「聖霊降臨」 佐藤義子牧師

/n[詩篇] 62:8-9 8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。 9 民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ /n[使徒言行録] 2:1-13 1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4 すると、一同は聖霊に満たされ、““霊””が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 /nはじめに  本日の聖書は「<span style="color:#0099FF;"><span style="font-weight:bold;">あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。</span></span>」(1:8)との約束の成就の始まりです。イエス様の昇天後、11人の弟子・婦人達・母マリア・イエス様の兄弟達は心を合わせて熱心に祈り、欠けてしまったユダの使徒としての任務を継がせる為に、信仰者の群からマティアを選び、約束の聖霊が与えられるのをひたすら待ちました。 /n五旬祭(ギリシャ語でペンテコステ・50番目の日)  やがて五旬祭(ユダヤ教の三大祭りの一つで、他に、過越の祭り、仮庵の祭りがある)がやってきました。五旬祭は七週の祭り(古くは「刈り入れの祭り」)と呼ばれ、過越の祭りの時期に大麦に鎌を入れ始める時から7週間を数えた翌日の50日目に、土地を与え食物を豊かに実らせて下さる神様に初物を捧げて感謝し、喜び楽しむお祝いの日です(レビ記23章参照)。やがてこの祭りは、シナイ山でモーセを通して律法が与えられたこととも結びついて祝われるようになりました。この日の朝、弟子達はこのユダヤ人の伝統的行事を祝うためでしょう、「一つになって集まって」(1節)いました。 /n聖霊降臨  突然大きな音が聞こえました。それは激しい風が吹いてくるような音(暴風が吹き荒れるような音?)でした。それは天から聞こえ(2節)、彼らが座っていた家中に響き渡るような大きな音でした。そして炎のような舌が現れて、一人一人の上にとどまりました。五旬祭の出来事の奇跡は、まず耳から、そして目に見える事柄で始まりました。しかしこの大きな音も炎のような舌も、「ただのしるし」です。この出来事の本当の奇跡は、「神様がかかわられた」ことです。神様がかかわられるしるしの特性は「突然」であり、その働きは「天から」です。ヘブル語では「風」も「霊」も「息」も同じ言葉です。「激しい風が吹いてくるような音」は神様の霊の到来を告げ、「家中に響き渡った」とは、全世界が神様の言葉の伝道で満たされることを伝えているともいわれます。「炎のような」とは、火は神様の霊の一つの現れであり、その舌が、弟子の一人一人に触れたことによって、弟子達は聖霊に満たされました。 /n集まってきた人々  「<span style="color:#0099FF;"><span style="font-weight:bold;">エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいた</span></span>」(2:5)。彼らは純粋なユダヤ人であり、かつて世界各地に散って住んでいた人達です。外国で生まれ育ち、長いこと外国暮らしをしてきたけれども今や両親の祖国へ戻り、ここに住んでいる人達です。「信心深い」とは、親達からいつも神様の救いの業を聞かされ、律法や預言書を通して養われた信仰、救い主を待ち望む人々だったのでしょう。この人達がペンテコステの奇跡の場に居合わせた人々でありました。 /n“霊”が語らせるままに・・  聖霊に満たされた弟子達は、霊が主体となって外国語で語り始めます。大きな音に驚いて集まった人々は、今度は弟子達が語る外国語の説教に驚かされました。それは、自分達が生まれ育った国のなつかしい言語でした。その内容は、「神の偉大な業」(11節)すなわち、イエス・キリストの洗礼から、十字架の死と復活、そして昇天に至るキリストの出来事です。この神様の大いなる救いのわざを、霊が弟子達に語らせました。 /n相反する反応  説教を聞いたある人々は、理解に困難な状況を前に呆然としながらも、その意味を問おうとし、自分達の知らない未知の、しかも重大な何かが起こるような予感を感じた人々です。不思議なことを「不思議」と受け止める人々です。他方、「あの人達は新しい酒に酔っている」とあざける人々がいました(13節)。彼らは人間の理性を過信し、その理性の為に方向をあやまる愚かな人達といえるでしょう。こうして約束された聖霊は、遂に天からくだり、弟子達に与えられ、約束は成就しました。今も聖霊は働き続け、信じて求める者に与えられています。(参照聖書箇所:ヨハネの手紙4:13、ロマ書5:3-5、ロマ書8:9、11、コリント書12:1-11)。

