2021年4月18日の説教要旨 列王記上17:8-24・コロサイ書3:1-11

「新しい命」      加藤秀久伝道師

*はじめに

 列王記上17章の始めには、エリヤが紹介されています。エリヤは、アハブ王に“干ばつ”を預言した預言者です。主の言葉がエリヤに臨みます。

今まで住んでいる所を離れ、ヨルダンの東にあるケリトという川のほとりに行き、身を隠せ」との言葉です。エリヤは住んでいる所を去り、その場所へ行き、とどまりました。エリヤは主の語りかけに答え、行動しました。彼は主の御心にかなった人でもありました。主はエリヤに、ケリト川の水と、数羽のカラスを送って食べ物を運ばせ、彼を飢えから守り、その後、飲み水であった川が涸れた時、主は再びエリヤに語りかけます。

*サレプタの一人のやもめ

 本日の箇所は、主の言葉から始まります。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。そこでエリヤが町の入り口まで来ると一人のやもめが薪(たきぎ)を拾っていました。エリヤはやもめに声をかけ「器に少々水を持って来て、私に飲ませて下さい。」と頼み、さらに、「パンも一切れ、手に持って来て下さい」と言いました。しかし彼女はエリヤに、「私には焼いたパンなどありません。ただ壺(つぼ)の中に一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と息子の食べ物を作るところです。私達は、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と答えました。エリヤは心配しないように告げ、先ずエリヤの為に小さいパン菓子を作り、そのあと自分達のために調理するようにと伝え、さらに主の言葉も伝えました「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と。私達だったらどうするでしょうか。このやもめは、その言葉通りに作り、与えました。するとエリヤの語った言葉通り、壺の粉も瓶の油も尽きることなく、彼女もエリヤも彼女の家の者も、食べ物を食べることができたのでした。

*息子の死

 ところがその後、息子が病気にかかり、病状は非常に重く、ついに息を引き取りました。やもめにとって、かつて死を覚悟したもののエリヤとの出会いにより奇跡がもたらされ、家の者達も生き延びることができたにもかかわらず一人息子が死ねば、これ迄生き延びたことは返って昔の不幸や、 それに伴う罪責が思い起こされ、結局は息子の生命を奪うためにエリヤが来たことになる・・と、やもめはエリヤに訴えました。

*「あなたはまことに神の人。あなたの口にある主の言葉は真実。」

エリヤは母親から息子を受け取り、自分のいる階上の部屋の寝台に寝かせて祈りました。そして子供の上に身を重ねてから「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」と祈りました。しかも一度だけでなく、三度も神様に訴えています。この身を重ねて祈る祈り方は、エリヤの祈りの切実さと、身を重ねることによって心臓の鼓動が亡くなった子供に直接伝わることで、エリヤの癒しの願いの真剣さがそこにあることを伺うことができます。主は、エリヤの祈りを聞き入れて、命を戻されたので子供は生き返りました。母親は、エリヤがまことに神の人であり、エリヤの口にある主の言葉は真実である、と、告白しました。

*「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:1-2)

 本日のコロサイ書は、神様を信じること、神様がなさることに目を  とめることを私達に教えています。私達がどんな状況にあろうとも目に見える今の状況に左右されることなく、真実を見ようとすること、神様の言葉を信じること、神様に思いを寄せること、神様を求めること、神様に祈ることです。私達は、神様との交わりを通して日々新たにされなければ、この地上で神様との正しい関係を築き上げていくことはできないと思います。私達はこの地上に存在し、この地上には誘惑されるものが沢山あります。それゆえ私達は、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と、うながされているのです。

2021年4月11日の説教要旨 詩編118:13-25・ヨハネ福音書20:19-31

「主イエスの現れ」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編118編は、詩編113~-118編の、「ハレルヤ詩編」と言われている中にあり、ユダヤ教の礼拝において、巡礼祭、過越の祭り、仮庵の祭りと新月や神殿奉献の際の礼拝文として読まれています。118編13節には「激しく攻められて倒れそうになったわたしを主は助けてくださった。」とあり、神様を信じる者達は、たとえ他国の人々がエルサレムに来てユダヤ人を取り囲み、消し去ろうとしても、主の御名を呼び求めることによって、神様は彼らの声を聞き、救いの道へ導いて下さることが述べられています。又、25-26節に「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」と歌われています。

*エルサレム入城

イエス様がエルサレム入城をされた時、人々は「ホサナ(どうぞ救って下さい)。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫び、歓迎しました(ヨハネ12:13参照)。しかし最終的にはユダヤ人に受け入れてもらえず、十字架につけられ亡くなりました。イエス様は、エルサレムのユダヤ人に対して、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、主の名によって来られる方に、祝福があるようにと言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(マタイ23:38-39)と嘆かれました。ユダヤ人が主の御名を呼び求め、心から主の御名を称える日が来るまでは、神様に出会うことはないと言っています。

