「救いの御業」と「あなたの信仰」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 145編10-21節 10 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 11 あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 12 その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 13 あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 15 ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 16 すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 17 主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 18 主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 19 主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。 20 主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 21 わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。 /n[マルコによる福音書] 5章21-43節 21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29  すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。 /nはじめに  今日の聖書は、異教の町ゲラサから、再びユダヤ教の町へ、イエス様がガリラヤ湖を渡って戻って来られたところから始まります。戻ってすぐイエス様のもとに、ユダヤ教の会堂長(会堂を管理したり礼拝の準備などをする、責任ある役職)のヤイロがやってきます。地位ある人々にとってイエス様とかかわることは、イエス様がそれ迄のユダヤ教の指導者達とは違った方法で人々をひきつけていることで、あまり良いことではなかったはずです。しかしヤイロは、最愛の娘が死にそうであり、この世に娘を救う力がないことを悟り、この世の価値観やプライドを全て捨てて「イエス様の御業による救い」に自らと娘を賭けました。「娘に手を置いてくれさえすれば娘は助かる」というヤイロの信仰に応え、イエス様は彼と共に出かけます。 /n救いの御力  ヤイロの娘を助けに行く途中、聖書には、長い間、出血に苦しんでいた「長血の女」が登場します。全財産を費やして病の回復を求めますが病気は益々悪くなります。病気という身体の辛さに加え、社会からも忌み嫌われ(汚れている者。レビ記15:25-)、精神的にも追い詰められていた筈です。主の救いを正面からねがうことも出来ない彼女は、それでも「救いの御力のおこぼれ」を願いイエス様の服に触れます。するとすぐに病気が癒されたことを感じました。注目すべきはその直後のイエス様の言動です。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『私の服に触れたのはだれか』と言われた」(30節)。癒しの奇跡。それはイエス様の御力が人の上に流れ出て起こるものであるということがわかります。ここで、更に思いめぐらせていただきたいのは、弟子達も言っている通り、多くの群衆が、さまざまの角度からイエス様の服に触れている場面です。その中で、主の溢れる御力をもって癒しのわざをいただいたのは、この世に救いがないことを知り、打ち砕かれた心で、切実な思いでイエス様により頼んだ「長血の女」だけだったのです。ひれ伏してすべてを告白した彼女に、主は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と祝福の言葉を贈られました。 /n「あなたの信仰があなたを救った。」  彼女を救ったのは主イエスの御力です。彼女の切実で、もうこれしかないと切羽詰まったその信仰、主の前にひれ伏すような全てを投げ打つ信仰によって、主の御力の一部が流れ出て彼女は癒されました。苦しい試練を耐え忍び、あきらめてしまわず、投げやりになってしまわず、どうせ私なんか救われる価値がないなどと言わずイエス様を信じた彼女の信仰に対してイエス様は喜ばれ,「もう病気にかからず、元気に暮らしなさい」という励ましの言葉をかけられました。この時代、病気は神様に罪を犯した罰と考えられていました。それゆえ女性は、身も心も癒されました。これが「長血の女」の身の上に起こった「救いの御業」です。 /n信じ続けなさい  イエス様がまだ話しておられる時に、ヤイロのもとに、娘が死んだという報告が届きます。しかしイエス様はヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われました。「信じなさい」の元々の言葉には、「信じ続けなさい」という意味が含まれています。「信じる」ことをやめずに信じ続けた結果、彼らは「ヤイロの娘が死から甦って生きる」という救いの奇跡の御業を見ることができました。 /n主を呼ぶ人すべてに近くいまし・・主を畏れる人々の望みをかなえ・・  私達の信仰はどうでしょうか。「この世に救いはない。主により頼むしか救われない」と、主の御前にひれ伏し、「救いの御業・恵みの御業」をいただく日々でしょうか。主は「打ち砕かれたあなたの信仰」を見ることを喜び、祝福して下さいます。詩篇145編は、倒れようとする弱い者を一人ひとり支え、苦しみや試練などでうずくまっている人を起こして下さる主に向かっての信頼が詠われます。主は、へりくだって、ただひたすら切実に主を求める者を憐れみ、救う為にすぐそばにいて下さいます。礼拝にあずかり、主が生きて働いて下さる幸いをいただきましょう。

「第一宣教旅行」 佐藤義子 牧師

/n[ホセア書] 14章9-10節 9 ああエフライム/なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ/彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。 10 知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。 /n[使徒言行録] 13章1-12節 1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。 2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、 5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。 6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。 7 この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。 8 魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。 9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、 10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。 