2024年1月14日の説教要旨 サムエル記上3:1-10・ヨハネ書1:35-42

             「主の呼びかけ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 皆さんはどのような時に、神様からの言葉、呼びかけを感じることがあるでしょうか?神様は天と地を造り、植物や生き物を造り、人を神様に似せて造り世界を管理する者とされました。このように私達人間は、神様と近い関係を持ち、神様と会話できるようにと御業によって語りかけて下さっています。神様からの語りかけは、日々の生活の中で頻繁に起きていますが、その語りかけに私達が耳を傾けるか、傾けないかは、私達自身の選択、自由意志によります。

*少年サムエル

本日の旧約聖書は、神様の声を聞いた者の話です。サムエルは幼い時に、祭司エリに預けられて少年となり主に仕えていました。彼は神の箱(十戒の石板が入っている)が置かれている神殿に寝ていました。神殿は神様が臨在されている場所です。彼は未だ神様のことを十分知らず、神様からの言葉も聞くことはありませんでした。その夜、サムエルは自分を呼ぶ声に気づき、祭司エリが呼んだと思い、エリのもとに走り「お呼びになったので参りました」と言いましたが、エリから「私は呼んでいない。戻ってお休み」と言われてサムエルは戻り、寝ました。しかし眠りについたサムエルに、又「サムエルよ」と呼ぶ声が聞こえたので、走って「お呼びになったので参りました」とエリに言いましたが、エリは「私は呼んでいない。戻ってお休み」と言いました。1節には「その頃、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」とあるので、祭司エリも神様からの呼びかけとは気づかなかったのでしょう。三度同じことが起こった時、エリは、サムエルを呼んでいたのは神様であると悟り、サムエルに「又、呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」と教えました。戻って寝ていたサムエルは、再度の神様の呼びかけに『主よ。お話しください。僕は聞いております。』と答えました。

神様が語られたことは、神様の言葉に聞き従わなかった祭司エリの家に起こされる「神様の裁き」についてでした。翌朝エリはサムエルを呼んで、神様の言葉をすべて話すように言いましたので、彼はすべてを話し、伝えました。その後、サムエルは成長し、神様は彼と共におられ、サムエルは神様からの語りかけの言葉をすべて聞き漏らすことなく人々にも語り伝えたので、人々から「預言者」として認められていきました。

来なさい。そうすれば分かる

 本日のヨハネ福音書は、荒れ野で罪の赦しを得させるために人々に悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けていたヨハネは、イエス様にもバプテスマを授けた翌日のことです。二人の弟子と一緒にいた時、歩いておられるイエス様を見つめて「見よ、神の小羊だ」と言いました。

29節では「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っています。二人の弟子はそれを聞いてイエス様に従いました。イエス様は従ってくる二人を見て「何を求めているのか」と言われ、彼らは「先生、どこに泊まっておられるのですか」と聞くと、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。二人はイエス様が泊っておられる所にも泊まりました。このことは、私達がイエス様に目を向けてイエス様の後について行かない限り神様のもとには行かれず、又、イエス様のもとにとどまることは「神様のご臨在・霊」の中に生かされることを教えています。

*神の小羊=この人を見よ

 この言葉は2つの文字で示され、「人間の形」・「見る」という意味になり、「見る」は、(換気口の意味から呼吸する=)「生きる」という意味が含まれ、イエス様はまさに「生きている人の形をとってこの地上に来られ」、「この人を見よ」=イエス様を見れば神様がどんな方であるかがわかる、神様のご計画がわかる、だから「イエス様を見なさい」という意味がこの「小羊」に込められています。私達は神様に似せて造られ、神様との関係を持つために造られ、生かされています。

イエス様は今日も私達に「来なさい。そうすれば分かる」と言われます。イエス様が私達のために全てのことをして下さいます。

今週も一週間、イエス様の言葉に導かれながら共に歩んで参りましょう。

2023年12月31日の説教要旨 イザヤ書11:1-10・マタイ書2:1-12

           「東方の博士たち」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 先週の主日のクリスマス礼拝では、羊飼い達が「輝く光」に導かれて、天使が話してくれた通りの飼い葉桶に寝かせてあるイエス様を探し当てたことを学びましたが、本日の聖書では、イエス様にすてきなささげ物をした東方の博士達を見ていきたいと思います。

*東方の博士たち

彼らは占星術の学者で、天文学の知識を持ち、メシアの星が現われた時、その意味を探ろうとした知識階級に属し、さらに長旅をするだけの経済力を持ち、ヘロデ王のいる宮殿で王との面会が許可されたこと。誕生したイエス様に宝ものをささげたことから、羊飼い達とは対照的でありました。

