2020年5月24日の説教要旨 詩編103:1-5 マルコ福音書2:1-12

「主によって自由になる」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の聖書は、直前の、重い皮膚病の人の癒しから幾日かが過ぎて、イエス様が再びカファルナウムを訪れた時のことです。イエス様が、再び村にやって来たことが人々の間で広まり、数日前になされた癒しを見聞きした人々がこの癒しを求め、又、権威ある教えや話を聞くために、その家に集まって来ました。その家は戸口の辺りまで、隙間のないほどに大勢の人々が集まり、人々の中には奇跡を期待する人達や、直接話を聞きたい人達、又、イエス様の話に感動している人達など、その場はいろいろな思いで一杯だったに違いありません。

*4人の男と、中風の人

そのようなところに、4人の男が中風の人を運んできました。イエス様の所に近づこうとしましたが、群衆にはばまれて近づくことが出来ません。しかし4人の男達はあきらめたくありませんでした。なぜならイエス様なら、この人をきっと助けて下さる、イエス様は必ず何とかして下さると信じていたからです。彼らは、イエス様がおられるあたりの屋根をはがして屋根の上から中に入ろうとしました。当時の家屋の屋根は、おそらく横梁の上に角材を並べて、その上に木の枝や柴を編み、粘土で塗り固めた平屋根と思われますので、屋根をはがそうと思えば簡単にできたと考えられます。そこで4人の男達は屋根に上りイエス様がおられるあたりの屋根をはがし、病人の寝ている床をイエス様の所へ、つり下ろしました。

*「子よ、あなたの罪は赦される」

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。なぜ、「あなたの罪は赦される」と中風の人に言ったのでしょうか。この言葉を聞いた全ての人達は、イエス様の言われた言葉に戸惑いを感じたのではないでしょうか。人々は、イエス様の癒しの業を期待していたはずです。しかしイエス様は、人々の期待を裏切る形で、「罪の赦しの宣言」を行なっています。

つまり、人間は、「目に見える癒し」を求めていますが、本当に必要な癒やしは「罪の赦し」であることをイエス様はここで明らかにしているのです。人間を縛りつけているものは「病」ではなく「罪」であることを指摘しているのです。人々に、本当の「癒しと自由」を与える為には、何よりも「罪の赦し」が必要であり、「罪からの解放」が必要であることを、イエス様はここで告げていると考えることができます。

*私達にも必要な「罪の赦しの宣言」

 私達の罪とは何でしょうか。どのような罪が原因で、イエス様のもとに近づくことを妨げているのでしょうか。それは、忙しさからくる神様との交わりのなさか、それとも知らずに行なってしまった隣人に対する無関心・無反応なのか、あるいは家族とのいざこざからくる自己中心的態度からなのか・・。どのような罪であるにしても、罪を犯し続けることは、身体の器官に病を冒すことになり、最終的には身体が不自由になってしまうというのです。それゆえイエス様は、病に対しての「癒しの宣言」ではなく、「罪の赦し」を宣言されたのだと思います。中風の人は皆の見ている前で立ち上がりました。そして床を自らの手で担ぎ、その場を去って行きました。人々はこの出来事に驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神様を賛美しました。

*私達もイエス様の十字架により自由にされた者

 神であるイエス様は、2000年前に私達と同じ人となり地上に来られました。それは私達人間の中にある罪を取り去り、自由にして下さるためです。この罪を取り去るために、イエス様は、ご自身で十字架に架かる必要がありました。罪のない方が、罪ある私達のために死なれる必要があったのです。それはイエス様が私達一人一人を大切に想い愛しているからです。罪は、絶えず私達の周りにあり、私達の心の隙間を見つけて入り込もうとしています。ですから私達は、悪い行いや考え、習慣があったとしても、日々、イエス様に赦しを求めてイエス様と共に歩んで参りましょう。イエス様は、今日も私達のそばにいて下さいます。 イエス様を求める その心を、神様は喜んで下さいます。

2020年5月17日の説教要旨 詩編107:17-21 マタイ福音書8:5-13

「御言葉の力」   加藤秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとってイエス様の言葉、聖書の言葉とは、どのようなものですか。私にとっては、時に厳しいと感じることもありますが、やはり優しく、温かいものであり、励まし、慰め、安らぎを与えて下さる言葉です。

詩編107編では、私達の愚かさ(無知、背き、罪)は、時に肉体にまで及び、病を起こすと警告しています。しかし主の癒しの言葉が人々の萎えた心、病人の病を癒します。主の言葉は癒しをもたらすと約束されているのです。そして私達がこの驚くべき御業を喜び、主の慈しみと憐みに感謝して主を称えようと呼びかけます。私達が信じる御言葉には力があります。なぜなら、御言葉には癒しをもたらす力があるからです。

*百人隊長の願い

本日の聖書は、カファルナウムの町で、一人の百人隊長がイエス様に助けを求めに来た時のことです。百人隊長は100人の兵士を統率するローマの将校で、彼は異邦人でした。ルカ福音書7章では、彼がユダヤ教の求道者であり、地域の人達のために会堂を建てるなど人格的に信頼されていたことが伝えられています。百人隊長はイエス様に近づいて「主よ、私の僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます。」と癒しを求めました。

「中風」は、身体的な機能を麻痺させる脳の疾患で、動きが制限されて、人の手を借りなければならず、生きる意欲を無くしてしまうほどの病です。「ひどく苦しんでいる」とは身体上だけでなく精神的な苦しみも含まれていると考えられます。隊長は動けなくなった僕の為に、癒やされる道を探していたのでしょう。そしてイエス様の噂を聞き、自ら町へ出向き自分が異邦人であることを承知の上で、イエス様のもとを訪れたのだと思います。

*イエス様の応答と百人隊長

 イエス様は百人隊長の願いに「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。すぐに百人隊長の家に行き、僕の病気を治そうとされたのです。ところが百人隊長は、イエス様と一緒に家に帰ることを拒みました。

なぜでしょうか。百人隊長は何を考えていたのでしょうか。

彼はユダヤ人が異邦人を「汚れた者」と考えていることを知っていました。そのため、イエス様を自宅の中にまで入っていただくことなど、とんでもないことだと思ったのでした。

*百人隊長の信仰

百人隊長は、権威ある者の言葉には人を従わせる力があることを承知していました。百人隊長自身も権威の下、命令には絶対服従であったのでしょう。そこで百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエス様に答えました。

