「信仰に踏みとどまる」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 121編1-8節 1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 /n[使徒言行録] 14章21-28節 21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、 22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。 23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。 24 それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、 25 ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、 26 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。 27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。 28 そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。 /nはじめに  今日の聖書には、パウロとバルナバがデルベという町で伝道し、多くの人々が信仰をもったこと、その後、これまで通って来た道を引き返しながら、今回の伝道により新しく出来たキリスト者の群れを訪問したこと、その後、自分達を送り出してくれたアンティオキアの教会に帰ってきたこと、そこで伝道の報告会をしたことなどが記されています。今日の聖書から、いくつかの言葉に注目してご一緒に学びたいと思います。 /n「引き返しながら」(21節)  これまで先に先にと進んできたパウロとバルナバでしたが、二人を送りだしたアンティオキア教会に戻るにあたり、デルベからその先のタルソス(パウロの故郷)を通って帰ることも可能でした。しかし彼らは石を投げつけられて逃げるように出てきたリストラの町や、暴力をふるわれそうになったイコニオンの町へ引き返すという、大変危険なコースを選びました。 /n「弟子達」(22節)  この「弟子達」とは、伝道によって新しくイエス・キリストの弟子とされた信者のことです。クリスチャンとは、言い換えればイエス・キリストの弟子になった人(弟子とされた人)のことです。復活されたイエス様は、弟子達に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われました。伝道の目的は、すべての民をキリストの弟子とすることです。イエス・キリストを信じて従うことを願う人達が起こされること。そして弟子になること、それこそが、伝道の最終目的といえるでしょう。 /nイエス・キリストの弟子になること  イエス様は「<span style="font-weight:bold;">私は道であり、真理であり、命である。</span><span style="font-weight:bold;">私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない</span>」と言われました(ヨハネ14:6)。イエス様を神の子と信じてイエス様に従う者(イエス・キリストの弟子)は、真理の道・光の道を歩くように導かれます。そして永遠の命を与えられ、父なる神様のもとに行くことが出来るのです。これが聖書の約束です。 /n「<span style="font-weight:bold;">信仰に踏みとどまる</span>」(22節)  パウロとバルナバは帰り道、新たにキリストの弟子とされた人達を力づけ励ましました。危険を冒してまで引き返したのは、このためでした。二人は「私達が神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と語りました。「多くの苦しみを経る」とはどういうことでしょうか。 外なる戦いには、反対者から受ける攻撃があります。キリスト教国でない日本では家庭の宗教ではないと家族から冷たい目をされたり、教会に行くことを反対されるケースは多く存在します。クリスチャンが嫁ぎ先で教会に行くことを認めてもらえないケースもあります。日曜出勤や町内・学校などの行事も多い中で、信仰生活・教会生活の継続のための戦い・労苦もあります。 さらに、内なる戦い、労苦もあります。私達の、生まれながらの肉の働きがあります。聖書では、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、などを挙げ、これらを持つ者は神の国を受け継ぐことはできないといっています(ガラテヤ5:19)。私達は肉体をもってこの地上に生き、人々の中で生活しており、この世のあらゆるものから影響を受けています。そのような中での「信仰生活の継続」は、苦しみ・戦いが伴います。イエス様は「<span style="font-weight:bold;">私についてきたいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。</span>」と言われました。 /n信仰は、火で精錬され、試練によって本物と証明される(一ペトロ1:7)  生きていく途上においては、さまざまな試練・労苦があります。しかし私達は信仰に踏みとどまらなければなりません。イエス様の弟子とされた者は、神の民として、この世に身を置きながら神様の支配のもとに生きています。私達が聖霊の導きによって生きる時、み霊の結ぶ実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の道を歩くことが出来ます。(同ガラテヤ)。私達はイエス様から目を離してはなりません。全生涯を通して自分に与えられる課題に向き合いながら、日々、イエス様の生ける命の水を飲むことで新しくされ、出発していきます。  後略。

「洗礼者ヨハネの使命」 平賀真理子 伝道師

/n[マラキ書] 3章23-24節 23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 /n[マルコによる福音書] 6章14-29節 14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保/護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の素晴らしい御業の噂が広まりガリラヤの領主ヘロデ王にもその噂が届いたこと、ヘロデ王はイエス様を、自分が処刑した「洗礼者ヨハネ」の生き返りの人物として恐れたことが書かれています。 /n洗礼者ヨハネ  ヨハネはイエス様の親類であり、祭司の息子でもあり、由緒正しく、荒野で禁欲生活をしていた人物でした。ルカ福音書に「神の言葉がザカリヤの子ヨハネに降った」とありますから、ヨハネは神の言葉を託され、選ばれた「預言者」でした。約四百年間、預言者は出ていませんでしたので、久々に優れた人物を見た民衆の中には、ヨハネこそ「救い主」ではないかと期待した者もいました。しかしヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道を真っ直ぐにせよ』と。」と語り、自分は「救い主が来る前に人々の心を神様に向ける」救い主の「先駆者」にすぎないと答えています。このヨハネがイエス様に洗礼を授けた時、イエス様の上に天から聖霊が降り「これは私の愛する子。これに聞け」という神様の声がしました。ヨハネは「この方こそ神の子である」と証ししたと聖書に記されています。 /nヘロデ・アンティパス  ヘロデ大王の息子、アンティパスは、兄弟の妻を盗るという律法違反を犯しました。ヨハネは決然とこのヘロデ王を断罪しました。やましさを感じていたヘロデ王はヨハネを捕えて牢に入れ、自分の悪評を封じ込めようとします。悪は公けになるのを嫌い、隠れたがります。それでもヘロデ王は<span style="font-weight:bold;">「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお、喜んで耳を傾けて」</span>いました。 /nヘロデ王、ヨハネを殺す  しかし彼は、妻や娘の悪だくみと自分の見栄やメンツによりヨハネを殺してしまいます。