12月24日の説教要旨 「救い主の御降誕」 牧師 平賀真理子

イザヤ書9:5-6 ルカ福音書2:8-20
*はじめに
クリスマスおめでとうございます。教会のクリスマス礼拝にお越しくださる方々は12月25日が「イエス・キリストの誕生日」とされており、教会ではそれ以前の近い日曜日にクリスマス礼拝を献げるのだと知っておられることと存じます。クリスマスはイエス様のお誕生日が起源なのですが、クリスチャンの少ない日本では、サンタクロースが来る日とだけしか知らない人々もいるようです。是非、本来の意味を知っていただきたいです。
*この世に救い主が実際にお生まれになった!
今日の新約聖書箇所の直前の段落であるルカ福音書2章1-7節には、この世にいよいよイエス様がお生まれになったことが書かれています。待ちに待った救い主誕生ならば、最高の環境で、人々の大歓迎を受けつつ生まれてもよいはずなのに、全く逆の状況であったことが記されています。この世での両親が権力者によって旅を強いられ、その旅先で、しかも、人間の部屋でないところ(聖書には具体的な表記はありませんが、言い伝えによれば「馬小屋」)でお生まれになった上に、幼児用のベッドではなく、家畜のえさを入れる飼い葉桶に寝かされたと書かれています。これは、人間の心が神様を受け入れるスペースを持ちにくいことを暗示しています。
*人間界で低く見られていた羊飼いに、神様は救い主御降誕を知らせた!
人間の状況にかかわりなく、神様の御計画は御心のままに着実に進んでいきます。ルカ福音書1章では、イエス様の先導者として洗礼者ヨハネの誕生も、そして救い主イエス様のご誕生も、神様が主導して起こしてくださった出来事であると示されています。そして、それを素直に受け入れた人物として、この「羊飼いたち」が2章に書かれています。彼らは、職業柄、定期的な礼拝が守れないので、低く見られていました。しかも、労働条件の厳しい割には、それほど収入がたくさんある仕事でもありませんでした。人間社会の中では尊敬されない人々でした。しかし、神様の評価は違います!人間界では一番に恵みをいただくことが決して期待されない羊飼いたちに、神様はまず、御自分が救いの出来事を起こしたことを知らせてくださったのです。「救い主を『ひとりのみどりご・ひとりの男の子』として与える」という預言を実際に実現してくださり、しかも、この羊飼いたちに、そのことを天がどんなに喜んでいるかを見せてくださっています。天使の言葉や天の大軍としての大勢の天使による賛美が、この羊飼いたちをどれほど圧倒したことでしょう。その大きな喜びに押し出されるようにして、羊飼いたちは、その赤ん坊を探し出そうと出かけました。もちろん、イヤイヤではありません。「急いで行って」(16節)という言葉は、元々の言葉では「喜び勇んで」という意味が含まれています。
*「しるし」をたよりに、羊飼いたちは「救い主」を探し当てた!
羊飼いたちは天使の言葉をヒントに「救い主イエス様」を探し当てました。天使の言葉の中で、救い主の「しるし」として「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」であると告げられていました。イエス様は、両親が旅の途中だったので産着の準備もなく、宿屋でもない馬小屋で生まれたので、まさしく、この時、「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている」唯一の乳飲み子だったのでしょう。詳細は書いてありませんが、ここには、聖霊の導きがあったのではないかと推測できると思います。神様は選んだ人々には、事前に知らせてくださり、そのとおりのことを実現し、聖霊(神様の霊)によって、彼らを導いてくださる御方だからです。
*神様の出来事を素直に信じられる喜び
羊飼いたちは、天からのお告げが現実になったことを体験しました。彼らの体験した一連の出来事で、神様の出来事は御心のままに確実に進むけれども、人間はただ単に神様の奴隷のように言いなりに働かされるわけではなく、御心に適った人々には、それが神様が主導で起こされる出来事だとわかるようにしてくださること、そして、そのような神様の恵みが自分に降ると素直に信じられる人は、その恵みがわかった後は黙っていられず、話さずにはいられないほどの喜びにあふれることがわかります。
*「神をあがめ、賛美しながら生きる人生」
最終的には羊飼いたちは「帰って行った」(20節)ので、元の持ち場に帰ったわけであり、表面上は彼らは何も変わっていません。けれども、心が変わったのです。この出来事より前には、ただ単に生きていたであろう彼らが、この出来事の後では「自分を・自分の人生を神様が覚えてくださり、神様の出来事に参加させてくださる」ということが実感としてわかり、これ以降の人生において「神をあがめ、賛美する」ように変えられたのです。それが信仰を持つことの醍醐味です。同じ出来事を体験しても、信仰者は、(表面的な幸・不幸にとらわれず)どのような出来事でも神様が共にいてくださることを信じ、「神をあがめ、賛美する」大いなる喜びに導かれていくのです。私達を本当の喜びに導くために、神の御子が「救い主」として、人間の中でも最弱の姿(赤ん坊)となってこの世に降りてきてくださったのです!

