2020年5月31日・ペンテコステの説教要旨

エゼキエル書 36:25-28・ヨハネ福音書 14:15-26

        「現臨する神様を伝える『真理の霊』」   佐藤 義子牧師

*はじめに

 今日は、ペンテコステの記念の礼拝です。社会ではクリスマスとイースターに比べてペンテコステはほとんど知られていません。ペンテコステはギリシャ語であり、日本語で「聖霊降臨日」と呼んでいた方が、もう少し広まったようにも思われます。しかし「聖霊降臨日」と聞いても、日常的な用語ではないことに加えて、イエス様は聖霊について次のように語られました。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(17節)

*「世は・・・受け入れることができない。」

2000年以上も前に、イエス様が聖霊降臨の予告をされた時に、「この世では、真理の霊(聖霊)を見ようとも知ろうともしないので受け入れることが出来ない。」と、すでに言われていたことに注目したいと思います。

 私達は、この世・この世界で、<限られた時間と空間>の世界を生きています。それゆえ多くの人達は、<時間と空間の世界を突き抜けて>天から聖霊が降るという出来事は日常を越えており、関心を持たずに受け入れられない、ということでありましょう。人は何かを見たい、知りたいと思えば、それを実現する為の道を考え実行します。けれども見ようとも知ろうとも思わなければ、どんなにそのものに価値があっても、それに触れることはなく、見ても、聞いても、ただ素通りで終ってしまうことでしょう。

*「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」

「あなたがた」とは、イエス様とまもなく地上の別れを迎える弟子達であり、そして今は、弟子達の信仰を継承している教会の私達クリスチャンのことです。そうです!私達クリスチャンは、世に属さず、聖霊を知っているのです。その証拠に、以下のみ言葉(コリント書12:3)があります。

聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです。

バプテスマを受けたすべての方々は、イエス様を「神の御子・救い主」と信じて信仰の告白をしました。この信仰は自分の力で信じたように思われがちですが、そうではなく、聖霊によって確信が与えられ、告白に導かれたことを、聖書は私達に教えています。

*「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)

 イエス様が地上を去られた後、弟子達は、罪のないイエス様を罪ある者として殺してしまう、この世の勢力に、押しつぶされてしまうのではないでしょうか。実際、復活のイエス様が弟子達の所に来られた時も、弟子達はこの世の権力を恐れて戸には鍵をかけていました。イエス様は弟子達の弱さをご存じでした。それでもなお、この地上に神の国を打ち立てていくためには、イエス様が地上を去った後もこれまで通り、神の国の福音は宣べ伝え続けられていかなければならず、この世の終りが来る迄に、一人でも多くの人達が救われることが神様の御心・御計画であるゆえに、弟子達には(そして勿論私達にも)「助け手」が必要でした。

*「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

「弁護者」と訳された原語には以下の意味があります。「助ける為にそばへ呼び寄せられた者、支持、弁護する為にそばに呼ばれて来ている者、肩を持ってくれる人、被告の友人で彼の性質について弁明し、同情を持って味方してくれる人、助け主‥等」。(後見人(後ろだて)」と訳す注解書もある。)イエス様は、「弁護者、すなわち聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)「この方は真理の霊である」(16節)とも言われました。

*私達の伝道

「聖霊・真理の霊」は、私達の心の内に真理を浸透させて下さいます。私達が真理の霊によって呼び起こされる時、私達の心に「真理」が支配し、それにより私達は罪や堕落から守られます。私達クリスチャンが、与えられた場所で、イエス様の教えを思い起こしつつ日々を歩む中で、その生き方から、何か「世」とは違うと感じられ、「それを知りたい」と、教会に導かれる方がおられたら、それは、共に働く聖霊のみ業です。

