2022年4月17日の説教要旨 詩編114:1-8・ヨハネ20:1-18

復 活 の 日」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

イースター、おめでとうございます。イースター(復活祭)は、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した日をお祝いする日です。

週の初めの日、マグダラのマリアは、朝早く、まだ暗い内にイエス様の身体が納められているお墓に行きました。

「週の初めの日」とは、ユダヤ教では安息日が金曜の日没から土曜の日没までで、イエス様が亡くなられたのは安息日の準備の日(金曜日)でした。「イエスは、ご自分が必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子達に打ち明け始められた。」(マタイ16:21)とありますので、三日目は日曜日にあたります。

*週の初めの日

「週の初め」の「初め」という言葉には、ヘブライ語で「第一、一番目」という意味だけでなく「唯一、たった一つ」という意味もあります。

創世記1章1節~5節に、初めに神様は天地を創造され、地は混沌(こんとん)としていて闇(やみ)が覆っていましたが、神様は、「光あれ」と言われて、光を見て「良し」とされました。混沌としていた闇の中から、光とやみを区別されたのです。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ、夕べがあり、朝がありました。それが第一の日の出来事、唯一の出来事として記されています。

ここで神様は、光は救いであること、闇は滅びであることを示そうとしたのかもしれません。神様は、神様のことを信じる者と信じない者が混ざり合って混沌としている、この世界・社会を、光と闇、救いと滅びで、はっきりと分けようとしているのだと思います。

神様は、この世界を創造された時から、そして、このお方を信じた時から、受け入れた時から、私達は 神様の照らす光の道を歩くことができるのです。神様は全てのことに計画を立て、神様の「時」に、様々な出来事を、私達の目に見えるように、分かるような形で行なって下さるのです。

*墓の入り口には大きな石を転がしておいた(マタイ27:60)

 イエス様が十字架につけられた所には園があり、そこにはまだ誰も、葬られたことのない新しいお墓があり(ヨハネ19:41)、イエス様の遺体はそこに納められました。マタイ福音書には、アリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った自分の新しいお墓に納めて、お墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去ったと報告されています。

マグダラのマリアが訪れた時には大きな石は取りのけてありました。朝早く、まだ暗かったのでマリアにとって何とも不思議な光景だったと思います。「お墓」の原語には、「回復する国の計画」・「国王の帰還」との意味があります。イエス様のよみがえり、復活すべき国王が帰還したとの、神様の御計画の実現を伝えています。

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」(詩編114:7)

 さらに注目する点は、お墓の石が取り除かれていたことです。これは本日の詩編「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」とあり、「身もだえせよ」の原語では、ねじまげるとか、ゆすぶる、苦しめるという意味があり、マタイ福音書28:2には、この時、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」と記されています。神様は、神様のご計画を実行する時に、大地を揺り動かしてまでも、(大地を身もだえさせてでも)、その力を私達人間に現わし、体験させるようになさることが分かります。

*復活の日

 復活の日は、第一日目、週の初めの日に来なくてはなりません。

なぜなら、全ての出来事の中には神様の計画された日があるからです。それらは、私達にとって、唯一の日、たった一つの日になるからです。そして日曜日が、復活したイエス様の日、初めの日の出来事として私達が覚え、集まり、祈る。このことを通して、私達、神様を信じる者達が一週間、神様に導かれ、守られ、神様と共に生きる喜びを知り、イエス様が、私達一人ひとりの心の内におられることを知っていくのです。

2022年4月10日の説教要旨 ゼカリヤ書9:9-10・マルコ 11:1-11

「ホ サ ナ」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日は、「しゅろの日曜日」です。

イエス様が子ろばに乗って、エルサレムの町に入られた時、多くの人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(マルコ11:9) と叫びました。 「ホサナ」とは、ヘブライ語で「おお(どうぞ)お救い下さいいま救って下さい」という意味があります。

私達は日常生活の中で様々な出来事が起こります。中でも問題や困難に出会う時、他の人に頼ることもできず、友人に頼ることが出来たとしても心の底から真実を話せないまま解決しきれないものが残ってしまうことはないでしょうか。しかし私の全てを信頼して委ね、任せることのできる「イエス様」というお方に出会ったら、私達もエルサレムの人々と同じように「ホサナ!いま救って下さい、助けてください」と叫ぶと思います。