*エルサレムの反応

 東方の博士達はどのようにしてイエス様の誕生に出会えたのでしょう。彼らはエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2:2)と言っています。東の方から来た博士といえばユダヤ社会から見ると異邦人です。その彼らがなぜ星を見て「ユダヤ人の王として生まれた方の星」と分かったのでしょうか。しかも彼らはユダヤ人の「王」として生まれた方に捧げるにふさわしい贈り物を携えて、遠い道を旅してエルサレムにやって来たのです。彼らは、きっと神様の支配に従い、礼拝すべき真の支配者であり王となるメシアの誕生の星を研究し、探し見つけて、礼拝する為に旅に出たのでしょう。

これを聞いて驚いた当時の王・ヘロデは不安を抱き、エルサレムの人々も同様でした。一つの国に二人の王が存在することはあり得ないからです。ヘロデ王は、民の祭司長達や律法学者達を皆、集めて、メシアはどこに生まれるのかと問いただし、預言書から「ベツレヘム」であることを聞いた王は、ひそかに博士達を呼び出して星の現れた時期を確かめました。それは、生まれた幼子を殺そうと考えたからです。

*預言者イザヤによる預言

本日のイザヤ書11:1以下に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。」とあります。エッサイはダビデの父であり、エッサイの株とはダビデ王朝を指し、その木が倒されて価値の無いように見える切り株から、一つの新芽が生え出て、そこから若枝が育ち、新しく立てられるメシアの上には「神の霊」が臨むこと、そしてその霊とは、「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」であることが記されています。

これは、ダビデの子孫からメシア(救い主)が新芽として生えて成長し、彼は、主を畏れ敬う霊に満たされて、全人類に影響を及ぼす者になるとのイエス様誕生の預言です。10節には「エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」と記されています。イザヤは世界と混乱のただ中で神様の栄光が全世界を覆うことを幻で見ていました。神様の栄光は輝く光、また星のようになり羊飼いや東方の博士達に現れたと思います。

*博士たちの贈り物

東方で見た星が博士たちに先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金・乳香・没薬を贈り物として献げました。黄金は王位の象徴でありイエス様が全てにおいて「王の王」と呼ばれるお方であることを世界に示しました。乳香は崇拝に使われる高価な香料で、祈りの象徴となっており、イエス様が神様から油を注がれた者(キリスト)であり、聖別され称えられ、礼拝される存在であることを現しています。没薬(ミルラ)は遺体の防腐剤として用いられるものであり、イエス様の苦難の生涯を象徴するにはふさわしく、世界の罪を負い神の御子として死ぬ為に生まれ(やがて復活する)ことを意味しています。

わたしたちも、このイエス様の光に照らされて神様との歩みを始めました。わたしたちは、神様の光の輝きを携えて、どんなことにも立ち向かっていく信仰によって、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年仙台南伝道所クリスマスイブ礼拝 メッセージ

                         佐藤義子 協力牧師 

今日はご一緒に、主イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。

もし、イエス様が生まれていなかったら、ここに教会が立つことはなかったですし、この世界からクリスマスというお祭りも生れませんでした。それほど大きな出来事でした。

イエス・キリストはなぜ、お生まれになったのか、その答えが、今お読みした9節と10節に書かれています。

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神(かみ)は、独(ひと)り子を世にお遣(つか)わしになりました。

その方によって、わたしたちが生(い)きるようになるためです。

ここに、神(かみ)愛(あい)がわたしたちの内(うち)示(しめ)されました。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、

わたしたちの罪(つみ)償(つぐな)ういけにえとして、御子(みこ)をお遣(つか)わしになりました。

ここに愛(あい)があります。  (ヨハネの手紙一 4:9~10)

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イエス・キリストは、神様がこの世に遣わされたのであって、つかわした目的は、私達人間が生きるようになるため、と言っています。

神様は、私達の命の「創造者」であり、私達は、両親を通して神様に命を与えられた「被造物」です。ですから、私達が生きることも、又、死ぬことも、神様がお決めになることです。

私達は、肉体の身体だけで生きているのではなく、精神・心・魂も与えられて生きています。

私達が本当の意味で、生き生きと生きていくためには、どうしても神様の独り子であるイエス様が生まれて来なければなりませんでした。

神様は、私達人間を造られた時、神様に似せて造られたと聖書にあります。

似せて造られているのは、霊である神様と交わることが出来る「霊性」で、神様の語りかけに応える人格が与えられていることや、又、ロボットではなく自由意志が与えられていることなどが考えられています。自由意志を与えられた私達人間は、アダムとイブの話からわかるように、神様に従順に生きることが出来ず、神様の教えを聞いても耳を貸さず、自分中心に生きて、罪に罪を重ねる歴史を繰り返してきました。それゆえに、神様と人間の関係は断絶したのでした。

しかし、神様の、私達人間に対する愛は大きく深く、神様は、この断絶関係をいつまでも放置することはなさいませんでした。神様はついに、救いの道を計画されたのです。

わたし達人間社会でも、罪を犯せば必ず償いが求められます。そうでなければ「正義」は死んでしまうからです。神さまの、救いのご計画とは、「人間の罪のつぐないの道」でした。

