10月14日の説教要旨 「使徒たちへの愛」 平賀真理子牧師

民数記12:1-8 ルカ福音書22:24-34

 

 はじめに

 イエス様は、「最後の晩餐」の時には、御自分の十字架の使命を悟っておられました。それで、御自分の亡き後、信仰者たちが この時の「晩餐」の記念(「聖餐式」)を受け継いでいけるように示していかれました。それまで、イスラエル民族は「過越祭」を継承していましたが、新しい「過越の食事」として、イエス様御自らが「聖餐式」を定めてくださったのです。ここで注目したいことは、イエス様は使徒たちに、1つのパンを裂いて与え、1つの杯から葡萄酒を回し飲みするように、給仕なさったことです。

 

 一つになるべきなのに、早速、分裂し始める使徒たち

十字架で犠牲になった一人の主であるイエス様から恵みを分かち合うという意味を持つ「聖餐式」の制定時に、ルカ福音書では、主は使徒たちの中から裏切り者が出ると告げられたと記します。言われた使徒たちは、誰が主を裏切ろうとしているかについて論争を始めましたが、次第に脱線していきます。常日頃からの疑問「12使徒の内、誰が一番偉いのか」という問題です。「聖餐式」がこの世で行われるようになって、神様にとって喜ばしいことが始まったのに、この世の長であるサタンが早速、神様側の出来事を妨げ始めたのでしょう。1つの主から分かち合う喜びを味わったはずなのに、使徒たちは「競争心」に付け込まれ、もはや分裂の危機にあるのです。このことにイエス様はお気づきになり、そうであってはならない理由を新たに教えてくださったのです。

 

 「一番に偉くなりたい動議」

私達人間は「偉くなりたい!一番になりたい!」という願望を持ちやすいものです。偉くなって、世の中のために粉骨砕身頑張るつもりでしょうか?多くの人がそうではなく、偉くなって、自分の欲望どおりの生活をして、自分の力を示したいと考えるのではないでしょうか。しかし、欲望まみれの人間が次々と現われ、先にその座についている人を蹴落とそうとし、そのグループの団結は崩壊します。だから、ふつうは「偉くなろうと思うな!」という教えになりそうですが、イエス様はそうではなく、偉くなりたいという動機を神の民として正しい方向へ導かれたのです。つまり、偉くなるのは、周りの他の人々に仕えるためであると教えてくださったのです。そのように語るイエス様御自身が、「聖餐式制定」の時、御自分でパンを割き、杯を回す奉仕をなさって、模範を示されました。更には、「十字架上での死」こそが、究極の奉仕と言えます。自分の命を犠牲にして、私達のような罪深き人間に奉仕されたのです。

 

 「神の国の民」は分かち合ったり、仕え合ったりする喜びで満たされる

更に、イエス様は、神の国の偉くなりたいルールに従う者には、御自分と共に食事の席に着き、イスラエルを治める王座に座る権利をくださると約束してくださいました。しかし、ここで誤解してはなりません。神の国で欲望まみれの暮らしができるということではありません。イエス様の十字架と復活の恵みの素晴らしさを理解している信仰者は、イエス様と同じように、神の国のために何か奉仕をしたいと思う人間であるというのが大前提になっています。将来、好き勝手な生活が保証されるから信じるというのでは「御利益宗教」の域を出ませんし、イエス様の伝えた「神の国の素晴らしさ」は、そんな欲望に由来するものではありません。他の人々に奉仕したいと願う者が集まる群れで「主において一つ」となり、分かち合ったり、互いに仕えたりする喜びで満たされるのが「神の国」です。

 

 使徒たちに、謙遜で、限りない愛を示されたイエス様

「神の国」の民として、別の言い方では、「謙遜」という姿勢が求められると言えます。聖書での「謙遜」とは、ただ「腰が低い」というものではありません。悩み苦しむ者と同じ立場になり、そのような人々を救い出そうとする「本当の神様」が居てくださり、そのような神様なくして自分は存在しない、そのような信仰が「謙遜」と言われるのです。そのような神様を仰ぎ、そこから自らを省みてへりくだるのが、真の信仰者です。

先の問答の直後に、イエス様はサタンが使徒たちを試みるし、その一人シモン・ペトロもその試練を受けると預言なさいました。ペトロは、主の御言葉より、自分の言葉を信じようとしましたが、実際は、主の御言葉が実現しました。そんなペトロのために、主は祈り、励ましてくださいました。主は使徒たちに、謙遜で、限りない愛を注いでくださる御方なのです。

10月7日の説教要旨 「世界に広がる『主の晩餐』」 平賀真理子牧師

出エジプト記24:3-8 ルカ福音書22:7-23

 はじめに

 今日の新約聖書の箇所として、2つの段落が与えられました。1つ目が「過越の食事を準備する」、2つ目が「主の晩餐」と見出しがついた段落です。

 

「過越の小羊」

まず、1つ目の段落「過越の食事を準備するという段落を読みましょう。イエス様と弟子達一行は、イスラエル民族の大事な宗教行事である「過越祭」に合わせて、神殿のあるエルサレムに来られました。「過越祭」は、イスラエル民族が神様の助けによって救われた出来事を記念するお祭りです。彼らの祖先がかつてエジプトで奴隷として苦役を強いられていた時、神様の助けを祈っていたところ、実際に神様がモーセというリーダーを立て、数々の奇跡を起こし、イスラエル民族をエジプトから脱出させてくださったことを記念するお祭りで、代々伝えられていました。