*子ろば

 イエス様と弟子達の一行がエルサレムの近くまで来た時、イエス様は、二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」と、村へ使いに出されました。ここで注目する点は、「まだだれも乗ったことのない子ろば」です。当時のパレスチナ地方ではロバは重要な家畜で、荷物運搬や乗用、農業に用いられていました。「今まで誰も乗ったことがない子ろば」とは、聖なるものに用いられる意味があると思います。さらに本日のゼカリヤ書には、「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(9:9)とあり、「王が来る。・・雌ろばの子である ろばに乗って」は、救い主イエス様が王としてエルサレムに入ってくる 預言と聞くことが出来ます。

なぜ、そんなことをするのか

 イエス様から「つながれている ろばをほどいて連れて来るように」と使いに出された二人の弟子は、村に入るとすぐの表通りの戸口に、子ろばのつないであるのを見つけました。それをほどくと、居合わせた人々が「ほどいてどうするのか」と聞きました。二人の弟子はイエス様の言われた通り「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と話すと許してくれました。このようにして二人の弟子は、イエス様の言われた通りに行動して、神様の不思議な御業、イエス様の言われた事が現実になったことを体験したのでした。

*わたしたち

 私達が何か問題にぶつかり、現状に本当に困り、どうすることもできない時に神様に祈り、神様の導き、神様の語られる声に従って行動した時に、神様が私達をその問題から助け出して下さったこと、不思議な存在の働きがあったことを体験したことはありませんか。 

私は、家業を継いだ後、その仕事を辞めた時に、弟が中古の家を買い、リフォームの必要がありましたが、十分な蓄えがなく、自分達ですべてやることを決めて近くのホームセンターに材料を買いに行きました。

たまたま訪れたホームセンターでしたが、そこにはアウトレット品の売り場があり材料が格安で販売されて、ほとんどを格安で買った後も時には不思議な人とのつながりによって材料をタダで譲りうけたこともありました。さらに神様はリフォーム終了まで改築のあり方のアドバイスを「あぁしたら良い、こうしたらいいよ」と語って下さっているように感じ、その通り作業を続け、考えていた以上のリフォームとなりました。

*心の中に住まわれる神様

イエス様の言葉通りに行動した弟子達が不思議なみ業を体験したように、神様は信じる者達の心の中におられ、慰め、励ましの言葉を下さいます。私達もイエス様を出迎えた人々と同じように「ホサナ。

主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(ルカ19:38)と、讃美いたしましょう!

2022年3月20日の説教要旨 イザヤ書48:・1-8、Ⅱテモテ1:8-14

信頼をおく」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イザヤ書は大きく三つに分けられ、それぞれ書かれた年代も著者も異なり、本日の48章の著者は、仮の名前で第二イザヤと呼ばれています。

注 (第一イザヤ:1-39章、第二イザヤ:40-55章、第三イザヤ:56-66章)。

B.C.586年、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされ、民の多くは首都バビロンの郊外に連行されていきました。そしてペルシア王キュロスによって解放されるまでの約半世紀を、人々は囚われの民としての生活を送っていたのでした。48章は、バビロン捕囚の末期からエルサレムへ帰還する頃まで活動した第二イザヤが、囚われの民として生きる人々に語った主の言葉です。前半では神様の叱責と警告、後半は祖国イスラエル・神の住む都エルサレムに帰ることができる(解放の時が近づいている)という希望と、第二の出エジプトのように、神様が守り導いて下さる救いを知らせる励ましの言葉が語られています。

ヤコブの家よ」(1節)

神様は「ヤコブの家よ、」と呼びかけられます。これは「族長ヤコブ」の12人の息子達が各々の部族の祖となったことからイスラエルの民全体をさします。呼びかけに続き「まこともなく、恵みの業をすることもないのに 主の名をもって誓い イスラエルの神の名を唱える者よ」と、人々が神様に対して、偽りのない真実な、正しい態度でかかわることをしてこなかった(正しい関係作りをしてこなかった)と指摘し、彼らは口先だけ「主に信頼している」と言い、主の名を呼んだり、誓いを立てたり、祈ったり、と見せかけだけの信仰へと変わってしまい、心は固くなり、素直に神様の言葉に耳を傾けず、他人のことを思いやることなく自己中心主義者になり、不信仰の民になってしまったと言われます。けれども神様は、神様の御栄光が汚されないために「怒りを抑え、耐えて、お前を滅ぼさないようにし(9節)」、「あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら、平和は大河のように恵みは海の波のようになる(18節)」と約束されました。

*わたしたちの時代

 ヘブライ書には「神はかつて、預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(1:1-2」と記されています。

 かつて神様が第二イザヤを通して民に語られたように、私達の時代においても、御子イエス様を遣わして語られました。語られた言葉が必ず起こる過程においては、私達の、どこか心の奥に潜めている疑いや、隠した行い、根強い不信仰などが少しずつ明らかにされていきます。

