4月8日の説教要旨 「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」 佐藤 義子

詩編145:1b-9,17-21 ヨハネ福音書20:19-29

はじめに

イエス様が復活した! 死人がよみがえった!   教会が知らせる、この素晴らしいニュースは、人知を超える出来事ですから、普通の感覚であれば、あり得ないこと、信じ難いこととして受け止められます。それゆえ、イエス様が十字架というむごい死刑で死なれたこと、しかも死で終らずに三日目に復活されたことが、伝道を困難にしていると考えて、もしも宣教内容を、イエス様の「十字架の死と復活」を背後にまわして、前面には「神の愛、キリストの愛、隣人愛」だけを大きな声で語り続けていくならば、教会は教会でなくなってしまうでしょう。キリスト教は確かに、私達人間が正しく生きる生き方を指し示していますが、その大中心にあるのはイエス・キリストの十字架の死と三日後の復活の出来事(その根源には神の愛・キリストの愛がある)であり、これこそキリスト教がキリスト教として立ち続けている土台です。

 

家の戸に鍵をかけていた弟子達

今日の聖書には、イエス様の十字架に伴うご受難と死と埋葬の出来事(18-19章)に続く、三日目に起こった復活の出来事が記されています。20章前半には、マグダラのマリアが復活されたイエス様と最初に会い、弟子達に、イエス様とお会いしたことと受けた伝言を伝えたことが記されており、今日の箇所は、同じ日の夕方、復活されたイエス様がトマスを除く弟子達の集まっている所に来て下さったこと、後半には、その八日後、再びイエス様が、今度はトマスもイエス様とお会いした出来事が記されています。 今日読んだ最初の19節には、弟子達がユダヤ人を恐れて家に鍵をかけていたとあります。弟子達は、今まで主と仰ぎ、先生と慕ってついてきたイエス様を失い、大きな失意と悲しみの中にいただけではなく、神を冒涜したとして処刑された犯罪者イエスの弟子・仲間であるとの理由で、イエス様を憎んでいたユダヤ人達から、いつ襲われるかもしれないという不安の中に、身をひそめて過ごしていたことでしょう。

 

シャローム(あなた方に平和があるように)

そこへ突然、復活されたイエス様が来られ、真ん中に立たれて「シャローム」と挨拶されました。復活体のイエス様は空間と自然を支配されておられます。「シャローム(あなたがたに平和があるように)」の平和とは、人間の全領域にわたっての、神様のご意志に基づいた真の望ましい状態をさす言葉です。イエス様は、この挨拶のあと,ご自分から十字架の釘あとが残る手と、兵士の一人が やりでわき腹を刺したその傷跡を弟子達にお見せになりました。それによって弟子達は、今目の前に立たれているイエス様が、三日前に死んで葬られた自分達の先生であるイエス様だと確認して、「弟子たちは喜んだ」(20節)とある通り、それまで部屋に満ちていた、おそらく暗い絶望的な空気を吹き飛ばすかのように大きな喜びが弟子達の間に満ち溢れたことでしょう。イエス様は再び「シャローム」と言われました。弟子達が、神様の御心に沿う望ましい状態の中で生きていくことを強く願われていたことを思わされます。そしてイエス様は、弟子達に大きな使命と権限を与えていかれました。

 

大きな使命と権限

大きな使命とは、イエス様が生前、父なる神様から派遣されて宣教してきたように、今度はイエス様から弟子達に派遣命令が出されたのです。弟子達は、これまでイエス様と共に宣教活動を行ってきましたが、その宣教をこれからも中断することなく引き継ぐことを命じられました。

そしてもう一つなされたことは、この宣教活動に不可欠な「聖霊」を、弟子達に与えられたことです。この聖霊が与えられたことによって、弟子達には「罪の赦し」と「罪の留保」(罪が赦されないまま残る)という、二つの権限が委託されたのでありました。

 

教会へ引き継がれる

ここで大切なことは、復活のイエス様が弟子集団に与えた大きな使命と権限が、この時以後、ペンテコステの出来事を経て、教会へと引き継がれ、私達の仙台南伝道所も又、一つの教会としてイエス様の派遣命令を受けて立ち、宣教の使命を果たすべく日々歩んでいるという事実です。

そして、聖霊の導きのもとに行われるバプテスマ式、すなわち「イエス様の十字架の死によって、自分の罪が贖われ、赦されたことを信じる」信仰告白に基づいて行われるバプテスマ式を通して、今も、すべての教会は、委託された罪の赦しの権限を正しく行使することが求められています。

 

復活のイエス様にお会いできなかったトマス

24-25節には、不在の為、復活のイエス様に会うことが出来なかったトマスと他の弟子達との会話が記されています。弟子達はイエス様とお会い出来た喜びの中で、仲間のトマスに、口々にイエス様のことを、興奮と感動をもって伝えたことでしょう。しかしトマスはこの嬉しい大ニュースを聞いて一緒に喜ぶことは出来ず、こう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

 