12月17日の説教要旨 「ザカリアの預言」 牧師 平賀真理子

イザヤ書40:3-11 ルカ福音書1:67-80
*はじめに
イエス様の御降誕に寄せて、ルカ福音書に記録されている3つの賛歌を学んでいます。今日は2つ目のザカリアの賛歌(聖書の小見出しには「ザカリアの預言」と書かれています)を学んでいきましょう。
*主の御言葉を信じられなかったザカリア
ザカリアは祭司であり、その年、主の神殿の聖所で香をたいている時に、天使の訪問を受けて、主の御言葉をいただくことになりました。
その内容は、不妊の女と言われて老齢になった妻エリサベトが子供を産むということ、そして、その子供は「救い主」の前に来ると預言されていた「先導者」であるということでした。しかし、ザカリアはこれを信じられなかったために、そのことが起こるまで口が利けなくされてしまいました。ザカリアの家庭に子供が授かることは、私的な面でも大きな喜びですが、「救い主の先導者」が生まれるということは、イスラエル民族が待望していた「救い主」誕生が近いということの証しであり、公的にも大きな喜びです。祭司ザカリアはそれを一番に知らされたにもかかわらず、信じられなかったのです。
*主の御言葉を信じなかった人間が許されて聖霊に満たされた!
今日の箇所の直前の段落で、ザカリアに息子が生まれ、先導者として「洗礼者ヨハネ」が本当に生まれたことが書かれています。主の御言葉を信じられず、一時的に罰を受けたザカリアは、主の御計画である子供の誕生の直後に、その罰を許され、聖霊に満たされて、今度は神様を賛美する歌を残す役目を与えられました。ここに、人間の救いの形が表されているように思います。まず、神様の御言葉を人間が信じない罪に陥ります。そして、神様の恵みである才能を制限される罰を受けます。しかし、その間も神様の御計画は着々と進み、不信の人間はその経過を黙って見ているしかできなくなります。その人は、神様の偉大さをしみじみ感じるようにされ、一方、我が身の罪深さを思い知り、悔い改めに導かれるようになります。恐らく、ザカリアもそのような体験をしたと推測することも可能ではないでしょうか。
*ザカリアの預言(賛歌)
神様の恵みによって聖霊に満たされたザカリアの賛歌(預言)も、マリアの賛歌と同じように、神様をほめたたえることから始まっています。そして、イスラエル民族を御自分の民として愛し導いてこられた神様=「主」と呼ばれた神様を賛美しています。この預言は内容から見て、3つの部分に分けられます。
第1部の68節―75節では、ザカリアが祭司として学んできたこと、体験したことが反映されていると見ることができます。マリアの賛歌はマリアの素朴な信仰が表れていますが、ザカリアの預言では、ユダヤ教で教えられている内容で溢れています。神様は人間を通して働いてくださることも多いのですが、用いられる人間の才能を充分に生かしてくださる御方であることも見受けられます。
第2部の76節―78節1行目で、ザカリアの息子「ヨハネ」が、イザヤ書40章やマラキ書3章で預言された「救い主の先導者」=救い主の先を歩んで「主の道」を備える者としての役割を担うことが預言されています。このヨハネは、生まれからして特別で、人々に期待されましが、「いと高き方(神様)の預言者」に過ぎないことを父ザカリアはここで預言しました。(一方、イエス様は「いと高き方の子と言われる(1:32)」と預言されており、二人は明確に区別されています。)
このヨハネの「主の道を備える」役割とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、彼自身が人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ(3:8)」と述べたことからわかります。これまで当たり前だった自己中心の生き方から、神様の基準(神様がご覧になって喜ばれる生き方)に方向転換するように人々に教え導くという役割です。この神様に心を向ける心の準備ができた人の上に、「救い主」が天から来てくださり、本当の意味で「罪の許し」をなさることができるのです。神様を求める心の上に、神様の恵みが降り注いだ時、その恵みは本当に生かされるのです。準備できていない心の上に神様の恵みが降り注いでも、それは無駄にされ、更には、恨み・つらみ・背きを返すことになります。
第3部の78節2行目―79節では、神様がイスラエル民族になさった救いの約束の最終目的「救い主を遣わすこと」について述べられています。「あけぼのの光」(78節)と比喩された「救い主」が天から来られ、絶望にある人々を照らし、本当の平和へ導くという恵みが明示され、救い主御降誕の希望が謳われています。

