2022年11月27日の説教要旨 イザヤ書7:10-14・マタイ1:18-25

「主の到来の希望」       加藤 秀久牧師

*はじめに

私達には、どんなに偉くても偉くなくても、貧しくてもお金持ちの人にも、生まれた日・誕生日があります。その日を祝うのは、大体その人が生きている時だけかと思います。しかし神様を信じる者の間では、イエス様の誕生日だけは、何年も何十年も何百年も何千年もお祝いされています。なぜでしょうか。それは、イエス様が生まれた時から今に至るまで、変わらぬお方であって生きているからです。

主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(7:11)

本日の旧約聖書は、イスラエル王国が、北イスラエルと南ユダに分裂した後の今から約2700年位前のことで、南王国ユダで活動していたイザヤの時代の話です。当時、アッシリアに対抗してアラムの国と北イスラエルの国が同盟を結んでおり、南王国ユダにも同盟に入るよう打診されていましたが、アハズ王の心は揺れ動いていました。預言者イザヤは神様の言葉を聞き、アハズ王に対して「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と伝えました。これは「主に願い求める、主を尋ね求める、主に伺う」ことで、神様を第一にすることを意味します。しかしアハズ王は、「わたしは求めない(7:12)」と答えました。それは自分自身の考え方、能力、自分の情熱によって歩み、他の神々を礼拝するような習慣がその人の身に沁みついてしまうこととなります。

*王国の歩みとわたし達

イスラエルの国が人々の要求により王政になった時、神様が選ばれた初代の王はサウルでした。しかし彼は主を尋ね求めて従うことをしなかったため、神様は彼を退けてダビデを選ばれました。ダビデは主を信頼し、主を尋ね求める者の象徴的存在です。ダビデは「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。(詩篇27:4)」と祈り願っています。私達は神様を何よりも第一に主を尋ね求めて主に伺っているでしょうか。

*イザヤの「インマヌエル」預言

本日のマタイ福音書1章23節では、イザヤ書7章14節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」が引用されています。「インマヌエル」とは、「神は私達と共におられる」の意味ですが、本来、神様の「神性」と、人間の「人性」が共にある存在の意味で、神様と人間とが一つになった特別な存在であり、その「しるし」は「処女から産まれる男の子」でした。この予告は主の御使いから(マリアと婚約中の)ヨセフに、夢の中で告げられました。ヨセフは結婚前にマリアが妊娠したことを知り、ひそかに縁を切ることを決心します。しかし御使いから、マリアが聖霊によって身ごもったこと、生まれ出る子供は「自分の民を罪から救う(21節)」こと、そして700年前のイザヤの「預言の実現(成就)」であることが告げられたのでした。

*神様の御計画

ヨセフは子供の名前を選ぶことが出来ませんでした。それは神様の霊による誕生であり、神様がすでに名前を付けていたからです。

私達も、神様がすでに私達の為に計画されていることを変えることが出来ないことを知る必要があります。私達はこの地上に生まれ、子供から大人へと成長させられた中で、多くの人達との出会いがあり、それを通して様々な場面で神様の存在を知り、何よりも今、このようにして神様に出会い、信仰生活を送れることの素晴らしさ、嬉しさ、喜びが常にあります。これらは神様の呼びかけによらなければ、「インマヌエル」である主が共におられなければ、与えられなかったものであり、私達は生きることも死ぬこともできない者です。それだからこそ神様のご計画は素晴らしく、偉大なものとして受けとめることができるのです。

もしイエス様の誕生がなければ、私達の罪の贖いの出来事も、聖霊も受けることは出来ず、聖書を見ることも読むことも出来なかったはずです。イエス様は、天に於いても地に於いても神であり、王の王、唯一のお方です。この王様が今日もこの礼拝の中に現れ、私達の真ん中、中心にいることを信じ感謝しつつ、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年10月16日の説教要旨 詩編146編・マタイ福音書5:1-12

「主の幸いを受ける」    加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編146編~150編は「ハレルヤ詩集」と呼ばれ、ハレルヤから始まりハレルヤで終り、神様を讃える歌になっています。本日の146編では詩人(作者)が、「命のある限り、わたしは主を讃美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌おう(2節)」と、全生涯を通して 主をほめたたえることを決意を持って呼びかけています。「ハレルヤ。(主をほめたたえよ!)」と主に叫びかけることで、彼の思いのすべてを神様に向けているのではないでしょうか。この詩人と同じように私達も、神様に心を開いて神様を讃美するなら、神様を体験し、神様を知ることとなるでしょう。

主は見えない人の目を開き」(8節)

