2019年10月6日・世界宣教の日の説教要旨

イザヤ60:1-2・コロサイ1:17-23 

「世界中に伝えられている福音」     佐藤 義子

*はじめに

本日は、「世界宣教の日」(日本基督教団・10月第一日曜日)です。福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス様の遺言でもあり、マタイ福音書の最後に、イエス様の語られた言葉が記されています。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 この言葉は、「大宣教命令」と呼ばれ、教会はこの言葉と共に歩みを続けていると言っても過言ではありません。教会の使命は伝道です。クリスチャンの使命も伝道です。誰に伝道するのでしょうか。聖書で語り伝えている神様もイエス様も知らない方達にです。家族、親族、友人、知人にとどまらず、神学校に導かれ牧師として、全く知らなかった地域で伝道している方々も多く、さらに、キリスト教主義の学校・病院・施設・幼稚園・保育園などで働きながら伝道している方々も多くおられます。(文書伝道・ラジオ伝道・インターネット伝道もあります)。

*世界宣教

目を国内から海外に向けて宣教師として伝道されている方々も多くおられます。私達日本人は「宣教師」という母国から海外伝道に派遣された方々によって福音を伝えられ、今や「イエス・キリスト」の名を聞いたことがないという人はいなくなり、迫害もなく、この山田の地でもこうして礼拝が捧げられていることは本当に感謝なことです。現在日本基督教団では、14ヵ国に20人の方々を派遣しており、子供も一緒の家族での派遣も、又、単身で赴任される方々もおられます。仙台南伝道所では、以前、聖書翻訳宣教師として働かれた虎川宣教師と、インディアン伝道をされているアメリカからウェイド宣教師をお迎えして説教を伺い、その内容は伝道所の「説教集」に収録されていますので、再び読まれることをお勧めします。

 *コロサイ書1章23節

本日の聖書の23節後半に、「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました」とあります。パウロが仕えた福音こそ、私達が教会で聞いて、信じて、今も、依って立つ信仰の基盤です。

 *信仰の基盤

  今日お読みした聖書の少し前の14節から、少し先の2章12節の間に、重要な言葉が五つ出てきます。①「罪の赦し」(14節)②「御子は教会の頭(かしら)」(18節)③「十字架の血」(20節)④「神との和解」(同)⑤「私達の復活」(2:12)。この5つの言葉をつなげますと、以下のような福音、私達が聞いて信じた福音の内容が明らかにされています。

*福音の内容

私達は、かつては神様から遠く離れ、闇の力の支配下に置かれており、神様から離れている(=罪)ことさえ意識していませんでした。しかし神様は私達を愛するゆえに、御子イエス様を遣わして下さり、私達が神様から離れて生きてきたそれ迄の「」を、イエス様が流された「十字架の血潮」(=罪のあがない)によって「赦し」て下さり、それによって「神様と私達との和解」がもたらされました。この福音を信じる信仰によって私達はバプテスマを授けていただき、それによって罪の中で生きてきた古い自分がイエス様と共に葬られ(死んで)、イエス様と共に「新しい自分へと復活」させていただき(=闇の支配の領域からキリストが支配される領域に移された)、「救いの恵み」が与えられました。「御子イエス様は、教会の頭(かしら)」であり、教会(=信仰告白共同体)は、イエス・キリストの体です(コロサイ書1:18節 / エフェソ書1:23)。

*正しい信仰とそうでない信仰

 パウロの時代には、違う福音理解を持ち込む危険な指導者達がいました。それゆえパウロは23節で、「揺らぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と記します。私達も聖書から、教会から、離れることなく、聞いて信じた福音に堅く立ち、伝道のために用いていただきたいと願うものです。

2019年9月1日の説教要旨

列王記下5:9-16・ロマ書6:1-14

「キリストに結ばれた『恵み』」      平賀真理子

*はじめに(前回8/4の礼拝説教のまとめ)

 前回招かれた礼拝(8/4)の説教では、ガラテヤ書3章26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」を中心にお話ししました。キリスト教会が果たすべき役割は「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることですが、パウロは手紙の読者である教会員も「神の子」と言えると主張しているのです。その根拠について、次の27節で「洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と続いて述べています。「キリストを着ている」教会員は、キリストの救いの恵み、人間を救いたいという「神の愛」を身にまとうことを許され、イエス様と同じように「神の子」と呼ばれ得るという大変大きな恵みが語られている箇所です。

*「洗礼」は聖霊(神様の霊)の導きを受けた証し

教会員は洗礼を受けた者です。洗礼を受ける前には、イエス様を自分の救い主と信仰告白しました。多くの信仰者は、そこに至るまでに(精神的または霊的に)格闘したと感じておられると思いますが、パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない(Ⅰコリ12:3)」と述べています。人間は自分の人生は自分で勝ち取ったと思いたがりますが、「何か自分でない者に導かれた」と後で気づく経験がある方も多いでしょう。「洗礼」「信仰告白」という主の救いに与る恵みを受ける経験は、実は、私達の人生に神様が働いてくださった証しでもあります。

*パウロが教会員に伝えたい「洗礼の意味」

パウロは、今日の新約聖書箇所ロマ書6章3節で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」とローマの教会員に教えています。ここには、そのような意味を理解せずに、洗礼後も、それ以前の罪多き生活を変えようとしない教会員がいたことを暗示していると読み取れます。

 「洗礼」の本当の意味、それは、この世の罪に染まった自分、神様に近づけない自分を霊的に死なせることです。教会員は「洗礼の恵みの源は主の死であり、自分も共に死ぬ定めを負った」ことを忘れてはなりません。勿論、決して罪を犯されなかったイエス様は、人間の罪を贖う意味で死の定めを負ったわけで、各々の教会員は、イエス様を死に追いやった自分を、受洗時に一度死に追いやる覚悟が求められたことを想起せねばなりません。そうして、死という定めを主と共にするからこそ、復活の主と同じ定め、即ち、永遠の命という新たな生が始まると自覚したいものです。人は苦悩は受け取らず、恵みだけを欲しがりますが、これも「罪」の様相の一つです。主の恵みを自覚した者は、昔の罪の生活を続けることはできないはずです。

