「福音にあずかる道」 牧師 佐藤義子

/n[民数記]6章1-5節 1 主はモーセに仰せになった。 2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、 3 ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。 4 ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。 5 ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。 /n[使徒言行録]21章17-26節 17 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。 18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。 19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。 20 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。 21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。 22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。 23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。 24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。 25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」 26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。 /nはじめに  パウロの三回目の、御言葉を伝え続けた伝道旅行が終り、エルサレムに到着したパウロ達一行は、同じ信仰の仲間達から喜んで迎えられました。翌日パウロは、同行した7人とルカ(使徒言行録の著者であり医者)と共に、当時エルサレム教会の指導者となっていたヤコブ(イエス様の兄弟)を訪問しました。エルサレム教会の長老達もそこに集まっていました。19節には、「<span style="font-weight:bold;">パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。</span>」と記されています。おそらく18:23以下に記された、エフェソで出会った12人のキリスト者に聖霊が降った出来事、ユダヤ人祈祷師達が、主イエスの名を語って悪霊を追い出そうとした時、悪霊につかれた男が祈祷師に飛びかかりひどい目に合わせた出来事、それによって主イエスの名が崇められるようになったこと、魔術師達が魔術の書物を焼き捨てたこと、更にはエフェソの銀細工人達がパウロを目の敵にして大集会を開いた中でパウロが守られたことなど報告したのでありましょう。ここで注目すべきは「<span style="font-weight:bold;">神が・・行われたことを報告した</span>」ということです。「わたしは○○をしてきました」ではなく、「神」がなさった報告です。ここにキリスト者の語る姿が描かれています。  続いて報告を受ける側の反応にも注目したいと思います。「<span style="font-weight:bold;">これを聞いて、人々は皆神を賛美し</span>」(20節)です。キリスト者の集会は、語る者も聞く者も、神様を中心として、最終目的は神様を賛美することなのです。 /n悪意あるうわさ  エルサレムの長老達は、パウロについて心配していることがありました。それは、パウロがキリスト教に改宗したユダヤ人達に、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、律法を守ることから離れるように教えているという「悪意のあるうわさ」でした。勿論これは誤解です。パウロが語ったのは、律法を守ることで救われると考えている人々に、律法が神の国に入る条件ではなく、主イエス・キリストが私達の罪の為に十字架で死んで下さったことで、神様は私達の罪を赦して下さった。私達はこのキリストを信じることによって救われると語ったのです。 /n「うわさは根も葉もない」と分かってもらう提案  ヤコブをはじめエルサレム教会の長老達は、パウロを正しく理解していたでしょう。しかし熱心に律法を守っているユダヤ人キリスト者の間に広がるうわさを信じる人達は、パウロがエルサレムに滞在していることを知るならば、必ず騒ぎ出してパウロを捕えようとするでしょう。そこでエルサレム教会の指導者達が考えたことは、ユダヤ人に対してパウロ自身が身の潔白を証明するために、律法に定められていることを実践することでした。それによってパウロは決して律法をないがしろにしておらず、律法を守る人物であることが明らかになり、誤解も解けるだろうという提案でした。 /n「<span style="font-weight:bold;">福音のためなら、私はどんなことでもします。</span>」(一コリント9:23)  パウロの考えからすれば、この提案・・すなわち四人の誓願者と共に神殿に行き、清めを受け、彼らの頭をそる費用を出すという「律法を守る行為」をあえて行なう必要はありませんでした。彼は律法から自由にされていたからです。しかしパウロはこの提案を受け入れました。  なぜでしょうか。それは伝道者の使命感と、キリストの愛と、教会の一致の為と考えられます。パウロは「<span style="font-weight:bold;">ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。</span>」(一コリント9:20)と記しています。  救いの為に謙虚に最善を尽くし、不必要な争いや分裂を避け、教会の一致の為に愛をもって行動したパウロの姿をここに見ます。

「奇跡と熱狂」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]35章5-10節 5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。 /n[マルコによる福音書]7章31-37節 31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様が、故郷のガリラヤに隣接する都市をめぐって福音伝道の旅から戻って来られたところから始まります。ガリラヤ湖畔に戻られたイエス様を待っていたのは、イエス様の癒しの奇跡の噂を聞いたと思われる人々でした。今日の箇所では、人々が耳が聞こえず舌の回らない(話が出来ない)人をイエス様の前に連れて来て、手を置いて下さるように(癒しにつながる祈り)願い出ました。この時イエス様が初めにされたことは、この障がいに苦しむ人だけを群衆の中から連れ出すことでした。周りの人の思惑や、好奇心から隔離し、一対一で、面と向かって、心の交流をなさろうとしたのでしょう。 /nイエス様の奇跡  イエス様のなさる奇跡は、ほとんどがイエス様の発する御言葉によってなされています。しかし今回、いやしを求めている人は、耳が聞こえず、舌が回らない人です。イエス様の言葉を聞くことが出来ないこの人の為に、イエス様はご自分がなさろうとしていることを、動作をもって示されました。「<span style="font-weight:bold;">指をその両耳に差し入れ</span>」は、ふさがっている耳の穴をあける動作であり、「<span style="font-weight:bold;">つばをつけてその舌に触れる</span>」は、乾燥して固まって動かない舌を湿らせて柔らかくして動くようにされる動作、さらに「<span style="font-weight:bold;">天を仰いで</span>」は、父なる神様の助けを祈り求め、「<span style="font-weight:bold;">深く息をつき</span>」は、元々は「嘆く、ため息をつく」という意味を含んでいますので、イエス様がこの人の境遇に共感し、罪の世界の苦しみを嘆かれていることが分かります。そして最後に、「<span style="font-weight:bold;">エッファタ</span>」と言われました。これはイエス様が日常で使われていたアラム語で「開け」という意味です。イエス様が、この世の苦しみの世界を解放し、牢獄のようなこの世の門を、神の国に向かって「<span style="font-weight:bold;">開け</span>」と宣言されているのだとも理解出来ます。イエス様は神の御子としてこの世の支配者サタンと真剣な闘いをされ、奇跡を通してこの世への救いの道を開いていこうとされていたのです。 /n「話してはいけない」  イエス様の「<span style="font-weight:bold;">エッファタ</span>」との御言葉により、耳と舌に障がいを持った人は、たちまち耳が聞こえるようになり、話せるようになりました。この後イエス様は人々に「誰にもこのことを話してはいけない」と口止めされました。しかし人々は、「かえってますます言い広めた」とあります。なぜでしょうか。それは、自分は素晴らしい奇跡を見た!と自慢したい気持、その出来事に酔いしれたい気持が優先されたのではないでしょうか。人間は何かに熱狂したいものです。私達は、心の中に空しさを含む穴があると、何か手近なもので埋めようとします。その空しい穴は、本来神様が住まわれるところです。ところが人は、奇跡など強い感情を伴う出来事を体験すると熱狂し、すぐ人に伝えたいという感情に捕われます。「熱狂」は、一時的な感情で、彼らの中からイエス様に従う者や、十字架の裁判時にイエス様を助けようと働く者は出てきませんでした。「熱狂」に基づくイエス様の人気が大きくなることは権力者達を敵に回し、更には「神の国の福音」を広められるイエス様の働きを妨げることになったでしょう。「誰にも話してはいけない」とのイエス様の言葉に逆らって話すことは、人間の領分を越えて罪に陥ることです。アダムとエバが神様の禁止命令を守れなかったことから、人間は罪の世界への堕落が始まりました。イエス様が求めておられるのは「主の言葉に従う者」です。 /n耳と口  礼拝にはイエス様が共におられ、私達の賛美や悔い改めや、とりなしの祈りや、祈りに含まれる私達の苦しみや悩みも聞いておられます。私達の耳は、聖書を通して神様の御言葉を聞き、説教のみならず礼拝のすべてのプログラム(黙祷から祝祷・後奏まで)で、聖霊の働きを通して神様の声を聞くことができます。又、私達の口は、懺悔の祈りをささげ、賛美し、使徒信条を告白し、主の祈りを祈ります。耳と口はそのために与えられています。私達は心に「熱狂」ではなく「賛美と祈り」を据えて、今週も歩んでまいりましょう。

「御心が行われますように」 牧師 佐藤義子

/n[箴言]16章1-3節 1 人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。 2 人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。 3 あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。 /n[使徒言行録]21章1-16節 1 わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、 2 フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。 3 やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。 4 わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。 5 しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、 6 互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。 7 わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。 8 翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。 9 この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。 10 幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。 11 そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」 12 わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。 13 そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」 14 パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。 15 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。 16 カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。 /nはじめに  今日の聖書は、パウロ達一行の帰国の旅が、どのような経路を通って目的地エルサレムまで行ったのかが記されています。この旅で出会った人々や出来事を通して、ご一緒にいくつかのことを学びたいと思います。 /nティルスでのキリスト者達との出会い  ティルスには、かつてエルサレムの迫害から逃れてきたキリスト者達の伝道によって出来た群があったようです。パウロは、船が荷物の陸揚げの為に停泊していた一週間を利用して、キリスト者達の群れを探し出しました。そしておそらくいつものように、キリスト者達を教え、励まし、勇気づけたことでしょう。彼らは霊の導きによって、パウロにエルサレムへは行かないように繰り返し言いました。命の危険を思ってのことでしょう。  しかしパウロは、予定通りエルサレムに向かって出航することにしました。ティルスのキリスト者達はパウロ達の為に、家族ぐるみで町外れまで見送りに来て浜辺に膝まずき祈りを持って送り出しました。ここに、信仰によって結ばれた神の家族の麗しい交わりの光景を見ることが出来ます。 /nカイサリアでのフィリポとの出会い  ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、その翌日カイサリアに着きました。そこには伝道者フィリポの家があり、パウロ達一行は数日間滞在したことが報告されています。フィリポは、最初のキリスト教会の世話役として選ばれた、“霊”と知恵に満ちた評判の良い7人の一人でした(6章)。8章には、エチオピア女王の高官に伝道して洗礼を授け、その後、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行ったことが記されています(40節)。  パウロが訪れた時、フィリポには預言をする4人の未婚の娘がいました(21:9)。つまりフィリポはその後クリスチャンホームを築き、すべての子供達が父親のように、神様に仕える者として用いられていたのです。そしてパウロ達一行8名(20:4参照)に、彼らの滞在先として自分の家を提供したのでした。 /nアガボの預言  フィリポの家に、預言者アガボが来た時のことです。アガボはかつて大飢饉が世界中に起こると予告し実現しています(11:27-)。アガボはパウロに向かって、パウロがエルサレムで鎖につながれて、ローマ人に引き渡されると預言しました。これを聞いて、パウロを除くすべての人達がパウロのエルサレム行きに反対しました。  私達人間は、自分も愛する人達も、出来るだけ苦しみに合わないように、又、安全が守られて長く生きてほしいとの願いを持っています。それゆえ、パウロの命の危険があるとの預言を聞いて、放っておくことは出来ませんでした。しかしパウロは答えます。  「<span style="font-weight:bold;">泣いたり、私の心をくじいたり、一体これはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。</span>」 /n「<span style="font-weight:bold;">主の御心が行われますように</span>」  パウロは、エルサレム行きを危険だからという理由で断念することは、自分に与えられた使命をおろそかにすることであり、イエス・キリストに対して不誠実と考えたのでしょう。以前パウロは「私はエルサレムに行った後、ローマも見なくてはならない」と言いました(19章)。当時の世界の中心地ローマヘの宣教は、エルサレム訪問後の彼の使命であるとの確信があったのでしょう。パウロは、「命の安全」ではなく、今、与えられている「使命に忠実」であることを選びました。パウロの言葉を聞いた人々は「<span style="font-weight:bold;">主の御心が行われますように</span>」と言って口を閉じました。  主の御心は測り難く、人間の思いをはるかに超えています。「御心のままに」と祈る祈りは、私達を「自分自身への執着」から解放し、全てが「神様のご計画の中に置かれる確信」と、「委ねる信仰」を与えます。

「神の言葉で造り上げられる」 牧師 佐藤 義子