その奇跡の中で、エジプト脱出直前の奇跡こそ、最も印象深い奇跡です。それは、「本当の神様」が、イスラエル民族の脱出を拒むエジプトの地で、初子が死ぬという災いを起こす計画を立て、モーセを通して事前に知らされたイスラエル民族だけが、「小羊の血の印」によって、「初子の死という災い」を過ぎ越したという奇跡です。エジプト人の方は、王様の初子である世継ぎの王子から庶民の初子まで、死ぬという災いを過ぎ越せずに、死んでしまったのです。エジプト王は「過ぎ越しの奇跡」を体験して、とうとうイスラエル民族が自国から出て行くことを許さざるを得なくなりました。イスラエル民族は、この時の出来事を象徴する物(食事など)を再現しながら、神様による救いを毎年思い起こしていたのです。

「過越祭」の際には、親しい人々と「過越の食事」をして、出エジプトの出来事を思い起こし、神様に感謝を献げます。イエス様も、この世における最後の「過越の食事」を愛する弟子達と共にすることを本当に望んでおられたようです。そして、この「最後の晩餐」がどのように行われるか、その様子が具体的に、既に見えておられたようで、その準備をどうすべきかを、二人の弟子に、確信をもって指示することがおできになったのです。そして、実際、そのとおりのことが実現したことが、1つ目の段落に証しされているわけです。将来のことを言ってそのとおりのことが実現していくのは、言った御方が神様である証拠となります。

 

「主の晩餐」

イエス様はこの「最後の晩餐」の挨拶で、まず、御自分が苦難に遭うことを告げておられます(ここでも「十字架の予告」)。その上で、使徒たちとの「最後の晩餐」を「切に願っていた」(15節)のです。主は、この「最後の晩餐」がこの地上における「神の国の食事」の最初として、とても意味があると思っておられたからです。それと同時にイエス様は、この世での「神の国の完成」の時に、弟子達との晩餐を味わおうと決心なさっておられ、それまでは「過越の食事は摂らない」と決意されている、それほど、神の国の完成を待ち望んでおられるということが16節と18節の御言葉から分かります。

更に、19節20節は、私達が「聖餐式」の時に宣言される式文の源の御言葉で、「主の記念」として聖餐式は行われるべきだと再確認させられます。

この意味を正しく理解する弟子達が晩餐に与(あず)かるのに相応(ふさわ)しい者達です。

 

わたし(イエス様)の血による新しい契約,

20節で、イエス様は御自分の血を表す葡萄酒が「新しい契約」を意味すると語られました。古い契約では、過越の小羊の血が、神様の救いの印と受け取られました。しかし、神様が新しく立てられた契約では、神の御子イエス様が十字架で流される血を、神様の救いの印として受け入れるように、神様は人間に期待なさっていると受け取れると思います。

 

 「聖餐式」に与かる人々が増えるようにという願い

 御言葉の理解も大事ですが、人間として生きたイエス様は、主の恵みを人間が感覚でも味わえるように「聖餐式」を制定なさいました。この大事な席で、使徒の中に裏切り者がいると主は語られました。それはイスカリオテのユダであり(22:3)、直接的には彼のせいで、主は捕まって殺されました。罪の頑なさに悲しさを禁じ得ませんが、そんな人間に対する主の愛は無限です。主は御自分の犠牲をも厭わず、神の国の完成を熱望しておられます。主の御心を実現するために「聖餐式」に与かれる人々が増えるように、また、私達信仰者がそのために用いられるように、祈り求めて参りましょう。

9月23日の説教要旨 「主の支持者達と反対者達」 平賀真理子牧師

詩編70:2-6 ルカ福音書21:37-22:6

 

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半である21章37節と38節では、それ以前の様々な出来事を経た後でも、イエス様が相変わらず、民衆の支持を受けておられたとわかります。反対派から論争を仕掛けられたり、終末の徴を知りたがる人々を教え導いたりしながら、実は、イエス様は為すべきことを粛々と続けておられました。それは、神の御子として神殿で民衆に教えることです。また、夜は、エルサレムの町を出て「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされたとあります。イエス様がよく祈っておられたことは福音書の随所に出てきます。救い主としての使命である「十字架」が迫る中、主は益々熱心に父なる神様に祈りを献げられたのでしょう。

 

反対派に同調し、主を十字架に導いてしまった「イスカリオテのユダ」

一方、22章に入ると、エルサレムの実力者達は、相変わらず、イエス様を受け入れようとはせず、反対派のままだったとわかります。人々の面前で論争に負けたこともあり、ついに、彼らはイエス様の存在を消すこと、つまり、イエス様を殺すことを明確に目指すようになりました。しかし、表立って「ナザレ人イエス」を殺したのでは、イエス様を支持していた民衆の反感を買います。彼らはそれを一番恐れました。ユダヤ教指導者層が中心の反対派は、本来は神様の眼差しを第一に考えるべきでしたが、それを怠り、民衆が自分達をどう考えるか(「民衆受け」)を第一に考えていました。だから、民意に合わない「イエス殺害」を、民衆から隠れた所でコソコソと企てようとしたのです。彼らは、最初から反対派であり、イエス様の教えや知恵に出会っても、頑なに反対派に留まり続けたので、彼らの決意と企ては想定内です。しかし、想定外のことが起こりました。反対派に同意して手助けする役割をしてしまったのが、主の支持者の中にいたことです。その中でも、別格の存在、本来はイエス様と一体であるべき弟子、特に、その中でも、イエス様御自身が「使徒」と名付けて愛し育んだ中心的弟子の一人が、反対派に同調して、主を裏切る行動をしたのです。悪い意味で有名な「イスカリオテのユダ」です。

