説教要旨 「そのとき」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章15-31節 15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。 18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。 19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。 21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。 23 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。 24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 25 あなたがたには前もって言っておく。 26 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」 29 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 30 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 31 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 /nはじめに  私達はまだ見ぬことに対して信じることに慎重であり臆病です。この世の中は偽りが横行し、信じていても騙されることが多い為に自分で自分をガードし、与えられるものを警戒します。科学が発達するにつれ、ますます信じるということが困難な時代になっています。その一方で、価値観の多様化がすすみ、いつでもどこにいても簡単に多くの情報を得ることが出来る時代になると一体どこに自分の軸足を置いたらよいのか、何をもって自分の基準とするかが問題になってきます。自分の判断基準を持たない者は、良いか悪いかということさえも周囲を見て数の多い方になびくことになり、そのように生きていると、いつしか自分で判断することが出来なくなるという危険性をはらんできます。 /n教会は聖書を正典として聞く  教会で聖書が語られるのは、聖書がキリスト教の正典だからです。正典(カノン)のもともとの意味はまっすぐな棒、さお、定規という意味です。そこから尺度、基準、原則という意味に使われています。(ラテン語ノルマは規範、標準、模範の意)。教会は、人間が人間として生きていく上でなくてはならない価値基準、判断基準となるべきものがこの「聖書」であることを信じ告白しています。聖書を学ぶならば、神を知り、人間を知り、更に、人間が神に逆らう存在であり、神に許されなければならない存在であり、そのために神は御子イエス・キリストを地上に送って下さり、イエス・キリストは私達に「言葉」を通して神様の救いのご計画を明らかにして下さった、ということを知ることが出来ます。 人間はなぜ生きているのか、人間はどのように生きるべきか、何が正しく何が間違っているのか、世界はどのように創られ、どのように終るのか、そのことがこの一冊の聖書に記されています。 /n終末の予告  イエス様は今日の聖書の個所で、ダニエル書の預言が実現するその時に備えてどうすべきかを教えます。預言の通り、聖なる場所(神殿-現代では教会)を荒らす憎むべき破壊者がこの世界の終りにやってきます。その時すべてをそのままにして先ず逃げることを教えています。悪から逃げる、その破壊者がもたらす災いから逃げる、悪に対してもたらされる神様の裁きから逃げる・・16節では「山に逃げなさい」と教えます。 /n大きな苦難  その時に受けなければならない苦難は、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難(21節)と言われています。この苦難の時を神様は選ばれた人達の為に、ちぢめて下さるともいわれます。この苦難の時、にせもののメシア(救い主)や、にせものの預言者が表れて大きなしるしや不思議なわざを行ない人々を惑わそうとします。(にせものでも、大きなしるしや不思議な業は行なえることに注意!) /n再臨の予告  本物のメシアであるイエス様は「稲妻がひらめき渡る」ように、誰の目にも明らかなかたちで来ます。再臨の時、天変地異が起こります。イエス・キリストがこの地上に来た時にはベツレヘムの馬小屋でひっそりと誕生され、地上の生活においても栄光を直接現わすことはありませんでした。しかし再臨の時には、大いなる力と栄光を帯びて来られます。「天の雲にのって」(30節)とは神様の臨在を表す表現です。その時神様から選ばれた人達(信仰を与えられた者達)が天使によって呼び集められる(31節)との言葉で予告は閉じられています。 /n希望  神様を信じる者は神様の所有とされ、この世の終りの日にイエス様のもとに一つに集められるという約束(希望)を聞き,信じる者は幸いです。「知恵ある心を得ることができますように(詩篇90:12)」と祈りましょう。

説教要旨 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章3-14節 3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」 /nはじめに  神殿を出られたイエス様がオリーブ山に座っておられた時、弟子達が近付いて来て終末はいつ起こるのか、どんな前兆があるのかを「ひそかに」質問しました。本日の聖書個所から25章にかけて、その質問に答える形で弟子達だけに向けられた説教が記されています。 /n初めと終り  すべての事柄には初めがあり、そして終りがあります(入学式-卒業式、就職-退職、スタート地点-ゴール地点、月初め-月末、新年-年末、誕生―死)。この世界も「天地創造」という初めの時があって、「終末」という終りの時があることを、聖書は当然のように語ります。  終末については旧約聖書(ダニエル書)に預言の記述がありますが、新約聖書にも福音書以外にコリント書、テサロニケ書、ヨハネの黙示録などに記されています。(その内容は必ずしも一致していない為、神学者の間でも議論があり、終末観は人それぞれ違います。終末のイメージは違っても)私達は毎週礼拝の中で、使徒信条「(主は)かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審き給わん」とイエス・キリストの再臨(イエス様が再び来られる)を信じ、告白しています。私達は未来のことを見ることは出来ませんが、聖書の言葉を信じる信仰が与えられ、聖書を通して語られるイエス・キリストの言葉が真実であり真理であることを、聖霊の助けによって確信しています。 /nそのことはいつ起こるのですか  弟子達のこの質問に対して、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使達も子も知らない。ただ父だけがごぞんじである。」(36節)と答えられました。 /n終末にはどんなしるしがあるのですか  この質問に対してイエス様は、にせメシアの出現、戦争の勃発とそのうわさ、各地での飢饉や地震をあげています。又、信仰者に直接ふりかかる災難については、外からの迫害、内からの離脱者、裏切り行為、偽預言者の出現と相互不信、信仰の衰退が予告されます。そしてこれらは世の終りではなく「産みの苦しみの始まり」(8節)と教えられました。戦争・飢饉・地震については、すでに国内・国外において多くの事例があります。偽メシアについても「イエスの方舟」など時折あやしげな教祖の話を耳にします。聖書ではこれらに加え、さらに外からの迫害、それによる多くの人のつまずき、裏切り、人々の間での憎しみ、にせ預言者によるまどわし、不法のはびこり、愛の冷却など、私達にとって厳しい状況が起こることが伝えられます。 /n私達に求められていること  「人に惑わされないように気をつけなさい」(4節)「あわてないように気をつけなさい」(6節)「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)。私達は聖書を通して、このようなことが起こりうることを知らされています。それゆえにこれらの事柄が今、私達の目の前で起こってもそれにまどわされたり振り回されたりしないで冷静に忍耐をもって受け止めるならば「最後まで耐え忍ぶ者」として「救い」が約束されています。 /n終末  終末は時間の世界(歴史)の終わる時です。それは神様のご計画の中で定められた「時」(神の御子イエス・キリストが永遠の世界から時間の世界に入られたように)です。終末に伴うさまざまな苦難は「産みの苦しみの始まり」(8節)といわれていますが、産婦が子供をこの世に送り出す時に陣痛なくしては子供の誕生という喜びにあずかることが出来ないように、この世界の終りの時(それは新しい神の国が開かれる時)に、世界は激しい痛みに襲われるのです。その時に備えて私達は今、信仰を強化しなければなりません。神様の憐れみをいただきながら、どんなことにも耐え忍ぶ力をいただき、愛の二重の戒め「主なる神を愛する」「自分を愛するように隣人を愛する」を大切に歩む者とされたいと願うものです。

