4月24日の説教要旨 「主の御力②」 牧師 平賀真理子

詩編36213・ルカ福音書82639

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、悪霊を追い出す御力について語られています。福音宣教の本拠地のガリラヤ湖東岸から、イエス様一行は船に乗って、反対側の岸の近くにある町、異邦人であるゲラサ人の住む地方に着き、一人の男に取りついていた悪霊どもを追い出し、イエス様はこの男を救われました。

 「悪霊に取りつかれている」?

「悪霊に取りつかれている」というと、大昔の合理的でない人々の感覚で、現代人の自分達とは関係ないと思う人もいるかもしれません。しかし、現代でも、悪い考え方に取り憑かれたようになり、抜け出せずに、身の破滅に突き進む人を見聞きします。最も顕著な例が麻薬やギャンブルに溺れる人の話です。わずかな興味や自己過信から、悪いと言われる物を一度だけ試してみる…。ところが、その魔力に溺れ、自分の地位や社会的信用を失う…。それまでの努力は水の泡となり、破滅する…。悪の力は、自分一人だけの力では決して抗えない、強い力です。「普通の市民」である私達でも、悪に引きずられる面があります。善いことをすべきとわかっていても、その通りにできない…。使徒と呼ばれたパウロでさえも、自分のことをこう嘆きました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。(ロマ書7:19)」

 神様でないものに入られる人間

聖書の最初の「創世記」には、天地すべて、もちろん、人間も神様が造られたとあります。殊に、人間は形作られた最後に、神様から「命の息」を吹き入れられて、「生きる者となった」とあります。人は、神様から命の息を吹き入れられるはずなのに、本当の神様でないものに入られる危険性があります。

 男に取りついていた多くの悪霊ども

この男に取りついていた悪霊は複数いて、ローマ帝国軍隊の単位「レギオン」くらい(約6000人)だったことが示されています。この多数の悪霊どもが、男を操り、イエス様に会いにきましたが、彼らは、イエス様の御力について、4つのことを既に知っていて、その御力の偉大さを恐れていました。1つ目は、イエス様を「いと高き神の子(29節)」と呼びかけ、イエス様の本当の御姿を証ししています。2番目に、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでくれ。」と言っています。イエス様の御力が自分達よりも上回っていることを、悪霊どもは知っていたのです。3番目に、「底なしの淵へ行けと言わないでくれ。」と懇願しています。「底なしの淵」とは、世の終わりの時、悪霊どもが神様から裁きを受けて永遠に繋がれる牢屋のことです。十字架と復活によって、悪霊どもやその頭サタンをも永遠に閉じ込める権威を、イエス様は父なる神様から与えられるようになります。そのような御業を、悪霊どもが先に察知し、牢獄に永遠に繋がれることを恐れたのです。また、同時に、イエス様の御言葉が必ず実現するという「神様の御言葉」であることも証しています。そして、最後の4番目に、徹底的に滅ぼされる前に、悪霊どもはイエス様に延命願いをしました。「豚に入ることを許してほしい(32節)」と。イエス様がそれを許す権威をお持ちのことも悪霊どもは知っていたのです。動物愛護の精神に満ちた方は、不思議に思うかもしれません。しかし、イエス様は、悪霊どもに取りつかれて本当に助けを待ち望んでいた、この男を憐れみ、一人の人間の救いを最優先されたのでしょう。

 この地方の人々からの拒絶

この出来事について、様々な意見があったなか、悪霊に乗り移られた豚が溺れ死んで大損害を受けた「豚飼いたち」をはじめ、この地方の人々は、総意として、イエス様に出て行くように求めました。御力の大きさを恐れた上に、そんな大きな御力を持つ主と共に生きる恵みを願うよりも、「自分達の今の生活」、つまり、自分達が享受している利益を最優先したかったのでしょう。

 神様の救いの御業の恵みを宣べ伝える者として用いられる

この町の中でただ一人、悪霊を追い出していただいた男だけが、イエス様と共に歩みたいと願いました。彼は心から救いを求めていたので、イエス様の救いの恵みがよくわかったからです。しかし、イエス様は、同行することよりも、更なる恵みへと彼を導かれました。以前の悪い状態を知る家族や地域の人々に、神様の救いの御業の偉大さを伝える証し人として生きるように命じられ、彼は御命令に従いました。私達も主の救いの御業の恵みを我が身に受けたことをよく知っています。家族や周りの人々に証しできるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

4月17日の説教要旨 「主の御力①」 牧師 平賀真理子

詩編46:2-12・ルカ福音書8:22-25

 はじめに

今日の話は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも記されている、有名な話の一つです。内容をまとめると以下のようになります。「イエス様と弟子達一行が湖を船で渡ることになったが、イエス様は船で眠り込んでしまわれた。そこへ突風が吹き、船が沈みそうになって弟子達がイエス様を起こした。イエス様が風と荒波を叱ると静まって、凪になり、弟子達は、イエス様の御力の素晴らしさと御業の偉大さに驚いた。」

 ガリラヤ湖と突風

ここで言われている「湖」とは「ガリラヤ湖」です。ガリラヤ湖は海面より200mほど下にあるという特徴があります。夏には湖の水面が太陽の光で熱せられて水蒸気が上昇します。その熱せられた水蒸気の塊は、横に移動できずに、真上に上がり、上空の冷気の塊と衝突し、その温度差によって、激しい風が湖面に吹き下ろす現象が、ガリラヤ湖ではよく起こるそうです。

