「過越の食事」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章14-25節 14 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って 15 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 16 その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。 17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。 18 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。 19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。 20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。 21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。 22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 23 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。 24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。 /nはじめに  過越の食事とは、ユダヤ人にとっては民族の歴史を思い起こす記念の時として大切に守られていました。イスラエル民族の選民としての歩みは、まさに苦難の歴史でありました。その苦難の中で神様の救いの業があらわれたことを、今も生活の中で、親は子供達・孫達へと伝え続けています。ユダヤの三大祭りの一つである過越の祭りの由来については出エジプト記12章に記されていますが、当時エジプトで奴隷であったイスラエルの民を自由にする為に、神様はモーセを遣わしてエジプトの国に災いを下します。エジプト王はイスラエルの民に自由を与えることを頑なに拒み続けますが、十番目の災い・・それはすべての家の長子(長男)の命が奪われる災い・・がエジプト全土を襲った時、イスラエルの民はモーセの言葉に従い、小羊の血を取って家の入口の二本の柱と鴨居に塗ったことなどを通して、その災いが過ぎ越していったという出来事です。エジプト王はこの災いをきっかけに、ついにイスラエルの民を自由の身とさせたのです。 /n過越の食事  この大いなる救いの出来事を子子孫孫にまで伝えるべく、イスラエルの民は毎年、家長を中心に過越の食事を通して先祖の体験を追体験します。ニサンの月(太陽暦では3月から4月)の14日午後、神殿でほふられた小羊を家庭に持ち帰り、日没と共に家の中からすべてのパン種を処分し、祝福を祈り、ブドウ酒を飲み、手を洗い、祈り、苦菜にハロセス(果実とぶどう酒を混ぜて作ったクリーム状のもの・・祖先が奴隷として粘土をこねた苦痛の象徴)をつけ、祈りの後に食し、酵母の入っていない3枚重ねのパン(苦しみのパン)を取り、エジプトでの祖先の苦難を偲び、真ん中のパンの半分をしまい、小羊の肉を取り祈りをささげ、ブドウ酒を注ぎ、子供達が過越の祭りの由来を質問し、家長がテーブルにある苦菜や肉の説明をします。そしてブドウ酒を祝祷し飲み、手を洗い再び祝祷し詩篇113篇114篇を讃美します。次にハロセスを付けた苦菜をパンに添えて食べ、小羊の肉を食べ、パンの半分を取り出し食べます。ブドウ酒を注ぎ感謝して飲み、4度目の杯をあげ、詩篇115編から118篇を賛美して終ります(新聖書大辞典参照)。この伝統は、民族の歩みと信仰をその心にしっかり刻んでいきます。 /nイエス様と弟子達の過越の食事  イエス様は生活共同体である12弟子と共に、過越の食事の時を持ちました。イエス様にとって地上最後となるこの過越の食事は、弟子達の中から裏切り者が出たことを全員に伝える時となりました。 /n「あなたがたの内の一人がわたしを裏切ろうとしている。」  自分の全てを捨ててイエス様を信じ従ってきた弟子達の一人、そして、家族のように生活してきた仲間の一人から裏切り者が出る、とのイエス様の言葉に、一瞬、静寂と息のつまるような重苦しい空気が流れたことでしょう。その後、弟子達は自分ではないと主張すべく「主よ、まさか私のことではないでしょう」と口々に言い始めました。 /n「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が私を裏切る」  イエス様がユダの名前を口になさらなかったのは、ユダの陥った内的な危険が、すべてのものにも迫っていたからでありましょう。すでにユダはこの時、祭司長達にイエス様を引き渡す取り決めをしていました。 /n「だが、裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、・・よかった。」  イエス様は十字架の死の覚悟が出来ておられました。それが父なる神様の意志である以上、引き受けるのみでありました。しかしだからといって、裏切る者の罪は見逃されるわけではなく、神様の裁きを担わなくてはなりません。この時ユダが、自分のなした罪の告白と心からの悔い改めへと方向を変える決断をしたならば、必ずやイエス様から赦しの言葉を聞くことが出来たでしょう。しかし彼は引き返す最後のチャンスを捨てて、自分の選んだ道を突き進んでいきました。  ユダに見るごとく、神様に敵対する力は今もなお猛威をふるって私達を襲ってきます。その力は恐るべきものです。神様が与えて下さった自由な意志(信じる自由・従う自由)を正しく行使出来るように、日々、御言葉と祈りをもって歩みたいと願うものです(エフェソ書6:10-18を心に刻みましょう)。

「高価な香油」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章1-13節 1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」 3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、 4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。 5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。 6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 /nはじめに  26章の1節から5節には、イエス様ご自身による十字架への予告と、祭司長達の殺害計画が並行して語られます。祭司長達は、祭りの期間中にイエス様を捕えれば、人口の膨れ上がったエルサレムで暴動が起きると予想し、この時期を避けようと相談します。彼らの罪ある計画は、いろいろな人間の思いが交錯しながらの計画ですが、それらは、神様のご計画の中に飲み込まれていくのを、私達はこれから見ていくことになります。 /n女性の行為  6節からは場面が変わり、イエス様がベタニア村のシモンの家に行かれた時のことが描かれます。一人の女性が極めて高価な香油の入った石膏(せっこう)のつぼをもって近寄り、食事の席についておられたイエス様の頭に香油をそそぎました。