11 今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。 12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。 /nはじめに  使徒言行録13章と14章には、使徒バルナバとパウロがアンティオキア教会から伝道旅行に送り出されたこと、そして各地でどのように伝道がなされていったのかが記されています。 今日の聖書の1節から3節には、アンティオキア教会でリーダー的な存在であったと思われる五人の名前が挙げられています。筆頭にバルナバ、そしてシメオン、ルキオ、マナエン、最後にサウロの名前が記され、これらの人々を、「預言する者や教師たち」と紹介しています。 /n送り出す教会  コリントの手紙には「あなたがたはキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理するもの、異言を語る者などです。」とあります(12:27-28)。このように教会は、キリストの体としての機能を果たす為に、それぞれの賜物に応じて奉仕が捧げられていました。彼らが礼拝し断食をしていた時「バルナバとサウロを伝道に送り出すように」との神の御心が示されました。信仰による一致のもとで、彼らは再び断食を伴う祈りをささげ、二人の上に手をおいて祈り(按手)、出発させました。按手は、新しい使命が与えられたこと、その使命を果たすのに必要な聖霊の賜物が備えられることを象徴するものです。 教会は二人を、神様の恵みと導きと力と聖霊の賜物に委ね、送りました。 /n伝道を妨げたユダヤ人魔術師  「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ」(4節)は、マルコと呼ばれるヨハネを助手として連れて、初めにバルナバの出身地であるキプロス島に向かいました。最初に着いたサラミス(聖書の後ろの地図7参照)では、ユダヤ人の会堂で神の言葉を告げ知らせ、島全体を巡りパフォスまで行きます(同地図)。パフォスは、ローマ総督パウルスの居住地でもありました。総督パウルスは賢明な人物で、二人を招いて話を聞こうしますが、総督と付き合いがあった魔術師で偽預言者のバルイエスは、自分と総督との関係が切れてしまうことを恐れ、総督を信仰から遠ざけようとします。 /n聖霊の力  二人に対抗するこの魔術師に対して、パウロは聖霊に満たされて語ります「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(10-11節)。魔術師は、神様の真理と神の国に逆らい、自分を悪の道具として悪魔に売り渡しています。見える世界において魔術師は、バルナバやパウロという人間に敵対していますが、それは同時に神を敵にして戦っていることでもあります。なぜならバルナバやパウロは、神様の言葉を伝え、その真理の言葉に近づこうとした総督の邪魔をしたからです。神様は、魔術師に裁きを下しました。彼はパウロの言葉通り見えなくなりました。 これを見た総督は、イエス・キリストの教えの偉大さと真理を目のあたりにして驚き、イエス・キリストを信じるに至りました。 /n私達が学ぶこと  第一に、聖霊の働きです。アンティオキア教会が、パウロとバルナバを、礼拝において聖霊の導きによって送りだしたことです。その結果、伝道に邪魔が入った時も、聖霊が豊かに働いて、神の業が現われました。第二に、当時の宗教混淆(こんこう)という時代の、にせものの宗教や魔術が盛んに活動する中で、キリスト教の信仰は、それらの教えに振り回されたり、影響を受けることはありませんでした。それゆえに聞く耳を持つ者は、信仰へと導かれたことです。神様に用いられる使徒達の働きを見る時に、神様の御計画を知る為の備えと聖霊の導きがあり、その聖霊が与えられる場所として礼拝があり、祈りがあり、断食がありました。今、私達の群れに、神様は何を求めておられるのか、そのことを知り、実践出来るように祈りたいと思います。

「神に栄光を帰する」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 19編2-5b節 2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5a その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。 5b そこに、神は太陽の幕屋を設けられた /n[使徒言行録] 12章20-25節 20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。 21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、 22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。 23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。 24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。 25 バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。 /nはじめに  使徒言行録は、イエス様の福音宣教のご命令がどのように弟子達によって果たされ、福音が拡がっていったのかを伝えている書物です。使徒言行録の主役は、常に、福音宣教を導かれる神であり、イエス・キリストであり、聖霊です。しかし今日の使徒言行録の20節から23節は、イエス様の弟子であるヤコブを殺し、続いてペトロをも殺そうとしたヘロデ・アグリッパ王一世の最後について書かれています。これは非常にめずらしいことであると同時に、何か大切な意味が含まれているように思います。 /nヘロデと住民の利害関係  昔からフェニキア人が食料を規則的にパレスチナから輸入していたことが知られていますが、ここではおそらく経済問題のトラブルが両者の間にあったようです。そこで、困ったフェニキアの商人達が王の侍従を味方に引き入れ、王に和解を願い出たことで調停がうまくいったという背景があるようです。調印式が華々しく行われたその日、ヘロデ王は立派な王の式服を身につけ、王座から、王としての演説を行いました。自分の寛大さ、偉大さを印象づけようとする権力者の姿です。それに対してフェニキアの住民達は、演説するヘロデ王に「神の声だ、人間の声ではない」と叫び続けました。王から利益を受けることになった住民達は、王に対して「神」という言葉を与えてご機嫌をとったといえるでしょう。 /n人間を神とする  ヘロデ王はユダヤ教に改宗したユダヤの王ですから、神様については、不十分ながら知っていたはずです。けれども彼は、自分が神と言われることを良しとしました。そこに神様の裁きが入ったのです。聖書は「主の天使がヘロデを撃ち倒した」と記しています。その時か、あるいは直後なのか、「ヘロデは息絶え」ました。その死の理由を聖書は「神に栄光を帰さなかったからである」と記しています。 /n神に栄光を帰する  「神に栄光を帰する」とは、一言でいうならば、「神様を神様とする」ことです。神様を神様とするには、神様を正しく知らなければなりません。子供達に信仰を教え、導く本の中に「ジュネ-ヴ教会信仰問答」があります。この信仰問答は「人生の主な目的は何ですか。」から始まります。答は「神を知ることです。」とあり、第二の問い「どんな理由であなたはそういうのですか。」