 ガリラヤ湖の突風を良く知っていた弟子達

弟子達の中にはガリラヤ湖の漁師出身の者が複数いました。12弟子のうち、4人はガリラヤ湖の出身だったと福音書から読み取れます。彼らは、ガリラヤ湖特有の突風について良く知っていたでしょう。自分達の知識と経験からその恐ろしさに脅えてしまったのではないでしょうか。突風が起こった時に船の上に居たら、波に襲いかかられて自分達は溺れて破滅すること間違い無しと恐ろしくなったことでしょう。

 イエス様に助けを求めた弟子達

弟子達は、危機に瀕して、やっとイエス様の存在を思い出し、助けを求めました。恐ろしさに右往左往するだけの弟子達とは異なり、イエス様は、起き掛けにもかかわらず、危機の原因を見極め、突風とそれにつられた荒波を叱り、御言葉と御力により、この危機を収めてくださいました。

 「天地」を従わせることができる御力

弟子達はそれまで、イエス様が病気の人々を癒す現場に共に居て、その素晴らしい御力を「癒し」の面で数多く見てきました。その上、人間以外の自然、つまり、神様が創られた「天地」にまで命令を出して従わせることがおできになるイエス様の御力を、弟子達は再び経験することになったわけです。

一番弟子のシモン・ペトロは、イエス様から弟子として召し出された時に同じような経験をしました。自分達の知識と経験を基に漁を夜通し行っていても魚が全く捕れなかったのに、イエス様の「漁をしなさい。」という命令に従ったところ、魚が大量に取れた出来事がありました(ルカ5:4-7)。この時、ペトロは、イエス様の命令を実行する前には、「先生」と呼びかけました(今回のルカ8:24と同じ言葉)が、命令を実行してイエス様の御力を知った後は、「主よ」という呼びかけに変わりました。海の中の魚を大量に集めてくださったイエス様の御力を知り、「主よ」と信仰告白し、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)のです。

 危機に瀕して初めて「主の臨在」を思い起こす弟子達

弟子達は、イエス様から教えを受けましたし、癒しの場に立ち会ったりしたのですが、その御力をまだ切実に感じていなかったのかもしれません。自分達に関わる出来事、しかも自分が危機的状況になって初めて、主が共に居てくださること(主の臨在)を思い出し、主に助けを求めました。そのような経過を通して、イエス様を「先生」と言うよりも「『主』と呼ばれる本当の神様である」と仰ぎ見るようになる姿、弟子達のこの姿に、自分の姿を重ねる方も多いのではないでしょうか。

 「神はわれらの避け所また力である」(詩編462「口語訳」)

「このままで生きていては溺れそうだ」という危機的状況に陥り、神様の助けを求めて、教会に来られる方がおられます。そして、御言葉との出会いや聖霊が働いてくださったと思われる出来事を通して、イエス様を「救い主」とする信仰に導かれます。しかし、信仰者として歩むうちに、「神様が共に居てくださる」恵みが平常のことになり、それがいかに素晴らしいかを忘れてしまっていないか、また、主の存在を思い出さずに、自分の知識と経験を基に生きるという、信仰生活以前に戻ってしまっていないか、自分の歩みを吟味する必要があります。特に、「平常時」は要注意です。「平常時」こそ、主の臨在の恵みを数え、感謝する訓練を重ねましょう。そうして初めて、危機的な「非常時」に、本当の助け主をいち早く想起し、その御力に全幅の信頼を寄せることができます。苦難の時に神様を避け所として、また、乗り越えさせてくださる力の源として全面的に信頼を寄せるのが、詩編46編に謳われた「神様への信仰」であり、私達が継承している信仰です。

3月6日の説教要旨 「主の母、兄弟」 牧師  平賀真理子

詩編112:1-10 ルカ福音書8:19-21

 はじめに

イエス様の周りには、いつも多くの人がいました。そのお話が、それまでのユダや教の教師達とは全く異なって、権威があり、かつ、素晴らしかったのです。それだけでなく、病人等の癒しの御業によって、イエス様は神様の力がこの世の力をしのぐものであると、明らかに示してくださいました。イエス様の御許に来た人々は、イエス様に出会い、神様の素晴らしさを実感し、神様を讃美する者に変えられました。逆の見方をすると、それまでに権威を持っていたユダヤ教では救われない人が多くいたと言えると思います。

 当時のユダヤ教の問題点とイエス様の新しい教え

当時の社会で大事にされていたのは、ユダヤ教の教えと血縁(血のつながり)でした。当時のユダヤ教は、律法を守ることが第一でした。最も大事にすべき神様のことを伝えようとは努めていなかったし、困っている人を助けようともしない状態でした。神様によって自分達は神の民として選ばれたのだから、その血筋を受け継いで、律法を守っていれば、神様に喜ばれると慢心していました。一方、イエス様の教えは、「あなたの神である主を愛しなさい。自分と同じように隣人を愛しなさい。」に代表されるように、悔い改めて自ら神様を求める心と、周りの人を助けて生きる喜びを人々に思い起こさせ、当時のユダヤ教の形式重視で表面的な教えを革新するものでした。だから、多くの人が引き付けられました。