人間の(神様を自分の造り主として認めず、その教えに従わず、自分中心に生きること)を借金という言葉に置き換えて説明しますと、人間の、神様に対する借金は莫大であり、神様から赦していただくためには、借金のない人が肩代わりして償わなければなりません。ところがすべての人間には借金があり、肩代わり出来る人はいません。もし、出来るとするなら借金のない人、いわゆる罪のない者が、人間のすべての罪を肩代わりして、神様から罪の赦(ゆる)しをいただくことです。

そのため、神さまは、罪のない神の子である独り子を、人間社会に送り出し、人間として誕生させることでした。この出来事こそ、おとめマリアが聖霊によって神の御子を宿して、イエス様の誕生(=クリスマスの出来事)への道が開かれていきました。

そして十字架の出来事は、すべての人間の罪のつぐないの肩代わりの出来事であり、それによって、信じるすべての者に、神様からのゆるしが与えられた出来事でありました。

先ほどの聖書の言葉:

<わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。>

と共に、毎週の礼拝で私達は次の御言葉を聞いています。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。>(ヨハネ福音書3:16 )

今、世界は大きな戦争が起こっており、誰も止めることは出来ないでいます。国の指導者達が、神ではなく、自分が自分の支配者になっているからであり、本来、従うべき世界の創造者である神様の声を聞こうとしないからであり、平和が遠くなっています。振り返って私達が自分自身を見る時、戦争を嘆く一方で、家族、友人、知人、出会う人達と、いつも平和に暮らしているかと問われるならば、そこには自己中心のぶつかり合いや、愛すること、赦すことが出来ないでいる状況があることで、自分の弱さを知らされるのではないでしょうか。

私たちは、私達に命を与え、日々生かして下さる神様に目を向け、従うべきお方は、神様であり、神様の愛を伝えて下さっているイエス様であることを確認した時、新しい生き方が示されてきます。私達が生きる道は、この世の悪(神様から引き離そうとするこの世の誘惑などの力)の支配下にとどまらず、神様の支配下に移されて、神様からの光をいただきながら、少しずつ変えられていくのです。私達は、讃美歌や祈りを通して、聖書の言葉を通して、説教を通して、耳を傾ける時、そして従う時、神様から知恵や力、励ましや勇気と愛を、日々いただくことが出来ます。

 今日、神様がイエス様を送って下さったその喜びを共に味わえることを、感謝して祈ります。

<祈り> 私達を愛し、守り、導いて下さっている 天におられる父なる神様。

今日こうしてクリスマスを祝うことが出来る恵みを感謝いたします。

私達が生きているこの世界には、多くの苦しみ、悩み、失望があり、どうしてよいかわからない時もあります。そのような時、私達はあなたに祈ることが出来ることを忘れることがありませんように導いて下さい。今日、この喜びを味わうことが出来ない世界中の方達に、一日も早く、平和が与えられ、国の責任を担っている人達が、神様の御心を求めて、知ることが出来、それに 従う決断へと導いて下さいますように、心からお願い致します。主の御名によって祈ります。

2023年12月3日の説教要旨 イザヤ書52:1-10・ロマ書11:13-24

           「主の来る日を待つ」      加藤 秀久牧師

*はじめに

待降節 第一週に入りました。

今年も、色々な出来事が私達の身の回りに起こったと思いますが、その中で私達は、しっかりと周りで起こる事柄に目を留め、それらの状況に対応しながら神様に祈り、神様に解決策を聞きながら一年を過ごしてきたかと思います。

本日の旧約聖書のイザヤ書は大きく三つに分けられ、40章から55章までは著者である預言者の名前が知られていないために、第二イザヤと呼ばれています。(56章以降は第三イザヤ)。第二イザヤは、バビロン捕囚時代の終り頃から、故郷エルサレム帰還への先頭に立った預言者であり、本日の52章1節では、異国に荒らされたエルサレムに、今や、主なる神が王として帰って来られるとの預言を語り、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオン(全エルサレムおよびその住民)よ。輝く衣をまとえ、エルサレムよ。」と、捕囚からの解放へ準備の勧めの言葉となっています。3節には、「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」とあり、神様の恵みが告げられます。神様のお働きは、日常的な価値観や判断基準で行われるのではなく、神様独自のご計画、進め方があることを教えられます。

*良い知らせを伝える者の足

7節には、「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。旧約聖書で「美しい」は、神様の動きの中で示されるものと考えられ、中でも「平和、恵みの良い知らせ、救い」は神様が王となりエルサレムの人々が解放される出来事に繋がり、喜ばしい良い知らせを伝える者の足は美しいと、ロマ書にも引用されています。「主の名を呼び求める者は誰でも救われるところで信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(10:15)

神様は、「神様の時」に私達の前に現れます。この喜ばしい知らせを聞いた者たちが神様の訪れを伝える者とならなければなりません。遣わされる者たちは、伝えるべき言葉を正しく理解して神様との愛と信頼の良き交わりのもとに、「足」という言葉で捉えているようにも思います。

