説教要旨 「ただわが霊によって」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

伝道所開設6周年記念感謝)の礼拝説教要旨 /n[ゼカリヤ書]4章6-7節 6 彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。 7 大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」 /n[ローマの信徒への手紙]12章9-21節 9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 /nはじめに  イスラエルの国は、その首都を今も昔もエルサレムに置いております。政治の中心地ですから、当然ながらエルサレムには国会議事堂があります。その傍にこじんまりとしたバラ園があり、そこにブロンズ製のモニュメントが建てられています。モニュメントは少々変わった形をしており、まず5mくらいの高さの一本の柱がど真ん中にドーンと建てられています。そこから左右に三本の支柱が枝分かれしています。一本の柱の両側に左右3本ずつ枝が分かれていて、全部で7つの枝が形作られている、それが燭台になっています。5mですからそれほど見上げるというわけではありませんが、結構大きいものです。実際に火が灯るということはないのですが、先端には木皿がついている。このモニュメントは実は有名なものであって、大きな形をしているだけではなく、その他二つの特徴があります。 一つは、モニュメントの表面(7つの枝の表面)に、旧約聖書の時代から現代のイスラエル建国の時代に至る歴史の、有名な場面が29の場面に分かれてレリーフで刻まれている。例えば出エジプトの出来事とか、十戒が与えられた場面、又、ダビデがゴリアテと戦って勝利した、そんな場面がレリーフ状に彫刻されている。そういうのは、我々はステンドグラスとか絵巻物で見るわけですが、それとは又、一風変わった感じで、イスラエルの歴史3000年以上を眺めることが出来る仕掛けになっているものです。 二つ目のモニュメントの特徴は、やはりこの燭台の枝のところ、側面に、聖書の言葉が書いてある。それが、今日読みましたゼカリヤ書4章6節の言葉。「<span style="font-weight:bold;">武力によらず、権力によらず、ただ我が霊によって、と万軍の主はいわれる。</span>」この言葉が、原文のまま、刻まれている。そんなユダヤの歴史と、聖書の中身が一体になって示されているモニュメントがあります。この七枝の燭台は、ゼカリヤに幻に示された燭台を題材にしたことが示されています。この七つの枝をもった燭台と二本のアーモンド。これがゼカリヤ書4章の最初から書いてあるところに記されていますが、それは、今日のイスラエルの国家的なシンボルになっているほどに有名な幻、図像であるといえます。 今朝は、ご一緒に、燭台に灯るともし火。このゼカリヤ書の幻の、燭台を念頭に置きながら、そこに灯るともしびの光について学びたいと思います。 /n常夜灯(一晩中ともす光)  ゼカリヤ書4章の最初に、神から示された幻が記されております。 「<span style="font-weight:bold;">『何を見ていたのか』と尋ねたので、私は答えた。「私が見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました</span>」(2-3)。 実はこういう七つの枝のある燭台を最初に作った人はモーセです。ユダヤ人達がシナイ半島の荒野を彷徨した出エジプトの時、指導者モーセが神の指示に従って、幕屋と呼ばれるテント式の移動式神殿を作りました。その時に神の指示に従って、この七つの枝が付いている燭台を作り、幕屋(移動式テント)に安置した。出エジプト記には次のように記されています。「<span style="font-weight:bold;">純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとして、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける。・・・これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。次に、七個のともし火皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする</span>」(25:31-)。このように言葉が与えられたので、それを作り、幕屋とよばれる神殿に備え、火を灯し、それを常夜灯として、一晩中ともす光として、ともしたというのです。 おそらく荒野の中を彷徨するユダヤ人達にとって、真っ暗闇のなかで宿営する夜に、幕屋から光る光。七枝の燭台から光がこぼれて来る。それは、神が共にいるということをイスラエルの人々に告げ知らせるものであり、奴隷状態から自由とされ、故郷へ戻れる喜びをイスラエルの人々に実感させた、いうならば七枝の燭台に輝く光で、イスラエルの人達は自分達と神との関係を実感した、確認した、・・そういう光として、彼らは親しんだのです。 /nイスラエルの民の思い  荒野の旅をしてイスラエルに戻った彼らは、エルサレムを首都と定めて安定した国家を形成しようとしていきます。荒野でさまよっていた不安定な時代だけでなく安定的な国家を形成して安定した時代にあっても、七枝の燭台のある幕屋の神殿は、相変わらずユダヤの中においては、中心的な存在となっていきます。そしてやはり常夜灯として灯る神殿の光に、人々は様々な思いを寄せることになります。彼らの思いを旧約聖書の言葉から、二つほど引用したいと思います。一つは、その後王様となったダビデの言葉ですが「<span style="font-weight:bold;">主よ、あなたはわたしのともし火 主はわたしの闇を照らしてくださる。</span>」(サムエル記下22:29)と歌っています。自分に敵対する者達に囲まれて、具体的にどっちの方向に進んでよいか分からないような状態にあった、そういうことがダビデに何回もあるのですが、ある意味で真っ暗闇に置かれるような状態になったとしても、決して神様は私を捨て置かれることはない。だから失望したり、自ら見失うことがない、とダビデは語るのです。危機的な状態に陥っても、決して自分は一人ぼっちではない。神は共におり、目の前の闇を照らして下さるということを歌っています。 これは、単なる比喩的な表現ではなくて、困難な状態に陥っている者に、その困難を切り抜けさせる方法を思い起こさせてくれる。そして、それを成し遂げる力を神は与えてくれるということを意味しているのです。 「<span style="font-weight:bold;">主よ、あなたは私のともし火。私の闇を照らしてくださる。</span>」神との深い信頼関係が前提とされての言葉です。 もう一つ、詩編に記されています「<span style="font-weight:bold;">あなたの御言葉は、わたしの道の光  わたしの歩みを照らす灯。</span>」(119:105) あなたの言葉が私の道の光である。私の歩みを照らす灯である。光というものが単なる象徴の言葉ではなく、具体的に神の言葉を意味していると記されています。 神の言葉というのは、アブラハムやイサクやヤコブ達、又、モーセに示された契約の言葉であリ、又、預言者達に与えられた預言の言葉でした。今日の私達に関連して言うならば、光・神の言葉というのは私達が手にしている聖書の言葉でもあります。その神の言葉が、私達の歩むべき道を照らし出してくれる光である。光によって照らし出されるならば、進むべき道がどのような道かを判断することが出来る。時にはその道ではなくて別の道を選ぶように、と促されることもある。そんな聖書の言葉、まさに私達の歩むべき道の光である、ということを詩編の記者は語っているのです。 /n七枝の燭台の光  ゼカリヤに示された幻、七つの枝のある燭台の光は、「<span style="font-weight:bold;">武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって</span>」と主が語る。そういうことを私達に教えております。武力や権力によって成し遂げられることであったとしても、そうではなくて、「<span style="font-weight:bold;">主の霊によって</span>」なすのだ、と語りかけている。それが主から私達に与えられた御言葉でありました。 /n新約聖書における光  光というものは、旧約聖書だけではなくて新約聖書においても大事な役割として表現されています。二つほど新約聖書から光について選び出したいと思います。まず、光というものは神である。私達の心に存在する神そのものである。という言い方が記されています。 「<span style="font-weight:bold;">わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。</span>」(ヨハネ一1:5)「<span style="font-weight:bold;">『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。</span>」(コリント二4:6)と記されています。 神は光である。しかもその光は私達のうちに与えられている。