*洗礼を受けた教会員は「罪の支配下」ではなく、「恵みの支配下」にいる

 ところが、今日の新約聖書箇所の冒頭やその直後には、パウロの教えまで曲解して、以前の自分、罪に染まった自分を変えようとしない教会員がいたことが記されています。人間の罪は何と根深いのでしょう!手紙で、パウロが何度も教えているように、洗礼を受けたという「神様主体の出来事」を身に受けた者は、本人の自覚の有無にかかわらず、もう既に恵みの下にいるのです。それは霊的に厳然たる事実です!そのことに気づかないのは、実にもったいないことです。この世の人間としての私達は、時間的にもエネルギーの上でも有限だからです。この世にいる間に罪の自分を霊的に死なせた上で、その後は「神の民」として、この世とは違う次元での命をもって生かされていることを、私達教会員が自覚して生きるならば、その言動は主の恵みの証しとなって、主の福音伝道に用いられるのです。

*主の救いの素晴らしさを本当に知る者は、その証し人となる

今日の旧約聖書箇所では、異邦人ナアマン将軍が自分の皮膚病を癒されて「イスラエルの神」の力を知り、信仰に導かれたとあります。主の預言者が伝えた御言葉に従い、神が「聖」と定めたヨルダン川で、水の清めを受けたナアマンが、主なる神様の力の偉大さを知って、信仰告白へと導かれました。私達も、洗礼を通して、イエス様と同じ定めである「死と復活」を霊的に再現するように神様に導かれ、今は「神の子」と呼ばれる恵みを得ていることを再び思い起こしましょう。主の自己犠牲の愛を受けた私達は、今度は、自分を主なる神様に献げる番です。主の恵みの下で生きる素晴らしさを自分の体による言動で証しできるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

2019年8月4日の説教要旨

創世記3:20-24・ガラテヤ書3-23-29

「キリストを着ている」      平賀真理子

*はじめに

 福音書に書かれていて、キリスト教会が果たすべき役割は、「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることです。しかし、今日の新約聖書箇所であるガラテヤ書3:26に「あなたがたは、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」とあります。イエス様を救い主と信じる者が「神の子」であると宣言されています。「神の子」がイエス様だけでなく、私達信仰者一人一人も「神の子」と呼ばれ得るのだと言われていることに驚かされるのではないでしょうか。

*ガラテヤ書の著者パウロが直面した問題

この手紙が書かれた頃、著者パウロが悩まされた問題は、自分が去った後にガラテヤの信徒の群れに、ユダヤ人キリスト者(元々はユダヤ教徒で、後にキリスト教徒となった者)が入り込み、ユダヤ教の「律法」をユダヤ人でないキリスト者「異邦人キリスト者」にも守らせようとしたことです。彼らは当時のユダヤ教が教えていた「律法を実行するかしないかで信仰者を評価する」という方法を、キリスト教会にも持ち込もうとしました。異邦人伝道こそ自分の使命だと確信していたパウロは、その「律法」については「主の十字架と復活がもはや成し遂げられた後なので、『律法』の実行を要求される必要はない」と考えていました。しかし、パウロが去った後の教会では、ユダヤ人キリスト者の教えが広がりつつあり、パウロはそれを問題視したのです。パウロは「律法の実行から神の民が解放されたのは、救い主イエス様の救いの恵みである」と再び教えようとしています。

*現代のキリスト教会にもある問題

パウロの時代から約2000年経った現代では、「律法の実行」からは解放されていますから、パウロの方針は正しかったと歴史が証明しています。ただ、似たような問題が、現代の教会にも実際にあると言えると思います。一つは、福音よりも、福音に出会う前の基準(自分が慣れ親しんだ基準)を重要視する傾向です。世間の常識などに苦しんだにもかかわらず、主を見上げることを忘れると、私たちは元の考え方に囚われてしまいがちです。

もう一つは、「信仰」を目で見える形で評価しようとする傾向です。奉仕などは特にそうなりがちです。神様の前に祈り求めて与えられたものだから奉仕するのが本来の姿ですが、他人から評価されたいという思いから奉仕を行うのは、先のユダヤ人キリスト者と同じ罪を犯していることになります。神様の目よりも、周りの人間の目、または自分自身の思いを第一に据えるという罪です。

*「養育係」である律法から「救い主」の福音へ

 今日の新約聖書箇所に戻ると、パウロは「律法」を全く否定しているわけではなく、「律法」によって、人間は、神様の御言葉を守れない自分を認識させられると捉えているとわかります。それで、パウロは「律法」を「養育係」と表現しました。「養育係」と「救い主」の相違点は、前者が人間を裁くことはできでも罪から解放することはできないのに対し、後者は「罪の赦し」を人間に授ける権能がある点です。「救い主」だけが、人間の罪を赦し、そこから解放してくださることができるのです。イエス様は、私達人間の罪の贖いである十字架を成し遂げ、それを父なる神様も祝福して「復活」という栄誉を賜ったばかりでなく、そのことを救いの御業と信じる者にはすべて、罪赦されて「神の子」とされる恵みまでくださるのです。

*洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリストを着ているゆえに「神の子」

パウロは、信徒の群れに「あなたがたは神の子」と言える根拠を、「律法を実行したから」ではなく、「洗礼を受けて、キリストに結ばれ、キリストを着ているから」(27節)と記しました。「イエス様は私の救い主です」と信仰告白して洗礼を受けられるのは、神様主導の選びと大いなる愛によって、その人が聖霊に導かれた結果です。元は罪ある身で生まれた者を、洗礼後は、キリストの愛と赦しが覆ってくださることを「キリストを着ている」と例え、それゆえに、罪ある人間が「神の子」と呼ばれることが許されるという恵みが語られています。

*「永遠の命」への道

今日の旧約聖書の箇所に関連して表現するならば、罪に陥って「神様の用意してくださった園」から追放された人間は、神様から「永遠に生きる者となってはいけない」と「永遠の命」の木の実に至る道をふさがれました。そのふさがれた道を通れるようにしてくださったのが、イエス様の十字架と復活の御業です。私達信仰者は「キリストを着ている」ゆえに「永遠の命に至る道」を通れるのです!