説教要旨 「福音の力」 倉松功先生(もと東北学院院長)

/n[詩篇] 71:1-8 1 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 2 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 3 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 4 わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。 5 主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 6 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。 7 多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。 8 わたしの口は賛美に満ち/絶えることなくあなたの輝きをたたえます。 /n[ローマの信徒への手紙] 1章16-17節 1 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 2 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 /nはじめに  「福音」という言葉は良い知らせ・Good News といわれるものです。ロ-マの信徒への手紙の冒頭には、福音とは「御子イエス・キリストに関するもの」(3節)と記され、マルコ福音書には「神の子・イエス・キリストの福音」(1:1)と記されています。「・・の」は所有格ですから、イエス・キリストの持っている福音=イエス・キリストご自身の福音、であり、福音はイエス・キリストと切り離すことが出来ないだけでなく、主イエス・キリストご自身が福音であると理解して良いと思います。 /n福音をイエス・キリストに置き換える  「私は福音を恥としない。福音は・・」という言葉を「私は主イエス・キリストを恥としない。(なぜなら)主イエス・キリストは、・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(16節)と読みますと、主イエス・キリストがもっと具体的に私達に迫ってくると思います。 /n救いをもたらす神の力  この言葉はイエス・キリストの内容、イエス・キリストがどういう御方であるかを最も簡潔に語った言葉ではないかと思います。「救い」という言葉は、一人一人違うのでよくわからない言葉です。その人がどういうふうに救われたか、その人の救いがどうなっているのか、その人の救いがどのように起こったのか、わかりません。実際、福音書を読みましても「中風の患者が救われた」「ヤイロの娘が救われた」と具体的にありますが、それぞれ状況が違い、その人の生きている中でどういう救いが起こったのか外からはなかなかわかりません。そういう中で福音書には、「罪よりの救い」「死の体からの救い」「命を救う」との表現が多いのではないかと思います。具体的に一つの例を見ていきたいと思います。 /nザアカイの例(ルカ福音書19章)  「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)。(「今日、救いがこの家に起こった」と訳すこともできる。)この言葉は、主イエスに向かってザアカイが示した態度を主イエスがご覧になって語った言葉です。 それはザアカイの「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)します。又、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」という告白に対してでした。ザアカイは徴税人で、同胞のユダヤ人からローマの占領軍の為に税金を集める仕事をうけ負っていました。徴税人は家族の生活の為、税金を上乗せして集めていましたから、人々からは罪深い男と見られていました。その彼が「半分を貧しい人々に施します」と告白したのです。これは大変具体的な告白です。「新しい人になろうとする」「これまでと違った生活をしようとする」その力一杯のザアカイの生活の中で出来た、「新しい人になること」を決意している告白の言葉であるといえると思います。 /n悔い改め  「誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」この言葉は、疑わしい生活の中にあったザアカイの持っていた罪の意識(これでは駄目だ。やむを得ないかもしれないけれど、これではダメという罪の自覚)を含んだざんげの気持が入っている悔い改めの言葉だと思います。新しい生活への決意、それはざんげの言葉と一緒になってザアカイから主イエスに告白の言葉として告げられたものです。 /n「今日、救いがこの家に来た」  この前後の関係を見ると、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」との主イエスの言葉があります。ザアカイのざんげは、この主イエスのザアカイに対する熱い心(愛といっても良い)が、告白をうながしたことは間違いないでしょう。「今日、救いがこの家に来た」と、救いをもたらした主イエス、そこに「福音・救いの力」というものが表れていると見ることができるように思います。「福音」というのは人間を新しくする。「新しくする」というのは主イエスによってもたらされる神の救いの力によって「新しくされる」。そこに福音が表れる。力である主イエス・キリストがそこに立っておられる、来ておられる、ということです。 /n「福音には、神の義が啓示されている」(17節)  「福音=主イエス・キリストには神の義が表れている。明らかに示されている。」といえます。「キリストにおいて明らかにされた神の義」とはどういうものであったでしょうか。それを一言で説明しているのが讃美歌262番「十字架のもとぞ いと安けき、神の義と愛の合えるところ(一緒になっている)」です。この神の義は、福音のもとに表れる(正義がそこに現れる)、或いは、悪を裁き罪をこらしめるということにとどまらず、神の義と愛が一緒になっている。つまり神の義がイエス・キリストに表れるということは、敵をも愛し、罪をも赦す。そういう愛、救いの力と同時に神の義が表れている。それがイエス・キリストに表れた神の義でしょう。 /nザアカイに見る神の義と神の愛  別の見方をすれば、イエス・キリストにおいて神の義と愛があらわれているということがザアカイに見た救いに具体化されている、といえないでしょうか。ザアカイの「四倍にして返す」というざんげ・・それはまさに、神の義が直接ザアカイの生活の中に反映しているともいえましょう。そして「財産の半分を施す」は、キリストの愛に基づく新しい生活への歩みを示しているといえましょう。神の裁き「正義」というものと、「神の愛」によってうながされた人間の在り方、というものがザアカイに反映しているといえます。「福音に神の義が表れる」ということはそういうことです。実際、「主イエス・キリストにおいて神の義が表れる」ということは大変重要な言葉であって、宗教改革はこの言葉から始まりました。ルターは詩編71篇の2節をロマ書1章17節のこの言葉を媒介にして理解し、それによって宗教改革へとうながされました。 /n「恵みの御業(みわざ)によって助け、逃れさせてください。」(詩篇71:2)  口語訳聖書はこの個所を「あなたの義をもって私を助け、私を救い出して下さい」と訳しています。つまり原語は、神の「義」とも「恵み」とも訳される言葉です。宗教改革は「神の義」がイエス・キリスト(福音)に表われる時に、罪人である私共を赦して義として下さる「神の愛」が表れる、と理解することから始まりました。それは神の愛、恵みの業が神の義とも訳されると同じように、聖書全体を通した神の救いの力を表現した言葉です。 /n「それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(17節後半)  17節前半は、イエス・キリストにおける事柄、後半は私共に対する主イエス・キリストに表れた福音との関係について語っています。「神の義は信仰を通して実現される」。ここに私共の立つ立場、イエス・キリストへの私共の対し方が出ていると思います。福音が主イエス・キリストである。主イエス・キリストに神の義が表れている。そのイエス・キリストに対する信頼、と理解することが出来ます。ザアカイはイエスキリストを信頼した。「ぜひ、あなたの家の客になりたい」と言ったイエス・キリストを受け入れた。「私はあなたを迎えるのにふさわしくない」という言葉は出ていません。「罪を赦してザアカイを受け入れ客となる」イエス・キリストを素直に受け入れた。