ルカ福音書では、どうしてそんなことが起きたのか、ユダの心理的原因を追究していません。ただ一言、「ユダの中に、サタンが入った」と記しています(22:3)。主の愛の中で慢心したのでしょうか。ユダは、自らの中にサタンが入り込む隙を与え、反対派の罪の中に巻き込まれ、主を裏切った末、後悔して自らの手で自らを裁くという罪を重ねていくのです。

 

主の支持者(神様の愛する者)を狙うサタン

振り返れば、サタンは、人間の始祖であるアダムとエバを誘惑して神様から引き離しました。それ以降、サタンは、神様が創造なさったこの世の主権を横取りし、神様が最も愛する人間達を支配してきました。そして、神様がいよいよ御自分の御子をこの世に送られて、その御子が福音伝道を始めようとするや否や現れて、神の御子を不遜にも誘惑しようとしました。これが「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1-13)であり、この時、イエス様の誘惑に失敗したサタンは、「時が来るまでイエスを離れた」と書かれています(13節)。それで、サタンは、救い主イエス様の歩みの上にそれからは手出しできなかったのですが、エルサレムのユダヤ教指導者達がイエス様を受け入れない現実の中で、再び活動できる時が来ました。こんな時、私達人間は、反対派の中にサタンが入るのではないかと予想しがちですが、サタンはそうしません。反対派はサタンが支配しているので、そういった人々の中に入らなくても、彼らはサタンの思うままに動くはずです。そうではなく、神の御子イエス様の愛する弟子の中にサタンが入ったことに、私達は注目し、留意する必要があります。

 

「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(Ⅰペトロ59)

サタンは、神様から主権を横取りしたこの世に、神様の愛の世界が広がることを一番嫌がり、イエス様を救い主として受け入れて「神の国の民」となった私達信仰者を、自分の方に取り返そうと必死に誘惑を仕掛けます。だから、教会生活を重んじることは有効です。「洗礼を受けて救われたのだから、それ以上は望まない」と言って、教会生活を軽んじる人は、サタンの攻撃の威力を知らず、備えるべき戦いの道具「武器」の手入れを怠る兵士に例えられます。祈り・御言葉の学び・礼拝を共にする信仰の友との交わり、これらによって、信仰の戦いに備え続けましょう。

9月16日の説教要旨 「神によって生きている」 平賀真理子牧師

創世記2:7-9 ルカ福音書20:27-44

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、聖書で証しされている神様の御心とこの世の人間の関心事がいかに食い違っているかが示されています。私達が、この世で生きていく中での問題、その多くを人間関係が占めているように思います。もっと集約すると、夫婦関係と親子関係です。その順番で、今日の箇所の前半と後半で、その問題が示されています。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の相違点と一致点 

イエス様は福音宣教の旅をなさり、都エルサレムに来られました。イエス様の語る御言葉や病いの癒しの御業は素晴らしく、民衆はイエス様を送ってくださった神様を賛美するようになりました。しかし、ユダヤ教指導者達は、イエス様にまつわる出来事を素直に受け止めることができませんでした。そのような指導者達には、大きく分けて2つのグループがありました。その一つが「ファリサイ派」ですが、「律法学者」と呼ばれる人々の多くが、ここに属していました。そして、都エルサレムには「サドカイ派」と呼ばれる人々がいました。この2つのグループは様々な点で見解が異なりました。今日の箇所に関連して言えば、「復活や天使や霊」について、ファリサイ派は肯定、サドカイ派は否定というふうに、です。但し、イエス様への反感という点では一致していました。

 

 「復活にあずかる者はめとることも嫁ぐこともない」

エルサレムに来られたイエス様は、この反対派の人々から論争を仕掛けられました。彼らは論争でイエス様を負けさせて、人々のイエス様への期待を消し去ろうと企てました。まず、ファリサイ派を中心とする人々が質問しましたが、イエス様は「神の知恵」で、彼らを論破なさいました。そこで、サドカイ派の出番です。サドカイ派が常々疑問に感じていた「復活にまつわる問題」について質問しました。もし、復活があるなら、7人の兄弟と結婚した女性は、復活の時に誰の妻になるのかという内容でした。ここでサドカイ派は、今まで主張してきたように、結局、復活は無いという答えをイエス様から引き出したかったと思われます。しかし、イエス様は、サドカイ派の質問の大前提が間違っていると指摘なさいました。サドカイ派は、次の世でも、人間はこの世と同様に結婚すると考えました。しかし、神の御子イエス様は、違うとおっしゃったのです。次の世ではめとることも嫁ぐこともない、即ち、この世の夫婦関係は次の世まで続くものではないし、人間は一人一人に対して、もっと大事なことが課せられていると述べようとなさっています。

 

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」

この35節には、見逃してはならない条件が含まれています。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる」という条件です。誰がそれを認定するのでしょうか。神様です!「神の国の主」=「聖書で証しされる神様」が、御自分の御心に従おうとした人間一人一人に対して、「神の国」で復活する価値があると認定してくださり、永遠の命を与えられるのです。だから、「死ぬことがない」とも言えるのです。