部屋中一杯に良い香りが拡がったことでしょう。これは油としても香水としても、又遺体に塗るのにも用いられたインド産のナルドの香油といわれ、約1年分の年収に匹敵するほどのものでした。この女性が、突然そのような行動に出た動機については何も書いてありません。おそらくこの女性はイエス様をとても尊敬し、慕い、イエス様を自分の出来る最上のおもてなしをもって迎えたいという一筋の思いから出た行為であったと思われます。 /n弟子達の反応  ところが弟子達は、女性の行為を喜ぶのではなく、憤慨(ふんがい)したのです。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。年収に匹敵するような高価な香油を、たった一人の人間に使うより、それを売ってたくさんの貧しい人々を助けた方が良いという弟子達の意見は正論に聞こえます。弟子達は貧しさに耐え、倹約を重ねながらイエス様に従って生きてきたことでしょう。貧しさを知る者は高価なものを粗末にしたり無駄遣いに対して嫌悪感さえ覚えるものです。弟子達は女性が情に流されて、前後をかえりみずに取った行動だと判断しました。 /n「わたしに良いことをしてくれた」(10節)  以前「ぶどう園の労働者のたとえ」を学んだ時、たとえの中で主人は最後に「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それともわたしの気前のよさをねたむのか」と言いましたが、この女性が香油をイエス様にささげたいと願ったその思いは、誰にも止める権利がないことは明らかです。そのことを弟子達は忘れ、あたかも香油の一部が自分の物であるかのように正論をつきつけました。気持のどこかでこの女性のイエス様に対する愛の豊かさに嫉妬していたかもしれません。弟子達の批判・非難は女性の心を傷つけ、苦痛を与えたことでしょう。イエス様は弟子達をたしなめて「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。」(「なぜ、この婦人を苦しめるのか。この婦人は私に美しいことをしてくれたのだ。」別訳)と、言われました。 /n「葬る準備をしてくれた」(12節)  イエス様みずからが女性の行為について、その意味を明らかにされました。「この人は、私を葬る準備をしてくれた。」と言われたのです。当時ユダヤ人は遺体に香油を塗り腐敗臭をおおい)ました。イエス様は十字架から引き下ろされた時、安息日が迫っていた為、香料を添えて亜麻布に包んだだけで墓に納められました(ヨハネ福音書)。安息日明けに、遺体に塗ろうと婦人達が香料と香油を準備していました(ルカ福音書)が、安息日が明けた時には墓は空で、香油がイエス様の遺体に塗られることはありませんでした。この女性は、今、この時、まもなく死に赴かれるイエス様に対して香油を注ぎ、それが葬りの準備とされたのです。 /n「記念として語り伝えられるだろう」(13節)  イエス様の十字架の死は全ての人の救いの為でした。その死を間近にした時、一人の婦人の愛の行為は記念碑となり二千年後の今も語り続けられています。 「(主よ、あなたの)驚くべき知識はわたしを超えあまりにも高くて到達できない。」(詩篇139:6)と、私達は告白します。私達が間違わないで日々歩むためには、イエス様の教えが不可欠です。今週も神様を仰ぎ見つつ、聖霊の導きを信じて歩みたいと願うものです。

「永遠の命にあずかる」 佐藤義子 牧師

/n[マタイによる福音書] 25章31-46節 31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33 羊を右に、山羊を左に置く。 34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 /nはじめに  マタイによる福音書は28章までありますが、その中にイエス様の説教が大きくいって五つあります(①[山上の説教] 5章-7章 ②弟子達を伝道に送り出す[派遣説教]10章 ③種まきのたとえに代表される[たとえによる説教] 13章 ④[正しい教会の在り方についての説教] 19章 ⑤[終末についての説教] 24章-25章)。本日はイエス様の説教の最後の個所にあたります。 /n二つに分けられる  ここには、すべての人は永遠の罰を受ける者と永遠の命を受ける者とに分けられる時が来るということ、そしてその分けられる原則について語られています。当時、羊飼いは羊とヤギを同時に放牧しましたが、夕方になると寒さを嫌う山羊と、新鮮な空気を求める羊とは分離されました。そのように、イエス様が再びやってくる時(終末・再臨)、人間も又、右と左に分けられるとイエス様は語ります。 /n右側に置かれた人達  その時、右側の人達にイエス様は「さあ、私の父に祝福された人達」と呼びかけます。彼らは神様の祝福をいただく人達です。さらに続く言葉は「天地創造の時からお前達に用意されている国を受け継ぎなさい」です。この世界が創られた時から用意されている神の国・天の国に「あなた達は初めから入るように招かれている」という驚くべき内容です。  旧約聖書のエレミヤ書には、エレミヤが神様の言葉を取り次ぐ預言者としての召しを受ける時の神様の言葉があります。「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」との言葉です(1:5)。ここでは更にさかのぼり「天地創造の時からあなた達の為に用意されている神の国を受け継ぐように」といわれています。私達は、自分の命は親の結婚後に初めて可能性が与えられると考えますが、そうではないというのです。天地が創られた時から神の国に招かれる人達が決まっているというのです。神の国を受け継ぐように定められた人達とはどのような人達だというのでしょうか。イエス様は言われます「お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」 /n右側の人達の応答  それを聞いた右側の人々は驚いて、自分達はイエス様に対してそのようなことをした覚えはないといいます。神の御子イエス様がそんな悲惨な中におかれていたとは考えられなかったからです。しかしイエス様は、右側に置かれた人々は、小さな存在であった彼らの隣人達にしたことがイエス様にしたことであり、その人と共にイエス様がおられたと語られます。このことをたとえるならば、幼な子にはいつもかたわらに母親が共にいて、幼な子にしたことは幼な子の母親にしたと同じだといえます。 /nいつも道はふたつ!  左側に置かれた人々に対するイエス様の宣言も、逆の意味で彼らにとって予想外でした。自分達は隣人愛を行なってきたと考えていたからです。しかし「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。とあります。神様に仕えるとは神様の意志を行うことであり、神様の意志は、小さい存在である隣人にも心を開くことです。自分の欲望・自分の満足を求めた隣人愛は「最も小さい者の一人であるイエス様」抜きの愛です。 /n「正しい人達は永遠の命にあずかる」  「正しい人達」とはイエス様を受け入れた人のことです。イエス様を受け入れるとは、イエス様が神様から遣わされて「私の罪に対する赦しを神様から得る為」に十字架にかけられたことを「信じて受け入れる」人のことです。それは、この世の支配から神様の支配のもとに移されて神様の憐れみを豊かにいただくことを意味します。神様の憐れみの中に置かれた者は、イエス様の愛によって心が隣人に向かって開かれ、隣人が助けを必要としていることに気付かされ、押し出されていくのです。