神が私達と共にいる、ということが新約聖書のあちらこちらに記されています。神が光であり私達の歩むべき道を照らし出す。闇を照らし出す光であり、それが私達の内にあり、共に歩んでくれる、とするならば、もう一つの表現は、光が与えられている者は光にふさわしく歩むということも記されています。 「<span style="font-weight:bold;">あなたがたはすべて光の子。昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません</span>」(テサロニケ一5:5)。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい</span>」(エフェソ5:8)。「<span style="font-weight:bold;">『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお、闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません</span>」(ヨハネの手紙一2:9-10)。 そのようなことがいたるところに記されております。光を見つめるだけではなくて、光に照らし出されるだけではなくて、光が私達の内に存在しているわけですから、光と共に、即ち、神と共に歩む、というのです。 新約聖書の、このような言葉を読んでおりますと、もう一つ、私達が親しんでいる聖書の言葉を思い起こすのです。それは山上の説教において、イエス・キリストが語った言葉です。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升(ます)の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである</span>」(マタイ5:14-16)。 光を、世の中に輝き照らす存在になれ、なっている、ということを言っているわけですが、私共がある意味では、神と共にある、そして神の言葉をわが内に入れている、ということは、「神、共にいます」ということである。そして私達は光として歩む。そのような言葉が旧・新約聖書に記されているのを見る時に、光を灯す燭台とは何かということです。 /n燭台は教会  光を灯すのが私達(神の光を得る)とするならば、その燭台は「教会」であると言えるかと思います。教会はイエス・キリストの体であると教えられています。世の光として私達が光り輝く。それは燭台と共に輝くといっても過言ではないと思います。ある意味で教会は、旧約聖書以来語られる七枝の燭台そのものではないかと今日、私共は思うのです。 /n「光としてある」とは・・  そのようなことを思う時に、光としてある、とは一体どういうことかということを、ローマの手紙の12章9節から読んでみたいと思います。 「<span style="font-weight:bold;">愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい</span>」。 /n強い光 この中で二箇所を特に「強い光」として心に刻みたいと思います。 一つは、「<span style="font-weight:bold;">怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。</span>」 もう一つは、「<span style="font-weight:bold;">できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。</span>」 このことを、今日の伝道所設立の記念礼拝の時に覚えたいと願うのです。

説教要旨 「救われるためには」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]116編1-7節 1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 3 死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 6 哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。 7 わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。 /n[使徒言行録]16章16-40節 16 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。 17 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」 18 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。 19 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。 20 そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。 21 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」 22 群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。 23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。 24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。 25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。 27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。 28 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」 29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、 30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」 31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。 33 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。 34 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。 35 朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。 36 それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」 37 ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」 38 下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、 39 出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。 40 牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。 /nはじめに  今日は、伝道旅行先のフィリピで起こった出来事から学びます。パウロ達は祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれた女奴隷と出会いました。女奴隷は幾日もパウロ達の後をついてまわり、叫び続けました。パウロはついにこの女に宿る占いの霊と対決して、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と命じました。「イエスの名」には、イエスご自身の力と約束があります。それゆえに、イエス・キリストの名前による命令に、占いの霊は従うしかありませんでした。 /n獄における神様のわざ  この占いでお金をもうけていた主人達は、その道が途絶えたことを知り、パウロとシラスを捕えてローマの執政官に引き渡し、二人が町を混乱させ、非合法な教えを宣伝していると訴えました。群衆も一緒に騒いだ為、高官達は二人の衣服をはぎ取り何度もむちで打ち、投獄し、足かせをはめました。 パウロとシラスは獄の中で、鞭打ちの傷の痛みや、足かせで眠れない苦しみの中にあっても、「賛美の歌を歌って神に祈っていると、他の囚人達はこれに聞き入っていた」(25節)のです。このような時にも讃美して祈る彼らを通して、真のキリスト者は苦しみの中でも神をほめたたえることが出来ることを学びます。その時、突然、大地震が起こり、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖が外れました。 /n看守の救いへの道  駆け付けた看守は戸が開いているので、囚人たちが逃亡したと思いこみ、自殺しようとしました。パウロは看守に大声で「私達はみなここにいる。」と叫びます。看守は二人に対して、震えながらひれ伏し、尋ねました。 >> <span style="font-weight:bold;">「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」</span> << /n救われる道への第一歩  看守の、この「問い」こそが救われる道への第一歩です。 この問いは、「自分は救われなければならない人間である」ことを知らされた者の問いです。看守は、パウロとシラスに出会ったことによって、救われていない自分に気付き、救いを求めたのかもしれません。その他、小説「氷点」のテーマのように、「原罪」という自分ではどうすることも出来ないものを持っていることに気付いたことから救いを求める方もおられるでしょう。或いは、この世の困難と苦しみという八方塞がりの中で、そこから救われる道を求める方もおられるでしょう。そしてその第一歩が、「救われるためにはどうすべきか」との問いです。 /n問いに対する答え >> <span style="font-weight:bold;">「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」</span> <<  これが答えです。主イエス・キリストが、神の子であり、私の救い主であると信じる決断をして、そのことを公に告白した時、人は救われるのです(ロマ10:9)。パウロ達は看守に神の言葉を語り、家族全員すぐに洗礼を受けました(33節)。洗礼を通して私達は、キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命に生きます。看守は二人を自宅に招き、食事を共にし、神を信じる者になったことを家族と喜びあいました(34節)。 /n福音のために、すべてを明らかに。  翌朝、執政官たちは、こっそりと二人を釈放するよう部下に命じます。パウロとシラスは、恥と屈辱を加えられたままこっそり町をでることを拒否し、ローマの市民権を持つ自分達に不当な待遇と不法を行ったことに対して、執政官みずからが出向いて牢から連れ出すように求めました。 「釈放」という一つの出来事に対しても、二人は、「福音を恥としない」(ロマ1:16)生き方、福音は確かであることを示したのです。フィリピの町で信仰生活を続けていくキリスト者達や、フィリピの教会の為にもそれは大切なことでした。二人は執政官に見送られ、紫布の商人リディアの家に行き、彼らと交わり励ましてから、次の町に出発していきました。

説教要旨「礼拝と奉仕」 倉松功先生(元東北学院院長)

/n[詩編]95編1-7節 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 /n[ヨハネによる福音書]4章21-26節 21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 /nはじめに  本日は、「礼拝」について聖書から学びたいと思います。 「礼拝」の本来的言い方は「礼拝と奉仕」ですが、日本にキリスト教が入ってきた時に、「礼拝」と訳してしまったということがあるようです。キリスト教の礼拝がどんなものか(どのようにあるべきか)について、主イエスご自身が非常に明確にお話されているのを、まず聖書の言葉で聞いてみたいと思います。 /n霊と真理をもって礼拝する  先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書では、イエス様がサマリヤの女に会われて、「<span style="font-weight:bold;">霊と真理をもって礼拝しなければならない</span>」と言われました。「霊」と「真理」。これはすべて「キリスト」のことです。「聖霊」はキリストから出てまいります。「真理」はキリストが持っておられる。「真理」はキリストにおいて明らかにされたのです。「霊と真理をもって礼拝しなければならない」・・これは、キリストにおいて、キリストによって、礼拝する。これがキリスト教の礼拝であるということを、キリスト自身がおっしゃっていたということになります。 /nキリスト教の礼拝  もう一か所、礼拝について主イエスご自身が語られているところがあります。それは、マタイ福音書4章10節(ルカ福音書4:8)の、荒野の誘惑の最後、「<span style="font-weight:bold;">あなたの神である、主を拝み、ただ主に仕えよ。</span>」です。主を礼拝し、主に仕える。ここではっきりと、「礼拝」と「奉仕」という二つの言葉で礼拝の意味を明確に、明快に語っておられます。 /n旧約聖書の礼拝  礼拝が、神を拝み、神に奉仕する礼拝であるということは、旧約聖書からの伝統です。礼拝が、礼拝し、奉仕することであるということは、(ギリシャ語からへブル語に遡って調べていただいた結果)32箇所の記述があり、この32箇所の中に一箇所だけキリストが言われたことに似ています。31箇所はすべて、天地創造の主なる神以外の他の神、自然物、その他、偶像を礼拝したり、仕えてはならないという禁止や否定形です。ただ1箇所だけは、「あなた方は、自分の神以外を礼拝しない(=自分の神だけを礼拝する)。自分の神以外に仕えない(=自分の神だけに仕える)。」と、バビロン捕囚の時、ネブカドネツァルがユダヤ民族をほめています。これらが、旧約聖書における、礼拝し、奉仕するという言い方です。旧約聖書の、例えば十戒をみますと、「<span style="font-weight:bold;">父と母を敬え</span>」以外はすべて「すべからず」です。他の神々を拝んではならない。偶像を作ってはならない。盗んではならない、・・等です。このように、旧約聖書は否定的表現をしているのに対して、主イエスキリストの礼拝についての言われ方は、「主なる神を礼拝し、伏し拝み、それに仕える、奉仕する。これが礼拝である」と、積極的です。こういう違いがあるように思います。 /nワーシップサービス  主イエス・キリストご自身の「礼拝」を一番よく、忠実に表現しているのが英語です。ワーシップ サービス=Worship (礼拝する)Service(仕える)との表現が、礼拝と奉仕を十分伝えていると思います。では、誰を礼拝し、誰に奉仕するのでしょうか。「礼拝をする」「拝む」というのは、キリスト教においては、天地、宇宙を創造された主イエス・キリストの父なる神、主イエスキリスト、聖霊、の、三位一体なる神を拝むことです。この三位一体とは、実感としては分かりにくいかもしれません。ただ、キリストは、神として来られ、真理と霊を持って、と、言われる時に、「私において」「私を通して」とおっしゃったのですから、私共はキリストを通して、この三位一体の神を知ることができます。 /n礼拝する対象を知る  詩編95:5-6節には、主なる神にひれ伏し、伏し拝もうと記されています。キリストは、礼拝が天地創造主である主なる神を拝むという点で、継承しています。この天地創造の神、主なる神、キリスト御自身については、私達にどんなかかわりがあり、私達に何をなさった神なのか、まず聞かなければよくわかりません。礼拝において、神について、キリストについて聞き、礼拝するということを通してしか、私達は神について、キリストについて知ることが出来ません。実際、申命記(旧約聖書)では「イスラエルよ、聞け。」(5:1)という言葉で、集会(礼拝)が始まっています。イスラエルにおいても、神の言葉を聞くことによって礼拝がなされていることが分かります。従って私共も、礼拝において神を礼拝するという事柄は、その神がどういう神であるか、あるいはキリストがどういうことをなさったのか、私達にとってどういう意味があるのか、とにかく礼拝で聞かなければなりません。その場合、聞くといっても、それはまさに私自身の力の限りというよりも、私共がキリストについて学ぶ、キリストを通して学ぶ、その時まさに聖霊の助けを必要としているということをいつも祈らなければなりませんし、そのことを求めなければならないと思います。 /n礼拝がサービス  次に、礼拝がサービス(奉仕)である、ということですが、礼拝でどんな奉仕をするかということについて私共は戸惑うかもしれません。礼拝が神に対する奉仕である、キリストに対する奉仕であるということは、何を意味するか、ちょっと分からない感じがいたします。 しかし「<span style="font-weight:bold;">イスラエルよ、聞け。</span>」という言葉でイスラエル共同体の礼拝が始まっているように、そして私共も又、神がどういう神か、キリストがどういう神かを聞かなければならないように、「奉仕」が、「神の言葉を聴く」、「キリストに聴く」ということに関わっていると言わざる得ないように思います。そして聴くことにより、そこで語られている天地を創られた、父・子・聖霊なる三位一体なる神がどういうことをなさったか、また人間を創り、人間に対して、歴史に対して、どういう関わりを持っているか、を聴くことによって、私共は感謝の念をもってそれに同意し、それを受け入れるということがあるでしょう。 勿論、中にはすぐには受け入れられないこともあるでしょう。たとえば、神は人間に特別な使命<人間以外のものを治めよとの大変重要な、責任ある使命>を与えて下さったということ、或いはキリストが、山上の説教の中で、全く普通の平凡な漁師、お百姓、羊を飼っている人達に向かって「あなた方は、地の塩、世の光である」と言われました。これを聞いた人達はまさにびっくりしたと思います。