*折り取られたオリーブの木の枝と、野生のオリーブの接ぎ木

本日のロマ書では「救いの恵み」について、もともと神様から選民として選ばれていたユダヤ人と、それまで神様を知らなかったユダヤ人以外の異邦人との違いについて「オリーブの木」を用いて説明されます。本来救いの恵みにつながる枝であったユダヤ人が、不信仰の為に、枝が切り落とされてしまい、その代わりに野生のオリーブであった異邦人が本来の木に接ぎ木されて、根から豊かな養分を受けるようになっている現状をパウロが語っています。重要なことは、神様が栽培される本来のオリーブの木につながっているか否か、ということです。私たちはこのたとえを通して、神様の「慈しみ」と「厳しさ」を見なければならないことをパウロは告げています。そして、(不信仰の為に)木の枝が切り落とされてしまったユダヤ人でも、もし彼らが悔い改めるならば、野生のオリーブの接ぎ木よりもたやすく接ぎ木されると語っています (23, 24節)。

*主の来る日を待つ

このことから、神様が選ばれたすべての者は、切り落とされてどのような状況にあろうとも、神様のところに戻る時、神様の慈しみは、再びつぎ木によって、根から豊かな養分を受けられることを教えています。私たちはどのような所にいようとも、いつでも神様の所へ、神様のおられるこの伝道所に帰ることができることを心に刻みたいと思います。 イエス様の誕生日を待ち望む待降節のこの時、旧約時代のイスラエルの民が、長かった捕囚から、故郷エルサレム帰還への希望の預言を聞いて、その時を待ち望み続けた日々を思い起しつつ、私たちも、救い主イエス様の誕生の日(=良い知らせ)を伝える者として、心をはずませ、待ちつつ、今週も一週間、共に歩んで参りましょう。

2023年11月19日の説教要旨 出エジプト2:1-10・ヘブライ3:1-6

              「モーセ」        加藤 秀久牧師

*はじめに

モーセが生まれた頃、エジプトではイスラエルの人々(ヘブライ人)が、王によって苦しめられていました。族長ヤコブの息子のヨセフの時代にエジプトに移り住んだイスラエルの人々がエジプトの地で増え広がり、ヨセフを知らない新しい王の時代には、エジプトの国にとって脅威になると考えたからです。彼らの仕事はナイル川から土を運び、土をこねてレンガを焼き、そのレンガで建物を作ることや、農作物の作業はもちろん、用水路や運河を作る工事もしたと考えられています。しかし、重労働を課して苦しめてもイスラエルの人口は減らず増え広がる一方のため、王はさらに過酷な労働をさせて彼らの生活を脅かすようになりました。

*助産婦の行動

エジプト王は二人のヘブライ人助産婦に、「ヘブライ人の出産を助ける時には男の子ならば殺し、女の子なら生かしておけ」と命じました。しかし神を畏(おそ)れる助産婦は男の子も生かしておいたため、王に呼びだされた時、「ヘブライ人の女性はエジプトの女性と違い、自分達が行く前に産んでしまうのです」と答えました。神様はこの助産婦逹に恵みを与えられたと記されています。そこで王は「生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込むように、と命令を出しました。

*モーセの生い立ち

イスラエル12部族の内のレビ族(後の祭司の家系)出身の夫婦に男の子が産まれましたが可愛かったので、3ヶ月間隠れて育てました。しかし隠しきれなくなり、防水加工した籠に赤ちゃんを入れ、河畔の葦の茂みの間に置きました。そこに王女が水浴びに来て籠を見つけ、ふびんに思い我が子として育てることにします。様子を見ていた姉ミリアムは、王女に、乳母を紹介すると言って母親を連れてきたので、王女はその子を託しました。

*「水の中から引き上げた」(マーシャー)から「モーセ」と命名

王女は彼をモーセと名付けました。水の中から引き上げたからです

パレスチナは水が少なかったので、水は大切な支えとして(イザ 3:1)、発見時には祝われ(民21:16~)、祝福の象徴(詩 23:2 ・イザ32:2)でもあり、清めの象徴(エゼ 16:4)にもなりました。「引き上げる」は、旧約聖書では「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ大水の中から引き上げてくれた(サム下22:17)」、「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる(詩18:17)」とあり、新約聖書では、モーセが拾い上げられた場面(使徒7:21)、幼子イエス様の命がねらわれてエジプトに逃げた時の預言(マタイ2:15・・ホセア11:1)、イエス様が聖なるものとして身体が献げられた時(へブライ書10:10)に用いられていて、この「引き上げる」という言葉は「モーセ」の名前に「救い主イエス様」との関係を持たせているようです。清めの儀式にも使われる「水」、命を与える「水」、その水から引き上げられた、そのことが神様の計画にあり、やがて現れるイエス様の出来事にも繋がりがあり、意味ある名前であることが分かります。

*わたしたちこそ「神の家」(ヘブライ書3:6)

