「血の責任」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章11-26節 11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。 12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。 13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。 14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。 15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。 16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。 17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。 22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 /nはじめに  イスラエルの宗教指導者達はイエス様に「神への冒涜罪」という有罪判決をくだし、死刑にしてもらう為ローマ総督ピラトに裁判を申し出ました。ロ-マから派遣されていたピラトの責任は、主に治安にありました。当時ローマ帝国の支配体制に不満を持ち、反乱を起こそうとする民衆運動は少なくなかったので、総督はこれらの動きをいち早く見つけて鎮圧することが仕事でした。イスラエルの宗教指導者達はこのことからイエス様を政治犯として、「ユダヤ人の王」と主張したことを訴えました。ユダヤ人の王としてならば、ユダヤを支配する者=ローマ帝国への謀反となるからです。 /nピラトの尋問   ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」とイエス様に尋問しました。イエス様は、確かにユダヤ人の王としてこられました。イスラエルの民の失われた魂を探し求め、神様のもとに連れ戻す使命を担っていました。神の国・神様の支配がイエス様によって到来したのです。選民ユダヤ人が、イエス様をメシア・救い主として受け入れることが、「ユダヤ人の王」の意味する内容でした。  ピラトの質問に対してイエス様は「それはあなたが言っていることですと答えられました。肯定とも否定とも取れるあいまいな表現のように聞こえますが、「あなたが言った通りである。しかし言っているあなた自身はその言葉の本当の意味をわかっていない」ということでしょう。 /nピラトの裁きと失敗  宗教指導者達はイエス様を「ユダヤ人の王」として迎えることを拒否した結果、この裁判で死刑にしようといろいろ訴えましたが、ピラトが不思議に思うほどイエス様は沈黙を通されました。ピラトはこの裁判が、宗教指導者達のねたみによって起されたことを知っていました。ピラトは無実の人間を有罪にすることには抵抗がありました。そこで提案をします。  彼は「恩赦」という妥協の道を提案しました。恩赦は有罪の者を自由にしますが有罪のレッテルを取ることは出来ませんから、訴え出た宗教指導者達は自分達が正当化されることで満足すると考えたのでしょう。一方、無実のイエス様は刑の執行を免れ、ピラトにとっても無実の人を殺さずに済みます。ピラトはこれで決着をはかりたいと考えました。しかしこの提案は、祭司長や長老達に買収された群衆が、恩赦をイエス様ではなくバラバに適用するように求めたことによって失敗しました。 /n群衆の声  イエス様の十字架への道には多くの人々がかかわりましたが、どんな場合でも二つの選択肢が与えられていました。ユダの場合もそうでしたが群衆も又、そうです。わずか一週間もたたない前、エルサレムに入城されたイエス様を「ダビデの子にホサナ。祝福があるように」と歓迎したにもかかわらず今、イエス様の処刑を可能にしたのもこの群衆でした。 /nピラトの妻  19節に、ピラトのもとに妻からの伝言「正しい人に関係しないように」があったと記されています。イエス様を「正しい人」と呼んでいます。聞く耳を持たないイスラエルの民に代わり、外国人ピラトの妻を通して神様の警告をここで聞くことができます。 /n血の責任  ピラトは民衆が暴徒化するのを恐れて「この人の血について私には責任がない」と裁判の責任をユダヤ人に押し付けました。ユダヤ人は「血の責任は、我々と子孫にある。」と答えました。こうして十字架による死刑が確定しました。  2000年後の今日、教会では毎週 使徒信条の告白を通して、ポンテオ・ピラトのなした行為は覚え続けられています。又、救い主に対して盲目であり神の裁きを自らの上に招いた選民ユダヤ人の姿は私達への大きな警告でもあります。人間の罪が交錯する中で、神の御子イエス様は黙々と歩まれました。神様の愛による救いのご計画と、イエス様の神様への従順な歩みこそ、私達の罪を赦し、今日、あらゆる試練や誘惑の中で生きる私達に、平安と恵みを約束する源です。

「ユダの後悔」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章1-10節 1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。 2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。 3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。 6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、 7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。 8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。 9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。 10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」 /nはじめに  ユダを取り上げるのは今年3月と7月に続いて三度目です。二度の礼拝において、ユダはなぜイエス様を裏切る気持になったのか、そして、晩餐の席でイエス様から「裏切る者がいる」と言われた時、ユダはその言葉を自分への警告として聞かず、しようとすることを思いとどまることが出来なかったことについて考えました。そして今日の聖書では、ユダが事態の進展を見て初めて後悔し、「自分は罪を犯した」と認めて、密告の報酬を返して取引を撤回しようとしますが、祭司長達からは「お前の問題だ」と言われ、絶望的後悔からくる不安により首をつって死んでしまった、という出来事がしるされています。 /n有罪判決  ユダの密告は、彼自身の自由な決断によるものでした。彼がこのことを考えた時、どこまで先のことを見通していたのかわかりません。ただ彼の密告と手引きがなかったら、「裁判―有罪判決―やがては死刑へ」の道はこのようにスムーズには運ばなかったでしょう。 ユダは計画通りイエス様をユダヤ当局に引き渡したものの、「後悔した」ということは有罪になることを考えなかったのか、可能性は考えたとしても、現実のことと思えなかったのか、イエス様の有罪判決を聞いた途端それまで眠っていたユダの良心が叫び出したのです。