エレミヤ書

月曜日・火曜日   

ユダとイスラエルに対する預言

1: 1~ 11:17 悔い改めの呼びかけ

11:18~ 20:18 エレミヤの苦闘

21: 1~ 24:10  王と預言者に対する預言

水曜日 

25: 1~ 25:14 諸国民に対する預言Ⅰ

26: 1~ 29:32 エレミヤの苦難Ⅰ

木曜日 

30: 1~ 33:26  慰めの希望の預言

34: 1~ 39:18 エレミヤの苦難Ⅱ

金曜日  

40: 1~ 45: 5 エルサレムの陥落以後

46: 1~ 51:64  諸国民に対する預言Ⅱ

52: 1~ 52:34  エルサレムとダビデ王朝の最後

【エレミヤ書について】

エレミヤが預言者として神の召命を受けたのは、ヨシヤ王の治世の第13年(紀元前627年)とされ、エレミヤは18歳、ヨシヤ王は21歳であったと考えられています。

ヨシヤ王は8歳で王位に着いたと記され〈列王記下22:1〉、その治世は前640年からエジプト王ネコとメギドでの戦いで戦死〈列王記下23:29-30〉するまでの31年間です。ヨシヤ王の死は、ユダの自立への希望の終焉を意味し、ユダ王国にはエジプトから重い貢税が課せられました。その後ユダ王国は、バビロンの支配下に置かれ、宗教混合が起こるなど様々な問題に直面しますが、最終的には、エルサレムは包囲され、占領されて、ユダ王国は前587年に滅亡したとされています。

預言者エレミヤは、主の神殿であるエルサレム神殿は、決してユダ王国の安全を保証するものではなく、主の神殿が堕落すれば、主によって、それは破壊されるのだと警告していました。エレミヤの第1回のバビロン捕囚となった人々に送った手紙には、バビロンという異教の支配下にあっても、落ち着いて生活し、ユダ王国を復興させる志を失ってはならないとの励ましの言葉が記されています。

エレミヤは苦難の預言者・涙の預言者として知られていますが、その人生は、決して悲しみに打ちのめされたものではなく、苦難の中でも神の言葉を伝え続ける強さと、主の希望に生きる力は、主を愛し、主に従うことによって与えられることを、私たちに伝えています。

(『ATD20 エレミヤ書』、『旧約聖書略解』エレミヤ書参照。) i

2020年2月16日の説教要旨

詩編32:1-7 ヨハネ福音書 5:1-18

          「起き上がりなさい」     佐藤義子牧師

*はじめに

本日の聖書は、イエス様が祭りの為にエルサレムに来られた時の出来事です。ユダヤの人達が祭りの度ごとにエルサレム神殿での礼拝を守る時、イエス様ご自身も人々と同じように律法に従われて、エルサレムに行かれました(大勢の人達が集まる時を、宣教の機会としても用いられました)。

エルサレム神殿を最初に建てたのは、旧約時代のソロモン王様ですが、その神殿はバビロニア帝国によって破壊され、バビロン捕囚の時代を経て、ペルシャ王によって神殿再建の許可が出され、だいぶ小さくなりましたが、完成の喜びは大きなものでした(エズラ記6:13~、ネヘミヤ記8章参照)。

その後 神殿は、歴史の変遷と共に多くの受難を受けた後、イエス様の時代には、ヘロデ大王が壮大な規模のものに建て直し(ヨハネ福音書2:20)、神殿を含むすべての面積はエルサレムの旧市街の6分の一に当たり、巨大な石垣の名残は、今も、「嘆きの壁」として見ることが出来ます。

このエルサレム神殿から約350メートル北に、「ベトザタ(口語訳聖書はベテスダ)」の池」を囲んで五つの回廊(柱の高さ8,5m、屋根もある)がありました。池から100mほどの所にはローマの軍隊の駐屯地と、総督官邸があり、神殿で何か起こればすぐ駆けつけられるようになっていました。

*横たわる大勢の人々

ベトザタの池を囲んだ回廊には、病気の人、目が見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人が大勢横たわっていました。立派な神殿の近くに、大勢の苦しむ人々が集まっていたのは、そこが神殿への通り道で、施しを受けることが出来たという理由の他に、4節(ヨハネ福音書の最後に掲載・212頁)に「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」とあります。(ある注解書では、この池が間欠泉で、時々活性を帯びた水の噴出による治癒作用が起こり、最初に入る者は活性の強い水に触れられたと考えています)。

*「良くなりたいか」

イエス様のまなざしは、その中の一人の人に向けられました。彼が38年間病気のために苦しみ、起きて歩くことが出来ないことをイエス様は知り、彼に「良くなりたいか」と声をかけられたのです。