*「主イエスの現れ」

 十字架の死のあと、イエス様はどのようにして弟子達の前にその姿を現されたのでしょうか。本日のヨハネ福音書には、弟子達が、自分達の主・イエス様を十字架で失ってしまったとの絶望感に加え、自分達もやがては逮捕されるかもしれないと、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた時のことが記されています。そこへイエス様が来られ、「あなたがたに平和があるように」と、弟子達に挨拶されたのです。

イエス様は鍵のかかっているドアから家の中へ入ってくることがなぜ出来たのでしょうか。それはイエス様の「自然の命の体」が復活することにより、「霊の体」になっていたからです(参照:コリント書Ⅰ、15:46)。

イエス様は弟子達に、ご自身の手とわき腹の傷跡をお見せになりました。

*「聖霊を受けなさい。」

 イエス様は弟子達に重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と告げました。この聖霊は、弟子達に全てのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせて下さる霊です。弟子の一人トマスはその場にいませんでした。彼は、「主を見た」と他の弟子達が言っても、自分で直接触ってみなければ決して信じないと言いました。

その八日後、再び復活したイエス様が現れて、トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と、イエス様に答えています。イエス様は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げました。

*わたしたち

私達はイエス様に直接会い、その姿を見たことはありません。しかし、そのイエス様がここで私達に「見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げています。私達を、イエス様を信じる者として下さったイエス様は、弟子達に姿を現した後も、多くのしるしを行いました。私達はこの聖書に記されている言葉を通して、神様に出会うことが出来、神様のすばらしさや力強さを感じることができます。イエス様は、今日も私達の前に現れて下さいます。神の御子イエス様は光り輝き、神様を信じる私達に、その輝く光を与えて下さいます。イエス様を信じて、主の御名を呼ぶ者達は、神様から永遠の命を与えられ、平安を持つことができるのです。

2021年4月4日の説教要旨 詩編30:2-6・ヨハネ福音書20:1-18

「復活の日」     加藤秀久伝道師

*はじめに

 詩編30-32編には、病を癒された人の歌が取り上げられています。

2節の「あなたをあがめます」の元の言葉では「高くする」の意味があり、詩編作者は、自分自身が苦しみの中から「引き上げ」られたと、主を高くしています。「引き上げて」は本来井戸から水を引き上げる、救い上げる時に使う言葉です。神様を讃美することは、神様を高くする、崇める、礼拝する行為であり、神様は私達を苦難の中から、まるで井戸から水をくみ上げるように、一人一人を救い上げ助け出して下さることが述べられます。

 私達は神様を信じることにより、どんな時にでも神様の名前を呼び、助けを求めることが出来ます。そして私達が神様の名前を呼び、助けを求めることで、神様は私達の方へと近づいて来て下さり、苦しみや悲しみの中にある者達を日の当たる明るい世界へと導き、救い出して下さるお方です。

墓穴に下ることを免れさせ 私に命を得させて」(4節)

元の言葉では、「墓穴に下る者達の中から、あなたはわたしを生かした」となります。詩編の作者は、自らが墓穴に下るべき者であることを自覚していました。そして「ひと時、お怒りになっても命を得させることを御旨として下さる」(6節)と、作者自身の行為が神様の怒りを招いたことも認めます。さらに私達の命は、神様の御心、お考えの中にあることを述べて、神様は「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(同)お方で、私逹にとって、かけがえのない存在になっています。私達は、神様を信じて、受け入れ、罪赦されて救われなければ、神様に対する喜びの心と感謝の心は持てないと思います。

*マグダラのマリアとペトロともう一人の弟子

本日のヨハネ福音書では、週の初め、イエス様がお墓に埋葬されて三日目の日曜日朝早く、ようやく辺りが暗闇から光が照らし始め、明るくなりかけた頃、マグダラのマリアがイエス様の遺体が納められているお墓に行き、封印されていた石が取りのけられ、遺体がなくなっていることを知り、走ってペトロともう一人の弟子に知らせたことが記されています。二人の弟子も一緒に走り、お墓から遺体がなくなっていることを確かめます。かつてイエス様が、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ16:16)との御言葉が実現しようとしていました。しかし二人の弟子達は、「イエスが必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉をまだ理解していなかったとあります(9節)。それは、弟子達にはまだ聖霊が注がれておらず、彼らの内に聖霊が働いていないので理解出来なかったと思われます。

*復活されたイエス様

弟子達が家に帰った後もマリアはお墓の外で泣いていました。そしてお墓の中を見ると、イエス様の遺体があった所に白い衣を着た二人の天使がいました。「なぜ泣いているのか」と天使から聞かれたマリアは、「私の主が取り去られました」と答えながら後ろを振り向くと、そこに立っておられたイエス様を見ます。しかしマリアは園丁だと思い、遺体場所を聞きます。イエス様はマリアに、「マリア」と呼びかけ、マリアはその声でイエス様だと知ります。イエス様はマリアに、これからご自身は父なる神様の所に上(のぼ)られることを告げ、そのことを弟子達にも知らせるように命じられました。マリアは誰よりも先に復活したイエス様に出会い、イエス様のことを宣べ伝える証人となったのでした。

