなかったと、堂々と伝道したのです。 /n短い時間で・・  ところが話を聞いていた総督が大声で、「お前は頭がおかしい」と話を中断しました。パウロは総督に、自分は真実で理にかなったことを話していると答えた後、今度はアグリッパ王に向かって、「ユダヤ人なら誰でも知っているイエス・キリストの十字架と復活、又、聖書に書かれているメシア(救い主)の預言のことなど、王様、あなたなら知っている筈だ」と語りかけました。「預言者達を信じておられますか。信じておられることと思います。」と、突然パウロからほこ先を自分に向けられた王は、心の準備もないまま、「短い時間で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と、パウロの問いから逃げてしまいました。 /nパウロの訴え  私達も又、この王のように、真理の言葉を聞きながら、そして自分に問われているのに他人事のように聞き流してしまうことが多くあるのではないでしょうか。根拠のない安心感の中にいた王は、「短い時間で・・」と、答えないことの弁解をしましたが、パウロはすかさず、「短い時間であろうと長い時間であろうと・・」と、救われる信仰に「時間の長さ」は関係ないこと、パウロの願いと祈りは、王様はじめその場に集まったすべての人達が、自分のように光の世界で生きてほしい、悔い改めて神のもとに立ち帰って欲しい、そして悔い改めにふさわしい行いをして欲しいことだと訴えました。 /n救いのチャンスを無駄にしないためには  このあと、アグリッパ王は席を立ち、パウロの話は終りました。王は、パウロの語る真理の世界(光の世界)から逃げて、再び暗闇の世界に帰ってゆきました。「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と評論家のように語り、自分が救いのチャンスを逃したことに気づいていません。パウロの説教を聞きながら、彼は、闇の世界と光の世界について一瞬でも考えたことでしょう。今のままでよいのか、と自分の心に問うたかもしれません。しかし彼は自分の心の奥を、深く見つめることをやめて、神のもとに立ち帰り悔い改めにふさわしい新しい生き方を選ぶチャンスを逃してしまったのです。せっかく心に救いの種が蒔かれたのに、その種は、鳥に持っていかれ、跡形もなくなってしまいました(マタイ13:18)。  私達は、大切な問いから逃げることなく、蒔かれた種が実を結ぶ土壌にしていただけるよう、救いの道を励んで歩みたいとねがうものです。

「闇から光へ」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]42章6-7節、16節 6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 16 目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。 /n[使徒言行録]26章1-23節 1 アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。 2 「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。 3 王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。 4 さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。 5 彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。 6 今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。 7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。 8 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。 9 実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。 10 そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。 11 また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」 12 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、 13 その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。 14 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。 15 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。 18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」 19 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、 20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。 21 そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。 22 ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。 23 つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」 /nはじめに  カイサリアで、新総督フェストゥスのもと、パウロの裁判が再び始まりました。告発人であるエルサレムの宗教指導者達は、パウロを有罪にして死刑に持ち込もうとしましたが、結局、罪状は立証できませんでした。総督は、告訴の内容が宗教上のことであり、死罪にはあたらないと知っていましたが、ユダヤ人に気に入られようとして、ユダヤ人が願っているように「この裁判を再びエルサレムに行って続けたいか」とパウロに持ちかけました。パウロはこれ以上公平な裁判を期待できないことから、ローマの法廷で決着をつけるべく皇帝に上告しました。死罪に匹敵する罪を犯したなら、死を免れようとは思わないと断言し、自分の命を惜しんでの上告ではないことをここで明らかにしています。  一方でパウロは、ローマ伝道への思いをずっと抱いており、夢の中でも「<span style="font-weight:bold;">エルサレムで力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない</span>」という主の言葉を聞いていたので(23:11)、たとえ「囚人」という形であれ、ローマ行きは神様の御心であると確信を与えられたのでしょう。