「神の敵と神の家族」 平賀真理子 伝道師

/nイザヤ書59:15b-21 15b 主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。 16 主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業 17 主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた。 18 主は人の業に従って報い/刃向かう者の仇に憤りを表し/敵に報い、島々に報いを返される。 19 西では主の御名を畏れ/東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み/主の霊がその上を吹く。 20 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。 21 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると/主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊/あなたの口においたわたしの言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/あなたの子孫の子孫の口からも/今も、そしてとこしえに/離れることはない、と主は言われる。 /nマルコ福音書3:20-35 20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 /nはじめに  今日の聖書は、「あの男(イエス様)は気が変になっている」とのうわさを聞き、イエス様を取り押さえに来た「身内の人達」およびエルサレムから来た律法学者達がイエス様のことを「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていることに対するイエス様の応答が記されています。 /n「サタン」「(王)国」「家」のたとえ  イエス様は、仲間内で争えば自滅するだけであり、全く逆の性質の者が戦うことで、勝った方が負けた方を追い出せること。従ってイエス様が悪霊の仕業と考えられていた病気を癒したり、悪霊を追い出したりする力は、他の悪霊の力ではなく、逆の性質である「神の力」だと説明しました。 /n聖霊を冒涜(ぼうとく)する罪  「人々が犯す罪や冒涜の言葉はすべて赦されるが」(28節)とは、イエス様が「神の御子」であることを知ろうとしないことにより、漠然と神様に背いている言葉や行為などは赦されるということです。これに対して「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず」とは、神様の生きた霊を受けイエス様を知りながらも聖霊を否定する人は赦されない」ということです。彼は汚れた霊に取りつかれている」(30節)というご自分への言葉に対してイエス様は、御自分を愛し、御自分を通して生きて働かれる聖い神様の霊を「汚れた霊」と冒涜したことに対して、神様の裁きを教えられました。 /nサタンの敗北  内輪もめの3つのたとえ話は、やがてイエス様が神の御子としてこの世を支配するサタンに打ち勝ち「この世を神の国にする」という勝利の預言になっています。この世の長として我が物顔しているサタンは、人間を、神様に従い得ない愚かで汚れた生き物として捕まえています。 イエス様はその縛られた人間の罪の縄目を「十字架の死」という贖いによって解き放ったのです。 /n十字架の死  「十字架の死」とは「全き自己犠牲」で、人間の罪の元凶である「自己中心」とは正反対です。イエス様は、神様への完全な従順によって「復活」という栄光を、父なる神様から授けていただいたのです。今日の旧約聖書イザヤ書に、人々の背きを贖う者として救い主がやってこられる預言があります(59:20)。 >> 主は贖うものとして、シオンに来られる。 ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると 主は言われる。 << 贖い主の恵みを受けられるのは、主が選び、かつ、罪の悔い改めをするへりくだった人々であることが宣言されています。そして、罪を悔いた者には永遠の祝福が与えられることが約束されています(同59:21)。 >> あなたの上にある私の霊 あなたの口においたわたしの言葉は あなたの口からも、あなたの子孫の口からも  あなたの子孫の子孫の口からも 今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる。 << /n神の家族 >> 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。」(マルコ3:35) <<  神の御心を行うとは、神様の意志・思い・決意を遂行する・実現することです。神様の決意とは、「罪に陥った人間をどうしても救いたい!」との神様の熱情です。イエス様は、父なる神様とその愛をこの世の人に知らせ、人を生かし豊かに祝福を与えて下さる神様がこの世を治められる為に働かれました。私達はイエス様が教えられた御言葉やその歩みを聞き、信じて従うことで神様の御心を行う者の家族とされます。実に大きな恵みです。又、この伝道所でも、神様の治める御国の先取りとしての「家族」として、交わりが互いに赦されていることを感謝します。聖霊が持っておられる良いものを悟り、そのすばらしい恵みを多くの人々と共有し、父なる神様・子なるイエス様・聖霊の働きを、神様からの知恵によって知ることが出来ますように。神の家族としてふさわしく歩めますよう、祈ってまいりましょう。