の答えに「神は私達の中にあがめられるために私達をつくり、世に住まわせたのですから、又、神は私達の生の源ですから、私達の生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然です。」とあります。 このように、私達人間が、神様を自分の命の源として、神様を崇めるためにこの地上に存在しているということを知るならば、神様をあがめずにはおられなくなり、神様を崇めることを通して更に神様を知るようになっていきます。 /n神様を知る >> 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19編)、「目を上げて私は山々を仰ぐ。私の助けはどこからくるのか。私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(詩編121編) <<  聖書は常に、神様がどういうお方かを伝えています。弟子達の宣教活動を伝える使徒言行録にヘロデ王の最後が記されているのは、あらゆる形の(王であれ皇帝であれ)人間の神格化に対する拒否であり、神様からの警告です。私達は毎週日曜日、神様から招きを受け、礼拝をおささげする為に集います。礼拝は、神様を崇め、讃美する何よりも大切な時間と空間です。クリスチャンの勤めであり喜びです。この一年も「静まって私こそ神であることを知れ」(年間聖句)との御言葉のもとに、神様を真の神様として崇め、全ての栄光を神様に帰する歩みをしていきたいと願うものです。

「迫害の中の祈り」 佐藤義子 牧師

/n[エステル記] 4章11節-5章2節 4:11 「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」 4:12 エステルの返事がモルデカイに伝えられると、 4:13 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。 4:14 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」 4:15 エステルはモルデカイに返事を送った。 4:16 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」 4:17 そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。 5:1 それから三日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。 5:2 王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。 /n[使徒言行録] 12章1-19節 1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、 2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 3 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。 4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。 5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。 6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。 7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。 8 天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。 9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。 10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。 11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」 12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。 14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。 15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。 16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。 17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。 18 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。 19 ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。 /nはじめに  紀元前6世紀、バビロンの支配下からペルシャの支配下へと移った頃、ユダヤ人のモルデカイは、自分の娘として育ててきたエステルをペルシャ王の妃の候補者として王宮に送ります。エステルは王妃に選ばれますが、その後、王の高官ハマンがモルデカイに敵意を抱き、ユダヤ人を全滅させる為の法律を作成し王の許可をとります。この法律を知ったモルデカイは、エステルに、ユダヤ人の命を助けるために王に嘆願するように言付けます。しかしエステルは、王の召喚状がないのに出ていけば、王から金の杓(しゃく)を差し伸べられない限り殺されるという法律があることを伝えます。モルデカイはエステルを励まし、この時の為にエステルは王妃になったのだ、と手紙を書きます。 /nエステルの決断  エステルは、町にいる全てのユダヤ人を集めてエステルの為に3日3晩断食し、飲食を一切絶つようにモルデカイに頼み、自分も断食し、死ぬ覚悟で3日後、王の前に出ます。王はエステルに金の杓を伸べます。その後、ハマンの悪だくみは王の知るところとなりハマンは殺され、ユダヤ人は救われることになりました。ユダヤ民族存亡の危機の時、命をかけた祈りが捧げられ、その祈りの中でエステルが起こした行動を神様は導かれました。 /n神様のなさったわざ  本日の使徒言行録は、ローマ帝国支配下時代、ユダヤ人によるキリスト教徒への迫害が起こっていた時のことです。ヘロデ王はユダヤ教に改宗し、宗教的指導者層の歓心を買い、自分の人気を高めようと使徒ヤコブを剣で殺し、さらにペトロをも捕えました。教会に連なる信徒達は、ヨハネの母マリアの家に集まり、牢にいるペトロの為に、ひたすら祈りをささげていました。ペトロが王の前に引き出される前夜、突然、光が牢の中を照らし、神の使いが眠っていたペトロの脇腹をつついて起こし、鎖が手からはずれ、天使の誘導によって、全ての監視所を通り抜けて町に通じる鉄の門までくると、門がひとりでに開き、そこを出て町に出た時、天使が離れて行きました。ペトロ自身、何が起こっているのかわからない状態の中で、ふと我に返った時、これら一連の出来事は、すべて神様のなさったわざであることを理解しました。 /n「主が牢から連れ出してくださった」  ペトロは、すぐヨハネの母マリアの家に行き、門を叩きます。そしてペトロの為に祈っていた大勢の人達に、神様が彼になした不思議な導きを語り、さらに、他の人々にも伝えるように言って、彼はそこを出ていきます。そこにとどまれば危険がその家にもやってくるからでしょう。又、ペトロが牢から出された救いの出来事を、もっと多くの人々に伝えるためでもあったでしょう。この出来事は、 迫害の中にあっても、神様が共にいて下さる「あかし」でありました。 /n逆境の中で  私達の人生の中で、事柄が私達の願う方向にはいかず逆に進んでいく経験をお持ちの方は多いでしょう。神様の支配は人間の願望に支配されるのではなく、私達の願いを打ち破り、苦しく辛い経験へと向かわせることがあります。にもかかわらず、神様のこの世における支配、統治は今なお続き、この世が存続する限り神様のわざが止むことはありません。私達は見えることのみに心を動かされ、慌てることが多いものですが、聖書は私達に真剣に祈ることを教えています。神の御心に沿う祈りは必ずきかれます。祈った通りにならなくても、祈りが無駄になることはありません。神様は、神様の主権のもとに、私達の祈りを聞き、私達をご計画に従って最善に導かれます。この信仰が私達に与えられています。 >> 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ書4:6-7) <<

