2022年7月10日の説教要旨エステル記4:10-5:8・使徒言行録13:13-25

「御手の中に」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

エステル記は、ペルシャ帝国のクセルクセス王の治世 (BC486-465) に、捕囚以来、東部に残ったユダヤ人達がある危険にさらされた時、王妃エステルによってその危機から助け出されたことが記されています。

*モルデカイとエステル

 スサの町にモルデカイという名のユダヤ人が住んでいました。彼の伯父には一人娘がいましたが両親はすでになく、モルデカイが自分の娘として引き取り育てていました。彼女は美しく、やがて王妃エステルとなります。エステルは、モルデカイに命じられた通り、自分がユダヤ人であることを明かしませんでした。

*ハマンの策略

 一方、王宮では、大臣の中で最も高い地位についたハマンに対して、役人たちは、ひざまずいて敬礼するように命じられましたが、モルデカイは敬礼しませんでした。ハマンは自分にひざまずいて敬礼しないモルデカイに腹を立て、彼がユダヤ人であることを知り、彼一人だけでなく、国中のユダヤ人を皆、滅ぼそうと計画し、クセルクセス王を説得しました。その結果、王の名前でユダヤ人を絶滅させる勅書が出され、全国民に交付されましたので、ユダヤ人の間では苦悩に満ちた叫び声があがりました。

*モルデカイの伝言

モルデカイはこの計画を知ると、エステルに「王のもとに行き、自分の民族のために寛大な処置を求めて嘆願するように」と伝言しました。それに対してエステルは、「王の召しがないのに、王に近づく者は法によって死刑になること。但し、王が金の笏(しゃく)を差し伸べた時だけ死を免れること。自分は一か月も王からの召しがないこと」を、モルデカイに返事を送りました。モルデカイは再びエステルに伝言します。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時のためにこそ、あなたは王妃という特別の高い地位に就いたのではないか。」

 さらに、モルデカイは、「エステルがもし口を閉ざしているなら、ユダヤ人の救済は他の所から起こり、エステルの身内は滅ぼされることになるだろう」と伝えました。モルデカイは、この困難な出来事に対して、神様から助けの手が差し伸べられることを確信していたのです。

*エステルの決断

 エステルは、「スサのユダヤ人を集めて、自分の為に三日三晩、断食してほしい。自分も女官達と共に断食します。その後、法に反するけれども自分は王の前に出ます。死なねばならないのなら死ぬ覚悟です。」と伝えました。そして三日三晩の断食後、エステルが王の前に出た時、王は手にした金の笏を差し伸べました。エステルは王にすべてを告げ、王はハマンの策略を知り、ユダヤ人絶滅の勅令は取り消されたのでした。

*アンティオキアの会堂長の依頼に応えたパウロの説教

本日の使徒言行録は、伝道旅行中、「励ましのお言葉を下さい」との依頼に応えたパウロの説教が語られています。内容は神様によるイスラエル民族の選びと歩み、そして、神様はダビデとの約束に従って子孫から「救い主」を送って下さったこと、又、イエス様が来られる前にはバプテスマのヨハネが、イスラエルの民全体に「悔い改めのバプテスマ」を授けて、「わたしは、わたしの後から来られるお方(イエス様)の履物をお脱がせする値打ちもない」と証言したこと、神様は、旧約聖書の約束を成就されたことを語りました。25節以下では、「ところが人々は預言者達の言葉を理解せずイエス様を死刑で殺したこと、しかし神様はイエス様をよみがえらせて下さったこと、そしてイエス様による罪の赦しが告げ知らされ、信じる者は皆、義とされたこと」を語っています。

*わたしたち

神様を語る時、歴史を抜きにして語ることは出来ません。私達は生活の中で神様に声をかけられ、呼び止められ、イエス様に出会いました。私達はイスラエルの歴史と神様のみ業を通し、今も、このお方が変わらずに私達を導いておられること、又、神様との出会いの時には、他の方達とも出会う機会が与えられていることに感謝せずにはいられません。

6月12日・開設18周年記念感謝礼拝の説教要旨 創世記 2:10-17・Ⅱコリント書 5:16-21

神との和解」       加藤 秀久伝道師

*はじめに                                    

私達は、神様をどのような形で知ろうとしているのでしょうか。神様は私達に、「聖書」という、生きた神様の言葉を与えて下さいました。この神様の言葉は、私達に日々の生活の中で、力と励ましを与えて下さいます。

