2月3日の説教要旨 「権力者達による裁判」 平賀真理子牧師

詩編38:16-23 ルカ福音書22:66-23:12

 

*はじめに

イエス様は、救い主の役割を果たすための「十字架」という死刑判決を受けるにあたり、3つの階層の人々から裁判を受けたことが記されています。1つめの階層の人々は、ユダヤ教指導者を含む最高法院の議員達、2つめは、ローマ帝国から派遣された「総督」であるピラト、3つめは、ガリラヤの領主であるヘロデ(ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパス)です。2つめと3つめは、権力者一人からの尋問であり、現代の裁判で言うなら、裁判前の「検察官の尋問」という感じだと想像できるでしょう。

 

*イエス様を受け入れることを拒否したユダヤ人指導者層による裁判

1つめの裁判においては、最高法院の複数の議員達が、イエス様から証言を引き出そうと質問攻めにしているようです。彼らの関心事はただ一つ、「ナザレ人イエス」が、待ちに待った「メシア(救い主)」なのかを本人の口から聞くことです。ところが、イエス様は、彼らの本心、つまり、「ナザレ人イエス」がメシアであっては困る、メシアであるはずがないと思い込んでいる、その心を見抜いておられたのです。イエス様を救い主と信じる気持ちが最初から無い人々に対して、イエス様は「御自分がメシアである」という真実を語られませんでした。それでも、その一言を引き出そうとする人々を前にイエス様が真実を語っても「あなたたちは決して信じないだろう」と預言なさいました。更に、その次の御言葉「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」については、「イエス様がメシアである」と聞いた人間は、イエス様に従う覚悟を尋ねられると知っていることで理解できるようになります。。父なる神様から派遣されたメシアである御自分に聞き従う覚悟があるかと尋ねても、最初から信じる気持ちのない最高法院の議員達は、従うとは決して答えないとイエス様は預言されたのです。なぜなら、22章53節にあるように、その当時は闇(サタン)が御自分を殺そうと力を振るうだろうとイエス様は御存じだったからです。神の民であるユダヤ人の指導者層は、本来真っ先に救い主たるイエス様を受け入れることを神様から期待されていたはずなのに、彼らの心をサタンが狙ったのでしょう。彼らは、既得権益保持の願望やイエス様人気に対する嫉妬に捕らわれて、神様からの啓示を受け入れない罪に陥り、サタンに利用されました。一方、罪深い議員達の中に立たされたイエス様だけは、父なる神様に従い続け、十字架の先に用意された栄光を信じる姿が際立っています。「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(60節)には、十字架という苦難を前にしても揺るがず、父なる神様とその御言葉を信じ続けるというイエス様の覚悟が込められています。

 

*「わたしがそう(メシア)だとはあなた(たち)が言っていることです」

上記の小見出しの御言葉とそれに似た表現の言葉(22:70と23:3)をイエス様は語られましたが、聞き手により、全く反対の意味に取られました。前者では、質問者達が「イエス様がメシアか」という問いを本人が肯定したとし、イエス様有罪の自白としました。一方、ピラトの「あなたはユダヤ人の王か」という問いに対し、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答え、ピラトはイエス様がユダヤ人の王を自称したわけではないとし、ローマ帝国への反逆について無罪と定めようとしたのです。

 

*父なる神様に従い続けたイエス様とサタンに支配された人間達

ユダヤ人達から反抗されることも、イエス様に関わることも避けたいピラトは、イエス様の出身地ガリラヤの領主ヘロデにもイエス様を尋問させました。日頃お互いの権力拡充を巡って敵対する二人が、ナザレ人イエスを重視しないという共通項で親しくなりました。神様が願われる人間同士の関係の本来の姿は、神様への信仰を基盤にした信頼関係です。ピラトとヘロデは、主への不信仰、つまり、神様抜きで人間関係を結ぼうとしたわけで、神様の御心に反しています。これも、サタンの支配を裏付ける証拠だと言えるでしょう。サタンとその支配下の人間達が蠢(うごめ)く中にあって、神の御子・救い主イエス様だけが神様につながる(垂直の)線をしっかり保ち、静かに泰然と神様の御心に適った言動を取り続けておられたのです。

1月27日の説教要旨 「闇が力を振るう時」 平賀真理子牧師

詩編14:1-7 ルカ福音書22:47-65

 

*はじめに

アドベント前に読み進めていた「ルカによる福音書」に戻りましょう。

22章39節-46節「オリーブ山での祈り」(「ゲツセマネの祈り」)まで読み終わっています。最後の晩餐に続いて「十字架への道」が粛々と行われている中で、イエス様は、十字架の過酷さを予感され、それは出来れば無くしてほしいと御自分のお気持ちを父なる神様に祈られました。ルカ福音書によれば、その祈りが終わり、恐らく、弟子達とまだ話されている内に、イエス様を逮捕しようとする人々が来たようです。

 

12人の弟子の一人「イスカリオテのユダ」の裏切り

イエス様の主要な12弟子の一人、イスカリオテのユダが、イエス様を裏切ることがここで明らかになっています。その場にいた他の人々は何が起こったのか、すぐにはわからなかったかもしれませんが、イエス様お一人だけは、事態の深刻さがお分かりになり、親しい間柄で行われる接吻の挨拶が、敵への合図に用いられたと残念に思われたのでしょう。「接吻で人の子を裏切るのか」という御言葉の「人の子」という語に注目しましょう。これは、イエス様が御自分を救い主として客観的に表現なさる時に使われた言葉です。弟子ならば、そのことを知っていたはずです。イエス様は、このユダに「あなたは救い主を裏切ろうとしている。その罪の重さをわかっているのか.。裏切りはやめなさい。」と伝えたかったのではないかと思われます。

 

*取り巻きの人々の反応とイエス様の姿勢

一方、取り巻きの人々は、武器を持った人々に取り囲まれて、本能的にも、この場を切り抜けたいと思い、剣を用いて、抵抗することを提案し、実際、敵方の一人を傷つけたことが記されています。この事態を受け、イエス様は暴力沙汰を止めさせ、傷ついた人の癒しをなさいました。人間の様々な思惑や暴力の中、イエス様だけが「癒し主」として、神様から与えられた使命に忠実であり続けられておられます。