「王は非常に心を痛めた」(26節)とありますから、かなり不本意な結果だったのでしょう。欲望に流されて決断の基準がない人間の愚かさが表れています。彼は、正しいと信じた預言者を殺してしまったことに自責の念を持っていました。それで、死んでしまったヨハネをその後も恐れていて、イエス様のうわさを聞いた時、洗礼者ヨハネが生き返ったと恐れたのです。 /nヨハネとイエス様の死  洗礼者ヨハネの生涯は、神の子・イエス様の生涯を予め示しています。この世の権力者が不正な方法で(とても納得できない形で)、神様が遣わした正義の人を殺す。洗礼者ヨハネは権力者ヘロデ王に、そしてイエス様ご自身も、当時の宗教指導者や政治権力者に殺されました。どちらも正しいことをきっぱりと述べたことによる、権力者側の反発からでした。 /nメシアが来る前にエリヤが来るとの預言  当時、「メシア(救い主)が来る前にエリヤが現れる」(マラキ書)と言われていました。イエス様は、<span style="font-weight:bold;">「その人はすでに来た。しかし人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子(ご自分のこと)も、そのように人々から苦しめられることになる。」</span>と言われ、それは、洗礼者ヨハネのことだと弟子たちが悟った、と、マタイ福音書にあります(17:12-13)。 こうして、すべての預言は成就していきました。 /n受難節  今は受難節です。イエス様が早い時期から、人々の罪を贖うために、苦しみの道、死の道を覚悟されていたことを覚え、人間としての罪の重さを思い、主の贖いへの感謝の思いを強くしたいと思います。神様の基準に自分を合わせずこの世の浅はかな価値観、自己中心的な考え方・・から遠ざかれるよう、祈り求めたいと思います。具体的には、この世に力を持つ「悪魔」の策略に対抗して立つことができるように、神様が与えて下さる武具(エフェソ6:10-)を身につけたいと思います。

「生きておられる神」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 19編2-7節 2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。 6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように 7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。 /n[使徒言行録] 14章8-20節 8 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。 9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、 10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。 11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。 12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。 13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。 14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで 15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 16 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。 19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。 20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。 /nはじめに  今日の聖書には、リストラ(地名)で起こった3つの話が記されています。一つは、生まれた時から歩いたことがなかった男の人がいやされた話。二つ目は、パウロとバルナバが、神の化身と間違えられたこと。三つ目は、追いかけてきたユダヤ人達により石を投げつけられ、倒れたことです。 /nまことの癒し主  9節に、「この人が、パウロの話を聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」たとあります。ロマ書に、<span style="font-weight:bold;">「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」(10:14)</span>とあります。この男の人はパウロの話に耳を傾けました。信仰はまず聞くことから始まります。そしてこの人は聞いたことを信じて聴き続けました。パウロは彼を見つめ、彼の信仰を見て、彼の信仰がいやされるにふさわしい信仰であることを認めて、大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と呼びかけました。この呼びかけは、神様から聖霊をいただいているパウロを通しての、神ご自身の呼びかけでもあります。この人は、この呼びかけによって、生まれて初めて「自分の足で立ち、躍り上がって歩き出し」ました。14章の3節に<span style="font-weight:bold;">「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」</span>とありますが、この不思議な業の主体は常に「主」イエス・キリストであることを、使徒言行録は伝えています。これによって賛美され、崇められるべきお方は神であり、主キリストです。 /n伝説  この地方には、かつてゼウス神と、神の使いヘルメスが変装して地上を訪問した時、神と知らずに冷たく迎えた者と、暖かく迎えた者についての伝説がありました。人々は今目の前で起こったいやしの行為者であるパウロとバルナバを神の化身として崇め、二人にいけにえを捧げようとしました。それを知った二人は、驚きと嘆きで服を裂き、群衆の中に飛び込んでいきました。そして、群衆の誤った神に対する考え方を正し、天地創造主である本当の神、「生ける神」に立ち帰るように叫びました。 /n「生ける神」  生ける神とは「天と地と海と、その中にある全てのものを造られた神」(15節)のことです。この神様と比べるなら人間の手による偶像は無の世界、死の世界に属します。生ける神様は、異邦人にはこれまで彼ら自身が悪の道を歩むに任せておられたので、異邦人は、神について勝手に自分達で考え出した宗教を作り、空しい偶像を作り出しました。しかし神様は異邦人にご自分を現す手段として、天から雨を降らせ、雨と共に土を豊かにして実りの季節を与え、食物を得ることによって彼らの心を喜びで満たして、神様のいつくしみを表わしてきました。この、心に喜びが与えられるという神様のいつくしみの業こそ神様のしるしであるから、今こそ空しいことを捨て去り、パウロ達を神々として祭るような、馬鹿げた愚かな、古い宗教に終止符を打ち、生きて今も働いておられる神様に立ち帰るよう説得したのでした。 /n石打ち  この後、伝道を阻止しようとやって来たユダヤ人達が、又もや群衆を扇動してパウロ達に石を投げつけました。パウロは倒れたまま動かなくなったので、ユダヤ人達は死んだと思い町の外へと引きずり出しました。20節にはパウロの周りを「弟子達」が取り囲んだとあります。「弟子達」とは新しくイエス・キリストを信じた人々です。このリストラの地でも、新しいキリスト者の群が生まれていたのです。死んだように見えたパウロでしたが、神はパウロを殺させませんでした。彼は起き上がり、町に再び入り、翌日には、次の伝道地デルベに向かいました。ここに、パウロの命を守り、起き上がらせ、歩く力を与えておられる主イエス・キリストの力を見ます。伝道は着実に前進していきました。

「人々の不信仰、神の御計画」 平賀真理子 伝道師