「神の住まい」 佐藤義子 牧師

/n[歴代誌下] 6章17-31節 17 イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。 18 神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。 19 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。 20 そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。 21 僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。 22 もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられるとき、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、 23 あなたは天からこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください。 24 あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、 25 あなたは天からこれに耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らとその先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください。 26 彼らがあなたに罪を犯したために天が閉ざされ、雨が降らなくなったとき、この所に向かって祈り、御名をたたえ、あなたからの懲らしめによって罪を離れて立ち帰るなら、 27 あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの僕たち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らに歩むべき正しい道を教え、嗣業としてあなたの民に与えてくださった地に雨を降らせてください。 28 またこの地に飢饉が広がったり、疫病がはやったり、黒穂病、赤さび病、いなご、ばったが発生したり、敵がこの地で城門を封鎖したり、そのほかどんな災い、どんな難病が生じたときにも、 29 あなたの民イスラエルが、だれでも、災いと病苦を思い知って、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、 30 あなたはお住まいである天から耳を傾け、罪を赦してください。あなたは人間の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。まことにあなただけが人の心をご存じです。 31 こうして彼らは、あなたがわたしたちの先祖にお与えになった地で生を営む間、絶えずあなたを畏れ敬い、あなたの道に従って歩み続けるでしょう。 /n[使徒言行録] 7章44-53節 44 わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。 45 この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。 46 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、 47 神のために家を建てたのはソロモンでした。 48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 49 『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。 50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』 51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。 53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」 /nはじめに  詩篇139編にこのような言葉が記されています。 >> 「主よ、あなたは私を究め 私を知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くから私の計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け 私の道にことごとく通じておられる。私の舌がまだ一言も語らぬ先に 主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからも私を囲み 御手を私の上に置いていて下さる。その驚くべき知識は私を超えあまりにも高くて到達できない。どこにいけばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうともあなたは そこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。あけぼのの翼をかって海のかなたに行きつこうとも あなたはそこにもいまし 御手をもって私を導き 右の御手をもって私を捕えて下さる。」 << /n礼拝する場所  モーセは荒れ野において、神様を礼拝する場所として天幕を造るように命じられました。ダビデ王は自分が立派な王宮に住んでいるのに、十戒の板が納められている「神の箱」が古い天幕に置かれたままであるのが気になり、立派な神様の住まいを建てたいと願うようになります。しかし神様は預言者ナタンを通して「一度でも私(神)の為に家を建てよと言ったことがあるか。私はあなたがどこに行こうとも、共にいる。」と語り、更に、神殿を建てるのはダビデではなくダビデの子孫であると語られました。(歴代誌17章参照)。やがて神殿はダビデの息子ソロモンによって建てられました。立派な神殿でしたが、神殿の完成時にささげたソロモンの祈りは「神は果たして人間と共に地上にお住いになるでしょうか。天も天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、尚、ふさわしくありません。ここはあなたが『御名を置く』と仰せになった所です。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて罪を赦して下さい。」でした。 /n被造物は創造主の住まいを造れない  創造主である神様の住まいを、被造物である人間が造るということは不可能です。神殿は、神様がそこに名前を置き、目を注いで下さるゆえに、私達人間はそこから祈りを捧げるのです。私達の伝道所も(全ての教会も)天におられる神様が目を注いで下さる故(ゆえ)に礼拝場所となるのです。ところが、イエス・キリストの時代、エルサレム神殿は当初のソロモンの祈りから遠く離れ、ユダヤ教のシンボルとして絶大な権力を誇る存在となっていました。いつしか神殿は金の子牛のように偶像礼拝の対象ともなっていました。どこにでもおられる神様を、神殿にしかおられないとの錯覚に陥りました。実際、ステファノが議会に訴えられたのは「この男は、この聖なる場所と律法をけなした」との冒とく罪でした。 /nステファノの説教  ステファノは議会で、民族の歴史を語り、自分達の祖先がいつの時代でも神様が遣わす人達(預言者)に耳を傾けず反逆を繰り返してきたこと、その結果、預言者達を迫害し、又殺してきたこと、更に預言者が預言していた「正しい方」すなわち、神の御子イエス・キリストを、あなた方ユダヤ人は殺してしまった!と人々を告発したのでした。ステファノは彼らを「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人達」と呼びました。心を固くして聞く耳を持たない人達という意味です。さらに「あなた方は、いつも聖霊に逆らっています」と断罪しました。彼らがステファノの言葉に耳を傾けるならば、自分達はイエス・キリストを拒んだ罪ある者であったと認めて、悔い改めたことでしょう。けれども自分に自信があった彼らに聞く耳はなく、結局、彼らもステファノが指摘した、祖先と同じ反逆の道を選び取ることになりました。  イエス・キリストが来られたのは、私達人間が罪を悔い改めて新しく生きる為です。イザヤ書に「わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人」(66:2)とあります。私達は、神殿を偶像化してしまう不従順な信仰から守られるよう、神様が遣わされたイエスキリストに従う道を、共に、しっかり歩んでいきたいと願うものです。