 

*「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53)

主の逮捕を巡って右往左往する人間達を、イエス様は決して彼らのせいだと責めておられません。なぜなら、ユダを含む逮捕に来た人々は、かつては、イエス様と共にいた人々であり、むしろ、それが本来の姿であるとイエス様は思ってくださっていて、状況が変わってしまった今は、闇と表現されるサタンが人々を「救い主」に歯向かわせている、と受け止めてくださっていることが53節から読み取れるからです。ルカ福音書では、4章13節で「悪魔(サタン)は時が来るまでイエスを離れた」とあり、その後は姿を見せず、22章3節で再びサタンが現れ、イスカリオテのユダに入ったと記されています。そこからイエス様が十字架にかかって復活なさる前まで、サタンは最後の悪あがきで暴れ回ることを許され、主に対して人間が反抗するように画策することを、イエス様はよく知っておられたのです。

私達人間は、短絡的に、サタンなんか、神様が力で負かしてくださればいいのに!と思ってしまいますが、それこそが、力で押さえつけるサタンの方法です。神様は、サタンやサタン側についた人々さえも自ら神様に従いたいと思えるように取り計らわれます。それが神様の方法です。

 

*「主の憐れみ」と、サタンが誘発した「ペトロの否認」と主への暴力

ユダだけはなく、一番弟子と言われたペトロもサタンに利用され、「イエス様を知らない」と3度も言う「ペトロの否認」が起こりました。これは、イエス様の預言の実現でもあります。イエス様は、それもサタンの仕業であり、その後にペトロが信仰を失わないように祈ったと語られました(ルカ22:31-34)。恐れのためにイエス様を裏切ることになったペトロに対し、罪無き主は憐れみの眼差しを向け、それによって、ペトロは自分の罪深さに気づかされ、激しく泣くことになりました。更には、弟子達だけでなく、逮捕したイエス様を見張る番人達も、サタンに利用されて、主を侮辱し、暴力などを振るいました。ここに、サタンに支配されている人間の罪深さが現れており、だからこそ、神の御子による救いが必要だと悟らされます。

1月20日の説教要旨 「あなたも神の愛の中にいる」 遠藤尚幸先生 (東北学院中・高 聖書科教諭)

イザヤ書40:1-11 マタイ福音書18:21-35

 

*ペトロの問い

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

今朝、私たちに与えられた聖書の言葉には、そのようにありました。主イエスの一番弟子のペトロが、主イエスに対して、問いかけています。彼はなぜ、突然このような問いを投げかけたのでしょうか。それは、直前の箇所と関係があります。今朝お読みしました箇所の一つ前、私たちが読んでいる新共同訳の聖書では、「兄弟の忠告」とタイトルがつけられている箇所です。実はこの18章全体は、主イエスに結ばれた共同体であるキリスト教会の交わりについて書かれている、一つのまとまった箇所です。18:1では弟子たちが、だれが天の国でいちばん偉いのか議論しています。すると、主イエスが弟子たちに語り始めた、という文脈にある箇所です。主イエスは弟子たちに、あなたがたの共同体は、「小さな者」を受け入れる共同体であるということを語っていきます。第一に子供を受け入れること(18:5)、そして、教会に来る者たちをつまずかせないこと(18:6)。そして、教会から迷い出る者を、きちんと自分の群れに受け入れていくこと(18:14)。主イエスは、私たち教会の群れのあり方を、一つ一つ丁寧に教えてくださっています。そして、18:15にさしかかると、私たち教会の中で一番議論されるかもしれない事柄へと話を移していくのです。それは、18:15にある通り「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という事柄です。子供を受け入れること、つまずかせないこと、迷い出た者を探し出すこと、これらは、特に私たち自身に何か具体的な危害が与えられるということは語られていません。しかし、どの話も背後には、あなたがた教会は、あなたがた自身に罪を犯す者をどうするのか、このことによく注意しなければならない、ということが語られていたのです。もちろん、話し合い、和解できることが一番良いはずです。しかし、私たちの生活の中で、実はそのことが、大変よくあることでありながら、なかなか解決し難い課題ではないかと感じます。「自分に罪を犯す者を赦す」。言葉にすれば短いものですが、いざ自分がその現実に向き合うときに、驚くほど困難を覚える。私たちにも、そういう人物が一人や二人いるのではないでしょうか。手を伸ばし、本当は和解すべきだと分かっている。しかし、それをすることができないのが私たちです。主イエスは単に教会とはこうあるべきだということをこの18章で語っているだけではないことが分かります。主イエスはこれらの話を通して、私たちの最も深いところにある悩みに、触れてくださっている。私たちは主イエスの投げかける問いの前に立たされながら、主の御声によって、「赦す」とはどういうことか、その問いに立たされているのです。

 

*ペトロの答え

私たちと同じように、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という問いに、このペトロという人も立たされています。ペトロはその問いに、こんなふうに答えています。もう一度21節をお読みます。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

彼は決して、赦すべき回数を聞いているわけではないことは明らかです。なぜなら彼は、この18章の一つ一つの言葉を聴きながら、教会は自分に罪を犯す者をきちんとその群れに受け入れなければならない、ということを聞いているからです。その彼が、赦しを「七回」と限定するはずはありません。実は、この「七」という数字は、ユダヤにおいては、たとえば、祭司が罪の赦しの儀式をするときに、イスラエルの人々の汚れを聖別するため、祭壇に血を振りまく回数として出てきます(レビ記16:19)。つまり、それは特別な意味を持った数字であり、「どこまでも赦す」という意味を持つ数字です。

 

*主イエスの答え

主イエスは、ペトロに対してこう答えました。

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

「七の七十倍赦しなさい」。これが主イエスの答えです。先ほどの「七」という数字が持つ特別な意味を考えるならば、これは「490回赦せばそれでよい」と言っているわけではないことが分かります。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。これが主イエスの答えです。ペトロの答えが、私たち教会を代表する声であるなら、主イエスの声は、まさに、私たち人間の想いを超えたところにある神様の声そのものです。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。そして主イエスは、その言葉に続くように、23節以下のたとえ話を話し始めました。それはこういう話です。