5節に「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」とあります。神様を見上げ、神様を頼りにし、神様のすること(ご計画)を待ち望む人は幸いである、と、はっきり告げています。そして、「主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる」とあります。「目を開く」は、エデンの園で蛇がエバに、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる・・」と言われてエバが食べ、アダムにも渡して食べたので、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り」と、創世記に記されています(3:5・7)。 蛇の誘惑によって開かれた目は、罪の結果として開かれた目となり、霊的には「盲目」となってしまったと考えることが出来ます。サタンによって人は生まれながらに「盲目」となり、この盲目となった目を再び開けることが出来るのは神様の助け以外にありません。イザヤ書35章には、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。・・そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く』(5節)」とあります。私達は、私達の目を見えなくしている悪魔の支配から解放されて、神様からの幸いを受ける者へと変えられなければなりません。それは、イエス様の救いを受け入れることにあり、イエス様を信じて日々の歩みを生きることを意味します。

*「山上の説教」(マタイ5~7章)

 本日の新約聖書は、イエス様が神様の権威を用い、人々に教えることで、悪魔によって真実を見えなくされていたその目の覆いが取り除かれ、聞く人々は、イエス様が語る言葉によって「目が開かれた」と考えることが出来ると思います。

~人々は幸いである。

 この「~人々は幸いである」は、3~6節では、神様を待ち望む人々の幸いが示され、7~10節では、祝福された人々の幸いが語られています。

前半は、自分が「霊的において貧しい」と悟った者が、初めて神様の深い悲しみを理解する「悲しむ人々」となり、人が「悲しみ」を経験する以前に、神様が悲しんでおられることを知る者を表しています。その「神様の悲しみ」の原因は、私達の内に住む罪にあります。人が罪に支配されて、神様を知ることができず(無知)、神様の御心を行うことができない(無力)現実にあります。罪の横行のため、不条理な現実により打ち砕かれている者が「柔和な人々」となり、神様を求めるようになることが「義に飢え渇く人々」と表しています。

 後半の、「憐れみ深い人々」とは、困っている人達に寄り添うことができる者であり、神様から受けた罪の赦しを理解して、神様との関係を持っている人達です。「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」は、神様との関係作りの深さによって違いが生じてきます。私達が神様をどれだけ身近に感じているか、神様をどれだけ知っているかにより、人との接し方、信じる者たちとの接し方に違いが出てくることを告げていると思います。

*主の幸いを受ける

 それゆえに、イエス様は「私のもとに来なさい!私の幸いを受けなさい!と招いて言われているのではないしょうか。イエス様は今日も私達と共におられます。 このことに私達は心から神様に感謝し、神様との関係を大事にしながら 今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年1月9日の説教要旨 詩編36:6-10・マタイ福音書3:13-17

「天 が 開 く」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

(イザヤ書40:3)の、「荒れ野で叫ぶ者」として神様が用意された人でした。人々に、力ある方・イエス様が来られることを宣言しています。「天の国・神様の国が近づいた」・・この預言的な言葉は、神様がまさに訪れようとしていることを告げて、神様を受け入れようか、受け入れまいかと考えている余裕がないことを意味しています。バプテスマのヨハネは、人々に、罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと、ヨルダン川で洗礼(水につかり身を清め、心を新たにする)を授けていました。

マタイ福音書3章始めには、バプテスマのヨハネが荒れ野で宣教を始めたことが記されています。ヨハネは、預言者イザヤによって預言された『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。

*水で清める

私達日本人にも「水で清める」という風習や考え方があり、神社やお寺に入る前に手を洗ったり、滝に打たれたり、みそぎなど自分の身を清める行為を思い浮かべます。旧約聖書には、エゼキエル書36:25に、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかける時、お前たちは清められる」とあり、人々が過去の行ないから新しい心、新しい霊を持つために、祭司がヒソプ(オレガノに近い低木「マヨナラ・シリアカ」と呼ばれる)に水を浸して、汚れた者にふりかけ、人々の身を清めています。

*イエス様の洗礼(バプテスマ)

ヨハネは人々に水で洗礼を授けているけれども、ヨハネの後から来る方は、ヨハネよりも優れているとヨハネは語っています。イエス様がヨハネのもとに来たのはヨハネから洗礼を受けるためでした。ところがヨハネは「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所へ来られたのですか。」と、イエス様の申し出を強く断りました。自分は、神の子イエス様に身を清める儀式を行うことが出来るような者ではないと思っていたからです。しかしイエス様は、はっきりした目的をもって来たことを伝え、「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げました。イエス様は洗礼を受けられると、すぐに水の中から上がりました。「その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」と言う声が、天から聞こえた」(16~17節)。

このことは私達自身にも起こることを教えようとしているのかもしれません。私達がイエス様を救い主として受け入れ、私達の口からその信仰を言い表した時、「神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ福音書15:10)のです。

