4月16日の説教要旨 「その時、わたしは ―イースターの光に包まれて―」 佐々木勝彦先生

イザヤ書53110  マタイ福音書266975   Ⅰコリント書15111

 はじめに

イースターに因(ちな)んだ聖書箇所で思い出されるのはどこでしょうか。マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通する最後の御言葉は「出て行きなさい。」、更には「伝えなさい。」ということです。そして、それは「どこに」でしょうか。マタイ福音書を例に挙げれば、「すべての民の所に」であり、そこで具体的に何をするためなのかと言えば、「洗礼を授けるように」ということです。

 「イースター」を考える時

「イースターをどう考えるのか」というテーマを与えられた場合、「主の大宣教令」の中の「すべての民に洗礼を授けなさい」を思い起こすことができるでしょう。洗礼を既に受けた方は、自分が受洗した時、復活の主に出会ったと言えるでしょう。しかし、主との出会いを忘れてしまい、信仰生活から外れていく人もいますし、逆に持続する人もいます。次に、「飲み食い」=(教会では)「聖餐式」において、復活したイエス様に出会います。「聖餐式」の度に、復活したイエス様との出会いを考える機会があるのです。そうでなければ、大事なことを忘れていると言えます。

 ヨハネ福音書でのイエス様とペトロ⇒「語り部」となったペトロ

また、ヨハネ福音書21書15節以降の「復活の主と弟子ペトロ」の話も示唆に富んでいます。断絶した子弟関係を繫ぐ(修復する)ことが記されているからです。今日の新約聖書の箇所にもあるとおり、ペトロはイエス様を三度も知らないといった「ダメ人間」とも言える人物です。この箇所(ヨハネ21:15~)から考えられるのは、ペトロが「十字架にかかったイエス様が、ダメ人間の私を許してくださった!」と感謝し、それを伝えたということです。つまり「語り部」になったという訳です。東日本大震災の後にも「語り部」が現れました。キリスト教もそうだったのではないでしょうか。「語り部」が先に生まれ、その後に文字、つまり「聖書」が書かれていくのです。「語り部」が語ることは二つ、一つはイエス様に何が起こったのかということ(まず、これを正しく語れなければなりません。)、二つ目は「その時、わたしはどう思ったか?」ということです。語る事柄とわたしの気持ち、この二つが「語り部」には必要です。こうして、「語り部」の語ることが、キリスト教の中では「証し」や「説教」となっていったのでしょう。

 パウロとペトロ

私自身は、パウロがいかに素晴らしいかを語る牧師の説教を長年聞いて育ったので、パウロは好きですが、ペトロは好きではありませんでした。しかし、今回「主の復活」をテーマにもう一度、聖書を通読してみた結果、ペトロが「ダメ人間」だった故に、復活したイエス様から許されて受け入れられた喜びがいかに大きかったか、また、その経験によって、ペトロは「語り部」として神様に用いられていったのだということを発見することができました。

 イースターは「死」について考える時

さて、主の復活の讃美歌でも明らかなように、イースターは「死」について考える時でもあります。イエス様の宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。神の国が近づくとは、終末のことです。終末とは、時間の死です。人間としての私の死だけでなく、時間の死も考えるべきことが示されています。つまり、イースターは自分を越えたもの、この世の終わりを考えよということです。ペトロの経験から言えば、イエス様の方から現れ、守ってくださり、自分を「語り部」として用いてくださるということです。イエス様は私達に「大丈夫だから、一緒に行きましょう!」と招いてくださり、大変な時には、イエス様が自分を背負ってくださいます。それは「あしあと」という詩に描かれたイエス様の御姿です。ペトロは、まさしく、イエス様に背負われて歩んだのではないかと私は想像します。

 イースターは復活したイエス様に光の中で出会う時

私達が復活したイエス様に出会うのは、洗礼を受けた時、また、聖餐を受ける時、更には、伝道する時や、死の克服(つまり「復活」です。参照:ローマの信徒への手紙6章3-11節)を感謝する時です。今日の説教題は「その時、わたしは―イースターの光に包まれて―」としました。「その時」とは復活した主に出会う時です。きっと明るい光に包まれていることでしょう。イースターの光の中で、私達は、主に背負われているか、共に歩いていただいているのではないでしょうか。その光はどこから来るのでしょうか。きっと後ろから、即ち、後光が指した中での出会いだと私は考えています。

4月2日の説教要旨 「十字架の勝利」 牧師 平賀真理子

イザヤ書531112 マタイ福音書202028

 はじめに

イエス様は御自分の「死と復活の予告」を3回なさいました。今日の新約聖書の箇所は、3回目の予告の直後=「そのとき」に起こりました。

 「受難」と「死」についての具体的な予告

3回目の「死と復活の予告」では、前の2回とは異なり、「苦しみを受けること」と「殺されること」が具体的に語られました。つまり、「死刑を宣告され」、「侮辱され」、「鞭打たれ」、「十字架で殺される」ということです。エルサレムを直前にして、イエス様はいよいよ御自分に何が起こるか、信頼篤い12弟子達に伝えようとされたのでしょう。

 ゼベダイの息子たちとその母親

今日の箇所の「ゼベダイの息子たち」とは、見出しにもあるように、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ(マタイ4:21)です。12弟子の中でも、主の信頼が更に篤く、ペトロを加えた「3弟子」として重用されていることは福音書に度々記されています(例:マタイ17:1「山上の変容」)。この兄弟に加えて、その母親も、イエス様に従っていた信仰者だったと伝えられています。「救い主」イエス様がエルサレムに行き、もうすぐ「神の国」ができると彼女は期待し、自分の息子達を、主の1番と2番の家臣にするという約束の御言葉を主からいただこうとしました。

 栄光の前に「杯を飲む覚悟」を問われる

自分の子供の繁栄を願うことには、母親として同情したいところですが、自分の息子達だけへの愛に傾いているようです。でも、イエス様はそれを責めずに、自分の従者としての栄光を求める前に、「杯」を経験しなければならず、その「杯を飲む」覚悟があるのかをヤコブとヨハネに問われました。「杯を飲む」とは、神様が与えた過酷な定めを受け入れるということです。イエス様が飲もうとしていた杯とは「十字架上での死」です。この兄弟達にも、弟子ならば、同じように「信仰ゆえの迫害や死」を受け入れる覚悟の後に、栄光が与えられることを示されています。

 「できます。」と答えたのは?