信仰とは信頼です。17節後半は「初めから終わりまで信仰を通して、福音であるイエス・キリストは私共の中に受け入れられていく。それは主イエスに対する信頼に他ならない。」といえます。キリストにおいて明らかにされた神の義は悪や罪を裁くと同時に罪人への愛を示している。それが救いの力です。 /n「正しい者は信仰によって生きる」  「正しい者」とは主イエス・キリストを信頼することによって、救いの力を信頼することによって正しい者とされた者です。主イエス・キリストは私共に(丁度ザアカイの時のように)近づいてこられます。「二・三人集まる所には私もその中にいる」(マタイ18:19)といわれるように、御言葉を通して私達に迫ってくる主イエスです。そういう主イエスによって呼び起こされるのが主イエスに対する信頼です。信頼である信仰によって新しくされる。信頼によって私共は生涯を歩むことがゆるされている。そのことがハバクク書に「神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)と記されています。ここでは「正しい者は信仰によって生きる」と書いています。決して私達は初めから正しいわけではありません。誰一人、初めから正しい人はいないのです。キリストが近づくことによって、救いの力によって正しい者とされるのです。それはキリストに対する信頼によって生きることです。それを「神に従う人は信仰によって生きる」と書いているのです。   

説教要旨 「ああ、エルサレム、エルサレム」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 23章37-24章2節 37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。 39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。 2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 /nはじめに  今日の説教題を「ああ、エルサレム、エルサレム」と口語訳聖書から選びました。「ああ」というため息は、その根底に相手への「愛」があり、一生けん命に教えよう、伝えようと努力してきたけれども伝わっていかない、わかってくれないその口惜しさ、嘆き、悲しみが含まれています。 /nエルサレム  イエス様が呼びかけているのは、エルサレム神殿を中心として生活している「神の民として選ばれたイスラエル」の人達です。彼らの歴史は一口にいえば神様への不従順の歴史でした。預言者アモスは「主はこう言われる『ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに私は決してゆるさない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖も後を追った偽りの神によって惑わされたからだ。』」(2:4)。「善を求めよ、悪を求めるな。お前達が生きることができるために。」(5:14)正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。」(5:24)と神の教えに逆らって生きる人々に語りました。預言者イザヤは、イスラエルの国がエジプトの国に頼ろうとした時、「わざわいだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。・・・エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき助けを受けている者は倒れ、みな共に滅びる。」(31:1-2)と語りました。預言者ホセアは、「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。」(12:7)と呼びかけました。 /n偶像崇拝  イスラエルの人々は預言者を通してこうした神様の言葉を聞き、時に悔い改めることもありましたが、しかし再び神様から離れ、目に見える偶像へと走り、悪を行う繰り返しでした。預言者はその時代の人々からは決して歓迎されませんでした。神様が最も嫌われたのは偶像崇拝です。偶像崇拝は神でないものを神とすることです。「国々の偶像は金銀にすぎず人間の手で造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、のどがあっても声をだせない。偶像を造り、それにより頼む者は皆、偶像と同じようになる。」(詩篇115)。 私たちの国日本は、偶像の国といっていいほど、たくさんの偶像があります。私自身子供時代は水神町という水の神様を祭っていた町にすんでいましたし、小学校の修学旅行では鎌倉の大仏を見に行きました。中学校の修学旅行では平泉の中尊寺をみて、高校では京都の仏閣めぐりもしました。しかし詩篇にあるように、偶像は何にも言いません。偶像から自分の間違いを指摘されることはありません。結果的に自分が思うように行動する。つまり神に祈りながら、自分が神の立場に立ってしまい、自分が基準になっています。 /n何度集めようとしたことか  イエス様は、37節で、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前達は応じようとしなかった。」と過去のこれまでの不従順の歩みを嘆いています。めんどりがひなを集めるという表現は、親鳥がひなに食物を与え、安全なねぐらと、外敵から保護するという神様の守りをあらわす言葉であり、イザヤ書には「つばさを広げた鳥のように、万軍の主は、そのように、シオンの山とその丘の上に降ってたたかわれる。」とあります。このイエス様の「何度集めようとしたことか」という言葉の中に、イスラエルの長い歴史の中で、神様がイスラエルの民を愛し預言者を送り神様の言葉を語り続けてきたこと、そして今、最後に、預言者ではなく、神の御子イエス様を遣わされて、こうしてあなたがたに神様からのメッセージを伝え続けてきたけれど、あなたがたは、私をそして私の父・神をかたくなに拒み続けた、という悲痛な思いが伝わってきます。 /nその結果・・  その結果、彼らは38節で裁きが宣告されます。「見よ、お前達の家は見捨てられて荒れ果てる」と。ここに、ユダヤ教の歴史的な使命が終わったことが宣言されているのです。  24章の一節には、神殿の境内を出ていく時弟子達が神殿の建物を指差したとあります。他の福音書では弟子の一人が、「先生、ご覧下さい。何とすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう。」と感嘆の声をあげていることが記されています。このエルサレム神殿は、ヘロデ大王が建てたものですが、それまでの規模の二倍のものを作ろうと、紀元前20年に着工されたものでした。神殿の境内の外側には、南北450m東西300mの回廊がめぐらせてあり、神殿は、長さ12m,高さ4m,幅6mの堅い白亜の大理石で作られ、前の部分は金でおおわれ、朝日が昇ると、さんぜんと輝く神殿を、巡礼者たちは大きな感動で仰ぎ見たそうです。神殿の中には、トーラーと呼ばれる律法が置かれ、そこは神とイスラエルの民との契約が証されている場所でもありました。人々は、エルサレムの都は、神の永遠の契約の保護のもとにあることを信じて疑いませんでした。けれども、神殿の完成が紀元64年と、じつに84年の歳月をかけて完成したエルサレム神殿は、そのわずか6年後にイエス様の予告通り滅ぼされるのです(紀元70年にローマによって)。同じ節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると」とあります。この「出ていく」という聖句は、イエス様が神殿からいなくなった後、神殿は空虚な場所となってしまった、ということを伝える象徴的な言葉として読まれています。どんなに人々が集まろうと、どんなに祈りがささげられようと、ファリサイ派や律法学者たちの権威のもとで教えられるユダヤ教は、預言者たちを殺し、神の御子イエス・キリストを拒み、決して信じようとしないかたくなさと共に、律法の内実をないがしろにして、見える部分だけを美しく飾ろうとする偽善の宗教へと堕落し、ついに神不在の神殿宗教となりました。 /n今や、キリスト教徒が「神の民」を継承  イエス様を信じる時、神様の臨在がそこにあります。神の声は直接聞こえなくても、神の言葉である聖書が私たちの道しるべです。聖書の言葉を私達が豊かに蓄えれば蓄えるほど、必要に応じて、聖霊の働きと共に、その御言葉が神様の言葉として聞こえてきます。この経験を繰り返すことで、神様が近くにおられることを知ることができます。神様が私達と共におられることを知るならば、祈りも又、いつでもどんな時でもたやすく口から出てくるでしょう。多くの日本人が、一年に一度だけ初詣にいって祈るのとは対照的に、私達は毎日何回でも自由に祈ります。朝に一日を恵みの中で過ごせるように祈り、日中は助けが必要な度に祈り、夕べには一日が守られた感謝の祈りをささげます。