「天使の顔のように」 佐藤義子 牧師

/n[出エジプト記] 34章29-35節 29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。 30 アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、 31 モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。 32 その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。 33 モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。 34 モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。 35 イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。 /n[使徒言行録] 6章8-15節 8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。 9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。 10 しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。 11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。 13 そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。 /nはじめに  使徒であるステファノは、霊と知恵に満ちた評判の良い人であり、また、恵みと力に満ちており、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていました(6:3、8)。ある日、ユダヤ人の会堂でステファノが宣教していた時、その話を聞いていたこの会堂に属する人々と、キリキア州とアジア州出身のある者達が議論をしかけてきました。旧約聖書の預言がイエス・キリストにおいて成就したというステファノが語る福音は、そのように旧約聖書を読んだことのなかった彼らには、受け入れ難かったのでしょう。彼らは人々をそそのかしてウソの証言をさせ、さらに人々を扇動してステファノを襲って捕らえ、議会に引いて行きました。 自分達の方が正しいと思い込み、それゆえにイエス・キリストの真理を誤解し、非難し、手段を選ばず力ずくで相手をねじふせようする彼らの姿は、聞く耳を持たない人間の姿そのものです。 /n知恵と霊によって語る  しかしステファノと議論した人々は、ステファノの前に歯がたちませんでした。その理由を、聖書は「ステファノが『知恵と霊によって語る』」からだと説明しています。知恵と知識の根源は神です。この神の知恵はイエス・キリストにおいて具体的に現われました。コリント書には「神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、「このキリストは、私達にとって神の知恵となり」と記され、又、「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、救われる者には神の力です。」「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」とあります。この神の知恵は、聖霊の働きによって人に伝達されます。 霊についてはイエス様とニコデモの会話から学ぶことが出来ます(ヨハネ3章)。イエス様が「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」とニコデモに語った時、「年をとった者が母親の胎内に再び入れない」と彼は答えました。イエス様は「肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である。風の音を聞いても、風がどこから来てどこへ行くかを知らないように、霊から生まれた者も同じである」と言われました。霊は、ただ神様から与えられるものであり、霊によって新しく生まれることによって神の国を見ることができるとイエス様は言われます。 ステファノは、霊によって新しく生まれ変わり、聖霊が彼の内に住み、その生きた霊である神様がステファノの口を通してイエス・キリストを証しする。これが「知恵と霊によって語る」ということでしょう。 私達にも、この神の知恵、神の霊が必ず与えられることが、ヤコブ書で約束されています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そう言う人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(1:5-8) /n「天使の顔のように」  私達はステファノを通して、この世におけるキリスト者のあるべき姿を学ぶことができます。彼の語る宣教の言葉を聞いて、騒ぎ、恐れているのは告発したユダヤ人であり、一方、告発されたステファノは、「その顔は天使の顔のように見え」(15節)ました。ステファノの心が神様の御手の中にあり、神様の清さを議会の人々に感じさせました。周囲の人々の怒りや騒々しさとは対照的に、神と共にいるステファノは静かで落ち着いておりました。いつでも福音を語る準備があり、その福音の為に自分の命を捨てる用意がありました。人間の邪悪さに対して神様の御言葉をもって、神様の恵みの素晴らしいご計画を証しする者としての清らかさが、そこにいた人達に伝わったのです。ステファノは、イエス・キリストの言葉を信じて、忠実に従った使徒の一人でありました。私達も又、多くの証人に囲まれながら、大胆に勇気をもって神様に霊と知恵を与えて下さるように日々祈りつつ歩みたいと願うものです。

