11月24日の説教要旨 イザヤ書65:17-25・黙示録21:1-8

「聖書に示された未来」    平賀真理子

*はじめに「ヨハネの黙示録」を通して

 新約聖書は27巻の書物から成っていますが、もっと大きく分けると、「過去・現在・未来」という分類があります。その「未来」に分類される、唯一のものが「ヨハネの黙示録」です。今週は、教会暦では一年の終わりです。この時期に、聖書には、どのような「終わり」が示されているか、見てみたいと存じます。

 「黙示録」とは、隠されていることを明らかにした記録という意味があります。「ヨハネの黙示録」は、救い主イエス様が十字架で亡くなった数十年後に、ヨハネという人に神様から示された幻が記録されているわけです。無限の神様から示されたことを、有限な知識や感覚しかない人間が受け取り、限られた方法(この時代は文字による記録だけ)で残しています。ほんの一部を垣間見ることしかできないとは思いますが、この書物に、私達の未来が示されているなら、信仰者は知りたいと願うものでしょう。

*「新天新地」は神様からのプレゼント

今日の新約聖書箇所は、この書物の最後の部分の二つの章(21章と22章)の一部です。1節と2節で、私達の今、享受している天と地(最初の天と地)と「諸悪の根源」と考えられていた「海」がなくなって、新しい天と地が下ってくると書かれています。私達の社会では、何かを地上から積み上げた末に理想を築くという考え方をします。だから、その途中で積み上げようとしたことが壊されたり、中断されたりすることを非常に恐れます。それが、「神無き社会」の常識です。

 けれども、「新天新地」については、神様が人間にプレゼントとして与えようと前々から準備なさっていることがわかります。人間の努力等に関係なく、神様が決められた時が来たら、人間が思いも及ばない次元の世界が、神様の恵みとして、天から与えられるのです。神様は、自分勝手な人間を見捨てず、愛し続けておられることが暗示されています。信仰者は、自分勝手に心配せずに、信仰者にふさわしい生き方を守るべきでしょう。

*「人と共に住む(居る)神様」

 神様の特徴の一つに「人と共にいる」ことを望んでおられる御方であるということがあります。聖書によく記されている御言葉です。今日の箇所の3節にも「神は自ら人と共にいて」とあります。この望みのために神様は人間を含むこの世を作られたのですが、人間が自ら罪に陥って、神様が自分に親しく関わってくださる(「共にいる」)関係を壊したのです。この隔ての壁である「人間の罪」を壊して、神様と人間の親しい関係を修復なさったのがイエス様=十字架と復活によって「救いの御業」を果たされたイエス様です。そのイエス様を救い主と信じる者達は、主の恵みをいただき、神様との親しい関係を修復していただけるようになったのです。

私達信仰者は、この世では信仰生活を貫くにあたっては様々な困難がありますが、もはや神様によって、違う次元の恵みを既にいただき、それが永遠に続くことが保証されていることを、実は聖書は示していたのです。

*「わたしは初めり、終わりである」

今日の新約聖書箇所の後半の段落の6節では、神様が「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」とおっしゃっています。アルファとオメガは、新約聖書が書かれた元々の言葉ギリシャ語の最初の文字と最後の文字です。次の文「初めであり、終わりである。」と同じ意味です。また、この「初め」という言葉は「起源」を、「終わり」という言葉は「目的」という意味を含んでいます。つまり、神様が、人間を含むこの世すべての源であり、すべての目的であると示されています。人間の根源的な問い「どこから来て、どこへ向かうのか」への答えです。人間は、神から来て神に帰ってゆくのです。この「神」は私達人間を本当に愛して、この世が提供する「一時的な幸い」ではなく、神様の次元の「本当の幸い」を無償で(条件をつけたりしないで)与えたいと願っておられます。その恵みを受けるに相応(ふさわ)しい者達は、勿論、イエス様を救い主と受け入れて、この世で信仰生活を貫いた者と言えるでしょう。しかし、この世での大変な状況の中で信仰を貫けない者=臆病な者や信仰を止めた者、信仰者として相応しい生活をしなかった者は外されると8節にあります。逆に、信仰の戦いに「勝利を得る者」には、主の恵みが必ず与えられます。 私達の未来には、神様がご用意くださった世界での永遠の生があります!

11月10日の説教要旨 サムエル記上 30:21-25 Ⅰコリント10:23-31

「信仰から生まれる行為」 佐藤 義子      

*はじめに

聖書には、多くの人々が登場しますが、今朝は旧約聖書からダビデを、新約聖書からはパウロを取り上げて、神様を信じる信仰から生まれる行為に目を向けて学びたいと思います。

*ダビデ

ダビデの生涯は、旧約聖書 サムエル記上16章から約70頁にわたり記されています。本日の箇所は、ダビデがサウル王から嫉妬され、命までねらわれ、ダビデに従う兵士600人と共にイスラエルの敵であるペリシテ人の王アキシュのもとに逃げて身を寄せていた時の出来事です。