「主が与えられる役割」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 51編12-19節 12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。 16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。 18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。 /n[マルコによる福音書] 5章1-20節 1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。 14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。 /nはじめに  神様は、預言者を通して、罪の世界に陥った人間を救う「救い主」を世に送るという約束をされました。その約束は守られ、実現され、それが、イエス様の御降誕という出来事になったことを、私達はこのクリスマスに学びました。神様の「御言葉は必ず実現される」という性質に加えて、今日の聖書には「神様の霊」の特性が表れています。 /n神様が計画された人間  創世記に、人間は「神にかたどって創造された。」(1:27)とあります。それは、神様がこの世を創られ、その素晴らしい世界を共に楽しみ共に維持していく為に、気持を交流し、互いに良い働きかけができるという関係をもてる対象として人間を創ったということです。そして神様は人間に「御自身の命の息」を吹き入れられました(創2:7)。この「息」という言葉は、ヘブライ語で「霊」も意味する言葉です。人間は、「神の霊」を授けられて初めて「本物の人間」になるということです。 /n悪霊  今日の聖書では、超自然的存在、神様に従うことを拒否し、人にとりついて、わけをわからなくさせ、肉体を傷つける存在として「悪霊」が出てきます。ここでは「レギオン」(当時のローマ軍の5千人程の組織)と名乗ります。何千というおびただしい数で一人の男の人に取りついていたからです。彼は自らを傷つけ、その形相や行動は周りからも恐れられていました。すべては悪霊の仕業です。イエス様は、走り寄ってきた男に取りついている悪霊に向かって「この人から出ていけ」と命令されます。この言葉は実現し、悪霊は男から出て豚に乗り移り、約二千頭の豚が湖になだれ込み、おぼれ死にます。ここに私達は悪霊がもつ破壊のパワーのすさまじさと同時に、イエス様の霊の力と権威は必ず勝利することも知ることができます。 /nこの出来事に立ち会った人々の三つの反応  第一の、豚の飼い主達は、その経済的損失とイエス様の霊力を恐ろしく感じたことで、イエス様を否定し、町から排斥しようとします。第二の、この奇跡を見ていた人々は、神様を崇めるのではなく、奇跡の話題性によって横のつながりを求め、この出来事を伝えます。そして第三に、悪霊を追い出していただいた本人はこの出来事の価値を理解し、イエス様に従いたいと願い出ます。 /nイエス様の指示  正気に戻されてイエス様に従うことを求めた人に対して、イエス様は二つのことを指示されました。一つは自分の家に帰ること。もう一つは、身内に、神様が憐れんで下さったことと自分に起こったこの出来事を知らせることでした。イエス様に従いたいという信仰を表わすことにより、異郷の地での、福音宣教の役割をイエス様から授かったのです。 /n私達の「霊」の中心  私達に与えられている「霊」の中心に、「神様の霊」を置くにはどうすれば良いのでしょうか。一瞬の幸せに惑わされて、「霊」の中心を「神の霊」以外のものに明け渡す時、後に待っているのは、破滅や孤独です。詩編51:19には「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれ悔いる心」という言葉が記されています。自分の殻、傲慢さが打ち砕かれた時、はじめて主なる神様が来て下さる受け皿が整えられる。自分の罪深さを深く認識することによって、そこから抜け出たいと思うようになる。にもかかわらず自分ではどうにもできない、神様なしではどうにもならないという心からの悔い改めが起こり、主なる神様を求める心が強くされ、「霊」の中心に神様をお迎えする土台ができる。そして、神様への呼びかけの回路を修復するために贖いとなって下さったイエス様の福音を信じることができるようになる。さらに、自分だけにとどめるのではなく、周りに宣べ伝える・・。そのような信仰の形ができてきます。 /n主が与えられる役割  私達は打ち砕かれた霊を献げものとして、主が与えてくださる各々の賜物に従った役割を悟れるように祈り求め、その役割に努め、主の栄光にあずかる者として歩み進んでいかれるよう、祈ってまいりましょう!

「ここに愛がある」 佐藤義子 牧師

/n[ホセア書] 11章8-11節 8 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。 9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。 10 獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき/その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。 11彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから/鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。 /n[ヨハネの手紙一] 4章7-21節 7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 /nはじめに  クリスマスおめでとうございます。 ここにおられる全ての方にとって、イエス様が、この私の為に生れてきて下さったということが、事実として心に刻まれますよう祈りつつ、御言葉に耳を傾けたいと思います。創世記によれば、人間は神様に似せて造られました。私達の社会では、「あの人は神様みたいな人だ」という言葉が使われることがあります。その場合、親切で心が優しく、自分をかえりみず、人に対して尽くす人を言い表したりします。(たとえばマザーテレサのように)人々が、人間に対して「神様みたいな人」という言葉を言わしめる姿があるということは、「人は神に似せて造られている」ことの一つの証しといえましょう。 /n罪が入り込む   神様に似せて造られた人、アダムは、神様が人の為に用意された楽園で、何不自由なく過ごしておりました。