2019年6月9日ペンテコステ・仙台南伝道所15周年記念感謝礼拝の説教要旨

エレミヤ書14:11-14・マタイ福音書7:15-20

「良い木が良い実を結ぶ」   佐々木 哲夫

 

*滅亡の危機を目前にして 

聖書の民イスラエルは、歴史の中で国家存亡の危機を3度経験しています。1度目は、紀元前8世紀、アッシリア帝国によって北王国イスラエルが滅ぼされた時、2度目は、紀元前6世紀、新バビロニア帝国によって南王国ユダがバビロンに捕囚された時、3度目は、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された時です。ユダヤ人は、危機的な時代を神の言葉を礎(いしずえ)に生きました。本日の聖書は、2度目の危機の時代の預言者エレミヤの言葉と 3度目の危機を目前にした時代の イエスキリストの言葉です。

 *預言者の使命

預言者と呼ばれる人物は二重の使命を担っておりました。使命の第一は文字通り、神から預かった言葉を民に伝える働きです。時代は、新バビロニア帝国によって祖国が滅ぼされる危機的状況です。民の心は激しく揺れ動き、生きる方向を神の言葉に求めます。

その時、神からエレミヤに与えられた言葉が、11節 「主はわたしに言われた。『この民のために祈り、幸いを求めてはならない。…わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。』」でした。

なんと、国が滅ぼされると語るよう示されたのです。しかし、すでに、神はエレミヤに、預言を告げる根拠を示しておりました。「わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。」(11章 7節- 8節)。 神の言葉とはいえ、民の心は、戦争や滅亡ではなく平和や現状維持を求めます。民たちは、滅亡を預言するエレミヤにではなく、『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』(14章13節)と語る偽預言者の言葉に傾きます。

 *「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」

15年ほど前のことになりますが、当時の奉職先の学長先生が学長職を退任されるという時に、学長室に置いておられた数多くの名画の複製の中から、宗教部長を拝命していた私に一枚の絵をくださいました。複製といっても横60cm縦80cmという大きさの額縁に入っているもので、オランダの画家レンブラントが描いたエレミヤの絵です。光と陰の魔術師と呼ばれたバロック絵画の巨匠レンブラントが、預言者エレミヤを描いた名画です。絵の題名は「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」です。

自分の預言を信じてもらえない晩年の預言者が、体を横にして頬杖をついて、自らの想いの中に静かに浸っている姿が暗闇の中の光に浮かぶような構図で描かれている名作です。なぜ学長先生は、数あるお持ちの絵の中からこの一点を選んで私にくださったのだろうかとしばし考えさせられました。「君の悩みは預言者エレミヤの悩みの足元にも及ばないものだから忍耐が肝要」ということを教えようとしたのだという 勝手な自己解釈の学びをして納得したのでした。

 *二つ目の使命

  さて預言者が担っていた二つ目の使命は、民と神との関係を執(と)り成(な)すという務めです。預言の告知が、裁きを告げる義の業であるならば、執り成しは、救いをもたらす愛の業です。相反する義と愛の務めの狭間(はざま)で、エレミヤは「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく・・」と神に訴えています。

神の答えは、「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。」(14節)という厳しいものでした。

 *預言者イエス・キリスト

エレミヤから400年ほど後の時代になります。イエス・キリストの時代です。イエス・キリストは、三つの職務を担ったと教えられています。預言者(申命記18:14-22)としての務め、祭司(詩篇110:1-4)としての務め、(詩篇2)としての務めの三つです。本日の新約聖書の箇所は、預言者としてのイエス・キリストの言葉です。特に、18節に注目したいと思います。

良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない

イエス・キリストが弟子たちや群衆に語っている場面です。比喩を用いての表現です。この「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」の言葉に関し、宗教改革者のマルチン・ルターが次のように解説しております。

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正しい行いが 正しい人を作るのではなく、正しい人が正しい行いをする。

悪い行いが悪い人を作るのではなく、悪い人が悪い行いを生ずる。

どんな場合でも、良い行いに先立って人格が正しくなければならない。

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<木>自体が、重要だというのです。例えば「地の塩」と賞賛される行い、「世の光」と言われる行為が、その人を地の塩や世の光にするのではないのです。では、実ではなく木であるというならば、何をもって「良い木」となりうるのか。それが問題です。

 *本物と偽物

28歳の時に、私は新米の主任牧師として小さな教会に派遣されました。ある日、教会の信者さんで、はり灸治療院の先生をしておられた年配の方から「本物の宗教と偽物の宗教を、簡単に私にも判断できる方法を教えてください」と質問されました。目の不自由な方との会話では沈黙は良くないと教えられておりましたので「えー」とか「んー」とか とにかく声を出しながら考えていましたら、「私はこんなふうに考えます」というのです。聞いてみました。

「信者さんにお金を出すように要求する宗教は偽物で、逆に信者さんが自由に自主的に献金を捧げる宗教が本物だと考えますが、それで良いでしょうか」と言いました。なるほど、と教えられました。おかげで、その判別方法に今でも頷(うなず)くことがあります。               

羊の皮を身にまとってはいるが、内側が貪欲(どんよく)な狼は偽物です。外側の姿形や行いではなく、内側の存在が問題なのです。内側がどうあるべきかと考えさせられます。

答えの一つは、内側の自分が何をロールモデル(手本)にしているかであると考えます。外側に見えるところの行いではなく、内側の自分が何を信じて、この世で生きてゆこうとしているのかが大事だと考えます。ルターは、次のようにも解説しています。

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信仰は、その人を正しいものにすると同時に良い行いをも作り出す。

行いは、その人を正しいものにするものではないので、人は、行いをなす前に、まず正しいものとならねばならない。

信仰は、キリストとその言葉によって人を正しいものにするという恵みの祝福において、十分なものである。(『基督者(きりすとしゃ)の自由』36ページ)

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見える行いではなく、内側の自分が有する信仰が優先するというのです。

 *教会の時代

私たちは、預言者の時代でなく、イエスキリストが直接語った時代でもなく、教会の時代、すなわち、聖霊降臨(ペンテコステ)に始まった教会の時代に生きております。教会の時代は、聖書の言葉に聞き従って実を結ぶ時代です。使徒パウロは、テサロニケの信徒への手紙の中で次のように語っています。

 「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(2:13)

 仙台南伝道所は、開設15周年を迎えました。それは、神の言葉に連なっての15年であり、これからも継続する歩みでもあります。 そのことを感謝しつつ再認識したいと思います。 (文責:佐藤義子)