*「肉に従って知ろうとはしません」

パウロは、ある日突然、目には見えない神様の御子イエス様に出会い、神様を知り、神様を体験した人物の一人です。神様から呼び出され、その声に従いました。本日のⅡコリントの手紙5:16で、パウロは「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言っています。「肉に従う」の、「肉」の原語では、人間的な見方や人間的な標準という意味になります。その見方で、神様や接する人達を見たり知ったとしても、それは人間の価値観や経験で見ることになり、本当の姿に出会うことは出来ません。

*「一人の方がすべての人のために死んで下さった」(14節)

「一人の方=イエス様」は、「私達すべての人間の罪の為に死んで下さった」以上は、「すべての人も死んだことになる」と、パウロは語ります。イエス様の愛がすべての人たちを包み、その愛が人々をとらえて離さず、イエス様はすべての人のために死んで下さった!このイエス様の死と共に、私達も又、生まれながらに与えられている肉の思い(=人間的な見方、人間的な照準で生きる)も死んだのです。そして死んだ私達はイエス様の復活と共に、イエス様を復活させられた神様の霊の力によって、新しく創造された者です。その目的は、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きること」(15節)にあり、今は神様の右におられて聖霊を送って下さるイエス様と共に、私達は日々生き、生かされていることを語ります。

*「新しく創造された者」(17節)

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、さらに、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。

そして更に、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私達をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私達にお授けになりました(18節)。」と語っています。「生じた」は、創世記の天地創造の箇所で、神様が命じて「起る、そのようになる」出来事と同じです。人は「神にかたどって=似せて創造された(1:27)」にもかかわらず蛇の誘惑に会い、神様に背(そむ)き、人間が得ることになった知識、知恵、善悪などは神様から身を隠すという行動を起こさせ、悪がはびこる世界に入る結果を作ってしまいました。その世界に身を置く私達人間は、知らず知らずの内に、背後で操つる悪魔(サタン)の働きにより影響を受けてきました。

しかし私達は、キリストと出会い、結ばれた時、今までの古い人間的な考えや思い、価値観はすべて取り払われ、新しい人が私の中で存在し始めたことが述べられます。私達が主に出会う時、私達は神様によってすべてが新しく、まるで「違う自分と入れ替わった」ように軽く晴れやかになり、生まれ変わった気持になることをここで伝えています。

私達の罪のために死なれたイエス様は、その死を通して、私達を罪で滅んで行く者から新しく生きる者へと変えて下さった、そこには本当の生きた神様に出会い、イエス様を知る特権が与えられているのです。

*二つの世界で

私達が生きる世界に目を向ける時、一方では、素晴らしい神様が造られた世界を見ます。しかし他方で、人間の間違った解釈、知識、悪魔(サタン)の働きにより、あるべき姿から違う方向へ向かっているのも見ます。その二つの世界の中で、神様はご計画を少しずつ実行していることも事実です。それは主イエス・キリストの誕生・復活・昇天と、聖霊を送って下さっている出来事をはじめとして、この伝道所の18年間の歩みの中での出来事です。それはまるで天地創造の時と同じように山田の地域に伝道所を建てて良しとされました。それは「神様との和解のために奉仕する任務」のため、神様と出会える場所として、又、人々の安ら ぎの場所として用いられていくためです。共に祈ってまいりましょう。

2022年5月8日の説教要旨 レビ記19:9-18・Ⅰヨハネ手紙4:13-21

主の戒め」       加藤 秀久 伝道師

*はじめに

レビ記は17章始めに、「神聖法集(17-26章)」との見出しがあります。

その目的は19:2に「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と述べられています。つまり、イスラエルの民が、聖なるお方である父なる神の、主の民となり、聖なる者、聖い者となるための掟が定められているからでしょう。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(19:18)

 この隣人愛の戒めで「自分自身を」と訳されている元の言葉では「あなたのように」と訳される言葉です。これら二つの訳は、どちらも同じような意味合いになるかと思いますが、「あなたのように」と訳すと、「あなたと同じ立場にある『人』として愛する」という、微妙な意味になります。

このことから、元の言葉で伝えようとしていることは、「あなたの隣人に対してあなたのように愛しなさい。」「あなたと同じような、もう一人、又は、複数のあなたがいると思って愛しなさい」と告げていると思います。

そして19章では、モーセが神様から与えられた十戒を通して聖なる者となることと、日々の歩みの中で具体的な戒めを記すことで、私達の生活の基盤としてこの戒めを守り、行うことを、民にはっきりと示しています。

*十戒(じっかい)