しかしアダムの助け手として造られたエバが、蛇の誘惑に負け、神様の言葉に逆らったことから「罪」がこの世界に入り込みました。聖書でいう罪とは、神様に造られた人間が、創って下さった神様に従わないことです。自分の欲望を、神様の言葉より優先させるのは、自分を神様よりも上におく=自分を神様とする=罪です。 /n罪は裁かれる  人間社会において罪を犯す者は必ず法で裁かれるように、命の与え主である神様を無視して生きてきた人間に対し「罪」への裁きがあるのは当然でしょう。そして私達の「神様が命じられる事を行なってこなかった罪」が裁かれた時、すべての人は、自分の罪をつぐなうことはできません。なぜなら私達はあまりにも度々、神様を忘れ、又、神様を無視した生活を送ってきたからです。人間という人間は、皆、有罪判決を受け、その結果、私達人間は死を迎えるのです。(ロマ書6:23参照) /n救いへの道  しかし神様は、この罪ある人間を憐れみ、救いの道を用意して下さいました。人間を滅びの道から救い出す「救い主」を私達の住む世界に送って下さったのです。その救い主が、人間の全ての罪を引き受けて、本来人間が受けるべき罰を代わりに受けて下さいました。それが主イエスの十字架の死です。十字架は、神の独り子、主イエス・キリストの、全人類のこれまでに犯した罪、さらにこれから犯す罪も一切含めた「罪」が赦される為の、犠牲の死です。私達はその死によって罪が赦されて神様と再びつながることが出来るようになりました。 /n神様とつながる道  具体的に、どうしたら私達は神様とつながる道を生きていけるのでしょうか。それは、永遠の命をもってこの世に来て下さったイエス・キリストを信じて、イエス・キリストにつながることです。イエス様を信じ、永遠の命をいただいて生きるということは、この世界に罪が入り込み、神様に似せて造られた部分を失ってしまった人間が、その部分を回復する道へと戻されたことを意味します。コリントの手紙には、「つまりアダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(15:22)とあります。 /nここに愛があります  今朝の聖書にはこう記されています。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。ここに神の愛が私達の内に示されました。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。・・私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。」このクリスマスの喜びが、イエス様を信じて歩もうとされる全ての方に満たされますよう心から祈るものです。

「キリスト誕生への道」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 11章1-10節 1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。 3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。 4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。 6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。 9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。 10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。 /n[マタイによる福音書] 1章18-25節 18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。 /nはじめに クリスマスは、「神の御子が、私達の住むこの地上に人として生まれられた」出来事を感謝して祝う日です。2000年もの長きにわたり 教会が存続し、全世界でクリスマスが祝われる理由を、聖書から学びたいと思います。 /n聖書 聖書は、創世記から黙示録までの66の書物から成り、約1500年かけて、無数の人によって書かれたといわれます。ヨハネ福音書ではイエス様が「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(5:39)と言われているように、聖書が指し示しているのはイエス・キリストご自身です。 /n預言の成就 本日のイザヤ書に「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」とありました。エッサイとは、後のダビデ王の父となる人です(マタイ1:6参照)。エッサイの子孫から一人の人物が出てくる。その人には神様の霊がとどまるとの預言です。さらに「一人のみどりごが私達のために生まれた。一人の男の子が私達に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(9:5)と語られています。イザヤはBC8世紀に活動した預言者です。イスラエル民族は約700年余の間、親から子へ、子から孫へとメシア(救い主)待望の信仰を伝え続けてきました。そしてこの預言の実現の時がやってきたのです。 /nキリスト誕生への道 本日のマタイ福音書には、マリアの妊娠を知って苦悩するヨセフがおります。ヨセフは自分が正しく生き続ける為に、愛するマリアと別れることを決心します。しかしこれは人間側の思いです。神様の御計画は違いました。御子をこの世に遣わされるという神様の御計画が実現される為には、ヨセフは、マリアの夫として、又、生まれ出る子の父として、神様に選ばれ、必要とされていた人でした。ヨセフがマリアを受け入れるために、神様は夢という形で、ヨセフを導かれたのです。 /nヨセフの見た夢 ヨセフが夢で天使から聞いた言葉は、1.恐れずマリアを妻として迎えること。2.マリアの妊娠は聖霊によるものであること。3.マリアは男の子を産むこと。4.生れた子の名前はイエスと名付けること。5.この子は自分の民を罪から救う者となる、という五つのことでした。 /nイエスという名前 イエスは「主は救いである」という意味です。ここでは更に強められ「自分の民を罪から救う」と説明しています。罪とは神から離れている状態のことです。人間が神を神と認めず信じない、従おうとしない。その罪の故に神と人が断絶しています。主イエスの誕生はこの「人間の罪の赦し」と「再び神の元へ帰る道を備える救い」のためでした。又、「インマヌエル」=神、我ら人間と共にいます(イザヤ書7:14)の成就です。 /nクリスマスの喜びとは ほかでもない、この私が罪の世から救い出されて、神と共に生きることが出来るようにして下さった。この恵みと喜びを共に祝うのです。