12月10日の説教要旨 「マリアの賛歌」 牧師 平賀真理子

ヨブ記5:8-16 ルカ福音書1:46-55
*はじめに
救い主の母として選ばれたマリアが神様を賛美して謳ったと伝えられ、ルカ福音書に記録された「マリアの賛歌」を今日は学びましょう。
*「聖霊によって」
1章26-38節「イエスの誕生が予告される」の段落と今日の箇所では、決定的に違うことがあります。それは、マリアが神の御子イエス様を宿す前と後、つまり、おなかに「救い主」を宿しているかいないかです。
この2つの段落の間にある「マリア、エリサベトを訪ねる」(39―45節)の段落で、エリサベトの言葉から、マリアがイエス様を既に身ごもったことがわかります。ルカ福音書の記者は、ここで「聖霊に満たされたエリサベト」(41節)が、胎内の子=洗礼者ヨハネが喜び踊ったことから、主と主の母が来てくださり、それがどんなにうれしいことかを述べました。
マリアは「聖霊によって」イエス様を身ごもり、それ以降、母子ともに聖霊に満たされていると言えるので、聖霊に満たされた二人の母親が出会って、祝福し合ったわけです。なんと美しい状況でしょうか!人間の世界、特に当時のユダヤ社会では重んじられていなかった女性二人を、神様が重く用いてくださったことを賛美します!
*「主の言葉は必ず実現する」ことを信じる
エリサベトがマリアに言った言葉の最後の箇所「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いなのでしょう」(45節)という言葉、これこそが信仰の真髄を表す言葉だと思います。実は、この点において、逆=「主の言葉を信じなかった」ために、一時の罰を受けたと言えるのが、ほかならぬエリサベトの夫ザカリアです。祭司であるザカリアと一介の年若い町娘マリア、両者を比べると、人間社会の中では、当然ザカリアの方が重んじられたはずです。ところが、主の言葉を信じるか信じないか、その1点で逆転が起こりうるのです。これこそが神様における希望です。人間社会での地位や功績など関係なく、「主の言葉が必ず実現する」と信じるか信じないかが重要な分岐点、これさえ、間違わなければ、どんな形であれ、神様に祝福されるのは確かだということが、この箇所の大前提です。これは私達にも当てはまることです。
*イエス様御降誕における3つの賛歌の共通点
ルカ福音書では、主の御降誕の前後の3つの賛歌を大事に記録しています。今日の箇所の「マリアの賛歌」、来週の箇所「ザカリアの賛歌(聖書では「預言」)」、12月31日の箇所「シメオンの賛歌」です。この3つの共通点、それは、3人とも賛歌を謳う前に「聖霊に満たされている」ことです。聖霊に満たされ、信仰の言葉を謳う、実は、これも人間の口を通して行われる、聖霊の御業です。私達は「賛歌」により、信仰の粋を学べるのです。
*初めに、「神様を心の底からあがめ、喜びたたえる」
この賛歌の最初は、神様を直接賛美することから始まっています。46節後半から48節において、神様を心の底から賛美する思いが溢れています。「あがめる」(46節)という動詞は「偉大さをはっきりさせる」という意味を、「喜びたたえます」(47節)という動詞は、「喜びのあまり、踊る」という意味を持ちます。神様の偉大さをたたえずにいられない、踊りたいくらい、うれしい気持ちが溢れているのです。それほどうれしいのは、「身分が低い、卑しい」と言われ続けた自分が、ある日突然、神様の大きな恵みを受け、希望を持てたからです。神様が、いつ、だれに働いてくださるのかは、まさしく、「神のみぞ知る」です。だからこそ、だれでも、いつでも、それに備えて希望を失わずに、生きていくことが重要なのだと思います。
*「本当の幸いをくださる御方・力ある方・絶対的信頼の置ける御方」
48節で、マリアは自分を「幸いな者」と言いました。私達が信仰者とされる前に思い描いた幸せと、ここで語られる幸せとは全く違います。聖書の語る「幸い=幸せ」とは、「神様に祝福され、神様のために用いられること」です。マリアは、これを良く知っていた信仰者なのだとわかります。
また、49節で、マリアは神様のことを「力ある方」と呼び、自分に働きかけてくださったことを賛美しました。イスラエル民族は、自分達の歴史の中で、実際に神様の力が働いたことを子孫に語り継いできました。だから、マリアも「神様が自分を御子の母として用いる」ことをすぐに受け入れられたのでしょう。神様の恵みを語り継ぐ伝統、この貴重な奉仕のおかげもあって、マリアは神様の出来事を自分のこととして受容できたのです。
51節-53節で再び、「神様」は、御自分の御前では、人間をこの世の状況とは全く逆になさると謳われています。これは、後に、御子イエス様がなさった「平地の説教」(ルカ6:20-26)の内容の先取りとも言われています。
54-55節で、「神様」はイスラエル民族との約束を必ず実現する御方だという絶対的信頼が謳われ、この賛歌は締めくくられています。今や、私達、イエス様を主と信じる者達こそ、新しい「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)と言われています。この「神様」が私達に救い主を贈ってくださったのです。