助けを必要とするとき、(たとえば、自分の怒りを鎮めてください、ショックから立ち上がらせて下さい。やさしい気持ちを与えて下さい、意欲を増し加えて下さい。誤解がとけるように、気持ちが通じるように、など)神様を仰ぎ見て祈ります。  私達は、イエス様の悲痛な嘆きと愛を今日の聖書から知ることが出来ました。今一度、私達の生きる生き方を真剣に問い直し、イエス様がその生涯を通して教えてくださった神様を信じて生きる道を、これからも喜びをもって学びつつ歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「偽善者は不幸だ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 23章13-36節 13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 14 *学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。 15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。 18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。 20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。 21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。 22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。 23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。 25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。 27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。 29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。 30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。 31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。 33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。 34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。 35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。 36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」 /nはじめに  今日の聖書は、山上の説教とは全く対照的にイエス様の言葉とは思えないほど激しく、そして厳しい言葉が続いています。口語訳聖書では「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」と訳されています。ある人は、この「わざわい」という言葉は、雷のようなきびしさをもって圧倒し、電光のような明るさをもって容赦なく露出する。これは打ちのめすと同時に、隠れたものを明るみに出すと書いています。この災いというギリシャ語には、怒りと悲しみが含まれているといいます。 /n偽善者  イエス様は律法学者とファリサイ派の人々を「偽善者」と呼びました。この言葉はギリシャ古典劇の主演俳優から、やがて役者をあらわすようになり、演技をする者-仮面をかぶる者-みせかけ-偽善-となりました。イエス様が彼らを偽善者と呼んだのは、神様を観客席において仮面芝居を演じているという意味です。 /n偽善の中身  第一には、天の国について語りながら、自分も入らず入ろうとする人をも入らせない。第二には、異教徒をユダヤ教徒にしようと一生懸命だが、彼らがユダヤ教に改宗すると自分より悪い地獄の子にしてしまう。第三には、「責任回避・言い逃れ」の論理。第四には、収入、収穫の十分の一の献げものについての律法を守ることには細心の注意をはらいながら、他方、律法の教える最も重要な正義や慈悲、誠実については気にとめない。第五には、儀式的なきよめの規定に基づいて、器の外側をきれいにするように主張するが、彼ら自身は、見える外側と見えない内側が全く相反していること、第六も、彼らの矛盾点(白く塗られた墓のように、外部の美しさと内部の汚れを合わせ持っている点。そして最後の指摘は、彼らの過去と現在を問題にします。彼らは、殺害された預言者達をいかに尊敬しているかを示す為に、墓を建てたり記念碑を作ったり飾りたてたりしました。そして自分達がその時代に生きていたら、殺す側にはつかなかっただろうと言いました。イエス様は、それらの行為は彼らが殺人者の子孫であることを告白しているだけでなく、現在もキリスト教会が送りだしている預言者を迫害して殺している、と断罪します。 /n「へびよ、まむしの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」(33節)  イエス様は当時の宗教的リーダーであり、権威をもっていた律法学者とファリサイ派に対する悔い改めへの希望を放棄されました。もはや、彼らに忠告することは出来ず、彼らは裁きを逃れることはできません。イスラエルの歴史においては正しい人の血が流されてきました。その血痕が今も消えていないとイエス様は語ります(35節のアベルについては創世記4章・ゼカルヤについては歴代誌下24章を参照)。彼らの歴史は最初から最後まで神の人を排斥し殺害した歴史といえるでしょう。イエス様はご自分がやがて殺され、さらにその後も弟子達が迫害され、殺されるのを知っておられました。神様がイスラエルの民を選ばれたのに、その民が神様に逆らい、それ故、その血の報復がここで預言されているのです。 /nわたしたちの進む道  聖書は美しい言葉で綴られている文学ではありません。時には目をそむけたくなるような人間の罪が暴露され裁きが述べられます。聖書の光によって自分の罪が照らし出された時、私達にもファリサイ派と同じような偽善性があるという事実を厳粛に認めざるを得ません。その時、悔い改めてイエス様を信じる道へと方向転換(又は軌道修正)し、イエス様に従っていくことができる者は幸いです。それは天の国へつながる道を歩くことになり、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を与えられる道でもあります。「私は道であり、真理であり命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章)「イエス・キリスト以外のほかの誰によっても、救いは得られない。」(使徒4章)。  ここにおられるすべての方が、信じる者の道へと歩みだされることを願い、内側と、外側の二重の基準で自己矛盾を抱えるのでなく、聖霊の助けをいただきながら、いつも神様の前で生きることができるように祈りつつ、今週も歩みたいと願うものです。

説教要旨 「高ぶる者は低くされる」 牧師 佐藤義子

/n[サムエル記上] 2章1-10節 1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。 2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。 3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。 4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。 5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。 6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。 7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。 8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。 9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。 10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」 /n[マタイによる福音書] 23章1-12節 1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 /nはじめに  本日の聖書は、イエス様が群衆と弟子達に対して、律法学者達やファリサイ派の人々を見倣ってはならないことを教えられている個所です。