「主の道を整える」 平賀真理子伝道師

/n[イザヤ書] 40章3節 3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 /n[マルコによる福音書] 1章1-8節 1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 /nはじめに  今日、礼拝で御言葉を取り継ぐ任を与えられ、神様に感謝を捧げたいと思います。又、欠けたところの多い私を伝道師として受け入れて下さった仙台南伝道所の兄弟姉妹の皆様に心から感謝しています。月1回の説教を担当させていただくことになり「マルコによる福音書」を選びました。マルコによる福音書は「マタイ福音書」「ルカ福音書」の基本資料にもなっているといわれる「初めての福音書」です。伝道者として初めの一歩を踏み出す私にふさわしいと受け取りました。 /n「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1節)  この言葉はマルコ福音書の本質を最も短くまとめた実に的確な表記です!主イエスが神の子としてこの世で歩みながら、人々に悔い改めを勧め、神の国の到来を告げる、という喜ばしい知らせをもたらして下さったことを明示しています。その御生涯の最期では、人々の罪を贖う為に十字架にかかったけれども死に勝利し、神の支配を勝ち取られたこと、そのこともまた、「よき知らせ」即ち「福音」です。 /n「道を整える」(3節)  道を整える為には具体的にどうすればいいか。もし整えようとする道に草がぼうぼう生えていたら、刈り取るでしょう。ごみが落ちていたら、拾って別のごみ置き場に捨てに行くでしょう。石ころを取り除き,ほうきで地面を念入りに掃き清めるでしょう。地盤が悪かったら踏み固めるでしょう。不要なものは捨て、必要なことは、よりたくさん念を押して行い、計画を順序良く進めるでしょう。「整える」で思い出すことがあります。母教会の先輩(技術コンサルタント)が教会の会報に「整理整頓」について書かれたことです。整理とは,いる物といらない物を分けていらない物を捨てること、整頓とは、いる物を順序良く並べることだとありました。 /n信仰生活の整理整頓  信仰生活においても、いる・いらないを分ける時は明確な基準が必要です。信仰生活の「整理」とは礼拝出席と日々の聖書拝読と朝夕の祈りの死守でしょうか。「整頓」とは、御言葉を心に刻み、折にふれて家族や友人、また落ち込んだ時の自分に対しても、語りかけることができるように準備できることでしょうか。自らの姿勢を問われています。 /n旧約における「主の道を整える」とは・・  イザヤ書40章-55章(第二イザヤ)は、「イスラエルの民が異教の地バビロンでの苦しい捕囚生活からもうすぐ解放される」という慰めに満ちた預言から始まります。3節の「主の為に、荒れ野に道を備え 私達の神の為に、荒れ地に広い道を通せ。」は、故郷エルサレムへ向かって、又、主に向かって、もう一度神殿で礼拝を献げることが出来るように、信仰という道を立て直すことを意味しています。異教の地での偶像礼拝を悔い改め、そのことを公に言い表して、きちんとやめて、全存在をかけて方向転換をし、主なる神のみを信じる生活に立ち帰ることです。 /n新約時代の「主の道を整える」とは・・  「罪を告白し、悔い改めの洗礼を受ける」(4-5節)ことです。聖書によれば、一番大きな罪は主イエスと、御子をこの世に下さった神様を信じることが出来ないことです。洗礼は、罪の告白によって罪が赦された結果もたらされる恵みです。多くの方々がその恵みにあずかってほしいと願っています。私自身、告白前の苦しい締め付けられるような感覚と、祈っていただいた時の解放された自由な感覚は忘れることができません。苦しみから救いへと180度の転換の体験は、主への道を整え、より強い結びつきとなり、主から捕らえられる喜びを得ることができます!今日の聖書では、主イエスはまだ登場せず、洗礼者ヨハネが、あらかじめ、神様が準備していた人として描かれています。「らくだの毛皮に腰に革の帯」という姿は(列王記下1章8節の)エリヤを想起させます。エリヤは、イスラエル民族にとっては、救い主の先駆けとして再び現れると信じられていた人物です。ヨハネ=エリヤとなれば、ヨハネが主イエスを自分の後に来る偉大な方と証言すれば、イエス=メシアとなります。 /n「洗礼者ヨハネは水による洗礼、主イエスは聖霊による洗礼」  洗礼者ヨハネは多くの民衆に水による洗礼を施しています。しかし主イエスの業は、もっと大きいものでした。使徒言行録に記されているように、全生涯を終えられた後、弟子たちに聖霊が降り注いだこと(2章)、聖霊の導きで全世界に福音が広まったこと(全章通じて)が、主イエスのこの世への勝利による、全世界への聖霊による洗礼だと解釈できます。私達は、主イエスの勝利によって、聖霊の恵みの中に浸り続けることができる立場にます。その幸いを認識できるところにいます。恵みの中で、神様との絆を整え、まっすぐにし、より強固なものにするよう求められています。今週も、主を仰ぎ見、感謝する一週間であるよう、祈りたいと思います。

「人生が変わる時」 有馬味付子牧師(東京・練馬キリスト教会)

仙台南伝道所の開設四周年記念感謝礼拝でした。 /n[エレミヤ書] 18章1-11節   1 主からエレミヤに臨んだ言葉。 2 「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」 3 わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。 4 陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。 5 そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。 6 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。 7 あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、 8 もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。 9 またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、 10 わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」 11 今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。」 /n[ルカによる福音書] 19章1-10節 1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 /nはじめに >>  「陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師に向って『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか」(イザヤ書45:9/ 口語訳) 「あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。」