2021年10月31日の説教要旨 創世記4:1-10・Ⅰヨハネの手紙3:9-18

「愛するものたちへ」     加藤秀久 伝道師

*はじめに

 アダムとエバはエデンの園を管理する者達でしたが、神様の「園の中央にある善悪を知る木の実を決して食べてはならない」とのご命令に従わず蛇の誘惑により食べたことで、エデンの園から追い出されてしまいました。

その後アダムは、妻によってカインとその弟アベルが与えられ、アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。時が流れて、兄のカインは「大地の実り」を主へのささげ物とし、弟アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を主の献げ物として持って来ました。主は、弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。カインは、激しく怒り、顔を伏せてしまいました。

*神様への献げ物

神様は、なぜ弟アベルの献げ物だけに目を留められたのでしょうか。

考えられるのは、それぞれの礼拝の姿勢、向き合い方です。

この神様への献げ物に関して、ダビデの、次のような言葉があります。

いや、私は代金を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物を私の神、主に、ささげることは出来ない」(旧約聖書サムエル記下24:24)。

この言葉は、ダビデ王が神様の前に大きな罪(人口調査)を犯して、その結果、民衆に大きな災いが降った時に、その罪の赦しを得るために祭壇を築き、いけにえの献げ物を捧げようと、土地の所有者に売買を申込んだ際、所有者から「祭壇を築く土地も、犠牲の動物も、すべてをダビデ王に無償で差し上げる」と言われた時の、ダビデ王の返事です。「神様を礼拝する」ということは、神様に向けた正しい心が伴っていなければなりません。

神様を礼拝する人の心が正しくなければ、神様は、その人にかかわりのある他の人達までも巻き込んで、滅ぼしてしまう裁きを行うことを私達に教えていると思います。又、神様は、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)とあり、神様の御前では、どんなに小さな罪、悪い行い、考えをも隠すことはできません。それらはいつか神様によって全てのものが明らかにされてしまいます。神様は、アベルとその献げものに対して、神様に対する礼拝の心・信仰・姿勢をご覧になり、目を留められたと考えられます。

*怒りで顔を伏せたカイン

 神様はカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言われます。心にやましいことがなければ、私達は神様の前にしっかり顔を上げられるはずです。仮に、これまでカインの行動が正しくなかったとしても、今、悔い改めればすぐにでも受け入れられることを伝えようとしたのかもしれません。しかしカインは、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」と告げられた通り、野原に弟アベルを誘い出して殺してしまいました。

私達も、小さなきっかけから心に怒りを抱いてしまうことがあり、その感情を放置していると、やがてその感情が大きくなり、自分でコントロールできなくなり、大きな罪に発展してしまう可能性があります。

神様はカインに、罪を犯したことを自らの口で告白し悔い改める機会を与えましたが、カインは「知りません。私は弟の番人でしょうか?」と神様に応えた結果、彼は地上をさまよい歩くさすらい人になりました。

仮に私達が罪を犯してしまったら、素直に悔い改めることが大切です。

神様は必ず赦して下さいます。実際に神様は、「私の罪は重すぎて負いきれません」と言ったカインを見捨てることなく、逆に神様はカインをあわれみ、誰も彼を襲うことのないよう、約束しています(4:13~15)。

*宗教改革記念日

本日は宗教改革記念日です。私達は、「聖書のみ」、「恵みのみ」、 「信仰のみ」との宗教改革の三大原理を受け継ぎ、「神様を第一」として、ルターが掲げた「95ヶ条の提題」のように、神様の前に真実な者、正しい者であり続けていく者たちへと変えられていくことを祈りましょう。私達は、私たちの外側を立派に見せるのではなく、私たちの内側が、いつも神様に喜ばれるように礼拝を献げていきましょう。

2021年10月17日の説教要旨 詩編86:2-10・マタイ福音書25:1-13

「神の国にいたる者」         加藤秀久 伝道

*はじめに

本日の詩編は、ダビデが悩みの中で神様に助けを求めて祈りをささげています。ダビデはどのような時でも神様を信じ、神様に目を向け、前を向いて歩んでいくことを心掛けていました。ダビデは「神の箱(十戒が納められていた契約の箱・主の箱とも呼ばれ、神様の臨在の象徴)」をダビデの町(エルサレム)に運び入れる時、喜び祝い、力の限り主の御前で踊りました(サムエル記下6:14)。それは主の現れ、神様が存在して下さる所には神様の祝福が伴い、神様の栄光があったからです。神様は偉大な神、揺るがず、絶対的で真実なお方です。私達が深い陰府(よみ)に下ったとしても、その中から救い出して下さるお方であることが86編に記されています。

ダビデはこの神様に、真理を求め、心を尽くして感謝をささげ、神様が与えて下さる確かな道を歩むことを望んだと思います。

主の霊の力は どこからくるのでしょうか?