私達はファリサイ派や律法学者と聞くと、彼らはイエス様を十字架へ追いやっていくイエス様に敵対した人々と考えて、自分とは関係のない人々と思いがちです。けれどもイエス様が彼らのどのようなところを断罪されたのかに注目し、それは自分にもあてはまると認めることができるならば、聖書の学びは私達に大きな意味をもってくるに違いありません。実際、キリスト教会においても、ファリサイ派(ユダヤ教徒)に匹敵するほどの危険な人達が現れて、マタイ福音書の著者は彼ら達に警告を発しなければならなかった、と考えられているからです。 /n「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」  イエス様は、律法学者やファリサイ派の言うことは行うように教えます。なぜなら彼らの教える律法は、神様がモーセを通して与えたものであるからです。律法とはモーセの十戒を中心とした教えです。イエス様は「私が来たのは律法を廃止する為ではなく完成する為である」(マタイ5:17)といわれ、さらに「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(同18)ともいわれました。律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することです。 /n「しかし、彼らの行いは、見倣(みなら)ってはならない。」  イエス様は彼らの行動を見倣うことを禁じます。なぜなら彼らは言行不一致であるからです。たとえば十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:8)とあります。律法学者やファリサイ派は、この戒めを厳格に守らせる為に、どこまでを「仕事」と規定するかを研究し、荷物を持って運ぶ場合は何キロまで、移動する場合は何メートルまで、・・というふうに、次第に細かい規定を作り上げ、エスカレートしていくことで、律法の重荷を重くしていきました。 /n「彼らは背負いきれない重荷を人の肩に載せる」  彼らは、すべき規則248、禁止条項365、計613もの細則を人々に強いたと伝えられています。初めから律法を守る意志のない人達は、罪人として社会から疎外されたようですが、律法を守ることが天国への道だと教えられている人々にとっては実行不可能な規則も多く、それが人々の日常生活の重荷になっていた現実がありました。 /n「そのすることは、すべて人に見せるため」  彼らは、人には律法遵守(じゅんしゅ)を要求しながら、自分は重荷を背負うことも、他の人の重荷を助けようともせず、何よりもイエス様が断罪されたのは律法を行う動機が人に見せる為であったことです。 /n生れながらの人間  聖書学者バークレーは、もし宗教が規則や規定を守ることだけを要求するなら、自分がそれをどんなによく守っているか、自分はどんなに敬虔な人間であるかを人前に示そうとする人物が必ず現れるといいました。目立ちたい、ほめられたい、認められたい、尊敬されたいという願いが強ければ強いほど、人の目を意識する誘惑に陥ります。生れながらの人間は、自分を自分以上に評価したい、されたいとの願いを持っています。その思いが「行動の基準を、外面に出る部分に置く」のです。本来、律法を守る事は神様に向かう人間の信仰から生まれる行為です。にもかかわらず、律法を守る行為が自己目的へと変わり、人々の賞賛が自分に集まることを期待するという逆転が起こるのです。 /n逆転の行動  当時人々は律法に従い、羊皮紙に書かれた4つの聖句(出エジプト記13:1-10,11-16、申命記6:4-9、11:13-21)の入った小箱をひもで結び、祈る時にひたいと左の腕につけ、又、肩掛けのようなものに青いひもでふさをつけて祈りました。イエス様は「(彼らは)小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」と、その目が人に向けられていることを指摘しました。このように、イエス様は私達の中にひそむ偽善的な部分に光をあてます。神のみを父としイエス様だけを教師として(9-10節)、へりくだりを教えて下さるイエス様に、今週も従うものになりたいと願います。

イースター礼拝 「復活の主に出会う」 原口尚彰先生(東北学院大学

/n[エレミヤ書] 1章11-13節 11 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 12 主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」 13 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」 /n[ヨハネによる福音書] 20章11-18節 11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 /nはじめに  今日は旧約をエレミヤ書から選びました。この個所は預言者エレミヤに神様の言葉が臨み、万国の預言者として立てられるということを語った個所です。そのすぐ後に神様はエレミヤに「何が見えるか」と尋ね、彼は「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」と答え、それに対して神様は「私は、私の言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」と「シャーケード」と「ショーケード」の似通った言葉を用いています。ヘブライ語の「シャーケード」は「目覚めの木」という意味です。アーモンドは春のまだ浅い時期(他の自然がまだ眠っている時期)に、いち早く白い花を咲かせます。一方、「ショーケード」は、主がご自身の言葉の成就・実現に関して「見張る」という意味です。主の言葉を人々の間に語り継がなければならない預言者のつとめは「人々がまだ眠っている時にいち早く起きだして、来るべき主の裁き・主の救いを語る」ことにあります。  早春の自然が冬の眠りからやっと目覚めつつある時期に、私達は主の復活を記念するイースターを祝っているわけですが、私達が置かれている状況と、エレミヤ書が伝えている預言者のつとめがおそらく重なるのではないかという思いを込めて、この個所を選びました。 /n主の復活の証人としてのマグダラのマリア  今日のヨハネ福音書は、主が十字架につけられ亡くなり、墓に葬られ、その後の週の初めの日(日曜日)の早朝、まだ暗い内に、マグダラのマリアが復活の主に出会った有名な出来事が記されています。ヨハネ福音書は特に主の復活の証人としてのマグダラのマリアの役割に強い関心を持ち、そこにスポットライトをあてています。この福音書によれば、主の十字架を見守っていたのはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアでした。主の逮捕の時には男の弟子達はみな逃げ去り、対照的にこの女性達は十字架のもとにとどまり、主の最期を看取る役割を果たします。主が十字架につけられ息を引き取られた後、夕暮れになり安息日の開始が迫っていたので、ユダヤ人の願いによりその遺体は取り下げられました。「遺体を木に架けたまま夜を過ごしてはならない」(申命記21章)と規定があったからです。その後、遺体はユダヤの最高法院議員アリマタヤのヨセフが総督ピラトに引き取り方を願い、新しく造られた墓に納めました。これら一部始終を見守っていたのが女性達です。彼女達は安息日が明けるのを待って朝の暗い内から起きだして墓にやってきたのです。その目的は、香油のつぼを持って主の遺体をねんごろに葬ることにありました。他の福音書では女性は三人いますが、ヨハネ福音書はその中の一人、マグダラのマリアに注目しています。 /n墓で起こったこと  墓のタイプの一つは崖っぷちの所に横穴を掘り、その中に寝台を置き、遺体を寝かせます。エルサレムには二千年前に遡る墓も残っていますが、その扉の入口には車輪のような大きな石が置いてあり、ころがして開けたり閉めたりします。私は試しに墓の石を押してみました。全く動きません。一人の力では動かない。福音書には石が転がしてあり墓は空であったと記されています。つまり主は復活されて墓を出られた。ところが、この光景を目の当たりにしたマリアも、そのことを聞いたペテロや他の弟子達も、墓が空であることの意味を理解しませんでした。つまり主が復活したということを理解し信じるに至っておりません。彼らが確認したことは、墓がからであること。主の遺体はもうなく、ぬけがらのように亜麻布がそこに残されている、ということだけでした。 /n理解できず、信じることができない  「主のご受難そして死と復活」については、エルサレムに向かう途上で、イエスご自身、弟子達に三回も繰り返し教えていました。つまりエルサレムでは祭司長、律法学者、長老達から苦しみを受け、殺され、しかし三日目に復活する、と繰り返し語られていたけれども、死からの復活という超自然的な、日常の我々の経験を超えた事柄に対しては、弟子達といえども理解出来ませんでした。