1月12日の説教要旨

詩編119:105・使徒言行録 17:10-12

「み言葉と共に歩む」      佐藤義子牧師

*はじめに

 私たちは毎週、礼拝の中で御言葉を聞き、学び、心にとどめ、そして家庭や社会に戻り日々の歩みを続けております。私たちは、時に「つぶやき」の誘惑に襲われます。「なぜ、私が・・」「なぜ、神様はこのような試練を」「私には無理。出来ません」など・・。

神様が遠くにおられるような錯覚に陥る誘惑です。そのような時、先週の礼拝で聞いたイザヤ書の御言葉が響きます。「あなたはなぜ、『私の道は主に隠されている』と、いうのか。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望みを置く人は新たな力を得、わしのように翼をはって上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

心が折れそうになった時、この御言葉が浮かぶならば、私達は、このみ言葉によって 励まされ、祈りを新たにすることが出来ます。

*ベレアの町の人々

本日の聖書は、使徒パウロの二回目の伝道旅行の時の出来事です。

パウロの伝道の前には、いつも、反対者、敵対者が立ちはだかり、時に、民間宗教とぶつかり、群衆の反感を買い、市の当局者にムチ打たれ、投獄までされました(パウロの受けた労苦参照:Ⅱコリント11:23-)。

フィリピの町で、教会の基礎が出来たあと、町を去るように言われ、次に訪れたテサロニケの町でも教会の基礎が出来ますが、ユダヤ人の嫉妬による暴動を起こされて追われ、そこから南西に約75キロ離れたベレアの町にパウロとシラスは逃れます。今日の聖書には、このように記されています。 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

キリスト教の命は伝道であり、ここにおられる方々も(私も)伝道によって救われ、さらに今は、救いが家族や友人にまで及ぶことを祈り願っております。

*求道者から信仰者へ

信仰は神様が与えて下さるものです。もと神学校の学長であった桑田秀延先生も、次のように書かれています。「罪とは神から離れ、失われていることであり、本当に礼拝すべき神を礼拝せず、神でないものを礼拝し、自己中心になり、物質中心になることである。・・・罪の救いは人間の側からは、なされない。人間は・・全く無力である。救いは神の側からくる。恩寵(*注)としてくるのである。」

(*注)恩寵(おんちょう)とは神の恵み、罪深い人間に神から与えられる無償の賜物のこと。

コリント書にも(12:3)「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」と、あります。

 以上のことを大前提としながら、今日のベレアの町の人々の、求道者としての姿勢を見て、伝道を考える時、いくつかのヒントを与えられると同時に、救われた後の私たち自身にも語りかけているように思います。

素直」とは、聞く耳を持っていることです。心の中が自分の思いや考えで一杯になっていたら、聞いても心に入らず、逆に、聞いた言葉を自分の考えで跳ね返してしまうでしょう。

又、彼らが「非常に熱心に御言葉を聞く」ことが出来たのは、自分の中に、真理・真実なるものを持ち合わせていないとの「謙虚さ」があり、それゆえにパウロの語る言葉は「聞くに値する言葉」であることを本能的に察知出来たのではないかと想像します。

その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」とは、当時旧約聖書しかありませんでしたから、パウロが語る「十字架にかけられたイエスこそ、メシア(キリスト)である」との宣教が、旧約聖書(イザヤ書53章)の預言の成就であるのかなど調べていたのでは、と推測されています。

*信仰者として生きる

私達も又、救われた時の「素直さ」、「熱心に御言葉を聞く」、「聖書を良く読む」など、御言葉と共に歩む生活を続けていくために必要な栄養を、日々求め、与えられていきたいと願うものです。

1月5日の説教要旨

イザヤ書40:27-31・テトスへの手紙3:1-11

「良い行いに励む」 

有馬味付子牧師(成増(なります)キリスト教会・東京)

*はじめに

 クリスマスの大きな恵みの中に、喜びと感謝にあふれて新しい年を迎えることができ、こうして共に礼拝をささげられますことを、深く感謝いたします。由子先生が入院なさっていて大変な中ですが、義子先生はじめ教会の方々が祈りを合わせ、力を合わせて、教会を守っておられることも感謝です。 私を用いて下さいましてありがとうございます。

共に御言葉からメッセージをいただきましょう。

*イザヤ書のみ言葉

 私たち人間の力は、元気も権力も、地位も、名誉もやがて衰え、弱り、倒れます。しかし主を待ち望む者には、どんな困難な状況にあっても、必ず「新たな力が与えられ」鷲(わし)が翼を張って、ゆうゆうと大空を舞うように、ゆうゆうとその困難の中を生きることが出来ます。

 今朝はまずこのことを深く心に覚えましょう。

*テトスへの手紙

 この手紙は、使徒パウロからパウロの愛する弟子テトスに宛てた手紙の形をとっていますが、研究者の大方の意見では、パウロよりも50年位あとの時代に書かれたものです。それで、この手紙の著者やテトスという弟子については、さておいて、この手紙が私たちに投げかけているメッセージを受け取っていきたいと思います。

*「テトスへの手紙」のメッセージ

 この手紙で教えていることは、まだ主イエスさまの十字架と復活が伝えられていない土地で、どのようにその福音を伝えていけば良いのかということです。キリスト教がどういう教えであるのか、全く分かっていないところで福音を伝えていくことが、どれだけ困難なことであるかは、仙台南伝道所の17年の歴史の中で、義子先生も邦廣先生も教会員の方々も、実感しておられると思いますが、この手紙のメッセージはそういう困難をよく承知の上でなお「勇気を失わないで伝道しなさい」ということです。

*「伝道するために、しっかりした教会をつくりなさい」

 そのために、長老を立て、監督を立てなさい。そして長老たるもの、監督たるものの資格が言われています。また教会員を育てなさい。そのために教会員はこうであるようにと勧められています。

非難される点がない、不従順であってはならない、など、それぞれの年代別に、男女別にたくさんのことが挙げられていますが、その中で浮かび上がってきたことがあります。それは「分別がある」ということと「不従順でない」ということです。

*「分別がある」ということ

 これは「思慮深く」や「慎み深く」という意味と同じです。

ある人は「人が見ているか見ていないかにかかわらず、悪いことはしないという精神だ」と言い、ある人は「自分の本能や情欲や欲望や快楽を完全に制することの出来る精神だ」と言っています。私たちは、「それはとても無理です」と即座に言ってしまいそうですが、これは、「主イエス様の十字架によって、私は罪から救われました。聖(きよ)められました」という、その心を「分別がある」という形で表しなさいということです。私たちが普通「分別がある」「思慮深い」という言葉からイメージするのは、人間同士の横の関係だけで、神様と私という縦(たて)の関係とは考えません。しかし、このテトスへの手紙では、「分別がある」ということは、神の恵みによるのだと教えています。

2章の11節から13節を読みましょう。

ここで11節の「神の恵み」というのは、イエス様の十字架によって私たちの罪が赦されることです。罪が赦されることによって、この世的な欲望を捨てて、分別ある生活が出来るのです。さらに、分別がある生活は、私たちの唯一の希望である「永遠の命」に直接結びついているのです。

神の恵みと行いがこれほど密接な関係であるというのは、このテトスへの手紙の大きな特徴です。

*「不従順でない」ということ

 不従順というのは反抗的だということ、言うことを聞かないことです。人の言うことを聞かないばかりでなく、ここでは神様のおっしゃることを聞かないということです。神さまのみ心を無視する、神さまのみ心に従わない、これはまさに罪ということです。このどうしようもない私たちの罪が赦されるために、イエス様は、十字架で殺され、死んで下さったのです。ですから「不従順でない」ということも、人間同士の横の関係ばかりでなく、神さまとわたし、神さまと私たちという縦の関係であるということを、しっかり心において、従順というものを追い求めて行きましょう。