彼は「罪のない人を有罪にさせてしまった」との思いを抑えることが出来ず、祭司長のいる神殿に、密告と手引きの報酬を返しに行きました。自分がこの不正にかかわったという事実を、お金を戻すことで消したかったのでしょう。 /n後悔では赦しは与えられない  ユダは後悔しました。後悔とは、自分と自分の過去ばかりを見つめることです。自分のした失敗を告白し、唯一赦すことの出来るお方のもとに行くことを忘れている姿です。失敗から救いあげて下さる神様を仰ぐことを忘れている姿です。それゆえに、後悔からは新しい将来は見えてきません。後悔は罪に対して全く無力です。ユダは罪に気付いた時、罪の事実を消そうとしました。しかしそれは祭司長たちに拒まれました。「お前の問題だ」と言われ、自分自身で解決しようとした彼は何も出来ず、結果として自分で自分を裁き、希望を見出せず、絶望して自殺したのでした。 /n悔い改めと赦し  罪の問題は赦しの宣言をもって解決します。洗礼時の罪の赦しの宣言は、教会が神様から委託された業として今も継承されています。神様の前での悔い改めがなされぬまま後悔だけの人生が続くとしたら、それは悲惨です。ユダの後悔はユダに新生の道を与えず、ユダから命を奪いました。自分の失敗に耐えられずユダの道を選ぶ人は今も絶えません。 /n祭司長達の内側と外側  祭司長達が受け取ろうとしなかった銀貨30枚を、ユダは神殿に投げ込み立ち去りました。それを拾った祭司長たちは「これは神殿の収入にするわけにはいかない。」と、その銀貨の性質にこだわりました。彼らは、一方では神の子イエス様を殺そうとしながら、他方では、自分達がユダに裏切りの報酬として支払った銀貨に対して「汚れている」と考えたのです。内側では神様を敵にまわしながら、神殿の収入という外側の見える部分に関しては、潔癖であろうとしたのです。 /n失敗しても赦されて生きる  ユダはどうしたら良かったのでしょうか。自分の間違いと愚かさに気づいたら、まずその罪を神様の前に吐き出し告白し、悔い改めて赦しを乞うべきだったでしょう。しかしユダは赦しを求めませんでした。 自分で自分を裁く人は「自分を赦せない」といいますが、聖書にはそのような言葉はありません。「私は、自分で自分を裁くことすらしません。・・・・私を裁くのは主なのです。」(Ⅰコリント4:3)。  イエス様を知らないと言って裏切ったペテロは、その後の悔い改めと、復活したイエス様に出会い、赦され、新しい歩みを始めました。ここに希望があります。

「最高法院における裁判」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章57-68節 57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。 58 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。 59 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。 60 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、 61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。 62 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」 64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」 65 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。 66 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。 67 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、 68 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。 /nはじめに  マタイによる福音書は、イエス・キリストが神の子・救い主メシアであることを証言しています。神様のご計画のもとで、神様から遣わされて、地上に人間として生きられたイエス様は、その正しさのゆえに今や逮捕されて、裁判の席に引っ張り出されたのでした。  当時の宗教的指導者達の依って立つ基盤は、神殿礼拝と律法にありました。すべてのことはそこに権威を置いていました。イエス様はその権威の基盤をおびやかしたのです。それ迄は、律法を完全に守らないと天国には入れないと教えていたのに、イエス様は、律法を外側の見える部分だけを守っても意味がない。内側の心をまず神様に向けるように教えました。安息日に何もしてはいけないとの教えに対しても、イエス様は、安息日であっても病気の人を癒されました。指導者達が軽蔑して付き合わなかった「律法を守れない遊女や取税人達」とイエス様は親しく食事をしました。人々の前でイエス様をわなにかけようと質問する宗教的指導者に対して、その答えをもって、相手を黙らせました。さらに、イエス様のいやしの業などを通して、イエス様の人気は高まるばかりでした。このままでいけば、群衆の心はますます自分達から離れ、神殿と律法を根拠とした自分達の権威は落ちるばかりです。権威を守り抜くためにもイエス様の存在は邪魔です。彼らは正規の手続きを踏んで死刑宣告が出来るように、最高法院で待ち構えていました。 /n最高法院での裁判  この時代、ユダヤはローマの属州に過ぎず、ユダヤには死刑執行権はありません。死刑を承認するのはローマ皇帝から派遣されている総督です。夜の内にユダヤの法廷でイエス様を裁き、有罪との一致した意見をまとめて、夜が明けたらローマ総督へ引き渡す計画でした。最高法院の構成メンバーは祭司、長老、律法学者、それに議長として大祭司がたてられ、合計71人の議会であったようです。初めから死刑にすることが目的の裁判であったため、まず死刑への名目になるような不利な偽証(レビ記24章「神を冒涜するものは誰でもその罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。」が求められました。律法で偽証を禁じているにも拘わらず議会はそれを求めました。最後に二人の証人が出て「この男は神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができると言った」と訴えました。 /n「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。・・イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」(ヨハネ2章)  イエス様が神殿を壊すという意味は、イスラエルの民が神様と争い、神様が遣わされた方を拒否する=「壊す」という意味でした。今まさに、イエス様を裁判にかけることで、神殿の破壊行為が始まっているのです。三日で建て直すとは、三日目に復活することを意味しています。 /n大祭司の問い  偽証や、これらの訴えに対して沈黙を守り続けるイエス様に、議長の大祭司はいらだちました。そして口を開かせる為に、「おまえは神の子、メシアなのか」。と問いました。この問いにイエス様は答えられました。