「十字架の始まり」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 53章4-6節 4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 /n[マルコによる福音書] 3章1-6節 1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様に対する反対勢力がその反感をますます高めて、いよいよ大きな決断をするところです。イエス様が会堂に入られると、そこに片手の不自由な人がおりました。イエス様を陥れようとするファリサイ派の人々は、イエス様が安息日にこの人をいやされるかどうかを注目していました。もしもいやされたら、「安息日の治療行為は労働に値する」との律法違反として訴える口実になります。彼らの意図を十分ご存じの上で、イエス様は彼を憐れまれました。「真ん中に立ちなさい」。原語では「立ち上がって真ん中へ(来なさい)」です。この言葉は「救いのない『悪』の世界に留まらず、そこから立ち上がって、神様がお創りになった世界の真ん中にいる、本当に救うことの出来る『私』の前に来なさい。」との招きの言葉として聴くことが出来ます。 /nイエス様の招き  この招きは私達にも向けられています。「罪の世界から 抜け出て立ち上がり、救い主イエス様の前に進み出る」その決意と実行を主は求めておられます。この世は罪に覆われ、罪は神様からそれ、的はずれの生き方になります。「罪の世界」は神様との関係が壊れている為、最終的には人間関係を破滅させ、人は孤独の淵に追い込まれ、死に向かいたくなるのです。「罪の世界から立ち上がって、あなたを救おうとする救い主の前に来なさい」。求められているのはそれだけです。手の不自由な人にイエス様がかけた御言葉「立ち上がって、真ん中へ」。それは救いの恵みを与えようとされる神様からの愛のメッセージです。 /n「安息日」の本来の意味  「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」イエス様は人々にこう問われました。「安息日には『善』が行われ、『命』は救われるべきもの」という答えは明白でしたが、そのことを公けに言い表す勇気・素直さを持つ人は、一人もいませんでした。イエス様は怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみました。ファリサイ派の「自分達の考えに捕われる自己中心性」・「闇の中で画策する不正」、人々の「神様の本性である『善』や『命』や『正義』を知りながら、公然と言い表せない臆病さ、沈黙で逃げるずる賢さ」・・。これらはすべて神様側と全く逆の「悪魔の特性」です。イエス様を信じる私達は、「神様の御心を尋ね、御言葉に従う意志を持ち、信仰を公然と告白し、恵みとして与えられる神様の愛を感謝し、救いの御業を賛美し、何が神様に喜ばれることなのか、祈り求める」。そのような特性を持つ神様側に入れていただいています。一方的に与えられた恵みを心から感謝したいと思います。 /n神の御子イエス・キリストの十字架  イエス様は、イザヤ書に預言されたご自身の苦難と死を事前に知りながら、この地上では父なる神様の救いの業を成し遂げる為に御心に適うようにと働かれました。しかし人々はイエス様の示される「神様へ、その生き方の方向を改める-悔い改め」をしませんでした。イザヤ書の通り「道を誤り、それぞれの方角へ向かって行った」(53:6)のでした。この罪の特性は、神様を信じきれない不信仰、自分中心に流されて生きてしまう弱さ・醜さ、御子を十字架につける大罪へと又もや自分をおとしめていくことになります。しかし恵みと愛に満ちた神様は、私達のぬぐい難い罪を、イエス様の十字架の尊い犠牲によって救って下さいました。 /n十字架への道  今日の聖書は「神様の御心を求めず自分達の価値観を第一に考えてしまう自分勝手さ」、「イエス様を遣わされた神様を信じきれない、かたくなな不信仰」など、主の十字架への道の背景や状況が記されていました。しかし同時に「真ん中に立ちなさい」と、苦難も救いの栄光に変えて下さる全能の神様の招きの言葉をききます。その招きに感謝し、罪の世界から立ち上がり、主の御前に出て神様側の世界の真ん中へ入れていただきましょう!そして神様への信仰を告白し信仰の喜びを宣べ伝える者へと変えていただけるように聖霊の助けを祈り続けていきましょう。

「ダビデとヨナタンの友情」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

伝道所開設五周年記念感謝礼拝 /n[サムエル記上] 18章1-9節 1 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。 2 サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。 3 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 4 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。 5 ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。 6 皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。 7 女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。」 8 サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」 9 この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。 /n[ヨハネによる福音書] 15章14ー17節 14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 /nはじめに  「人生・友情・学問」という題の小冊子が教文館から1965年に出版されております。著者は同志社総長であった上野直蔵さんという方です。その本に「友情とは」ということで次のように記されております。 「友情とは、心底を打ち明けて語り合う相互理解であり、孤独地獄を消し去るもの、又、利害を異にするのではなく、平等な間柄において成立する」。  確かにそういうことであろうと思いますが、今日読みましたダビデとヨナタン、旧約聖書では無二の親友と呼ばれているダビデとヨナタンの友情は例外的なものであったのではないかと思います。 というのは、ヨナタンは王子です。ヨナタンはこう言っています「父は、事の大小を問わず、何かする時には必ず私の耳に入れてくれる」。ですからヨナタンは、父サウル王の良き相談相手であり、又、自分自身も軍の指揮官として、兵士達から絶大な信頼を受けていました。にぎやかな環境においても孤独は存在いたします。しかし王国と住民の平和の為に 侵略者と戦うヨナタンに、「孤独」という環境を楽しむ余裕などなかった、そういう立場におりました。他方、一兵卒として従っていたダビデ。この時点では、まだ一人の兵士にすぎませんでしたが、ダビデはヨナタンと違い、身分の低い貧しい者であった。二人の立場はかなり違っておりました。いうならば、「友情」という平等の関係など生じ得ない状況と思われましたが、しかし、ダビデとヨナタンの間には親愛の情が成立した。そこには、私達が見過ごすことのできない重要な要素が存在しておりました。 /nダビデとヨナタンの友情 もう一度、サムエル記上18章の箇所を見たいと思います。 >> 「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」(3節) <<  注目したい言葉は「契約を結び」という表現です。日本語では「契約を結ぶ」。