トマスの不信

トマスは、なぜ信じられなかったのか、と私達はトマスを批判することは許されないでしょう。と申しますのは、20章の最初には、マグダラのマリアからお墓が空になっていることを知らされたペテロと、もう一人の弟子が、お墓まで走って確かめに行くことが記されていますが、二人は、中にあった遺体がなくなっていることを確認したものの、イエス様の復活と結びつけることは出来ないまま帰宅しています。その行動に対して聖書は、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(9節)と説明しています。又、ルカ福音書24章36節以下には、復活されたイエス様が弟子達の所に来られた時、弟子達は、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記されています。 さらに、その前には、エマオへの途上で、二人の弟子が途中からイエス様と同行する出来事が記されていますが、二人とも食事をするまでイエス様のことが分からなかったことが記されています。さらに又、マルコ福音書に出てくる女性達についても以下のように記されています。「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(中略)さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:6-)

 

不信のトマスにイエス様は・・

トマスは八日間、不信の中で苦しんだことでしょう。彼は自分の前にイエス様ご自身の姿が現れて、自分に満足を与えて下さることに固執していました。ただ見るだけでなく、その姿が亡霊でないことを確かめるために、自分の手を使って直接その部分に触れることを望んだのです。再会されたイエス様は、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と、トマスが望んでいたことをするように許可されました。トマスは自分の願い通り、確認したのでしょうか? 聖書はそう書いていません。トマスは(おそらくそのお姿に圧倒されて)何も言えず、口から出た言葉は、ただ、「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。これは最も古い信仰告白の言葉とされています。私達も又、イエス様にこの告白の言葉を捧げた時、私達は新しく造り変えられていくのです。

 

「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」

イエス様はトマスに「見たから信じたのか」と、トマスの不信仰と、かたくなな心を おとがめになっています。そしてこのあと、「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。聖書に登場する弟子達や婦人達の姿の中に、私達は、私達の中にも入り込もうとする不信や、かたくなさや、自己主張や、弱さを見ます。にもかかわらず、イエス様は、すべてをご存じの上で、私達を赦し、聖霊を与えて下さり、教会を通して伝道へと派遣されておられます。イエス様から送られてくる聖霊の導きの下で、見ないで信じる幸いな多くのクリスチャンが、2000年以上たった今も尚、生れ続けており、私達の伝道所でも10人の方々が見ないで信じる幸いな人として加えられました。何と素晴らしい大きな恵みでしょうか。最後に、第一ペテロの手紙1:8-9(p.428)を読みます。

あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今、見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです。

2月11日の説教要旨 「絶えず祈る」 牧師  平賀真理子

詩編88:2-3  ルカ福音書18:1-8

はじめに

今日の新約聖書箇所は、「やもめと裁判官のたとえ」という見出しがついています。また、1行目には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とあります。説教題にもあるように、イエス様は弟子達に絶えず祈ることを求めておられるということです。

 

神様の御心が実現されることを喜ぶ「神の民」

「祈らなければならない」という箇所には、元々の言葉では「神様によって、祈るように定められている」という言葉が含まれています。これは私達には、あまり見出せない感覚だと思います。「神の民」ユダヤ人は「何事にも神様の御心が行われている。神様がが願われたことが実現すること」を、この世界の一つ一つを見ても、また、各々の人生を見ても、発見しようとします。そのことと向き合いながら生きていくのが「神の民」であると言えるでしょう。

 

本来の人間は、神様と心を合わせることを喜ぶ

神様が最初に創られた、本来の人間は神様の御心がすべてにおいて実現することを喜べたはずです。神様と心を合わせられるように本来人間は創られました。しかし、神様を心を合わせることに疑いを持ったために、人間は神様からいただくべき本当の幸いを失ったのです。

それは、神様から賜った自由意志を正しく用いられなかった人間の方に罪があるにもかかわらず、神様は人間達を根本から救おうと、御心にお決めになり、そのことが旧約聖書にずっとつづられています。

 

「神の民」として、神様から「祈り」を求められている幸い

神様による「人間の救い」という長い歴史の末に、イエス様がこの世に来てくださり、人々に「神の国」はどのようなものかを教えてくださいました。その御方を信じて受け入れることが新しい救いです。

この「神の御子・救い主」イエス様にとって、御自分の弟子達が、「神の民」として、神様へから祈ることを願われていることが、本当に喜ばしいことだったのです。逆に言えば、実は、罪ある人間はこのようにはなっていないという事実の裏返しでもあります。

 

「神の国」がこの世に実現することを「絶えず祈る」

イエス様は、御自分が「苦難の僕」としてエルサレムで殺される道をたどらねばならないと知りつつ歩んでおられ、もうすぐ目的地へ着こうとされています。その直前に、イエス様は弟子達に、「神の国」をこの世に実現することが一番大事だと伝えようとされています。この世にいる人間一人一人が「神の民」となり、神様からいただく幸い、希望に満ちた生き方をすることを求めておられます。だから、「絶えず祈る」内容としては、「神の国」がこの世に実現すること、広まることです。

 

「やもめと裁判官のたとえ」

とはいえ、神様から離れて過ごしてきた人間は、自分に困りごとがあって初めて、切実に祈るようになれるのかもしれません。今日の例え話の「やもめ」もそうです。彼女は困りごとに直面し、身近な裁判官に切実に訴えました。しかし、この相手である裁判官は、当時よく居た「不正な裁判官」でした。信仰心もなく、人間的に見ても尊敬できないような裁判官に対して、やもめの方は不当な方法はとらず、熱心に訴えることを繰り返すという正当な方法で相手を動かすことに成功しました。

この例え話で、裁判官は神様を、また、やもめは弟子達を比喩しています。この裁判官は神様と正反対の性質を持つ者として例えられています。不当な裁判官でさえ動かされるのだから、ましてや逆の性格の神様=人間を救うべく長い間計画立てて実現なさるような、大いなる愛の持ち主である神様なら、熱心な祈りという訴えを持つ人間の訴えを決して無視なさらないとわからせようとなさっています。

 

「神の国が来ること」を熱心に祈り続ける!