*讃美歌312番

よく讃美する歌に「いつくしみ深き」があり、2番に「友なるイエスは・・祈りにこたえて慰めたまわん」との歌詞があります。私達人間の心や気持は変わりやすいものですが、イエス様は、私達の弱さを知っていながらも、いつまでも変わらぬ愛をもって私達と関係を持って下さり、「悩み悲しみに沈める時も・世の友がわれらを棄て去る時も」、私達の祈りに耳を傾け、励まし、私達を救い出して下さる唯一のお方であることが記されています。

*10人のおとめたち

本日のマタイ福音書25章には、10人のおとめ逹がランプをつけて花婿の到着を待っていて、その内5人は愚かで、5人は賢かったとあります。「愚か」「賢い」とは、「開いた目」という言葉が背後にあり、賢い者とは、来るべきもの、イエス様が再びこの地上に来ることに対して目を開いて見ている、目を覚ましていることを示し、しっかりと神様に目を向けていた人々のことを記していると思います。愚かなおとめ逹は、花婿が迎えに来た時に、ともし火を持っていましたが、油の用意をしていませんでした。ところが花婿の到着が遅れたので、どちらのおとめ逹も、眠気におそわれて眠り込んでしまいました。

*花婿の到着

真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたので、おとめ逹は皆起きて、ともし火を整えました。壺に油を入れていたおとめ逹は、油をつぎ足しましたが、愚かなおとめ逹の火は消えそうでした。そこで賢いおとめ逹に「油を分けてください」と頼みましたが、「分けてあげるほどはありません。店に行って、買ってきなさい」と勧められました。

愚かなおとめ達が買いに行っている間に花婿が到着し、用意のできていた5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り戸が閉められました。その後、他の5人も来て「御主人様、開けてください」と頼みましたが、主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えています。

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(13節)

譬えの、「ともし火・油・整える・分ける・消えそう」は、どれも、私達の心、神様との関係、神様の霊、聖霊について話されていると思います。イエス様は、私達が日々霊に満たされて歩んでいけるように、神様の言葉に聞き従い、祈ることを求めていますが、神様を信じる信仰に違いがあることが本日の聖書で述べられています。神様を信じる信仰は、聖霊の働きによって生み出されますが、信仰生活は何かの問題にぶつかったり、身体の疲れからくる気力のうすれ、力の限界を感じた時など様々なことが原因で神様との関係がおろそかになり、愚かなおとめのように、ともし火を整えられず、「霊」である油をたくわえることも、つぎ足すこともしなくなってしまうことがあります。これらは悪魔が私達をイエス様から引き離そう、目を神様より他に向けさせようとしてこの地上にある物を使い私達を攻撃しているに過ぎません。神様の御霊は、私達の生きる源であり、信仰生活を持続、成長させて下さるものです。

今週の歩みが、主の豊かな霊に満たされますようにお祈りを致します。

2021年10月3日の説教要旨 ヨシュア記6:1-20・ヘブライ書11:7-22

「信仰による真実」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 アブラハムの時代から神様とイスラエルの民との間には契約が立てられ、契約のしるしとして男子は皆、生まれて8日目に「割礼」を受けました(創世記17章)。しかしエジプトを脱出した時の民は、カナンを目指して荒れ野でさまよい歩く40年の月日の中で死に、今、カナン侵入を目の前にしている人々は、荒れ野で生れた「割礼」を受ける機会がなかった彼らの息子達でした。神様はモーセの後継者となったヨシュアに、契約のしるしである「割礼」を施すように命じられました。神様は、イスラエルの民に与えた「約束の地」でこれからなさろうとしている事を前に、先ず始めに、イスラエルの民の男子を聖めることを命じられました。(ヨシュア記5章)

*主の軍の将軍

彼らが最初に占領する町は、城壁の門を堅く閉ざした「エリコ」という、要塞と呼ぶにふさわしい町でした。ヨシュアがエリコのそばに来ていた時、抜き身の剣を持った主(神)の軍の将軍と出会い、この戦いが主のものであることを示されました(5:13~)この事は、これから起こる全てのことは主の指示に従って歩むことを意味しており、イスラエルの人々が、全知全能の神を再び知ることでもありました。

ヨシュアの前に現れた「抜き身の剣を持った主の軍の将軍」と同じように、私達の前にも、時に、素晴らしく偉大な力強い姿で主は現れて下さり、その圧迫感、圧力の凄さを前に、私達はひざまづき、身をかがめて礼拝をすることが出来ます。私達は毎日、そのための時間を作り、体験しているでしょうか?