イエス様の問いかけ「良くなりたいか」とは、「あなたは、今ある状態にとどまっていることに満足しているのか。それとも、本当に変えられたいと思っているのか」との、彼の意志の再確認の言葉として聞くことが出来ます。彼の「「治りたい!良くなる時がいつか来る!」との願いは、38年間も空しく待ち続けたために、いつしか無感覚なあきらめの境地に陥っていたことでしょう。良くなりたいと思っても、良くなる時が来るとは実際には考えていなかったでしょう。彼は、誰も自分を助けてくれる人がいない、と絶望的な状況を訴えることしか出来ませんでした。

*わたしたち

カルヴァン(神学者)は、「私達は、この病人と同じことをやっている」と言いました。以下はその説明です。「この人は、自分の考えに従って、神様の助けに枠(わく)を定め、限界づけをして、自分が受け入れられる範囲を超えることは認めない。しかしキリストはその寛大さのゆえに、彼の不完全さを大目に見て下さっている。私達は、自分に近い手段だけにとどまっているのに、キリストは、すべての期待に反して、人知れないところから手をさしのべられ、私たちの信仰のせまさ、小ささをどんなに上回るものであるかを示される。・・だから私達もさまざまな苦悩に責められながら、どんなに長い間どっちつかずの状態に置かれても、時間の長さに嫌気を起こして、勇気を無くしてはならない」。

*「起き上がりなさい」 

私達が、あることを願いながら、現実の絶望的な状況を前にして、あきらめ、無気力に陥(おちい)り、祈り求めることをやめようとする時、(あるいはやめた時でさえ)「神様の時」が来るとイエス様の愛のまなざしは私に向けられて「良くなりたいか」と尋ねられ、癒(いや)し主(ぬし)イエス様の権威あるお言葉「起き上がりなさい」との声を今も聞くことが出来ます。

エステル記

  • エステル記通読にむけて

月曜日  1: 1~ 2:23  王妃の交代とモルデカイの働き

火曜日  3: 1~ 4:17  ユダヤ民族絶滅計画とモルデカイの信仰

水曜日  5: 1~ 8: 2  エステルの働きとハマンとモルデカイの逆転

木曜日  8: 3~ 9:19 ユダヤ民族の救いと復讐

金曜日  9:20~10: 3 プリム祭の制定とモルデカイの栄誉

【エステル記について】

聖書の中で、女性の名前が書物のタイトルになっているのは、このエステル記とルツ記の2つだけになります。エステル記はルツ記と同じように、ヘブライ語聖書においては「諸書」に分類され、「メギロート(巻物)」と呼ばれる五つの祭日に朗読される書物の一つです。(雅歌:過越祭、ルツ記:七週祭、哀歌:アブの月の9日・神殿破壊記念日、コヘレト書:仮庵祭、エステル記:プリム祭)

エステル(ヘブル語名は「ハダサ」でミルトスの意)は、ペルシア帝国スサの町(ネヘミヤが滞在していたとされる町)に、捕囚民として住むモルデカイ(ベニヤミン族)の養女として育てられましたが、ユダヤ人でありながら、ペルシア王の王妃としての地位が与えられます。

1章では、なぜエステルが王妃になることができるのかを説明する物語として王妃ワシュティーの退位物語が語られますが、2章からはエステルの歩みと並行して、モルデカイの物語が続きます。異教の地で、主なる神のみを礼拝するユダヤ民族の試練にあって、王や権力に近い場所に置かれた二人が、ユダヤ民族の代表としてどのように行動し、どのように決断していくのかを知ることができる書物です。また同時に、ヨセフ物語やダニエル書にも共通する、主の摂理とご計画、主によって与えられている信仰と知恵が豊かに描かれている書物でもあります。

【プリム(Purim)】

 プリムとは、ユダヤ暦においてアダルの月の14日に挙行される春の祝祭である。この祝祭はその聖書的な根拠を与えているエステル記と密接に関連しており、おそらく、ペルシア時代に生じたのであろう。エステルの物語の中で祝われている祝日としてプリムが再現するものは、ユダヤ人のアイデンティティとユダヤ人共同体に対する帝国の脅威、その帝国の脅威に対する勇ましくて巧妙な抵抗、ユダヤ人の驚くべき救出と名誉の回復である。プリム祭は、ユダヤ人の運命を決定した「くじ(ヘブライ語でPur)」を投げることからそう名付けられており、シナゴーグにおけるエステル記の朗読は当然なくてはならぬものとなっている。しかしながら、そのようなことを通り越して、この祝祭は解放されたユダヤ人のアイデンティティと自由を思う存分祝い喜ぶカーニバル気分を誘い、行為で表現する・・・。

