「行け。わたしがあなたを遣わす」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]18章26-31節 26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。 28 あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。 29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。 30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。 31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。 /n[使徒言行録]21章37節-22章21節 21章 37 パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。 38 それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 39 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 40 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。 22章 1 「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」 2 パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。 3 「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。 4 わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。 5 このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」 6 「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 7 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 8 『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。 9 一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。 10 『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。 11 わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。 12 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 13 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。 14 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。 15 あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。 16 今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」 17 「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、 18 主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』 19 わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。 20 また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』 21 すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」 /nはじめに  今日の聖書の前には、パウロが彼に敵対し殺意を抱くユダヤ人によって、神殿で捕えられた出来事が記されています。ギリシャ人を境内に連れ込んで神殿を汚したという誤解によるものでした。突然、拉致されて暴行を受けたパウロは、かなり身体にも傷を受けていたことでしょう。しかし幸いなことに神殿というおおやけの場所でなされたこの事件は、駐留していたローマの軍隊が駆け付けることになり、パウロは、暴徒化したユダヤ人から命を守られる結果となりました。パウロは二本の鎖で縛られて、ひとまず兵営に連れていかれることになりますが、兵営に連行される時、彼は千人隊長に自分を襲った人々に話をさせて欲しいと頼み、許可をとります。そして語った内容が、今、司会者に読んでいただいたところです。 /n異常事態でも・・  パウロはこのきわめて異常事態の中で、なぜこのように平静に語ることができたのでしょうか。私達の多くは、何かことが起こり自分を取り巻く環境が全く変わってしまうと、普通に語り続けることが困難になります。予想していない目の前の出来事に飲み込まれて落ち着きを失い、自分の置かれた状況にどう向き合ったらよいのかわからなくなりがちです。  しかしパウロは、自分のとった行動の結果に対して、常に責任を引き受ける覚悟がありました。彼のなすことはすべて信仰の良心に従って確信をもったものでしたから、神が共にいて下さるという平安の中で、聖書に記されている通り、自分自身の証しを力強く語ることが出来たのです。 /nパウロの証し  パウロは自分と同じユダヤ人に対して、ヘブル語(民族の言葉)で、それまで迫害していたキリスト教徒に自分がなぜなったのか、そのプロセスを丁寧に語りました。彼はダマスコ途上で、突然天からの光を受け、イエス・キリストの声を聞きました。彼は復活のキリストに出会い、信じて従ったのです。人がキリスト者になる時に、言われるたとえがあります。それは、天からいつも私達に向けて手が差し伸べられており、私達がその手に向かって自分の手を差し出す時、そこに神様との出会いが起こるというものです。私達が結婚式やその他の祝い事の招待状を受け取る時、その招待に応じるかどうかを決めるように、神様が聖書を通して神の国に私達を招待して下さっているその招き(救いの招き)に対して、私達は応答しなければなりません。  パウロは、復活のキリストの声を聞いて信じて従いましたが、その場に一緒にいてパウロの目撃者となった人々が、パウロと同じようにイエス・キリストに従ったという聖書の記述はありません。現代も又、神様に出会う機会は多く用意されています。が、その時を恵みの時として受けるか、そうでないか、道はいつも二つに分かれています。信じて従う道を歩んだパウロを、その後、イエス・キリストがどのように導いて下さったのか、パウロは、この時を逃さずユダヤ人に向かって語り、証しをしました。 /nイエス・キリストはパウロにも私たちにも同じように・・  パウロに現れてくださったイエス・キリストは、聖霊の働きを通して今を生きる私達にも深くかかわって下さいます。今、ここにこうして礼拝に招かれているのも、聖霊の働き(導き)によるものです。私達が意識する、しないにかかわらず、神様は生きて働き、人格(神格)をもって私達を招き、私達が神様に向かって手を差し出すのを待っておられます(讃美歌2編:196番)。  聖書は神様の言葉であり、神様の霊の導きの下に書かれており(二テモテ3:16)、そこには真理の光があります。真理を求める者は誰でも真理のもとにくることが出来ます(ヨハネ8:31-32)。 暗闇を歩けば小石にもつまずくように、生まれながらの人間が自分の正しいとする判断だけで生きることは、暗闇の中を歩くようなものです。しかし聖書の光に照らされながら歩くことは、太陽のもとで歩くのと同じで、小さな小石でもはっきり見えて、つまずくことはありません(ヨハネ福音書12:35-36)。  パウロは神から来る平安の中で語り続けました。彼には主イエス・キリストの言葉「<span style="font-weight:bold;">行け。私があなたを遣わすのだ</span>」(21節)が傍らにいつもあります。