*エリコの占領

 神様はヨシュアに、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す(2節)」と言われました。エリコの町はイスラエルの人々の攻撃に備えて、誰も出入りが出来ないように閉ざされていました。イスラエルの人々は、城壁で囲まれた町を攻略するための戦略方法も分かりませんでした。しかしどのような強力なセキュリティー・システムを用いていても、神様は神様を信じる者達に、悪の敵の城壁を打ち破る方法を教えて下さいます。神様は、エリコを攻略する方法を次のように指示されました。「イスラエルの兵士達は皆、エリコの町の周りを一周し、それを六日間続け、七日目には町を七周し、祭司達は角笛を吹き鳴らし、それが聞こえたら民は皆、「鬨(とき)の声」をあげる」でした。ヨシュアは主の命じられた通り、すべてそのように行いました。七日目には町を七周回った後、角笛が吹き鳴らされ、それを聞いた民が鬨(とき)の声をあげると城壁は崩れ落ち、民は町に突入して占領出来たのでした。

*「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」

本日のヘブライ人への手紙11章7-22節では、信仰は霊的な真実の世界を見通すことができ、実際には見えないけれども、それが真実であることを確信することであると告げています。それは神様の約束の実現や、すべてのことを神様に明け渡すことによる神様との信頼関係から与えられるものだと思います。ノアの時代、世界は神様から離れてノアのしていることを馬鹿にしました。信仰に基づく義とは神様の賜物であり、見えない神様の約束を信じる者に与えられるものです。

 アブラハムの信仰は、神様に告げられた言葉だけを信じて、行き先も知らずに出発したことから始まります。

*わたしたち

 私達はどこに神様を求め、神様が存在して下さる場所を作っているでしょうか?私逹が神様を信じ続ける神聖な場所を作る秘訣は、ヨシュア記のエリコの町のように、堅固な城壁を作ることではなく、私達が生活して行く中で、この「聖書」という真実な言葉があり、目には見えず、感じることしか出来ないお方、心に宿る、確かなお方が私達にはいる、在るということです。 

その神様が、私達に、共に声を合わせて、主は全てにおいて勝利されたことを宣言しなさい、と伝えているのです。私達は、今日のこの日に、主が共におられることに感謝して一週間の歩みを進めて参りましょう。

2021年9月26日の説教要旨 コヘレト3:10-13・Ⅱテサロニケ3:6-13

「働くことの意味」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 旧約聖書のコヘレトの言葉は、人生について全てのものは無意味(むなしい(1:1)という、印象深い言葉で始まります。この「むなしい」を元の言葉や別の翻訳聖書で見ると、「いっさいは空(くう)」という言葉が用いられ、大空を示しているのが分かります。私達が地上から見る空は、はるかに広がる空間で実体がなく、「空」という存在があるだけです。コヘレト書の作者は、このような空という言葉を用いて、人は労苦して生活しているが、その結果、獲得する確かな利益を持つことがない。人は生きるために労苦して得たものを守り続けたいが、労苦の末に死に、次々と世代が変わり、無常の世界になっていると語っています。これは、神様のことを理解させるため、神様を信じない人達にとって苦しみや悩みが、どれほどまでに希望の持てない人生になっているのかを描き出しているように思えます。そして続く12-13節では、「人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」と、言い「人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは神の賜物だ」と、言っています。

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)

 本日の3章には、私達では変えられない「神様が支配する定まった時や季節、計画」があり、私達生きる者は、神様が定めた時の支配から逃れて違う方向へ行くことはできないことが記されています。 2節以下には、「生まれる時、死ぬ時、植える時、抜く時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、黙する時、語る時、・・・」とあって、これらは、神様が定めた時、神様が良しとされた時であり、私達の今いる所で起こり得る出来事です。

神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り」(11節)

この元の言葉では「神の行なうことは、そのすべての時の中で美しい」と訳せます。私達の生活の中で起こるすべてのことが、「神様のなさる業(わざ)は美しい」と思えるには、私達が神様を知り、神様の存在を体験し、神様との良き関係の中で思い、感じられることですから、私達が神様に絶対的な信頼で信じることが土台となって生まれる感情だと思います。私達は、自分に与えられる様々な試練や体験・経験から、果たして、本当の神様を見出だし、全てのことを「神様の時」として捉(とら)え、体験している多くを「美しい」と感じることが出来ているでしょうか?