*ツィクラグ

アキシュ王は、ダビデのために「ツィクラグ」の領地を与えてくれたので、ダビデと妻、兵士達とその家族は、ペリシテ人の支配地域であったその場所に住み、そこから戦いなどに出て行きました。やがてペリシテ人は勢力を伸ばすため、イスラエル軍とも戦うことになりました。ダビデ達もアキシュ王と共にペリシテ軍の集結場所に出かけていきます。ところが途中で他のペリシテ人の武将たちが見慣れないダビデを見て、身元を尋ね、ダビデが、敵の民族イスラエル人であると知り、戦列に加わることを拒否し、帰るように命じます。仕方なくダビデは家来達とツィクラグに戻りますが、ツィクラグはダビデ達の留守中に、近隣に住むアマレク人の攻撃を受け、町は焼かれ、すべての男も女も捕虜として連れ去られていました。

*悲しみの中で

ダビデも兵士達も、すべてを失ったことを知り声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなったと聖書は伝えています。ダビデは苦しみの中で、神様に、アマレク人の略奪隊を追跡すべきか、追いつけるのか御心を問いました。ダビデが聞いた答は、必ず家族達を救い出すことが出来るというものでした。そこでダビデは600人の兵士たちと追跡の為、出発します。けれども、疲れていた兵士達の中からは落伍者が出てベソル川に来た時は400人になっていました。が、さらに200人は疲れすぎてベソル川を渡ることが出来ずそこにとどまり、残る200人で追跡を続けます。

*野原で見つけたエジプト人

途中、野原で一人のエジプト人を見つけます。彼は、町に火をつけたアマレク人の奴隷でしたが病にかかり主人から捨てられ三日三晩飲まず食わずで倒れていたのです。ダビデは彼に食事を与え、元気を取り戻させた後、略奪隊のところまで案内してもらい、略奪隊に追いつきます。略奪隊は奪った戦利品を前にお祭り騒ぎをしていましたので、ダビデ達は夕暮れを待ち、彼らを襲撃して奪われた物を奪い返し、捕虜として捕まっていた自分達の家族をすべて連れ帰ることが出来ました。

*ベソル川で

ベソル川まで戻ると、疲労の為 川を渡れずその場にとどまっていた200人の兵士達がダビデ達を迎えに出てきました。ダビデは彼らの安否を尋ねましたが、最後まで戦った兵士の一人が、その場にとどまった兵士達に向かい「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。ただ妻と子供を受け取り連れて行くがよい」と言いました。途中で戦列を離れた人と最後まで戦った人との待遇は違って当然、という一般社会(この世)の考え方です。

ところがダビデは「兄弟たちよ、主が与えて下さったものをそのようにしてはいけない。我々を守って下さったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。

*ダビデの信仰

ダビデは、すべてのものは神様のものであり、すべては神様から来ているとの信仰で生きた人でした。ツィクラグが焼かれて、すべてを失った中で、今、愛する家族と財産を取り戻せたのは、苦しみの中で祈り求めた結果、追跡する道へと導かれたからであり、又、自分達の家族と財産を取り返すために疲れ切っているにもかかわらず、兵士達がダビデの指示に従い、それぞれが自分の限界まで戦えたのも、神様からの力と励ましがあったからであり、追跡の途中でエジプト人に出会い、道案内を受けたことで追いつけたのも、すべては神様の導きと助けなくしてはあり得ないことでした。ダビデは常に、何をするにも「インマヌエル(神、我と共にいます)の信仰が土台であり、この時も「守って下さったのは主」「略奪隊を我々の手に渡されたのは主」との告白のもとで、「皆、同じように分け合う」との行為が生まれたのです。

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*菜食主義者と肉食主義者

次に、パウロを取り上げて、その言葉に耳を傾けたいと思います。

私達クリスチャンは同じ神様を信じており、このことにおいて一つになれます。しかし、それぞれ顔が違うように性格も考え方も違うため、パウロの時代(おそらく現代の教会も)、一人一人、その信仰の表し方が違っていました。パウロの時代、教会の中には菜食主義者と肉食主義者の対立がありました。菜食主義者が、肉にこだわったのは、市場に出回っていた肉の中に、偶像の神の神殿にささげられた肉がまざっていたからです。彼らの心配は、もし偶像に供えられた肉をキリスト者である自分たちが食べることで自分達は汚されるのではないか、と不安に思ったのです。その一方で、「キリスト者はすべてから自由にされた者である」と考える人達は、偶像に供えられた肉であってもキリスト者は神様の霊を受けて救われている者であり、この世のあらゆる束縛から解放されていると考えておりました。

*パウロの言葉

パウロは、8章4節で「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」と語り、たとえ、多くの神々がいるように思われていたとしても、私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出て、この神へ帰っていくこと、そして唯一の主イエス・キリストがおられ、万物も、私達も、主によって存在していると宣言しています。

ですから、パウロは、この世にあるすべてのものは、天地を造られた神様によって存在し、私達も又、この神様によって存在しているので、出された肉を食べても食べなくても、それによって自分自身が汚されたり汚されなかったりするということはないと語っています。

*パウロの、菜食主義者に向き合う行動

では、信仰のゆえに食べてはいけないと考えている人達に対してパウロは、どのように向き合っていたのでしょうか。もし食事に招かれた席で、菜食主義者の人から、「それは、偶像に捧げられた肉ですよ」と親切に教えてくれた場合は、パウロは食べないと答えています。