「主の復活」という喜ばしい出来事がそこで起こったにもかかわらず、信じることが出来ない者にとっては依然として悲しみ・恐れが支配していました。マグダラのマリアは、からの墓の前で泣いていました。誰かが自分の慕ってきた主の遺体を持ち去ってしまったと考えました。 /nキリストの顕現  マリアに対して、復活したキリストご自身が姿を現した出来事を伝えているのが今日の聖書の個所です。主の遺体があった所に、二人の白い衣を着た天使がいた。その一人が「婦人よ。なぜ泣いているのか」と尋ねたとあります。天使という超自然的な存在が出てくると大概の人は恐れますがマリアは恐れてはいません。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか私にはわかりません。」そう言っている内に背後に人の気配を感じて振り向くと、そこに復活した主が立っておられました。不思議なことに、マリアはそれがイエスであるとわからなかった。(まだ暗かったので姿がよく見えなかったのだろう。或いは泣いていたので涙で姿がよく見えなかったのだろう。或いは復活した主の姿が生前の主の姿と違っていたのだろう、など色々な可能性があると思いますが聖書は何も語っていません。)主イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」と尋ねられ、マリアは主を墓の番人か何かと勘違いして、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります」  その時、復活の主ご自身が「マリア」と呼びかけると、マリアは「ラボニ(アラム語で先生)」と答えます。この時初めてマリアは目の前に立っているのが復活した主イエスであることがわかりました。この「マリアよ」「ラボニ」というやりとりは、復活の記事の中でも最も印象的なやりとりではないかと思います。 /nはじめは主であるとわからない  主の顕現の物語では、顕現に接した人々は初めそれが主であることが分らない。しかしそれが何らかのきっかけで、何らかのことが手掛かりにそれが主であるとわかり一転して喜びに満たされる。こういう姿を繰り返し伝えています。たとえば20章の後半には復活の主が戸を閉じて立てこもっている弟子達の所に姿を現した出来事が記されていすが、そこでは主はまず、「あなたがたに平和があるように」と挨拶の言葉を語り、その後に手とわき腹の傷跡を見せて、弟子達が初めて主だとわかる。そして彼らは喜びに満たされ、今度は復活の証人として派遣されていきます。又、ルカ福音書24章のエマオ途上の二人の弟子への顕現では、主と一緒に話をしながら歩いている時はそれが主であるとわからず、しかし家の中に入り食事の席で、主がパンをとって感謝の祈りをして割いて分ける姿を見た時に、それが主であることがわかった。ほかにも数多く記されていますが、復活の主の姿に接した人達は、それぞれ違った形で主に出会い、主が生きておられるということを信じるにいたった。喜びに満たされて、そこから復活の証人として出ていくということを告げています。 /n主の復活を信じる  さて、復活の証人達が復活の主に出会った出来事から二千年近い年月がたっています。最初の証人達の姿でもわかるように「主が復活された」「死からよみがえられた」ということを信じることは古代の人達ですら難しかった。そのことは今も昔も変わらないのではないかと思います。21世紀の科学が非常に発展した世界の中で、復活は自然法則に反することですので、世の一般の人々が容易に信じることは出来ません。しかし教会に集い洗礼を受けた私達は、毎週礼拝の中で、使徒信条を唱和しています。その中で「主は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり・・」このように告白しておりますので、主の復活を信じているということが基本的にいえると思います。 /n復活のリアリティ  しかし問題は、「復活した主を信じている」というだけではなくて、「復活した主が今も生きて働いておられる」「教会として働いておられる「私達に語りかけておられる」ということをどれだけリアリティをもって感じることが出来るのか、そこからどれだけ信仰の力を得ることが出来るのか、ということがおそらく問題ではないかと思います。私は以前(神学生時代)、赤星進という精神医学者の講演を聞いたことがあります。この方は精神医であり熱心なクリスチャンでもありました。彼はポ-ル・トゥルニエ(フランスの精神医学者)の「聖書と医学」の訳者として有名ではないかと思います。又、彼は聖書の語る人間観と精神医学の人間観の接点を求める「精神医療と福音」という本を書きました。その時の講演も、精神医学と福音との関連の話でありました。昔のことで内容の大半は忘れましたが、その中で「キリスト教の復活信仰がなければ福音はない。これはキリスト教の真髄である。ところが自分は何十年も教会に行ってイースターの説教を聞いてきたが、復活のリアリティ(現実性)を感じさせる説教に一度もあったことがない」と話されました。言われてみると、私自身も主の復活の現実性が迫ってくるような説教に出会ったことがあるかを思い出そうとしてもあまりありません。それはおそらく「主の復活」ということの難しさではないかと思います。 /n説教者が出来ること  「主が死の力に打ち勝ってよみがえられた。」「主は勝利をされた。」「十字架に架けられた主が三日目によみがえった。」そのことについて聖書はいろいろな証人の話を伝えています。説教者が出来ることは、その証人達の姿や体験を言葉でもって指し示すことしかないのではないか。説教の言葉の中に「主は復活された」ということはなく、指し示すことしかできません。こうした人間の営みを超えた出来事が起こったことに対して、語る言葉には限界があります。そうすると問題は、説教者がいかにリアリティをもって主の復活を語ることが出来るか、ではなくて、聞いている聴衆一人一人が復活の主に出会って(自分自身が出会って)「主は本当に復活されたのだ」「私の罪のために死なれたのだ」「私の為によみがえられたのだ」「主は今も生きて働きたもう」・・。このことをどれだけリアリティをもってとらえることができるか。このことにかかっているのではないかと思います。説教で出来ることは、その証人として指し示す役割ではないかと思います。 /n復活の主に出会う  復活の主に出会うという体験は、すでに初代教会の人達も実にさまざまでした。パウロは手紙で「私は主を見た。恵みによってキリストを私の内に示して下さった。」とありますし、使徒言行録には、ダマスコに向かう迫害者パウロが主に出会って徹底的に地面に打ち倒され、目が見えなくなる体験を語っています。さまざまな違った体験、違った出来事を通して、しかし同一の主を人々が信じたということを強調して申し上げたい。そして、復活の主に出会うということは本当に不思議なことでありますし、我々の思いを超えたことでありますけれども、それに出会った人々は、例外なく生き方を大きく変えられていく。取り消すことのできない新しい第一歩をそこで踏み出していく。復活の主によって世界に遣わされていく。ここに集まった皆さんも、私の貧しい人間の言葉でありますけれども、この言葉を通して復活の主に出会うということをぜひご自身で体験していただきたいと願うものです。これは大きな力、大きな喜びであり、新しい使命を与えられていただきたいと願う次第です。

説教要旨 「ゲッセマネの祈り」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章36-46節 36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 742 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 /n 本日はしゅろの日曜日(パームサンデー)です。イエス様がエルサレムに来られると聞いて過越の祭りに来ていた大勢の群衆が、なつめやしの枝をもって迎えに出たことが記されています(ヨハネ12章)。当時、イエス様の名声を伝え聞いていた人々は、熱狂的にイエス様を歓迎しました。共同訳聖書では「なつめやし」とありますが、文語訳や口語訳では「しゅろ」と訳しています。本日から受難週(Passion WeekまたはHoly Week)が始まります。 同じ週の木曜日に最後の晩餐を持たれた後、イエス様は弟子達を連れて(ユダを除く11人)ゲッセマネと呼ばれる園に祈る為に向かわれました。ルカ福音書には「いつものようにオリーブ山に行かれると」とありますから、そこは祈りの場所としてイエス様が選んでいた場所であったのでしょう。弟子達には馴染みの場所であったから、裏切ったユダがイエス様を捕えようとしている人々に場所を手引きすることができたのでしょう。 祈りの場所につくと、イエス様は祈っている間はここで待つようにと弟子達に言って、さらに三人(ペテロとヤコブとヨハネ)の弟子を伴い、その先に進み、「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われました。