12月4日の説教要旨 「主は来られる」  平賀真理子牧師

イザヤ書591220マタイ福音書135358

 はじめに

先週の説教で「救い主を迎えるのに、ふさわしい心を用意しましょう。」と話しました。それは、具体的には、どういう心なのでしょうか。実は、「待降節」または「アドベント」の時に、特に大事なこととして勧められていることは、「悔い改め」です。

 「悔い改め」

 悔い改めとは、自己中心というこの世の価値観に基づいた生き方から、神様の御心を第一とした生き方に180度方向転換して生き始めることです。「悔い改め」の重要性について、今日の旧約聖書箇所にも書かれています。イザヤ書59章の小見出しは「救いを妨げるもの」とあります。人間が救われていない理由について、神様の力不足ではなく(1節)、人間の悪が神様と人間を隔てているから(2節)と確かに示されています。「人間の悪」が原因です。自分の本来の造り主である神様のことを考えずに、自分を中心に生きる習性=人間の悪が、神様からの救いを妨げ、神様と人間を隔てるために、人間は神様の許に帰れず、救われないのです。だから、そこから立ち帰る=悔い改めが必要です。

 「主に対しての『偽り』『背き』」

聖書で証しされている神様「主」は愛することを喜ばれる神様であり、正義を愛する神様です。だから、主を知らされた人間も、主に倣って生きるべきだと知っています。でも、現実はいつもそうできるわけではない、自分の日常生活を顧みれば明らかです。その時、私達はどのようにしてしまいがちでしょうか。本当は素直に謝ればいいのに、できません。そこで、イザヤ書59章13節にあるように、主に対する「偽り」「背き」へと傾いていきます。私達はまず、自己正当化しようとして言い訳を考えがちです。私達は、その言い訳を更に自分の都合いいように思ってもらおうと躍起になり、話を大きくしてしまい、最後には「偽り」にまで発展してしまいます。しかし、「偽り」を抱えた心の闇が神様にふさわしくないことだけは自分でわかります。だから、神様の目を恐れるようになります。神様の目をごまかそうとして、愚かにも、自分から神様に背を向けるようになります。それが「背き」です。そんなことを繰り返すことにより、私達は永遠に神様から離れ去ってしまいます。そのような人間達が集まって造る社会だから、中心にいるべき正義もまかり通らなくなります(14節-15節a)。

 「主は贖う者として」

しかし、そんな人間達を主は裁くのではなくて、贖う者として、私達の所に来てくださるということがイザヤ書59章20節にはっきり書かれています。「主が贖う」とは、自分から神様に背いた人間の罪を、主が代わりに背負ってくださるという意味です。「主」は、まず人間の罪を贖う御方であるということを、是非、覚えていただきたいです。

 「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」

次に20節に書かれている御言葉は「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」ということです。「ヤコブ」とは、創世記32章23節以降を読んでいただくとわかるのですが、主(の使い)と真剣に格闘した人です。主の祝福をいただくまで離さないと言って主(の使い)にしがみつき、とうとう「主の祝福」をいただき、主から「イスラエル」という新たな名前をもらった人です。つまり、神様なんてわからないとか信じられないとか言って斜に構える人ではなく、神様と真正面から向き合おうとする人のことです。そういった姿勢で生きる人で、しかも「罪を悔いる者」のもとに「主は来られる」のです。この世で生きる私達には、この世の常識や自己中心の思いに染まり、主がお嫌いになる「偽り」「背き」をしてしまうことがあるかもしれません。しかし、その時、素直に主の方に真正面に向き直り、謝り、次の機会には聖霊を送って助けてくださいと祈って、その都度、自分を主の御心に従わせる(悔い改める)ことが必要だと思われます。

 イエス様の故郷(ナザレ)の人々と私達の共通点

今日の新約聖書箇所では、ナザレの人々が、イエス様を人間としてだけ捉え、「救い主」として受け入れなかったと記されています。彼らは出来事を表面的に捉える目だけしか持っていませんでした。神様の預言を知らされていたユダヤ人ですから、神様の御言葉を信じて、人間的な見方にだけに縛られず、神様からの目をもっていたら、イエス様が実は「救い主」なのかもしれないと思えたかもしれません。主を知らされた人間は、自分の体験の奥に主の御心があるはずだという目を持たなければなりません。さて、私達の仙台南伝道所も福音伝道という主の御業のために立てられ、14周年を迎えました。私達は、主の御業を体験しているという点でナザレの人々と同じです。「教会」に招かれた体験を主の御業として受け入れ、「主が来られる」と言われた再臨の時を待ち望みましょう。

11月27日の説教要旨 「主を待ち望む」  平賀真理子牧師

イザヤ書215 マタイ福音書243644

 はじめに

今日から、キリスト教の暦では「待降節」または「アドベント」という、特別な期間に入りました。この期間、キリスト教会では、神様がこの世に救い主イエス様を送ってくださった恵みを感謝し、主が再びこの世に来てくださることを待ち望みつつ過ごします。本当のクリスマスの意味を知る私達は、主の御降誕を祝う「クリスマス」の前に、「アドベント」という期間を設け、救い主を迎えるのにふさわしい心を用意するのです。