杯を飲めるかと聞かれてこの兄弟達が「できます。」と答えたのですが、それは、イエス様の父なる神様が、彼らに働きかけてくださったからだと思われます。ペトロの信仰告白と同様に「神様の働きかけ」で(マタイ16:16-17)、御子イエス様への信仰基盤が人間の中にできていることが天地に表明されることになりました。だから、イエス様は「できます。」という言葉がやがて実現すると保証されたのでしょう(23節)。「神の言葉はとこしえに立つ(イザヤ40:8)」からです。

 弟子達の順位は、父なる神様の権限

しかし、イエス様は、弟子達の誰が1番や2番の家臣になるかをお決めになるのは、父なる神様の権限であり、御自分にはどうすることもできないと暗示し、2人の兄弟の母親と約束なさいませんでした。なぜなら、イエス様は、父なる神様を完全に信頼し、その御命令や権限に完全に服従なさるからです。

 弟子達の分裂の原因

主要な12弟子の内、ヤコブとヨハネを除いた10人の弟子達は、彼らに腹を立てました。彼らも似たような願望を持っていたと推測できます。弟子達という「信仰者の群れ」の中で、「1番になりたい」という願望が原因で、分裂が起こりました。イエス様は、この弟子達に向かって、御自分を信じる群れの中で、1番になることの意味や目的を教えてくださいました。それは、異邦人やこの世での意味や目的とはまるで正反対であると言われています。

 「異邦人の国(この世の国)」と正反対である「神の国」

異邦人をはじめとする、この世の方法では、権力者は、最大の権威を持ったら、自分の願望を実現することを第一の目的とします。自分のために周りの人々が苦しんでも配慮せず、多くの人々が虐げられたままです。ところが、イエス様の教えておられる「神の国」は、神の愛が実現するところ、つまり、自分が第一ではなく、相手の幸いを第一とする目的をもって、他の人に奉仕することが重要とされる国で、一番大きな権力は一番多くの奉仕をするために与えられるのです。

 「十字架の勝利」

イエス様の飲まれた杯=十字架上の死こそが、他の人間の救いのためにへりくだって自己を犠牲にする「神の愛」を人間に明示した、尊い犠牲です。その後の長い歴史の中で、このことを受け入れた多くの人々が救われてきました。「主の十字架」のみが、周りを犠牲にする「人間の罪」に完全に勝利するのです!

3月26日の説教要旨 「死と復活の予告②」 平賀真理子牧師

イザヤ書53610 マタイ福音書162128

 はじめに

前回、マタイ福音書16章13-21節までを「死と復活の予告①」と題し、お話しをしました。「あなたはメシア、生ける神の子です。(16節)」という、ペトロの信仰告白をイエス様は祝福なさいました。それは、この世での信仰の基盤ができたということを意味します。そして、その揺るぎない信頼関係ができて初めて、イエス様は、人間がすぐには受け入れがたい「救い主の死と復活」について語り始めました。

 「救い主の死と復活」を初めて聞く人間の反応

イエス様が待ちに待った信仰告白をしたにもかかわらず、ペトロは、イエス様御自身が打ち明けてくださった「受難、死、復活」のことを信じられませんでした。というよりも、きっぱりと否定しました。しかも、救い主であるイエス様を「わきへお連れして、いさめ始めた(22節)」のです。これは、何もペトロに限ったことだとは言えないでしょう。他の弟子達にとっても、更に言えば、その後々の人々、ひいては、現代の私達に至るまで、このことを初めて聞く人間にとっては、受け入れ難いことです。「全能の『神の御子・救い主』が反対派の人間から苦しみを受けて殺されるなどありえない!反対派の人々をやっつけて、即座に御自分の支配を始める力と知恵があってこそ、『神の御子・救い主』だ!」と多くの人間が思うでしょう。人間が思い込んでいる「神の御子・救い主」は「栄光の主」、一方、イエス様の考えでは、「屈辱を受ける僕の立場」を味わわねばなりません。

 「神のことを思わず、人間のことを思っている」

イエス様が、直近には祝福したペトロに向かい、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしを邪魔する者。」と呼ばれたのは、大変衝撃的です。その理由をイエス様は続けて語っておられます。「神のことを思わず、人間のことを思っている(23節)」。ペトロは神様から送られた救い主と信じるイエス様の御言葉を、第一に尊重するべき立場にいました。でも、自分の持つ「栄光の主」の像にイエス様を当てはめたいと思い、自分の思いの実現を第一に考え、イエス様の預言を押しいただくことができませんでした。