なぜなら、もし自分が食べれば、菜食主義者の人は、自分の良心を殺して、自由に食べる人達に合わせて無理して食べることになるかもしれない。それは、結果的に、肉を食べない人達の「良心を傷つける」という罪を犯すことになる、とパウロは指摘します。

*パウロの肉食主義者に向き合う行動

その一方で、パウロは、「すべてのことが許されている」と主張している人々に対して、キリスト者であることは自由を与えられていることであると同意します。しかし、『自由』を叫ぶ彼らの「自由」が、果たして、人々の救いに役立つのか、教会を建てあげていくための、教会に仕える自由であるのか、と、その「自由」の本当の意味を問うのです。

*自由を与えられているキリスト者

私達がキリストにあって自由な者とされたことは確かです。そして、私達の自由が他人の良心によって左右されることはありません(29節)。しかし、その自由は、何でもしてよいという自由ではありません。

キリスト者はすべてのことが許されているけれども、すべてのことが益となるわけでも、自分を造り上げていくのでもなく、それをすべきかどうかは、人々の救いの為、自分の益ではなく多くの人の益を求める(33節)ことにあり「何をするにしても、すべて神の栄光を現すため」(31節)とパウロは、行為の原点に目を向けさせます。私達は聖書を通して信仰の先輩達に学び、確信をもって歩めるよう聖霊の導きを祈るものです。

11月3日・召天者記念礼拝の説教要旨

詩編23編・エフェソ書3:14-21 

        「三つの祈り」         佐藤 義子 

*はじめに

日本基督教団では、毎年11月の第一日曜日を「召天者記念礼拝」として守っています。私達の伝道所では3名の方々を覚えての記念礼拝ですが、この方々は、地上の生涯を終えるまで神様を信じて神様に従った方々です。  

私達は、先に召された方々の信仰生活を思い起こすことで時に励まされ、時に慰められ、又、時には「今いらしたら、きっとこう言われるでしょう」と教えられたりします。博子姉が後遺症で身体が不自由になり、つい不満を言いかけた直後、「『そんなことを言うなら、こちらにいらっしゃい』」と神様から言われてしまうわね」と良く言っていました。又、「私達(クリスチャン)は良いことが起こった時、神様に感謝するけれども、神様を知らない人は「運が良かった」と言って、時には威張ったりするのね。神様を信じているからこそ、私達は感謝できるのね」などの言葉を思い出します。 

平野兄で思い出されるのは、最後の日々を非常に穏やかに過ごされていたことです。ああして欲しい、こうして欲しいなどの不満は一切聞いたことはありません。訪問時、待降節の季節でしたのでクリスマスの讃美歌をたくさん、(おそらくご一緒に)歌った楽しいひと時が思い出されます。

石川兄はガンとの闘病生活を送られて63年の生涯でしたが、克明に闘病日記を記され、信仰のことや聖書の御言葉なども残され、看護婦さんにも伝道されていかれました。石川兄の記念礼拝には看護婦さんも福島から出席して下さり、以来「こころの友」を郵送しています。

神様を信じる者は、神の国の民とされて永遠の命をいただいていますので、肉体の死は天の国への入り口に過ぎません。終末の時、神様を信じる者達は、聖書で約束されているように「復活体」という霊の体が与えられます。そして「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~)。

*異邦人

本日の聖書は、パウロが獄中から、異邦人教会に宛てて書いた手紙です。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)は、それ迄、天地創造主のまことの神様を知らず、「律法」もなく生きてきた人達です。けれども神様の大きな愛はユダヤ人だけでなく信じる者すべての人を神の子とするために御子イエス様を遣わしてくださり、十字架で流された血によって、それまでの罪があがなわれ(赦され)、「神の家族」とされたことが、この手紙で語られています。私達日本人も異邦人ですが、「イエス・キリストを信じる」信仰により神の子とされました。これは大きな神様の恵みです。クリスチャンになった(とされた)私達は、神の国の民として新しく生まれ、新しい命が与えられました。新しく生れた者は、乳児から離乳食へ、そして固い物も食べられるように成長していきます。

*とりなしの三つの祈り

今朝の聖書箇所には、パウロが神様にささげた、「新しく生れたクリスチャン」達に対して「とりなしの祈り」が祈られている箇所です。

祈りの一つは、「あなたがたの内なる人を強めて下さるように」です。この祈りにつけ加えられて、「信仰によって心の内にキリストを住まわせ」「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」と祈られます。二つ目に、「キリストの愛を理解し、キリストの愛を知るようになるように」。です。三つめに「神様の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」との祈りです。

*強めて下さい

新しく生まれたクリスチャンが、神様の霊により、力をもって、「内なる人を強め」てくださるようにとの祈りですが、別の訳では「あなたがたのうちに与えられた新しい命を強くして下さるように」と訳しています。そして「キリストが心の内に住んで下さるように」とは、心の状態を、イエス様をお迎えして住んでいただける部屋に整えること、それには心を荒立てたり、怒りや憎しみの感情などは、外に吐き出しておかねばならないでしょう。