 

王と家来

あるところに王様がいました。王様は、自分が家来たちに貸したお金の決済をしようとしています。王が決済をし始めると、そこに一人の家来がやってきました。この家来は「一万タラントン借金をしている」と紹介されています。一万タラントンとは、聞きなれない金額です。現在の金額にしてだいたい10億〜1兆円くらいだと考えられています。普通の人間が、一生かかっても使いきれないほどの金額をこの家来は王様から借りていました。実はこのたとえは、聞いている人にしてみれば、現実離れし、かなり異様なたとえです。しかし、この莫大な金額の意味が続く話の展開で明らかになっていきます。この家来は、到底この金額を返済できるはずはありません。それで、王様から「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」命じられました。この家来は26節で「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願います。すると、その王様は、この家来を憐れに思い、彼を赦し、その借金を帳消しにします。主イエスがどうして、こんな現実離れした金額のたとえ話をしたのか。それは、今、主イエスの言葉を聴き、罪の赦しに歩みだそうとするペトロに対して、その前に、まずあなたがたが与えられているものがどれほど大きいのか、そのことに目を留めることこそ大切なことなのだということを教えたかったからです。

 

*王と家来とは

このたとえに出て来る王様は神様です。そして、この借金を帳消しにされた家来が、私たちです。神様は、何よりも、この私たちの負債を赦してくださっている。それは、この莫大な借金が表す通り、私たちの途方も無い罪の現実を赦してくださっているということです。これは主イエスの宣言です。「あなたの罪は赦される」と、主イエスはここでペトロに向かって語ってくださっている。私は、主イエスがここでペトロに向かって罪の赦しを語ってくださっていることに、後にペトロが犯す、主イエスに対する裏切り、不信仰な姿を憶えずにはいられません。主イエスは彼が、これからの歩みの中で、ご自身に背いていく。そのあなたの罪を赦すために、そのために、私はあなたの傍らにきたのだと、宣言されているのです。

 

*王が損失を被る

どうしてそんなことが言えるのか。それは、この王様の姿に現れています。王様は、確かにこの家来の借金を帳消しにしました。家来の方からしてみれば、それは突如訪れた幸運です。しかし、王様にしてみればどうでしょうか。王様は借金を帳消しにしたところで、その損失はゼロになったわけではありません。ですから、このたとえの本質は、実は、この家来の借金を、王が代わりに背負ってくださったというところにあると言えます。神様の私たちを愛する愛。それは私たちの方から見れば、徹底して無償の愛です。しかし、神様の方には大いなる痛みがある。ペトロの弱さ、不信仰、私たちの弱さ、不信仰は、その身代わりとなった存在によって、担われ、そして赦されているということです。ではその私たちの計り知れない罪を、私たちの代わりに背負ってくださったのは誰か。それが主イエス・キリストです。主イエスこそ、罪人であった私たちの身代わりとなって、その罪を一身に受けてくださったお方です。この方が、真の神でありながら、罪人としてあの十字架につけられていくのです。キリストの十字架は、痛みと悲しみに満ちています。主イエスは、祭司長、律法学者たちに苦しめられ、引き渡され、鞭打たれ、そしてユダヤの人々、弟子たち、私たちすべての人間に見捨てられ、遂には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、十字架でその命を捨てました。主イエスの十字架は、実は、本来、私たち自身が受けるべき十字架であったのです。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙2:19-20でこう語っています。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」

あの2000年前に起こった十字架の出来事によって、私たちの自身の罪の赦しが成し遂げられました。そして、キリストが罪を背負い死ぬことによって、その代わりに、私たち一人一人が、全き神の子として生きることができるようになりました。私たちはもはや、罪という奴隷の軛につながれているわけではない。神様の豊かな、そして大いなる恵みの中で、神の子となる資格をあたえられているのです。主イエスはここで、その恵みをも先取りしてペトロに語っています。だから、「この大いなる恵みを受けた者として、当然、同じように、他者を赦すことがあなたはできるはずだ。安心して行きなさい」。主イエスはペトロにそう語っています。主イエスはこのようにして「七回までですか」と他者を赦すために歩み出そうとするペトロを励まし、また私たち教会の歩みをも励まし、この世へと遣わそうとしているのです。

 

*赦すことができない私たち

しかし、このたとえの後半にあるように、話はそう簡単にいかない現実があります。この莫大な借金を赦してもらった家来は、その足で、自分に借金をしていた仲間の首を絞め、しまいには牢に入れてしまいます。赦された者が、他者を赦すことができない姿が描かれます。私たちもまた、この家来が犯してしまうような、他者を赦すことができない経験を何度もします。私たち神様の恵みによって罪赦された者の歩みは、すぐには、他者を赦すことができるか問われれば、それはいつまでも未完成だと言わざるを得ません。しかし、このたとえを通して、私たちは、やはり、自分たちの行い、それはどこか不自然なことであるのだ、ということに気づくことはできます。キリストの十字架の恵みを受けている者として、この感覚は大変大切な感覚です。他者を赦せないとき、私たちはキリストの恵みを思い起こさずにはいられません。何度も自分たちに罪を犯す者に出会う時、その者を赦すことができない時、キリストがあの重い十字架をたった一人で背負い歩まれた姿を思い起こさずにはいられません。終わりの日、キリストが再び帰ってくるときに、私たちは堂々と胸を張って神様の御前に立てるのか。それは依然として、私たちが判断することができない、神様の御手に中にある事柄です。しかし、分かっていることがあります。終わりの日、帰ってくるこのキリストこそ、私たち一人一人を命がけで愛してくださった方であるということです。どこまでも神様に、そして隣人に罪を犯しつづける私たちをなお、神様はそのままで見捨てておかれないということです。ここにこそ、私たち教会が立つべき場所があります。キリストの恵みこそ、私たちはいつでも心に刻み、何度でも、自らのあり方を問い続けるべきであるのです。あなたの罪は赦される。神様は今日私たちを無下に放っておくということはいたしません。私たちの傍らにいて、いつも私たち一人一人の手を取り歩んでくださっている。私たちの神は、神我らと共にあり、インマヌエルの神様なのです(マタイ1:23)。神様は、私たちに必ず、他者との和解という恵みをお与えくださる。和解こそ、私たちがこの地上で与えられる、何物にも変えがたい喜び、神様からのプレゼントです。私たち一人一人も、その恵みにあずかる日を期待しつつ、生きることができる。人生とは、神と和解させられた者たちが、他者との和解の喜びに生きることができる、恵みに満ちた時間なのです。私たちは、この喜ばしい和解の福音を一人でも多くの人に届けたいと願います。あなたの罪は、主イエス・キリストの十字架によって担われ、赦されている。あなたは必ず、他者との和解に生きることができる。主イエスが今日も私たちと共にいてくださる。あなたも神の愛の中にあるのです。

