「赦(ゆる)しと癒(いや)し」 平賀真理子 伝道師

/n[詩篇] 103:1-13節 1 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9 永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10 主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12 東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 /n[マルコによる福音書] 2章1-12節 1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 3 四人の男が中風の人を運んで来た。 4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 /nはじめに  マルコ一章には、イエス様が、汚れた霊に取りつかれた人や噂を聞きつけてやってきた多くの病人を癒されたことが記されています。癒された人はそのことを人々に言い広めたので、イエス様の周りはいつも人々が一杯でした。そんな状況の中「イエスが御言葉を語っておられると」(2:3)とあるように、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、宣教開始時の御言葉を高らかに、そして神の国についていろいろ語られたことでしょう。悩み苦しんでいたからこそ、その場にいあわせた人々は主に救いを求めて大きな恵みを与えられたと思います。 /n病人と四人の男  「神の御言葉が語られて」いた、そのような最高の敬意を払うべき状況下で、何と四人の男が屋根をはがし始め、病気で体が思うように動けなくなった人(一般的に脳の血管が破れたり詰まったりした後、手足、言語機能、運動機能に障害が起こっている状態)の床をつりおろしました。ここで読み取れるのは、その病人とこの四人が、イエス様の所に行けば絶対に治してもらえると信じて行動したということです。イエス様が、「その人達の信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される。』と言われた。」とあるからです。 /n律法学者  6節にイエス様の反対勢力として「律法学者」が現れます。彼らはモーセが神様からいただいた十戒をはじめ、旧約聖書全体を詳しく知っていた人々、イスラエル民族の宗教生活全般を指導していた有力者階級の人達です。政治的にも最高議会で多くの議席を占める町の名士でもありました。律法学者たちは「あなたの罪は赦される」というイエス様の言葉に疑問を抱きます。「神のみが罪をお赦しになれるはず。この男は神を冒涜している・・」と。イエス様は、彼らの心の中を御自分の霊の力ですぐに知ったとあります(8節)。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:13)のです。彼らは、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」とイエス様から問われた時点で神様から来る霊の力を悟るチャンスがありました。しかしイエス様を認めることは自分達の権威を失墜させることになると考えたのでしょう。彼らは自分達の地位を守ることが第一で、目の前で苦しむ人々の救いや、それを見て憐れまれる神様の思いは考えられないのでしょう。 /n「罪の赦しの宣言」と「歩けるようにする癒しの宣言」  イエス様は律法学者に「赦し」と「癒し」の二つを挙げて、どちらが易しいかと問いました。ある注解書にこうあります。「この問いは答え難い問いである。」「この問いは一つの明確な答えを求めるものではなく、むしろ敵対者たちを困惑させるためのものではなかろうか。」  赦しと癒しの権能を神様から与えられているイエス様です。この問いの答えは、「問いとイエス様の発言と行動」で分かるようになっていたのです。信じない者、分かろうとしない者達には分かりえない問いです。イエス様が「地上で罪の赦しの権威を持っていることを知らせよう」と言われてなさったことは「癒し」の宣言とその実現でした。 /n詩篇103:3-5に学ぶ  神様の、人間の救いのご計画の内容は、赦し・癒し・贖い・慈しみ・憐れみ・豊かさ・生命力の甦りです。「光」は普通は透明ですが、分析すると赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と見ることもできます。神様の人間に下さる恵みは一つ一つの出来事を分類することもできますが、人智の及ばない、もっとダイナミックで捕え難いほど大きいものだと思います。 /n私達も赦され、癒される  さて、聖書に登場した病人を私達と置き換えて考えることができます。私達は罪に縛られ、神様の前に不自由で思うように動くことができていません。パウロでさえ、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(中略)肉では罪の法則に仕えています。」と神の前に不自由な自らを嘆いています。しかしイエス様の下に馳せ参じ、又は周りの人を取り込みながら、救いを得たい、信じたいと礼拝に集う私達をイエス様は憐れみ、赦され癒された病人と同じように助け励まして下さると信じます。

「礼拝としての生活」 倉松 功 先生(元 東北学院院長)