 「群衆」と「主の母、兄弟たち」

当時の常識としては、大事にされるべき、イエス様の血縁の「家族」が、今日の箇所では、イエス様との間を群衆に阻まれ、遠くに置かれ、直接話すことができませんでした。間に人が入って伝言がなされ、「家族」が近くに居ることを知ったものの、イエス様は会いにいくことはせず、まず、自分に従っている群衆の方を大事にしている旨の答えをなさっています。イエス様の新しい教え、神の国の福音では、当時大事にされていた血縁の家族が最優先ではなく、「キリストに結ばれて、新しく創造された者」(Ⅱコリント5:17)達からなる「神の家族」が最優先されるのです。

 主の母マリアと主の兄弟ヤコブ

主の母マリアも兄弟たちも、神様によって血縁の家族として選ばれた人々でしょう。しかし、「神の御子・救い主」イエス様にとって、それは最大の価値ではありません。「御言葉を聞いて従う」ということにおいて、改めて「神の家族」とされることが必要です。母マリアは、イエス様が生まれる前の受胎告知で「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)という模範的な信仰を示した人です。「種を蒔く人」のたとえの表現を借りるなら、信仰において「良い土地」の状態だと言えるでしょう。その上で、イエス様の宣教活動の場に来て、初めて「神の御子・救い主」としてのイエス様の御言葉を聞き、「神の言葉」の種が母マリアの心にきっと根づいたと思われます。自分の息子という価値から「神の御子・救い主」という価値に置き換えられたのです。主の兄弟たちの心にも同じことが起こったと思われます。特に、その一人は「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれて、イエス様亡き後に初代教会のリーダーとして活躍しました。ヤコブも、肉親の兄としてではなくて「神の御子・救い主」としてのイエス様に、この時出会い、御言葉を心に蒔かれ、信仰者となるように導かれたのでしょう。他の福音書によれば、主の母と兄弟たちは、この時は、イエス様の福音活動に反対していたようです。けれども、ルカによる福音書の続編というべき「使徒言行録」1章には、全く逆に、イエス様を信じる群れの中に名前が挙がっています。主の肉親も、神の言葉を聞いて行う人に変えられて「神の家族」となる恵みを受けたのです。

 「神の言葉を聞いて行う」

ルカによる福音書には「種を蒔く人のたとえ」「ともし火のたとえ」「イエスの母と兄弟たち」が続けて書かれています。神の言葉をよく聞き、それに従って行動することは忍耐が必要だが、その忍耐に勝る、神様からの豊かな祝福を得られると述べられています。イエス様と家族としてつながるために重要なのは、神の言葉に聞き従うことだとはっきり示されています。同じ内容を記した、他の福音書では「主の母、兄弟たちとは、神の御心を行う人である」とあります。「神の御心を知る」には、特別な霊的な能力が必要だと錯覚しがちですが、そうではありません。イエス様は「神の言葉を聞いて行う」のが大事だと語りかけてくださっています。私達は神の言葉を聞くことを最優先し、学び、行動していきましょう。

2月28日の説教要旨 「『ともし火』のたとえ」 牧師  平賀真理子

詩編119105112 ルカ福音書81618

 はじめに

 今日の新約聖書の直前の箇所では「種を蒔く人のたとえ」とその説明が書かれています。イエス様ご自身によって、明確に説明されています(11~15節)。「種」、つまり「蒔かれた種」は「神の言葉」です。また、種が落ちた土地の状態は、神の言葉を聞いた人の心の状態をたとえたものです。「ともし火」のたとえも、その延長線上で語られ、理解できるものです。

 「ともし火」は「神の言葉」

16節は、たとえの表現ですが、説明が無ければ、人間の一般的な行動が単に書かれているだけです。しかし、ここでの「ともし火」は、「種」と同じで、「神の言葉」であると理解することができます。ともし火は、闇を照らすために灯します。だから、ともし火を隠したりする人は、まず、いません。ともし火から生まれる光が闇を照らし、人は見えるようになります。だから、光が見えるように、その源のともし火は、上に、表に、隠されないで掲げられます。

 神様からくる光

私達のような、聖書が書かれた後の時代の信仰者は、この「光」は、神様からくる光として、真理の性質を帯びていることを知らされています。イエス様は御自分のことを「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と証しなさいました。また、イエス様は「光を与える御方」でもあります(ヨハネ9章)。その「光」のことを、もっと根源的に考えれば、ヨハネによる福音書の冒頭に書かれていることが思い浮かぶでしょう。イエス様は、父なる神様と世の初めから共にあって、言(ことば)であり、命であり、人間を照らす光であるという内容です。そのような御方が、御自分の本質でもある「神の言(ことば)」を教えてくださるという恵みが、約2000年前に本当に起こったのです。そして、「神の言(ことば)」を聞いて従う者には、本当の命を与えてくださり、更に「神の言(ことば)」をこの世に広めるという重要な役目を任せてくださるのです。

 まことの光であるイエス様

先に挙げたヨハネによる福音書1章によれば、「まことの光は、この世に来て、すべての人を照らす」とあります。「まことの光」とたとえられているのがイエス様のことです。同じ個所で「神の言(ことば)」とも言われているイエス様は、「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とも証されています。神の子となる資格を人間達に与えるための御業が「十字架と復活」です。十字架と復活によって、イエス様は、「既に(この)世に勝っている(ヨハネ16:33)」のであり、真理の光を輝かし続けることのできる御方です。