 「終わりの時」

今日の新約聖書の箇所は、1ページ前の24章3節の弟子達の質問にお答えになったイエス様の御言葉です。36節の冒頭の「その日、その時」とは「主が来られて世が終わる時」(3節)を指します。聖書を奉じてきた民は神様が始められた「この世」には「終わりの時」があると考え、それが、いつ来てもいいように、その時の神様の裁きに堪え得る生き方をしたいと緊張感をもって生きてきました。だから、弟子達もイエス様なら「終わりの時」を御存じで教えてもらえると期待し、質問したのでしょう。ところが、イエス様は、それは天使も知らないし、神の御子の御自分も知らない、ただ、天に居られる神様=イエス様の父なる神様だけが御存じだと語られました。

 大きな出来事を突然受けるだけの人間

とすると、人間は大きな出来事である「終わりの時」を突然迎えることになります。そんなこと、実際にあるのでしょうか。しかし、イエス様は、人間の歴史の中で、突然「終わりの時」に襲われて、多くの人が滅んだ出来事が本当にあったことを想起させようとされました。「ノアの時の洪水」です。

 神に従う人「ノア」だけに訪れた救い

「ノア」と言えば、「ノアの箱舟」で知られている「ノア」です。創世記6章から9章までに「ノアの物語」が記されています。大きな洪水が起こったのは、人間が悪を思ったり行ったりすることが増え、神様が人間をお造りになったことを後悔され、人間を滅ぼそうとお考えになったからでした。しかし、ノアだけは「神に従う無垢な人」(6:9)だったので、神様がノアとその家族だけはお救いになりました。ノアの周りの人々は、この世での肉なる者として欲望中心に生きていたために、神様からの知らせを聞くことなく、何にも気づかずに突然「終わりの時」を迎えて滅びました。ノアは神様から知らせを受けていたために、突然でもなく、「終わりの時」に備えて、困難を乗り越える方法(箱舟を造って乗り込む)を神様に教えていただきながら、家族と共に滅びから救われました。この両者の違いを私達は認識すべきです!

 「神様の御心に従う心を眠らせてはならない」

だから、イエス様は「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と教えてくださいました。もちろん、肉体的に眠ってはならないのではありません。「神様の御心に従う心」を眠らせてはいけないということです。神様の御心は福音の中に、また、神様の御言葉の中に表れています。また、マタイ福音書24章44節には、主は「用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と語られていますが、何を用意するのでしょうか。それは「神様に向き合うのにふさわしい心、神様に素直に従う心」です。

 「再臨の時」に備えて

救い主イエス様は約2000年前に既にこの世に来てくださいました。そして、私達の罪を贖ってくださるために十字架で亡くなった後、復活され、そして昇天される前に「再びこの世に来てくださる」と約束されています。(使徒1:11) それを「再臨の時」と言いますし、世の終わりにその再臨の時が来ると伝えられています。先にも述べたように、それがいつなのか、当のイエス様さえ御存じないのだとすると、その重大な出来事を受けるだけの私達人間は、いつも「神様に従う心を大事にしていき、『終わりの時』がいつ来てもいいように歩むべきでしょう。

 「救い主」については預言されていた!

実は、ノアの時と同様、神様の御心に従う人々には、「救い」について何千年も前から預言され、旧約聖書に記されています。今日の旧約聖書の箇所もその一つで、「終わりの日」について預言されています。主の教え・御言葉が「ヤコブの神(天地を造り、「ヤコブ」を選んで人間を救おうと働く神)の家」から出て、全世界の民が従うようになり、本当の平和が訪れる希望が述べられています。

 「終わりの時」=「完成の時」

人間から見たら突然来る「終わりの時」は、実は、神様が御計画されてきた「救いの完成の時」です。イエス様の御降誕は救いの「完成の始まりの時」で、主の再臨の時が「完成の終わりの時」です。私達は、神様が人間を救おうとされる御業の完成の始まりと終わりの間の時に生きています。神様の御言葉を聞き続け、完成の終わりの時を待ち望みつつ、神の民としてふさわしい心を用意しましょう。

11月6日の説教要旨 「神の愛に捉えられた者」 平賀真理子牧師

イザヤ書5049 ローマ書831b39

 はじめに

「ローマの信徒への手紙」には何が書いてあるかというと、この手紙の冒頭(1:1)からこう言えます。「キリスト・イエス」についてです。次に、この手紙の筆者と宛先をお知らせしたいと思います。筆者は「パウロ」という人です。パウロは「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった(1:1)人です。また、宛先は、ローマにいる「キリスト・イエス」を信じる者達です。これも説明があります。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ(1:7)」です。神様が救い主をこの世に送ってくださることすら知らなかった異邦人であるローマ人の中で、イエス様が救い主であると知らされ、信仰を与えられた人々に、「救い主イエス様の恵み」を豊かに語っているのが、ローマの信徒への手紙です。特に、8章31節からは見出しのとおり「神の愛」について書かれています。

 神がわたしたちの味方である

8章31節-35節は、パウロが自問自答する形を取りながら、ローマの信仰者達に、「神の愛の恵み」を伝えています。31節bは信仰者達に敵対できる者がいるかを質問していますが、これは反語です。だれも敵対できる人はいないということです。32節はその説明です。人々の罪を肩代わりするため、イエス様は十字架にかかりました。それは、イエス様の「父なる神様」のご計画でした。神様は愛する御子を十字架で犠牲になさるほど、人々を愛してくださっています。神様が私達信仰者を本当に愛してくださる、大いなる味方である以上、敵対できる者がいるはずはありません。