/n[詩篇] 95:1-11 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。 9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。 10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」 /n[ローマの信徒への手紙] 12:1-2 1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 /nはじめに  「礼拝としての生活」・・このような言い方はあまり聞き慣れないかもしれません。パウロがここでいう「礼拝」とは、私達がささげている礼拝と、キリスト者の生活という意味での礼拝の両方を意味していると思います。今朝はこの二つの「礼拝」の関連について学んでみたいと思います。 /n「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。」  冒頭の「こういうわけで」とは、ロマ書1章から11章の終りまでの全体を指しているように思いますが、「神の憐れみ」は特に3:21から11章の終りまでに関係しています。「神の憐れみ」とは神が私達に御子イエス・キリストを与えて(送って)下さった、(神様の側からみれば罪人の私達を神が憐れまれた/私達の側からすれば神の恵み・神の愛が与えられた)そういう「神の憐れみ」によって勧める、と言っています。重要なのは神様の憐れみ(恵み)です。それゆえに「今ささげている礼拝」も、「私共の日常生活が礼拝である」という礼拝も、神様の憐れみ(恵み)からきているということです。 /nパウロの勧め  パウロは勧めます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。これはすぐには読めない大変厳しい言葉です。生ぬるい私共の生活から比べると「いけにえとして献げる」とは大変な言葉です。「これこそあなた方のなすべき礼拝」というこの「礼拝」が、パウロが勧める「礼拝としてのクリスチャンの日常生活」と考えるとこれは受け入れ難い、そばに寄ることも出来ない言葉のように思います。しかしこの言葉と、冒頭の「神の憐れみによって勧める」との言葉は大変深く関係しています。もしも神の憐れみ(恵み)がなければ、私共にはこの言葉は受け入れられません。  神が私達に求めておられることは、「生けるいけにえとして献げる」ことです。完全なクリスチャン生活に至る人々(たとえば宮城県には重要なキリシタンの迫害の地があり、戦後に至るまで洞窟で礼拝をささげた人達)の生活を念頭に置いて考えてみても「いけにえとして献げる」との言葉は私達には厳しい言葉です。ですが「神の憐れみ」がそれを私達に勧めています。 /n礼拝は「奉仕」  礼拝には「奉仕」という意味があります。日曜礼拝は「サンデー・サービス(Sunday service)」といいます。奉仕をするとは(どのような形であれ)周辺の人が助けを必要としている時に助けることです。聖書には隣人愛という形で表れますが、それも又奉仕です。礼拝という言葉を中心に考えると、日曜日の礼拝と日常の生活における何らかの形の奉仕が「礼拝」という言葉と結びついています。パウロの厳しい勧めの言葉にかかわらず、クリスチャンの日常生活は、礼拝と密接に関連しています。 /n神が私達に奉仕をした  今日のキーワードは「礼拝が奉仕である」ということです。日曜日の礼拝は「神が私達に奉仕をした」ことを聞くことです。神がキリストを私達に送って下さったその意味を学ぶことです。それによって何が起こったかということを教えられるのです。これは神の私達(全人類)に対する奉仕です。礼拝は「神の奉仕」というところから見ると、私共の日曜礼拝とクリスチャンの日常生活とは無縁ではない、といえるでしょう。 /n礼拝の意味  次にパウロは礼拝の意味(礼拝がどういうものであるべきか)を語っています。12:2「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。これは特に日曜日の礼拝にあてはまるように思います。なぜなら、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことが出来るからです。これは日曜日の礼拝なくしては出来ません。しかし礼拝において「神に喜ばれること」「完全なこと」を学んだ事柄に基づいて、私共が日常生活で少しでも実践する、具体化していく、ということがないと身にはつかず、信仰の生活というものにはなりません。神様が求めておられる事はすべてクリスチャンにとって善です。神様の求められる事を行なうということは神様にとって喜びです。ですから少しでも語られたことを行なうということがないと、信仰生活とはいえません。 /nなすべき礼拝  このことから1節の「なすべき礼拝」というのが何であるかがよくわかると思います。「心を新たにして自分を変えていただき、神に喜ばれる善いこと、完全なことを学ぶ」ことが日曜日の礼拝です。「なすべき礼拝」とは、英語では「リ-ズナブル(reasonable)な礼拝」となっています。元の言葉では「ロゴス的・理性的・合理的」な礼拝となっています。キリスト者の礼拝はそういう礼拝でなければならない、とあるのは大変重要です。(それ迄の礼拝は、動物をささげたり、お供え物をささげたりするのが一般的)。そして日曜日の礼拝において、神のみこころを学ぶ(何が善く、何が喜ばれ、何が完全であるか)ことは、理性的に歩もうとする者にとって、きわめて重要なことだと理解してよいでしょう。 /n礼拝の持つ使命  私達の世界では、さまざまな形で善についての議論がなされています。社会生活や改善する時の方針、教育の在り方など考える時、必ず理性的、善・悪を問題にします。戦後の教育基本法などに出てくる善とか価値というものについて見る時、それがいかに聖書の教えに関連しているかということを知ります。何が善で何が神に喜ばれる全きことであるかについて、現代においてキリスト教がもっている使命、礼拝が持っている使命は、きわめて大きいと思います。 /n日常生活においてなすべき礼拝 (12:3以下)  3節以下には「日常生活においてなすべき礼拝」「教会の中の生活」において一番重要な仕事が語られています。「預言・奉仕・教え・勧め・施し・指導・慈善」との言葉が出ています。大事なクリスチャンの基本になる「教会生活」の中でなされている仕事です。パウロが「キリストの体である教会」と言った時の体(手の働き、足としての働きなど、枝々の生活。交わりの生活。礼拝の生活)の中でなされている仕事です。 /nルター「キリスト者の自由」  「キリスト者の自由」の最初にでてくる「二つの言葉」は今日の聖書に非常に関連があるのではないかと思います。 >> 1.「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な君主である」。 <<  キリスト者は神によってキリストを通して罪が赦され、罪から解放され、キリストの持っているすべての物が与えられ、すべてのものの上に立つ、すべての者から自由である者です。キリストと同じ自由が与えられているわけですから、まさにこれは「神の憐れみ」であります。ところがそれに続いて、そういう神の恵み、それは具体的に生活でどういう形で表れるかというと、 >> 2.「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕である」。 <<  これがキリスト者の実践です。「奉仕するしもべ」ということについてルターは「万人祭司」といいます。祭司とは人々に仕える人のことです。日々神に礼拝をささげながら人々に仕えていく、という役割をもっています。男であれ女であれ子供であれ、手工業者、農耕者、商人、すべての人が祭司であるといいます。教会の中の仕事をし、日常的には、家庭にあって職場にあってその場で神に奉仕する。これが万人祭司です。このルターの「万人祭司」という考え方を、ここにあてはめて理解することができるのではないでしょうか。 /n私達は礼拝に招かれている。そして日常生活の奉仕へ。  私達は具体的な日常生活において、仕事をしながら神に奉仕をするとは考えないかもしれません。しかしそこを離れて人に仕えることはないでしょうし、人に仕えることを離れて神に奉仕をするということは考えられません。それだけに私達の日常生活は大変なことです。大抵は自分が求めるあり方、希望している生活(営み)にはならず、赦しと救いを必要としています。私達は神の憐れみ、神の愛を必要としています。そこに又、日曜日の礼拝において私共は再び神によって罪の赦しをいただく。或いは神の前にざんげする。そういう必然性を私共は与えられている。そういう形で私共は日曜の礼拝に招かれている。そういう形で日曜日の礼拝から日常生活において奉仕をするように勧められております。