「結ぶ」という原文の動詞は「切る」(物をナイフなどで切る)が使われています。契約を結ぶ際に犠牲を捧げる。犠牲を切り分ける行為に由来しての表現であり、「契約」は「切る」というふうに表現しています(日本語では契約を結ぶと訳されております)。けれども、しかしここにはそのような意識が書かれてはおりません。ですから「契約を結ぶ」という表現には、その内包的な意味、すなわちダビデとヨナタンの友情が主の御前において真実なものであるという意味が込められての表現です。「私とあなたの間に、主がとこしえにおられる」(20:42)とヨナタンはダビデに語っていますが、揺るぐことのない約束として、生涯にわたり、このダビデとヨナタンの友情というものは保たれるわけであります。この神にある友情。ダビデとヨナタンの友情というのは一体何であったのか、ご一緒に考えたいと思います。 /n三つの側面  ダビデとヨナタンの友情の特徴を、三つの側面から概観したいと思います。一つは、識見(物事に対する正しい判断、考え)を誤らせることがなかった、という友情でした。たとえば、父サウル王がダビデを殺すようにヨナタンと家臣全員に伝えます。その時にヨナタンは、父サウルに、「なぜ罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」と父をいさめております。識見(物の判断)を誤らせるどころか、彼らの友情は今日にも通じる価値観、倫理観を高めるように働いたということを見てとることができます。  彼らの友情の特徴の二つ目は、歩む道を誤らせることがなかったということがあげられると思います。換言するならば、彼らの使命観、召命観を見失うことがなかった。たとえば、王子であるヨナタンが、ダビデに「イスラエルの王となるのはあなただ。私はあなたの次に立つ者となるだろう」と告げております(23:17)。なぜ、王子であるヨナタンがこのような自己理解に達したかはわかりませんが、自分が歩むべき道、自分に与えられた使命をはっきりと彼は認識していた。それをダビデと共有した。彼らの友情は、自分の歩む道、自分の使命というものをはっきりと二人で共有しているというところが特徴であります。  三つ目の特徴は、予想されることですが、友人の困難を未然に防いだ、ということです。父サウルはダビデを殺すというその意志は変わりませんでした。それは言葉だけで本当は父はダビデを殺すなどということはないだろうとヨナタンは思っていたのかもしれませんが、父の決意がはっきりしていると知った時、彼はダビデを逃そうとします。これは旧約聖書でも有名な場面ですが、野原に潜むダビデに、彼が安全か危険かを告げる約束をしていました。空高く、3本の矢を射るのですが、もし大丈夫だったら近くに弓矢を射る、本当に命が危ない時は、遠くに弓矢を射るという約束でした。ヨナタンは父の殺意の気持が変わっていないことを知るや、空高く弓矢を3本、従者よりも遥か彼方に飛ばせ、ダビデに危険が迫っているので逃げるようにと知らせます。ヨナタンは正義を実行したのであります。 /n神の前に真実な、契約に裏打ちされた友情  これらの特徴は、ダビデとヨナタンの友情というのが、刹那主義的ではなくて、神の前に真実なもの、契約に裏打ちされたものであることを明らかにしており、彼らの人生を貫き通して存在したのです。無論、このサムエル記上をずっと読んでおりますと、ダビデとヨナタンという二人の歩む人生というものは、「幸せ」と同時に「不条理」にも遭遇するものでありましたが、自分のように友人・他者をも尊重するという彼らの基本的な姿勢は、生涯にわたり貫き通されたものであります。 /nサウル王の三つの側面  ダビデとヨナタンの友情と全く(全くといって良いと思いますが)逆の人間性をあらわにしたのが、王であるサウルでありました。同じ3つの側面からサウルという王様の姿を概観したいと思います。  一つ目に挙げられるサウル王の姿は、識見(判断)を見失うことがあったということです。アマレクという民族とサウル王が戦う場面がありますが、その時に神様から託されていた命令、それは敵の全てを焼き尽くせという命令でありました。サウル王はこの神様の命令を軽く考えたのでしょうか。自分の部下の兵隊達が戦利品をあさって取り分けることを容認したのです。預言者であるサムエルは、後にサウル王に対して「あなたは主の言葉を退けた」と告げました。サウル王が戦利品を略奪することを容認するということは、他でもない「主の言葉を退けた」ということでありました。しかしそのことを預言者のサムエルから告げられても、サウル王は自分が「主の言葉を退けた」という自覚を持っていなかった。それが実に悲劇だったと思いますが、彼自身が自分のやったことに気がつかなかった。全くこの識見(物事に対する正しい判断、考え)をもっていなかった。自分のことしか考えなかったのであります。 /n自分の使命に対する理解  二つ目に、サウル王は自分に託されていた使命を見失った。戦いに出かける時、当時は勝つことを神様の前に祈るという儀式を執り行っていました。この儀式は祭司がつかさどるべきものでした。ギルガルでのことですが、この犠牲を献げる時刻になっても、祭司(預言者でもある)であるサムエルが到着しないという場面がありました。自分のもとに集まっていた兵士達は、サムエルが来ないならもう帰ろうということで、一人二人と自分の所から去っていく。それを見たサウル王は、待て。私がサムエルに代わって焼き尽くす献げ物を献げるといってささげてしまいました。祭司がいない所で王が祭儀の司式を行う、という愚かさのみではなくて、散り始めた兵を引き戻そうとする・・自分の所に居てくれということでしょうか。これも「主を畏れ、心を尽くし、真(まこと)をもって主に仕えなさい」というサムエルの言葉とは異質のものでした。 サウルは自分がしなければならない仕事、使命に対する理解が不十分であり、それはヨナタンの姿と極めて対照的なものでありました。 /n困難を自ら招く  三つ目に挙げられるサウルの姿は、困難を回避するどころか困難を自らに招き込むものでありました。ペリシテ人との戦いからサウル王とダビデが一緒に凱旋した時に、出迎えた女性達は楽を奏しながら「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌ったというのです(18:7)。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって「ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか」(同8節)と言ったというのです。自分のことしか見ることが出来ない。その結果、無益な比較を他者としてしまいます。嫉妬がはらみ、やがてその嫉妬は人への恐れ(この場合はダビデへの殺意)を生むに至っています。それをサウルの人生は教えるところとなっております。 /n主の栄光が離れ去った王  悲劇-悲劇と暗闇といったらいいのでしょうか、それは、このイスラエルの最初の王様といわれるサウルの生涯を覆って、彼の死に至るまで彼から離れなかった。