*テトス3章3節

わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。

これが、神さまを、イエスさまを知らない時の私たちの状況です。

「いや、私はこんなにひどくなかった」と、思われるかもしれません。

しかし、イエスさまの十字架を知らない時、あるいは認めない時は、まさにこういう状態なのです。人間同士の関係ならまあまあ大丈夫でも、神さまと私との関係では、どんな人もこのような最悪な状態であるということを覚えたいです。

*神さまの慈(いつく)しみと、何ものにもまさって私たちを愛して下さる愛

 このような最悪の状況から私たちを救って下さったのが、神さまの一方的な愛と恵みです。これによって、私たちは永遠の命をいただくことが出来るのです。先日のクリスマスは、神さまの限りない愛と恵みを、イエスさまという私たちの目で実際に見ることができる姿であらわして下さったことを、心から感謝したところです。

*私たちの良い行いを見て

 2節に「すべての人に心から優しく接しなさい」とあります。私の頭にひらめいたのはAさんがBさんにされたことです。高齢のために自分では出来なくなっていたBさんのために、Aさんは仙台と東京を何度も往復して助けておられました。私にはとてもまねできないと思っていました。

「優しくする」とは、その人の弱さに対して思いやりを示すことです。

私たちの良い行いを見て、家族が、友人が、回りの人が、イエスさまを知ってくれれば、本当にうれしいことです。

 良い行いに励むことは、道徳的、倫理的なものを越えて、「私が聖(きよ)められること」です。

このことを覚えて歩んで行きましょう。

12月29日の説教要旨

エレミヤ書29:11-14a・ルカ福音書18:18-23

わたしのもとに来なさい」 

加藤秀久神学生(東京神学大学)

*はじめに

 イエス様は、「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と、呼びかけておられます。イエス様の呼びかけに応えること、イエス様に従うことは難しいことでしょうか? いいえ、イエス様に従うことは難しいことではありません。なぜならイエス様は、ただ幼子のように、私を信じ、従いなさい、と言っておられるからです。

*「善い先生、何をすれば・・」

本日の聖書は、この地上に富と財産を多く持つ大変な金持の議員が、イエス様に、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた場面から始まります。どうしてこの議員はイエス様に、「善い先生(優れた先生、価値のある先生)」と言ったのでしょうか。

私達が「善い、優れた、価値のある」との言葉を使う時、私達に出来ないことが、その人には出来る、という意味で使っているかもしれませんが、当時のユダヤ教指導者達の間では、この「善い」は、ほとんど使われていなかったそうです。なぜならこの「善い(優れた、価値のある)」は、神様だけが持っている「特別な性格」を表すと考えられていたからです。

*「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

これがイエス様の最初のお答です。イエス様はこの議員に「永遠の命を受け継ぐ」ことの質問よりも前に、「善い先生」と呼びかけてきた「善い」は、何を意味しているのかをよく考えるように悟らせようとしました。

はたしてこの議員は、イエス様がまことに神の子であることを信じて善いという言葉を使ったのか? イエス様は、まず始めに「あなたは私が神の子であることを信じているのか?」と投げかけたのだと考えられます。

*永遠の命を受け継ぐ  

この議員は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるかと尋ねています。この「受け継ぐ・相続する」という言葉は珍しい言葉で、同じルカ福音書にもう一箇所出てきます。「ある律法の専門家が、イエスを試そうとして『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」(10:25)の場面です。「永遠の命を受け継ぐ」との質問は、律法の専門家の間でも難しい質問でした。今日の聖書の直前には、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14節)「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(17節)と、語られたイエス様に対して、この議員も、どこか試すような気持を持ちながら質問したのかもしれません。

*「永遠の命を受け継ぐ」ためのイエス様の答え

イエス様は、先ず十戒の教え「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われました。つまりイエス様は、「神様の恵み」を受け取るための道は既に示されており、「あなたが知っている教えられている道を歩みなさい」と、この議員に告げたのでした。

*十戒の第5戒~第9戒

イエス様は、なぜこの十戒後半を示したのか。それは、議員の返答、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」にあると思います。この議員は、子供の頃から人一倍これらの戒めを大切にして、きちんと守ってきたという自信があり、世間からも良い評判の人であったことを、イエス様はご存じだったのでしょう。

イエス様はこの議員の返答を聞いて、「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われました。この議員の欠けていることは、持ち物を売り払って貧しい人々に施すことだ、と言われたのです。

*イエス様の言葉の意味

イエス様はこの議員に、もっと「善い行い」をすれば、永遠の命を受け継ぐことができる」と言われたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、「永遠の命を受け継ぐためには、根本的な考え方、あなたの考えにはない、発想の転換が必要なのですよ。」と議員に告げられたのです。「永遠の命を受け継ぐ」、「神の国に入る」ということは、善い行いをすることでも、自分の富や名誉の為に得るものでもありません。 

「神の国に入る者」とは「子供のように神の国を受け入れる者」です。ただ恵みによって主イエス・キリストの呼びかけに応え、自分の十字架を背負い、神を愛し、人を愛し、皆に仕えて生きる者です。

*議員の悲しみ

イエス様の答えを聞いたこの議員は、非常に悲しみました。なぜならこの議員は沢山のお金を持っていたからです。おそらく彼は、この地上に沢山の財産や富、また名誉や地位を築き上げることに多くの時間と努力を費やし、いつのまにか、それが自分の人生の一番大事なことになっていたのかもしれません。財産や富が悪いのではありません。一生懸命働いて、その富や財産を用いて、神を愛し、人を愛し、皆に仕える人々は大勢います。そのように用いられることは、神様からの祝福です。

 しかしこの議員は「永遠の命」の意味を理解せずに、自分の富や名誉をさらに豊かにするために「永遠の命」を自分の力で手に入れようと思っていたのではないでしょうか。もちろんこの議員は「そのような言葉は受け入れられない」と怒って立ち去ったのではなく、イエス様の答えを聞いて、「非常に悲しんだ」とありますので、イエス様の教えを真剣に受け止めようとした、この人の誠実さが伺えます。しかし彼は、イエス様の言葉を

実践する勇気がありませんでした。全てを主に委ねることができませんでした。この議員は、イエス様の「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」との呼びかけに、応えることができなかったのです。

*もしも・・

もしも、この議員が「永遠の命」が意味していることを十分に理解して

いたのなら、喜んでイエス様の教えに従ったに違いありません。もしこの議員が、イエス様こそ「善い先生」「まことの神」であると信じ、自分には出来ないと思ったならば、自分の弱さを悔い改めて、「天に富を積む道を教えて下さい」「イエス様に従わせて下さい」と、願ったのではないで

しょうか。

しかし、この議員は、イエス様の前から立ち去ってしまいました。この議員は、自分の力や、経験、行い、目に見えるものに心を向けてそれらを手放せませんでした。この議員は、天に目を向けてイエス様の言葉、神様の言葉を信じることができませんでした。

「永遠の命」こそが自分に必要なものであること、そして「イエス様こそが永遠の命を与えて下さるまことの神様」であることを信じることができませんでした。

*イエス様の呼びかけに応える

24節以降には、この悲しむ議員を見たイエス様の言葉が記されています。そして、神の国のために生きる時にこそ、本当の祝福が与えられることを教えて下さっています。

イエス様の呼びかけに応えることは難しいことではありません。

イエス様は、ただ「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけておられるのです。幼子が自分の名前を呼ばれたら、全てを放り投げて、その声がする方へ急いで走っていくように、私達も、ただイエス様のもとに走っていけば良いだけなのです。

*私達は・・

私達はこの一年を振り返った時に、私達の心は天を見上げて歩むことが出来たでしょうか。地上のものに心を奪われず、天に富を積み、天に宝を蓄えて、神の国の為に生きた、と言えるでしょうか。

イエス様は、私達一人一人に「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけて下さっています。イエス様は、私たちが本当に必要なものを、全て備えてくださっています。私達は、主の声に耳を 傾け、主の呼びかけに応え、幼子のように、主に従うものでありたいと願います。新しく迎えようとしている一年もまた、主の十字架を見上げ、イエス様こそが、まことの神であることを思い、主の溢れるほどの愛を受けて、共に歩んでまいりましょう。共に励まし合い、祈り合いつつ、神の国の為に生きる者として、喜んで主に従ってまいりましょう。

