「神の言葉と人間の言い伝え」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]29章13-16節 13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。 14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」 15 災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。 16 お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と。 /n[マルコによる福音書]7章1-23節 1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 16 *聞く耳のある者は聞きなさい。 17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 /nはじめに  今日の聖書は、当時、イスラエル社会で尊敬されていたファリサイ派と律法学者達が、イエス様の弟子達のあり方を見て、イエス様が、間違った教えを説いているとし、糾弾しようと質問したところから始まります。イエス様は彼らの質問に対して、旧約聖書の「イザヤ書」や「十戒」を取り上げながら、彼らの根本的な間違いを指摘しました。  ファリサイ派達は、自分達を「選民・イスラエル」の民として「聖さ(きよさ)」を重視する余り、宗教上の儀式だけでなく日常生活にまで細かい規定を作り、それを「昔の人の言い伝え」として人々にも守るよう求めていました。しかしイエス様は、その「言い伝え」を守っている彼らの心は、旧約聖書の精神から離れ、もはや神様の御心に従うものではなくなっていることを見抜かれ、「<span style="font-weight:bold;">あなた達は自分の言い伝えを大事にして、よくも神のおきてをないがしろにしたものである。</span>」(9節)「<span style="font-weight:bold;">あなた達は、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。</span>」(13節)と言われました。 /n「<span style="font-weight:bold;">人から出て来るものこそ、人を汚す</span>」  それから、イエス様は再び群衆を呼び寄せて、新しい「神様の言葉」を教えられました。それは「<span style="font-weight:bold;">外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。</span>」(15節)です。群衆と別れた後、弟子達はこのたとえの意味についてイエス様に尋ねました。イエス様は、人の体に入るものとは「食べ物」であり、それらは心に入らず、お腹を通って外に出されるゆえに、「食べ物は」清められる。それに対して、人から出て来るものは人を汚す。それは、人の中から、人間の心から、悪い思いが出てきて、悪い行ないを引き起こして人を汚すと教えられました(19節)。 /n清いものと汚れたもの  イスラエルの人々には、食べてよい物(清い物)と、食べてはいけない物(汚れた物)の区別が明確に規定されていました。(参照:レビ記11章)。彼らは自分を清く保つ為に、清くないものと言われるものは口にしませんでした。それに対してイエス様は、「口から入るものはどんなものでも全て外に出される。だから、食べ物によって人が汚れるということはない」と教えられ、他方、「人の中から出てくる悪い思いや、さまざまの悪徳こそが人に悪の働きをさせ、人を汚すものである」ことを教えられたのです。<悪のリストについては、ロマ書1:29-、ガラテヤ書5:19-、一テモテ書1:9-、二テモテ書3:2-など参照>。 /n私達へのメッセージ  今日の聖書に登場したファリサイ派や律法学者達と、現代の私達が陥りやすい共通点は何でしょうか? それは「信仰の形骸化」、形式主義です。日曜日の礼拝を例として考えてみましょう。  日曜日に教会に集い、礼拝を捧げる本来の目的は、創造主であり、私達に命を与え、生かして下さっている神様を賛美し、御名をほめたたえることです。一週間の歩みが守られたことを感謝し、ざんげの祈りをささげることでイエス様の贖いによって罪を赦していただいたことを確認し、更に御言葉によって神様につながっている喜び、仕える喜びを与えられ、さらには兄弟姉妹たちと共に一つにされて、真理と霊によって神様を礼拝することが許されているという喜びを実感することです。  神様を求める者にとっては、礼拝が神様との出会いの場でもあります。御言葉を通して今も生きて働いておられる神様から力をいただき、神様を知らない人々に、広く伝えていく励ましを与えられる時でもあります。  もし、形式主義に陥り「日曜日に教会(礼拝)に、行きさえすればそれで良し」と満足してしまうならば、そこには礼拝する目的が見失われ、喜びも感謝もないまま礼拝行為が形式化され、形式的な礼拝が続く時に、ファリサイ派や律法学者のように、神様の御心から遠く離れて、神様中心ではなく、勝手な理屈を並べて人間中心に、罪へと陥っていくのです。心から喜びと感謝をもって礼拝に集う為に、日々の生活を始める前に、まず神様の御声(聖書)を聴き、祈る時間と空間を持ち、又、神様を知らなかった過去の自分を思い起こし、今の自分を感謝したいと思います。

「魔術に対する福音の勝利」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書] 48章17-19節 17 イスラエルの聖なる神/あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神/わたしはあなたを教えて力をもたせ/あなたを導いて道を行かせる。 18 わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。 19 あなたの子孫は砂のように/あなたから出る子らは砂の粒のように増え/その名はわたしの前から/断たれることも、滅ぼされることもない。 /n[使徒言行録] 19章11-20節 11 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。 12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。 13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。 14 ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。 15 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」 16 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。 17 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。 18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。 19 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。 20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。 /n終戦記念日(敗戦記念日)  私達は8月の第一日曜日を「平和聖日」として、「平和」について学びましたが、今日は8月15日ですので、「戦争」と「死」について、少し考えたいと思います。  イエス様の教えの根本は、神を愛することと隣人を愛することですから、愛から戦争が生れることはありません。  その一方でイエス様は、戦争は終末の前兆として必ず起こることを予告しています。「<span style="font-weight:bold;">戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。・・・最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終りが来る</span>」(マタイ24:6-)。  私達はイエス様から「<span style="font-weight:bold;">平和をつくり出す人たちは、幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。</span>」(口語訳 同5:9)と期待されていますが同時に、戦争が終末の前兆であることを知り、いつも目を覚ましていなければなりません(同24:44)。 /n「死」について  「死」については、聖書はどう語っているのでしょうか。