イエス様も権威のあるお方ですから「治れ」といえば、どんな病気でも治る。イエス様のお言葉さえあれば、すべてのものはそれに従う…ということをよく理解していました。「ひと言おっしゃってください」は、イエス様に対する絶対的な信仰によるものでした。

*「あなたが信じたとおりになるように。」

この言葉を聞いてイエス様は「ユダヤ人の中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と感心されました。百人隊長の信仰は感嘆と賞賛に値するものでした。イエス様は百人長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、その時、僕の病気は癒されました。

今日の詩編、20節に「主は御言葉を遣わして彼らを癒し 破滅から彼らを救い出された。」とあり、33編9節には「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように立つ」とあります。

イエス様が、確かに父なる神様からの力を持って地上で活動され、 神様の約束を実現されることに気付かされます。そして11節に「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」とある「大勢の人」とは、おそらく百人隊長のようなイエス様を信じる信仰を持つ異邦人のことを指していると考えます。死に勝利したイエス様は、人の病をも癒す力を持ったお方です。そしてイエス様の癒やしは御言葉によってなされます。私達がこの御言葉を信じるとき、その御言葉は、確かに力をもって働いて下さるのです。

2020年5月10日の説教要旨 創世記2:18-25 ヨハネ福音書2:1-11

「婚礼での奇蹟」   加藤秀久伝道師

*はじめに

神様は、初めに天地を創造され、人を土のちりから造り、その鼻に神様からの命の息を吹き込んで人は生きるものとされました。命の息が神様より直接吹き込まれたことにより、人は他の生き物と違って特別に造られたこと、神様のかたちに似るように造られたことが記されています。

神様はエデンに園を設け、人を住まわせ、耕し守るようにされました。また神様は「人が独りでいるのは良くない」と、彼に合う助け手として彼のあばら骨の一部から女を造られました。それゆえ男は妻と結ばれ、二人は一体となりました。神様は天地創造の初めから、男の人と女が夫婦になることを定められました。このことは世界における結婚の始まりであり、結婚は、神様が定めて下さった祝福の一つであることを知ることができます。しかし創世記3章以下には、この最初の結婚も神様と人間との関係も、エデンの園での悪魔の策略により破壊されたことが記されています。<悪魔の攻撃は今も続いています>。破壊された神様と人間の関係の回復こそが、聖書全体に貫かれている神様の御心であり、このご計画を完成させるために「不思議」と「しるし」と「奇蹟」が行われているといえます。

*カナの婚礼での奇蹟・・ヨハネによる福音書2:1-11

 今日の箇所は、イエス様の、神様の御心を示す最初の奇蹟でした。ガリラヤのカナで開かれた婚礼に、イエス様の母マリアは助け手として招かれ、イエス様と弟子達も招待されていました。当時イスラエル地方の婚礼の披露宴は一週間も続き、又、申命記24:5では「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。」とあります。イエス様の時代の婚礼も、このような神様の祝福に溢れるものであったに違いありません。ところがお祝いの席の途中でぶどう酒が切れてしまいました。途中でぶどう酒が無くなるのは、喜びや楽しみ、神様の祝福がなくなってしまうようなことでした。皆さんでしたらこのピンチをどう回避しようとなさいますか?

*マリアの対応

マリアはこのことを知り、その家の人にではなく、来客の一人としておられたイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えました。

イエス様は「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」と言われました。これは「公の場にわたしがキリストであることを現わす日は、まだ来ていません。」との意味を含んでいましたが、マリアは召使い達に「イエス様が言う事は、何でもその通りにして下さい」と言いました。

*イエス様のなさったこと

イエス様は召使い達に「水がめに水を満たしなさい」と言われました。水がめは6つあり、一つの水がめには80ℓ~120ℓの水が入りますので、水がめを満たすには2ℓ入りボトルに換算すると360本分位必要です。それは大変な労力が必要で、何度も井戸に水を汲みにいかなければならなかったはずです。水がめが一杯になったのをご覧になったイエス様は、その水を汲んで世話役のところへ運ぶように言われました。世話役は、いつの間にか最高に美味しいぶどう酒に変わっていた水の味見をしました。この出来事を目の当たりにした弟子達は、イエス様を信じました。イエス様の凄さ、偉大さ、素晴らしさを体験したからです。

*神様は私たちにも・・・

私達は、このようなイエス様のなさった奇蹟を体験しているでしょうか。イエス様は、ただの水をぶどう酒に変える力を持っておられます。時に私達は困難な出来事や問題が、空から降ってくるように、又、隣の人から投げつけられるような形で突然に起こります。特に家族や親族や友人から与えられた問題には心が痛み悩むものです。しかしこのような試練がある時こそ、御言葉に帰り、神様に祈り、静まり、委ねることが大事であり、神様に、その問題を明け渡すことが必要です。「あなた方の会った試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることの出来るように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(新改訳聖書Ⅰコリント10:13)

2020年4月26日の説教要旨 列王記下6:8-23 マタイ福音書4:18-25

「主イエスの呼びかけ」   加藤秀久伝道師

*はじめに

主は「わたしについて来なさい」と、どんな人にも呼びかけておられます。

*列王記下6:8-23

ここには、アラムの王様がエリシャ(BC9世紀の預言者)を捕えるため、ドタンに馬と戦車の軍隊を送ったと記されています。エリシャの従者(お供)はその大群を見た時、恐れと不安に陥り、慌てたとあります。エリシャは、従者に「恐れてはならない。私達と共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言い、従者の目が開かれように祈りました。すると従者の目は開かれ、エリシャを囲む火の馬と戦車があるのを見たのでした。次にエリシャは 攻めて来たアラム軍の目をくらますように神様に祈り求めました。神様が彼らの目をくらましたので、エリシャは彼らをサマリヤに導きました。再び神様に彼らの目を開くように祈ると、彼らは目が見えるようになり、サマリヤにいる自分達を見たのです。それはアラム軍の敗北の意味を含んでいました。北イスラエルの王(*)はアラムの軍隊を見てエリシャに「私が打ち殺しましょうか」と言いましたが、エリシャは逆に、もてなしてから帰すように命じました(23節:大宴会を催した)。

神様がエリシャを通して行なった行動は、善をもって悪に打ち勝ったと言えます。アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に来ませんでした。