/n[エゼキエル書]33章1-9節 1 主の言葉がわたしに臨んだ。 2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。 3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。 4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。 5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。 6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。 7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。 8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。 9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。 /n[使徒言行録]20章17-38節 17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。 18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。 19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。 20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。 21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。 22 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。 23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。 24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。 25 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。 26 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。 27 わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。 28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。 29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。 30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。 32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。 34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。 35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」 36 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。 37 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。 38 特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。 /nはじめに  今日の聖書は、パウロがエフェソの教会のリーダー達に別れを告げるに際し、あたかも遺言を残すように語る場面です。パウロはまず、自分がこれまでどのように生きてきたかを思い起こしてもらいたいと語り始めます。第一に「自分を全く取るに足りない者」と思って主に仕えてきたこと、第二に「涙を流しながら」主に仕えてきたこと、第三に「ユダヤ人の陰謀の試練に遭いながら」主に仕えてきたことです。自分を低くして、涙を流すほど真剣に誠実に教会の人々に向き合い、自分の福音宣教に反対する人達との戦いに負けることなく戦ってきた仕事を、これからはリーダー達が引き継ぎ、担い、教会を守り導いていくのです。 /nパウロが語った二つのこと  さらにパウロは、自分は教会に役に立つこと、有益なことは、公衆の面前でも方々の家でも、一つ残らず伝え教えてきたと語ります。その内容についてパウロは、「<span style="font-weight:bold;">神に対する悔い改め</span>」と「<span style="font-weight:bold;">私達の主イエスに対する信仰</span>」の二つを取り上げています。神を信じると言いながら、いつのまにか、自分の心を神としている人達に、神のもとに帰り、神中心の生活へと生き方を転換するよう教え導き、さらに、神様が救いの為に遣わした御子イエス・キリストを自分の救い主と信じて従うように伝道したのでありました。 /nパウロの任務  パウロは、自分の任務は「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しする」ことだと語り、この任務を果たし続ける為に、聖霊に促されて、投獄と苦難が待っているエルサレムに行くと話します。パウロは、自分に与えられた道を走り通すことが出来るなら、自分の命を惜しいとは思わないと語り、神様の救いのご計画、救いにあずかる道など、すべてを隠すことなく伝えてきたので、もし、そこから外れて滅びの世界に落ちる者がいたとしてもパウロに責任はないと明言します(エゼキエル書を参照)。エフェソのすべての教会員が、パウロが教えたキリストの福音と真理にとどまり、救いと永遠の命を手放すことがないように語っています。 /n教会とは  教会は「<span style="font-weight:bold;">神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会</span>」(28節)です。イエス様が私達の罪のために十字架で流して下さった血によって、私達は神様から赦され、聖められて、神の子とされ、教会の群の一員とされました。ところがパウロが去った後、教会には外から偽りの教えが入り込んだり、内部から邪説を唱えてキリスト者を惑わす者が出るなど、誘惑や困難に襲われる出来事が起こることを、パウロは予見していましたので、それらの誘惑や試練から守られる為にも、パウロは、これまで一人ひとりに夜も昼も涙を流して教えてきたことを絶えず思い起こして「目を覚ましていなさい」と警告します。 /n御言葉には「造り上げる力」がある  そしてパウロは、「<span style="font-weight:bold;">今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです。</span>」と語りました。  神様の恵みの言葉、神の言葉はキリスト者を造り上げ、神様の恵みを受け継がせる力をもっています。神の言葉は人間から出て来るものではなく、神から出て来るのであり、それは生きた神の力であり、人々を堕落と滅びから守り、人々を信仰の高嶺へと導き、人々を形成し築き上げていきます。詩編には「<span style="font-weight:bold;">あなたの御言葉は、私の道の光 私の歩みを照らす灯火</span>」や、「<span style="font-weight:bold;">どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉通りに道を保つことです</span>」とあります(119篇)。又、ヘブライ書に「<span style="font-weight:bold;">神の言葉は生きており、力を発揮し、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来る</span>」とあります(4:12)。  私達はこの神の言葉である聖書を手にしており、いつでも読むことが出来ます。そして礼拝ごとに、又、諸集会で御言葉を学ぶ機会があります。ここにおられるすべての方が、恵みの言葉によって自分自身を造り上げていただき、恵みを受け継ぐ幸いな者とされたいと願うものです。