「使徒の選出」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 1章1-6節 1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。 /n[使徒言行録] 1章12-26節 12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。 14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。 16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。 17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。 18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。 19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』 21-22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 22 [前節に合節] 23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、 24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。 25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」 26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。 /nはじめに  今朝の箇所は、オリブ山でイエス様を天に見送った弟子達がエルサレムの町に戻ってからの話です。イエス様が弟子達に語ったのは、「エルサレムを離れてはいけない。約束の聖霊を待ちなさい。」ということでした。弟子達にとって、とどまることと待つことは決して易しいことではありませんでした。というのは、復活されたイエス様を天に送り、これからの自分達の歩みがまだ見えていない状態です。社会的にはユダヤ当局者達に憎まれ殺されたイエスという人の弟子です。ユダヤ社会の中にあって、ユダヤ教徒達から歓迎されない存在でありました。 /n教会の原型  弟子達がまず第一にしたことは、エルサレムの宿泊していた家の二階に集まって心を合わせて熱心に祈ったことでした。誰もエルサレムから離れず、弟子になる以前の生活(職業)に戻ることもしませんでした。イエス様の言葉に従ったのです。13節には二階での祈りを共にした人達の名前があります。使徒言行録の著者は教会の始まりを丁寧に伝えることを使命としたのでしょう。ユダを除く11人の弟子達の名前があり、婦人達(ルカ福音書にはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアなど。その他、たとえば11人の弟子の妻達も加わっていたとも考えられます)、そしてイエス様の母「マリア」、続いて「イエスの兄弟達」と記されます。聖書では肉親の「兄弟」と信仰上の「兄弟」と二通りの使い方をしていますが、ここではイエス様の肉親です。(福音書によれば、イエス様にはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の弟と、姉妹が2人以上いました)。しかし生前、イエス様の兄弟はイエス様を信じていなかったという記述があり、又、悪いうわさを耳にして身内の者がイエス様を取り押さえにきたともありますので、その彼らがこの祈りに加えられていたとは彼らが変えられたということであり、素晴らしいことです。これらの人達が「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。この姿こそ教会の原型といえるでしょう。 /n心を合わせて熱心に祈る  熱心に、とは心を集中して、心を注ぎ出して祈ることです。何を祈ったのでしょうか。イエス様が教えてくださった主の祈り、信仰が守られるように、信仰を伝えられるように、そして約束の聖霊が与えられるまで自分達が忍耐深く待ち続けられるように、日々の悔い改め、そして地の果てに至るまでキリストの証人となると言われたゆえに、キリストの復活の証人として、宣教に必要とされる賜物が与えられるように、と祈ったことでしょう。祈りとは自分を見つめることを離れて、自分を超えた全知全能のお方に目を向けることです。どのように祈ったらよいかわからない時は、声を出して詩篇を読まれるのも一つの方法です。特に詩篇23編は昔から多くの信仰者を励ましています。 /n使徒の選出  次に聖書が伝えるのは、120人ほどの人達が集まっている中での、ペテロの発言です。この群は生前のイエス様に出会い、信仰を与えられた人達の群です。彼らに向かってペテロは、イエス様の直弟子として12人が選ばれたが仲間の一人・ユダは不本意な死に方で死んでしまった。それゆえ、ユダの代わりに使徒を一人補充すべきである、と語りました。イエス様が選ばれた「12」という数を、必要な大切な数と考えたのです。  まず使徒の条件が出されました。「イエス様の生存中、さらに復活・昇天にも共にいた者」という条件です。イエス様の言動をつぶさに見てきた使徒が、神の恵み、神の国について明らかにされた内容を、これから大胆に伝えていくのです。二人の候補者があげられました。一人でなく二人の候補者をたてたのは、人間の熟慮と決断だけではなく直接に神様の導きが働く余地を残すとの考えからです。そして彼らは祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人の内のどちらをお選びになったかを、お示しください。・・」  使徒の仕事は、その人の内側の心にかかっています。内側を見ることのできるお方は神のみです。弟子達はどちらを神様が使徒として召されるのかを問う為に、当時の方法であった「くじ」がひかれ(箴言16:33)、くじはマティアにあたりました。こうして、離れてしまったユダの使徒としての任務はマティアに引き継がれることになりました。