12月3日の説教要旨 「主の御降誕の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51:4-11 ルカ福音書録1:26-38
*はじめに
今日は、キリスト教会の暦の上では、いわゆる「元日」に値する「歳の初めの日」です。また、私達の仙台南伝道所では、もう一つ記念すべき日です。それは礼拝開始15周年を迎えたということです。この伝道所で礼拝が始まる以前には、その存続を危惧する方々もいたそうですので、人間の予想を越えたこと、つまり、神様が御計画されたことが起こっていると言えると思います。ここで、洗礼を受ける思いを授けられた会員や充実した信仰生活を送っている会員がいること、また、求道者の方々が与えられていること、このことに改めて感謝を献げたいものです。
*「救い主の御降誕」の前に、「洗礼者ヨハネ」を準備された父なる神
さて、今日から「アドベント」「待降節」に入りましたが、主の誕生日とされる12月25日までの期間は、救い主を迎える準備をする時です。今日の新約聖書箇所の一つ前の段落は「洗礼者ヨハネの誕生の予告」について書かれていますが、その中の1章17節では、洗礼者ヨハネは「『準備のできた民』を主のために用意する」者だと天使が告げたと書かれています。神様が救い主イエス様をこの世に送ってくださったことも感謝ですが、その前に、人々が救い主を迎えられるために、その準備をする人物さえも御計画してくださったことに更なる感謝を覚えます。
*御降誕についてのルカによる福音書の特徴
新約聖書では、救い主イエス様の御降誕について、マタイによる福音書とルカによる福音書、この2つに具体的に書かれています。ルカ福音書の特徴として、イエス様だけでなく、その先駆けの「洗礼者ヨハネ」の誕生も、神様の御計画のうちであることが示されていると言えます。
イエス様も洗礼者ヨハネも、主なる神様の御心を、親になる人物に告げられています。洗礼者ヨハネの場合、父親である「祭司ザカリア」に天使ガブリエルが現れます。一方、イエス様の場合は、母親となる「ナザレ町の若い娘マリア」に同じ天使が現れました。ここに、ルカ福音書の特徴が現れています。人間社会で尊重される、男性・身分の高い祭司・年長という要素が揃った「祭司ザカリア」のところではなく、女性・田舎の庶民・若年という、人間社会では軽んじられる要素しかない「マリア」に、神様
は、御自分の御子・愛する人類の救い主を託したのです。これは聖書で証しされてきた神様の特徴と一致します。軽んじられる立場・弱い立場の人間を愛してくだるという特徴です!
*マリアが救い主の母に選ばれた理由
このようなマリアが、「救い主の母」として神様に選ばれたのには、理由があるはずです。たくさんあるのでしょうけれども、今日の箇所から、二つの理由に思い至りました。一つは、マリアがダビデ王の家系の男性ヨセフと婚約していたことです。ダビデ王にナタンという預言者が「あなたの身から出る子孫に跡を継がせる」と神様の預言(サムエル記下7:12)が伝えられていて、それをイスラエルの民全体が知っていたからです。神様が預言を実現される、まさにその時に、神様に導かれて、ダビデ家の男性と婚約していた女性がマリアだったのでしょう。二つ目は、マリアが、思慮深い性格であり、信仰によって物事を肯定的に捉えられる女性だったと思われるところです。29節の天使の祝福の最初の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」という謎めいた言葉に最初は動揺したものの、その意味を「考え込んだ」とあるからです。この「考え込んだ」という言葉は、元々の言葉では、否定的な意味はなく、「思案を巡らす」です。
*ザカリアの不信とマリアの戸惑い
一つ、気になることがあります。神様の出来事が身に起こった時、通常、人間は驚いて、すぐに信じることは難しいと思われます。実際、ザカリアとマリアも、間髪を入れずに信じるとはならず、両者とも、まず驚いています。ザカリアの方は、天使を見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」と1章12節にあります。ここから、ザカリアは祭司なのに、神様の出来事が実現すると100%の思いで信じているわけではないと、不信な思いが透けて見えるように思います。案の定、彼は「主の言葉」を信じなかった罰として、子供の誕生まで口がきけなくされました。一方、マリアの疑いは「戸惑い」と表現され、天使の抽象的な言葉に対して、「どういう意味?」という「信じたい思い」からくる積極的な問いだったと思われます。そのような素直な問いには素直に答えたくなるものです。天使も、マリアの問いに対して答えていき、天使とマリアの間で一問一答のように、会話の形が成立していきます。救い主の母となる人物に対し、その重要な役割を理解してほしいという神様の願いも天使は背負っていたのでしょう。
*「お言葉どおり、この身になりますように。」(38節)
聖書の「神様」は、この世に対し、御自分主導の出来事を起こせる御方であり、救い主を本当にこの世にお送りくださったのです!私達信仰者は、マリアのような素直な信仰によって、主からの出来事を待ち望みましょう。