ロマ書には、「<span style="font-weight:bold;">罪が支払う報酬は死です</span>」(6:23)とあり、私達が死ぬのは罪の結果であると教えています。さらに、「<span style="font-weight:bold;">私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストは もはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません</span>」とあります(同8-9節)。  イエス・キリストを信じる者はイエス・キリストの復活にもあずかります。神様を信じ、神様が私の罪を赦す為に御子イエス・キリストを、私の為に遣わされたことを信じる者に、「<span style="font-weight:bold;">私を信じる者は、死んでも生きる</span>」(11:25)と語られた「永遠の命」が与えられています(ヨハネ福音書3:15-17)。それゆえに、もはや死は恐怖ではなく、死は地上の世界から、来るべき世界へと移される「通過点」にすぎないことを覚えたいと思います /n「イエスのことは知っている。だが、お前たちは何者だ」(悪霊の言葉)  さて本日の聖書では、ユダヤ人の祈祷師達の出来事が書かれています。ユダヤ人の祈祷師とは、ユダヤ教の信仰を捨て、おまじないをする者として各地を巡り歩いていた人々です。パウロの「イエス・キリストの名による奇跡」を見た祈祷師達は、「イエスの名」を、自分達が使っている呪文と同じように考えたようです。彼らは、正当さも真理もなしに、そして信仰もないままパウロをまねて、悪霊につかれた男に向かって「イエスによって命じる」とその名を用いました。その結果、名前だけを乱用する祈祷師達を、悪霊自身が見抜き、悪霊につかれた男に祈祷師達を襲わせたのです。この出来事によって、イエス・キリストの名には力があり、偽物は暴露されることがおおやけになり、この事件は人々に恐れを抱かせ、イエス・キリストの御名が崇められる結果となりました。 /n罪の告白と、それに伴う実践  福音が入っていくところでは「罪の告白」が生れます。生れながらの人間は例外なく告白すべき罪を持っており、福音を聞く時、その犯してきた罪を神様の前に告白して罪の赦しをいただくことで、信仰生活のスタートをきります。ここでは多くの魔術や呪術を行ってきた人達が、自分達のやってきたことは間違いであったことを告白したのです。そしてこの告白には真剣な行為が伴いました。それは、これ迄自分達が大切に使ってきたあらゆる魔術の手引書や異教的書物など、全てを焼き捨てたのです(全部で銀貨5万枚の価値)。福音が入り、罪の告白がなされた所には、それまで生きてきた古い世界との決別が明らかにされます。 /n「<span style="font-weight:bold;">悔い改めて福音を信じなさい</span>」(マルコ1:15)  私達がイエス様を信じ、イエス様に従うことは、古い世界との決別を意味します。銀貨5万枚相当の書物を焼失しても尚、価値ある福音とは、この悪の世から私達を救い出し(ガラテヤ1:4)、真理の道に導き、永遠の命を与える力を内に秘めています。全財産を投げ出しても手に入れる価値のある「福音」です。ここにおられる全ての方が「<span style="font-weight:bold;">悔い改めて福音を信じなさい</span>」とのイエス様の呼びかけに、応えることを願うものです。

「聖霊によるバプテスマ」 牧師 佐藤義子

/n[エゼキエル書]11章18-20節 18 彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。 19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。 20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 /n[使徒言行録]18章24節-19章10節 18: 24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。 25 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。 26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。 27 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。 28 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。 19: 1 アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、 2 彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 3 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。 4 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」 5 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。 6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。 7 この人たちは、皆で十二人ほどであった。 8 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。 9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。 10 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。 /nはじめに  パウロは第二回目の伝道旅行からアンティオキアに戻ったあと、再び、第三回目の伝道旅行に出かけて行きました。パウロがエフェソに到着する前に、アポロという聖書にくわしい雄弁家がエフェソに来て、伝道していました。「<span style="font-weight:bold;">彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった</span>」(25節)。アポロが、ヨハネのバプテスマしか知らなかったということは、伝道者としては不十分でした。アポロの話を聞いていたアキラとプリスキラ夫婦は、アポロを、エフェソにある自分達の家に招き、更にくわしく神の道を説明して教えました。夫婦は、パウロが教えたイエス・キリストについて、救いについて、聖礼典についてていねいに語ったことでしょう。 /n主イエスを神の子・救い主と信じる信仰  アポロが「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」とはどういうことでしょうか。19章4節で、パウロはこのように言っています。 >> 「<span style="font-weight:bold;">ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。</span>」 << 悔い改めのバプテスマは、救われる為には不可欠のものですが、あくまでもイエス様を心の内にお迎えする準備段階です。本当のバプテスマは、イエス様を自分の救い主として信じ、告白することによって、罪が赦されて、聖霊が与えられるのです。  悔い改めとは方向転換です。今まで歩んできた方向をぐるりと180度回転して、逆の方向に向き返ることです。自己中心に生きてきた者が、ぐるりと回転して、今度は神様を中心にして歩み始めることです。たとえるならば、バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めて、方向転換は出来た状態です。しかし、イエス様を信じる信仰告白によって与えられる罪の赦しと、聖霊はまだ与えられていない状態といえるでしょう。 /n「信仰に入った時、聖霊を受けましたか」  アポロがエフェソを去った後、パウロがエフェソに到着して何人かのキリスト者に出会い、彼らに一つの質問をしています。それは、「<span style="font-weight:bold;">信仰に入った時、聖霊を受けましたか</span>」という質問です。彼らは「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えました。ガラテヤ書で、パウロはこう書いています。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。</span>」又、ロマ書ではこう書いています「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。</span>」 /n主イエスの名による洗礼(5節)  パウロと出会った人達はパウロの言葉を受け入れて、今度は、「主イエスの御名」によって洗礼を受けました。彼らはこの時、主イエスへの信仰と、洗礼と、聖霊の賜物についてパウロから学んだことでしょう。そしてパウロが彼らの上に手を置くと、彼らに聖霊が降りました。 /n伝道に遣わされる者  私達の洗礼は、「<span style="font-weight:bold;">父なる神と子なる神と聖霊なる神の御名</span>」によって授けられます。信仰告白と洗礼は「神の業」であり、教会はその「業」を委託されています。伝道の担い手は、テント職人のアキラ夫婦が、アポロに自分達の信じる福音を伝えたように、すべてのクリスチャンが、その担い手として遣わされています。伝道は自分の力でしようとすれば、疲れ、長続きしません。「私がここにおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)と、心を神さまに向けて祈り、その準備がある時、神様は聖霊の導きの中で、「良き証し人」として私達を用いて下さいます。悔い改めのバプテスマに終わらず、主イエスを信じる告白と共に聖霊の導きが豊かに与えられ、今週もその中で歩みたいと願うものです。