自分が信頼している方を知る」(12節)

本日のⅡテモテへの手紙でパウロは、主を証しすることや主の囚人であることを恥じてはいないし、あなたも恥じてはならないとテモテに告げます。なぜならパウロは、自分が信頼している方を知っているからだと言います。神様を信じる私達がパウロと同じ立場に立つことは、イエス様に対して信仰を告白する者の一人になるということです。パウロと共に苦しむことは、人々に良き知らせである「福音」を伝えるための苦しみであり、たとえどんな苦しみであっても、神様の力を受けてしっかりと立ち向かう“神様の言葉に立つ”能力が与えられるということです。 

9-10節には、「神がわたし達を救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、わたし達の行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」とあります。神様は聖なる呼びかけをもって私達に救いを与えて下さいました。その救いが、もし「行い」から来るならば、その救いに与かった人は、何か問題が起きた時に心が揺れ動かされて離れてしまうことになります。しかし救いが,神様の恵みによるものなら、それは永遠に変わることはありません。確かにイエス様は私達の罪のために十字架にかかり、死なれ、三日目に復活され、天に昇られましたが、聖霊を送って下さり、今もこうして神様を信じる私達の心の中におられます。神様の呼びかけと恵みは、ただ主イエス・キリストを通してのみ与えられるものです。救いはこの世に生きるすべての者に向けられている神様の恵みであることを忘れず、今週も歩んでまいりましょう。

2022年3月13日の説教要旨 エレミヤ書2:1-13・エフェソ6:10-20

悪との戦い」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

エレミヤ書1章4節以下にはこのようにエレミヤが告白しています。

主の言葉がわたしに臨んだ。わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。』」

 エレミヤに命じられた使命は、諸国民の預言者となることであり、それはすでに、エレミヤが生まれる前から神様が定めた職業でした。これに対してエレミヤは、「私は若者に過ぎません」と応答します。しかし神様は「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束されて励まし、語るべき言葉をエレミヤに授けました(同 8-9節)。

*エレミヤの生きた時代

 かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、神様は人々の叫びを聞いて、指導者モーセを送り、エジプトから救い出しました。旅の中でモーセを通して与えられた十戒を聞いたイスラエルの民は、その言葉にすべて従うことを約束しました。彼らは、荒野の40年間の旅を通して主に養われ、成長し、自分達のアイデンティティー(自分が、一人の人格として存在していること、民族としては、他者から区別される独自の性質・特徴)を見出していきました。そしてこの旅を通し、神様は自分達と共におられる唯一の神であることを知り、神様との信頼関係を築いていきました。その時のイスラエルの民について、神様はこう語られています。

わたしは、あなたの若い時のまごころ、花嫁の時の愛、荒れ野での従順を思い起こす(2章2節)」と。

けれどもエレミヤが召命を受けて、預言者として活動していた時代は、イスラエルの民は、カナンの地に入り、カナン人の信じるバアル信仰(農耕神)の影響を受けて、主を捨てて他の神々に香をたき、偶像にひれ伏し、主に向かう「初めの愛」から離れてしまっていました。当時の祭司達も「主がどこにいるのか」とは尋ねず、探さず、教育者達も主を知らず、王や指導者達、預言者達までも、無価値のものに心を奪われていました(2章5節~)。 ここに、すべてのイスラエルの罪があります。

*主の語りかけ

 2章の初めには、1章4節と同じ様に「主の言葉がわたしに臨んだ。」と、主の語りかけの言葉から始められています。「主の語りかけ」とはどのようなものでしょうか。私達が心を静めて神様に思いを向ける時、主の霊、聖霊を通して神様の思い、神様の行動を知ることが出来ると思います。神様の霊の中に置かれる時、私達の本来あるべき姿を知らせ、神の子供として自由になり、私らしい輝きを放つことができるようになり、神様との関係が深まることで神様の愛をさらに深く感じていきます。

*神様との関係の回復

 神様とイスラエルとの約束は、自分の意志で選択できるものでした。同時に悪に対しては裁きがあり罰を伴いました。神様から離れた民に残された選択は、犯した罪に目を留め、悔い改め、再び主を知ること、すべてを神様の前に明け渡すことです。これが神様との関係を回復する唯一の道です。エレミヤは人々に神様に立ち帰るように語り続けました。