1月13日の説教要旨 「約束を守ってくださる神様」 平賀真理子牧師

イザヤ書11:1-5 マタイ福音書2:13-23

 

*はじめに

イエス様が、異邦人に初めて公けに現れてくださった出来事(マタイ福音書2章1-12節)を先週は話しましたが、今日はその続きの箇所です。神様は、ユダヤ人との約束を御言葉で明示し、それを必ず守って、救い主をお送りくださったことが、3つの預言からわかります。

 

*人間の計画ではなく、神様の御計画のみが実現する!

今日の新約聖書の箇所の直前に、異邦人である「東方の占星術の学者達」に夢でお告げが与えられて、彼らはヘロデ王の所には寄らずに、自国へ帰って行ったことが書かれています。「本当のユダヤ人の王」を見つけたら、自分の所へ寄って、報告しなさい」というヘロデ王の命令よりも、夢のお告げを彼らは重んじました。そのようにして、神様は、御自分を知っていながら御言葉を信じない者達(ヘロデ王及びユダヤ教指導者達)ではなく、異邦人に最初に救い主を礼拝させるという御計画を実現なさいました。一方、ヘロデ王を代表とする人間達の計画、救い主を殺してしまう計画は、最初の段階でつまずきました。

 

*残忍で執拗なヘロデから逃れるために、夢でお告げを授けた神様

しかし、東方の占星術の学者達が自分の命令を無視しただけで、自分の地位を脅かす幼子を殺害することを諦めるようなヘロデではありません。だから、神様は、イエス様のこの世での父親であるヨセフに、またもや夢でお告げを授けました。「家族を連れてエジプトへ逃げよ」と。

 

*エジプトに関係する、ユダヤ人のリーダー「モーセ」

神様によって、一度はエジプトへ退いた人物が、そこから導き出されるというストーリーを持ったリーダーと言えば、ユダヤ人は、すぐに「モーセ」を思い起こします。モーセは、エジプトで苦しめられていたユダヤ民族を脱出させるために、神様が用意なさったリーダーです。マタイ福音書の主な読者として想定されたユダヤ人達にとって、モーセこそ、神様が自分達に授けるという約束した救い主のイメージでした。

 

*預言①「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」

15節の聖句「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」は、預言者ホセアの預言(ホセア書11章1節)から引用されていますが、これは、幼子イエス様がモーセと同じであることを証ししようとしているのです。ユダヤ人なら、モーセがそういう歩みをしたことを知っており、ここに書かれた幼子イエス様が同じ運命であれば、イエス様はモーセと同じように神様がくださるリーダーだと連想できるのです。更に、15節後半の「預言者を通して言われていたことが実現する」という、神様への絶対の信頼が、ユダヤ人達にはあるということを、大前提として、この箇所は理解する必要があります。

 

*預言②「ラケルが嘆き悲しむ」という内容の預言

ヘロデ王は、ユダヤ人の王となる幼子を特定できなかったので、ベツレヘム地方の2歳以下の男の子を殺させました。このことは、ユダヤ人にとって大変な悲しみとなりました。だから、ユダヤ民族の母ともいえるラケルという女性が草場の陰から泣いているということを表現しようとして、エレミヤの預言(エレミヤ31:15)を引用しました。更に、深く読むと、救い主の御降誕という神様の喜びの出来事が、人間の罪によって悲しみに変えられたと読めます。後々の主の定めにも、殺害されるという悲しみ(十字架)が潜んでいると暗示されているようにも思えます。

 

*預言③「彼はナザレの人と呼ばれる」

ヘロデ王は紀元前4年に死に、彼の相続者である息子3人のうち、一番ひどい人物が「アルケラオ」で、彼が治めるユダヤ地方を避け、彼よりはましだと言われたヘロデ・アンティパスが治めるガリラヤ地方、その中の「ナザレ」に、イエス様は住むように神様は導かれました。イエス様が生前「ナザレ人イエス」と呼ばれたのは、23節「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言の実現だと証しされているのですが、実は、文字どおりに書かれている預言は聖書にはどこにもなく、「ナザレ」という音がイザヤ書11章1節の「若枝」という言葉「ナーツァレ」に似ているので、ここからの引用だろうと言われています。今日の箇所で「イエス様は預言どおりの救い主だ」と預言を重ねて証しされており、その根底には、私達の信じる神様は、人間との約束を必ず守る御方という絶対的な信頼があります。

1月6日の説教要旨 「主を礼拝する人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書60:14-16 マタイ福音書2:1-12

 

*はじめに

 今日は2019年に入って初めての聖日礼拝であり、しかも、1月6日という特別なお祝いの日と重なりました。教会暦では1月6日は公現日といって、異邦人にイエス様の救いが初めて現れた日として、月日が固定されたお祝いの日です。異邦人に初めて救い主イエス様が御姿を現したと記しているのが今日の新約聖書箇所です。(マタイ2:1-12)

 

*聖書における「異邦人」

聖書では、本当の神様は、御自分の民として、アブラハムの子孫であるユダヤ人達を選んだと記しています。従って。ユダヤ人達は、自分達を「神の民」または「神様から神の言葉である律法をいただいた民」と自負していました(これは選民思想と言われます)。一方、それ以外の民族の人々を「異邦人」と呼んで、自分達と区別した上で、神様から選ばれなかった人々として蔑んでいました。

 