*バプテスマのヨハネとわたしたち

ヨハネはイエス様と出会った時、自分の使命、宣教の働きが終ったと考えたかもしれません。けれどもヨハネは、イエス様の言われる通り洗礼を授けました。神様の正しさを行う時、私達にも同じようなことをなさる時があります。私はかつて教会で讃美リーダーとして奉仕をしていましたが、まだ20代でしたので、讃美の導き手として奉仕する恥ずかしさ、怖さがありました。しかし回を重ねる内、自分に集中することから会衆へと目を向けられるようになり、神様の霊の働きにも気を配ることが出来るようになっていきました。神様を感じる体験をしたのです。

神様はどんな時も、私達が悩んだり困ったり、人前で何か大きなことをする時など、時にかなった色々な形で私達の中に現れて下さり(時に身近な人を通してなど)生活の中でかかわりを築いて下さいます。本日の詩編「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ」「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたし達は光を見る。」)と歌ったダビデは、神様が絶えず、神様の霊をダビデに注ぎ続けて下さることに感謝の心で、神様のまことの光を、その霊の注ぎかけの中で見た(感じた)告白をしたと思います。私達が神様の真理、神様の存在、神様の霊の中に入る時、憩う時、私達にとって神様は尊く計り知れないお方として礼拝する、感謝する、愛することが出来ると思います。

2021年10月17日の説教要旨 詩編86:2-10・マタイ福音書25:1-13

「神の国にいたる者」         加藤秀久 伝道

*はじめに

本日の詩編は、ダビデが悩みの中で神様に助けを求めて祈りをささげています。ダビデはどのような時でも神様を信じ、神様に目を向け、前を向いて歩んでいくことを心掛けていました。ダビデは「神の箱(十戒が納められていた契約の箱・主の箱とも呼ばれ、神様の臨在の象徴)」をダビデの町(エルサレム)に運び入れる時、喜び祝い、力の限り主の御前で踊りました(サムエル記下6:14)。それは主の現れ、神様が存在して下さる所には神様の祝福が伴い、神様の栄光があったからです。神様は偉大な神、揺るがず、絶対的で真実なお方です。私達が深い陰府(よみ)に下ったとしても、その中から救い出して下さるお方であることが86編に記されています。

ダビデはこの神様に、真理を求め、心を尽くして感謝をささげ、神様が与えて下さる確かな道を歩むことを望んだと思います。

主の霊の力は どこからくるのでしょうか?

*讃美歌312番

よく讃美する歌に「いつくしみ深き」があり、2番に「友なるイエスは・・祈りにこたえて慰めたまわん」との歌詞があります。私達人間の心や気持は変わりやすいものですが、イエス様は、私達の弱さを知っていながらも、いつまでも変わらぬ愛をもって私達と関係を持って下さり、「悩み悲しみに沈める時も・世の友がわれらを棄て去る時も」、私達の祈りに耳を傾け、励まし、私達を救い出して下さる唯一のお方であることが記されています。

*10人のおとめたち

本日のマタイ福音書25章には、10人のおとめ逹がランプをつけて花婿の到着を待っていて、その内5人は愚かで、5人は賢かったとあります。「愚か」「賢い」とは、「開いた目」という言葉が背後にあり、賢い者とは、来るべきもの、イエス様が再びこの地上に来ることに対して目を開いて見ている、目を覚ましていることを示し、しっかりと神様に目を向けていた人々のことを記していると思います。愚かなおとめ逹は、花婿が迎えに来た時に、ともし火を持っていましたが、油の用意をしていませんでした。ところが花婿の到着が遅れたので、どちらのおとめ逹も、眠気におそわれて眠り込んでしまいました。

*花婿の到着

真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたので、おとめ逹は皆起きて、ともし火を整えました。壺に油を入れていたおとめ逹は、油をつぎ足しましたが、愚かなおとめ逹の火は消えそうでした。そこで賢いおとめ逹に「油を分けてください」と頼みましたが、「分けてあげるほどはありません。店に行って、買ってきなさい」と勧められました。

愚かなおとめ達が買いに行っている間に花婿が到着し、用意のできていた5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り戸が閉められました。その後、他の5人も来て「御主人様、開けてください」と頼みましたが、主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えています。

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(13節)