人間の救いに対する御業の時は、父なる神様だけがお決めになれる専権事項で、本来、人間は全く関われないものです。しかし、神様は、主の弟子達の祈りを心から待ってくださり、その祈りの熱心さによって、裁きの時(主の再臨の時)を速やかになさると教えておられます。主の問いかけ=「再臨の時までに神の国が来ることを信じていられるか」に対し、「はい!」と胸を張って言える弟子であり続けたいものです

1月28日の説教要旨 「希望へと生まれ変わる」 吉田 新 先生(東北学院大学)

詩編41:4-4 Ⅰペトロ1:3-9

はじめに

今日の新約聖書箇所の冒頭で、イエス様がエルサレムを目指して旅を続けておられることを私達は再び想起させられます。思えば、ルカ福音書9章51節からの段落で、イエス様は御自身で天に上げられる時期が近づいたと悟られ、エルサレムへ向かったと書かれています。また、13章33節では、神様の使命を受けた預言者として、イエス様は聖なる都エルサレムで死ぬ定めだと示されています(「主の十字架」)。救おうとするユダヤ人達により、その救いが理解されずに殺される定めです。それは神様の御計画で、その為にこの世に来られたイエス様は、その過酷で孤独な道を従順にたどっていかなければなりませんでした。

重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が協力し合う

今回の箇所では、ユダヤ人とサマリア人という民族同士としては仲の悪いはずの10人が、重い皮膚病にかかっていたために共に暮らしており、大変な癒しの力があると噂されるイエス様から癒しを受けるべく、呼び止めようと協力し合っています。更に、イエス様に近寄りたい気持ちを抑えつつ、律法に則って距離を取りながら「この病いを癒してください」と願っていたわけです。人の心に何があるかを見抜かれるイエス様は彼らの苦しみを理解し、すぐに救ってあげたいと思われたのでしょう。この後すぐに彼らの身の上に癒しが起こるとわかっておられた上で、彼らに「祭司に体を見せなさい」とお命じになり、実際に彼らはその途上で重い皮膚病から癒されました!

癒された10人の内、サマリア人1人だけが戻ってきた

この癒しを受けた10人の内、癒してくださったイエス様に感謝を献げるために戻ってきたのは1人で、それがサマリア人だったことをルカ福音書は重要視しました。ユダヤ教の中で神の民とされたユダヤ人達が「汚れている」と蔑んだサマリア人、しかも、そんなサマリア人の中でも更に「汚れている」とされた重い皮膚病の人が戻ってきて、癒しの源であるイエス様に感謝を献げたのです。実は、イエス様は御自分はユダヤ人の救い主として遣わされたと自覚されていたようですが、福音宣教の旅でイエス様からの救いを求める異邦人と度々出会うことにより、ユダヤ人か異邦人かは問題ではなく、御自分を救い主として受け入れるかが重要だという思いを深められたのではないかと想像します。

「立ち上がって、行きなさい」(19節)

イエス様の憐れみを受けて救われることのすばらしさを理解し、イエス様を救い主と受け入れ、その恵みに感謝を表そうとひれ伏した、このサマリア人に対して、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」という御言葉をかけてくださいました。「立ち上がって」という言葉は、元々の言葉では「よみがえる」という意味を持っています。イエス様と出会うまでは死んだようにしか生きられなかった、このサマリア人に、イエス様は「よみがえって、自分の人生の旅を続けるように!」と励ましてくださいました。

「あなたの信仰があなたを救った」(19節)

イエス様は最後に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのですが、このサマリア人を救った直接の源は、イエス様の癒しの力です。聖書で証しされてきた本当の神様は、へりくだりを愛する御方で、決して御自分が癒したと声高く主張される御方ではありません。そんな神様の御力に対して人間ができることは、主の恵みを信じて、感謝して素直に受け入れることです。そうすることで、人間は神様と豊かに交流でき、ますます満たされていきます。実際、この話の中でも10人の人々が救われるほど、主の憐れみに由来する神様の御力は大きかったのに、その恵みに感謝を献げるために戻ってきて癒された上に、更に主から御言葉を賜るという交流に進んだのは、このサマリア人、たった一人です。

 

「新しい救いの恵み」に感謝を献げましょう!