11月19日の説教要旨 「時の転換点」 牧師 平賀真理子

箴言16:1-9  ルカ福音書16:14-31
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、イエス様のお話についてファリサイ派の人々の態度を記したところから始まっています。彼等はあざ笑ったのです。自分達の方が上だという判断をしていることが暗示されています。
*ファリサイ派の人々に顕著に表れた人間の最大の問題点
それに対し、イエス様は、ファリサイ派の人々の最大の問題点を指摘なさいました。それは「神様の目に映る自分ではなく、人の目に映る自分のことをまず考えている」ということです。15節で「神はあなたたちの心をご存じである」とイエス様が語られましたが、これこそ、本当に畏れ多いことだと痛感します。神の民として立てられているにもかかわらず、神様の目でなく、人間の目から見て自分がどう見えるのかを
まず考えてしまうという自分の心を懺悔しなければならないでしょう。
*神様の目を忘れてしまいやすい人間
ファリサイ派の人々は、神様がくださった律法に携わっているが故に、自分は神様に近いと誤認しやすいのでしょう。逆に言うと、自分自身について、神様の目を忘れやすい人間であることを常に自戒していかなければならないのです。それは、ファリサイ派の人々と現代の私達の間でも全く同じであると言えます。私達は日曜日ごとに礼拝を献げますが、主なる神様を忘れてしまう自分の罪を悔い改めて、それを許して神様が自分を招いてくださることに感謝し、神様を賛美しようという思いで溢れているかどうかが問われているのです。
*「律法と預言者」の時代が終わり、「神の国の福音」の時代が来た!
人間は神様を忘れるのに、神様は人間への愛を貫きます。まず、律法を与え、次には「救い主」を送る預言をなさって、それを実現なさいました!つまり、ファリサイ派が奉じていた「律法と預言者」が支配する時代が終わってしまい、次の時代、即ち、救い主であるイエス様がこの世に遣わされて「神の国の福音」が告知される時代が来たのです。但し、どちらも神様の御心を示したものに変わりありません。「律法や預言者」に示された御心は決して消えません。人の心を見抜くイエス様は、ファリサイ派の人々の心を見抜き、彼らが律法の中でも特に不都合だと感じていた「姦通の罪の規定」を例に挙げました。彼らは神様の御心に従おうとせず、自分達の欲望に都合のよい解釈をして良しとしていましたので、イエス様は、「人間が自分勝手な解釈を付け加えて曲げようとしても、律法の根本である『神の御心』は変わらない」と伝えたかったのだと思います。イエス様は、律法が人間の間違った解釈ではなくて、神様の御心に立ち帰って大事にされることを切望なさったのです。
*欲望のためにこの世に執着して「時の転換点」を察知できない人間
14節から18節までの段落は、別の見方もできます。ファリサイ派の人々の具体的な欲望=「金銭欲と名誉欲と色欲」が明らかにされています。この世での人間の欲望にまみれているために、目の前の救い主を見抜けずに悔い改められない者達の代表として、ファリサイ派の人々を見ることもできると思います。彼等は、欲望という「この世への執着」のために「救い主がこの世に来た」という「時の転換点」を察知できない愚かさを呈しています。一方、イエス様の言動は、父なる神様の人間への愛を正しく伝えたいという思いで溢れ、新しく立てられた救いの方法=「神の国の福音」を告知してこの世の人々を救いたいという思いで貫かれています。
*「金持ちとラザロ」の例え話におけるファリサイ派の誤りと私達
イエス様は、聞く相手を考慮してお話しをなさいます。この例え話も、聞くファリサイ派の人々を「金持ち」に例え、彼等が自分達の間違った姿勢を改めるように求めておられます。この「金持ち」はこの世にいる間、多く物で満たされ、一方、「金持ち」の隣人であった「ラザロ」という貧者には、食べ物も家も満足に与えられませんでした。「金持ち」はこの貧者の隣人に、自分の残り物すら施しませんでした。その後、二人ともこの世から死者の世界に行くことになり、ここで、ファリサイ派の人々の考え方を反映した描写がなされます。「ラザロ」がイスラエル民族の祖であるアブラハムの宴会に招かれているのに、「金持ち」はその世界から隔絶された別の世界で「渇き」の責め苦を受けるというのです。この世で与えられるものが少なかった者と、この世で多く与えられたのに隣人に分け与えなかった者は、死後の世界へ移された後は、全くの逆の立場になることが示されています。「金持ち」は後悔してもどうしようもないと思い知ります。結局、ファリサイ派は「死から復活する者(後の復活のイエス様を暗示)の教え」には従わずに、モーセや預言者達の教えに従うと言いつつ、実は自分の欲望に従い続けた結果、新しい時代においては後悔するのみであると警告されています。ファリサイ派のような誤りを主は信仰者に望まれません。新約時代の私達は、神様の憐れみにより、今や、救い主イエス様のおられる所に招かれています!その大いなる恵みに感謝いたしましょう。