*悪との戦い

神様を信じる者達が主に拠り頼み、主との関係を築き上げることで主と結ばれて、主の偉大な力を身にまとうことが出来ることを、本日のエフェソ書は教えています。一方で、神様の霊を受けることによって、この世の霊の力、悪の力と戦わなければなりません。私達は悪魔の働きかけに気をつけて、神の武具を身に着けるように教えられています。

それは、私達が神様を信じた時、イエス様を救い主として受け入れた時に、すでに神様の力である聖霊をも受け入れています。この霊の力は日々の生活の中で、祈りをしている時、聖書を読んでいる時、讃美をしている時など、私達が神様とより深い関係、近い関係にあればあるほど大きくなります。それと共に私達には、悪の力から勝利されたイエス様がおられます。私達は、神様との関係づくりを大切にして、神様に愛されている者として、喜びを持ちつつ今週の歩みを始めて参りましょう。

2022年3月6日の説教要旨 エレミヤ書31:27-34・ヘブライ2:10-18

誘惑に勝つ」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエレミヤ書には、神と人間の関係を示す契約の、最も深くて本質的な内容が示されています。神様とイスラエルの民との契約とは、神様がシナイ山において、指導者モーセを通して民に与えられた契約です。それは十戒と呼ばれる十の戒めであり、「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を、民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」(出エジプト24:3)」と記されています。十戒をはじめとする律法は、イスラエルの民の生活の中で生きたものとなり、人格形成の助け手の役割がありました。

*新しい契約

この神様とイスラエルの人々との間で結ばれた約束(契約)が、今度は新しくされることが、預言者エレミヤによって、神様の言葉が語られます。

見よ、・・・新しい契約を結ぶ日が来る」(元の言葉では「日々」)です。

この「新しさ」とは、今まで契約の相手は「イスラエルの民=群・共同体」であったけれども、今度は、「神様とわたし(個人)」の間で結ばれる契約になるというのです。神様との契約は、表面的に命令として受け止めたり、定められた基準にただ従って行動するというのではなく、ひとりひとりの心に刻まれて、人間性そのものが新たにされる、ということへとつながることになります。

*預言者エレミヤ

 エレミヤが活動した南王国ユダでは、ヨシヤ王が修理中のエルサレム神殿から発見された神の律法の書(申命記)によって、BC.621年に宗教改革が行なわれました(列王記下22-23章)。エレミヤは、その律法の書に記されている全ての言葉を価値あるものとして扱い、この契約の言葉に従わない者は呪われることを主張し、ヨシヤ王の改革運動を支持しました。

ヨシヤ王は、神殿および周辺にあった偶像となりうる物をことごとく外へ運び出し、破壊し、焼き払い、神殿や高台、町などを聖(きよ)めました。

しかしヨシヤ王が戦死したことにより、人々が律法の言葉に対して真剣に取り組まなかったことで、この宗教改革は挫折(ざせつ)しました。エレミヤから見て、イスラエルの人々は、希望が持てない民、絶望的な民であり、彼らのあまりの罪の深さにより、自分の意志や考えをコントロールできず、自ら滅びの道へ歩んでしまったのでした。

BC.587年にエルサレムは陥落。神殿は焼かれ、ユダ王国は滅び、人々は捕囚となってバビロニアに連行されていくのです。しかしエレミヤは、そのようなイスラエルの人々でも、その中から、わずかな可能性、望みを持ち続け、人々が将来、神様に立ち帰り、信仰を再び取り戻すことを期待し、民族再生の道を追求していました。人々から激しい迫害を受け、涙で語るエレミヤは、神様への純粋な信仰を貫き通して、「新しい契約」のメッセージを語ります。

*「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(33節)

あの、古い律法(=十戒)は、石の板(イスラエル共同体)に刻まれたが、これからは、一人ひとり・個人の心に律法が記されるという「新しい契約」が結ばれる日がくるのです。それは、私達が義務や、他の誰かから強制されて物事を捉(とら)えるのではなく、わたし達の心の内側からの意志の現われが、自発的な態度を造り、自分に直接関係するという意識を生み出すことになり、自分の意志で、神様の律法(トーラー)を守り従うことになります。このことにより、神様の言葉「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)ことが可能となる契約です。

*ヘブライ書2章18節

イエス様は、私達人間の罪をつぐなう為に私達の身代りとなって律法を成就され、ご自身の十字架の犠牲によって律法での「いけにえ」を献げる行為を終らせて下さいました。私達自らが、主イエス・キリストの贖いの死と復活を信じて聖霊に満たされ、導かれ、聖書の御言葉に信頼を置くことで、新しい契約の下での「救い」を無償の賜物として受け取る機会を与えられています。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人達を助けることがおできになるのです。