2019年6月2日の説教要旨

詩編62:8-9・フィリピ3:10-4:1

        「私達の目指すゴール」   佐藤 義子

*はじめに

フィリピ書は、パウロがローマの監獄に囚われていた時に書かれた獄中書簡と言われる手紙の一つです。イエス様が神の御子であり、私達を罪の支配から救い出すために十字架の死を引き受けられ、その後、神によって三日目に復活され、「聖霊降臨と再臨」の約束を弟子達に与えて昇天されました。今も私達に聖霊を送り続けて下さっています。この「福音」を、正しく宣べ伝えていくためには、いつの時代でも困難が伴ないます。が、パウロは私達の想像をはるかに越えた大きないくつもの困難の中で、伝道旅行を続け、教会をたて上げていきました。そしてそれらの教会の信徒達を心から愛し、育て、旅行先から、又、監獄からも手紙を書き、信仰を与えられたすべての人達が、信仰に堅く立って生きるように励ましました。

 フィリピ書は、フィリピの教会の信徒達に送られた手紙ですが、時代と場所を越えて全てのクリスチャン達に、そして私達にも届けられた手紙として、送り主であるパウロの熱い思いを感じながら読みたいと思います。

*クリスチャンの目指すもの 

私達は、信仰が与えられ洗礼を受けてクリスチャンになった時、それはとても大きな大きな恵みの出来事であるゆえに、そこで何かを達成したような(もう、これで安心!)「誘惑」に襲われることがあります。けれども、今日の聖書では、クリスチャンには達すべき目標・ゴールがあり、すでに伝道者として歩んでいたパウロさえ、まだ達していないと告白しています。「わたしは何とかして、そのゴールに達したい。神様がお与えになる賞を得るために、そのゴールを目指してひたすら走る」と言っています。そのゴールとは、「死者の中からの復活」(11節)です。

*「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」(20節-21節)

すべてのことには初めがあり終りがあるように、この地上での私達の世界は「終末と再臨」が来ることをイエス様は語り、約束されました。その時には、信じる者は、天に属する霊の身体(復活体)が与えられることをパウロは、「Ⅰコリント書15:35-」でも丁寧に記しています。

*「キリストとその復活の力とを知り」(10節)

神様の力がどれ程のものかは私達の想像を越えています。この世界を、昼と夜に分け、大空と海と地に分け、地上には植物を、天には太陽と月と星を、海には魚を、空には鳥を、地には動物を、そしてこれらすべてを管理する者として人間を創られました。この神様の測り知ることの出来ない創造の力は、イエス様を死から命へと復活させた力にも現れました。「キリストとその復活の力とを知り」とあるように、クリスチャンは、この神様の絶大な力を知ることがゆるされています。ところで、私達は神様を過小評価していないでしょうか。天使ガブリエルはマリアに、「神に出来ないことは何一つない」と宣言されました。私達は、主イエス・キリストについてさらに深く知ると同時に、神様がイエス様を復活させた、その「復活の力」を知らされつつ、ゴールに向かって走り続けていますが、その道程において、イエス様の苦しみにも与(あずか)ります。

*「キリストの苦しみに与り

信仰を与えられると、愛する家族や親族、友人達に救いの喜びや神様の恵み、平安の中で過ごす素晴らしさを知って欲しいと願うようになります。しかし、イエス様のご受難に比べれば、はるかに小さいとは言え、私達の伝道も又、多くの困難や試練の中に置かれます。時に孤立し、無理解、誤解、偏見もあります。神様を知るがゆえの社会の不正や罪との戦いもあります。私達は、クリスチャンとして生きる大きな恵みの中で、イエス様の苦しみにも与る(つながる・連帯する)のです。「イエスの名の為に辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5:41)ます。

*「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走る

「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」(Ⅰコリント11:1)。この呼びかけに応えたいと願います。

2019年5月5日の説教要旨

詩編118:5-9・Ⅱコリント12:1-10

「神の力は弱さの中で現れる」   佐藤 義子

*はじめに

今年度から、毎月第一日曜日は新約聖書のパウロの手紙を読んでいくことになり、本日はコリントの手紙からご一緒に学びたいと思います。

 私達は、2週間前の4月21日にイエス様の復活を記念するイースター礼拝をおささげしましたが、それから50日後にあたる来月の9日に教会の誕生日と言われている聖霊降臨日の(ペンテコステ)礼拝をささげます。イエス様が生前、弟子達に約束された聖霊が この日 弟子達に降り、聖霊に導かれて語られた説教を聞いた多くの人々がイエス・キリストを神の子・救い主と信じてバプテスマ(洗礼)を受け、教会が生まれました。

世界地図から見れば、小さなパレスチナ地方の都市、エルサレムから始まった教会は、2000年後の今日、全世界の各地に建てられ、今も絶えることなく、イエス様が神の御子・救い主であることを宣べ伝えております。そして、日本の、宮城県の、仙台の、山田の地にも教会は誕生し、こうして毎週、福音を聞き礼拝を捧げられる幸せを神様に感謝しております。

*コリントの信徒への手紙

本日の聖書は、使徒パウロと呼ばれる伝道者がコリントの教会の信徒達に宛てた手紙で紀元55年前後に書かれたと言われます。パウロはイエス様の直弟子ではなく、初めは熱心なユダヤ教徒でした。生前のイエス様に出会っておらず、キリスト教徒を目のかたきに迫害していたある日、突然天からの光に照らされ、地面に倒され、天からイエス様の声を聞くという体験をしました。その時以来、彼は180度転換してキリスト教に改宗し、さらにはキリスト教の伝道者になりました。それだけでなく、それ迄キリスト教の伝道対象はユダヤ人に限られていましたが、パウロは当時交際を禁じられていた異邦人(ユダヤ人以外の外国人)への伝道にまで広げて、弟子と共に外国への宣教旅行を行い、本日の手紙の宛先でもあるコリントの教会など、いくつかの教会を立ち上げていきました。聖書の後ろの地図(7番-9番)を見ると、彼の伝道範囲を見ることが出来ます。