「キリスト者と呼ばれる」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 97編10-12節 10 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。 11 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。 12 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。 /n[使徒言行録] 11章19-26節 19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。 20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。 21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。 22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。 23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。 24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。 25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、 26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。 /nはじめに 本日の聖書は、アンティオキアに教会ができたことを伝えており、「クリスチャン」「キリスト者」という言葉が、この時初めて使われたことを伝えています。アンティオキアに教会ができたことは、それ迄パレスチナの田舎で伝えられていたキリスト教が、ローマとアレクサンドリアにつぐ第三の巨大都市へ入っていったという意味において、きわめて大きな出来事でした。 /n主の助けと福音の広がり この大都市にキリスト者の群ができたのは、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害を逃れて散って行った人々によるものでした。アンティオキアには、キプロス島や北アフリカのキレネという町を故郷とするギリシャ語を話すユダヤ人がおり、彼らが、同じ言語を用いる異邦人にもイエス・キリストの福音を告げ知らせたのです。大都市アンティオキアでは多くの神々が宣伝され、崇拝されていました。その中で、イエスこそ本当の救い主であることを伝えたのでした。彼らは使徒でもなく伝道者でもありませんでした。無名の信者達です。その、彼らの伝道によって、多くの人々がまことの神に立ち帰り、信仰をもちました。聖書はその理由として、「主がこの人々を助けられたので」(21節)と、説明しています。 /nキリスト者と呼ばれる アンティオキアで多くの異邦人がイエスを信じた、との知らせを聞いたエルサレム教会では、その信仰が、確かに主イエスの御業であるかどうかを確認する為バルナバを派遣しました。アンティオキアに到着したバルナバは、確かに神様の恵みがアンティオキアの信仰者に与えられていると確信し、大変に喜び、彼らに「信仰の告白だけに終わることなく、固い決意をもって主から離れることのないように」と、勧め、励ましました。さらにバルナバは、アンティオキアにおいて継続した伝道が必要であること、そのために、力強い協力者としてパウロを探しにタルソスへ出かけていきました。パウロはバルナバの申し出を受け入れ、二人は、このアンティオケの教会のために、集中して大勢の人々を教えました。 /n「キリストに属するもの」 教会の成長と共に、世間の人達は教会を、イエスキリストを信じる集まりとして受け入れ、彼らを「キリストに属するもの」という意味の、「クリスチャン」「キリスト者」と呼ぶようになりました。キリスト者達は、「イエス・キリストの誕生と生涯と愛の教え」「キリストの十字架の死と復活と昇天」を信じ、キリストに従い、キリストに属するものとして、社会の中でも、キリストの生きた証しとなっていきました。 /n宣べ伝える信仰 以上がアンティオケ教会の成立と教会の形成です。初めにここで伝道した人達の名前は伝えられていません。イエス・キリストを信じた信徒達が、自分の与えられた信仰を伝えたのがすべての始まりです。そして彼らの伝えるわざを、神様が助けられたのです。 神様の助けがある所ではどこでも、そのなす業は祝されます。   フィリピ書に「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」とあります。信仰を与えられた者が、自分の信仰をこの人にも伝えたい、という素朴な思いこそ神様からの働きかけであることを、私達は見逃してはなりません。伝道は、牧師、伝道者のみならず、信じる者すべてに与えられている使命であり、神様の御業が起こされる時です。   イエス・キリストの誕生を祝うこのクリスマスの季節、愛する方々に「主イエスこそ神の御子であり、神から遣わされて、私達を、この世を支配する悪から救い出す為に、私達の所に来て下さった」と、伝えるその時、必ずや神様の助けが私達に注がれるに違いありません。

「ユダヤ人も異邦人も」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 55章8―13節 8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。 10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。 11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。 12 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え/歓声をあげて喜び歌い/野の木々も、手をたたく。 13 茨に代わって糸杉が/おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。 /n[使徒言行録] 11章1―18節 1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。 2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、 3 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。 4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』 9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 11 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた/三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 12 すると、““霊””がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 13 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 14 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 16 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 17 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。 /nはじめに  本日は、この伝道所で礼拝を捧げるようになって満7周年の感謝礼拝です。今日まで、主にある兄弟姉妹と共に神様を礼拝し、神様の伝道の業にあずからせていただけたことは計り知れない恵みです。伝道は、「道を伝える」と書きます。道とは天国への道、永遠の命への道です。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14章)と言われます。イエス様は神の御子・救い主であられ、この方を通らずに、私達の救いはありません。 /n滅ぶべき私達  そもそも私達全ての人間は、滅ぶべき定めにありました。