 わたしたちを訴える者はいない

パウロは33節で、私達信仰者は神様に選ばれた者であると言っています。私達が神様に選ばれているなら、私達を悪者として訴えられるものはいません。人を「良し」として認めてくださるのは神様ですから、その神様が最初に選んだ者達=私達信仰者を訴えることのできる者はいません。

 わたしたちを罪に定める者はいない

私達信仰者の罪を糾弾する者もいないとパウロは言おうとしています。その説明がその直後に書かれています。キリスト・イエスについて、4つの説明があります。①死んだ方②復活させられた方③神の右に座っている方④私達のために執り成してくださる方です。①「死んだ方」とは、十字架で私達の罪を肩代わりするために命を犠牲にされた方という意味です。②「復活させられた方」とは、救い主としての定め=「十字架にかかって死ぬ」役割をイエス様が果たしたことに対して、父なる神様が栄誉として授けた復活を受けた方という意味です。③「神の右に座っている方」とは、2000年前にはこの世で人間として歩まれたイエス様も、今や、人間ではなく「神様」となられているという意味です。④「執り成してくださる方」こそ、イエス様の特徴です。イエス様は人間として歩まれたので、人間の弱さ・愚かさもよくご存知です。もし、私達信仰者を非情な裁判官のように裁く者がいても、主は人情ある弁護士のように執り成すのに充分な御力をお持ちである、安心しなさいと語られています。

 キリストの愛からわたしたちを引き離す者はいない

私達信仰者が信仰を失う原因となるものが、現実にはいろいろ考えられます。35節にあるとおり「艱難・苦しみ・迫害・飢え・裸・剣」など、つまり、権力者や社会からの圧迫や現実生活の厳しさによって、人間は次第に、もしくは一気に信仰を失ってしまいます。36節は詩編44編からの引用ですが、旧約聖書のある昔から、信仰故に苦しみを受けることを信仰者が神様に訴えている箇所です。しかし、です。その苦しみの数々、人間を信仰から遠ざける困難さに対して、私達信仰者は、もう既に勝利を収めているのです!イエス様の恵みによる勝利は、ギリギリの勝利ではありません。勝って余りある勝利、大いなる凱旋です。

 キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離す者はいない

38節-39節では、もう一度、信仰者を脅かすものが具体的に挙げられています。それらは、イエス様が人間として歩まれた頃、当時の人間達が、神様以外に恐れたものです。パウロは、当時の人々の恐れを知った上で、神様から選ばれて、その大いなる愛を受けている信仰者に対して、神様の愛の偉大さを思い起こし、何事も恐れず、キリスト・イエスの福音を信じるように勧めているのです。

 「神の愛に捉えられた者達」

本日は召天者記念礼拝です。私達の教会員で、先に召天された、平野武夫兄、石川進兄、佐藤博子姉を覚えます。この3人の方々は、「神の愛に捉えられた者達」であり、信仰を貫かれました。死の床にあっても、他の人々と違う、その姿で、私達の主キリストを証しされました。私達は、その信仰を継承したいものです。

9月18日の説教要旨 「主の喜び」 牧師 平賀真理子

イザヤ書25410a ルカ102124

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の段落を受けて、イエス様が語られた御言葉です。72人の弟子達が福音伝道から帰って来て、イエス様の御名を使うと悪霊が屈服するという報告をイエス様はお受けになりました。神の御子イエス様は救い主としてこの世に来られ、神の国の福音を告げ知らせてくださいました。神様のおられる天では、サタンに居場所は無くなったのです。そのように、サタンに勝利したイエス様の権威ある御名を使うことを許された弟子達までもが、サタンやその手下の悪霊に勝利したという報告をイエス様は受けました。それは、愛する弟子達が、神様側の一員としてサタンに勝った勝利宣言であり、弟子達を招き導いてこられたイエス様も本当に嬉しかったに違いないと思われます。

 イエス様の目標「父なる神様の御心に適うことを第一とする」

しかし、それは極めて人間的な見方にすぎません。18-19節にあるように、イエス様は弟子達が悪霊に勝利することは初めからわかっておられました。また、20節にあるように、悪霊の反応に一喜一憂せず、弟子達が神様の救いの御業のために用いられたこと、つまり、神様の弟子達に対する限りない愛に気づき、その恵みに感謝するように、主は導いておられます。つまり、イエス様は、この世での生涯を通して、天におられる父なる神様の御心に適うことを行うのを、まず第一のこととして生きる姿勢を貫き、弟子達の模範となられたのです。

 「聖霊によって喜びにあふれて」

福音伝道に成功して喜んでいる72人もの弟子達を与えてくださった「父なる神様」に、イエス様は大変感謝し、共に喜びたいと願われたのではないでしょうか。21節の「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」という箇所は、イエス様と「父なる神様」との心が一つになったので、神様の霊である「聖霊」により、天の喜びがもたらされたと思われます。

「天の喜び」とは、人間の感情を源にした喜びとは別のものです。完全で永遠なる神様からくる喜びですから、平安に満たされて、簡単には覆ったり無くなったりしない、静かで確かな喜びと言えるでしょう(人間の言葉では表現しきれませんが…)。実は、イエス様が喜びにあふれたと書かれた箇所は、ここだけです。大変貴重なところです。

 「父よ」との呼びかけ

21節の主の御言葉は、原語では「父よ、天地の主よ」となっています。

イエス様が確かに神の御子であって、そう呼びかけることを許されていること、そして、私達イエス様を信じる者達は、そのような御方を「主」と仰げることは、本当に大きな恵みであることをもう一度思い起こしましょう。