/n[エレミヤ書] 23章5-6節 5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。 6 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。 /n[マルコによる福音書] 6章1-13節 1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。 /nはじめに  イエス様は故郷に帰られました。故郷を訪れたのは、人々に悔い改めを勧め、「神の国」の到来を告げる為でした。故郷でのイエス様の宣教は、神様の権威をそのまま映したような教えであった為、人々は驚きました。ところが人々は、先ず、イエス様の学びの経歴や、奇跡の業の出所を疑い、父親が大工であり、家族・家柄をよく知っていることから、イエス様の話されることに対して疑いをもちました。子供時代を「知っている」「知られている」ことは、互いの心に大きなイメージ(先入観)を残すものです。少年時代のイエス様については、「神と人とに愛された」とルカ福音書にあります。しかしイエス様の成長の過程を見てきたと自負している故郷の人々にとって、イエス様は自分達と同じ延長線上にいる人間であり、ユダヤ人が何千年も待望していた「救い主」と認める(受け入れる)ことは困難であったと思われます。私達は、「人は中身!」と口先では言っても、家柄、学歴、職歴、身分など外面的なもので評価してしまう傾向があります。自分自身が「中身を大事にする」生き方をしていないと、本物がわからないのではないでしょうか。ロマ書に<span style="font-weight:bold;">「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」</span>(8:5)とあります。私達は「肉」ではなく「霊」の部分をまず第一に生きているかを吟味したいと思います。 /n「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」  この言葉は他の文献にもあるそうで、当時の常識だったのでしょう。故郷での人々については実りが少ないことも予想されながら、それでも故郷の人々にも悔い改めを得させ,「神の国」の訪れを知ってほしいとのイエス様の愛による帰郷だったのではないでしょうか。しかし「人々はイエスにつまずき」(3節)ました。イエス様の奇跡の業を受ける信仰がありませんでした。人々の態度は硬い壁を叩くようなものだったのでしょう。人々の不信仰は、御子イエス様との交流の恵みを自ら捨ててしまったのでした。しかしイエス様の宣教の歩み=神の御計画=を止めることはありませんでした。いや、そうであるからこそ、進めなければならなかったのでしょう。 /n二人一組での宣教  付近の村を宣教された後、イエス様は12人の弟子達をご自分の代理として派遣されました。弟子達は二人ずつ一組で,イエス様の権能を授けられ、各地に行って働くことを求められたのです。その働きとは、人々を悔い改めさせ、神の国のすばらしさを知らせることでした。それ迄の自分中心の生き方をやめ、心を神様に向け、神様の御心を第一にして生きることを教え、又、悪霊を追い出し、病気を癒すことでした。 /n「パンも、袋も、帯の中に金も持たず・・」  イエス様は派遣にあたり、悪魔の支配するこの世の力(物質)に縛られないため、食べ物やお金などを持たないよう命じられました。神の国を告げ知らせる者は、徹底してこの世のものに支配されることを排除するようイエス様は求められたのです。持つことを許されたのは、杖一本と履物でした。杖は神様の使者としての権威を表わし、履物は福音を告げ知らせる者の美しい足(ロマ10:15)を守るものだからでしょう。 /n「・・その家にとどまりなさい」  ある家に入ったら、そこにとどまるように命じられています。宣教が予想したほどすすまない時、何らかの理由をつけて場所を変えるならば、宣教活動に本腰が入らないからでしょう。とどまるということは宣教の拠点を置く(私達でいえば教会)ことです。その一方で、<span style="font-weight:bold;">「迎え入れず、耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行く時、彼らへの証しとして足の裏のほこりを払い落しなさい。」</span>(11節)と言われました。宣教が「聖なるもの」であり、神を受け入れない汚れた土地とは何の接点もあってはならないからであり、福音を伝えた後のことは、聞く側の責任であるということです。私達キリスト者は、一人一人が福音伝道者だといえます。神様の救いの働きに参加させていただいている恵みを感謝し、今週も、主の教えと歩みを思いつつ、過ごしてまいりましょう。

「主を頼みとする」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 119編57-64節 57 主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します。 58 御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、わたしを憐れんでください。 59 わたしは自分の道を思い返し/立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。 60 わたしはためらうことなく/速やかにあなたの戒めを守ります。 61 神に逆らう者の縄が/わたしをからめとろうとしますが/わたしはあなたの律法を決して忘れません。 62 夜半に起きて/あなたの正しい裁きに感謝をささげます。 63 あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人/わたしはこのような人の友となります。 64 主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。 /n[使徒言行録] 14章1-7節 1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。 2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。 3 それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。 5 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、 6 二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。 7 そして、そこでも福音を告げ知らせていた。 /nはじめに  今日の聖書は、使徒パウロとバルナバが、ピシディアのアンティオキアの町で伝道した結果、多くの人々がパウロの語るイエス・キリストの福音を信じて受け入れましたが、パウロ達にねたみを抱いたユダヤ人達が、パウロ達を町から追い出した、その後の活動が記されています。 /n追い出した理由  パウロとバルナバが町から追われたのは、二人の語るイエス・キリストの福音が、町中の人々の関心を集めて、多くの人々が二人のもとに集まってきたことがユダヤ人のねたみを買ったからでした。ねたみの感情がどれ程人間にとってコントロールがむつかしいか、私達は経験して知っています。人類最初の兄弟殺しとして知られるカインとアベルの話も、兄が弟をねたんだことから始まっています。相手を自分と比較し、相手が自分よりも弱ければ優越感を感じ、その逆ならば劣等感もしくはねたみをいだく・・。これが生まれながらの人間の罪の姿です。ユダヤ人達の妬みは発展し、貴婦人や町の有力者達を扇動して二人を町から追い出しました。 /n扇動  扇動とは人の気持をあおりたてて、ある行為をするようにそそのかすことです。イエス様が総督ピラトの裁判を受けていた時も、イエス様が無実であることを知ったピラトは、イエス様を助けようと恩赦の制度を持ちだしましたが、祭司長や長老達に扇動された群衆は、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と激しく叫び続けるだけでした。ピラトは暴動が起こりそうなのを見て手を引いてしまったのです。いつの時代でも、どこの国でも扇動される人間がいます。自分で善悪を判断することを放棄し、力ある側に身を委ね、長いものにはまかれろ式の生き方です。言いかえれば、変化を望まず、自分の身を安全圏に置き、自分が加担しているにもかかわらず、なされている事柄・結果に対しては責任を負いません。