12月15日待降節第3主日の説教要旨  

マラキ書3:19-24・ヨハネ福音書 1:19-28

「荒れ野で叫ぶ声」  遠藤尚幸先生(東北学院中高 )

洗礼者ヨハネ

 今朝私たちに与えられている聖書の言葉は、「ヨハネ」という一人の人について書かれていました。ここで「ヨハネ」として登場する人物は「洗礼者ヨハネ」とも呼ばれる人です。この人は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに登場する人物でもあります。たとえば、マタイ福音書3:1-6ではこんな書き方をされています。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネによる福音書1:26でヨハネが「わたしは水で洗礼を授けるが」という言葉の背景にあるのは、まさにこの福音書が伝えるヨハネの姿です。彼は、当時のユダヤの人々に悔い改めを迫りました。それは、神様の前で自らの罪を告白し、神様の方を向き直しなさい、という呼びかけでした。当時の人々は、荒れ野で叫ぶ彼の声に導かれ、彼から悔い改めのしるしとして洗礼を授けられました。これが、ヨハネが「洗礼者」と呼ばれた所以です。興味深いことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はどれも、この洗礼者ヨハネから、主イエス・キリストが洗礼を授けられた場面を記していることです。主イエスは神の子です。本来、神様の前で罪を告白する必要のない方が、ヨハネから洗礼を受けて下さった。神の子が 最も低い姿で、私たち人間のところまで降りて来てくださった。

この大きな喜びを三つの福音書は伝えています。

しかし、それらと比較して気づくことは、このヨハネによる福音書だけが、この大いなる喜びとも言える主イエスの洗礼の出来事を記していないということです。ですから私達はむしろ、このヨハネ福音書を通して、洗礼者ヨハネという人を知る時に、他の福音書とは少し異なる形で、このヨハネの姿を見ている、ということができます。

福音書が四つあるというのは、このような豊かさを知る時でもあります。

 

*光を証する者

 では、ヨハネによる福音書において「洗礼者ヨハネ」はどのように描かれているのか。それが、1:19にある「証し」という言葉です。ヨハネの役割はヨハネ福音書において、この一点に集約されると言っても過言ではありません。ヨハネは証しをするために来た。彼は何を証するために来たのか。それは、少し前の、1:6以下に記されています。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

 ヨハネの役割は、光について証しをすることであった。これが、ヨハネによる福音書が伝えるヨハネの姿です。光とは、この世界すべてを照らす光である主イエス・キリストを指します。主イエスの到来に先立って、ヨハネは現れた。そしてこのヨハネが、主イエス・キリスト到来の道備えをした。光を指し示した。ヨハネは、当時影響力のあった人物でした。 彼は人々から、来るべき救い主、もしくは、当時 救い主到来の直前に来ると言われていた預言者エリヤの再来、もしくは民を導く指導者的な預言者かと噂されていた人物でした。19節後半に「祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして」とあるのは、エルサレムの権力者たちが、彼のもとへ使者を遣わしたということです。ヨハネはこの人々から、「あなたは、どなたですか」と問われ、メシアか、エリヤか、預言者かと質問されていきます。

*わたしはキリストではない

 ヨハネは、「あなたは、どなたですか」と問われた時に、「わたしはメシアではない」と言い表しました。「メシア」とは、原文では「キリスト」です。「わたしはキリストではない」。言い換えれば、「私は救い主ではない」ということです。ヨハネの証の第一声は、自らがキリストではないと言い表すことにありました。「わたしはキリストではない」「わたしの後から来る方、ナザレ出身のイエスこそキリストである」。これは彼の信仰告白そのものです。私は救い主ではない。それは、目の前にいる祭司やレビ人、その他のユダヤ人に対して、ということでもあるでしょうけれども、ヨハネ自身についてもそうだということができます。

私自身を救う者も、私ではない。神様の前に罪を告白する。神様の方を向き直す。悔い改める。これらの出来事を、真の意味で完成してくださるのは、わたしではなく、主イエス・キリスト その方のみである、ということです。神様ご自身の御手によって、私自身の救いが成し遂げられるということです。私自身が神様から最も遠い状況にあるときですら、神様は私たちを決して見捨てず、私たちを救うことができる。私たちは、神様の御手の中に、自らの不誠実さ、弱さ、欠けを委ねることができる。

この恵みの内に生きることができる幸いこそ、私たち一人一人に与えられた信仰であり、喜びです。そういう意味で、ヨハネは、自らの内ではなくて、神様ご自身にのみ、救いがあることを ここで大胆に語っています。

彼が生きているのは、律法第一主義のユダヤの社会でした。律法を忠実に守らない者は救われないと考えられていた社会です。罪人は、神様に近づくことなど決して不可能だと考えられていた社会です。その社会のただ中で、ヨハネは大胆に、主イエス・キリストその方の恵みを、恐れず公言するのです。救いは主イエス、その方にこそある。 私たちもまた、自らの手の内に救いがあるのではありません。主イエスが私たちを救ってくださる。何の功(いさお)のない私たちを愛し、十字架でその命を捧げ、ただ一方的な恵みによって私たちを神の子とし、救いに入れてくださった方が主イエス・キリストその方です。

この方の恵みのうちに、私たち一人一人の人生はあります。

誰一人、この恵みからこぼれ落ちる者はいません。

*主イエスとの出会い

 今日、私たちは、ヨハネの証を通して、主イエス・キリスト その方と出会います。ヨハネだけではありません。あの主イエスを裏切り、見捨てた弟子たちもまた、後に、ヨハネと同じように、ただ主イエス・キリストを伝える「声」としての働きを始めました。皆、主イエスが十字架につけられる時には、主など知らないと言って逃げ去った弟子たちです。ユダヤの指導者たちに、まっすぐに、主イエスを証したヨハネの足元にも及ばない、弱さ、欠けをもった弟子たちです。しかし、彼らもまた、主イエスとの出会いを通して、ヨハネと共に「わたしはキリストではない」ということを知りました。弟子たちもまた、主イエスの十字架の恵みを知り、この罪深い自分もまた、ただ一方的な恵みによって救われていることを知り、全世界に、主イエス・キリストの福音を伝え始めたのです。彼らだけではありません。弟子たちの次の世代も、その次の世代も、2000年後の今の私たちの世代も、皆、ヨハネや、主イエスの弟子たちと同じように、それぞれの時代に、主イエス・キリストの証人として立たされているのです。

*共に礼拝を守る

 共に礼拝を守る時、私たち一人一人が主イエスの証人です。私たちは、今日、一人一人がこの時代に、ヨハネのように、主の弟子たちのように、公言して隠さず「わたしはメシアではない」と、この世界に言い表しています。たとえ明日、自らの地上の生涯が終わろうとも、私たちはキリストの証人としてここに立つのです。私たちが誰かを救うのではない。私たちが自らを救うのでもない。あの方が、クリスマスの夜ベツレヘムの飼い葉桶の中で、この地上の誰よりも低く生まれ、十字架の死に至るまで、徹底して、私たち一人一人を愛し抜いてくださったキリストが、私たちを救います。主イエスが来られます。今、私たち一人一人は、 この方の証人として生かされているのです。

12月8日 待降節第2主日の説教要旨

詩編27:1-6・ヨハネ1:14-18   「神を示された御子」佐藤 義子(協力牧師)

*はじめに

待降節に入り、2本目のローソクに火が灯りました。今朝はイエス様が私達の住むこの世界に来て下さったことについて、ヨハネによる福音書の1章から学びたいと思います。

 ヨハネ福音書は、ほかの三つの福音書とは違い、その書き出しは非常に強烈な、インパクトのある表現で始まります。

初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」

一瞬、何を言っているのか、わからずに読み進んでいきますと、言(ことば)とは、イエス様のことであることが分かります。そして「初めに」という言葉も、初めの初め、まだ天地が造られる前の、「初め」だというのも分かってきます。創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」とある、この「初め」に、イエス様はすでに神様と共におられた、ということです。