「神の御心ならば」  牧師 佐藤義子

/n[箴言]3章5-8節 5 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。 7 自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。 8 そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり/あなたの骨は潤されるであろう。 /n[使徒言行録]18章12-23節 12 ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、 13 「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。 14 パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、 15 問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」 16 そして、彼らを法廷から追い出した。 17 すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。 18 パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。 19 一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。 20 人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、 21 「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。 22 カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。 23 パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。 /nはじめに  日本キリスト教団は、毎年8月の第一日曜日を平和聖日と定めています。イエス様が語られた言葉に、「<span style="font-weight:bold;">平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる</span>」。(口語訳では、「<span style="font-weight:bold;">平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。</span>」)があります。使徒言行録10章には、「<span style="font-weight:bold;">神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせる</span>」とあります。  多くの人々は、戦争さえなくなれば平和が来ると信じています。しかし、たとえ戦争がなくなったとしても、イエス・キリストの福音を知らず、愛も赦しも存在しないところには、真の平和はやってきません。私達人間は、長い間、善悪を知りながら、神様に不従順を繰り返す、神様に敵対する存在でした。その関係を打ち破ったのがイエス様です。何の罪をも犯さなかった神の御子・イエス様が、十字架の死をもって全ての人の罪を神の前につぐなったのです。それにより私達は神様から赦しが与えられ、神様との間に平和の道が備えられました。私達の罪の為にイエス様が十字架上で死なれ血を流された、その大きな愛を知る時に、私達は悔い改めへと導かれます。そして死からよみがえり、死に勝利されたイエス様を信じて歩む時に、神様から来る、真の平和の道を歩くことができるようになります。  この平和の道を歩んだ聖フランシスの祈りをご紹介します。 ________________________________________________________________________________ 「<span style="font-weight:bold;">素朴な祈り(原題)</span>」 (訳:RUSTICO) おお主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。   憎しみのあるところに、愛を持って行かせて下さい。   争いのあるところに、ゆるしを持って行かせて下さい。   分裂のあるところに、一致を持って行かせて下さい。   疑いのあるところに、信仰を持って行かせて下さい。   誤りのあるところに、真理を持って行かせて下さい。   失望のあるところに、希望を持って行かせて下さい。   悲しみのあるところに、喜びを持って行かせて下さい。   闇のあるところに、光を持って行かせて下さい。 おお主よ、私が多くを求めないようにしてください。   慰められるより、慰めることを、   わかってもらうことより、わかることを、   愛されるより、愛することを(求めさせて下さい)。 与えるからこそ、与えられ、   ゆるすからこそ、ゆるされ、   死ぬからこそ、永遠の生命によみがえるのですから。 __________________________________________________________________________ /n訴えられたパウロ  今日の聖書は、始めに、「イエスこそ救い主である」と伝道するパウロに対して、ユダヤ人達が「キリスト教は律法に違反する仕方で人々に教えている」と法廷に訴えた出来事が記されています。ところがパウロが弁明しようとした時、ローマ総督ガリオンは、この訴えが、ユダヤ教内部の教えに関するものであることを見抜き(ローマ法では、国家は宗教に介入しない)、即座に却下してユダヤ人達を法廷から追い出しました。この少し前で(9節)、主がパウロに幻で「<span style="font-weight:bold;">恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だからあなたを襲って危害を加える者はない。</span>」と語られましたが、そのことがここで実現しています。 /n誓願  パウロは、コリントからの帰国の旅の途中で、髪を切りました(18節)。パウロは誓願を立てていたとありますので、これは期限付きの「ナジル人の誓願」と思われます(民数記6章)。特別な誓願を立てる者は、期間中、ブドウ酒も濃い酒も飲まず、頭にかみそりをあててはならないと定められていますので、髪を切ったのは、その期間が終わった為と思われます。パウロは、キリスト者は律法から自由にされていることを語っています。しかし同時に、律法に従うことが、福音の躓きにならない限り、彼はユダヤ人キリスト者としてユダヤ人が守って来た慣習と秩序に従ったことをここで見ます。「<span style="font-weight:bold;">私は誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。</span>」(一コリント9:20) /n神の御心ならば  パウロが、旅の最後にエフェソに立ち寄った時、人々から「もうしばらく滞在してほしい」と懇願されました。が、パウロはそれを断り、「<span style="font-weight:bold;">神の御心ならば</span>、また戻ってきます」と言って別れを告げました。ヤコブ書に「あなた方は<span style="font-weight:bold;">『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』</span>というべきです」とあり、ロマ書12章には「<span style="font-weight:bold;">何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい</span>」と命じています。  神の御心を知る為には、何よりも神様の言葉である「聖書」を、礼拝を通して聴き、又、家庭で繰り返し、繰り返し読むことと、そして祈ることです。自分の思いを優先させるのでなく、まず、神様の御心を第一に問い、御心に従う歩みをさせていただきたいとねがうものです。