ご自身がまもなく勝利者として神の右に座り、人々を裁くために神の全権を委任されてやって来るということを、ダニエル書7章と、詩篇110編から引用され答えられました。この言葉が「神への冒涜罪」として成立しました。大祭司の質問は大変重要な問いです。もし大祭司が有罪を前提にせず真理を求める者としてこの問いを発したならば、神様の力が働いて正しい裁きが出来たかもしれません。しかし彼は、いかにイエス様を有罪にすることが出来るかを考えていました。重要な問いを発しながら、自分自身の思いを手放さず真実を求める心がない時、聞く耳はなく、イエス様の落ち着きと確信の源を見る目も心もありませんでした。 /nイエス様の主権  イエス様が逮捕された時も、最高法院の裁判においても、イエス様の主権は貫かれています。裁判では、大祭司はイエス様の沈黙にいらだち、又、イエス様の言葉に歯ぎしりし、その場にいた人々もイエス様を侮辱することによって、自分達が優位にたっていることを示そうとしました。そのような空気の中で、イエス様は彼らの言動がどうあろうとも、ただひたすらご自分の道を確信をもって歩かれています。すべては神様のご支配のもとに、神様の救いのご計画が進められていきます。主導者は裁判をおこなっている大祭司ではなく、イエス・キリストです。私達はこのイエス様を信じて従っていくものです。見えることだけに目を向けて、影響されながら生きるのではなく、何が正しく神様の御心にかなう生き方なのか、祈りつつ、神様に教えていただきながら、今週も、イエス様を信じて従う歩みをしていきたいと願うものです。

「イエス・キリストの逮捕」  牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章47-56節 47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。 56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 /nはじめに  本日の聖書箇所には、イエス様がユダヤ当局者から捕えられる場面が描かれています。神の国について宣べ伝えていたイエス様が、どのようなプロセスを経て十字架という極刑につけられて殺されたのか、福音書にはくわしく(26章から7頁にわたり)記されています。つまり福音書の著者が、それほど大事な重要な出来事としてとらえているからにほかなりません。ゲッセマネの祈りを終えられたイエス様は、さきほど迄ご自分の弟子であったユダに先導されて、剣や棒をもって自分を捕えにきた大勢の人々をご覧になりました。大勢でやってきたのは、イエス様が抵抗をすることを想定したからであり、弟子達が徹底抗戦した時に備えてのことでしょう。今朝は逮捕の場面から、四つのことを考えたいと思います。 /nユダの接吻  一つは「ユダの接吻」です。ユダは銀貨30枚と引き換えにイエス様の居場所を密告する約束をしていました。時は過ぎ越しの祭りで、町は巡礼者でごったがえしており、イエス様を捕えることで町が騒ぎになることを恐れたユダヤの当局者は、人に知られず、失敗しないでスムーズにことが運ぶようにしなければなりませんでした。そこで夜を選び、密告者のユダは確実に逮捕者を特定する手段として「接吻」という方法を選びました。この口付けは当時、子弟間の親密な関係をあらわす習慣でありましたから、ユダとイエス様との接吻は、外見的には日常的な自然な姿でありました。 /n「先生、こんばんは」(49節)  「こんばんは」と訳されている原語は「喜びあれ」という意味があり、普通のあいさつ言葉として使われていました。(口語訳では「先生いかがですか」、文語訳では「ラビ、安かれ」)。ヘブル語のシャロームと関係ある言葉だそうです。この相手への挨拶と信頼の表現である接吻とを用いて、ユダは、これまで「主」と呼んでいたイエス様を敵の手に引き渡しました。これが神に敵対するサタンのやり方(不正行為をしても、それが悪の形をとらないやり方)です。 /n弟子の抵抗(大祭司の手下に打ちかかって)  二つには「弟子による抵抗」(51節・ヨハネ福音書ではペテロ)です。ペテロはイエス様と生死を共にする決意を述べていました(「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても・・」)から、この場でもイエス様をお守りするという覚悟だったのでしょう。しかしこの行為はイエス様によって制止されました。ペテロの間違いは、主であるイエス様の「十字架の道への選びと決断」を理解していなかったことが原因です。それは、イエス様の苦闘の祈りを共に出来なかった(眠ってしまった)からです。 /n大勢の群衆  三つには「剣や棒でイエス様を捕えにきた当局者に遣わされた群衆」の姿です。イエス様には武力でしか立ち向かえないという彼らの弱さの表われです。しかも夜ひそかに、です。彼らが正しいことをするのであれば明るい時に堂々とやったでしょう。彼らはそれが出来ませんでした。 /nイエス様の主権  最後に読み取りたいのはイエス様の主権です。「ユダの接吻」では、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われました。(他に、「あなたは何の為にここにいるのか、そのことをやれ」との訳があります)。「弟子の抵抗」に対しては、「願うなら、父は12軍団以上の天使を今すぐにでも送って下さるだろう」と無力だから逮捕されるのではないことを伝え、力をもって力を制する道を止められました。メシア(救い主)が受難の道(十字架への道)を歩むことによって、救いの道が開かれるからです。そして「群衆」に対しては、「なぜ、強盗と同じような捕らえ方をするのか。」とその愚かさを指摘されました。上記の三つのどの場面においてもリードしているのは常にイエス様であり、外見上は権力者の力でイエス様を逮捕しましたが、その中身はイエス様が神様のご計画に従い、十字架の道を選び取ったというイエス様の勝利であり、他の者はすべて神様のご計画に奉仕させられている、ということが示されています。

「福音伝道に必要なもの」 伝道師 平賀真理子

/n[エレミヤ書] 16章16-21節 16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。 17 わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。 18 まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。 19 主よ、わたしの力、わたしの砦/苦難が襲うときの逃れ場よ。あなたのもとに/国々は地の果てから来て言うでしょう。「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。 20 人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」と。 21 それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる/わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。 /n[マルコによる福音書] 1章14-20節 14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 18 二人はすぐに網を捨てて従った。 