2024年3月3日の説教要旨 ヨシュア24:14-24・ヨハネ福音書6:60-71

             「命 の 源」          加藤 秀久牧師

*はじめに

「私は主に仕える」。本日の「あなたたちはだから、主に仕えなさい。」というヨシュアの、この言葉を聞いた時(ヨシュア記24:14)、私はイエス様を信じて私の救い主として受け入れて信じた時のことを想い浮かべましたが、皆さんはどうでしょうか。私は、その時は、まだ神様のことを良く知らずに、ただイエス様を信じ、受け入れたようにも思えます。

*シケムでの契約

本日のヨシュア記には、イスラエルの民がモーセの後継者・ヨシュアによって多くの戦いの日々を経て、カナンの地を征服し、神様によって安住の地が与えられてから長い年月が流れた時のことが記されています。

ヨシュアは老人となり、イスラエルの全部族をシケムに集め、指導的な立場にある人達(長老、裁判人など)を呼び寄せました(23:1)。そして彼らに、イスラエル十二部族が一つの民として、どのように神様と共に歩むべきかを語り、大切なことは、これ迄自分達を選び、約束の土地へ導き入れた神、主を畏れ、主をのみ礼拝し、主にのみ仕えることを告げたのでした。

わたしとわたしの家は主に仕えます。」(15節)

このことは、単に「わたし」だけでなく、「わたしと私の家(家族)が主に仕える」ことを誓い(契約)、自分達の信仰を確かなものとすることです。イスラエルの人々が、民族として一致して神様に従う、その取り組みがいかに大切であり、緊急な課題であるかを自覚しなければなりませんでした。この、ヨシュアの告白は、イスラエルの人々全体にも共通する告白にならなければなりませんでした。

もし主に仕えたくなく、先祖の神々でも土地の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(15節)。

このようにヨシュアから言われた民たちは、「数々の大きな奇跡を行い、行く先々で、又、通って来たすべての中で、私達を守って下さった方こそ、わたしたちの神です。」と告白しました(16節)。(21節・24節でも繰り返し)。

イスラエルは、神様の選び(参照:申命記7:6~8)によって特別な関係にあり、「律法」に従い、神の民としての教育を受ける必要がありました(同上6:6~9)。この教育によりイスラエルの民(ユダヤ人)は、信仰の継承によって、歴史における迫害・苦難をくぐり抜けて来られたのでしょう。

*信仰の継承

現代を生きる私達にとっても信仰の継承は深刻な問題になっています。核家族化が進み、家族の長となる者の価値観の違いなどから親から子供への信仰の継承がむつかしくなっています。イスラエルに於いても、「律法」をしっかりと学んでいるはずなのに・・一方では、異教の神々や他に目を向けてしまう弱い部分があり、彼らがその度ごとに、本来の信仰に立ち返り、神様からの赦しを受けていることも記されています。「主を捨てて他の神々に仕えるならば、一転して災いをくだし、滅ぼされる」と20節には神様の警告も語られます。私達も神様から与えられた子供・友人・知人・地域の人達に神様の言葉を伝えて、共に礼拝していかなければ、生きた、真(まこと)の神様のことを伝える者がいなくなり、滅んでしまうことを再認識する必要があると思います。

わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(6:51)」

本日の、イエス様のこの言葉に対して、多くの弟子達が、「こんな話を聞いていられようか。」とつぶやくのに気づかれたイエス様は、「霊」について教えられました。「命を与えるのは『霊』である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。

*信仰

信仰は、肉体の力(目や耳や身体の器官他)を通してではなく、神様の霊(聖霊)によらなければイエス様を信じる信仰を持つことが出来ません(参照:Ⅰコリント12:3)。今週一週間、私達が行う全てのことが、神様の霊に導かれての歩みになるよう、その歩みを始めて参りましょう。