私達は「見える世界」に住んでいて、しかも時間(歴史)の中の、ほんのわずかの一時期しか、この地上に存在することは出来ません。けれども、聖書は、私達に見えない世界のこと、時間、空間を越えた「永遠の世界」があることを教えてくれます。

 ここで、言(ことば)と表現されている神の御子イエス様は、天地創造以前、永遠の世界で、父である神様と共におられました。ところが、今日読んでいただいた1章14節に「(ことば)は、肉となって、私達の間に宿られた」とあるように、「永遠の世界」から、「時間と地上の世界」に、神様から遣わされて来られました。

肉となって」との表現は、肉体を取る・・私達と同じ人間になるということです。永遠の、見えない世界におられた神の御子イエス様が、見える時間の世界に来られた、人間として誕生されたのです。人間は、肉体を持つゆえの誘惑があり、罪も宿り、さらには「死ぬ」定めを負っています。

神の御子イエス様は、人間になられたことにより、罪と死のある領域の中に、住まわれたのです。

ヘブライ人への手紙5章7節以下に、こう記されています

キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」さらに、フィリピ書2章6節以下には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と記されています。

*御子イエス様が地上に来られた目的

神の御子が私達と同じ人間として生まれられた、その目的は何だったのでしょうか。12節以下に書かれています。

言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 イエス様が来られたのは、この地上の暗闇に、「光」としてすべての人を照らすため、そして一人でも多くの人々を「神の子とする」ためです。この、イエス様の働きを引き継いだ弟子達によって教会が生まれ、私達の小さな群も又、弟子達と同じように、まことの光として来られた救い主イエス様のことを、そして愛する御子を私達の為に遣わして下さった神様のことを伝え続けています。

*「わたしたちはその栄光を見た」(14節)

地上でのイエス様は「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)の姿が象徴しているように、この世の権威や権力から離れた世界に身を置き、最後は、十字架で殺されるという悲惨な最後で地上での生涯を終えられました。しかしヨハネ福音書の著者は、イエス様に隠されていた「栄光」を見たと証言しています。その栄光は父(神)の独り子としての栄光であって、「恵みと真理とに満ちていた」と伝えています。

イエス様は生涯、父である神様と霊で結ばれて、神様と共に歩まれました。神様はイエス様を通して自らを現わされました。イエス様の中には、偽りも憎しみもなく、真理の明るい光の中にすべての思いと言葉がありました。

*「私達は皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16節)

「恵み」とは、それを受けるのに十分な理由も、価値もないのにもかかわらず、神様から一方的な愛、神様からの全く自由な愛が与えられることです。本当ならば受けるに値しない「神様からの恵み」です。讃美歌271番の最初で「功(いさお)なき我を、血をもて贖い(あがない)」と歌いますが、神様の前に、功績といえるものを何も持たない私達が、一方的な神様の愛によって、イエス様の流された血潮により罪が赦された、というこの讃美歌は、神様の大いなる恵みを讃美している讃美歌です。

*救いの恵みに与った(あずかった)者の歩み 

そして、救いの恵みに与った私達の、その後の歩みに於いて、恵みは、私達を立ち上がらせ、生き生きとさせてくれます。私達の人生には苦難がいろいろな形で押し寄せてきます。経済的困難、思いがけない病、自然災害、又、愛する人との別れ、人間関係におけるさまざまな問題などなど・・。それにもかかわらず、神の子とされた信じる者達の歩みは、一つの恵みに、やがて新しい恵みが加わり、恵みから恵みへと導かれていくことが語られます。

異なった環境で、異なった恵みがいつもそこにあるのです。順境の時と、逆境の時、青年時代と老年時代、自分の重荷を負う時と人の重荷を負う時、それぞれの時に、信じる者には、16節にあるようにイエス様の満ち溢れる豊かさの中から、恵みをいただき続けます。神様の恵みは、同じところにとどまっているのではなく、私達が生きる現場に応じて次々と形を変えて注がれます。そして、どのような困難の時にも押しつぶされない勝利が約束されているのです。聖書は真実です。恵みが途切れることはありません。もし、神様が用意されている恵みがわからず、苦しい時には、神様に、「信仰の目を開かせて下さい」と祈ることも良いでしょう。私達が受ける試練が、あとになってからその意味を知ることもあります。

*私の証し

私は、主人の母の介護を通して、神様の恵みを感じることが多々ありました。が、ある時期、神様の恵みを感じることが困難でした。それは母に幻視(ないものが見える)が起こっていた時期でした。母は昔、幼い娘を亡くした体験からか、小さい女の子がそばにいたのにいなくなったと捜す症状でした。何日も続くと私自身も寝不足になります。もう家での介護は限界かなと考え始めていた時です。母は別の症状に移ったことがきっかけで、小さい女の子を捜し回ることは終りました。困難な仕事と思えることでも神様は必ず助けて下さり、どんなに大変なことでも、ぎりぎりになって「神様、もう出来ません」と祈ると、必ずそこから又、新しい状況が開かれていくという経験を何度もしました。それ以来、何か大変なことが起こっても、私が引き受けられるから、神様はそのような状況に私を置かれていると自然に思えるのです。そして、その場その場で「ああ、守られている」と神様の恵みを実感し、感謝の日々です。

*「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(18節)

 イエス様が十字架にかかられる前に、弟子達に「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と言われました。その時、弟子の一人が、「私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。イエス様は、「私を見た者は父を見たのだ。なぜ、『御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」と答えられました。 イエス様は永遠の世界から、私達の住む世界に、私達を神の子とするため、私達に神様を示すために来て下さった!のです。クリスマスの本当の意味を一人でも多くの方達に知って欲しいと心から願うものです。

12月1日 礼拝開始17周年記念感謝礼拝・待降節第一主日の説教要旨

イザヤ書48:17-19 Ⅰテモテ6:17-19 

「神に望みを置く」 佐藤 義子(協力牧師)

*はじめに

本日、12月1日は、仙台南伝道で初めて礼拝が捧げられた記念の日です。佐藤博子姉の家の応接間からの出発でした。

礼拝を始めるにあたり、私の一番の課題は、この開拓伝道が、神様の御計画の中にあるのかどうかということでした。その時、浮かんだ御言葉が、使徒言行録5章38節の、ガマリエルの言葉です。ペトロや他の弟子達の宣教を禁止したにもかかわらず、やめようとしない彼らに対して殺そうとまで考えたユダヤ人達に対して議会で発言した言葉が「あの者達から手を引きなさい。放っておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」です。私自身の、単なる思い込みだけで伝道を始めるなら自滅するであろうと覚悟しました。ただ、神様・イエス様のことをお伝えしたいとの思いと、神学校で学ばせていただいた神様の恵みを無駄にしては、神様に申し訳ない・・との思いで、博子姉の協力を得て礼拝が始まりました。

*17周年

それから17年、今日で888回目の礼拝を迎えました(週報参照)。初めから祈っていた三つの祈り(後継者と奏楽者が与えられるように。会堂が与えられるように。)のすべてを神様は聞いて下さいました。そして何よりも感謝なことは、ここで神様と出会い、信仰を与えられた方々が10人を数えます。さらに今、ここにおられるすべての方を、神様が導き招いて下さっていることを思う時、17年間、ただただ神様の守りと導きと憐れみとお支えがあったことに感謝し、声を大きくして神様のみ名をほめたたえます。私達の生と死を支配されておられる神様は、私達の思いをはるかに超えて、昨日も、今日も、明日も変わりなく、神様の御業を起こし続けておられます。私達は信仰のアンテナを高く張り、その御業をキャッチしつつ、感謝を以って信仰生活を続けていきたいと願っております。