 神様に絶対的な信頼を置くことは、時には痛みを伴い心が折れそうな時もあるでしょう。しかし私達がどのような態度、選択、行動を取ったとしても、神様は、私達の内から、心から離れることはなさいません。なぜなら神様は私達に、神様を知る者としてすでに心の中に宿り、私達に生きる力を与えて下さっているからです。

*テサロニケ教会の人々の信仰

 テサロニケ教会の人々は、信仰においても、愛(特に兄弟愛)においても、主の再臨の待ち望みにおいても、マケドニヤ州とアカイヤ州にいるすべての信者の模範的な教会となっていました。これらの信仰、愛、希望の三つは、教会を教会たらしめる特別なものであり、信徒達がイエス様の身体の一部として働き、神様のご栄光をこの地上に輝かせています。

*しかし・・

教会内には、神様を信じると言いながら信仰が伴なわず、この良き働きを邪魔する人達がいました。彼らは怠惰な生活をし、働かず、余計なことをしていました(3:11)。パウロは彼らに、自分で得たパンを食べ、落ち着いて仕事をするように(同12)、働きたくない者は食べてはならないとも言っています(3:10)。そして信徒達には、そのような怠惰な者達を避けて(同6)、たゆまず善いことをするように(3:13)、又、彼らを敵とみなさず、兄弟として警告するように、と教えています。

*わたしたち

働く神様(ヨハネ5:17)は、私達に、神様にすべてを委ねて信頼することを望んでおられます。そして私達が神様に信頼することで、労苦によって与えられる満足は神様の賜物であることを受け入れることが出来ます。私達が行き詰まった時、信仰を失いかけた時、すべてに神様の定められた時があることを感謝しつつ共に歩みを進めて参りましょう。

2021年9月12日の説教要旨 創世記45:1-15・ヤコブ書2:8-13

「心 遣 い」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の創世記では、家族や兄弟を思うヨセフの心遣いが記されています。ヨセフは父ヤコブから非常に愛情深く育てられていましたが、ある時自分の見た夢を兄達に話したことで兄達から反感を買い、商人に売られ、その後エジプトへ奴隷として売られてしまいました。時が経ち、カナン地方にいたヨセフの兄達は、飢饉ためエジプトへ食糧の買い付けに行きましたが、そこで司政者として穀物の販売の監督をしていたのが弟のヨセフでした。

*銀の杯

 ヨセフの兄達は、監督が弟とは気付かず、二度目に食糧を求めてエジプトに行くと、ヨセフは身を明かさないまま彼らと食事を共にした後、家来に、末の弟の袋に代金を戻し、さらに銀の杯をも入れるように命じました。兄達が帰ってまもなくヨセフは再び家来に、袋に入れた銀の杯を持って来るよう命じました。家来は兄弟達の後を追い、銀の杯が無くなり、彼らが監督の好意を踏みにじったと言いました。兄弟達は驚き、もし誰かの袋に銀の杯が見つかったら、その者は死罪、他の兄弟達も奴隷になると告げて袋を開けましたが、末の弟から銀の杯が見つかり兄弟達は引き返しました。

*ユダの嘆願

ヨセフは戻って来た兄弟達に、「銀の杯を見つけられた者だけが奴隷として残り、他の兄弟達は父親のもとへ帰るように」と命じます。しかし末の弟を今回の旅に同行させた責任者の兄、ユダがヨセフに嘆願します。このまま弟を残して帰ったら、父は悲しみのあまり死んでしまう。この弟の代わりに私を奴隷として残して欲しいと願い出ます。このユダは、かつてヨセフを商人に売り、エジプト人の奴隷になるきっかけを作った人物です。しかし今は心に大きな変化が現れています。それはヨセフがいなくなった後、すっかり意気消沈した父親の姿を、長年身近に見て、いなくなったヨセフの代わりに父親がどんなに末息子に愛情を注いできたかを見てきたからでしょう。今、ヨセフの前で弟を必死に守ろう、助けようとしていたユダの行動は、ヨセフと兄達との和解へとヨセフを動かしたのでしょう。

*ヨセフの信仰

 ユダの言葉を聞き、ヨセフは自分の身を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」 兄弟達は驚きのあまり、答えることが出来ませんでした。ヨセフは彼らに、過去にヨセフにしたことで悔やんだり、責め合ったりしないようにと言い、「神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、・・あなたたちイスラエルの民を生き永らえさせ、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。」と、ヨセフがエジプトに来たのは神様のご計画によるものであるとの信仰を告白しています。

*神様の御計画

 神様は、ヨセフを先に送り出したように私達一人一人(それぞれ立場の違う人達)をここに集められ、私達は神様を礼拝しています。それは、これから行なわれる神様の業(わざ)を私達が共に行ない、神様のご計画を共に体験するためです。私達は神様に養われる家族として集められ、共に助け合い、生きるようにとの神様の願いがあるからです。近い将来、私達の伝道所がどのような道へ進むかは分かりませんが、ただ、神様というお方を信じ、求め、委ねながら、「今」というこの時に、私達が共に神様に呼ばれ、神様のみ声に従いながら日々の歩みを進めています。