2022年2月27日の説教要旨 ヨナ書 1:1-2:1・ヘブライ書2:1-4

御業の現われ」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

主なる神様は、預言者ヨナに「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」と、言われました。

神様は、アッシリアの都(みやこ)ニネベの人々が悪の道を歩き続けていることで審判を下し、まもなく大いなる都のニネベが滅亡することを告げるようにヨナに命じたのです。しかしヨナは、主の言葉に従わず、主の前から逃れようと、ニネベとは別方向のタルシシュに向かう船に乗り込みます。

*主から逃れたヨナ

 ヨナはなぜこのように「主」から逃げようとしたのでしょうか。神様から与えられる言葉は預言者にとって絶対的な命令であり、聖なる裁き主である神様に対して、預言者は従う責任を負っています。にもかかわらず、ヨナはその命令から逃げようとするのには何か理由があるはずです・・。

ひょっとしたらヨナは、遠く離れた所に行くことで、神様の命令から身を引くことができると考えたのかもしれません。けれどもヨナの乗った船は、大荒れの海の中で砕けんばかりとなり、積み荷を海に投げ捨てても海は荒れる一方でした。この災難は誰の原因で起こったのか、くじを引いたところヨナに当たった為、ヨナは皆に、神の前から逃げたことを告白し、自分を海へ放り込むようにと頼みます。それは、自分の死によって罪を悔い改めれば神様の怒りは静まることをヨナ自身が知っていたからです。

*巨大魚の腹の中へ

海はますます荒れ、船は制御不能となり、乗組員達はついにヨナを海に放り込みます。すると荒れ狂っていた海は静まり、この出来事によって人々はヨナの信じる神様を大いに畏れていけにえをささげたとあります。一方ヨナは神様によって巨大な魚に吞み込まれます。三日三晩の後、神様は魚にヨナを吐き出させ、ヨナには神様の命令が繰り返されます。悔い改めたヨナは直ちにニネベに行き、命じられた通りニネベの滅亡を叫びながら町を歩き廻りました。すると、ニネベの人々は断食し悔い改めたのです。

*ヨナの不満

人々が悪の道から離れたことをご覧になった神様は思い直され、災いを下すのをやめられました。しかしヨナは不満を訴えます。「ああ主よ、だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私にはこうなることが分かっていました。あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方です」と。ヨナは「神様というお方は、悪に対しては厳しく罰するが、悔い改める者には恵みと憐れみを注ぎ、罪を赦し、滅ぼす計画をも思い直されるお方である」からこそ、わたしは<滅びの宣告>の命令から逃げたと訴えました。

そうでないと、押し流されてしまいます

本日のヘブライ書の1節に「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」とあります。この「押し流される」の元の言葉の中に、流れたり、すり抜けたり、滑り落ちるという意味がありますが、航海の意味も含んでいます。

この「航海」は、船を港に泊める意味の他に、船員が、風や潮の流れに注意することを忘れてしまうことや、避難するはずだった港や避難所をすり抜けてしまった船のことも含まれます。

*わたしたち

もし「わたし」という生命の船が港を通り過ぎてしまい、嵐で船が壊されないようにするには、「神様の言葉である聖書」が私達にとって船のかじを取る役割・存在です。私達は、この聖書の言葉・イエス様の語る言葉から離れては何もすることはできません。このお方こそが、私達の心の中に癒しを与え、力を与え、励ましを与え、生きる意味を教えて下さるのです。私達は時に、ヨナのように神様の声、語りかけを無視して、違う方向、自分が良く思える方法へと歩むことがあります。しかしヨナが巨大魚に呑み込まれてしまう中でも、主の助けによって救い出される体験をしています。私達もイエス様に救い出された者であり、その霊に満たされた者たちです。たとえ私達の生活の中で、今が嵐だと思える状況にあっても、私達は希望を捨てずに神様の声に耳を傾けましょう。

2022年2月6日の説教要旨 サムエル記下12:1-13・Ⅰペトロ1:22-25

「あらためる心」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の旧約聖書には、イスラエル王国の王であったダビデの生涯の中で、大失敗したと言える出来事を、預言者ナタンによって厳しく注意されています。その内容については11章に記されています。

*ダビデの大失敗 (サムエル記下11章)