ユダヤ人達の扇動は成功し、パウロとバルナバは町を出ざるを得ませんでした。 /n真の勝利者  見えるところでは、パウロ達はユダヤ人達に負けました。しかし使徒言行録13章の終りには、「他方、弟子達は喜びと聖霊に満たされていた」とあります。弟子達とは、パウロとバルナバの伝道によって新たに救われた異邦人達のことです。すなわちこの地には、新しく信仰を与えられたクリスチャン達が残されました。彼らは喜びに満ち、聖霊を与えられていました。この事実こそ、イエス・キリストの「復活の勝利」の姿であり、福音を阻止した(阻止できた)と思いこむユダヤ人の敗北といえるでしょう。「私は犯罪人のように鎖につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。」(テモテ二2:9)とあるように、ここでユダヤ人達が追放したのは使徒達だけであり、神の言葉までは追放出来ませんでした。 /n主を頼みとする  次にパウロとバルナバは、約140キロも離れたイコニオンの町で伝道します。ここでも大勢のユダヤ人やギリシャ人が信じましたが、その一方で信じようとしないユダヤ人による扇動が起こり、二人に悪意を抱かせる妨害行為を受けました。しかし3節に、「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」とあります。迫害やあらゆる形の嫌がらせ、多くの誹謗中傷にもかかわらず二人は可能な限りイコニオンに長くとどまることが出来ました。なぜでしょうか。その理由は「主を頼みとした」からです。(イザヤ書30:15、詩編32:10、同62:8-9、同84:12-13、同125:1、箴言3:56参照)。 二人が語り伝える神様は、イエス・キリストの父なる神様であり、絶対信頼するに足るお方です。AD150年頃、小アジアのスミルナの主教のポリュカルポスは、信仰のゆえに捕えられましたが、彼に同情した役人からキリストを呪うなら許してやると言われて「86年の間、私は彼に仕えましたが、彼は私に何も悪いことはなさいませんでした。私を救って下さった私の王を、どうして呪うことができましょうか」と答えて殉教したと伝えられています。 常に、私達に先立って守り導いて下さる、父なる神様と、その神様をあらわして下さったイエス様と、今も共に働いてくださる聖霊に、私達も生涯をかけて信頼し、従っていきましょう。

「永遠の命を得る者・得ない者」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書] 42章5-9節 5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。 9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。 /n[使徒言行録] 13章42-52節 42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。 43 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 47 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」 48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。 49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。 51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。 52 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。 /nはじめに  アンティオケのユダヤ教の会堂で、次の安息日にも同じ話をして欲しいと頼まれたパウロとバルナバは、再び福音を宣べ伝えようと会堂を訪れます。この日、パウロとバルナバの話を聞こうと、町のほとんどの人々が集まってきました。この群衆を見た時、ユダヤ教の人々はねたみ、「イエス・キリストこそ、神の子・救い主であり、死に打ち勝って復活された方である」とのパウロの説教に対して、口汚くののしり、説教を妨害しました。 /n選民ユダヤ人は退けられる  パウロは彼らに対して、「神様の言葉はまずユダヤ人に語られ、救いはユダヤ人から始まることになっていたのに、あなた方は私が伝える神様の言葉を聞こうとはしない。あなた方は、みずから聞くことを拒んでいる。神様の言葉を聞いて信じる者は、永遠の命を与えられる恵みが約束されているのに、あなた方はみずからそれを受けるに値しない者にしてしまっている」と断罪します。更にパウロ達は今後、聞く耳をもたないユダヤ人にではなく、(ユダヤ人以外の)異邦人の救いの為に働くことを宣言しました。 /n二つの道の選択とその結果  それまで神様の救いや恵みから遠く離されていた異邦人達は、自分達にも福音が訪れたことを知り、喜びと讃美につつまれます。他方、ねたみを抱いたユダヤ人達は、ますます激しくパウロ達に敵意を抱き、町の有力な人々を巻き込んで迫害し、二人を町から追い出してしまいました。二人は町を去るにあたり、足のちりを払い落します。これはイエス様の教えでもありました。「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。誰もあなた方を迎え入れないなら、その町を出て行く時、彼らへの証しとして足についたほこりを払い落しなさい。」「どこかの町に入り、・・迎え入れられなければ、広場に出て行ってこう言いなさい。『足についたこの町のほこりさえも払い落して、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』」。(マタイ10:14・ルカ10:11)御言葉を聞いて信じるのか、拒むのか、その結果は御言葉を聞いた人と神様との間の問題です。伝道者は、宣べ伝える責任を果たした後の結果は神様に委ねるのみです。聞いて福音を受け入れた者には喜びが与えられ、賛美が生まれ、神様の恵みのもとで生き続ける道が開かれる。他方、聞いても福音を拒む人達は、ねたみと敵意の中で、力をもって相手を追い出すことに奔走し、救いの喜びも、神様の恵みも遠くに押しやっています。福音が語られるところではいつでも見られる二つの道と結果です。 /n永遠の命を得る者  私達は毎週、ざんげの祈りの後に、赦しのことばを聞きます。それはヨハネ福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の御言葉です。又、4章には「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(13-)とあります。永遠の命は肉体の死で終わる命と区別され、この世の死後にも続く永遠の中で生きる命、霊的な命と考えられています。この霊的な命、永遠の命を得るためには、霊によって新たに生まれなければなりません(同3:3参照)。つまり、悔い改めと信仰によって、イエス・キリストの復活の命にあずかり、聖霊を受けるということです。(ヨハネ福音書では、信じる者にはすでに永遠の命が与えられている・・11:26参照)。 /n永遠の命を得ない者  ここに登場したユダヤ人は、なぜ「永遠の命を得ない」道を選んだのでしょうか。彼らは、律法を守ることこそが永遠の命を得る条件であり、自分達は律法を行っている者であると自負していました。パウロが語る「人は律法を行い得ず、それゆえにイエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いがある」ことを受け入れようとしませんでした。自分の考え、思いを最優先にして、パウロを通して語られる、背後におられる神様に目を向けようとしなかったからです。私達は「信じない者ではなく、信じる者」(ヨハネ20:27)となり、永遠の命にあずかりましょう

「救いの言葉を聞く」 佐藤義子 牧師