*異邦人から救い主誕生の知らせを受けたユダヤ人

今日の箇所に出てくる「占星術の学者達」は、もちろんユダヤ人ではありません。東方から来たとあります。東方とは、恐らくペルシャ、今のイラン辺りと言われています。ペルシャには、その昔、新バビロニア帝国があり、この「異邦人の国」の首都バビロンに、かつてユダヤ人達は不本意にも捕虜となって連れてこられました。ユダヤ人達は、これは、自分達の不信仰が招いた結果だと考えました。この「バビロン捕囚」は約50年間続き、ユダヤ人達は、この出来事を負の歴史と考えています。しかし、神様はこの出来事をも意味あるものに変えてくださいました。その一つが、ユダヤ人達の思想=「救い主が人間として生まれる」という考えが、バビロンにも広まっていたことです。そして、イエス様がお生まれになった頃、この地域一帯で「救い主御誕生」を期待する気運がより一層広まっていたそうです。

また、この「占星術の学者達」は、神様が造られた自然における法則を熟知しており、通常とは違う動きをする星を見つけ、そして、ユダヤ人達から聞いていた話を関連付け、「救い主誕生」と確信したのでしょう。

 

*ヘロデ大王とユダヤ人の学者達の反応

イエス様がお生まれになった頃、エルサレムを治めていたのが、ヘロデ大王です。彼自身はユダヤ人と南隣りのイドマヤ人の混血であったために、統治している生粋のユダヤ人達からは蔑まれていました。おまけに、この地方を治める権威を「異邦人の国ローマ帝国」から策略によって保障されていたのでした。ですから、ユダヤ人達が長い間待望していた「ユダヤ人の王」が生まれることは、彼自身が王位を奪われることとなり、彼は長年これを恐れてきました。とうとう、東方から来た学者達がそのような情報を持って来ました。ヘロデは自己保身のために、彼らを手先として利用し、後々、本当のユダヤ人の王である幼子を殺そうとしました。彼だけでなく、ユダヤ人学者達やユダヤ教の宗教指導者達さえ、「救い主はベツレヘムに生まれるという預言があります」と口先で冷たく答えるだけでした。彼らこそ、本来は「救い主御誕生」の知らせに喜んで救い主の許へ馳せ参じるべきだったのに、そうしていないようです。彼らは、神様のもう一つの御言葉である預言を信頼していなかったのか、もしくは、蔑んでいた異邦人から「救い主誕生」という情報を得るという現実を、プライドが邪魔して容認できなかったのか、でしょう。

 

*救い主に対する「異邦人の初めての礼拝」から示されたこと

人間の様々な思惑の中で、しかし、神様は御自分の御心を確実に実現なさいました。異邦人の学者達を導いた星を消さずに、その星によって彼らが救い主の所にたどり着くよう導かれました。何と、異邦人達が先に、幼子イエス様を「本当のユダヤ人の王」として見つけ、喜びに溢れたのです!その彼らが初めにしたのは、イエス様にひれ伏して拝み、宝物を献げたことです。これは、同じく異邦人である私達の礼拝の初めの形と言えるでしょう。救い主に出会うことは、それ以前の自分を捨て、神様の御前に身を投げ出すことです。私達の礼拝は形式上、そうはしませんが、心の内ではそのような姿勢で臨むべきだと思います。また、彼らは宝物を献げたことも肝に銘じるべきです。自らと自らの持ち物すべてを主に喜んで献げることが、本当の礼拝だと示されているからです。

12月30日の説教要旨 「聖霊に導かれた人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書57:14-19   ルカ福音書2:22-38

 *はじめに

 私達の救い主イエス様の御降誕について、今年のアドベント・クリスマスの時期は、ルカによる福音書を読んできました。今日は、そのシリーズの最後です。ルカ福音書1章から2章21節までで、「救い主御降誕」は、この世の人間を本当の意味で救うために、人間を愛してやまない神様が準備なさって実現したものであること、また、それを人間に知らせるために「天使の御告げ」があったと語られていると読み取れます。(「天使の御告げ」は、本当の神様が天使に託した御言葉です。)ところが、今日の箇所以後、暫時、ルカ福音書では、天使の御告げや活動は語られませんし、今日の箇所では、それまでの「天使」ではなく、「聖霊に導かれた人々」が救い主御降誕について語るように用いられています。

 

 *エルサレム神殿で「聖なる者」とされたイエス様

ルカ福音書2章21節―24節では、救い主のこの世での両親に選ばれたヨセフとマリアが、ユダヤ教の律法に従い、イエス様に割礼を施し、命名し、神殿に献げ物をしに来たことが記されています。このような信仰深い家庭を築く心根を持った夫婦に、神様が御子を託したと言えるのではないでしょうか。

また、この箇所で重要なことは、イエス様が、ユダヤ教の総本山であるエルサレム神殿で「聖なる者」とされたことです。イエス様は神の御子ですから、神様の御座所である「天」では勿論「聖なる御方」です。そこから降りて来てくださった「この世」でも、生まれてすぐに「聖なる者」にされたことを、私達は喜びたいものです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンが「救い主」に出会う!

2章25節では、神様の前に義とされる生活をしていて、信仰があつい、シメオンという人が「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」とあります。これは「イスラエル民族に救い主が生まれることを切望していた」という決まり文句です。そして、このシメオンには、聖霊がとどまっていたのですから、最強の信仰者と言えるでしょう。

 

 *「聖霊」の働き

「聖霊」に導かれると、人間はどうなるのか?25節―27節で、はっきり示されています。まず、25節でわかることは、聖霊は人間を信仰生活に導く働きをすることです。人間が神様の恵みを受けるのにふさわしいように教育するわけです。次に、26節では、聖霊は信仰者に神様の約束を確信させているとわかります。それに加えて、27節では、聖霊は信仰者を神様の約束どおり「救い主」に出会えるように導いているとわかります。このようにして、聖霊に導かれたシメオンは、神の御子イエス様がエルサレム神殿で「聖なる者」とされる瞬間に立ち会えて、最大の願望であった「救い主に出会う」以上の恵みを得ました。つまり、「救い主」を自分の腕の中に抱くという最高の恵みをいただいたのです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンは、天使の御告げ以上のことを語る!