「赦(ゆる)しと癒(いや)し」 平賀真理子 伝道師

/n[詩篇] 103:1-13節 1 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9 永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10 主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12 東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 /n[マルコによる福音書] 2章1-12節 1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 3 四人の男が中風の人を運んで来た。 4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 /nはじめに  マルコ一章には、イエス様が、汚れた霊に取りつかれた人や噂を聞きつけてやってきた多くの病人を癒されたことが記されています。癒された人はそのことを人々に言い広めたので、イエス様の周りはいつも人々が一杯でした。そんな状況の中「イエスが御言葉を語っておられると」(2:3)とあるように、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、宣教開始時の御言葉を高らかに、そして神の国についていろいろ語られたことでしょう。悩み苦しんでいたからこそ、その場にいあわせた人々は主に救いを求めて大きな恵みを与えられたと思います。 /n病人と四人の男  「神の御言葉が語られて」いた、そのような最高の敬意を払うべき状況下で、何と四人の男が屋根をはがし始め、病気で体が思うように動けなくなった人(一般的に脳の血管が破れたり詰まったりした後、手足、言語機能、運動機能に障害が起こっている状態)の床をつりおろしました。ここで読み取れるのは、その病人とこの四人が、イエス様の所に行けば絶対に治してもらえると信じて行動したということです。イエス様が、「その人達の信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される。』と言われた。」とあるからです。 /n律法学者  6節にイエス様の反対勢力として「律法学者」が現れます。彼らはモーセが神様からいただいた十戒をはじめ、旧約聖書全体を詳しく知っていた人々、イスラエル民族の宗教生活全般を指導していた有力者階級の人達です。政治的にも最高議会で多くの議席を占める町の名士でもありました。律法学者たちは「あなたの罪は赦される」というイエス様の言葉に疑問を抱きます。「神のみが罪をお赦しになれるはず。この男は神を冒涜している・・」と。イエス様は、彼らの心の中を御自分の霊の力ですぐに知ったとあります(8節)。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:13)のです。彼らは、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」とイエス様から問われた時点で神様から来る霊の力を悟るチャンスがありました。しかしイエス様を認めることは自分達の権威を失墜させることになると考えたのでしょう。彼らは自分達の地位を守ることが第一で、目の前で苦しむ人々の救いや、それを見て憐れまれる神様の思いは考えられないのでしょう。 /n「罪の赦しの宣言」と「歩けるようにする癒しの宣言」  イエス様は律法学者に「赦し」と「癒し」の二つを挙げて、どちらが易しいかと問いました。ある注解書にこうあります。「この問いは答え難い問いである。」「この問いは一つの明確な答えを求めるものではなく、むしろ敵対者たちを困惑させるためのものではなかろうか。」  赦しと癒しの権能を神様から与えられているイエス様です。この問いの答えは、「問いとイエス様の発言と行動」で分かるようになっていたのです。信じない者、分かろうとしない者達には分かりえない問いです。イエス様が「地上で罪の赦しの権威を持っていることを知らせよう」と言われてなさったことは「癒し」の宣言とその実現でした。 /n詩篇103:3-5に学ぶ  神様の、人間の救いのご計画の内容は、赦し・癒し・贖い・慈しみ・憐れみ・豊かさ・生命力の甦りです。「光」は普通は透明ですが、分析すると赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と見ることもできます。神様の人間に下さる恵みは一つ一つの出来事を分類することもできますが、人智の及ばない、もっとダイナミックで捕え難いほど大きいものだと思います。 /n私達も赦され、癒される  さて、聖書に登場した病人を私達と置き換えて考えることができます。私達は罪に縛られ、神様の前に不自由で思うように動くことができていません。パウロでさえ、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(中略)肉では罪の法則に仕えています。」と神の前に不自由な自らを嘆いています。しかしイエス様の下に馳せ参じ、又は周りの人を取り込みながら、救いを得たい、信じたいと礼拝に集う私達をイエス様は憐れみ、赦され癒された病人と同じように助け励まして下さると信じます。

「礼拝としての生活」 倉松 功 先生(元 東北学院院長)