/n[申命記] 28章1-6節 1 もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。 2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。 3 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。 4 あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、 5 籠もこね鉢も祝福される。 6 あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。 /n[使徒言行録] 13章13-41節 13 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。 14 パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。 15 律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。 16 そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。 17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。 18 神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、 19 カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。 20 これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。 21 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、 22 それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』 23 神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。 24 ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。 25 その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』 26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。 27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。 28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。 29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。 30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。 31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。 32 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。 33 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。 34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、/『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』/と言っておられます。 35 ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/と言われています。 36 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。 37 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。 38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、 39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。 40 それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。 41 『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、/お前たちにはとうてい信じられない事を。』」 /nはじめに  イエス・キリストの使徒、パウロとバルナバは、ピシディア州のアンティオキア(シリアのアンティオキアとは別)に到着しました。そこにはユダヤ教の会堂があり、安息日ごとに礼拝が守られていました。礼拝は「シェマー」と呼ばれる申命記6章4-9節の朗読から始まります。「シェマー・イスラエル」・・「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。次に祈りがささげられ、聖書が2か所朗読されます。一つは律法(旧約の最初の五つ)から、もう一つは預言書(イザヤ書からマラキ書)からです。今日の聖書は、この聖書朗読後にパウロが頼まれて語った説教です。 /nパウロの説教  大変長い説教ですが大きく三つに分かれ、第一部ではイスラエル民族の歴史を概観し、第二部ではイエス・キリストに先立って準備の道を整えたバプテスマのヨハネの言葉、そしてキリストの十字架による死と復活について語り、最後の部分で「罪の赦し」と「義とされる道」を語っています。今朝はパウロの説教から、最後の部分「だから、兄弟達、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(13:38-39)に注目したいと思います。 /n福音(良い知らせ)と警告  パウロは、人間の根源的な罪に赦しを与えてくださるお方として、神様が私達に送ってくださったのが「イエス・キリストである」ことを語りました。このイエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されていた方であり、神様の約束の成就として与えられた方であること。罪を犯されなかったのに死刑にされて墓に葬られました。しかし神様がこの方を復活させ、弟子達の前に姿を現されたこと、この復活も、旧約聖書に書かれていることの実現であると証言しました。そしてイエス・キリストを神の子・救い主と信じる者は誰でも罪から救われること。人間は行いによっては救われないことが語られました。そして、説教の最後には、神様を信ぜず、神様を畏れ敬わない者は、滅び去ることが旧約聖書に書かれており、それが自分に実現しないように警戒しなさいとの警告を発しています。 /n神の祝福を受けるために  今日読んだ申命記28章には、神様の祝福についての約束の言葉があります。非常に単純な教えで、神様に従うならば神様の祝福をいただけるという約束です。しかし裏返していうならば、神様に従わないならば、神様の祝福はないということです。この地上で、たとえ悪人が栄えているように見えても、その最後は滅びの世界が待っているということです。 /n救いの道  私達は、自分自身の生き方をしっかり見つめ直すことが大切です。なぜならロマ書7章にはこう記されているからです。 「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」。 「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。 「わたしは何とみじめな人間なのでしょう」。  このように自分自身の心の奥をのぞき、自分がみじめな人間であることを告白した時、初めて私達は、このみじめさから自分を救い出してくださるお方を求める道へと歩き出すのです。使徒言行録16章に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」とあります。又、ロマ書10章に「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とあります。神様が求めておられることは難しいことではなく、神様を信じる信仰です。  神様を信じ、御子イエス・キリストを信じて従うことこそ、惨めな私達が救われる唯一の道です。死に勝利した復活の主、イエス・キリストが私達に先立ち、導いて下さいます。共に、この道を歩いていきましょう!