 「わたしの後ろに来たいと志すのか」

イエス様がペトロに向かっておっしゃった「サタン、引き下がれ」は元々の言葉に忠実に訳すと「サタン、わたしの後ろに退け」です。「わたしの後ろに」が重要な言葉です。それは、24節の御言葉の最初にもあります。「わたしについて来たい者は」というところが、元々の言葉では「わたしの後ろに来たいと志す者は」と書かれています。これが弟子達におっしゃりたいことです。「あなたはわたしの後ろに来たいと志すのかどうか」という問いです。もっとはっきり言うと、「あなたはわたしを前にする(第一とする)のか」ということです。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「わたしの後ろに来たいと志す者」に向かって、イエス様が教えてくださったことが続いて記されています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(24節)」。「自分を捨て」とは、自分の思いや要求を第一に実現しようとする生き方を止めることです。この世では、多くの人間がそういう生き方をするのに、です。そして、「自分の十字架を背負って」と要求されます。「自分の十字架」とは、突き詰めて考えれば、神様の前に断罪されねばならない「自分の罪」のことを指すのだと思われます。ペトロのように、神様の御言葉や御心を知らされても、自分の思いや判断を優先してしまうこと、それが「自分(人間)の罪」であり、神様から離れてしまう「自分の十字架」です。しかし、それを捨て去ってしまうまでは、ついて来てはならないと、イエス様はおっしゃったのではありません!それを背負ったまま、「わたしの後ろに来なさい。」と招いてくださっているのです。そして、その先に、「わたしと共に十字架にかかって、罪を処断してしまいなさい。しかし、それは神様の御心であり、その後には、私が復活の主として永遠の命を与える栄誉を用意しています。」と教えておられるのです。

 復活なさり、従いたいと志す者に「永遠の命」をくださるイエス様

25節以降でイエス様が語っておられる「命を得る」とは、「神様の御前で生きている状態」、つまり、神様に繋がって神様に従って生きるという、「永遠の命を得ている状態」を指しています。肉体的に生きていても、罪の中にいるために神様に繋がっていない状態では、イエス様の目から見て「命を失っている」のです。イエス様は十字架の後、復活の栄光を父なる神様からいただき、その恵みを従う者に喜んでくださる御方です。その大いなる恵みを感謝して歩みましょう。

3月12日の説教要旨 「死と復活の予告①(信仰告白を受けて)」 平賀真理子牧師

詩編861117 マタイ福音書161321

 はじめに

イエス様はガリラヤ湖畔の町カファルナウムを中心に「神の国の福音」を宣べ伝えておられました。ただ、最終的には聖なる都エルサレムに行って十字架に付けられることで、人々の罪を贖う使命を果たさねばなりませんでした。それだけでなく、死の世界に赴いた後に、死の世界に打ち勝って復活なさることが重要な使命でした。イエス様は、その使命を、いよいよ果たすときが近づいたことをお感じになったのでしょう。「十字架と復活」の行われる場所「エルサレム」に向かう前に確認しておくべきことがありました。それは、「イエス様が救い主である」ことを本当に理解し、受け入れている人間がいるかどうかということです。そのため、イエス様はエルサレムとは反対方向の北にある町、フィリポ・カイサリアに一度は退かれて、弟子達に確認する必要があったのだと思われます。

 救い主イエス様に向かって、初めて信仰告白したペトロ

イエス様は、最初に「人々は、『人の子』(イエス様が救い主としての御自分を客観的に指す言葉)のことを何者だと言っているか」と質問なさいました。弟子達は人々の答えを告げました。人々が知っている中で、一番凄いと思われる預言者達の名が挙がりました。でも、イエス様が本当に聞きたかったのは「弟子達が御自分のことを何者だと言うのか。」ということです。

そして、一番弟子と呼ばれたシモン・ペトロが、イエス様の求めていた答えを公けに言いました。「あなたはメシア(救い主という意味)、生ける神の子です。」御自分は十字架にかかってもうすぐこの世を去ると知っているイエス様は、御自分を救い主だと告白する人間の言葉が必要でした。この世に神の国を造るための基盤となるからです。ペトロの告白は、人類初の信仰告白であり、これにより、この世での神の国建設が引き継がれていくことを天地に渡って宣言したことになりました。

しかし、イエス様は、ペトロの信仰告白も、実は父なる神様が準備してくださったのだと語られました(17節)。父なる神様は、この世にイエス様を救い主として送るだけでなく、その受け手としての弟子の信仰告白をも準備してくださったのです。父なる神様の大いなる愛をイエス様は理解し、感謝しておられます。私達もイエス様のように、神様が自分にくださった恵みを理解し、感謝を献げているのか、問われているのではないでしょうか。

 ペトロ(「岩」という意味)と言う名前

それまでは「シモン・バルヨナ」と呼ばれた弟子は、初の信仰告白という働き故に、イエス様から祝福を受け、「岩」という意味の「ペトロ」という名前をいただきました。「岩」という言葉は最高の褒め言葉の一つです。「岩」が持つ、揺るぎないという意味が、確固たる神様の存在をユダヤ人達に連想させるからです。ペトロの、揺るぎない信仰告白の言葉の上に、イエス様を救い主として信じる者達「教会」ができることこそ、父なる神様と御子イエス様との共通の御旨です!

 ペトロの信仰告白を基盤にして、イエス様の御力と権威を託された「教会」

イエス様の救いの御業は、信仰告白を基盤として、教会に引き継がれます。十字架の後に死の世界(陰府)に降ったものの、そこを打ち破って復活した御力と権威を、イエス様は惜しみなく教会に与えるとおっしゃっています。「復活の主」イエス様の恵みをいただいているが故に、教会には、陰府の力も対抗できません(18節)。そして、ペトロの信仰告白を受け継ぐ「教会」は、それだけでなく、「罪の赦し」をこの世で宣言できる権威=「天の国の鍵」をもいただけるのです。もちろん、「罪の赦し」の最終的な権威はイエス様だけがお持ちです。けれども、地上においては、「ペトロの信仰告白を受け継ぐ教会」が「罪の赦し」を宣言することを許されるのです。