/n[詩篇] 95:1-11 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。 9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。 10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」 /n[ローマの信徒への手紙] 12:1-2 1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 /nはじめに  「礼拝としての生活」・・このような言い方はあまり聞き慣れないかもしれません。パウロがここでいう「礼拝」とは、私達がささげている礼拝と、キリスト者の生活という意味での礼拝の両方を意味していると思います。今朝はこの二つの「礼拝」の関連について学んでみたいと思います。 /n「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。」  冒頭の「こういうわけで」とは、ロマ書1章から11章の終りまでの全体を指しているように思いますが、「神の憐れみ」は特に3:21から11章の終りまでに関係しています。「神の憐れみ」とは神が私達に御子イエス・キリストを与えて(送って)下さった、(神様の側からみれば罪人の私達を神が憐れまれた/私達の側からすれば神の恵み・神の愛が与えられた)そういう「神の憐れみ」によって勧める、と言っています。重要なのは神様の憐れみ(恵み)です。それゆえに「今ささげている礼拝」も、「私共の日常生活が礼拝である」という礼拝も、神様の憐れみ(恵み)からきているということです。 /nパウロの勧め  パウロは勧めます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。これはすぐには読めない大変厳しい言葉です。生ぬるい私共の生活から比べると「いけにえとして献げる」とは大変な言葉です。「これこそあなた方のなすべき礼拝」というこの「礼拝」が、パウロが勧める「礼拝としてのクリスチャンの日常生活」と考えるとこれは受け入れ難い、そばに寄ることも出来ない言葉のように思います。しかしこの言葉と、冒頭の「神の憐れみによって勧める」との言葉は大変深く関係しています。もしも神の憐れみ(恵み)がなければ、私共にはこの言葉は受け入れられません。  神が私達に求めておられることは、「生けるいけにえとして献げる」ことです。完全なクリスチャン生活に至る人々(たとえば宮城県には重要なキリシタンの迫害の地があり、戦後に至るまで洞窟で礼拝をささげた人達)の生活を念頭に置いて考えてみても「いけにえとして献げる」との言葉は私達には厳しい言葉です。ですが「神の憐れみ」がそれを私達に勧めています。 /n礼拝は「奉仕」  礼拝には「奉仕」という意味があります。日曜礼拝は「サンデー・サービス(Sunday service)」といいます。奉仕をするとは(どのような形であれ)周辺の人が助けを必要としている時に助けることです。聖書には隣人愛という形で表れますが、それも又奉仕です。礼拝という言葉を中心に考えると、日曜日の礼拝と日常の生活における何らかの形の奉仕が「礼拝」という言葉と結びついています。パウロの厳しい勧めの言葉にかかわらず、クリスチャンの日常生活は、礼拝と密接に関連しています。 /n神が私達に奉仕をした  今日のキーワードは「礼拝が奉仕である」ということです。日曜日の礼拝は「神が私達に奉仕をした」ことを聞くことです。神がキリストを私達に送って下さったその意味を学ぶことです。それによって何が起こったかということを教えられるのです。これは神の私達(全人類)に対する奉仕です。礼拝は「神の奉仕」というところから見ると、私共の日曜礼拝とクリスチャンの日常生活とは無縁ではない、といえるでしょう。 /n礼拝の意味  次にパウロは礼拝の意味(礼拝がどういうものであるべきか)を語っています。12:2「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。これは特に日曜日の礼拝にあてはまるように思います。なぜなら、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことが出来るからです。これは日曜日の礼拝なくしては出来ません。しかし礼拝において「神に喜ばれること」「完全なこと」を学んだ事柄に基づいて、私共が日常生活で少しでも実践する、具体化していく、ということがないと身にはつかず、信仰の生活というものにはなりません。神様が求めておられる事はすべてクリスチャンにとって善です。神様の求められる事を行なうということは神様にとって喜びです。ですから少しでも語られたことを行なうということがないと、信仰生活とはいえません。 /nなすべき礼拝  このことから1節の「なすべき礼拝」というのが何であるかがよくわかると思います。「心を新たにして自分を変えていただき、神に喜ばれる善いこと、完全なことを学ぶ」ことが日曜日の礼拝です。「なすべき礼拝」とは、英語では「リ-ズナブル(reasonable)な礼拝」となっています。元の言葉では「ロゴス的・理性的・合理的」な礼拝となっています。キリスト者の礼拝はそういう礼拝でなければならない、とあるのは大変重要です。(それ迄の礼拝は、動物をささげたり、お供え物をささげたりするのが一般的)。そして日曜日の礼拝において、神のみこころを学ぶ(何が善く、何が喜ばれ、何が完全であるか)ことは、理性的に歩もうとする者にとって、きわめて重要なことだと理解してよいでしょう。 /n礼拝の持つ使命  私達の世界では、さまざまな形で善についての議論がなされています。社会生活や改善する時の方針、教育の在り方など考える時、必ず理性的、善・悪を問題にします。戦後の教育基本法などに出てくる善とか価値というものについて見る時、それがいかに聖書の教えに関連しているかということを知ります。何が善で何が神に喜ばれる全きことであるかについて、現代においてキリスト教がもっている使命、礼拝が持っている使命は、きわめて大きいと思います。 /n日常生活においてなすべき礼拝 (12:3以下)  3節以下には「日常生活においてなすべき礼拝」「教会の中の生活」において一番重要な仕事が語られています。「預言・奉仕・教え・勧め・施し・指導・慈善」との言葉が出ています。大事なクリスチャンの基本になる「教会生活」の中でなされている仕事です。パウロが「キリストの体である教会」と言った時の体(手の働き、足としての働きなど、枝々の生活。交わりの生活。礼拝の生活)の中でなされている仕事です。 /nルター「キリスト者の自由」  「キリスト者の自由」の最初にでてくる「二つの言葉」は今日の聖書に非常に関連があるのではないかと思います。 >> 1.「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な君主である」。 <<  キリスト者は神によってキリストを通して罪が赦され、罪から解放され、キリストの持っているすべての物が与えられ、すべてのものの上に立つ、すべての者から自由である者です。キリストと同じ自由が与えられているわけですから、まさにこれは「神の憐れみ」であります。ところがそれに続いて、そういう神の恵み、それは具体的に生活でどういう形で表れるかというと、 >> 2.「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕である」。 <<  これがキリスト者の実践です。「奉仕するしもべ」ということについてルターは「万人祭司」といいます。祭司とは人々に仕える人のことです。日々神に礼拝をささげながら人々に仕えていく、という役割をもっています。男であれ女であれ子供であれ、手工業者、農耕者、商人、すべての人が祭司であるといいます。教会の中の仕事をし、日常的には、家庭にあって職場にあってその場で神に奉仕する。これが万人祭司です。このルターの「万人祭司」という考え方を、ここにあてはめて理解することができるのではないでしょうか。 /n私達は礼拝に招かれている。そして日常生活の奉仕へ。  私達は具体的な日常生活において、仕事をしながら神に奉仕をするとは考えないかもしれません。しかしそこを離れて人に仕えることはないでしょうし、人に仕えることを離れて神に奉仕をするということは考えられません。それだけに私達の日常生活は大変なことです。大抵は自分が求めるあり方、希望している生活(営み)にはならず、赦しと救いを必要としています。私達は神の憐れみ、神の愛を必要としています。そこに又、日曜日の礼拝において私共は再び神によって罪の赦しをいただく。或いは神の前にざんげする。そういう必然性を私共は与えられている。そういう形で私共は日曜の礼拝に招かれている。そういう形で日曜日の礼拝から日常生活において奉仕をするように勧められております。