この箇所を、「イエス様があなた方の心に住み、喜んでそこに住み続けて下さいますように」と訳している聖書もあります。続いて「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」とあります。イエス様が心の内に住んで下さるならば、私達は、神様の愛という土壌の中に深く根を張ることが出来、そのしっかりした愛の土台に立ち続けて成長していけるのです。私達は、神の国の民として新しい命が与えられた(クリスチャンとされた)ことにとどまるのではなくて、成長していく道(=強くされていく道)が大きく開かれています。

*キリストの愛を理解し、キリストを知る道

パウロが捧げた二つ目の祈りは、神の子とされた者は、「キリストの愛を理解」するように、「キリストを知るようになる」ことを祈っています。パウロは、信仰の成長の為には、このことが不可欠であると考えているのです。神様の愛、キリストの愛は、広さ、長さ、高さ、深さでも、測ることが出来ない無限大であるゆえに、言葉で説明することは不可能です。

しかし私達は福音書を通して、その愛の一端に触れることが出来ます。

*イエス様の愛に触れる

たとえば姦淫の現場を捕えた女性を、律法により石打ちの刑で裁こうとしていた群衆に対して、イエス様はただひとこと「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8:7)と、持っていた石を手離させ、ご自身もこの女性を罪に定めず、「これからはもう罪を犯してはならない。行きなさい」と女性をその場から去らせたイエス様の愛を思い起こします。ザアカイもイエス様の愛に触れた人でした。人々から「罪人」呼ばわりされ嫌われて、お金はあっても孤独であったザアカイに対して、イエス様から声をかけ、彼の家の泊り客となられました(ルカ19:5)。又、イエス様が自ら、私達を羊に譬えて、迷子になった、たった一匹の羊の為に、ほかの99匹を置いてでも見つかるまで探し続ける羊飼いであることを語られています(ルカ19:4)。又、善きサマリア人は犬猿の仲であったユダヤ人が強盗に遭い半死の状態で倒れていたのを見つけて、その人の傷の手当だけでなく宿に連れて介抱し、宿の主人に、治るまで宿において欲しいと宿賃を渡し、足りない時は、仕事帰りに払うと言いました(同10:25)。最後まで見捨てることのないこの愛こそイエス様の愛です。

さらに、地上で最後の十字架で息を引き取られる時、イエス様を死へと追いやった宗教指導者や群衆、総督ピラトはじめ多くの兵士達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、神様に執り成しの祈りを捧げられました。

パウロが手紙で、キリストの無限の愛の大きさを理解するように、そして、人間の知識をはるかに超えたこの愛を知るようにと祈った祈りは、信仰による新しい命が強くされていくこと、心の内にキリストに住んでいただくこと、神様の愛という土壌の中に深く根を張り、愛にしっかりと立つ者になることと、すべてがつながっています。

*「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

この祈りは、愛と恵みと力で満ちている父なる神様のもとへ、イエス様の愛が私達を導いて下さり、私達も又、神さまの豊かさで満たされますようにとの祈りです。

ある注解者は「もし、この祈りを教会が祈り、教会が神様から、この祈りの答を受けるならば、教会は神様の賜物によって満たされ、完成される」と言っています。具体的には、神の義が私達に与えられ、神の愛が私達に注ぎ込まれ、神の栄光が私達を照らし、神の平和が私達の心の中に住むようになる」と説明しています。

*私達の祈り

私達の日ごとの祈りは、置かれた立場にあって祈る課題もさまざまです。しかし日ごとの祈りは、私達の信仰を形づくり信仰の成長をも導いてくれます。私達は、パウロの執り成しの祈りを通して、先ず神様に何を祈り求めていくべきかを教えられます。内なる人が強められ、どんなことにも動揺せず、心にイエス様に住んでいただき、愛に深く根を張り、イエス様の愛の大きさを理解し、人知を越えたこの愛を深く知り、神様の満ち溢れる豊かさで満たされていくように共に祈っていきましょう。

行事案内

★予告

◎11月24日(日) 礼拝後 クリスマスリース作り

◎12月22日(日)クリスマス礼拝・愛餐会

◎12月24日(火)子どもクリスマス  16時~

        クリスマス讃美夕拝 18時~

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、
  ご了承ください。1階礼拝堂中央左側扉を開けて出入り下さい。
★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。
☆ 982-0814 仙台市太白区山田字船渡前17-4 (022)243-6710
  教会の地図/e-mailは、下記リンクをクリックしてご覧下さい。
  http://sendaiminami.net/?cat=2

10月13日・神学校日・伝道献身者奨励日の説教要旨

エレミヤ書31:1-9・ヨハネ福音書11:38-44

 「神の逆接」      日高貴士耶(きしや)神学生

*はじめに

 エレミヤ書ではイスラエルの歴史の中で、最も痛みの深い時代に向けて語られた預言者の言葉が連なっています。エレミヤ書は、しばしば悲しみの書物であるように思われています。ダビデ王以来引き継がれてきたユダ王国の終わりの姿をまざまざと描きだしています。巨大な国家バビロニアが攻めてきて、その大きな暴力の中で国が滅んでいく、そのような時代に向けて、神の言葉を説き続けたのがエレミヤです。