(イザヤ29:16/同) << 初めに読んだエレミヤ書(18:1-11)と、上記の御言葉は「私達は陶器師である神様によって造られた粘土の作品にすぎない」ということを教えています。 /n粘土が陶器師を忘れる  私達人間は、神に造られたものであるということをついつい忘れてしまう。そして自分が神様に成り上がってしまう。これが「罪」ということです。自分が神様より偉くなっていますから、神様を自分の都合の良いように利用しようとします。自分の祈りが答えられなかったら「何だ神様は!」と非難するような心境になるのです。そして神様をいい加減に扱うようになります。人よりも自分が偉くなり人を見下げるようになります。人間のもともとの根底には、消すことのできない「自分を誇り、人をバカにし、少しでも人より上にいたい」という気持があります。これが自分ではどうすることも出来ない罪です。「陶器師と造られた粘土」の聖書個所は、私が学生時代に出会って以来、私の心の深く入っていきました。私達一人一人は、本当だったら「ああ、これは失敗だ」と言われて、くしゃくしゃにされ、「ダメだ、これは。造り直しだ」と、粘土の塊の中に投げつけられ、丸められ こねられて、新しい作品に造り変えられても文句のいえない者です。それは、神様のなさることで神様の自由です。 /nけれども・・  そういう私達を、神様は罪を赦して生かして用いていて下さるのです。そのことを思いますとありがたくて感謝で一杯になります。私達が神様に「造られたもの」であることを忘れないで神様に従っていくならば、私達には神様の尽きることのない祝福と平安があります。これが疑いのない事実であるということを、ここにおられる皆様も日々実感していると思います。へりくだって生きる時、本当に神様にしっかり結び合わされているならば、必要のない不安・恐れというものを持たなくて済むのです。 /n忘れることは、神様から切り離されること  しかし私達は「神様に造られたものである」ということをすぐ忘れてしまう。それを忘れると、どんなにお金があり、高い地位にあっても、どんなに権力や権威を手に入れても、基本的に心の奥底に不安と恐れがひそんでいるのです。決して平安がない。自分自身についても、人間関係においても、いつも心が満たされない。それはそうだと思います。「自分の命を造って下さった方を忘れている」ということは、神様から切り離されている。そういう状態ですから平安があるわけがない。生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子供は、お母さんの姿が見えないと大変不安になって泣きだします。そしてお母さんの姿が見えると必死になってお母さんにしがみついていきます。お母さんに抱きしめてもらうとあんなに泣いていたのにニコニコ笑っています。だからといって赤ちゃんはどれだけ自分がお母さんに依存しているのかそんなことは知るはずもありません。大人になった私達もまったく同じです。 /nまことの神様  神様にしがみついていれば、全く何の不安も恐れも持たなくてすむのですが、神様を忘れたり意識的に神様を無視したり神様から切り離された状態にある時、不安や恐れがどんどん広がっていき、それでいて原因が自分にあるということに気がつかない。それに気が付くと又、平安が与えられる。天地を創られたまことの神様、主イエス様を送って下さった真の神様をまだ聞いたこともない・知らないという方は、その不安や恐れがどこからくるのか全く知ることが出来ません。ですから私達は先に神様を知って信じることが出来たのですから、もっとこのことを伝えていく使命が与えられているのです。 /nザアカイ  先ほど読みましたルカ福音書19章10節に「人の子が来たのは、失われた者を尋ね出して救うためである。」とありましたが、この「失われた者」というのは、まさに神様から切り離された状態の中にいる人のことをいっています。神様を認めない状態、神様を無視している状態、神様に背を向けて反抗している状態、これが「罪」ということですけれど、ザアカイはこの「罪」のただ中にいたのです。まったく失われたものであった。しかも自分から失われた者になることを選んだのです。神様を信じて神様に従う生き方を選ぶことも出来た。にもかかわらず取税人という生き方を自分で選び取ったのです。それはお金の為です。 /n取税人  取税人は、この時代、一番人々から嫌われ、憎しみを買った人達です。エリコの町というのは、なつめやしとバルサムという木が生えていて、それを栽培し、又、ばらの花も栽培して高く売れました。ローマ政府にとっては、エリコの町はたくさん税金をおさめる良い町でした。当時の税金は最終的にはローマ政府が受け取っていましたが、徴収は民間に請け負わせていました。請負の権利は投機の対象となり、ローマの金持がその権利を買い落して取税人に集めさせ、自分達は甘い汁だけを吸っている状況でした。(現代も同じような状況があります)。 /n取税人の頭(かしら)ザアカイ  ザアカイはエリコの取税人の頭でした。税金を払う人達は自分達の税額を知ることはできませんでしたので、言われる通り払わねばならず、取税人達は何倍ものお金を納めさせていたのです。人をだまして自分達の利益を得ていたのです。彼らは民族としての仲間を裏切りローマ政府に協力する者でしたから「売国奴」「裏切り者」と呼ばれて心底嫌われていました。ファリサイ人(モーセの律法を厳格に守る人)達は、取税人や罪人(律法を守らない人との意味で社会からも孤立しユダヤ教の会堂からも追い出された人達)が自分の衣にふれることさえ汚れるといやがり避けました。ザアカイには家族もいたでしょう。使用人もいたでしょう。仲間もいたでしょう。しかし本当のところは現代の人に特徴であるという「疎外感」や「孤独」の中で苦しんでいました。お金の為に選んだ道でしたが、神様を無視し神様を切り捨てている状況の中で、ザアカイはイエス様の話を耳にしたのです。 /nイエス様に会いたい  人々はイエス様について「あの人は取税人や罪人と一緒に食事をしている」と非難しました。しかしザアカイはそのうわさを聞いてイエス様にぜひ会いたい、一目見てみたい、とエリコの町に来ると聞いて出かけましたが群衆にさえぎられて見ることができない。そこでザアカイは先廻りをして、いちじく桑の木に登ったのです。ザアカイの気持がこの行動にむき出しになっています。この行動がイエス様の心をとらえました。イエス様は「ザアカイ、急いで下りてきなさい。きょう、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。これはもっと強い意味があって「あなたの救いの為に、私は今日あなたの家に泊まらなければなりません。それが父なる神様の決められたことですから。」これがその意味です。ザアカイは、イエス様のお心を喜んで受け入れました。急いで下りてきた。喜んでイエス様を客として迎え入れた。イエス様の時代は食事を共にするということは、今より何倍も重要な意味をもっていました。 /n食事を共にする  食事を共にすることは、その人を赦し、その人を認め、その人の全てを受け入れることを意味しました。教会で愛餐会が大切にされるのは、このような意味があります。ただ仲良く楽しく食事を一緒にしているだけではありません。今までいがみあっていた人達が食事を共にすることで互いに赦しあい、自分が見下げていた人を悔い改めの心をもって対等に、或いは、尊敬する者として一緒に食事をする。教会で食事を共にすることは本当にどんなに恵まれたことであるか、もう一度今日味わってみたいと思います。