しかし、一人一人が世の光・地の塩であるという事柄は、キリストによってしか語られなかった、人間に対する神の愛、キリストの愛の表現でしょう。私共がそれによって、どのような人間も、人間としての尊厳、尊さというものを知り、しかも一人ひとりが神様から特別な使命を与えられていること、他に代わることの出来ない使命をもっていることを「光」・「地の塩」という言葉から学ぶわけです。そして、そういうことを通して私共は喜ぶ、感謝をするということがあれば、それは神の言葉(聖書)に対する私共の応答、又は、聖書を私共が受け入れることになり、この「奉仕」という言葉と結びついているということになります。 要するに、その礼拝における奉仕というのは、神の言葉、キリストにおいて、キリストを通して、キリストの言葉を聞くことによって、神に感謝する。あるいはその言葉を通して、神を讃美するといいましょうか、そういうことが礼拝における奉仕であるといってよろしいと思います。 /n全生涯が奉仕  「奉仕する」ということは、礼拝における奉仕だけでは決してありません。パウロの言葉に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ロマ書12:1)とあります。自分の体を神に献げる。これが理にかなった、合理的理性的な、神に対する奉仕であると言っています。つまり神に対する奉仕というのは、礼拝だけにかぎらない。全生涯が、日々の生活が、奉仕であるということを言っています。おそらく天地を創りました私達の神、キリストも又、それを願っていることでしょう。 神に対する奉仕というのは、全生涯の奉仕である。しかし、天地創造なさった神が人間にどのように仕えたか。キリストがどういう風に仕えたか、パウロが語っている聖書のことを少し、見てみたいと思います。 /n神の私達に対する愛  パウロはロマ書で「<span style="font-weight:bold;">私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜わらないはずがありましょうか。</span>(8:32)」と語っています。 御子キリストを父なる神が遣わして下さった。これが神の私達に対する愛です。私達に奉仕をして下さった。愛する御子さえも私達に遣わして下さった、送って下さった。しかもその御子を私共の為に十字架におつけになった、とすれば、御子と一緒に全てのものを私達に賜らない筈があろうかと言っています。これは大変なことだと思います。 ルターはある時に、死の予感がしたのかもしれませんが、死後の自分は次のようなことを告白するという文章を残しています。 「聖書の神は全てのものを与えて下さる神だと自分は告白する」。 これは、このパウロの言葉に倣っているからでしょう。 /n私達の奉仕の前に・・  キリストご自身も、「<span style="font-weight:bold;">あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられる為ではなく仕える為に、また、多くの人の身代金(多くの人の生命を買い取る購入代金)として自分の命を献げるために来たのと同じように。</span>」(マタイ20:26-28)と、弟子達に語られました。つまり、あなた方は奉仕する者、奴隷になり、全ての人の僕にならなければならない。なりなさい。私が来たのは仕えられる為ではなく仕える為に、多くの人の命を買い取る代金として、自分の命を献げる為にきたと言われます。 私共の命を買い取る為に来た。買い取るというのは悪魔から買い取ると考えても良いし、罪からあがなうと理解しても良いでしょう。又、私共の命を「真の命」とする為に買い取る、その為に自分の命を献げる、そこまで自分は仕える、奉仕するとおっしゃっているのです。 このことは礼拝において、まさにこの天地創造の父なる神、主なる神の言葉を聞くわけです。この父なる神と主イエス・キリストの奉仕に基づいて、私共の奉仕はどうあるべきだと考えられるでしょうか。 考えて見ますと、私共の全生涯がこの父なる神とこのキリストの奉仕に従うものであるということは、ある意味で大変な祝福であり、大変な恵みの言葉ではないかと思います。キリスト者の全生涯、職業生活、日常生活、家庭生活、それらは全てが神への奉仕、キリストへの奉仕、すなわち礼拝の延長、礼拝に準ずるものだと聖書は言っており、それを特にプロテスタントの宗教改革者達は受け継いできました(職務召命論など)。 パウロはそのように、私共の日常生活が神の奉仕だということが最も合理的な理性的な礼拝だとロマ書12:1で言いましたが、実はそれは、当時の人々が動物や穀物などを神に捧げる(供物)、そういう礼拝に対する批判として語った言葉です。 /n万人祭司  最後に、宗教改革者のルターやカルヴァン、特にルターから、この日常的な礼拝と共に、奉仕するということで最も大事なことを教わっていると思います。それはペテロ第一の手紙(2:5,9)やヨハネ黙示録(1:5-6)にある、「万人祭司」という言葉です。キリストを信じる全ての者は、祭司である。神に仕える、奉仕する者であると言いました。それに基づきルターは祭司としての務めを七つ言っています。その内、一つは神に対する奉仕は神の言葉を伝えること、「伝道」です。牧師になって伝えることも含まれますが、私共一人一人が神の言葉を教え伝える、伝道するということが、日常生活における神に対する奉仕であるということです。もう一つ御紹介したいのは「執り成しの祈り」です。 他の人の為に、他の人の信仰の為に、他の人の苦しみの為に祈るという執り成しの祈りです。これは多分、私共が病床にある時も、或いは年齢が高じても出来る、最も大切な、誰にでも出来ることではないでしょか。 /n礼拝から礼拝へ  私共の生活はまず礼拝です。礼拝から始まります。しかしこの礼拝は日常生活における礼拝へと展開し、そして又、礼拝に帰ってきます。これは私共に与えられている、大変恵まれた信仰生活ではないかと、神様に対する感謝を覚えるものであります。

ペンテコステ礼拝 説教要旨  「約束の聖霊が降る」 佐藤義子 牧

/n[ヨエル書] 3章1-5節 1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。 2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。 3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。 4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。 5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 /n[ヨハネによる福音書] 14章15-26節 15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 /nはじめに  本日はペンテコステ「聖霊降臨日」の記念礼拝です。聖霊降臨とは聖霊が私達人間の間に降ることです。今から約2000年前のユダヤ教の五旬節という祭りの日に、エルサレムで弟子達の間に降りました。この時の様子が使徒言行録2章に記されています。弟子達をはじめ、イエス様を信じる人々が集まって祈っていた朝、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響き、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまり、弟子達は聖霊に満たされて、エルサレムに来ていた大勢の人々に、彼らの出身地の言葉で、神様の偉大なわざについて語り出しました。この日、弟子達の言葉を聞いて信じてバプテスマを受けた人々が3千人にのぼり、このペンテコステが教会の誕生日といわれています。 /n預言の成就  聖霊降臨については紀元前5世紀に記されたヨエル書に「私はすべての人にわが霊を注ぐ」(3:1)と預言されていました。「わが霊」とは、神様の息・神様の力を意味します。「人」は神様が命の息を吹き入れられて生きた者になりましたが、その「神様の息」が「霊」という言葉です。 ヨハネ福音書でも、イエス様の告別の説教と呼ばれる14章から16章で、聖霊を与えて下さる約束と、聖霊の働きについて、語られています。さらに、イエス様が十字架で死なれ、三日目に復活されて天に昇られる前、使徒言行録1章4節で、イエス様は再び聖霊が降る予告をされています。そして、ついに約束は成就して、五旬節に弟子達の間に聖霊が降りました。 /n聖霊の働き  この時から今に至るまで、聖霊はたびたび信仰者の間に働かれています。特に使徒言行録では、使徒達が説教をした後で信じる人々が起こされること、神様への讃美と信仰告白が生れることを通して、聖霊の働きを見ることができます。今の時代においても、聖霊が働く時はいつもそこに、讃美と信仰の告白が生れるのです。 /n「聖霊」は、教え、キリストの言葉を思い起こさせる  今日の聖書で、イエス様は、「<span style="font-weight:bold;">あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る</span>」(15節)。「<span style="font-weight:bold;">私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である</span>」(21節)。