譬えの、「ともし火・油・整える・分ける・消えそう」は、どれも、私達の心、神様との関係、神様の霊、聖霊について話されていると思います。イエス様は、私達が日々霊に満たされて歩んでいけるように、神様の言葉に聞き従い、祈ることを求めていますが、神様を信じる信仰に違いがあることが本日の聖書で述べられています。神様を信じる信仰は、聖霊の働きによって生み出されますが、信仰生活は何かの問題にぶつかったり、身体の疲れからくる気力のうすれ、力の限界を感じた時など様々なことが原因で神様との関係がおろそかになり、愚かなおとめのように、ともし火を整えられず、「霊」である油をたくわえることも、つぎ足すこともしなくなってしまうことがあります。これらは悪魔が私達をイエス様から引き離そう、目を神様より他に向けさせようとしてこの地上にある物を使い私達を攻撃しているに過ぎません。神様の御霊は、私達の生きる源であり、信仰生活を持続、成長させて下さるものです。

今週の歩みが、主の豊かな霊に満たされますようにお祈りを致します。

2021年7月4日の説教要旨 詩編143:1-6・マタイ福音書7:1-14

「神に祈ること」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編143編では、ダビデは様々な苦難や試練に会い、追い詰められた状況の中で神様に助けを求めています。自分の命をねらう人達から逃げなければならない放浪生活は、まるで出口の見えない暗闇に閉じ込められたような日々の中での苦しみや悩みでした。そのため4節で「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫(くじ)けます。」と訴えます。ダビデの神様へ向けた訴え、祈りは非常に切実なものでした。

1節「主よ、私の祈りを聞いてください。嘆き願う声に耳を傾けてください。あなたの真実、あなたの義によって、わたしに答えてください。

2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。」(聖書協会共同訳)

 私達もダビデのように、苦しみ・悩みから助け出して下さるように神様にお祈りをしたことはないでしょうか。

*祈る中で・・

ダビデは祈り続ける中で、心の中に変化が訪れます。それは神様から受けた昔の日々の出来事に思い巡らして祈ることで、神様の御手の業、神様の働きを考え始めたからです(5節)。ダビデは静かに心を落ちつかせて祈ることで、神様の優しさ・偉大さを思い起こすことが出来たのでしょう。そして6節で「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます」と祈り、ダビデは自分の身を隠すことのできる祈りの場に身を置くことで、神様を信頼するようになりました。

 私達も又、神様に思いを寄せて祈る時、神様のして下さった業、出来事を思い起こして神様に希望を置くことができ、神様を信じる道へと歩み出す力、進み出す力が与えられると思います。

*神様の国に入る心構え

 本日のマタイ福音書7章では、イエス様に従い、神様の国に入る者達の心構え、呼びかけの言葉としての締めくくる言葉が告げられています。

裁くな」と「求めなさい」です。「裁くな」には自分は裁かれている(批判されている)かもしれないという「恐れ」の思いや、自己嫌悪の気持が強いほど、逆に人を裁いてしまう傾向があるようです。「裁く」の元の言葉には「見下げる、判断する」意味があり、人のことをあれこれ考え、見下して評価してしまうような態度をとることです。

イエス様は、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われました。私達は自分の価値基準で人を量るのではなく、神様と聖書の言葉に目をとめて従うべきであり、神様がなさろうとすることに注意をはらうべきです。それは主にある私達が神様を仰ぎ、祈り求めていく一途な心を身につけることではないでしょうか。

*「求めなさい」

神様が教えようとされているのは、山上の説教で語った話を心に留め、それらを守り行なうことができるように求めて、探して、門をたたきなさい、と言われていると思います。「求め、探し、たたく」は、神様の国を求める人々にとって、とても重要な言葉です。「私は人を裁いてしまうし、ふさわしくないから、神様の言葉を守ることができない」と感じるかもしれません。しかし神様はそのような人を救いの道へと導き入れ、神の国に入るのにふさわしいと者と考えておられます。なぜならその人は、すでに神様に対してへりくだりの心を身につけて、神様の国のことを考えているからです。「求める、探す、たたく」の元の言葉は「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい」と、諦めず何度も何度も求め続ける、探し続ける、たたき続けることが求められています。

*神の国

神の国は、喜びの源が私達の外側ではなく、内側にあることをいいます。私達の内側から生命の水・生ける水の川が流れ出るような世界であり(ヨハネ 7:38)、それによって神様に造られた者全てが活気づく世界なのです。<ダビデの詩編16:9-11を読みましょう。>人は、神様の力、神様の霊を受ける時、又、神様を感じる時、その心は喜び魂は躍ります。そして私達の身体は神様の霊の中で安心して休むことができるのです。

2021年1月10日の説教要旨 ゼファニア書3章・マタイ福音書5:12

「讃美と喜び」    佐藤由子伝道師

*はじめに 

ゼファニア書は厳しい裁きの言葉で始まりますが、この3章も又、「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。」と、主に反抗する人々への叱責の言葉から始まっています。そして人々を導く役割を担う人々さえも神様に従わず、神様を信頼せず、神様に近づこうとしない、神様への反抗の罪を繰り返していることが記されています。私達の今の世界も、神様から遠く離れたところを歩いているように思います。神様が望んでおられる世界、神様が喜ばれる道を忘れてしまったかのような選択を繰り返しています。神様を畏れ敬う姿を、どこで見ることができるのでしょうか。