この裁判で上告は受理され、パウロのローマへの護送が決定しました。 /nヘロデ・アグリッパ2世と、その妹ベルニケの訪問  アグリッパ王は新総督の就任祝いに訪れて、総督からパウロの話を聞き、自分も話を聞きたいと言い出したので、総督はアグリッパ王を始めとする町の主だった人達を集め、パウロに話をさせることにしました。思いがけず、「王」の前で話すチャンスが与えられたパウロは大変喜びました。 /nパウロの証しと説教  パウロはこれまでの自分の歩みを語りました。ユダヤ教徒として、律法を厳格に守り、旧約聖書のメシアの預言や復活を信じて従ってきた歩みでした。しかし預言の成就として、神が主イエスを最初に復活させたことを知らずにキリスト者を大いに迫害していた最中、復活の主に出会いました。 /n天からの声  ダマスコ途上で、真昼に突然、太陽より明るく輝く天からの光を見て、パウロ達一行が地に倒れた時、天からの主イエスの声を聞きました。なぜ主がパウロにご自身を現されたのか、その理由と目的が語られます(16節から18節)。  第一に、復活のイエス様の証人および奉仕者になる為、第二に、パウロをユダヤ人や異邦人の間から救い出して、イエス様の証人として派遣する為です。つまりパウロは、これ迄生きてきた社会(この世=罪の支配する世界)から救い出されて、「神の支配する世界」に移されたのです。そして救い出して下さったイエス様から新しい使命を帯び、再び「罪の支配するこの世」に戻されますが、しかしその時のパウロは「以前と同じ」パウロではなく、この世から救い出された後の、「イエス様からこの世に派遣された」パウロ、という大転換が起きます。 /n闇から光へ  パウロが遣わされた目的は、暗闇の世界に生きる人々の目を開かせて光の世界に導くこと。サタンの支配から神様の支配のもとに立ち帰らせることです。そして暗闇の世界に生きていた人々が、イエス・キリストへの信仰によって罪の赦しを得ること、彼らが神の民として、神の国を受け継ぐ者として生きることです。(私達にも同じ使命が与えられています)。  暗闇の世界に生きる人々とは、自分の造り主を知らず自分を神として生きている人々、この世の支配(サタンの支配)の下にいる人々(ガラテヤ5:19-では、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴など、肉の欲に支配されている人々)です。一方、光の支配のもとで結ぶ霊の実は、<span style="font-weight:bold;">愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制</span>です。  暗闇の世界から光の世界に導き出された私達はこの恵みを捨てて後戻りしてはなりません。信仰によって罪を赦された私達は、神の国の民として神の国を受け継ぐことが約束されています。「<span style="font-weight:bold;">飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取る</span>」(同6:9)と聖書は励ましています。導かれた光の世界の中で歩み続けましょう。

「見えるようになる」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]29章17-24節 17 なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。 18 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。 19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。 20 暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び/災いを待ち構える者は皆、断たれる。 21 彼らは言葉をもって人を罪に定め/町の門で弁護する者を罠にかけ/正しい者を不当に押しのける。 22 それゆえ、アブラハムを贖われた主は/ヤコブの家に向かって、こう言われる。「もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない。」 23 彼はその子らと共に/民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。彼らはヤコブの聖なる者を聖とし/イスラエルの神を畏るべきものとする。 24 心の迷った者も知ることを得/つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。 /n[マルコによる福音書]8章22-26節 22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。 26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 /nはじめに  今日の聖書は癒しの奇跡の一つです。「耳と口の不自由な人を癒した」話(マルコ7:31~37)との共通点として挙げられることは、体の不自由な人が連れて来られ、イエス様が手を置く(触れる)ことによって癒されると信じて懇願していることです。(当時は癒す能力のある人から触ってもらうだけで、そのエネルギーが患部に移って正常な状態に回復すると思われていた。特にイエス様からは力が出て、すべての人の病気を癒していたので、群衆が何とかしてイエス様に触れようとしたとの記述が数か所ある)。更には、イエス様が救いを求めて来た人を大勢の見物人から連れ出して、一対一で癒されたことです。一対一で向き合うことで、切実に救いを求める人には神様が内面的な交流をされようと働きかけて下さることを、以前学びました。癒しの具体的な方法としても共通点があります。当時、民衆が薬としてとらえていた「つば」を患部に塗られたこと(手を置いたこと)などです。  イエス様は、純粋にその御力を信頼して来た人々を、憐みを持って癒されました。神様の御国では、救われたいと願い救いを信じる者には救いが訪れることを、「癒し」で示すことが一つの宣教だったのでしょう。 /n段階  今日の聖書では、癒しが「段階」を踏んでいます。最初の癒しの後、「見えるようになって」(24節)とありますが、これは「見上げて・顔を上げて」とも訳されます。「<span style="font-weight:bold;">何か見えるか</span>」とのイエス様の問いに、「人が見えます!」「木のようですが歩いているのが分かります!」と、癒されたことを肯定的に喜び、希望を感じているとも読み取れるこの盲人に、イエス様は二度目の癒しで「<span style="font-weight:bold;">何でも</span>(=全体的に)<span style="font-weight:bold;">はっきり見える</span>」ようにされました。