「<span style="font-weight:bold;">私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む</span>」(23節)。「<span style="font-weight:bold;">父がお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。</span>」と語られています。聖霊は、私達がイエス様を愛し、互いに愛し合う時に私達と一緒に住んで下さり、私達を教え、イエス様の言葉を思い起こさせて下さいます。そして聖霊は「すべての人に」与えられる約束です(ヨエル書)。 /n応答としての信仰  ヨハネの手紙に、「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者達、神がこのように私達を愛されたのですから私達も互いに愛し合うべきです。」(4:10-)とあります。信仰とは、神様の呼びかけに応答することです。私が神様を求める以前に、神様がすでに私達を見いだし、愛し、私達に呼びかけておられます。又、信仰とは、神様を信じ、イエス・キリストを信じることです。しかし、聖霊の働きなくしては、誰も「イエス様は私の救い主です」と告白できません(一コリント12:3)。それゆえ、イエス様は私の救い主である、と信じることができたならば、そこに聖霊の働きがあったことを知り、感謝して受けましょう。 /n聖霊の働きを見る  イエス様の約束通り、神様はイエス様の名によって「聖霊」を私達に送って下さっています(26節)。仙台南伝道所の歩みを振り返る時、数多くの神様の業を見ます(何よりも、教会のないところに教会の群れができたこと)。そこには、聖霊の働きがあったと告白せざるを得ない恵みが数多くありました。これからもあり続けるでしょう。  今日の聖霊降臨日にあたり、ここにいるすべての方が、聖霊を豊かに受けて、神様の業が私達を通しておこなわれますよう、祈るものです。

「見ないのに信じる」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編] 31編15ー17節 15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。 16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。 17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。 /n[ヨハネによる福音書] 20章19ー29節 19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 /nはじめに  今週は復活節最後の週です。今日の聖書は、マグダラのマリアが弟子達に「復活」を告げた、その数時間後のことと思われます。弟子達はマリアの証言を信じることが出来ないまま、ユダヤ人を恐れて「家の戸に鍵をかけて」いました。彼らの心の内は、十字架刑という「刑罰」で殺された者の弟子というこの世の価値観の下で、(人生を賭けて従おうとした先生を裏切ってしまった自分への不信をも抱え)、希望を失い、隠れざるを得なかったのでしょう。その姿は、罪の世界に閉じ込められている人間の象徴のようでもあります。再びこの世に支配されつつあったのではないでしょうか。 /nシャローム  そのような弟子達に、イエス様は、「鍵のかかった戸から入る」という奇跡を通して「<span style="font-weight:bold;">あなたがたに平和があるように</span>」との祝福の言葉を贈られました。この時弟子達はイエス様がかつて語られた「<span style="font-weight:bold;">私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。</span>」(ヨハネ14:27)「<span style="font-weight:bold;">私は去って行くが、又、あなた方のところへ戻ってくる。</span>」(同28)という十字架と復活の預言の言葉を思い出したのではないでしょうか。イエス様は弟子達に、十字架の傷跡を示されました。弟子達はイエス様を見て喜びに溢れたのです。 イエス様は重ねて「<span style="font-weight:bold;">あなたがたに平和があるように!</span>」と言われた後、「<span style="font-weight:bold;">父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす</span>」と、弟子達を神の国の働き手として派遣することを宣言されました。そして弟子達に息を吹きかけて「<span style="font-weight:bold;">聖霊を受けなさい</span>」と言われました。弟子達は、約束の聖霊を与えられ、神の国の人間として新しく生まれさせられたのです。 /n復活の主と弟子トマス  この最初の、イエス様から弟子達への祝福の場にいなかったトマスは、他の弟子達が「私達は主を見た」と言っても、「主に会ってその傷跡に触れなければ信じない」と頑なに信じることを拒みました。八日後、再び同じ奇跡が起こります。鍵のかかっていた家の真ん中にイエス様は立たれ、「<span style="font-weight:bold;">あなた方に平和があるように</span>」と祝福され、それからトマスに、ご自身の傷跡に触れるように促されます。そして、「<span style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい。</span>」と言われました。 トマスは、このイエス様の愛と赦しと励ましの前に自分の要求を捨てます。自分の思いにとらわれていたトマスにとって、主の愛に応えられる言葉は「わたしの主、わたしの神よ」という「信仰告白」だけでした。イエス様は信仰の次の次元を示されました。「<span style="font-weight:bold;">見ないのに信じる人は、幸いである</span>」。主を目で見ることの出来ない現代の私達にとっても、この御言葉は祝福のメッセージです。 /n「見ないのに信じる」  「見たから信じる」場合、「主を見る」という奇跡を望むようになります。そして、自分の希望する時に希望する形の奇跡を望み、「自分を主体」にし、神様を思い通りに動かそうという誘惑に襲われます。しかし奇跡は神様の愛の表れとして「神様が主体」として働かれるものです。 他方、「見ないのに信じる」場合、奇跡は条件ではありません。御言葉を聞き、御言葉を自分のこととして受けとめ、御言葉を日々の生活の中心に据えて、御言葉に従うことを繰り返すことによって成長し、神様から信仰に命を与えていただくのです。「<span style="font-weight:bold;">あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです</span>」(一ペトロ1:8-9) 幸いにも私達は、神様の一方的な愛によって、イエス様の福音を聞き、信じる恵みを得ています。限りある自分の感覚や判断が第一ではなく、謙虚に御言葉を聞き、信じ、従う者に変えられることを望みます。「見ないのに信じる人」として主の祝福の内に今週も歩んでまいりましょう。

「心を開かれる」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 33編1-11節 1 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。 2 琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。 3 新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。 4 主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。 5 主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。 6 御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。 7 主は大海の水をせき止め/深淵の水を倉に納められた。 8 全地は主を畏れ/世界に住むものは皆、主におののく。 9 主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。 10 主は国々の計らいを砕き/諸国の民の企てを挫かれる。 11 主の企てはとこしえに立ち/御心の計らいは代々に続く。 /n[使徒言行録] 16章11-15節 11 わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、 12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。 13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。 