「キリストの証人となる」 牧師 佐藤 義子

/n[申命記] 10章12-14節 12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、 13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 /n[使徒言行録] 1章6-11節 6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 /nはじめに  使徒言行録は、本日の聖書の1章8節が主題であるといえます。 >> 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 <<  この言葉は、復活されたイエス様が昇天される直前に弟子達に語られた言葉です。そしてイエス様のお言葉通り、このあと約束の聖霊が弟子達に降り、弟子達は力を受けてエルサレムからはるかかなたの、当時の世界を象徴するローマへと福音を宣べ伝えていきました。使徒言行録は、イエス様のこの言葉が、どのように実現していったのかを私達に示してくれます。イエス様が約束された聖霊とはどのようなものか、さらに、使徒言行録という表題がついていますが、主役は使徒ではなく神様から送られた聖霊であることをご一緒に学んでいきたいと思います。 /n弟子の質問  「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを・・使徒達に示し」(1:3)、「あなたがたはまもなく聖霊による洗礼を授けられる」(1:5)と約束されました。弟子達はイエス様に、「イスラエルに与えられた約束はいつ実現するのか」と質問します。かつてユダヤの民はダビデ王のもとで安全と平和の内に生きていましたが、民の神に対する不信仰・不服従の罪の為に、国は異邦人(バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマなど)の支配下に置かれてきました。けれども人々は、預言者を通して語られたこと、<神が再びイスラエルに王を与えて下さり、民は支配と自由とを獲得できるとの約束>を聞き、「メシア(救い主)」を待望していたからです。  弟子達は復活されたイエス様を仰ぎ見て、今こそイエス様が新しいイスラエルを建設されるその時が来たのではないかと考えました。弟子達にとって、この質問の答は、旧約聖書の預言の約束を人々にどのように宣べ伝えていくかを決定する重要なものでした。 /n父が・・お定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。  弟子達が知りたいと思って尋ねた質問は、神様の絶対権(神様だけが決め得ることがら)に触れるものでした。マルコ福音書に「天と地が滅びるその日その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。父だけがご存じである」(13:32)とあります。イエス様は、弟子達の使命の中には、彼らが知りたいと願っている「時」や「時期」に関することがらは入っていない。それは、あなた方の召命に属することではなく、神に属する事柄である」ことを教えられました。 /n神様の絶対権  神様の絶対権について私達はどこまでわきまえているでしょうか。ロマ書に「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」(9:20)とあります。神様は私達の生も死も支配なさるお方です。そのお方に対して私達は信じて従うのみであり、不平や不満を言ったり、神様に先走って物事を決めても、決して祝福された歩みにはなりません。 /nキリストの証人となる  イエス様は弟子達に、彼ら自身の仕事をしっかり成し遂げる為の言葉を与えられました。それが冒頭に記した1章8節です。彼らの上に聖霊が降ることによって、力が与えられ、彼らはイエスこそキリスト(救い主)であることを証しするキリストの証人となるとの約束です。言い換えるなら、キリストの証人とは、聖霊としての神の力を大前提にした言葉と行為によって立たされた人といえるでしょう。マタイ福音書には「すべての民を・・弟子にしなさい」。ここでは、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」です。キリストの証人による証言が2000年以上途切れることなく宣教され続けてきた結果、私達の伝道所があります。