「異邦人の女の信仰」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]56章6-8 6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら 7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。 8 追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。 /n[マルコによる福音書]7章24-30節 24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がティルスという地方に来られたところから始まります。ここで、「異邦人の女」がイエス様の足元にひれ伏し、必死の思いで娘にとりついた悪霊を追い出すよう依頼します。しかしイエス様は、「まず、子供達に十分食べさせなければならない。子供達のパンを取って、子犬にやってはいけない」と語ります。つまり「父なる神様の御計画通り、まずユダヤ人(イスラエル民族)に救いの恵みを与えなければならない。まだそれが終っていない。その前に異邦人に救いの恵みを授けることは、神様の秩序に反する」という意味です。その言葉に対して異邦人の女は、イエス様に「主よ」と呼びかけ、イエス様が救い主であることを告白します。(マタイ福音書15章では「主よ、ごもっともです」と、素直に受け止めています)。そして「食卓の下の子犬もパン屑はいただきます。」と続けました。  つまり、イエス様の救いの恵みはとても豊かであるから、私はそれを慕い求めて足元におります。私は異邦人ですがユダヤ人(イスラエルの民)に与えられる恵みのおこぼれなら、いただいても神様のご意志に逆らうことにならないのではないでしょうか。」という機知に富む答えをしたのです。  そこでイエス様は、ご自分を「主」と崇め主の御心を第一にしながらも娘のために癒しを願ったこの異邦人の母親の信仰に答えて下さいました。 /nユダヤ人と異邦人  イエス様が地上から去られた後の弟子達による宣教の歩みが、使徒言行録に記されています。それによりますと、多くのユダヤ人達はイエス様の十字架による死や復活につまずき、イエス様が罪の支配下に置かれている人間を救う為に神様から遣わされた救い主であることを激しく拒み、使徒達の宣教を妨害し、その命さえもねらいました。その結果、福音伝道はユダヤ人だけでなく異邦人にも向けられ、パウロ達の伝道旅行によってアジアからヨーロッパの異邦人に伝えられ、多くの異邦人が救われました。その後、アフリカやアメリカ、更に全世界に告げ知らされていきました。 /n全人類の救いのために  ロマ書11章に「<span style="font-weight:bold;">一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。…神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです</span>」(25・32)とあり、ガラテヤ書3章には「<span style="font-weight:bold;">あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです</span>」(26)とあります。 /nキリスト者は新しいイスラエル  このように、イエス様の十字架と復活による贖いの結果、私達異邦人も、イエス様の名によって神様から子供として、御国の民として認められるようになりました。かつてのユダヤ人・異邦人の区別はなくなり、全人類が神様からの救いにあずかる道が開かれました。今や、キリスト者は新しいイスラエル=神の民であり、神様の支配を受ける恵みを与えられています。神の国の住人として、すでに数えられているのです。さらに、主に倣う者として生きるようにと、神様は私達のそれぞれ賜物に応じて期待して下さっています。そのような深い神様の愛に応えていきたいと願っています。 /n神の民としてふさわしく生きよう  かつて、罪に支配されて生きていた時の自分と比べて、今現在の自分は、主の住みたもう「宮」となっているのか、又、自分の欲中心ではなく、御霊によって新たに造り変えられて、「神の国の民」としてふさわしい生き方をしているのだろうか・・など、自分自身の信仰や、日々の生活を吟味したいと思います。  「<span style="font-weight:bold;">何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。</span>」(マタイ6:33)と御言葉にあるように、今週一週間、第一に神様の御心を尋ね求めていけるように、そのように生きる喜びを与えられたいと願っています。

「夜中まで続く宣教」牧師 佐藤 義子

/n[詩編]78編1ー8節 1 わたしの民よ、わたしの教えを聞き/わたしの口の言葉に耳を傾けよ。 2 わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう 3 わたしたちが聞いて悟ったこと/先祖がわたしたちに語り伝えたことを。 4 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう/主への賛美、主の御力を/主が成し遂げられた驚くべき御業を。 5 主はヤコブの中に定めを与え/イスラエルの中に教えを置き/それを子孫に示すように/わたしたちの先祖に命じられた。 6 子らが生まれ、後の世代が興るとき/彼らもそれを知り/その子らに語り継がなければならない。 7 子らが神に信頼をおき/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るために 8 先祖のように/頑な反抗の世代とならないように/心が確かに定まらない世代/神に不忠実な霊の世代とならないように。 /n[使徒言行録]20章1ー16節 1 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。 2 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、 3 そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。 4 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。 5 この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、 6 わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。 7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 12 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。 13 さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。 14 アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。 15 翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。 16 パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。 /nはじめに パウロは、エフェソの町のキリスト者達に別れを告げた後、海を渡り、マケドニア州に向かい、信仰者達を励ましながらギリシャにやってきました。ここで3カ月を過ごし、この期間の多くを実際はコリントの町で過ごしたと考えられています(この時パウロはロマ書を執筆したと伝えられています)。 そしてエルサレムに向かうパウロに、又も彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、パウロはマケドニア州に戻りトロアスで同行者7名と合流し、別の道からエルサレムへ向かうことになりました。この同行者達はエルサレム教会の貧しい人々を助ける為に、それぞれ異邦人教会からの献金を託されてきた各教会の代表でした。(一コリント16:1-、二コリント8:1-参照) /n「騒ぐな。まだ生きている。」 パウロ達一行はトロアスで一週間滞在します。出発の前日の日曜日に聖餐式を行う為、キリスト者達が集まりました。階上の部屋には沢山の灯火がともされ、そこで、パウロの説教が夜中まで続きました。出窓に腰かけて聞いていたエウティコという青年は、説教の途中から眠ってしまい、三階から落ちて「起こしてみると、もう死んで」いました(9節)。 しかし、パウロは彼の上にかがみ込み、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」 と言いました。 パウロの行動は、旧約聖書の預言者エリヤやエリシャ(列王記上17:17-、同下4:18‐)、更にイエス様(マルコ5:35-)のなさった奇跡を思い起こさせます。私達の心は燃えていても肉体は弱いのです。伝道がなされる時、必ずといっていいほど伝道を妨げる出来事が起こります。しかしその時こそ、私達は全てに勝利されたイエス様の御力を信じて歩みたいと思います。 この出来事が起こっても、集会は妨げられることなく予定通り聖餐式が行われ、話は夜明けまで続けられ、青年は生き返りました。 /nパウロの話の内容 パウロはそんなに真剣に、眠ることも忘れて、何を語ったのでしょうか。 この後、エフェソの教会の長老を集めてこのように語る場面があります。「<span style="font-weight:bold;">役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなた方に伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私達の主イエスに対する信仰とを力強く証ししてきたのです</span>」。