*罪の根源

罪とは神様に反抗することです。なぜ人間は、神様に反抗するのでしょうか。神様が与えて下さる日々が、私達の思い描く人生と違うからなのか。神様が忍耐して待ち続けて下さることに甘えているからなのか。もはや人々は、神様の声を聞くことをやめてしまったのでしょうか。

神様は、人々が神様を畏れ、戒めを受け入れることを期待して待ち続けておられます。それにもかかわらず人々は堕落を重ね、悪事を行いました。信仰は形だけとなり、人々の心も行動も神様からは遠く離れています。

*悪を裁かれる神

それゆえ神様は裁きを実行され、「わたしの熱情の火に(地上は)焼き尽くされる。」(3:8)と言われます。神様は人々に、何度も何度も警告してきましたが、人々はその警告を聞こうとはしませんでした。私達は神様の警告を聞いているでしょうか。私達は自分に起こる出来事だけではなく、世界に起こる出来事も、神様から人間への語りかけであることを覚え、その御心を問い、祈ることを忘れずにいたいと思います。私達は自らの悔い改めだけではなく、とりなしの祈りの使命も与えられているからです。

*わたしたちの祈り

 祈りは必ず応(こた)えられます。そして祈りの先にこそ、希望があります。「その後、彼らは皆主の名を唱え、一つとなって主に仕える」(9節)とあるように、神様は再び人々を聖め、人々は再び神様を礼拝するために呼び集められます。人々が犯した過ちも罪も赦されたのです。 

私達も罪が赦されて主によって新しくされる時、大胆に神様の前に近づいて良いのです。私達は再び主に礼拝を献げる者とされ、主を讃美することが出来るのです。もはや私達を おびやかす者は誰一人いません。神様ご自身が私達を招かれているのです。

*喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。心の底から喜び躍れ(3:14)

 この言葉は神の民への呼びかけであり、教会への呼びかけでもあります。主に連なる者たちは、全身全霊で、全力で喜びなさいと語られています。この「喜びの源」となるものは何でしょうか。それは、「王なる主である神様が、私たちと共におられる」からです(15節・17節)。 

自分の置かれている状況が良くない時さえも、主なる神様が私達と共におられることを覚える時、私達は喜ぶことができるのです。この世界を創られ、全世界を支配しておられる神様が、全ての事に勝利を与えて下さる神様が、私達のただ中にいて下さる!ということにまさる喜びはありません。

*「喜びなさい。大いに喜びなさい。」(マタイ5:12)

本日の福音書でも、喜びなさい。大いに喜びなさい。と、喜ぶことが強調されています。イエス様に従うということは必ずしも良いことだけではなく、従うがゆえの苦しみも又、あります。しかし、その苦しみや迷いの中にあっても、天に目を向けて生きる時、私達は喜ぶことができます。そして私達がイエス様に従う道を選ぶ時、私達の報いは、この地上ではなく、天に用意されます。私達は、毎週の礼拝において、この恵み、この約束の み言葉を覚えて、大いに喜び、神様を讃美し、ほめたたえたいと思います。そして、主を喜ぶことで力を受けたいと思います。主なる神、王なる神様が私と共にいてくださる。・・これは奇蹟以上のことです。 今週も、御言葉に励まされて、主の約束に期待して、大いに喜び、共に祈りつつ歩んでまいりましょう。

2020年10月11日の説教要旨 箴言9:1-6・マタイ22:1-14

「神の招き」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

本日の箴言9章1節に、「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」とあります。「知恵」が、女性として人格化された形で使われています。

「7本の柱」は祭儀の場所として考えられ、2節の「食卓」は神殿での祭儀的食事と考えられ、食事の準備ができると「知恵」は侍女たちを高い所に遣わし「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」と呼びかけさせます。

人は、誰でも「この招き」を受け入れるならば、命を得て、分別の道を進むことが出来ます。なぜならそこには、命の食物と命の飲み物としての「知恵」と「物事を深く見通せる優れた判断力」が与えられるからでした。

*イエス様の招き

 このことは、イエス様が人々に、神様の御言葉を宣べ伝えるためにこの世へと来て下さり、多くの人々に福音を伝え、人々を神の御国に導こうとしている姿に似ていると思います。神様は、私達を、天の国に入ることが出来るようにイエス様を遣わして招待しておられます。

