10月9日 教会学校と合同礼拝の説教要旨 「聞いて行う人」 牧師 佐藤 義子

ヨシュア記241415 マタイ福音書7:24-27

 はじめに

 今日は神学校日です。毎年10月の第二日曜日は、神学校(牧師になるために聖書を勉強している神学生と教師)のためにお祈りする日です。 私達の伝道所の牧師である真理子先生も私も、聖書の勉強をして牧師になりました。私は高校生の時、いろいろ苦しいことがありましたが、そういう時はいつでも「神様、助けて下さい」とお祈りしました。すると神様は、私が困らないように助けて下さいました。何度もそのように神様が助けて下さるので、神様は私を本当に愛して下さっている、守っていて下さっていることがよくわかりました。それで私は、いつか神様の為に働きたいと思いました。その後、「神学校に行って聖書を勉強したい」と強く思いました。神様を知らない人達に、いっぱい神様のことを伝えたいと思ったからです。

 仙台南伝道所から

 私達の仙台南伝道所から神学校に行った人に遠藤先生がいます。遠藤先生は、この伝道所に通うようになって一年位した頃、神様を信じてクリスチャンになりました。その後、大学を卒業して会社に勤めていましたが、ある時、神学校に行く決心をしました。それは、遠藤先生のお父さんもお母さんも神様のことを知らないので、家族にも神様のことを伝えたいと強く思ったからです。そこで遠藤先生は会社を辞めて神学校に行き、今は群馬県の教会の牧師として、毎週日曜日の礼拝で神様のお話をしています。

 今も、私達の伝道所から神学校に行っているお兄さんがいます。加藤のお兄さんです。加藤のお兄さんは高校生の時、初めて聖書の神様のことを聞き、神様を信じてクリスチャンになりました。そして将来は神様の為に働きたいと考えたそうです。でも、長い間、社会に出て働いていました。五年前の大震災の時、加藤のお兄さんは、津波に遭った人達の家の修復のために、大工さんとして、又、通訳として働きました。その時、遠いアメリカやカナダから来たクリスチャンの大工さん達と一緒に仕事をするうち、外国の大工さん達が、神様のことを日本人に一生懸命伝えている姿を見て、昔、高校生の時、神様のことを伝えたいという気持が再び強く起こり、神学校に行く決心をしたそうです。

 又、今日、一緒に礼拝をしている由子お姉さんも、今、大学で聖書を学び、将来、神様のことを伝えるために準備しています。

 それから今日は、自分の生涯を神様に献げる人達が、多く与えられるように祈る日でもあります。神様のお仕事で一番大切なことは、神様を知らない人達に神様のことを伝えることです。たとえば、家族やお友達を教会に誘うことは、とても大事な仕事の一つです。

  神様はここにおられるすべての方の働きを必要とされています。

  賢い人と愚かな人

  今日の聖書では、賢い人と愚かな人が登場します。二人とも同じような家を建てました。ある時、雨が降ってきました。そのうち大雨になり、風も吹いて暴風となりました。そして川の水が危険水域をこえて溢れてきました。二人の建てた家はどうなったでしょうか。

 愚かな人の家は、雨と風と川の氾濫にあって、倒れてしまいました。けれども、賢い人の家は、雨にも暴風にも川の氾濫にも流されずに、しっかり建ち続けていました。

何が違っていたのでしょうか。見た目は 同じようでしたが「土台」が違っていたのです。倒れた家は砂の上に建ててありました。倒れなかった家は、岩の上に建ててありました。

  このたとえの意味

  この「家」とは、私達が毎日過ごしている私達の人生、私達の毎日の生活の積み重ねです。大雨、暴風、川の氾濫とは、私達が生きていく中で、出会う苦しい出来事、たとえば病気やケガや、失敗や、むつかしい人間関係や、試練とよべるさまざまな出来事のことだと考えられます。最終的には私達が自分の人生を終える時のことも考えられるでしょう。

 このお話でイエス様は、私達が建てている家の土台のことを考えるように教えておられます。あなたの毎日の生活は、土台が「砂」ですか。それとも「岩」ですか。「砂」を土台にしている人とは、イエス様の言葉を聞いても、何もしない人=愚かな人 ですと言っています。