「先祖達の不従順」 佐藤義子 牧師

/n[出エジプト記] 32章1-6節 1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、 2 アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」 3 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。 4 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。 5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。 6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。 /n[使徒言行録] 7章36-43節 36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。 37 このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』 38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。 39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、 40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』 41 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。 42 そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ、/お前たちは荒れ野にいた四十年の間、/わたしにいけにえと供え物を/献げたことがあったか。 43 お前たちは拝むために造った偶像、/モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を/担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちを/バビロンのかなたへ移住させる。』 /nはじめに  今日の聖書は、使徒ステファノが、自分を訴えるユダヤ人の前で彼ら自身の姿を明らかにする為に、イスラエル民族の歴史からモーセの時代を取り上げて語っています。出エジプトから荒れ野の旅が40年間続いたわけですが、神様が指導者として立てたモーセに対して人々は決して従順ではありませんでした。 /n先祖たちの不従順  エジプト脱出後、エジプト王が追手を出した時、彼らは恐れてモーセに言います「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がない為ですか。荒れ野で死なせる為ですか。一体、何をする為にエジプトから導き出したのですか」。又、旅の途中、モーセに不平を言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入ったなべの前に座り、パンを腹いっぱいに食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」と。  イスラエルの人々は、モーセが神様から遣わされた自分達の指導者であり解放者であることを受け入れながら、事あるごとに不平・不満・つぶやきを重ねました。使徒言行録に「けれども先祖達はこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い」(7:39)とあります。そして神様への反逆の最も大きな出来事は、若い雄牛の像を造り、その像にいけにえをささげたことでした(同41節)。牛は、古代オリエントでは力と豊饒の象徴とされ、神々はしばしば雄牛と結びつきました。出エジプト記には人々がエジプト人からもらいうけた金の装身具を集めて、アロンに目に見える神々をつくるよう求めたことが記されています。そのことはいうまでもなく、第二戒である偶像禁止の戒めに真っ向から反抗する行為でした。  キリスト教が偶像を嫌い、偶像を造ることもひれ伏すことも禁じているのは、いうまでもなくそれがまことの神ではないからです。「天地の創造主である神が創られた人間」が造った神(被造物が造った神)を神と呼ぶことは出来ません。人間が造った神々は人間の支配下に置かれ人の自由になります。造ることが出来るということは壊すことも出来るということです。(最近仏像がひんぱんに盗まれていますが)神様は盗まれるようなものでも又、火事で焼けてしまうようなお方でもありません。神様は天地創造以来、生きて働かれているお方であり、人間と人格関係を結んで下さるお方です。又、神様は目に見えない霊であり、私達は生まれながらに与えられている霊性で神様と祈り、交わることができます。私達は自分の内に与えられている霊性を神様によって働かせていただき、この霊性で神様への信仰が育てられ、神様の霊が我が内に住んでいただけるように祈るのです。 /n不従順の代償  神様が選ばれた民の不従順は、アモス書5章からの引用にあるように(7:42-43)、モレクやライファン(カナン・フェニキアおよびメソポタミアの神の名)という異教の偶像神へと走る姿に現れました。日本でも、伝統文化の継承という言葉のもとに、偶像神への祭りには地域の多くの人々が巻き込まれていますが、イスラエルの民は、カナン定着後も周辺地域の偶像神の影響を受けて、預言者の警告を聞かず神でないものを神として拝み続けたその代償として「神は顔をそむけ、彼らが天の星を拝むままにしておかれ」(42節)ました。ロマ書に「世界が造られた時から目に見えない神の性質、つまり、神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、返って、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り換えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするに任せられ・・」とあります(1:20-)。  神様のさばきは、今も「放任」という形でなされていることに私達は気付くべきでありましょう。

「モーセの召命」 佐藤義子 牧師

/n[出エジプト記] 3章1-15節 1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。 /n[使徒言行録] 7章17-35節 17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。 18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。 19 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。 20 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、 21 その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。 22 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。 23 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。 24 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。 25 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。 26 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』 27 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。 28 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』 29 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。 30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。 31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。 32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。 33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。 34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』 35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。 /nはじめに  日本基督教団では8月の第一聖日を平和聖日と定めています。旧約聖書では戦争の反対の「平和」はシャロームという言葉が使われます。 元来シャロームは、何かが欠如したりそこなわれたりしていない満ち足りた状態をさし、そこからさらに、無事、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解など人間の生きる上でのあらゆる領域に渡って、真に望ましい状態を意味する言葉です。このような意味での平和は神様の業であり、神様の賜物でした。このシャロームは人間が神様の意志に基づき、正義を行なうことによって神様との契約関係を正しく保つ時にのみ、現実のものとなります。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ書32:17)。  新約聖書の「平和」も、このシャロームを受け継ぎ、人間の生の全領域における(神様の意志に基づいた)真の望ましい状態をさします。それはイエス・キリストによって与えられる神様の愛と救いの現実・そのものをさします。私達は、イエス・キリストの十字架によって神様との敵対関係から和解へと導かれました。それによって神様と人間との和解だけでなく、人間と人間の間の平和への道も与えられました。一般社会では戦争のない世界が平和な世界と考えられています。しかし私達は、まず私達自身が神様の意志に従って、正義と公平の道を歩む決意を新たにしたいと思います。それは、平和が神様に従う時に賜物として与えられる神様の業であることを、聖書から学んでいるからです。 /nステファノの説教  本日の聖書は、ステファノがモーセについて語っている個所です。モーセが生まれた時代は、ヘブライ人の人口が増えてきた為にエジプト人から危険とみなされるようになっていました。そこでエジプト人は、ヘブライ人に重労働(粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業など)を課して虐待しました。又、人口増加を食い止め、力を弱める為にヘブライ人の助産婦に命じて、男なら殺せと命じます。しかし助産婦は神を畏れる人でしたから、この命令には聞き従いませんでした。ついに王は、生まれたヘブライ人の男の子はナイル河に放り込むよう全国民に命じます。モーセは奴隷化されたヘブライ人の子供として生まれました。 /n成長  モーセの母は、モーセをパピルスのかごの中に入れてナイル河畔の葦の茂みの中におき、それをエジプト王女が見つけ我が子として育てます。それゆえモーセはエジプト人として最高の教育を受けることとなりました。成人したモーセはある日、虐待するエジプト人を殺したことから、エジプトから逃げ出しミディアン地方にたどりつきます。そしてここにとどまる決心をし、祭司の娘と結婚して羊を飼う仕事をしていました。 /nモーセの召命  それから40年後、モーセはシナイ山で神様と出会います(出3章参照)。神様は、ご自身のことを、「わたしはある」という名で現われています。これは、「現にいる、生きて働く者としている」。「私は、私があろうとするものである。私は、私がなろうとするものになる」ということです。これは、神様が何であるか、何となるかは神様ご自身が決めることであり、神様の自由が神様によって宣言されている言葉です。神様はモーセに、エジプトからイスラエルの人々を連れ出すことを命じられますが、モーセはその召命に対して拒みます。自分は民に受け入れられないかもしれない・自分にはそのような使命を果たす条件が備わっていないという不安と心配です。拒み続けるモーセに対して神様は「私はあなたの口と共にあり、・・なすべきことを教えよう」と約束されました。(4:15)