「神様による人間の救い」は、古い形ではユダヤ人かどうかが問われましたが、新しい形ではイエス様を救い主と信じる信仰が問われます。それは、主の十字架によって自分の罪を肩代わりしていただいたと信じるかどうかです。私達信仰者は、神様の一方的な恵みを受けて「新しい救い」で神の民とされました。その大いなる恵みの素晴らしさを本当に理解しつつ、礼拝等で感謝を献げることを喜べるよう、聖霊の助けを祈り続けましょう。

1月7日の説教要旨 「異邦人の救い主」 牧師 平賀真理子

詩編47:2-5  マタイ福音書2:1-12

はじめに

昨日は1月6日で、教会の暦では「公現日」という特別な日でした。イエス様が御降誕され、その栄光が異邦人の世界にまで広まったことを祝う日です。東の方から占星術の学者達(異邦人)が来て、イエス様を礼拝したという出来事(マタイ2:1-12)を覚える日です。

イエス様がお生まれになった時の状況

今日の箇所の冒頭1節で、イエス様がこの世にお生まれになった時と場所が書かれています。ヘロデ王という極めてこの世的な王の支配下にあった時と場所であったというわけです。なぜ、この世的かと言うと、この世の長サタンと性質が似ているからです。自分の利益のためにずる賢く立ち回り、権力を横取りし、しかも心根が冷酷で疑い深いのです。神の民ユダヤ人達が、このような支配に苦しめられていた状況下で、神様は約束どおり、「救い主」イエス様をお送りくださったのです。

「異邦人の国」から来た占星術の学者達

しかし、本来その出来事に一番に気づいて喜ぶべき「神の民」ユダヤ人達よりも、「異邦人」が先にその出来事に気づき、ユダヤ人達に知らせたことを今日の箇所は語っています。「東の方」とはユダヤ地方から見て、ペルシャ(今のイラン)周辺ではないかと言い伝えられています。

「異邦人の国」から異邦人の占星術の学者達が、まずエルサレムに来て、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせました。「占星術の学者」とは、当時は、天文学をはじめとする自然科学全般についての専門知識を有する知識人であり、時の権力者に助言を求められる存在です。ユダヤ人達は、自分達が「神の民」として選ばれて神の言葉である「律法」をいただいたという自負があった故に、異邦人については「神様に選ばれておらず、『律法』も知らない、軽蔑すべき人々」とみなしていました。そんな「異邦人」から、ユダヤ人達は一番大事な「救い主誕生」の知らせを受け取ることになったと聖書は示しています。

ユダヤ人の「民の祭司長達や律法学者達」

一方、ユダヤ人の知識人ともいえる「祭司長達や律法学者達」は、この知らせに対し、その預言をヘロデ王に冷静に伝えただけです。本来、彼らこそ、救い主誕生は神の恵みだと、よく知っているはずなのに、その救い主を拝みに行っていません。神様の出来事を無視したのです。

神様の導きに従った「異邦人の占星術の学者達」

一方、異邦人の占星術の学者達は、律法は与えられていなくても、この世に現れた神様の真理=科学的法則を常に求め、その法則とは違う動きを察知し、それを神様からのしるしと悟り、それに従い、旅の危険を顧みずに救い主誕生の出来事に積極的に参加しました。彼らは一度エルサレムに来て、王に頼ったように見えますが、それは彼らが「預言」に出会うためであり、むしろ、彼らの旅を導いたのは、特別な星だったのです。「星」と「預言」=神様の導きを表すものに彼らは従って行動し、救い主との出会いに導かれて喜びに溢れ、礼拝する恵みを得たのです!

イエス様の救い主としての役割を暗示する献げ物

救い主への献げ物は「黄金・乳香・没薬」という3種類だったと記されています(彼らは「東方の3博士」と言われていますが、3名だったという記述は実はありません)。「黄金」はこの世の栄え、つまり、王様を意味します。(イエス様は政治的な王様にはなっていませんが、この世を支配して人間を苦しめていたこの世の長サタンから、この世の支配を取り戻したのですから、この世の新しい王様となられたのです!)「乳香」は、神殿で献げ物をする時に焚く香料なので「祭司」を意味し、「没薬」は死体を包む時の防腐剤なので「死」=「十字架による死」を意味します。後のイエス様の歩みを象徴していると言えます。

異邦人にも届く「救い主」の栄光の証し人として

神様はユダヤ人を救いの起点とされましたが、その救いは全ての民族(異邦人)に及ぶと旧約聖書には幾つも記されています。私達は、肉体的にはユダヤ人ではないので、この占星術の学者達の行動を、同じ「異邦人」として誇らしく感じます。しかし、今や、イエス様を救い主と信じる私達が「神の民」です。当時のユダヤ教宗教指導者達のように「神様のしるし」を無視していないかを留意しつつ、これから「神の民」となる方々のためにも「神の栄光を写し出す証し人」となれるよう、祈り続けましょう。