つまり、彼の知る限りのすべて、体験を通して今も生きて働いておられるイエス・キリストの復活の力、神様に対する悔い改めを迫り(神に立ち帰るように)、困難に負けず、イエス・キリストへの信仰を守り抜くよう勧めたことでしょう。 /n私達の信仰 私達はパウロのように、自分の全存在をかけて、もし可能なら夜中迄、明け方までも、愛する家族に友人に、神に対する悔い改めとイエス・キリストに対する信仰を語り伝えたいと願っているでしょうか。或いは又、パウロの話に熱心に耳を傾ける群れの一員として、その時代に生きていたら、自分も明け方までパウロの話を聞きたかった!と願う、御言葉に対する熱心さがあるでしょうか。   ヨハネの黙示録に良く知られている言葉があります。「<span style="font-weight:bold;">私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている</span>」(3:16)。「<span style="font-weight:bold;">私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼も又、私と共に食事をするであろう。</span>」(同19-20) /nパウロの一人旅 この後、パウロは一人、徒歩でアソスに向かいました。神様と向き合う静かな時を必要としたのでしょう。とどまることのない、疲れを知らないパウロの伝道は、「<span style="font-weight:bold;">生きるとすれば主の為に生き、死ぬとすれば主の為に死ぬ</span>」(ロマ14:8)彼の信仰からくるものですが、その源は、主イエスと同じように、一人、神と過ごす祈りの時でした。 信仰は「<span style="font-weight:bold;">求めよ、そうすれば与えられ</span>」ます(マタイ7:7)。私達も、神様から力をいただいて、愛する人達に、イエス様のことを力強く証ししていきましょう。

「手で造ったものは神ではない」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]115編1-8節 1 わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。 2 なぜ国々は言うのか/「彼らの神はどこにいる」と。 3 わたしたちの神は天にいまし/御旨のままにすべてを行われる。 4 国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。 5 口があっても話せず/目があっても見えない。 6 耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。 7 手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。 8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。 /n[使徒言行録]19章21-40節 21 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。 22 そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。 23 そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。 24 そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。 25 彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、 26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。 27 これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」 28 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。 29 そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。 30 パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。 31 他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。 32 さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。 33 そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。 34 しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。 35 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。 36 これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。 37 諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。 38 デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。 39 それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。 40 本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。 /nはじめに  今日の箇所は、パウロの最後(三回目)の伝道旅行中に、エフェソの町で起こった出来事が記されています。この出来事を学ぶ前に、21節の言葉に注目したいと思います。「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」。  この、○○しなくてはならないという強い決心は、単なる人間の思い、計画ではなく、神様から与えられた使命の確信と言えます(参照:使徒言行録20:22「私は霊に促されてエルサレムに行きます」)。パウロは行動する前に祈り、聖霊の導きによって進みます。たとえ、見えるところでは最善とは言えない状況であっても、「ねばならない」という使命から来る確信の中、パウロは突き進んでいきます。パウロの最終的使命は、全ての人がキリストと出会い、キリストの弟子へと変えられることでした。  これはパウロだけに与えられた使命ではなく、イエス・キリストを信じる私達キリスト者すべての使命でもあります。 /nただならぬ騒動  エフェソの町には、あらゆる命あるものの養母とされている女神アルテミスや、女神が祭られている大きな神殿(縦横が120mと70m、高さ19mの、128本の柱に囲まれている神殿)がありました。そのエフェソの町で、パウロは「手で造ったものなどは神ではない」(26節)と語りました。その為、デメトリオ(神殿の銀の模型や、神々の銀の模造を奉納品として、又、巡礼者の土産品やお守りの作成と販売の為、多くの美術工芸職人と労働者を雇う事業家)が、キリスト教伝道の反対運動を起こしたのです。  彼は、キリスト教伝道の結果、自分達の収入が減り、仕事の評判が悪くなり、人々から尊敬を受けなくなり、更に、アルテミスの女神の威光と有名な神殿への誇りがないがしろにされる、と、同業者達に訴えたのでした。銀細工人の抗議集会は、パウロの同行者二人を捕え、一般市民を巻き込んで野外劇場(25,000人収容)になだれ込み、集会は混乱し、大多数の者は何の為に集まったのかさえ分からなくなり、2時間もの間、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と、叫び続けました(34節)。 /nパウロを助けた二人  パウロは捕えられた仲間のために、野外劇場の中に入っていこうとしましたが、町の高官で、パウロの友人達が、パウロのその行為を止めました。この混乱する集会を治めたのは町の書記官でした。彼は人々を、「エフェソの町がアルテミスの女神と神殿の守り役であることを否定できないのだから、静かにしなさい」となだめ、人々が捕えたパウロの同行者達は神殿荒らしでも女神を冒涜したのでもないと説得し、もし訴え出たいならば、正式な法的手段を経て正式な会議で解決するよう指導し、ローマの国家管理は、このような暴動を許さないだろうと警告しました。 /n「手で造ったものは神ではない」  騒動のきっかけとなった「手で造ったものなどは神ではない」という言葉は真実です。それは詩編115篇でも、又イザヤ書44章にも記されている通りです。遠いエフェソに限らず、この日本でも手で造った神が溢れています。神社仏閣の近辺では、偶像やお守りを造り、商売で生計を立てている人達は数えきれないでしょう。私達も又、伝道する時、このように直接相手の利害にふれることもあるかもしれません。しかし、聖書は、時が良くても悪くても福音を伝えることを命じています(二テモテ4:2)。私は前任地で、お寺の長男の方が洗礼を受ける場に立ち会いました。  パウロがこの騒動から守られたのは、エフェソの町の友人と書記官を通してですが、その背後に主が共におられたからです。私達も、共にいて助けて下さる主を信じて、手で造ったものはまことの神様ではないことを知らせ、「本当の神様」を、大胆に宣べ伝える者にされたいと思います。