 イエス様を受け入れた人、その名を信じる人々

「まことの光」であるイエス様、そして「神の言」とたとえられるイエス様を受け入れた人、その名を信じる人々とは、御言葉を掲げて、その真理の光の中を歩む者達です。このような者達は、この世の長であるサタンが好む不正や、今が良ければいいといった「事なかれ主義」に妥協できません。生きる指針が、「神の言葉」であり、主の生き方にあるのですから、この世の多くの人が従っている方法に無感覚に従って生きることは決してできません。しかし、この世への未練を断ち切れない人にとっては、知らない方が良かったという厳しい道ともなります。この世の人が難なく行う行動一つ一つが、「神の国の民」にとっては、試みの時となるでしょう。

 「神の国」の原則

しかし、17節の御言葉が、弱っている私達の信仰を奮い立たせます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」のです。この世に妥協する方法は、根本的解決にならず、本当の解決がより困難になることばかりです。一方、神様の真理の原則に従えば、初めは葛藤や苦しみがあっても、結果的に罪を重ねずにすみ、神様からくる光の中を堂々と歩めます。私達を「神の国」に招いてくださるイエス様は、神様がくださる本当の救いを与えてくださることができる御方です。「神の国の民」は、神の言葉を理解し、心に刻み、それに自分を従わせる人、そして、それを表に輝かす人です。最後の18節の「持っている人、持っていない人」は、「神の国の原則」をたとえていると言えるでしょう。前者は、神の言葉を守り、福音を広める恵みを与えられている人であり、神様の御心に適う人として、神様の祝福を益々受けるようになります。後者は、本当の救い・神様の恵みから益々遠ざかることを示しています。私達は前者を目指し、御言葉に従っていきましょう。

2月14日の説教要旨 「『種を蒔く人』のたとえ」 牧師  平賀真理子

イザヤ書6:9-10 ルカ福音書8:4-15

 はじめに

 イエス様は、よく、例え話を用いて、人々に話をなさいました。特に、この「種を蒔く人」のたとえは、例え話自体と、イエス様ご自身からの説明が、聖書に共に書かれています。それで、後の時代の私達は、例え話の本当の意味をすぐに知ることができます。でも、イエス様の御許に来た群衆は、4節から8節の例え話と「聞く耳のある者は聞きなさい」という御言葉だけを聞いたことをあえて認識しておきたいところです。

 種の4種類の成長結果

イエス様は話を聞きに来た一般民衆のほとんどが従事していた農業の中から、興味を持ってもらえるよう、「種まき」の話をされたのでしょう。4~8節では「種」と「種を蒔く人」と「種が落ちた土地の状況」が語られる主な内容です。「種を蒔く人」の「種を蒔く」という同じ行為により、4種類の成長結果となったことが話されています。1つ目は、種が鳥に食べられて種自体がなくなり、芽さえ出なかったこと、2つ目は、芽は出たが、根が張れずに枯れてしまったこと、3つ目は、芽が出て茨と共に伸びたが、茨に覆われて成長できなかったこと、4つ目は、良い土地に育ったために百倍の実をつけるほど成長したことでした。これだけ聞くと、農業の技術的な話?とか、種まきをする注意点?という疑問がわいてきそうですが、次の11~15節にあるように、この例え話が神の国の福音宣教の結果を預言されたものであることが明らかにされていきます。

 土地の状況に起因する成長結果の違い(実を結べない3種類)

種の成長結果は、種の落ちた土地の状況によることがわかります。土地の状況とは、本当の意味では、神の言葉が降って来た人(心の状態)のことです。

1つ目の道端(畝と畝の間で人の通り道)に落ちて、人に踏みつけられ、鳥に食べられたとあるのは、「神の言葉を聞いても、ないがしろにし、挙句の果てには、悪魔に取られてしまう人」を例えています。

2つ目の石地のものとは、「神の言葉を育てるために耕すことを怠っている」心の状態にある人のことです。種の成長のために土という環境を整えることが大事なことです。それを怠ると、まだ成長過程の植物は、根も弱くて硬い石に打ち勝つことができないことを「試練に遭うと身を引いてしまう人たち」と表現しています。

3つ目の茨の中に落ちたものとは、心配事や富や生活の楽しみの方を、神の言葉を信じて生きることよりも優先して生きている人達のことです。ある程度、信仰を続けることはできるかもしれませんが、信仰者として本来結ぶべき、信仰の実をつけることができない人々です。信仰の実とは、別の言い方をすれば、「聖霊の結ぶ実」とも言えます。それは「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ書5:22-23)です。

 良い土地に落ちた種の成長

4番目の良い土地に落ちたものとは、「立派な善い心で」と言われる人たちです。では、立派な善い心とはどういう心か、それは、すぐ次に書かれています。「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」です。まず、御言葉を聞き、それを心に留める、そしてそれに従って行動するということです。その時に必要とされるのが「忍耐」と書かれています。この「忍耐」の元々の言葉は、「重い荷を背負ってじっと留まる」という意味から生まれたものです。しかし、その忍耐の果てには、信仰者として実を結ぶ恵みが与えられています。実を結ぶとは、2つの意味があると思います。一つは、種が百倍にもなることであり、もう一つは、その種の成長にふさわしい状態の土があるということが外からもわかるということです。イエス様が御自分の使命として大事になさった神の国の福音がその人の心に育って実った結果、種と表現される信仰者がたくさん生まれることが示され、福音を告げる使命を担う者や、イエス様の証人として生きる者が豊かに生まれることが示されています。