「聖霊による洗礼(バプテスマ)」 牧師 佐藤 義子

/n[エゼキエル書] 36章25-28節 25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。 26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。 /n[使徒言行録] 1章1-5節 1-2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。 2 [前節に合節] 3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 /nはじめに  2009年の最初の聖日礼拝を共にささげることができることを神様に感謝いたします。2009年の御言葉として、週報に掲げましたようにヨハネ福音書の「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」を選びました。ここで「言」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストがこの地上にこられ、言葉と行いを通して神の国について宣べ伝えましたが、イエス様を受け入れた人、イエス様が神の子キリストであることを信じた人々には、神の子となる資格が与えられたことを、聖書は語っています。神の子となる資格とは神様を「父!」と呼べることです。神様を自分の父と呼べるということは、実はすごいことなのです。なぜなら神様は全知全能であり、世界万物を造られ、支配されており、雨や雪を降らせ、食物を与えるお方であり、神様に不可能なことは何一つないからです。私達はこの地上で、人間の父親が与えられていますが、地上の父はいつまでも地上に生き続けることはできませんし、人間としての限界も持っています。どんなに素晴らしい父親であったとしても、神様と比べることはできません。 イエス・キリストを受け入れその名を信じる者は、どんな人でも神様を父と呼ぶことが許され、神の子とされるという素晴らしいメッセージです。神様にはイエス様という神の御子がおられます。私達はこの御子を信じることによって養子とされ、信じる者は兄弟姉妹となり神の家族とされます。 私達はたとえ人生の暴風雨の中に置かれても、神様の守りの外に出ることはありません。神の子とされた者は、外側の状況に左右されることなく、神様の平安と恵みの中で生き続けることが保障されています。 /n使徒言行録を学ぶ  今月より、礼拝で、使徒言行録を通して御言葉を学びたいと思います。宛て先のテオフィロは、おそらくローマ政府の高い位の役人であったであろうと想像されています。著者がテオフィロに献呈した理由は、キリスト教信仰は、固く根拠づけられた事実の上に基づいている、という確信を与えることと、このキリスト教信仰が広められることにありました。 /n選民イスラエルから異邦世界へ  申命記に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてにいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が・・あなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(7:6-8)とあります。神の民とされたイスラエルでしたが、しかし、救いの為に神様から遣わされた御子イエス様を彼らは受け入れず殺してしまいました。その結果、御子イエス様は(イスラエルから見れば)異邦人である他の全ての民の救い主となられました。イエス様によってまかれた神の国の種が、イスラエルからどのようにしてローマという異邦世界にまで広がっていったのかを、使徒言行録は伝えます。 >> 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」(4-5節)。 <<  水による洗礼は今でも全世界の教会で執行されています。これは罪からの悔い改めの洗礼であり、神様との永遠の交わりに入れられる洗礼です。この伝道所での洗礼も、水による洗礼です。しかしイエス様の約束は、聖霊によるバプテスマです。この洗礼は神ご自身が内側から新しく命を与えてくださる洗礼であって、私達はこの約束を信じて祈り求めて待つことによって弟子達と同じように与えられます。(後略)

「シメオンの賛歌」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書] 52章7-10節 7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。 8 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。 9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。 10 主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。 /n[ルカによる福音書] 2章25-35節 25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 31 これは万民のために整えてくださった救いで、 32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 /nはじめに  先週は多くの方々と共にクリスマス礼拝を献げられて感謝でした。日本では、クリスマスの後はすぐお正月が控えていて「25日過ぎれば、クリスマスは終わり!」という雰囲気になっています。しかし教会暦では一般的に12月25日から1月6日の前日までが降誕節です。1月6日は「公現日」(顕現日)といって、異邦人(東方の博士が星に導かれてキリストを礼拝しに来た)にイエス・キリストの栄光が公に現わされたことを記念する日です。 /nシメオンの賛歌  今日の聖書の29節から32節までは「シメオンの賛歌」と言われています。神様の約束通りイスラエル民族から救い主がお生まれになり、異邦人にまでも神様の真理が明らかになって広まっていくことへの喜びが歌われます。待降節では「ザカリアの預言(賛歌)」、「マリアの賛歌」を学び、本日「シメオンの賛歌」を学びますが、この3つの賛歌は旧約聖書の預言者がずっと預言していた通り、救い主をこの世に送って下さった神様への感謝と喜びと希望を歌ったものとして知られています。主の救いのご計画が実際に果たされたことへの感謝と喜びの中で本当の平安が与えられ(縦のつながりの回復)、それが又、異民族へも広がっていくのだという確信に満ちた希望まで与えられる(横への広がり)。御子のご降誕と、その歩みによって、です。これこそが、神様がこの世の私達人間、悪い思いに捕われがちな人間をも愛して下さっているという福音、喜びの知らせです。この安堵感(安心感)で一日を締めくくり(カトリック教会では、一日の終りにシメオンの賛歌を歌う)、広がる希望を胸に眠りの床に就けることができるのは、深い意味で幸せなことです。更に進んで、シメオンが歌ったように人生の終わりに救いを確信して主の平安を与えられることは本当に幸いなことです。(29節)。 /n主の平安  最近、「主の平安」を経験しました。今祈祷会では「ヘブライ人への手紙」を学んでいます。2章10節から18節に、「イエス様が血と肉を備えられたのは(この世に人間としてお生まれになったのは)、イエス様が死を司(つかさど)る者(悪魔)を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の為に一生涯、奴隷の状態にあった者達を解放なさる為でした。」とありますが、とても納得できた経験をしました。頭(理論)では知っていましたが、「腑に落ちた」という感じでした。忙しさと軽薄さの中で日々を過ごす内に、自分が死ぬ身であることも忘れかけ、かつて教会に通う前には悩みの淵にいて自分が神様とつながることが出来るなどとは思いもよらなかったことを思い出しました。そのまま死を迎えていたら、神様と断絶したまま暗い淵に沈んでいたのだろうなあと気がつきぞっとしました。今は、イエス様の十字架上の死によって私の罪による神様との断絶は贖(あがな)っていただけて、神様と(接ぎ木ながら)つながりを回復していただき(イエス様を仲保者としてですが)、その救いを確信して死ねるのだなあ!ほんとに安心なんだなあ!と実感できたのでした。 /n逆転(異邦人を照らす啓示の光:32節)  シメオンは幼子イエスを腕に抱けて喜びや安心感はひとしおだったでしょう。このイエス様こそ、神様が準備された全民族の救いであり、その救いが異邦人に迄広がり、神様のご計画が明らかになれば、神様の御子を授かった選民イスラエルはそのことを誉れにすることが出来るという喜びの歌です。啓示とは、覆われている神の真理が、覆いがとれて明らかになるという意味の言葉です。イスラエルの人々にとって異邦人とは、神の律法を知らない民族、又、侵略する・されるという争いの生じる近場の異民族のことが脳裏に浮かんだと思われます。自分達は抑圧されてきたという敵対心も込められているかもしれません。しかし神様にほど遠いとみていた異邦人でさえ、神の真理を知り得るということ、その異邦人が御子とその母体のイスラエル民族を尊敬するようになるということ、このような逆転が神様の救いの時には起こります。これはマリアの賛歌やイエス様の山上の説教にもあらわれる神の救済の業の素晴らしさです。人智の及ばない神様の素晴らしい知恵と力と業です。(後略)