ダビデは出陣する時期になったので、軍の司令官ヨアブ(8:16)と自分の家臣およびイスラエル全軍を戦いに送りましたが、ダビデ自身はエルサレムにとどまっていました。おそらく勝利を確信して、自分が行く必要はないと考えたのでしょう。ある夕暮れ時、ダビデは王宮の屋上から一人の女性が水浴びをしているのを見て、その女性を召し入れ、床を共にします。彼女は司令官の家来であるウリヤの妻(バト:シェバ)でした。(注:律法では、姦淫の罪は死刑:申22:22)。しかし女性が子供を宿したと知ると、ダビデは夫のウリヤを戦場から呼び戻して妻と過ごすように取り計らいます。ところが戻ったウリヤは、自分だけが家で休むわけにはいかないと、家に帰らず王宮の入り口で家臣達と共に眠りました。ダビデの計画は失敗に終り、ダビデはウリヤを戦場に戻して激しい戦線に送るように司令官に手紙を書き、その結果ウリヤは戦死してしまいました。こうしてダビデは罪を隠そうとして、さらに、主の御心に適わないことを行ったのでした。

*預言者ナタンの叱責(たとえ話を通して)

 神様は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ナタンは一つのたとえ話をダビデに聞かせます。<ある町に一人は豊かな者と、一人は貧しい者がいた。豊かな者は非常に多くの羊や牛を持っていたが、貧しい者は自分で買った一匹の雌の小羊しか持っていなかった。ある日、豊かな男に一人の客があり、彼は自分の旅人をもてなすため自分の羊や牛を惜しんで、貧しい者の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。>この「たとえ話」を聞いたダビデは正義感が現れ、この裕福な者の行動に対して激怒し「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」とナタンに告げました。

その男はあなただ」(7節)

 ナタンはダビデに向かって「その男はあなただ」と言ってから以下の、神様の言葉を伝えました。「あなたに油を注ぎ、イスラエルの国を治めるようにしたのは私であるのに、なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはウリヤを激しい戦地へ送り、ウリヤの妻を奪って自分の妻とした。」この神様の言葉を聞いたダビデは我に返り、「わたしは主に罪を犯した」(13節)と言って自分の犯した罪を認めました。

*詩編51編(ダビデの祈り)

ダビデはこの時の罪の告白と罪の赦しを願って祈りをささげました。「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています・・」(5-6節)と、神様にそむき、罪はいつもダビデの前に置かれていること、主の言われることは正しく、その裁きに誤りが無いことを告白しています。ダビデの告白は自らの気付きによるのではなく預言者ナタンの口を通して、悔い改めへと導かれました。

*わたしたち

私達はどうでしょうか。主の前に罪を認めたダビデに、預言者ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」と宣言したように、私達も、神様の元に立ち帰るならば、ダビデと同じように、私達の罪を神様は取り除いて下さいます。私達にはイエス様が下さった罪からの贖いの「十字架の死」があり救いがあります。どんな時にも、どんなことでも、イエス様に頼り、求めるならば、イエス様は私達の祈りと願いを聞いて下さり、赦しも、癒しも、与えて下さいます。

*主の言葉は永遠に変わることがない

本日のペトロ書では、神様を信じるわたし達は、「真理を受け入れて魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」わたし達は、「神様の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた者」であると言われています。私達は神様の霊を受け、聖霊の導きを信じ、互いに助け合い、励まし合い、祈り合い、お互いの徳を高め合いつつ、共に信仰の歩みを進めて参りましょう。

2022年1月23日の説教要旨 申命記30:11-15・Ⅰペトロ1:3-12

「主イエスを見よ」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の新約聖書の箇所である3節には、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と、神様を信じた者達が、真の神様がおられることを知り、神様の素晴らしさを体験して深く心を動かされ、感謝の感情が、神様をほめたたえる形で語られています。

ペトロにとって大切なことは、神様がイエス様の父であることでした。

 イエス様は神様の御子としてこの地上に生まれ、人のかたちになることによって(人間の姿で現れ・・フィリピ2:7)、父なる神様の思い・考えを人々に伝えたこと、その出来事が、実際にペトロの目の前で起きて、今もイエス様が「霊」として人々の内に生きていることを教えようとしています。

*憐れみ豊かな神

 3節では、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と、あります。この「神様の憐れみ」について、エフェソ書2章にこう記されています。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし―あなた方の救われたのは恵みによるのです―」(4節~)。

 私達は、不正や不法などが存在する正しくない世界に住み、罪のために死んでいました。その私達をイエス様へと向かわせ、イエス様と共に生きるように私達を救いへと導いたのは神様であり、神様の恵みによります。神様の憐れみと恵みにより、私達は、死者の中から復活されたイエス様の出来事を通して、生き生きとした希望が与えられているのです。