比較的後代にユダヤ暦に入れられたこの祝祭は、ペルシア時代にユダヤ教が直面した脅威を映し出しているが、より広い視野で見れば、それはユダヤ人共同体が絶えずさらされていた支配的文化の脅威を映し出している。従ってプリムとは、ユダヤ人のアイデンティティが完全に解放されてもう恐れる必要がなくなった現実を、十分かつ公に明らかにするべく定期的に祝われる祭典であり、ユダヤ人のアイデンティティを抑制し制限し黙らせることを拒絶し、慣習的な政治的要請や社会的期待に服従させられることを拒絶する祭典なのである。(ブルッゲマン、388頁抜粋。)

【エステル記4章から】 「『この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。』エステルはモルデカイに返事を送った。『・・・私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。・・・私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。』」 

今週のみことば

★歴代誌上

月曜日  1: 1~ 9:44  イスラエルの初期の歴史

火曜日 10: 1~29:30 ダビデの治世

★歴代誌下

木曜日  1: 1~ 9:31 ソロモンの統治

金曜日 10: 1~36:23 ユダの歴史

【歴代誌について】

歴代誌は、ヘブライ語聖書では、諸書と呼ばれる部分の最後に置かれ、「日記、年代記」という書名になっています。

申命記史家によって書かれた申命記史書(ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記)に対して、歴代誌史家によって書かれた歴代誌史書がこの歴代誌とエズラ記、ネヘミヤ記と考えられています。  

歴代誌はサムエル記と列王記の物語と並行し、王国時代の歴史が書かれています。(マタイ・マルコ・ルカの福音書がそれぞれの視点から同じ物語を書き記しているのと似ています。)歴代誌史書は、申命記史書より後の時代に編集されたと考えられ(前300-前200年頃)、申命記史書にはない記事も記されています。

旧約学者であるM.ノートは、歴代誌史家が特に伝えたかったことは、ダビデの王権と、主を礼拝する祭儀の場所としてのエルサレム神殿の正当性を証明することであると考えました。また、捕囚後にエルサレム神殿を再建し(エズラ記)、そこで礼拝する者達が、「イスラエル」の正統的な後継者であることを証明しようとしているのではないかと考えています(ノート, 353頁)。

(M.ノート『旧約聖書の歴史文学』山我哲雄訳、1988、第2部参照。)

今週のみことば

  • 列王記上

月曜日  1: 1~11:43  ソロモンの統治

火曜日 12: 1~16:34  王国の分裂

水曜日 17: 1~22:53  エリヤの預言の時代

★列王記下

木曜日  1: 1~13:25 エリシャの預言活動

金曜日 14: 1~17:41 エリシャの死からイスラエルの捕囚まで

土曜日 18: 1~25:30 イスラエルの捕囚からユダの捕囚まで

(マクグラス、180-182頁。)

【列王記について】

イスラエルの王国の歴史は、サムエル記上下・列王記上下に記され、七十人訳聖書(LXX)では、王国1,2,3,4と呼ばれています。ダビデとソロモンの時代に、一つの王国として栄えた「イスラエル」でしたが、ソロモンの死後(列王記上12章以降)、「イスラエル」は、「北王国(イスラエル)」と「南王国(ユダ)」に分裂します(BC931-922頃)。そして「北王国(イスラエル)」は、BC722年、「南王国(ユダ)」はBC587に滅亡します。その後、イスラエル(ユダ)の人々は、捕囚民としての生活を強いられますが、帰還が許されたあとに、エルサレム神殿を再建します(BC516-515頃)。しかし、それは「イスラエル」の国の再建ではなく、ペルシア帝国、ローマ帝国の支配下に置かれた「ユダヤ州(属州)」の中で生きる人々の歩みであり、再び「イスラエル」の国が再建されたのは、1948年になってからでした。

列王記は、なぜ「イスラエル」は分裂し、約束の地を失わなければならなかったのか、という問いに答えるようにイスラエルの歴史を語っています。しかし同時に、主は人々を憐れみ続け、預言者を遣わし、神様の言葉を示し、民が主に立ち返り歩む道を備え続けて下さっていることを伝える、希望の書物とも言うことができるのではないでしょうか。