 「十字架と復活」は信頼された弟子達によって伝えられていく

イエス様は、御自分の救い主としての歩みが、普通の人々が連想するような「力強い王様のような救い主」の歩みでないことを御存知でした。だから、イエス様を救い主として心から信じて従ってきた弟子達、しかも、信仰を公けに言い表すことのできる弟子達にだけ、御自分が予知している歩みを告げたのです。「惨めな十字架刑の死の後に、復活する」と。それは、信頼できる弟子達にだからこそ打ち明けられたのです。主の死は、私達の罪を贖うためだということは、この弟子達から伝わっています。同時に、私達は、十字架の先に復活という希望があると知らされています。「十字架と復活」という大いなる恵みを神様が私達にくださろうとしています。その恵みを覚えて、更に、主に感謝しましょう。

3月5日の説教要旨 「誘惑に勝たれた主」 平賀真理子牧師

詩編1091b-5 マタイ福音書4:1-11

 はじめに

「荒れ野の誘惑」と呼ばれ、教会では有名なお話に入る前に覚えておきたいことが、直前の段落の後半にあります。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエス様に対し、天の父なる神様が天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃったことです。

 「悪魔」が「神の子」を誘惑する?

「荒れ野の誘惑」は、「悪魔」から誘惑を受けるために、”霊”がイエス様を荒れ野に導いたことから始まります。”霊”とは「神の霊」だと思われます(聖書の「凡例」参照)。「神の霊」がなぜ、「悪魔の誘惑」にイエス様を引き渡すことを許したのでしょう。おそらく、天の神様から「神の子」として祝福されたイエス様は、今度は、この世を支配していた「悪魔」からも認められる必要があったのだと考えられます。

元々、神様は「この世」を人間に治めさせようと計画なさいましたが、「悪魔」は人間を誘惑して神様に背かせ、人間と神様を分断しました。人間は神様が用意した楽園を追放され、「悪魔」がこの世を支配するようになりました(創世記3章)。また、今日の箇所の「悪魔」という単語は、特に、「中傷する者」とか「悪しき告発者」という意味を含んでいます。「悪魔」は、イエス様について「神の子」としてふさわしくない点を見つけて告発するつもりで、誘惑を仕掛けたのでしょう。神様は、イエス様を信頼なさっていましたが、後々、悪魔に訴えられないよう、この世での歩みの最初に、誘惑を受けることをお許しになったのでしょう。

 第一の誘惑

40日もの断食を終えられて大変空腹だったイエス様に向かい、悪魔が「あなたが神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘いました。「神の言葉は実現する」と信じられていましたから、「神の子」のイエス様の御言葉が実現し、石をパンに実際に変え、自分の空腹を満たすように誘ったのです。しかし、イエス様は「悪魔の説」に従うはずはありません。御自分の食欲のために、神様が定めた「この世の自然の法則」を勝手に変えようとは全く思われません。神の子としての力や権限を、御自分のために利用しようとしないのが、神様の性質を受け継いでいる「神の子」です。むしろ、神様に結びついた、本来の人間の在り方をイエス様は示されました。それは申命記8:3にあるように、本来の人間にとって、何よりも大事なのは、「神の言葉である」と宣言なさったのです。

 第二の誘惑

悪魔は、イエス様をエルサレム神殿の屋根の端に立たせ、「そこから飛び降りたらどうだ。神の子なら、聖書の言葉(詩編91:11-12)にあるように、神様が天使に命じて、あなたを守るはずだから、試してみなさい。」と誘いました。悪魔は聖書の言葉を使いましたが、これは、自分の悪意を正当化するために、御言葉を誤用しています。神の御言葉に自分を従わせるべきなのに、悪魔は、逆に、自分の意図のために御言葉を利用しようとしています。悪魔が行った「御言葉の誤った引用」に対して、イエス様は、別の御言葉を正しく示して、悪魔の誘惑を退けました。それは、申命記6:16「あなたたちの神、主を試してはならない」という御言葉でした。主への服従が先に行われ、その結果、主から恵みをいただくという順番が重要です。でも、罪深い者は、恵みを先に欲しがり、服従を後回しにしたり、服従できないままにしたりします。その誤った姿勢を悔い改めることこそ、神様の御心なのではないでしょうか。

 第三の誘惑⇒3つの誘惑に勝たれた主

第三の誘惑でいよいよ、悪魔は心の底に隠していた願望を露わ(あらわ)にしました。イエス様に対して、聖書で証しされている本当の神「主」ではなく、「私(悪魔)にひれ伏して、私(悪魔)を拝ませる」という最終目的です。この世の栄えを見せつけ、そのすべてをイエス様に与えると悪魔は言いましたが、実は、悪魔には、その権限は全くありません。「神の子・救い主」イエス様がこの世に来られてからは、悪魔のこの世の支配はもう終わりに向かっています。それに、「この世の栄え」が欲しいのは悪魔であって、イエス様は「神様の栄光」が現わされることを何よりも願っておられるのです。イエス様は、申命記6:13の御言葉「あなたの神、主にのみ仕えなさい」という御言葉で、悪魔の誘惑を完全に退けられました。私達が「神の子・救い主」と信じるイエス様は、このように「悪魔の誘惑」に完全に勝利された御方です!その御方に倣って、信仰を貫きたいものです。

1月8日の説教要旨 「異邦人の主」  平賀真理子牧師

詩編1021323 マタイ福音書2112

 はじめに

今年の暦で言えば先週の金曜日だった「1月6日」は、キリスト教会にとって重要な日です。「イエス様がおおやけに現れた日」として「公現日」と名付けられ、今日の新約聖書の箇所を覚える日として大切な日です。イエス様が神の民ユダヤ人達だけでなく、それ以外の民である「異邦人」達にも「救い主」として現れてくださったことを感謝し、祝うのです。