14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 15 そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。 /nはじめに  先週の礼拝で、パウロ達がマケドニアで伝道する使命を確信し、トロアスからマケドニアに向けて出発することを見ましたが、今日は彼らがサモトラケ島に直航し、翌日、港町ネアポリスに着き、そこから北西13キロにあるフィリピの町に滞在をした時の出来事です(聖書の後ろの地図8参照)。 /n伝道  当時のキリスト教伝道は、まず、伝道地にあるユダヤ人の会堂で「十字架にかけられて死んだあのイエスこそ、神の子・救い主である」こと、「罪を悔い改めてイエス・キリストの福音を信じることによって救われる」ことを宣べ伝えていました。しかし、このフィリピの町にはユダヤ人の会堂がなかった為、パウロ達は安息日を待ち、祈り場になっていると思われる川岸に出かけて行きました。そこには祈る為に集まっていた婦人達がいたのでパウロ達もそこに座りました。そしてこれまでのように、イエス・キリストの生涯と教え、十字架の死と復活の出来事、天に昇られたイエス様は今もなお私達に聖霊を送って下さり導いて下さっていること、イエス・キリストを通して私達は父なる神様を知ることができること、私達はイエス・キリストを信じることによって、恵みによって救われ、永遠の命をいただけることなど、ここでも真剣に語ったでありましょう。 /nひとりの婦人  婦人達の中にリディアという女性がおりました。14節後半に「主が、彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」とあります。神様を崇めていたリディアの心を神様が開いてくださることによって、リディアはパウロの語る言葉を聞いて、信じることができたのでした。 /n信仰  イエス様が生きておられた時代は、イエス様が神の子であり救い主であることを信じるように人々は招かれ、悔い改めてイエス様を信じる者は救われて、平安と喜びが与えられました。イエス様が死なれて、三日目に復活され昇天された後は、弟子達によってイエス様の十字架の死と復活が語られました。「イエス様は、神様が人間を救う為に遣わして下さった方であり、十字架は私達の罪の赦しのためであり、私達は罪を悔い改め、イエス様を信じることによって救われる」ことが語られました。 信仰は、弟子達(宣教をする者)を通して語られる神様の言葉を聞いて、信じて受け入れることです。神様からの呼びかけに対する人間側の応答として「信じて従っていこう」という自己決断です。ところがコリントの手紙では、「<span style="font-weight:bold;">誰も、聖霊によらなければ『イエスは主である』とは言えない</span>」(12:3)とあり、又、ガラテヤ書には「<span style="font-weight:bold;">霊を受けたのは、福音を聞いて信じたから</span>」とあります。それゆえ信仰は、聖霊の助けなくしては自己決断が出来ず、福音を聞いて信じる用意がある時に聖霊が与えられることを知ることができます。 /nリディアの申し出  リディアは、パウロ達一行の滞在先として自分の家を開放したいと申し出ます。15節には「無理に承知させた」とありますので、パウロ達は、この申し出を初めは断っていたようです。その理由として考えられるのは、パウロ自身、自分の生活は自分の労働で支えることを原則にしていたことです。彼は手紙で、「私達は、・・誰からもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、誰にも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利が私達になかったからではなく、・・(略)。私達は『働きたくない者は、食べてはならないと命じていました。』」と書いています。 さて、リディアの心を開いて下さったお方は、今も私達に働いておられます。私達も神様の前に心を開かれるように聖霊の導きを祈りましょう。そしてそこから、他者への愛の行為へと導かれたいと願うものです。

「伝道旅行を導く聖霊」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 81編6b-11節 6b わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。 7 「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。 8 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。〔セラ 9 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。 10 あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。 11 わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。 /n[使徒言行録] 16章1-10節 1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。 3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。 4 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。 5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。 6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。 7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。 8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。 9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。 10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。 /nはじめに  今日の聖書には二つのこと・・パウロが伝道旅行先でテモテという青年に会い、彼を助手として伝道旅行に連れて行くために割礼を授けたこと。もう一つは、パウロ達の伝道がすべて聖霊の導きによって行われたこと・・が記されています。 /nテモテへの割礼  テモテは祖母も母もユダヤ人でしたが父がギリシャ人だった為、割礼を受けていませんでした。パウロは、エルサレム会議で「異邦人には割礼を強要しない」という立場を貫き、会議でもそのように決定されたので、パウロにとってはテモテが割礼を受けていないことは何の問題もありませんでした。しかしテモテを伝道旅行に連れて行く(伝道者の一人として)に際して、ユダヤ人をつまずかせない為にテモテに割礼を授けます。  「<span style="font-weight:bold;">私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです・・</span>」(?コリント9:19-20)。と、パウロはコリント書で書いています。テモテも又、それを受けました。 そして「<span style="font-weight:bold;">教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えて</span>」いきました(5節)。 /nパウロの見た幻  二つ目の出来事は、パウロ達の伝道がすべて聖霊の導きによって行われていったということです。彼らはアジア州での宣教が「<span style="font-weight:bold;">聖霊から禁じられた</span>」(6節)とあります。今回の伝道旅行は、第一回の伝道旅行で救われた人々を再び訪問し、力づけ、励ますことが主な目的でした。祝福されるべきこの伝道の道が閉ざされたのです。そこで、別の経路を選びますが、今度はビティニア州に入ることを「<span style="font-weight:bold;">イエスの霊がそれを許さなかった</span>」 (7節)のです。なぜ自分達の進む道がこのように阻まれるのか、自分達がどこに向かっていくのかわからないまま、彼らは残された道を進んで行き、そして到着した場所がトロアスでした。  当初の伝道旅行の計画にはなかった、この海沿いのトロアスに到着した時、パウロはある幻を見ます。一人のマケドニア人が立ってパウロに助けを求めたのです。パウロは翌朝、自分の幻を同行者に伝え相談しました。そしてこの幻は「マケドニアで御言葉を伝えるように」との「主の導き」に違いないと確信したのです。  この時からパウロ達は東から西へ、小アジアからヨーロッパへ、その歩みをすすめることになりました。 /n伝道旅行を導く聖霊  伝道は、イエス・キリストのご命令であり、キリスト教の命です。もしキリスト教が伝道をやめてしまったら、それはもはやキリスト教ではないとさえいわれます。なぜなら伝えていく時に、聖霊が働き、神様のわざが起こり、信仰者が生れるからです。  私達は、祈りが聞かれ、神様のわざが起こる時に「聖霊が働いた」と告白します。しかし、行こうとする右の道が閉ざされ、さらに左の道も閉ざされた時はどうでしょうか。私達の願う計画と、現実に導かれる道とは必ずしも一致しないことは、私達も又、経験するところです。  確かなことは、その目的が御心にかなうものである限り、祈りつつ進む時、神様は必ず働いて下さり、時がくればその一つ一つの意味が明らかにされるということです。分からない時は分からないままにそれを受けて、祈りつつそれに従うこと、そして今、出来ること・与えられていることをしながら、御心が明らかになる時を待つ・・そのことの大切さをここから学びます。  私達は刺繍の裏側を見るように、目の前に起こることの意味がわからず、一喜一憂しがちです。しかし私達は、美しい模様を描かれる神様を知り、神様に知られているゆえに、神様を絶対信頼し、今週も歩みたいと願うものです。