(*)当時イスラエル王国は、「北王国イスラエル」と「南王国ユダ」に分裂。

*霊の目が開かれる

神様への信仰が成長するためには、神様がどのようなお方かを知る為の、霊の目が開かれる必要があります。エリシャの従者は目が開かれたことで天の軍勢が包囲しているのを見ました。霊の目が開かれたことによって、神様が必ず助け出して下さることを信じることができました「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人(主を信じる者)を守り助けて下さった。」(詩編34:8)。私達も霊の目が開かれる時、目には見えなくても確かに存在する神様が、必ず助け出して下さることを信じることができます。

*神様の宴会

神様はアラム軍に神様の偉大さを示されました。エリシャはアラム軍に「私について来なさい」(19節)と言いました。この様子は罪人であった私達が主からの招きを受けて主の盛大な宴会に招かれたことと似ています。なぜなら私達は神様の招きに応えることによって神様に出会うことが出来るからです。神様は敵であるように見える人々、かかわりたくないと思うような人達にも区別することなく主イエス・キリストの愛を示し、私達と同じように全ての人を主の宴会に招いているのです。

*「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:18-25)

イエス様の宣教は、カファルナウムというガリラヤ湖のほとりの町で始まりました。ガリラヤ湖では魚が沢山獲れたのでペトロとアンデレも多くの人々と同じように漁の仕事をしていました。その日も漁をしていましたが、イエス様は彼らに目を止められ「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。彼らがイエス様の呼びかけを聞いたのは普段と変わらない作業をしている中でのことでした。漁師にとり網や舟は何より大切な財産です。しかし彼らは全てを捨ててイエス様に従いました。大切な家族や仲間、自分の財産や生活よりもイエス様を第一にしたのでした。なぜそのようなことができたのでしょうか。

それは、「イエス様が人間をとる漁師にして下さる」のですから、その後の全ての責任をイエス様が取って下さるからです。イエス様は 私達にも「人間をとる漁師にしよう」と言われたはずです。イエス様を第一にして従っていくならイエス様が私達を、イエス様の愛を伝える者として変えて下さるのです。そしてイエス様は必ず大切な家族や仲間、そして私達自身の歩む道を守り導き祝福して下さいます。全てを捨ててイエス様に従うことは私達自身の力では出来ません。私達がイエス様の弟子となるために必要なことはイエス様が教えて下さり、少しずつ私達を訓練して下さいます。自分の弱さを見るのではなく、イエス様だけに頼ってついていくならば、イエス様は必ず、大切な家族や仲間、そして彼ら自身の歩む道を守り導き、大きく祝福して下さるに違いありません。

2020年4月19日の説教要旨 詩編16:7-11 ヨハネ福音書 20:24-31  

「命を受けるための道」  佐藤義子牧師

*はじめに

私達は、先週の日曜日イースター礼拝をおささげしました。今朝はヨハネ福音書20章を通して、復活されたイエス様が、マグダラのマリアと、弟子達およびトマスと出会われた出来事をご一緒に学びたいと思います。

*マグダラのマリア

イエス様の御遺体に塗るための油と香料を用意して、日曜日の早朝まだ暗い中を、マグダラのマリアはお墓に向かいました。しかしお墓には遺体はなく、マリアからそのことを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐお墓にかけつけますが、お墓には、遺体が包まれていた亜麻布と、頭を包んでいた覆いがあっただけでした。二人の弟子はそのことを確認した後、家に帰って行きました。(20:9「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」) 

しかしマリアは、帰ることが出来ず、お墓の外で立って泣いていました。泣きながらお墓の中を見ると、二人の天使が遺体のあった頭の方と足の方に座っていました。マリアは天使とは分からず、イエス様の遺体が取り去られたことを訴えます。遺体に執着(しゅうちゃく)していたマリアは、さらに、復活さたイエス様から声をかけられた時でさえイエス様とはわからず、園の管理人と思いこみ、遺体のことを聞いています。

私達は時々、マリアと同じようなことをしてはいないでしょうか。イエス様がすぐそばにおいでになるのに、自分から探して「遺体」を引き取ろうとする愚かさです。しかしよみがえられたイエス様は、マリアの、この悲しみの涙を放ってはおかれず、弟子達より先にマリアに現れて下さり、そして、弟子達への伝言を託されたのでした。

*弟子達への聖霊授与

 同じ日曜日の夕方、弟子達が迫害を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた時、復活されたイエス様は来られて真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架による傷口をお見せになりました。そして弟子達に息を吹きかけ、世界伝道へと遣わすために「聖霊を受けなさい」と、「聖霊の賜物」と「罪を赦す権威」(および、赦されない罪への権威)をお与えになりました。この「聖霊の賜物と罪を赦す権威」は、「あなたは生ける神の子です。」との信仰告白を土台として建てられた、「教会」の伝道者及び共同体に託され、2000年来、継承され続けています。

*トマス

弟子達にとって、よみがえられたイエス様との再会はどんなに大きな喜びと励ましとなったことでしょう。ところがその日、弟子達と行動を別にしていたトマスは、復活のイエス様にお会い出来ず、この喜びを共にできず、聞いても信じることが出来ず、イエス様の復活は、自分の目と手で確かめるまで信じないと言いました。復活のイエス様にお会いする素晴らしい恵みのひと時を逃してトマスはどこに行っていたのでしょうか。又、他の弟子達との関係はどうなるのでしょうか。 

*「見ないのに信じる人は幸いである。」

イエス様は、八日間という時間を経たのち、疑いと不信仰の中にいたトマスを弟子仲間に戻すために再び弟子達を訪ねられ、「あなたがたに平和があるように」と言われました(この平和は、神様の業、賜物です)。

そしてトマスに「あなたの指をここに当てて・・あなたの手を伸ばし・わき腹に入れなさい」と、望むことをするように言われた時、トマスの口から出た言葉は「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。

見ないのに信じる人は幸いである。」とイエス様が言われた通り、2000年を越える今も、教会で、又、私達の伝道所で、イエス様を見ないのに信じる幸いな方々」が起こされています。 *「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(31節)。信仰は、聖霊が働くことによって私達に届けられ、確信が与えられます。そして信じた者には永遠の命が与えられています。「イエス様を信じる者は死んでも生きる」(11:25)のであり、私達信仰者は「信仰の実りとして魂の救いを受けている」(Ⅰペトロ1:8)のです。

2020年4月12日の説教要旨 出エジプト記14:15-22 ヨハネ21;15-19

「主を信じる」   加藤秀久伝道師

*はじめに

 本日は、主の復活を記念するイースター礼拝です。イエス様は死に勝利をして、私たちに新しい命を与え、神様の栄光を現されました。本日の、旧約聖書の出来事も又、神様がモーセを通して行われた勝利の物語です。