*牧会者

今年度の第一日曜日は、パウロの手紙から学んでおりますので、本日は、テモテに宛てて書いた手紙からご一緒に学びたいと思います。

テモテ書の、第一と第二、それに続くテトスへの手紙の三巻をまとめて牧会書簡と呼んでいます。牧会とは、教会を牧する・・教会の信徒を羊にたとえて、その方達をお世話する羊飼い役が牧会者です。

聖書では、イエス様を良き羊飼いと呼び、教会は、羊飼いイエス様のもとで養われる羊の群れです。ですから、牧師とは、イエス様を羊飼いと仰ぎながら、ペトロのように、イエス様から「私の羊を飼いなさい(ヨハネ21:17)」との役割を与えられた人のことです。

*テモテ第二の手紙3:16

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことが出来るように、十分に整えられるのです。

私達が聖書を神の御言葉と信じてイエス様に従っていくためには、聖書に親しみ、御言葉を学ぶことを喜び、心の内に御言葉を蓄積し、日々の歩みの中でも、ことあるごとに御言葉が先だって私達の行動の指針となっていくならば、私達の生涯はきっと、表面的には厳しい局面でさえも、心は平安の内にそれらを乗り越えていくことが出来ると確信します。

*今日の聖書「テモテ6:17-19」

今日の聖書は、すらすらと読める箇所ですが、非常に大切なことを教えています。17節「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」です。

「この世で富んでいる人」とは、「この地上」で、「今の時代」に富んでいる人のことです。やがて、この世の終りが必ずやってきます。再臨の時、今、富んでいる人達が「来るべき世界」でも富んでいるというわけではありません。この世における富が私達にもたらす「危険」について、パウロは、テモテに教えるように勧告します。

「危険」とは、自分のことを大いなる者、力ある者と思い、どんなことでもすることが許されると思い込むことです。富を希望の基(もと)とし、富が自分を助け、幸いをもたらし、やることはすべて成功すると信じるのです。そのように富は人を迷わします。 私達は富が与えられたとしても、いつまでも手元にある確証はないことを知り、それを希望のよりどころにしてはなりません。

*神に望みを置く

それとは反対に、「神様は私達の希望の正しい根拠」であられて、私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださるお方であるとパウロは教えます。私達はパウロのように、神様のことを、「すべてのものを豊かに与えて楽しませて下さる神様」と告白しているでしょうか。 私が幼稚園の時に覚えた歌があります。「うるわしき朝も、静かなる夜も、食べ物着物も下さる神様」という歌詞です。私は朝のすがすがしさの中で深呼吸する時、その朝を与えて下さっている神様のことを思って感謝しているだろうか。又、あわただしく一日が過ぎても、夜の静けさの中で休むことが出来ることを神様に感謝しているだろうか。又、命をつないでくれる食事が与えられ、寒さをしのぐ衣服が与えられていることを、この讃美歌のように神様に感謝しているかと反省させられました(讃美歌454番)。

私達は、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持っていくことは出来ないからです。食べる物と着る物があれば、私達はそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲はすべての悪の根です。」(テモテ6章7節~)

*18節

善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」

富は、用い方で、多くのことを実行に移すためのなくてはならない大きな有力な手段となり得ることを私達は知っています。ここでは、与えられている富をもって、善を行い、良い行いを積み重ね、分かち合いの道を教えています。富は罪ではなく、非常に大きな責任を伴うものでもあります。「物惜しみをする」ことは魂が貧弱になることであり、逆に分かち合う時には豊かになります。地上の財産が天の祝福に変えられるのです。

*19節

真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築く」 聖書でいう「未来」とは、この地上の生活の延長線上にある将来のことではなく、ヨハネの黙示録21章で示されているように、全く次元が異なり、これまでの天地は去っていき、新天新地(海がなくなり、新しい天と新しい地が天から降って来る)の未来を指します。神様を信じる者は、今ある世界だけしか見ないのではなく、やがて来るところの世界を知らされています。その「未来」に備えて、パウロはテモテに、(与えられている今の命を維持管理するだけでなく)「真の命を得るために堅固な基礎を築く」ように教えることを命じています。

真の命を得る」を、ある聖書は「本当の祝福を神からいただく」と訳しています。又、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と表現している聖書もあります。

私達が、それぞれ、自分に与えられた地上の命を終えて、聖書が伝える未来になった時、神様から「忠実な僕よ、よくやった」と喜んでいただくために、今は、堅固な基礎作りの時であることを知らされます。

*待降節

アドベントは、御降誕をお迎えする心を整える時であると同時に、週報にありますように「再臨」の時を覚える時です。

神様が私達を愛するゆえにイエス様を遣わされ、イエス様は私達の罪を神様から赦していただくために、贖いの供え物として私達に代わって死んで下さいました。そして三日目に死に勝利して復活されて、それによって私達が罪の支配から解き放たれ、神の子とされて今、歩むことが出来ています。

この恵みを、待降節の4週間、日々覚えて歩みたいと願います。 それと同時に、再臨の時をも緊張感を持って覚え、今日学んだ御言葉と共に歩んでいきたいと願うものです。

11月24日の説教要旨 イザヤ書65:17-25・黙示録21:1-8

「聖書に示された未来」    平賀真理子

*はじめに「ヨハネの黙示録」を通して

 新約聖書は27巻の書物から成っていますが、もっと大きく分けると、「過去・現在・未来」という分類があります。その「未来」に分類される、唯一のものが「ヨハネの黙示録」です。今週は、教会暦では一年の終わりです。この時期に、聖書には、どのような「終わり」が示されているか、見てみたいと存じます。

 「黙示録」とは、隠されていることを明らかにした記録という意味があります。「ヨハネの黙示録」は、救い主イエス様が十字架で亡くなった数十年後に、ヨハネという人に神様から示された幻が記録されているわけです。無限の神様から示されたことを、有限な知識や感覚しかない人間が受け取り、限られた方法(この時代は文字による記録だけ)で残しています。ほんの一部を垣間見ることしかできないとは思いますが、この書物に、私達の未来が示されているなら、信仰者は知りたいと願うものでしょう。

*「新天新地」は神様からのプレゼント

今日の新約聖書箇所は、この書物の最後の部分の二つの章(21章と22章)の一部です。1節と2節で、私達の今、享受している天と地(最初の天と地)と「諸悪の根源」と考えられていた「海」がなくなって、新しい天と地が下ってくると書かれています。私達の社会では、何かを地上から積み上げた末に理想を築くという考え方をします。だから、その途中で積み上げようとしたことが壊されたり、中断されたりすることを非常に恐れます。それが、「神無き社会」の常識です。

 けれども、「新天新地」については、神様が人間にプレゼントとして与えようと前々から準備なさっていることがわかります。人間の努力等に関係なく、神様が決められた時が来たら、人間が思いも及ばない次元の世界が、神様の恵みとして、天から与えられるのです。神様は、自分勝手な人間を見捨てず、愛し続けておられることが暗示されています。信仰者は、自分勝手に心配せずに、信仰者にふさわしい生き方を守るべきでしょう。

*「人と共に住む(居る)神様」

 神様の特徴の一つに「人と共にいる」ことを望んでおられる御方であるということがあります。聖書によく記されている御言葉です。今日の箇所の3節にも「神は自ら人と共にいて」とあります。この望みのために神様は人間を含むこの世を作られたのですが、人間が自ら罪に陥って、神様が自分に親しく関わってくださる(「共にいる」)関係を壊したのです。この隔ての壁である「人間の罪」を壊して、神様と人間の親しい関係を修復なさったのがイエス様=十字架と復活によって「救いの御業」を果たされたイエス様です。そのイエス様を救い主と信じる者達は、主の恵みをいただき、神様との親しい関係を修復していただけるようになったのです。

私達信仰者は、この世では信仰生活を貫くにあたっては様々な困難がありますが、もはや神様によって、違う次元の恵みを既にいただき、それが永遠に続くことが保証されていることを、実は聖書は示していたのです。