*私達とイエス様

私達にも今日、復活したイエス様が現れて下さっています。神様は、私達罪人だった者を 罪の生活の中から救い出すために、愛する一人子イエス様を陰府へと下らせ、そこから救い上げ、助け出して下さいました。このイエス様に私達は希望を持つことが出来るのです。 神様は、私達がイエス様を信じて、受け入れ、従う決心をした時、私達を進まなければならない方向へ誘導し、私達を神様の計画した道へと導き、歩ませて下さいます。今日、復活したイエス様があなたの前に立ち、あなたの名前を呼んでおられます。あなたはこのことを信じますか。

2021年3月21日の説教要旨 創世記25:29-34・ロマ書8:1-11

「我を生かす神」     加藤秀久伝道師

*はじめに

イサクとリベカは神様の導きによって結ばれた2人でしたが、なぜか20年間、子供は与えられませんでした。イサクはリベカに子供ができなかったので、「リベカのために主に祈った」と、創世記25章に記されています。神様はこの祈りを聞き入れて下さり、リベカは双子の男の子を産みました。最初の子供は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったのでエサウと、次の子供には、エサウのかかとをつかんでいたのでヤコブと名付けられました。

*エサウとヤコブ

 子供達は成長してエサウは狩りが上手だったので野の人となり、ヤコブは穏やかな人なので天幕に住んでいました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。リベカは、子供達がリベカのお腹にいた時、胎内で子供達が押し合うので主の御心を尋ねるために祈りました。その時、主はリベカに、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」と言われました。リベカはその言葉を忘れず、ヤコブを陰ながら支え、ヤコブに愛を注いでいたことが想像できます。

ある日、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れ切って野から帰って来てヤコブに頼みました。「お願いだ、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっている!」と。ヤコブはエサウに「先ず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい」と言いました。エサウは、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答えると、ヤコブは「では、今すぐ誓ってください。」と言ったので、エサウはその誓いを立ててしまいました。エサウはヤコブに、いとも簡単に長子の権利を譲ってしまいました。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじてしまったのでした。

*わたしたち

 私達も、自分の心の思いや肉の欲望が強くなると、エサウと同じように周りのものが見えなくなり、我を忘れ、本来、大事にしなければならないものをいとも簡単に捨てることが出来てしまうという弱い姿を、自分の中に見つけられるのではないでしょうか。

キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない

パウロは7章で、神様を知れば知るほど、神様の正しさの中で生活をしたい、神様の霊が働くところにとどまりたいと願いつつ、その思いの一方で、昔の自分の思いや経験した出来事が邪魔をして、正しい道を歩めず、行き先が定まらない、弱い自分があったことを告白しています。

 しかし本日の御言葉の始まりには、今迄 肉に従っていた私達がイエス・キリストというお方に出会い、イエス様を知りイエス様に結ばれることによって罪に定められることはない、とあります。すなわち私達が神様の律法を行うのではなく、イエス様を信じる信仰によって私達の心に霊がやどり、聖霊の導きによって神様に仕えることが出来、勝利の道をイエス様と共に歩むことが出来ると教えています。「肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされる(4節)」のです。

*ざんげの祈りと、罪の赦し

神様を信じる者とされても、尚、日々の生活の中で無意識に行ってしまう罪もあります。それらの罪を赦していただくために、私達は毎週の礼拝の中で「懺悔の祈り」を捧げます。この祈りを祈ることで罪が赦され、心が洗われて新しい週を始めていくことが出来るのではないでしょうか。私達の祈りに対して神様は、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われます。イエス様は裁くためにではなく全ての人の心にある悪い行い(偶像礼拝、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などの肉の思い)から離れさせ解放するために、この世へと来られました。神様は、神様が私達人間に用意されている「霊の支配下」(9節)で、神様に守り導かれて歩んでほしいと望んでおられます。今日ここに、十字架にかかり、死に勝利されたイエス様がおられます。このお方を心に招いて信じて一緒に歩む決心をした者には、神様は、神様の力と霊を与えて下さいます。今週一週間、神様が皆様と共にあり、皆様の足を強めて下さるようにお祈り致します。

2021年3月14日の説教要旨 出エジプト24:3-11・マタイ書17:1-13

「もう、だいじょうぶ」    遠藤尚幸先生

*はじめに

 今朝与えられた聖書の言葉には、大変不思議な場面が記されていました。それは、「主イエスの姿が変わる」ということです。聖書の中で主イエスは、病のいやしや悪霊の追放など、様々な奇跡的な業を人々の前に示していますが、今朝の箇所の特徴は、その奇跡が、主イエスご自身に起こるということです。主イエスご自身にどんな奇跡が起こったのでしょうか。

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17:1~)