19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 /nはじめに  今日の新約聖書の箇所は、イエス様が「ガリラヤで伝道を始める」ことと「四人の漁師を弟子にする」内容が書かれています。ここで、イエス様の第一声が明らかになります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。 /n「時は満ち、神の国は近づいた。」  『時』とは「神様が定められた時」という意味があって、ここでは、父なる神が御子を世に遣わし、罪深い人間達すべてを救おうと予めご計画されていた時がついに来た!との宣言です。『神の国は近づいた。』は、イスラエル民族が期待していた、メシアの政治的な国が建てられるということではなく、神の特性である愛の支配が間近に迫っているということで、神と人間、更には人間と人間の関係が御子の働きによって回復するという、本質的な希望にあふれたメッセージなのです。 /n「悔い改めて福音を信じなさい。」  『悔い改めて』は、誤解しやすい言葉です。「してはならないことをしてしまった」「良くない思いを心に抱いてしまった」ことを後悔することや、“反省”して落ち込むことでもありません。神様がイエス様を通して語られた「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから。」という呼びかけに対し、これを受け入れて、応じることを意味します。「悔い改める」の元々の意味は、心を変えるということです。心の向きを変えるとも言えます。神様の呼びかけへの応答は、神様に背いた生き方、即ち、反抗的な生き方、惰性に従った生き方、曲がった生き方などから、方向転換して、信仰を持ってキリストにおける神に向かって生きることです。 /n方向転換  「大きな悔い改め」が求められる時があります。生き方の大いなる方向転換の時です。つまり、イエス様を「主」として「キリスト」として受け入れていく決意をする時です。多くの人はイエス様の御言葉や生き方や聖書を通じてその決意が与えられます。「与えられる」と言いました。これは、聖霊によって与えられるとしか言いようがありません。しかし、神様は神様に向かって生きる人に聖霊を送ってくださるのです。 又、悔い改めは、「大きい悔い改め」の後にも必要になる時があります。人生の大きな選択で悩んでいる時、巧みなサタンの誘惑にあっている時など、多々あります。罪ある私達は、日々、神様に方向を向ける確認をしていないと、それてしまいやすいからです。そんな時こそ聖書を読み、神様に祈っていく態度が必要です。そのことによって聖霊(神の霊)が与えられて、正しい方向へ軌道修正してもらえます。それは大いなる恵みといえます。悔い改めは厳しいもののようにイメージされることがあるかもしれませんが、実は裁きではなく、救いに与る希望の源なのです。 /n「福音を信じなさい。」  福音とは「よき知らせ」という意味です。神の「よき知らせ」=神様が罪の世界に陥った人間を救うべく計画を立ててくださり、御子イエス様をこの世に送り、イエス様の十字架上での死によって、人間すべての罪を贖ってくださったこと、そして、その死にも打ち勝ち、復活されたことで、神様と人間の関係が回復されたこと、又イエス様が人間として歩まれた時にお教えくださった御言葉や癒しの奇跡など、救いの喜びの中身です。神様が私達をいかに愛して下さっているかを切に感じます。イエス様はその証となられるお方です。 /n「信じなさい。」  これは確信を抱くとか、信頼するという意味を含んだ言葉です。「そうである!」と強く思い、それをプラスに受け取っていく意味です。讃美歌や祈りの最後の「アーメン!」は、「まさにそうです!」という意味です。私達は礼拝や信仰生活の中で、神様やイエス様に向かって生きることを肯定され、人生を積極的に歩んでいけるように祝福された存在なのだということを、示されています。 「福音を信じる」こと、それを証することで主に招かれているわけです。 /n弟子の選び  イエス様は、まず御言葉を宣言されましたが、次になさったことは、弟子の獲得でした。地上に基盤を立て、伝道するための礎となる人々を探し出すことでした。神様の御用の為に働くのであれば、イスラエル社会ではレビ族出身者ときまっていました。しかし、イエス様はそんな掟はお構いなしに、旅の途中の通りすがりにその場で働いている人に実に無造作に呼び掛けています。そして、呼び掛けられた二組の兄弟達も、すぐにすべてを捨てて従っています。私のように持ち物が多く未練がましい人間から見れば、彼らの行動はついつい、「本当?」と疑ってしまいます。シモンとアンデレという兄弟の家も、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの家もそれほど貧しいわけでもなく、特に後者のヤコブとヨハネの家は雇い人もいるので、かなりの資産があったのでは?と言われています。でも、四人ともすぐにすべてを(家族も財産も)捨てて「わたしについてきなさい。」というイエス様の呼びかけに従ったのです。シモンとは弟子の筆頭となるペトロのことです。この4人は12使徒に選ばれていますし、その内三人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は核になる弟子として、死んだ娘の蘇生(5:35-43)、山上の変容(9:2-13)、ゲッセマネの祈り(14:32-42)など、重要な場面にイエス様が三人だけ許して立ち合わせておられます。 /n主の召しに答える  二組の兄弟は、主の召しにすぐに答えそれまで積み重ねてきたものすべてを捨てて、主に従うという行動をしました。「主の召しに答える」ということでは、アブラハムやモーセの信仰を思い起こします。主が安住の地に導くことを約束され、それをひたすら信じていけばいいのです。彼らはそう信じ、そう行ない、神様の祝福を得ました。思い煩いの多い私などがその立場になったら、途中の困難に出会うたびに、いちいち立ち止まって動けなくなるな~と予測できます。四人の弟子達は核になる弟子と言いましたが、実は、いろいろ失敗して、イエス様を激しく怒らせたり、絶望させていますし、イエス様の受難の際には逃げ去ってしまっています。しかし、イエス様の復活の後は、悔い改めて、許され、福音伝道に邁進したのです。彼らの歩みは、実にこの点で後に続く信徒の慰めになります。 /n後に続くわたしたち  「イエス様の福音に触れ、従う」という大きな決意をします。「悔い改め」です。「主の教えを学べる立場」になります。これが、「礼拝をささげて、説教を聴き、御言葉の解き明かしを聴く」ことになります。そのような恵みにありながら、時々主の意にそぐわない言動をしてしまいます。「神様に赦しを請う」ため祈ります。イエス様のお働きにより聖霊が働いて、赦しを得、その恵みに感謝します。その「恵みを広めたい」と思うようになり「そのように働く」ものとなります。この一連の流れは一日の単位でも、一週間単位でも、一年単位でも、人の信仰生活上でも起こり得ることです。進んで、失敗しなさいといっているわけではありません。神様に心を向けていれば、必ず聖霊が働いて赦しを得ることができ、力強く歩んでいけることを四人の弟子達が表している、とお伝えしたかったのです。 /n「人間をとる漁師」  今日の聖書に「人間をとる漁師」という表現がでてきます。「漁師」ということで、今日の旧約聖書のエレミヤ書などでは、敵を表現するもので、あまりいい意味はありません。