*朽ちず、汚れず、しぼまない財産

さらに「また、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(4節)とあります。私達が天に蓄えられている神様の財産を持つことは、すでに私達の心に植えられ、備え付けられています。その財産とは、私達の地上の生活の中で体験する出来事、例えば予期せぬ事件や突然に起こる大災害、貧困による生活苦や、会社からの突然の解雇など・・によって失われ、私達の生活をおびやかすような「物」の財産とは違って、神様から来るものは、輝かしく素晴らしい「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」です。

私達はいつ、「神様の財産」を受け継ぐことができるのでしょうか。

*準備されている救い

聖書は、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(5節)と、財産を受け継ぐのは「終わりの時」であることを教えています。これらのことは信仰によって、守られているのです。信仰を持つということは、簡単なようで、実に意味のあるものです。時には、難しい選択を強いられたり、悩ましく、どこかで挫折するような、どこかで背を向けたくなるような時もあるかと思います。けれども・・

*信仰は、試練によって本物と証明される

7節には、信仰は「その試練によって本物と証明される」とあり、8節には「あなたがたは、・・言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれています。」とあります。私達にはイエス様を信じて受け入れた時から心の中に神様の霊が宿っています。このことにより私達は、イエス様を見たことがないのに信じて愛することが出来るのです。どんなことがあろうとも、どんなところを歩もうとも、イエス様に立ち帰ることが出来、それゆえ私達は、言葉では言い尽くせない素晴らしい感謝の気持を神様に対して持ち、喜びに満ちあふれることが出来るのです。

*申命記30:14

 神様は、イスラエルの民(今は、わたしたち)に神様の言葉、聖書の言葉、救いに至らせる言葉を与え、人々の光、力になることを約束しています。そして、神様の御声に聴き従う「祝福の道」と、聞き従わない「呪いの道」を置かれました。神様の戒めは難しすぎるものではないと言われています。なぜなら「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」からです。

2022年1月9日の説教要旨 詩編36:6-10・マタイ福音書3:13-17

「天 が 開 く」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

(イザヤ書40:3)の、「荒れ野で叫ぶ者」として神様が用意された人でした。人々に、力ある方・イエス様が来られることを宣言しています。「天の国・神様の国が近づいた」・・この預言的な言葉は、神様がまさに訪れようとしていることを告げて、神様を受け入れようか、受け入れまいかと考えている余裕がないことを意味しています。バプテスマのヨハネは、人々に、罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと、ヨルダン川で洗礼(水につかり身を清め、心を新たにする)を授けていました。

マタイ福音書3章始めには、バプテスマのヨハネが荒れ野で宣教を始めたことが記されています。ヨハネは、預言者イザヤによって預言された『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。

*水で清める

私達日本人にも「水で清める」という風習や考え方があり、神社やお寺に入る前に手を洗ったり、滝に打たれたり、みそぎなど自分の身を清める行為を思い浮かべます。旧約聖書には、エゼキエル書36:25に、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかける時、お前たちは清められる」とあり、人々が過去の行ないから新しい心、新しい霊を持つために、祭司がヒソプ(オレガノに近い低木「マヨナラ・シリアカ」と呼ばれる)に水を浸して、汚れた者にふりかけ、人々の身を清めています。

*イエス様の洗礼(バプテスマ)

ヨハネは人々に水で洗礼を授けているけれども、ヨハネの後から来る方は、ヨハネよりも優れているとヨハネは語っています。イエス様がヨハネのもとに来たのはヨハネから洗礼を受けるためでした。ところがヨハネは「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所へ来られたのですか。」と、イエス様の申し出を強く断りました。自分は、神の子イエス様に身を清める儀式を行うことが出来るような者ではないと思っていたからです。しかしイエス様は、はっきりした目的をもって来たことを伝え、「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げました。イエス様は洗礼を受けられると、すぐに水の中から上がりました。「その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」と言う声が、天から聞こえた」(16~17節)。

このことは私達自身にも起こることを教えようとしているのかもしれません。私達がイエス様を救い主として受け入れ、私達の口からその信仰を言い表した時、「神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ福音書15:10)のです。

*バプテスマのヨハネとわたしたち

ヨハネはイエス様と出会った時、自分の使命、宣教の働きが終ったと考えたかもしれません。けれどもヨハネは、イエス様の言われる通り洗礼を授けました。神様の正しさを行う時、私達にも同じようなことをなさる時があります。私はかつて教会で讃美リーダーとして奉仕をしていましたが、まだ20代でしたので、讃美の導き手として奉仕する恥ずかしさ、怖さがありました。しかし回を重ねる内、自分に集中することから会衆へと目を向けられるようになり、神様の霊の働きにも気を配ることが出来るようになっていきました。神様を感じる体験をしたのです。