 「幼子のよう」に、へりくだった心を持つ者への恵み

21節でもう一つわかることは、報告に来た弟子達を「知恵ある者や賢い者」ではなく、「幼子のような者」とおっしゃっていることです。この世において、知識があると言っておごり高ぶる者にではなく、自分のことを誇らない者、ここで言うなら、イエス様の御名によって神様の御業に用いられたことを感謝できるような、神様の御前にへりくだった心を持った者に、神様が御自分を示してくださるのです。神様の御心がへりくだりを愛するものであるからです。

 「イエス様のメシア宣言」

22節全体は、よく読み込むならば、イエス様のメシア宣言と言えるでしょう。

「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」とは、父なる神様がこの世に対して持っておられる権利、父なる神様の主権を、イエス様が譲り受けたとの意味です(同じ内容:ルカ22:29)。次の文章「父のほかに…」は、原文では「子がだれか」「父がだれか」と書かれていることを踏まえると、こういう意味です。「天の神様だけが『イエス様を御自分の御子である』と御存じで、また、『天の神様こそがイエス様の本当の父である』と、イエス様御自身と、イエス様が選んだ弟子達だけが理解できるのだ」と。

 この世でイエス様=メシア(救い主)に出会えた幸い

約2000年前に、この世で実際に救い主イエス・キリストに出会えた弟子達は本当に幸いです。しかし、イエス・キリストの救いの御業を知らされた私達も、「イエス様に出会う幸いを得た」と言えます。神様から大きな恵みを受けた私達は、「主の喜び」、つまり、「まず、父なる神様の御心に適うことを行うのが喜び」であるイエス様を見倣って歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

8月28日の説教要旨 「悔い改め」 牧師 平賀真理子

イザヤ書81623 ルカ101316

 はじめに

今日の新約聖書は、前の段落の続き、つまり、72人の弟子達の派遣にあたり、イエス様が弟子達に語ってくださった御言葉です。

 ソドムより罪が重い町々

前の段落の最後で、罪深いために、天からの火で滅ぼされたというソドムの町の名が出ました(創世記19:1-29)。そのソドムにも増して罪が重いのが、福音を聞いても受け入れない人々、また、受け入れない人だらけの町々であると示されました。そう言いながら、イエス様は、かつて実際に体験された、福音を受け入れない町々を思い出されたのでしょう。今日の箇所の中で、5つの町の名が挙げられています。コラジン、ベトサイダ、ティルス、シドン、カファルナウムです。

 福音宣教の拠点カファルナウムと近隣の町コラジンとベトサイダ

その中でも、福音宣教の拠点カファルナウムは最も恵みに溢れた町、福音が一番多く語られたはずの町です。しかし、福音やイエス様を受け入れなかったために、「陰府にまで落とされる」=一番下に貶(おとし)められるようになるとイエス様が預言されたと15節に書かれています。また、近隣には、聖書の後ろに載っている地図6で見てわかるとおり、コラジンとベトサイダがあります。この2つの町も、カファルナウムの次に福音がよく語られた町だったに違いありません。ですから、福音を聞く恵みをたくさん与えられたはずです。イエス様の御言葉を聞いたり、力ある御業を目の当たりにしたはずです。にもかわらず、その町の人々の多くが、福音やイエス様を受け入れなかったのです!13節では、この2つの町の名の後に「不幸だ」とありますが、これは意訳されています。元の文章には、「ああ、コラジンよ!ああ、ベトサイダよ!」と言って、悲嘆にくれる感嘆詞が書かれているだけです。これらの町の罪深さ故に滅びていく様子が、主には見えていたのでしょう。

 異邦人の町ティルスとシドン

ティルスとシドンは、ユダヤ民族の領域に隣接した異邦人の町々でしたが、イエス様の福音を遠くから聞きに行ったり来たり(6:17)、イエス様への大いなる信仰ゆえに娘を癒してもらった「カナンの女」のいたこと(マタイ15:21-28)で、聖書にも記録されている町です。ユダヤ人の伝統的な見方からすれば、神様から遠いはずの異邦人のティルスやシドンの人々の方が、まだ、神様の御心に近いとイエス様は思っておられたことがわかります。それは最高に大事な一点、つまり、福音やイエス様を受け入れるという点において、ユダヤ人達よりも、これらの町々の異邦人達の方がまだ可能性があると思われたからです。

 新しい基準による祝福と罰の掟

このように見てくると、もはや古い基準=神様が選んだユダヤ民族かどうかという旧約の基準よりも、重要とされる基準が新たに立ち上がっていることがわかります。それは、神の国の福音や「救い主」イエス様を受け入れるかどうかという新約の基準です。そして、神様の恵みによって祝福されるべき使命を負った町や人々が、その祝福を受け入れなかった時には、恵みとは逆の罰を受ける定めにあることが、ここではっきり示されています。恵みが大きい分、罰も大きなものになることを、福音を聞く恵みを得た者は肝に銘じておかねばなりません。

 弟子達を受け入れる=イエス様を受け入れる=天の父なる神を受け入れる

今日の箇所の最後16節によって、ルカ福音書がこの御言葉をこの箇所に置いている理由を類推できます。イエス様は、その憐れみから、弟子達を派遣する前に、受け入れられないという憂き目に遭っても力を落とさないように、励ましておられるのです。福音伝道の大事な使命を帯びた弟子達の後ろには、イエス様がついていてくださること、更にその後ろには、天の父なる神様がついていてくださることを、イエス様は宣言されたのです。この「派遣される弟子達」の中に、実は、私達も含まれています。