「インマヌエルの恵み」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 8章9ー13節 9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。 10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。 11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。 12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。 13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。 /n[マルコによる福音書] 3章7ー19節 7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。 /nはじめに  前回は、安息日に手の不自由な人を癒されたイエス様に対してファリサイ派を中心とする反対勢力がイエス様を亡きものにしようとする計画を立て、ここに十字架への道が始まったことをお話しました。  今日の箇所は、イエス様が神の国の福音をできるだけ広める為に、反対派の本拠地である「会堂」を出て御自分の本拠地ガリラヤ湖畔に戻ってこられた時のことです。イエス様が来ると知った人達は、地元のガリラヤ地方からだけでなくユダヤ全土や、国境を越えた地域からイエス様の「そばに」押しかけました。 /nそばに  今日の新約聖書には「そばに」という表現は合計5回でてきます。前半の「そばに」は、目的を表す前置詞が使われ、イエス様の新しい教えや癒しの業に救いを求めて来た人々の切実さが表されています。後半の「そばに」は、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあるように、「共に」「一緒に」と言う意味で、飲む、食べる、祈る、笑う、泣く、住むなど人間の基本的な行動の動詞と一緒に使われる言葉です。この言葉は7節の「弟子たちと共に」でも使われています。イエス様が、神の国を広めるために、使徒や弟子たちと行動を共にし、交流し、愛していこうとされている恵みを読み取ることができます。又、たとえ話で比ゆ的に語られる民衆とは違い、使徒達は神の国の性質や働きについて直接的にイエス様から解き明かしを受け、学びを深めていくことができました。イエス様からそのように愛を受け、育くまれ、学んで、信仰者として一人立ちして外の世界に出され、福音を宣べ伝えられるようになり、同時にイエス様の力を分けていただいて、悪霊を追いだす力をいただくことが出来るようになりました。 /n12使徒の選び   イエス様が山に登り、特別な働きのために12人の使徒を選ばれたことが13節以下にありますが、特にシモン(ペトロ)・ヤコブとヨハネ(雷の子ら)は別の名前が与えられ、12人の中でも核になる存在でした。最後に出てくる「イスカリオテのユダ」には、「このユダがイエスを裏切った」と説明がつけられています。これを見ても、悪魔に支配されたこの世の罪深さを思います。この「罪」が最終的に神の御子イエス様を十字架につけるのです。逆に、そのような罪をあがなってまでも神様は人間を愛したい、一緒に歩もうと呼び掛けて下さっているのです。 /n群衆と使徒  今日の聖書の二つの段落は実に対照的です。前半は自分が救われる為に神の御子の権能を利用しようとした群衆について記され、後半には、イエス様の招きに従い自分の生涯を献げ、役割を与えられた使徒達について記されています。どちらもこの時、イエス様の「そば」にいる恵みを与えられています。違うのは、「従う覚悟」と「神様が期待する役割」です。群衆にとってイエス様は、無料で病気を治してくれる都合のいい医者であり、自分の利益のための神様です。一方、使徒にとって、イエス様は自分の全生涯をかける救い主です。彼らは、神の国建設の働き手であり、その働き手としてふさわしくなるよう、イエス様のもとで教育を受け、成長させられていくのです。私達はどちらでしょうか。なぜ今、私達はイエス様の「そばに」いるのでしょうか。   /n「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」  イエス様はこのように福音宣教を始められましたが、まだその御旨は完了していません。御言葉を知らない人々の救いが残っているからです。しかし私達は神様が共にいて下さる恵みを知っています。私達は神様の恵みを得てイエス様の教えを生涯かけて信じ、従っていく決意をした者です。そのことを心から感謝し、イエス様が取り組まれた「この世に神様の御国を建てるため」の御旨に用いていただけるように、成長させていただけるように、神様に祈り求めてまいりましょう。