*絶対絶命の時

本日の出エジプト記には、モーセがイスラエルの民とエジプトを脱出した後、エジプト軍に追われ、葦(あし)の海を前に、行き場を無くした時のことが記されています。イスラエルの民はモーセに「なぜ、エジプトから我々を連れ出したのか。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましだ」とつぶやきました。

皆さんは、行き場を無くした時、どのようなことを感じ、その行き詰まったことにどのように対処するでしょうか。モーセは、この絶対絶命の状況において、あきらめることなく、逃げ出すことなく、神様に向かって助けを祈り求めました。

神様はモーセに『杖を高く上げ、海に向かって手を差し伸べて、二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。』と告げました。モーセはこの神様の言葉を信じ、従いました。

*神様のみ業

神様は、追って来たエジプト軍を押し留めるために、み使達に命じ、エジプト軍とイスラエルの人々との間に闇をつくられたので、エジプト軍は、一晩中その真っ暗な雲にさえぎられ、近づくことが出来ませんでした。

さらに、モーセが神様の言われた通り、海に向かって手を差し伸べると、神様は強い東風をもって海を押し返され、海は乾いた地に変わり、イスラエルの人々は、水が右と左に壁のようになっているのを見ながら、乾いた地を進み、向こう岸に着くことが出来ました。さらに神様は、追いかけてくるエジプト軍の戦車の車輪を外し進みにくくされ、イスラエルの人々が渡り終わると再びモーセに、手を海に差し伸べるように言われ、その通りにすると、水は戻りエジプト軍は水で覆われ、一人も残りませんでした。

 (ぜひ一度「十戒」の映画を見て頂きたいと思います)。

神様には不可能はありません。私達が考える以上に不思議な業やしるしを行なわれます。

私達は、祈りが聞かれるという小さな奇跡の積み重ねの中で神様に感謝し、揺るがない信仰へと成長させていただきたいと思います。

*「わたしに従いなさい。」(ヨハネ福音書21:19)

 復活されたイエス様は、弟子達にご自身を現されました(21:1-14)。

漁で魚が捕れなかった弟子達に、その網に魚を一杯にされる奇跡を行なわれました。そして捕れた魚とパンでペトロ達と朝食をとり、食事が終わるとイエス様はペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。ペトロは「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。そして、同じ会話が印象的に繰り返されます(21:16-17)。

イエス様が三度も「わたしを愛しているか」と言われたのでペトロは悲しくなりました。それはイエス様が十字架に架かる前にイエス様のことを「知らない」と言ってその場から逃げるように立ち去ったことを思い出したからかもしれません。又、せっかく「ペトロ・岩」という名前をつけて下さり、教会を建てる土台として期待して下さったにもかかわらず、その期待に応えられなかったとの思いがあったのかもしれません。ペトロは確かにイエス様を愛していたはずですが、イエス様のことを否定して逃げ出した自分を恥じ、イエス様を裏切ってしまったとの思いが、イエス様の「愛」にまっすぐに応えることを出来なくしていました。

しかしイエス様は同じ問答を繰り返す中で「全部分かっている、わたしはとっくに赦しているのですよ」と言われるのです。そしてもう一度ペトロがイエス様に従うことの出来る道を作って下さいました。 神の前に出る資格などないと落胆し、絶望する私達に、イエス様は「全部分かっている、わたしはあなたを赦し、愛しているのですよ」と語って下さいます。イエス様の十字架には私達の全てを受け入れ、赦す力があります。そしてイエス様の復活には「わたしに従いなさい」と言って下さるイエス様からの招きがあるのです。

2020年3月29日の説教要旨  詩編119:105・ヨハネ福音書 12:27-36

「光のあるうちに」    佐藤 義子牧師

*はじめに

来週の日曜日は、イエス様がエルサレムの町に入城した棕櫚(しゅろ)の主日であり、受難週に入ります。本日の聖書は、過越祭の礼拝の為、エルサレムの町に入られたイエス様が、群衆に語られている言葉です。12章27節に「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」とあります。イエス様の心が騒いでおられる。イエス様でも、そのような状態の時を過ごされたことを改めて知らされます。イエス様にはこの時、すでに逮捕状が出されていました。

父よ、私をこの時から救ってください』の、「この時」とは、23節の「人の子が栄光を受ける時が来た」の「時」であり、御自分の命をささげる時です。ですからこの祈りは、ご自分が死ななければならない道とは別の道を祈っているように思われます。が、内村鑑三は、「この時から救って」の『から』は、「その中から」という意味を含む(原語)ので、正確には、「苦痛を免れることではなく、苦痛の中に入り、この道を通過して、その後に、その中から」私を救ってください、と、読んでいます。

*しかし

イエス様の祈りは、このあと、「しかし」という言葉をはさんで、御自分の進むべき道は、神様の御意志に従う道であること、それが受難の道、死へと向かう道であり、それを担うためにイエス様は生れてきたのであり、地上に遣わされてきた、と言われ、祈りは「父よ、み名の栄光を現して下さい」(神様のみ名が崇められ、神様のみ名が輝くように)で終りました。その時、大きな出来事が起こりました。

*天からの声

それは、天からの神様のみ声が聞こえたのです。み声は「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」です。神様はこれまでイエス様を導き、イエス様が語られた言葉や業により、神様のみ名が崇められてきましたが、これからも続けて神様の御業が行なわれるとの約束の言葉です。「神様が神様であられること」「神様のお名前が崇められていくために、これからの十字架と復活という出来事の中で、神様の御業を行われていく」との約束です。

しかしその場にいた群衆は、この大きな出来事が、ある者は「雷」の音として聞こえ、ある者は「天使の声」と聞きました。しかしイエス様は、このみ声は、その場にいた群衆のためと言われています。イエス様が神の御子であることが分からない、信じていない人達のためでしたが、正しく聞くことが出来た人はいなかったようです。

*「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)

今、世界で起こっている新型コロナウイルスの出来事の中に神様からのメッセージがあるとするなら、それは何かと考えます。多くの方々もそれを聞きたいと神様に祈っていることでしょう。ある人はバベルの塔を例にしながら、人間のおごり高ぶりに対する神様からの警告と考え、ある方々は終末を意識して過ごすといわれます。私達は日常的にいろいろな出来事に遭遇しますが、それらを通しても、今も生きて働いておられる神様からのメッセージがあるように思われます。み声(聖書のみ言葉)を聞くのは、聖霊の働きをキャッチするアンテナが不可欠です。「目を覚ましていなさい」を心に刻みたいと思います。