本日のヘブライ書に、「モーセは将来語られるはずのこと(イエス様の、神の家の建設)を証しするために、仕える者として神の家(イスラエルの民)全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家(教会)を忠実に治められるのです。」とあります(5~6節)。モーセはシナイ山(別名ホレブ山)で神様と語り、山を下った時には神様の栄光を受けて顔は光を放っていたので、神様の言葉を伝え終るとモーセは顔に覆いをかけました(出エジプト34:29)(やがて消え去る光)。

イエス様は万物を創られた神の御子として地上に派遣され、十字架の死による私達の罪の贖(あがな)いと復活によって神の家(教会)を建築され、教会のかしらとして治めておられます。私達がイエス様は主であると告白することによって、私達は清められ、聖なる者とされ、神様の霊がそれぞれの心の中に宿ります。私逹がもし確信と希望に満ちた誇り=再臨の日に与えられる救いの完成と、神様の御計画と約束への信頼から生まれる誇りとを持ち続けるならば私達こそ神の家なのです。

2023年11月12日の説教要旨 創世記12:1-9・ロマ書4:13-25

             「神の民の選び」      加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の創世記には、アブラハムが神様の恵みによって神様に呼び出されたことが記されています。アブラハムは神様から何の理由も告げられないまま住んでいたハランから「神様が示す地」に行くように命じられました。

この神様の恵みによる呼び出しには、神様からの約束が結びついていました。神様の呼びかけ、語りかけは次のように記されています。

「主はアブラム(元の名)に言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

*召命

ここで繰り返されている「あなた」とは、アブラハムへの語りかけであり、呼び出しです。アブラハムは、神様からの呼び出しは信頼すべき事柄であると確信し、しっかりと応えて、一族を伴ってカナン地方へ向かって出発し、カナンの地に入りました。主は言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」(12:7) 私達は、アブラハムの召命を見る時、「召命」とは、神様がご自身の救いの計画のために、ある特定な人を呼び出すこと、個人に与えられる神様からの使命、計画を受け取ることだと思いがちです。しかし、私達一人ひとり、聖書を読む者たちへの神様のご計画や神様から与えられた行動、使命の始まりは、(個人的に違いがありますが)、「神様に仕え、神様に従う」ということにある、とを伝えようとしていると思います。

また、神様を受け入れる・神様を信じる・という出来事には、人それぞれの時期、違いがあることを、ここで告げているのかもしれません。

私のように、神様の恵みの呼びかけを受けたと感じた者たちは、よりいっそう神様からの呼びかけの、その具体的な「時」を待たなければならない時間があるということも、教えようとしていると思います。

ある人には、神様からの恵みのその時が早く起きるかもしれず、ある人には、多くの時間を費やして待たなければならないかもしれません。しかし、どのような状況にあろうとも、私たちは確かに神様からの呼びかけの声、はっきりとした神様からの声を聞いたから、「今」という時を待つことができる、「今」そのことが起きているといえるでしょう。神様からの「あなたは・・しなさい」という声は、私たち個人に向けられたものであって、他の人には関係ありません。

*信仰の父・アブラハム

アブラハムは「神の民」であるイスラエル民族の祖先であり人類全体の「信仰の父」と言われる人物ですが、聖書ではすでに、「アベル(4章)、エノク(5章)、ノア(6章)」が登場しています。 なぜアブラハムは「信仰の父」と言われるようになったのでしょうか。ロマ書4:11には「アブラハムは、割礼(かつれい)を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印(しるし)を受けたのです。」とあり、割礼を受けたユダヤ人だけでなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ「信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」とあります。

*わたしたちの信仰

私たちも、どのような形であれ、神様からの恵みの呼びかけの言葉を聞いていると思います。聞いたことがないという人は、その言葉が聞けなかったのではなく、ただ、心に響いてこなかっただけだと思います。私たちの心がどこに向けられているか、で、神様の声を聞くことが出来るか出来ないかになっているだけではないでしょうか。

アブラハムの信仰は、自身と家族のためだけでなく、近い将来、又、遠い未来に至るまで、血縁関係にある子孫や、信仰によって義とされた者達の子孫をも含み、神様の祝福が必ずそこにある(幸いが及んでいく)という信仰です。私達も、神様から頂いた恵みと祝福を、近い将来、遠い未来まで、さらに神の家族として与えられている会員の方々の子孫をも含んで、神様の祝福を受け取ることが出来るという深い信仰を持ち、神様の恵みの声に耳を傾けながら一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年10月29日の説教要旨 詩編104:19-23・ヨハネ福音書1:1-14

              「創 造」        加藤 秀久牧師

*はじめに

 神様はこの地上を造られた時に、神様が良いと思われる方法で、地上のもの全てを規則ただしく置かれました。そのことは私達がこの地上のもの、特に神様が造られた自然(森や木、水、山や海)に目を向ける時、神様の素晴らしさ、偉大さを見ることができると思います。