11月12日の説教要旨 「だれに どう 仕えるのか」 牧師 平賀真理子

歴代誌上29:14  ルカ福音書16:1-13
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、解釈が難しい所として有名です。人間的な解釈だけに頼っていれば、です。ところが、イエス様の父なる神様に対する姿勢と、この箇所の前後で語られていることを合わせて考えると、それほど難しくないと導かれました。導かれたままにお伝えしたいと思います。
*イエス様が証しされた「神様」の真の姿(直前の15章で語られたこと)
今日の箇所の直前の15章で、イエス様は3つの例え話を用いて、天の父なる神様が、御自分から離れて道に迷う人間を見出したい、直接つながって御許で祝福したいと望んでおられると証しなさいました。イエス様は神の御子なので、憐れみ深い御父の真の姿を伝えることができるのです。
*主人に損失を与えて解雇される寸前のダメな「管理人」
今日の箇所の例え話の「ある金持ち」「主人」は「神様」を、また、「不正」と言われる「管理人」は「私達人間一人一人」を例えていると思われます。神様から持ち場を与えられているにもかかわらず、人間は、神様から見れば「不正」と言わざるを得ないような働きしかできていないと最初に示されています。そして、その姿が神様に知られてしまい、クビになる状態に追い込まれています。そんな切羽詰まった状態でも、この「管理人」は自分の知恵の限りを尽くして、クビになった後の居場所作りを画策します。「管理人」と例えられる人間は、「主人」である神様に元々損をさせている上に、更に、主人への損失を増す方法でしか、自分の生き残りを図れない、本当にダメな存在として描かれています。徹頭徹尾、自己中心のままです。
*ダメな「管理人」を神様は褒めてくださった!
ところが、そんなダメな存在の人間に対して、神様はほめてくださったのです!この「管理人」は自分の賜物(能力)=「管理人の仕事(単なる管理だけではなく、その家の事業の経営や雇人の人事など、大きな責任を伴ったもの)」を、解雇された後の自分のために使いました。その結果として、負債者達は負担を軽減してもらったので、自分にに恩義を感じ、後に恩義を返してくれるようになるとこの「管理人」は計算したからです。
*憐れみ深い父なる神様
人間の常識的な考えでは、この「管理人」の行状は、不正に不正を重ねた、決してほめられないものです。ところが、イエス様が証しする「神様」はそうではありません。主人の権威や権力を盗んででも、自分の居場所を作ろうとする、この「管理人」の「抜け目のないやり方」を賢い!とほめています。切羽詰まった人間が知力を振り絞って生き抜こうとしている、その姿を、御自分の損失は脇において、憐れみ深くみてくださる、神様はそのような御方であることを、イエス様は良くご存じだったのです。
*「お金や富」を賢く用いる知恵への評価
「不正にまみれた富」とは、犯罪などで不正に儲けた富という意味ではありません。この原語を直訳すると、「不正のマモン」という言葉になり、それは、この世で力を持つ「お金や富」を客観的に表現しているそうです。今日の箇所の1節にあるとおり、イエス様はこの話を弟子達に向かってなさいました。イエス様の十字架と復活の後には、弟子達がこの世で伝道をして福音を広めていく使命があります。弟子達は、この世で「不正」と言われるお金や富を、神の光を受けた「光の子」として、この世の人々以上に賢く用いる必要があり、弱い立場の人々の負担を減らして その人々が
友達(味方)になるように利用する知恵を持つことを勧めておられます。
*弱い立場の人々への眼差し
ルカ福音書の特徴の一つは、弱い立場の人々への施しや援助を大変重要視していることです。人間が神の国に入れるか否かは、神様だけが決定なされることですが、生きている間に弱い立場の人々を助けた場合、その助けた人が神様の裁きを受ける時に、その人から恩恵を受けて先に神の国に入った人は、助けてくれた人について証言したり、なにがしかの力添えができると当時のユダヤ人達は考えたようです。だから、負債が多いという弱い立場の人々の負担を減らした「管理人」は、「永遠の住まいに迎え入れられる」という恵みをいただけるとイエス様も表現なさったのです。
*イエス様の父なる神様に全身全霊で仕える
10節では、「ごく小さな事に忠実な者にこそ、大きな事を任せられる!」と教えておられます。「ごく小さな事」とは、「不正にまみれた富」(11節)や「他人のもの」(12節)と同じだと読み取れます。この世のこととも言い換えられるでしょう。そうすると、反対の「大きな事」「本当に価値あるもの」(11節)「あなたがたのもの」(12節)とは、憐れみ深い神様がイエス様の弟子達に賜るものすべてであり、もっと限定すれば、神の国の民としての大事な役割=福音伝道と言えるでしょう。最後の13節でイエス様は弟子達にだれに仕えるかの再確認をなさいました。「主の弟子達とは、この世の人々以上に持てる力すべてを用いて、神様に仕える者達」なのです!