2023年7月23日の説教要旨 ヨシュア記2:1-14・フィリピ4:1-3

            「女性たちの働き」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 私達の歩みの中で、誰か身近にいる人から助けられ、助けて下さった人の背後に、(その時は分からなくても、後で)神様の働き、神様の支えを感じたことがあるかと思います。私の場合、人生で何か変化が起ころうとしていた時、神様は、その変化を私の思いの中で教えて下さり、同時にそのことが行なわれる為、身近にいる人達を送って、私を神様のご計画された道を歩むように、進めるようにして下さったことを思います。

*モーセの後継者ヨシュア

本日のヨシュア記一章には、モーセが亡くなった後、神様はヨシュアに、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と告げました。神様が約束されたカナンの地に入るために、ヨルダン川を渡った後、最初の攻め込む町がエリコでした。エリコは大きな町でカナン征服の鍵を握っており、この戦いは重要な意味を持っていました。町には、敵の攻め込む隙がないような頑丈な城壁が造られていたので、ヨシュアは前もって注意深く作戦を立て、慎重にエリコの町に入る下準備をしたことが1章に記されています。本日の2章では、一人の女性が登場し、神様の計画が進むために手助けしたことが記されます。

*ラハブという遊女

ヨシュアは町の正確な情報を得るために、二人の斥候(せっこう・偵察隊)を遣わしました。偵察隊は目的を果たす為「ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった」(2:1)。ところがエリコの王に「イスラエルの何者かがこの辺りを探る為忍び込んできた」と告げる者があり、王は人を遣わして、探りに来た者を引き渡せ、とラハブに命じました。しかしラハブは二人をかくまい「その人達は出て行った」と答え、追っ手は二人を求めて捜しに出て行きました。ラハブは二人が寝てしまわない内に、屋上に上って言いました。「神様がこの土地をあなた達に与えられたことで、私達が恐怖に襲われ、住民は皆、おじけづいていることを私は知っている」。さらにラハブは、「イスラエルの民がエジプト脱出後、イスラエルの神が海を干上がらせたり、旅の途中で国々を滅ぼしてきたことを聞き知っているので、エリコでは皆、心は挫けてあなた達に立ち向かう者はいないこと、イスラエルの神こそ、天から地に至るまで神である」と、告白しました。そして「エリコを占領する時、私の一族の命を救って下さい」と頼みました。偵察隊の二人は、「自分達のことを言いふらさないなら、神様がこの土地を我々に与えられる時、あなたに誠意と真実をしめそう」と約束しました。その後ラハブは窓から二人を城壁の外側に綱でつり降ろし、二人を助けました。神様はこのように一人の女性を遣わし、神様のご計画がうまく行くようにして下さったのを見ることができます。

*エポディアとシンティケ

 本日のフィリピ書4:1と少し前で、パウロは自分が愛し、慕い、又、喜びであり冠である教会の人々に、イエス様を信じることは私達の行くべき場所が天国にあること、この今ある生活の中で、どのような状況にあっても神様に信頼を置き、主によってしっかりと立ちなさい(4:1)」と呼びかけています。続く2節でこの二人の名前が登場し「主において同じ思いを抱きなさい」と命じます。彼女達はフィリピ教会の初期メンバーであり、リーダー的な働きをしていたと思われます。何かもめごとが起き、そのことで互いに避けているならば、再びかつてのような関係、神様の福音を宣べ伝える者になれるよう期待しています。3節で「二人は他の協力者逹と力を合わせて、福音の為に私と共に戦ってくれた」と紹介し「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」と教会員にも頼んでいます。その後二人は、神様の道を歩み、前を向いて進んだと思います。なぜならそこには、神様の与えられた道があるからです。 家族や友人のことで、今は私達の心が騒いでいても、いつかは相手を思い合える感情が生まれてくることを信じて、私達は神様に祈り、讃美を続けていく必要があると思います。