*宣教旅行

パウロの宣教は、一年とか二年とか、時には三年かけて教会の基盤が出来ると、次の宣教地へ旅立ち、又そこで伝道して教会の基盤を作っていきました。パウロが去ったあとは(不定期にですが)巡回伝道者達が集会を訪問しては御言葉を語り、信徒達を励ましていたようです(使徒言行録18:23-参照)。パウロは自分達が立ち上げた教会については、愛と責任をもってかかわり続けました。教会が正しく宣教の使命を果たし続けられるように、又、信徒達の信仰が成長していけるように、時に応じて手紙を書き、励まし、助言し、その後も再び訪問し自分が行かれない場合には弟子のテモテやテトスを遣わしたりして支え続けました。

*コリントの教会

コリントはギリシャの重要な商業都市であり、二つの大きな港を持ち、東西貿易の中継地でした。しかもローマを始め、ギリシャ、パレスチナ、エジプトなどからの植民も多く国際都市のようでした。教会はその地域に住む民族、伝統、文化などの影響を受けます。パウロはここで1年半滞在してコリント教会を立ち上げ導きましたが、コリントの文化の影響を受けた人達が集まることで教会の中ではいくつか問題が起こりました(第一:5:1-参照)。しかし本日の聖書は、それ迄の内部の問題とは異なり外部から来た人達によって起こされた問題が背景にありました。(第二10-11章参照)。パウロとコリント教会の信徒達は、深い愛と信頼関係で固く結ばれていましたが、ある巡回伝道者達がコリント教会を訪問し、その滞在中、パウロとコリント教会のつながりを切ろうとしたのです。外部からの人達はパウロのことを快く思っていなかったので、パウロが「使徒」であることを疑問視して非難中傷を始めました。彼らはエルサレム教会の指導者達(イエス様の直弟子のペテロやヤコブなど)を高く評価し、直弟子たちの体験(マタイ17章:イエス様の変貌)などを引き合いに出して、パウロの使徒職の資格や正統性を問題にしました。

*パウロの対応

彼らはパウロの「使徒としての権威」を認めなかっただけではなく、パウロが語った福音までも否定する言動があり(11:4-参照)、信徒達の中に動揺が広がりました。それを知ったパウロは、この状況を教会の危機、信徒達の信仰の危機ととらえ、自分が使徒であることの正当性と、伝えた福音の正統性を語り、信徒達が最初の信仰に立ち返り、正しい信仰に堅くとどまるようにこの手紙を書いています。パウロには、何のやましいこともなく清廉潔白でしたから、パウロだけが非難されるなら忍耐したでしょう。しかしパウロの宣教者の資格、および語る内容そのものの権威を失墜させ、すべての信頼を失わせようとするような、伝道の根幹をゆさぶる行為を見逃すことは出来ず、この戦いに負けるわけにはいきませんでした。

*「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と啓示して下さった事について語りましょう。」(12章1節) 

誇るとは自慢することです。パウロは「誇っても無益」と言っていますので、無益なことはしたくなかったでしょう。しかしここでパウロが誇らざるを得ないと考えたのは、自分の使徒職の権威は神様から与えられている確信を今一度明らかにせねばならず、自分の体験を語らざるを得ないと考えました。パウロが語ったのは二つのこと、「幻」と「啓示」です。

「幻」は実在しないのにその姿が実在するように見えるものです。

「啓示」は、私達人間の知恵や知識では知ることの出来ない隠されているものの覆(おお)いを、神様が取り除いて、その人に表し示して下さることです。

*主が見せて下さった「幻」

2節以下で語られた内容はパウロの実体験であるにもかかわらず、「キリストに結ばれていた一人の人」の話として語ります。パウロは14年前、第三の天(ユダヤ人の天を等級に分ける考え方。4節の楽園・パラダイス)にまで引き上げられ、しかも人が口にするのを許されない言葉を耳にしたのです。このような体験は、自分の努力や力とは一切関係しないゆえに、この幻が、神様から与えられた大きな恵みであることを彼は知っていて、これにより、神様の慰めと励まし、力を受け取りましたが、他者に言うことではなく、パウロ個人の体験としてとどまっておりました。ここでパウロは、自分自身については「弱さ」以外に誇るつもりはないと言っています(5節)。

*「啓示」 

今、教会を混乱させている外部の人達が、パウロの宗教体験の有無を問題にするならば、(本来誇るべきでない)14年前の体験を言わざるを得ないと判断しました。それを語ると同時に、この体験で自分が思い上がらないように「一つのとげ」が与えられ、そのことを通して神様の恵みを知らされたことを伝えます。彼は「とげ」を「自分を痛めつけるためにサタンから送られた使い」と言い、この使いを自分から離れ去らせるように三度も主に願ったとあります。このとげが、パウロの伝道活動を妨げていたのは間違いなく、それゆえサタンの働きと表現したのでしょう。

パウロがささげた三度にわたる祈りは、イエス様のゲッセマネの祈りに近いような、心の底から訴え出た祈りだったと想像します。そしてついに、パウロはこの祈りの応答を受け取ります。

私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。

イエス様は地上でのサタンの働きを知りつつ、それをゆるしておられた上で、パウロに対しては愛をもって、恵み深くあることを伝えられました。とげを伴う肉体の弱さを前提として、それが役立つように(思い上がりを制御する)神様の力は働いていたのです。パウロがこれまで歩んできた苦難(10節:侮辱・窮乏・迫害・行き詰まりの状態など)を通して神様の恵みは絶えることなく、その中で「力」として働いていたのです。

*「わたしは弱い時にこそ強い」(10節)

私達は夜空の星の輝きを「空を見上げない限り」見ることも知ることも出来ません。それと同じように、神様を仰ぎ見ない限り神様の恵みも見ることも知ることも出来ません。恵みとは、それを受けるのに値しない者であるにもかかわらず、神様の愛と赦しが与えられて、日々守られていることです。私達が自分に与えられている 担うべき苦難の中に置かれた時、私達は自分の無力さ・弱さを嘆くのではなく、神様にその苦難を訴える時、神様は私達の弱さを引き受けられたうえで神様の力が働いていることを教えて下さいます。今週も神様を見上げつつ、注がれている恵みを数えながら歩んでいきたいと願っています。