 悔い改め

13節には、「粗布をまとい、灰の中に座る」という旧約時代の悔い改めの態度が記されています。主の十字架と復活の恵みを賜っている私達は、外見上はこの姿をする必要はありませんが、その心積りは受け継ぐべきです。私達は神の国の民とされているのに、度々この世の価値観に戻ってしまっていないでしょうか。そのような時、「悔い改め」が必要です。再び神様に心を向け、神様の御心に適った生き方へ再度踏み出せるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

8月7日の説教要旨 「平和の主の道」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1115 ルカ95156

 はじめに

今日の新約聖書箇所として「サマリア人から歓迎されない」という小見出しがついた段落が与えられました。しかし、その中の最初の節の51節は、ここから19章半ばの主のエルサレム入城までの旅路が始まることを示しています。ルカ福音書は全部で24章ですが、その半分弱の約10章分を使い、イエス様の十字架への道の途中の出来事をたくさん記しています。苦難の道の途中にあっても、イエス様は、従う人々を愛し、導くことをおろそかになさらなかったことが証しされています。

 「天に上げられる時期が近づく」(51節)

イエス様は神の御子として、天の父なる神様から、救いの必要な人間ばかりのこの世に降りてこられました。そして「救い主」としての使命=イエス様だけに託されていた使命が、人間の罪を贖うために命の犠牲(神の御子の死)=十字架上での死です。人間的に見れば、これは敗北と受け取られるでしょう。しかし、神様から見れば、全く逆、勝利です!

壮絶な死を遂げなくてはならなくても、父なる神様の御心に従順だったイエス様には、その後、「復活」という誰も賜ることのなかった栄誉が与えられました。神様から与えられた「復活の体」で弟子達と過ごし、その後は天に昇り、今や父なる神様と同じ「神様の位」に就かれています。

 「エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)

ルカによる福音書によれば、主の十字架と復活は、神の民ユダヤ人の都「エルサレム」で起こりました。イエス様がエルサレムに向かうとは、その先に栄光の復活があるとはいえ、まずは十字架にかかるということです。人間の肉体を与えられて、この世を歩んでいた主にとって、それは、激しい苦痛と屈辱を受けることを意味していると主はご存じのはずです。だから、主と言えども、決意を固める必要があったのでしょう。

 「サマリア人も救いの中に」

「栄光の救い主」ではなく、まずは「苦難の僕」としてエルサレムへ向かうイエス様が、ユダヤ人達が嫌うサマリア人の村を最初に通ろうとしたことには、意味があると思われます。サマリア地方はユダヤ地方の北側に位置し、ガリラヤ地方で宣教されていたイエス様がエルサレムに行くには、サマリア地方を通るのが近道です。けれども、当時、ユダヤ人はサマリア人の村を避けてヨルダン川の東から遠回りしてエルサレムに入りました。サマリア人は、元々は「神の民」イスラエルの民だったのですが、侵略してきた異民族に荒らされて、宗教的にも人種的にも純粋でなくなったということで、ユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、それでサマリア人達もユダヤ人を嫌ったからです。この状況は、イエス様も当然御存じのはずです。なのに、決意を固めた後に「救い主」として初めて通る道として、主はサマリア人の村を選ばれたのです。約束を必ず果たされる神様が、人間の事情に左右されず、最初の約束を守ってくださり、サマリア人を「神の民の救い」の中に含んでくださったと考えられるでしょう。

 「サマリア人は歓迎しなかった」

神様の大いなる愛を受けているにも関わらず、その村のサマリア人達はイエス様を歓迎しなかったことが記されています。サマリア人から見れば、仲たがいしているユダヤ人の救いのためにイエス様が自分達の村を通るのですから、面白くなかったでしょう。しかし、もっと普遍的なことが暗示されていると思われます。人間は人間的な理由で、イエス様を「救い主」として、歓迎できないということです。(エルサレムでも一時的に歓迎されたものの、最終的には歓迎されませんでしたし、福音宣教する時も、まずは歓迎されないことが多いものです。)

 「弟子2人の発言」と「平和の主の道」

主を歓迎しないサマリア人に対して、弟子のヤコブとヨハネが、村を焼き滅ぼすことを提案しました。反対者に対して、彼らは全滅させる方法を取ろうとしました。しかし、イエス様は、歓迎しない人々の罪をも背負うために、我が身を滅ぼすという十字架にかかった御方です。これが神様の方法です。従わない人間のために神様御自身が犠牲になるのです。弟子2人とは全く逆です。父なる神様の御心に従って、イエス様は「自分を犠牲にする道」を従順にたどられました。これこそが、「神の霊」を受けた本当の平和の主の道です。私達は、「平和の主の道」を正しく理解し、それに倣いたいものです。「山上の説教」の御言葉を思い起こします。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)私達は主と同じ「神の子」と呼ばれる幸いを賜わるのです!

7月17日の説教要旨 「弟子たちの教育」 牧師 平賀真理子

イザヤ書53610 ルカ9:3745

 はじめに

イエス様は人々の噂をよそに、弟子達がイエス様をどういう御方かを本当に理解しているかということに心を配られました。それには、一番弟子のペトロが期待に応え、「神からのメシア(救い主)」(9:20)という信仰告白をしました。そこで初めて、イエス様は御自分の定めを、弟子達に信頼して打ち明けられました。

 「救い主」とは?