クリスマス礼拝 「救い主の誕生」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 103:1-13 1 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9 永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10 主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12 東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 /n[ルカによる福音書] 2章8-21節 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 /nはじめに  クリスマスは「the Mass of Christ」、Massとはミサ、聖なる祭り、Christはキリスト、つまり「クリスマス」とは「キリストの聖なる祭り」のことです。キリスト抜きのクリスマスイベントが日本でも盛んになりましたが、日頃教会に目を向けない人達もクリスマスだけは教会に行こう!との思いが与えられ、クリスマスの本当の意味に触れるようにと祈ります。 /n三重の誕生  キリスト教大事典によれば、ローマカトリックではクリスマスに3回のミサが行われます。これはキリストの三重の誕生を象徴しているとのことです。イエス・キリストは父なる神のふところに生まれ、人としてマリアから生まれ、そしてイエス・キリストを信じる私達キリスト者の魂における誕生という三重です。今朝、私達は私達の魂の中にイエス様をお迎えし、イエス様に住んでいただく「うつわ」とさせていただきたく御言葉に耳を傾けたいと思います。 ____________________________ /n天からの光  暗い夜の中を、野宿していた羊飼いの前に、突然天からの光があたりを照らしました。私達の知っているこの世の光ではなく、「主の栄光」・・天からの聖なる輝きの光で人知を超えたもの・・であったがゆえに羊飼い達は恐怖を感じました。「非常に恐れた」(9節)の原語は「大きな恐れを恐れた」、心臓が止まるくらいの驚き、体に戦慄が走るような恐怖だったのでしょう。天使は羊飼い達にこう語りました。「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(10-11節)。ダビデの町とはベツレヘムのことです。天使は、?今日、ベツレヘムであなたがたの為に救い主が生まれた。?この方は、あなたがたが待っていた主、つまり神の子キリストである。この二つの喜びのニュースを告げました。 /n二つのしるし  天使が示したメシアのしるし、それは「布にくるまれている」こと、そして「飼い葉おけに寝かされている」乳飲み子でした。いと低き姿における救い主の誕生において、いと高き神の栄光があらわされるのです。 /nグロリア・イン・エクセルシス  この後さらに天の軍勢が加わって、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美がささげられました。これはラテン語訳(最初の原語訳)から「グロリア・イン・エクセルシス」と呼ばれています。天には神の栄光と、地上には、神様の御心にかなう人(神様の望む人)に神様の平和と救いがあるという、天上と地上がここでつながります。地上で神様の意志が行われる時、そこに平和が臨み天の栄光は輝きます。(逆に、地上で神様の意志に反する憎しみ、裏切り、戦いなどが起これば、天の栄光が輝くことはありません)。 /n神様の出来事  天使はこの出来事(救い主誕生)が人間社会の出来事ではなく、一方的に、神様の出来事として人間社会に与えられたことを伝えています。それゆえヨセフもマリアも奉仕者にすぎず、その名は出てきません。 /n最初に知らされた羊飼い  このニュースが最初に名もない貧しい、野宿をしていた羊飼いに伝えられたことにより、メシアがどのような方であるかが明らかにされます。 /nクリスマスおめでとう  なぜクリスマスはおめでたいのでしょうか。「今日・・あなた方(私達)の為に救い主がお生まれになった」日だからです。私達に命を与えて下さった神様は、命だけでなく全生涯を共に生きて下さることを知らせる為に御子イエス・キリストをこの世に送って下さいました。イエス様は救い主として生まれられた!まさに、罪の支配するこの世で生きる私達を(同じ地上にありながら)そこから救い出して神様の支配の下で生きるように移し換えて下さる道を備えられました。だから私達は御子イエス・キリストを信じることで、神と共に生きることが出来るのです。