2019年7月7日の説教要旨 

詩編133:1-3・フィレモン書8-20

「キリスト者の生き方-立ち直らせた愛」   佐藤義子

*はじめに

今年度の毎月第一日曜日は、パウロの手紙から学んでおり、今朝はフィレモン書から学びたいと思います。この手紙は、「コリントの信徒への手紙」のように、その土地に建てられた教会の信徒達に宛てられた手紙ではなく、内容もイエス・キリストを頭(かしら)とした教会が形成されていくために、信徒達に正しい福音理解と信仰の成長を願い、教えや戒めや励ましや警告などが記されている手紙ではありません。フィレモンさんという個人にあてた手紙であり、パウロが「使徒」という立場を離れて、個人的な問題について書いた私的な手紙です。その私的な手紙が、キリスト教の正典である新約聖書におさめられているのです。聖書が編纂される時、この手紙は、たった一人の人の運命を問題にしているにすぎないと言う理由で、聖書の中に入れることに否定的な意見もあったようです。しかしそのような中でこの手紙が聖書に組み込まれ、本日、私達がこの手紙を読むことが出来るのは、大変幸せなことだと言えるでしょう。

*主人フィレモンと奴隷オネシモ

手紙の受取人であるフィレモンは、富のある豊かな家柄で、おそらくパウロがエフェソで伝道していた時、福音を信じて救われたクリスチャンであると思われます。その後フィレモンは、コロサイ市に住む市民として、家族にも伝道して「家の教会」をつくり、その集会で良き奉仕を続けていたようです。ところが彼の家で働いていたオネシモという奴隷が、家から逃げ出し、オネシモはその後、パウロを頼って訪ねたのか、あるいは逃亡奴隷ということが発覚して投獄され、そこでパウロに出会ったのか、くわしいことはわかりませんが、獄中のパウロから福音を聞いたのです。

やがてパウロの伝道によってオネシモの心が開かれ、悔い改めが起こり、彼はイエス様を救い主と信じてクリスチャンになりました。そして、今や、オネシモはパウロにとっては、なくてはならない良き助け手として働いてくれるようになっていました。

*パウロとフィレモン

当時の法律では、逃亡奴隷は見つけ次第、主人のもとに送り帰すことになっていました。が、パウロにとって一番望ましいのは、これからもオネシモがパウロのそばにいてくれることでした。パウロは年をとり、しかもまだ獄中生活が続きそうだったからです。パウロがこのままオネシモを預かっていても、後で説明すれば、フィレモンはきっと了解してくれるだろうとの思いもありました。しかしこのような状態を続けることは、神様の御心に適(かな)うのかどうか、パウロは熟慮し祈った結果、フィレモンの承諾なしにこのままオネシモを自分のそばに置いておくことはやめて、先ずオネシモを法的所有者であるフィレモンに送り帰す決断をします。しかし、クリスチャンになったオネシモを、フィレモンの家に送り帰すだけで終るなら、フィレモンとオネシモの関係は直ちにもとの主人と奴隷の関係に戻るだけであり、オネシモは「かつて主人を裏切った逃亡奴隷」としての重荷を負いつつ、主人に仕えることになるでしょう。そこでパウロはこの手紙を書いたのです。

*手紙

年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、あなたの愛に訴えてお願いします。」「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れて下さい。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。」「オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。」 

*パウロの願い

パウロはフィレモンに、命令でも強制でもなく、クリスチャンとしての義務として要請するのでもなく「お願い」の手紙を書いたのは、フィレモンがパウロとの「関係」に左右されることなく、頼まれた願いを 受けるにせよ、拒むにせよ、自由に自分の考えで、あるべき道へと歩むように願ったからでしょう。愛とは自発的なものであるからです。