2019年4月7日説教要旨

詩編19:2-15/ Ⅰテサロニケの手紙5:12-22       

「教会形成の原動力」    佐藤 義子

*はじめに
もう、30年も前になりますがイギリスに滞在していた時、ショックを受けたことがあります。それは、都合によりいつも行っている教会ではなく、近くの教会で礼拝を守ろうと計画した時のことでした。前日にその教会の礼拝時間を調べに行ったところ、中に入る庭の木戸には鍵がかけられ、広い柵をぐるりと一周回ってもほかに入口はありませんでした。そこでバスに乗り、近くの他の教会を探そうと試みたのですが、教会らしい建物を 見つけても礼拝している雰囲気はなく、後で知人に尋ねますと、木戸に鍵が掛けられていた教会は現在閉鎖中であること、バスから見つけた教会は、今は図書館になっていること、ほかにもレストランとして使われている教会もあるということでした。古い大きな建物のゆえなのか、教会維持が困難となり、教会が売りに出されるという大変衝撃的な現象が起きているのを知りました。かつては確かに、その場所で礼拝が守られてきた「生きた教会」であったはずなのに、歴史の流れと共に教会が教会でなくなって しまった(=その地域で、神様を礼拝する場所が失われてしまった)姿に、私は大変心が痛みました。


*教会が、教会として、歴史の中で生き続けていくために・・・
教会は本来、この地上が存続する限り、終末の時まで存続していくことを祈りつつ歩むべきと考えています。100年でも1000年でも2000年でも教会が教会であり続けるためには、そこで礼拝をささげているクリスチャンが、「教会は何を根拠として立ち続けているのか」、「宣教すべき内容の中心は何か」、「何があれば教会であり、それがなければ教会でなくなるのか」を正しく知り、理解し、信仰の確信をもって、次世代へと継承し続けていかなければならないと思わされました。 そこで今日は、聖書を通して教会の基盤について、ご一緒に学びたいと思います。

*教会成立の基礎は「聖霊」
教会が地上に成立したのは「ぺンテコステ」の出来事によります。
ペンテコステはイエス様が生前約束されていた「聖霊」が、イエス様の復活の50日後に、弟子達にくだった出来事です。その日3000人の人々が信じてバプテスマ(洗礼)を受けたことにより、キリスト教会では、ペンテコステを教会の誕生日として祝っています(使徒言行録2章を参照)。「聖霊」は、神様から送られてくる霊であり、教会が教会として立ち続けていくためには、この聖霊の導きが不可欠です。教会はイエス・キリストが頭(かしら)(エフェソ4:15)であり、信仰を与えられたキリスト者はキリストの体(Ⅰコリント12:27)として教会を形成しています。そして宣教の実りとして与えられるバプテスマは、聖霊の働きによるものです。「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。」(コリント第一12:3)


*教会の土台はイエス・キリスト
教会の頭であるイエス様は、同時に、教会の土台でもあります。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません」(Ⅰコリント3:11)。 キリストを土台とするとは、以下の信仰の上に立つということです。
① イエス様の受肉=神様の御子が人間として、私達を救うために
この世に誕生された。
② 贖罪=イエス様の十字架によって流された血潮によって、神様が私達の罪を赦して下さった。「キリストは、ご自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)。十字架によって私達の罪が贖(あがな)われた(ゆるされた)。
③ 復活=イエス様の死からの甦(よみがえ)り。「死は勝利に のみ込まれた」(コリント15:54)、「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」(Ⅱテモテ1:10)。死は私達の終りでも絶望でもなく、信じる者には、死に勝利して永遠の命に至る約束が与えられています。

  
*教会の信仰
こういうわけで、教会の信仰は、聖霊の導きと、イエス・キリストの
受肉と贖罪と復活を信じる信仰が中心に在ります。また、教会は、「見える教会」と「見えない教会」から成り立つといわれます。同じ信仰を告白する「信仰告白共同体」とか、「信仰者の群れ」とか言われるのは、見える教会の部分です。

 見えない教会としては、信仰者の国籍は天にあり、信仰者は、主イエス・キリストが救い主として来られる再臨の時を待っている群れでもあるということです。又、教会は、神様によって聖なるものとされている団体であり、この聖性も見えない教会の部分です。

 私達は、旧約時代(BC・キリスト誕生以前)ではなく、救い主イエス様が「既に」この世に来られた時代(AD・主の年・紀元)に生きていますが、「未だ」再臨の時を迎えていません。私達は「既に」と「未だ」という中間時代を生きています。それだからこそ「今や恵みの時、今こそ救いの日」Ⅱコリント6:2)なのです。信じる者が救われる時です。しかし信仰は自分の力で獲得するものではなく、求める者に聖霊が働いて与えられるものです。私達は、愛する家族、友人、知人の救いの為に、聖霊の導きを切に祈り、この今の恵みの時を無駄にすることなく祈り求め続けていきたいと願っています。

 *テサロニケ書から学ぶこと
さて、今日の聖書には、私達の信仰共同体の目指す姿が記されています。この手紙は、パウロがテサロニケの教会の信徒達に宛てて教え勧めている手紙です。12節には、教会のリーダーに対しては愛をもって心から尊敬するようにと教えています。リーダーは常に目を覚まして自分自身と群全体とに気を配らなければなりません。又、罪と戦うように忠告することも時には必要です。又、不安や恐れの念をもって動揺している人がいれば、その弱さを共に担う立場に置かれています。それゆえパウロは、そのような教会の為の働きをする人達に、特別な愛を持つことを望んでいるのです。そして、勧めは以下のように続きます。

 <平和に過ごしなさい> 教会の中が平和であれば、リーダーは心おきなく、教会の仕事が出来ます。教会にとって一番警戒しなければならないことは分裂です。パウロはさらに、怠けている人達を戒め、気落ちしている人を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して忍耐強く接しなさい。悪をもって悪に報いることのないように、お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。と教えています。 
これらは教会の中が教会らしく、いつも平和であるための道しるべのように思います。相手がどうであれ相手の態度に影響されることなく、「すべての人に対して」「いつも」が大原則です。教会に導かれて、イエス様の十字架によって罪が赦された信仰者に向かって、「あなた方にはそれが出来るはず」とのパウロの願いと期待をここに見ます。