「すべて心に納めて」 伝道師 平賀真理子

/n[箴言]3章1-6節 1 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。 2 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。 3 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び/心の中の板に書き記すがよい。 4 そうすれば、神と人の目に/好意を得、成功するであろう。 5 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。 /n[ルカによる福音書]2章13-21節 13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 /nはじめに  今日は、降誕節第1主日です。主の誕生の喜びを再び思い起こし、主のご降誕物語をルカによる福音書から共に聴きたいと思います。ルカ福音書では、洗礼者ヨハネと神の御子イエス様の誕生が対比されて書かれています。一つは、天使による「誕生」のお告げにおいてです。洗礼者ヨハネは、「祭司」という良い家柄のザカリアにお告げがあり、イエス様は、貧しいヨセフの「いいなずけ」であったマリアに告げられました。ザカリアは、主のお告げを信じられず、その結果口がきけなくなります。一方イエス様の母マリアは、一度は疑念を挟みますが、すぐ「お言葉どおり、この身に成りますように。」と主にすべてを委ねる信仰を告白しています。まさに、「主は心の中を測られる」(箴言21:2)のです。 /n預言者と、神の御子  洗礼者ヨハネとイエス様の役割はどうでしょうか。父親ザカリアの賛歌に「幼子(ヨハネ)よ、お前は、いと高き方の預言者と呼ばれる。」(1:76)と、あくまで人間です。しかしイエス様は神の御子です。天上で(神様の下で)讃美礼拝をしていると考えられていた大勢の天使達が、イエス様のご誕生の時だけ(歴史上ただ1回)、この地上で讃美が起こりました。そのことは、神様と同じく偉大な御子イエス様が、この世に人間として生まれて下さったから起こり得たことであることを示しています。 /n証しとそれを聞いた反応  この御子誕生という素晴らしい出来事(ルカ2:8-14)の証人に選ばれたのは、当時、最も卑しい職業とされていた羊飼い達です。この不思議な出来事を見過ごさず「主が知らせて下さったことは必ず実現する」という信仰を持って、ベツレヘムのイエス様のもとへ行きました。その証を聞いた人の反応が書いてあります。聴衆は、不思議に思っただけでした(2:18)。御子イエス様のご誕生に聞く耳を持つ者は少なかったのです。洗礼者ヨハネの時は、山里中の人々が話題にし多くの人がその誕生に期待しました。 /n心に納める  しかしイエス様の母マリアは、羊飼い達の話を聞いて「<span style="font-weight:bold;">その出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。</span>」とあります。「心に納める」の元々の言葉は「完全に保存する」という意味です。英語では、「treasure」と宝物のように大切に保存するという意味を含みます。又「思い巡らしていた」とは「意味のはっきりしない出来事(しるし)を神の啓示によって解明すること、起きた物事の意味を当てること」を意味します。出来事の一つ一つについて「神様の計らいが何であるかを神様に聞き、従おうとする」姿勢が、マリアの生き方になっていたのではないでしょうか。 /n私達の信仰生活  私達は、主の恵みによって、神の御子イエス様の福音を知り、信じ、従おうとする生活をしています。自分だけの考え、自分だけの力だけで、生きようと苦しんでいたことから解放されました。自分の身の上に起きていることも、神様の御計らいの一つなのだと落ち着いて受け止めることが出来るようになりました。良いことが自分の身に起これば、「神様が何を自分に示されているのか思い巡らすようになります。悪いことが起こっても、「神様に自分を委ねること」を身につけていきます。  信仰生活は「神様の御心に適う」ことを第一とします。そうすることで生活の出来事一つ一つが客観視でき、神様に与えられた愛おしい時間や出来事に変えられ、記憶したくなるものとなります。この世で自分だけで生きていた時とは、時間の意味も、出来事の意味も深まり、その充実感も豊かになります。神様は、御子イエス様をこの世に送り、しかもその命を犠牲にしてまでも、人間を救いたいと思って来られたことが、新約聖書に証しされています。その神様が私達を招いておられます。  一つ一つの出来事に、神様の御心が示されていることを思い巡らし、信仰生活の一コマ一コマを心に保存して、主の御前に豊かな人生をお返しできるように歩んでまいりましょう。 「<span style="font-weight:bold;">主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。</span>」(詩編37:23)

「救いのおとずれ」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]35章1-10節 1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。 2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。 3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。 4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。 /n[マタイによる福音書]9章9-13節 9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 /nはじめに  クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、なぜおめでたいのでしょうか。それはイエス様が生れた日だからです。全世界の全ての人間、過去に生れてきた人も今いる人も、これから生れて来る人も含めて、全ての人間の為に、神の御子イエス様が生まれてこられました。「クリスマスおめでとう!」「イエス様が私の為に生れて来て下さった!」と喜びつつお互いに言い合えるように、今朝の御言葉に耳を傾けたいと思います。 /n徴税人  今日の聖書には、「徴税人」が登場します。当時の社会では、住民から取り立てる税額が徴税人の裁量に委ねられていたので、過酷な課税となることが多く、徴税人は民衆からは嫌われていました。さらに徴税人はこの仕事を、ローマという異教の神々を信じる外国から請け負っていた為にユダヤの民から見れば、自分達を苦しめる売国者であり、彼らは日常的に異邦人に接している宗教的に汚れた人々でした。ユダヤの律法では、徴税人が会堂に入ることを禁じるほど、彼らは宗教的な意味では失格者でした。その徴税人であったマタイに、ある日、イエス様は声をかけられました。 /n「<span style="font-weight:bold;">わたしに従いなさい</span>」  イエス様はなぜマタイに目をとめられたのでしょうか。12節に「イエスはこれを聞いて言われた。『<span style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。</span>』」とあります。これによれば、イエス様はマタイが病人であり、医者を必要としていることを見抜かれた、ということです。この時マタイが素直にイエス様に従ったのは、自分が医者を必要としていたことを知っていたのでしょう。すなわち、満たされない思い、生きる喜びの欠如、神様との間に平和がなかったのでありましょう。もう一つはイエス様との出会いです。これ迄、彼が耳にしていたイエス様のうわさ(イエス様の愛の教え、イエス様のなさった数々のしるし、そして何よりもイエス様が弱い者、貧しい者、疎外されている者に対して分け隔てなく愛されているうわさなど)が本当であるとの確信を得たのでしょう。 /n徴税人を選ぶ  イエス様の徴税人マタイへの呼びかけは、イエス様がその人の過去を問わないということが明らかになりました。そして御命令はただ一言、「わたしに従いなさい。」です。このあとイエス様と弟子達は、多くの徴税人や罪人たちと食事を共にいたしました。このことは当時のファリサイ派の人々(人々に律法を正しく教え、従うように指導していた人々)を困惑させました。彼らの教えでは、徴税人や罪人と称されている人々を受け入れてはいけないのです。正しい者は悪人から遠ざかり、聖なる者として生きなければならないと教えられていたからです。そのような彼らにイエス様は「<span style="font-weight:bold;">神様が求めるのは、いけにえではなく憐れみである</span>」とのホセア書の言葉を学ぶように言われました。どんなに神様に奉仕をしても隣人への憐れみがなければ、神様は喜ばれないからです。 /n「<span style="font-weight:bold;">私が来たのは正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為である。</span>」  ファリサイ派の人々に対してイエス様は、ご自分がこの世界に来られた目的を話されました。イエス様は、「自分は正しい」と考えている人々の所にはおいでになりません。医者が「自分は健康だ」と言う人達を無理やり治療しないのと同じです。しかし、自分は罪ある者、自分に医者は必要であると考えている者には、イエス様は来て下さいます。 /nクリスマス  クリスマスは、イエス様が「私のため」にこの地上に来て下さった日です。私達と神様との間に平和をもたらす為に、闇から光の世界に招く為に、来て下さったイエス様を、ご一緒に心からお迎え致しましょう!