「漁師」ではないのですが、わたしもかつて、この世で、人をとる仕事をしていました。採用係といって、企業に働き口を求めてやってくる学生さん達を選んで採用する仕事です。会社や社会システムの矛盾を疑問に思いながら、「うちの会社はいい会社です。あなたの可能性を高めます」などとあまり思ってもいないことを言わなくてはならず、うそをつかねばならない罪悪感の中で仕事をしていました。会社説明会でも大勢の前で説明する立場になり、「どうせなら真実を語る口にしてほしい」と秘かに願っていました。ちょうど教会の門をたたいた頃でした。  数年たって洗礼を受ける決意を与えられましたが、礼拝だけは守る姿勢で歩んできました。恵みを受けて、このたび、福音宣教の仕事を担わせていただけるようになりました。信仰の基準が高いわけでは全然ありません。この期に及んで御言葉を勉強中です。この世の中にありながら、どうにかこうにか心を神様に向け、なんとか守られたとしかいいようがありません。かつてこの世をアップアップしながら泳ぎつつ、神様の清さと愛の大きさにあこがれつつ、生かしていただいてきた自分を思い出します。 /n福音伝道に必要なもの  仕事やこの世での生活で大変な思いをされている人が多いと思います。しかしそこに埋もれないで、心を神様に向け続けて下さい。イエス様はそのために、あなたを救いに入れるために福音を宣べ伝えて下さったのです。説教題の「福音伝道に必要なもの」。「もの」をひらがなにした理由を話します。二つ意味があります。「物」として、福音伝道に必要な物は「あなたの、神に向けられた心」です。「者」として、福音伝道に必要な者は「福音に触れ、神に心を向け、主に従う決意をした者」です。即ち、神の側につくと決意できた者です。あなたがそうなることを神様は愛を持って待っておられます。

「信仰によって知る」 倉松功先生(前東北学院院長)

/n[詩篇] 14:1-7 1 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。 2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。 4 悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。 5 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。 6 貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。 7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。 /n[ローマの信徒への手紙] 3章21-26節 21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 /nはじめに  前回(4月20日の礼拝説教)、ロマ書1章17節で「神の義とは『福音』である。『イエス・キリスト』である。」ということを学びました。本日の聖書の冒頭には「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」とあります。このことを簡単に申しますと、神の義すなわち福音であるイエス・キリストは、律法とは関係ないけれども、律法を通して(律法を媒介として)理解される、ということです。「神の義」が「正義」を示しているとすれば、律法は神の意志を表しており、それによって証しされるのは当然ですが、どのようにして「律法がキリストを証しする」のか、ということは簡単ではありません。と申しますのは、私達は律法によって必ずしもすぐに罪を告白するとか、キリストを求めるということにならないわけです。そういうことについて今朝は、パウロを通して教えられたいと思います。 /n律法は福音の証人・養育係・目標  21節には、律法は福音(キリスト)の証人となるということが書かれています。パウロは同じことを別の言葉で・・「律法は、私達をキリストのもとへ導く養育係」(ガラテヤ3:24)といっています。さらにもう一つ、パウロは大事なことを言っています・・「キリストは律法の目標であります。」(ロマ10:4)。目標は、「目的」「終わり」「完成」とも訳されます。 /n律法は罪の自覚のみ  どういうふうに律法は養育係、案内役になるかというと、まず第一に、律法はキリストに導く反面教師ということです。「なぜなら、律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(3:20)。律法は反面教師とまでいわなくても、普通には導かない。反対の方向に導くのです。律法は罪の自覚しか生じない。罪の自覚だけなら「証しする」のとは反対です。しかしこれは律法の重要な役割といえます。 /n律法とはどういうものか  モーセの十戒には、律法の全体がよく示されています。前半は「心をつくし、精神をつくし、力をつくして汝の神を愛せよ」=「主を畏れ、従いなさい」という戒めであり、後半の人間に関する戒めは、「汝の父母を敬え」(五戒)以外は、○○してはならないという最小限、最低限の誰もがしてはならないことが書いてあります。この戒めは、どの国民においても法律として犯せば犯罪になる(殺す・姦淫・盗む・偽証・むさぼり)倫理的、社会的な最小限してはならないことであり、最大限何をしなければならないかについては、神を崇め、愛し、神に従うこと、神に仕える。こういうことしか書いてありません。  主イエス・キリストは「自分を愛するように隣人を愛せよ」(レビ記19:18)とおっしゃいました。これが律法の大きな性格・特徴といっていいと思います。あとは一人一人の自由と責任です。これに委ねられている。このような宗教はないでしょう。それだけ聖書は、個人の自由と責任を大切にしている。といっていいでしょう。 /n良心  律法に何が書いてあるかは別として、私達の良心が律法を証しする、律法と同じことをする、ということが付け加わっています。これは日本人として大切なことです。日本には「律法」という言葉はないので、律法がわからない人でも「良心」ならわかります。パウロは「良心が律法を証しする」といっています・・「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ロマ書2:14-15)。律法は良心と同じことです。理性といっていいかもしれません。聖書の教えを持たない者でも、二つの大きな愛の戒め(神を崇め、愛し、神に従う/隣人を愛する)を、良心は知っているのです。たとえ律法をもたない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」 このように良心は、律法の命じる善悪は知っているし、してはならないことも知っています。 /n良心の問題点  ただし良心は一つのことだけ知っているわけではありません。善と悪についても、さまざまなことを知っている。その良心が属する集団、社会、国によって必ずしも同じとはいえないかもしれません。にもかかわらず、「良心」は誰でもが生まれながらにして持っている善悪の基準であるといえます。特に欧米では、良心には「共に知っている善悪の基準」の意味があります。(良心conscience …… con-「共に」/science– scire 「知る」)。「共通の善悪の基準」でありながら、しかし実際にいつ良心の基準が働くかというと、はなはだ始末が悪い。