ルカ福音書によれば、石を投げて届くほどの所に、ひざまずいて祈られたとあります。イエス様の死ぬばかりの悲しみの思いを、この三人なら背後から祈りをもって支えることが出来、又、弟子達自身がこの困難の時を乗り越える為に祈りが必要であることを教えられたのでしょう。イエス様の悲しみは、罪のないイエス様が、神様に敵対する罪のもとに置かれ、罪の中に生きる人間に代わって、その裁きを受けられることにありました。 私達は自分自身のことを考える時、自分はそれほどすばらしい人間ではないかもしれないが、かといって、それほど悪い人間ではないと思っていないでしょうか。適度に常識もあり、困っている人がいて、自分にその力があれば助けてもあげる。特にいじわるすることもなく、良い人間か悪い人間かといえば、良い人間の部類であると考えていないでしょうか。確かにそうでありましょう。この世を基準にするならばそうでありましょう。そして、そのように考えるならば、罪とか裁きという言葉はずいぶんきつく響くでありましょう。 しかし、聖書は人間に対して、なまぬるい態度で描いていません。人間は神に似せて作られたと書いてあるのです。神様の似姿として創られているのです。その前提にたって自分自身をもう一度見つめ直してみれば、自分が本来の姿から、どれほど遠く離れているか、悪い言葉を使うなら、どれほど堕落しているかが見えてくるのではないでしょうか。たとえば、イエス様の教えを、与えられた自由意志で実践するように、といわれたとしましょう。そこで初めて、私達は、自分は敵を愛せない、自分は腹を立てる、自分は柔和になれない、自分は人を裁いてしまう。自分はあの人を許せないなどなど、どの教えもどの教えも守ることができていない自分に気付くのです。そしてその視点でもう一度、質問を受けるのです。「あなたは神の前に神の似姿を保っていますか」。その時ロマ書3章の言葉が響いてきます。「正しい者はいない。一人もいない。」と。 すべての人は罪を犯していると認めざるを得ません。もし、これまで犯してきた自分の罪の数々について、神様から裁きを受けなさいといわれるならば、私達のうち誰一人その恐怖に耐えられる人はいません。そこで神様は「罪と何のかかわりもない方を神はわたしたちのために、罪となさいました。私達はそのかたによって神の義を得ることができたのです。」「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちに委ねられたのです。」(コリント第二の手紙 5章 21,19) イエス様が、ゲッセマネで苦闘の祈りをささげられたのは、ご自分を罪という神様の敵側に身を置き、刑罰を受けるということにありました。ルカ福音書には「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血のしたたるように地面に落ちた」と記されています。 罪のないお方が、全くの無実の罪によって、残酷な十字架という死刑によって殺される、その時の祈りが、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」でありました。ここに祈りの原点があります。 人間的に考えるならば、イエス様が殺されないようにするには、まず、エルサレムにくることは避けたでしょうし、ユダの裏切りを予測していたのであれば、ユダに見張りをつけたり、あるいは、ユダも知らない場所を選んで祈ることも考えられますし、遠くに逃げることも可能であったでしょう。しかし、イエス様はご自分から杯を過ぎ去らせようとはなさいませんでした。そのことをなさるのは父なる神様だけであることを知っておられました。 ゲッセマネでのイエス様の苦闘の祈りの最中、弟子達は悲しみのあまり眠ってしまいました。聖書によれば一度起こされ、二度起こされ、そして祈り終えられたイエス様がごらんになったのは、まだ眠っている弟子達の姿でした。悲しい現実であります。にもかかわらず、神様はそのような弟子達はじめすべての人間の弱さを受け入れてくださり、そのような私達の為に死んで下さったのでありました。この十字架の死は、まさに神様の深いご計画であったことが、聖書のいたるところで語られています。 5年前、イースター礼拝で説教して下さったマーチー先生は、ご自身が経験されたイースター礼拝について話して下さいました。アメリカのコロラド州の教会での話です。その教会は、ロッキー山脈に囲まれていて、教会の聖壇の後ろに大きな窓があり、その窓からは美しい高い山や近くの林が見えました。受難週の洗足木曜日に夜の礼拝があったそうです。マーチー先生が出席された受難週の木曜日の礼拝の日は、陰鬱で、雪のような霧雨がふっていたそうです。礼拝が終わると、聖壇の上の十字架は布で覆われたそうです。聖書によれば、イエス様が十字架につけられたのは金曜日でその日、昼の12時になると全地は暗くなり、それが3時にまで続き、苦しみの中で息を引き取られました。マーチー先生も、重苦しい時を経てイースターの朝、礼拝に行きますと、会堂の中は一変し、十字架の覆いは取り払われ、聖壇の後ろの大きな窓からは、木々がよくみえ、太陽の輝きがあふれていたとお話されました。そして先生が語られたのは、洗足木曜日の暗い夜は、神様の苦悩する愛であり、イースターの空になった墓は、神様の贖いと罪に対する勝利を雄弁に宣言されているということでした。 私たちも、40日間の受難節の最後の一週間を今日から過ごします。レントなきイースターはなしといわれるように、受難節があり、受難週があって、はじめてイースターの喜びを味わうことができるのではないかと思います。ここにおられる方々が、今週一週間、イエス様の十字架の死が、私の為であった、私が神様と和解するためであった、私が神様から罪許されるためであった、と信じる信仰に導かれ、その信仰が堅くされることを心より願うものです。

説教要旨 「ユダの裏切り」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章14-25節 14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、 15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。 17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。 28 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」 19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。 20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。 21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。 24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」 /nはじめに  12弟子の一人ユダが祭司長のところに行き「あの男(自分の生涯をかけて今まで従ってきた主イエス・キリストのこと)をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(15節)と尋ねました。居場所を探す敵方の当局に、ユダはイエス様の身柄を引き渡す用意があることを告げたのです。なぜ、ユダはこのような気持になってしまったのか。いくつかの小さな点ともいえる出来事が、ある時のある点でつながり、それまでの方向とは全く別の方に引っ張ってしまうことがあります。又、たった一度の出来事が、これ迄のすべての歩みを空しくさせてしまうこともあります。昨年秋の礼拝で、佐々木哲夫先生はユダの裏切りについて語られた時、ベタニヤでの出来事を引用しながら、弟子達の期待とイエス様の現実の食い違いを挙げられ、イエス様よりも自分の主義主張を優先させたことにあると語られました。「だから、目を覚ましていなさい」(24:42)との御言葉は、サタンの介入を許した(ヨハネ13:27)ユダにならない為の、私達の魂への言葉でもあります。 /n過(すぎ)越(こし)の祭り  今日の聖書の20節からは過越の食事の場面の出来事が記されています。過越の祭りは、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時に、神様の大きな恵みと憐れみによってモーセという指導者が与えられ、エジプトを出て自由の民とされた、その「出エジプト」の際の食事を再現し、子供達・孫達に選民イスラエルの歴史を語り伝えていく祭りです。 /n「わたしを裏切ろうとしている」  日没後に始められたこの正式な会食の途中で、イエス様は突然12人の弟子達に向かい「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」と言われました。一瞬、時が止まったような、重い沈黙が流れたことでしょう。そしてその沈黙に耐えられず誰かが口を開いて「主よ、まさか私のことでは」と一人がいうと、他の人もかわるがわる言い始めました。