そういう人物であります。主の栄光が離れ去った人物。サウルの生き方は、友情に裏打ちされたダビデとヨナタンの生き方と対照的なものでした。「罪に対する鋭敏な感覚」「主の御旨に対する洞察」「困難に陥った友人を支える」・・それらにおいてサウルという王の生き方は、貧弱なものでした。ダビデとヨナタンの生き方、友情。そして王であったサウルの生き方。それは全く正反対なものであったということであります。 /n何を学ぶか  さて、現代に生きる私達は、このダビデとヨナタンの友情から何を学ぶことができるか、換言するならば、反面教師のサウルの姿から何を学ぶことができるかともいえます。それは、人生における二つの関係、人と神との関係、そして人と人との関係、その二つの調和ということであります。この二つが調和してこそ、人生は豊かなものとされる。一本だけが豊かでは本当の豊かさではなく、人と人との関係において、自分が王であり富も豊かに備えられたとしても、人と神との関係が豊かでなければ、人としての姿としては本当に豊かではない。それはサウルの示すところであります。 /n信仰者に託された言葉  このダビデとヨナタンの友情というのは、彼ら二人だけのものではなくて、今日開きました新約聖書を参照したいと思います。ヨハネによる福音書の第15章14-15節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」そして17節には、「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」驚くべき言葉だと思います。信仰者に託された言葉。それはイエスキリスト、神との友人関係に、あなたがたはある。僕ではない。私とあなたは友である。という言い方です。時空を超えて、ダビデとヨナタンの友情はまさに神の真実に裏打ちされたものであるということですが、同時に私達と神との関係も又、「友」と呼ばれるにふさわしい関係であるということをここで知らされます。これは驚くべきことでありますが、同時にこれは、キリストの御体である教会に託された言葉でもあります。キリスト者、そして教会。それは、神と共なる関係に生きる、それはさきほど概観いたしました価値観の一つ一つが、この時代においても存在する。その内に私達は豊かに生きることが出来るということを示すものである。そのことを覚えたいと思うのであります。(文責:佐藤義子)

「御言葉の宣教を支える奉仕」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 37:30-31 30 主に従う人は、口に知恵の言葉があり/その舌は正義を語る。 31 神の教えを心に抱き/よろめくことなく歩む。 /n[使徒言行録] 6章1-7節 1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、““霊””と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。 7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。 /nはじめに  私達の伝道所はまだ礼拝堂がありません。近い将来、礼拝堂が与えられることを信じて祈りつつ、礼拝堂のための建築基金献金が献げられております。しかし「教会」とは「イエスは主である」「イエスはキリスト・救い主である」という「『信仰告白』共同体」を意味しますから、会堂がなくても、ここに教会は存在しています。 /n教会のなりたち  私達はこれまで使徒言行録を通して、教会の成り立つ根拠を見てきました。一つは神の御子であるイエス・キリストが歴史のうちに与えられた(神様から遣わされて地上に生きられた)という事実。2つにはイエス・キリストについての聖書の証言。3つには使徒達を中心とした宣教です。この三つが聖霊の働きによって、一人一人に信仰を起こさせるのです。よく、「信仰が賜物として与えられる」といいますが、それは聖書に記されているように、聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」といえないからです(一コリント12:3)。求道者の方々の中で、「イエス・キリストは私の主です。救い主です。」という信仰が与えられましたら、それは聖霊の働きであり神様からの招きによるものですから、喜んでその信仰を受けていただきたいと願い、また、与えられた信仰を公けにしていただきたいと願っています。 /n教会に起きた不協和音  さて、初期のキリスト教会では財産を共有し、互いの必要を満たし合いながら、平和が保たれていましたが、本日の聖書によれば、弟子の数が増えてきて、教会の中に不協和音が生じたとあります。内容は、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して、やもめ達(夫を亡くした婦人達)の食事の援助が軽んじられたという苦情でした。人間のすることは完全ではなく、必ずどこかで不備が起こります。故意ではなく、結果的にそうなってしまう場合もあります。 /n使徒の決断  この時、使徒達のとった行動は、苦情を即、解決しようとするのでなく、弟子をすべて集め、出された苦情をはじめとするさまざまな現実の課題に対処する人を七人選ぶという、宣教の姿勢を根本的にととのえることでした。使徒達が神の言葉をないがしろにしない為に、現実に起こる諸問題は選ばれた人々=「霊と知恵に満ちた評判の良い人」に任せて、自分達は祈りと御言葉の奉仕に専念する、と宣言したのです。御言葉の奉仕とは、イエス・キリストの事実と、イエス・キリストを証言する聖書(神の言葉)と、それに基づく福音の宣教に仕えることです。この3本の柱がおろそかにされるならば、教会は建ち続けることができません。それゆえに御言葉の奉仕者は、このことに専念するのです。 /nただし、現実的な課題も重要である  しかしそれと同時に、「人が生きる」という地上的な事柄への配慮や現実的な課題に対処することの大切さも語られています。この職務をただ漠然と有志の方の奉仕に委ねるのではなく「霊と知恵に満ちた評判の良い人」を選び、その使命が神の力によって遂行できるように「按手」(あんしゅ・手を置いて祈る)をした(6節)、というこの経緯をみただけでも、この仕事を使徒達がどれ程大切に考えていたかを私達は知ります。 /n霊と知恵に満たされたクリスチャンへの道を歩もう! 「こうして神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えて行き」(7節)、敵対する祭司達からも、「イエスは主である」との信仰を与えられた者が起こされて信者の群に加わりました。キリストの弟子として招かれている私達は、宣教の業が前進していく為に、選ばれた七名のように霊と知恵が与えられるよう祈り求め、御言葉の奉仕者を支えつつ、神様の憐れみの中で成長していきましょう!!