当時のユダヤ人達は、自分達の所に来る「救い主」とは、ローマ人(異邦人)の支配という苦境から自分達を解放し、ユダヤ人の国を打ち立ててくれる強い王様のような御方だと思い込んでいました。ただ一人、イエス様だけが本当の「救い主」とは、旧約聖書に預言された「苦難の僕」の定め(イザヤ52:13-53:12)の道を歩まねばならないと御存知でした。また、そのことで、多くの人々がイエス様を救い主として受け入れることにつまずくこともわかっておられました。初めて御自分の厳しい定めを弟子達に伝えた後、彼らを見ても、理解していないことは明らかでした。

彼らの理解が進むように祈られた結果、天上での出来事のような「山上の変容」(ルカ9:28-36)が3弟子の前で起こったのでしょう。天の父なる神様の声がして、3弟子達は神様が「救い主」と保証するイエス様に従うことをより一層強く決意することができたのだと推測できます。

 悪霊に取り憑かれた子の父親の報告

イエス様が神様から遣わされたことを証しする出来事「山上の変容」に呼応して、翌日、悪霊に取り憑かれた子とその父親が、山を下りたイエス様の所に助けを求めて来ました。そして、少し前に、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力を授けた(9:1)弟子達が、この子の悪霊には打ち勝てなかったことを、その子の父親から知らされました。

 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(9:41)

弟子達に授けた御自分の力と権能がわずかな間に衰えたのか、悪霊の力が弟子達では手に負えない程だったのかわかりませんが、強力な悪霊が、まだ、人を苦しめていることをイエス様は嘆かれたのではないでしょうか。

 「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければナならないのか。」(9:41)

この「あなたがた」は弟子達を含む、その場にいた人々みんなに向けられた言葉です。イエス様は、御自分の力と権能を授けた弟子達が悪霊に打ち勝てない現実を前に、やっぱりイエス様じゃなきゃだめだという人々の思いを突き付けられています。けれども、イエス様には、この世での御自分の時がわずかだとわかっています。そして弟子達に教えても理解は進んでいない、そして人々はイエス様がずっといてくださると思って頼り切って来る、そんな期待と重圧の渦の中にイエス様はおられました。

 「神の愛」を源にした、主の御力と権能による癒し

このように、イエス様は大変な状況の中におられましたが、御自分の苦しみは脇に置いて、苦しんで御自分を頼って来る人を見ると助けずにはいられない「神の愛」に突き動かされ、悪霊を追い出して子供を癒し、心配する父親にお返しになりました。この強力な悪霊に、ただ一人打ち勝てたイエス様の力と権能は、やはり神様からのものだと人々は確信を深め、神様の偉大さに感動していました。

 2度目の受難告知

人々の感動の中、イエス様は突き付けられた課題にすぐに取り組まれました。「弟子たちの教育」です。もう一度、弟子達に御自分の定めをお告げになったのです。それは最初の受難告知より短いものです。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。(9:44後半)「人の子」とは、イエス様が救い主である御自分を指すときに用いられる言葉です。「人々の手に引き渡されようとしている」とは、後に実際に行われる「主の十字架」を預言しています。最初の受難予告の中の受難の部分だけ特に強調されています。

 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」(44節)

神様のご計画により、弟子達は、主の御言葉を当時は理解できないように隠され、主に質問もできず、後に聖霊の助けによってわかるようになります。ただ、御言葉を「よく耳に入れておきなさい。」と教えられました。真理は人間にはすぐに理解されなくても、後に理解が深まるよう導かれます。私達も弟子として、福音の理解が徐々に深まることを祈りつつ、御言葉を覚えることに励みましょう。

7月10日の説教要旨 「山上の変容」牧師 平賀真理子

イザヤ書4219 ルカ9:2836

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の直前には、一番弟子ペトロの信仰告白があり、イエス様が御自分の受難予告をなさる出来事が記されています。ペトロの信仰告白によって、弟子達がイエス様を「神からのメシア(救い主)」とわかっていると思われました。しかし、「イエス様が多くの苦しみを受け、人々に排斥され、殺され、しかも3日目に復活する」という受難予告の内容は、人間がすぐ理解できる範囲を超えていました。弟子達の様子をご覧になったイエス様は、祈りの中で、このことを父なる神様に報告し、弟子達がわかるようにしてくださいと祈られたのかもしれません。

 祈りをもって始められるイエス様

今日の箇所は、イエス様が最も信頼する3人の弟子、ペトロ・ヨハネ・ヤコブを連れ、祈るために山に登られたという記述から始まります。ルカによる福音書では、大事な場面で、イエス様が祈りをもって始められることを度々記しています。神の御子イエス様でさえ、このように祈っておられます。私達も主に倣い、祈りを増やしていきたいものです。

 山上の変容

祈りの後、「イエスの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた(29節)」とあります。イエス様が山の上で、地上とは違う御姿、即ち、天の側の御方としての輝く御姿になられたことを、「山上の変容」もしくは「山上の変貌」と言います。3人の弟子達は、更に、地上とは思えない出来事を目の当たりにします。旧約聖書や祖先の言い伝えでしか聞いたことのないモーセやエリヤがイエス様の所に来て語り合う姿を見たのです。

 イエス様と語り合うモーセとエリヤ

モーセと言えば、神の律法である「十戒」を神様からいただいた指導者、エリヤと言えば、最高・最大の預言者です。この2人で、律法と預言者を象徴します。旧約聖書を別の言い方で「律法と預言者」と言うので、旧約聖書を体現する2人がイエス様と語り合うとは、イエス様が旧約聖書(における神の救い)を引き継ぐと示されていると言えるでしょう。