説教要旨 「メシアのしるし」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]7章14節 14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 /n[ルカによる福音書]2章1-12節 1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 /nはじめに  本日読んでいただいた聖書の箇所は、イエス・キリストの誕生に際して起こった出来ごとが記されています。聖書によれば、この年、人口調査が行われて、人々は自分の出身地に戻り、住民登録をしなければなりませんでした。 (エジプトで発掘された戸籍調査の記録は以下の通りです。「ガイウス・ヴィビウス・マクシムス、エジプト総督は次のように命じる『戸籍調査の時が来たことを知ったなら、いかなる理由があるにせよ、自分の地区以外に滞在する者はみな、自分の家に帰るよう強制しなければならない。それは、戸籍調査の規則を守らせると同時に、自分に割り当てられた土地の耕作にまじめに従事させるためである。』」) /nナザレからベツレヘムへ  聖書の後ろにある地図6を見ますと、ガリラヤ湖の左にナザレがあり、ヨセフの出身地であったベツレヘムは死海の左側にあります。その距離は120キロといわれますが、当時の旅は乗り物と言えばロバでしょうから、ロバがあったとしても、身重のマリアにとって、この旅がどれほど大変であったかは想像できます。ようやく到着したベツレヘムでも、住民登録のため故郷に帰って来た人々で溢れ、7節には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります(口語訳:「マリアとヨセフのいる余地はなかった」)。  彼らがたどり着いた場所は馬小屋でした。(当時は、家の近くにある洞窟を、馬小屋として使用しており、そのような場所で誕生されたとも考えられています)。 /nこの世の価値観とは関係のないところで・・  人々が、自分のことで精一杯で、疲れて眠っていたその夜に、イエス・キリストはお生まれになりました。実はここに大きな意味が隠されています。神の御子はこの地上での価値観とは一切関係のないところで、すなわち、富も名誉も権力もいっさいなく、ただ神様のご支配のもとで、神様の御計画の中に置かれたということです。そして当時、卑しい職業とみなされていた羊飼い達の所へ、この誕生の知らせが最初に届きました。貧しく何の力ももたず、野宿しながら夜通し羊の群れの番をしなければならなかった羊飼い達に、神の御子誕生のニュースが最初に届いたのです。  天使は告げます「<span style="font-weight:bold;">恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。</span>」と。  イスラエルの民が、700年も前から預言者イザヤを通し、或いは預言者ミカを通して与えられ、待ち続けたメシア誕生の約束がこの日、成就されたのです。 /n神様と平和の関係におかれる  救い主誕生の約束の実現は、私達の住むこの世界に大いなる喜びをもたらしました。この喜びは、イスラエルの民を超えて、主イエスを神の子と信じる全世界の全ての人に与えられた喜びです。救い主は、神様から遠く離れていた私達を、再び神様につなげて下さる働きをするために来て下さいました。  救いとは罪の赦しです。神様と平和の関係におかれることです。生まれながらの罪の支配のもとで生きてきた私達が、罪を悔い改めてイエス様を神の子・救い主と信じることによって罪が赦されるのです。信じる者は、罪の支配から神様の支配へと移されます。それまで自分が自分の人生の主人でしたが、これからは、神様を自分の御主人として仕えていく人生へと変えられていくのです。 /nメシアのしるし  信じる者の世界は、このベツレヘムの夜の出来事に似ています。見えるところでは華々しいものは何もなく、貧しさしかありません。しかし、天では主の使いが、「布にくるまり、飼い葉桶に寝ている乳飲み子こそメシアのしるし」と告げ、神様の栄光を称えています。神様を信じる者は、この世の支配のもとで生きながらも、神の民の一員として神様の御計画の中を歩める平安や喜びや慰めがあります。このクリスマスの時、全ての者が「私の為に救い主が来られた」と告白できるように祈ります。

「世に勝つ者はだれか」 牧師 佐藤 義子

/n[創世記]22章15-18節 15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 /n[ヨハネの手紙一]5章1-5節 1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。 2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。 3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。 4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。 /nはじめに  本日の礼拝は、礼拝開始満8周年の感謝の礼拝でもあります。教会の誕生には、教会が主体となって生み出す形や、個人(信徒)が家庭集会を開き、それが土台となって出来る形、さらには東北各地で見られるように、宣教師の伝道の結果生まれた教会も多くあります。この仙台南伝道所は、私が、それまで赴任していた伝道所を辞任してフリーになったことから、博子姉宅の応接間を開放していただき、礼拝を始めるようになりました。  礼拝開始より1年半後に日本基督教団の伝道所として承認されましたので、実質的な親教会はありませんが、東北教区や相双・宮城南地区とは協力関係にあります。礼拝開始より今日まで礼拝が守り続けられてきたことは、ただ、神様の憐れみによるもので、本当に感謝なことです。今朝はそのことを覚えつつ、礼拝をささげたいと思います。 /n本当の弟子  教団の教会として承認されるための提出書類の中で、私は以下のように書きました。 「『 <span style="font-weight:bold;">私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。</span>』 (ヨハネ8:31)。教会は「本当の弟子」となる道へと招かれている者を支え、導き、助言する役割を担っている。開拓伝道という一つの小さな業を始めるにあたり、『御言葉と祈り』によって、霊的な食物を絶やさず与えられ、学び、成長を続けるキリスト者、『<span style="font-weight:bold;">死に至るまで忠実である</span>』(黙示録2:10)キリスト者、さらに『<span style="font-weight:bold;">喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制</span>』などの信仰から生じる霊の実を通して、地の塩・世の光の役割を担うキリスト者の群が形成されていくことを祈りつつ、伝道の業に励んでいきたい。」 /n御言葉は食物、祈りは呼吸  信仰を与えられた者は、「キリストの本当の弟子になりたい。本当の弟子としてふさわしく自分を作り上げて下さい」との祈りが始まります。毎日御言葉を読む時、聖霊の働きと共に魂に栄養が与えられ、毎日祈ることによって、聖霊の働きと共に魂に新鮮な酸素が送りこまれ、これらの日々の継続がキリスト者をつくりあげていくように思います。  魂に、栄養も呼吸もスムーズにとりこめない危機的状況の時がくることもあるでしょう。そのような時には、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(今年度の御言葉)との語りかけを聞きましょう。 /n神から生まれる  今日の聖書に「イエスを救い主と信じる人は皆、神から生まれた者」とあります。母の胎内から生まれた者が、今度は神から生まれるのです。それは上からの誕生です。神から生まれるとは「神様を父として」生を受ける、命を受けると言うことです。神から生まれた者は、生んでくださった神を愛するにとどまらず、同じように神から生まれた者(兄弟姉妹)をも愛する、とあります。見えない神を愛するとは「独り子を私達の為に遣わされた」(4:9)ことを信じて受け容れることです。そして、その独り子イエス様が私達の救い主であると信じる時、「<span style="font-weight:bold;">キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。</span>」(二コリント5:17)との世界へと導かれていくのです。 /n世に勝つ者は誰か  3節に「<span style="font-weight:bold;">神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません</span>」とあります。なぜなら神から生まれた者は本質的に、この世にすでに打ち勝たれた主イエスへの信仰を通して、この世に打ち勝っているからです。神の掟(互いに愛し合う)は、信じる者の行くべき道を明らかに示すゆえに、信仰者を堅く立たせる役割を果たします。信仰者が神の掟を守る時、彼らの中に宿る神の力がこの世の力よりも強いことが明らかになります。この世に打ち勝たれた主イエスのように、「<span style="font-weight:bold;">主イエスを神の子と信じる者</span>」が、「<span style="font-weight:bold;">この世に打ち勝つ</span>」のです。