*「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ。」
時に実践は困難のようにも思えます。しかし「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」だと言っています。私達の愛する神様が、私に対して、このように生きることを望まれているのです。注目すべきは、「キリスト・イエスにおいて」です。イエス様が私の為に、こんな私の罪が赦されるために十字架で死んで下さった。それ故、私の罪は赦され、神の子とされ、永遠の命をいただき、この地上にいながら、神様のご支配のもとで生かされている。
この現実に目を留める時、私達は救われていることの喜びと、愛されていることへの感謝が内から沸き起こり、いつも共にいて下さる神様への祈りへと向かわせられるのではないでしょうか。信仰生活は「このようにしなさい」ではなく、そのようにさせて下さるお方と結びついているゆえに、そのように生きる道が用意されているのです。
19節「霊の火を消してはいけません」。聖霊の火が消えた時、教会は教会でなくなります。聖霊の火を勢いよく燃え続けていただけるよう共に祈りましょう。21節「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」22節「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」これら、すべての教えは、2019年を信仰者として生きる今の私達に語り続けています。

3月31日の説教要旨 

エレミヤ書31:31-34 ルカ福音書24:36-53

「主の十字架と復活と昇天の証人」平賀真理子牧師

 *はじめに

ルカによる福音書の最終章24章の35節までを振り返りましょう。まず、復活なさったイエス様について、天使の証言「あの方(イエス様)は復活なさった」という「御言葉」がありました。しかし、弟子達の多くは、それだけではすぐには信じられませんでした。次に、復活のイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子達に現れましたが、彼らも弟子でありながら、「復活の主」にすぐには気づけませんでした。主の死で絶望していた彼らに対し、「復活の主」自らが、聖書の御言葉と生前の御自身の教えを思い起こさせ、「主は復活なさった」と二人を導き、希望を与えられました。エルサレムに引き返した彼らは、自分達だけでなく、一番弟子の「シモン・ペトロ」も「復活の主」に出会ったことを知らされました

*今の御自分は「復活の主」だと弟子達に悟らせようとなさるイエス様

神の都エルサレムで、イエス様の弟子達が「主が復活された」と確信を持ち始めたその時、何と当の「復活なさったイエス様」が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶なさったことが36節にあります。これは、かつて、72人の弟子達を福音宣教に派遣する時、イエス様が弟子達にまず、そう挨拶しなさいと教えた御言葉です(ルカ10:5)。主がかつて教えた御言葉を聞いて、弟子達は、この現れた人が「復活したイエス様だ」と悟れるはずだったとも思えます。ところが、彼らはすぐには悟れず、「亡霊だ」と恐れおののき、うろたえ、心に疑いを持っているとイエス様に見抜かれました。ここでイエス様は、人間の亡霊に対する「肉も骨もない」という思い込みを逆手に使い、御自分の今の姿には「肉も骨もある」とお見せになりました。更に、「食べ物を食べる」様子をお見せになり、御自分の今の姿は、人間が今まで見たこともない「復活の主の姿だ」と悟らせようと導かれました。

*神様の出来事を悟らせるために弟子達の心の目を開いた「復活の主」

そして、「モーセの律法と預言者の書と詩編」と表現される「旧約聖書」に書かれたことは、神様から派遣された救い主である御自分のことであり、神様の御計画は必ず実現するとお語りになりました。十字架は人間的な目で見れば敗北に見えても、神様の目では勝利であり、それは神様の御栄光を現わす「復活」につながり、今、「復活の姿」でイエス様が現れたことは、これまで実現してきたことが神様の御計画であることの証明だと説明なさいました。けれども、無限なる神様の出来事を理解する知恵を、有限なる人間は持っていません。主から助けていただかなければ、悟れないのです。それで、イエス様は弟子達の「心の目を開いて」(45節)、自ら、聖書の解き明かしをしてくださったのです。

*罪の赦しを得させる悔い改めがイエス様の御名によって広まる

 旧約聖書は「救い主の受難と死と復活」を預言しているが、そのような父なる神様の御心に従ったイエス・キリストの御名のゆえに、悔い改めた全ての人間の罪の赦しが可能になり、それが世界に確実に広がるのだとイエス様は預言なさいました。同時に、「復活の主」に出会った弟子達こそがイエス・キリストの御名による救いの証人となると預言されました。しかし、そのために、弟子達は、人間的な力を出して頑張る必要はありません。イエス様による救いは、神の都エルサレムにいる弟子達が、父なる神様から与えられると約束されたもの「神の霊=聖霊」を受け取った後に広められるようになるとイエス様は預言なさいました。これは、ルカ福音書の続編である「使徒言行録」の1章―2章に証しされています。そして、約二千年かけて福音が世界に広まった歴史、その中でも特に、時間も距離も離れた私達が、イエス様の御名によって救われた事実を見れば、主の預言が確かに実現していると理解できると思います。

*主の十字架と復活と昇天の意味を知り、主の証人として用いられる
最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!


 最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!

3月24日の説教要旨

詩編34:16-23  ルカ福音書24:28-35

「主の復活③」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、13節の前の見出し「(イエス様が)エマオで現れる」の記事の後半部分です。前回の説教で話した前半部分を思い出しましょう。エルサレムから北西に離れたエマオ村への道中で二人の弟子達が「復活の主に出会った」のですが、もったいないことに、彼らはその御方がイエス様だと気づかないままでした。

*エルサレムの出来事への弟子達の無理解

 「主の十字架」「御遺体の埋葬」「3日目の空(から)の墓」「『イエス様は復活なさった』という天使の証言」等の出来事は、その二人の弟子達にとって、大変衝撃的な体験でした。後の時代の私達は、「だからこそ、神の御子救い主イエス様!」と思えます。本当の神様からの救い主であるイエス様は預言どおり「苦難の僕」として歩み、その極致として「十字架」に付けられたこと、更には、御自分の苦難を前にしても、父なる神様に従う従順さを示したので、未だ誰にも与えられなかった「復活の栄誉」を神様からいただいたことを私達は知っています。ところが、エマオへの道中の弟子達はそうとは知らず、「暗い顔をしていた」(17節)のです。生前のイエス様御自身から「受難と死と復活」について3度も聞いたにもかかわらず、彼らはその本当の意味がわかりませんでした。彼らが特別愚かだったのではなく、「意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できないようにされていた」(18:34)とルカ福音書にはあります。

*神様の御業を理解できない弟子達に助けの手を差し伸べる主

 エルサレムでのイエス様にまつわる一連の出来事は、神様がなさった出来事であって、それは、限界のある人間の理解力だけでは、到底理解できないことです。無限の神様のことを有限である人間が理解するためには、神様側からの助けがなければ無理です。それで、「復活の主」が愛する弟子達の所に自ら来てくださり、落胆した彼らが本当の意味を理解できるように、助けの手を差し伸べてくださったのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(一つ目)「主の御言葉」