11月26日の説教要旨 「天地を造られた主」 牧師 平賀真理子

詩編146:1-6  使徒言行録17:22-31
*はじめに(収穫感謝礼拝の由来)
今日は収穫感謝礼拝の日です。その由来は宗教改革が始まった1517年から約100年後の出来事です。ルターが口火を切ることになった宗教改革ですが、プロテスタントの教えはその後いろいろ分かれ発展していきます。その中でも3つの教えが主流となっていきました。ルター派・改革派(カルバンが提唱)・イギリス国教会派(日本では聖公会)です。
16世紀の間にイギリスでは政治的な動きと相まって、カトリック教会を離れて、国王がイギリス国教会を率いることになりました。ところが、イギリスの中で既に改革派のtおいう教えを信じていた人々にとって、それは生き辛い社会となりました。彼らはイギリスを出て、改革派が主流だったオランダに一度移住します。しかし、子供達が自分達の言葉を受け継がなくなっていくことに愕然とし、新天地で自分達の言葉や教えを継承できることを志しました。1620年の夏に2艘の船を手配して、当時の新天地アメリカへ旅立ったのです。ところが、航海は2度失敗し、3度目にやっと1艘だけ(メイフラワー号)、66日かけて、予定地より北のプリマスという町に着いたのです。ここまででも大変ですが、この後は更に大変でした。冬を越すのが厳しく、イギリスで船に乗り込んだ約100名のうち、半数が飢えと寒さで死んだのです。翌春には、この状態を気の毒に思った原住民の人々がトウモロコシの種を彼らに与え、これが秋に実って、待ちに待った「収穫」ができたのだそうです。イギリスから渡った、これらの人々は、助けてくれた原住民の方々をその秋に招き、新天地で実りを与えてくださった神様に感謝を献げました。
これがアメリカで大々的に祝われている収穫感謝祭の由来です。日本基督教団でもこの行事に倣って、アメリカでの収穫感謝の祝日(11月の第4木曜日)に近い日曜日に、収穫感謝礼拝の日を設けています。
*アテネの町で
 今日の新約聖書の箇所は、イエス様の死後、福音を全世界に告げ知らせることに貢献した「使徒パウロ」が、アテネで行った説教を記したところです。アテネはギリシア哲学の中心地と言ってよいでしょう。
この町の人々は、広場で論じ合う習慣があり、また、何か新しいことを見聞きすることが大好きだったことが、前の段落からわかります。人知の粋や目新しい情報を求めて一喜一憂する姿は、都市生活をする者、即ち、私達にも共通する性質だと思います。
もう一つ、この町についてパウロが嘆いているのは、アテネの町に偶像が溢れていることでした。パウロは人間が手で作る神様や維持するために人間の働きが必要な神殿は、本当の神様でもないし、そのような神殿も神様の住まいとはなりえないとパウロは主張しています。そして、アテネの人々が何となく感じてはいても名前すら付けられない「知られざる神」について、パウロは説明を始めたのです。まさしく新しい情報です!
*「本当の神様」=天地を造られた主
ユダヤ人が奉じていた聖書には「本当の神様」のことが知らされています。しかし、ユダヤ人でない人々(異邦人)は、聖書で証しされている「本当の神様」を知りません。そこで、パウロは異邦人であるアテネの人々に「本当の神様」が天地を造ったところから説明を始めました。天地のものすべてを造った「本当の神様」は、人間を造られ、「命」や「息」や「必要な物」すべてを与えてくださったと語りました。それだけではなく、「本当の神様」は人間それぞれに相応しい「時」と「場所」を設定して、この地に人間を配置して、その中に示されている神様を、人間がわかるようにされていると述べました。それは、アテネを含むギリシアの人々も漠然と感じていることが詩に示されていると例証しています(28節)。そして、人間の働きや技巧によって作られる偶像礼拝は、神様を決して表していないことを29節で重ねて論じています。
*「本当の神様」が新たになさったこと=「イエス様の復活」
これまでは、異邦人には漠然としか感じられなかった「本当の神様」、即ち、異邦人には「天地を造られた神様」としかかわからなかった「本当の神様」について、もはや「知らない」では済まされないことを、パウロは主張します。それは、イエス様が復活されるという出来事が起こったからです。そして、それが言葉によって述べ伝えられるようになったからです。人知を越えた神様が、人知では理解の範囲を越えた「死からの復活」という栄誉を、「救い主イエス様」に与えたからです。人知を越えたものは、神様のなさったこととしか言いようがありません。イエス様の復活によって、神様が人間を御自分の方へ導いていると言えるのです。だから、アテネの人々だけではなく、私達も、今やはっきり知らされた「本当の神様」に心を向け(悔い改め)、「神の国の福音」を受け入れて、新しい「神の国の民」として歩むように神様から求められているのです。私達は、復活のイエス様によって御自分を啓示なさる神様から大きな恵みを受けているのです。

11月5日の説教要旨 「死と復活」 牧師 平賀真理子

詩編16:7-11  Ⅰコリント書15:42-58

*はじめに
今日は召天者記念礼拝の日です。信仰を持って生き、天に召された方々を思い起こし、その信仰を受け継ごうという思いを新たにする日です。この方々の「信仰」とは、一言で言えば、イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰です。彼らは、この世での肉体をいただいて生きている間に福音に出会い、「イエス・キリストは自分の罪を贖ってくださるために十字架に架かって犠牲になられた」と信じ続けました。確かに、それが信仰の第一歩です。しかし、それだけを強調するのは不十分です。信仰者は、主の十字架だけでなく、主の復活を知らされ、信じて生きるのです!

 

*コリントの信徒への手紙一15章
「主の復活」については、今日の箇所、Ⅰコリント書15章も、それを証ししている箇所の一つです。この書の著者パウロは、ここで3つの内容に分けて、信仰者に思い起こしてほしいことを書き送っています。
聖書の小見出しに沿って、最初の段落「キリスト復活」の中で、パウロは、キリストが、聖書に書いてあるとおり自分の罪のために死んだこと(十字架)、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人(主要な弟子)に現れたこと、その後、五百人以上の兄弟達(信仰者)に同時に現れ、生きた証人がたくさんいることを証ししています。
次の12節からの段落「死者の復活」では、多くの証人が「主の復活が事実だ」と証言できるのだから、イエス様の復活がなかったとは決して言えない、むしろ、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」(20節)とパウロは宣言しました。そして、人類の祖とされる「アダム」によって、神様を信じないという罪で、すべての人が死ぬことになったという内容(ローマ書5:12-14)を記し、その対比として「キリストによって、すべての人が生かされることになる」(22節)とあります。それは、アダムから累々と流れる人類の罪すべてを贖うために、イエス様が十字架という苛酷な運命に従順に従われたので、父なる神様がそれを祝福して「死からの復活」という栄誉を与えたことを意味します。そして、その恵みがイエス様だけに留まらず、その意味を理解して受け入れる信仰者にも与えられると言われています(ローマ書3:22等)。
更に、15章23-24節では、復活の順番について、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるとき(キリスト再臨の時)に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来る」と書かれています。イエス様はすでに復活なさっていますから、主の再臨の時に、イエス様を救い主として信じる者は復活させていただけると宣言されています!