「マリアの賛歌」 平賀真理子 伝道師 

/n[創世記]22章15-18節 15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 /n[ルカによる福音書]1章46-55節 46 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、 47 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 /nはじめに  今日から待降節(アドウェント)の期間に入りました。日本の暦ではお正月のようなものです。しかし教会暦は、降誕(主イエスがお生まれになった)から始まらずに過去にその出来事を実際に起こして下さった「神様の愛」を思い起こして感謝し、再び主が来たりたもう日を準備しつつ待ち望む、という『準備』の期間をわざわざ先頭にしています。福音を告げ知らされている者として、主の来臨に対する「心の準備」をどのようにすればよいのか「マリアの賛歌」を通して学びたいと思います。 /nマリアの賛歌  ルカによる福音書一章には「荒れ野の道を整える者」=神の御子の行く道を準備する者として「洗礼者ヨハネ」の誕生のいきさつが書かれています。そこから既に、神様のご計画が始まっています。そして天使ガブリエルのマリアへの受胎告知、洗礼者ヨハネを身ごもっているエリザベトからマリアへの祝福があります。その後に、マリアの賛歌・・つまり「神への信仰を告白し、主を褒め称える歌」が献げられているのです。ルカ福音書の第一章は、献呈の言葉を除き、神への感謝、信頼、賛美に溢れており、「マリアの賛歌」で頂点に達します。 /n神様への感謝  マリアの賛歌は大きく三つに分けられます。第一部は、救い主の母に選ばれたことの神様への感謝です。力ある方が身分の低い人間を選び、神様の御計画に用いたことへの賛美と感謝です。当時のイスラエル社会の中で、全く力のない女性が選ばれたことは、まさしく神様の憐みの故です。 /n神様の御性質  第二部は、イスラエルを愛された神様の御性質をくわしく説明しています。まず、主を畏れる者に限りない憐みを注がれることが証されます。次に神様は、この世で力を持っておごり高ぶる者を評価されないどころか、その全能なる御力で、低い地位に追い落とすことが表明されます。傲慢な者をしりぞけるお方です。別の表現として、食べ物や持ち物などがない人には良いもので満たし、逆に、多くを持っている人からは取り上げて追い返すと言っています。(イザヤ書57章15節にはへりくだる者の祝福が、61章1節には貧しい者への福音が預言されています)。 /n信仰の表明  第三部は、神様が、かつてイスラエル民族と結んだ約束を忘れずに、アブラハムとその子孫を神様の祝福の下に繁栄させてくださるという信仰の表明です。この賛歌を通して、イスラエル民族がいかに「主を畏れかしこむ」生活を、代々受け継いできたかが分かります。マリアという、平凡な田舎の少女でさえも、イスラエル民族と神様との約束やその歴史を知っているのです。この世界を創られた唯一の神様を信じ続け、その信仰を継承し続けてきたイスラエル民族は、やはり偉大だと感じずにはおれません。自らを熱情の神として、何千年の歴史を通してイスラエル民族を愛し続けた神様の執念深さに、イスラエル民族は、応答する意志を継続できる民族なのです。マリアのように、すぐ神様の招きに応答できる信仰を培ってきているのです。 /nアドヴェント  アドヴェントは、主の来臨を待ち望む心の「準備の時」ですが、「悔い改めの時」でもあります。神様は独り子イエス様の「十字架の死」という犠牲を払い、人間が罪からあがなわれて永遠の命を与えるにふさわしい者となるよう求めておられます。へりくだって十字架の死に至るまで従順であられた主に倣う者としてこの時期を過ごしましょう。