ザアカイはイエス様が自分の家の客となって下さったことで、神様の赦しを信じることが出来た。今まで失われていた者が神様との関係のただ中に戻ってきた。ザアカイの人生はこの時変わった。 /n新しい人生  お金の為に、社会から追放されても会堂から閉め出されても、取税人ということにしがみついていたザアカイは、イエス様によってたった今、罪から救われた。ザアカイは湧き上がる大きな喜びで包まれました。ザアカイは罪から救われた時に全く新しい人生を歩み始めたのです。そのあふれでる喜びは「おこない」となってほとばしり出ることになりました。 /nわたしのこと  私が神学校に行きたいと思ったのは高校3年の時ですが「自分の罪」というものが本当にわかった時でした。「祈り会」に出ていた時に、私は何て罪人だろうということがグサっときました。この私の自分ではどうすることも出来ない罪を、イエス様がご自分で十字架にかかってゆるして下さった、イエス様が死んで下さった。それを思うとありがたくてありがたくて感謝で心が一杯になりました。その喜びに満たされた時に、これを一人で私の中でとどめ置いてはいけない!何とかこれを一人でも多くの人に伝えていきたいと思いました。それで神学校にいくことを決心しました。 /n罪から救われると・・  罪から救われるということは、その人に行動する力を与える。救われて暗い穴に隠れる人は絶対にいません。罪を赦され、罪から救われた人は、必ずや他の人の為に何か役に立ちたいと、人を配慮する力が与えられる。私は牧師の家に生まれました。小さい時から人を愛しなさいよ、といわれて育ちました。けれども「愛しなさい」「ねばならない」というのは私は嫌いでした。愛と聞くとイヤという思いでした。しかし自分が罪を赦されたと感じた時に「愛」という言葉がいやでなくなりました。そして人を配慮して生きていく内に「愛」という言葉がだんだん好きになりました。今では「愛」という言葉はこれ以上の言葉はなく、最高の言葉だと思います。キリスト教は神様の愛につきる、と、今気がついています。神様は愛である、ということ、これは本当に嬉しいことです。私はそれがわかった時に、自分の人生が変わりました。 /n本物のクリスチャン  四年前のこの伝道所の開設式の時「本物のクリスチャンを育てる教会でありたい」と話しましたが、本物のクリスチャンとは何だろう。まず「自分は神様に造られたものだ」「神様に造られたものにすぎない」ことをいつも忘れないということです。それはいつも自分の罪を自覚しているということです。第二に、私の罪の為にイエス様が十字架で死んで下さったということをいつもいつも心に覚えているということです。そして何か問題が起こった時(特に人に騙されたり、人に裏切られたりあざむかれた時)にこの事を思い出す。そうすると不思議とその問題をなんなくクリアすることが出来る。非常な強い力が与えられる。イエス様の十字架はそういう力を持っている。第三に、救われた喜びを毎日の生活の中で、行いとして表す。ザアカイは救われた時、即、不正な取り立てなら4倍にして返し、財産の半分を貧しい人の為に使うと言いましたが、そのように即、行いに出る。本物のクリスチャン・・それは、信仰と生活が別々のものに分離してしまってはいない。自分の日々の生活の内に何パーセントイエス様に従っているか、もう一度自分を見つめ直してみたいと思います。 私達の目指すところは、一日の内すべてがイエス様の御心に従う、御心を行うことです。そういう人に成長していきたいなと思います。(文責:佐藤義子)

「持っている人は更に与えられる」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 25章14-30節 14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」 /nはじめに  今日の聖書はイエス様の有名なたとえの一つであるタラントンの話です。ギリシャ語のタラントンは、元来、はかり、量られたものを意味し、それが重量の単位となりましたが、新約聖書の時代にはタラントンは重量と通貨と両方に使われ、1タラントンは6000デナリオンと同じでした(当時1日の賃金が1デナリオンで、1タラントンは約20年分の賃金相当額にあたる)。たとえでは主人が僕達に1タラントン、2タラントン、5タラントンを預けて旅に出ていますが、それぞれ莫大な財産を預けられたことになります。 /n「力に応じて」  三人のしもべに預けられた金額が違うのは「それぞれの力に応じ」(15節)てなされたからでした。主人はしもべ達の力をよく知っていたということです。その内の二人は、主人が出かけると早速行動を起こし、預かったお金を元手に商売を始めて増やしていきました。ところが一タラントンを預けられたしもべは、出て行って穴を掘り、お金を隠してしまいました。 お金を隠すということは使わず、減らさないことでもあります。しかし・・ /n「怠け者の悪いしもべだ」  帰ってきた主人は、このしもべに対して「怠け者」「悪い僕」「役にたたない僕」と言っています。彼が預かっていた一タラントンは取り上げられ、さらに彼は外の暗闇に追い出されました。 /n彼はなぜ預けられたお金を用いようとしなかったのか。  このしもべは、主人が自分に一タラントンものお金を預けていったその理由を考えようとしませんでした。自分に、一タラントンのお金を有効に使える力があることを見抜いて託していった主人の気持ちを理解せず、主人の為に働いてその財産を増やそうとは考えませんでした。彼は主人のことより自分のことを考えたのでしょう。大きな金額のお金を管理することの重荷から、減らす危険から、失敗して怒られる恐れから逃げました。しかも彼は自分のした行為を悪いとは考えず、ご主人に「ご覧下さい。これがあなたのお金です。」と、減らさず返したことを誇らしげに報告しています。確かに彼はご主人のお金を着服しておらず、損害を与えたわけでもありません。しかし彼は預けられたものを有効に用いなかった「怠け者」の「悪い僕」であり、「役にたたない僕」と断定されました。 /n忠実な良いしもべ  このしもべとは対照的に、五タラントンおよびに二タラントン預けられたしもべは、商売をして主人の財産を増やしました。主人は、彼らの報告を聞いて非常に喜びました。二人とも「忠実な僕」と呼ばれて更に今までより多くのものを管理させられ、より重い責任を与えられることになります。何よりも彼らは「主人と一緒に喜んでくれ」と、主人の喜びの中に招かれる光栄に浴します。 /nたとえの意味  このたとえは、直接的には十字架の死を目前にしたイエス様が弟子達に語られたものです。弟子達はイエス様から、イエス様の所有している財産を預けられました。イエス様の財産は、神様の霊であり、神様からいただく言葉であり、神様からくる平和であり、祈りによる神様への近づきです。イエス様の財産を預けられた弟子達は、同時に、イエス様の為に奉仕する義務をも与えられました。この弟子達への委託は使徒達へ、そして教会へ(私達キリスト者へ)と引き継がれています。このたとえは、委託を受けたキリスト者の中に、主人であるイエス様の為に働く者と、自分のことしか考えない者がいることをも教えています。 /n喜びの席に・・  私達は自分に預けられたイエス様からの賜物をよく知り、それを大いに用いて福音が広がっていく為に用いられたいと願います。福音を自分の中だけに閉じ込めて、福音の命を失わせてはなりません。この財産は使えば使うほど増やされていく性質を持っています。自分の持てるすべてが神様からの預かりものであることを知り、それを神様の御用のために用いていただきましょう。そしてご主人の喜びの席に招かれましょう。