➀あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

②あなたはいかなる像も造ってはならない。

③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

④安息日を心に留め、これを聖別せよ。

⑤あなたの父母を敬(うやま)え。

⑥殺してはならない。

⑦姦淫(かんいん)してはならない。

⑧盗んではならない。

⑨隣人に関して偽証(ぎしょう)してはならない。

⑩隣人の家を欲してはならない。

聖なる者となりなさい

元の言葉では、(わたし、まことの神が聖いのだから)「聖なる者となるであろう。」となります。神様がイスラエルの人達に、「父なる神である わたしが聖(きよ)いのだから、あなたもわたしを信じて従い続けることによって、聖い者となるであろう。」と伝えているのです。

これは、今現在もこれからも、将来必ず、あなたを聖い者としますよ」と、預言されている言葉なのです。

私達は果たして聖なる者へと変えられることができるのでしょうか。私達は、私達の力だけでは聖なる者になれないし実現は不可能でしょう。

*神様はご自分の霊を分け与えられた(1ヨハネの手紙 4:13)

 そこで神様は、私達の生活の場へとイエス様を遣わして下さり、イエス様は人として歩んで下さいました。最後は十字架刑で亡くなられましたが、これは神様のご計画によるものでした。イエス様の死は、私達人間の罪を取り除く贖(あがな)いの死(罪の赦しを与えるための、身代わりの死)であり、それによって私達は、神の御国に入る権利を与えられました。このイエス様の死がなければ、私達は神様の霊を受けることは出来ず、聖い者になる権利もありませんでした。イエス様が復活されて天に昇られた後、人々が心を一つにして祈っている時、神様の霊が降り、人々の上に留まることを通して、私達は神様を身近に感じ、神様の霊が私達の心の内に宿っていることを感じることができるようになりました。

この霊によって、私達は神様との関係作りを持ち、神様と個人的な交わり、関係性、信頼関係が深まれば深まるほど、神様からの知恵・知識や神様の御心・ご計画も知ることができると今日の聖書は伝えています。

*わたしたち

 本日のヨハネの手紙の15節では、「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」とあります。ですから私達は、聖なる神様を信じて従い続けることによって、私達の内にとどまって下さる神様からの聖霊の導きと助けのもとで「聖い者」へと変えられていくのです。

2022年4月24日の説教要旨 詩編27編・ヨハネ15:1-10

主の内にとどまる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

一つの事を主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り(住んで・口語訳)主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを

 本日の詩編27編は、神様を信じる者たちが心を静めて、力強い主との深い関係を思い描き、主の素晴らしさに思いを巡らし、主の家に住まわせてほしいと祈り、心を神様に留めることで、神様と会話をする心での詩になっていると思います。又、この詩は、私たちが自分自身を見つめ直し、神様に造られた自分という個人が、神様との関係作りの中にあって、主の内に留まる、主の家に住むことができる、主の考えていることや主の語りかけを理解することができる場所(私と神様との隠れた祈りの場所・拠り所)を持っているかどうかを、私達に考えさせてくれる信仰告白の詩です。

主はわたしの光、わたしの救い」(1節)

この「光」とは、創世記1章の、天地創造の第一日目に、たった一つの出来事として、混沌とした闇の中から「光あれ」と、光とやみを区別され、光だけを良しとされた その光であり、私たち(神様に造られ、神様に愛された者たち)に照らされる光、救いの光です。

この詩編の作者ダビデは、神様に彼の思いを集中させ、沈黙の世界の中に神様との交わりの時を持ちたい、その場に、その空間に、留まりたいと願っていたのです。私達もダビデのように、この光、神様から照らされる場所、その場所を個人的に落ち着く場所、神様に出会い、神様と会話をする所を探し求める必要があります。そしてその主の霊に満たされることによって、主を畏れ、敬い、主の家、主の宮に住みたい、留まりたい、神様が好きで好きでたまらなくなるのです。皆さまは、神様に思いを寄せて特別に出会える場所、その隠れ家はどこにあるのでしょうか。ダビデはまだ若く、羊の世話をしていた頃、神様に選び出されて、羊に対する羊飼いのような恵みと憐れみを豊かに受けて、主の素晴らしさ、主の麗しさを体験しました。神様は、私達をも人々の中から選び出し、神様の霊を注ぎ、この世界に存在する意味を教えて下さっています

*今年度の仙台南伝道所の御言葉 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 本日の、ヨハネによる福音書15章1-10節には、「つながる」の言葉が10回も出てきます。「つながる」には、他に「とどまる、滞在する,泊まる,居続ける,住み着く,住む」という意味があります。ここには、詩編27編とのカギとなる言葉が使われています。

 イエス様は私たちに、「主の内に留まりなさい、居続けなさい、住み着きなさい、と、ここでも伝えているのです。

ダビデは、主の霊が存在する所に、神様との関係作りが作れる所に、住み続けることを望みました。そしてヨハネ福音書で、イエス様は、イエス様に繋がっていなければ、私たちは良い実を結ぶことはできないし、何もすることが出来ないと、語られています。