 

 「東の方からやって来た占星術の学者たち」

1節にある「東の方からやって来た占星術の学者たち」というのが、その「異邦人」達を象徴する人々です。東の方というのが、具体的にはアラビアかペルシャらしいのですが、大事なのは、彼らが異邦人だということです。また、占星術の学者と言っても、主な仕事は占いではなく、太陽や月や星などの天体の動きを客観的に観測して、農業などに助言することでした。今で言う「天文学者」とか「気象予報士」などと想像していいと思います。ユダヤ人達が「神様の御言葉を知らない」と蔑んだ「異邦人」ではあっても、彼らは客観的な真理に従う準備のできていた人々でした。

 

 もう一人の異邦人「ヘロデ大王」

さて、今日の箇所では、この学者たちの他に、「異邦人」である人物がいます。「ヘロデ大王」です(後々聖書に出てくる息子のヘロデ・アンティパス王と区別するため、今回は「ヘロデ大王」と記します。)。ヘロデ大王は、ユダヤ人の領地の南隣のイドマヤ出身者であり、ユダヤ人と見なされませんでした。つまり、ユダヤ人にとって、異邦人支配者だったわけです。唯一の神様を信じて生きるユダヤ人達を知っていながら、ヘロデ大王の関心事は、自分の欲望を満たすためにこの世での権力を増大させることだけでした。

 

 ユダヤ人でありながら、救い主の誕生を喜べなかった人々

一方、ヘロデ大王のお膝元に居たユダヤ人達は「救い主御降誕」の知らせを聞いてどう反応したのか、2種類書かれています。一つは、ユダヤ教指導者達(「民の祭司長たちや律法学者たち」)であり、もう一つはエルサレムの人々です(3節)。前者は、救い主の誕生地を預言書ミカ書5章を通して知っていてヘロデ大王に教えていますが、彼ら自身は知識はあっても、動きませんでした。また、後者は、ヘロデ大王の下で都にいられる人々であり、すぐに政権交代が起これば、自分達の運命はどうなるのかわからず、不安になったのです。「神の国」が来るために即行動することよりも、今の自分達の生活を守ることが大事な人々と言えるでしょう。そういう意味では、ヘロデ王とユダヤ教指導者とエルサレムの人々は同じだと思われます。

 

 神様と人間 -「救い主誕生」という事実をめぐって-

神様は、愛する人間に預言までしてくださり、実際にこの世に働きかけてきださって、救い主を誕生させてくださいました。にもかかわらず、神様が期待して選んだ人々(ユダヤ人)とその地域の支配者だったヘロデ大王(異邦人ですが)は、その救い主を最初から受け入れる準備ができていないことが示されています。イエス様の苦難は、もうここから始まっていると見ることができます。

 

 「ユダヤ人の王」から「異邦人の主」へ

一方、東方からやって来た占星術の学者たちは、「異邦人」とはいえ、ユダヤ人達の信じる神様の偉大さや、その神様が「ユダヤ人の王」を生まれさせるという預言を知っていたと思われます。そして、星の動きという客観的な事実を見て、ユダヤ人達の話を肯定的に受け止め、自分達を預言と事実の前に従わせ、旅へと出かけました。自分の命の危険を顧みず、救い主に出会う喜びを選んだのです。

ここに、ユダヤ教からキリスト教の萌芽を見て取れます。神様の揺るがしがたい選びによって、ユダヤ人達が神の民として救われるように、神様が導いていることがユダヤ教の根本にあります。けれども、神様はユダヤ人だけが救われればいいと思っておられるわけではなく、ユダヤ人を初めに救い、その後は「異邦人」も救われてほしいと願っておられるのです。詩編にもそれが現れた箇所が幾つかあり、今日の旧約聖書の箇所もその一つです。また、イザヤ書49章1節―6節には、救いの光がイスラエルから地の果てにまでもたらされることを、主が望んでおられることが明らかにされています。

ユダヤ人としてユダヤ人の只中に誕生されたイエス様ですが、今日の箇所では、そのイエス様を「救い主」として拝んで尊い宝を献げて喜んだのは、ユダヤ人達でなく、異邦人達だったと示されています。神様は最初のご計画にこだわらず(「ユダヤ人から救う」)、準備のできた「異邦人」にイエス様を救い主として啓示なさいました。ここに、民族を超えたキリスト教の救いが示されています。私達も肉の上では異邦人ですが、「異邦人の主」の救いを既に受けています。今週は「公現日」直後の週なので、特に、「異邦人の主」の救いの光を受けていることを充分に感じつつ、主への感謝をもって歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

12月18日の説教要旨 「インマヌエル預言の実現」 牧師 平賀真理子

イザヤ書71014 マタイ福音書11825

 はじめに

「インマヌエル預言」とは、今日の旧約聖書箇所イザヤ書7章14節です。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」

 預言

預言とは、神様から与えられた御言葉を、神様から選ばれた預言者が、王様や民衆に告げるように命じられて語られたものです。旧約聖書を奉じるユダヤ人達には、預言者達が折々に現れました。特に、ユダヤの王様や民衆が「主」と呼ばれる神様を信じない時に、「主」を信じる信仰に立ち返るよう、警告を発する内容が多くあります。インマヌエル預言も、まさにそのような時に預言者に与えられたものです。

 ユダの国王アハズの不信仰

イエス様がお生まれになる前、約700年前に実際に起こったことです。ユダヤ人の国ユダの王だったアハズは、先祖を導いた「主」を大事にせず、他の神々を信じる行動を取りました。自分の国が他の2国から攻められた時にも、「主」への信仰に立ち返ることなく、周辺で一番強いアッシリアの王を頼りにしました。そこへ、預言者イザヤが預言を携え、神様から派遣されました。そして、2つの国がユダ国に迫って来ても「恐れることはない。この2国は近い将来、必ず滅びる」と預言し、ユダの国とアハズ王の揺らぎを静めようと神様が働きかけてくださいました。「主」と呼ばれる神様は、イザヤを通し、本当の神様が働きかけてくださっていることを証明するため、「しるし」を求めることさえ、お許しになりました。