遠慮深い人だったら「ぼんやり」でも十分だとして、「もう十分です」と主の前から立ち去ってしまうかもしれません。しかし苦しみを長年背負ってきた盲人に、イエス様は再度救いの手を差し伸べられました。 /n段階的成長  前回(8:14-)イエス様は、弟子達が御自分の語る言葉を悟らないので「<span style="font-weight:bold;">目があっても見えないのか</span>」と言われました。四千人に食べ物を与えた奇跡(1節-)を目の当たりにしても、弟子達はイエス様が神の御子であることについて「ぼんやり」としか分かっていませんでした。彼らが「全体的に」はっきりわかったのは復活の主に出会ってから(もしくは聖霊降臨の時)で、その御力を思い知らされたことからでしょう。  私達の信仰生活においても、イエス様への理解が段階的に成長していくということが起こります。私達は信仰者として、まだ「ぼんやり」とごく一部しか分かっていません。神様の豊かさは人智を超えた大きさです。すぐ悟ることが出来なくても、神様の御前に希望を持ち続けて信頼して立ち続けることです。それによってイエス様が、憐れみを持って 救いの手を差し伸べて下さっていることを、今日の箇所から学べます。  神様に遠慮せず、もっとよくわかりたい!と顔を上げることが許されているのが大きな恵みです。主の憐れみによって「見えるようになる(見えるように成長させていただける)のです。「受洗して救われたからそれでいい」では、「一部をぼんやり」しか見えていないのではないでしょうか。 /n「この村に入ってはいけない」(26節)  この村とはベトサイダです。ベトサイダはイエス様の奇跡を数多く見ながら悔い改めず、イエス様がお叱りになった場所です(マタイ11:20)。そのような村に、この盲人が入ることをイエス様は禁じられました。新しい一歩を踏み出すのは、不信仰の「この村」からではないのです。 /n成長し続ける  もっと見えるように、もっと聞けるように、もっと神様の福音を語れるように、もっと神様の真理を悟ることができるように、成長し続けることが私達に求められています。悪の誘惑に戻ることなく、神様の招きに従い、御前に立ち続けることで豊かな信仰の実を実らせていただけるよう、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう!

「我はカイザルに上訴せん」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]11編1-7節 1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。 2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。 3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。 4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。 5 主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み 6 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。 7 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 /n[使徒言行録]25章6-12節 6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。 7 パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。 8 パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。 9 しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」 10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」 12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。 /nはじめに  ローマがユダヤ地方の総督として派遣していたフェリクスのもとで、パウロの裁判は開かれました。しかし告訴したユダヤ人の側では、パウロを有罪にする証拠も証明も出来ませんでした。この裁判の前に総督フェリクスは、千人隊長リシアから「パウロとユダヤ人との間にある問題を調べた結果、それはユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はなかった」との報告を受けていました。さらに彼自身、キリスト教のことをかなり詳しく知っていました(24:22)。  フェリクスの、総督という地位や権力から考え、この状況であれば今、目の前にいるパウロを無罪放免することは可能でした。が、彼はそうしませんでした。彼は、エルサレムにいる千人隊長がカイサリアにやって来た時に判決を下すと言って、裁判の判決を延期したのです。 /n総督フェリクス  フェリクスは妻がユダヤ人であるということもあり(24節)、パウロを、キリスト者の指導者の一人であることを認めて、パウロの監禁中たびたびパウロを呼び出しては、イエス・キリストへの信仰についてパウロから聞きました。彼がパウロに対して抱いていた思いは、丁度ヘロデ王がバプテスマのヨハネに対して抱いていたように、良心の呵責を持ちつつ、正しい言葉が聞けることへのパウロへの好意的な関心がありました(参照:マルコ6:20)。パウロはためらうことなく、正義について、節制について、又、来るべき神様の裁きについて話したので、彼はそのような時は恐れて話を打ち切りました。フェリクスはパウロの無実を知りながら、彼を軟禁状態のまま二年間も裁判を開きませんでした。それは、ユダヤ教指導者達から憎まれたくないこと、そして釈放金としてわいろを受けようとする下心があったからだと聖書は伝えています。 /n総督フェストゥス  二年後フェリクスは転勤となり、フェストゥスが赴任してきました。彼は保留となっていたパウロの裁判を、着任後まもなく開きました。ユダヤ人達は、前回と同じように重い罪状を言いたてましたが立証には至りませんでした。ところがフェストゥスはパウロに、「お前は、エルサレムに上って、そこで裁判を受けたいか」と尋ねたのです。(9節) /n自己保身  フェストゥスは、自分がパウロを釈放すれば、ユダヤ人指導者層を赴任したばかりで敵に回すことを覚悟しなければならないことを察知し、「自分はあなた達の敵ではない」とユダヤ人にアピ-ルする為、彼らの願い通り、エルサレムでの裁判の道を開こうとしたのでしょう。  二人の総督に共通しているのは、「白を白、黒を黒」と言わない生き方を選んでいるということです。