*わたしたち

 私達は、「イエス様を信じます」と告白し、受け入れた時に、目には見えない油という主の霊(聖霊)が注がれ、私達の内に神様というお方が住まわれました(「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(Ⅱコリ6:16)。

 このようにして、私たちがこのお方の名前を呼ぶ時に、神様は私達の内に現れて下さり、神様との関係作りが始まるのです。それは、私たちがどこかに、神様との関係作りをする特別な建物や部屋を作らなければならないということではありません。私たちが神様に一対一で祈ることのできる環境、空間があればいいのです。ただ、それだけのことです。

 もしくは、私たちが、二人でも三人でも、思いを寄せることのできる、祈りあえる仲間がいれば良いのです。私達が神様に思いを寄せることのできる仲間たちと共に、その場所で、主の御名を呼び、静まり、祈る。その中に神様の現われ、神様の存在を感じ取る空間ができるのです。

今週も、主の霊に満たされて歩んで行けますようにお祈り致します。

2022年4月17日の説教要旨 詩編114:1-8・ヨハネ20:1-18

復 活 の 日」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

イースター、おめでとうございます。イースター(復活祭)は、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した日をお祝いする日です。

週の初めの日、マグダラのマリアは、朝早く、まだ暗い内にイエス様の身体が納められているお墓に行きました。

「週の初めの日」とは、ユダヤ教では安息日が金曜の日没から土曜の日没までで、イエス様が亡くなられたのは安息日の準備の日(金曜日)でした。「イエスは、ご自分が必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子達に打ち明け始められた。」(マタイ16:21)とありますので、三日目は日曜日にあたります。

*週の初めの日

「週の初め」の「初め」という言葉には、ヘブライ語で「第一、一番目」という意味だけでなく「唯一、たった一つ」という意味もあります。

創世記1章1節~5節に、初めに神様は天地を創造され、地は混沌(こんとん)としていて闇(やみ)が覆っていましたが、神様は、「光あれ」と言われて、光を見て「良し」とされました。混沌としていた闇の中から、光とやみを区別されたのです。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ、夕べがあり、朝がありました。それが第一の日の出来事、唯一の出来事として記されています。

ここで神様は、光は救いであること、闇は滅びであることを示そうとしたのかもしれません。神様は、神様のことを信じる者と信じない者が混ざり合って混沌としている、この世界・社会を、光と闇、救いと滅びで、はっきりと分けようとしているのだと思います。

神様は、この世界を創造された時から、そして、このお方を信じた時から、受け入れた時から、私達は 神様の照らす光の道を歩くことができるのです。神様は全てのことに計画を立て、神様の「時」に、様々な出来事を、私達の目に見えるように、分かるような形で行なって下さるのです。

*墓の入り口には大きな石を転がしておいた(マタイ27:60)

 イエス様が十字架につけられた所には園があり、そこにはまだ誰も、葬られたことのない新しいお墓があり(ヨハネ19:41)、イエス様の遺体はそこに納められました。マタイ福音書には、アリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った自分の新しいお墓に納めて、お墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去ったと報告されています。

マグダラのマリアが訪れた時には大きな石は取りのけてありました。朝早く、まだ暗かったのでマリアにとって何とも不思議な光景だったと思います。「お墓」の原語には、「回復する国の計画」・「国王の帰還」との意味があります。イエス様のよみがえり、復活すべき国王が帰還したとの、神様の御計画の実現を伝えています。

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」(詩編114:7)

 さらに注目する点は、お墓の石が取り除かれていたことです。これは本日の詩編「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」とあり、「身もだえせよ」の原語では、ねじまげるとか、ゆすぶる、苦しめるという意味があり、マタイ福音書28:2には、この時、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」と記されています。神様は、神様のご計画を実行する時に、大地を揺り動かしてまでも、(大地を身もだえさせてでも)、その力を私達人間に現わし、体験させるようになさることが分かります。

*復活の日

 復活の日は、第一日目、週の初めの日に来なくてはなりません。

なぜなら、全ての出来事の中には神様の計画された日があるからです。それらは、私達にとって、唯一の日、たった一つの日になるからです。そして日曜日が、復活したイエス様の日、初めの日の出来事として私達が覚え、集まり、祈る。このことを通して、私達、神様を信じる者達が一週間、神様に導かれ、守られ、神様と共に生きる喜びを知り、イエス様が、私達一人ひとりの心の内におられることを知っていくのです。