*「婚宴」のたとえ

 ある王様が王子のために婚宴を開くことを決めて招待状を出しました。婚宴の準備ができたので、王は家来達に、婚宴に招いた人々を呼んでくるように命じました。家来達は「招いておいた人々」を呼びに行きましたが、彼らは来ませんでした。そこで王様は別の家来達に「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と言うように命じました。しかし人々は、その言葉を無視して畑や商売に出かけ、他の人々は、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまいました。

「王」とは父なる神様、「王子」とはイエス様を指します。「招いておいた人々」はユダヤ人であり、王様の「家来」とは預言者達です。ユダヤ人は神様から選ばれた民であり、かつて奴隷であったエジプトから助け出された人達で、 神様の愛情が沢山注がれている民です。神様からの祝福を受けることができるように、「救いの日がもうすぐ訪れるので婚宴に出席して下さい」と呼び掛けられていたのでした。

*優先順位

 けれども彼らは王様の招待を断り、自分達の仕事を優先しました。彼らは、その日にやるべき仕事や忙しさに目を向けて、目に見えるものに心を奪われてしまっていました。現代を生きる私達にも当てはまることだと思います。私達は、周りから入る様々な情報の中で何が良いものかを見極め、判断していく必要があります。神様を第一にして、お金や物に執着せず、神様との交わり、一対一の関係を保つことが一番大事です。

*祝福は異邦人へ

 たとえでは、王様は招待を無視したことに怒り、彼らの町に軍隊を送り町を焼き払ってしまいます。これは、紀元70年頃にローマ軍によってエルサレムが破壊された出来事と重なります。そして王様は家来に「大通りに出て、誰でも婚宴に連れて来るように」と命じたので、婚宴の席は一杯になりました。すなわち選民ユダヤ人に用意されていた祝福は、何の条件もなしに、すべての人に用意されたのでした。

*ところが・・

 たとえでは、婚宴に招かれてきた人の中に、一人だけ礼服を着ていない人がいました。その理由を聞かれても返事がありません。そのため王様は彼を外の暗闇に放り出してしまいます。婚宴の席に座るのにふさわしくない・・この世の世界で生きることと神を信じる信仰との想いがあいまいの状態のまま入って来たので神様から裁かれる結果になってしまったと考えられます。私達はイエス様を受け入れ、信じようとしなければ神様の招きに応えることは出来ません。又、聖書を通して神様の力強い臨在を体験していかなければ、しっかりとこの社会に対応して生きていくことができません。私達は、自分自身をすべて明け渡して主イエス・キリストの言葉を聞く必要があります。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(14節)

2020年9月27日の説教要旨 イザヤ書56:1-8・マタイ21:12-17

「まことの家」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに                  

本日のイザヤ書の、この預言は、将来、捕囚の地バビロンから解放されて、故郷エルサレムに帰って来た時に、イスラエルの共同体が行うべき一連の規定を記しています。イスラエルの民が主の祝福を受けるためには、主との契約に忠実であり続ける必要があることが強調されています。

*「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(7節)。

この56章では、主からの祝福はイスラエルの民だけにではなく異邦人を含む全ての民に注がれると告げられます。つまり、イスラエルの人々は、諸国の人々に主のことを告げ知らせることにより、全ての人々が主の祝福を受けるようになり、その使命を担う必要があることを主は示しました。

ところがイスラエルの民は、本来、神様の律法を世界に向けて明らかに示さなければならないにもかかわらず逆に、神様から与えられた恵みを自分達ユダヤ人の、民族的特権として考えるようになってしまいました。

 私達はどうでしょうか。神様の存在が本当であることを他の人に伝えたり、神様から与えられている祝福を、他の人達にも分け与えようとしているでしょうか。 神様は人を造られ、身分に関係なく神様を求めたい、知りたいと思う人達を受け入れて、平安を与えて下さいます。又、私達が一つの所に集まり、聖(きよ)い心で祈ることを望んでおられます。その所には神の霊、聖霊が宿り、人々の上に留まります。それは神様が私達に教えようとしている「祈りの家」かもしれません。

*宮きよめ

 本日のマタイ福音書は、イエス様がエルサレム神殿の境内に入った時のことです。神殿の中にはユダヤ人ではない人々も入ることが許されている「異邦人の庭」がありました(注:婦人の庭・イスラエル男子の庭、と分かれていた)。「異邦人の庭」は、異邦人が神様を礼拝する場所でした。しかし、そこでは商売人や買い物をしている人達がいました。神殿はすべてが神様に献げられた神聖な場所です。イエス様はこの神殿の境内を、本来の姿に戻すために、商売人や買物をしている人達を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒しました。そして「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』と書いてある。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」と言いました。(イザヤ56:7)・エレミヤ7:11参照)