人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり・・(9節)」 本日のヤコブ書で、教会の人々がイエス様を誉め讃えて礼拝しているにもかかわらず、人を、社会的地位やその人の身なりで差別していることが指摘されます。互いを思い合い助け合い、隣人への心遣いがあってこそ隣人愛の実践であり、神様の意志に適(かな)う者とされます。私達はここで神様の栄光に満たされて力を受け、神様を称え、その輝きを家族や友人や職場の人達や子供達に自然な形で分け与えているのです。

 これが本当の神の家族の姿、隣人への愛を示す姿と言えるのではないでしょうか。神様は今週も私達の前を進まれます。いつも私達の道しるべ、 支えとなり、私達と共にあることを覚えて歩めるように祈りましょう。

2021年9月5日の説教要旨 エゼキエル書37:15-28・ヨハネ福音書10:7-18

「主に養われる羊の群れ」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 イスラエルの国はかつてサウル王-ダビデ王-ソロモン王が支配した一つの国として存続していましたが、ソロモン王の死後、国は分裂して北王国(10部族)と南王国(2部族)に分かれました。(その後、北王国はアッシリヤによって滅亡し、南王国もバビロニヤに滅ぼされて、バビロンに捕囚の民とされました)。本日の旧約聖書に登場するエゼキエルは、祭司の息子で、自身もエルサレム神殿の祭司をしていましたが、第一回捕囚の時(紀元前597年)、王と共にバビロンに連行され、5年後に主から召命を受けたエゼキエルは、主の言葉を人々に告げ知らせる預言者として神様に仕えました。

*エゼキエルに臨んだ主の言葉

 本日のエゼキエル書には、エゼキエルに臨んだ、主の言葉が記されます。「・・あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる」(37:16-17)

 神様からの御命令は、一本の木には、「ユダとイスラエルのために」と書き記し、もう一本の木には、「ヨセフとイスラエルのために」と書き記し、この二本の木を近づけて手の中で一つにする行為でした。

書き記された「ユダ」とは分裂した南王国のことで、「ヨセフ」とは北王国を意味しており、二つの木を手の中で一つにするとは、南王国と北王国の、イスラエルの部族逹が、ダビデの時代のように、再び統一されることを象徴しています。主は、「わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの王国に別れることはない。(22節)」と告げられました。

そして今、イスラエルの人々が過ごしている国々で行われている偶像や憎むべきものによって彼らが身を汚すことは、これ以上ないこと、主は、彼らが過ちを犯した背信から彼らを救い清めて、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(23・27節)と宣言されています。

さらに、「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う(24)。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ(26節)」と述べています。

*羊飼い(牧者)

今は二つの国に分裂しているイスラエルが、やがてダビデが王であった時のように一つの国に統一され、イスラエル(羊)に一人の羊飼いが現れて、イスラエルの民を導き、民は主に従い、主は彼らと平和の契約を結ぶことを告げています。「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる」とのみ言葉から、私はダビデの子孫から生まれたイエス様のことを思い浮かべました。

わたしは羊の門である。」(7節)

 本日のヨハネ福音書でイエス様は、「わたしは羊の門」と言われます。イエス様の門にとどまり住むことによって人々は救われ、イエス様が真の神様であるということが分かります。続けてイエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われます。良い羊飼いは、滅びに向かう生活、罪の中を歩んでいる生活から人々を救い出すために、自分の命を捨ててまでも羊たちを守り、助け、信じる者に「永遠の命」を与え、神の国に入ることができるようにイエス様自らが陰府(よみ)に降り、悪と死の力を打ち破り、復活されました。

本日の旧約聖書の終りに、「わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれる時、・・わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」とあります。(*旧約聖書の「イスラエル」は、イエス様を信じる私達キリスト者のことでもあります)。私達の心の中には、神様の住まわれる聖所が存在します。私と神様との関係は、イエス様によって永遠のものとされたことを覚え、今週も羊飼いイエス様に従って歩んでまいりましょう。

2021年8月29日の説教要旨 列王記上3:4-15・Ⅰヨハネ5:13-21

「主の御心に従う」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

ダビデ王の後を継いだソロモン王は、ある夜 夢の中で主の言葉を聞きます。「あなたはどんなことでも求めなさい。わたしはあなたに与えよう」。その言葉にソロモンは次のように答えました。「・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません・・・どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください・・・(6-9節)。」