 エルサレムで遂げようとしておられる最期=十字架

また、ルカ福音書だけに記されている「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(31節)」とは「主の十字架」を意味しています。神の御子・救い主であるイエス様が御自分の命を犠牲にすることによって、人間の罪をすべて肩代わりしてくださることです。このイエス様を「救い主」と信じる者が、その救いの恵みをいただくことができるようになることを意味します。

 眠気に襲われる弟子達

天の出来事が地上で起こっているとしか思えないような、この「山上の変容」において、3弟子達は「ひどく眠かったが、じっとこらえて」とあります。彼らが天に心を向けず、この世の出来事ばかりに捕らわれているゆえの眠気であるという説があります。それでも彼らは眠気を必死にこらえ、続きを見ることができました。ルカ福音書でのテーマの一つである、「この世での試練を忍耐していると、栄光の救いを受けられるようになる」という意味が見て取れます。

 「雲」の中からの御声

続いて、イエス様とモーセとエリヤは、神様の臨在を示す「雲」に覆われ、3弟子から隔離されます。そして、雲の中からの御声がするのを3弟子は聞くのです。イエス様の父なる神様からの御言葉です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」(35節)「これ」とは、イエス様のことです。「選ばれた者」というのが、ルカ福音書での特徴です。父なる神様が「人間の救いのために選んだ者」という意味です。「これに聞け」とは、神様の選んだ、御子イエス様に聞き従いなさいという意味です。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた(36節)」のですから、雲の中に覆われた3人のうち、神様の救いの御業を完成するために選ばれたのは、イエス様だけだと示されています。

 聖霊によって真理をことごとく悟るようになった弟子達

「山上の変容」を、直後に3弟子が他言しなかったのは、真意を理解できなかったからでしょう。十字架と復活の後、主の預言どおりに「聖霊を受けて」初めて、3弟子は、主の救いの御業と与えられる恵みについて目を開かれたのです(参照:ヨハネ16:13)。そして、彼らは福音書に記し、後代の信仰者である私達に神様がなさった出来事として伝える働きをしたのです。私達も忍耐強く信仰生活を続け、主の恵みを更に理解できるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

6月5日の説教要旨 「約束の聖霊を受けた人々」 牧師 平賀真理子

イザヤ571419・使徒言行録23742

 はじめに

ここ(37節)で書かれている「人々」とは、エルサレムに住む住民で、「聖霊降臨」の物凄い音や振動に驚いて集まって来た人々です。この「人々」は、その後、信徒達に「炎のような舌」が分かれ分かれに降るのを見、また、信徒達が聖霊から力を与えられて外国語で「神の偉大な業」を語るようになった、ペンテコステの出来事を目の当たりにしました。それに続いて、イエス様がお選びになった「使徒」の代表であるペトロが行った説教を聞くことになった人々です。

 ペトロの説教を聞いて受け入れた人々

人間的な弱さのあるペトロですが、この時の説教の第一部(14-36節)によって、「人々」に、救い主イエス様を十字架に付けた責任を痛感させ、彼らがイエス様に対して変わらなければならないことを理解させることができました。これはペトロ個人の力というよりも、聖霊の御力をいただけたからだと言えるでしょう。「人々」は、それ以前には指導を仰ぐことになるとは思ってもいなかった「ナザレ人イエス」の弟子達に対し、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問い、それに答えて、ペトロは、イエス様を救い主として理解できた人が次に行うべき行動を指導しました。

 悔い改め、イエス・キリストの名による洗礼

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)というのが、ペトロの答えであり、主の約束でもあるのです。「悔い改める」とは、一言でいうなら、「心を入れ替える」です。更に詳しく説明すると、「神様なしで生きてきたこれまでの生き方を、神様を心の中心に据えた生き方に180度方向転換すること」です。38-39節で言うなら、イエス様の本当の価値を知らずに生きてきて、(積極的でなかったにせよ、)イエス様を十字架で殺す側にいた「人々」に対して、イエス様を無視したり、心の中で否定したりして、自分の好き勝手に生きるのをやめて、イエス様の本当の価値を理解して、その御方を心の中心に据える生き方を今すぐ始めなさい。」と勧めているわけです。

ペトロの説教(第一部)で語られたように、イエス様は神様によって救い主とされた御方であり、死から甦って復活された御方であり、更に、約束された聖霊降臨に至っては、弟子達だけでなく、ここに書かれた「人々」も証人とされました。この「人々」は、もうイエス様を知らないと言って生きていくことはできません。神様のご計画によって彼らの多くが、救い主イエス様の本当の価値を知り、更に、その救いの恵みを受けることが゙許されていることを知らされました。「イエス・キリストの名による洗礼」とは、神様と人間を隔てていた「罪」を、イエス様の十字架の贖いによって、取り除いていただくものです。「主の御名による洗礼」を受けることで、神様から「御自分の民」として認められるのです。

人間は、イエス・キリストの名による洗礼を受けて、罪を赦されることになり、神様とつながることができるようになります。その結果、神の霊である「聖霊」を受けて、神様の御用のために働くことを喜びと感じるように変えられていきます。神様につながるようになれることや神様の御用のために用いられることを喜べるようになるには、多くの場合、信仰の成長が必要です。信仰の目が成長していなければ、聖霊の助けを受けていると気づくことが出来ないからです。逆に言うと、自分の身に起こっている聖霊の助けをもっと知って、更に喜びに満たされるために、信仰の成長を求めていきたいものです。