パウロの無実を知りながら、ユダヤの統治がやりにくくなることを恐れ、ユダヤの指導者層を自分の側にとどめておくための方策を優先させたのです。それは無難に任務を果たす為、自分の生活の安定の為、言いかえれば自己保身のためでした。 /n二つの生き方  パウロにとって、復活の希望がある以上「死」は恐怖ではなく、逆に、この地上から去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましいとまで言っています(フィリピ書1:23)。しかしユダヤ人の訴えが事実でない以上、無実は立証されなければなりません。真実は歪められてはならないのです。この法廷でパウロは、「もし悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません」(11節)と述べ、結論として「<span style="font-weight:bold;">我はカイザル(皇帝)に上訴せん</span>」(文語訳)と答えました。パウロは、この上告によって、囚人としてローマの法廷に立つことを宣言したのです。  ここに二つの生き方が示されます。一つは、(二人の総督のように)自分の利益を優先させる生き方、他方は、(パウロのように)神を信じ、神を畏れる者の生き方です。そこには嘘、偽りはありません。正しいことと間違っていることを明確に区別し、自己保身の道ではなく神様の言葉に従う道です。私達もパウロに倣って、従う者の道を歩んでいきましょう。

「復活を信じる信仰」 牧師 佐藤 義子

/n[ダニエル書]12章1-4節 1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。 2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。 4 ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」 /n[使徒言行録]24章10-23節 10 総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。 11 確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。 12 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。 13 そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。 14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 15 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 16 こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。 17 さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。 18 私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。 19 ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。 20 さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。 21 彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」 22 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。 23 そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。 /nはじめに  今日の新約聖書は、千人隊長の命令によってパウロがカイサリア(ローマ総督駐在地)に護送されたその後の出来事が記されています。パウロの暗殺計画が失敗に終った後、パウロに殺意を抱くユダヤ人達は、今度は、総督に訴える為わずか5日後にはカイサリアにやってきました。その為パウロは、ローマ総督フェリクスの前で弁明することになりました。今朝はその裁判を見ながら、パウロの告白する復活の信仰について学びたいと思います。 /n告発  法廷では、大祭司アナニアと長老数名および弁護士テルティロがパウロを訴え、彼が世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしていること、さらに彼が「ナザレ人の分派の主謀者である」と述べ、最後に「神殿を汚そうとしたからパウロを逮捕した」と告訴の理由を語りました。聖書本文にはありませんが、「<span style="font-weight:bold;">そして、私共の律法によって裁こうとしたところ、千人隊長リシアがやってきて、この男を無理やり私共の手から引き離し、告発人達には、閣下のところに来るようにと命じました。</span>」(使徒言行録最後の頁の24:7参照)と千人隊長への不満をも訴えた写本が残されています。 /nパウロの弁明  この告発に対するパウロの答弁が、今朝読んでいただいた10節から21節にあります。パウロは、自分がエルサレムに来たのは礼拝の為であり、しかもエルサレム到着後12日しかたっておらず、ここでの告訴の内容は、誰も、何の証拠も挙げることは出来ないと訴えを退けています。ただし、「ナザレ人の分派」であることは認めて、自分の信仰を明確にしています。 /nパウロの信仰告白  14節以下で、パウロは、自分は先祖の神(天地創造主の唯一なる神)を礼拝する者であり、律法と預言者(旧約聖書のこと)をことごとく信じていると告白します。さらに、自分は復活する希望を抱いており、これは自分を訴えている人々と同じ信仰だと主張します。(ユダヤ教の三つの柱は、神が唯一であり、旧約聖書は正典であること、そして復活の期待の確信)。ユダヤ教の中には復活はないとするサドカイ派がおりましたが、彼らは他のユダヤ教徒から、忍耐をもって受け入れられていたのでした。 /n復活の希望の確信  パウロは「<span style="font-weight:bold;">正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています</span>」と告白しています。イエス・キリストの復活は新約聖書の信仰の根本であり、弟子達の宣教の中心は「神様がイエス・キリストを復活させた。自分達はその復活の証人である」でした。パウロ自身も復活の主に出会い、キリスト者への迫害者から伝道者へと180度変えられました(9章)。  パウロは「<span style="font-weight:bold;">イエスは、私達の罪の為に死に渡され、私達が義とされる為に復活させられたのです</span>」(ロマ4:25)と語っています。