ソロモン王が主に願ったことは、主の目に適(かな)い、主は、このソロモンの願いを喜びました。神様は、私達にも同じように、このような主の目に適う願いごとを求めることを願っています。

*主の御心に適う願い

 本日の、ヨハネの手紙一 5:14では、神様は、イエス様を信じる者達の祈りや願い、望みを聞き入れて下さると約束されています。そして私達は、神様からの祈りの応(こた)えによって、信仰が強められ、神様への讃美へと導かれていきます。

しかし、ここで私達が注意しなければならないことは、私たちの願い、望みが応えられるのは、「神の御心に適(かな)うことを願うなら」と、記されていることです。私達が何か望みを持って神様に願う時、その祈りが、神様の御心にかなうのかどうか、神様に喜ばれるものであるのかどうかと、少し立ち止まって考えることも大切です。

*イエス様の祈り

 イエス様は十字架にかかる前の夜、弟子達を連れてゲッセマネに行き、父なる神様に祈りを献げるために一人になりました。

その時イエス様が父なる神様に祈った言葉は、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)。」です。

イエス様は、神様への信頼の言葉と自分の願いを祈りながらも「しかし」と続け、神様の御心に適うようにと願い求めました。

*神様に御心に適う生き方

 私達は、神様の御心が行なわれることを祈り、神様に自分の思いを委ねて、信頼して、日々お祈りをささげているでしょうか。

人は、自分に与えられている能力や時間・お金を、自分の所有物のように自分の欲しい物、自分のやりたいことに使います。しかし本来、私達に与えられているものは、神様に献げるためのものです。神様と話をするため、神様を礼拝するため、神様の言葉に向かうためのものなのです。

ソロモン王は、神様に礼拝するために多くの時間やお金、能力を使い、神様に真剣に向き合いました。神様の御心に適(かな)う者とは、自分の欲望に左右されることなく、神様との時間や神様との関係作りを優先する者を意味します。神様は、御心に適う者に永遠の命を与えます。

*永遠の命を受けるものへ

ヨハネの手紙では、「死に至らない罪」と「死に至る罪」があることが告げられています。人の犯す罪が、「死に至らない罪」であるならば、たとえ今、イエス様を信じることが難しくても、神様のご計画の中で、神様の子供とされることができます。私達は希望をもって主の救いを祈り続けて良いのです。しかし「死に至る罪」を犯す者については、私達は神様にお委ねするしかありません。それはとても厳しい現実ですが、神様の義です。

私達はイエス様を信じて受け入れた時に、罪が赦されて死に至る者から、永遠の命を受けた者へと変えられます。永遠の命とは、神様と人間が永遠に共に生きることが出来るということ、神の国、天国に入ることが出来ることを意味しています。

私達は、日々イエス様が、私の救い主であることを感謝して、信仰を新たにしていきましょう。

そして神様に呼ばれて応(こた)えた者として、安心して、神様の大いなる祝福を期待して、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2021年8月15日の説教要旨 詩編15編・ヨハネ福音書7:40-52

「真実なお方」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

詩編15編には、神様の家には誰が住むことができるのか、どのような人が聖なる山に住むことができるのかという問いかけから始まり、その条件が2節以下に記されています。「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人をあざけらない人。主の目にかなわないものは退け 主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人をおとしいれたりしない人。

これらの事柄は、礼拝するにあたり、ただ各自の態度や姿勢についての要求がなされています。すなわち私達が神様に礼拝することは、神様に犠牲の捧げ物を献げるよりも、自らが「献げ物」となる、「私自らを神様の教えに従わせる」ことが大事だと強調しています。

つまり私達は、神様に正しいとされる生活を送り、人の悪口を言わず、うわさ話に耳を傾けず、隣人を傷つけるような態度をとらず、悪とされるものから足を遠のけ、主に従う人達を大切にする。そして相手から損を受けたとしても、立てた誓いは変えない、賄賂を受け取って無実の人に不利な証言を間違ってもしない・・ならば、その人は神様から多くの祝福を得ることになるでしょう。

旧約時代の礼拝者は、この基準に沿って、神様の言われることを行ない、祭司に聖所の立ち入りを認められて、神様の前に出て礼拝をすることが許されたのでした。私達は、神様に近づく時、どのような態度、心構えで神様に礼拝を献げているのでしょうか?