キリスト教界で「シメオンの賛歌」(ルカ2:29-32)と言われる箇所で、実は、天使の御告げ以上のことが言われています。この幼子イエス様はイスラエルの民が願ってきた「イスラエル民族の救い主」以上の存在になるということです。聖霊に導かれた人間シメオンの口を通して発せられた「賛歌」で、救い主イエス様は、「異邦人(ユダヤ人でない、世界中の人々)」をも照らすと謳われ、そのような救い主が生まれたことで、イスラエル民族は「誉れ」とされることがはっきり示されています(32節)。

 

 *喜ばしい「救い主御降誕」を受け止めきれない「この世の人間達」

しかし、同時に、シメオンは、人間がこの喜ばしい出来事を正しく受け止めきれないと預言します(34-35節)。神様が人間を愛する故に実現なさったことを、悲劇に変えてしまうほど、人間の罪は重いのです!

 

 *女預言者アンナも聖霊に導かれて、救い主の証しに用いられる!

36節-38節の「アンナ」は、当時の社会では弱い立場のやもめですが、神の恵みによって聖霊をいただき、神様の御言葉を受ける預言者とされ、救い主イエス様に出会い、主を証しする御業に用いられています。

 

 *私達も聖霊に導かれて、イエス様に出会う恵みを賜っている!

シメオンとアンナは、聖霊に導かれてイエス様に出会いました。イエス様と既に出会っている私達も、実は「聖霊に導かれた人々」です!

 

12月23日の説教要旨 「この世に来られた救い主」 平賀真理子牧師

イザヤ書9:1-6  ルカ福音書2:1-21

 *はじめに

 私達の救い主イエス様について、お生まれになった経緯を具体的に記録しているのは、4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、ルカによる福音書だけが「人間世界の記録」を意識していると言えます。というのは、イエス様がお生まれになった時を、当時のローマ帝国のアウグストゥスという皇帝の治世の時と明記しているからです。更に限定された時と地域が示されます。ローマ帝国の役人「キリニウス」がシリア州の総督だった時と記されています。このように、ルカ福音書では、人間世界の記録で重要な「時と場所」を意識して表記しています。イエス様が本当に「この世に来られた御方」であることを伝えようとしていると読み取れます。

 

 *「救い主についての3つの預言」がすべて実現

この福音書の1章では「天使のお告げ」等があって、幾分「物語」のようでもありますが。2章に入ると、上記の理由で、俄然、この世に本当に起こった出来事、つまり、事実の記録の度合いが高まります。そして、イエス様のこの世における父親役を引き受けるヨセフに焦点が当てられます。イエス様の母に選ばれたマリアの婚約者であるヨセフは、まず、ガリラヤに住んでいながら、しかし、ローマ皇帝の命令によって、先祖であるダビデ王の町ベツレヘムへ一時的に出かけるように設定されなければならなかったのです。というのは、「救い主」についての3つの預言を実現させる必要があったのです。一つは、ダビデ王の預言者だった「ナタン」を通しての預言「ダビデ王の子孫から救い主は生まれる」(歴代誌上17章)ということがイスラエルの人々によく知られていたのです。二つ目は、今日の旧約聖書イザヤ書9章の直前の1行に記されている「異邦人のガリラヤが栄光を受ける」という預言です(ガリラヤはイエス様の育った土地、所謂「故郷」)。三つ目は、ミカ書5章1節にある預言「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という内容です。神様は、イスラエルの民に告げた、一見内容の異なる3つの預言を、このように人知を超える形で、実現してくださったのです!ダビデ王の子孫でガリラヤに住むヨセフに、身重の婚約者を伴う旅をさせ(皇帝の命令には逆らえない!)、旅先のベツレヘムで「救い主」として御自分の独り子をこの世に誕生させるように、神様がなさったのです。

 

 *「神様をお迎えする場所を用意しているのか」という問い

神様がイスラエルの人々への預言をこのように守ってくださっているのに、それを受ける側の人間達はどうだったかと言えば、イエス様が待望の救い主だとわからず、最初の時から、救い主の場所は用意されていなかったわけです。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。これは、当時の状況を述べているだけではなく、私達も、この世の出来事でいっぱいいっぱいになって、神様のおられる場所を、心の中に確かに開けているかどうかを問われていると受け止めるべきです。

 

 *天からのお告げを受けて信じる者のみ「救い主」を礼拝できる!

ただ、7節までに記された人々は、救い主がこの世に生まれたことを知らされていなかったようですから、そのような態度となったことも仕方なかったのかもしれません。一方、それとは対照的に、8節からは「救い主御降誕」を天使によって知らされた「羊飼いたち」の様子が記されています。羊飼い達は、当時のユダヤ教では、仕事柄、礼拝を守れないダメな人々、「神様の恵みを受ける資格のない人々」とされていました。けれども、人間の基準で低く見られていた彼らに、神様からの大事な知らせ「救い主御降誕」が最初に告げられました。彼らは、天使の言葉(即ち、父なる神様から託された御言葉)を受け入れ、信じ、その内容を確かめに闇夜の中で歩み始めました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを目当てに、イエス様を探し当てて拝み、この重要な知らせをくださった神様を賛美する恵みを最初にいただきました。キリスト教では、イエス様は「神様の御言葉としての存在」と申します。神様の御言葉であるイエス様を中心に、天使のお告げを受けたヨセフとマリアと羊飼い達が礼拝するという信仰の形が、既にできていたのです!ここに、私達プロテスタント教会が大事にしている信仰、つまり、御言葉をいただいて礼拝する信仰が示されているのです!