「信仰の中の不信仰」 鈴木 裵善姫 牧師(石巻山城町教会)

/n[士師記]11章29-40節 29 主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。 30 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、 31 わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」 32 こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。 33 彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。 34 エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。 35 彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」 36 彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」 37 彼女は更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」 38 彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。 39 二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。 40 来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。 /n[ローマの信徒への手紙]8章12-17節 12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 /nはじめに  教会の本棚を整理する内に、「神様への手紙」というアメリカの小さな子供達が神様に手紙を書いた、小さな童話のような本2冊を見つけました。「神様、前にも手紙書いたよね。覚えてる? さて、僕は約束したことはちゃんとやりました。でもあなたは、まだ僕に約束した馬を送ってくれません。どうなってる?」「もしアラジンみたいな魔法のランプをくれたら、あなたの欲しいもの何でもあげるよ。ただしお金とチェスのセットはだめ。」「神様、もしカメラを送ってくれたら僕も代わりに良いものあげます。」大抵はこのようなもので、いろいろなことが書かれています。  これは本当に子供らしく天真爛漫な祈りで、私達に微笑を与えてくれますが、その内容は条件つきの祈りになっています。しかしよくよく考えてみると、大人である私達もいつのまにかこのような祈りをしているのではないでしょうか。ヤコブが野原で石枕をして夢を見た後、神様に「私を無事に帰るようにして下さるならば十分の一を捧げます。」という祈り(創世記28:20)、又、マルチン・ルターが雷で死にそうになった時、「神様、もし私の命を救って下さるならば修道士になります。」という祈りも有名です。いろいろな危機や困難に直面すると、私達は「神様、こうして下さるならば、私はこうします」というような祈りが自然に出てくる時があり、ある面、純粋な私達の気持の表れでもあり、そのような祈りを神様が聞いて下さることもあります。しかしこれは、危機に直面して自分でも分からず出た祈りであって、それが常にささげられる「祈り」であるならば問題があると言えます。子供なら子供らしさを感じますが大人がそのような祈りを続けるならば、キリスト教信仰を間違って理解する幼稚な祈りといえます。今日は、一国の指導者であったにも拘わらず、そのような祈りで悲劇的な結末を迎えた「エフタ」を通して、私達の信仰を確かめたいと思います。 /n士師記  イスラエルは、エジプトの奴隷の生活を400年間強いられ民は苦しんで神様に叫びました。神様はその叫びを聞き、モーセを通してイスラエルの人々をエジプトから解放しカナンの地に導きました。イスラエルの人々はさまざまな奇跡を味わい、荒野での生活を通して神様の臨在を体験したにもかかわらず、カナンの地に入ると異邦人達の文化やその風習、又、偶像崇拝の罪悪に染められていきました。神様が警告し憎まれた他の神々を礼拝し、カナンの宗教的な慣習に同化されていきました。その都度、神様は他の国々を興し、イスラエルを苦しめ侵略するように仕向け、その危機の中でイスラエルが神様に立ち帰るようにされました。  危機に直面すると、神様は一人の指導者を選び、彼を通して神様の御旨を伝え、神様に背いた状態から正しい信仰に戻るように神様の愛を一生懸命に訴え、神様の前で正しく生きることが何であるかを教えて無理やりにでも引き戻す、そのような過程がよく描かれています。  人間は、罪を多く行ない背く存在であることを示しています。それにも拘わらず神様は、イスラエルをご自分の民として選ぶのをあきらめない。どうにかして自分が選んだ民を、様々な試練や問題を通して神様に連れ戻そうとする、その愛と執念が描かれているのが士師記です。 /n試練の意味  皆さんが人生を歩んでいる内に様々な試練に会う。何か上手くいかない。問題が続く。その時はそこに神様の御手が働いておられる。もし、そのまま神様から離れて遠く行くとそれは滅亡の道なので、神様に立ち帰るように。そこにはもっと大きな祝福と恩寵が待っているということを心に留めておきたいと思います。  神様が私達の歩みに介入して下さる。働いて下さる。それが祝福なのです。自分の子供でなければ好き勝手にしてもそのままにしていますが、神様が愛しているゆえに、行く道をふさいで、神様の御許に立ち帰るように促しておられるのです。これこそ神様に選ばれた証拠です。そのことを早く悟れば神様の愛のふところに早く入ることができますが、我が強い人は、自分勝手にあっちこっち行きますので、傷だらけになります。(イスラエルは約束の地まで40年間さまよいました)。そのような人にならないで、「これは神様の御手だ」と捉えて、早く教会に戻ってひざまづいて神様に祈り、悔い改めたなら、神様の暖かい御手が皆さんを立ち上げて下さるのです。 /nギレアドの人、勇者エフタ  今日聖書に出てくるギレアドのエフタは「勇者であった」(11:1)と書かれています。しかし彼は両親の正式な結婚生活の中で生まれた人ではなく、母は遊女でした。当時においては罪人のように無視された女の人から生まれた、そのような背景を持っている人でした。エフタが大きくなると、正妻の子供達から「あなたはよその女の産んだ子だから、私達の父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言って追い出されました。今を生きる私達の世界にも有り得るような話です。エフタには何の罪もなく、ただ出身が悪いというだけで故郷を離れて住まなければならなくなりました。当時、家族や親戚がいる安全な所から離れて一人で暮らすということは、様々な危険を伴う生活でした。家から追い出されたエフタは兄弟達を避けてトブというところで暮らしていましたが、自分のそのような立場を悲観して絶望にくれるのではなく、たくましく生きる道を模索したような気がします。「そのエフタのもとにはならず者が集まり、彼と行動を共にするようになった。」(3節)。それを見るとエフタは力強い勇士でありましたが、賢く、ある面、心が痛んでいる人や世の中で落ちこぼれになった人達をしっかり引き寄せる人柄を持っていたのではないかと思われます。悲しみと痛みを覚えている人々、捨てられた者達が、エフタのもとに集まって来たのです。 /nギレアドの長老達  しばらくしてアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきました。危険にさらされたギレアドの長老達は、エフタを連れ戻そうとやって来ます。「帰って来てください。私達の指揮官になっていただければ、私達もアンモンの人々と戦えます。」(6節)を見ると、エフタの群れが、いかに力強い大きな群れになっていたのかが分かります。当時は王はなく、神様から選ばれた人が、神様の指示に従って、自分の民を治めていました。近隣地域との摩擦が常にあった当時において、強い軍事力と優れた指導力をもった指導者がいるかいないかは、その国の存亡が左右される重要なことであったのです。それでギレアドの長老達は、危機を前にして、自分達が追い出したエフタの所に助けを求めて下ってきたのです。  エフタは「私がアンモン人と戦い、主が彼らを私に渡してくださるなら、この私があなた達の頭になると言うのですね。」