*暗い思いに包まれていた弟子達

 主イエスの、この姿は、神様ご自身の栄光に輝く姿です。弟子達はこの主イエスの光り輝く姿を目撃する直前、実は暗い思いを抱くような経験をしていました。それは主イエスが弟子達に「これからエルサレムに行って起きること」の予告をされたことです。主イエスが、長老、祭司長、律法学者という当時の社会の権力者達に捕われ、苦しみを受けて殺されるというのです。「三日目に復活する」との予告もありましたが、この段階ではそれが何を意味するのか弟子達には分かりませんでした。弟子のリーダーでもあったペトロが、この言葉を聞いて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と主イエスをいさめ始めました(16:22)。主イエスがエルサレムで殺されてしまうなど、誰一人その意味を理解することが出来ず、弟子達は、この時まさに暗い思いに包まれていたのです。

*モーセとエリヤ

 主イエスが山の上で光り輝く栄光の姿を現したのは、これから起こることが決して否定的な意味を持つのではないということを伝えるためです。聖書は、次のように続けます。「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」。モーセもエリヤも、旧約聖書を代表する人物です。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、神様から大切な教えである「律法」を受け取り、民に伝えた人物です。エリヤは、神様の言葉を預かり、それを人々に語り伝えていた代表的な預言者です。旧約聖書が語り継いできた歴史がこの二人の姿に表されています。その流れに主イエスが合流している。ルカ福音書にはこの三人が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)とあります。つまり旧約聖書の成就として主イエスがエルサレムで遂げる最期、あの十字架の出来事があることが示されています。 弟子達にとって悲しみの出来事でしかない主イエスの十字架の死が、実はイスラエル民族の救いの成就であり、神様の深いご計画に基づいた出来事としてあること、主イエスはその十字架へ向かって進もうとしていること。弟子達はその栄光の主イエスの姿を、この時、垣間(かいま)見たのです。

 

*「起きなさい。恐れることはない

 この栄光の主イエスの姿を留めておきたいと考えたペトロは「お望みでしたら、仮小屋を三つ建てましょう。あなたのため、モーセのため、エリヤのために」と言いました(17:4)。しかし、光り輝く雲が彼らを覆い、天からの声をが聞こえ、彼らがひれ伏し恐れていると、主イエスは彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言われ、彼らが顔を上げて見ると、主イエスのほかには誰もおらず、弟子たちの前にはいつも通りの主イエスがいました。私達と同じ人間として悩み、十字架の道を苦しみながら歩もうとする主イエスです。

*ペトロ、ヤコブ、ヨハネ

 この三人の弟子達は、主イエスの栄光の姿を目撃した後で、その主イエスの苦しみ抜く姿を目撃します。この三人は、ゲツセマネの園での祈りの場面でも同様に選ばれています。主イエスが十字架につけられる前夜、祭司長達から捕われる直前に祈りをささげたのがゲツセマネと呼ばれる場所でした。主イエスはゲツセマネの園でこのように祈りました。

父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(26:39)

この祈りは、これから起こる杯(=十字架の出来事)を過ぎ去らせてほしいという願いと、しかし、神様の御心が実現していくようにという戦いの祈りでした。三人の弟子は、この主イエスの祈りの場所に同行することになります。主イエスというお方は、常日頃から栄光の姿を持って何の悩みも持たずに生涯を歩み、苦しまずに十字架に向かわれたわけではありませんでした。

そして弟子達は、結局は、主イエスの敗北にも思える姿を理解しきれずに、祭司長達に捕えられると怖くなって逃げ去り、遂には、主イエスただお一人で十字架への道を歩んでいくことになります。

主イエスの十字架への歩みは、そのようにして、都合よく神様を利用し都合よく神様を見捨てていく、私達人間の罪の深さを明らかにしました。

*十字架の愛

 そして、主イエスは、私達の罪を背負って十字架で死んで下さいました。私達の命は、神のひとり子である方が、命を捨ててまで救い出して下さったほどに価値があり、欠けがえのないものです。

高い山の上で見た光は、弟子たちにとって、一瞬垣間見たものでした。しかし、彼らは後に、光り輝く栄光だけが真の栄光ではないことに気づいていきます。主イエスのあのみすぼらしい、敗北のように見える十字架にこそ、神様の豊かな愛です。光り輝く栄光の姿は確かに素晴らしく、ペトロが言ったように、何としてでも留めておかなければと思うほど魅力的なものだったかもしれません。しかしそれ以上に、もっと素晴らしいことは、神様が、「その存在そのものを懸けてこの私を愛してくださった」という出来事です。弟子達は後に教会を形成し、主イエスのことを伝えていきますが、彼らが伝えたのは、光り輝く栄光ある主イエスの姿ではなくて、彼らは大胆に、十字架で命を捨てた神の子イエス・キリストを伝道していくのです。私達の罪のために十字架を背負う主イエスの姿は、後に、全世界の人々へと告げ知らされ、遂には今私たちの所に手渡されています。

私達一人一人もまた、この主イエスの十字架の愛の中に置かれています。

*山の上で

 主イエスの姿が変わる出来事は「山の上」で起きました。

 「山」は、神様と出会う特別な場所として描かれ(マタイ福音書)、主イエスが十字架で死に復活した後、弟子達が主イエスと再会する場所もガリラヤの山の上です。主イエスを見捨てた弟子達が、再び主イエスに出会い、派遣されていくのは、「山の上」であることを伝えています。