 神殿は、ユダヤ人が行いを正す場所として用いられ、正義を行なうことができるように心を改める場所でもありました。「正義を行う」とは、彼らが他国人、孤児、未亡人を虐待せず、罪のない人を罪に定めず、異教の神々に従うことなく、自分に不幸を招く行動はしないなどの意味も含んでいました。しかしイエス様は、彼らがその聖なる場所を汚し、「主の神殿、主の神殿」と言ってはいるが、その行動が伴っていないことを指摘され、まるで「強盗の巣」と預言者の言葉を用いられました。

*癒しと賛美

イエス様は施しを求めてその庭にいた目の見えない人や足の不自由な人達を癒され、子供達の賛美の声を喜ばれました。イエス様が神殿で行いたかったのは人々が神様を褒(ほ)め称(たた)え合うことでした。弱い人や病気の人達が癒される場でもあるべき神殿の姿から、人間はいつのまにか弱い立場にある人達を隅の方へ追いやり、力ある人、裕福な人、人脈がある人が神殿の境内を占領していました。同じような危険性が教会にあるかもしれません。私達を罪の誘惑へと陥れ、私達は思いやりや、へりくだる心を忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。

*「祈りの家」

 神様は、私達が心を込めて祈る祈りに、耳を傾け、その存在を私達に分かるように表して下さいます。祈りの時間がたとえ短くても、心を込めて祈り、神様に全てを委ねるのなら、神様はその祈りの中に存在して、その祈りに耳を傾け、その祈りの願いを叶えようとして下さいます。

神様は、私達の身分に関係なく全ての人に愛を示して下さるお方です。それゆえ神様の神殿は聖(きよ)く、全ての者の「祈りの家」でなくてはならないのです。私達の心の内に何か思い煩い、迷いの気持があるのなら、今、全てを主に委ね、信頼して、今週も共に歩んで参りましょう。

2020年9月13日の説教要旨 申命記24:14-15・マタイ福音書20:1-16

「全ての人に」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに     

本日の申命記には、貧しい人を働かせる場合の規定が記されています。彼らへの賃金は、(同胞イスラエル人であっても在留異国人であっても)日没前に支払いなさいと記されています。彼らはその日に得た収入でその日の食べ物を買い、生活する必要があったからです。神様はすべての人に目をとめ 人々が日ごとの糧(かて)を得られるように守って下さいました。

*ぶどう園の労働者の賃金

本日のマタイ福音書には、ぶどう園の主人に雇われて働いた人達の賃金についての譬え話が記されています。ぶどう園の主人は労働者を雇うために、夜明けに出かけて行き、一日一デナリオンの約束で彼らをぶどう園に送りました。その後、9時、12時、3時、5時と同じように広場に行き、同じ約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。やがて日が暮れて労働者達がその日の賃金を受け取る時間になると、ぶどう園の主人は、最後に働きに来た人から順に、一デナリオンずつ、同じ金額を渡しました。

*労働者の不平

最初に働きに来た人達は、後に来た人達より多く賃金を貰えると思っていたので、ぶどう園の主人に不平を言いました。この世の常識であれば、朝早くから来て働いていた人は、あとからの人達よりも多く貰えるはずと考えるのは当たり前だと思います。しかしこの譬え話の始めには、「天の国は次のようにたとえられる」と書いてあり、イエス様は弟子達に、「天の国」とは、どのようなものかを教えようとしています。

*ぶどう園の主人

ぶどう園の主人は一日に何回も広場へ出かけて働きたい人達を見つけては声をかけています。ぶどう園の主人が最後に広場を訪れた時にも、まだ人々が立っていました。『なぜ、一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言いました。主人は彼らに、『あなた達もぶどう園に行きなさい』と伝えました。

 主人は、日が暮れて働ける時間まであといくらもない5時にも、仕事を与えるために広場に出かけています。普通に考えればあり得ないことです。ここに、ぶどう園の主人の思いやる憐れみの心、優しさを見ます。

*たとえ話の意味

このたとえ話が、「私達の救い」についてだとしたら、どのような意味をもつでしょうか。父なる神様が何度も何度も私達を救いに導き入れようとしている姿が見えてくるのではないでしょうか。神様は一人でも多くの人々を、罪が存在する世界から導き出して、神の国の一員になれるように救いの手を差し出しているのです。イエス様は、何度も何度も広場へ足を運び、福音(神様の訪れ)を宣べ伝えています。

*夜明け・9時、12時、3時、5時

人々の雇われる時刻が様々であるということは、私達の救われる時期、救いに導かれる時は神様と出会った時期であり、神様の呼びかけに答えた時であるということができると思います。朝早く雇われた人とは幼い時か、若い時にイエス様に出会い、イエス様を救い主として受け入れた人ではないでしょうか。そして5時に雇われた人は、様々な事情により年をとってから、イエス様に出会い、イエス様を自らの救い主として受け入れた人を意味しているように思えます。