「聖霊による一致」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 32章15-20節 15 ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。 16 そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。 17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。 18 わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。 19 しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。 20 すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。 /n[エフェソの信徒への手紙] 4章1-16節 1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 8 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 /nはじめに  本日は「ペンテコステ」といって、主イエスに従う群れが聖霊を受けて、「教会」が生まれたとされる喜ばしい日です。「ペンテコステ」の出来事は、使徒言行録2章の初めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と証しされています。 聖霊の働きによって教会が成立し、更に福音の世界宣教の第一歩が早くも踏み出されていることがわかります。 /n聖霊とは  聖霊とは何でしょうか? 父なる神様はこの世を創造され、人間を愛されて、歴史の中で人間を救おうとされています。イエス様はこの世に人間として降り、人間の罪を贖うため苦難の道を歩まれましたが、最後に死に勝利し、救いの業を完成し、父なる神様の右に挙げられました。聖霊とは、イエス様が父なる神に願い出て、信徒達と永遠に一緒にいるようにしてくださる方で、「弁護者」とも「真理の霊」とも言われる方です。イエス様の死後はこの聖霊が信徒にすべてのことを教え、イエス様が話されたことをことごとく思い起こさせて下さるのです。イエス様のことをメシア(救い主)として証しなさる方であり、罪や義や裁きなど世の誤りについて明らかにされる方です。 /n信じる者の群は一つになれる  今日の聖書には、イエス様を主と信じるという縦軸を土台として、信じる者の群れは一つになれることが勧告として載っています。3節の「霊による一致」の霊は聖霊のことです。へりくだった心と神様の無償の愛で忍耐し合い、平和のきずなで結ばれ、聖霊による一致が勧められています。「体は一つ、霊は一つ」(4節)の体とは、キリストの体と言われる教会のこと、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(5節)もイエス様を信じ、そのことを公にし、洗礼を授けられた者への勧告であり、信仰告白です。聖霊は、人々を父なる神様とイエス様へ向かわせながら「教会」を作り上げ一つにしようと働きます。逆に悪霊は、分断するように働きます。 /n礼拝における一致  「聖霊によって一致する」為に信仰共同体としてまず考えられることは、「礼拝における一致を目指す」ことです。ペトロは人々に「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2:38-)と語り、信者達の生活が毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り聖餐し讃美していた、と証しされています(同43-)。悔い改めて信仰を公にした者達が礼拝で聖霊の降ることを待ち望む。私達も同じです。 /n聖霊の体験  私は信仰生活初めの頃「今日はこの主の御言葉を聞く為に呼ばれたのだ!」と感動しました。又、説教以外でも礼拝中にふわっと包まれるような感覚の中で「あなたの罪は赦された」というメッセージを心で受け取った記憶があります。まさしく「罪の赦し」を体感しました。イエス様が生きて働かれる礼拝の場で、聖霊を毎回体感することを切望します。 /n私達の姿勢  ただその前に、私達の献げる礼拝が、主に喜ばれるものとしてキリストを頭(かしら)とした、キリストの体を造るべく行われているのか、神様の御声に聞き従っていく姿勢が必要です。私達の礼拝が聖霊による一致を与えられ、キリストの体をより一層しっかり建てていけるように神様の恵みをひたすら願って生きたいと思います。 礼拝において神様が、初代教会のように、いつその存在を、私達一人一人に、又は、この教会全体にお示しになるかわかりません。礼拝に遅れたり、サボったりしている場合ではありません!目をさまして、一つになって、希望を持ちつつ、その時を待ち望んでまいりましょう。

「神から出たもの」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 30:2-6 2 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。 3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。 4 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 5 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 6 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。 /n[使徒言行録] 5章27-42節 27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」 33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。 34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。 38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、 40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の弟子達が議会の命令を破り宣教を続けた為に再び議会に引き出され尋問される場面です。28節に、議会での大祭司の言葉が記されています。「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前達はエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 弟子達がイエス・キリストの名前によって人々を癒し、あるいはイエス・キリストの復活を語ることによって人々の間にイエス・キリストへの賛美が生まれることは、イエス・キリストに死刑宣告をした者を批判し裁くことにもつながります。議会はある意味で血の報復を恐れているのです。 /n人間に従うよりも  この世の権力者からイエスの名を使うことの禁止命令が出ているにもかかわらず、なにゆえその命令を破るのか、という質問に対してペトロと他の弟子達は大胆にも堂々とそれに答えました。 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。 裁判というものは、そもそも何が正しく何が間違っているのかを判断して決定が宣告される場ですが、裁判の判断が明らかに神の命令に矛盾する場合は、弟子達は、神の働きの中で生き神の命令に基づいてすべてのことを行為するゆえに、神の命令を優先することを宣言したのです。更に「あなた方が木につけて殺したイエスを神は復活させられました」と宣教したのです。「神様が人間の罪を赦すために救い主として送って下さった神の御子を、あなた方は神に呪われた者(木につけて殺された者は呪われた者)としてしまった」と議会を告発し、悔い改めて神に立ち帰るよう促しました。 /n人からか、神からか。  「悔い改める者には罪の赦しが与えられる」という恵みの福音が用意されているにもかかわらず、弟子達の言葉に対する議会の応答は、はげしい怒りと殺意でした(33節)。そのような怒りの感情で荒れ狂っている議員達を見て、議会の構成員の一人であったファリサイ派の中でも特にその名が知られていた律法の教師・ガマリエルが警告を発しました。