2022年4月10日の説教要旨 ゼカリヤ書9:9-10・マルコ 11:1-11

「ホ サ ナ」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日は、「しゅろの日曜日」です。

イエス様が子ろばに乗って、エルサレムの町に入られた時、多くの人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(マルコ11:9) と叫びました。 「ホサナ」とは、ヘブライ語で「おお(どうぞ)お救い下さいいま救って下さい」という意味があります。

私達は日常生活の中で様々な出来事が起こります。中でも問題や困難に出会う時、他の人に頼ることもできず、友人に頼ることが出来たとしても心の底から真実を話せないまま解決しきれないものが残ってしまうことはないでしょうか。しかし私の全てを信頼して委ね、任せることのできる「イエス様」というお方に出会ったら、私達もエルサレムの人々と同じように「ホサナ!いま救って下さい、助けてください」と叫ぶと思います。

*子ろば

 イエス様と弟子達の一行がエルサレムの近くまで来た時、イエス様は、二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」と、村へ使いに出されました。ここで注目する点は、「まだだれも乗ったことのない子ろば」です。当時のパレスチナ地方ではロバは重要な家畜で、荷物運搬や乗用、農業に用いられていました。「今まで誰も乗ったことがない子ろば」とは、聖なるものに用いられる意味があると思います。さらに本日のゼカリヤ書には、「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(9:9)とあり、「王が来る。・・雌ろばの子である ろばに乗って」は、救い主イエス様が王としてエルサレムに入ってくる 預言と聞くことが出来ます。

なぜ、そんなことをするのか

 イエス様から「つながれている ろばをほどいて連れて来るように」と使いに出された二人の弟子は、村に入るとすぐの表通りの戸口に、子ろばのつないであるのを見つけました。それをほどくと、居合わせた人々が「ほどいてどうするのか」と聞きました。二人の弟子はイエス様の言われた通り「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と話すと許してくれました。このようにして二人の弟子は、イエス様の言われた通りに行動して、神様の不思議な御業、イエス様の言われた事が現実になったことを体験したのでした。

*わたしたち

 私達が何か問題にぶつかり、現状に本当に困り、どうすることもできない時に神様に祈り、神様の導き、神様の語られる声に従って行動した時に、神様が私達をその問題から助け出して下さったこと、不思議な存在の働きがあったことを体験したことはありませんか。 

私は、家業を継いだ後、その仕事を辞めた時に、弟が中古の家を買い、リフォームの必要がありましたが、十分な蓄えがなく、自分達ですべてやることを決めて近くのホームセンターに材料を買いに行きました。

たまたま訪れたホームセンターでしたが、そこにはアウトレット品の売り場があり材料が格安で販売されて、ほとんどを格安で買った後も時には不思議な人とのつながりによって材料をタダで譲りうけたこともありました。さらに神様はリフォーム終了まで改築のあり方のアドバイスを「あぁしたら良い、こうしたらいいよ」と語って下さっているように感じ、その通り作業を続け、考えていた以上のリフォームとなりました。

*心の中に住まわれる神様

イエス様の言葉通りに行動した弟子達が不思議なみ業を体験したように、神様は信じる者達の心の中におられ、慰め、励ましの言葉を下さいます。私達もイエス様を出迎えた人々と同じように「ホサナ。

主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(ルカ19:38)と、讃美いたしましょう!

2022年3月20日の説教要旨 イザヤ書48:・1-8、Ⅱテモテ1:8-14

信頼をおく」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イザヤ書は大きく三つに分けられ、それぞれ書かれた年代も著者も異なり、本日の48章の著者は、仮の名前で第二イザヤと呼ばれています。

注 (第一イザヤ:1-39章、第二イザヤ:40-55章、第三イザヤ:56-66章)。

B.C.586年、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされ、民の多くは首都バビロンの郊外に連行されていきました。そしてペルシア王キュロスによって解放されるまでの約半世紀を、人々は囚われの民としての生活を送っていたのでした。48章は、バビロン捕囚の末期からエルサレムへ帰還する頃まで活動した第二イザヤが、囚われの民として生きる人々に語った主の言葉です。前半では神様の叱責と警告、後半は祖国イスラエル・神の住む都エルサレムに帰ることができる(解放の時が近づいている)という希望と、第二の出エジプトのように、神様が守り導いて下さる救いを知らせる励ましの言葉が語られています。

ヤコブの家よ」(1節)