「我は汝らを知らず」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 25章1-13節 1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 /nはじめに  ユダヤの結婚式は夜から始まります。聖書にある十人のおとめとは、花嫁の家で、花嫁と共に花婿が迎えに来るのを待っている人たちです。花婿が来る前に、花婿の友人は先ぶれとして花婿の到着を知らせます。これを聞くと花嫁の友人達は途中まで花婿を出迎えて、花嫁のいる場所へ案内し、その後、一行は花婿の家に向かい結婚式と祝宴が行われました。(順序には他の説もあります)。すべては夜行われるので足元を照らす明かりは必需品です。十人のおとめ達はそれぞれ明かりの用意をしていました。 /n花婿の到着が遅れて・・  考えていた以上に花婿の到着が遅れた為、十人のおとめ達は眠ってしまいました。真夜中になってから先ぶれとして遣わされた花婿の友人の声がしました。花婿がまもなく到着します。みな起きて各々持ってきた明かりを点検しましたが明かりはすでに消えかかり、油の補充が必要でした。五人のおとめ達は予備の油を壺に入れて持ってきていましたので、花婿を出迎えたらすぐ出発できる状態でした。ところが他の五人のおとめは予備の油を用意していませんでした。このままでは花婿と一緒に祝宴の場所迄行くことは不可能です。そこで予備の油を持っていたおとめ達に油を少し分けてもらえないかと頼みましたが、みな、自分の分しかないと断られ、結局、店まで油を買いに出ることになりました。 /n不在の間に・・  その間に花婿は到着し、花嫁と五人のおとめ達一行は婚宴の場所へと向かいました。婚宴会場の中に入ったと同時にとびらは閉められました。不審者から婚宴を守る為に、会場には鍵がかけられました。後から婚宴会場についた彼女達は扉をたたきますが、主人から「はっきり言っておく。わたしはお前達を知らない」といわれます。 /nたとえの意味  花婿とは、イエス・キリストのことです。おとめ達とは信仰によってイエス・キリストが来られるという希望と確信に基づいて再臨を待っているキリスト者です。この世の中がどんなに悲惨でも、どんな試練が襲ってきても、神様は歴史を導き、イエス様が私達に対して約束された約束を必ず果たされる日が来るとの希望を与えられているキリスト者です。しかし約束の成就、希望の到来の為には、それを受け取るために必要なもの(油)を切らしてはなりません。 /n用意のないおとめ  予備の油を用意していなかった五人のおとめ達は、油が切れて明かりが消える時のことを考えなかった人達です。彼女達は花婿が来るのを楽しみにし、喜こんで待ち、当然、婚宴の席につけると思い込んでいたでしょう。けれども花婿がついた時に彼女達は共に行くことが出来ませんでした。そして後から追いかけても、扉には鍵がかけられたのです。 /n学ぶこと  神様の前で罪を悔い改め、その罪が赦されたキリスト者は祝宴に招かれて、花婿の到着を待つおとめにたとえられます。しかし招かれていても準備を怠るならば祝宴の席に座ることは出来ないことを、このたとえは警告しています。私達は賢いおとめにならなければなりません。賢いおとめとは来るべきものに対して目を開いており、ただ漫然と生きることをしない人達のことです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(7:21)。とあります。用意の出来ているおとめの一人にしていただく為には、毎週の礼拝に集い、日々、聖書に親しみ、日々祈りを大切にしていくことは不可欠です。婚宴の席に座るのは、扉があいている「今」という時です。神様の恵みと憐れみの中で、私達は賢いおとめとして御言葉に従う者とさせて下さいと祈り願うものです。

「全財産を管理させられる僕」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章45-51節 45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。 46 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 47 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 48 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、 49 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。 50 もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、 51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 /nはじめに  今日の聖書のたとえは、主人が長い旅に出ていて今は留守であるという設定です。僕(しもべ)は、主人がそばにいる内は本当に忠実であるかどうか明らかにはなりません。なぜなら主人の目の届く所では、服従することは当然であり、自分勝手に行動する機会もないからです。けれども、主人が不在になった時、その僕)がどういう(僕)であるか明らかになります。 /n二人のしもべ  この僕(しもべ)は、他の仲間)の世話を託されていたと考えられます。一人の(僕)は決められた時間通りに使用人達に食事を整えました。彼は自分の仕事が目に見える形では他の使用人達の食事の世話であっても、この仕事が主人の家を守る大事な仕事であることを自覚していたでしょう。イエス様は「言われたとおりにしているのを見られる僕)は幸いである」と言われました。「見られる」とは、発見するというような偶発的な意味があります。この「忠実で賢い」僕)は、毎日を同じようにたんたんと自分に委ねられた仕事をしていたにすぎず、命令に服従することが不在の主人に対して自分の忠実さを示すことでありました。「忠実」と訳されている語は、他に「信頼に耐える」「信任を受けている」「真実な」「確実な」とも訳される言葉です。この言葉が名詞になると信仰者となります。又「賢い」は、他に「分別のある」「思慮深い」「慎重な」と訳される言葉です。主人がある日突然に帰宅して、いつも通りに決められた時間に食事の用意をしていたしもべを、イエス様は「幸いである」と祝福し、「はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるに違いない」と言われました。つまり忠実で賢い僕は更に重い責任を任せられるのです。  このたとえを語られた時、イエス様は十字架の死を目前にしておられました。弟子達はイエス様が地上から去られた後、イエス様の言葉を守り、忠実な服従によってイエス様の意志を行い、イエス様が再び来られる日を仰ぎ見て、忠実に賢くふるまうように求められています。イエス様の不在がもたらす誘惑を、弟子達ははっきりと知らなくてはなりません。 /n悪いしもべ  たとえでは、他の(僕)は主人の不在を喜び、その帰りがずっと遅れると考え傲慢になり、あたかも自分が主人かのように振舞い、他の使用人達に暴力をふるいます。更に主人の不在を自分自身のために利用し、あらゆる快楽を喜び楽しもうとします(48節)。