*「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(36節)

イエス様は、十字架は、神様のこの世に対する裁きであると伝えます。そして信仰を持つようにと語られます。イエス様は、すべての人を照らす光(ヨハネ福音書1章4節)としてこの世に来られました。

イエス様は「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と呼びかけます。

今しなければならないことは決断であること、今はまだ光がそこにある。だからじっとしていないで行動すること。やがて暗闇がやって来る。もしイエス様によって恵みを得ようとするなら、今、それを得ること。人生においては、すべてのことが時のある時間になされねばならないこと・・をイエス様は教えられます。「光の子」とは闇から解放された者、恐れから解放され、疑いから解放され、誰も取り去ることが出来ない喜びを内に持つ者です。最後に、12章44節~50節をお読みいたします。 「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。

2020年3月22日の説教要旨  詩編119:97-104・ヨハネ福音書 12:1-8

「聖化された愛」      佐藤 義子牧師

*はじめに

 本日の説教題を「聖化された愛」としました。「聖化」とは、「あるものを聖なるものにすること」「聖なるものにされた状態」を言います。

「聖」という言葉は、神が聖であり、神から選ばれた民は聖なる民であることが根底にあります。聖には、俗世間、あるいは日常的なものから引き離すという意味、又、神に献(ささ)げられるために清められたものに使われます。

*イエス様を取り囲む環境

今日の箇所は、イエス様が過越の祭りの6日前にべタニアに行かれた時の出来事が記されています。この出来事のあと、イエス様は過越祭に行くため、エルサレムの町に入られ、弟子達への告別の説教・最後の晩餐・ゲッセマネの祈り・逮捕と大祭司による尋問・続くピラトからの尋問・そして死刑判決・十字架での死・・への道に向かって進んでいかれるのです。

今日の箇所の直前(11章最後)に、こうあります「祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。

イエスを逮捕するためである。」つまりこの時点で、イエス様には逮捕状が出されていました。逮捕される理由は一つもなく、ただ当時の宗教的指導者達にとってイエス様の存在が自分達に不利益をもたらすこと、権威が脅かされ、群衆の人気がイエス様に向かうことへの妬みにより、神を冒涜しているとの理由をつけてイエス様を殺そうとしていました。このことをイエス様はすべてご存じの上で、弟子達と共に、今、エルサレムの町に近いベタニアに来られたのです。エルサレムの町は、祭りの為に、世界各地から、大勢の人々が巡礼者としてやってきますので、町は人々で溢れるため、近隣のべタニアは巡礼者達の宿泊場所の一つでもありました。

*ナルドの香油

今日の出来事が起こった場所についてヨハネ福音書には記していませんが、マルタが給仕をしており、イエス様によって甦らせてもらった兄弟ラザロも同席していたことから、マルタとマリアの家ではないかと考えることが出来ます。イエス様たち一行が来られることを聞いて食事の会が催(もよお)されました。

この席で、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。その結果、家は香油の香りでいっぱいになりました(3節)。ナルドは、ヒマラヤやネパールの高地でとれる植物で、イエス様の時代、インドから輸入されていて大変高価なものでした。香油の量は1リトラ(約330g)とあり、ユダの言葉によれば、300デナリオンの価値(当時、1日の労働賃金が1デナリオン)があったようです。通常このような高価な強い香りのする香油は、敬意を表そうとする客の髪の毛に、ほんの一滴注いでいたということですから、この時のマリアの行動は、そこにいたすべての人を驚かせたに違いありません。

*マリアの行為

強い良い香りが部屋中に満ちる中、その場は一瞬、空気が止まったようになったのではないかと想像します。マリアのその行為は、マリアがどんなにイエス様を尊敬し慕っているか、誰の目にも明らかに映ったことでしょう。マリアは、これ迄のイエス様との出会いを通して、イエス様こそ神の御子救い主であられることを確信していたに違いありません。そしてイエス様の今回の訪問、今年の過越祭の時が最後になるかもしれないとの予感が、マリアを、このような大胆な行動へと向かわせたように思います。

 ある神学者(テニイ)は、「マリアは霊的な識別力を備えていた。

イエス様の心に共感した者が持つ洞察力があり、イエス様が自分達と共に長くおられることは出来ないと直感した」と書いています。

同席していた人々の中で、イエス様との地上での別れの時が,もうそこまで来ているとの思いと緊迫感を、マリアと同じようにもっていた人は、どれほどいたのだろうと思いつつ、私もマリアと同じようにイエス様の心を知ることが出来るようになりたいと思いました。

*空気を破ったユダ

マリアの行為から生まれたこの場の空気を破ったのは、弟子の一人、イスカリオテのユダでした。彼は、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施(ほどこ)さなかったのか。」(5節)と言いました。相手を批判し、裁き、その間違いを指摘し、その行為を責めている言葉です。

ユダにとっては、その行為は浪費・無駄使いであり、使われた香油は300デナリオンという大金にしか見えなかったようです。彼は会計係でした。かつて群衆の多くは、イエス様のパンの奇跡などを見てイエス様を王にしようと捜し回ったこともあり、ユダも又、イエス様がこの世に於いて力を行使することを期待していたでしょう。ところがイエス様の生き方は、それとは逆に、御自分を待っているのは「受難と死」であることを弟子達に語っていますので、ユダにとっては自分の期待が裏切られる中、自分の身を守るために、会計係として預かっているおおやけのお金から一部を抜き取っていたことが、ヨハネ福音書の著者によって書き加えられています。高価なナルドの香油を自分に預けてくれたなら、それを高く売りその一部を自分の懐に入れられたのに、と、その悔しさからマリアを詰問する言葉となったと思われます。そのような自分の損得感情を隠してユダはマリアに、「貧しい人々に施す機会をあなたは捨ててしまった」と責めたのです。

*サタンの働き

悪魔サタンの働きは、いかにも人間らしく、信頼出来そうなかたちや言葉をとって近寄って来ます。それゆえ一般社会において、ユダの言い分に同調する人が出てくる可能性は大きいのです。 私達はこのような偽善(サタンの働き)に対して、見破る上よりの知恵を求めていかなければなりません。又、私達は、ユダのマリアへの批判は「おかしい」と感じます。それは、その人が所有している物を、その人が好きなように用いるのは当然であり、他人がそのことに対して批判し、干渉するのは間違っていると考えます。しかし当時は女性の人格は低く、人前で男性に自分の考えを述べることなど出来なかったのでしょう。誰かが助け舟を出さない限り、この場において、マリアは「高価な物を無駄使いする女性」とのレッテルをはられてしまう場面です。