 本日の詩編104編19節に「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている」とあります。神様は月と太陽によって生き物たちの生活を保つための順序や決まりごとを定められていると感じます。例えば、季節の変わりゆく姿、もうすぐ春とか天気が良くなるとか日が暮れるなど、動植物も含め、私達が五感で感じる事柄は神様が与えた特権でもあります。

*光と闇(やみ)

創世記1:14以下で、天地創造において神様は大きな二つの光を造られ、大きな光に昼を、小さな光に夜を治めさせ、光と闇を分けられたとあります。本日の詩編では「あなたが闇(やみ)を置かれると夜になり 森の獣は 忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ 神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らはかえって帰って行き それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。(20~23)」とあり、神様は、昼に生きるものと夜に生きるもの、全ての生きもの逹がみ手の業の中にあることを示しています。ヨブ記38章には理由が分からない苦難の中で祈るヨブに、神様は嵐の中から「わたしはお前に尋ねる、私に答えて見よ。私が大地を据(す)えた時、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら言ってみよ(4節)」と答えられています。天地創造の時、あなたはどこにいたのか?との問いは、私達に、神様中心的な考え・想い・態度をもって、ひたすら神様を信じて求めるべきと伝えているようです。

私達は人生のどこかのタイミング(時期)で「自分は、神様の創造の中に、計画の中に、生かされている」ということを知る必要があると思います。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。

本日のヨハネ福音書の初めの言葉は、私達に、天地創造を思い起こさせる言葉になっていると思います。神様は、言葉を発することで天地を形造られたことを示しています。この言葉は、神様の想い、天の国が地上でもあるようにとの願いが込められていて、「」の中に「イエス様」のことを示していて、神様が告げる言葉は、神様の子供であるイエス様の言葉でもあることがすでに定められていました。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(4節)」

神は言われた。『光あれ。』(創世記1:1)」とありますように、神様は言葉によって光を現わしたこと、その言葉は初めに神様と共にあったこと、これはイエス様が天地万物の創造以前にすでに神様と共にあったことを告げています。そして「言は肉となって、私達の間に宿られた。(14節)」とあり、イエス様が私達と同じ被造物ではなく、最初から存在していたことが述べられます。イエス様は天地創造の時に神様と共におられ、イエス様の言葉は、生きる者逹に光を照らすことになり、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(5節)」とあります。

*神様に呼び出されたわたしたち

「光あれ」の「あれ」は、命令形ではなく、(光は神様と共にあるので)、天地創造前から存在していて、神様がすでにあった光を闇の中から呼び出したと考えることができます。このことを原語で調べますと、「~があれ」「~せよ」は、本来神様が計画していたものが「目に見える形となって現われるように」という未完了の指示形でした。ですから、この後の「大空」や「水」、「かわいた所」などもみな、神様の命令によってではなく、神様に呼び出されて現れたことを伝えていて、そのことは、私達がこの地上に生まれたことも同じように言えるかもしれません。私達は、神様に呼ばれてこの地上に人として生まれました。それは私達の五感で神様というお方を知り、感じ、味わい、触れるためにあると思います(ヨハネの手紙一1:1参照)。それはきっと、天地を造られた時、神様が「光あれ」と言われたと同じように、私たちは神様に呼び出されて、その神様の光に包まれる喜びを感じることにあるのだと思います。

2023年10月22日の説教要旨 詩編78:1-8・ルカ書19:11-27

            「天国に行く者」      加藤 秀久牧師

*はじめに

私たちが神様の国・天国を思う時、そしてその天国におられる神様のことを思う時、どのような神様を思い浮かべるでしょうか。

本日のルカ福音書では、イエス様は、神様の国とイエス様について、たとえ話を通して、私逹を教えておられます。

イエス様は、旅の目的地でもある「エルサレム」に近づいた時に、このたとえを語られています。弟子達やイエス様を慕う人達は、イエス様がエルサレムに入城した後に「神の国はすぐにも現れるもの」と期待していたのでした。そこで語られた「たとえ」の一つは、「神の国はすぐにも現れる」との期待に対するイエス様の教えであり、もう一つは、イエス様を信じる人々への教えであり、拒む者への戒めです。

*たとえ話の意味(1)

 神の国は、すぐにも現れるものと思っていた人々に、イエス様は譬えの中で、「ある立派な家柄の人が、王の位(くらい)を受けて帰るために遠い国へ旅立つことになった」という表現で、ご自分のことを「旅立った人」、天の国を「遠い国」という言葉で表しています。エルサレムにおけるイエス様の死(と復活)によって神の国がすぐにも現れることはないこと、<イエス様が天国に向けて旅立ち、王位を受けたとしても>すぐには裁きのためにこの地上には戻って来ないことを教えています。

*たとえ話の意味(2)

 もう一つは、信じて従って来た人々に、イエス様が王位を得て、再び地上に戻ってくる時までに、各人に与えられた責任、その任務を忠実に守り、果たすようにとの教えです。これは直前に記されている「徴税人ザアカイ」の話と関連があり、ザアカイに起こった出来事を通して、一人一人に託されているこの世の財産を、イエス様の考えや思いに従って適切に用いるべきであることを教えています。そして再来の日までイエス様を拒否し続けるならイエス様が地上に戻って来た時には「裁き」があるとの警告です。