「ユダヤのベツレヘム」 牧師 佐藤 義子

/n[ルカによる福音書] 2章1-7節 1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 /nはじめに  ベツレヘムはパレスチナの中央山脈地帯に属するユダの町で、最も肥沃な地帯の一つです。北側の丘にはオリーブが茂り、東側のゆるやかな斜面には小麦が豊かに実りました。ベツレヘムは昔エフラタと呼ばれ、旧約聖書にはエフラタとベツレヘムの両方の名で出ています。ベツレヘムはダビデの出身地として知られ、さらに時代をさかのぼれば、ルツの夫の出身地でもありました。 /nルツ-ダビデ-マリアの夫  ルツ記の初めに「ききんが国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れてユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人の名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。」とあります。ナオミの夫エリメレクはその後亡くなり、二人の息子達はモアブの女性を妻に迎えますが、10年後には二人の息子も死んでしまいます。ベツレヘムのききんがおさまったことを知ったナオミは一人故郷に帰ることにして、若い二人の嫁には実家に戻るように説得します。ところが嫁の一人、ルツはナオミについていくと聞かず、ついにナオミは説得をあきらめルツを連れてベツレヘムに帰ります。ベツレヘムで落ち穂拾いに出かけたルツは、農夫達の後について畑に入ると、そこはたまたま夫の父エリメレクの親族ボアズの畑でした。やがてルツはボアズと結婚して男の子(オベド)を産み、オベドは成人してエッサイの父となり、エッサイの末の息子がダビデです。羊飼いだったダビデはやがてイスラエルの国王となり(BC1000)、このダビデの家から救い主が生まれるとの預言が与えられ、イスラエルの民は長い間、救い主(メシア)を待ち望んでいました。マタイ福音書の系図によれば、マリアの夫ヨセフはダビデから数えて26代目にあたります。 /n人口調査  今日の聖書には、ローマ皇帝から全住民に登録の勅令が出たとあります。人口調査です。強制的に出身地に戻っての登録のため、ナザレに住んでいたヨセフとマリアは120キロも離れたヨセフの出身地ベツレヘムに帰ることになりました。絵画等でマリアがろばに乗り、ヨセフがたずなをひいて歩く姿が描かれていますが、当時、臨月のマリアをつれての旅は、どんなに大変で、また危険が伴っていたことでしょう。 >> 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6-7節) << /nべツレヘム 「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5:1) 預言者ミカ(BC750-686)は、神様がこの小さな町ベツレヘムをメシア誕生の場所として選ばれていることを預言しました。それから700年以上の年月を経て、イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになった。これは、たまたまではなく、偶然でもなく、神がこの世の権力者の人口調査という計画を用いて、ベツレヘムのダビデの血をひく、さらにはモアブの女性ルツの血を引くヨセフという男性を父親として選び、婚約者マリアをベツレヘムまで導かれた、ということです。これは神様のご計画による約束の成就!以外の何ものでもありません。 /n飼い葉おけ  イエス様が誕生されて初めてのベッドが家畜の為の飼い葉桶でした。ユダヤ人として生まれたイエス様は、始めからローマ皇帝勅令によって旅の途中で誕生し、イスラエルの国の歩みの苦しさと貧しさと共に生きられました。飼い葉桶の理由を口語訳では、「客間には彼らのいる余地がなかったから」と説明しています。お腹の大きなマリアの為に自分のベッドを譲る人は誰もいなかった、ということでしょう。この世の権力からも富からも、そして人々の愛からも遠く離れたこの飼い葉桶に寝かされた幼子は、しかし神様の深いご計画の中で何の支障もなく、誰にも邪魔されず、神様の大いなる恵みの中で天から地上に降られたのでした。(後略)