 その助けの一つが「主の御言葉」です。旧約聖書にある「主の御言葉」=預言者達の預言、及び、先述のイエス様御自身の預言(受難と死と復活)を「復活の主」(彼らはまだ気づいていませんが)自らが解説してくださったことが、神様の特別な助け(一つ目)なのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(二つ目)=「パン裂き=聖餐式」

 食事の時に、イエス様は、二人の弟子達に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)のです。「すると、二人の心の目が開け、イエスだと分かった」(31節)とあります。「主」がそうなさったと言えるでしょう。同時に、人間的に考えても、彼らが復活の主と気づいたことは説明はできます。祈ってパンを裂くという御様子を見て、彼らは「5千人の給食」(ルカ9:16)や「主の晩餐」(ルカ22:19)での主の御姿を思い起こしたのでしょう。特に、「主の晩餐」で、主は十字架上で裂かれる御自分の肉体を想起させるものとしての「パン」、そして、十字架上で流される血潮を想起させるものとしての「葡萄酒」、これらを味わうことを聖礼典として弟子達が継承するように制定なさいました。この聖礼典、即ち「聖餐式」は、主の十字架だけでなく、主の復活の栄光をも示し、神様の救いの御業の恵みを弟子達が理解するために主が用意なさった助けであると捉えられます。

*「復活の主」との出会いによって、朽ちぬ希望に満たされた弟子達  

ここで、彼らが「復活の主と出会った」と認識した瞬間に、主の御姿は消えたのに、彼らは今度は絶望しなかったことに注目です。彼らは「復活の主」と出会った後は「心が燃えていた」(32節)と自覚し、朽ちぬ希望を得たと感じたのです。それだけでなく、彼らはエルサレムから離れるのを止め、逆に戻りました。180度の方向転換です!更には、一番弟子でありながらイエス様を3度も知らないと否認した、罪深いシモン・ペトロにも「復活の主」が現れてくださった恵みが知らされました。「復活の主に出会った」という弟子達の2つの証言により、「復活の主」が弟子達に現れてくださる恵みが真実だと認識され、弟子達の心は絶望から希望へと変えられました!

3月17日の説教要旨

イザヤ書53:6-12  ルカ福音書24:13-27

「主の復活②」 平賀真理子牧師

*はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、最終章の24章に入っています。最初の段落では、墓に納められたはずのイエス様の御遺体が消えていたという驚きの記述から始まっていました。しかも、直後には、天使達が「主は復活なさった」と告げたこと、その証言が女性信徒達から使徒をはじめとする男性信徒達に告げられたけれども「たわ言」だと思われたことが記されていました。(しかし、この段階では「復活の主」はまだ誰にも現れておらず、「主は復活された」との証言だけが先に存在しています。)

*エルサレムからエマオ村への道中で「復活の主」が顕現なさった!

 この一連の出来事を体験した男性信徒の内の二人が、エマオ村へ向かう道中で経験した出来事の前半が今日の新約聖書箇所です。約二千年前のエマオ村を、今は特定できないそうですが、候補地は3か所ほどあって、3つ共に、エルサレムから北西の方角に十数キロ、もしくは数十キロといった場所のようです。この二人はエルサレムから北西方面へ歩いていたとイメージできます。そして、ついに15節で、復活なさったイエス様が彼らの目の前に顕現なさったことがわかります。

*「復活の主」だと悟れない弟子達

 ところが、イエス様は御自分が復活してこの二人の弟子達に現れていることを、御自身から言い表さず、彼らが話題にしていることについて第三者として質問なさいました。弟子達も「復活の主」に会っていながら、イエス様だとすぐには気づかず、見知らぬ人の質問に答える形で、エルサレムでイエス様を中心に起こったことを語りました。ここで明らかになったのは、彼らはイエス様を「力ある預言者」(19節)、もしくは「イスラエルを解放してくださる御方」(21節)と解釈していたことです。更に、彼らは、ユダヤの指導者達がイエス様を死刑にしようとしたことに対抗できなかった無力感、希望の星「イエス様」を失った失望感、「主が復活した」という仲間の証言への不信感などのマイナスの感情に捕らわれていたことが想像できます。人間的感覚で言えば、最後の拠り所と考えられるご遺体さえ見当たらないのですから、彼らの絶望の度合いは深かったのでしょう。しかし、このような状態の彼らは、主の弟子とは言えません。彼らはあまりにも人間的な解釈に捕らわれていたので、25節で、主は彼らに向かって「物分かりが悪く、心が鈍く、預言(神様からの御言葉)すべてを信じられない者たち」(25節)とおっしゃったのです。

*預言や旧約聖書全体に証しされていた「苦難の僕」の道を歩む救い主

イエス様の弟子である彼らは、主の生前に、神様からの救い主とは「苦難の僕」の道を歩むということを既に学んでいたはずでした(イザヤ書52:13-53:12)。イエス様御自身の御言葉としての「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだ」(26節)は、弟子達にかつての学びを思い出させようという思いが溢れた表現だと思います。そして、この二人の弟子達に、本当の神様から派遣された救い主は、かつての預言者達の預言や旧約聖書に確かに預言されていて、イエス様の歩みそのものだと、再び気づかせようとなさったのです。それは、人間が思い描く「自分の利益や権威だけを欲する王様」のような救い主ではないし、弟子達もそのように誤解するような心構えでは、「復活の主」が目の前に現れても気づけないと示されています。弟子達(後代の弟子である私達を含む)は、救い主の出来事についての考えが主と一致していなければ、出会いの恵みに気づけないのです。

*「復活の主」に気づくために「御言葉」を学び続ける

イエス様の救いの御業の主要な出来事として、主の十字架をもちろん、挙げることができます。それは、私達の罪を、主が代わりに背負ってくださったという意味があるからです。しかし、そこで終わりではありません。その先に、神様がイエス様に栄光を賜った証しとして「主が復活」があります。「復活なさった主」は御自分が受けた「神様からの栄光」を弟子達と分かち合いたいと願って近くに来られるのです。私達は、神様からの御言葉を学び続けて、復活の主に出会う喜びに目覚め続けていたいものです。