「キリストの証人となる」 牧師 佐藤 義子

/n[申命記] 10章12-14節 12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、 13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 /n[使徒言行録] 1章6-11節 6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 /nはじめに  使徒言行録は、本日の聖書の1章8節が主題であるといえます。 >> 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 <<  この言葉は、復活されたイエス様が昇天される直前に弟子達に語られた言葉です。そしてイエス様のお言葉通り、このあと約束の聖霊が弟子達に降り、弟子達は力を受けてエルサレムからはるかかなたの、当時の世界を象徴するローマへと福音を宣べ伝えていきました。使徒言行録は、イエス様のこの言葉が、どのように実現していったのかを私達に示してくれます。イエス様が約束された聖霊とはどのようなものか、さらに、使徒言行録という表題がついていますが、主役は使徒ではなく神様から送られた聖霊であることをご一緒に学んでいきたいと思います。 /n弟子の質問  「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを・・使徒達に示し」(1:3)、「あなたがたはまもなく聖霊による洗礼を授けられる」(1:5)と約束されました。弟子達はイエス様に、「イスラエルに与えられた約束はいつ実現するのか」と質問します。かつてユダヤの民はダビデ王のもとで安全と平和の内に生きていましたが、民の神に対する不信仰・不服従の罪の為に、国は異邦人(バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマなど)の支配下に置かれてきました。けれども人々は、預言者を通して語られたこと、<神が再びイスラエルに王を与えて下さり、民は支配と自由とを獲得できるとの約束>を聞き、「メシア(救い主)」を待望していたからです。  弟子達は復活されたイエス様を仰ぎ見て、今こそイエス様が新しいイスラエルを建設されるその時が来たのではないかと考えました。弟子達にとって、この質問の答は、旧約聖書の預言の約束を人々にどのように宣べ伝えていくかを決定する重要なものでした。 /n父が・・お定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。  弟子達が知りたいと思って尋ねた質問は、神様の絶対権(神様だけが決め得ることがら)に触れるものでした。マルコ福音書に「天と地が滅びるその日その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。父だけがご存じである」(13:32)とあります。イエス様は、弟子達の使命の中には、彼らが知りたいと願っている「時」や「時期」に関することがらは入っていない。それは、あなた方の召命に属することではなく、神に属する事柄である」ことを教えられました。 /n神様の絶対権  神様の絶対権について私達はどこまでわきまえているでしょうか。ロマ書に「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」(9:20)とあります。神様は私達の生も死も支配なさるお方です。そのお方に対して私達は信じて従うのみであり、不平や不満を言ったり、神様に先走って物事を決めても、決して祝福された歩みにはなりません。 /nキリストの証人となる  イエス様は弟子達に、彼ら自身の仕事をしっかり成し遂げる為の言葉を与えられました。それが冒頭に記した1章8節です。彼らの上に聖霊が降ることによって、力が与えられ、彼らはイエスこそキリスト(救い主)であることを証しするキリストの証人となるとの約束です。言い換えるなら、キリストの証人とは、聖霊としての神の力を大前提にした言葉と行為によって立たされた人といえるでしょう。マタイ福音書には「すべての民を・・弟子にしなさい」。ここでは、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」です。キリストの証人による証言が2000年以上途切れることなく宣教され続けてきた結果、私達の伝道所があります。

「聖霊による洗礼(バプテスマ)」 牧師 佐藤 義子

/n[エゼキエル書] 36章25-28節 25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。 26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。 /n[使徒言行録] 1章1-5節 1-2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。 2 [前節に合節] 3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 /nはじめに  2009年の最初の聖日礼拝を共にささげることができることを神様に感謝いたします。2009年の御言葉として、週報に掲げましたようにヨハネ福音書の「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」を選びました。ここで「言」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストがこの地上にこられ、言葉と行いを通して神の国について宣べ伝えましたが、イエス様を受け入れた人、イエス様が神の子キリストであることを信じた人々には、神の子となる資格が与えられたことを、聖書は語っています。神の子となる資格とは神様を「父!」と呼べることです。神様を自分の父と呼べるということは、実はすごいことなのです。なぜなら神様は全知全能であり、世界万物を造られ、支配されており、雨や雪を降らせ、食物を与えるお方であり、神様に不可能なことは何一つないからです。私達はこの地上で、人間の父親が与えられていますが、地上の父はいつまでも地上に生き続けることはできませんし、人間としての限界も持っています。どんなに素晴らしい父親であったとしても、神様と比べることはできません。 イエス・キリストを受け入れその名を信じる者は、どんな人でも神様を父と呼ぶことが許され、神の子とされるという素晴らしいメッセージです。神様にはイエス様という神の御子がおられます。私達はこの御子を信じることによって養子とされ、信じる者は兄弟姉妹となり神の家族とされます。 私達はたとえ人生の暴風雨の中に置かれても、神様の守りの外に出ることはありません。神の子とされた者は、外側の状況に左右されることなく、神様の平安と恵みの中で生き続けることが保障されています。 /n使徒言行録を学ぶ  今月より、礼拝で、使徒言行録を通して御言葉を学びたいと思います。宛て先のテオフィロは、おそらくローマ政府の高い位の役人であったであろうと想像されています。著者がテオフィロに献呈した理由は、キリスト教信仰は、固く根拠づけられた事実の上に基づいている、という確信を与えることと、このキリスト教信仰が広められることにありました。 /n選民イスラエルから異邦世界へ  申命記に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてにいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が・・あなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(7:6-8)とあります。神の民とされたイスラエルでしたが、しかし、救いの為に神様から遣わされた御子イエス様を彼らは受け入れず殺してしまいました。その結果、御子イエス様は(イスラエルから見れば)異邦人である他の全ての民の救い主となられました。イエス様によってまかれた神の国の種が、イスラエルからどのようにしてローマという異邦世界にまで広がっていったのかを、使徒言行録は伝えます。 >> 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」(4-5節)。 <<  水による洗礼は今でも全世界の教会で執行されています。これは罪からの悔い改めの洗礼であり、神様との永遠の交わりに入れられる洗礼です。この伝道所での洗礼も、水による洗礼です。しかしイエス様の約束は、聖霊によるバプテスマです。この洗礼は神ご自身が内側から新しく命を与えてくださる洗礼であって、私達はこの約束を信じて祈り求めて待つことによって弟子達と同じように与えられます。(後略)