イエス・キリストの死と復活は切り離すことが出来ません。私達の罪が赦される為に、神様の働きによってなされたのがキリストの死と復活なのです。コリント書でも「<span style="font-weight:bold;">キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります</span>」(15:17)とあります。 /n私達の信仰  私達もパウロと同じように、信仰によって、肉体の死がすべての終りではなく、復活して神の国に入れられることを信じています。私達は、神様を神様として信じてこなかったそれ迄の罪を悔い改め、イエス様を神の子・救い主と信じる信仰により、罪から救われて、神の子とされた喜びの中に生かされています。それゆえに、死は恐怖ではありません。大切なことは生涯「死に至るまで忠実であれ」(黙示録2:10)との御言葉に従って生きることです。  多くの誘惑や困難が、時として私達を苦しめます。しかし私達には、復活のイエス様が約束通り聖霊と共に常に傍にいてくださり、私達に知恵と勇気と励ましを与えて下さいます。  礼拝の恵みにあずかることを通して、しっかりとイエス・キリストにつながっていましょう。

「まだ悟らないのか」 伝道師 平賀真理子

/n[エレミヤ書]5章21-31節 21 「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず/耳があっても、聞こえない民。 22 わたしを畏れ敬いもせず/わたしの前におののきもしないのかと/主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め/それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず/とどろいても、それを越えることはできない。 23 しかし、この民の心はかたくなで、わたしに背く。彼らは背き続ける。 24 彼らは、心に思うこともしない。『我々の主なる神を畏れ敬おう/雨を与える方、時に応じて/秋の雨、春の雨を与え/刈り入れのために/定められた週の祭りを守られる方を』と。 25 お前たちの罪がこれらを退け/お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ。」 26 「わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。 27 籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。 28 彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。 29 これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。 30 恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。 31 預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」 /n[マルコによる福音書]8章11-21節 11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 /nはじめに  今日の聖書に「<span style="font-weight:bold;">ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして・・</span>」(8:11)とあります。イエス様は、ユダヤ人・異邦人の区別なく神様の救いを求めている人々の救いのために、自由に旅をされました。一方、ファリサイ派の人々は、律法を重んじるあまり、律法を知らない異邦人と接触して自分達が汚れることをとても嫌っていました。ファリサイ派の人々にとって腹立たしいことは、自分達が軽蔑している「異邦人」を救う奇跡をイエス様が行っていることです。そして、ユダヤの民衆だけでなく、周辺の異邦人達からもイエス様への人気が高まったことへの嫉妬がありました。ですから、「イエス様を試そうとして」の「試す」はイエス様の人気や権威を失わせる目的を含んでいました。何が何でもイエス様を「神の御子」として認めることは絶対にしないという前提で、イエス様に対して「天からのしるし」を求め、議論をしかけました(11節)。「天からのしるし」とは、「太陽や月がどうにかなる天変地異」や、旧約聖書の預言者が行った奇跡と同じような奇跡を要求したと考えられます。イエス様を信ぜず、悔い改めのないファリサイ派の人々を、イエス様は「<span style="font-weight:bold;">そのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれ</span>」ました(13節)。 /nパンを持ってくるのを忘れた弟子達  舟の中で、イエス様は弟子達に「<span style="font-weight:bold;">ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい</span>」と戒められました(15節)。「パン種」とは、パンを膨らます酵母菌(イースト)で、少し入れれば大きく膨らむことから、ほんの少しで、人々や社会に広く影響を及ぼす原因となるものと考えられます。「ファリサイ派の」とは宗教における形式主義者のことで、神様を第一にしていると言いながら「律法」という決まりだけを守らせ、その精神に立ち返ることをしないため、手本となるべき彼ら自身の姿勢が間違っているので、指導される民衆にも腐敗が広がっていくのです。「ヘロデの」と言われるヘロデ王は、イエス様ご降誕の時、幼児を虐殺したヘロデ大王か、又は息子で洗礼者ヨハネを斬首したアンティパス王か、どちらにせよ、自己保身を暴力で図るヘロデの流れを指します。このような悪から弟子を守る為に「気をつけなさい」とのイエス様の戒めに対して、弟子達は「パンが一つしかない。足りない…」としか受けとめることが出来ませんでした。 /n「<span style="font-weight:bold;">なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。</span>」(17節)  そこでイエス様は、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」とエレミヤ書を用いながら(5:21)、「<span style="font-weight:bold;">分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。覚えていないのか。</span>」と何度も言葉を重ねておられます。