 「神の国の秘密を悟ることができる」恵み

10節では、イエス様が、たとえを用いて話す理由を、イザヤ書6章9-10節を引いて語られました。「神の国の秘密」を理解することを許されていた弟子達と許されない群衆がいました。ここに「神の選び」が起こっています。神の国の民として招かれる人を選ぶのは、神様の主権の一つです。私達信仰者は神の国の秘密を悟ることができる弟子達に繋がっています。主の選びに心から感謝し、主の御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人になれるよう、聖霊の助けを祈り求めたいものです。

2月7日の説教要旨 「奉仕する人々」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書17:9-14 ルカ福音書8:1-3

 はじめに

 今日の新約聖書の1節には「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」とあります。似た内容が4章43節にあります。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」とのイエス様の御言葉です。救い主による「本当の救い」が必要な人がたくさんいて、その救いを父なる神様から託されている!という熱い思いによって、神の御子イエス様の宣教の旅は続けられたのでしょう。

 「神の国の福音」宣教の旅をとおして

宣教という使命は大事な使命の一つです。しかし、イエス様は「救い主」である御自分にしかできない使命を成し遂げなければならない時が迫っていることを切実に感じておられたのではないでしょうか。それは「人間の罪の贖いのために、十字架にかかる」という使命です。預言と同じ御業を行っておられたイエス様を「救い主」として受け入れるべきユダヤ教指導者達(ファリサイ派や律法学者達)が、御自分を排除しようとしていることを知って、イエス様はますます嘆かれたことでしょう。この権力者達は、自分の都合で、神様を持ち出したり、無視したりしています。これが人間の罪深い姿の一つです。私達にも当てはまる姿です。そんな人間達の大きな罪のために十字架にかからねばならないという使命が迫っている……。だから、神の国の福音を宣教するという役割を、招き、愛し、育んでこられた大事な弟子達に譲って行かねばならないと覚悟されていたのではないでしょうか。だから、12使徒として御自分で選ばれた重要な弟子達が宣教の旅を一緒にすることをお許しになったのでしょう。御自分と行動を共にすることで、「神の国の福音」を宣教することを御自分からすべて学んでほしいという主の切実な思いを感じます。

 「神の国の福音」

さて、その「神の国の福音」をもう一度、よく考えてみたいと思います。

「神の国」は「神様が王として支配している世界」と説明されています。「神様の愛」が行き届いた世界と言えます。「神様の愛」の特徴は、無償の愛、自己犠牲の愛、弱い者を愛する愛です。そして、その神様は何よりも私達人間一人一人を愛しておられます。神様から離れたがる、罪深い私たちが、「神の国」に入るためには救い主による罪の贖いが必要なのです。その罪の贖いのために救い主がこの世に来てくださり、私達人間と同じ姿になり、御自分の命を犠牲にする贖いとして「十字架にかかる使命」を引き受けてくださる、それこそが、人間にとっての「福音」=「喜ばしい知らせ」なのです。ですから、「神の国」は、イエス様がこの世に遣わされた時から始まっているのです!

 救われた感謝としての奉仕に生きる婦人達

12使徒達を「神の国の福音」の伝道者として教育するための重要な宣教の旅に、同行を許された婦人達がいたこと、しかも、名前が具体的に記されていることは驚きです。他の古代社会と同じように、当時のユダヤは男性中心の家父長制社会でした。しかし、イエス様とその周りでは、人間社会の性別の壁を悠に超えていることが示されています。3人とも、恐らく、イエス様によって、「悪霊を追い出して病気を癒していただいた」のだと思われます。特に、「マグダラの女と呼ばれたマリア」と「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」は、ルカ福音書24章の「十字架の後の復活」の場面で、イエス様の御言葉を思い出して、御言葉どおりのことが起こったと使徒達に伝えるという重要な働きに用いられたことが、名前を挙げて記録されています。

彼女達は、人間の力で治せない病気になって絶望していた故に、「神様の救い」を切実に求めるようになり、イエス様との出会いとその救いという恵みをいただくことができたのでしょう。人間的に考えれば、絶望する体験は本当に避けたいですが、神様を無視して生きたがる人間には、そのことをとおして、やっと真剣に神様を求めるように変わることが多いものです。この婦人達は、病気という絶望に真剣に向き合った、そこで、神様の救いを求めた、そして本当の救いに導かれたのです。だから、イエス様の救いが本物であることを切実に感じたのだと思います。絶望の淵にいたからこそ、イエス様からの救いの素晴らしさを本当に知ることができる、その体験をした人が、自分を救ってくださった神様への感謝の応えとして、自ら奉仕する人に変えられていきます。私達も、もう一度、主に出会って救われた時の喜びを思い出し、主の御旨のために奉仕したいものです。

1月24日の説教要旨 「罪の赦しと愛」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1:18-20 ルカ福音書7:36-50

 はじめに

 今日の旧約聖書の箇所で、「私達の罪が緋のよう(真っ赤)であっても、雪のように白くなることができる。主に進んで従うなら実りを受ける」と証しされています。罪の赦しがおできになるのが、唯お一人、私達の主イエス・キリストです。今日の新約聖書の箇所では、そのイエス様に実際に出会った人々が取った態度から、どのように主を迎えたのか・または受け入れなかったかが、明確にされています。3つの態度に分かれているので、そこから考えてみたいと存じます。