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」  神から出た計画や行動は、人間が決して太刀打ちすることは出来ないゆえに、まかり間違えば、自分達が神を敵にまわすことになりかねない。だから死刑判決にすべきではないとの彼の警告に議会は従い、弟子達は 鞭打たれた後、再び伝道禁止を言い渡されて釈放されました。 /n辱めを受けるほどの者にされた喜び  使徒達はイエス・キリストから迫害の予告を聞いておりました。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれるからである」(マタイ10:17)。「私の為にののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(同5:11-12)自分達が「苦難を受けた証人」とされた喜びから、使徒達は今や、疲れを知らない熱意をもって、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせて」(42節)おりました。 /n福音宣教の前進  こうして福音は信じる者から信じる者へと伝え続けられ、妨げられても神から出ているゆえに、人間の一切の思惑を超えてとどまることなく前進していきました。それゆえに私達も又、恥じることなく人にこびることなく、伝道する使命と責任と神様が共にいて下さることを喜び感謝し、今週もキリストの良き証人となれるよう神様の助けを祈るものです。

「命の言葉を告げる」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 40章6-8節 6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。 8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。 /n[使徒言行録] 5章12-26節 12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。 17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、 20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。 22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。 23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 24 の報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。 26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 /nはじめに  弟子達を初め、イエス・キリストを信じる人々は、エルサレム神殿のソロモンの回廊に集まり<イエス・キリストは今も働かれている>ことを語り伝えていました。多くの男女がイエス・キリストを信じる群れに加わり、群れは大きく広がっていきました。使徒達はイエス様と同じように病人に手を置いて癒しを祈りました。神様の手の道具として使徒達の手が用いられ「イエスによる信仰が、あなた方一同の前でこの人(足の不自由な人)を完全に癒したのです。」(3:16)と証しし、ペトロ達の名前はエルサレム近郊にまで知れ渡り、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々が使徒達のもとに連れて来られ、「一人残らずいやしてもらい」(5:16)ました。 /nまことの癒し主  私達は病気になると、医者に診てもらうか、薬を飲むことをまず考えがちです。しかし私達の病気を癒すのは、私達に命を与え、命を支配されている神様です。私達は、神様こそがまことの癒し主であることを信じる信仰に立ち、神様に癒しを祈り、医者を必要とする時には神様が良き医療者を備えて下さるように、更に、その医療者が最善の医療を施すことが出来るように導いてくださいと祈りたいと思います。 /n天使を遣わして語らせる神様の命令  5章17節からは場面が変わり、大祭司とその仲間達が、使徒達に向けて激しい嫉妬と怒りを起こし、使徒達を捕まえて投獄してしまいました。理由は、使徒達による多くの奇跡やそれに伴う人々の尊敬や称賛でした。ところが夜中に主の天使が牢屋の戸を開けて「神殿で命の言葉を語るように」と命じました(19節)。使徒達は「命の言葉」を語るがゆえに、この世の権力者によって捕えられ、そして、「命の言葉」が語り続けられる為に、神の御使いによって牢から出されたのです。使徒達は神の使いが命じた通り、朝早く、神殿の門が開くとすぐ境内に入り、一日を宮で祈ることから始める人達に「命の言葉」を語り、教え始めました。 /n「命の言葉」を語る  命の言葉を語るとは、イエス・キリストについて語り、イエス・キリストの言葉、教え、その生涯(十字架と復活)について語り、イエス・キリストが神の御子であり、救い主であることを伝えることです。そして、イエス・キリストについて語られた言葉を信じる者には真の「命」が与えられます。命の言葉は、私達を罪から離れさせ、イエス・キリストへと導きます。そして、信じる者には「神の裁きと死」から解放されて、真の命がもたらされるのです。ねたみに燃えた大祭司と仲間達が使徒達を捕えて「命の言葉を語る」機会を奪おうとしましたが、神様は使いを送って再び使徒達に語らせ、今日までこの「命の言葉」は受け継がれ、求める者にはいつでも信仰によって真の命が与えられるのです。 /n神を見ず、人を見る罪  夜中の出来事を知らず、大祭司と仲間達は再び議会を招集して使徒達を引き出そうと牢に人を差し向けましたが、牢は空(から)であるとの報告が届きました。彼らは「どうなることかと、使徒達のことで思いまどい」(24節)ました。つまり自らの行為の正当性についての確信はなく、自分達の力を超えた現実を目のあたりにして途方に暮れたのです。彼らはこの時、自分達の伝道禁止命令が神によって破られたことを認めるべきでした。にもかかわらず大祭司とその仲間達はかたくなになり、神様の前に立ち帰ろうとはせず、使徒達の再逮捕に向かいました。しかし、民衆の反感を買って石を投げられることを恐れ(民衆は使徒達を称賛していた)、使徒達を乱暴に扱う事も出来ませんでした。ここでも彼らが神の前ではなく、人を見て行動していることが明らかにされます。 /n引き継がれている命の言葉  「命の言葉」は、時代を超えて継承され、今朝も私達に聖書を通して語られています。聞いて信じる者にはイエス・キリストの命が注がれ、私達を日々新しく生かしてくれます。イエス・キリストと共にある確信、救いの喜びが日々与えられるように祈りましょう。

「神を欺いた夫婦」 佐藤義子 牧師

/n[箴言] 12章17-22節 17 忠実に発言する人は正しいことを述べ/うそをつく証人は裏切る。 18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。 19 真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬。 20 悪を耕す者の心には裏切りがある。平和を勧める人の心には喜びがある。 21 神に従う人はどのような災難にも遭わない。神に逆らう者は災いで満たされる。 22 うそをつく唇を主はいとわれる。忠実を尽くす人を主は喜び迎えられる。 /n[使徒言行録] 4章32節-5章11節 4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。 36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 37 っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、 2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 3 ると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。 4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。 6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。 