悪いことをした時、自分で気づき、あるいは他人からこっぴどく指摘され、あるいは、多くの人々の前(例:マスコミなど)で明らかにされ、その時始めて良心のうずきを感じることがあります。良心の役割は大変重要であると共に、ある意味では始末が悪い。パウロは自分の心の中で、ある基準に従えばそれでも良いし、又、別の基準に従えば悪く、自分の心の中に良心どうしが訴えたり弁明したりする、と言っています。 /n信仰を通して  しかし良心は、悪を指摘し、間違ったということを自覚せしめますが、罪の自覚を生じるまではいきません。律法はキリストに導く教師・案内係かもしれませんが、すぐはそういきません。パウロはキリストに出会って、キリストの救いをいただいて、「律法は罪の自覚しか生じない」と告白したのではないか、と言わざるを得ません。つまり律法は、神の本来の義である「キリスト」そのものをすぐに証し、教えるのではなくて、信仰を通して初めて、罪を告白する、そのことに至る、そこで初めて「罪の赦し」ということ、「『神の義』とは私達を赦して義とすること」に至るわけです。 /n律法は「義を求めさせる働き」を持つ  このことをキリストの語られる話から考えてみますと、「神の求めている義」というのは、「キリストを告白する」ことでありますけれども、しかし、神の義そのものは、律法によって「神に仕え、神に従うこと」を求めており、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(同18節)と、こういうことを主イエスは神の義としてお示しになっています。  このことをキリストによって受け止めるならば「律法」とは、してはならないことを示すと同時に(様々な形で私共に普通の人間として、悪いこと、間違っていることを自覚させるだけでなくて)、この神の義が、神に仕えること、あるいは天の父が全き者であるように全き者となれ、と、「義を求めさせる働き」をも持っているのではないかと思います。そして最初に申しました「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力を尽くして神に仕えよ、崇めよ」・・こういう事柄は、実は私達にとっては礼拝しかないわけであります。「礼拝」とは神に仕えること、欧米の言葉では「worship service・・神に奉仕する、ひざまずいて神を拝む」という意味です。それを私共がすることをゆるされている。これは最大の戒めを、私共が出来る形で守ることがゆるされているといえるでしょう。 /n全くあれ  「全くあれ」という主イエスの教えは、私共にとっては不可能なことでしょう。但し主イエスが律法の完成者(律法を成就した律法の終り)ですから、キリストにさえ従えばよい、キリストを受け入れさえすればよろしい。神の言葉を受け入れる、神の言葉を聞く、ということによってしか、キリストに聞くこと、全き者に近づくことは出来ません。キリストに聞くという形でキリストに従う時、神を敬い神に仕える礼拝が、旧約新約を通しての最大の神の戒めであり、それを守る、真の礼拝をささげることがいかに重要なことか、が理解されます。ロマ書を通して「律法」と「十戒の前半」そして主イエスの「二つの戒め」から教えられるのです。(文責:佐藤義子)

「ゲッセマネの祈り」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章36-46節 36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 /nはじめに  イエス様は、地上を去る時=「死」が刻一刻と近づいているのをご存じでした。イエス様は殺されるようなことはしておらず、神の国について宣べ伝え、真理を語り、人々を教え、導き、多くの病人をいやされました。何一つ間違ったことをせず、言わず、神様を愛し、隣人を愛することを教え、自ら実践されました。暗闇の中に光としてこられたイエス様です。そのイエス様がこの世の権力者から憎まれ、嫉妬され、敵意を抱かれ、殺意をもたれ、今、ぬきさしならない状況にありました。又、イエス様の行方を探すユダヤ当局者は、弟子の一人ユダにイエス様の居場所を密告させるはずです。残されている自由な時間はもうわずかしかない、という中で、イエス様はその時間を「祈る時」としてゲッセマネと呼ばれる園に弟子達を連れてやってきました。そして、八人の弟子に園の入口で座って待つように言われ、ペテロとヤコブとヨハネの三人を連れて奥に進んでいかれました。イエス様は悲しみ悶え始められ、「私は死ぬばかりに悲しい」と言われました(37-38節)。 /nイエス様の悲しみ  イエス様の、死ぬほど悲しいと悲しまれているその中身は一体何でしょうか。もしイエス様のこの悲しみを私たちが理解できたならば、私達もイエス様のその祈りに、わずかでもあずかれるのではないかと思います。 /n苦難のしもべ  イエス様は十字架の死を、弟子達にあらかじめ予告されておりました。  イエス様はいつも聖書に書かれていることを中心に語られておりましたから、預言書(旧約聖書)の中の、メシア・救い主の記述を読み、ご自身がそのように生きることを使命と考えておられたに違いありません。特に「苦難の僕」で有名なイザヤ書53章を繰り返し繰り返し読まれていたと想像します。その中に以下の言葉があります。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは私達のとがの為であった。彼の受けたこらしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。・・捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。・・彼は自らをつぐないの献げものとした。・・彼は自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられた。多くの人のあやまちを担い、そむいたものの為にとりなしをしたのはこの人であった。」 /n十字架の死の意味  上記の「彼」の部分を「イエス様」に置き換えて読む時、「イエス様の死の意味」が明らかにされます。イエス様は私達人間の罪を神様にとりなし、罪をつぐなう為の犠牲のささげものとして十字架に向かわれるのです。殺される体と流される血潮によって救いの道が開かれるのです。 /n罪をつぐなうために  イエス様にとって十字架はすべてのものを放棄することです。全人類の罪を背負うということは、罪なきイエス様が罪人になることであり、罪人になるということは、神様に敵対する人間になるということです。それは、神様の助けも憐れみも、御子としての特権も捨てることを意味します。さらに宣教のわざを続けることも、弟子達を教え励まし守ることも、もう出来ません。イエス様を待っているのは、罪人として神様から捨てられて、神様の怒りと呪いを受けることです。 /nゲッセマネの祈り >> 「父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし私の願いどおりではなく、御心のままに」。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」 <<  ゲッセマネの祈りは、「父なる神様が十字架という苦悩を自分に与えるならば、この苦悩を受け取ります、父なる神様が苦い杯を自分に手渡すならば、それを飲みます」という服従の祈りです。私達人間の罪の深さを知り、創り主である神様と造られた人間の「罪による断絶の深さ」を知るイエス様は、神様の怒りをご存じでした。「十字架によるとりなし」の道が神様の御心ならば、御心のままに、と祈られました。ここに人間と神様との和解の福音の道が開かれたのです。