*聖化された愛

イエス様は、ユダの言葉に対してこう言われました。

この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日の為に、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

イエス様はマリアの行為を、「ご自身の葬りのため、埋葬の準備のための奉仕であり、日常的な来客に敬意を表す香油と区別され、特別な奉仕としてなされた行為」であることを伝えました。

イエス様の、この奉仕の意味づけにより、マリアの行為は、「時宜(じぎ)にかなった行為」であることが、おおやけにされました。マリアの、イエス様への、人目をはばからずに捧げた愛の奉仕は、イエス様によって聖化され、高められました。

この受難節の時に、私達はイエス様に何をささげたいと望むのか、何を喜んで受けていただけるのか、自分に与えられている賜物を思い起こしつつ、ささげるものが、主の御用に用いていただけることを願いつつ、今週一週間を歩みたいと願うものです。

_______________________________

<参考までに>

*香油の物語については、すべての福音書に記されていますが、少しずつ内容が異なります。この出来事は、古くから初代教会に伝わった伝承の中の一つであり、福音書記者によって伝えたい事柄や強調したいことの違いが、違いとして表れていると考えられます。

○マタイ福音書(26:6-13):場所は、らい病のシモンの家。一人の女がイエス様の頭に香油を注ぎ、これを見て憤慨したのは弟子達。 

○マルコ福音書(14:3-9):マタイ福音書と同じ。憤慨したのはそこにいた何人かの人。

○ルカ福音書(7:36-50):場所は、ファリサイ派の家。香油を注いだのは一人の罪深い女であり、批判者はファリサイ派の人。

2020年3月15日の説教要旨 詩編100編・フィリピ書:3:1-11

「主イエスを知る」     加藤秀久神学生

*はじめに

主にあって喜びなさい」(口語訳フィリピ3:1)。私達は本当に、日々主にあって「喜びの生活」を送っているでしょうか。

本日お読みした詩編100編は、主を感謝すべき方として歌うことを奨励しています。

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(100:1) この詩編は、イスラエルにおいて、神殿に入場する時、神殿に集まった人々は主の門に進み出て、賛美を持って祝い歌われたと考えられています。又、礼拝式文の中でこの詩編が朗読され、神さまの「御名」と「恵み」と「真実」とが会衆に知らされました。この詩編は、神さまへの喜びを表し、この喜びこそ、私たちが、心を神さまに向ける信仰の活力になるのです。礼拝は、神さまへの喜びが大きく表現される場であり、同時に、主の民の喜びが湧き上がる場でもあります。

*「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

詩編は、私たちにこのように呼びかけています。礼拝は、神さまをほめ称(たた)え、賛美を歌うことから始まります。そして、神さまへの喜びの叫びは、主の前に集う人々の間だけに留まることなく、全地に、また世界中に響きわたって行くのです。人々は、この呼びかけに導かれて、神さまの御前に集うすべての者と結ばれて、信仰における神の家族としての大きな一体感を味わいます。

また2節の「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」との礼拝へのうながしは、神さまの臨在(りんざい) (見えない神が、その場に存在すること。そこにおられること) の素晴らしさと、そこから来る喜びに憩(いこ)い、与(あず)かるようにとの呼びかけが含まれます。礼拝の真の喜びは神様の存在を知り、その場所に立つこと、神さまの臨在に触れることです。神様を礼拝するために集まってきた人々は、神様に心を向けながら喜びと賛美をもって、神様のおられる場所に少しずつ近づいていきます。 礼拝は、私達人間が神様に出会い、神様への喜びに自分自身を委(ゆだ)ねる場であります。

*造り変えられていく喜び

また私たちは礼拝において、私達人間は、確かに「神さまから造られた者」であるとの認識、意識を持つことが出来ます。神さまの前に立つ時、私達はもはや「自分自身がどうありたいか」ではなく、神様が私達一人一人を、それぞれ違う形で造られたことを知らされます。そして私たちは、神さまのご計画に従って造り変えられていくことに、喜びと確信を持つことが出来るのです。 「感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」(4節)。これが、喜びにあふれる真の礼拝です。

*「主において喜びなさい

 さてパウロは、今日のフィリピ書3章1節で「主において喜びなさい」と言いました。なぜ「主において喜びなさい」と言ったのでしょうか。彼は獄中にいました。パウロはフィリピの教会の人達に直接会って神様のみ言葉を宣べ伝えて共に祈りたかったと思います。しかし出来ませんでした。そのような自分の思いが叶(かな)わないという状況の中で、パウロは「主において喜びなさい」と語っているのです。

私たちは日々の様々な生活・状況の中で、自らをその流れに任せて淡々と毎日の決まりきった行動をしていないでしょうか。そうであれば、私たちは、そのような中で果たして本当に「主において喜ぶ」ことができるのでしょうか。「主において喜ぶ」とは、今日お読みした詩編100編のような礼拝を通して神さまに出会い、神さまに触れることだと思います。一人一人、感じ方の違いがあるかもしれませんが、神様を礼拝する「思い」や「態度」が重要だと思います。

*パウロ(フィリピ書の著者)と神様との出会い

パウロの神さまとの出会いは、彼がキリスト者を迫害するために、ダマスコという場所へ向かう途中、十字架につけられて復活したイエス・キリストの声を聞くことから始まりました。

パウロは三日間、目が見えなくなり、その間、食べることも飲むことも出来ませんでした。しかしその後、パウロはアナニアという弟子によって手を置いて祈られると、目が見えるようになるという経験をしました。そしてパウロは洗礼を受けた時に、神様からの力・聖霊の力を得たような体験しました。これがパウロの、主の霊に満たされた瞬間であったに違いありません。パウロは主イエス・キリストの霊を、身近に体験することによって神様を感じ取り、イエス様を知ることで自らを神様に委ねていく信仰を得ました。それはきっと、不思議な出来事であり、生きたイエス・キリストを見るような感覚であったに違いありません。このような生きた神様と共に歩むことで、すべてにおいて神様に感謝して喜ぶことができました。(使徒言行録9章参照)

主において喜びなさい」と言った後「これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と続けて言っています。