神様は「ヤコブの家よ、」と呼びかけられます。これは「族長ヤコブ」の12人の息子達が各々の部族の祖となったことからイスラエルの民全体をさします。呼びかけに続き「まこともなく、恵みの業をすることもないのに 主の名をもって誓い イスラエルの神の名を唱える者よ」と、人々が神様に対して、偽りのない真実な、正しい態度でかかわることをしてこなかった(正しい関係作りをしてこなかった)と指摘し、彼らは口先だけ「主に信頼している」と言い、主の名を呼んだり、誓いを立てたり、祈ったり、と見せかけだけの信仰へと変わってしまい、心は固くなり、素直に神様の言葉に耳を傾けず、他人のことを思いやることなく自己中心主義者になり、不信仰の民になってしまったと言われます。けれども神様は、神様の御栄光が汚されないために「怒りを抑え、耐えて、お前を滅ぼさないようにし(9節)」、「あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら、平和は大河のように恵みは海の波のようになる(18節)」と約束されました。

*わたしたちの時代

 ヘブライ書には「神はかつて、預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(1:1-2」と記されています。

 かつて神様が第二イザヤを通して民に語られたように、私達の時代においても、御子イエス様を遣わして語られました。語られた言葉が必ず起こる過程においては、私達の、どこか心の奥に潜めている疑いや、隠した行い、根強い不信仰などが少しずつ明らかにされていきます。

自分が信頼している方を知る」(12節)

本日のⅡテモテへの手紙でパウロは、主を証しすることや主の囚人であることを恥じてはいないし、あなたも恥じてはならないとテモテに告げます。なぜならパウロは、自分が信頼している方を知っているからだと言います。神様を信じる私達がパウロと同じ立場に立つことは、イエス様に対して信仰を告白する者の一人になるということです。パウロと共に苦しむことは、人々に良き知らせである「福音」を伝えるための苦しみであり、たとえどんな苦しみであっても、神様の力を受けてしっかりと立ち向かう“神様の言葉に立つ”能力が与えられるということです。 

9-10節には、「神がわたし達を救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、わたし達の行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」とあります。神様は聖なる呼びかけをもって私達に救いを与えて下さいました。その救いが、もし「行い」から来るならば、その救いに与かった人は、何か問題が起きた時に心が揺れ動かされて離れてしまうことになります。しかし救いが,神様の恵みによるものなら、それは永遠に変わることはありません。確かにイエス様は私達の罪のために十字架にかかり、死なれ、三日目に復活され、天に昇られましたが、聖霊を送って下さり、今もこうして神様を信じる私達の心の中におられます。神様の呼びかけと恵みは、ただ主イエス・キリストを通してのみ与えられるものです。救いはこの世に生きるすべての者に向けられている神様の恵みであることを忘れず、今週も歩んでまいりましょう。

2022年3月13日の説教要旨 エレミヤ書2:1-13・エフェソ6:10-20

悪との戦い」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

エレミヤ書1章4節以下にはこのようにエレミヤが告白しています。

主の言葉がわたしに臨んだ。わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。』」

 エレミヤに命じられた使命は、諸国民の預言者となることであり、それはすでに、エレミヤが生まれる前から神様が定めた職業でした。これに対してエレミヤは、「私は若者に過ぎません」と応答します。しかし神様は「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束されて励まし、語るべき言葉をエレミヤに授けました(同 8-9節)。

*エレミヤの生きた時代

 かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、神様は人々の叫びを聞いて、指導者モーセを送り、エジプトから救い出しました。旅の中でモーセを通して与えられた十戒を聞いたイスラエルの民は、その言葉にすべて従うことを約束しました。彼らは、荒野の40年間の旅を通して主に養われ、成長し、自分達のアイデンティティー(自分が、一人の人格として存在していること、民族としては、他者から区別される独自の性質・特徴)を見出していきました。そしてこの旅を通し、神様は自分達と共におられる唯一の神であることを知り、神様との信頼関係を築いていきました。その時のイスラエルの民について、神様はこう語られています。

わたしは、あなたの若い時のまごころ、花嫁の時の愛、荒れ野での従順を思い起こす(2章2節)」と。

けれどもエレミヤが召命を受けて、預言者として活動していた時代は、イスラエルの民は、カナンの地に入り、カナン人の信じるバアル信仰(農耕神)の影響を受けて、主を捨てて他の神々に香をたき、偶像にひれ伏し、主に向かう「初めの愛」から離れてしまっていました。当時の祭司達も「主がどこにいるのか」とは尋ねず、探さず、教育者達も主を知らず、王や指導者達、預言者達までも、無価値のものに心を奪われていました(2章5節~)。 ここに、すべてのイスラエルの罪があります。

*主の語りかけ

 2章の初めには、1章4節と同じ様に「主の言葉がわたしに臨んだ。」と、主の語りかけの言葉から始められています。「主の語りかけ」とはどのようなものでしょうか。私達が心を静めて神様に思いを向ける時、主の霊、聖霊を通して神様の思い、神様の行動を知ることが出来ると思います。神様の霊の中に置かれる時、私達の本来あるべき姿を知らせ、神の子供として自由になり、私らしい輝きを放つことができるようになり、神様との関係が深まることで神様の愛をさらに深く感じていきます。