この悲しみの歌を収めた哀歌は、しばしばエレミヤによって書かれたものであると理解されてきました。そのために私たちの聖書では、エレミヤ書のすぐ隣に哀歌が収められているのです。エレミヤ書の中にも、悲しみと痛みが渦巻いているところがあるからでしょう。

その悲しみのただ中に、エレミヤ書31章が刻み込まれています。この悲しみも、悲惨も、痛みにも、確かに神の言葉が届くということを宣言しているのかのようです。 「おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」(注*4節)悲しみの歴史が進み行くエレミヤ書のただ中で、希望の言葉が語り始められるのです。  (注*聖書協会訳)

*「その時には」(1節)

 新しい時代が来ることが、神様の言葉の中で、脈打つように宣言されています。 「その時には」。 あらゆるものが転換する時のことが語られるのです。エレミヤの目の前で繰り広げられる悲しみと苦しみの時代、果てしのない罪の時代は「その時」、神様の力によって転換されて行く。

私たちは一歩また一歩と神の民の歩みをここで進めながら、その時を待ち続けているのです。

クリスチャンでいることの幸せのひとつは、自分の人生をわたしの人生の中で全て実現する必要がないことです。多くの人が、この世界の中で、自分の人生を実現しようとして必死になっています。

人よりも良い生活をして長生きすることだけが、まるで人生の価値を決めることであるかのようです。

しかし、ここでは、教会では別の生き方が大切にされてきたのです。それは、私たちの人生の終わりを見据えながら生きるような生き方ではなく、ただ神様がわたしたちに教えてくださった「その時」が来るのを待ち続ける生き方なのです。その時、私たちは全てが神様の慈しみの中にあったことを見出すでしょう。その時、私たちは神様と顔と顔とを合わせるようにして、礼拝をしていることでしょう。その時、まことの慰めが私たちを包み込むでしょう。そしてその確かな希望の中で、またこの日の歩みを、神の民の歩みを、私たちは神様を礼拝し、祈りながら進めています。

*東京神学大学

「神学校日」として、私たちは一年のこの日を、特別に伝道者たちを養成している場所のために、特別に祈る日としています。私たち 日本キリスト教団の最大の神学校はわたしのいる、そしてまた由子先生が卒業された東京神学大学です。明治以来の日本の様々な神学校が合併して行く中で、きっとそこには深い祈りもあったことでしょう。それまでの様々な教派が持っていた神学校を一つにしようとして東京神学大学を生み出したのです。日本の教会が、祈りながら受け継いできた財産が、この東京神学大学に集められてきたのです。そしてそれは一つの流れになりながら、今この時に至っているのです。そこには困難なことが幾つもあったことでしょう。今も、東京神学大学は現職の学長を病で失うという悲しみと困難の大きい状況に置かれています。学生たちも教職員たちも悲しみが深い。しかし、そうしながら、それでも私たちは私たちの祈りを受け継ぎ、信仰と学びの財産を次の世代に受け渡しながら歩んで行くのです。

一人、また一人と、ここで伝道者が生まれ、福音の言葉を携えて、日本の地に出かけていきます。私たちはこうして信仰を受け継ぎ、祈りを受け継ぎ、そうしてまた新しい福音の言葉を語る者たちを立てて、育てて行くのです。神学校はそのような私たちの祈りと行いの明白に見える形のひとつでしょう。私たちのこの小さな歩みの一つひとつには神様の言葉があるのです。

*「しかし、その時には」

私たちの歩みがその答えを見出すその時がやってくる。そう、私たちの人生はそのようなものです。喜びがどこまでも深い時にも、悲しみがどこまでも深い時にも、絶望が心を満たそうとしている時にも、神様の言葉が響きだす。 「しかし、その時には」。わたしたちの現実に働く神の力を聖書の言葉は確かに語っている。わたしたちの日々、進み続ける現実の物語に対して、「神の逆接」が勝利を収めるのです。

*神の逆接

説教題を「神の逆接」としました。礼拝の説教にしては少し変わった説教題かもしれません。しかし、まさに私たちが共に聞いたエレミヤ書の言葉は、まさに神様の逆接に満ちた箇所なのです。

逆接、それは文の間の関係性を、反対を意味するものとして提示する言葉です。わたしたちの世界の現実に対して、「しかし」という言葉が連なりながら、新しい現実が立ち現れてくるのです。

しかし、それは神の「しかし」なのです。エレミヤ書が語る言葉はそのような神の「逆接」、神の「しかし」に満ちています。エレミヤ書全体に対する逆接であるかのように、ここでは将来に待ち受ける救いと喜びの言葉が溢れ出している。神様が「しかし、その時が来る」、「あなたたちが再び立てられ、慰めを受けるその時が来る」とおっしゃる。 捕囚を前にして、ひとつの国が暴力の中に消え入れられようとしていた時に、神様はおっしゃったのです。「しかし、おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」。

*強制移住

巨大な帝国バビロニアがユダの国に侵略してきました。そこである者たちはバビロニアの国に強制移住をさせられました。自分の育った愛する土地から引き離されて、暴力的に他の国に移住させられたのです。

古代の中近東の世界では最も恐ろしい処置の一つでした。

またある者は滅びゆく国の姿を見て、逃げて行きました。その中には、かつてファラオの奴隷として暮らさなければならなかったエジプトまで逃げる者もいました。ユダヤ人たちは、この大きな帝国の力のもとに、世界中に散り散りになっていくしか方法がなかったのです。