 ファリサイ派シモンの態度

 1つ目は、イエス様を食事に招いたファリサイ派の人の態度です。40節から、この人はシモンという名前だとわかります。ファリサイ派シモンはイエス様に「一緒に食事をしてほしいと願った」(36節)とあります。当時のユダヤ教の社会では、聖書の話を語る巡回教師を自宅に招くのは、大変功績のあることと思われていたようです。また、大事なお客様が来られた時は、興味ある人は誰でも一緒に家に入る風習があったそうです。「重要なお客様と多くの人々をもてなすことのできる立派な人」との評価、シモンは、その評価を期待していたのかもしれません。ところが、シモンは自分の願いでイエス様を招いたのに、イエス様から思いやりの不足を指摘されました。旅人の足を洗うための水の用意、親愛の情を表す接吻、頭への香油塗り(尊敬を表す)、この3つです。シモンの心の中に、イエス様に対する尊敬・感謝・愛が足りなかったから、この3つの行為ができなかったのでしょう。ファリサイ派のシモンがイエス様との出会いを望んだのは、純粋な敬愛の情からではなく、単なるイエス様への関心と人々からの自分への評価のためだったと思われます。食事に招くという外面は尊敬を示しているようですが、内面では、自己中心の罪のためだったと、聖書の記述から推測できます。

 罪深い女の態度

2つ目は、「罪深い女」(37節)と書かれた女性の態度です。この女性は、具体的に言えば「娼婦」だというのが、多くの学者の共通の見方です。この女性は、ユダヤ教から見たら、姦淫の罪を犯している「罪人」です。特に、ファリサイ派の人々はこのような「罪人」を疎外しました。一緒にいると穢れが移ると考えたのです。しかし、イエス様は、これ以前に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)と宣言なさいました。当時の価値観とは真逆のこの御言葉は、驚きを持って広まったことでしょう。「罪深い女」と呼ばれた女性は、この御言葉により、「自分も神の国に入れる」という大きな慰めと励ましを受けたはずです。だから、勇気を振り絞って、自分を見下すファリサイ派の人の家に行って、敬愛と感謝を表したいと切に願って、香油の壺を持参したのでしょう。この女性は、ファリサイ派シモンには不足していた3つの行為を補うことになりました。足を洗うこと、接吻すること、香油を塗ることです。足を洗う水と拭き取る布の代わりに、この女性は救い主イエス様に出会って感極まって流した涙と髪の毛を使いました。接吻と香油塗りの2つは、各々顔と頭にするものですが、主の足元で行いました。この女性は主の御前で謙虚な思いから自分を低くしたのでしょう。敬愛するイエス様からの救いの恵みへの感謝により、このような態度が生まれたと思われます。

 イエス様のなさった例え話(41-42節)

イエス様はシモンに、ある金貸しから借金をしている二人が借金を帳消しにしてもらった例え話をなさいました。それは、借金の額の多い方の人が、少ない人よりも金貸しを愛することを教える例えです。借金とは「罪」のことです。正しい人と思われているファリサイ派のシモンでさえ、神様の御前においては、確かに罪ある人間であり、「罪深い女」と変わらないのです。「罪を赦された」という自覚をより多く持つ人間の方が、罪の自覚を少ししか持たない人間よりも、救いの感謝をより多く持ち、救い主をより多く敬愛すると教えておられます。

 同席の人たちの態度

3つ目は、同席の人たちの態度です。「『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。』と考え始めた(49節)」のです。イエス様や福音を始めて知らされた人たちの態度の予告とも見ることができます。そういう方々がイエス様の「罪の赦しの権威と信じる者との愛の交わり」を肯定的に考え始めるために、信仰者である私達は、主の証し人として歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

1月10日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス②」 牧師 平賀真理子

イザヤ4219 ルカ福音書72435

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」はイエス様に洗礼を授けるという大役を担った人ですが、このヨハネが弟子達をイエス様の許に派遣し、「あなたは本当に救い主ですか。それともまだ後から来る、別な方が救い主なのですか。」と質問しました。イエス様は、「はい」「いいえ」という単純な答え方をしませんでした。救い主の御業として、ユダヤ人なら誰もが知っている預言者の言葉を語り、そのとおりのことが御自分の御許で起こっているのだから、そのことを通して、御自分が救い主(「メシア」)であることを悟らせようとされました。答えの最後には、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られました。他の福音書と照合してみると、洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授けた際に、イエス様に聖霊が降ったのを見て、イエス様が「神の御子」、つまり、「救い主」であると確信したと思われます。しかし、その後、イエス様と一緒に活動していたとか、緊密に連携していたという記録は見当たりません。洗礼者ヨハネは、イエス様への信仰を確かにいただいたのですが、「信じ続ける」といういう点で、僅かに揺らいだのではないでしょうか。自分が宣教してきた「義と裁きの救い主」のイメージに固執し、イエス様が行っていた「愛と憐れみの救い主」の現実の御姿と違っていて、それを受け入れられなかったのではないかと思います。