たとえ世間の人達から「あなたは善い人だ」と言われたとしても、ロマ書は「正しい者はいない。一人もいない。悟るものもなく神を探し求めるものもいない。善をおこなう者はいない。ただの一人もいない。」(3:9-)と断言します。神様の目からみれば、私達人間は正しいとはいえず、善人でもありません。そして最終的に私達を待っているものは、「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)とある通りです。死は人生の終着駅であり滅びへの道でした。 /n永遠の命  けれども「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とあるように、神様は私達の為に救いの道を開いて下さいました。御子イエス・キリストを遣わされ、十字架の死によって私の罪が赦されたという福音を信じて、悔い改めるすべての人に、神様は永遠の命を約束して下さいました。これが教会で語り継がれている喜びの使信です。 /n異邦人への聖霊降臨  この福音は、初めはユダヤ人に限られて伝えられておりました。しかし神様は、不思議な導きをもってペトロを異邦人へと遣わし、その福音を聞いていた異邦人の上に聖霊が降り、ペトロは彼らに洗礼を授けました。今日の聖書には、このことがエルサレムに住む人々に知れ渡り、ペトロは、異邦人と一緒に食事をしたことをユダヤ人から非難された出来事について記されています。 /nペトロの説明  ユダヤ人の律法では、異邦人(律法を持たず、汚れた者)との食事は自分達を汚(けが)す行為として禁じられていました。非難を受けたペトロは、相手が分かるように、事実を順序正しく説明していきました。その結果、「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美し」(18節)たのでした。 宗教問題における議論は、時として深刻であり、分裂を生み出します。しかしここで、ユダヤ人の「異邦人に対する頑なな思い」を打ち砕いたのは、「こうして、主イエス・キリストを信じるようになった私達に与えて下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(17節)とあるように、神様の働きを受け入れる信仰です。 /n神様の働き  信仰の賜物も、聖霊が与えられる恵みも、特別な人々だけに与えられるのではなくて、求める者には誰にでも与えられる神の普遍的な祝福であることを、聖書は私達に伝えています。神様の御計画は人間の思いや戸惑いを打ち破って前進していくのです。福音が語られるところ、聞かれるところでは「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さ」(18節)います。8年目の歩みを始めるにあたり、信仰者は御言葉に従う者として証しをし、神を求める者には信仰の賜物が与えられる確信をもって祈り求めましょう。私達の国籍は天にあることを喜び感謝しましょう。

「主はわが飼い主」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

/n[詩篇] 23編1ー6節 1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[ヨハネによる福音書] 10章7ー18節 7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 /nはじめに  昨年のクリスマスに、教会から全員にホームカレンダーを頂き、それを壁に貼ってあります。そのカレンダーには、マーガレット・タラントという画家が書いた絵がついています。その絵の構図は、長い杖を持った羊飼いが中央に立っており、その周りに20匹ほどの羊と数人の子供達がいる。そしてその絵の下の所に、詩編23編の1節から2節の言葉が書いてあり、その絵の説明として「羊を愛する羊飼い」という言葉が記されております。今年はもう10ヶ月以上もそれを見てきたことになります。 /n詩編23編  詩編は150編もある大きな書物で、大体、旧約聖書の中央に位置していますから、聖書を真ん中からちょっと右の方を開くと詩編が開かれます。その150編ある詩編の中でも特に有名なのが、この23編です。はじめに「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。」と記されております。神様と私達の関係は目に見えないものですが、この目に見えない関係を、目に見える関係として表現すれば、羊飼いと羊の関係にたとえられる。そういう比喩が用いられての詩編です。本日は、この詩編23編を最初に見ながら、神様と私達の関係について、最初に3つの点から学んでみたいと思います。 /n主は羊飼い  学びたい第一のことは、「主は羊飼いである」ということです。以前、使用していた口語訳聖書では、「主は私の牧者」と訳されておりました。今日、私達が使っている新共同訳聖書は「私」という部分を訳さずに、「主は羊飼いである」と訳しています。原文では「わたし」という文字が記されていますので、この箇所を直訳するならば、「主は我が飼い主」、「主は私の飼い主、私を導いてくれる方」という訳になります。先ほどカレンダーの話をいたしましたが、その絵に描かれている羊飼いは、左手に長い杖を持っていて、私共も羊飼いの杖というと連想出来ますが、杖の先の方が、ぐーと曲がっております。この杖というのは、狼などの野獣から羊を守る為の武器であると同時に、普段は、羊は目がそれほど良くないというか近眼のようなもので、目先のことしか見えませんので、羊が群れから迷い出ようものならば、その首のところを曲がった部分でひっかけて、元の場所へ戻す。そういうことの為に杖は使われる。その杖をもっている主は、私を導く羊飼いである、と冒頭で言っています。 /n王をも導かれる主  1節の冒頭に「ダビデの詩」とあります。ダビデというのはイスラエルの王様、人々を導く最高権力者でありました。王ですから大勢の人を導くのですが、自らをも、自分をも導かれる。自分も導かれる主が必要である。「自らを導く飼い主が、まさに主である」ということを、先ず冒頭で言っているということです。いうならば「全ての人の飼い主である」ということが言える訳です。ずっと後の時代ですが、ユダヤ人の男性は頭に小さなキャップをのせています(キッパと言います)。ユダヤ教だけではなくカトリックのローマ法王や、枢機卿も頭に小さなキャップをのせています。それは、自分達が最高ではなく本当の導き手なる方がいる。その方は私達をも招き導く飼い主で、それは「主である」ということを忘れないように、頭の上にそれをのせているという説明を聞いたことがあります。「主は私の羊飼いである。」そのことが、まず最初に詩編23編で言われていることです。 /n「わたしには何も欠けることがない。」  学びたい第二のことは、一節の後半部分「私には何も欠けることがない」ということです。羊飼いが、青草へ・水へと導いてくれるので、羊は「私には何も欠けることがない」と語るのです。必要な物は十分に備えられているので満足しているという状態です。羊にとって青草と水は必要なものであり、その必要なものがあればそれで十分なわけであり、それで十分だと満足する、ということを歌っているわけです。 /n飽きることを知らない蛭の娘  もしこの羊が、青草や水だけでは十分でない、もっともっと欲しいものがある、と、ぜいたくを求めるならば、まだまだ欲しい、満足ではない、欠けだらけだと叫ぶのかもしれません。まるで、箴言に出てくる蛭(ひる)の娘のように・・。「蛭の娘はふたり。その名は『与えよ』と『与えよ』。飽くことの知らぬものは三つ。十分だと言わぬものは四つ。」