「山の上」での神様との出会いは、私達が毎週教会でささげている礼拝の姿と重なります。礼拝で知らされることは、私達がこの一週間を振り返り、いかに神様という存在を自分勝手に都合よく考えてきたかということです。そのような私達に主イエスは近づいて下さり、手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」(17:7)と語りかけて下さっている。 

弟子達は主イエスを見捨てて裏切ったわけですから、復活の主イエスと出会うことは、「喜ばしいだけ」ではなかったはずです。しかし主イエスは、そんな彼らの思いを超えて、一人一人を愛し、受け入れ、もう一度そこから「起きなさい」と呼びかけて下さる。

私達も又、この弟子達と同じです。この礼拝を通して知るべきことは、私達一人一人のために、主イエスがあの十字架で命を捨てて下さったということです。私達一人一人の不信仰、欠け、弱さを超えて、私達一人一人をどこまでも愛し抜いて下さっている方がいる。私達が毎週教会に集うその意味は、共に、自らに与えられている「その良き知らせ」を聴き、新しい一週間を共に歩みだすためです。

*受難節の歩みの中で

 私達は今、主イエスの十字架への歩みと、その苦しみを覚える受難節を過ごしています。教会歴の中で、受難節最後の週である受難週は、主イエスの苦しみを覚えて過ごすためにいろいろな試みがなされています。が、大切なことは、この主イエスの十字架の歩みの中に、私達一人一人が深く覚えられていることを、心に刻みながら過ごすことです。 新しい一週間が始まります。主イエスの栄光の姿は過ぎ去りました。しかし、何も問題はありません。私達の目の前には、私達の罪を背負い、十字架の道を歩む主イエスがおられるからです。

2021年3月7日の説教要旨 詩編90:1-12・ヨハネ福音書6:60-71

「命の言葉」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

今、お読みした詩編90編は、1節に「祈り。神の人モーセの詩」とあり、人は、神様の戒めから離れることで罪深い者となり、神様なしの生活が無力で空しいものとなり、特に人に与えられた命のはかなさ、短かさを語っています。神の人モーセは神様との出会いを通して変えられ、導かれ、守られました。なぜなら「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」(2節)だからです。

神様を信じる者に主は、今もこれから先も、いつまでも変わらぬお方であり、主は「わたしたちの宿るところ」(1節)、私達の住まいであると告白し、さらに神様にとって千年は、きのうから今日へと移る夜のひとときにすぎず、「朝が来れば花を咲かせ、夕べにはしおれ・・・(6節)と、人間の生は、永遠に生きる神様とは比べることができないと告白します。人の命のはかなさは、私達人間が神に背を向けて罪を犯した結果の神様からの怒りによるものであり、神様は、人が心の中に隠した罪さえも明らかにされます。それゆえ私達人間は、神様を畏れ、神様を敬い、神様の前にへりくだることです。90編の終りには、「私達の神、主の喜びが 私達の上にありますように。私達の手の働きを 私達のために確かなものとし 私達の手の働きをどうか確かなものにして下さい。」(17節)と祈っています。

私達も与えられた人生の日々を、このように祈りつつ歩みたいと思います。

*「わたしは命のパンである」(6:48)

本日のヨハネ福音書には、イエス様の話を聞こうと集まった群衆に、イエス様がご自身のことについて譬えを用いて語った、その話の後の出来事が記されています。イエス様は「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(33節)と教えたので、群衆はそれを聞き「主よ、そのパンをいつも私達に下さい」と頼みました。それに対するイエス様のお答えは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)です。

 イエス様は続いて、人々がイエス様を見てはいるものの永遠に続く命のパンを食べようともせず、信じようともしないことを指摘し、“天から降り、生きたパンである”イエス様を食べる(=イエス様を信じて信仰を持つ)者は、永遠の命を得て終わりの日に復活させられると、伝えました。

*「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)

この言葉を聞いた人々は「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言い、そこにいたユダヤ人だけではなくイエス様に惹かれてきた人達(広い意味での弟子達)も、この言葉につまずき、イエス様から離れ去って、共に歩むことをやめてしまいました。

イエス様は、イエス様を信じる信仰は人間の決心や努力ではないことを明らかにしています。イエス様は人々に、「わたしが命のパンである」と言っただけであり、又、出エジプト記では、神様はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言っただけでした。どちらの場合も神様が告げた言葉、真実の言葉がそこにあります。しかし人はその言葉を聞くと驚きや恐れを抱き、真実の言葉、命の言葉がそこにあることに思いを寄せず、ためらい、その意味を理解せずに、つぶやきました。

イエス様の言葉は“霊”であり、“命”(63節)