それは、パンが与えられた奇跡を通して、神様の御業が明らかにされているのに、そのことを理解できず、自分の関心事しか見えず、聞こえず、理解できない鈍感な弟子達に対する嘆きと叱責に聞こえます。 /n叱責ではなく期待と励まし  マルコ8章には、イエス様に相対した3つのグループの姿があります。第一は群衆。第二はファリサイ派。第三は弟子達。信じて集まって来た群衆にイエス様は奇跡を行われました。ファリサイ派の人達には「しるし」を与えることを拒まれました。そして弟子達には特別な恵みが与えられています!神様の人間に対する愛と、イエス様を通して人間を救おうとする御旨を理解してほしいと期待されています。弟子達は普通の民衆でしたが、主に見出され、呼びかけに応じて従った者達です。今日の聖書での弟子達は、イエス様のファリサイ派に対する思いや自分達への愛情も理解できず、パンの心配をしているような者でしたが、彼らは望んでいることより はるかに豊かで素晴らしい恵みを与えられています。イエス様は、神様の救いのご計画において弟子達に期待されているのです。弟子達の姿は、私達の姿そのものではないでしょうか。「まだ悟らないのか」は叱責ではなく、私達への期待と愛の励ましです。

「神の守り」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]1編1-6節 1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。 /n[使徒言行録]23章12-35節 12 夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。 13 このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。 14 彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。 15 ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを整えています。」 16 しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。 17 それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」 18 そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行き、こう言った。「囚人パウロがわたしを呼んで、この若者をこちらに連れて来るようにと頼みました。何か話したいことがあるそうです。」 19 千人隊長は、若者の手を取って人のいない所へ行き、「知らせたいこととは何か」と尋ねた。 20 若者は言った。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。 21 どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです。」 22 そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」と命じて、若者を帰した。 23 千人隊長は百人隊長二人を呼び、「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。 24 また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ、 25 次のような内容の手紙を書いた。 26 「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。 27 この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。 28 そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。 29 ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。 30 しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました。」 31 さて、歩兵たちは、命令どおりにパウロを引き取って、夜のうちにアンティパトリスまで連れて行き、 32 翌日、騎兵たちに護送を任せて兵営へ戻った。 33 騎兵たちはカイサリアに到着すると、手紙を総督に届け、パウロを引き渡した。 34 総督は手紙を読んでから、パウロがどの州の出身であるかを尋ね、キリキア州の出身だと分かると、 35 「お前を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」と言った。そして、ヘロデの官邸にパウロを留置しておくように命じた。 /nはじめに  今日の新約聖書は、見出しに「パウロ暗殺の陰謀」とあるように、ユダヤ人によってパウロを殺す陰謀が企てられましたが、それは失敗に終わり、パウロの命が守られた出来事が記されています。最初の段落には多くの人々が登場します。まずパウロの命を狙う40人以上のユダヤ人達。次に彼らが自分達の陰謀に加担するように頼みにいった祭司長および長老達。そして暗殺計画を聞き込み、それをパウロに知らせたパウロの甥。それを聞いたパウロが、千人隊長に知らせる為に呼んだ百人隊長。そしてパウロの甥から直接暗殺計画を聞いて、パウロの命を守る為に動いた千人隊長です。 /nパウロを巡る人々の思惑  陰謀を企てたユダヤ人達は、ユダヤの最高法院(最高議会)においてパウロを有罪判決に持っていこうとした人達です。彼らには、パウロが律法をないがしろにしており、生かしておいては大変なことになるという危機感がありました。そこで神殿にいたパウロを捕え、殺そうと暴行を加えていたところ、騒ぎを聞きつけたローマの守備隊によってパウロは連行されてしまいました。当時エルサレムはローマの属州になっており、治安維持にあたるローマの守備隊は、暴動が起こることを阻止する義務を担っていました。そのため千人隊長は、ユダヤ人がパウロを訴えている内容を詳しく知りたいと思い、ユダヤの最高議会を開いて審議させました。ところが、そこではパウロが有罪かどうかよりも、パウロと同じ復活信仰を持つファリサイ派と復活を認めないサドカイ派との間に激しい議論が起こり、結局パウロの身の安全を確保するため、パウロは兵営に戻されました。 /n殺すまでは飲み食いしないとの誓い  パウロを有罪判決に出来なかったユダヤ人達は、自分達の感情がおさまらず、何としてでもパウロの命を亡きものにしようと、ひそかにパウロを殺す計画をたて、殺すまでは飲み食いしないと固く誓いを立てたのです。その数は40人以上にのぼりました。彼らは自分を呪いの下に置き、「誓いを果たさなかったら自分は呪われよ」という覚悟です。 /n暗殺計画  彼らはまず、ユダヤ教指導者であった祭司長と長老達の協力を取り付けるため出かけて行き、彼らに、千人隊長の所に行って最高議会を再び開いてもらうよう、議会関係者と一緒に働きかけて欲しいと頼みました(21節参照)。パウロのことで議会が開かれれば、出頭途中のパウロを襲い、闇討ちにする計画だと伝えました。神に敵対する勢力は、人間の知恵を出し合い、外側からは良く練られた計略のように見えますが、どこかに必ずほころびが出てくるものです。 /n人間の計画と神様のなさること  この40人以上のユダヤ人達と接触していた人々の中にパウロの甥(姉妹の子)がおりました。彼はこの計画を聞いてすぐパウロに伝えました。パウロは、その暗殺計画を千人隊長に直接告げる必要があると判断し、百人隊長を呼んで、甥を千人隊長のもとに連れて行くように頼みました。千人隊長は、誰にも知られないように配慮をもってこの若者から事情聴取をしました。そして内容の重さを考え、この若者に、陰謀のことを口止めし、千人隊長は自分のするべき仕事にすぐとりかかりました。それは、パウロの身柄をエルサレムの兵営にとどめておくのではなく、カイサリアに駐留するローマ総督のもとに送りだすという仕事でした。 /n神の守り  パウロは再び千人隊長の機転によって、命の危険から守られました。しかし暗殺計画からパウロを守ったのは神です。神が陰謀を打ち砕いたのです。創世記に「アブラハムのイサク奉献」の出来事が記されていますが(22章)、これは私達に「神が備えて下さる」との信仰を教えています。神様は、人間の必要や危急や困難に当面した時、神様の知恵と全能と慈しみをもって、あらかじめ備え配慮して下さいます(神様の摂理)。パウロはこの後カイサリアへ護送され、ローマへの宣教の道が、一歩前進しました。 私達の歩みも同じように「神の守り」の中にあります。

「異邦人への恵み」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編]22編25-32節 25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26 それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27 貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29 王権は主にあり、主は国々を治められます。 30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31-32 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。 /n[マルコによる福音書]8章1-10節 1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。 /nはじめに  今日の聖書箇所の少し前には、イエス様が異邦人の町に行かれたことが記されています。その道のりを考えると今日の「四千人に食べ物を与える」奇跡をなさったのも、恐らく異邦人の多く住む地方(デカポリス)ではないかと思われます。似た話が六章(30-44)にもあり、六章では人数が五千人、場所はイエス様の故郷ナザレ付近の村であっただろうと思われます。 /n「五千人」の奇跡の場合  五千人の奇跡が行われた場所は、父なる神様が第一に救おうとされたユダヤ人の町であり、イエス様は、まずご自分の民に神様の恵みの豊かさを示す奇跡をされました。パンの残りが「12の籠にいっぱいになった」という「12」は、イスラエル民族の12部族の象徴であるとも読み取ることが出来ます。更に「籠」は、もともとの言葉ではイスラエル民族が旅行の時に持参した「自分達の食事(旧約聖書の食物規定に準じた食物)を持ち歩く為の入れ物」で、口の狭いひょうたん型のあまり大きくない容器を指す言葉です。これらのことも、「五千人」の奇跡が、ユダヤ人を救いの対象とした奇跡であったことを示しているといえます。 /n「四千人」の奇跡の場合  今日読んだ「四千人」の奇跡では、残ったパン屑を入れた七つの籠の、「籠」は、異邦人がよく使っていた食糧を入れる布の籠のことで、これは、人が入るほどの大きさがあったそうです(使徒言行録9:25参照)。「七つ」も使徒言行録6章以降にあるように、七人の執事を選ぶことから異邦人伝道が広まっていったことと関連付けられます。そしてここでは「五千人」の時とは違い、弟子達からではなくイエス様ご自身の方から、四千人の人達の食ベ物のことを心配されています。この奇跡は、異邦人への神様の憐みの表れとして読むことができます。 /n二つの奇跡の共通点  1.イエス様の人々への深い憐み。2.「パンは幾つあるか(今あるものは何か)という問い。不足や不満や不安ではなく、現在あるものに弟子達の目を向けさせます。3.天の父なる神様に感謝や讃美の祈りを献げられたこと(主がいつも大事に実践されていたこと)。4.弟子達を通して裂いたパンを人々に与えたこと。イエス様が人々を救われる時、弟子達を用いられます。5.実際の恵みとしての食べ物を、皆満足していただき、余りも十分にあったこと。6.奇跡の後、弟子達と共にすぐにその場を舟で去られたこと、などが、二つの奇跡の共通点です。  これらをまとめると、「救いを求めてやって来る人々を憐れまれる主イエス様を中心とする分かち合いこそ、神の国の豊かさであり、神様を信じる人々に、その恵みは十分に満ち足りたものである」ことを示していると言えるでしょう。イエス様の御力やその愛は、もはやユダヤ人、異邦人の区別や、老若男女の区別もなく広がっていく事を示しています。 /n主を中心とした恵みの豊かさを分かち合う群に・・  新約の時代に入り、私達は、新しい神の民・イスラエルとされた者です。「<span style="font-weight:bold;">内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり・・その誉れは人からではなく、神からくるのです</span>」(ロマ書2:29)。神の民とされた私達に、「<span style="font-weight:bold;">あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です</span>」(エフェソ2:8)と告げられます。私達は今日の箇所から、今与えられているものを感謝し、神様の恵みの豊かさを信じ、恵みを独り占めするのではなく主を中心とした分かち合いで神の国は広がっていくことを学びたいと思います。  ご自分を十字架につけてまでも私達を救おうとされた方が、私達の主です。神様の愛を心から感謝する私達は、主にある兄弟姉妹と共に、「礼拝」を通し、聖餐式を通して、聖霊の働き、豊かな愛や喜びの感情を皆で分かち合いたいと思います。試練の中にある人達とは苦難を分かち合い、祈り支え合うことが出来ます。神様がそのような内面的な交わりを求める御方だからです。そのように歩んでまいりましょう。