(30:15) /n食卓を整えてくださる主  しかしそうではない。羊は、主に養われる時に自分に必要な物が与えられて満足だ。そういう状態にあるということが歌われています。「食卓は整えられ、その杯は溢れている」とまで歌うのです。今日は収穫感謝祭!私共にも必要な物が与えられている。それは「満足」、満たされているということを覚えるものでもあります。羊は、羊飼いに導かれる時に「我が食卓は整えられ、杯は溢れている」と歌うのです。 /n恵みと慈(いつく)しみ  そんな羊と羊飼いの歌は、23編の最後で、もう一つのことが言われています。学びたい第三のことですが、6節に、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。」と歌っています。一生涯、恵みと慈しみは、いつも私に付き添ってくるということです。「恵み」と「慈しみ」という言葉がここに書かれています。詩編もそうですが、聖書の中では、恵みと慈しみという言葉は同じ意味で使われることがあります。この二つの言葉で一つのことを総合的に表現しようということです。 ルツ記という書物の中にこの慈しみ(ヘセド)が何度も出てきます。ナオミという姑と、嫁のルツ二人とも、夫を異郷の地・モアブで亡くしてしまいます。そしてこの二人はそのモアブの地から、故郷ベツレヘムへ引き揚げてくるのですが、帰ってきてみると日毎の食べ物にも事欠く状況に陥ります。そのような時には、よそさまの麦畑に行って落穂を拾っても良いということになっておりましたので、嫁のルツは日ごとの糧を得ようと、ボアズという農夫の畑に落穂を拾いに出かけて行きます。ボアズはルツが落穂を拾いに来るということを聞いて、農夫達に、このように命じる箇所があります。「麦束の間でも、あの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけではなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ、あの娘がそれを拾うのをとがてはならぬ」(2:15b)。普通、落穂ですから刈り取った後の畑から拾って食べて良いことになっていますが、刈り取っていない部分でも拾わせてよい。しかも、わざわざ束から穂を抜いて、刈り取った後の畑に落とし、それを拾うのをとがめてはならない、と、そのように農夫たちに命じる・・。これは、農夫ボアズがルツに示した、慈しみであると表現されております。 /n神のいつくしみ  一方的に恵みとして与えられるものですから、恵みと慈しみというのは同じような意味で使われ、人間が人間に示す慈しみがルツ記にそのように表現されておりますが、この23編で言われている慈しみは、人からではなくて、神から与えられるというのです。羊飼いから羊に与えられる。ですから自分の努力や手柄で獲得するものではないのです。自分が努力すればいっぱいもらえるとか、自分が何か立派なことをすれば得られるというものではなくて、全く一方的に神から与えられるもの、それが恵みと慈しみであり、それが「いつも私を追う」と表現されています。受身形で、自分から追うのではなく、向こうの方から追ってくるのだという表現が使われています。それは勿論「慈しみと恵み」ですから、一方的に与えられるものとして受身のような表現がなされていますが、その後で、劇的な変化がこの羊に起きております。それは受身ではなくて、主体的に、自分の判断で語る部分が最後に記されています。それは、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」というのです。羊は自主的に、羊飼いの所に身を寄せると決断している。 最初に申したように、これは神と私達との関係を比喩的に表現しているもので、まさに、神とキリスト者の関係を二重写しにしている表現であるといえます。それが詩編の23編。それゆえに詩編23編はしばしば引き合いに出され、珠玉の詩編として何度も読まれる詩編なのです。 /n「わたしは良い羊飼い」  羊飼いと羊にたとえて、神様との関係を私達が教えられるというのは、この詩編23編だけではなく新約聖書にもあります。その新約聖書にある一例を、先ほど、ヨハネ福音書10章で読みました。特に11節からは羊飼いが出てまいりますが「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。― 狼は羊を奪い、また追い散らす。― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 23編と、特にこの箇所が徹底的に違うことは、羊飼いに、悪い羊飼いと良い羊飼いがいるということです。特に今読んだ後半は、悪い羊飼いであって、狼が来ると羊を置き去りにして逃げる。自分の羊ではないということで、さっさと、多分羊を守る為の杖を放り出して逃げるということです。ですから自分に責任がある命を失ってしまっても、自分の命だけは助かりたいというのが悪い羊飼いだというふうにここでいわれています。 ところで悪い羊飼いといいますが、羊の命と人間の命を比較する。人の命と羊一匹の命を比較する。私共は人の命の方が尊いと判断するのは自然であって、そうならば、あながち、この悪い羊飼いが、羊一匹二匹の命のために、自分の命をそこにかける、羊に対してかけるということは、それは、いかがなものかと言う意見がでるのは当然ではないかと思います。 /nサタンの抗弁  そのような議論は旧約聖書のヨブ記にもあります。神様の所にサタンがやってきて、神様と対話する場面です。神様がサタンに対して、「この世の中でヨブという人ほど立派な信仰を持った者はいないだろう」と、彼ほど正しく生き、神を畏れて、悪を避けている者はいない。お前はその信仰者ヨブを見たか、という対話の場面があります。するとサタンは神様に対して抗弁をします。そういうことはないだろう。皮には皮をと申します。まして命の為には全財産を差し出すものです、と、そんな風に抗弁します(ヨブ2:4)。サタンの言い分は、人間というのは自分の命が大事なもので、その命を守るためには全財産を投げ出しても、無くなってもいいものである。だからヨブは、神様が大事なのではなくて、自分の命が大事なのだというのです。人間の心の底にある利己主義を、サタンは冷ややかに分析しての発言でした。 /n普通の価値観を打ち破って  それが普通の価値観であるとするならば、その普通の価値観を打ち破ったのが「良い羊飼い」です。良い羊飼いは、羊の命を守るために自らの命をかけるというのです。とするならば、これはもう私達の常識では人間業とは思われない価値観です。確かに三浦綾子の塩狩峠の話が連想されますが、人類の歴史を通して挙げることのできる出来事としては、これはもう人間業ではなくて、あの、イエスキリストの十字架をおいて他にそれはない、ということです。 /n良い羊飼いとは十字架で命を差し出されたイエス・キリスト  新約聖書で「良い羊飼い」という比喩をもって伝えようとしたのは、実に、イエス・キリストの十字架でありました。十字架という出来事によって、自らの命を羊の為に差し出した羊飼いの姿が表わされています。「羊飼い」という比喩は、詩の世界の単なる文学的技法のように思われるかもしれません。しかし十字架の出来事によって、それは「神を信じる者」と「神」との関係を保証する歴史的な出来事となったのです。すなわち「イエス・キリストを信じる者とイエス・キリスト」との関係が、まさに「良い羊飼いと羊」の関係として表現されていたのです。私達はそれをこの聖書から学ぶのです。とするならば、私共にとって23編の最後「主の家に私は帰り、生涯そこにとどまるであろう。」の御言葉は、今日のキリスト者の信仰告白でもあることを覚えたいと思います。