そうです。「喜ぶ」ことは私達にとって神様から守りを得ることなのです。

*真の割礼

あの犬どもに注意しなさい」(2節)。2節で「犬」という表現が使われています。犬はユダヤ人にとって汚れた動物であるため、異邦人に使われていましたが、パウロはここで「契約のしるしである割礼(かつれい)を強調するユダヤ主義者」を指すために使っています。(割礼=生後八日目に男児の包皮を切る宗教的慣習)。そして肉を頼みとしない「私たちこそ真の割礼を受けた者です。」と宣言しています(3節)。コロサイ書に「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」(2:11)とあります。つまり私達は、洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神様の力を信じて、キリストと共に復活させられたことこそが「割礼」なのだと書かれています。パウロは、もし目に見えるしるしや正しい行いが大切なのであれば、パウロ自身も誰にも負けないくらい誇れるものを持っていると言っています。

*肉に頼ろうと思えば・・

 パウロは生まれて8日目に割礼を受けました。これが意味することは、彼が生まれた時から律法を大切にする家系に生まれて、パウロ自身も、生まれた時から律法を守っていると考えることができると思います。「イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」(5節)は、アブラハム・イサク・ヤコブの流れの正統派家系に属する者であり、その中でも特別な地位を持つとされるベニヤミン族出身であり、純粋な血統を持つだけではなく、旧約聖書の言葉であるヘブル語を話すことができるヘブライ人でもあると言っているのです。

*「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者

ファリサイ派には「分離されたもの」という意味があります。神様の掟を守るために、普通の生活から分離して、律法に従う生活を送っている人々のことです。パウロはその一員であったと語っています。また、旧約聖書の教えでは、熱心であるという事は特に尊敬されるべきことでしたので、その点でも、パウロは律法を守らない教会の人々への迫害に携(たずさ)わるほどに熱心でした。彼は、律法を守ることに関しては非の打ちどころがない者だったと自ら告白しています。

*しかし・・

 しかし7節で、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった。」とあります。キリストを知ることによって、ほかの全てのものを「損失」とみなしたのです。さらに続けて8節で、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。」と語っています。

この「主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさ」とは、どういうものなのでしょうか。そして、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とは、一体どういうことなのでしょうか。私たちには、パウロのような主キリスト・イエスを知ることが出来るのでしょうか。 私は、出来ると信じています。

*私の体験

少し私のイエス様の体験談をお話したいと思います。

私はかつて、日本基督教団ではない教派に属する教会の礼拝に出席していました。私はその教会で、イエス様を私の救い主として受け入れました。その後は「神様のために何かをしなければならない、神様のために何かをするべきだ」という私自身の感情や考えから、教会の奉仕や仕事に一生懸命に取り組み、毎日の生活を送っていました。私はその日々の生活で、自らを忙しくする中で、次第に教会の礼拝に出席するのにも疲れを覚えていきました。それと同時に、神様に感謝する心を忘れていきました。

なぜそのようになったのか今、想い起こして考えてみますと、神様との交わりの時間、一対一の時間を作り、静まり、祈るということをしないでいたからだと思います。当時の私は、神様との交わりの時間を作ることが、その気になれば簡単に出来たはずでしたが、あえて日々の忙しさの中に身を置き、神様との時間を作るという選択をせずに、神様との関係作りをおろそかにしていました。これは、悪魔に攻撃されやすい、自らを否定しやすい環境に身を寄せていたことでもありました。いつのまにか私は、パウロと同じような習慣、神様との交わり<神様に祈り・委ねて・聞くということ>をしないでいたということでありました。

しかしそのような中で、ある時、私は兄に誘われて、ある伝道集会に出席しました。私はその集会で、集会に参加した人達と共に声を合わせて祈り、神様を賛美していると、今まで体験したことのない「神様がそばにいて下さる」という神様の臨在感を感じました。それは神様の圧倒的な存在感で、神様が一方的に私の方へ迫って来て、神様を拒むことすらできない、一方で、神様を受け入れることが当然のような不思議な感覚があり、神様が大きな愛で私を包んで抱きしめて下さっている、私がその場所に立っていることが出来ないほどの臨在感、その場にやっと立っていることが出来るような神様の臨在体験でした。私は神様が本当に今も生きていて、その生きた神様の大きな愛に触れることができた瞬間・体験でありました。

 私は、この時の神様の臨在体験が、パウロが体験したような、神様に対する感謝の気持や素晴らしさを知ることができた体験だと思います。まるでパウロが言っていた、神様の存在感・ご臨在を味わうことは、この世の中で起こっている出来事がどうでも良いように感じてしまうような同じ体験だったと思います。(「・・すべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくた(くず)と見なしています」(8節)

 それはまさしく、今朝の詩編100編(喜びの叫び)のようでした。私は、この体験がきっかけで、少しずつ神様との交わりの時間を作り、聖書の御言葉に耳を傾けるという時間を作り始めました。

*神から与えられる「義」

 9節後半に「義」と言う言葉が繰り返して使われていますが、簡単に説明しますと、自分が正しいことをするという、自分の行いの正しさではなく、神様との正しい関係を私たちは持っているという信仰によって、神様から「義」が与えられているということです。

*主イエスを知る

最後の10節11節においては、「キリストを知ること、復活の力を知ること、キリストの苦しみにあずかりながら、死者の中からの復活に達したい」と、パウロの熱い思いが溢れ出ているところです。私たち人間は、試練に会えば会うほど全てを投げ出したくなります。しかし、パウロは、イエス様を信頼して、イエス様と共に歩むことで、神様からのゆるぎない力を受けたのだと思います。

私たちも今直面している問題を、主に全て委ねて求めていくことをしたのなら、1節にあるような「主において喜ぶ」ことができて、主による平安を感じることができるのだと思います。 それゆえ、今週一週間、主を覚えつつ、主と共に喜んで歩みましょう。

2020年3月8日の説教要旨 詩編51:3-6・ヨハネ福音書1:29-34

「世の罪を取り除く神の小羊」 佐々木哲夫先生

*はじめに

恥の文化 江戸時代の大阪商人は、商いの契約書に次のような但し書きを書いていました。「この契約書に決して違反いたしません。万が一、背くようなことがありましたら、万座の中でお笑いくださっても少しも恨みとは存じません。」

信用を旨(むね)とする商人にとって万座の中で恥を掻(か)くことは最高の罰でした。但し書きを読むと、単に世間体を気にするという表面的なことではなく、名誉を重んじる商人たちの価値観が伺えます。日本の文化を恥の文化と称し、罪の文化である西洋と対比して論じられることが少なくありません。確かに恥をかかないようにとの気持ちから一生懸命に努力することに私たちは共感できます。日本文化の本質的な特色なのでしょう。