しかし主人は彼の不意を襲い、その思い上った支配を終わらせます(50節)。この(僕)は、ただ単に不忠実であるというばかりではなく自分自身をも偽り、自分の生きる時を空しく過ごしたことになります。このような僕)は、偽善者が受ける報いと同じ報いを受けることになると警告しています(51節)。 /n世界史を見る  このような警告をイエス様は弟子達になさいましたが、しかしその後のキリスト教会の歴史を見る時、イエス様の警告された危険がどれほど大きなものであったかを知らされます。イエス様の昇天後、教会の指導者達をはじめとする多くの信仰者達は傲慢になり世界を支配したのでありました。地上の快楽のとりこになることは、再び地上に来られるイエス様を仰ぎ見る視線とは一致しません。 /n私達は・・  今の時代もなお、主人であるイエス様は不在です。教会は、弟子達、使徒達に託された神の国の業を継承し、宣教を委託されています。私達は主人から委託された仕事、すなわちイエス様の言葉を大切にして忠実な服従によってその意志を行っているだろうか。イエス様が再び来られることを待ち望みつつ、その時「幸いなしもべ)」であるかと問うものです。私達は聖書を通して語られるイエス様の言葉、神様の言葉に対して全身で受け止め、本気で信じて従う者にさせていただきたいと願うものです。

「目を覚ましていなさい」  牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章32-44節 32 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 33 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 34 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 /nはじめに  本日の聖書個所から25章にかけて、終末を意識して生きるキリスト者の生き方を、イエス様がたとえをもって教えられています。たとえは七つに及び、本日はその内の三つ(いちじくの葉・ノア・泥棒)を学びます。 /nいちじくのたとえ  パレスチナでは常緑樹の木が多い中で、いちじくの木は冬に葉を落とします。そして春は短く新芽を出すのが他の木よりも遅く、「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたこと」(32節)を知ります。同じように、イエス様の言動を通して新しい時代の到来を知るようにと教えています。さらに、最も堅固にみえるこの天と地も滅びる時を迎えますが、その中で決して滅びることのないイエス様の言葉は、神様との新しいかかわり方が可能となる時代が始まったしるしです。 /nノアのたとえ  ノアの時代、地上で人々は神様の前で堕落し、不法に満ちていました(創世記6:11)。それゆえに地上および人々は洪水によって滅ぼされました。なぜノアは助けられたのでしょうか。聖書はこう伝えています。「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(同9節)。更にヘブル書11章にノアついての記述があります。「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けた時、恐れかしこみながら、自分の家族を救う為に箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(7節)。洪水が起こるその日まで、人々は飲み食いし、めとったり嫁いだりしていたと聖書にあります。聖書は日常生活にのみ心を奪われている人々の危険性を語ります。ノアのたとえを通して学ぶべきことは、洪水を境に救われる者と滅びる者とが峻別されるということです。ノアは(おそらく人々の嘲笑を受けながら、)神に命じられた通り、とてつもない大きな箱舟を来る日も来る日も造り続けました。そしてノアは、友人、知人、近隣の人たちを箱舟に誘ったことでしょう。しかし人々はノアを相手にせず、地上が水浸しになるなど信じなかったに違いありません。それゆえ助かったのはノアとその家族だけでした。  続く40-41節に「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女がうすをひいていれば、一人は連れて行かれもう一人は残される」とあります。畑を耕すとか、うすをひくとかは日常の仕事です。ある神学者は「我々が見るところでは、この二人にはそう差がない。しかし、神の目から見ると、二人の差は決定的である。それは、一人は目覚めており、一人は目覚めていない。恐ろしいことであるが、信じ方が違うということになる。一人は、この世のことに心を失っていない。それは、自分をこの世に渡していないということである。信仰生活は簡単である。問題になるのは、この世に携わっている時、この世に自分を渡しているか、それとも神様に仕えて仕事をしているかである。このことは、天と地の違いがある。その違いの前には、「どんな仕事をしているか」などということは問題ではない。つまらないと思える仕事でも、神様の前に立って仕事をしていれば意義がある。家庭生活でも同じである。」と語っています。 /n泥棒のたとえ  泥棒の侵入があらかじめわかっているならば、誰も絶対に泥棒を家に入れるようなことはしません。ところが泥棒の存在を忘れてうっかり鍵をかけ忘れた所から泥棒は侵入します。ここでは、再臨、終末が突然にやってくることを教えると同時に、キリスト者はその時に備えて、緊張を忘れてはならないことを教えています。 /nだから・・  終末・再臨の時、救われる者と滅びる者とが分かたれます。イエス様は終末の突然性と予測不可能性をあげて「だから目を覚ましていなさい」(42節)と警告されます。私達は毎週日曜日の礼拝にしっかりつながり、天に属する者として、救われる者の道を歩みたいと願っています。その為に、日々、聖書を読む習慣を身に着け、出来る限り聖書の御言葉を心の内にたくわえたいものです。日々、祈りをもって一日を始め、祈りをもって一日を終り、その日に向けて「用意して」(44節)いましょう。

「賜物としての聖霊」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[詩篇] 51:12-14 12 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 13 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。 14 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 /n[使徒言行録] 2章32-42節 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 /nはじめに  本日はペンテコステを記念する礼拝です。50を意味するギリシャ語に由来するペンテコステという言葉は五旬節(五旬祭)とも訳されています。過越しの祭りから数えて50日目にユダヤでは麦の収穫を祝う祭(春の穀物収穫祭)が執り行われて、それをペンテコステと呼んでいました。本日のペンテコステの礼拝は麦の収穫を感謝する礼拝ではなく、もっと特別な、イエス・キリストにかかわる礼拝です。  イエス・キリストは、最後の晩餐(過越しの祭の食事会と思われる)の翌日に十字架にかけられています。