「主の御力と私たち」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編]107編29-32節 29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。 30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。 31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 32 民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。 /n[マルコによる福音書]6章45-56節 45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。 53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。 /nはじめに  今日の聖書は「5千人に食べ物を与えた」奇跡の出来事の直後の話です。ヨハネ福音書の記述では(6章)、群衆は、イエス様のその凄い御力を知り「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って熱狂しイエス様を自分達が思い描く「王」として担ぎ出そうとしました。しかし、そのような人々の興奮に巻き込まれることなく、イエス様はご自分のなすべき宣教と人々の救いの為に、一人、山に退かれました。私達の主、イエス様は実に祈りの人です(マルコ1:35、14:32-など)。イエス様の祈る場面に接する度に、いつも祈ることをおろそかにしている自らの姿を思い知らされます。イエス様に罪を赦していただき、主に倣う者として生きることを約束した私達は、イエス様に倣い、毎日の生活の中で神様に向き合う時間を確保しつつ、信仰生活を続けていきたいと思います。 /n逆風の中での弟子達の不信仰  イエス様から、舟に乗って向こう岸まで行くように言われた弟子達は、湖の真ん中まで来た時、逆風が吹いてこぎ悩み、大変難儀していたことが記されています。ガリラヤ湖は、どんなに悪天候でも6時間から8時間で渡り切る距離だそうです。夕方、湖の真ん中にあった船は、遅くても夜中の12時頃には岸に着いているはずでした。しかし夜が明ける頃(原語では午前3時から6時)まで船は嵐の中にありました。陸地に残られていたイエス様は、弟子達の窮状をご覧になり、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子達の所に来られました。これは「愛」の現れであると同時に、海の波をも制する御力を抱く、創造主なる神の御子としてのお姿でもありました。(旧約聖書では創造主としての神の御力を「海を制する力をもつ」ことでも表わした:詩編107:29-32、77編、ヨブ記9章など)。湖上のイエス様は、しかし弟子達のそばを通り過ぎようとされました。恐らくイエス様は、ご自身を示しながら弟子達が従って来ることを期待されたのでしょう。しかしイエス様のお姿を見た弟子達は、幽霊だと思って恐れて叫び「おびえ」(50節)ました。 /n「<span style="font-weight:bold;">安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。</span>」  五千人もの人々を満腹させたイエス様の奇跡を見て弟子達は、イエス様の、神の御子としての御力を体感していたのに、それでもまだイエス様のことを理解していなかったといえるでしょう。しかし、イエス様は「<span style="font-weight:bold;">安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。</span>」と言われました。そして、創造主の御力を持つイエス様が舟に乗りこまれると、波は制され、風は静まったのです。マルコ福音書4章で、弟子達は似たような経験を持っていました。しかしそれでも彼らは、まだわかっていなかったのです。弟子達のその姿は、私達信仰者の姿とも重なり合うのではないでしょうか。  困難な時、試練の時、その出来事だけに心を奪われ、主が私達を忘れずに見ていて下さることを、忘れることが多いのではないでしょうか。主が、助かる方へ導いて下さるのに、主にリードしていただくことを忘れていないでしょうか。 /n癒された人々は・・  湖を渡り終えゲネサレトという土地に着いて舟から上がると、一行を待っていたのはイエス様に救いを求める人々でした。イエス様の名前を聞くと、村でも町でも里でも、人々は病人の癒しを求め、病人を運んで懇願しました。イエス様は、ご自身の御力を信じることを表明する者には、憐みの心を持って癒しを与えられました。しかし病人を連れてきた人や癒された人達が、悔い改めてイエス様に従ったという記述はありません。彼らは自分の都合に合わせて「神様の恵み」のみを求め、自分自身は変わらぬまま、罪の世界にとどまっていたのではないかと思います。 /n「<span style="font-weight:bold;">悔い改めて福音を信じなさい</span>」(マルコ1:15)  イエス様によって救われ、新たにされた私達がまずなすべきことは、この世のやり方から決別し、方向転換する決意をすることです。これを「悔い改め」と言います。そしてより具体的な勧めの言葉がロマ書12章にあります「<span style="font-weight:bold;">・・心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、・・何が完全なことかをわきまえるようになりなさい</span>」。

「新しく造り変えられる」 西谷幸介先生(青山学院大学)

/n[コリントの信徒への手紙二]5章17節 17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 /n[コリントの信徒への手紙二]3章17-18節 17 ここでいう主とは、““霊””のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 /nはじめに  皆さん!今の自分でいいのでしょうか?  これは誰もが自分と向き合い心の奥底で自問する時に、絶えず発せざるを得ない問いです。学生さんで言えば、「とりあえずは家族に守られている。親から愛してもらい、経済的にも何とか支えられている。だから今の自分で問題はない」。働いておられる方で言えば「職場も何とか無事だ。上司や同僚とも適当にうまくやれているし、部下も何とかリード出来ている。家族もそこそこに幸せに暮らしている。だから今の私の在り方で良いはずだ。」・・と感じておられるかもしれません。しかしそのように何とはなしの確認でごまかしがきかないのが、生身の人間としての「私」という人間です。本当にこれで良いのか?と、深く自分に問うている私がいます。 /n私の告白  私自身も過日、家族と会話をしながら、自分自身の「父親」としての在り方について深く反省させられる言葉を受けました。この年になり、なおしようがないと半分居直り気分で苦笑いしながら聞いていましたが、しかしそれでは済まない自分自身がそこにいることも感じました。この年にこんな言われ方をしなければならない自分自身の人間として又、キリスト教徒としてのあり方・・。その根本においてどこか本筋からずれているところがあるのではないかと思わされました。もう一度洗礼を受け直すことは出来ませんが、日々これではいけない、出来れば変わりたい、いや、ここはどうしても変えなければいけないというのが自分で分かっている。そのことを先ず、私自身が告白をしてお伝えしておきます。 /n新たに変わる  この礼拝で改めて申し上げたいのは、キリスト教は、人は神様から人を生かし造り変える霊の力、御霊(みたま)の力をいただいており、そのことによって自分自身が新たに生まれ変わっていくことが出来るし、又そうでなければならないし、又そのことが許されていることを伝える宗教であることです。  そのことを集約した聖書が、最初に読んでいただいたコリントの手紙二、5:17「だから、キリストと結ばれる人は、誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。口語訳では、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎさった、見よ、すべてが新しくなったのである」です。キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された(る)ものなのです。 /n「新しく造られた」  「新しく」と言われる言葉には、あるニュアンスが込められています。新約聖書原語のギリシャ語では「新しい」という言葉には二つあって、一つは「ネオス」、もう一つは「カイノス」といいます。「ネオス」は英語ではニュー(new)という言葉で受け継がれています。  ニューとは、例えば古いテレビをデジタル放送用の新しい機種に変えるなど、新品に取り換えるというような時、使います。ここでの「新しく」は「カイノス」が使われています。それを表わす英語は「フレッシュ」(fresh)です。著者の使徒パウロは、コリントの教会の人々に向かって「誰でもキリストにあるならば、その人はフレッシュに造り変えられるものです。古いものであっても、見なさい、すべてフレッシュになる存在に変わっていくことができるのです。」との言葉を発したのです。  「ニュー」は古いものから新しい違ったものに取り換えるという意味合いが強いのに対して「フレッシュ」は同じものであるのに、古い状態から新鮮な、真新しい状態に変えられるということを意味します。 /n新しいものへの恐怖  私達人間には、多かれ少なかれ、新しいものに対する恐怖心や、おっくうさや嫌悪感というものが潜んでいます。古いもので慣れ親しんできたものの方を心地良いという感覚、態度があります。しかし古いものに留まるという状態が、それにしがみついて離れられないというところまでいきますと、又、多くの弊害が生じてきます。精神医学では、新奇性恐怖症というのがあって、新しいものに全く対応できない病気として確認されています。それを乗り越えさせる根本的な治癒の力としては、人間は新しく変わることが出来るし、変わって良いのだ、そういう認識があるのだ・・そのように思うことが出来れば乗り越えられます。とにかく、人間は「新しく変わり得る」ということへの無知が、啓蒙(けいもう)されなければならないと思います。 /n古い状態(幼虫)から新しい状態(成虫)への変化  人間が造り変えられる、「カイノス」(フレッシュ)ということをしっかり教えてくれるのは、コリントの手紙二の3:18です。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。  ここで「造り変えられていく」というギリシャ語は「メタモルフォーメタ」という言葉です。小学校か中学校の頃、理科の時間に昆虫の変体ということを勉強してメタモルフォーゼ(ドイツ語)という言葉を習いました。その動詞が「メタモルフォーメタ」です。  神様の、霊の力を受けて人間が新しく造り変えられるという時に、今迄の自分とは異なる、ニューなものに取り換えられるというのではなくて、この同じ私が、古い状態から全くフレッシュな状態に変えられていくことを示しています。昆虫が成虫になった姿、幼虫の時の姿とは、とても似つかないほど変化(変体)します。メタモルフォーゼをやり遂げるのです。しかし、神様にいただいた元々の命はそのまま同じものです。 /n日本人の感覚  日本人がキリスト教になかなかなじめないという理由の一つに、キリスト教自体がまだ外国の宗教というイメージで、何となくおっかないという感覚があるかと思います。しかしそれ以上に、キリスト教に入信すると、あまりにも突然、自分が自分でない者にさせられてしまうのではないか・・。そういう感覚が日本人の中にあるのではないかと思います。自分離れ、人間離れ、日本人離れにさせられてしまうのではないか、という恐怖感につきまとわれていることがあるのではないかと思います。  教会で40年以上、キリスト教大学では30年近く、学生・教職員を含めた未信者の方々に接してきて、日本人はそういうイメージが強いのではないかと思わされました。しかしキリスト教の教えは決してそのように怖がらせるものではないことをご理解いただきたいと思います。 /nキリスト教は「接ぎ木型」宗教  聖書にありましたように、私達は「自分である」ということを失うことなく、それでも、その自分が新しく造り変えられていくということが約束されている。変わっていってよい、と許されている。それを言う宗教がキリスト教です。しかもそれは突然の変身ではなく、ゆっくりとした変化や成長でも良い。その意味で日本人にとっては、キリスト教は「根こそぎ取り換え型」の宗教ではなくて、「接ぎ木型」の宗教だと言ってよいかと思います。日本人であれ何人であれ、その人が培ってきた良い人間性が、神様に繋がった後も祝福され、キリスト教信仰の中に受け止められて生かされていくのです。 /n新生  私は青山学院に繋がることになりましたが、青山学院はメソジストと呼ばれるキリスト教の流れにあり、その流れを切り開いたのがイギリス人牧師ジョン・ウェスレーです。実は、私自身がこのウェスレーが強調した「新生」「新しく生まれ変わる」を強調したアメリカの福音的な宣教師の先生から洗礼を受けました。そのウェスレー自身が「新生というのは短い時間に起こる第一の大切な神様の業であって、その後、信じた者が神様によって聖化、清められていく過程は、徐々に魂の中で行われていく全身的な業である」(新生は神様がその人にさっと与えてくれる新しい変化だが、清められていく過程は、徐々にゆっくりでよろしい)と言っています。 /n「主と同じ姿に・・」  コリントの手紙二の3:18に、私達は造り変えられていくけれども、その目標、お手本に、主イエス・キリストのお姿があると述べられています。「私達は・・主と同じ姿に造り変えられていきます。」 ここが難しいと思います。  私は洗礼を受けて40年以上、按手礼を受けて牧師になって30年以上になりますが、先ほど申しましたように家族から意見されてぐうの音も出ない。深く反省させられるのは、私達が造り変えられ得るその先にある理想の姿、主イエスと同じ姿がそこにあるからぐうの音も出ない。私達の現実の姿は、この主イエス・キリストから何とかけ離れているのでしょうか。 /n主イエス・キリスト  主イエスは愛の人であられました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)とおっしゃって、これを文字通り実践して下さり、私達罪人を友として、その罪からの救いの為に、その贖いの為に自らの命を投げ出して下さった方であられました。  生身の人間である私達が、この愛を行うことがいかに不可能であるか私達は知っています。人間はいかに罪深い者か・・どんなにそれを語っても語り切れません。そういう現実があります。しかし主イエスのお姿と私達の落差にばかり気をとられて、ため息をつくばかりでは、神様が望んでおられる生き方ではないのです。  変えられることに怯み(ひるみ)、変えられることを怠ることは、やめなければいけないのです。今、私に出来ることから始める。たとえば、私の周りにいる、私が気になっている人への態度を変える。思いやりを持つ。いつもその人に投げかけている言葉使いを変えてみる。そういうことから始めなければいけない。確かに、十字架の死に至るまで罪人への愛を貫徹された主イエスと同じ姿に変えられていくということは至難の業です。しかしそれでも尚、私達はその姿を目標に、それに一歩でも近づくように神様の、その霊の力によって変えられたい、変えていただきたいと祈りたいと思いますし、ほんのちょっとした変更を加えていくことをしたいと思うのです。  それが神様の私達への恵みのお招きであるからです。この恵みのお招きは、立場・年齢にかかわらず、一切区別・差別はありません。  相当な年齢であったはずのユダヤの国会議員ニコデモが、「年寄りがどうして生まれ変われましょう。」と言った時に、主イエスの返事は、「『人は、新たに生まれねばならない』と言ったことに驚いてはならない。」「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、言われました(ヨハネ福音書3章)。 /n未見(みけん)の我  岡山の聖心女子大学学長をされたシスターの渡辺和子先生の文章の中に「80歳を越えました。それでも尚、私は日々、未見の我が現れるのを日々楽しみにして生きている」とありました。年齢に拘わらず、未だかつて見たことのない自分への期待を持つというわけです。これこそ「神様の御霊の働きへの、キリスト教徒の信仰」ということになるかと思います。この、新しい生き方への希求、そういう望み、これは個人の範囲にとどまるものではなく、その個人を取り巻く周囲にも広がるものです。一人が変われば周りも変わる。  ウェスレーは、「キリスト教は社会的宗教である」といいましたが、社会活動するということだけではなくて、一人が変われば周りも変わっていく。そうして社会全体がキリスト教的に良い方向に造り変えられていくことを彼は望んだのです。  自分でありながら、今までの自分になかったような新しいものが自分の中から現れてくる。そしてそれは人を喜ばせ、神様にも喜んでいただける。だからつい自分も楽しくなる。嬉しくなる。こういう人間の救いの経験を私達は味わわせていただかなければならないと思います。 /n「これは主の霊の働きによることです」(3:18)。  神様の霊の働きを受けるということは、そういうことが可能になる、許されている、ということをウェスレーは強調したわけです。 かつて銀座教会で牧会された旧約学者の渡辺善太先生が「今の俺 俺は俺でも この俺は キリスト知りし後の 俺でない俺」と歌いました。私達は、変わることに躊躇してはいけない。周りの人が驚いても、そんなことに躊躇してはいけない。変わるべくして、変わっているのです。  幼虫が成虫に変わる時に、今迄と全然違う形になるように、そういう鮮やかな変身をとげることが許されている、ということがキリスト教の福音のメッセージだということを覚えていただきたいと思います。