「神の前で生きる」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]41章8-16節 8 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。 9 わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。 10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。 11 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。 12 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。 13 わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。 14 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。 15 見よ、わたしはあなたを打穀機とする/新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。 16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ/嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。 /n[使徒言行録]23章1-11節 1 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」 2 すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。 3 パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」 4 近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。 5 パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」 6 パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」 7 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。 8 サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。 9 そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。 10 こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。 11 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 /nはじめに  パウロが、自分を襲ったユダヤ人達に話をさせてほしいと、千卒長から許可をもらい、ヘブル語で話した内容は自分についてでした。自分がどのような環境の中で、どのような教育を受け、どのように生きてきて、どのように主イエス・キリストと出会い、その後どのように主イエス・キリストに従ってきたのか・・。それが彼の信仰の証しであり「伝道」でした。 /n伝道  「伝道」は、救われた者の全てに与えられている「恵みの使命」です。パウロのように自分の生涯を語ること、自分の生涯にどのようにイエス様がかかわって下さったか、そして今もかかわり続けて下さっているか、イエス様をまだ本当に信じていない時の私はこうだったけれどもイエス様と出会ってからは、自分はこのように変わった、変えられたということを伝えることが出来たら幸いです。伝え方はいろいろあるでしょう。言葉で語ることが苦手でも、イエス・キリストを信じて従う中で働いて下さる神様の力があり、信仰によって変えられていく姿は、すばらしい伝道です。パウロの証しは、自分に働いた神様の恵みとイエス・キリストとの出会いを伝えることが目的でした。しかし話が「異邦人伝道」に及んだ時、再び群衆は、わめきだし上着を投げつけ騒乱状態に陥りました。 /n選民ユダヤ人意識  ユダヤ人にとって「律法」は、神から自分達選民に与えられた特別なものでしたから、その律法を、異邦人(ユダヤ人以外の律法を持たない民)伝道をしているパウロが、ないがしろにし、異邦人に律法を守らなくても良いと教えているとのうわさが広まって、パウロはユダヤ人から殺意を持たれていたのです。事実は、「律法に縛られていたパウロが、律法の精神を失うことなく、律法から自由にされた・・律法では救われず、信仰によって救われる・・」ということですが、律法主義に生きる者達には受け入れ難いことでした。それで話が異邦人伝道のことに及んだ時、騒ぎ出したのです。 /nローマの市民権  この騒乱状態を抑える為に千卒長はパウロを兵営に連れて行き、なぜ群衆がこれ程騒ぎ立てるのかパウロを訊問することにしました。訊問は拷問の後に行われていたので、パウロにもむち打ちが命じられました。パウロは、そばにいた百人隊長に「ローマの市民権を持つ自分に対して、裁判にもかけずにむち打ちをしても良いのか」と言いました。百人隊長はすぐ千人隊長に報告し、千人隊長はあわててそのことを確かめ、むち打ちと訊問を取り下げ、翌日、ユダヤ人議会が招集されました。 /n議会で  パウロは鎖を外され、議会で弁明の機会を与えられました。パウロは冒頭で、「兄弟達、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」と語りました。人は生まれながらに「良心」をもっていますが、その良心は時にマヒし、或いは働かなくなる時があります。パウロが語る良心は、「神の前で生きる者としての良心」、「完全にはっきりとした、正しい良心」などと訳されます。パウロは次の章でもこう言っています「私は、神に対しても人に対しても、責められるところのない良心を絶えず保つように努めています」。キリスト者は、人の前で生きるより先に神の前で生きる者としての良心が与えられており、その働きが鈍らないように、パウロは日々努めていたのです。  この議会ではパウロが、ファリサイ派に目を向けて、自分は同じ復活の信仰をもつキリスト者であることを訴えました。その為、復活を信じないサドカイ派と、復活を信じるファリサイ派との間で論争がはげしくなり、千卒長は議会に軍隊を入れて、パウロを力ずくで助け出しました。 /n主の励まし  その夜、主の言葉がパウロに臨みました「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」  今日、この世の荒波を受けつつキリスト者として生きている私達にも、イエス様は同じように「勇気を出しなさい」と励まして下さいます。今週も、この励ましの下で、良心に従って神の前で歩んでいきましょう