今週も皆様の上に、主の豊かな栄光が輝いているようにお祈り致します。

2021年10月3日の説教要旨 ヨシュア記6:1-20・ヘブライ書11:7-22

「信仰による真実」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 アブラハムの時代から神様とイスラエルの民との間には契約が立てられ、契約のしるしとして男子は皆、生まれて8日目に「割礼」を受けました(創世記17章)。しかしエジプトを脱出した時の民は、カナンを目指して荒れ野でさまよい歩く40年の月日の中で死に、今、カナン侵入を目の前にしている人々は、荒れ野で生れた「割礼」を受ける機会がなかった彼らの息子達でした。神様はモーセの後継者となったヨシュアに、契約のしるしである「割礼」を施すように命じられました。神様は、イスラエルの民に与えた「約束の地」でこれからなさろうとしている事を前に、先ず始めに、イスラエルの民の男子を聖めることを命じられました。(ヨシュア記5章)

*主の軍の将軍

彼らが最初に占領する町は、城壁の門を堅く閉ざした「エリコ」という、要塞と呼ぶにふさわしい町でした。ヨシュアがエリコのそばに来ていた時、抜き身の剣を持った主(神)の軍の将軍と出会い、この戦いが主のものであることを示されました(5:13~)この事は、これから起こる全てのことは主の指示に従って歩むことを意味しており、イスラエルの人々が、全知全能の神を再び知ることでもありました。

ヨシュアの前に現れた「抜き身の剣を持った主の軍の将軍」と同じように、私達の前にも、時に、素晴らしく偉大な力強い姿で主は現れて下さり、その圧迫感、圧力の凄さを前に、私達はひざまづき、身をかがめて礼拝をすることが出来ます。私達は毎日、そのための時間を作り、体験しているでしょうか?

*エリコの占領

 神様はヨシュアに、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す(2節)」と言われました。エリコの町はイスラエルの人々の攻撃に備えて、誰も出入りが出来ないように閉ざされていました。イスラエルの人々は、城壁で囲まれた町を攻略するための戦略方法も分かりませんでした。しかしどのような強力なセキュリティー・システムを用いていても、神様は神様を信じる者達に、悪の敵の城壁を打ち破る方法を教えて下さいます。神様は、エリコを攻略する方法を次のように指示されました。「イスラエルの兵士達は皆、エリコの町の周りを一周し、それを六日間続け、七日目には町を七周し、祭司達は角笛を吹き鳴らし、それが聞こえたら民は皆、「鬨(とき)の声」をあげる」でした。ヨシュアは主の命じられた通り、すべてそのように行いました。七日目には町を七周回った後、角笛が吹き鳴らされ、それを聞いた民が鬨(とき)の声をあげると城壁は崩れ落ち、民は町に突入して占領出来たのでした。

*「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」

本日のヘブライ人への手紙11章7-22節では、信仰は霊的な真実の世界を見通すことができ、実際には見えないけれども、それが真実であることを確信することであると告げています。それは神様の約束の実現や、すべてのことを神様に明け渡すことによる神様との信頼関係から与えられるものだと思います。ノアの時代、世界は神様から離れてノアのしていることを馬鹿にしました。信仰に基づく義とは神様の賜物であり、見えない神様の約束を信じる者に与えられるものです。

 アブラハムの信仰は、神様に告げられた言葉だけを信じて、行き先も知らずに出発したことから始まります。

*わたしたち

 私達はどこに神様を求め、神様が存在して下さる場所を作っているでしょうか?私逹が神様を信じ続ける神聖な場所を作る秘訣は、ヨシュア記のエリコの町のように、堅固な城壁を作ることではなく、私達が生活して行く中で、この「聖書」という真実な言葉があり、目には見えず、感じることしか出来ないお方、心に宿る、確かなお方が私達にはいる、在るということです。 

その神様が、私達に、共に声を合わせて、主は全てにおいて勝利されたことを宣言しなさい、と伝えているのです。私達は、今日のこの日に、主が共におられることに感謝して一週間の歩みを進めて参りましょう。

5月20日の説教要旨 「聖霊なる神と共に」 遠藤尚幸先生(東北学院中・高 聖書科教諭)