説教要旨 「恐れるな。語り続けよ。」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 111編4-8節 4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み 5 主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め 6 御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。 7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実 8 世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。 /n[使徒言行録] 18章1-11節 1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。 2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、 3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。 4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。 5 シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。 6 しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」 7 パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。 8 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。 9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 11 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。 /nはじめに  本日は、パウロの第二回目の伝道旅行の最後の伝道地となったコリントでの出来事を通して学びたいと思います。  コリントは、紀元前27年にはローマのアカイア州の首都となり繁栄しましたが、不道徳な町でも有名でした。パウロは職業が同じであったユダヤ人夫婦(アキラと、その妻プリスキラ)の家に拠点を置き、一緒に仕事をしながら安息日になるとユダヤ人の会堂に行き、そこで伝道しました。  ベレアの町で別れた旅の同行者シラスとテモテがコリントに到着し合流すると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人にメシアはイエスであると力強く証しをしました。しかし、福音を受け入れずにパウロに反抗し、口汚いののしりが激しさを増す中で、パウロは宣教を中止し「あなた達の血はあなた達の頭に降りかかれ。私には責任がない。今後、私は異邦人の方へ行く」と宣言したのです。「福音を受けつけずに追い出す者は、そのことの責任は、すべて彼ら自身が負わなければならない」ということです。 /nそれでも神の業は起こる  パウロは、アキラ夫婦の家を出て、ティティオ・ユストというユダヤ人の会堂の隣にある家に移り住みました。今度はそこが伝道の場となり、ユダヤ人の会堂長クリスポと言う人がユダヤ教から改宗し、一家をあげて信仰者となりました。さらに、この地において多くの人々がパウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けたと報告されています。コリントの町は道徳的にかなり堕落していた町でしたが、それにもかかわらず、神を信じ、イエス・キリストを信じる人達が多く起こされた町となりました。 /n主イエスの御声  ある夜、パウロは幻をみて主イエスの声を聞きます。  「<span style="font-weight:bold;">恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だからあなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ</span>」 パウロはこれまでも、主が共にいて下さることを信じて疑いませんでした。彼が語るところではいつも反抗し迫害をする人々がおり、命を狙われて逃げなければならなかったことも度々ありました。しかし主は幻を通して、この町には主の民が大勢おり、更に、危害を加える者はいないとパウロ達の安全を約束されました。  この幻に力づけられ、パウロ達は一年半の間ここで伝道を続けました。 /n「<span style="font-weight:bold;">恐れるな。語り続けよ。</span>」  このみ言葉は、主が私達にいつも語りかけて下さる励ましの言葉でもあります。日常生活の中で友人・知人に伝道していこうとする時、或いは、正しいことを語ろうとする時、私達は相手がどのように反応するかがわからず不安を覚えることがあります。相手に嫌がられないか、出来るなら今の関係を壊したくない・・など「人」を恐れ、言葉が止まることもあります。しかし、私達が主の、この励ましの言葉を聞き神の約束を確信する時に、私達は語り続けることができるのです。  私の母教会の故大谷賢二牧師は、東京の大井町で開拓伝道を始めましたが、伝道の妨害が激しく、路傍伝道中、度々やくざに囲まれたり、又、戦争中は戦争反対者として毎日のように官憲から圧迫を受けたそうです。しかしどのような時も、救われた平安と喜びは消えず、その土台は「私は救われている」との確信であったと語られていました。 /n「<span style="font-weight:bold;">御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい</span>」(二テモテ4:2)  ロマ書には、信じたことのない方を呼び求めることは出来ない。聞いたことのない方を信じることは出来ない。宣べ伝える人がいなければ聞くことは出来ないとあります(10:14)。私達はパウロのようにではなくても、自分の身に起こったこと、起こっていることを伝えることは出来ます。  今週も、「<span style="font-weight:bold;">恐れるな。私があなたと共にいる。</span>」と、言われる主から勇気と励ましを戴きながら歩みたいと願うものです。

説教要旨「命と息とすべてを与える神」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]42章5-9節 5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。 9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。 /n[使徒言行録]17章16-32節 16 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。 17 それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。 18 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。 19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。 20 奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」 21 すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。 22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。 27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。 29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。 