新しい土地には幸福が待っている保証はありません。奴隷にされるかもしれません。外国人ですから、人並みの扱いをしてもらえる保証もありません。彼らは世界中に散らされていった。

*神の逆接の言葉

自分の弱さを思い知りながら、生きていかなければならない時がある。自分ではどうすることもできないほどの大きな力に押さえつけられるようにしながら 生きて行かざるを得ないと思っていた者たちの上に、神の言葉が、神の逆接の言葉が響きだしてくるのです。

「しかし」、神はイスラエルの民を再び集められる。

神の言葉は全てを転換させる力に満ち溢れているのです。

きっと皆さんの人生も、聖書の言葉の中で転換させられ、変えられてきたことでしょう。由子先生はまさに、そういう人だと思います。

聖書の言葉が、強い力をもって私たちを変えてくる。そして私たちの命をも、確かに蘇り(よみがえり)の命へと造り変えてくださった。

今日は、ラザロの蘇りの箇所も読んでいただきました。主イエスはラザロの墓の前で確かに宣言されるのです。

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)。

ラザロの姉妹マルタはその少し前に言いました。「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」。厳しい言葉です。現実と悲しみに満ちた言葉です。そこに主イエスが言われた、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」(同40節)。

神様は私たちの人生に大きな逆接の言葉を置かれるのです。 「しかし、あなたには復活の命がある。あなたには救いがある」。そして私たちは神様の逆接の中で、復活の生命をこの世界の中で生き始めているのです。

雅歌

  • 雅歌の通読に向けて

月曜日 1: 1        題名/1:2~ 2:7  第1の出会い

火曜日 2:8~ 3:5 第2の出会い

水曜日 3:6~ 5:1  第3の出会い

木曜日 5:2~ 6:3 第4の出会い

金曜日 6:4~ 8:4 第5の出会い/  8:5~ 8:14 結び

【雅歌について】

 雅歌のヘブライ語の書名は、 シール・ハッシーリームで、歌の中の歌=最も素晴らしい歌という意味がある。この書物は、ユダヤ教にとって最も大切な、出エジプトを記念する過越際で朗読される。

 多くのキリスト教著述家は、これをキリストと教会の愛のアレゴリー(寓意・ある概念を他の具象的な事柄によって表現すること)と見てきた。また、これをキリストと個々の信徒との関係の比喩(つまり表象や象徴)と見てきた者もある。つまり、この作品は、人間の愛をたたえる賛歌というよりも、教会や個々の信徒達へのキリストの霊的な愛を語る詩的、あるいは比喩的なやり方と解釈される。

 雅歌はいくつもの部分に分かれ、そのうち、最も目立つのは、恋人達の5つの出会いである。最も役に立つ読み方は、一つずつの出会いをひと時に読み、恋人と出会うまでの期待と期待が実現したときの喜びを十分に味わうように努めることである。恋人達の出会いと喜びと、神の家に帰る信仰者の喜びの間には、疑いもない類似がある。

(『旧約聖書略解』720頁・マクグラス、277頁参照。)

【第1の出会い】

 愛する人との最初の出会いを楽しみに待つ一人のおとめは、彼が自分を好きになってくれるかどうかなどについ心配している。冒頭の重要な主題の一つは、人間は愛が必要だということである。

【第2の出会い】

 今や二人の関係は発展しているが、おとめは不安と疑いに悩む。愛する人は彼女を見つけ、一緒に田園に出ようと彼女を誘う。彼女の恋人は高貴な人であることは示唆されているが、彼は彼女を支配するのではなく、彼女を愛する人らしく彼女に接している。

【第3の出会い】

 前回の出会いでの心配は去り、おとめは今、恋人の一途な愛を確信している。彼女が恋人との結婚の準備をしている間に、彼女自身の地位はあがり、彼の地位と富を分かち持つことになる。このイメージは新約聖書でも繰り返され、信仰者がキリストの属性を分かち持つことが描かれている(Ⅱコリント5:21)。

【第4の出会い】

 恋人達は結婚したが、自分が愛する人に対して冷たくなっているのに気付き、その冷たさを悔やむ。しかし彼は行ってしまった。彼女は再び愛する人を探しまわる夢をみて、彼への愛を再確認する。

【第5の出会い】

 おとめは自分の愛する人との関係を考え、富や豪華さではなく、最初の愛の場所に戻りたいと願う。

【結び】

 物語は、人生に意味を与える愛の重要さと、愛はいかに手をかける必要があるかを語っている。最も愛し合う関係でさえも、世話と再生が必要である。雅歌は、信仰者たちがキリストとの関係を持続させ、それを当然と思わないでいる必要性を理解させてくれる。

(マクグラス、278-279頁参照。)

