「命 の 源」 加藤 秀久牧師
*はじめに
「私は主に仕える」。本日の「あなたたちはだから、主に仕えなさい。」というヨシュアの、この言葉を聞いた時(ヨシュア記24:14)、私はイエス様を信じて私の救い主として受け入れて信じた時のことを想い浮かべましたが、皆さんはどうでしょうか。私は、その時は、まだ神様のことを良く知らずに、ただイエス様を信じ、受け入れたようにも思えます。
*シケムでの契約
本日のヨシュア記には、イスラエルの民がモーセの後継者・ヨシュアによって多くの戦いの日々を経て、カナンの地を征服し、神様によって安住の地が与えられてから長い年月が流れた時のことが記されています。
ヨシュアは老人となり、イスラエルの全部族をシケムに集め、指導的な立場にある人達(長老、裁判人など)を呼び寄せました(23:1)。そして彼らに、イスラエル十二部族が一つの民として、どのように神様と共に歩むべきかを語り、大切なことは、これ迄自分達を選び、約束の土地へ導き入れた神、主を畏れ、主をのみ礼拝し、主にのみ仕えることを告げたのでした。
*「わたしとわたしの家は主に仕えます。」(15節)
このことは、単に「わたし」だけでなく、「わたしと私の家(家族)が主に仕える」ことを誓い(契約)、自分達の信仰を確かなものとすることです。イスラエルの人々が、民族として一致して神様に従う、その取り組みがいかに大切であり、緊急な課題であるかを自覚しなければなりませんでした。この、ヨシュアの告白は、イスラエルの人々全体にも共通する告白にならなければなりませんでした。
*「もし主に仕えたくなく、先祖の神々でも土地の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(15節)。
このようにヨシュアから言われた民たちは、「数々の大きな奇跡を行い、行く先々で、又、通って来たすべての中で、私達を守って下さった方こそ、わたしたちの神です。」と告白しました(16節)。(21節・24節でも繰り返し)。
イスラエルは、神様の選び(参照:申命記7:6~8)によって特別な関係にあり、「律法」に従い、神の民としての教育を受ける必要がありました(同上6:6~9)。この教育によりイスラエルの民(ユダヤ人)は、信仰の継承によって、歴史における迫害・苦難をくぐり抜けて来られたのでしょう。
*信仰の継承
現代を生きる私達にとっても信仰の継承は深刻な問題になっています。核家族化が進み、家族の長となる者の価値観の違いなどから親から子供への信仰の継承がむつかしくなっています。イスラエルに於いても、「律法」をしっかりと学んでいるはずなのに・・一方では、異教の神々や他に目を向けてしまう弱い部分があり、彼らがその度ごとに、本来の信仰に立ち返り、神様からの赦しを受けていることも記されています。「主を捨てて他の神々に仕えるならば、一転して災いをくだし、滅ぼされる」と20節には神様の警告も語られます。私達も神様から与えられた子供・友人・知人・地域の人達に神様の言葉を伝えて、共に礼拝していかなければ、生きた、真(まこと)の神様のことを伝える者がいなくなり、滅んでしまうことを再認識する必要があると思います。
*「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(6:51)」
本日の、イエス様のこの言葉に対して、多くの弟子達が、「こんな話を聞いていられようか。」とつぶやくのに気づかれたイエス様は、「霊」について教えられました。「命を与えるのは『霊』である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
*信仰
信仰は、肉体の力(目や耳や身体の器官他)を通してではなく、神様の霊(聖霊)によらなければイエス様を信じる信仰を持つことが出来ません(参照:Ⅰコリント12:3)。今週一週間、私達が行う全てのことが、神様の霊に導かれての歩みになるよう、その歩みを始めて参りましょう。