今週のみことば

 ★ サムエル記下
月曜日         サムエル記上(予備日・復習日)
火曜日  1: 1~ 6:23 ダビデ,イスラエルの王として油を注がれる
水曜日  7: 1~12:31 ダビデの治世
木曜日 13: 1~19: 8 アブサロムの反逆
金曜日 19: 9~24:25 ダビデの治世の最後の時代
【サムエル記について】
サムエル記上・下は、七十人訳聖書(LXX・ギリシア語訳)では、「王国1・2」と呼ばれています。また列王記上・下が「王国3・4」となり、この4書に「イスラエル(イスラエルとユダ)」王国の歴史が記されます。
士師記までの時代には、イスラエルに王様はなく、主ご自身が王として、イスラエルの民を導きました。また士師や祭司、預言者を通して語ってくださいました。しかし人々は、周りの国々と同じような王制を求め、主はサムエルに、ベニヤミン族のサウルに王として油を注ぐことを許します(油を注がれた者=メシア=キリスト・民の贖いの為に神に任命された者という意味を持つようになります)。サウルがイスラエルの最初の王様として統治します(年代に関しては諸説ありますが、キリスト教学校教育同盟編『旧約聖書の教え』創元社2015ではBC1020~1000です)。しかし、サムエルが献げるべき犠牲をサウル自身が献げてしまったことにより、主はサウルを王位から退けて、サムエルは、ダビデに油を注ぐことになります。主は、ダビデとダビデの子孫を祝福することを約束し、イスラエルには、ダビデ以上の王様は現れなかったと言っても過言ではありませ。しかしそのダビデの人生でさえも、失敗と悔い改めが繰り返され、主の憐れみを受け続けた人生でした。ダビデの歌とされる詩編の中には、絶望の中においても、主の真実に希望を見いだす信仰があります。
またサムエル記には、ハンナの祈り、少年サムエル、ダビデとゴリヤテ、ダビデとヨナタンなど教会学校では良く読まれる物語が記されています。
(マクグラス、158-178頁参照。)


【イスラエルとユダについて】
イスラエルは時代によって、様々な意味を持っています。たとえば、①ヤコブの別名が〔イスラエル〕創32:29であり、②ヤコブの子孫が「イスラエル」の12部族であり、「イスラエル」の共同体とされてきました。「イスラエル」の12部族は、神様の約束の土地であるカナンの地に入ると、③約束の地全土を『イスラエル』と呼んでいました。
しかし、北の土地に住む部族(サウルの支持者)と南の土地に住む部族(ダビデの支持者)の間に戦いが起こった為、④北の土地と北部の部族を{イスラエル}⑤南の土地と南部の部族を{ユダ}と呼ぶようになります。
しかしダビデとソロモンの時代は、⑥{④イスラエル}も{⑤ユダ}も、「②イスラエル」/『③イスラエル』という一つの国(統一王国)でした。
その後「イスラエル」王国は分裂して、⑦《北王国イスラエル》と⑧《南王国ユダ》となります。
またイスラエル人とは現在のイスラエルの人々のことを指すと同時に、聖書の時代では、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫、つまり「イスラエル」の人々を指します。またユダヤ人とはユダ部族だけを指す言葉ではなく、北王国イスラエルの滅亡後に南王国ユダだけが残ったために、やはり「イスラエル」の人々を指す言葉として用いられます。ヘブライ人/ヘブル人とは「向こう側から来た者」という意味で、異国民としての「イスラエル」を指し示すために、イスラエル人=ユダヤ人=ヘブライ人/ヘブル人であり、文脈の中で何を強調しているかによって使い分けていると考えると分かりやすいかもしれません。

【サムエル下7章から】
「主なる神よ、取るに足りない私と、私の家を、ここまで導きくださるのは、なぜでしょうか。主なる神よ、あなたの目には、これさえも小さなことにすぎません・・・それゆえ、僕はこの祈りをあなたに献げる勇気を得ました。」

今週のみことば


 ★ レビ記:幕屋・礼拝についての律法、規則
月曜日  1: 1~ 7:38 犠牲の制度
火曜日  8: 1~10:20 祭司の聖別
水曜日 11: 1~15:33 清いものと穢れたもの
木曜日 16: 1~16:34 贖罪日
金曜日 17: 1~27:34 イスラエルの民の生活についての規定

【レビ記について】
◎レビ記とは、幕屋での礼拝についての律法や規則について書かれ、レビ族(アロンとその子孫に与えられた幕屋の礼拝を執り行う任務やイスラエルの民の間で聖性を維持する責任が与えられた部族)に由来する。またレビ族に関しては、出エジプト記6:14-26、民数記26:57-62に記されている。