「アダムとエバと私たち」 元東北学院 院長 倉松功先生

/n[創世記] 3章1―13節、16―19節 3:1―13 1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 3:16―19 16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」 17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。 19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 /n[ローマの信徒への手紙] 7章15―20節 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 /nはじめに  創世記一章の26節から28節にかけて、大変、重要な記事があります 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」そして、この人間以外のもの、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配し、治めと命じられました。人間が神にかたどり、似せて創られたことは、ユダヤ教やキリスト教が主張する「人間の尊厳」の根拠となっています。更に、人間以外のものを支配させようとの人間に対する支配の委託・命令は、「人間の尊厳」を強く固くしていると言えるでしょう。 /n創世記三章  ところが第三章では一転して、そのような人間が罪を犯し、罪に陥ることが記されています。最後の所で「(主なる神は)こうしてアダムを追放し」(24節)とあります。この追放というのは、アダムとエバが神に背いたということ、罪に陥ったという言い方も出来るでしょう。神に似せて神にかたどって創られ、人間以外のものを支配させようといわれたその人間が、神に背いて追放されるというのが、三章の内容です。  ご存知のように、イギリスの17世紀の詩人であるジョン・ミルトンが、失楽園(パラダイス・ロスト)という題で長い詩を書き、それにより、ここが失楽園と呼ばれるようになりました。人間が罪に陥り、楽園を追放されたその理由は何であったかということが、一つの問題点であると思います。 /n追放された理由  二つの理由が記されています。一つは、善悪を知る知恵の木の実を食べたからであること、もう一つは、神が取って食べるなといわれた木の実を食べたからということです。善悪を知る知恵の木の実を食べた。食べるなといわれたものを食べた。それで楽園を追放された、あるいは罪に陥る始まりだった・・なぜ知恵の木の実を食べて、罪に陥ることになったのか。 /n善悪を知る  幼稚園から大学-生涯、知恵の木の実を食べる、善悪を知ることは大事で、人間にとって最も必要なことです。現代社会において幅広い教養が必要であるし、更に、善悪を教え、善悪を知るということは重要です。 /n「それを食べると、目が開け、神のように・・なる」(1:4)  なぜそれを食べたのが悪かったかということは分かりにくいのですが、考えて見ますと「これを知ると神のようになる」との言葉が重要だと思います。人間は知恵が深まり知識が増え、善悪を知るようになったことによって、人間の世界・社会が、神のように何でも出来る、何でも行なう、いろいろなことをする。そういうことから危険をはらんでいく・・そういうことを含めているのかと想像します。いずれにしても、なぜ知恵の木の実を食べてはいけなかったのかということは、一つの問いとして残るように思います。それに対して、食べるなと言われた禁止命令に背いたと。これはもっと単純で分かりやすいように思います。 /n楽園追放の二つの理由  この話を主題としたミルトンの「失楽園」という詩の中では、食べるなと言った神の命令があることを知りながら、食べる方を選んだ「自由意志」を問題にしています。これを選んでこれを選ばない・・。これは人間の自由意志です。その選択の自由意志、これを問題にしています。ミルトンは、人間が自ら自由に神の命令に反することを選択した。ここに罪の原因があるというわけです。ミルトンによりますと、神に似せて造られた人間は、神について、あるいは善とか義とか、神の定めた律法について充分に知っていました。しかしそれを知っている理性に人間の意志は従わなかった。選ばなかった。これを問題にしています。そして私共は、ミルトンよりはるか前に使徒パウロが、人間の自由意志について、選択の意志について、同じようなことを語っているのを知っています。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ロマ7・18-)。パウロはさらに続けて「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同24節)と嘆いているのです。このパウロの自由意志の無力についての嘆きを、宗教改革者ルターは「不自由な奴隷的意志」と呼んでいます。 /n神に感謝する  しかしパウロもルターもこの嘆きを覚えながら、キリストによる救いを与えて下さった神に感謝しているのです。「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝しています」(25節)。自分の罪に嘆くその中で、パウロは神に感謝しています。ルターについて言えば、この奴隷意志・・意志が奴隷的だといった文章はルターの代表的な著作の一つになっています。一方では、人間の意志の奴隷的な性格を言いながら、他方では、神と人間が協力して、この世界を導いていくという思想を展開しています。パウロもルターも、選択の自由意志の罪ということを問題にしながら、しかし同時に救いを語っております。 /n選択の自由の限界  そのパウロやルターの時代よりも、17世紀のミルトンの時代よりも今日の私達の知識は豊かになり、情報が複雑、多様になり、善悪についても広く知るようになっています。それだけ私達の意志の選択が難しくなっている面があります。その難しさはとりわけ、企業や所属団体、国の内外の社会問題や政治問題における、善と悪・正と不正に見られます。しかし人間関係、宗教や信仰の問題において、あるいは人間の生活に関する局面において、パウロと私達とはあまり変わっているとはいえません。善意と悪意、愛と憎しみ、謙遜と高慢、何よりも自分自身の方に曲がっている自己愛・我欲などは、今日も聖書の時代と変わっているとはいえません。そうした日常生活の実態に目を向けますと、選択の自由の限界は明らかです。さらに選択の自由の不自由のみならず、欲する善を行なわない自由意志はどうなるのでしょうか。神はそのような私達の救いの為に、キリストを与えて下さっていることを私共は思わずにはおれません。それと共に、欲する善を行わずにいる生活に、救い、赦し、癒しがないとすれば、私達はどうなることでしょう。神の赦し、救いがないままで、自由意志の動くままに、自分の選びたいものを選んでいることになれば、知らないうちに心は荒廃し、神を畏れることもなくなるでしょう。私達はパウロと共に、神に感謝する生活を歩まなければならない、歩みたいと思います。そういう生活を与えられていることに感謝したいと思います。これが一つです。 /n悪の起源  もう一つ、ここで明らかにしておきたいのは、「自分の欲する善を行わず、望まない悪を行う」人間が、なぜ神によって造られたのか、です。悪の起源についての人間の問いは昔からあり、神は人間を創造する時、悪を行わず神に従って善を行うような意志をもつ人間を造るべきではなかったかという問いです。その問いに対する答えは長い歴史があります。結論だけを申しますと、例えば20世紀に出現したスターリンやヒトラーの全体主義の国家がしたように、いかなる反論も許さない。政治・信教・結社の自由がない人形のような人間と社会を、神は欲しなかった、ということがいえると思います。まさに人間に与えた自由意志によって、神は人間に尊厳を与えたのではないでしょうか。人間に選択の自由意志を与えることによって、初めて個性、その人自身の人格などが与えられたのではないかと思います。神が一律にスターリンやヒットラーのように、神の命令に一斉に従い、一斉になびくような、選択の自由意志のない人間を造ったとすれば、これこそ大変な社会-人形の社会になったと思います。