エステル記

  • エステル記通読にむけて

月曜日  1: 1~ 2:23  王妃の交代とモルデカイの働き

火曜日  3: 1~ 4:17  ユダヤ民族絶滅計画とモルデカイの信仰

水曜日  5: 1~ 8: 2  エステルの働きとハマンとモルデカイの逆転

木曜日  8: 3~ 9:19 ユダヤ民族の救いと復讐

金曜日  9:20~10: 3 プリム祭の制定とモルデカイの栄誉

【エステル記について】

聖書の中で、女性の名前が書物のタイトルになっているのは、このエステル記とルツ記の2つだけになります。エステル記はルツ記と同じように、ヘブライ語聖書においては「諸書」に分類され、「メギロート(巻物)」と呼ばれる五つの祭日に朗読される書物の一つです。(雅歌:過越祭、ルツ記:七週祭、哀歌:アブの月の9日・神殿破壊記念日、コヘレト書:仮庵祭、エステル記:プリム祭)

エステル(ヘブル語名は「ハダサ」でミルトスの意)は、ペルシア帝国スサの町(ネヘミヤが滞在していたとされる町)に、捕囚民として住むモルデカイ(ベニヤミン族)の養女として育てられましたが、ユダヤ人でありながら、ペルシア王の王妃としての地位が与えられます。

1章では、なぜエステルが王妃になることができるのかを説明する物語として王妃ワシュティーの退位物語が語られますが、2章からはエステルの歩みと並行して、モルデカイの物語が続きます。異教の地で、主なる神のみを礼拝するユダヤ民族の試練にあって、王や権力に近い場所に置かれた二人が、ユダヤ民族の代表としてどのように行動し、どのように決断していくのかを知ることができる書物です。また同時に、ヨセフ物語やダニエル書にも共通する、主の摂理とご計画、主によって与えられている信仰と知恵が豊かに描かれている書物でもあります。

【プリム(Purim)】

 プリムとは、ユダヤ暦においてアダルの月の14日に挙行される春の祝祭である。この祝祭はその聖書的な根拠を与えているエステル記と密接に関連しており、おそらく、ペルシア時代に生じたのであろう。エステルの物語の中で祝われている祝日としてプリムが再現するものは、ユダヤ人のアイデンティティとユダヤ人共同体に対する帝国の脅威、その帝国の脅威に対する勇ましくて巧妙な抵抗、ユダヤ人の驚くべき救出と名誉の回復である。プリム祭は、ユダヤ人の運命を決定した「くじ(ヘブライ語でPur)」を投げることからそう名付けられており、シナゴーグにおけるエステル記の朗読は当然なくてはならぬものとなっている。しかしながら、そのようなことを通り越して、この祝祭は解放されたユダヤ人のアイデンティティと自由を思う存分祝い喜ぶカーニバル気分を誘い、行為で表現する・・・。

比較的後代にユダヤ暦に入れられたこの祝祭は、ペルシア時代にユダヤ教が直面した脅威を映し出しているが、より広い視野で見れば、それはユダヤ人共同体が絶えずさらされていた支配的文化の脅威を映し出している。従ってプリムとは、ユダヤ人のアイデンティティが完全に解放されてもう恐れる必要がなくなった現実を、十分かつ公に明らかにするべく定期的に祝われる祭典であり、ユダヤ人のアイデンティティを抑制し制限し黙らせることを拒絶し、慣習的な政治的要請や社会的期待に服従させられることを拒絶する祭典なのである。(ブルッゲマン、388頁抜粋。)

【エステル記4章から】 「『この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。』エステルはモルデカイに返事を送った。『・・・私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。・・・私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。』」 

今週のみことば

★歴代誌上

月曜日  1: 1~ 9:44  イスラエルの初期の歴史

火曜日 10: 1~29:30 ダビデの治世

★歴代誌下

木曜日  1: 1~ 9:31 ソロモンの統治

金曜日 10: 1~36:23 ユダの歴史

【歴代誌について】

歴代誌は、ヘブライ語聖書では、諸書と呼ばれる部分の最後に置かれ、「日記、年代記」という書名になっています。

申命記史家によって書かれた申命記史書(ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記)に対して、歴代誌史家によって書かれた歴代誌史書がこの歴代誌とエズラ記、ネヘミヤ記と考えられています。  

歴代誌はサムエル記と列王記の物語と並行し、王国時代の歴史が書かれています。(マタイ・マルコ・ルカの福音書がそれぞれの視点から同じ物語を書き記しているのと似ています。)歴代誌史書は、申命記史書より後の時代に編集されたと考えられ(前300-前200年頃)、申命記史書にはない記事も記されています。

旧約学者であるM.ノートは、歴代誌史家が特に伝えたかったことは、ダビデの王権と、主を礼拝する祭儀の場所としてのエルサレム神殿の正当性を証明することであると考えました。また、捕囚後にエルサレム神殿を再建し(エズラ記)、そこで礼拝する者達が、「イスラエル」の正統的な後継者であることを証明しようとしているのではないかと考えています(ノート, 353頁)。

(M.ノート『旧約聖書の歴史文学』山我哲雄訳、1988、第2部参照。)

今週のみことば

  • 列王記上

月曜日  1: 1~11:43  ソロモンの統治

火曜日 12: 1~16:34  王国の分裂

水曜日 17: 1~22:53  エリヤの預言の時代

★列王記下

木曜日  1: 1~13:25 エリシャの預言活動

金曜日 14: 1~17:41 エリシャの死からイスラエルの捕囚まで

土曜日 18: 1~25:30 イスラエルの捕囚からユダの捕囚まで

(マクグラス、180-182頁。)