恥の文化にある者が罪の概念を理解することは、心の中の価値観に変革を求める事ですので簡単なことではないと思われます。

*罪の文化  

恥の文化では、人が見ているか見ていないかという外面的な拘束力(こうそくりょく)に行動の動機を見出すのに対し、罪の文化では、誰が見ていなくても神様が見ている、天に恥じることのないようにという内面的な拘束力に基づいて行動します。例えば、モーセの十戒を何故守るのか。社会的秩序を維持するため、とのこともありますが、それ以上に、十戒は、神と人との間に結ばれた契約であり、神との約束であるから守るというのです。

ですから、誰も見ていないから盗む、他に目撃者がいないから自分に都合の良い偽りの証言をするということは、神との約束を破る、すなわち神に対して罪を犯すことになります。

*三つの「つみ」

旧約聖書の原文には「つみ」を表す言葉として主に三つの単語が使われています。「背(そむ)きの罪」「咎(とが)」そして「罪」と邦訳されている単語の三種類です。「罪」は「罪」なのだから「罪」という一つの日本語で表現すれば良いと思われるかもしれません。単語が三種類あるということは、ユダヤ人の罪に対する思い入れがあるからです。

日本人は天から降ってくる雨に思い入れがあります。例えば、春雨(はるさめ)、

五月雨(さみだれ)、梅雨(ばいう)、小糠雨(こぬかあめ)、夕立、秋雨(あきさめ)、時雨(しぐれ)、小雨(こさめ)、涙雨(なみだあめ)など、日本語の雨に関する単語は豊富で400語、もしくは1200語もあると言われております。それは、日本人の雨に対する繊細な感覚の現れでもあります。

*背(そむ)きの罪

本日の旧約聖書箇所の詩編51編3節を見てみます。

神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。

ダビデは「背(そむ)きの罪」を拭(ぬぐ)ってもらいたいと神に嘆願しています。

「背きの罪」とは、主人などを欺(あざむ)き反逆する罪のことです。例えば、牛、ろば、羊、上着、遺失物など巡って所有権を争い、裁判になり、有罪とされた場合の罪もこれに相当します。(出エジプト22:9)

*咎(とが)

4節には「咎(とが)」という表現があります。「咎」は、自分の好き勝手な判断で規則を破ってしまうことを意味しています。衣服を洗うことや沐浴(もくよく)をせよと命じるレビ記の規則に従わない罪を原文では同じ単語なのですが、「咎(とが)」ではなくレビ記では「罪責」と邦訳しています。(17:16)

*罪                       

 4節のもう一つの表現、ただ単に「罪」と記されている単語は、旧約聖書に300回以上も記されています。これは「あるべき道からは外れて不注意にも迷ってしまっている状態」を意味します。例えば、働いた人に賃金の支払いをせずに、働いた人から訴えられた場合の罪も含まれています(申24:15)。

わずか三種類の言葉ですが、私の行為がどの罪に問われるだろうかと考えさせられ、罪に敏感になってしまいます。ダビデは詩編51編において三種類の罪の言葉を13回も使って自分の犯した罪を全部ひっくるめて神に悔い改めを祈っています。

*責任ということ

罪に敏感になると、反面、罪に応じて下される罰はいかなるものかと気になります。旧約聖書を読みますと、例えば、自分の所有している牛が人を突(つ)く癖(くせ)を持っていることを事前に知っていたか、いなかったかで罰の程度が変わります。事件の加害者が、過失か故意かによっても変わります。心の中で自分の兄弟を憎んだか、憎まなかったのか、など内面的な動機も問われます。複雑(ふくざつ)多岐(たき)で詳細(しょうさい)な吟味(ぎんみ)が求められるので、律法の専門家でないと罪の解明(かいめい)が難(むずか)しくなってしまいます。神に対し罪を犯さないためには一体どうしたらよいかと途方に暮れてしまいます。

身近な例によって考えてみたいと思います。小学校6年生教科書『国語(下)』(昭和56年光村図書発行)に小児科医で思想家の松田道雄さんが書いた「責任というもの」という興味深い論説文が載っておりました。

要約して引用してみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小学生の男の子たちが広場で野球をしていました。一人が打ったボールがフェンスを越えて向こうの家の窓ガラスを割ってしまいます。みんな一斉に逃げようとしますが、出口のところで校長先生に出会ってしまいます。そして、誤(あやま)りにせよ物を壊(こわ)したら持ち主に謝(あやま)らないといけないと注意されます。校長先生に言われたので、謝りに行ったとするならば、それは生徒としての義務を果たしたことになる。もし誰にも言われなくとも自分の意思で謝りに行ったのならば、それは壊したことの責任を取ったということです。規則などで縛(しば)られてではなく、自分の威厳(いげん)にふさわしいように振舞(ふるま)うことが責任です。責任は、人間にとって義務よりも大事なものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このような論説文を読むと、規則や定めを熟知(じゅくち)していなくとも、神の似姿である人間の威厳(いげん)にふさわしく責任ある振る舞うことの大事なことが理解できます。人間には、自分の行動が神に喜ばれることか、厭(いと)われることか、を自主的に判断する能力が備わっているのです。

*取り除く=引き取る

 とはいえ、神の前で罪を犯してしまったらどうしたら良いのでしょうか。本日読みました新約聖書の箇所において、バプテスマのヨハネはイエス・キリストが自分の方に歩いてくるのを見て、

見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っております。すなわち、どんな罪でも取り除くことのできるお方であるとバプテスマのヨハネはイエスキリストの真の姿を見抜いたのです。

「取り除く」という表現には「取り除いてポイと捨てる」というニュアンスだけではなくもう一つ意味があります。それは、「担う、背負う」とのニュアンスです。例えば、復活の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストの遺体が収められているはずの墓に行きます。しかし、イエス・キリストの遺体のない空っぽの墓を見て泣き出してしまいます。その時、復活のイエス・キリストが「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」とマリアに声をかけます。その人物がイエス・キリストであることを認識できず、園(その)の管理人と間違えてしまったマリアは、

あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」と語りかけます。

マリアの最後の言葉「引き取る」が「取り除く」と同じ原語なのです。

バプテスマのヨハネは

見よ、世の罪を引き取る(引き受ける)神の小羊

と言ったのです。それは、世の罪を引き受け、罪の赦しを実現した イエスキリストの十字架を連想させるものでした。