選択の自由意志を持つ人間として造られたことは、そこに良心の自由、自由意志があり、それによって人間の尊厳、私自身の性格・特性・人格など・・が与えられていると見ることが出来ます。 /n救う自由はない  ただ、この自由意志は、選ぶことは出来ますが(善悪について)、自分の救いについて、救いを選び出す自由は持っていません。ですから選択の自由を誤った時は、心が荒廃し、神を畏れなくなりますが、しかしそれを救う自由というのは私共にはない。これがルターのいう「奴隷的」ということです。他方、今日の世界は、この「救いの自由」ではなく、人間の尊厳と選択の自由、信教の自由、結社の自由、良心の自由、それぞれの理由に基づいて、教会を作り、又、自分達に必要な団体を作っていくという事柄は、今日の世界文明の共通の価値になっています。それだけにアダムとエバに与えられていた「意志の選択の自由」という問題は今日も重要であるといえます。 /nアダムとエバへの罰則  第一の罰はへびに与えられました。蛇が人間に嫌われ、呪われるものとなっていることは、古代も今日も一般的なことかもしれません。第二の罰はエバに与えられたものです。女性の出産の苦しみと、男性に従えという男性への従属性です。女性の男性への従属性が罰となっている一つの起源は、創世記2章の、男を助ける者として、男のあばら骨の一部を抜き取って女を造ったという箇所によるでしょう。新約聖書でパウロは「女の頭は男。男は神の姿と栄光を映す者。女は男の栄光を映す者。」(1コリント11:3・7)と言っています。そのパウロが「主においては、男なしには女なく、女なしには男はない」と言っています。「キリストにおいて」ということによって価値の転換を言っているのです。 第三の罰は、男に対して、食べ物を得ようとして苦しむ。汗を流してパンを得る。労働の苦しみが神の命令に違反した罰として描かれます。日本を代表する新聞のフランス特派員が、フランス人のキリスト教徒は、労働は罪の罰だと捉えて、働くことをマイナスイメージで考えているとの報告を読んだことがあります。それはここからきているのでしょう。 /n新約聖書では・・  パウロは「働きたくないものは、食べてはならない」(2テサロニケ3:10)と語っています。東北を代表する思想家の一人、安藤昌益は「耕さざるもの、食うべからず。」と言い、福沢諭吉が、裕福な家庭に生まれてもぶらぶら暮らして衣食するのは道理に反すると戒めています。パウロはそれに続けて「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対しても品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」(1テサロニケ4:11-12)。つまり独立と品位を言っています。そして「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(エフェソ4:28)と言います。自分のお金で寄付し、困っている人を助けなさいというのです。パウロは働くことの意義を、1.働くことの尊さ 、2.独立と品位 、3.必要な援助、の三つをあげます。 /n神によって召しだされていることが天職  新約聖書では、働くことについて、結果を生む働きや職業ということだけでなく、それ以前に「一人の人間としてある」という意味で、天職(コーリング)と言っています。パウロはそれを「召された自分」(1コリント7:17)と呼んでいます。神が与えている使命、役割、それが「働く」ということにあるというのです。一人の人間が職業(定職につくかつかないかは別として)・・男であり、女であり、妻であり、夫であり、子供であり、両親である・・こういうことが、それ自体の中に神の召命、神の使命が与えられていることが、コリント第一の7章に記されています。 /n互いに仕えなさい  その上、人間のあり方として、自由を得るために、自由を与える為に、互いに仕えなさいと勧めています。一人一人のかけがえのない自由を、「奉仕する自由として用いなさい」が結論です。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」(ガラテヤ5:1)。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」(同13節)。 /nおわりに  失楽園の選択の自由意志の問題は、一人一人の人間の尊厳にかかわり、世界文明の価値です。他方この選択の自由は、欲しない悪を選ぶゆえに、赦しと救いを必要としています。 キリストによってそのような赦しと救いと、奉仕への自由という使命と課題を私共に与えて下さっています。そのことを覚えて、感謝しつつ、歩む者でありたいと思います。(文責:佐藤義子)

「救いの御業」と「あなたの信仰」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 145編10-21節 10 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 11 あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 12 その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 13 あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 15 ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 16 すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 17 主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 18 主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 19 主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。 20 主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 21 わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。 /n[マルコによる福音書] 5章21-43節 21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29  すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。 /nはじめに  今日の聖書は、異教の町ゲラサから、再びユダヤ教の町へ、イエス様がガリラヤ湖を渡って戻って来られたところから始まります。戻ってすぐイエス様のもとに、ユダヤ教の会堂長(会堂を管理したり礼拝の準備などをする、責任ある役職)のヤイロがやってきます。地位ある人々にとってイエス様とかかわることは、イエス様がそれ迄のユダヤ教の指導者達とは違った方法で人々をひきつけていることで、あまり良いことではなかったはずです。しかしヤイロは、最愛の娘が死にそうであり、この世に娘を救う力がないことを悟り、この世の価値観やプライドを全て捨てて「イエス様の御業による救い」に自らと娘を賭けました。「娘に手を置いてくれさえすれば娘は助かる」というヤイロの信仰に応え、イエス様は彼と共に出かけます。 /n救いの御力  ヤイロの娘を助けに行く途中、聖書には、長い間、出血に苦しんでいた「長血の女」が登場します。全財産を費やして病の回復を求めますが病気は益々悪くなります。病気という身体の辛さに加え、社会からも忌み嫌われ(汚れている者。レビ記15:25-)、精神的にも追い詰められていた筈です。主の救いを正面からねがうことも出来ない彼女は、それでも「救いの御力のおこぼれ」を願いイエス様の服に触れます。するとすぐに病気が癒されたことを感じました。注目すべきはその直後のイエス様の言動です。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『私の服に触れたのはだれか』と言われた」(30節)。