 

*「種」の例え
このようにパウロは説明し、次いで、コリントの集会の人々のために「具体的な『復活の体』」について、具体的な説明を続けます。「種」の例えです。種は、一つの物体のように死んでいるような様子に一度はなりますが、違う姿で生き返ってくるように見えます。死んだような「種」の状態が「この世での肉体上の死の姿」であり、「新しい命が出てきた姿」が「復活の体」のようだと例えています。そして、神様は全能の御方なので、それぞれにふさわしい体を与えてくださるとパウロは説明しています。

 

*死の状態と復活の状態の例え
今日の新約聖書箇所に入りまして、前段落の例えを基本に、パウロは別の表現も試みました。「死の状態」を、蒔かれる時に「朽ちるもの」・「卑しいもの」・「弱いもの」であっても、芽を出す時のような「復活の体」を「朽ちないもの」・「輝かしいもの」・「力強いもの」と表現しています。更に、死んで復活することを「『自然の命の体』が蒔かれて『霊の体』に復活する」とも表現しました。

 

*「アダム」と「イエス様」
次いで、再び、人類の祖「アダム」のことが出てきます。アダムは神様から命の息を鼻に吹き入れられて生きる者となった(創世記2:7)のですが、最後のアダムと例えられているイエス様は十字架と復活を経て「神様」の御姿に戻られたのです。そして、人間は、「土でできた最初の人であるアダム」のように、この世での物質でできた体で生きるようにされていますが、信仰者達は「天に属する第二の人」であるイエス様の似姿になって「復活」することができるとパウロは教えています。

 

*「朽ちないもの」「死なないもの」を着る恵み
私達信仰者は、天に属するために「朽ちないもの」、すなわち「永遠のもの」を着ることが許されていると50節以降に記されています。52節の「最後のラッパが鳴るとき」とは、終末(この世の終わりの時)であり、キリスト再臨の時ですが、この時、信仰者達は「朽ちないもの」「死なないもの」を必ず着るようになるとパウロは語りました。復活の主の恵みを、何の功績もない私達が着ることが許されている恵みに感謝です。

 

*「死」・「罪」・「律法」⇔「命」・「救い」・「信仰」
パウロは、「この世のこと」を表現する時、「死」「罪」という表現を用いますし、救いの古い方法である「律法」が支配する世界と表現しました。そして、これに対抗して、というよりも、これを凌駕するものとして、「(天に属する、永遠の)命」と「救い」とし、そして、救いの新しい方法としての「福音への信仰」という表現を好んで用いています。
54節の後半から、パウロの特徴の、その言葉が出てきます。「罪」の最たるものが「死」であり、罪の虜の人間は「死」を最も恐れて生きざるを得ない状況に置かれてきました。しかし、イエス様の十字架と復活という救いの御業によって、人間の罪が覆われ、憐れみ深い神様は、人間に対して過去の罪は問わないとしてくださいました。「死の世界」が誇っていた「罪」に対して、イエス様が勝利されたのです。「人間の罪を自覚させ、恐怖に陥れ、人間を悪の方へがんじがらめにする」おおもとになっていたのは「律法」でした。イエス様は、それらすべてに打ち勝ってくださったのです。だから、私達はかつて自分の内側に潜んで力を奪っていた「罪意識」、もっとはっきり言うと、「私なんかダメだ!」「私には生きる価値がない」といった絶望から、イエス様を信じる恵みによって、「私は神様が目をかけてくださる存在」「神様の御心に適う生き方ができると期待されている存在」「神様に愛されている存在」だという希望が持てるようになるのです。それが神様に祝福される、本来の人間の姿ではないでしょうか。

 

*復活の主に結ばれて、主の業に励む喜び
今日の箇所の最後に、パウロは主を信じる者達に、主に結ばれて、主の業に励むことを勧めています。それは、すなわち、信仰の先達、この方々が、その人生において行ってきたことです。今日の箇所のパウロの言葉に励まされ、また、これらの先達の生き方に倣いながら、私達は、神様の御前に、再び生かされている恵みを感謝し、主の御用のため、特に、福音伝道のために用いられたいと願います。そして、それを心から感謝し、喜べる信仰者へ成長していけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

 