*信じる者は、生きた水が川となって流れ出る(7:37~)

 本日読んだヨハネ福音書の少し前の37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とありますが、この祭りはユダヤ人の三大祝祭日の一つであり、一週間続く「仮庵(かりいお)の祭り」(申命記16:13:小麦の収穫が終り、穀物収納の感謝祭)のことで、ユダヤ人達は特別な儀式を行います。

それは「水を汲む祝い」と呼ばれ、神殿に仕える祭司達はシロアムという名の池に下りて水を運び神殿に持ち帰ります。人々はこの祭司達の後に従って楽器を鳴らし喜び歌いながら歩いて行くのです。そして祭司達はその水を祭壇に注ぎかけます。その時人々は祭壇の周りを歩きながら「ホサナ」と叫びます。これはヘブライ語で「どうか救って下さい」という意味です。祭壇の傍らには一本の柳の木の枝が置かれ、切り取られた柳の枝がすぐに水分を失い、わずかな時間で枯れてしまう様子を自分達に当てはめながら、柳の枝が水を必要としているように「私達にも神様の救い・助けが必要です。どうぞ私達の必要を満たして下さい」との願いを込めてこの儀式を行なっていました。この儀式の最中にイエス様は大声で、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と叫ばれたのでした。

信じる者信じない者

 この言葉を聞いた人々は、「この人は、本当にあの預言者だ」とか「この人はメシアだ」と言う者と、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫でベツレヘムから出ると聖書にあるではないか」との対立が生まれ、この対立は人々を神様を信じる者と信じない者とに分けました。信じない者は、神様はイスラエルの独立と栄光と義を回復するために人間を遣わすのであり、神様が人の姿でこの地上に現れるとは考えていませんでした。

イエス様は、私達人間を罪や悩み、様々な問題など神様との間に壁を作っている事柄から救い出す為に、この世に来て下さり、十字架にかかり、死なれ、甦られました。イエス様は「わたしを信じる(た)者は、その人の心の奥底から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われています。イエス様を一度受け入れたらイエス様から離れることは出来ません。イエス様はそれだけ、私達・あなたを愛しているからです。

なぜならわたしがイエス様を選んだのではありません。 イエス様が、あなたを形造り、あなたを選んだのですから…。

2021年8月1日の説教要旨 箴言9:1-11・Ⅰコリント11:23-30

「主に感謝」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

先ほどお読みした箴言は、人が生きる中で「知恵」の生活を送ることが必要であり、「知恵」の重要さを宣言することから始まっています。そして「知恵」とは、単なる世の中にありふれているもの、この世の中にかかわったことで得た知恵ではなく、「主を畏(おそ)れること」に基づいていると、はっきりと述べています (1:7)。 この「おそれ」とは、私達が神様の前に罪を犯すことで神様からの仕打ち(罰)を受ける「おそれ(恐れ)」ではなく、神様の偉大な力、凄(すご)さをよく知り、理解することで、 神様の言葉と意志に敬意をもって服従することを意味します。

*命を得るため、分別の道を進むため(箴言9:6)

本日の箴言では、「知恵」が擬人化されています。「知恵」が自分の家を建て、食卓を整えて人々を招いています。1節で「知恵」は家を建て、七本の柱を刻んで立てたとあり、七本の柱は神様のための祭儀的場所として指示されていて、食事は祭儀的食事であり、「知恵」は食卓を整えました。そして侍女達を町の高い所に遣わして、招待していたすべての人に呼びかけ、宴席につくように招きました。イザヤ書40章9節には、以下のように記されています。「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神

*神に逆(さか)らう者と知恵ある人

「知恵」からの招きを受け入れる者は誰でも「命を得る(6節)」ことができるとされています。なぜならそこには「命の食物と命の飲み物としての知恵」と「物事を深く見通せる、優れた判断力」が与えられるからです。

ところが7節では、神様のことをばかにして笑う者達に神様のことを話そうとしても、聞き入れてもらえない、信じてもらえないことが記されています。逆にその人達は頑(かたくな)な態度を取ることになります。しかし、賢い人は、まだ自分には多くのことを学ばなければならないことがある、と知り、常に敬意を払いながら神様の言葉に耳を傾けて喜んで聞きます。

神様を畏れることは知恵を得ることの初めであり、この知恵を知ることが聖なる方を信じ受け入れることに繋(つな)がります。それは何が良く何が悪いかの正しさを見分ける力が与えられることです。「知恵」は自分の家で食卓を整えて、私達をその席へと招いて下さっているのです。