 アハズ王の罪深さ

これに対し、アハズ王は「主を試すようなことはしない。」と言いました。「主を試してはならない」とは、申命記6章16節にある掟で、アハズの答えは、一見、信仰的です。しかし、違います。列王記下16章に詳細にありますが、アハズ王は「主」への信仰に戻らず、この世の尺度で力強く見える人間、即ち、アッシリアの王を頼りにする決心を翻しませんでした。「主」を信じていないのに、信仰深いふりをする、そのような罪深い人間に対して、主は「もどかしい思いをされている」と預言者は語ります。(我が身はどうでしょうか。)

 人間の不信仰にも関わらず、この世に働きかけてくださる神様

そのような不信仰極まりない人間の言葉や態度に左右されることなく、主が直接この世に働きかけてくださると預言で告げられました。アハズ王のように、主を捨て、心の底では背いているのに、言葉では信仰深いように装おうとする罪深い人間が求めないのにも関わらず、憐れみ深い神様は、この世に働きかける「しるし」を送ると宣言されました。それが、インマヌエル預言です。

 インマヌエル預言の実現=「イエス」様

インマヌエル預言は、ユダヤ人達の歴史の中で、「主」が「救い主」を人間の男の子として自分達に送ってくださるという信仰へと発展していき、約700年後に、本当に、それが実現したのです!しかし、その男の子の名前は「イエス」と名付けるよう、天使がこの世の父親ヨセフに告げています。「イエス」とは、ヘブライ語の「ヨシュア」のギリシア語風呼び名で、「ヨシュア」とは「ヤハウェ(旧約聖書の神様の名前)は救い」という意味です。だから、今日の新約聖書箇所の21節にあるとおり、「自分の民を罪から救うから、『イエス』」と説明されているのです。

 私達に「インマヌエル(神は我らと共におられる)」をもたらすイエス様

「主」は私達人間を愛し、共に居たいと願われるゆえに、御子イエス様をこの世に送ってくださり、神様と人間を隔てる罪を贖うための十字架の犠牲とされました。そのイエス様を主と信じるだけで、私達は主の恵みによって「神様が共に居てくださる」、そのような人間に変えられるのです。だから十字架にかかり、贖い主となられ、神様から栄誉の復活を賜ったイエス様は、この世での名前のとおりに「ヤハウェは救い」であることを証し、かつ、「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」という、隠された、別の名前(預言の名)の意味も全うされています。

 聖霊により御降誕されたイエス様と預言の実現を受け入れたヨセフの信仰

神の御子イエス様の御降誕は、聖霊の働きによるものだと、今日の新約聖書箇所2か所(18節と20節)にあります。ただ、メシアを待望するとはいえ、インマヌエル預言が我が身に起こったら、多くの人は受け入れ難いでしょう。でも、ヨセフは天からの御言葉を信じ、従順でした。ヨセフのように、天から来る神様の御働きを、この世の人間として受け入れ、従えるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

12月11日の説教要旨 「救いの先駆者」  平賀真理子牧師

士師記13214マタイ福音書11219

 はじめに

今日の新約聖書の箇所はイエス様に洗礼を授けるという重要な役割を果たした「洗礼者ヨハネ」がイエス様に質問するために自分の弟子達を派遣するところから始まります。

 預言された「救い主」のなさること

洗礼者ヨハネの質問は「イエス様が来るべき方かどうか。それとも、他の人が来るべき方か。」ということでした。「来るべき方」とは、当時のユダヤ人達が信じていた、神様が送ってくださる「救い主」のことです。神様の御言葉を預かる預言者達によって、「神様がこの世に救い主を送ってくださる」と人々は知らされていました。その預言の一つが、イザヤ書61章にあり、その冒頭の1節は特に有名でした。救い主がこの世に来られたら何をなさるのか書かれています。「貧しい人に良い知らせをもたらす・打ち砕かれた心を包む・捕らわれた人には自由をくださる・つながれている人には解放を告知してくださる」のです。

 イザヤの預言がイエス様の御許で実現していた!

イエス様の御許で、イザヤ書の預言どおりのことが行われていました。多くの人々が病いから癒され、イエス様との出会いで希望を持つようになりました。そんなことができる人は、それ以前に存在しませんでした。ユダヤ教を教える先生達はいましたが、イエス様のなさった御業は、神様の御力をもってしかできないこと、つまり、「神の御子・救い主」にしかできないことでした。ヨハネの弟子達は、イエス様の所へ来て、現実を見たのであり、それをヨハネに伝えるようにイエス様はおっしゃいました。それは、預言を当然知っているヨハネが、弟子達の証言を聞き、イエス様が預言された「救い主」だと自ら悟ってほしいと願ってのことでしょう。

 「主の道を備える者」としての洗礼者ヨハネ

イエス様が公生涯を始められる前に、ユダヤ人達や周辺住民は、洗礼者ヨハネの悔い改めを勧める話を聞き、その洗礼を受ける人も多くいました(マタイ3:1-12)。「救い主」が現れる前に、「主の道を備える者」としての役割をヨハネは果たしていたのです(イザヤ書40:3)。人々が悔い改めに本当に励んでいたら、救い主が来られた時、人々の心の受け入れ準備ができているであろうと、神様が計画なさったのだと推測できます。だから、イエス様はヨハネについて、人間の中で一番偉大だと語られました。