【列王記について】

イスラエルの王国の歴史は、サムエル記上下・列王記上下に記され、七十人訳聖書(LXX)では、王国1,2,3,4と呼ばれています。ダビデとソロモンの時代に、一つの王国として栄えた「イスラエル」でしたが、ソロモンの死後(列王記上12章以降)、「イスラエル」は、「北王国(イスラエル)」と「南王国(ユダ)」に分裂します(BC931-922頃)。そして「北王国(イスラエル)」は、BC722年、「南王国(ユダ)」はBC587に滅亡します。その後、イスラエル(ユダ)の人々は、捕囚民としての生活を強いられますが、帰還が許されたあとに、エルサレム神殿を再建します(BC516-515頃)。しかし、それは「イスラエル」の国の再建ではなく、ペルシア帝国、ローマ帝国の支配下に置かれた「ユダヤ州(属州)」の中で生きる人々の歩みであり、再び「イスラエル」の国が再建されたのは、1948年になってからでした。

列王記は、なぜ「イスラエル」は分裂し、約束の地を失わなければならなかったのか、という問いに答えるようにイスラエルの歴史を語っています。しかし同時に、主は人々を憐れみ続け、預言者を遣わし、神様の言葉を示し、民が主に立ち返り歩む道を備え続けて下さっていることを伝える、希望の書物とも言うことができるのではないでしょうか。

2019年7月7日の説教要旨 

詩編133:1-3・フィレモン書8-20

「キリスト者の生き方-立ち直らせた愛」   佐藤義子

*はじめに

今年度の毎月第一日曜日は、パウロの手紙から学んでおり、今朝はフィレモン書から学びたいと思います。この手紙は、「コリントの信徒への手紙」のように、その土地に建てられた教会の信徒達に宛てられた手紙ではなく、内容もイエス・キリストを頭(かしら)とした教会が形成されていくために、信徒達に正しい福音理解と信仰の成長を願い、教えや戒めや励ましや警告などが記されている手紙ではありません。フィレモンさんという個人にあてた手紙であり、パウロが「使徒」という立場を離れて、個人的な問題について書いた私的な手紙です。その私的な手紙が、キリスト教の正典である新約聖書におさめられているのです。聖書が編纂される時、この手紙は、たった一人の人の運命を問題にしているにすぎないと言う理由で、聖書の中に入れることに否定的な意見もあったようです。しかしそのような中でこの手紙が聖書に組み込まれ、本日、私達がこの手紙を読むことが出来るのは、大変幸せなことだと言えるでしょう。

*主人フィレモンと奴隷オネシモ

手紙の受取人であるフィレモンは、富のある豊かな家柄で、おそらくパウロがエフェソで伝道していた時、福音を信じて救われたクリスチャンであると思われます。その後フィレモンは、コロサイ市に住む市民として、家族にも伝道して「家の教会」をつくり、その集会で良き奉仕を続けていたようです。ところが彼の家で働いていたオネシモという奴隷が、家から逃げ出し、オネシモはその後、パウロを頼って訪ねたのか、あるいは逃亡奴隷ということが発覚して投獄され、そこでパウロに出会ったのか、くわしいことはわかりませんが、獄中のパウロから福音を聞いたのです。

やがてパウロの伝道によってオネシモの心が開かれ、悔い改めが起こり、彼はイエス様を救い主と信じてクリスチャンになりました。そして、今や、オネシモはパウロにとっては、なくてはならない良き助け手として働いてくれるようになっていました。

*パウロとフィレモン

当時の法律では、逃亡奴隷は見つけ次第、主人のもとに送り帰すことになっていました。が、パウロにとって一番望ましいのは、これからもオネシモがパウロのそばにいてくれることでした。パウロは年をとり、しかもまだ獄中生活が続きそうだったからです。パウロがこのままオネシモを預かっていても、後で説明すれば、フィレモンはきっと了解してくれるだろうとの思いもありました。しかしこのような状態を続けることは、神様の御心に適(かな)うのかどうか、パウロは熟慮し祈った結果、フィレモンの承諾なしにこのままオネシモを自分のそばに置いておくことはやめて、先ずオネシモを法的所有者であるフィレモンに送り帰す決断をします。しかし、クリスチャンになったオネシモを、フィレモンの家に送り帰すだけで終るなら、フィレモンとオネシモの関係は直ちにもとの主人と奴隷の関係に戻るだけであり、オネシモは「かつて主人を裏切った逃亡奴隷」としての重荷を負いつつ、主人に仕えることになるでしょう。そこでパウロはこの手紙を書いたのです。

*手紙

年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、あなたの愛に訴えてお願いします。」「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れて下さい。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。」「オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。」 

*パウロの願い

パウロはフィレモンに、命令でも強制でもなく、クリスチャンとしての義務として要請するのでもなく「お願い」の手紙を書いたのは、フィレモンがパウロとの「関係」に左右されることなく、頼まれた願いを 受けるにせよ、拒むにせよ、自由に自分の考えで、あるべき道へと歩むように願ったからでしょう。愛とは自発的なものであるからです。