◎レビ記の中心的主題は「聖性」であり、神が聖であるように、神の民は聖でなければならない。レビ記は神の民の側の聖性がどれほど重要であるかを伝え、神との関係を損なう人間の罪の深さ、その罪の贖いが必要であることを教える。

◎レビ記の重要な主題である「犠牲」は、新約聖書において、イエス・キリストが人間の罪をあがなう完全な犠牲になったことへとつながっている。(cf.ヘブライ人への手紙、8章、10章など)

(A.E.マクグラス『旧約新約聖書ガイド』本多峰子訳、教文館、
2018年、96-97頁より引用・要約。)

【レビ記10章説教 関連聖書箇所】
① ロマ書14章「・・・主の為に重んじ・・・主の為に食べ・・・主の為に 食べない・・・主の為に生き・・・主の為に死ぬ・・・私たちは主のもの」

② 2テモテ4:2
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい・・・。」

③ 詩編119:105
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

④ ヨハネ1:1,17 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた・・・」

⑤ ヨハネ14:6,26-27 「イエスは言われた。『わたしは道であり、  真理であり、命である。』わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」・・・『父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和を あなたがたに残し、わたしの平和を与える。』

⑥ ヨハネ20:31 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、 イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

⑦ ヘブ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

2019年4月7日説教要旨

詩編19:2-15/ Ⅰテサロニケの手紙5:12-22       

「教会形成の原動力」    佐藤 義子

*はじめに
もう、30年も前になりますがイギリスに滞在していた時、ショックを受けたことがあります。それは、都合によりいつも行っている教会ではなく、近くの教会で礼拝を守ろうと計画した時のことでした。前日にその教会の礼拝時間を調べに行ったところ、中に入る庭の木戸には鍵がかけられ、広い柵をぐるりと一周回ってもほかに入口はありませんでした。そこでバスに乗り、近くの他の教会を探そうと試みたのですが、教会らしい建物を 見つけても礼拝している雰囲気はなく、後で知人に尋ねますと、木戸に鍵が掛けられていた教会は現在閉鎖中であること、バスから見つけた教会は、今は図書館になっていること、ほかにもレストランとして使われている教会もあるということでした。古い大きな建物のゆえなのか、教会維持が困難となり、教会が売りに出されるという大変衝撃的な現象が起きているのを知りました。かつては確かに、その場所で礼拝が守られてきた「生きた教会」であったはずなのに、歴史の流れと共に教会が教会でなくなって しまった(=その地域で、神様を礼拝する場所が失われてしまった)姿に、私は大変心が痛みました。


*教会が、教会として、歴史の中で生き続けていくために・・・
教会は本来、この地上が存続する限り、終末の時まで存続していくことを祈りつつ歩むべきと考えています。100年でも1000年でも2000年でも教会が教会であり続けるためには、そこで礼拝をささげているクリスチャンが、「教会は何を根拠として立ち続けているのか」、「宣教すべき内容の中心は何か」、「何があれば教会であり、それがなければ教会でなくなるのか」を正しく知り、理解し、信仰の確信をもって、次世代へと継承し続けていかなければならないと思わされました。 そこで今日は、聖書を通して教会の基盤について、ご一緒に学びたいと思います。

*教会成立の基礎は「聖霊」
教会が地上に成立したのは「ぺンテコステ」の出来事によります。
ペンテコステはイエス様が生前約束されていた「聖霊」が、イエス様の復活の50日後に、弟子達にくだった出来事です。その日3000人の人々が信じてバプテスマ(洗礼)を受けたことにより、キリスト教会では、ペンテコステを教会の誕生日として祝っています(使徒言行録2章を参照)。「聖霊」は、神様から送られてくる霊であり、教会が教会として立ち続けていくためには、この聖霊の導きが不可欠です。教会はイエス・キリストが頭(かしら)(エフェソ4:15)であり、信仰を与えられたキリスト者はキリストの体(Ⅰコリント12:27)として教会を形成しています。そして宣教の実りとして与えられるバプテスマは、聖霊の働きによるものです。「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。」(コリント第一12:3)