「族長の歩み(2)-イサク・ヤコブ・ヨセフ」佐藤義子牧師

/n[創世記] 45章1-8節 1 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 2 ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。 3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 5 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 6 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。 7 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 8 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 /n[使徒言行録] 7章8-16節 8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。 9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、 10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。 11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。 12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。 13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。 14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。 15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、 16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。 /nはじめに  前回に続き、ステファノが語った説教から「族長」について学びたいと思います。アブラハムは神様の言葉に従い、家族・親族の住むハランの町を出て神様がアブラハムの子孫に与えると約束して下さった「カナン」に移り住みました。やがて息子イサクの妻を迎える時、アブラハムはしもべをハランに遣わして、自分の親族から息子の妻を見つけてカナンに連れて来るように命じます(創世記24章)。アブラハムが息子イサクの結婚に際し、カナンの地を「神様の約束の地」として受け、子孫がここに住み続けることに、どれほどこだわったかを聖書から知ることが出来ます。イサクは、しもべが連れて来たリベカと結婚し、双子の息子(兄のエサウと弟のヤコブ)が与えられます。息子達が成人した後、弟のヤコブは兄エサウが継ぐはずの家督や祝福を奪ってしまいます。その結果、エサウはヤコブに殺意を抱くようになり、ヤコブは兄から逃れてハランにいる母の兄(ラバン)の家に向かいます。途中ヤコブは野宿をして夢を見ます。天に達する階段を御使い達が上り下りし、神様から「私はあなたと共にいる。私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」(同28:15)との約束を受けます。ヤコブは伯父ラバンのもとで苦労して働き、伯父の二人の娘を妻にもらい、12人の息子が与えられました。「ヨセフ」は妻ラケルから生まれ、11番目の息子です。 /nヨセフの生涯  ヨセフは父ヤコブが年を取って生まれた子であり、大変可愛がられたことで、(又、兄達の怒りをかうような夢の話をしたこともあり)兄達からねたまれ、憎まれました。ある時ヨセフが父のいいつけで羊を飼う兄達の様子を見に行った時、兄達はヨセフを捕えてエジプトに向かう隊商に銀20枚で、奴隷として売り、父ヤコブにはヨセフは野獣に食い殺されたと思わせます(創世記37)。 エジプトに売られたヨセフは宮廷の役人に仕えることになりますが、神がヨセフと共におられたので、すべてのことがうまく運びました。ところが仕えている役人の妻のうその証言により監獄に入れられます。そこで、もと給仕役の長の夢を解き明かしたことからエジプトの王様の見た夢をも解き明かすことになり、彼は監獄から出されます。その後、王様に仕え大臣となり国の重要な仕事の責任を任されるまでになります。ヨセフは神に与えられた知恵と力により、やがて起こる飢饉に備えエジプトの国に十分な食料を蓄えさせます。飢饉がひどくなった頃、ヨセフの兄達はカナンから食料を求めにエジプトにやってきます。そして大臣の前にひれふします。兄達は大臣が弟ヨセフであるとは気付きません。二度目の再会の時にヨセフはついに自分のことを兄達に打ち明け「神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、この国にあなた達の残りの者を与え、あなた達を生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。」と語りました(創世記45:7-8)。そしてヨセフは家族・親族をエジプトに呼び寄せ,生活の面倒を見て兄達にも優しく接しました(同50:21)。 /nステファノの証言  ステファノは、アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの族長達を始めとする民族の歴史が「神様の恵みのわざの歴史」であると同時に神様がイスラエルを救う為に遣わした人達への、民の「反発の歴史」でもあることに気付かせようとしています。議会でステファノの説教を聞いているユダヤ人達が、ステファノの言葉に素直に耳を傾けたなら、自分達が正しいと信じてやっていることが結果的に神様に逆らうことになることを学んだことでしょう。聖書は常に、神様は生きておられ全てのことは神様のご計画が先立つことを教えています。 私達が今ここで礼拝しているのも、神様が私達の思いに先立ち、ここに礼拝場所を備えて、礼拝する者への道を用意して下さったのです。私達はいつも聖書から素直に学ぶ者でありたいと願っています。

「小さい者も大きい者も神を知る」 倉松 功先生(元東北学院院長)