説教要旨「優れたいけにえ」東北学院大学 佐々木哲夫  

/n[創世記]4章1-7節 1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。 2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。 6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 /n[ヘブライ人への手紙]11章4節 4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。 /nはじめに  本日の聖書の箇所は史上初の殺人、兄が弟を殺した出来事を記しています。殺人は、弟と比較された怒りによって引き起こされ、嫉妬心も絡んでいたと推測されます。神が、弟アベルとその献げ物に目を留められたが、兄カインとその献げ物には目を留められなかったということを告げています。自分の献げ物が顧(かえり)みられなかったことに、カインは激しく怒ったのです。カインは自分について思い巡らすことをせずに、期待していた反応を神が示してくれなかったことに腹をたて、その怒りのほこ先を、八つ当たり的にアベルに向けたのです。ずい分身勝手なことだと思いますが、私達の日常においても十分に起きうる出来事ではないかと思います。カインもアベルも神を信じていた者であり、献げ物を献げる信仰を有していました。その二人の間に一体なぜ殺人という悲惨な事件が起きたのか。聖書を読みながら ご一緒に考えたいと思います。 /n神がアベルに目を留められたことについての、さまざまな見解  カインではなく、アベルとその献げ物に主の目が留められたことの理由について様々な見解が提起されています。例えば、神様は穀物ではなくて羊の献げ物を好まれたとの見解です。これは農耕民族の周辺のカナン人ではなくて、牧畜をなりわい(生業)としていたユダヤ人の神であることを暗示する、そのことを示していると考える見解です。しかしそれは推測の域を脱しない見解であると思います。別の見解は、出エジプトの時に神が示された価値観(人であれ、家畜であれ、全ての初子は神のものであるとの価値観)に対してアベルはそれに適ったと考えるのです。これも推測の域を脱することは出来ません。更なる見解として、弟が長男にとって代わるというモチーフが投影されたという説明です(例えば、兄エサウではなくて弟ヤコブに祝福が与えられたこと。長男のエリアブではなくて弟のダビデに油が注がれ王として選ばれたこと。新約聖書では、弟の放蕩息子の方が大事にされるような状況に兄が怒ったという、先のものと後のものとが逆転するテーマがこのカインとアベルにおいても表れている)。いささかこれは乱暴な見方であると思います。 /n不条理  どの見方をとるとしても聖書の説明自体は、明示的ではありません。ただ結論として、「<span style="font-weight:bold;">もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。</span>」(7節)と結果論的に記すだけです。原因と結果の連鎖が不明瞭な出来事というのは、私共の中にしばしば起きます。すなわち不条理と思われるような現象です。正しいことをしているのに正しい結果が与えられない。正しい者が苦しい目に会う。どうしてか。原因と結果が、連鎖が逆になっているというような問題です。「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」の主題となっているものです。 /n不条理に対しても、顔を上げて生きる生き方  この不条理に関して、神様の取り扱いに対して、どうしてこんな事をするのだと異議を感じて八つ当たり的に鬱憤(うっぷん)晴らしをするということではなくて、不条理においても尚、罪が入り込む余地を与えず、あくまでも正しい道を歩む信仰。顔を上げて生きる生き方というものが教えられているということで、この箇所を読むことが強いられるのです。 /nヘブライ人への手紙  創世記のこの箇所だけに限定しますと、見解はそこ迄であるとしても、新約聖書の解釈はさらに踏み込んだものとなっています。 今日お読みしたヘブライ人への手紙11章4節に目を転じたいと思います。ヘブライ書の著者は「<span style="font-weight:bold;">信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。</span>」と説明しています。  キーワード的に二つの言葉をあげるならば「<span style="font-weight:bold;">信仰によって</span>」と「<span style="font-weight:bold;">優れたいけにえ</span>」です。ヘブライ書の著者はこの二つを創世記に加えて説明しています。一体これは何を言おうとしているのでしょうか。 /nアベルは「優れていたもの」を献げた   カインもアベルも信仰を有し、尚、献げ物さえしました。しかし新約聖書は「アベルは信仰によって献げた」と語るのです。即ち、「ただ献げた」というのではなくて「信仰をもって献げた」と記すのです。その献げ物は「優れたいけにえであった」と記していますから、どのような点においてかと問いたくなります。「優れた」の訳語を直訳すると「大きい・多い」と言う意味ですが、アベルの方が沢山・大きい物を献げたという外側の意味ではなくて、内的な質的な意味において大きい・多いという意味です。日本語で「優れていたもの」を献げたということです。それにしても一体なぜ「優れたもの」になるのかという疑問は晴れないのではないかと思います。そのような時には、しばしば、他の聖書箇所を参照しながら解釈し読んでいきますので、私共も今朝は、他の二箇所を参照しながらこの箇所を理解していきたいと思います。 /n献げること以上に大切なこと   最初はサムエル記上15章22節の、預言者サムエルのサウル王への言葉「<span style="font-weight:bold;">サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』</span>」です。サウル王は「いけにえを献げる」という行為こそが大事であると考えていたのですが、サムエルは、そうではない。献げ物やいけにえ以上に大事なことがある。それは、「<span style="font-weight:bold;">主の御声に聞き従うこと</span>」。そのことが、むしろいけにえよりも勝るという価値観を伝えた箇所です。 もう一箇所は、詩編51編18節-19節です。これはダビデの言葉です。「<span style="font-weight:bold;">もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを献げます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。</span>」 神が求めるのは「献げ物」というよりは「打ち砕かれた心」、「悔いる心」。それを神は求めておられる。「謙虚な心で献げる」ということが大事であるということです。この箇所から分かることは「献げ物」というのは、献げることを機械的に行うのではなくて、献げる人の心、換言するなら神の言葉に聞き従う謙遜な心が伴わなければならないということが、すでに旧約聖書の時代に示されていたということです。 引用した二つの箇所は決して献げ物を否定しているわけではありません。「献げる」習慣は、その後も旧約聖書において継続されており、むしろ献げることは勧められております。しかし献げるということ以上に大切なことがある。サウルもダビデも献げ物を献げてはいたのですが、自分の欲や名誉を優先させたということを問題としている。そのようなことでは、献げても献げたことにはならないということでした。 /n神は献げる人と献げられた物を見られる  創世記では、神はカインとカインの献げものを見た。そしてそれに目を留めることはなかったのです。「献げ物」ではなくて「献げる人と、献げられた物」を見たということですので、まさにその献げ物がどのような心をもって献げられたか、ということが大切だということになりましょう。ヘブライ書は逆説的に、アベルの献げ物が信仰によって献げられた、優れた献げ物だったと表現したというのは、まさにそのようなことを反映しているのです。 /n信仰によって献げる信仰者  さて今日においても、私達も主に献げ物を携えてきます。例えば時間を献げ、奉仕の業に参与いたします。又、献品や献金を献げます。ある人は生涯を献げる献身をいたします。さまざまな献げ方があります。 しかしそれらは、外側の大きさ、種類で優劣が決まるのではなくて、その中身の大きさこそが大切なのです。すなわち主の言葉に謙遜に聞き従う心を伴った献げ物であるべきだ。そのような献げ物に主の目が留まる。喜ばれるということです。特に「献げる」ことを覚える本日の礼拝において、私達は信仰によって献げる信仰者でありたいと願うものです。