そして3日目に復活し、その後40日間にわたって弟子達など人々の前に現れました。そしてやがてイエス・キリストは天に昇る。弟子達は地上に残される・・。そんな状況の中で弟子達はペンテコステの祭りを迎えました。ペンテコステの日の出来事とは一体何であったのか。そしてその日を境にして一体何が変わったのか、ということをご一緒に考えてみたいと思います。 /n40日間とペンテコステの出来事  ペンテコステの日に起きた出来事とそれ迄の40日間の出来事との兼ね合いで考えてみたいと思います。聖書は大きく三つのことを集中して記録しています。第一は、「復活した,ということを弟子達に認識させる」ということに集中しています。たとえば、エマオに行く途上にあった弟子達二人が、イエス・キリストが十字架で死にそして復活したということを聞いたその道すがら、一人の人(復活したイエス・キリスト)が現われましたが、弟子の二人はイエス・キリストと認識することが出来ず、話の中でこんなことを言っています。「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人達が言った通りで、あの方は見当たりませんでした」。それを聞いて、復活したイエス・キリストが、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者達の言ったことすべてを信じられない者達」と嘆いたというのです。この二人の弟子達が「復活したイエス・キリストが実は自分達の横に立って話をしてくれたのだ」と認識出来たのはその日の夜に食事を共に囲んだ時、パンを裂いてもらった時でした(ルカ24:13-)。イエス・キリストが復活したということは弟子達にとってなかなか実感し難い出来事でした。死が終りではなく復活という出来事があるのだ、終末の出来事が先取りとしてこのイエス・キリストに起きた、ということを弟子達はなかなか理解することが出来なかったのでした。 /n第二のこと  集中的に聖書が語っている第二のことは、復活したイエス・キリストの体についてです。あの疑い深いトマスは、自分で指をわき腹のさされた穴に当て、手に打ち付けられた釘の後を触らなければ信じられないと言いました。イエス・キリストは「触りなさい」と言って「<span style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい</span>」(ヨハネ20:27)と語ったあの場面です。あの場面でイエス・キリストは、戸にはみな鍵がかけられてあったのに、真ん中に来て立ったと記されています。しかも彼らと一緒に食事をしたとあります。イエスはシモン・ペテロに「私を愛するか」と問い、ペテロは「はい、私があなたを愛しているのは、あなたがご存知です」と答えると「私の小羊を飼いなさい」と言われたのも、食事が終わった後の場面です(ヨハネ21:15-)。復活したイエス・キリストが、幽霊のような幻影ではなくて触れることが出来、又食事をとる、そのような方である。不思議な出来事、そして常ならぬ姿としてのイエス・キリスト。聖書が集中して語ることは、復活したイエス・キリストがイエス・キリストである、ということと、その姿でありました。 /n第三のこと  集中的に聖書が語っている第三のことは、その復活したイエス・キリストが弟子達に命令を与えたということです。 <span style="font-weight:bold;"> 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>又<span style="font-weight:bold;">、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」</span>そしてイエスは弟子達が見ている前で天に挙げられて、雲のかなたに見えなくなってしまった、と聖書は記しています。イエスはこの言葉を与えて天に昇ってしまった。他方弟子達はこの約束の言葉と共に地上に残されてしまった。そして数日後に巡ってきたのが、ユダヤの祭り・ペンテコステの祭りであったのです。 /nペンテコステの日の出来事  ペンテコステの祭りの日に弟子達は一つ所に集まっていました。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると弟子達は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めたというのです。聞きなれない言葉をしゃべり出す弟子達、それを見て祭りに集まっていたユダヤの人達は「どうも祝いの葡萄酒を飲みすぎて酔っ払っているのではないだろうか」と怪しんだというのです。それを聞いたペテロは毅然として語り始めます。 /nペテロの説教(説教の最後の部分が本日のテキスト)  ペテロは人々に告げます。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。イエス・キリストの死と復活の意味を、ペテロはここではっきりと人々に告げました。周りの人達はぶどう酒に酔って訳の分らない言葉を語り始めていると見ましたが、ペテロは「聖霊が降った」ことの本質的な(内的な)意味をここで明確に示したのです。「あのイエス・キリストはメシアである」と。 /nどうしたら良いのですか?  人々はペテロの説教を聞いて大いに心を打たれ、「兄弟達、私達はどうしたら良いのですか」と聞きました。ペテロは「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」と答えています。これがペンテコステの日に起きた出来事です。 /nこの出来事を境にして何が変わったのか。  「ペテロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(41-42節)。それ迄の弟子達はイエス・キリストの思い出に生きていた120人程の小さな集団でした。しかしこのペンテコステの日の出来事を境にして、特にイエス・キリストの<span style="font-weight:bold;">「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>というあの約束の言葉が動き出した日でもありました。その日に三千人ほどが仲間に加わったとあります。まさに教会が誕生した瞬間でした。 /n教会の存在の原点  さて教会は二千年ほどの時を経て存続しております。エルサレムから見れば地球の反対側に位置する日本にも、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた者達が存在し、使徒の教えである聖書の言葉を聞き、相互の交わりをなし、パンを裂くこと(聖餐式)を守り、祈ることに努めています。聖霊を与えられた弟子達が神の言葉を全世界に告げ知らせた結果、教会は全世界に建て上げられていきました。教会というものが存在すること自体が、「賜物として与えられた聖霊」によって実現されたものでありました。いうならば「教会は賜物としての聖霊それ自体を証しするもの」です。教会こそがまさにイエス・キリストの約束の言葉の実現でありました。ペンテコステを記念するこの朝の礼拝において、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」初代教会のその姿、教会の本来的な姿、存在の原点というものを、今日においても再確認したい。それがペンテコステの礼拝の思いであります。