/n[エレミヤ書] 31章31-34節 31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 /n[ローマの信徒への手紙] 10章1-4節 1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。 /nはじめに  「神はあるか、ないか(いるか、いないか)」という神の存在の証明は、人間の長い文化の歴史の中でいろいろ試みられてきましたが、結局この試みは成功しませんでした。しかし私達の周辺には小さな神は沢山あります。旧制高校の同窓会などに出席しますと、スクラムを組み校歌や寮歌を歌う姿に「ここには疑似宗教がある」と思わされますし、企業の精神や企業の団結を通しても、一つの宗教が働いているのではないかと思います。しかし「神を見た者はいない。一人もいない。」というのが聖書の大前提です。(一ヨハネの手紙4:12参照)これは神があるかないかではなく、「神を知る」ということを聖書は私達に語ろうとしています。 /n誰でも神を知る  本日の旧約聖書に「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。その時、人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。」と記されています(エレミヤ31:33-34)。子供も大人もみんな神を知っている。神のことは誰でも知っている。そういう時がくると聖書は言っています。さらに続いて「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(同34)とあります。これは非常に重要な言葉です。これは、イエス・キリストのことを言っています。「赦し」のことを言っている。キリストが最後の晩餐で弟子達にブドウ酒を渡し「これは罪の為に流す私の契約の血である」と、契約の血としてご自身の贖罪に言及されました。聖書が語る「神」とは、旧約聖書と新約聖書を貫いている「神」であり、キリストが(ご自身の体で)十字架におつきになることによって証言した事柄と結びついた神様です。 今朝はそのことを考えてみたいと思います。 /n心に記されている律法  エレミヤ書31:33には「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」とあります。律法は私達の心に記されています。たとえば、イエス・キリストの教えであるマタイ福音書15:18に「しかし口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」とあります。これは律法と呼ばれる代表的なモーセの十戒(殺すなかれ・姦淫するなかれ・盗むなかれ・偽証するなかれ)と同じことを言っています。たとえば、悪意・殺意は「殺すなかれ」という形で私達の心にすでに記されているのです。ローマの信徒への手紙にも、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こう言う人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししている」(2:14-15)とあります。 /n私達の良心  考えてみますと、「良心」はモーセの律法よりもずっと以前、神様が人間を創られた時にすでに心に刻まれており、良いことについての理解を持ちながら、それに反することをした場合には、それを「とがめる」という形で良心が働きます。そういう心は誰でも持っています。これと結びついているのが神です。つまり、罪に対して罰する、罪に対して赦さない・・というのが旧約聖書を通して知られてきた神の働きです。ところが本日のエレミヤ書では(これとは違う形で)「『主を知れ』と教えることはない」と、誰でもが知っている「良心」とかかわった形で神様が知られています。全ての人には良き心が与えられています。しかし悪いことをチェックする働きは弱い(現代でも弱い)。悪いことをする前に良心が働いて、悪いことをチェックするはずが、アダムとエバが禁断の木の実を食べた時から、悪いことをした後で神にとがめられて、初めて「しまった」と思った。行為の前に、それを差し止めるという形ではなかなか働かない。してはならないこと、言ってはならないことをした後で気付くのです。それが良心の働きです。神様は私達を創った時にその良心を植え付けた。これこそ、神様がご自分に似せて人間を創られた残照です。 /n「新しい契約を結ぶ」(エレミヤ31:31)  ここで「新しい契約」と言われていますが、ここで言われる律法は今までの古いモーセの律法・十戒とは違っておらず、事実イエス・キリストは「私が来たのは律法を完成するためである。・・律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17-18)。と言われています。イエス・キリストは律法を新しく強化しました。ロマ書に「キリストは律法の目標であります」(10:4)とあるように、究極のところ律法はキリストを目標としています。言い換えれば、キリストご自身が律法を完成されたのです。キリストの最大の教えは「神を愛しなさい。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉にまとめられます(ガラテヤ5:14参照)。キリストが完成され、キリストが実行されたものです。私達が目標とするもの、私達が歩む生活の目標がここにあります。それは神様が人間を創られた時に神様が植え付けてくださった「良心」を満足させるものです。エレミヤ書の、「誰も『主を知れ』と言って教えることはない」一つの決定的な理由は、私共が神に似せて創られた(良心が植え付けられた)からです。 /nキリストを目標として  キリストが目標で、キリストの教えが良心の目的・完成した姿であるならば、私達はそれに従って行けば良いということになります。それによって私達はさらに具体的に神を知ることになります。しかしキリストの教えを実行することで神を知ったという人はいないでしょうし、そういう知り方は自分自身を神とすることになります。「私」がした事柄、「私」が良心に従った行ない・・それで良いということになれば、神は必要でなくなる。そうではなく聖書によって、イエス・キリストの教えを通してキリストが行なったことに照らし合わせて、「これではだめだ」ということに気付き、良心のうずきが起こるのです。  エレミヤ書は、新しい契約をもたらすその方・イエス・キリストは、「彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(31:34)というのです。キリストご自身が律法の完成者であり、契約のしるしです。そして、イエス・キリストを十字架につけたローマの役人やファリサイ派の人々をはじめ、すべての人に対して、キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。イエス・キリストの贖罪(罪のあがない)、キリストの教えられた隣人愛は、そういう形でキリスト者に教えられました。キリストが教えられた道、キリストが歩んだ道に従う・・そういう形の生き方をキリストは私達に教えて下さった。古い律法の教えに満足するのでなく新しい形でキリストに従って行く道を教えて下さったのです。 /nすべての人に神が知られる  全ての人に神が知られるという時には、私達の良心を超えた、私達の良心ではもう行き着くことが出来ない所、良心では行なうことが出来ない善・・、そういうものを超えて、そういうものに気を止めなくても、キリストに従うことによって、良心に従う道を歩むことが出来ます。「神を知る」とは、決して私共の良心に反することではなく、むしろ、神が私達を神に似せて創られた創造の時に植え付けられた「良心」を積極的に満足させる道、それが「新しい契約」としてキリストによって与えられるのです。良心によっては罪を積極的に赦すことが出来なかった、そのことがキリストを通して新しく赦すことが出来るようになる。そういう形でキリストに従うことが許されているのです。 /n終りに  重要な事柄は、誰でも良心を持っている。良い心が神様によって創られている。それを通して「神を知る」という道が旧約聖書・新約聖書を通して語られているのです。          (文責:佐藤義子)