神様はどんな時も、私達が悩んだり困ったり、人前で何か大きなことをする時など、時にかなった色々な形で私達の中に現れて下さり(時に身近な人を通してなど)生活の中でかかわりを築いて下さいます。本日の詩編「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ」「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたし達は光を見る。」)と歌ったダビデは、神様が絶えず、神様の霊をダビデに注ぎ続けて下さることに感謝の心で、神様のまことの光を、その霊の注ぎかけの中で見た(感じた)告白をしたと思います。私達が神様の真理、神様の存在、神様の霊の中に入る時、憩う時、私達にとって神様は尊く計り知れないお方として礼拝する、感謝する、愛することが出来ると思います。

2022年1月2日の説教要旨 詩編89:2-15・ルカ福音書2:41-52

*はじめに

イエス様誕生の喜ばしい知らせを受けたのは、ベツレヘムで人々からあまり良い評価を受けていない立場の羊飼い達であり、神様は、この羊飼いをイエス様誕生の出来事を言い伝える人として選ばれています(ルカ福音書)。

さらに東方では、ユダヤ人の王となる「星」を見つけた異邦人の、占星術の学者達がエルサレムにいるヘロデ王を訪れて、メシア誕生の場所を尋ねました(マタイ福音書)。ヘロデ王は、祭司長達や律法学者達に調べさせ、預言書からユダヤのベツレヘムであることを知り、学者達に伝えました。学者達が出発すると東方で見た星が前を進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者達はこうしてイエス様を拝し、贈り物を献げました。

*公現日

このように幼子イエス様はユダヤ人だけではなく、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)にも現れて下さいましたので、この時を「公現日」(顕現日)として記念し、クリスマスから12日後にあたる1月6日にお祝いします。

羊飼いや、東方の博士達がイエス様に出会い、喜ばしい知らせ、素晴らしい体験をしたのと同じような喜びが本日の旧約聖書に記されています。『主の慈しみを とこしえに わたしは歌います。 わたしの口は代々に   あなたのまことを告げ知らせます』(詩編89:2)。

告げ知らせます

元の言葉は「知る」、「理性的に知る、経験を通して知る、人格的に知る」という意味があります。人々が神様とのかかわりを通して、神様との体験、神様との出会いによって、神様のことを他者に告げる、知らせる、という意味です。つまり、わたしたち、神様を信じる者達が、神様と実際に出会い、神様が行われる 偶然とも思えるような出来事、素晴らしいわざ(しるしや不思議や奇跡)を、自らが体験する、その場所に入る、出会うことによって、本当の神様、生きたまことの神様、喜ばしい知らせ、聖書の言葉を、他の人にも教える、告げ知らせるということなのです。

 特に2節では、神様から与えられた私の口を使って、神様は真実であること、まことであること、本当で変わることのない絶対的な神様が存在すること、揺るぎなく、昔も今も、これからもずっと続く永遠の神様がいて下さると告白し、宣言することが大事だと記しているのです。

*神殿での少年イエス

 本日のルカ福音書には、イエス様の両親(ヨセフとマリア)は、毎年、過越の祭にエルサレムに行かれていたこと、そしてイエス様が12歳になった時、両親はイエス様を連れてエルサレムに行かれた時のことが記されています。<当時は13歳で大人の仲間入り(神の民の一人となる)をして、掟、律法を守って生きる(聖書に従って歩む)者となります>。

祭りが終りヨセフとマリアが帰路に着いた時、途中でイエス様がいないのに気づき、捜しながらエルサレムに引き返し、神殿の境内でイエス様を見つけました。心配して捜していたマリアに、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました(49節)。

*父の家

両親にはこの言葉の意味が分かりませんでした。イエス様が父の家にいること、イエス様は父なる神様から生まれ、父が住まわれる聖なる神殿にいるのは当たり前であり、それ以外の場所は考えられないことを両親はまだ気付いていなかったからです。このことからも神様、イエス様は、神様が用意して下さっている場所、神様が備えて下さった礼拝場所には、神様がおられる、宿っていて下さることが分かると思います。

*わたしたちの教会

 私達ひとり一人、神様から造られた者達です。その神様から造られた者たちが一緒に集まる場所、神様がおられる所に集まるのは当然のことです。各々に与えられた場所で、個人的な神様との交わりの時間も必要ですし大事なことです。しかし、共に集まり共に祈る、共に励まし合い、教会「礼拝を共にし、主に在る交わりの場所」ではないかと思います。