ヨシュア記1:1-9 使徒言行録2:1-11

 はじめに

私が、この伝道所を離れ、神学校に入学したのは、2009年4月でした。あれから今年で、丸9年の月日が流れました。この9年は、伝道所にとっても、私にとっても一筋縄ではいかない月日だったと言えるでしょう。しかし、この9年という期間は決して、無意味に放り出されてきた期間ではなかったことを思い起こします。それぞれの歩みには いつも、その傍らに、私達の主なる神様が共にいてくださいました。今日は、ペンテコステですので、あえて力を込めて申し上げたいのは聖霊なる神様が共にいてくださったということです

 

聖霊なる神様とは何か

聖霊なる神様とは何か。これは、聖書においては「風」にたとえられます。「風」は目に見えません。しかし、私達は木々が揺れ、その音を聞くときに、その木々を揺らしている「風」の存在があることを知ります。「風」があるからこそ、雲は動き、気候は変動し、季節が生まれます。このように、目に見えない「風」は、実は、私達の生活の何よりも身近で、必要不可欠なものです。「聖霊なる神様」とは、まさにこの「風」のようなものです。目には決して見えないけれども、私達一人一人の命を支え、そして、この伝道所の歩みを昔も今も、これからも支え導くものです。私達の人生そのものもまた、たった一人で、この世界に放り出されているのではありません。風が吹き続けているように、私達一人一人の人生にも、聖霊なる神様が深く関わり続けてくださっているのです。9年間を振り返れば、息切れするような出来事も多くありましたが、今、私達は、今日ペンテコステの日、共にここに集っています。聖霊なる神様は、この日まで確かに私達一人一人を守り導いてくださいました。既に天に召された兄弟姉妹もまた、今、私達よりも確かな仕方で、聖霊なる神様の御手の中で安心して眠りについていることを覚えます。私達は誰一人、神様の御手の中からこぼれ落ちている者はいません。この恵みのうちに、今日という日があるのです。

 

聖霊降臨を待つ

聖霊なる神様の存在が確かにこの地上に現れた日。そのときに、この地上にキリスト教会が誕生しました。ですから、聖霊降臨を祝うこのペンテコステという日は、私達キリスト教会の誕生日でもあります。そのときの光景が、今日与えられた聖書の言葉の中に書かれています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録21)

使徒言行録1章3節-5節で、主イエスは、十字架上で亡くなった後に、御自分が生きておられることを数多くの証拠をもって使徒達に示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話され、こう命じられたとあります。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」4節-5節)

だから、弟子達は、復活の主イエスの約束「父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい」という言葉を聞き、聖霊が自分達に降るときを待ち、祈っていました。主イエスは、その約束の後、復活から40日後、天に昇ります。その後の五旬祭までの10日間、弟子達一人一人がどんな思いで約束された聖霊を待っていたのかは記されていません。しかし、例えば、使徒言行録1:13-14を読むと、「熱心な祈り」がそこにあったことは確かです。ここで言われていた「彼ら」とは、主イエスを裏切ったユダを除く11人の弟子達です。聖書はきちんと弟子達の名前を記しており、このことには感慨深い思いがいたします。しかも、彼らはただ祈っていただけではありません。同じ書(使徒言行録)1章17節以下では、先述のユダ(主イエスを裏切ったために、自らの命を絶った弟子)の役割を引き継ぐための12番目の使徒マティアを選出しています。祈り、自分達のするべきことをし、主イエスの約束を待つ。ここに、私達教会の原型があると言っても過言ではありません。

 

キリスト教会

私達教会も、この10日間の弟子達と似ています。神様の約束されたものを待ち望みながら、そして祈りながら、自らの教会が与えられた役割を担っています。最初の聖霊降臨日後には、十字架を前に逃げ去った弟子達とは思えないような、力強い弟子達の姿があります。しかし、ここで大切なことは、それで教会が教会として建っていくわけではないということです。弟子達がいくら約束されたものを待ち望み、熱心に祈り、するべきことをしたところで、それは単に人間の集まりに過ぎません。