「ペテロのつまずき」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章31-35節 31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。 32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。 34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。 /n[マタイによる福音書] 26章69-75節 69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。 70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。 71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。 72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。 73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 /nはじめに  イエス様は過越の食事を弟子達となさった後、祈る為にオリーブ山に向かわれました。その時イエス様は弟子達に大変深刻な言葉を口にされました。それは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」(31節)という言葉でした。たった今、食事の席で、弟子の中から裏切り者が出たと言われ、弟子達は代わる代わる「主よ、まさか私のことでは」と不安にかられて聞いたばかりの、その食事の後の出来事です。今度は「今夜、皆」つまり「弟子全員」がこの後まもなくイエス様につまずくと予告されたのです。 /nつまずく  イエス様につまずくとは、イエス様を信じてこれ迄自分の生涯を託して従ってきた弟子達が、ある障害物(出来事)によってその生き方を中断、もしくはやめる、ということです。イエス様はその根拠として『私は羊飼いを打つ。すると羊の群れは散ってしまう。』(31節)との旧約聖書ゼカリヤ書(13:7)の預言の言葉をあげられました。(注:新共同訳では少し違う訳)。ここでいう「私」とは「父なる神」、「羊飼い」は「イエス・キリスト」、「羊の群れ」は「キリストを信じる弟子集団」を意味します。「羊飼いを打つ」は、イエス様の十字架を意味します。イエス様がこれから進んでいかれる十字架への道に、弟子達は従い続けることが出来ないとの予告です。弟子の中でもリーダー格であったペテロはすかさず応答しました、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と。 /nペテロ  ペテロは聖書に度々登場し、その言動を見る限り正直であり、情熱家であり、失敗もありますがイエス様を愛し慕っている弟子です。以前イエス様から弟子達に向けられた質問「あなたがたは私を何者だというのか」に対して、ペテロはすぐ「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、イエス様からその信仰を大変喜ばれました。しかしその直後、イエス様がご自分の受難と死と復活の話をされた時、「主よ、とんでもない。そんなことがあってはなりません」と、この世的な発想でイエス様の言葉を否定して、イエス様から「サタンよ、引き下がれ」と叱られた弟子です。ペテロは今、イエス様から「あなた方は皆」と、自分も十把ひとからげのように言われたことに対して、そのようにイエス様から思われていることがなさけなく、心外でもあり、不満、不服でした。 /n「たとえ、みんながあなたにつまずいても」  「私は決してつまずきません!」と叫んだペテロにイエス様は「あなたは今夜、にわとりが鳴く前に三度私のことを知らないと言うだろう」と予告されたのです。ペテロは「ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、答えました。 /nペテロの否認(26:69-75)  しかしこの後ペテロは、イエス様が捕縛され、その裁判を待つ大祭司の家の中庭に於いて、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」。「この人は、ナザレのイエスと一緒にいました」。「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉使いでそれがわかる」との敵意とあざけりを含んだ言葉の前で、「何のことをいっているのか私にはわからない」「そんな人は知らない」とイエス様を否認しました。三度目の否認直後、鶏が鳴きました。 /n御言葉に戻って・・。  鶏の声を聞いたペテロは我に返りイエス様の「否認の予告」を思い出し外に出て激しく泣きました。あの時イエス様の言葉を正しく聞くことができなかった・・それは自分の思いが優先したからです。自分の考え、自分の感情、自分の正義感、自分の確信がイエス様の前で自分を白紙にして立つことが出来ず、聞く耳もなかった。だから肉の決心は巧妙な悪魔のわなにかかり、もろくも崩れたのです。イエス様は自分以上に自分のことを知っておられ、自分のつまずきを知りつつも「復活後、あなた方より先にガリラヤに行く」との約束の言葉を残されていかれたのです。ペテロの悔い改めの涙は、イエス様の十字架の死(罪の赦し)と復活(罪への勝利)の約束の成就、さらには約束の聖霊がくだった出来事を通して、ペテロを否認による挫折から立ち上がらせ、大伝道者へと変えていくことになります。

「神の喜び、悪の試み」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書] 42章1-4節 1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。 4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。 /n[マルコによる福音書] 1章9-13節 9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 /nはじめに  今日の聖書は「イエスの受洗」と「荒野の誘惑」という有名な個所です。先週、佐藤牧師を通して聖餐(式)の起源が明かされましたが、今日の前半で洗礼の話をしますので、先週、今週でプロテスタント教会が守っている二つの聖礼典について学ぶことになります。何と恵み深い神様の計らいでしょう! /nガリラヤ  洗礼者ヨハネが民衆に悔い改めを勧め、洗礼を授け、自分は救世主の先導者に過ぎないと証ししていた頃、ガリラヤのナザレの町出身のイエス様がヨハネから洗礼を受けたと書かれています。ガリラヤは首都エルサレムより100キロほど離れた地方です。マルコ福音書では「エルサレム対ガリラヤ」との意図がみられます。エルサレムにはユダヤ教指導者が多く住み、宗教的・政治的中心地でありイエス様を十字架刑に処した町。