*神様との関係の回復

 神様とイスラエルとの約束は、自分の意志で選択できるものでした。同時に悪に対しては裁きがあり罰を伴いました。神様から離れた民に残された選択は、犯した罪に目を留め、悔い改め、再び主を知ること、すべてを神様の前に明け渡すことです。これが神様との関係を回復する唯一の道です。エレミヤは人々に神様に立ち帰るように語り続けました。

*悪との戦い

神様を信じる者達が主に拠り頼み、主との関係を築き上げることで主と結ばれて、主の偉大な力を身にまとうことが出来ることを、本日のエフェソ書は教えています。一方で、神様の霊を受けることによって、この世の霊の力、悪の力と戦わなければなりません。私達は悪魔の働きかけに気をつけて、神の武具を身に着けるように教えられています。

それは、私達が神様を信じた時、イエス様を救い主として受け入れた時に、すでに神様の力である聖霊をも受け入れています。この霊の力は日々の生活の中で、祈りをしている時、聖書を読んでいる時、讃美をしている時など、私達が神様とより深い関係、近い関係にあればあるほど大きくなります。それと共に私達には、悪の力から勝利されたイエス様がおられます。私達は、神様との関係づくりを大切にして、神様に愛されている者として、喜びを持ちつつ今週の歩みを始めて参りましょう。

2022年3月6日の説教要旨 エレミヤ書31:27-34・ヘブライ2:10-18

誘惑に勝つ」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエレミヤ書には、神と人間の関係を示す契約の、最も深くて本質的な内容が示されています。神様とイスラエルの民との契約とは、神様がシナイ山において、指導者モーセを通して民に与えられた契約です。それは十戒と呼ばれる十の戒めであり、「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を、民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」(出エジプト24:3)」と記されています。十戒をはじめとする律法は、イスラエルの民の生活の中で生きたものとなり、人格形成の助け手の役割がありました。

*新しい契約

この神様とイスラエルの人々との間で結ばれた約束(契約)が、今度は新しくされることが、預言者エレミヤによって、神様の言葉が語られます。

見よ、・・・新しい契約を結ぶ日が来る」(元の言葉では「日々」)です。

この「新しさ」とは、今まで契約の相手は「イスラエルの民=群・共同体」であったけれども、今度は、「神様とわたし(個人)」の間で結ばれる契約になるというのです。神様との契約は、表面的に命令として受け止めたり、定められた基準にただ従って行動するというのではなく、ひとりひとりの心に刻まれて、人間性そのものが新たにされる、ということへとつながることになります。

*預言者エレミヤ

 エレミヤが活動した南王国ユダでは、ヨシヤ王が修理中のエルサレム神殿から発見された神の律法の書(申命記)によって、BC.621年に宗教改革が行なわれました(列王記下22-23章)。エレミヤは、その律法の書に記されている全ての言葉を価値あるものとして扱い、この契約の言葉に従わない者は呪われることを主張し、ヨシヤ王の改革運動を支持しました。

ヨシヤ王は、神殿および周辺にあった偶像となりうる物をことごとく外へ運び出し、破壊し、焼き払い、神殿や高台、町などを聖(きよ)めました。

しかしヨシヤ王が戦死したことにより、人々が律法の言葉に対して真剣に取り組まなかったことで、この宗教改革は挫折(ざせつ)しました。エレミヤから見て、イスラエルの人々は、希望が持てない民、絶望的な民であり、彼らのあまりの罪の深さにより、自分の意志や考えをコントロールできず、自ら滅びの道へ歩んでしまったのでした。

BC.587年にエルサレムは陥落。神殿は焼かれ、ユダ王国は滅び、人々は捕囚となってバビロニアに連行されていくのです。しかしエレミヤは、そのようなイスラエルの人々でも、その中から、わずかな可能性、望みを持ち続け、人々が将来、神様に立ち帰り、信仰を再び取り戻すことを期待し、民族再生の道を追求していました。人々から激しい迫害を受け、涙で語るエレミヤは、神様への純粋な信仰を貫き通して、「新しい契約」のメッセージを語ります。

*「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(33節)

あの、古い律法(=十戒)は、石の板(イスラエル共同体)に刻まれたが、これからは、一人ひとり・個人の心に律法が記されるという「新しい契約」が結ばれる日がくるのです。それは、私達が義務や、他の誰かから強制されて物事を捉(とら)えるのではなく、わたし達の心の内側からの意志の現われが、自発的な態度を造り、自分に直接関係するという意識を生み出すことになり、自分の意志で、神様の律法(トーラー)を守り従うことになります。このことにより、神様の言葉「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)ことが可能となる契約です。