イエス様は彼らを戒めるように、“肉”は何の役にも立たないと言われます。私達はどうでしょうか。私達の想いや口では「イエス様を信じて従います」と言いながら、どこかでイエス様にではなくこの世の生活に身を任せてイエス様との関係を疎(おろそ)かにしていないでしょうか。神様はこの世を造られ、イエス様というお方を私達の犯した罪を取り除くために地上に人として遣わされ、私達に永遠の命を与えるために十字架にかかり亡くなられました。私達はどのようにしてこの言葉に答えをだしますか。私達がイエス様を信じて一歩前に踏み出さない限り神様は心の中に入って来ることができません。私達は聞いて信じて従う者となりましょう。私達のどんなに小さな願いや思いでも聞いて下さる神様がここにおられます。私達には命の言葉が与えられているのです。

2021年2月21日の説教要旨 申命記30:15-20・ヤコブの手紙1:12-18

「罪の誘惑」      加藤秀久伝道師

*はじめに

 本日の申命記には、モーセがイスラエルの人々に2つの選択肢が与えられていることを伝えています。申命記は、モーセとイスラエルの人々が、荒れ野での旅をしている時に与えられた「律法」を、モーセが再度語っていて、もしイスラエルの人々が神様を愛し、戒めを守るならば、イスラエル人の人も増え栄えるけれども、他方、もし、イスラエルの人々が神様に逆らい、神様から離れ、他の神々に仕えるならば、これから得ようとしている約束の地・カナンで長く生きることは出来ないというものでした。

*「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」(15節)

 本日の聖書の中に「今日(きょう)」と言う言葉が4回出てきます。この言葉は、語られた「その時」だけではなく、今日(こんにち)の時代においても語られる「今日」になっています。中でも神様から与えられた「十戒」(出エジプト記20:2-17・申命記5:2-22)の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」は、イスラエルの民にとって、しっかり心に留めなければならないことであり、誰かに強いられてではなく、自分の意志で自由に選択することができる意味をも含んでいました。

この第一戒は、今の時代にも、後の時代にも、いつの時代にも、神様を信じる者たちにとっては、日々の様々な状況の中で起こる誘惑から逃れて、勝利するために、なくてはならず、守らなければならないものだと思います。それこそが、イスラエルの人々にとって、主の声に従い歩んでいく信仰へとつながり、生きて行くための力・命になることが示されています。神様の約束は、いつの時代も変わることがありません。

*「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)

 本日のヤコブ書には、試練を受けた時、自分の欲望のままに行動しないように注意が必要であることが述べられています。今日の12節では、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」とあり、神様を信じる者達が、試練や苦難・困難に遭い、耐え忍ぶことは、イエス様の栄光に与(あずか)る「約束された命の冠」をいただくことが出来ると記されています。

この「耐え忍ぶ人は幸い」とは、その人が神様との出会いの中や信仰の歩みの中で、神様の慈しみや憐れみを体験する、神様からの一方的な愛、大きな力に包まれることになるからだと思います。神様からの試練に耐え忍んだ人の中にヨブの存在があることを5章11節で告げています。

*ヨブ(ヨブ記1-2章 参照)

 ヨブには次々と試練や災いが襲いますが、ヨブはどのような状況に置かれようと神様への信仰から目を離さず、神様を畏れ敬う心を持ち続けました。その信仰深いヨブでさえ最後にはあまりの激しい試練、苦難に遭い、自分の生まれた日を呪ってしまいます。私達にも同じような苦しみや悲しみ、困難の生活があるかと思います。神様を信じたから大丈夫と信じても、更に深い悲しみ、苦しみ、痛みが降りかかり、神様がいないのではないかとの経験をしたことはないでしょうか。しかし13節で、誘惑に遭う時、誰も、「神に誘惑されている」と勘違いをしないように告げています。誘惑は人々の歩みを悪へと引きずり込みますが、それは神様からではありません。神様から出るものは良いものであり、天からの贈り物です。神様は定めた範囲以上の悪魔の働きを許可されません。

*救い主、イエス様

 イエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられた時、悪魔は、富や名誉、権力やこの世の全てのものを見せて、自分に従わせようとしました。

しかしイエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』申命記6:13」と、悪魔を去らせました。悪魔は私達のスキを突き、私達の考えや思いの中に簡単に入り込むことが出来、私達が精神的に疲れていればいる程、私達を誘導し、洗脳していきます。 しかし天からの賜物は、私達に新しい命を与えて下さり、イエス様が私達の心の中に入って宿って下さることです。イエス様は私達一人一人を愛し、私達のために苦しまれ、私達の罪のために十字架で死なれました。私達がいろいろな試練に会う時には、大いに喜び(この上ない喜びと思い1:2)、神様の救いと慰めがあることを期待して待ち望みましょう。

2021年2月7日の説教要旨 列王記下5:1-14・Ⅱコリント12:1-10

*はじめに 

 本日の旧約聖書では、アラム(シリア)の王の軍司令官、ナアマンが登場します。彼は地位も名誉もありましたが、重い皮膚病にかかっていました。レビ記には「『わたしは汚れた者です。』と呼ばわらねばならない。・・・その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」と記されていて(13:45-46)、当時は、不治の病と見なされていたようです。 ナアマンの妻の召使いで、イスラエルから捕虜として連れてこられた少女が「サマリアにいる預言者を訪ねれば、ご主人の病をいやしてもらえるでしょう」と妻に告げると、ナアマンはその話をアラムの王に伝えました。王はイスラエルの王に、「ナアマンの重い皮膚病をいやしてほしい」との手紙を書いてくれましたので、ナアマンは沢山のみやげの品々を準備して、イスラエルの王を訪ねました。