「シメオンの賛歌」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書] 52章7-10節 7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。 8 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。 9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。 10 主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。 /n[ルカによる福音書] 2章25-35節 25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 31 これは万民のために整えてくださった救いで、 32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 /nはじめに  先週は多くの方々と共にクリスマス礼拝を献げられて感謝でした。日本では、クリスマスの後はすぐお正月が控えていて「25日過ぎれば、クリスマスは終わり!」という雰囲気になっています。しかし教会暦では一般的に12月25日から1月6日の前日までが降誕節です。1月6日は「公現日」(顕現日)といって、異邦人(東方の博士が星に導かれてキリストを礼拝しに来た)にイエス・キリストの栄光が公に現わされたことを記念する日です。 /nシメオンの賛歌  今日の聖書の29節から32節までは「シメオンの賛歌」と言われています。神様の約束通りイスラエル民族から救い主がお生まれになり、異邦人にまでも神様の真理が明らかになって広まっていくことへの喜びが歌われます。待降節では「ザカリアの預言(賛歌)」、「マリアの賛歌」を学び、本日「シメオンの賛歌」を学びますが、この3つの賛歌は旧約聖書の預言者がずっと預言していた通り、救い主をこの世に送って下さった神様への感謝と喜びと希望を歌ったものとして知られています。主の救いのご計画が実際に果たされたことへの感謝と喜びの中で本当の平安が与えられ(縦のつながりの回復)、それが又、異民族へも広がっていくのだという確信に満ちた希望まで与えられる(横への広がり)。御子のご降誕と、その歩みによって、です。これこそが、神様がこの世の私達人間、悪い思いに捕われがちな人間をも愛して下さっているという福音、喜びの知らせです。この安堵感(安心感)で一日を締めくくり(カトリック教会では、一日の終りにシメオンの賛歌を歌う)、広がる希望を胸に眠りの床に就けることができるのは、深い意味で幸せなことです。更に進んで、シメオンが歌ったように人生の終わりに救いを確信して主の平安を与えられることは本当に幸いなことです。(29節)。 /n主の平安  最近、「主の平安」を経験しました。今祈祷会では「ヘブライ人への手紙」を学んでいます。2章10節から18節に、「イエス様が血と肉を備えられたのは(この世に人間としてお生まれになったのは)、イエス様が死を司(つかさど)る者(悪魔)を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の為に一生涯、奴隷の状態にあった者達を解放なさる為でした。」とありますが、とても納得できた経験をしました。頭(理論)では知っていましたが、「腑に落ちた」という感じでした。忙しさと軽薄さの中で日々を過ごす内に、自分が死ぬ身であることも忘れかけ、かつて教会に通う前には悩みの淵にいて自分が神様とつながることが出来るなどとは思いもよらなかったことを思い出しました。そのまま死を迎えていたら、神様と断絶したまま暗い淵に沈んでいたのだろうなあと気がつきぞっとしました。今は、イエス様の十字架上の死によって私の罪による神様との断絶は贖(あがな)っていただけて、神様と(接ぎ木ながら)つながりを回復していただき(イエス様を仲保者としてですが)、その救いを確信して死ねるのだなあ!ほんとに安心なんだなあ!と実感できたのでした。 /n逆転(異邦人を照らす啓示の光:32節)  シメオンは幼子イエスを腕に抱けて喜びや安心感はひとしおだったでしょう。このイエス様こそ、神様が準備された全民族の救いであり、その救いが異邦人に迄広がり、神様のご計画が明らかになれば、神様の御子を授かった選民イスラエルはそのことを誉れにすることが出来るという喜びの歌です。啓示とは、覆われている神の真理が、覆いがとれて明らかになるという意味の言葉です。イスラエルの人々にとって異邦人とは、神の律法を知らない民族、又、侵略する・されるという争いの生じる近場の異民族のことが脳裏に浮かんだと思われます。自分達は抑圧されてきたという敵対心も込められているかもしれません。しかし神様にほど遠いとみていた異邦人でさえ、神の真理を知り得るということ、その異邦人が御子とその母体のイスラエル民族を尊敬するようになるということ、このような逆転が神様の救いの時には起こります。これはマリアの賛歌やイエス様の山上の説教にもあらわれる神の救済の業の素晴らしさです。人智の及ばない神様の素晴らしい知恵と力と業です。(後略)