 

 「すべての人は神によって生きている」

続いて、イエス様は、サドカイ派が尊敬する「偉大なる指導者モーセ」も、御自分の証しする「神様」に出会ったのだと話されました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は御自分を名乗られましたが、多くの人々はこれを「ユダヤ人の先祖を守り導いた神の証し」と思っていました。しかし、イエス様は、遠い昔に肉体的には死んでいたとされた「アブラハム・イサク・ヤコブ」は、死んだ後の世界で復活して神様と共に生きていると証しした御言葉だと理解し、「生きている者の神」と言われました。そして、「すべての人は神によって生きている」と締めくくられました。人間は、本来、神に相対して一人一人が生きている、神の基準で生きる存在であると、イエス様は教えようとなさったのです。

 

 この世の人間関係よりも、救い主に謙虚に従うことを優先!

次に、イエス様からの質問を通して、偉大なダビデ王さえ、子孫として生まれると預言された救い主に対して、謙遜だったと示されました。神様と神様が送られる救い主に対し、人間は謙遜であるべきです。その姿勢が反対派には欠けていました。親子関係等の様々な人間関係よりも神様から賜った救い主に謙虚に従うことを私達は優先したいものです。

9月9日の説教要旨 「神の国の到来に備えて」 平賀真理子牧師

イザヤ書24:17-23 ルカ福音書21:29-36

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様による預言の後半部分です。この前にもイエス様は預言なさっていて、その内容は、エルサレムの滅亡と天変地異ということでした。一見恐ろし気な内容ですが、しかし、イエス様を救い主と受け入れて生きた者は、その出来事の果てに、主が再臨なさる希望が持てるという内容で、それを踏まえた上での後半です。

 

 「いちじくの木のたとえ」

小見出しは「いちじくの木のたとえ」とありますが、今日の箇所ではいちじくの木だけでなく、「ほかのすべての木」も30節以下のこと、つまり、木の葉っぱが出始めると、人間は夏が近いと悟るという事実を主は挙げておられます。当時の一般庶民は、暦や時計を持っておらず、自分達の感覚で分かる変化を認識して初めて、時の変化を知ることができました。特に、農業・漁業・林業・牧畜業に従事していた人々は、その現象に敏感であり、その知識を継承していたという背景があります。イエス様は、御自分の最大の関心事「この世に神の国が到来する」前にも、同じように「徴」が現れることを、語っておられるのです。この直前に語られた恐ろし気な現象が起こった時に、信仰者のない人々が怯えても、御自分を救い主と受け入れた信仰者達には、神様の絶対的な守りがあり、かえって希望が持てると主は語られてこられました。なぜなら、都の滅亡と天変地異と主の再臨こそが、地上に「神の国」が到来する「徴」となるからであり、「神の国の到来」こそが、父なる神様と御子なるイエス様の最大の関心事、かつ、喜びであり、「終末」は終わりを意味するのではなく、その先に、信仰者が神様と共に喜べる世界の到来という意味があるのだということを主は教えてくださっているのです。

 

 「この時代は滅びない」(32)

「この時代」とは、イエス様がお語りになった当時だけを指すのではなく、「同じ時代の人々」という意味があります。また、それだけでなく、御自分を救い主と受け入れた人々のことだと思われます。「主と心を同じくする人々」のことです。だから、これは、現代の信仰者である私達も決して滅びないと、主が保証してくださっていることでもあります。

 

 「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」(33)

主が預言なさった「都の滅亡と天変地異」は、「天地が滅びる」ようだと受け取る人もいるでしょう。また、33節を言葉通りに読むと、天地は、神様が造られた被造物なので、滅ぶこともあり得るとも言えます。その一方、永遠なる神様(父なる神様と御子イエス様と「主の御言葉」)は決して滅びることはないのだから、主を信じて結ばれている弟子達も決して滅びないと、イエス様は弟子達に熱心に伝えようとなさっておられます。

 

 「心が鈍くならないように注意しなさい。」(34)

但し、人間をよくご存じのイエス様は私達に宿題を出されていると感じます。34節-36節を見ましょう。人間は、救われたと言われると安心し切ってしまい、放縦や深酒や生活の煩いなど、信仰を持つ前と同じ問題によって、信仰心が鈍ることがあると主は見抜いておられます。だから、信仰者に対し、「終末の日」が不意に罠のように襲うから、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命令なさいました。信仰者として、心の準備が整った状態で「終末=主に出会う日に備えてほしい」という、イエス様の願いが現れています。

 

 「いつも目を覚まして祈りなさい」(36)

ここでの「目を覚ます」とは、もちろん、肉体的に眠らないで起きているということではなく、「信仰において」目覚めているということです。教会生活を続けていると、「洗礼によって、罪の赦しを受けたのだから、その後は教会には行かない」と言って、俗世間に戻ってしまい、教会での信仰の訓練を避けようとする人を時々見かけます。彼らは、信仰的に成長するチャンスを逃しており、それは主の御心ではありません。

また、キリスト教での「祈り」とは「主との対話」で、私達日本人が行う「願い事の羅列」は、「祈り」とは言えません。主に自分の思いを打ち明けても良いのですが、祈りの最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主の御心を聴いて従う姿勢が求められます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:39)に倣って、私達も祈り続けましょう。

9月2日の説教要旨 「世の終末と私達の希望」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 ルカ福音書21:20-28

 