*イエス様を受け入れられなかったユダヤ人たち

 ユダヤ人およびその指導者達は、なぜイエス様を受け入れることが出来なかったのでしょうか。彼らは神様から約束されて長く待ち望んでいたメシア(救い主)がついに来た時、本来なら神様に感謝して神様を誉め称え、イエス様を歓迎するのは当然と私達は考えます。が、実際は、多くのユダヤ人達はイエス様を拒んでしまいました。それは、神様の国についてのイエス様の教えが、彼らの期待をはるかに超えていたからです。特にファリサイ派の人達は、「律法」に対するイエス様の考え方があまりも違っていたからです。彼らは過去の、神様への不服従さが原因で捕囚の民となり、異国バビロンの地での生活を通して神様への背きを後悔し、悔い改めました。そして今、神の国への唯一の道として「律法」があるので、その律法を厳粛に守り、さらに律法に基づいて作られてきた多くの「言い伝え=口伝律法」を守ること(例えば、祭儀的な手洗い、義務的な断食、安息日遵守の規定、けがれたものをすべて避ける‥等々)で、彼らの清さと信仰を前面に出していました。それに対してイエス様は、人間が作った規則にかかわらず、ユダヤ人の言動が神様のご意志、ご計画の本質から離れていることを指摘したのでした(マタイ5:21-48参照)。

後の世代に語り継ごう 主が成し遂げられた驚くべき御業を」(4節)

 本日の詩編78編は、イスラエルの民の歴史(出エジプトからダビデの選びまで)の神様のみ業(わざ)の歴史が語られます。特に、いにしえからの言い伝えである「主なる神への讃美、主の力の業、主が成し遂げられた驚くべき御業(奇蹟)」を告白しています。その一方で、イスラエルの人々は「神の民」としては失敗の繰り返しの多い民族でした。

信仰が与えられて現代を生きる私達も、神様がご覧になれば失敗を重ねる者達と言えるかもしれません。けれども重要なことは私達が神様との関係を持っており、創造主・唯一の神を知る生き証人であることです。私達が、生きた本当の神様に出会い、真実に向き合うことが出来るなら、「主が成し遂げられた驚くべき御業」に併せて、私達自身の救われた歩みも又、「神様への讃美と主の力」として言い伝えられていくでしょう。

2023年10月15日の説教要旨 創世記6:5-8 フィリピ1:1-11

           「神の力を知り、見抜く」    加藤 秀久牧師

*はじめに

フィリピの信徒への手紙は、西暦61年頃パウロがローマで拘束されていた間に書かれたと考えられています。フィリピは重要なローマの植民都市で、この地方にはユダヤ人はほとんどおらずユダヤ教の会堂もなかったと言われており、パウロがヨーロッパで宣教した最初の都市でした。パウロがかつて伝道したフィリピの信徒達に、今は監禁されている中で喜びに溢れて神様の言葉の素晴らしさ、嬉しさをひたすら伝えようとしています。

*喜びのみなもと

 1~2節は、フィリピの信徒達に、神様からの恵みと平和があるようにと願いを込めた祈りで、11節までは、パウロがこれ迄の信徒達についての報告を聞いて、パウロが喜びにあふれている様子を知ることができます。その喜びとは、彼らが今日まで福音に与(あずか)っていること、神様が彼らに近い将来、神様の大きな業、祝福を現して下さることの確信が与えられていること、そして彼らがパウロと共に、恵みに与る者とされていることを心に留めているからです。このことは、パウロにとって、感情が高ぶり胸がドキドキすることでもあり、フィリピ教会の人達と神様の働きを体験し、共有したいと願っているからです。

*パウロの執り成し(とりなし)の祈り

知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉(ほま)れとをたたえることができるように。」(9~11) 

「知る力」とは、「正しい教えを知る力・真の知識・認識力」です。「見抜く力」とは、霊的な事柄の真相を、とぎすまされたするどい感覚をもって洞察力を得ることです。これは、私達の肉体から起こる痛みを「痛み」として感じる感覚と同じようなもので、仮にこの感覚が鈍くなってしまうと、神様を信じることに無頓着になってしまうのではないかと思います。

今日、私達はこのように教会に集まって神様を礼拝することは、礼拝を通して神様から知る力と霊の見抜く力が与えられ、私達の心の中で、神様についての感覚が徐々に敏感になり、成長していくことによって、毎日の生活の中で神様との個人的関係がよりいっそう深く、生きたものとなっていくと思います。

*「あなたがたの愛が豊かになり(9節)