31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。 /nはじめに  本日の聖書は、パウロが同行者のシラスとテモテを待つ間に滞在していたアテネの町での出来事です。至る所に偶像が置かれているアテネの町に、パウロは「憤慨した」とあります。偶像とは、広辞苑によれば、木や石や、土や、金属などで作った像・信仰の対象とされるもの・神仏にかたどってつくった像とあります。パウロはここでも、恐れることなく、福音を語り、人々と語り合い、イエス・キリストを宣べ伝えました。 /nパウロ、アレオパゴスへ  パウロの時代のアテネは、かつての繁栄は過ぎ去っていましたが、まだギリシャ文化の中心地でした。人々が集まる広場には、エピクロス派の哲学者(万物は偶然によって生じ、死はあらゆるものの終結である。死後のことについてはどんな思想も受け付けない。神々は存在するが、人間からは遠く、人間には関心をもたない。快楽が人間の最終目的である。という思想)や、ストア派の哲学者(あらゆるものが神であり、あらゆるものが神の意志であるため、あらゆるものの運命が定められている。という思想)も来ていました。彼らは、パウロの話を十分理解できなかった為、キリストの福音とは何か、今後も広場で語り続けて良いかを判断する為に、アレオパゴスにある宗教・学問・習慣などを監視するアテネの議会(評議所)にパウロを連れて行きました。 /nアレオパゴスの演説  ここでのパウロの説教は「アレオパゴスの演説」として知られる有名なものです。パウロは、アテネの人々が多くの神々の為に祭壇を作り、「知られざる神」の為の祭壇まであることに触れ、彼らは信仰心厚く、宗教的努力がなされていることを認めました。しかしこのような、自分達の全く知らない神の為にも祭壇を築くという行為の背景には「恐怖」があります。自分達が知らずに見逃してしまった「神」の怒りを買わない為にも、この神の為に祭壇を築き、拝み、感謝しておく必要があると考えた彼らに、パウロは「知らずに拝んでいるものをお知らせしましょう」と語りました。 /nパウロの伝えた神  パウロはこの演説で三つのことを語りました。一つは、知られざる神とは、すべてを造られ、天も地をも支配している神であること。それゆえ、人が造った祭壇や神殿は必要ないこと。かえって全ての人に命と息とその他すべてを与えて下さる神に私達が依存していること。二つめは、神が人間に時間と空間を与えられたのは、神を求め、神を認識し、神との交わりを持つ為であること。神は遠く離れているわけでなく、すべての人間の心が神の目の前にあること。人間が動き、欲し、行動する運動など、すべては神の創造といつくしみによっていること。三つ目には、これらの偶像神は生きたものではなく、人間の考えや技によってこしらえあげられたものである。神を求めるなら、上を見上げ、生きた神を信ずべきこと。人間は神に根差しており、探し求めさえすれば神を見いだすことができるようになっていること・・を語りました。 /n救済者である主イエスのもとに立ち帰ろう  パウロは、人間は神を見いだすことが出来なかったけれども、神様はこの無知の時代を終わらせて下さり、裁きの日を定め、その日の来る前に人間の誤りを赦し、全ての人を悔い改めに招いておられることを語りました。さらに、神様は、この世を正しく裁く御子・イエス様を遣わし、十字架の死と復活を通して、罪を赦し、永遠の命の希望にあずかるように、全ての人が、世界の審判者として、又、審判における救済者として私達の前に与えられている主イエスのもとに立ち帰り、そのお方の御心にかなうことを行うように、と勧めました。 /n説教を聞いた人々の反応  パウロはアテネの人達を偶像から離れさせ、まことの神と、復活の主イエスに目を向けるよう導きました。その結果、「死者の復活」につまずいた者、信仰の決断を留保した者、そして信じた者に分かれました。アレオパゴスの説教は、今も、全世界の教会で語り続けられ、人々を主イェスのもとに招いています。ここにおられるすべての方が、不安を抱えて生きるのではなく、復活された主イェスの招きに応え、このお方を信じ、喜びに満ちて生き、終りの日を迎えられることを祈るものです。

説教要旨 「テサロニケ伝道とベレア伝道 牧師 佐藤義子

/n[サムエル記下]22:26-32 26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には策略を用いられる。 28 あなたは貧しい民を救い上げ/御目は驕る者を引き下ろされる。 29 主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる。 30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。 31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。 32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。 /n[使徒言行録]17章1-15節 1 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。 2 パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、 3 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。 4 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。 5 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。 6 しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。 7 ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」 8 これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。 9 当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。 10 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。 11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 12 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。 13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。 14 それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。 15 パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。 /nはじめに  パウロ達がフィリピを出て向かった先はマケドニアの首都、テサロニケでした。ここでパウロは三回の安息日にわたってユダヤ人の会堂で伝道しました。パウロの語ったことは、1.メシアは必ず苦しみを受けることになっていたこと(イザヤ書53章4-5など)。2.メシアは死者の中から復活することになっていたこと(詩編16:10など)。3.旧約聖書で預言されていたメシアは今、自分が伝えているイエスであること(イザヤ11:1-)でした。「旧約聖書の預言は、イエス・キリストにおいて成就した!」そのことを、パウロは安息日に会堂に集まって来たユダヤ人およびユダヤ教に関心を持ち、旧約聖書を学んでいる異邦人の人々に語ったのです。 /n力と聖霊と強い確信とによって  後にパウロは、テサロニケ教会宛てにこのように書いています(1:5)。「<span style="font-weight:bold;">私達の福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と、強い確信とによったからです。</span>」さらに2章初めには「<span style="font-weight:bold;">兄弟達、あなた方自身が知っているように、私達がそちらに行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知っての通り、私達は以前、フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、私達の神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなた方に神の福音を語ったのでした。</span>」パウロの説教は、テサロニケにおいて、ユダヤ人のある人達と、多くのギリシャ人および、かなりの数の上流階級の婦人達の信仰を呼び起こし、ユダヤ教からキリスト教への改宗者が生れました。 /n妨害  メシアがイエスであると信じた人々は改宗しましたが、信じないユダヤ教徒たちはパウロ達を妬み、暴力で伝道を阻止しようとしました。彼らはパウロ達が滞在していたヤソンの家を襲い、訴えようと探しますが見つからなかったので、代わりにヤソンの家にいたヤソンと数人の人々を捕えて町の当局者に引き渡しました。そして、「彼らは皇帝の勅令に背いて『イエスと言う別の王がいる』と言っている」と訴えました。当時皇帝は絶対でしたから「別の王イエス」と言う言葉は、皇帝に対立する言葉として人々の間には緊張が走り、動揺したことが伝えられています。しかしパウロ達が見つからなかったので、ヤソンは裁判や処罰からは免れ、かくまった罪で保証金を支払い、釈放されました。他のキリスト者は、パウロ達の命を守る為に、直ちに夜の内に、パウロとシラスをベレアに向けて送り出しました。 /n素直・熱心・聖書を調べる  パウロ達はベレアの町でも、ユダヤ人の会堂に入り伝道しました。ベレアのユダヤ人はテサロニケのユダヤ人と比べて素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていました(11節)。その結果、多くの人が信仰をもつに至りました。「素直」は、「善良」「良い性質」「礼儀正しい」とも訳されます。 聖書の言葉に触れた時、あるいは説教を聞いた時に、「果たして自分は本当にこのままの生き方で良いのだろうか」と思い始めた時、人は、自分の生涯に対して素直に、礼儀正しく向かい合うことが出来るのではないか、そして次のステップ、すなわち福音を聞く「耳」と、信じる「信仰」が与えられるのではないかと思います。 パウロは後に、「<span style="font-weight:bold;">このようなわけで、私達は絶えず神に感謝しています。なぜなら私達から神の言葉を聞いた時、あなた方は、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなた方の中に、現に働いているものです。</span>」(テサロニケ2:13)と記しています。 /nどのような妨害に会おうとも  テサロニケのユダヤ人達は、ベレアまでパウロ達を追いかけて来て伝道を妨害しました。しかし、どのような妨害に会おうとも、パウロはこのように語っています。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます</span>」(一コリント10:13)。 こうしてパウロのヨーロッパにおける伝道は、次の地、アテネへと拡がっていきます。神様がパウロを用いられ、パウロも又、与えられた使命を果たすべく、ひたすら主の業に励んだように、私たちの今週の歩みが主の御用に役立つものとなりますように主の守りの中で、励んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「主の憐みと恵みの糧」 平賀真理子 伝道師

/n[民数記]11章10-13節 10 モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。 11 モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。 12 わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。 13 この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。 /n[マルコによる福音書]6章30-44節 30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。 38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。 41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 42 すべての人が食べて満腹した。 43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 44 パンを食べた人は男が五千人であった。 /nはじめに  イエス様がなさった奇跡で、四つの福音書に共通しているのは、今日の「五千人に食物を与える」話だけです。マルコ福音書では、この「奇跡」がなされる前にイエス様と弟子達の状況がどうであったのか詳しく書かれています。12使徒は、イエス様から汚れた霊に対する権能を授けられて各地に派遣され、悔い改めに導く宣教と、悪霊を追い出し、病人の癒しをした後、イエス様の所に戻り、自分達の活動報告をしました。イエス様のもとには出入りする人が多く食事をする暇もなかったので、イエス様は弟子達に、人里離れた所に行って休むように言われました。ところが船で脱出した一行を見つけた群衆は、何と、徒歩で先回りしたとあります。イエス様はこの大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような」有様を深く憐れまれ、いろいろ教えられました。 /n有るものに目を注ぐ  時がだいぶたち、群衆の食事の心配をした弟子達は、この人々を解散させようとしましたが、イエス様は弟子達に彼らの食事の世話をするよう、命ぜられました。お金も食材もなく人里離れた場所では店もなく、弟子達が「そんなことは出来ない」と思ったであろうことは想像出来ます。 しかしイエス様は、「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われました。「・・しかない」ではなく、イエス様は「有るものに目を注ぎなさい」と問いかけるのです。弟子達は確かめて「五つあります。それに魚が二匹です」と答えています。わずかな物でも「これだけ有ります!」と主の前に差し出す。そこを始まりとして恵みが広がっていきます。そして「奇跡」が始まります。イエス様は、群衆を組に分けて座らせ、天を仰いで賛美の祈りを唱えてパンを裂き、配り、二匹の魚も皆に分配されました。 /n旧約聖書における神様の憐れみ  エジプト脱出後、イスラエルの民は砂漠での空腹に耐えられずモーセに対して不満を言いましたが、神様は天からマナ(食べ物)を与えられました。又、今朝の民数記では、民が再び食べ物のことでモーセに不満をぶつけるので、神様は「肉」を与えるとモーセに言われました。モーセは60万の民にそれは不可能であると答えますと、「<span style="font-weight:bold;">主の手が短いというのか。今、あなたに見せよう</span>」と言われました。そして主のもとから風が出て、海の方から「うずら」を吹き寄せ、イスラエルの民のテント近くに広大な範囲にわたり「うずら」は落ちて積り、民はそれを食したのです。 /n12の籠  伝道に派遣され、旅から戻り、休む間もない弟子達でしたが、彼らは「神の国」をこの世に実現する為の働き手として、神の国を表わす「奇跡」に立ち会うことになりました。全ての人が、主の憐みによって与えられた恵みの糧で、霊的にも肉体的にも十分満たされ、「<span style="font-weight:bold;">パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠に一杯に</span>」なりました。12は聖書ではイスラエル12部族を示すことが多くありますので、ここではイエス様は、旧約聖書を通して神様を証ししてきたイスラエルの民全体に遣わされた救い主(メシア)であることを示していると考えられます。そしてイエス様が来られた新約聖書の時代以来、イエス様は「神の民・イスラエル」に代わり、今や、「信じる者すべての人」の救い主(メシア)です。 /n主の憐れみは日毎の糧にも及ぶ  私達が信じて従うイエス様は、食べ物を必要とする私達を分かって下さり、憐れんで下さる神様であり、実際に私達を養って下さいます。恵みを与えて下さる神様に感謝しています。 私達は日毎の糧を必要とする一方で、「<span style="font-weight:bold;">キリスト・イエスのものとなった人達は、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです</span>」(ガラテヤ5:24)とあります。罪の赦しの洗礼を受けたにもかかわらず、私達は時としてわがままな思いに引きづられたり、神様を忘れて自分勝手な行いを度々してしまいます。そのような私達に対しても、神様は大いなる救いの手をもって日々、神の国へ招きイエス様の十字架と復活による「救い」に与らせて下さいます。そのことを覚え、悔い改めと心からの感謝をささげます。 最後にルカ福音書12:29-32をお読みします。 >> 「<span style="font-weight:bold;">あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。</span>」 <<