12月16日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 平賀真理子牧師

イザヤ書7:14  ルカ福音書1:26-38

 *はじめに

 前回、洗礼者ヨハネは、救い主イエス様の先を歩み、「主のために荒れ野に道を備える者(イザヤ40:3)」として、最初から、神様の御計画の重要な一部だったことをお話ししました。このヨハネの父親であるザカリアに対して、息子の誕生を予告したのが、天使ガブリエルでした。

 

 *天使ガブリエルが、イエス様の母親となるマリアへ受胎告知する

その同じ天使ガブリエルが、私達の主イエス様がお生まれになることを、イエス様の母親として選ばれたマリアの所へ受胎告知に来ました。

 

 *洗礼者ヨハネの場合は父親へ、救い主イエス様の場合は母親への告知

洗礼者ヨハネの場合は、お告げを受けたのは、父親ザカリアだとルカによる福音書は記しています。ところが、救い主イエス様の時には、母親として選ばれたマリアがお告げを受けました。一方は父親に、もう一方は母親に、それはなぜでしょうか。

正解は神様だけが御存じですが、それでも想像してみたいと思います。私は四つ想像しました。一つめは「本当の父親の違い」、二つめは「低くされた者を高くするという神様の御心」、三つめは「予想される結果の違い」、四つめは「イエス様を巡る役割の違い」です。

 

 *本当の父親の違い

洗礼者ヨハネの父親は「祭司ザカリア」、つまり、人間です。ところが、イエス様の父親は、本当の神様です。その御方がイエス様をこの世に送るのことをお決めになったのです。だから、その直接の受け手である人間としての母親に選ばれたマリアに、まず告知される必要があったということでしょう。もちろん、この世における父親の役割を引き受けるヨセフも重要な存在です。救い主が生まれるのは、ダビデ王の子孫からという預言がよく知られていました。神様は、この預言を守るために、つまり、民の期待に添うために、マリアの産む子がダビデ王の血統のヨセフの子供とされることを重んじて、実現してくださったのです。

 

 *低くされた者を高くする神様の御心

洗礼者ヨハネの父親ザカリアは祭司であり、当時の社会では最も尊敬される階級でしたし、天使のお告げの時は都にあるエルサレム神殿で一世一代の重要な任務を遂行中で、人間界において最高の立場にいました。一方、イエス様の母マリアは、田舎のガリラヤの一介の年若い女性です。人間的に言えば、重んじられるのはザカリア、軽く見られるのはマリアです。しかし、ザカリアの息子ヨハネは決して救い主ではなく、その露払いとでもいうべき存在です。マリアの息子として生まれるイエス様こそ救い主です。人間界で低くされた者と高くされた者が、神様の御前においては逆になる、本当の神様の御心はそのような御性質をお持ちです。高くされて傲慢になっている人間の心は、神様の御心に合わないのであり、低くされた者の謙遜をこそ、神様は愛されるのです。

 

 *予想される結果の違い

ザカリアの場合、息子の誕生は長年の願いが叶うことであり、ザカリア夫婦や周囲の人々も喜んで受け入れられることです。一方、マリアの方は、婚約中であるとは言え、夫婦生活に入っていないのに身ごもるのは、婚約者や周りに姦通を疑われ、死罪も覚悟せねばなりません。だから、マリアが自分の判断では妊娠するはずがないと言って、天使の言葉を一旦否定するように答えたのに、ザカリアとは異なり、彼女は罰せられず、天使は「それは聖霊(神の霊)の業だ」と丁寧に説明を重ねます。

 

 *イエス様を巡るザカリアとマリアの役割の違い

洗礼者ヨハネは「イエス・キリスト」に対して、人々の心を霊的に準備(悔い改め)させ、また、イエス様が「救い主」としての公生涯を始める時の儀式である洗礼を授けるという重要な任務を課せられていました。つまり、イエス様のこの世における霊的準備を担う存在です。ザカリアはそのヨハネの生育を担ったわけで、イエス様に対しては間接的です。一方、マリアは聖霊を受けて胎内に「神の御子」を宿し、この世での人間という肉体を取らせて生育するという直接的な存在です。だから、母マリアの方に天使が告知したことをルカ福音書は強調したと推測されます。イエス様の母親に選ばれたマリアの「(主の)お言葉どおり、この身になりますように(38節)」という全き従順さを私達は目標にしたいものです。

12月9日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 平賀真理子牧師

マラキ書3:19-24  ルカ福音書1:5-25

 *はじめに

 先週の主日から待降節(アドベント)に入っています。今年のアドベントとクリスマスの時期に与えられたのは、ルカによる福音書の中のイエス様の御降誕に関わる箇所です。この福音書の特徴の一つに挙げられることは、イエス様の御降誕だけではなく、救い主の道を整えるために先を歩む者として用いられた「洗礼者ヨハネ」の誕生についても大変詳しく記されていることです。

 

 *最高の預言者エリヤの再来としての「洗礼者ヨハネ」

救い主をこの世に送るという神様の約束が、預言者を通してイスラエル民族に与えられていましたが、預言者マラキは、主の御降誕の前に「預言者エリヤを遣わす」と告げていたことが、旧約聖書マラキ書3章23節に書かれています。預言者エリヤは、数々いた預言者の中でも最高に力のあった預言者としてイスラエルの民に尊敬されていました。マラキ書の「主の前に送られる預言者エリヤ」とは、かつて存在したエリヤそのものではなく、まさしく「エリヤの霊と力」を受けた人物のことです。神様は約束どおり、人間として最高の霊と力を授けられる人物の誕生を、「救い主の誕生」の事前に、確かに御自身でご用意してくださったことを、ルカによる福音書は証ししようとしています。

 

 *父親となる祭司ザカリアに天使が喜ばしい御言葉を告げる

エルサレム神殿で特別任務をしていた祭司ザカリアのもとに、天使が来て、待望の男子が与えられると告げます。けれども、人間の常識から見て、不妊だった夫婦がもはや高齢となった末に子が授かるなど、ありえないことです。ザカリアの心に、主の御言葉への不信仰を感じた天使は、「神様の出来事=洗礼者ヨハネの誕生」が実現するまでは、ザカリアは口がきけなくなるという罰を下しました。

 

 *夫ザカリアの不信仰を補った妻エリサベトの「神への賛美」

このような状況で、ザカリアの妻エリサベトは、神様の御計画を実際に身に受け、「主が目を留めてくださり、『不妊の女』(1:36)という恥から救ってくださった」と賛美したのです。祭司である夫ザカリアの頼りない態度と対比すると、当時の社会で、夫よりも低く見られていた妻、しかも汚名で苦しんでいたエリサベトこそ、主の先駆けとなるべき大事な子供の親としてふさわしい信仰を示せたと言えるでしょう。

 