神様の言葉を正しく理解し、行動が伴う時、私達は、(人との交わりのように)神様との人格的な交わりに導かれ、神様の御意志(愛すること)を知るのです。ここで「豊かに」とあるのは「洪水のようにあふれて流れ出す」意味があります。愛は最も尊いものでⅠコリント書の 13:13に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」とあります。又、本日の創世記では、地上には常に悪いことばかりを考えている人達がいて、神様は、人間を造ったことを後悔し、滅ぼすことを決意します。が、その中で、ノアと家族だけは、神様の好意を得ることができました。それはノアが、神様を信じる無垢な人(純粋に神様を求めて、従った人)だったからです。

*「本当に重要なことを見分けられるように。」(10節)

私達の人生の歩みにおいて、はっきりとした善悪の区別をつけることのできないものがあり、決めなければならないことや決断を求められることがあります。そして時間やお金の使い方とか、思いやりのない人との向き合い方、或いは助けを必要としている人との向き合い方など、多くの事柄に目が行き過ぎて迷うことも、生活の中で起きるかと思います。パウロはそのような日々を送る信徒達に、10節で、「本当に重要なことを見分けられるように」と祈っています。何が重要で、何が大切なことかを見分けて選ぶことにより「キリストの日(終末・再臨)に備えて、とがめられるところのない者となり、イエス様によって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神様の栄光と誉れとを称えることができるように」との、この祈りは、同時に私達自身の日々の祈りでもあります。

2023年10月1日の説教要旨 詩編73:21-28・ルカ書16:19-31

             「主からの富」      加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の詩編73編の最初に「賛歌。アサフの詩」とあります。ダビデ王の時代、「契約の箱」・・十戒を刻んだ2枚の石の板(神とイスラエルの契約の基礎をなす神の言葉)が収められている箱・・の奉仕に携わっていたレビ人の中から聖歌隊や楽器(竪琴・琴・太鼓・鈴・シンバル)を演奏する人達が選ばれましたが、アサフは73編で、日常生活の視線から、この詩編を書き上げています。神様に背を向けている者達の富と繁栄に目を向けて、彼らが一見、何事もなく落ち着いているような様子に心が痛み、絶望感を感じていました。しかし、本日の21-28節では、神様の聖所に戻ることで、重要なことと、そうでないことを見分ける正しい力、感覚を取り戻すことができること、自分自身と神様との関係が日々の生活の中で重要な位置にあることに気付きました。

*「彼らの行く末を見分けた」(17節)

アサフが思い悩みながら聖所を訪れた時、彼の前に思いがけないことが起こります。それは、神様に逆らう者の行く末が、神様によって「一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされる」姿が幻の中で目に映ったのです。この光景を見ることで彼は、神様のご計画を知ることとなり、本日の21~22節「わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。

わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。」と、かつての自分を振り返り、23節からは、自分と神様の関係は定められた事柄に従順であれば良いと思っていた関係性から、血の通った知識、生きている神様に出会うことで、彼は、神様にすべてを任せる信仰を得て、「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとに とどまることができる。」と告白しています。

*わたしたち

 日々私達が生活をしている社会は、<正直者が馬鹿を見る>ような、正しさだけでは生活していけないような、悪い環境があるかと思います。

そのような状況を見聞きする時、人々は神様を信じていなくても、それなりに豊かな生活、恵まれた生活をしているように見えてしまいます。そのような感情が起こる時は、私達が多忙で、自分の心に余裕がない時、落ち込んでいる時などかもしれません。神様は平等で正しくおられます。私達が持つ否定的な感情は、神様からではなく、悪魔が私達と神様との良き関係をあの手この手で、私達の心に働きかけて壊していくのです。その時この23節を思い起して下さい。神様は必ず私達の手を離さずに私達の右の手をしっかりと握っていて下さるのです。それは私達が神様を信じる前から(生まれる前から)私達の内に「主が共におられる」という文字を心に刻み込んでいるからです。それだからこそ、私達は神様に出会うことが出来た、いいえ今も、神様に出会うことが出来るのです。

*金持ちと貧しいラザロ

本日のルカ書には、毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、その家の門前に横たわり、捨てられた食べ物で過ごす、できものだらけの貧しいラザロが登場します。お金持ちはラザロを家に招き入れることもせず優雅な生活を続け、やがて貧しい人は死んで、天使達によって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。他方、お金持ちも死んで葬られ、陰府(よみ)でさいなまれていました。

宴席と陰府の間には大きな淵があり、渡ることは出来ません。

富を愛する人は自分が得た知識、能力、技術はかけがえのないもので、それらを用いて、大きな富を得ることは当然と考え、富は彼らにとって大事なものになっています。そのような人達は、神様に全てを委ねて従うことは考えず、助けも必要としていないかもしれません。

けれど万一、全てを失ったとしたら、あるいは多くの財産を残して死んでしまったら、その人達の行先はどこになるのでしょう。

神様は、生きた者の神様です。私達はイエス様に希望を持ち、イエス様から与えられる全てもので満足するのです。イエス様は、私達の道であり、真理であり、命です(ヨハネ14:6)。私達はイエス様の手をしっかりと握りしめて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。