クリスマス礼拝 「救い主の誕生」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 103:1-13 1 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9 永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10 主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12 東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 /n[ルカによる福音書] 2章8-21節 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 /nはじめに  クリスマスは「the Mass of Christ」、Massとはミサ、聖なる祭り、Christはキリスト、つまり「クリスマス」とは「キリストの聖なる祭り」のことです。キリスト抜きのクリスマスイベントが日本でも盛んになりましたが、日頃教会に目を向けない人達もクリスマスだけは教会に行こう!との思いが与えられ、クリスマスの本当の意味に触れるようにと祈ります。 /n三重の誕生  キリスト教大事典によれば、ローマカトリックではクリスマスに3回のミサが行われます。これはキリストの三重の誕生を象徴しているとのことです。イエス・キリストは父なる神のふところに生まれ、人としてマリアから生まれ、そしてイエス・キリストを信じる私達キリスト者の魂における誕生という三重です。今朝、私達は私達の魂の中にイエス様をお迎えし、イエス様に住んでいただく「うつわ」とさせていただきたく御言葉に耳を傾けたいと思います。 ____________________________ /n天からの光  暗い夜の中を、野宿していた羊飼いの前に、突然天からの光があたりを照らしました。私達の知っているこの世の光ではなく、「主の栄光」・・天からの聖なる輝きの光で人知を超えたもの・・であったがゆえに羊飼い達は恐怖を感じました。「非常に恐れた」(9節)の原語は「大きな恐れを恐れた」、心臓が止まるくらいの驚き、体に戦慄が走るような恐怖だったのでしょう。天使は羊飼い達にこう語りました。「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(10-11節)。ダビデの町とはベツレヘムのことです。天使は、?今日、ベツレヘムであなたがたの為に救い主が生まれた。?この方は、あなたがたが待っていた主、つまり神の子キリストである。この二つの喜びのニュースを告げました。 /n二つのしるし  天使が示したメシアのしるし、それは「布にくるまれている」こと、そして「飼い葉おけに寝かされている」乳飲み子でした。いと低き姿における救い主の誕生において、いと高き神の栄光があらわされるのです。 /nグロリア・イン・エクセルシス  この後さらに天の軍勢が加わって、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美がささげられました。これはラテン語訳(最初の原語訳)から「グロリア・イン・エクセルシス」と呼ばれています。天には神の栄光と、地上には、神様の御心にかなう人(神様の望む人)に神様の平和と救いがあるという、天上と地上がここでつながります。地上で神様の意志が行われる時、そこに平和が臨み天の栄光は輝きます。(逆に、地上で神様の意志に反する憎しみ、裏切り、戦いなどが起これば、天の栄光が輝くことはありません)。 /n神様の出来事  天使はこの出来事(救い主誕生)が人間社会の出来事ではなく、一方的に、神様の出来事として人間社会に与えられたことを伝えています。それゆえヨセフもマリアも奉仕者にすぎず、その名は出てきません。 /n最初に知らされた羊飼い  このニュースが最初に名もない貧しい、野宿をしていた羊飼いに伝えられたことにより、メシアがどのような方であるかが明らかにされます。 /nクリスマスおめでとう  なぜクリスマスはおめでたいのでしょうか。「今日・・あなた方(私達)の為に救い主がお生まれになった」日だからです。私達に命を与えて下さった神様は、命だけでなく全生涯を共に生きて下さることを知らせる為に御子イエス・キリストをこの世に送って下さいました。イエス様は救い主として生まれられた!まさに、罪の支配するこの世で生きる私達を(同じ地上にありながら)そこから救い出して神様の支配の下で生きるように移し換えて下さる道を備えられました。だから私達は御子イエス・キリストを信じることで、神と共に生きることが出来るのです。

「ユダヤのベツレヘム」 牧師 佐藤 義子

/n[ルカによる福音書] 2章1-7節 1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 /nはじめに  ベツレヘムはパレスチナの中央山脈地帯に属するユダの町で、最も肥沃な地帯の一つです。北側の丘にはオリーブが茂り、東側のゆるやかな斜面には小麦が豊かに実りました。ベツレヘムは昔エフラタと呼ばれ、旧約聖書にはエフラタとベツレヘムの両方の名で出ています。ベツレヘムはダビデの出身地として知られ、さらに時代をさかのぼれば、ルツの夫の出身地でもありました。 /nルツ-ダビデ-マリアの夫  ルツ記の初めに「ききんが国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れてユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人の名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。」とあります。ナオミの夫エリメレクはその後亡くなり、二人の息子達はモアブの女性を妻に迎えますが、10年後には二人の息子も死んでしまいます。ベツレヘムのききんがおさまったことを知ったナオミは一人故郷に帰ることにして、若い二人の嫁には実家に戻るように説得します。ところが嫁の一人、ルツはナオミについていくと聞かず、ついにナオミは説得をあきらめルツを連れてベツレヘムに帰ります。ベツレヘムで落ち穂拾いに出かけたルツは、農夫達の後について畑に入ると、そこはたまたま夫の父エリメレクの親族ボアズの畑でした。やがてルツはボアズと結婚して男の子(オベド)を産み、オベドは成人してエッサイの父となり、エッサイの末の息子がダビデです。羊飼いだったダビデはやがてイスラエルの国王となり(BC1000)、このダビデの家から救い主が生まれるとの預言が与えられ、イスラエルの民は長い間、救い主(メシア)を待ち望んでいました。マタイ福音書の系図によれば、マリアの夫ヨセフはダビデから数えて26代目にあたります。 /n人口調査  今日の聖書には、ローマ皇帝から全住民に登録の勅令が出たとあります。人口調査です。強制的に出身地に戻っての登録のため、ナザレに住んでいたヨセフとマリアは120キロも離れたヨセフの出身地ベツレヘムに帰ることになりました。絵画等でマリアがろばに乗り、ヨセフがたずなをひいて歩く姿が描かれていますが、当時、臨月のマリアをつれての旅は、どんなに大変で、また危険が伴っていたことでしょう。 >> 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6-7節) << /nべツレヘム 「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5:1) 預言者ミカ(BC750-686)は、神様がこの小さな町ベツレヘムをメシア誕生の場所として選ばれていることを預言しました。それから700年以上の年月を経て、イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになった。これは、たまたまではなく、偶然でもなく、神がこの世の権力者の人口調査という計画を用いて、ベツレヘムのダビデの血をひく、さらにはモアブの女性ルツの血を引くヨセフという男性を父親として選び、婚約者マリアをベツレヘムまで導かれた、ということです。これは神様のご計画による約束の成就!以外の何ものでもありません。 /n飼い葉おけ  イエス様が誕生されて初めてのベッドが家畜の為の飼い葉桶でした。ユダヤ人として生まれたイエス様は、始めからローマ皇帝勅令によって旅の途中で誕生し、イスラエルの国の歩みの苦しさと貧しさと共に生きられました。飼い葉桶の理由を口語訳では、「客間には彼らのいる余地がなかったから」と説明しています。お腹の大きなマリアの為に自分のベッドを譲る人は誰もいなかった、ということでしょう。この世の権力からも富からも、そして人々の愛からも遠く離れたこの飼い葉桶に寝かされた幼子は、しかし神様の深いご計画の中で何の支障もなく、誰にも邪魔されず、神様の大いなる恵みの中で天から地上に降られたのでした。(後略)