「マリアの賛歌」 牧師 佐藤義子

/n[詩篇] 111篇1-10節 1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。 2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 3 主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。 4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み 5 主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め 6 御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。 7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実 8 世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。 9 主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。 10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。 /n[ルカによる福音書] 1章46-56節 46 そこで、マリアは言った。 47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 /nはじめに  「マリアの賛歌」と見出しがついている今日の箇所は、「マグニフィカート」(ラテン語で「あがめる」の意)と呼ばれています。ラテン語訳聖書ではマグニフィカートから始まるからです。マグニフィカートは古くから礼拝に用いられ、ローマ・カトリック教会においては、毎日一定の時刻に一定の形式によってささげられる公の祈りの中に取り入れられ、聖公会やルーテル教会でも夕礼拝で歌われるそうです。 /nマリア  大工のヨセフと婚約中であったマリアは、社会においてはごく普通の、平凡な、目立たない女性の一人であったと思われます。このマリアに驚くべき出来事が起こりました。「受胎告知」として絵画でも有名な、天使ガブリエルの言葉がマリアに臨んだことです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。天使はマリアの胎内に命が宿ることを告げます。結婚していないマリアは、そんなことはあり得ないと答えますが、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)と語ります。さらに天使は、親族のエリサベトが老年ながら子供を宿していることを伝えて、「神に出来ないことは何一つない」と宣言します。マリアは答えます。「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」 /nマリアとエリサベト  マリアは一人では抱えきれない自分の体験を、親族エリサべトに聞いてもらおうとしたのでしょう。急いで山里のエリサベトの家に向かいます。マリアがエリサベトに挨拶をした時、エリサベトの胎内の子が踊り、エリサベトは聖霊に満たされて声高らかにマリアを祝福して言います、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう。 /n神様の選び  イエス・キリストの出生は、ヨセフに何の関わりがなかったと同じくマリアにもなかった、と内村鑑三は言いました。その意味は、マリアは他の信仰者と同じように神様のしもべの一人であったにすぎない、ということです。神様のしもべとは、自分の意志を行なうのではなく神様の意志を行わさせられる者であり、神様はマリアを通して御子を世に遣わそうと計画されました。すなわちイエス・キリストの誕生は、マリアの側から起った問題ではなく、一方的に神様のご計画であり神様の選びがマリアの上に起ったということです。そしてそのことを一番よく理解していたのがマリア自身でありました。 /nマリアの賛歌=礼拝の原点  「あがめる」には「大きくする」という意味があります。マリアは神様を大いなる方とし、自分を身分の低い主のはしためと言い「力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから」と告白します。マリアの神様への賛美は、自分の魂も霊も(魂・霊は最も大切な自分の中心部分・核となる部分、その全てをもって全身全霊で)神様をあがめ、神様を喜び称えると歌います。なぜなら神様はこんな自分に目を留めて下さった!顧みて下さった!それは大事件なのです。ここに礼拝の原点をみます。このとるに足りない私を神様は多くの人々の中から見つけて下さり、今こうして礼拝者として私をこの場に招いて下さっている。これは何と大きな祝福でしょう。礼拝とは、全身全霊で神様をあがめ、神様を喜び称えることです。 /n「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・」  マリアの賛歌は、終末における神による「人間の運命の逆転」も歌います。神が全能をもってこの世の一切の力を排除し、これ迄の価値は完全に消滅するとの信仰が旧約以来継承されています。昔も今も私達の住む世界は矛盾だらけです。しかし神が王として支配される時がきます。その時に逆転がおこるのです。(後略)。

「あけぼのの光を待ち望む」 伝道師 平賀真理子

/n[マラキ書] 3章19-23節 19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。 20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。 21 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。 22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。 23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 /n[ルカによる福音書] 1章67-80節 67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 75 生涯、主の御前に清く正しく。 76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」 80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。 /nはじめに  本日は仙台南伝道所で礼拝が献げられるようになって6周年となりました。これまでの神様の御導きと御守りを、ご一緒に感謝致しましょう。これからも、イエス様の福音を正しく宣べ伝えていく群れとして歩んでいくことができますよう、ご一緒に祈っていきましょう。  礼拝室には立派な大きなリースがかかり、玄関には御降誕の情景が飾られ、今日は「待降節」の第一主日です。一年をイエス様のご生涯に当てはめて、その歩みを思い起こす為の暦(教会暦)がキリスト教の歴史の中で使われてきました。クリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝祭日をはじめ、受難節など他にもあります。教会暦の最初は「待降節」から始まります。「待降」とは主イエス様のご降誕を待ち望むという意味です。 /nこよみの最初が「待降節」!  一年の初めの第一歩が、いきなり「御降誕」のお祝いではなくて「主を待ち望む、待降節」であることに深い意義を覚えます。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である。神が御子を世に遣わされたのは世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。」(ヨハネ3:16-17)との御言葉は、毎週「赦しの言葉」として、私達の「懺悔の祈り」の後に戴く御言葉です。イエス様は十字架の死から復活され死に打ち勝たれたので、私達は罪の世界に沈んだままではなくイエス様を通して神様との関係を修復していただけるようになりました。太陽の光から身をひそめれば、その暖かさの恩恵にあずかることはできないように、神様から離れた生活や考えのままでは神様の愛を存分に味わうことは出来ません。神様の豊かな愛にふさわしく歩むために、神様の「聖(きよ)さ」を我が身に帯びさせていただきたいと思うものです。レビ記に「私(神様)は聖なる者であるから、あなた達も聖なる者となりなさい。」(11:45)とあるように、「待降節」を「悔い改め」という準備期間として過ごしたいと思います。 /n洗礼者ヨハネ  神様は、御降誕の準備として特別な使命をもった人をこの世にお送り下さいました。洗礼者ヨハネです。預言通り(イザヤ40:3、マラキ3:1)「救い主到来の直前にやってきて、民の救済の為に主の道を準備する者」です。ある日、祭司ザカリヤに天使が現れ、子供が授かること、その子は救い主の為に準備する者となると告げられます。しかしザカリヤは信じなかったので口がきけなくなります。予言通り、まもなく妻エリザベトは身ごもり男の子を産みます。天使の言葉に従い名前を「ヨハネ」とつけた途端、ザカリアの口が開き(1:64)、神様を賛美し始めます。 /nザカリヤの預言(ザカリアの賛歌)  今朝の聖書は三つに分かれ、①「神様は、多くの預言者が言っていた通り、ダビデの子孫から救い主を立て、敵の手から自分達を救って下さる。それはイスラエル民族の先祖アブラハムと主が契約を結んだことを忘れずにいて下さる憐れみによるのだ」、②「自分の息子として与えられたヨハネの使命が神からの特別なものであることの誇りと感謝と喜び」、③「救い主の到来と平和へ導かれる希望」が語られます。 78節の「あけぼのの光」とはイエス様のことです。抑圧されて希望のない人々を「暗闇と死の陰に座している者たち」と表現し、そこに高い所から希望の光、即ち、救い主が訪れ、平和へ導かれる。それは、天から与えられる救いへの望みです。マラキ書では「義の太陽」(3:20)と表現され、「その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る」とあります。昔、「人間は誰でも心に闇を抱えている。他人には言えない闇もある。しかしそれを抱えたままでも自分の闇を闇だと認識して、その暗さを暗闇として認識していればこそ、光の明るさが分かる。闇の暗さを感じなさい。それが深ければ深いほど、光のありがたみが分かる。」と説教の中で聞きました。闇を闇と認識できれば、その戦いは自分一人だけではなくイエス様が共に歩んで下さる。神の御言葉が光の武具となって助けて下さるのです。 (後略)。                   