*ヘブライ書2章18節

イエス様は、私達人間の罪をつぐなう為に私達の身代りとなって律法を成就され、ご自身の十字架の犠牲によって律法での「いけにえ」を献げる行為を終らせて下さいました。私達自らが、主イエス・キリストの贖いの死と復活を信じて聖霊に満たされ、導かれ、聖書の御言葉に信頼を置くことで、新しい契約の下での「救い」を無償の賜物として受け取る機会を与えられています。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人達を助けることがおできになるのです。

2022年2月27日の説教要旨 ヨナ書 1:1-2:1・ヘブライ書2:1-4

御業の現われ」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

主なる神様は、預言者ヨナに「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」と、言われました。

神様は、アッシリアの都(みやこ)ニネベの人々が悪の道を歩き続けていることで審判を下し、まもなく大いなる都のニネベが滅亡することを告げるようにヨナに命じたのです。しかしヨナは、主の言葉に従わず、主の前から逃れようと、ニネベとは別方向のタルシシュに向かう船に乗り込みます。

*主から逃れたヨナ

 ヨナはなぜこのように「主」から逃げようとしたのでしょうか。神様から与えられる言葉は預言者にとって絶対的な命令であり、聖なる裁き主である神様に対して、預言者は従う責任を負っています。にもかかわらず、ヨナはその命令から逃げようとするのには何か理由があるはずです・・。

ひょっとしたらヨナは、遠く離れた所に行くことで、神様の命令から身を引くことができると考えたのかもしれません。けれどもヨナの乗った船は、大荒れの海の中で砕けんばかりとなり、積み荷を海に投げ捨てても海は荒れる一方でした。この災難は誰の原因で起こったのか、くじを引いたところヨナに当たった為、ヨナは皆に、神の前から逃げたことを告白し、自分を海へ放り込むようにと頼みます。それは、自分の死によって罪を悔い改めれば神様の怒りは静まることをヨナ自身が知っていたからです。

*巨大魚の腹の中へ

海はますます荒れ、船は制御不能となり、乗組員達はついにヨナを海に放り込みます。すると荒れ狂っていた海は静まり、この出来事によって人々はヨナの信じる神様を大いに畏れていけにえをささげたとあります。一方ヨナは神様によって巨大な魚に吞み込まれます。三日三晩の後、神様は魚にヨナを吐き出させ、ヨナには神様の命令が繰り返されます。悔い改めたヨナは直ちにニネベに行き、命じられた通りニネベの滅亡を叫びながら町を歩き廻りました。すると、ニネベの人々は断食し悔い改めたのです。

*ヨナの不満

人々が悪の道から離れたことをご覧になった神様は思い直され、災いを下すのをやめられました。しかしヨナは不満を訴えます。「ああ主よ、だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私にはこうなることが分かっていました。あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方です」と。ヨナは「神様というお方は、悪に対しては厳しく罰するが、悔い改める者には恵みと憐れみを注ぎ、罪を赦し、滅ぼす計画をも思い直されるお方である」からこそ、わたしは<滅びの宣告>の命令から逃げたと訴えました。

そうでないと、押し流されてしまいます

本日のヘブライ書の1節に「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」とあります。この「押し流される」の元の言葉の中に、流れたり、すり抜けたり、滑り落ちるという意味がありますが、航海の意味も含んでいます。

この「航海」は、船を港に泊める意味の他に、船員が、風や潮の流れに注意することを忘れてしまうことや、避難するはずだった港や避難所をすり抜けてしまった船のことも含まれます。

*わたしたち

もし「わたし」という生命の船が港を通り過ぎてしまい、嵐で船が壊されないようにするには、「神様の言葉である聖書」が私達にとって船のかじを取る役割・存在です。私達は、この聖書の言葉・イエス様の語る言葉から離れては何もすることはできません。このお方こそが、私達の心の中に癒しを与え、力を与え、励ましを与え、生きる意味を教えて下さるのです。私達は時に、ヨナのように神様の声、語りかけを無視して、違う方向、自分が良く思える方法へと歩むことがあります。しかしヨナが巨大魚に呑み込まれてしまう中でも、主の助けによって救い出される体験をしています。私達もイエス様に救い出された者であり、その霊に満たされた者たちです。たとえ私達の生活の中で、今が嵐だと思える状況にあっても、私達は希望を捨てずに神様の声に耳を傾けましょう。