と、長老達の話を確かめようとします。それはギレアドの人に対する不信感が残っているような感じがします。勝利の後、いつか又変わるのではないかという気持が見えます。そして、「主が彼らを私に渡してくださるなら」と言うのを見ると、戦いに勝つのは自分の力ではなく、主の力によるものだということをしっかり示しています。エフタの信仰の姿勢が表れているのです。人々から捨てられ、荒野の生活を体験したエフタは、人を頼るのではなく神様に頼っていく、そのような姿勢を常に学んできたのです。  ギレアドの長老達は言います。「主が私達の一問一答の証人です。私達は必ずあなたのお言葉どおりにいたします。」 /n指導者として立つ  このように、遊女の息子として、差別や無視の対象であったエフタは、イスラエルを導く指導者になりました。人間は外面を見て、その人達の出身や持っているものを見ますが、神様はその人の心の中心を見ているのです。ギレアドに戻ってきたエフタは、まず主の御前に出て、自分が言ったことをことごとく繰り返す姿があります。エフタは主の御前で、今までの全てのことを、自分の心情をことごとく神様に告げています。  エフタがいかに勇敢な人であっても、一国の軍隊と戦うことが心にいかに大きな負担になったのか分かります。彼は人々が頼るほど大 きな力を持っていたようであっても、この戦争を前にして、本当に小さな惨めな心になって、神様の前で一日、ことごとく、その戦争について話をしているのです。つまり、祈っているのです。アンモンの王は、戦いの理由を、昔イスラエルがエジプトから上って来た時、アンモンの国土を奪ったから、今、それを平和に返還せよ、と伝えてきました。これに対してエフタは使者を送り、アンモンの王の話が間違っていることを詳しく、歴史的な事実を用いて反論をします。それを見ると、エフタは緻密にいろいろなことを考え、戦争を避けようとする様子までも見せています。  しかしアンモン王はエフタの話を聞こうともせず、戦争を仕掛け、ついには戦わなければならなくなりました。その時「主の霊がエフタに臨んだ」(29節)とあります。イスラエルの民のために戦う為に、「主が共におられる」。そのような「しるし」が与えられました。 /nエフタの誓い  エフタは兵を集めます。その時エフタは主に誓いを立てています。 >> 「もしあなたがアンモン人を私の手に渡してくださるなら、私がアンモンとの戦いから無事に帰るとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」 <<  そしてエフタは、アンモンと戦い、徹底的な勝利をおさめます。勝利の喜びをもって帰ってきたエフタの前に彼を迎えたのは、喜びに溢れて踊りながら家から出てきた彼の一人娘でした。突然、勝利の喜びは、悲劇に変わりました。イスラエルには人を神様に献げるというような習慣はないのです。しかしここにそのようなことが書かれているのは、当時、異教の宗教の儀式が、一時的にイスラエルにも入って来たのではないか、と聖書学者達は解釈しています。  一人娘を失うエフタの悲しみ。父親の話を聞いた一人娘は、その父親の誓いに素直に従いますが、悲しみが込められているこの娘の話は、読む者を残念な気持にさせるのです。 /n信仰の中の不信仰  今日、この話が私達に示して下さることは何でしょうか。  勇士エフタは、だんだん敵の兵が近づいてくるのを見ながら、「神様、あなたがアンモン人を私の手に渡して下さるなら、・・の者を献げます」と祈りましたが、この祈りには、主の助けを信じていながらも、敵を前にして、敵に対する恐ろしさと不安にゆれているエフタの気持が感じられます。あせる気持で、勝利に対する願いをしながら、その代価として何かを神様に献げるという条件つきの誓いを立ててしまうのです。「勝利に対する保証」を得ようとする緊張感と焦りが感じられます。いかなる犠牲を払っても、神様の助けを求めなければならないという危機感と真剣さの余り、このような誓いをしてしまったのです。  これこそ、私達信仰者が持っている、「信仰の中の不信仰」なのです。 /n「主の霊」が臨み、「神、共にいます」にもかかわらず・・  エフタをイスラエルの頭にしたのは、人間の業を通して働いて下さる神様のご計画によるものでした。エフタに主の霊が臨み、エフタも主が自分とイスラエルと共におられるのを確信していました。それなのに、あまりの不安に、「神様、私がこのようにしますから、このようにして下さい」と幼稚な祈りをしているのです。神様は人間の何かを必要とする方ではなく、人間の行為によって動かされる方でもありません。私達が無理な誓いを立てることによって願いがかなえられたり、神様の御心が変えられることはありません。  痛みと苦しみを覚えながらも、誓いを実行しようとするエフタとその娘・・誠実な信仰の姿が見えますが、信仰者でありながらも不信仰な態度をとったその代価は大きなものでした。 /nロマ書8章12-17を通して  神様は愛のゆえに、私達を愛して下さるから独り子イエスをこの世に送って下さいました。神様の人間に対する一方的な恵み、憐れみによって私達は救われたのです。私達は主イエス・キリストによって神様の子になりました。私達は神様の子として、父なる神の相続者としての身分が与えられました。それで、「アバ父よ」と神様を呼ぶのです。子供が「パパ」とお父さんを呼ぶように神様を呼び、すがりついて頼む。そのような祝福が与えられているのです。私達が神様を愛し、神様に私自身を献げ、奉仕し、礼拝を守り、主の体である教会の為に働くということは、そのような神様に繋がれ、そのような神様に応えてゆくのです。  この世には、私達を不安にさせるもの、いろいろな問題があり、誘惑に満ちています。しかし、全ての戦いに勝たせて下さる、そのような神様に自分自身を投げる、委ねる、進み出る者には、必ず勝利があります。

「神の言葉と人間の言い伝え」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]29章13-16節 13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。 14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」 15 災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。 16 お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と。 /n[マルコによる福音書]7章1-23節 1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 16 *聞く耳のある者は聞きなさい。 17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 /nはじめに  今日の聖書は、当時、イスラエル社会で尊敬されていたファリサイ派と律法学者達が、イエス様の弟子達のあり方を見て、イエス様が、間違った教えを説いているとし、糾弾しようと質問したところから始まります。イエス様は彼らの質問に対して、旧約聖書の「イザヤ書」や「十戒」を取り上げながら、彼らの根本的な間違いを指摘しました。  ファリサイ派達は、自分達を「選民・イスラエル」の民として「聖さ(きよさ)」を重視する余り、宗教上の儀式だけでなく日常生活にまで細かい規定を作り、それを「昔の人の言い伝え」として人々にも守るよう求めていました。しかしイエス様は、その「言い伝え」を守っている彼らの心は、旧約聖書の精神から離れ、もはや神様の御心に従うものではなくなっていることを見抜かれ、「<span style="font-weight:bold;">あなた達は自分の言い伝えを大事にして、よくも神のおきてをないがしろにしたものである。</span>」(9節)「<span style="font-weight:bold;">あなた達は、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。</span>」(13節)と言われました。 /n「<span style="font-weight:bold;">人から出て来るものこそ、人を汚す</span>」  それから、イエス様は再び群衆を呼び寄せて、新しい「神様の言葉」を教えられました。それは「<span style="font-weight:bold;">外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。</span>」(15節)です。群衆と別れた後、弟子達はこのたとえの意味についてイエス様に尋ねました。イエス様は、人の体に入るものとは「食べ物」であり、それらは心に入らず、お腹を通って外に出されるゆえに、「食べ物は」清められる。それに対して、人から出て来るものは人を汚す。それは、人の中から、人間の心から、悪い思いが出てきて、悪い行ないを引き起こして人を汚すと教えられました(19節)。 /n清いものと汚れたもの  イスラエルの人々には、食べてよい物(清い物)と、食べてはいけない物(汚れた物)の区別が明確に規定されていました。