 はじめに

今日の新約聖書の前半は、イエス様のエルサレムについての預言です。神の都と呼ばれたエルサレムが恐ろしい状況で滅亡するいう内容です。しかし、これは、聖書で証しされている神様が「御自分の気分で都を滅ぼす」わけではありません。神様は、ユダヤ人を「イスラエルの民(神の民)」として、選び、愛し、育まれました。そして、約2千年前に、「今だ!」ということで、御自分の御子イエス様を救い主として、この世に送ってくださったのでした。それも、「唐突に」ではなく、ずっと前から「神の民に救い主を送る」という預言を預言者達に授けていました。

 

 前に預言され、後に実現されるに至る「神様による人間の救い」

特に、旧約聖書のイザヤ書以降には、そのような預言が幾つか含まれています。旧約聖書にいつも触れていたのが、ユダヤ教指導者達です。祭司長や律法学者達です。彼らが居るのがエルサレム神殿を中心とするエルサレムという都です。ここで、イエス様が「救い主」として受け入れられれば、このエルサレムは「神様による人間の救い」を受け入れたことになります。そして、それまで人間が受けていた「この世の長サタンの支配」から抜け出て(救われて)、神様がユダヤ人を起点の民として、世界中の人間に御言葉を伝え、全ての民族がそれを信じ、この世の皆が神様の支配を受ける「神の民」となるように、神様は御計画されたのです。

 

 エルサレムのユダヤ教指導者達の頑なな拒絶

ところが、エルサレムのユダヤ教指導者達はイエス様を最初から排除しようとしたことが、ルカ福音書の記述から読み取れます。彼らは、民衆の支持を失わせようと論争を仕掛けましたが、イエス様の「神の知恵」溢れる答えによって負けてしまいました。それでも、彼らはイエス様を「神の御子・救い主」とは認めませんでした。また、それ以前に、イエス様は、憐れみ深い神様の御心を示していないという彼らの罪を指摘なさったこともあって、彼らは悔い改めず、イエス様を拒み続けました。「神の救いの御手」を拒んだ町には、神の裁きが徹底的に降る定めです。

 

 イエス様を救い主として受け入れないという罪とその罰

ユダヤ教指導者達は、目の前の「ナザレ人イエス」を救い主だと受け入れなくても大したことにはならないと油断していたのでしょう。ところが、実は、イエス様の到来で、神様の出来事である「人間の救い」は、既に始まっていました!彼らはそれを見逃しました!更に、指導者の決定的な判断ミスで、「身重の女とか乳飲み子を持つ女(23節)」という社会的弱者が大変苦しめられることになるとイエス様は預言なさいました。本来は、弱者を憐れむ神様がそうしないほど、神様の御子に逆らう罪は非常に重く、その罪への罰を「神の民」は必ず受けなければならないのです。

 

 神様から受ける罰=エルサレム滅亡は、実際に起こった!

神様からの罰を受ける預言は、数十年後に実現しました。紀元66年から70年まで「ユダヤ戦争」となり、エルサレム神殿を含むエルサレムの町全体は、ユダヤ人が「異邦人」と蔑んだローマ人達の強力な軍隊により、徹底的に滅ぼされました。その後、20世紀に入るまで約1900年間、エルサレムは異邦人達に支配され、ユダヤ人達は心の故郷エルサレムを回復できない「離散の民」として、世界中をさまようことになりました。

 

 天変地異の預言が例えていることと私達が持てる希望

更に、所謂(いわゆる)「終末」の預言として、エルサレム滅亡後には、天変地異が起こり、天体や地上や海上で大きな異変が起こるために、神様の御業を知らない「諸国の民」は「なすすべを知らず、不安に陥る(25節)」と、主は預言なさいました。しかし、「そのとき、人の子(救い主なるイエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る(27節)」と続きます。救い主イエス様と出会った時、私はそれまでの価値観が全く覆され、心の中で「天変地異が起きた」ように感じました。天変地異の預言は、福音との出会いで、以前の心の体系が大いに揺さぶられる経験を例えていると言えるかもしれませんし、それだけではなく、「終末の出来事」として実際に起こることかもしれません。ただ、信仰者はその出来事の有無を心配することから解放されています。イエス様を救い主と信じることによって罪を贖われた私達は、どんな状況でも神様につながっているという希望を持ちつつ、主の来臨を待っていられるからです!

8月26日の説教要旨 「命をかち取る」 平賀真理子牧師

出エジプト記4:10-12 ルカ福音書21:7-19

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の5-6節のやりとりが前提となっています。エルサレム神殿の素晴らしさをほめたたえる者達に対して、イエス様が「それはやがて崩れる」と預言されました。人々は、外側に表れたものを称賛しましたが、一方、イエス様のお答えは、実は、外側だけが崩れると意味しているのではなく、もっと深いのです。

 

 まだ建設中のエルサレム神殿の崩壊の預言

6節のイエス様の御言葉を聞いた人々は、壮麗な神殿の崩壊だけが語られたと受け取り、それがいつ起こるのか、そして、その前兆を教えてほしいと願いました。実のところ、この時、エルサレム神殿は、まだ完成していませんでした(紀元64年に完成)。まだ建設中の建物が崩壊するなんて、人々は想像できず、そんなことはありえないと思ったかもしれませんし、イエス様の預言が本当になったらどうしようと心配になって質問した人がいたかもしれません。

 