「話をさせてください」 牧師 佐藤 義子 

/n[コヘレトの言葉]3章1-8節 1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時 3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時 4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時 5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時 6 求める時、失う時/保つ時、放つ時 7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時 8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。 /n[使徒言行録]21章27-40節 27 七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、 28 こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」 29 彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。 30 それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。 31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。 32 千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。 33 千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。 34 しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。 35 パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。 36 大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。 37 パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。 38 それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 39 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 40 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。 /nはじめに  今日の聖書箇所の前に、パウロについての誤解ある噂(パウロが律法に背くように教えている)を取り除く為の、エルサレム教会指導者達の提案が記されています。パウロはその提案を受け入れて、律法に従い、誓願を立てた四人の人達と共に神殿に入りました。ところが七日の清めの期間が終わろうとしていた時、アジア州から来たパウロに敵意を抱いていたユダヤ人達がパウロを見つけ、しかもパウロが神殿のおきてを破って、ギリシャ人(=異邦人)を神殿の中に入れてしまったと叫び、群衆を扇動してパウロを捕えてしまいました。この新たな誤解はたちまちうわさとなって、町中に拡がり、町は大混乱に陥りました。 /nローマの軍隊によって死を免れたパウロ  パウロが神殿のおきてを破って異邦人を神殿に連れ込んだとの、うわさの真偽が確かめられないまま、パウロは神殿の境内から引きずり出され、裁判にもかけられず、リンチが行われ、殺されそうになりました。この時丁度、五旬祭というユダヤ教の大きな祭りの時期に入っていたので、警戒中のローマの軍隊がこの騒動を聞き、千人隊長および百人隊長と兵士達が神殿に駆けつけ、パウロの身柄を拘束しました。千人隊長は、パウロが何者で何をしたのかを群衆から聞き出そうとしますが、群衆は叫び続け、真相をつかむことは出来ませんでした。 /n「どうか、この人達に話をさせてください」  千人隊長は兵士達に、パウロを兵営に連行するよう命じますが、興奮した群衆の暴力が止まず、兵士達はパウロを担がなければならないほどでした。パウロが四人を連れて神殿に出かけたのはパウロの意志からではなく、エルサレム教会の指導者達の考えから始まったことです。その結果、大事件へと発展してしまったのです。しかしパウロは、これまで常に考え、祈り、大胆に行動してきました。思うような結果にならなくても、彼は「<span style="font-weight:bold;">神を愛する者達、つまり、ご計画に従って召された者達には、万事が益となるように、共に働くと言うことを、私達は知っています</span>」(ロマ書8:28)と語っています。パウロは今、 殴られ、傷だらけの中で、さらには、ユダヤ人の憎しみと怒号を受ける中で、近くにいた千人隊長に「一言お話しても良いでしょうか。」と話しかけたのです。そして自分がタルソス出身でユダヤ人であることを話し、自分の願いを申し出ます。「どうか、この人達に話をさせてください」。 /n「福音のためなら、どんなことでも・・」  パウロは、普通なら考えられない場面で「話をさせてくれ」と頼んでいます。それは「<span style="font-weight:bold;">福音のためなら、わたしはどんなことでもします</span>」(一コリント9:23)と語るパウロが、自分を捕えようと集まって来た群衆の何人かでも、救われる人が起こされるための行動でした。私達はここに、パウロの一貫した伝道者として生きる姿を見ます。 /n神様のご計画  パウロは、外国でもエルサレムでも、どこにいても全く変わることのない一人のキリスト者として、福音を伝える使命を帯び続けて歩みました。それゆえ神様はパウロが願い望んでいたようにローマ伝道への道をこの事件から開かれるのです。  私達も又、目に見える状況がいかにあっても、すべては神様がご存じであり、神様のご計画の中に置かれていることを信じて歩み続けたいと思います。そして今、自分がなすべきことを神様から教えていただき、肉体の限界の中でもなお「話をさせて下さい」とのエネルギーを神様が用意されていることを覚えたいと思います。

「神に栄光を帰する」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]116編8-11節 8 あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。 9 命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 10 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 11 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。 /n[コリントの信徒への手紙二]4章7-15節 7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 /nはじめに  毎年、11月の第一聖日を「召天者記念礼拝」として守っています。私達すべての者は、この地上での生活に終りの時を迎えます。それを私達は「死」と呼びます。しかし聖書は、肉体の死がすべての終りではなく、その後に続く「永遠」の世界があることを教えています。 神様を信じ、イエス・キリストが、神様から遣わされた神の御子・救い主であることを信じて従う者には、神の国に入る永遠の命の恵みが与えられることを聖書は約束しています。この写真にある方々は、信仰をもって生き抜いた方々です。私達は、キリスト者として生き、良き証しを立てられたこれらの方々の足跡を思い起こすことを通して励まされ、又、思いを新たにいたします。 /nアンケニー宣教師ご夫妻  これは、平野武夫兄のご家族に福音を伝えられたアンケニー宣教師ご夫妻の写真です。戦前から戦後にわたって仙台で伝道し、ご主人は東北学院の院長も務められました(夫人はシュネーダー宣教師の二女)。宣教師の方々が祖国を離れ、言葉も文化も全く違う世界で生きることの困難さは、私達の想像を越え、特に戦争を挟んだ時代は大変なものでした。日米開戦時には、アンケニー先生はじめ宣教師の方々はスパイ容疑で投獄され、やがて一か所に身柄を拘束されて生活されました。半年後、国際赤十字の仲介で、アメリカで抑留されている日本人外交官などとの交換が実現し、交換船でアメリカに帰国されました。そして、戦後再び来日し、日本人への伝道と教育のために生涯を献げられました。 /n私はすでに世に勝っている  私達は、イエス・キリストの福音がどのようにエルサレムから全世界へ伝えられていったのか、弟子達がキリスト者として福音をどう生き、どう伝えたのかを使徒言行録で学んでいます。昔も今も、御言葉を伝える業には多くの困難が伴います。しかしイエス・キリストの「<span style="font-weight:bold;">あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。</span>」(ヨハネ16:33)との御言葉に励まされて、多くの宣教者・信仰者達が福音を宣べ伝えました。私達もそれに倣う者となりたいと思います。 /n土の器  今日の聖書では、私達は「<span style="font-weight:bold;">宝</span>」(福音・神の栄光を悟る知識)を、土の器である私達の中に納めていると記されています。神様が私達を、その「宝」を納める土の器とされたのは、「宝」(偉大な力)がまさしく神様のものであり、人間のものではないことが明らかになる為でした。それゆえ<span style="font-weight:bold;">四方から苦しめられても、途方に暮れても、虐げられても、打ち倒されても</span>(このようなこの世の艱難を受ける時、弱い人間は倒れるしかありません)、「福音」・「神の栄光を悟る知識」という宝を納めている土の器は、決して<span style="font-weight:bold;">行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない</span>と聖書は断言します。この「<span style="font-weight:bold;">並はずれて偉大な力</span>」は神のものです(7節)。 /n神に栄光を帰する  神様の栄光は、神様の恵みが感謝を生み出すことによって生じます。神様の御業や恵みを数える時、神様がいかにこの小さな自分を愛していて下さっているかを知ります。そして神様への感謝が、讃美や祈り、礼拝や献げもの、さらに周りの人々への証となって表わされる時、その一つ一つが神様に栄光を帰すことになることを覚えたいと思います。