「族長の歩み」 佐藤義子 牧師

/n[創世記] 12章1-4節 1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。 /n[使徒言行録] 7章1-8節 1大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。 2 そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 3 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。 4 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、 5 そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。 6 神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』 7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』 8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。 /nはじめに  イエス・キリストの名前によって宣教していた使徒の一人、ステファノは、ユダヤ人のねたみと偽証によって捕えられ、議会に引き出されました。大祭司から訴えられた内容について弁明の機会を与えられた時、ステファノが初めに語ったことは、訴えられている罪状(律法や神殿)についてではなく、民族の父祖であり信仰の父と呼ばれるアブラハムの生涯でした。ユダヤ人にとって歴史がアブラハムから始まるのは、ごく自然のことです。(日本人にとっての民族の祖先であり父と呼ばれる人物は思い当たらず、初めて日本史に登場する固有名詞は邪馬台国の女王卑弥呼で、AD3世紀の話です。イスラエルの歴史はBC2000年のアブラハムから民族に語り伝えられ、モーセの時代はBC1300年頃、ダビデの時代はBC1000年頃です)。 /nイスラエルの歴史は、始祖アブラハムから  ステファノは議会に召集されたユダヤ人達に向かって、まずアブラハムに目を向けるように語りました。創世記12章にはアブラハムがハランにいた時に神様の声を聞いたことが記されています。アブラハムは神様の語りかけに従い「生まれ故郷・父の家を離れて、私(神)の示す地に行」きました。それは行く先を知らないままの出発でした。15章では神様が「私はあなたをカルデヤのウルから導き出した主である」と呼びかけています。 ステファノは「神様が、我々の先祖アブラハムに声をかけられた。そこからすべては始まり、そのことから今日の我々がある」と伝えたのです。アブラハムと妻サラの間には子供がいませんでしたが、神様はカナンの地を子供のいないアブラハムに与えて、子孫に相続させると約束されました。アブラハムが信仰の父といわれるのは、彼が神様の言葉に従って家を離れ、子供がいないのにもかかわらず、子孫への約束を信じたことにあります。神様は、アブラハムの子孫が将来外国に移住し、奴隷として虐げられ、400年の奴隷の時代の後、その国から脱出して、再びこの場所で礼拝をするとアブラハムに告げられました。 神様とアブラハムの間に契約がたてられます。それはアブラハムを「多くの国民の父」として繁栄させ、カナンの土地を与え、神様が彼らの神となるゆえに、その「しるし」として、アブラハムの民のすべての男子は、生まれて八日目に「割礼を受ける」という契約でした。 ユダヤ人がその権威を守ろうとしている「律法」や「神殿」は、アブラハムの時代にはなく、アブラハムに与えられたのは、「将来この場所で礼拝する」という神様の約束と「割礼」による契約であること、この契約は、族長(民族の長)アブラハムから(族長)イサクへ、そして双子の弟である(族長)ヤコブに継承され、ヤコブの12人の息子達すべても生まれて八日目に割礼を受けたことをステファノは議会で語りました。 /n聖書から神意を聴く  ユダヤ人がステファノに対して問題にしたのは、ステファノが語る「律法」や「神殿」が自分達の考える(旧約)聖書の教えに反しているのか、いないのか、ということでした。しかしステファノがこの弁明の機会になそうとしたことは、ユダヤ人の考えている「律法や神殿」はどのようにして神から与えられ、それは何であるのかを、ユダヤ人の理解ではなくて「聖書」そのものから明らかにすることでした。 ステファノもユダヤ人達も、同じアブラハムを民族の始祖として同じ民の歴史の中で生きてきました。それにもかかわらず、このように対立しているのは、ユダヤ人達が聖書に記されているその本質をわかろうとしないことに原因がありました。聖書をどんなに研究しても、又、言葉にくわしく通じていても、聖書から道徳の体系や、法体系を作り出し、その体系に合わせてモーセや神殿を解釈しようとした為、神様の語る真の意味を理解することが出来なくなっていたのです。聖書を自分達に理解出来る範囲の中で、本来の意図をゆがめてしまったといえるでしょう。それを明らかにして下さったのがイエス・キリストです。イエス・キリストから教えられた弟子達は、聖書を正しく解き明かしました。 私達は幸いなことに、イエス・キリストの光のもとで聖書を読むことができます。ステファノが命をかけて伝えようとした真の福音を聴きましょう。

「天使の顔のように」 佐藤義子 牧師

/n[出エジプト記] 34章29-35節 29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。 30 アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、 31 モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。 32 その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。 33 モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。 34 モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。 35 イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。 /n[使徒言行録] 6章8-15節 8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。 9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。 10 しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。 11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。 13 そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。 /nはじめに  使徒であるステファノは、霊と知恵に満ちた評判の良い人であり、また、恵みと力に満ちており、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていました(6:3、8)。ある日、ユダヤ人の会堂でステファノが宣教していた時、その話を聞いていたこの会堂に属する人々と、キリキア州とアジア州出身のある者達が議論をしかけてきました。旧約聖書の預言がイエス・キリストにおいて成就したというステファノが語る福音は、そのように旧約聖書を読んだことのなかった彼らには、受け入れ難かったのでしょう。彼らは人々をそそのかしてウソの証言をさせ、さらに人々を扇動してステファノを襲って捕らえ、議会に引いて行きました。 自分達の方が正しいと思い込み、それゆえにイエス・キリストの真理を誤解し、非難し、手段を選ばず力ずくで相手をねじふせようする彼らの姿は、聞く耳を持たない人間の姿そのものです。 /n知恵と霊によって語る  しかしステファノと議論した人々は、ステファノの前に歯がたちませんでした。その理由を、聖書は「ステファノが『知恵と霊によって語る』」からだと説明しています。知恵と知識の根源は神です。この神の知恵はイエス・キリストにおいて具体的に現われました。コリント書には「神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、「このキリストは、私達にとって神の知恵となり」と記され、又、「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、救われる者には神の力です。」「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」とあります。この神の知恵は、聖霊の働きによって人に伝達されます。 霊についてはイエス様とニコデモの会話から学ぶことが出来ます(ヨハネ3章)。イエス様が「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」とニコデモに語った時、「年をとった者が母親の胎内に再び入れない」と彼は答えました。イエス様は「肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である。風の音を聞いても、風がどこから来てどこへ行くかを知らないように、霊から生まれた者も同じである」と言われました。霊は、ただ神様から与えられるものであり、霊によって新しく生まれることによって神の国を見ることができるとイエス様は言われます。 ステファノは、霊によって新しく生まれ変わり、聖霊が彼の内に住み、その生きた霊である神様がステファノの口を通してイエス・キリストを証しする。これが「知恵と霊によって語る」ということでしょう。 私達にも、この神の知恵、神の霊が必ず与えられることが、ヤコブ書で約束されています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そう言う人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(1:5-8) /n「天使の顔のように」  私達はステファノを通して、この世におけるキリスト者のあるべき姿を学ぶことができます。彼の語る宣教の言葉を聞いて、騒ぎ、恐れているのは告発したユダヤ人であり、一方、告発されたステファノは、「その顔は天使の顔のように見え」(15節)ました。ステファノの心が神様の御手の中にあり、神様の清さを議会の人々に感じさせました。周囲の人々の怒りや騒々しさとは対照的に、神と共にいるステファノは静かで落ち着いておりました。いつでも福音を語る準備があり、その福音の為に自分の命を捨てる用意がありました。人間の邪悪さに対して神様の御言葉をもって、神様の恵みの素晴らしいご計画を証しする者としての清らかさが、そこにいた人達に伝わったのです。ステファノは、イエス・キリストの言葉を信じて、忠実に従った使徒の一人でありました。私達も又、多くの証人に囲まれながら、大胆に勇気をもって神様に霊と知恵を与えて下さるように日々祈りつつ歩みたいと願うものです。