*イスラエルの王

 イスラエルの王は、アラムの王からの手紙を読むと、「私が神だとでも言うのか。彼は私に言いがかりをつけようとしている」と言って激しく怒り、衣を裂きました。それを聞いた預言者エリシャは、イスラエルの王のもとに人を遣わして「その男を私の所によこして下さい。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言いました。

そこでナアマンは、戦車に乗ってエリシャの家の戸口に立ちました。

*預言者エリシャとナアマンとナアマンの家来達

 ナアマンはエリシャと直接会うことで、彼の真剣な気持をエリシャに理解してもらえるだろうと思っていたに違いありません。しかしエリシャは彼の前に姿を現さず、使いの者に「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と言わせました。ナアマンはひどく怒り、言いました。「エリシャが自ら出て来て私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた」と。しかも彼はヨルダン川の水よりももっと良い水の川があるのを知っていました。彼は、憤慨しながら去って行きました。ナアマンのプライドがズタズタにされた様子が伺えます。 

しかしナアマンの家来達は彼をいさめて、「あの預言者が大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなさったに違いありません。あの預言者は『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」と言いました。ナアマンはエリシャの言われた言葉を信じて、ヨルダン川に行き、7回、身体を浸しました。すると彼の身体は元に戻り、小さい子供の体のように清くなりました。(5:14)

*信仰

 ルカ福音書に「預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかは誰も清くされなかった。」(4:27)とのイエス様の言葉が記されています。ナアマンの、「いやされたい」という真剣な気持と「預言者の言葉を信じる信仰」の持ち主が、エリシャの時代にいなかったことが分かります。信仰は、私達が心に残る神様の御言葉や、本当の神様に出会った時から始まります。

私達が苦しみや困難な状況に置かれている時、「神様は私の祈り、願いを聞いて下さらないのか。・・」と神様に呟(つぶや)き、失望したことはないでしょうか。そのような時、それは私達の側に神様が働くことの出来ない何か、私達が握りしめて手放すことの出来ないものがあるからだと思います。パウロは使徒言行録で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(16:31)と言いました。パウロは主イエスを信じることの大切さを教えているのではないでしょうか。

本日の新約聖書でパウロは、身に「一つのとげ」が与えられたと記しています。おそらく伝道旅行中にかかった病気のことだと考えられます。パウロはこの病を通して、霊的に強められ、自分自身の弱さの中で神様の恵みに頼ることを知ることができました。そして何よりも「神様の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ことを体験しました。神様は私達にどんな所を歩ませようとも、必ず共におられ私達を助け出すお方です。神様は私達の祈りを知り、聞いています。落ち着いた心で神様が私達になさろうとしていることに喜んで耳を傾け、歩んでいきましょう。

2021年1月31日の説教要旨  列王記上8:22-30・Ⅰコリント3:10-17

「神の神殿」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

ソロモン王は、主の契約の箱(十戒の石板が入っている)を置く住まいとして主の家・エルサレム神殿を建てました。王になって4年目(紀元前966年頃)に始まり7年かけて完成しました。新しい神殿に納められた主の箱は、厳粛な儀式と共に「ダビデの町・シオン」に置かれていた天幕の中から運び出され、主の箱だけではなく臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて運びだされ、予定されていた所に移されました。

主は、神殿を建てるのは父ダビデではなく、息子ソロモンが神殿を建てると告げられていました(8:17~参照)。 本日の聖書は、その約束が実現して、ソロモン王がイスラエルの全会衆の前で主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして感謝の祈りをささげているところから始まります。

*祈る姿勢

父ダビデは、「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ手を高く上げ、御名によって祈ります」(詩編63編)と祈っています。このように神様に両手を上げて祈る行為は、天におられる父なる神様に向けて、私達自身がすべてを明け渡し、従うことを表していると思います。

*神様は地上にお住まいになるか?

ソロモン王は、祈りの中で、神様がこの地上の限られた空間である「神殿」に果たして住まわれるのか(8:27)と問うたことに対して、主は9:3で、「私はあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこに私の名をとこしえに置く」と仰せになっています。(申命記12:11には、礼拝の場所を、「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所」と記され、イエス様もエルサレム神殿について、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(マタイ21:13・イザヤ56:7)と引用されていて、神殿のその持ち主は「神様」であることが分かります。

エルサレムの語源には「シャレムの神の基礎」・「平和の基礎」のいずれかの意味があり、ここに神様に向かって礼拝する場所が出来たのです。

*コリントの教会

コリント教会は歴史が浅く、信徒達の信仰や霊的状況が未熟だったため、神様が第一ではなく、イエス様のことを伝えた伝道者に目が注がれ、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」など、信徒の間に分裂が起きていました(1:12)。そこでパウロは、人々の信仰を成長させて下さるのは、伝えた人ではなく神様の言葉に真理があることを述べて、