 洗礼者ヨハネに対するイエス様の御言葉

洗礼者ヨハネが派遣した弟子が帰った後、イエス様は御許にいた群衆に向かい、洗礼者ヨハネのことを語り始められました。極めて高い評価です。今までの預言者よりも優れているとおっしゃいました。ヨハネは神様の義と裁きを強調しましたが、神様から離れた生活を送っていたイスラエルの人々の心を180度方向転換させ、神様の御心を第一にする生き方をするように宣べ伝え、悔い改めの洗礼を施し、更に、イエス様に洗礼を授ける役目も行ったのですから、神様から与えられた役割を充分に果たしたのです。28節の前半にある「女から生まれた者のうちヨハネより偉大な者はいない」とは、それまで生まれた人間の中で一番偉大だと言われている訳ですから、最高の褒め言葉と言えるでしょう。けれども、28節の後半は、この評価と全く逆の意味の言葉に変わります。「神の国で最も小さい者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」と言われました。神様の御計画である「人間の救い」は、イエス様を救い主と信じて救われます。イエス様への信仰があって初めて「神の国の民」となれるのです。イエス様を信じることで、主の十字架と復活の恵みによって、自分の罪が赦され、神様と繋がることができます。それを「神の国に入る」と言います。洗礼者ヨハネは、神様が御計画された「人間の救い」の始まりを告げる者であり、始まりの始まりですが、イエス様からの救いの恵みを、この時点ではまだ受けていません。それよりも、イエス様の救いの恵みを受けている信仰者の方が偉大なのです。イエス様が私達にくださった救いの御業の恵みがとてつもなく大きいということです。

 恵みの時代に生きた人々の心と態度

イエス様は、洗礼者ヨハネについて語られた後、今度は「洗礼者ヨハネと御自分を通しての神様の救い」に対して、その恵みの時代に生きている人々がどういう状態かを例えで表現されました。

自分達の思いが先にあって、相手がそれに合わせて自分の思い通りに動いてくれない、だから座って歌っているだけという子供に似ているとおっしゃっています。裁きを強調する洗礼者ヨハネに対しても、救いの喜びを告げるイエス様に対しても、この2人に接することのできた恵みの時代に生きた人々は、人間的な批判ばかりしていました。自分達が「神様からの救い」に対してどうすべきかを真剣に考えず、積極的な信仰を持たないことを嘆かれました。

 イエス様の素晴らしさを証明するよう求められている私達

しかし、最後の35節でイエス様は信仰者達への希望を語ってくださいました。「知恵の正しさ」というところの「知恵」とは「神の知恵」です。そして、聖書には「キリストは、私達にとって神の知恵となり」とあります(Ⅰコリント1:30)。神の知恵を体現されたイエス様を、救い主として信じる者達がその救いの恵みを感謝して、ふさわしい歩みをすることで、イエス様の素晴らしさを更に証明するという意味です。聖霊によって主を信じる恵みをいただいた私達は、「救い主」イエス様を証しする人生を新たに与えられているのです。

1月3日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス①」 牧師 平賀真理子

イザヤ6114 ルカ福音書71823

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」は私達の主イエス様に洗礼を授けた人として知られています。それだけでなく、救い主がこの世に現れた時に、人々が救い主を受け入れられるように、人々の心を備える役目がありました。それは預言者によって、「道を備える者」(イザヤ40:3)と預言されていました。当時の人々は、もちろん「救い主」を待っていましたが、その前の先駆者が来ることをも待望しており、預言どおりの先駆者が現れたのです!また、洗礼者ヨハネは尊敬される祭司一族の出身であり、世俗から離れて修道生活を送る立派な人だったので、救い主の先駆者ではなく、「救い主」ご自身ではないかと思われる程でした。ところが、マタイによる福音書やヨハネによる福音書では、ヨハネ本人が、「自分は救い主ではないし、救い主はもうすぐ来られる」とはっきり証ししています。

 洗礼者ヨハネの役割

洗礼者ヨハネの役割について、3つの内容が考えられます。一つは、この世の人々の心を「救い主」到来のために備えること(悔い改めに導く)、二つ目は、救い主イエス様に洗礼を授けること、三つ目は、イエス様こそ「救い主」であることを公けに宣言することです。今回は、ルカによる福音書では、この3つがどのように表現されているか見ていきましょう。

 人々を悔い改めに導く洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書1章では、イエス様のご誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生の経緯が詳しく書かれています。「主の天使による誕生の告知」や、「聖霊に満たされて母親の胎内にいる時から救い主を感知したこと」などは、洗礼者ヨハネが神様の御心の下で生まれたことや、救い主を証しする賜物に恵まれていたことを表現していると思えます。また、3章では、このヨハネが、人々を悔い改めに導くために、どのような教えを述べたのかが、他のどの福音書よりも具体的に書かれています。

 イエス様に洗礼を授ける洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書では、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと明確に書かれていません。しかし、その直前に行ったヨハネの悔い改めの洗礼とその教えが詳しく書かれていて、「民衆が洗礼を受けていると、イエス様も洗礼を受けた」とあるので、イエス様が民衆と同様に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが自明のこととして表現されたと見ることができるでしょう。

 「イエス様こそ救い主」と公けに宣言しているか?

ルカによる福音書3章16節から17節で、洗礼者ヨハネは、「自分よりも次元の違う優れた御方(救い主)が来られること、自分は水で洗礼を授けているが、その救い主は聖霊と火で洗礼を授ける御方である」と証ししています。けれども、ルカによる福音書では洗礼者ヨハネが「イエス様が、その『救い主』である」と公けに宣言したとは書いていません。更に、今日の新約聖書箇所によると、「あなたが本当に来るべき御方として人々が待ち望んだ救い主ですか。それとも別な方が救い主なのですか。」と直接聞きに弟子を派遣しています。