 「救い」の新しい御計画

しかし、その直後に、こう語られました。「天の国で最も小さい者でも、ヨハネより偉大である。」。これは、神様の救いのご計画が、古い形から新しい形に移ったことが伏線として隠されています。神様は人間の救いのご計画を、最初は、ユダヤ民族を中心とした救いとされました。しかし、人々の不信仰で救いの実現が遠のきました。そこで、神様は「救い主」を信じる者達を中心とした救いのご計画を新しく立てられました。救い主イエス様を信じる者達が集うのが「神の国」「天の国」です。だから、最初の救いの計画の中にいたヨハネよりも、救い主を信じるという新しい救いの形で救われる者達の方を、主が偉大な者達として喜んでくださることが示されています。

 洗礼者ヨハネの先駆者

新しい救いのためには「救い主」が重要です。そして、その救い主の先駆けとして「主の道を備える者」だったヨハネは、救い主イエス様と繋がった存在として、神様のご計画のうちで重要な存在でした。神様は、救い主イエス様だけでなく、そのヨハネにも、先駆者を置かれました。ヨハネの先駆者として有名なのは、預言者エリヤです。ユダヤ人達は、エリヤを最高の預言者として尊敬しました。

 サムソン

しかし、エリヤだけでなく、それより以前のサムソンというリーダー(「士師」)も、ヨハネの先駆者として挙げることができます。今日の旧約聖書箇所でわかるとおり、生まれる前から(母親の胎内に入る時から)、神様のご計画のうちにあって、神様の御業を担う人間として、神様が特別に愛されたことがわかります。サムソンは、当時のユダや人の敵だったペリシテ人に打ち勝つために神様が初めから準備された人物です。このように、神様の救いの御業は、幾重にも重なった準備の上になされることが示されています。

 私達の先駆者、私達が先駆者!

このことは、救い主イエス様を信じて「神の国の民」とされている私達信仰者にも言えます。私達の救いのために神様がご計画くださり、誰か先駆者を通して、私達を救ってくださいました。神様が幾重にも準備してくださっているのです。それほどまでに憐れみ深い神様に感謝しましょう。そして、今度は私達が誰かの先駆者になれるよう、学び続け、祈り続けて参りましょう。

12月4日の説教要旨 「主は来られる」  平賀真理子牧師

イザヤ書591220マタイ福音書135358

 はじめに

先週の説教で「救い主を迎えるのに、ふさわしい心を用意しましょう。」と話しました。それは、具体的には、どういう心なのでしょうか。実は、「待降節」または「アドベント」の時に、特に大事なこととして勧められていることは、「悔い改め」です。

 「悔い改め」

 悔い改めとは、自己中心というこの世の価値観に基づいた生き方から、神様の御心を第一とした生き方に180度方向転換して生き始めることです。「悔い改め」の重要性について、今日の旧約聖書箇所にも書かれています。イザヤ書59章の小見出しは「救いを妨げるもの」とあります。人間が救われていない理由について、神様の力不足ではなく(1節)、人間の悪が神様と人間を隔てているから(2節)と確かに示されています。「人間の悪」が原因です。自分の本来の造り主である神様のことを考えずに、自分を中心に生きる習性=人間の悪が、神様からの救いを妨げ、神様と人間を隔てるために、人間は神様の許に帰れず、救われないのです。だから、そこから立ち帰る=悔い改めが必要です。

 「主に対しての『偽り』『背き』」

聖書で証しされている神様「主」は愛することを喜ばれる神様であり、正義を愛する神様です。だから、主を知らされた人間も、主に倣って生きるべきだと知っています。でも、現実はいつもそうできるわけではない、自分の日常生活を顧みれば明らかです。その時、私達はどのようにしてしまいがちでしょうか。本当は素直に謝ればいいのに、できません。そこで、イザヤ書59章13節にあるように、主に対する「偽り」「背き」へと傾いていきます。私達はまず、自己正当化しようとして言い訳を考えがちです。私達は、その言い訳を更に自分の都合いいように思ってもらおうと躍起になり、話を大きくしてしまい、最後には「偽り」にまで発展してしまいます。しかし、「偽り」を抱えた心の闇が神様にふさわしくないことだけは自分でわかります。だから、神様の目を恐れるようになります。神様の目をごまかそうとして、愚かにも、自分から神様に背を向けるようになります。それが「背き」です。そんなことを繰り返すことにより、私達は永遠に神様から離れ去ってしまいます。そのような人間達が集まって造る社会だから、中心にいるべき正義もまかり通らなくなります(14節-15節a)。

 「主は贖う者として」

しかし、そんな人間達を主は裁くのではなくて、贖う者として、私達の所に来てくださるということがイザヤ書59章20節にはっきり書かれています。「主が贖う」とは、自分から神様に背いた人間の罪を、主が代わりに背負ってくださるという意味です。「主」は、まず人間の罪を贖う御方であるということを、是非、覚えていただきたいです。

 「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」

次に20節に書かれている御言葉は「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」ということです。「ヤコブ」とは、創世記32章23節以降を読んでいただくとわかるのですが、主(の使い)と真剣に格闘した人です。主の祝福をいただくまで離さないと言って主(の使い)にしがみつき、とうとう「主の祝福」をいただき、主から「イスラエル」という新たな名前をもらった人です。つまり、神様なんてわからないとか信じられないとか言って斜に構える人ではなく、神様と真正面から向き合おうとする人のことです。そういった姿勢で生きる人で、しかも「罪を悔いる者」のもとに「主は来られる」のです。この世で生きる私達には、この世の常識や自己中心の思いに染まり、主がお嫌いになる「偽り」「背き」をしてしまうことがあるかもしれません。しかし、その時、素直に主の方に真正面に向き直り、謝り、次の機会には聖霊を送って助けてくださいと祈って、その都度、自分を主の御心に従わせる(悔い改める)ことが必要だと思われます。