7 れから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。 8 トロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。 9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」 10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。 11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。 /nはじめに  今日の聖書には教会の中で行われた愛の行ないについてと、それに伴う二つの実例が語られています。 信仰によって一つとされた群れの交わりは心も思いも一つにされ、全てを共有するという愛の法則が生まれていました。そして聖霊の賜物を豊かに受けて大胆に御言葉を語り、イエス・キリストの復活を語っていました。今朝は、この群れの中で起こった具体的な実例から学びたいと思います。 /n二つの献金  一つの例はバルナバです。彼は自分の畑を売ってその代金すべてを使徒達に託しました。(バルナバについては、このあと使徒言行録13章にパウロと福音宣教の旅に出ていく使徒として再び登場します)。もう一つの例はアナニアとサフィラという夫婦の例です。彼らも又、土地を売った代金を使徒達に託しました。この二組の行為を私達が「献金」として見た時、金額の違いはあったにせよ群れのために献げられたということで、全く問題はないように思われます。ところが、同じ「献金」でもアナニア夫婦の献金には罪が入り込みました。アナニア夫婦が陥った罪とは代金をごまかすという罪でした。 /n偽りの罪  夫アナニアは妻サフィラと相談して、土地代金の一部を手元に残し、そのことを隠して、これが自分達の土地を売ったすべてですと偽りの報告に基づく献金をしました。代金の一部を手元に残しておけば、何かあった時に教会に頼らなくてもすむと考えたのか、あるいは、自由に使えるお金が欲しくなったのか、あるいは、信仰深い夫婦だ、愛も深いと称賛されたいという名誉欲に襲われたのかもしれません。 神に従おうとする者を罪へと引きずり込むサタンの力は強力です。彼はその誘惑と戦う必要がありました。しかし彼は戦うべき誘惑とは意識せず、自分のごまかしを信仰者の群れの中で通用させようとしたのです。教会は、神の霊でありイエス・キリストの霊である聖霊が満ちているところです。 私達は聖霊を通して神様のご臨在に触れ、神様の恵みをいただき、喜びや愛、救いの確信や交わりが生まれてきます。それに伴って私達は真理に立ち、光の中を歩むという使命も与えられています。教会の清さを保つには、不正をあばき偽りを明るみに引き出さなければなりません。ペトロが言っているように、アナニアは土地を手放す必要はありませんでした。売らなければいつまででも彼の所有であり続け、又売ったとしても、その代金はすべてアナニアのものでした。 /n神の裁き  しかしアナニアは罪を犯しました。そしてペトロの「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」との言葉を耳にして「アナニアは倒れて息が絶え」(5:5)ました。続いて聖書はアナニアの妻サフィラについても述べています。彼女は夫の死がまだ知らされていない状況の中でペトロと会い、ペトロは妻サフィラに、悔い改める機会を与えました。すなわち土地を売った代金の金額を尋ねたのです。けれどもサフィラは偽ったまま、真実を述べる機会を見過ごし、悔い改めという恵みの時を持とうとせず、(夫と同じように)倒れて息が絶えました(5:10)。 /n私達へのメッセージ  「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れ」(11節)ましたが、この初期キリスト教会の出来事は、今を生きる私達をも恐れさせる事件です。 私達は今日の聖書から、教会は真理の中、光の中を歩み続けていくことが求められていること、神様は隠れた罪を決してそのままにはされず、必ず罪を取り除いてから先に進まれることを心に刻みたいと思います。教会は内的に強くされていかなければなりません。そのために私達に与えられているこの仙台南伝道所が信仰者の群れとして、使徒言行録の教会のように心も思いも一つにされ、愛の法則が教会を支配するように祈り求めていきたいと願うものです。そしてウソ、偽りをこの群から追い出して下さるように・・。それらの誘惑から守られるように・・。いつも真理の中・光の中を歩む共同体として造り上げて下さるように・・。心を合わせて神様に祈り求めていきたいと願うものです。

「キリスト者の祈り」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 145:10-21 10 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 11 あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 12 その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 13 あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 15 ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 16 すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 17 主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 18 主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 19 主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。 20 主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 21 わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。  /n[使徒言行録] 4章23-31節 23 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。 24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。 25 あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。 26 地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』 27 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 28 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 29 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 30 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 31 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。 /nはじめに  今日の聖書は、議会からイエスの名によって語ることを禁じられ、脅迫されて釈放されたペトロとヨハネは、その後どうしたのか。そしてその結果何をしたのか、という二つのことについて記されています。 釈放後、二人は直ちに仲間(二人が投獄されている間中、真剣な祈りを捧げていたイエス・キリストの弟子仲間)のところへ戻りました。二人は仲間達に、祭司長達の言動、又、彼らがどれほどイエスの名を使った宣教活動を恐れて、やめさせようとしているのかを、残らず報告したのでした。次に聖書が伝えていることは、その報告を聞いて、仲間は何をしたのか、ということです。弟子達仲間がしたことは、心を一つにし、神に向かって声を上げ祈ったことでした(24節)。現実に起きた出来事を受け止めた時、それは、それについて話し合うべき事柄ではなくて、神様に訴えるべきことであることを誰もが知っていた、ということです。 /n弟子達の祈りと教会の姿  教会は、何よりもまず天地を創られた神様を見上げ、神様の御業をほめたたえます(24節)。神様の力を仰ぎ見る時、人間の大きさや力がどんなに小さいものであるかを知らされます。続いて弟子達は、詩篇2編の言葉を引用して祈りました。この世の民衆や王達は空しいことを企て、指導者達は神様に逆らうという詩です。事実、ローマ総督ピラトは異邦人、イスラエルの民と一緒になって神様が遣わされたイエス様に反逆しました。しかしこれらのことも全て神様がご承知であり、神様の御手の中にあったと告白します。教会は、神様がこの世界を統治されていることを信じ、神様が与えられるものはすべて引き受ける服従のもとで行動していきます。 更に祈りは、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、」(29節)と祈り、「自分達が大胆に宣教出来るように」と続きます。神様が事実に目を留めて下さるならば、あとは神様が必要なことをしてくださるという信仰です。弟子達が祈ったことは、与えられた使命を果たす為に集中することでした。 /n「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」(29節)  この祈りは、全てのキリスト者に与えられた使命遂行のための祈りです。イエス・キリストが神の御子・救い主であり、私達の罪が赦される為に十字架にかかって死なれ、そして復活し、今もなお生きて私と共にいて下さること、この信仰が与えられている者は、キリストを証しするように神様から使命を与えられています。キリスト教は、宣べ伝えることをやめた途端にキリスト教でなくなる、といわれるように、宣べ伝えていくところに聖霊が働き、生き生きとした信仰が育っていくのです。 祈りの最後で、弟子達は、語る言葉に「しるし」が伴うように、と祈りました。祈り終えた直後、ペンテコステの出来事と同じように、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、そこにいた人達は聖霊に満たされて、人間の権威を恐れることなく大胆に神の言葉を語り出しました。 /n私達の目指す教会  今日の聖書の箇所を通して、私達信じる者が「キリストの本当の弟子」となっているか、私達の伝道所が「聖書が伝えるイエス・キリストを信じて従う者から成る信仰者の群れ」となっているか、そのために祈り続けているかを、改めて問い直したいと思います。 そして、弟子達が迫害後釈放された時、まず仲間の所に戻って残らず話したように、私達の教会も、いつでも宣教(伝道)に伴うどんな話でも、すべての話が出来る場所でありたい、その為に牧師・伝道師を始め、兄弟姉妹が与えられていることをここで確認したいと思います。  日曜日の礼拝を通して神様の御言葉を聞き、御言葉によって励まされ、御言葉から力を頂き、又、正され、祝祷によって社会に派遣され、再び兄弟姉妹と共に神様を賛美し、礼拝するために戻って来る所として教会は存在し続けます。私達の仙台南伝道所が、教会と呼ぶにふさわしい場所としていただけるように祈りましょう。そして、人間の知恵を出し合うのではなく、心を一つにして天地を創られた神様を仰ぎ見て祈り、聖霊の賜物をいただけるよう願い、各自に与えられている使命を果たせるように祈っていきたいと願うものです。

「主を喜びとする」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 58章13-14節 13 安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら 14 そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。 /n[マルコによる福音書] 2章23-28節 23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28 だから、人の子は安息日の主でもある。」 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様とファリサイ派の間に起った「安息日論争」といわれる大問題の一つです。ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子達が麦の穂をつんで食べた行為を「収穫」(労働)とみなして攻撃しました。神様の憐れみなど豊かな恵みを伝えるのではなく「何が何でも律法遵守」と民衆を抑圧して苦しめてきたことは1章21節以下にも記されています。それに対してイエス様は、律法などの「形式」が第一の優先事項ではなく、「神様に喜ばれる性質を伴って、神様に従って生きる」ということこそが、神様が私達に求めておられることだと、ダビデ王と供の話(サムエル記上21:2-6)を用いて示されました。 /nイエス様は神の御子  ダビデは偉大な王でしたが罪深い一人の人間です。一方イエス様は神の御子としてこの世に来られ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という御声を天から受けられました(1:11)。そして「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)と神様の御子として、神の国の到来を高らかに宣言されました。しかし民衆の「不信仰」という罪のゆえに十字架刑にかかり、自らを犠牲とされ、それによって人々の罪をあがなわれました。更に復活=死に対する勝利、を父なる神様から与えられ「贖い主」「救い主」となられました。今やサタンの支配下にあった「この世」の主権を回復されて、イエス様を神の御子と信じる者は、一人も滅びず永遠の命を得るのです。 /n神の安息にあずかる  かつて自分がいた「神様のいない世界」では、いかに束縛と不自由の中におかれて苦しみ辛かったか、いかに一時的なものにすがっていたかを静かに深く探る時、神様の恵みにあずかってからの自分が、いかに安息を得、落ち着いた豊かな気持に満たされているかを、祈りや礼拝の中で、又、御言葉の中で知らされます。 「ヘブライ人への手紙」の3章-4章に、「御子イエス様を信じる者には旧約時代イスラエルに約束されていた『神の安息』が与えられる。だからこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。」とあります。又12章には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を見つめながら、自分に定められた道を忍耐強く走り抜こう」「私達は揺り動かされることのない御国を受けているのだから感謝しよう。畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」との励ましの言葉があります。 /n人の子は安息日の主  律法は、神様が憐れみを覚えられる人間の為に与えられたものです。人間が「○○を守れ」という人間の意図を含む規則に支配されるなら、それは主客逆転であり、神を神としない偶像崇拝になります。今日の旧約聖書イザヤ書58:13-14には、神に従う道とは自分の欲望に従うのではなく、主を第一と考え、主の聖日を尊ぶべき日と呼ぶ、即ち、「主を喜びとする」ことと書かれています。私達は神様を第一と考えて生活し、主の日は神様第一の、神様を喜びとする礼拝を献げているでしょうか? /nこの世のことに向かう態度と礼拝に向かう態度  私自身、かつて信仰生活の初めの頃は、礼拝には半ば義務的に行っていました。しかし信仰の友の、「礼拝に出席した後には、コンサートの後の高揚感、いや、それ以上の充実感が与えられる」との言葉を聞いて、考えが変わりました。コンサートやスポーツの試合などには一時の幸福感のために、早く行き、しっかり向き合い、味わい、余韻を楽しみます。まして、自分を辛い世界にがんじがらめにしたものから永遠に解放して下さった神様と御子イエス様に献げる礼拝に、それ以下の態度で臨む時、その礼拝は神様に喜んで受けていただけるでしょうか。私達はイエス様の大いなる救いの恵みにあずかっているのですから、信仰を共にする兄姉と礼拝を献げる安息日こそ、御子イエス様が御自分の主権をこの世に宣言された喜びの日として、その御恵みを心から祝いたいと切望します。そしてこの一週間も、主を喜びとできるよう、喜びを共有し、生かされていきたいと願います。最後にコロサイ書3:15-17をお読みします。 >> また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 (コロサイの信徒への手紙3章15-17節) <<