そこには風が吹いていません。命がありません。ですから、過越祭から50日後、聖霊降臨がこの日起こったことは紛れもない教会の誕生日です。弟子達に約束された聖霊が降る。ここから、教会はキリストのからだなる真の教会として建っていくのです。五旬祭の日に、弟子達はエルサレムに集まっていたユダヤ人達の故郷の言葉を話し出します。それは、弟子達の言葉、教会の言葉が、神の言葉として確かに人々に行き渡っていく姿を示しています。私達教会もそうなのです。私達がこの場所で語り続け、解き明かし続ける聖書の言葉が、人々に届かないということはないのです。なぜなら、私達は今、ただ人間的な集まりによって、一つになっているわけではないからです。この群れと共に、聖霊なる神様がいてくださり、この群れには、命の風が今吹いている。

そうであるなら、この教会を通して語り続けられている主イエス・キリストの福音は必ず、人の心に届き、その人を救いに導きます。私もこの教会の語る言葉で福音を聞きました。その証人の一人です。私以外にもいるでしょう。使徒言行録には主イエスが登場しません。主イエスの弟子達、使徒達の姿だけがピックアップされているような印象を受けます。しかし、よく言われるのは、この使徒言行録とは、聖霊なる神様と共に、教会が歩んだ姿を証しするものだということです。聖霊なる神様が共にいるからこそ、教会は教会としてこの地上にあるのです。教会があるところに神様がいるのではありません。聖霊なる神様がいるところに教会がある。ですから私達の教会も、聖霊なる神が今共にいてくださるからこそ、今日ここに教会として存在しているということができるのです。主が必ず、この群れと共にいてくださるのです。

 

 キリストを囲む群れ

先日、日曜日の午後に、この仙台南伝道所を訪れ、仙台に来た挨拶をしました。その日は、仙台南伝道所は平賀牧師を含め礼拝出席者が7名だったということでした。ここ数年の中でも出席者が少ない日曜日で、ちょうどそんな日に私が来たので皆さんが より一層喜んでくださったのでしょう。私は家に帰ってから改めて、最初の弟子達もまた、ガリラヤで召されたシモン・ペトロ、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの4人、そして招いた主イエスだったことを思い出しました。教会は数や規模ではありません。主イエスが真ん中にいてくださり、その周りを囲むように、人々が集まるところ。それが教会です。私達も今日、主イエスが真ん中にいるその教会へと招かれています。私達に聖霊が降ることを約束してくださった主イエスは、私達罪深い者のために、その命を十字架で捨ててくださった御方です。神様に背き続ける私達が、しかし、今や、ひとり子イエス・キリストがその命をささげるほどに愛されているかけがえのない存在とされているのです。今ここに集うすべての人が、この恵みへと招かれています。教会は今あなたにも神の愛が訪れていることを告げ知らせます。その言葉は必ず一人一人の心に届きます。ガリラヤ出身の弟子達の言葉を聞いた人々はこう言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2:11)エルサレムにいたユダヤの人々は、信心深かったのかもしれませんが、キリストを救い主とは考えてもいなかった人々です。しかし、その人々がキリストの十字架と復活を「神の偉大な業」として受け取りました。弟子達の言葉が、単なる人間の言葉ではなく、神の言葉として伝わったのです。私達もまた、この時代、すべての人に、この神の偉大な業である主イエス・キリストの十字架と復活を伝えます。その言葉は、聖霊なる神と共に歩む教会の言葉であるゆえに、神からの愛の言葉として、必ず、人の心に届きます。この9年間の歩みを共に感謝いたしましょう。そして、今日、私達は再び、ここから、聖霊なる神様と共に、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える歩みを始めます。                            以上