2017・10月15日の礼拝説教要旨 「私の助けはどこから?」 佐藤 義子

詩編121:1-2・ヨハネ福音書3:16
*はじめに
今日は、一年に一度の子供と大人の合同礼拝です。教会学校では、旧約聖書ではアブラハムさんなど、聖書に出てくる人達がどのように生きたのかについて学んできましたし、新約聖書ではイエス様についてやイエス様がして下さった「たとえ話」などを学んできました。今日は、旧約聖書の詩編の言葉、そして新約聖書ではヨハネ福音書の有名な言葉のお話です。
*「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」
これは今、読んだ詩編の1節です。この時、これを書いた人は「助けてほしい」と思っていますね。私達が誰かに助けてほしいと思う時は、私達が困った時です。子供の時は、大人の人に助けてもらうことが多いですが、大人になっても困ることはいろいろ起こります。そういう時は誰かに助けてもらわなければなりません。この詩編を書いた人は、何に困っているのかというと、これから長い旅に出ることになり、その旅には沢山の危険が予想されていたからです。たとえば山の向こうまでいく道には、でこぼこ道や、急な坂、深い谷間があるだろう。沼や川や、途中でへびとかクマが出るかもしれない。又、強盗が待ち伏せして襲われるような危険な目に会うかもしれない・・などと考えたのでしょう。そのような心配が心の中に広がってきて、「わたしの助けはどこから来るのでしょう」と、誰かに聞いているようです。あるいは、自分の心に聞いているのかもしれません。
私達が今、生きている時代は大変な時代です。「テロ」とか「ミサイル」という言葉を何回も聞くようになりましたし、地震や津波や火山の爆発などの自然災害も多く起こっています。そのほか事件や事故も多く、そして、大人であれば、自分の健康のこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係や将来の進路などなど、先が良くわからないことについての心配や不安などを持っている人は、きっと沢山いることでしょう。それらを心配している人と、今、この詩編を書いた人・・遠くて長い、危険をともなうこれからの旅を前にして、山々を見上げ、不安な気持でいる人と、とても良く似ていますね。
*「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
「わたしの助けはどこから?」という質問の答えが、2節「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」です。「どこから?」と聞いている人が、この答えを出したのなら、この人は神様からの声を聞いたに違いありません。又、もし誰かに質問したのであれば、答えを返した人は、当時の「祭司」と呼ばれた信仰のリーダーでしょう。
*天地を造られた主
「主」とは神様のことです。なぜ助けは、天地を造られた神様から来るのでしょうか。それは、天と地上を造られただけでなく、世界中の人達すべて(私達も!)皆、神様が命を与えて生かして下さっているから、だから、人間を救う力も、もちろん持っておられるからです。
3節以下には、神様は、私達が生きていく上で足がよろめかないように(ふらふらしないように)助けて下さるお方であり昼も夜も眠ることなくいつも見守って下さるお方であり、いろいろな災いを遠ざけて下さるお方であり、どこに行っても守って下さるお方であると書かれています。この神様への信頼を持ち続けている限り、私達は決して倒れません。
*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
神様の独り子はイエス様です。神様はイエス様を、私達の住むこの地上に遣わして下さったことによって、私達は神様のことを正しく知ることが出来るようになりました。そして、それまで神様を正しく知らないで生きてきた「罪」を悔い改めて、イエス様を信じることにより、永遠の命をいただけることが、(ヨハネ福音書)3章16節に記されています。
私達が、「神様、助けて下さい」とお祈りする、そのお祈りは、実は、イエス様が、神様に伝えて下さっているのです。私達のお祈りが神様に届くようになったのは、イエス様が十字架で死んでくださって、神様が私達の罪を赦して下さったからなのです。神様は、イエス様を3日目に復活させて下さり、今は、神様の元に戻られています。そして毎日の私達の祈りを神様に伝えて下さり、聖霊を送って下さっています。
それで、私達は、お祈りの最後に、必ず、「イエス様のお名前を通して」とか、「イエス様のみ名によってお祈りします」と祈るのです。
*讃美歌301番
「山辺(やまべ)に向かいて我(われ)、目を開(あ)ぐ、助けは何処方(いずかた)より来(きた)るか、天地(あめつち)の御神より 助けぞ 我に来(きた)る」
今朝、歌った讃美歌301番は、121篇の「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」が もとになって作られました。最後に、この御言葉と共に歩まれた「山本つち先生」についてお話したいと思います。
山本先生は、私が卒業した女子学院という中学高校の女の院長先生です。先生は学校のすぐそばに住んでおられました。学校では毎朝「礼拝」があり、礼拝前にはいつも301番の讃美歌のチャイムが流れていました。ある朝の礼拝で山本先生は、詩編121篇を読まれて、学校が火事になった時のことを話されました。その後、火事について書かれた本なども読む機会がありました。それによると火事は1949年5月に起こりました(私の入学前です)。午後10時、先生が寝ようとしたその時、不意に聞こえて来た女の人の叫び声と窓ガラスにうつる炎に、先生の家にいた皆が燃える校舎に駆けつけました。その後,近所の方々や消防や警察の方々にも助けられ、ピアノや机いすなど出してもらったそうですが、あとはすべて焼けてしまいました。焼けた校舎は、以前、戦争で焼けた後に一年前、苦労してようやく建った新しい校舎でした。その校舎が再び今度は不審火による火事で失われてしまったのです。翌朝何も知らずに登校してきた生徒達はショックで泣いたりしていたそうですが、先生は、火事以後、祈られた夜を過ごし、朝には、凛として焼け跡に立ち、礼拝で詩編121篇を全員で読み301番を歌い、目には見えない神様への信仰を語り、火事によって一人のけが人も出なかったことに感謝の祈りを捧げたとのことでした。
ここに、121篇「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」を確信して、自分に与えられた重荷を担って前に進む信仰者の姿を見ます。
この伝道所にも礼拝を知らせるチャイムを求めていたところ、幸いにも、女子学院の鵜﨑院長のご紹介で、女子学院チャイムと同じ音源を使用する許可をいただきました。このチャイムを聴きながら、私達はこれから何が起ころうとも、ゆるぎない神様への信頼をもって歩み続けていきましょう。