 イエス様の故郷(ナザレ)の人々と私達の共通点

今日の新約聖書箇所では、ナザレの人々が、イエス様を人間としてだけ捉え、「救い主」として受け入れなかったと記されています。彼らは出来事を表面的に捉える目だけしか持っていませんでした。神様の預言を知らされていたユダヤ人ですから、神様の御言葉を信じて、人間的な見方にだけに縛られず、神様からの目をもっていたら、イエス様が実は「救い主」なのかもしれないと思えたかもしれません。主を知らされた人間は、自分の体験の奥に主の御心があるはずだという目を持たなければなりません。さて、私達の仙台南伝道所も福音伝道という主の御業のために立てられ、14周年を迎えました。私達は、主の御業を体験しているという点でナザレの人々と同じです。「教会」に招かれた体験を主の御業として受け入れ、「主が来られる」と言われた再臨の時を待ち望みましょう。

11月27日の説教要旨 「主を待ち望む」  平賀真理子牧師

イザヤ書215 マタイ福音書243644

 はじめに

今日から、キリスト教の暦では「待降節」または「アドベント」という、特別な期間に入りました。この期間、キリスト教会では、神様がこの世に救い主イエス様を送ってくださった恵みを感謝し、主が再びこの世に来てくださることを待ち望みつつ過ごします。本当のクリスマスの意味を知る私達は、主の御降誕を祝う「クリスマス」の前に、「アドベント」という期間を設け、救い主を迎えるのにふさわしい心を用意するのです。

 「終わりの時」

今日の新約聖書の箇所は、1ページ前の24章3節の弟子達の質問にお答えになったイエス様の御言葉です。36節の冒頭の「その日、その時」とは「主が来られて世が終わる時」(3節)を指します。聖書を奉じてきた民は神様が始められた「この世」には「終わりの時」があると考え、それが、いつ来てもいいように、その時の神様の裁きに堪え得る生き方をしたいと緊張感をもって生きてきました。だから、弟子達もイエス様なら「終わりの時」を御存じで教えてもらえると期待し、質問したのでしょう。ところが、イエス様は、それは天使も知らないし、神の御子の御自分も知らない、ただ、天に居られる神様=イエス様の父なる神様だけが御存じだと語られました。

 大きな出来事を突然受けるだけの人間

とすると、人間は大きな出来事である「終わりの時」を突然迎えることになります。そんなこと、実際にあるのでしょうか。しかし、イエス様は、人間の歴史の中で、突然「終わりの時」に襲われて、多くの人が滅んだ出来事が本当にあったことを想起させようとされました。「ノアの時の洪水」です。

 神に従う人「ノア」だけに訪れた救い

「ノア」と言えば、「ノアの箱舟」で知られている「ノア」です。創世記6章から9章までに「ノアの物語」が記されています。大きな洪水が起こったのは、人間が悪を思ったり行ったりすることが増え、神様が人間をお造りになったことを後悔され、人間を滅ぼそうとお考えになったからでした。しかし、ノアだけは「神に従う無垢な人」(6:9)だったので、神様がノアとその家族だけはお救いになりました。ノアの周りの人々は、この世での肉なる者として欲望中心に生きていたために、神様からの知らせを聞くことなく、何にも気づかずに突然「終わりの時」を迎えて滅びました。ノアは神様から知らせを受けていたために、突然でもなく、「終わりの時」に備えて、困難を乗り越える方法(箱舟を造って乗り込む)を神様に教えていただきながら、家族と共に滅びから救われました。この両者の違いを私達は認識すべきです!

 「神様の御心に従う心を眠らせてはならない」

だから、イエス様は「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と教えてくださいました。もちろん、肉体的に眠ってはならないのではありません。「神様の御心に従う心」を眠らせてはいけないということです。神様の御心は福音の中に、また、神様の御言葉の中に表れています。また、マタイ福音書24章44節には、主は「用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と語られていますが、何を用意するのでしょうか。それは「神様に向き合うのにふさわしい心、神様に素直に従う心」です。

 「再臨の時」に備えて

救い主イエス様は約2000年前に既にこの世に来てくださいました。そして、私達の罪を贖ってくださるために十字架で亡くなった後、復活され、そして昇天される前に「再びこの世に来てくださる」と約束されています。(使徒1:11) それを「再臨の時」と言いますし、世の終わりにその再臨の時が来ると伝えられています。先にも述べたように、それがいつなのか、当のイエス様さえ御存じないのだとすると、その重大な出来事を受けるだけの私達人間は、いつも「神様に従う心を大事にしていき、『終わりの時』がいつ来てもいいように歩むべきでしょう。

 「救い主」については預言されていた!

実は、ノアの時と同様、神様の御心に従う人々には、「救い」について何千年も前から預言され、旧約聖書に記されています。今日の旧約聖書の箇所もその一つで、「終わりの日」について預言されています。主の教え・御言葉が「ヤコブの神(天地を造り、「ヤコブ」を選んで人間を救おうと働く神)の家」から出て、全世界の民が従うようになり、本当の平和が訪れる希望が述べられています。

 「終わりの時」=「完成の時」

人間から見たら突然来る「終わりの時」は、実は、神様が御計画されてきた「救いの完成の時」です。イエス様の御降誕は救いの「完成の始まりの時」で、主の再臨の時が「完成の終わりの時」です。私達は、神様が人間を救おうとされる御業の完成の始まりと終わりの間の時に生きています。神様の御言葉を聞き続け、完成の終わりの時を待ち望みつつ、神の民としてふさわしい心を用意しましょう。