(参照:レビ記11章)。彼らは自分を清く保つ為に、清くないものと言われるものは口にしませんでした。それに対してイエス様は、「口から入るものはどんなものでも全て外に出される。だから、食べ物によって人が汚れるということはない」と教えられ、他方、「人の中から出てくる悪い思いや、さまざまの悪徳こそが人に悪の働きをさせ、人を汚すものである」ことを教えられたのです。<悪のリストについては、ロマ書1:29-、ガラテヤ書5:19-、一テモテ書1:9-、二テモテ書3:2-など参照>。 /n私達へのメッセージ  今日の聖書に登場したファリサイ派や律法学者達と、現代の私達が陥りやすい共通点は何でしょうか? それは「信仰の形骸化」、形式主義です。日曜日の礼拝を例として考えてみましょう。  日曜日に教会に集い、礼拝を捧げる本来の目的は、創造主であり、私達に命を与え、生かして下さっている神様を賛美し、御名をほめたたえることです。一週間の歩みが守られたことを感謝し、ざんげの祈りをささげることでイエス様の贖いによって罪を赦していただいたことを確認し、更に御言葉によって神様につながっている喜び、仕える喜びを与えられ、さらには兄弟姉妹たちと共に一つにされて、真理と霊によって神様を礼拝することが許されているという喜びを実感することです。  神様を求める者にとっては、礼拝が神様との出会いの場でもあります。御言葉を通して今も生きて働いておられる神様から力をいただき、神様を知らない人々に、広く伝えていく励ましを与えられる時でもあります。  もし、形式主義に陥り「日曜日に教会(礼拝)に、行きさえすればそれで良し」と満足してしまうならば、そこには礼拝する目的が見失われ、喜びも感謝もないまま礼拝行為が形式化され、形式的な礼拝が続く時に、ファリサイ派や律法学者のように、神様の御心から遠く離れて、神様中心ではなく、勝手な理屈を並べて人間中心に、罪へと陥っていくのです。心から喜びと感謝をもって礼拝に集う為に、日々の生活を始める前に、まず神様の御声(聖書)を聴き、祈る時間と空間を持ち、又、神様を知らなかった過去の自分を思い起こし、今の自分を感謝したいと思います。

「魔術に対する福音の勝利」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書] 48章17-19節 17 イスラエルの聖なる神/あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神/わたしはあなたを教えて力をもたせ/あなたを導いて道を行かせる。 18 わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。 19 あなたの子孫は砂のように/あなたから出る子らは砂の粒のように増え/その名はわたしの前から/断たれることも、滅ぼされることもない。 /n[使徒言行録] 19章11-20節 11 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。 12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。 13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。 14 ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。 15 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」 16 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。 17 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。 18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。 19 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。 20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。 /n終戦記念日(敗戦記念日)  私達は8月の第一日曜日を「平和聖日」として、「平和」について学びましたが、今日は8月15日ですので、「戦争」と「死」について、少し考えたいと思います。  イエス様の教えの根本は、神を愛することと隣人を愛することですから、愛から戦争が生れることはありません。  その一方でイエス様は、戦争は終末の前兆として必ず起こることを予告しています。「<span style="font-weight:bold;">戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。・・・最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終りが来る</span>」(マタイ24:6-)。  私達はイエス様から「<span style="font-weight:bold;">平和をつくり出す人たちは、幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。</span>」(口語訳 同5:9)と期待されていますが同時に、戦争が終末の前兆であることを知り、いつも目を覚ましていなければなりません(同24:44)。 /n「死」について  「死」については、聖書はどう語っているのでしょうか。ロマ書には、「<span style="font-weight:bold;">罪が支払う報酬は死です</span>」(6:23)とあり、私達が死ぬのは罪の結果であると教えています。さらに、「<span style="font-weight:bold;">私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストは もはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません</span>」とあります(同8-9節)。  イエス・キリストを信じる者はイエス・キリストの復活にもあずかります。神様を信じ、神様が私の罪を赦す為に御子イエス・キリストを、私の為に遣わされたことを信じる者に、「<span style="font-weight:bold;">私を信じる者は、死んでも生きる</span>」(11:25)と語られた「永遠の命」が与えられています(ヨハネ福音書3:15-17)。それゆえに、もはや死は恐怖ではなく、死は地上の世界から、来るべき世界へと移される「通過点」にすぎないことを覚えたいと思います /n「イエスのことは知っている。だが、お前たちは何者だ」(悪霊の言葉)  さて本日の聖書では、ユダヤ人の祈祷師達の出来事が書かれています。ユダヤ人の祈祷師とは、ユダヤ教の信仰を捨て、おまじないをする者として各地を巡り歩いていた人々です。パウロの「イエス・キリストの名による奇跡」を見た祈祷師達は、「イエスの名」を、自分達が使っている呪文と同じように考えたようです。彼らは、正当さも真理もなしに、そして信仰もないままパウロをまねて、悪霊につかれた男に向かって「イエスによって命じる」とその名を用いました。その結果、名前だけを乱用する祈祷師達を、悪霊自身が見抜き、悪霊につかれた男に祈祷師達を襲わせたのです。この出来事によって、イエス・キリストの名には力があり、偽物は暴露されることがおおやけになり、この事件は人々に恐れを抱かせ、イエス・キリストの御名が崇められる結果となりました。 /n罪の告白と、それに伴う実践  福音が入っていくところでは「罪の告白」が生れます。生れながらの人間は例外なく告白すべき罪を持っており、福音を聞く時、その犯してきた罪を神様の前に告白して罪の赦しをいただくことで、信仰生活のスタートをきります。ここでは多くの魔術や呪術を行ってきた人達が、自分達のやってきたことは間違いであったことを告白したのです。そしてこの告白には真剣な行為が伴いました。それは、これ迄自分達が大切に使ってきたあらゆる魔術の手引書や異教的書物など、全てを焼き捨てたのです(全部で銀貨5万枚の価値)。福音が入り、罪の告白がなされた所には、それまで生きてきた古い世界との決別が明らかにされます。 /n「<span style="font-weight:bold;">悔い改めて福音を信じなさい</span>」(マルコ1:15)  私達がイエス様を信じ、イエス様に従うことは、古い世界との決別を意味します。銀貨5万枚相当の書物を焼失しても尚、価値ある福音とは、この悪の世から私達を救い出し(ガラテヤ1:4)、真理の道に導き、永遠の命を与える力を内に秘めています。全財産を投げ出しても手に入れる価値のある「福音」です。ここにおられる全ての方が「<span style="font-weight:bold;">悔い改めて福音を信じなさい</span>」とのイエス様の呼びかけに、応えることを願うものです。