「十字架の始まり」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 53章4-6節 4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 /n[マルコによる福音書] 3章1-6節 1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様に対する反対勢力がその反感をますます高めて、いよいよ大きな決断をするところです。イエス様が会堂に入られると、そこに片手の不自由な人がおりました。イエス様を陥れようとするファリサイ派の人々は、イエス様が安息日にこの人をいやされるかどうかを注目していました。もしもいやされたら、「安息日の治療行為は労働に値する」との律法違反として訴える口実になります。彼らの意図を十分ご存じの上で、イエス様は彼を憐れまれました。「真ん中に立ちなさい」。原語では「立ち上がって真ん中へ(来なさい)」です。この言葉は「救いのない『悪』の世界に留まらず、そこから立ち上がって、神様がお創りになった世界の真ん中にいる、本当に救うことの出来る『私』の前に来なさい。」との招きの言葉として聴くことが出来ます。 /nイエス様の招き  この招きは私達にも向けられています。「罪の世界から 抜け出て立ち上がり、救い主イエス様の前に進み出る」その決意と実行を主は求めておられます。この世は罪に覆われ、罪は神様からそれ、的はずれの生き方になります。「罪の世界」は神様との関係が壊れている為、最終的には人間関係を破滅させ、人は孤独の淵に追い込まれ、死に向かいたくなるのです。「罪の世界から立ち上がって、あなたを救おうとする救い主の前に来なさい」。求められているのはそれだけです。手の不自由な人にイエス様がかけた御言葉「立ち上がって、真ん中へ」。それは救いの恵みを与えようとされる神様からの愛のメッセージです。 /n「安息日」の本来の意味  「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」イエス様は人々にこう問われました。「安息日には『善』が行われ、『命』は救われるべきもの」という答えは明白でしたが、そのことを公けに言い表す勇気・素直さを持つ人は、一人もいませんでした。イエス様は怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみました。ファリサイ派の「自分達の考えに捕われる自己中心性」・「闇の中で画策する不正」、人々の「神様の本性である『善』や『命』や『正義』を知りながら、公然と言い表せない臆病さ、沈黙で逃げるずる賢さ」・・。これらはすべて神様側と全く逆の「悪魔の特性」です。イエス様を信じる私達は、「神様の御心を尋ね、御言葉に従う意志を持ち、信仰を公然と告白し、恵みとして与えられる神様の愛を感謝し、救いの御業を賛美し、何が神様に喜ばれることなのか、祈り求める」。そのような特性を持つ神様側に入れていただいています。一方的に与えられた恵みを心から感謝したいと思います。 /n神の御子イエス・キリストの十字架  イエス様は、イザヤ書に預言されたご自身の苦難と死を事前に知りながら、この地上では父なる神様の救いの業を成し遂げる為に御心に適うようにと働かれました。しかし人々はイエス様の示される「神様へ、その生き方の方向を改める-悔い改め」をしませんでした。イザヤ書の通り「道を誤り、それぞれの方角へ向かって行った」(53:6)のでした。この罪の特性は、神様を信じきれない不信仰、自分中心に流されて生きてしまう弱さ・醜さ、御子を十字架につける大罪へと又もや自分をおとしめていくことになります。しかし恵みと愛に満ちた神様は、私達のぬぐい難い罪を、イエス様の十字架の尊い犠牲によって救って下さいました。 /n十字架への道  今日の聖書は「神様の御心を求めず自分達の価値観を第一に考えてしまう自分勝手さ」、「イエス様を遣わされた神様を信じきれない、かたくなな不信仰」など、主の十字架への道の背景や状況が記されていました。しかし同時に「真ん中に立ちなさい」と、苦難も救いの栄光に変えて下さる全能の神様の招きの言葉をききます。その招きに感謝し、罪の世界から立ち上がり、主の御前に出て神様側の世界の真ん中へ入れていただきましょう!そして神様への信仰を告白し信仰の喜びを宣べ伝える者へと変えていただけるように聖霊の助けを祈り続けていきましょう。