「励ましに満ちた決定」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 119編65-66節 65 主よ、あなたの御言葉のとおり/あなたの僕に恵み深くお計らいください。 66 確かな判断力と知識をもつように/わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。 /n[使徒言行録] 15章22-41節 22 そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。 23 使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。 24 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。 25 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。 26 このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。 27 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。 28 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」 30 さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。 31 彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。 32 ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、 33 しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。 35 しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。 36 数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」 37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。 38 しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。 39 そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、 40 一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。 41 そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。 /nはじめに  本日の聖書には、エルサレムの教会会議の結論を伝えるためアンティオキア教会に戻るパウロとバルナバ達に伴い、エルサレム教会は、バルサバとシラスという指導的な立場にいた二人を派遣したことが記されています。この二人には、会議の決定が記された手紙が託されました。手紙はアンティオキア教会だけではなく、シリア州やキリキア州のすべてのキリスト教会に宛てられたものです。キリスト者達はお互いに緊密な交わりの中にあって、異邦人キリスト者達に向けられた割礼や律法の論争のことは聞いて知っており、その結果に注目していたと考えられます。 /n託された手紙  手紙の最初には、異邦人に対しての割礼や律法の強要は、エルサレム教会の関知しないところで勝手になされたことを明らかにします。そして、「このバルナバとパウロは、私達の主イエス・キリストの名のために身を献げている人達です。」と、二人のこれまでの伝道が献身的であり、二人が信頼するに足る人達であることを証言します。そして、パウロ達の報告に加えて、さらにバルサバとシラスが会議の結論について説明することが書かれ、最後に、会議で決まった4項目が記されていました(15:29)。 /n励ましに満ちた決定  異邦人キリスト者に求められた4項目は、ユダヤ人キリスト者と交わる上で最低限守ってほしい事柄だけでした。この手紙を読んだ異邦人キリスト者は、彼らに重くのしかかっていた「割礼」の問題も「律法」からの重圧からも解き放たれ、励ましに満ちた決定を知り喜びました。 /n信仰  信仰は律法主義に陥る時、力を失います。イエス様が地上にいらした時、ファリサイ派や律法学者とよく戦われました。律法には安息日の規定が細かく記されており、ファリサイ派や律法学者はいかに完全に規定を守るかを研究していました。それが神の国に入る条件だと考えていたからです。イエス様は、律法を表面だけ守っても、そこに心がなければ意味がないことを教えられました。律法主義は人の目を気にし、又、自分の行為を人に見せたがります。それに対してイエス様は、良いことをする時は、隠れてするように教えられました。なぜなら隠れたことを見ておられる神様が報いて下さるからであり、それをおおやけにするならば、すでにこの世で報いを受けてしまっているからです(マタイ6:1-)。 神様を信じ、イエス・キリストを信じることは、律法の束縛の中に入ることではありません。そうではなく逆に、あらゆる束縛から自由になるのです。神様が共にいてくださる時、私達は人間の本能や欲望にひきずられることなく、こうありたいと願う方向へと導かれます。たとえば「○○してはいけない」という律法で「しない」のではなく,「神様に喜ばれたい。悲しませたくない」から自ら「しない道」を選択するのです。 /n衝突、そして別行動  今日の聖書の後半には、その後の一つの事件-パウロとバルナバとの衝突-が記されています。その結果、二人は別々に伝道旅行に旅立ちます。出会いの時から共に歩み、共に戦ってきた伝道の日々を考えるならば、二人の意見の衝突や別れは、どんなにつらいものだったかと想像します。しかしここで私達は、互いの一致と確信のないままで、前に進むことはできないことをも知ります。与えられた課題に真剣に向き合い、聖霊の導きを祈り、確信をもって歩むことの大切さを学びます。 対立した二人の関係がこれで終りになることはありませんでした。コリント書ではパウロがバルナバを尊敬していたことが記され、衝突の原因になったマルコについては、パウロがテモテに「マルコを連れてきて下さい。彼は私の務めを良く助けてくれるからです」(テモテ二4:11)と書いています。一時の間、別々の道を歩むことになっても、神様の憐れみと愛の中にあって、再び共に働く時が与えられることを知ります。 仙台南伝道所も、外から内から試練を受けることがあります。その時、私達は正しい信仰に固く立ち、正しい判断へと導かれて一致して戦えるように、そのような群れへと神様に育てていただきたいと願うものです。

「主の復活と最初の証人」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 16編7-11節 7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 /n[ヨハネによる福音書] 20節1-18節 1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 /nはじめに  教会暦では主の復活後50日間を復活節として守ります。この復活節の期間、特に主の復活の恵みを覚えて過ごし、今日は「主の復活の出来事」について、共に学びたいと思います。 /nマグダラのマリア  イエス様が墓に葬られて三日目、イエス様の墓に最初に行き、遺体が消えたのを発見するのは「マグダラのマリア」です。彼女は主の十字架を見守った一人でもあります。マグダラのマリアは、イエス様に七つの悪霊を追い出してもらいました(ルカ福音書8章)。彼女は多くの罪をイエス様によって赦され、その後、主に従うことを赦された人間です。マリアのように罪の苦しみを知っている者こそ、救われる恵みを深く感謝でき、主に従う覚悟ができると思います。今、自分の中に逃れ得ない罪を覚える方、自分一人で戦っていても、もとに戻ってしまう方こそ、イエス様の恵み・・罪から解放される喜び・・を知っていただきたいと思います。イエス様が神の御子であることを信じて、その御力を頼みとして、救いに与(あずか)っていただきたいと思います。 /nマリアの悲しみと絶望  マグダラのマリアは、主の遺体が消えたという情報を弟子たちに伝えに行きますが、その後も墓へ戻り墓の外で泣いておりました。