10月22日の説教要旨 「神様の憐れみ」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:20 ルカ福音書15:11-32
*はじめに
ルカによる福音書15章は3つの有名な例え話から成り立っています。
3つの共通点は、「見失ったもの」を「あるじ」が必死に探して見つけ出し、見つけ出したら、仲間や近隣の人々と共に大喜びし合うことです。
*前の2つの例え話と異なる点
今回の「放蕩息子」の例え話では、「二人の息子を持つ父親」というのが「あるじ」であり、「下の息子」(以降「弟」と表記)が「見失われるもの」です。この「見失われるもの」と例えられる弟は、父親に従わないという意志があるようです。この反抗的意志があることが他の例え話とは違います。この弟は、敬意や感謝を父親に示さず、財産の生前贈与を要求し(かなり失礼な事)、取り分をもらうとサッサと遠い国に行って、元々は父親のものだった財産を使って放蕩な生活を送りました。
*「弟」の罪の姿が比喩するもの
自分の欲望の虜となって、神様や周りの人への配慮や感謝を忘れてしまう姿になるとは、この弟だけが悪い性質なのでしょうか?もしも、私達も時間と資金が潤沢にある環境に置かれたら、この弟のような自堕落な生き方を一瞬たりとも絶対にしないと言える人がいるでしょうか。「あるじ」から離れて、その存在を忘れて、自分の欲望のままに好き勝手に生きたい!という誘惑を退けられる人はほとんどいないのではないでしょうか。日頃の自分の生活を見れば、自分がいかに欲望に弱いかわかりますね。
*放蕩の末に困り果てた「弟」
この弟は、財産を使い果たし、そこで大飢饉が起き、豚の世話係にまで身をやつしました(ユダヤ人にとって豚は汚れた生き物で、この仕事は屈辱的です)。欲望を満たそうと躍起になり、神様を平気で忘れ、挙句の果てには苦しむ人間の罪の姿が示されています。神様は、この愚かな弟をこのような困窮と屈辱に追い込むことにより、「あるじ」のもとに居ることがいかに素晴らしいことかを、骨身にしみて悟らせようとなさったのだと思います。
*「天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました」(18・21節)
この試練を通して、この「弟」は、神様に喜ばれるように変えられていきます。欲望まみれの自分の罪を深く自覚して「天にも、父親にも、罪を犯した」と言うと決意しました。そして、その悪い状況を引き延ばさず、惨(みじ)めな自分を晒(さら)しても「あるじ」である父親の元に帰ろうと決意できたのです(18節)。更に次のことが重要です。実際に、この弟は悪い状況から立ち上がり、親元に帰り、決意したとおりに、自分の罪を告白したのです!以前の彼なら、自分の罪さえ自覚しないし、たとえ自覚しても、うやむやに誤魔化し、親元に居座るようになったと想像できます。しかし、欲望に従った生き方の限界を知った弟は、無条件で愛してくれる父親の元で大歓迎を受けても甘えずに、自分の罪深さをしっかり言い表しました。神様から試練を与えられることによって成長させていただいたのだと思います。
*「神様の憐れみ」
例え話の「あるじ」である「父親」の方に目を向けると、「一日千秋」の思いで毎日毎日待っていたと推測できます。というのは、この弟息子が挫折の末に帰って来た時に「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」(20節)て大歓迎したからです。そして、父親が弟息子を「憐れに思い」(20節)という言葉に注目したいと思います。これは、聖書で語られる神様の御性質の一つです。単なる同情だけではありません。弱い立場で苦しみ、助けを求める人間を放っておけずに、同じ思いになり、その状況を根本的に解決するように実際に働いてくださる、それが「神様の憐れみ」です。ユダヤ教指導者達は神様を恐い冷徹な存在と強調しましたが、神の御子イエス様は、父なる神様の御性質をよく御存じで、この父親に「憐れみ深い父なる神様」の本質を重ねておられます。人間が欲望に引きずられて、本当の「あるじ」である神様の元を離れても忍耐して帰りを待ち続ける御方であり、一方、人間の苦しむ姿には耐えられず、御自分の民として生きる幸いをいつでも授けようと待ち構えていてくださる御方であります。
*「神様の憐れみ」を究極的に示したのが「主の十字架と復活」
今回の話の「兄息子」は直接的には「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(15:2)を例え、「弟息子」は「徴税人や罪人」を例えています。「あるじ」と例えられる「父なる神様」の御心に従い、イエス様は、神様から離れていた「徴税人や罪人」が神様の元に帰りたいと願うように彼らの中に入り、福音を宣べ伝えたのです。ファリサイ派や律法学者達が「自分達は神様側に居る」と言いながら、神様と共にいる恵みを感謝できずにいる姿を、イエス様は「兄息子」の様子で比喩なさいました。一方、イエス様は「神様の憐れみ」を理解して従う御方です。その「主の十字架と復活」こそ、罪に苦しむ人類を救いたいと切望する「神様の憐れみ」ゆえに為された御業です。私達は、その恵みに与って生きることを許され、感謝です!