*「わたしは初めり、終わりである」

今日の新約聖書箇所の後半の段落の6節では、神様が「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」とおっしゃっています。アルファとオメガは、新約聖書が書かれた元々の言葉ギリシャ語の最初の文字と最後の文字です。次の文「初めであり、終わりである。」と同じ意味です。また、この「初め」という言葉は「起源」を、「終わり」という言葉は「目的」という意味を含んでいます。つまり、神様が、人間を含むこの世すべての源であり、すべての目的であると示されています。人間の根源的な問い「どこから来て、どこへ向かうのか」への答えです。人間は、神から来て神に帰ってゆくのです。この「神」は私達人間を本当に愛して、この世が提供する「一時的な幸い」ではなく、神様の次元の「本当の幸い」を無償で(条件をつけたりしないで)与えたいと願っておられます。その恵みを受けるに相応(ふさわ)しい者達は、勿論、イエス様を救い主と受け入れて、この世で信仰生活を貫いた者と言えるでしょう。しかし、この世での大変な状況の中で信仰を貫けない者=臆病な者や信仰を止めた者、信仰者として相応しい生活をしなかった者は外されると8節にあります。逆に、信仰の戦いに「勝利を得る者」には、主の恵みが必ず与えられます。 私達の未来には、神様がご用意くださった世界での永遠の生があります!

11月10日の説教要旨 サムエル記上 30:21-25 Ⅰコリント10:23-31

「信仰から生まれる行為」 佐藤 義子      

*はじめに

聖書には、多くの人々が登場しますが、今朝は旧約聖書からダビデを、新約聖書からはパウロを取り上げて、神様を信じる信仰から生まれる行為に目を向けて学びたいと思います。

*ダビデ

ダビデの生涯は、旧約聖書 サムエル記上16章から約70頁にわたり記されています。本日の箇所は、ダビデがサウル王から嫉妬され、命までねらわれ、ダビデに従う兵士600人と共にイスラエルの敵であるペリシテ人の王アキシュのもとに逃げて身を寄せていた時の出来事です。

*ツィクラグ

アキシュ王は、ダビデのために「ツィクラグ」の領地を与えてくれたので、ダビデと妻、兵士達とその家族は、ペリシテ人の支配地域であったその場所に住み、そこから戦いなどに出て行きました。やがてペリシテ人は勢力を伸ばすため、イスラエル軍とも戦うことになりました。ダビデ達もアキシュ王と共にペリシテ軍の集結場所に出かけていきます。ところが途中で他のペリシテ人の武将たちが見慣れないダビデを見て、身元を尋ね、ダビデが、敵の民族イスラエル人であると知り、戦列に加わることを拒否し、帰るように命じます。仕方なくダビデは家来達とツィクラグに戻りますが、ツィクラグはダビデ達の留守中に、近隣に住むアマレク人の攻撃を受け、町は焼かれ、すべての男も女も捕虜として連れ去られていました。

*悲しみの中で

ダビデも兵士達も、すべてを失ったことを知り声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなったと聖書は伝えています。ダビデは苦しみの中で、神様に、アマレク人の略奪隊を追跡すべきか、追いつけるのか御心を問いました。ダビデが聞いた答は、必ず家族達を救い出すことが出来るというものでした。そこでダビデは600人の兵士たちと追跡の為、出発します。けれども、疲れていた兵士達の中からは落伍者が出てベソル川に来た時は400人になっていました。が、さらに200人は疲れすぎてベソル川を渡ることが出来ずそこにとどまり、残る200人で追跡を続けます。

*野原で見つけたエジプト人

途中、野原で一人のエジプト人を見つけます。彼は、町に火をつけたアマレク人の奴隷でしたが病にかかり主人から捨てられ三日三晩飲まず食わずで倒れていたのです。ダビデは彼に食事を与え、元気を取り戻させた後、略奪隊のところまで案内してもらい、略奪隊に追いつきます。略奪隊は奪った戦利品を前にお祭り騒ぎをしていましたので、ダビデ達は夕暮れを待ち、彼らを襲撃して奪われた物を奪い返し、捕虜として捕まっていた自分達の家族をすべて連れ帰ることが出来ました。

*ベソル川で

ベソル川まで戻ると、疲労の為 川を渡れずその場にとどまっていた200人の兵士達がダビデ達を迎えに出てきました。ダビデは彼らの安否を尋ねましたが、最後まで戦った兵士の一人が、その場にとどまった兵士達に向かい「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。ただ妻と子供を受け取り連れて行くがよい」と言いました。途中で戦列を離れた人と最後まで戦った人との待遇は違って当然、という一般社会(この世)の考え方です。

ところがダビデは「兄弟たちよ、主が与えて下さったものをそのようにしてはいけない。我々を守って下さったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。

*ダビデの信仰

ダビデは、すべてのものは神様のものであり、すべては神様から来ているとの信仰で生きた人でした。ツィクラグが焼かれて、すべてを失った中で、今、愛する家族と財産を取り戻せたのは、苦しみの中で祈り求めた結果、追跡する道へと導かれたからであり、又、自分達の家族と財産を取り返すために疲れ切っているにもかかわらず、兵士達がダビデの指示に従い、それぞれが自分の限界まで戦えたのも、神様からの力と励ましがあったからであり、追跡の途中でエジプト人に出会い、道案内を受けたことで追いつけたのも、すべては神様の導きと助けなくしてはあり得ないことでした。ダビデは常に、何をするにも「インマヌエル(神、我と共にいます)の信仰が土台であり、この時も「守って下さったのは主」「略奪隊を我々の手に渡されたのは主」との告白のもとで、「皆、同じように分け合う」との行為が生まれたのです。

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*菜食主義者と肉食主義者

次に、パウロを取り上げて、その言葉に耳を傾けたいと思います。

私達クリスチャンは同じ神様を信じており、このことにおいて一つになれます。しかし、それぞれ顔が違うように性格も考え方も違うため、パウロの時代(おそらく現代の教会も)、一人一人、その信仰の表し方が違っていました。パウロの時代、教会の中には菜食主義者と肉食主義者の対立がありました。菜食主義者が、肉にこだわったのは、市場に出回っていた肉の中に、偶像の神の神殿にささげられた肉がまざっていたからです。彼らの心配は、もし偶像に供えられた肉をキリスト者である自分たちが食べることで自分達は汚されるのではないか、と不安に思ったのです。その一方で、「キリスト者はすべてから自由にされた者である」と考える人達は、偶像に供えられた肉であってもキリスト者は神様の霊を受けて救われている者であり、この世のあらゆる束縛から解放されていると考えておりました。

*パウロの言葉

パウロは、8章4節で「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」と語り、たとえ、多くの神々がいるように思われていたとしても、私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出て、この神へ帰っていくこと、そして唯一の主イエス・キリストがおられ、万物も、私達も、主によって存在していると宣言しています。

ですから、パウロは、この世にあるすべてのものは、天地を造られた神様によって存在し、私達も又、この神様によって存在しているので、出された肉を食べても食べなくても、それによって自分自身が汚されたり汚されなかったりするということはないと語っています。

*パウロの、菜食主義者に向き合う行動

では、信仰のゆえに食べてはいけないと考えている人達に対してパウロは、どのように向き合っていたのでしょうか。もし食事に招かれた席で、菜食主義者の人から、「それは、偶像に捧げられた肉ですよ」と親切に教えてくれた場合は、パウロは食べないと答えています。

なぜなら、もし自分が食べれば、菜食主義者の人は、自分の良心を殺して、自由に食べる人達に合わせて無理して食べることになるかもしれない。それは、結果的に、肉を食べない人達の「良心を傷つける」という罪を犯すことになる、とパウロは指摘します。

*パウロの肉食主義者に向き合う行動

その一方で、パウロは、「すべてのことが許されている」と主張している人々に対して、キリスト者であることは自由を与えられていることであると同意します。しかし、『自由』を叫ぶ彼らの「自由」が、果たして、人々の救いに役立つのか、教会を建てあげていくための、教会に仕える自由であるのか、と、その「自由」の本当の意味を問うのです。