 エルサレム神殿を中心としたユダヤ教の信仰体系の崩壊

ここで思い出していただきたいのが、この頃のユダヤ教はエルサレム神殿を中心とした信仰体系になっていたということです。首都であり、神の都であるエルサレムにある神殿で、自分の罪を贖う動物の犠牲を献げて礼拝することが大変重要だと信じられていました。エルサレム神殿が崩れてなくなるとは、単なる建物の消滅ではなく、エルサレム神殿の権威の崩壊、そして、彼らの社会の崩壊、更には、この世の崩壊までを意味していたわけです。また、当時のユダヤ教では、この世の終わりを「終末」と呼び、「終末」にメシアが来て、人々を裁くと言われていましたから、「終末が来る時」を前もって知り、神様の裁きに備えたいと考える人も当然いたことでしょう。

 

 「終末」に怯える人間が抱く恐れ、イエス様が人間に対して抱く心配

イエス様は質問者達の思惑をおわかりになった上で、「人々の恐れ」を利用して、「自分が救い主だ」とか「終末が近づいた」という偽キリストに従わないように警告なさったのです。また、恐れを抱えた人間は戦争や暴動のニュースを聞いただけで「終末だ」と怯えることもイエス様は御存じで、そうではないと教えてくださいました。更に、「民vs民、国vs国」といった対立や、地震・飢饉・疫病の頻発、恐ろしい現象や天に現れる著しい徴で、人間は「終末が来た」と恐れるようになるとイエス様は予見し、人間の誤解を指摘なさったのです。一方、当のイエス様が心配なさっていたことは、12節以下、つまり、イエス様を救い主として受け入れた人々が、受け入れない人々によって迫害されること、場合によっては「殉教者」として殺されることです。それは、人間的に見れば、大変恐ろしい「終わり」です。外側に表れる天変地異や人災ともいえる戦争や暴動の前に、信仰者の内側=心に、「終末」のような恐ろしい出来事が必ず起こるから、それに備える必要があると教えておられるのです。

 

 権力者の前での弁明の時に、主が「言葉と知恵」を授けてくださる

信仰者は、権力者達の前で信仰について語る機会が与えられるであろうとイエス様は預言なさいました。人前で語る教育を受けていない庶民出身の信仰者にとり、そんな機会は恐怖以外の何物でもないでしょう。そんなピンチの時、イエス様は信仰者に「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」を授けると約束なさいました!神様からの言葉や知恵は、人間を越えた、欠けのない、完璧なものです。使徒言行録には、実際にそのことが起こったという証しが幾つもあります。

 

 信仰ゆえに起こる「終末」を励ましてくださるイエス様

信仰者がもっと恐れるのは、家族や友人という親しい人々から迫害され、殺されるに至ることです。更に、「わたしの名のために」、つまり、「イエス様が自分の救い主」という信仰ゆえに、信仰者は「すべての人に憎まれる」と主はお語りになっています。何も後ろ盾がなければ、まさに「終末」のように恐ろしいことです。けれども、信仰者を「髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)ほど、主御自身が完璧な後ろ盾として守ってくださると保証してくださっています!信仰者はただ、どんな状況下でも信仰を貫くという「忍耐」によって、神様につながる「人間本来の命」をかち取るよう、主は願い、私達信仰者を励ましておられるのです。

8月19日の説教要旨 「内側を見る神様、外側を見る人間」 平賀真理子牧師

詩編4:3-6 ルカ福音書20:45-21:6

 はじめに

私達の主イエス様は、神の都エルサレムに入られてから、反対派の人々に論争を挑まれました。しかし、仕掛けた反対派の人々が、神様の知恵をお持ちのイエス様に完璧に負けてしまったという出来事が起こったのです。イエス様は「神様の知恵」によって、反対派が全く反論できない答えを示されました。その機会に、反対派の人々がその態度を悔い改め、イエス様を受け入れる機会を御自ら与えようとなさったと思えます。しかし、彼らは悔い改めずに、イエス様を亡き者にしようという決意を益々固めていきました。エルサレムの有力者達が頑な心のままで御自分を救い主として受け入れないなら、近い将来、大切な神殿が崩れるという裁きを受けるとイエス様は預言されました(21:6)。

 

 信仰深いと外側に装っている「律法学者達」

その前に、神様の御前に、間違った態度で信仰している律法学者と、神様に喜ばれる信仰を持つ人である「やもめ」を、イエス様が続けて示して教えてくださったように、ルカ福音書は記しています。

まずは、民衆を前に、イエス様はお弟子さん達に、律法学者の間違った態度を指摘して、彼らに気を付けるようにおっしゃいました。有力者の中でも「神様の御言葉」に最も詳しいはずの「律法学者達」は、その御言葉にではなく、周りの人間に自分が尊敬に値する人物だと見られることに最大の関心があることが、その行動からわかるからです。地位が高いことを示す長い衣を着て歩き回ったり、礼拝が行われる会堂でも、日常生活の中の宴席でも上座に座って偉い立場にあることを世間に示したがるのです。更に、イエス様が最も許せなかったのは、夫に先立たれた寡婦、社会的弱者の象徴として考えられていた「やもめ」から、宗教的・法律的アドバイス料、または祈祷料を名目に多額の謝礼を要求する律法学者が結構居たことです。神様の御言葉を知っている律法学者がこんな態度を取ることは、イエス様にとって許しがたいことでした。彼らの行動は、神様の御心とは全く真逆です。神様の御言葉を通して、御心を当然知っているはずの律法学者達が、それに従わないならば、必ずあると言われる「裁き」の時に、知らない人よりも罪が重いとされ、厳しい裁きを受けると言われたのです。律法学者の間違いを指摘なさるのは、御自分の死後、弟子達が、当時の律法学者のように、指導者になることを見越しておられたからでしょう。御自分の弟子達は、偽物の信仰者であってはならないというイエス様の思いがにじみ出ています。