*教会の土台はイエス・キリスト
教会の頭であるイエス様は、同時に、教会の土台でもあります。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません」(Ⅰコリント3:11)。 キリストを土台とするとは、以下の信仰の上に立つということです。
① イエス様の受肉=神様の御子が人間として、私達を救うために
この世に誕生された。
② 贖罪=イエス様の十字架によって流された血潮によって、神様が私達の罪を赦して下さった。「キリストは、ご自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)。十字架によって私達の罪が贖(あがな)われた(ゆるされた)。
③ 復活=イエス様の死からの甦(よみがえ)り。「死は勝利に のみ込まれた」(コリント15:54)、「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」(Ⅱテモテ1:10)。死は私達の終りでも絶望でもなく、信じる者には、死に勝利して永遠の命に至る約束が与えられています。

  
*教会の信仰
こういうわけで、教会の信仰は、聖霊の導きと、イエス・キリストの
受肉と贖罪と復活を信じる信仰が中心に在ります。また、教会は、「見える教会」と「見えない教会」から成り立つといわれます。同じ信仰を告白する「信仰告白共同体」とか、「信仰者の群れ」とか言われるのは、見える教会の部分です。

 見えない教会としては、信仰者の国籍は天にあり、信仰者は、主イエス・キリストが救い主として来られる再臨の時を待っている群れでもあるということです。又、教会は、神様によって聖なるものとされている団体であり、この聖性も見えない教会の部分です。

 私達は、旧約時代(BC・キリスト誕生以前)ではなく、救い主イエス様が「既に」この世に来られた時代(AD・主の年・紀元)に生きていますが、「未だ」再臨の時を迎えていません。私達は「既に」と「未だ」という中間時代を生きています。それだからこそ「今や恵みの時、今こそ救いの日」Ⅱコリント6:2)なのです。信じる者が救われる時です。しかし信仰は自分の力で獲得するものではなく、求める者に聖霊が働いて与えられるものです。私達は、愛する家族、友人、知人の救いの為に、聖霊の導きを切に祈り、この今の恵みの時を無駄にすることなく祈り求め続けていきたいと願っています。

 *テサロニケ書から学ぶこと
さて、今日の聖書には、私達の信仰共同体の目指す姿が記されています。この手紙は、パウロがテサロニケの教会の信徒達に宛てて教え勧めている手紙です。12節には、教会のリーダーに対しては愛をもって心から尊敬するようにと教えています。リーダーは常に目を覚まして自分自身と群全体とに気を配らなければなりません。又、罪と戦うように忠告することも時には必要です。又、不安や恐れの念をもって動揺している人がいれば、その弱さを共に担う立場に置かれています。それゆえパウロは、そのような教会の為の働きをする人達に、特別な愛を持つことを望んでいるのです。そして、勧めは以下のように続きます。

 <平和に過ごしなさい> 教会の中が平和であれば、リーダーは心おきなく、教会の仕事が出来ます。教会にとって一番警戒しなければならないことは分裂です。パウロはさらに、怠けている人達を戒め、気落ちしている人を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して忍耐強く接しなさい。悪をもって悪に報いることのないように、お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。と教えています。 
これらは教会の中が教会らしく、いつも平和であるための道しるべのように思います。相手がどうであれ相手の態度に影響されることなく、「すべての人に対して」「いつも」が大原則です。教会に導かれて、イエス様の十字架によって罪が赦された信仰者に向かって、「あなた方にはそれが出来るはず」とのパウロの願いと期待をここに見ます。


*「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ。」
時に実践は困難のようにも思えます。しかし「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」だと言っています。私達の愛する神様が、私に対して、このように生きることを望まれているのです。注目すべきは、「キリスト・イエスにおいて」です。イエス様が私の為に、こんな私の罪が赦されるために十字架で死んで下さった。それ故、私の罪は赦され、神の子とされ、永遠の命をいただき、この地上にいながら、神様のご支配のもとで生かされている。
この現実に目を留める時、私達は救われていることの喜びと、愛されていることへの感謝が内から沸き起こり、いつも共にいて下さる神様への祈りへと向かわせられるのではないでしょうか。信仰生活は「このようにしなさい」ではなく、そのようにさせて下さるお方と結びついているゆえに、そのように生きる道が用意されているのです。
19節「霊の火を消してはいけません」。聖霊の火が消えた時、教会は教会でなくなります。聖霊の火を勢いよく燃え続けていただけるよう共に祈りましょう。21節「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」22節「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」これら、すべての教えは、2019年を信仰者として生きる今の私達に語り続けています。