*主の晩餐の制定

本日のコリント書では、コリント教会の人達の、特に神様を礼拝する姿勢に問題があったので、パウロは、基本的な知識を身に付けるように手紙を書いています。その一つが「主の晩餐」の守り方です。教会内で「主の晩餐」の食事が感謝の心を持たずに行なわれていることに問題を感じ、自分が受けたものを人々に伝えるための言葉として、イエス様ご自身が発した厳かで変えることのできない儀式の仕方や信仰内容が語られます。パンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、「イエス様の救いの死」を思い出させるものであり、軽々しく受け取るべきではないことを伝え、特に神様を信じる者達は、自分達が裁かれないように自分自身を吟味する必要があることを教えます。又26節で、「主が(再び) 来られるときまで、主の死を告げ知らせる」とあり、27節からは、晩餐に与るために、ふさわしい在り方が語られ、コリント教会の人達が「主の体」のことをわきまえずに晩餐に与り、ふさわしくない態度でパンを食べ、ぶどう酒を飲んだことは、「主の体と血に対して罪を犯すことになる」と教え、教会内部で問題が起る結果を招いたことや、信徒の間では弱い者や病人が沢山いて、多くの人が亡くなったことなど、後半で語られます(30節)。

*わたしたち

神様を信じる者達には、意志の弱い者であれ、心に不安を抱いている者であれ、どのような者でも神様の食卓につくようにと招かれています。

その食卓で、イエス様と共に食事をし、神様からの力と励ましを受けて、私達は再び、この社会(この世の生活)へと戻って行くことができます。 今日この日、聖餐に共に与(あずか)れることを神様に感謝して、今週の歩みをして参りましょう。

2021年7月18日の説教要旨 創世記21:9-21・ロマ書9:19-28

「全てのものの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

アブラハムは、神様の前に正しい人でした。神様はアブラハム祝福し、彼の子孫も祝福することを約束されました。けれども妻サラには長い間、子供が生まれなかったため、サラはエジプト人の女奴隷ハガルをアブラハムの側女としました。ハガルはイシュマエルという男の子を産みました。しかし神様はアブラハムに、「あなたの妻サラが、あなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」と言われて、サラから生まれる子供が、約束の子供であることを告げました。

*アブラハムから生まれたイサクとイシュマエル

 そしてアブラハムとサラに、主によって約束された子供・イサクが与えられます。子供が与えられることは私達を笑顔にさせてくれますが、この出来事は、イサクが乳離れをした頃に様子が変わります。サラはイシュマエルがイサクをからかうのを見て、アブラハムにハガルと息子を追い出すように願い出ます。アブラハムはこのことで苦しみましたが、神様はアブラハムに「苦しまなくてもよい。アブラハムの子孫はイサクから出る者が継ぐ。イシュマエルも一つの国民の父とする。」と、約束されました。

*ハガルと息子

 アブラハムは翌日の朝早く、パンと水の革袋をハガルに与えて息子と共に送り出しました。ハガルは荒野をさまよい水が無くなると、子供を灌木の下に寝かせ、自分は少し離れた所で死を覚悟して座ります。神様は子供の泣き声を聞き、天から御使いを遣わしてハガルに呼びかけます。「行ってあの子を抱き上げ、しっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と伝え、ハガルの目を開き、水のある井戸を見つけさせたので、彼女は窮地を脱しました。こうして神様が二人と共におられたので、彼は成長し、母ハガルはエジプトからイシュマエルの妻を迎え、イシュマエルは、イスラエルとは異なる民族の祖となったのでした。

*パウロの悲しみと痛み

 ロマ書の著者パウロは、同胞であるイスラエルの人々の魂の救いを心から願っておりました。9章2節には「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」とあり、パウロはイスラエルの人々の 少数の人だけがイエス様を信じて受け入れ、他の人々はイエス様を信じようとしなかったことに心を痛め、悲しみの感情に捉えられています。イエス様はイスラエルの人々の神であり、主であられます。イスラエルの人々には、神の子としての身分や律法、約束などが与えられており、肉によればイエス様も彼らから出られました。

しかし6節で「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない」とあるように、アブラハムの子孫だからといって皆が神様との正しい関係にあることの保証にはならないことを本日の聖書箇所 <焼き物師と粘土の関係> を通して教えています。

*「怒りの器」から「憐れみの器」へ

 焼き物師と粘土の関係を考えればわかるように、「すべてのことは器を造る造り主に権限がある」(21節)こと、私達は本来「怒りの器」として滅びることになっていた(22節)にもかかわらず、神様は寛大な心で耐え忍ばれ、それも、「憐れみの器」として栄光を与えようと準備しておられた者達に、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためだと語ります。

*焼き物師と粘土(ねんど)

 「造られた物が造った者に『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるだろうか」(20節)と、焼き物師である神様には造り主としての用途があることを示します。神様は人を不当に扱うことはなさらず、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言われます(15-16節)。滅びゆく道へと歩んでいた私達は、「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより、無償で、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:21-24)をいただいた、神様に造られた者達です。 この神様に信頼を置き、神様の示される道を今週も進んで参りましょう。