一方、貧しい人・虐げられている人・本当の意味で救いを待ち望む人々が多くいるであろう地方都市ガリラヤは、イエス様が伝道活動の本拠地とされ、又、復活の後に現れるといわれた町です。自分達は神に選ばれ,律法も守り、汚れた人々を助けるなどもってのほか、自分だけは救いに与りたいと自分中心で自信満々のエルサレムの人々とは全く対照的に、イザヤ書42:2‐3にあるような救世主が、この土地でなら育まれたと想像できます。 /nイエス様の洗礼   モーセの死後、後継者としてカナンの地へイスラエルの民を率いるよう、神様から使命を受けたヨシュアは、上からは主の励ましと導きと御守り、下からはイスラエルの民の励ましと勇敢さと信仰の支え故に、ヨルダン川を渡り、その任を全う出来ました。洗礼は「水に浸る」というのが元々の意味です。イエス様の受洗は、主の選ばれた民をヨルダン川を渡って、約束の救いへと到達させたヨシュアの「喜ばしい知らせ」を連想できます。又、イエス様の受洗はイエス様を信じて歩む私達のよき先例でもあります。私達はイエス様と異なり罪に絡まれた存在です。私達は神様から離された罪ある世界で苦しんで生きていました。その過程は各々違いますが、御言葉に触れ、聖霊によって「洗礼を受けてイエス様を信じる生き方をしたい」と思うようになり、願うようになります。  私は洗礼を受ける前に牧師から「罪ある身が一度死んで、イエス様の十字架と復活にあずかり、新しく生まれ変わり救われる」と学びました。 /n心に適う=良しとする=喜びとなる  イエス様が水から上がられてすぐ天が裂け、霊がご自分に降ってくるのをご覧になり「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神の声が聞こえたとあります。「心に適う」は原語では「良しとする」、もっと発展して「喜びとなる」です。イエス様は、イザヤ書の「主の僕」(42:1-9、49:1-9、50:4‐11、52:13-15)を思い起こし、その立場での責任と栄光と苦しみに思いを馳せられたかもしれません。神の霊を受け,神の子として宣言されたことは、大いなる喜びだったことでしょう。 /n「神の喜び、悪の試み」  サタンの誘惑でなく「悪の試み」と題したのは、イエス様を「神の子」の座から引きずり降ろそうとするサタンの意図を感じたからです。一番お伝えしたいのは、「神の喜び」の宣言があって、それから「悪の試み」にさらされるのであって、「悪の試み」を乗り越えた後の「神の喜び」ではないのです。それはイエス様のみならず信じる者すべてについていえます。まず「神様の選び」(恵み)があります。神様はご自分がお選びになった人に対して「良い。」と思って喜んで下さいます。その大前提に神様の私達への信頼があります。心の定まりにくい私達をも信頼しようとして下さる深い愛です。次に神様の対抗勢力として破壊的エネルギーを持っている悪霊たちが嫉妬に狂ってやってきます。私達は既に福音の喜びにあずかっています。御言葉を聞き、イエス様の歩みを知り、その勝利と栄光の恩恵に浴する恵みを受けています。  今週も、御言葉と祈りの中で何が悪の試みなのかを悟り、神に喜ばれる聖なるいけにえとして自分を献げられるようになりたいと願うものです。

「契約の血」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章26-30節 26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 /nはじめに  聖書においては、「契約」という言葉はとても大切な重要な言葉であり、旧約聖書のヘブル語原典には285回も出てきます。旧約聖書の「旧約」がそもそも「旧い(ふるい)契約」という意味なのです。契約は一人では成り立ちません。私達の社会では契約は人間と人間の間で取り交わされる約束です。旧約聖書では、人間の間の契約のほかに「神と人間との間」に結ばれる契約関係が存在します。神とノアの契約(創世記9章)、神とアブラハムとの契約(同17章)、十戒に代表される神とモーセを通して民と結ばれた契約(出エジプト記20章以下)など、イスラエルは神様との契約のもとで、神の民として、その歴史を歩んできました。 /n契約の締結  司会者に読んでいただいた出エジプト記24章には、神様とモーセの間で執り行われた契約締結の場面が描かれています。民を代表してモーセだけが神様に近付き、契約の内容を聞き、民に聞かせ、民がそれらをすべて受け入れて守ることを約束します。そこでモーセは山のふもとに祭壇を築き、動物のいけにえを捧げます。この時、いけにえに伴う「血」が重要な役割を担います。血の半分は祭壇(目に見えない神様がそこにおられることを現す場所)に注がれます。モーセはここで書き記した契約の内容を民に読み聞かせ、それを聞いた民が「私達は主が語られたことをすべて行い、守ります。」と服従を誓った時、モーセは残りの半分の血を民にふりかけます。血が両者に振りかけられたことにより、契約は正式に締結されました。  日本社会では双方がサインと印鑑を押し(時には割印や捨て印も)て、契約が成立しますが、神様とイスラエルの民の間でかわされる契約は血が重要な役割を果たしていました。又、十戒の前文(出20:2)のように、契約者の神ご自身がどのようなお方であるかが明らかにされています。 /n主の晩餐  今日の聖書は過越の食事の中でのイエス様の言葉が中心です。イエス様は一つのパンを弟子達に分け与える為に裂きました。そして「取って食べなさい。これは私の体である。」と言われ、又、ぶどう酒を渡す時「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人の為に流される私の血、契約の血である。」と言われました。 /n「私の体・私の血」  パンをご自分の体に、ぶどう酒をご自分の血にたとえて、イエス様はここで三つのことを語られています。①「贖罪」、②「代償(身代わり)」③「契約」ということです。 /n①「贖罪(しょくざい)」について  贖罪とは「罪のあがない」ということです。あがないとは「代金を払って買い取ること」です。奴隷の身分から解放し救い出す為に、奴隷の主人にお金を払うことを意味したことから、贖罪とは「罪からの解放と罪からの救い」のことです。「贖う(あがなう)」のヘブル語は三つあり、一つは、土地・財産などが人手に渡ってしまった時、その家の一番近い親族が家をつぶさない為に買い戻す「あがない」。さらに、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったのを神が贖い出して下さった時の「あがない」。二つには「聖別されて神のものとなる」という時の「あがない」。三つには神に牛や羊を犠牲として献げ、そのことを通して人間の罪を赦してもらう「あがない」。 /n②「代償」(多くの人のために流される)について  イエス・キリストがこれから十字架につけられ、そこで流される血は、人間の罪に対する神様の赦しを得る為の、多くの人の為に流される血である、と言われました。 /n③契約について  旧約時代からずっと、エルサレム神殿では毎日動物がほふられ、その犠牲の血によって民の罪の赦しが祈られました。このような旧い契約での「あがない」はここに終了し、イエス様ご自身が十字架上で犠牲の血を流されることによって全人類に罪の赦しの道が開かれました。今や、「信じる者すべて」(ヨハネ3:16)が救われて,永遠の命が与えられています。