*自由を与えられているキリスト者

私達がキリストにあって自由な者とされたことは確かです。そして、私達の自由が他人の良心によって左右されることはありません(29節)。しかし、その自由は、何でもしてよいという自由ではありません。

キリスト者はすべてのことが許されているけれども、すべてのことが益となるわけでも、自分を造り上げていくのでもなく、それをすべきかどうかは、人々の救いの為、自分の益ではなく多くの人の益を求める(33節)ことにあり「何をするにしても、すべて神の栄光を現すため」(31節)とパウロは、行為の原点に目を向けさせます。私達は聖書を通して信仰の先輩達に学び、確信をもって歩めるよう聖霊の導きを祈るものです。

11月3日・召天者記念礼拝の説教要旨

詩編23編・エフェソ書3:14-21 

        「三つの祈り」         佐藤 義子 

*はじめに

日本基督教団では、毎年11月の第一日曜日を「召天者記念礼拝」として守っています。私達の伝道所では3名の方々を覚えての記念礼拝ですが、この方々は、地上の生涯を終えるまで神様を信じて神様に従った方々です。  

私達は、先に召された方々の信仰生活を思い起こすことで時に励まされ、時に慰められ、又、時には「今いらしたら、きっとこう言われるでしょう」と教えられたりします。博子姉が後遺症で身体が不自由になり、つい不満を言いかけた直後、「『そんなことを言うなら、こちらにいらっしゃい』」と神様から言われてしまうわね」と良く言っていました。又、「私達(クリスチャン)は良いことが起こった時、神様に感謝するけれども、神様を知らない人は「運が良かった」と言って、時には威張ったりするのね。神様を信じているからこそ、私達は感謝できるのね」などの言葉を思い出します。 

平野兄で思い出されるのは、最後の日々を非常に穏やかに過ごされていたことです。ああして欲しい、こうして欲しいなどの不満は一切聞いたことはありません。訪問時、待降節の季節でしたのでクリスマスの讃美歌をたくさん、(おそらくご一緒に)歌った楽しいひと時が思い出されます。

石川兄はガンとの闘病生活を送られて63年の生涯でしたが、克明に闘病日記を記され、信仰のことや聖書の御言葉なども残され、看護婦さんにも伝道されていかれました。石川兄の記念礼拝には看護婦さんも福島から出席して下さり、以来「こころの友」を郵送しています。

神様を信じる者は、神の国の民とされて永遠の命をいただいていますので、肉体の死は天の国への入り口に過ぎません。終末の時、神様を信じる者達は、聖書で約束されているように「復活体」という霊の体が与えられます。そして「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~)。

*異邦人

本日の聖書は、パウロが獄中から、異邦人教会に宛てて書いた手紙です。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)は、それ迄、天地創造主のまことの神様を知らず、「律法」もなく生きてきた人達です。けれども神様の大きな愛はユダヤ人だけでなく信じる者すべての人を神の子とするために御子イエス様を遣わしてくださり、十字架で流された血によって、それまでの罪があがなわれ(赦され)、「神の家族」とされたことが、この手紙で語られています。私達日本人も異邦人ですが、「イエス・キリストを信じる」信仰により神の子とされました。これは大きな神様の恵みです。クリスチャンになった(とされた)私達は、神の国の民として新しく生まれ、新しい命が与えられました。新しく生れた者は、乳児から離乳食へ、そして固い物も食べられるように成長していきます。

*とりなしの三つの祈り

今朝の聖書箇所には、パウロが神様にささげた、「新しく生れたクリスチャン」達に対して「とりなしの祈り」が祈られている箇所です。

祈りの一つは、「あなたがたの内なる人を強めて下さるように」です。この祈りにつけ加えられて、「信仰によって心の内にキリストを住まわせ」「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」と祈られます。二つ目に、「キリストの愛を理解し、キリストの愛を知るようになるように」。です。三つめに「神様の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」との祈りです。

*強めて下さい

新しく生まれたクリスチャンが、神様の霊により、力をもって、「内なる人を強め」てくださるようにとの祈りですが、別の訳では「あなたがたのうちに与えられた新しい命を強くして下さるように」と訳しています。そして「キリストが心の内に住んで下さるように」とは、心の状態を、イエス様をお迎えして住んでいただける部屋に整えること、それには心を荒立てたり、怒りや憎しみの感情などは、外に吐き出しておかねばならないでしょう。

この箇所を、「イエス様があなた方の心に住み、喜んでそこに住み続けて下さいますように」と訳している聖書もあります。続いて「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」とあります。イエス様が心の内に住んで下さるならば、私達は、神様の愛という土壌の中に深く根を張ることが出来、そのしっかりした愛の土台に立ち続けて成長していけるのです。私達は、神の国の民として新しい命が与えられた(クリスチャンとされた)ことにとどまるのではなくて、成長していく道(=強くされていく道)が大きく開かれています。

*キリストの愛を理解し、キリストを知る道

パウロが捧げた二つ目の祈りは、神の子とされた者は、「キリストの愛を理解」するように、「キリストを知るようになる」ことを祈っています。パウロは、信仰の成長の為には、このことが不可欠であると考えているのです。神様の愛、キリストの愛は、広さ、長さ、高さ、深さでも、測ることが出来ない無限大であるゆえに、言葉で説明することは不可能です。

しかし私達は福音書を通して、その愛の一端に触れることが出来ます。

*イエス様の愛に触れる

たとえば姦淫の現場を捕えた女性を、律法により石打ちの刑で裁こうとしていた群衆に対して、イエス様はただひとこと「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8:7)と、持っていた石を手離させ、ご自身もこの女性を罪に定めず、「これからはもう罪を犯してはならない。行きなさい」と女性をその場から去らせたイエス様の愛を思い起こします。ザアカイもイエス様の愛に触れた人でした。人々から「罪人」呼ばわりされ嫌われて、お金はあっても孤独であったザアカイに対して、イエス様から声をかけ、彼の家の泊り客となられました(ルカ19:5)。又、イエス様が自ら、私達を羊に譬えて、迷子になった、たった一匹の羊の為に、ほかの99匹を置いてでも見つかるまで探し続ける羊飼いであることを語られています(ルカ19:4)。又、善きサマリア人は犬猿の仲であったユダヤ人が強盗に遭い半死の状態で倒れていたのを見つけて、その人の傷の手当だけでなく宿に連れて介抱し、宿の主人に、治るまで宿において欲しいと宿賃を渡し、足りない時は、仕事帰りに払うと言いました(同10:25)。最後まで見捨てることのないこの愛こそイエス様の愛です。

さらに、地上で最後の十字架で息を引き取られる時、イエス様を死へと追いやった宗教指導者や群衆、総督ピラトはじめ多くの兵士達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、神様に執り成しの祈りを捧げられました。

パウロが手紙で、キリストの無限の愛の大きさを理解するように、そして、人間の知識をはるかに超えたこの愛を知るようにと祈った祈りは、信仰による新しい命が強くされていくこと、心の内にキリストに住んでいただくこと、神様の愛という土壌の中に深く根を張り、愛にしっかりと立つ者になることと、すべてがつながっています。

*「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

この祈りは、愛と恵みと力で満ちている父なる神様のもとへ、イエス様の愛が私達を導いて下さり、私達も又、神さまの豊かさで満たされますようにとの祈りです。

ある注解者は「もし、この祈りを教会が祈り、教会が神様から、この祈りの答を受けるならば、教会は神様の賜物によって満たされ、完成される」と言っています。具体的には、神の義が私達に与えられ、神の愛が私達に注ぎ込まれ、神の栄光が私達を照らし、神の平和が私達の心の中に住むようになる」と説明しています。