10月9日 教会学校と合同礼拝の説教要旨 「聞いて行う人」 牧師 佐藤 義子

ヨシュア記241415 マタイ福音書7:24-27

 はじめに

 今日は神学校日です。毎年10月の第二日曜日は、神学校(牧師になるために聖書を勉強している神学生と教師)のためにお祈りする日です。 私達の伝道所の牧師である真理子先生も私も、聖書の勉強をして牧師になりました。私は高校生の時、いろいろ苦しいことがありましたが、そういう時はいつでも「神様、助けて下さい」とお祈りしました。すると神様は、私が困らないように助けて下さいました。何度もそのように神様が助けて下さるので、神様は私を本当に愛して下さっている、守っていて下さっていることがよくわかりました。それで私は、いつか神様の為に働きたいと思いました。その後、「神学校に行って聖書を勉強したい」と強く思いました。神様を知らない人達に、いっぱい神様のことを伝えたいと思ったからです。

 仙台南伝道所から

 私達の仙台南伝道所から神学校に行った人に遠藤先生がいます。遠藤先生は、この伝道所に通うようになって一年位した頃、神様を信じてクリスチャンになりました。その後、大学を卒業して会社に勤めていましたが、ある時、神学校に行く決心をしました。それは、遠藤先生のお父さんもお母さんも神様のことを知らないので、家族にも神様のことを伝えたいと強く思ったからです。そこで遠藤先生は会社を辞めて神学校に行き、今は群馬県の教会の牧師として、毎週日曜日の礼拝で神様のお話をしています。

 今も、私達の伝道所から神学校に行っているお兄さんがいます。加藤のお兄さんです。加藤のお兄さんは高校生の時、初めて聖書の神様のことを聞き、神様を信じてクリスチャンになりました。そして将来は神様の為に働きたいと考えたそうです。でも、長い間、社会に出て働いていました。五年前の大震災の時、加藤のお兄さんは、津波に遭った人達の家の修復のために、大工さんとして、又、通訳として働きました。その時、遠いアメリカやカナダから来たクリスチャンの大工さん達と一緒に仕事をするうち、外国の大工さん達が、神様のことを日本人に一生懸命伝えている姿を見て、昔、高校生の時、神様のことを伝えたいという気持が再び強く起こり、神学校に行く決心をしたそうです。

 又、今日、一緒に礼拝をしている由子お姉さんも、今、大学で聖書を学び、将来、神様のことを伝えるために準備しています。

 それから今日は、自分の生涯を神様に献げる人達が、多く与えられるように祈る日でもあります。神様のお仕事で一番大切なことは、神様を知らない人達に神様のことを伝えることです。たとえば、家族やお友達を教会に誘うことは、とても大事な仕事の一つです。

  神様はここにおられるすべての方の働きを必要とされています。

  賢い人と愚かな人

  今日の聖書では、賢い人と愚かな人が登場します。二人とも同じような家を建てました。ある時、雨が降ってきました。そのうち大雨になり、風も吹いて暴風となりました。そして川の水が危険水域をこえて溢れてきました。二人の建てた家はどうなったでしょうか。

 愚かな人の家は、雨と風と川の氾濫にあって、倒れてしまいました。けれども、賢い人の家は、雨にも暴風にも川の氾濫にも流されずに、しっかり建ち続けていました。

何が違っていたのでしょうか。見た目は 同じようでしたが「土台」が違っていたのです。倒れた家は砂の上に建ててありました。倒れなかった家は、岩の上に建ててありました。

  このたとえの意味

  この「家」とは、私達が毎日過ごしている私達の人生、私達の毎日の生活の積み重ねです。大雨、暴風、川の氾濫とは、私達が生きていく中で、出会う苦しい出来事、たとえば病気やケガや、失敗や、むつかしい人間関係や、試練とよべるさまざまな出来事のことだと考えられます。最終的には私達が自分の人生を終える時のことも考えられるでしょう。

 このお話でイエス様は、私達が建てている家の土台のことを考えるように教えておられます。あなたの毎日の生活は、土台が「砂」ですか。それとも「岩」ですか。「砂」を土台にしている人とは、イエス様の言葉を聞いても、何もしない人=愚かな人 ですと言っています。