 

生活費を全部神様に献げた「やもめ」

イエス様は、律法学者にいつも搾取されている「やもめ」達の内の一人で、エルサレム神殿での献金において、立派な信仰を示した女性をご覧になり、その信仰をとても喜ばれたことが2番目の段落に書かれています。レプトン銅貨2枚とは、現在で言えば、約100円~200円です。

当時の献金システムでは、献金者は名前と金額とその主旨を係の人に告げ、係の人が復唱していたようです。近くの人々に丸聞こえです。金額だけ聞けば、お金持ちの人々はもっと多くを献金できたことでしょう。しかし、イエス様は、金額ではなく、献金者の心の内側をご覧になると示されています。生活費の余りを献金するのではなく、生活費全部を最初に献金するほど、この「やもめ」は神様へ全幅の信頼を寄せています。主は、外側に示される金額ではなく、生活費に対する割合の切実さを、心の内側にある信仰に比例するものとして重要視なさっています。

 

「神の神殿」の内側にあるべきもの 

続く段落(21章5-6節)でも、人間が外側だけを重視することが明らかになっています。ユダヤ人が大事にしているエルサレム神殿で、人々が見ているのは、建物に使われた石と、奉納物による飾りです。神殿において、神様への信仰という内側ではなく、建物に現れた外側を人間は見ています。本当は、エルサレム神殿の内側には「イエス様を救い主とする信仰」が立てられるべきなのに、人間は外側に現れた形の美しさや数の多さを見ています。神様と罪深い人間とは、価値観が正反対です。新約時代においては、私達信仰者が「神の神殿」です。教会でも自分一人であっても外側を飾るのではなく、その内側に主に対する信仰が立てられているかを吟味し続けられよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

8月12日の説教要旨 「神様の知恵」 平賀真理子牧師

箴言81221  ルカ福音書202026

 はじめに

私達の主イエス様は、十字架にかかる定めを前にしながらも、神の都エルサレムに果敢に入っていかれました。一方、この都で権力を持っていた「祭司長や律法学者や長老達」(以下、「反対派」)は、自分達の座を簡単に明け渡さず、イエス様に論争を挑みました。民衆に人気のあったイエス様に対し、反対派の人々は、「面白くない」という感情や、自分達の既得権益を脅かされる危機感を持ったことでしょう。

 

「エルサレム神殿での活動は、天からの権威?人からの権威?」

まず、反対派は、イエス様のエルサレム神殿での宣教活動の根拠=何からの権威をいただいて、そのようなことをしているのかを、二者択一の形で尋ねました。それに対して、イエス様は、御自分について答えても、彼らの反対する気持ちは変わらないことを見抜き、洗礼者ヨハネの洗礼の権威をお尋ねになりました。何が何でも反対という感情から離れて、御自分を救い主と証しした洗礼者ヨハネの言葉を思い出させ、彼らに悔い改めを促されたと思われます。しかし、反対派は、悔い改めるどころか、「メンツがつぶされた」と感じたことでしょう。

 

同じパターンで仕返しを謀る反対派とその「回し者たち」

恥をかかされたと考えたであろう反対派の人々は、同じ二者択一の質問で、民衆のイエス様に対する期待を失墜させようとしました。しかも、1度目の質問で懲りたのか、自分達は隠れて、「回し者」と表現される人々を派遣しました。この人々は、実のところ、神様を大事に思っておらず、そのようなふりをした人々、そして、反対派の人々に取り入り、幾らかの利益を得ようとした人々と推測できるでしょう。

反対派の人々はこの回し者たちと共に、作戦を練り、イエス様に挑んだに違いありません。実は、反対派にとって、イエス様への2度目の挑戦です。一刻も早く、自分達の前からイエス様を消したいと願い、策を弄したのでしょう。彼らは、大人数という「数」と、自分達の「知恵」を武器に、神様から派遣されたイエス様に挑みました。彼らは、神様が示してくださった真実よりも、自分達の利益や名誉が大事とする「罪」に捕らわれており、しかも、卑怯です。結局、正しい人のふりしかできず、その本質は神様から離れた「罪人」であると示されています。

 

罪に罪を重ねる反対派の人々

反対派の人々は、常日頃は、異邦人であるローマ帝国の支配を憎んでいたのですが、イエス様に対しては、ローマ帝国の支配と権力を当てにしています。自分達の欲望のためには節操を簡単に捨てています!