 *「洗礼者ヨハネ」の役割

洗礼者ヨハネは、祭司の家系出身であり、成長過程も立派だったので(1:80)、彼こそが救い主ではないかと人々に期待されたのです。人間の知恵なら、生まれも育ちも最高の人間を救い主としたでしょう。ところが、神様の知恵ではそうならず、むしろ、人間の社会で最高レベルの人間を証し人に立てることで、後に来る神の御子・救い主イエス様が、人間より確かに優れている証しを立てさせようとされたと思われます。

生まれる前から神様に用意された「洗礼者ヨハネ」は、主の前にその道を整える者として、大きな役割が3つあったと言えるでしょう。一つめは、民衆の心を本当の神様へと立ち帰らせることでです(悔い改め)。二つめは、救い主イエス様に洗礼を授けたことです。神の御子であるイエス様ですが、公生涯を始めるにあたり、ヨハネから洗礼を受けた直後、天から父なる神様の祝福の声が降ったことが、マタイ・マルコ・ルカ福音書に記されています。特に、マタイ福音書では、ヨハネから洗礼を受けることが正しいことだとイエス様はおっしゃいました。神様の御心に適っていたのです。三つめは、無実の死の先駆けです。不義を行う領主によって逮捕されたヨハネは、酒席の戯言のために、無実の身でありながら死刑になります。この姿は、罪なきイエス様が十字架刑で死ぬ定めの先駆けとも受け取れます。現に、マタイ福音書では、ヨハネの死を受けて御自分の行く末を予感なさったであろうイエス様が、恐らく祈るために、人里離れた所に退いたことが書かれています(マタイ14章)。

 

 *「人間への全き愛」から、救い主の先駆けさえも準備なさった神様

「救い主御降誕」のため、神様は、その先駆けとなり、この世での霊的な準備をする役割の人間(洗礼者ヨハネ)を最初から準備なさいました。それは、人間の救いを心から願う「神様の全き愛」から生じたのです。私達も、主の御降誕に備え、心を込めた準備ができるよう、祈りましょう。

11月25日の説教要旨 「主によって満たされる」 平賀真理子牧師

イザヤ書61:5-11  フィリピ書4:4-14、19

 *はじめに

 今日は、収穫感謝礼拝の日です。「収穫を感謝する行事」は、他の宗教や文化の中にも数多くあります。食べ物が豊かであれば、生存を保証されて人間は嬉しいわけです。また、人間の力を越えた「偉大な存在」が、自分達のために実りを生み出してくださったと感じ、その偉大な存在に畏敬の念を持つことは、どの人間社会でも見られます。

 

 *キリスト教の神観<その一>

キリスト教における「偉大な存在」である「本当の神様(以下、「神様」と表記)」は、何が特徴なのでしょうか。2つのポイントを押さえる必要があると私は思います。一つは、「神様」を、唯一の神様として、この御方がこの世界全部を無から造り、人間が喜びに満ちて生きる準備を整えてくださった御方、所謂「天地創造の神」だということです。一方、他の宗教などを基盤とする社会では、この世にある(人間が目に見える)全部を神様と捉えることが多いようです。それらは、「太陽」や「大地」を神様と定めたりしますし、また、「水の神様」「風の神様」「田んぼの神様」等、複数いる神様に向かって人間が担当を与えたりします。

 

 *キリスト教の神観<その二>

さて、キリスト教の神観の特徴の二つ目は、先に述べた、天地創造の神である「神様」が、御自分の存在無しで苦しむ人間のために、御子をこの世に送り、更には十字架で犠牲にすることで、人間が再び御自分につながって生きられるように導いてくださる御方だということです。創世記3章にあるように、神様の御言葉を疑って、自ら罪に陥る事件を起こした人間に対し、「神様」は徹底的な愛を示してくださいました。ダメな人間達を見捨てず、再び、御自分に結び付ける方法、即ち、人間の罪を贖う方法を考えてくださり、それを実現するべく、この世に働きかけてくださいました!人間の罪の贖いを担う神様というのが、キリスト教独自の神観です。罪のない「神の御子の命の犠牲(十字架)」という代償を払って、罪を受け継いだ人間を御自分の民として、真剣に取り戻そうとなさいます。これは「神様の愛」の現れです。それに加えて、主の恵みは、「十字架」で終わらないで、その先に「主の復活」があります。主の十字架と復活を信じることで、人間は、生死を越えた「神の国の民」とされるようになりました。これこそ、最大で、徹底的で、完全な「神の恵み」です!だから、キリスト教で証しされている「神様」に対して、私達は、その恵みを深く感謝したいと心から欲するのです。

 

 *「主にあって」=「神様」の御子イエス様と心で一致して

「フィリピの信徒への手紙」の著者パウロは、以上のことを深く理解した上で、「主にあって常に喜びなさい」(4節)と教えました。「主にあって」とは「心の中でイエス様と一致している」ことと言えるでしょう。そのためには、今の時代の信仰者である私達は、福音書や新約聖書全体をよくよく読み込んで、イエス様がどのような御方かを知る必要があります。

 

 *イエス様から受け継がれた「広い心」(5節)

主と一致することで賜るものに「広い心」(5節)があります。イスラエル社会では「律法」が神様の正義を表すとして尊重されましたが、イエス様は、それだけでは救われずにいた多くの人々を「広い心」で実際にお救いになりました。律法の基盤である正義よりも、福音の基盤である「広い心」こそ、「神様の愛」をより明確に証しすると言えます。

 

 *「主によって満たされる」ことを信じて歩む幸い

それだけでなく、「神様」は、フィリピ4:8に書かれた「良きもの全部」の源なので、救い主イエス様に一致する者に、その良きもの全部を「主と共有できる」恵みをくださいます。また、「天地創造の神様」は、この世での必需品をも人間に与える権威があるという信頼により、信仰者は物資の心配から解放され、「神の平和」(7節)が得られます。パウロが証ししたように、信仰者はこの世での状況に左右されずに、「主によって満たされる」と信じ続けられ、この世の物への思い煩いを乗り越えられます。そして、本当の喜びの源である福音の伝道に邁進できるのです。私達信仰者も、フィリピの信徒と同じく、「神様」によって、自分達が求めている物は勿論、それ以上の本質的な恵みをいただくことができます。信仰者は「主によって満たされていく」喜びの生活へ招かれているのです!