*「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(ヨエル書3:5)

神様は、天地創造の始めから人を造り、人に息を吹きかけ、人を生きる者とされました。神様は人に主(神様・イエス様)を知る霊を注いでいるのです。ですから私達人間は、主を求めるならば、主に出会うことができます。神様はすでに私達を招いて下さり、全ての人に「私のもとに来なさい」と呼びかけて待ち続けて下さっています。その招きに応えるかどうか、神様を受け入れる選択をするのは、私です。又、イエス様を受け入れた人であっても、私達の心が神様に向いていなければ、日々神様の霊によって新しくされていなければ、私達は神様の恵みを伝えるものとして働くことはできません。今週も、神様が共におられ、すべてのことにおいて、神様が「私の神」であられますようにお祈りを致します。

2020年8月30日の説教要旨 詩編131編・マタイ18:1-5

「心の清い者」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに

本日の 詩編131編は、澄んだ敬虔に満ちた詩で、詩編の中でも最も美しいものの一つに数えられています。夕刻、太陽が谷の上を静かに照らしながら沈みかける情景と共に、それがまるで、夕べの鐘のように響きわたる光景を思い浮かべることが出来ます。その中で著者ダビデは、素直な、まっさらな心を持つ子供のように神の前に跪(ひざまづ)き、祈りを捧げている姿が想像できます。

この祈りは、若い時に苦労を得て大変な状況を乗り越えてきた後に、神様との交わりを通して平安を見出した人の心を表しています。ダビデが神様から与えられた安らぎは、神様と共にある魂の平安によるものでした。

*誰が一番偉いのか

本日の、マタイ福音書での弟子達の質問は、「天国、神の国では 誰が一番、偉いのでしょうか」です。弟子達の「神の国」のイメージは、人が住む社会と同じように、人々に対してそれぞれの地位や順序が与えられて生活していると考えていたのでしょう。そしてイエス様が弟子達の中からペトロ、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネの3人だけを選んで高い山に連れて行ったり(17章)、神殿税をペトロの分まで納めた(17:27)ことを間近に見て、他の弟子達も、自分達がイエス様から呼ばれる機会があるとの期待感、或は、劣等感のような感情が生まれ、それがきっかけで誰がこの中でより偉いのかという議論に発展したと考えることができます。このような思いは、自分を周りと比べた時に すぐに起こってしまう思いでもあります。

*幼い子供のように

「だれが一番偉いか」の質問に対して、先ずイエス様は「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」(2節)とあります。「子供」は、幼い子供を表す原語が用いられています。イエス様は弟子達に自分をまわりの人と比べることが大事ではないことをはっきり示され、心を入れ替えて、幼い子供のように自らを低くすることが大切であることを教えられました。

私にとって幼い子供のイメージは、自己主張が激しく、何かを要求する時、やって貰えるまでは泣き止まないなどの印象があったので、この「子供のようになる」というのは、あまりピンときませんでした。しかし子供がそのようにするのは、自分では出来ないことを知っているので助けを求めるサインとして、手を貸して欲しい人に、自らができる限りの表現で訴えているのだと考えることも出来るでしょう。イエス様が ここで一人の子供を呼び寄せて弟子達の中に立たせて、このたとえ話をしたのは、幼い子供は、与えられる教えや助けを、素直に受ける者だということを伝えようとしているのではないでしょうか。

*神様の願い

神様は私達に、今まで培った経験、知恵や知識、資格や評判などにとらわれずに、ただ子供のように神様に立ち返り、神様の望まれる救いの道へ向きを変え、心から悔い改めることで自分自身を見つめ直すことが必要だと言っているのだと思います。

この方向転換は、この世で生きる者にとっては難しいと思えるかもしれません。しかしイエス様は私達に子供のようになることを求めておられます。幼い子供は失敗するのが当たり前です。できなくても何度もチャレンジをして、そして出来ない時は、素直な気持で誰かに助けを求めます。

*子供を受け入れる者は、イエス様を受け入れる者(5節)

私達はこのような子供を受け入れ、愛していく心の準備はできているでしょうか。イエス様は、弱い小さく見える子供や、弱しく頼りがいのない人、何か助けを必要としている人達を受け入れなければ、神の国に入ることは出来ない、イエス様を受け入れる者にはなれないことを私達に伝えようとしています。私達は今、全てを捨てて神様の願う、神様が私達に与えて下さった本来の場所へ戻り、その道へ歩もうとするならば、素直な目で物事が見えるようになり、清い心で神様が示される、その道を歩んで行くことができると思います。 その一歩として、まずは私達のできることを神様に献げて行きましょう。