 主が招いてくださる者ならだれにでも

39節には、イエス様が切り開いてくださった新しい考えを読み取ることができます。それまでは、神の民として神様が選ばれたユダヤ民族がまず救われるという考えが支配的でしたが、ユダヤ民族でなくても、イエス様を救い主として信じさえすれば、ユダヤ人でない「遠くにいる人々」も、イエス様によって同じように救われて、主が招いてくださる「神の民」となれることが示されています。

「邪悪なこの時代から救われなさい」(40節)というペトロの勧めには、「人々」がイエス様につながり、本当の意味で救われてほしいという愛が溢れています。

 「初代教会」が大事にしていたこと

こうして、エルサレムで最初の教会「初代教会」が生まれ、「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと(聖餐)」「祈り」が大事にされました。私達もこれら全てを網羅する「礼拝」を第一に生きる信仰者へ成長できるよう、祈り求めましょう。

2月14日の説教要旨 「『種を蒔く人』のたとえ」 牧師  平賀真理子

イザヤ書6:9-10 ルカ福音書8:4-15

 はじめに

 イエス様は、よく、例え話を用いて、人々に話をなさいました。特に、この「種を蒔く人」のたとえは、例え話自体と、イエス様ご自身からの説明が、聖書に共に書かれています。それで、後の時代の私達は、例え話の本当の意味をすぐに知ることができます。でも、イエス様の御許に来た群衆は、4節から8節の例え話と「聞く耳のある者は聞きなさい」という御言葉だけを聞いたことをあえて認識しておきたいところです。

 種の4種類の成長結果

イエス様は話を聞きに来た一般民衆のほとんどが従事していた農業の中から、興味を持ってもらえるよう、「種まき」の話をされたのでしょう。4~8節では「種」と「種を蒔く人」と「種が落ちた土地の状況」が語られる主な内容です。「種を蒔く人」の「種を蒔く」という同じ行為により、4種類の成長結果となったことが話されています。1つ目は、種が鳥に食べられて種自体がなくなり、芽さえ出なかったこと、2つ目は、芽は出たが、根が張れずに枯れてしまったこと、3つ目は、芽が出て茨と共に伸びたが、茨に覆われて成長できなかったこと、4つ目は、良い土地に育ったために百倍の実をつけるほど成長したことでした。これだけ聞くと、農業の技術的な話?とか、種まきをする注意点?という疑問がわいてきそうですが、次の11~15節にあるように、この例え話が神の国の福音宣教の結果を預言されたものであることが明らかにされていきます。

 土地の状況に起因する成長結果の違い(実を結べない3種類)

種の成長結果は、種の落ちた土地の状況によることがわかります。土地の状況とは、本当の意味では、神の言葉が降って来た人(心の状態)のことです。

1つ目の道端(畝と畝の間で人の通り道)に落ちて、人に踏みつけられ、鳥に食べられたとあるのは、「神の言葉を聞いても、ないがしろにし、挙句の果てには、悪魔に取られてしまう人」を例えています。

2つ目の石地のものとは、「神の言葉を育てるために耕すことを怠っている」心の状態にある人のことです。種の成長のために土という環境を整えることが大事なことです。それを怠ると、まだ成長過程の植物は、根も弱くて硬い石に打ち勝つことができないことを「試練に遭うと身を引いてしまう人たち」と表現しています。

3つ目の茨の中に落ちたものとは、心配事や富や生活の楽しみの方を、神の言葉を信じて生きることよりも優先して生きている人達のことです。ある程度、信仰を続けることはできるかもしれませんが、信仰者として本来結ぶべき、信仰の実をつけることができない人々です。信仰の実とは、別の言い方をすれば、「聖霊の結ぶ実」とも言えます。それは「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ書5:22-23)です。

 良い土地に落ちた種の成長

4番目の良い土地に落ちたものとは、「立派な善い心で」と言われる人たちです。では、立派な善い心とはどういう心か、それは、すぐ次に書かれています。「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」です。まず、御言葉を聞き、それを心に留める、そしてそれに従って行動するということです。その時に必要とされるのが「忍耐」と書かれています。この「忍耐」の元々の言葉は、「重い荷を背負ってじっと留まる」という意味から生まれたものです。しかし、その忍耐の果てには、信仰者として実を結ぶ恵みが与えられています。実を結ぶとは、2つの意味があると思います。一つは、種が百倍にもなることであり、もう一つは、その種の成長にふさわしい状態の土があるということが外からもわかるということです。イエス様が御自分の使命として大事になさった神の国の福音がその人の心に育って実った結果、種と表現される信仰者がたくさん生まれることが示され、福音を告げる使命を担う者や、イエス様の証人として生きる者が豊かに生まれることが示されています。

 「神の国の秘密を悟ることができる」恵み

10節では、イエス様が、たとえを用いて話す理由を、イザヤ書6章9-10節を引いて語られました。「神の国の秘密」を理解することを許されていた弟子達と許されない群衆がいました。ここに「神の選び」が起こっています。神の国の民として招かれる人を選ぶのは、神様の主権の一つです。私達信仰者は神の国の秘密を悟ることができる弟子達に繋がっています。主の選びに心から感謝し、主の御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人になれるよう、聖霊の助けを祈り求めたいものです。