癒しの奇跡。それはイエス様の御力が人の上に流れ出て起こるものであるということがわかります。ここで、更に思いめぐらせていただきたいのは、弟子達も言っている通り、多くの群衆が、さまざまの角度からイエス様の服に触れている場面です。その中で、主の溢れる御力をもって癒しのわざをいただいたのは、この世に救いがないことを知り、打ち砕かれた心で、切実な思いでイエス様により頼んだ「長血の女」だけだったのです。ひれ伏してすべてを告白した彼女に、主は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と祝福の言葉を贈られました。 /n「あなたの信仰があなたを救った。」  彼女を救ったのは主イエスの御力です。彼女の切実で、もうこれしかないと切羽詰まったその信仰、主の前にひれ伏すような全てを投げ打つ信仰によって、主の御力の一部が流れ出て彼女は癒されました。苦しい試練を耐え忍び、あきらめてしまわず、投げやりになってしまわず、どうせ私なんか救われる価値がないなどと言わずイエス様を信じた彼女の信仰に対してイエス様は喜ばれ,「もう病気にかからず、元気に暮らしなさい」という励ましの言葉をかけられました。この時代、病気は神様に罪を犯した罰と考えられていました。それゆえ女性は、身も心も癒されました。これが「長血の女」の身の上に起こった「救いの御業」です。 /n信じ続けなさい  イエス様がまだ話しておられる時に、ヤイロのもとに、娘が死んだという報告が届きます。しかしイエス様はヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われました。「信じなさい」の元々の言葉には、「信じ続けなさい」という意味が含まれています。「信じる」ことをやめずに信じ続けた結果、彼らは「ヤイロの娘が死から甦って生きる」という救いの奇跡の御業を見ることができました。 /n主を呼ぶ人すべてに近くいまし・・主を畏れる人々の望みをかなえ・・  私達の信仰はどうでしょうか。「この世に救いはない。主により頼むしか救われない」と、主の御前にひれ伏し、「救いの御業・恵みの御業」をいただく日々でしょうか。主は「打ち砕かれたあなたの信仰」を見ることを喜び、祝福して下さいます。詩篇145編は、倒れようとする弱い者を一人ひとり支え、苦しみや試練などでうずくまっている人を起こして下さる主に向かっての信頼が詠われます。主は、へりくだって、ただひたすら切実に主を求める者を憐れみ、救う為にすぐそばにいて下さいます。礼拝にあずかり、主が生きて働いて下さる幸いをいただきましょう。

「第一宣教旅行」 佐藤義子 牧師

/n[ホセア書] 14章9-10節 9 ああエフライム/なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ/彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。 10 知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。 /n[使徒言行録] 13章1-12節 1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。 2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、 5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。 6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。 7 この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。 8 魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。 9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、 10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。 11 今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。 12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。 /nはじめに  使徒言行録13章と14章には、使徒バルナバとパウロがアンティオキア教会から伝道旅行に送り出されたこと、そして各地でどのように伝道がなされていったのかが記されています。 今日の聖書の1節から3節には、アンティオキア教会でリーダー的な存在であったと思われる五人の名前が挙げられています。筆頭にバルナバ、そしてシメオン、ルキオ、マナエン、最後にサウロの名前が記され、これらの人々を、「預言する者や教師たち」と紹介しています。 /n送り出す教会  コリントの手紙には「あなたがたはキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理するもの、異言を語る者などです。」とあります(12:27-28)。このように教会は、キリストの体としての機能を果たす為に、それぞれの賜物に応じて奉仕が捧げられていました。彼らが礼拝し断食をしていた時「バルナバとサウロを伝道に送り出すように」との神の御心が示されました。信仰による一致のもとで、彼らは再び断食を伴う祈りをささげ、二人の上に手をおいて祈り(按手)、出発させました。按手は、新しい使命が与えられたこと、その使命を果たすのに必要な聖霊の賜物が備えられることを象徴するものです。 教会は二人を、神様の恵みと導きと力と聖霊の賜物に委ね、送りました。 /n伝道を妨げたユダヤ人魔術師  「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ」(4節)は、マルコと呼ばれるヨハネを助手として連れて、初めにバルナバの出身地であるキプロス島に向かいました。最初に着いたサラミス(聖書の後ろの地図7参照)では、ユダヤ人の会堂で神の言葉を告げ知らせ、島全体を巡りパフォスまで行きます(同地図)。パフォスは、ローマ総督パウルスの居住地でもありました。総督パウルスは賢明な人物で、二人を招いて話を聞こうしますが、総督と付き合いがあった魔術師で偽預言者のバルイエスは、自分と総督との関係が切れてしまうことを恐れ、総督を信仰から遠ざけようとします。 /n聖霊の力  二人に対抗するこの魔術師に対して、パウロは聖霊に満たされて語ります「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(10-11節)。魔術師は、神様の真理と神の国に逆らい、自分を悪の道具として悪魔に売り渡しています。見える世界において魔術師は、バルナバやパウロという人間に敵対していますが、それは同時に神を敵にして戦っていることでもあります。なぜならバルナバやパウロは、神様の言葉を伝え、その真理の言葉に近づこうとした総督の邪魔をしたからです。神様は、魔術師に裁きを下しました。彼はパウロの言葉通り見えなくなりました。 これを見た総督は、イエス・キリストの教えの偉大さと真理を目のあたりにして驚き、イエス・キリストを信じるに至りました。 /n私達が学ぶこと  第一に、聖霊の働きです。アンティオキア教会が、パウロとバルナバを、礼拝において聖霊の導きによって送りだしたことです。その結果、伝道に邪魔が入った時も、聖霊が豊かに働いて、神の業が現われました。第二に、当時の宗教混淆(こんこう)という時代の、にせものの宗教や魔術が盛んに活動する中で、キリスト教の信仰は、それらの教えに振り回されたり、影響を受けることはありませんでした。それゆえに聞く耳を持つ者は、信仰へと導かれたことです。神様に用いられる使徒達の働きを見る時に、神様の御計画を知る為の備えと聖霊の導きがあり、その聖霊が与えられる場所として礼拝があり、祈りがあり、断食がありました。今、私達の群れに、神様は何を求めておられるのか、そのことを知り、実践出来るように祈りたいと思います。