私達は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。」と伝えています(3:9)。

*教会の働き

そうです。教会は一人の力では限界があり、大きな働きは出来ません。私達は神様の畑です。神様は私達に「み言葉」という種を蒔き、育てて下さり、実り豊かな作物を生み出そうとしておられます。私達は神様のために力を合わせて働く者達の群れ、共同体です。

*教会の土台

パウロは、「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです(10節)」と記しています。パウロは、イエス様が人々の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に甦って、すでに教会の土台に据えられているのだから変更はできないとしています。そして、12節以下で、主は火によって、私達が土台の上に建てる仕事を吟味されると教えています。

さらに、教会の信徒達は「神様の宮」であること、神様の霊が私達の心に住んでいて下さるので、そのような人々の交わりに、不和、争い、分裂を持ち込む者達は、聖霊の働きを弱め、教会を破壊し、最後には神様によって滅ぼされる(3:17)ことを告げています。

私達は罪赦されて、神の神殿とされた者達です。ですから私達はイエス様のことを告げる、生きた証人として、この世へと出ていきましょう。

2021年1月17日の説教要旨 サムエル記上3:1-10・ガラテヤ書1:11-24

「キリストの弟子」    加藤 秀久伝道師

*はじめに 

神様は私達に呼びかけています。私達の心の中にある、心に宿っている霊に向けて、呼びかけています。それはサムエルのように寝ている時かもしれません、もしくは夜明け前かもしれません、それとも私達が静まり、神様に心を向けている時かもしれません。

*主の呼びかけ

サムエルは乳離れのあと、母ハンナから離れて祭司エリに仕えるようになりました。サムエルが少年に成長した時のことです。祭司エリは年をとり、目はかすみ、「神殿」でなく自分の部屋で床に就いて休んでいました。「神の箱(十戒の石板が納められていた)」が置かれている神殿の ともし火は、消えることなく灯しておかねばならず、少年サムエルは神殿で寝ていました。すると、主はサムエルを呼ばれました。サムエルはエリに呼ばれたと思い、エリのもとに走り「お呼びになったので参りました」と言いました。

しかし、「わたしは呼んでいない。戻ってお休み」と言われたので戻って寝ました。が、この後も、主は三度もサムエルを呼ばれました。

*主の語られる言葉を聞き分ける

この当時、主の言葉がイスラエルの人々の間に臨むことは少なく、幻が示されることもまれでした。なぜ主は人々に対して語ることをやめてしまったのでしょうか。それは人々が主の前に悪を行い、主の言葉に耳を傾けず、主が何かを語ったとしても人々の心が閉じてしまっており、主のささやく言葉を無視するようになってしまったからではないでしょうか。

しかし主は、サムエルに呼びかけられたのでした。

私達はどうでしょうか。霊的にも疲れていて神様との関係がおろそかになっている時には、神様のささやかれる言葉を聞き分ける力が低下しています。私達が神様と個人的な関係を保つためには、日々の生活の中で神様の言葉である聖書に向き合い、その語られる言葉に集中し、神様が私に何を伝えようとされているのか、心を神様の方へ向けなければなりません。

*主への応答

エリは、サムエルが三度も自分のもとに来たので、主がサムエルを呼ばれていることを悟り、「又、呼びかけられたら『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と伝えました。そのため主から再び呼ばれたサムエルは教えられた通り、「どうぞお話し下さい。僕は聞いております」と答え、主からこれから起こることを聞きました。

*パウロの伝道

本日のガラテヤ書は、ガラテヤ教会に偽りの福音が入り込んで影響を受けていたので、パウロは自分が体験した本当の神、真実の神について宣べ伝えているところから始まっています。

パウロとイエス様との出会いは、天からのまばゆい光の中から、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(サウル=パウロ・使徒言行録9:4)と、名前を呼びかけられたことから始まります。それはパウロにとっては思いもよらないイエス様との出会いであり、その時から彼の人生は変わり、伝道者へと導かれていきました。パウロの伝道は、自分が体験し受けた教えを素直に自分自身の言葉で表現して、何が正しく何が悪いかを神様からの霊によって見分け、「神様」と「イエス様」というお方がどのようなお方かを人々に伝えていく、という伝道です。

ガラテヤの人々も、パウロから、救いをもたらす神様の言葉に出会い、信じる者へと変えられていきました。それはガラテヤの人々が、パウロの中に、生きた神様を見たからではないでしょうか。

*わたしたち

私達も又、サムエルやパウロの体験と同じように、人の声ではなく、神様からの語りかけを聞くことから始まり、イエス様を受け入れて信じた時からイエス様が心の中に住んで下さるようになりました。イエス様は今日も私達の名前を呼んで、私達に必要なこと、私達がするべきことを語りかけて下さっています。私達は、聖霊の助けにより頼み、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と、主の語られる言葉を聞き分けて、神様の御心を知ることが出来るように祈り求めて参りましょう。