右の耳から聞いて左の耳に抜けて、心には何も残らない人です。それとは反対に「岩」を土台にしている人とは、イエス様の教えを聞いて行う人=賢い人 と言われました。

 私達はみんな、愚かな人ではなく、賢い人になりたいですね。

ところが、私達は時々、イエス様の教えられたことを聞いても実行せず、行なうことはむつかしいと言います。そしてイエス様の教えを守れないのは、みんなもそうだし、人間は弱いから「仕方がない」とよく言います。

 「仕方がある」

 今から40年前に宣教師として盛岡に来たシュレーヤ先生が、盛岡の新聞に、「仕方がある」という題の文を書いています。引用しますと、「多くの方々は『仕方がない』という言葉をよく使います。今から60年前、私がまだ日本に来る前、私の叔父クックは、宣教師として山形に住んでいましたが、彼は日本に来て『仕方がない』という言葉を何度も聞きました。つまり、『体が弱いから仕方がない』『借金があるので仕方がない。』『仕事があんまり難しいので仕方がない』・・・叔父は、こういう言葉を何度も聞かされるので、大変憤慨(ふんがい)して、ある時『仕方がある!』と大きな声で答えたところ、聞いていた方々はみんな大笑いをしました。『仕方がある』という言葉は日本では使われませんが、叔父は、『もし、ほかの方法でやってみたら・・』『あきらめないでやってみたら・・』『必ずできる。心配ない』と、いつもそう思っていました。

 シュレーヤ先生も、クック宣教師と同じような体験をして、おなじように考えていました。どんなことにも理由があると言っています。たとえば、火事で友人宅が燃えた出来事がありました。延焼して古い立派な家はみな燃えてしまいました。でもコンクリートのお店は焼けなかった。火事が延焼したのには「理由があった」と書いています。

 イエス様の教えを聞いて行う人

 イエス様の教えは、高い理想が掲げられているような、それを行うのは無理。出来ないのは仕方がない。と、簡単にあきらめてしまいがちです。「裁いてはいけない」「赦しなさい」とイエス様の教えを聞きながら、私達は出来ない理由や、しようとしない理由をあげて、「仕方がない」「しょうがない」と、自己弁護や自己正当化していないでしょうか。時には、まともに自分のしたことを見つめる勇気がなく、「仕方がない」という言葉に逃げてしまうこともあるように思います。

  行う人になるには・・・

  イエス様は、イエス様の教えを「聞いて行う人」になるように言われます。初めから無理なこと、出来ないことをイエス様は命じられません。必ずできる道が備えられています(開かれています)。

  もしも「本気」で、岩を土台とした家を建てたい、イエス様に従っていきたい、と願い、実践していこうとするならば、その過程(プロセス)の中で、自分が全く、イエス様の教えに従うことが出来ない人間であることを、改めて知らされます。「裁いてはいけません」というイエス様の教えの前に、それを守れない自分を発見します。本気で従おうとやってみるのです。すると自分が考えていた以上に、自分がだめな人間で、御言葉に従い得ない人間であることを発見(心の底から実感)するのです。その時初めて、自分がどんなに神様から遠く離れて生きてきたかを思い知らされます。そこで初めて、神様に自分の心のすべてを明け渡して、い改めの祈りをささげることができるようになるでしょう。

 神様から送られてくる力

 本当の自分の姿を知らされることから、土台作りは始まります。砂ではなく、土を掘っていき、土台とすべき硬い岩盤にぶつかります。その岩こそ、イエス様です。私達は、自分の本当の姿を知らされて、神様に悔い改めの祈りをささげる時、神様から赦されて、今度は、自分の中に自分の力ではない、神様から送られてくる力が働き始めます。すると、今まで許せなかったことを許すことができるようになり、今まで無理だ、仕方がない!と思ってきたことも、宣教師の先生たちのように「仕方がある」という生き方に変えられていくのです。ここにいるすべての人が、岩の上に家を建てる賢い人になれるよう、ご一緒に祈りましょう。