イエス様のお答えと私達

洗礼者ヨハネの質問に、イエス様は自分が救い主であると明言せずに、預言どおりの御業から悟るように答えられました。この世で苦しんでいる人々を実際に救っている「救い主の御業」です。けれども、この時、まだイエス様ご自身の弟子さえ、イエス様を救い主と信仰告白していなかったので、ご自分でヨハネにはっきり答えるのは時期尚早だと思われたのでしょう。また、「救い主」についての人々の理解とイエス様ご自身の「救い主」の理解が違っていることをご存知でした。前者はイスラエル民族限定の政治的な王様を考えていましたが、イエス様ご自身は「救い主」はイスラエル民族だけでなく、異邦人を含む全人類の救いを成就するものであり、また、この世だけでなく、永遠の「救い」を成就する定めだとわかっておられたのでしょう。また、イエス様は「わたしにつまずかない者は幸いである」ともおっしゃいました。イエス様を救い主として福音を宣べ伝えた弟子達をはじめとしてそこに繋がる信仰者の私達は聖霊の助けをいただいて、イエス様への信仰を与えられる恵みをいただきました。主の十字架と復活の恵みによって降るようになった聖霊の助けで、私達が「イエス様こそ救い主」と信仰告白できたのです。「聖霊によらなくては、だれも『イエスは主である』と告白できない」(Ⅰコリント12:3)のです。私達は本当に大きな恵みをいただいていることに感謝して、今週一週間も聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

12月27日の説教要旨  「シメオンとアンナの証し」 牧師 平賀真理子

イザヤ5247 ルカ福音書22538

 はじめに

 日本では、12月25日が過ぎると、クリスマス気分は終わってしまい、お正月の準備がなされていきますが、教会では、1月6日の公現日までは降誕節として、神様の御子のご降誕を祝うべき期間です。

 シメオンとアンナ

 イエス様は、神様によって、ヨセフとマリアの夫婦の初めての子供として、この世に生まれることになりました。この信仰深い夫婦は、律法に従って、「初子を献げる儀式」をエルサレム神殿で行うことにしました。この時、ヨセフとマリアと幼子イエス様に出会う恵みをいただいたのが、シメオンとアンナです。聖書では、シメオンは高齢であるという記述はありませんが、「高齢の男性」と教会では伝えられています。アンナは「非常に年をとっている」と2章36節にあるとおりの高齢の女預言者です。2人とも、神様の御心をまず第一に考える信仰深い人々でした。

 聖霊に導かれて幼子イエス様に出会ったシメオン

シメオンについては、神様の御前に「正しい人であり、信仰があつく」とあり、更には「イスラエルが慰められるのを待ち望み」と説明されています(25節)。自分の救いだけに関心があるのではなく、周りの人々も救われることを望んでいる、まさしく信仰者の鑑と言えるでしょう。そして注目すべきことは、シメオンの上に聖霊がとどまっていたことです。25節から27節にまでに、聖霊について3回も言及され、強調されています。シメオンは、聖霊によるお告げをも受けて「死ぬまでに救い主に絶対会える」と確信が与えられ、聖霊の導きにより、主に出会うことができました。それだけではなく、幼子イエス様を腕に抱き、その存在を自分の感覚全部で体感することができたのです。

 シメオンの賛歌

 29節から32節までは「シメオンの賛歌」といって、待降節や降誕節に想起される3つの賛歌の一つです(ザカリアの賛歌、マリアの賛歌)。神様が自分へのお告げのとおりに救い主に出会わせてくださり、安心してこの世を去ることが出来ることへの感謝が献げられています。神様は私達人間が死んだ後でも永遠におられる確かな存在です。神様に全てを委ねてこのような絶対的な安心の下で死ぬことができるということこそ、長年信仰深い生活を続けてきた高齢者への大いなる恵みと言えるでしょう。30節で「あなたの救いを見た」と述べていますが、この「救い」こそ、イエス様のことです。そしてシメオンは、その「救い」が神様によって準備されたと証しし、32節では、「救い」であるイエス様によって、イスラエルの民と、そうでない「異邦人達」双方に光り輝くような「救い」がもたらされることを証ししています。

 「救い主」の定めを預言したシメオン

34節から35節には、シメオンが母マリアに告げた言葉が書かれています。「救い主」到来という恵みを受けるこの世の人々は、イエス様を「救い主」として「信じる」か「信じない」か、どちらかに分かれます。中間のグレーゾーンはありません。「信じる」者は、救い主の存在や御言葉によって、過酷な現実から立ち上がることができます。一方、「信じない」者は救い主の存在や真実の御言葉によって倒される時がやってきます。34節後半から35節を見る限り、多くの人々は、罪に染まった悪い思いから、イエス様を救い主と信じられずに、苦しめることが暗示されています。これは「主の十字架」に対する預言といってもよいでしょう。聖霊の恵みの下にあったとはいえ、この世で長く過ごした高齢の信仰者だからこそ、主の重要な定め=人々の罪の償いのための十字架 を告げることができたのだと思われます。

 アンナの証し

36節から37節を読むと、アンナは若い時に夫に死に別れて、長い間、孤独と貧困に苦しんだのではないかと思います。恵まれた状況とは言い難いでしょう。しかし、アンナは苦境に置かれたために神様から離れたのではなく、むしろ神殿を離れずに断食や祈りに励みました。自分の利益や快適さよりも、神様の御心に適う生活を選んだのです。恐らく、神様からの報い(ごほうび)として、アンナも幼子イエス様に出会う恵みを与えられたのでしょう。そして、その恵みを自分だけの喜びとしてしまい込まずに、周りの人々と共有したいと願い、幼子イエス様のことを「救い主」として証しする役割を感謝しつつ喜んで果たしたと思われます。私達も良き証し人として用いられるように信仰深く歩んでまいりましょう。