収穫感謝日 「すべて守るように教えよ」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書] 44章1-8節 1 そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。 2 あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。 3 わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。 4 彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。 5 ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。 6 イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。 7 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。 8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。 /n[マタイによる福音書] 28章16-20節 16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 /nはじめに  アメリカの感謝祭(Thanks Giving Day)にならって、私達の属する日本基督教団は11月第4日曜日を収穫感謝日と定めています。アメリカでは11月の第4木曜日に全家族が集まってお祝いし、その週は学校や会社がお休みになります。(イギリスでは昔はLammas8月1日,今はHarvest Festivalを9月の第4日曜日に教会で守る。国によって日時の設定の仕方が異なる。)アメリカの感謝祭は、イギリスから船でマサチュセッツのプリマスに着いた最初のヨーロッパ人達が、原住アメリカ人に助けられながら、1621年、最初の収穫の時を迎え、この収穫を与えて下さった神様の守りに対して感謝を捧げようと自分達を助けてくれた原住アメリカ人を招待し、御馳走を作り、共に豊かな時を過ごしたことから始まりました。  10年以上も前になりますが、アメリカ人宣教師の話を聞きました。この原住アメリカ人など少数民族の人達は、現在、高い割合で貧困、病気、失業、アルコール中毒など社会の底辺に置かれており、彼らは現在「スープ・キッチン」といわれる慈善団体や教会の活動による無料の食堂で感謝祭の夕食をとるということでした。その宣教師は「感謝祭は、神に感謝するという同じ価値観のもとに集まり、感謝し、共に分け合う時である」と言われました。私達の教会も、「恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、私達の心を喜びで満たして下さる神様」(使徒言行録14:17)に感謝する時として共に集い、分け合い、生かされている命を互いに喜ぶ時として、礼拝後には収穫感謝愛餐会を計画しています。 ______________________________ /n大宣教命令 >> 「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 <<  本日の聖書は、イエス様の大宣教命令ともいわれるマタイ福音書の最後の箇所でもあります。マリア達からことづけを聞いた弟子達は、指示されたガリラヤの山に集まり、復活のイエス様からこの命令を受けます。 /n伝える者と信じない者  弟子達は復活のイエス様に会ってひれ伏しました。十字架の死を超えて神様によって復活された神の御子イエス様として礼拝しました。ところが聖書には「しかし、疑う者もいた。」という一文が挿入されます。  弟子達は復活についてイエス様から生前、聞いてはいました。しかし「マリアは・・この事を知らせた。しかし彼らはイエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった。その後、・・イエスが別の姿でご自身を現わされた。この二人も行って残りの人達に知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」(マルコ16章)。とあります。又、復活のイエス様が弟子の前に現れた時、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこでイエスは言われた。『なぜうろたえているのか、どうして心に疑いを起こすのか。』」(ルカ24:37-)と問われました。さらに疑っていたトマスに言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。 /n「すべての民を弟子とし、洗礼を授け、教えをすべて守るように」  十字架と復活。それは死と甦りの信仰です。死とはそれまでの自分が死ぬことです。神様よりも自分の思いを優先順位の先頭に置いてきた過去の自分、罪ある自分がイエス様の十字架と共に死ぬ。そしてイエス様の甦りと共に新しい自分としてよみがえらされる。そのしるしがバプテスマ(洗礼)です。教会は、イエス様を神の子と信じてイエス様に従う決心が与えられたキリスト者の群れであり「信仰告白共同体」です。この信仰は、自分が努力して獲得したものではなく、求める者に一方的に恵みの賜物として与えられたものです。私達は受けるのみで、自分に何の功績もありません。  私達の伝道所は、この十字架と復活の信仰を弟子達から代々の教会を経て受け継ぎ、信じる者に洗礼を授け、「神様を愛し隣人を愛する」というイエス様の教えを守るように伝え続けます。