10月1日の説教要旨 「主の弟子として」 牧師 平賀真理子

詩編51:9-19 ルカ福音書14:25-35
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト記20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

9月24日の説教要旨 「神の国への招き」 牧師 平賀真理子

詩編111:1-10 ルカ福音書14:15-24
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
 ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

9月3日の説教要旨 「苦難の道をたどられる主」 牧師 平賀真理子

詩編132:10-18 ルカ福音書13:31-35

 

*はじめに

ルカ福音書の9章で、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた(51節)」とありますので、人々の罪の贖いのために十字架にかかる場所「エルサレム」へ行く定めにあることを御自身は自覚なさっていたのでしょう。その途上で、イエス様御一行は、ヘロデ・アンティパスという領主の領地に入りました(31節から推測)。

 

 

*イエス様の反対派として結託していくヘロデとファリサイ派
ファリサイ派の人々は、ヘロデという領主の権威を笠に着て、イエス様を追放しようとしています。本当にヘロデが命令したのか、ファリサイ派がヘロデの意向を汲み取って先回りしているのか今やわかりません。
また、ファリサイ派の人々の中には、イエス様の身を本当に案じた人もいたのかもしれませんが、ここでは、イエス様の反対者達が次第に結託していき、勢力を強める際の、その端緒を見ることができると思います。

 

*ヘロデへのイエス様の伝言
イエス様は、そんな悪意に満ちた報告をしてきたファリサイ派の人々に対して、ヘロデへの伝言を頼みました。「あの狐」とはヘロデのことです。(狐は、当時のこの地方で、最も狡猾で、凶暴で、役に立たない動物と思われていて、それがまるでヘロデそのものだったからです。)伝言の中心「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)とは、イエス様の「救い主」としての御業を自らまとめ、それは神様が定めたものであり、決して変えられないとの思いが込められていると読み取れます。

 

*「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)
イエス様が悪霊を追い出す権威を与えられており、相手方の悪霊達がイエス様を「神の御子」と認めて去ったことは福音書に証しされています。病人の癒しでは、病いに苦しんでいる人々を目の当たりにした イエス様は憐れみを禁じ得ず、父なる神様から癒しの力をいただいて、彼らを救ったのです。この2つの内容は、イエス様が神様からの力をいただける「神の御子」であることの証しです。次に「三日目にすべてを終える」という御言葉に注目しましょう。「三日目に」とは、旧約聖書においても、神様の御心に適った人の「よみがえり」「復活」を暗示するものです(ホセア6:2、ヨナ2章)。後の時代の信仰者にとっては、「三日目に」とは、「主の十字架」の後の三日目の「主の復活」を想起させる言葉です。イエス様の救い主としての中心的な役割「十字架と復活」を果たすことは神様によって定められているという意味が隠されています。また、「終える」という言葉の元々の単語には「成し遂げる」という意味があり、「十字架と復活」を果たし、神様から託された救い主としての責務「すべてを成し遂げる」という意味を示しています。また、同時に、「三日目にすべてを終える」とは、ヘロデに都合のいい解釈もできます。それは、「領地に御自分(イエス様)が来て、領主ヘロデの勢力を脅かすような出来事は、あとわずか三日程で終わりますよ」という意味にも取れる言葉を用いておられるからです。

 

*「今日も明日もその次の日も、自分の道を進まねばならない」(33節)
イエス様は、ヘロデやファリサイ派などの反対派の人々に御自分の使命を語られたのですが、「十字架」にかかるにあたっては、人間として受けるならば、壮絶な苦痛があることを予め理解された上で、その役割を引き受けられたことがわかります。「進まねばならない」という御言葉の中に、主の苦しい思いがにじみ出ていると感じられます。(だから、説教題を「苦難の道をたどられる主」としました!)しかし、それが神様のご計画なので、イエス様は何よりも優先なさったのです!

 

*神様の恵みを受け続けるために
34節以降で、イエス様はイスラエル民族の中心都市エルサレムが、神様から遣わされた預言者を数多く殺した都であり、御自分も預言者の一人として、エルサレムで死ぬと預言され、神様の御気持ちを慮って嘆かれました(イエス様は「救い主」で、他の預言者とは別格ですが、神様から御言葉を賜って人々に伝える働きもされたので「預言者」とも言えます。)。イスラエルの民は、神様からの一方的な愛を受けて「神の民」として恵みを受けてきたにもかかわらず、神の御子である御自分を「救い主」とは受け入れず、これからも受け入れる人は本当に少ないとイエス様は見通し、そのため、イスラエルの民は、御自分の再臨の時まで、神様から見捨てられると預言なさいました。イエス様を「救い主」と受け入れない民は、神様から見捨てられるのです。私達は、神様の恵みを受け続けられるよう、イエス様を「救い主」として受け入れ、賛美する思いを新たにしましょう。