「マリアの賛歌」 牧師 佐藤義子

/n[詩篇] 111篇1-10節 1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。 2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 3 主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。 4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み 5 主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め 6 御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。 7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実 8 世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。 9 主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。 10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。 /n[ルカによる福音書] 1章46-56節 46 そこで、マリアは言った。 47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 /nはじめに  「マリアの賛歌」と見出しがついている今日の箇所は、「マグニフィカート」(ラテン語で「あがめる」の意)と呼ばれています。ラテン語訳聖書ではマグニフィカートから始まるからです。マグニフィカートは古くから礼拝に用いられ、ローマ・カトリック教会においては、毎日一定の時刻に一定の形式によってささげられる公の祈りの中に取り入れられ、聖公会やルーテル教会でも夕礼拝で歌われるそうです。 /nマリア  大工のヨセフと婚約中であったマリアは、社会においてはごく普通の、平凡な、目立たない女性の一人であったと思われます。このマリアに驚くべき出来事が起こりました。「受胎告知」として絵画でも有名な、天使ガブリエルの言葉がマリアに臨んだことです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。天使はマリアの胎内に命が宿ることを告げます。結婚していないマリアは、そんなことはあり得ないと答えますが、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)と語ります。さらに天使は、親族のエリサベトが老年ながら子供を宿していることを伝えて、「神に出来ないことは何一つない」と宣言します。マリアは答えます。「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」 /nマリアとエリサベト  マリアは一人では抱えきれない自分の体験を、親族エリサべトに聞いてもらおうとしたのでしょう。急いで山里のエリサベトの家に向かいます。マリアがエリサベトに挨拶をした時、エリサベトの胎内の子が踊り、エリサベトは聖霊に満たされて声高らかにマリアを祝福して言います、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう。 /n神様の選び  イエス・キリストの出生は、ヨセフに何の関わりがなかったと同じくマリアにもなかった、と内村鑑三は言いました。その意味は、マリアは他の信仰者と同じように神様のしもべの一人であったにすぎない、ということです。神様のしもべとは、自分の意志を行なうのではなく神様の意志を行わさせられる者であり、神様はマリアを通して御子を世に遣わそうと計画されました。すなわちイエス・キリストの誕生は、マリアの側から起った問題ではなく、一方的に神様のご計画であり神様の選びがマリアの上に起ったということです。そしてそのことを一番よく理解していたのがマリア自身でありました。 /nマリアの賛歌=礼拝の原点  「あがめる」には「大きくする」という意味があります。マリアは神様を大いなる方とし、自分を身分の低い主のはしためと言い「力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから」と告白します。マリアの神様への賛美は、自分の魂も霊も(魂・霊は最も大切な自分の中心部分・核となる部分、その全てをもって全身全霊で)神様をあがめ、神様を喜び称えると歌います。なぜなら神様はこんな自分に目を留めて下さった!顧みて下さった!それは大事件なのです。ここに礼拝の原点をみます。このとるに足りない私を神様は多くの人々の中から見つけて下さり、今こうして礼拝者として私をこの場に招いて下さっている。これは何と大きな祝福でしょう。礼拝とは、全身全霊で神様をあがめ、神様を喜び称えることです。 /n「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・」  マリアの賛歌は、終末における神による「人間の運命の逆転」も歌います。神が全能をもってこの世の一切の力を排除し、これ迄の価値は完全に消滅するとの信仰が旧約以来継承されています。昔も今も私達の住む世界は矛盾だらけです。しかし神が王として支配される時がきます。その時に逆転がおこるのです。(後略)。