自分は裏切らないと思いつつも、イエス様に私ではないと念を押してもらわなければ不安な弟子達の姿が伝えられています。人間は誰でも裏切る可能性を持っているということです。ペテロが「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(35節)と大変頼もしい返事をしたにもかかわらず、三度もイエス様を知らないと言った話はあまりにも有名です。 /n「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。人の子は、聖書に書いてある通りに、去っていく。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」  鉢(パンや肉を浸すスープを入れてある器)は手を伸ばすか回すかして会食したので、特定の人を指す言葉ではないようです。人の子(イエス様)がこの世を去るのは、聖書の預言の成就です。イエス様は神様のご計画に従って歩むのみです。即ち、人間の救いのご計画に向かって、愛する弟子の裏切り行為の中を、毅然としてご自分の道を進まれていくのです。同時に、裏切る者の責任は問われます。その者は不幸だ、と言われます。神の御子キリストを売り渡す者は、滅びの道に行くしかないからです。 /n悔い改めの時を逃したユダ  イエス様から「裏切る者は神の裁きを担わなくてはならない」ことを言われた時、ユダはその恐ろしさの前で悔い改めることも出来たはずでした。しかし彼は心を頑(かたく)なにして、自分の秘密が暴露されることの方をより恐れました。彼は知らないふりをして「まさか私のことでは」と悲しんでみせ、裏切りをあたかも嫌っているかのように振る舞いました。このユダの言葉に対して、イエス様は「それはあなたの言ったことだ」と、ユダが自分の心の中にあることを明らかにした言葉として返答されました。教会で罪を語るのは、罪を赦して下さったお方がいることを伝える為です。すべての方が、罪の赦しを受けるように招かれています。招きに答えるとは、自分の中にある罪を認めて悔い改めることです。  ユダは、イエス様の有罪の判決が下ったのを知って後悔して銀貨30枚を返しにいきますが、断られて首をつって死んだと27章に記されています。何とも悲惨な結末です。ユダは自分で自分をさばいたのです。人は自分をさばくことはできません。裁く方はただお一人神のみです。神様のなさることを人はしてはならないのです。ユダは悔い改めるべき時を失い、赦しをうける機会を逃しました。 /nおわりに  今朝は「ユダの裏切り」と説教題をつけて語ってきました。では今朝の聖書の主人公はだれかと問われるならば、それは神様であり、御子キリストです。私達は、この御子イエス・キリストが十字架への道を歩んでくださったからこそ、今、罪ゆるされ、平安と恵みの中を歩むことができるのです。コリント2章には、今や恵みの時、今こそ救いの日、とあります。ここにおられるすべての方が、私達と一緒に、神様に従う真理の道を歩まれるよう祈るものです。

説教要旨 「最も重要な教え」 牧師 佐藤義子

/n[申命記] 6章4-9節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 /n[マタイによる福音書] 22章34-40節 34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38 これが最も重要な第一の掟である。 39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 /nはじめに  旧約聖書には、律法と呼ばれるものがありました。これはモーセを通して神が人間に守るべき教えとして与えられた戒めです。イエス様の時代、当時のユダヤ教徒はどのくらいの数の戒めを知り、そして守っていたのでしょうか。註解書によればその数は613だといいます。これを248と365に分け、初めの248(人間の体の骨の数)は「○○しなければならない」教えで、後の365(一年の日数)は「○○してはならない」教えだと言われます。 /nファリサイ派の質問  以前もイエス様をわなにかけようと、税金を皇帝に納めるべきか否かと尋ねたファリサイ派の人々(15節以下)が、再び質問しにやってきました。「律法の中で、どの掟が最も重要か」という問いです。民衆はイエス様の語る神の国の福音に耳を傾け、その教えに驚き、目を見張り、尊敬しました。それは、自分達がこれ迄築いてきた権威が崩されていくことでもあり、彼らにとって、イエス様は無視出来ない脅威の存在でした。その為に彼らはイエス様の影響力にとどめを刺そうと、答えに窮するような質問を用意しました。この問いは、彼らの間でも、議論になっている問いでした。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。イエス様は律法を613から成る集合と考えず一つのものとして考えました。そしてその中心にある核として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(38節)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(39節)を取り上げられました。これは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)と、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)からの引用です。 /n神への愛と隣人への愛  イエス様は、神様への愛と隣人への愛の二つの教えを一つとし、同じ重要性をもっていることを教えられました。律法が613であろうと、1000、2000あろうとも、すべての戒めがここから出てここに帰るというのです。私達の心が神様への愛によって動かされているならば、私達の全生活を神様のレールの上に乗せることになります。神様を愛するとは隣人を愛することです。なぜなら神様が人間を大切に考え、隣人に対する私達の愛を求めているからです。神様を愛しているという人が人間を軽く考えることはできません。又、人間を大事に考えるならば、神様を軽く見ることはできません。なぜなら神様を見失ったら私達の心から愛が乾いていくのです。神様は、私達が人間に仕えることによって神に仕え、神に仕えることによって人間に仕えることを命じておられます。 /n私達の生きる基準  神様への愛、そして人への愛が芽生えて活発になると、どうしたらもっと愛せるようになるのか、どういうふうにして神様に仕え、隣人に仕えていけばいいのか、その手段、方法を熱心に考えるようになります。ここで、イエス様が教えておられる愛は、神の愛(アガペーの愛)です。神様の愛(神様が一人子イエス?キリストを私の為に遣わして下さった)を学んだ者は、その愛が私一人にとどまらず、家族にも友人にも親族にも知人にも及ぶことを知り、そのことに心を傾けていきます。神への愛と隣人への愛の教えは、私達の義務?責任の基準を私達に与えてくれるのです。  イエス様は、このいましめを示すことによって、正しいことと正しくないこと、あるいは義務と罪がごちゃまぜになることがないようにされました。何が善で、何が悪であるのかを示されました。とりわけ教会の中においては、この教え、神への愛と隣人への愛が、中心に据えられているかどうかが、教会が教会であり続けているかどうかの基準となります。イエス様は「律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいている」と言われました。「律法全体と預言者」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は、この二つのいましめが、ちょうつがいの金具の働きをしている、とイエス様はいわれました。 /n「神への愛」と「隣人への愛」の内実  それは十戒に示されています。神を愛するということは神を神とすることであり、神以外の者を神としない、神でない偶像を拝まない、神の名前をそまつにあつかわない、礼拝を厳守する、神が与えた両親を敬う、ことです。隣人を愛するとは、隣人の命を守り、隣人の家庭を守り、隣人の自由を守り、隣人の名誉を守り、隣人の財産を守ることです。又、それは山上の説教にも示されています。たとえば、憐れみ深くあること、平和を愛すること、義のために迫害を受けること、隣人に腹をたてたり、ばか?愚か者といわないこと、仲たがいをしているならば和解をする、あるいは自分に負い目を持つ者を赦す、人をさばかない、ということです。  私達は、律法やいましめにがんじがらめにしばられているのではなく、そうではなく、神様からの祝福の道への招きとしてこの二つの戒めが与えられています。私達はこの招きにこたえるのか、それとも背を向けるのか、道は二つです。すべての道はここから始まり、ここに帰ることを思い、私達のすべての判断?決断?実践がここに基準を置いている歩みでありたいと願うものです。