彼女はイエス様の死によって、み跡に従って歩む幸いを奪われて絶望していました。彼女は、死の世界の象徴である墓の方を見つめ、イエス様の遺体の在り処を知りたいと願うばかりでした。自分の狭い考えの中での、最善の希望に固執して、それがかなわないことで絶望したのです。人間の悲しみは このように、死や暗闇の方向ばかり見ていることや、自分の考え・感情に囚われることからくる場合が多いのではないでしょうか。 /n墓=死・生=命  そのようなマリアに、墓(=死の方向)とは180度逆の、生(=命)の世界から、主は声をかけて下さいました。自分の感情に囚われていたマリアは、その声が初めは墓地の管理人だと思いますが、イエス様が「マリア」と名前を呼んで下さったことでイエス様に気付きます。当時、名前を呼びかけることは人格の交流を意図していたそうです。イエス様の呼びかけは、こういう表現になるのでしょうか・・・ 「マリア、救い主としての私が呼びかけている! 私は、死の世界からではなく、天地創造の神の御子として、命を与える『生』の世界からやって来たのだ! 死の世界を見ていては救われない!こちらを向いて、生きている私の方に付きなさい。私は預言通り、三日目に復活した!」 /n復活の証人  マリアが最初の復活の証人として授かった役割は、イエス様が「兄弟達」と呼んで愛した弟子達に、「私の父であり、あなた方の父である方、又、私の神であり、あなた方の神である方の所へ私は上る」、と告げることでした(ヨハネ16章-17章)。イエス様は、ご自分が神様の御子としてこの世に遣わされ、神様のご計画通りに歩み、最後は再び父なる神様の右に挙げられることを証しされていました。まさしく、神様がこの世の私達に、約束を守って働いて下さっているということです。 /n聖霊の助けをいただいて与えられる信仰  イエス様の復活の出来事を信じるか否かは、その証を聞いた者が、それを真実として受け入れるか否かです。人智を超えた不思議な出来事を受け入れるには神様の助けが必要です。「聖霊の助けをいただく」のです。イエス様が、ご受難の前に約束された、その霊です。 復活節の期間、主の復活を通して、神様の大いなる御力に思いを馳せ、神様を畏れ敬いながら歩んでまいりましょう。神様と御子イエス様が、死に勝利され、罪や死の世界から私達を解放して下さり、もはや、かつてのように、苦しむ必要はありません。その恵みに感謝し、神様の愛に応えるべく、主にあって喜びながら共に歩んでまいりましょう。

「恵みによって救われる」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 60章1-3節 1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。 2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。 3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 /n[使徒言行録] 15章1-21節 1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。 3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。 4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。 5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。 6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。 7 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。 8 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。 9 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。 10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。 11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」 12 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。 13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。 14 神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。 15 預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。 16 『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。 17、18 それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』 19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。 20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。 21 モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」 /nはじめに  今日の聖書は、見出しに「エルサレムの使徒会議」とありますように、イエス・キリストの福音が正しく宣べ伝えられていくために、正式な会議を必要とするほどの問題が起こったこと、そしてその会議を通して意見の対立がおさまり、重要なことが決定したことが記されています。そもそも、信仰の世界に会議など必要かと疑問に思う方もおられるでしょう。信仰は一つ、真理も一つですから、正しい信仰を持ち合わせていれば、意見の対立などないのでは・・と考えるのは自然です。しかし2節に、パウロやバルナバと、(異邦人にも割礼を要求する)ユダヤ人キリスト者の間に、激しい意見の対立と論争が生じたとあります。なぜでしょうか。 /n論争点  問題は、「異邦人キリスト者にも割礼が必要か。そしてモーセの律法を守らせるべきか」でした。厳格なユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人は、異邦人キリスト者も又、律法を守るべきであり、割礼も当然受けるべきであると主張しました。パウロやバルナバは、律法や割礼を否定していたわけではありません。むしろ、律法を神の御心として大切に守っていたことでしょう。けれども、律法を守らなければ、そして、割礼を受けなければ、神の恵みの中には入れない、救われないと主張する点においては、彼らに同意することは出来ませんでした。神様の恵みは、イエス様を信じる信仰において現れたからです。もし律法を守らなければ救われないという条件を付け加えるならば、それは、信仰からもイエス様からも外れることになることをパウロ達は主張しました。この議論は決着しなかった為、アンティオケ教会はパウロとバルナバの他、数名をエルサレムに派遣しました。 /nエルサレム会議  会議では「異邦人改宗者は、旧約の律法なしに救われるのか、それとも、律法を守らなければ救われないのか」、どちらが正しいかを判断する会議でした。議論を重ねた後、ペトロが自分の体験を語りました。それは以前、幻によって異邦人コルネリウスの家に行き、福音を語った時、集まった多くの異邦人に聖霊が降った出来事です(使徒10:44-)。ペトロは、この聖霊の賜物の中に神様の完全な恵みが含まれているのを見ました。人間は御霊によって神様と結ばれ、キリストと一つとなり、赦し、あがないにあずかり神の国の一員とされるのです。律法を持たず汚れていた異邦人に、神様は信仰を与えることにより彼らの心を清められました。心の中に御言葉が保たれてイエス様に従うことが、キリスト者の清さであること。又、律法を守らせたり、割礼を受けさせようとすることは、先祖や自分達が負いきれなかった軛(くびき)を負わせることであり、神様を試みることになること。神様は、イエス・キリストの恵みによって、私達に永遠の賜物を与えて救いに入れて下さることを語ったのです。 /n全会衆は静かになり、一致に向かう  ペトロに続き、バルナバとパウロも自分達を通して神様が異邦人の間で行なわれたすべての不思議な業を証言しました。又ヤコブも、異邦人キリスト者のことは旧約聖書に預言されており、すべての国民のために神の国は開かれているのであるから、異邦人を悩ませずに以下の三つのことだけを守るように・・第一に、偶像にささげられた肉から遠ざかること。第二に、みだらな行い(たとえば遊女との交際)を避けること。第三に、絞め殺した動物の肉と、血とを避けること(律法では、血は命の担い手として尊重することを求めている)を提案し、会議はこれを承認しました。 私達は今日の聖書から、人は律法を守ることで救われるのではなく、主イエス・キリストの恵みによって救われることを深く心にとめたいと思います。又、意見の対立は起こり得るけれども、神様を仰ぎ、御心と御言葉に耳を傾ける時に教会に一致がもたらされることを覚え、キリストの恵みから離れずに信仰の歩みを続けていきたいと願うものです。