「神の愛とわたしたちの愛」 倉松功先生(元東北学院)

/n[出エジプト記]20章1-3節、13-17節 1 神はこれらすべての言葉を告げられた。 2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 13 殺してはならない。 14 姦淫してはならない。 15 盗んではならない。 16 隣人に関して偽証してはならない。 17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」 /n[ヨハネの手紙一]4章7-12節 7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 /nはじめに  宗教改革から150年を経た1667年に、10月31日を宗教改革の記念日とすることを、ドイツとスイスとフランスのプロテスタント諸教会、及びアメリカの教会(その時点ではルーテル教会)が加わり、決めました。それは、1517年10月31日に、最初の宗教改革者(といってよい)ルターが、95ヶ条の提題(論題)を、ヴィッテンベルク城教会 の扉に掲げ、このことによって宗教改革の運動が起こったからです。この95か条の提題は二週間以内にドイツ全体に広まり、更に、ヨーロッパに広がっていきました。この提題をめぐりさまざまな論争、討論が起こり、ルター自身は四年後に当時の神聖ローマ帝国から追放されます。 ルターが95か条の提題を掲げた翌年5月、ルターが語った「神の愛と人間の愛」についての討論会での言葉を手がかりにして、今朝は、「神の愛と私達の愛」という説教題のもとで、ご一緒に聖書のメッセージを聞きたいと思います。 /n「<span style="font-weight:bold;">ここに愛があります。</span>」(10節)  先ほど読んでいただいた聖書の中に「<span style="font-weight:bold;">ここに神の愛がある</span>」という言葉がありました。「ここに神の愛がある」というのは大変な聖書のメッセージです。「ここに愛がある」。たった短い一言がここに書かれています。それは、「神は、その独り子キリストを、私達のところに遣わされた」、「そして私達の罪のいけにえとして捧げられた」、「ここに神の愛がある」と、つながります。 パウロも同じようなことを違う形で言っています。「<span style="font-weight:bold;">私達すべてのために、キリストをこの世に遣わしただけでなく、十字架にかけて死に渡された神は、御子と共に、すべてのものを私達に賜らないはずはありましょうか</span>」(ロマ書8:32)。 ヨハネの手紙では「神は、罪の償いの為に、御子をこの世に遣わして、捧げられた」といいます。パウロは、神は、キリストを遣わして、そのキリストを十字架につけて殺した。そういうことをしたわけだから全てのものを私達に下さらないはずはないと言っています。これはヨハネが言った神の愛を広く、深く言っているように思います。 ヨハネの手紙は、神の愛(アガペーといわれる神の愛)について書いた手紙です。その手紙と、「信仰のみによって救われる。義とされる」ということを中心に、キリストのメッセージを語り続けたパウロが全く同じことを言っていることで、「神の愛」と「信仰のみによって義とされる」ことが一つになっているような気がします。そういうことが聖書で語られていることを、聖書から学びたいと思います。 /n犠牲愛  ヨハネの手紙では、「キリストを十字架につけて、私共の為に、罪をつぐなういけにえとした」とあります。これは犠牲の愛です。神の愛は、独り子イエスを犠牲にする犠牲愛である、と言えるでしょう。自分の独り子を犠牲にするような犠牲愛は私共の中にはないけれども、しかし、犠牲愛は私共の中にもあるような気がします。たとえば列車のホームから人が落ち、そこに電車が走ってきた。その時に自分の死をかえりみないで線路に飛び降りて、線路に落ちた人を助けることがたまにあります。これはまさに犠牲愛と言っていいものではないかと思います。但しそのような犠牲愛は、瞬間的に人間の中に起こるかも知れませんが、いつも常にあるとは言いにくいのではないかと思います。確かに、家族の中で、友人に対して、何か自分を犠牲にする、自分が損をする犠牲愛といってよい事柄が普段にも行われているのではないかと思います。しかし私共の中で行われる犠牲愛というのは一体どういうものかということを、少し考えてみたいと思いますが、そのことを考える為に、もう一度、聖書の言葉を見てみたいと思います。 /nキリストにおいて示された神  ヨハネ福音書に「<span style="font-weight:bold;">いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。</span>」(1:18)とあります。これは先ほどの、「キリストを遣わされた。ここに神の愛がある。」ということの中で、単に十字架につけられたというだけではなく、そのキリストは、神がどういう方であるかということを、キリストの生涯、教え、そして十字架と復活という全体で私共に示されたということです。もう少し広く考えますと、キリストにおいて、神がどういう方であるかということが、神の愛だけではなく、全てが示された。そのキリストにおいて示された神は、誰も見たことのない神です。 つまり私共は、(ルターの言葉によると)「神がおられる」ということは知らなくはない。信じなくはない。あるいは、うっすらと感じる。しかし、その神がどういう神であるかということは何も知らない。まさに、人間が神について考える時には、そういうものがあるわけです。例えば哲学者が神の存在の証明などをやりますけども、恐らく誰もそれによって神が証明されたとは信じないでしょう。 「<span style="font-weight:bold;">キリストにおいて神が示された。</span>」その、神が示された(啓示)ことは絶対的なものである、ということを、私共は知ることができるのではないかと思います。「<span style="font-weight:bold;">神を見た者はまだ一人もいない。ただ・・独り子なる神だけが、神をあらわしたのである</span>」(口語訳ヨハネ福音書1:18)。そのことを、「キリストが遣わされて、キリストにおいて神の愛が示された」という中に含めて、記憶しておきたいと思います。 /n聖書・キリスト・信仰・恵み  ルターの宗教改革の特徴として「聖書のみ」「キリストのみ」「信仰のみ」あるいは、「恩寵(おんちょう)・恵みのみ」と言われます。 その「キリストを信じる」ということについて、私共は自分で「キリストを信じたいから信じる」ということは出来ません。(出来ると思う方がいるかもしれませんが、それは多分本当ではないでしょう)。最も難しいのは、信じたい時に、信じることが出来ないということです。それが、私共の困難ではないでしょうか。しかし「信仰は聞くことによる」とパウロは語っています。「聞く」というのは、説教を聞く、神の言葉を聞く。ロマ書一章では「説教」を特に念頭においていますが、しかしもっと広く考えてもよいでしょう。 /n神の言葉を聞く  神の言葉・・キリスト御自身が神の言葉です。それが聖書に記されています。「聖書はキリストがそこに横たわっているまぶねである。ゆりかごである。」とルターは言いましたが、その聖書が神の言葉です。その聖書に即して聖書が語られる。神の言葉が語られる。その言葉が肉体となられた・・これが地上のキリストです。「キリスト」・「聖書」・「聖書に則して語られる説教」。これが神の言葉の三つの姿です。この神の言葉を聞くことによって信仰が与えられるのです。しかし信仰は、聞けばすぐ分かるか、聞けばすぐ信仰として私達の中で信じるかというと、そうではないことを先ほど申し上げました。 /n恵みのはたらき  ここに神の助け、聖霊(恵み)の働きがなければなりません。この働きによって初めて私共は信じることが許される。キリストを信頼することが与えられるのです。ですから「信仰のみ」という事柄は、実は「恩寵の恵みのみ」ということと密接に関連しているのではないかと思います。信仰こそ神の恵みの最大の賜物なのです。御言葉と共に働く聖霊、神の恵みによって、私達に信仰が与えられるのです。その御言葉は、聖書に即して語られる説教という形をとるのです。 /n私達の愛  ルターは、ハイデルベルクの討論で、神の愛と私達の愛との関連について論じました。「神の愛」についてルターは、まず人間の愛との比較で語っています。「人間の愛」は見た目、感じで判断するという、大体は外から見た目、「真・善・美」で判断します。本当かどうか。美しいか醜いか。善いことか悪いことか。こういうことについて人間は見た目で判断するというのです。見るだけでなく見聞きし考える。五感を含めて、それによって価値判断をします。相手によって、その相手が自分の判断する真、善、美の価値観に合っていれば、愛するわけです。これは「対象によって起こる」とルターは言いました。私共はものを考える、ある人を見る、会う、その瞬間から価値判断をするわけです。これは人間の本質です。しかしその時、その善悪、美しいか醜いかが必ずしも真相をついているとは言えません。むしろ自分の方に曲がって理解するのです。自分にとってプラスかマイナスかが何の理屈もなしに、即刻、瞬間に、そういう枠をもって私共は理解します。ルターが言う「自分の方に曲がっている真善美」。それによってそこから愛が生まれるということは、何か真相をついている気がします。 /n神の愛  それに対して「神の愛」というのは、「対象を愛し得るように変える」というのです。人間の愛と180度違うといえます。「人間の愛」は対象によって自分が気に入るかどうかによって生じます。「神の愛」は、愛し得ない者、愛することが出来ない者ないしは愛の対象にならない者(収税人、罪人など)、悔い改めを必要とする、そういう人々に愛が注がれ、彼らを愛しうるように変える・・。これは福音書でキリストがなさったこと、その通りではないでしょうか。そこに神の愛が現れていると思います。収税人や罪人の所に行き、キリストは交わり、その人々と話をし、その人々を変えたのです。愛し得るようにキリストが人々を変えた、その「愛」は、聖書の言葉で読みましたように、キリストの十字架において、そこでもう頂点に達しているといえます。そのことによってキリストは人間の罪を赦し、義とし、清める業をしたのです。私共にはそれはなかなか理解できません。理解出来ないので聖霊の助けがなければならないというわけです。けれどもそのように、キリストの十字架は、私達の罪を赦し、義とする働きを私共にもたらしたわけです。 /n聞くことによってキリストと結びつけられる  ではどうしたら、キリストが私達の罪を赦し、私達を義とするということが私共のものとなるでしょうか。  パウロは、キリストの十字架についてコリントの手紙一の1章で語り、「<span style="font-weight:bold;">このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。</span>」(30節)という言葉で終っています。どうして「キリストが、私達の義と聖と贖いとなられた」のでしょうか。これは唯一、「キリストが神の言葉である」ということにかかっていると思います。ですから「信仰は聞くによる」と言ったのです。神の言葉を聞くことによって、私共とキリストが結び付けられる。これ以外にはないわけです。(勿論パンとぶどう酒の聖餐があります)。目に見えないけれども「言葉」というものを媒介にして、初めて「神の言葉であるキリストの言葉」が伝えられるわけです。 /n神の義  「神の義」は私達のものではありません。「神によって義とされる」というのは、「神の義」であり「神が認める義」は、神が持っています。それが私共に与えられるということが、説教によって結びつけられるということになります。私達の持っているもの全てがキリストに担われて、キリストの持っているものが私達に与えられる。私達の罪がキリストに担われて、キリストの持っている神の義が私達に与えられる。だから、「義と認められる」わけです。私達の「行為」が私達の「信仰」と認められるわけではありません。神の前に通用する義は神の義しかありません。それをキリストが持っておられる。それが私共に移される(転嫁される)。これが、キリストがなさったことです。これが、御言葉として私達に伝えられ、これが神の愛と私達の関係です。 /n自己愛からの自由  私達の愛は、自己愛から自分の方に曲がっており、それは体を持っている限り続くのです。今朝も「懺悔の祈り」をしましたが、私達は自己愛から自由であることを常に求められています。そして私達は常に礼拝を通して、神の御言葉を聞くことによって、そこから解放されるのです。それは、私共の義と聖と贖いになられたキリストに、御言葉を通して結び付けられるからです。 これが今日、私共が聞く御言葉であります。