*私達の祈り

私達の日ごとの祈りは、置かれた立場にあって祈る課題もさまざまです。しかし日ごとの祈りは、私達の信仰を形づくり信仰の成長をも導いてくれます。私達は、パウロの執り成しの祈りを通して、先ず神様に何を祈り求めていくべきかを教えられます。内なる人が強められ、どんなことにも動揺せず、心にイエス様に住んでいただき、愛に深く根を張り、イエス様の愛の大きさを理解し、人知を越えたこの愛を深く知り、神様の満ち溢れる豊かさで満たされていくように共に祈っていきましょう。

10月13日・神学校日・伝道献身者奨励日の説教要旨

エレミヤ書31:1-9・ヨハネ福音書11:38-44

 「神の逆接」      日高貴士耶(きしや)神学生

*はじめに

 エレミヤ書ではイスラエルの歴史の中で、最も痛みの深い時代に向けて語られた預言者の言葉が連なっています。エレミヤ書は、しばしば悲しみの書物であるように思われています。ダビデ王以来引き継がれてきたユダ王国の終わりの姿をまざまざと描きだしています。巨大な国家バビロニアが攻めてきて、その大きな暴力の中で国が滅んでいく、そのような時代に向けて、神の言葉を説き続けたのがエレミヤです。

この悲しみの歌を収めた哀歌は、しばしばエレミヤによって書かれたものであると理解されてきました。そのために私たちの聖書では、エレミヤ書のすぐ隣に哀歌が収められているのです。エレミヤ書の中にも、悲しみと痛みが渦巻いているところがあるからでしょう。

その悲しみのただ中に、エレミヤ書31章が刻み込まれています。この悲しみも、悲惨も、痛みにも、確かに神の言葉が届くということを宣言しているのかのようです。 「おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」(注*4節)悲しみの歴史が進み行くエレミヤ書のただ中で、希望の言葉が語り始められるのです。  (注*聖書協会訳)

*「その時には」(1節)

 新しい時代が来ることが、神様の言葉の中で、脈打つように宣言されています。 「その時には」。 あらゆるものが転換する時のことが語られるのです。エレミヤの目の前で繰り広げられる悲しみと苦しみの時代、果てしのない罪の時代は「その時」、神様の力によって転換されて行く。

私たちは一歩また一歩と神の民の歩みをここで進めながら、その時を待ち続けているのです。

クリスチャンでいることの幸せのひとつは、自分の人生をわたしの人生の中で全て実現する必要がないことです。多くの人が、この世界の中で、自分の人生を実現しようとして必死になっています。

人よりも良い生活をして長生きすることだけが、まるで人生の価値を決めることであるかのようです。

しかし、ここでは、教会では別の生き方が大切にされてきたのです。それは、私たちの人生の終わりを見据えながら生きるような生き方ではなく、ただ神様がわたしたちに教えてくださった「その時」が来るのを待ち続ける生き方なのです。その時、私たちは全てが神様の慈しみの中にあったことを見出すでしょう。その時、私たちは神様と顔と顔とを合わせるようにして、礼拝をしていることでしょう。その時、まことの慰めが私たちを包み込むでしょう。そしてその確かな希望の中で、またこの日の歩みを、神の民の歩みを、私たちは神様を礼拝し、祈りながら進めています。

*東京神学大学

「神学校日」として、私たちは一年のこの日を、特別に伝道者たちを養成している場所のために、特別に祈る日としています。私たち 日本キリスト教団の最大の神学校はわたしのいる、そしてまた由子先生が卒業された東京神学大学です。明治以来の日本の様々な神学校が合併して行く中で、きっとそこには深い祈りもあったことでしょう。それまでの様々な教派が持っていた神学校を一つにしようとして東京神学大学を生み出したのです。日本の教会が、祈りながら受け継いできた財産が、この東京神学大学に集められてきたのです。そしてそれは一つの流れになりながら、今この時に至っているのです。そこには困難なことが幾つもあったことでしょう。今も、東京神学大学は現職の学長を病で失うという悲しみと困難の大きい状況に置かれています。学生たちも教職員たちも悲しみが深い。しかし、そうしながら、それでも私たちは私たちの祈りを受け継ぎ、信仰と学びの財産を次の世代に受け渡しながら歩んで行くのです。

一人、また一人と、ここで伝道者が生まれ、福音の言葉を携えて、日本の地に出かけていきます。私たちはこうして信仰を受け継ぎ、祈りを受け継ぎ、そうしてまた新しい福音の言葉を語る者たちを立てて、育てて行くのです。神学校はそのような私たちの祈りと行いの明白に見える形のひとつでしょう。私たちのこの小さな歩みの一つひとつには神様の言葉があるのです。

*「しかし、その時には」

私たちの歩みがその答えを見出すその時がやってくる。そう、私たちの人生はそのようなものです。喜びがどこまでも深い時にも、悲しみがどこまでも深い時にも、絶望が心を満たそうとしている時にも、神様の言葉が響きだす。 「しかし、その時には」。わたしたちの現実に働く神の力を聖書の言葉は確かに語っている。わたしたちの日々、進み続ける現実の物語に対して、「神の逆接」が勝利を収めるのです。

*神の逆接

説教題を「神の逆接」としました。礼拝の説教にしては少し変わった説教題かもしれません。しかし、まさに私たちが共に聞いたエレミヤ書の言葉は、まさに神様の逆接に満ちた箇所なのです。

逆接、それは文の間の関係性を、反対を意味するものとして提示する言葉です。わたしたちの世界の現実に対して、「しかし」という言葉が連なりながら、新しい現実が立ち現れてくるのです。

しかし、それは神の「しかし」なのです。エレミヤ書が語る言葉はそのような神の「逆接」、神の「しかし」に満ちています。エレミヤ書全体に対する逆接であるかのように、ここでは将来に待ち受ける救いと喜びの言葉が溢れ出している。神様が「しかし、その時が来る」、「あなたたちが再び立てられ、慰めを受けるその時が来る」とおっしゃる。 捕囚を前にして、ひとつの国が暴力の中に消え入れられようとしていた時に、神様はおっしゃったのです。「しかし、おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」。

*強制移住

巨大な帝国バビロニアがユダの国に侵略してきました。そこである者たちはバビロニアの国に強制移住をさせられました。自分の育った愛する土地から引き離されて、暴力的に他の国に移住させられたのです。

古代の中近東の世界では最も恐ろしい処置の一つでした。

またある者は滅びゆく国の姿を見て、逃げて行きました。その中には、かつてファラオの奴隷として暮らさなければならなかったエジプトまで逃げる者もいました。ユダヤ人たちは、この大きな帝国の力のもとに、世界中に散り散りになっていくしか方法がなかったのです。

新しい土地には幸福が待っている保証はありません。奴隷にされるかもしれません。外国人ですから、人並みの扱いをしてもらえる保証もありません。彼らは世界中に散らされていった。

*神の逆接の言葉

自分の弱さを思い知りながら、生きていかなければならない時がある。自分ではどうすることもできないほどの大きな力に押さえつけられるようにしながら 生きて行かざるを得ないと思っていた者たちの上に、神の言葉が、神の逆接の言葉が響きだしてくるのです。

「しかし」、神はイスラエルの民を再び集められる。

神の言葉は全てを転換させる力に満ち溢れているのです。

きっと皆さんの人生も、聖書の言葉の中で転換させられ、変えられてきたことでしょう。由子先生はまさに、そういう人だと思います。

聖書の言葉が、強い力をもって私たちを変えてくる。そして私たちの命をも、確かに蘇り(よみがえり)の命へと造り変えてくださった。

今日は、ラザロの蘇りの箇所も読んでいただきました。主イエスはラザロの墓の前で確かに宣言されるのです。

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)。

ラザロの姉妹マルタはその少し前に言いました。「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」。厳しい言葉です。現実と悲しみに満ちた言葉です。そこに主イエスが言われた、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」(同40節)。

神様は私たちの人生に大きな逆接の言葉を置かれるのです。 「しかし、あなたには復活の命がある。あなたには救いがある」。そして私たちは神様の逆接の中で、復活の生命をこの世界の中で生き始めているのです。