 

イエス様は「真理に基づいて神の道を教えておられる(21)」御方

回し者達の発言の前半部分(21節)は、実は、反対派の人々がイエス様のことを、心の奥底では理解していたと示されています。これを本心から言うならば「信仰告白」です。けれども、ここではそうではなくて、相手を気持ちよくさせて油断させるためのお世辞(罠)だったわけです。

 

「ローマ帝国に税金を納めるべきか、否か」という質問の裏の悪意

異邦人の国ローマ帝国に税金を納めるべきか、否かという二者択一を迫る質問は、どちらを答えても、イエス様を追い込むことができると反対派は予想していました。「納めるべきである」と答えれば、税金に苦しんでいた民衆が、イエス様を「救い主」として受け入れられなくなるし、また、「納めるべきでない」と答えれば、ローマ帝国から派遣されている総督に訴える口実にできると狙っていたわけです。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

イエス様の答えは、彼らの知恵をはるかに超えていました!実際に税金徴収の時に使う「デナリオン銀貨」を確認させ、皇帝の肖像と銘があるものならば、それは皇帝の所有を意味するので、皇帝に返すように言われたのです。誰もが納得する答えです。更に、この後に続く御言葉「神のものは神に返しなさい」に、反対派は、自分達の愚かさを痛感し、主の知恵が人間の知恵を越え、非の打ち所がないと悟ったのです。実は、この御言葉は、時空を超えて、私達信仰者にも語られていると言えます。時空を超えた「神様」の知恵の御言葉だからです。信仰をはじめ、神様から賜るものを想起して感謝し、お返しするよう、求められています。

8月5日の説教要旨 「『ぶどう園と農夫』のたとえ」 平賀真理子牧師

詩編80:15-20 ルカ福音書20:9-19

はじめに

私達の主イエス様の、この世での最後の一週間の出来事を読んでいます。神の都エルサレムでの出来事です。この都に居た権力者達は、イエス様に対し、反感を持っていました。彼らは、政治と宗教の両方に対して、最高権力を持つ「最高法院」の議員達です。具体的には、「祭司長や律法学者達や長老達」などです(以下、「反対派」と記す)。彼らは、イエス様に対する民衆の支持をなくそうとして、イエス様に論争を吹きかけ、失言させようと画策していったのです。

 

救い主(イエス様)と神の民(イスラエル民族)についての預言 

反対派が仕掛けた論争の最初の論争が、今日の箇所の直前の段落にある「権威についての問答」です。その論争の後に、イエス様は民衆の前で「ぶどう園と農夫」のたとえを語られました。反対派の人々もそこに居ました。彼らの多くは宗教指導者でもあり、旧約聖書の中の有名な「ぶどう園」のたとえを思い出したはずです。イザヤ書5章1-7節に記された預言です。この話の「ぶどう」とはイスラエル民族のたとえであり、このぶどうを植えたのが「わたし(ここでは「神様」)の愛する者」と書かれています。そして、結局、この「ぶどう」は良い実を実らせず、酸っぱい実しかならなかったと表現されています。神様の愛する者である御子イエス様が一生懸命宣教したにもかかわらず、イスラエル民族は「信仰の実」を実らせられなかったと、ずっと昔に預言されていたのです。イエス様は、御自分を認めないことを画策していた反対派に、御自分や御自分に託された神様の御心を悟ってくれることを願っておられたのだろうと思われます。

 

「僕」(預言者)は排除され、「愛する息子」(御子イエス様)は殺される

今回のたとえ話では、ぶどう園の持ち主の「僕」が3人出てきます。これは、イエス様以前の「預言者」達のたとえです。この話の中で「僕」は持ち主から派遣されていたにもかかわらず、そこで働く農夫達は、「僕」を追い出しています。「農夫」とたとえられたのが、ユダヤ社会の指導者達であり、かつて預言者達を排除する愚行、つまり、神様の御言葉や御心を拒否する不信仰を繰り返してきた姿をたとえています。イエス様は、反対派の人々に過去の失敗例を思い出させようとなさり、悔い改めない限り、「愛する息子が殺された」ように、彼らが御自分を殺すことになると御存じだったと思われます。その過ちの結果、イスラエル民族は、都エルサレムを滅ぼされ、国土を持たない「離散の民」とされることがイエス様には見えていて、その悲惨な将来を避けるために、イスラエル民族の指導者達に、悔い改めて、御自分を受け入れてほしいと切に願っておられたのだと思います。

 

「隅の親石」

「ぶどう園と農夫」の話に続いて、イエス様は「隅の親石」のたとえもお話しになりました。「隅の親石」は「家を建てる者の捨てた石」とも言われています。エルサレム神殿を中心とした「ユダヤ教の信仰共同体」を立てる役割のユダヤ教指導者達が「家を建てる者」とたとえられ、その人達が「捨てた石」とは、反対派が排除しようとするイエス様をたとえています。人間が不要と判断したものを、神様は重要として立てられるとされています(神様と罪の人間とは価値観が逆です)。そして、この「石」(イエス様)の威力に、人間は一たまりもなく、この「隅の親石」に反対する者は「死」しかないと言われています。ここで言われる「死」とは、医学的な死ではなく、神様から隔絶されること、神様と何の関係もないものとされるという宗教的意味の死です。これが、聖書で問題視される「死」です。

 

イエス様による「新しい救い」を受け入れることのできる恵み

反対派は、2つのたとえ話が自分達へ語られていると理解しながらも結局、受け入れず、悔い改めませんでした。更に、彼らは、神様を第一に畏れるべきなのに、それよりも人間を恐れました。これも「罪」の姿です。この「罪」も背負い、イエス様は十字架にかかられました。救い主の死が人間の罪を贖うとされるのが「新しい救い」です。反対派をはじめ、人間は、自分の力だけでは罪から解放されないのですが、神様の助けを受ける恵みを得て、イエス様を救い主と受け入れる人々は確実に増やされています。その証しとして、私達信仰者は立てられてもいるのです!