右の耳から聞いて左の耳に抜けて、心には何も残らない人です。それとは反対に「岩」を土台にしている人とは、イエス様の教えを聞いて行う人=賢い人 と言われました。

 私達はみんな、愚かな人ではなく、賢い人になりたいですね。

ところが、私達は時々、イエス様の教えられたことを聞いても実行せず、行なうことはむつかしいと言います。そしてイエス様の教えを守れないのは、みんなもそうだし、人間は弱いから「仕方がない」とよく言います。

 「仕方がある」

 今から40年前に宣教師として盛岡に来たシュレーヤ先生が、盛岡の新聞に、「仕方がある」という題の文を書いています。引用しますと、「多くの方々は『仕方がない』という言葉をよく使います。今から60年前、私がまだ日本に来る前、私の叔父クックは、宣教師として山形に住んでいましたが、彼は日本に来て『仕方がない』という言葉を何度も聞きました。つまり、『体が弱いから仕方がない』『借金があるので仕方がない。』『仕事があんまり難しいので仕方がない』・・・叔父は、こういう言葉を何度も聞かされるので、大変憤慨(ふんがい)して、ある時『仕方がある!』と大きな声で答えたところ、聞いていた方々はみんな大笑いをしました。『仕方がある』という言葉は日本では使われませんが、叔父は、『もし、ほかの方法でやってみたら・・』『あきらめないでやってみたら・・』『必ずできる。心配ない』と、いつもそう思っていました。

 シュレーヤ先生も、クック宣教師と同じような体験をして、おなじように考えていました。どんなことにも理由があると言っています。たとえば、火事で友人宅が燃えた出来事がありました。延焼して古い立派な家はみな燃えてしまいました。でもコンクリートのお店は焼けなかった。火事が延焼したのには「理由があった」と書いています。

 イエス様の教えを聞いて行う人

 イエス様の教えは、高い理想が掲げられているような、それを行うのは無理。出来ないのは仕方がない。と、簡単にあきらめてしまいがちです。「裁いてはいけない」「赦しなさい」とイエス様の教えを聞きながら、私達は出来ない理由や、しようとしない理由をあげて、「仕方がない」「しょうがない」と、自己弁護や自己正当化していないでしょうか。時には、まともに自分のしたことを見つめる勇気がなく、「仕方がない」という言葉に逃げてしまうこともあるように思います。

  行う人になるには・・・

  イエス様は、イエス様の教えを「聞いて行う人」になるように言われます。初めから無理なこと、出来ないことをイエス様は命じられません。必ずできる道が備えられています(開かれています)。

  もしも「本気」で、岩を土台とした家を建てたい、イエス様に従っていきたい、と願い、実践していこうとするならば、その過程(プロセス)の中で、自分が全く、イエス様の教えに従うことが出来ない人間であることを、改めて知らされます。「裁いてはいけません」というイエス様の教えの前に、それを守れない自分を発見します。本気で従おうとやってみるのです。すると自分が考えていた以上に、自分がだめな人間で、御言葉に従い得ない人間であることを発見(心の底から実感)するのです。その時初めて、自分がどんなに神様から遠く離れて生きてきたかを思い知らされます。そこで初めて、神様に自分の心のすべてを明け渡して、い改めの祈りをささげることができるようになるでしょう。

 神様から送られてくる力

 本当の自分の姿を知らされることから、土台作りは始まります。砂ではなく、土を掘っていき、土台とすべき硬い岩盤にぶつかります。その岩こそ、イエス様です。私達は、自分の本当の姿を知らされて、神様に悔い改めの祈りをささげる時、神様から赦されて、今度は、自分の中に自分の力ではない、神様から送られてくる力が働き始めます。すると、今まで許せなかったことを許すことができるようになり、今まで無理だ、仕方がない!と思ってきたことも、宣教師の先生たちのように「仕方がある」という生き方に変えられていくのです。ここにいるすべての人が、岩の上に家を建てる賢い人になれるよう、ご一緒に祈りましょう。