10月8日の説教要旨 「天の大きな喜び」 牧師 平賀真理子

 エゼキエル書18:21-23 ルカ福音書15:1-10
*はじめに
ルカによる福音書の15章には、3つの例え話が書かれています。皆、教会の中では有名な例え話です。今回は、その1番目と2番目の例え話を学びたいと思います。それは3番目の例え話にもつながります。
*例え話が語られた状況
1つ目の話「見失った羊のたとえ」の内容に入る前に、どのような状況で語られたかが記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1節)のです。徴税人とは、当時この地域を支配したローマ帝国のために、同胞であるユダヤ人から税金を取り立てる仕事をした人のことです。それだけでもユダヤ人達は不快な思いを抱くはずですが、更に「徴税人」の多くは税金の金額よりも多くのお金を徴収し、差額を自分の懐に入れるという不正を行っており、「嫌われても仕方ない人」と見なされていたようです。また、「罪人」は、刑法上の罪よりも宗教上の罪を犯す人々のこと、具体的には安息日の礼拝を守れない人々を指します。農業・漁業・牧畜業に携わる人は仕事柄、自然が相手ですから、安息日に休めることは少なかったと思われます。また、それ以外にもその他の理由で安息日に来られない人々、例えば「娼婦」等も含まれていたようです。これらの人々を「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(1節)は、「神様から遠い、汚れた人々」と見なし、彼等と接すれば「汚れが移る」と言い、彼等を避けるよう教えました。だから、ファリサイ派や律法学者達から見れば、「ラビ(先生の意味)」と呼ばれたイエス様が、「徴税人や罪人と呼ばれる人々」の中に入っていく姿は、自分達の教えに従わない間違った姿勢、または「自分達への反抗」と判断したのです。しかし、イエス様は神の御子ですから、「聖なる御方」であり、「汚れが移る」ことはありません。
それに、ファリサイ派や律法学者達の教えが間違いだと気づかせたかったのでしょう。3つの例え話を語られました。
*2つの例え話が例えていること
まず、1番目、2番目の例え話の例えが具体的には何を指しているかを見てみましょう。「百匹の羊を持っている人」と「銀貨を十枚持っている女」(以降は「あるじ」とまとめて呼びます)は「神様、もしくはその御子イエス様」の例え、「あるじ」が見失った「1匹の羊」や「1枚の銀貨」が「徴税人や罪人」の例え、「99匹の羊」や「9枚の銀貨」は「あるじ」が見失っていない方ということで「ファリサイ派や律法学者」の例えです。(但し、これは、イエス様がファリサイ派や律法学者の考えに合わせた例えです。)そして、「あるじ」が一緒に喜んでほしい「友達や近所の人々」とは「神の天使たち」(10節)や信仰深く生きて天の国にいる「聖徒達」(13:28参照)とも言えるでしょう。
*見失っていた人間を見つけ出した神様の大いなる喜び
私達が理解しやすくなるように、イエス様は人間が見失った物を見つけた時の態度と、神様の態度は同じだと教えてくださっています。よくよく考えれば、人間は神様に創られたのですから、神様の方が源です。神様がそのような御方だからこそ、人間も喜びを分かち合いたいと思うのです。ただ、神様のスケールは人間のものとは比べ物にならないほど大きいので、「見失った物」と例えた「人間」を見出した時の神様の喜びは本当に大きいのだということを、私達は、ここで、再度思い起こしたいと思います。
*神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」こと
神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」ことについて考えたいと思います。神様が過失によって、大事な人間を見失うのでしょうか。そうではありません。人間自らが自己中心の罪に陥ったので、神様から見えなくなってしまったのです。そんな人間を、神様は救い出して御自分との関係
を修復しようとなさった、それが神様の人間に対する「救いの御業」です。
神様が人間を見失ったけれども、御自分から提供してくださった「見つけ出す」方法が、「まず、ユダヤ民族を救い、その救いを世界に広める」ことでした。しかし、それもまた、人間の罪でダメになった時に、神様が新たに救いの方法を考えてくださいました。「救い主をこの世に遣わし、その御業を信じた者が救われ、その救いが全世界に広まる」という方法です。
*「悔い改め」によって、神様に見つけ出された存在の私達
イエス様が福音を宣べ伝えた時の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)でした。救われるために、人間の方でしなければならないことは「悔い改め」です。「今までの、この世の方法、自己中心でいいじゃない!という生き方では救われない!神様の御心に適う生き方がしたい」と思い始めると、やがて、救い主の恵みによって、罪が赦され、神様に見守ってもらえる存在になります。「ファリサイ派や律法学者達」のように、この世では正しいように見えても、人間は誰もが罪深くて、神様からは見失われています。しかし、私達は救い主の恵みを賜って、罪赦され、「神様に見出された存在」とされていることに感謝を献げましょう。

10月1日の説教要旨 「主の弟子として」 牧師 平賀真理子

詩編51:9-19 ルカ福音書14:25-35
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト記20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

9月24日の説教要旨 「神の国への招き」 牧師 平賀真理子

詩編111:1-10 ルカ福音書14:15-24
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
 ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。