2020年10月11日の説教要旨 箴言9:1-6・マタイ22:1-14

「神の招き」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

本日の箴言9章1節に、「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」とあります。「知恵」が、女性として人格化された形で使われています。

「7本の柱」は祭儀の場所として考えられ、2節の「食卓」は神殿での祭儀的食事と考えられ、食事の準備ができると「知恵」は侍女たちを高い所に遣わし「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」と呼びかけさせます。

人は、誰でも「この招き」を受け入れるならば、命を得て、分別の道を進むことが出来ます。なぜならそこには、命の食物と命の飲み物としての「知恵」と「物事を深く見通せる優れた判断力」が与えられるからでした。

*イエス様の招き

 このことは、イエス様が人々に、神様の御言葉を宣べ伝えるためにこの世へと来て下さり、多くの人々に福音を伝え、人々を神の御国に導こうとしている姿に似ていると思います。神様は、私達を、天の国に入ることが出来るようにイエス様を遣わして招待しておられます。

*「婚宴」のたとえ

 ある王様が王子のために婚宴を開くことを決めて招待状を出しました。婚宴の準備ができたので、王は家来達に、婚宴に招いた人々を呼んでくるように命じました。家来達は「招いておいた人々」を呼びに行きましたが、彼らは来ませんでした。そこで王様は別の家来達に「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と言うように命じました。しかし人々は、その言葉を無視して畑や商売に出かけ、他の人々は、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまいました。

「王」とは父なる神様、「王子」とはイエス様を指します。「招いておいた人々」はユダヤ人であり、王様の「家来」とは預言者達です。ユダヤ人は神様から選ばれた民であり、かつて奴隷であったエジプトから助け出された人達で、 神様の愛情が沢山注がれている民です。神様からの祝福を受けることができるように、「救いの日がもうすぐ訪れるので婚宴に出席して下さい」と呼び掛けられていたのでした。

*優先順位

 けれども彼らは王様の招待を断り、自分達の仕事を優先しました。彼らは、その日にやるべき仕事や忙しさに目を向けて、目に見えるものに心を奪われてしまっていました。現代を生きる私達にも当てはまることだと思います。私達は、周りから入る様々な情報の中で何が良いものかを見極め、判断していく必要があります。神様を第一にして、お金や物に執着せず、神様との交わり、一対一の関係を保つことが一番大事です。

*祝福は異邦人へ

 たとえでは、王様は招待を無視したことに怒り、彼らの町に軍隊を送り町を焼き払ってしまいます。これは、紀元70年頃にローマ軍によってエルサレムが破壊された出来事と重なります。そして王様は家来に「大通りに出て、誰でも婚宴に連れて来るように」と命じたので、婚宴の席は一杯になりました。すなわち選民ユダヤ人に用意されていた祝福は、何の条件もなしに、すべての人に用意されたのでした。

*ところが・・

 たとえでは、婚宴に招かれてきた人の中に、一人だけ礼服を着ていない人がいました。その理由を聞かれても返事がありません。そのため王様は彼を外の暗闇に放り出してしまいます。婚宴の席に座るのにふさわしくない・・この世の世界で生きることと神を信じる信仰との想いがあいまいの状態のまま入って来たので神様から裁かれる結果になってしまったと考えられます。私達はイエス様を受け入れ、信じようとしなければ神様の招きに応えることは出来ません。又、聖書を通して神様の力強い臨在を体験していかなければ、しっかりとこの社会に対応して生きていくことができません。私達は、自分自身をすべて明け渡して主イエス・キリストの言葉を聞く必要があります。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(14節)

2020年9月27日の説教要旨 イザヤ書56:1-8・マタイ21:12-17

「まことの家」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに                  

本日のイザヤ書の、この預言は、将来、捕囚の地バビロンから解放されて、故郷エルサレムに帰って来た時に、イスラエルの共同体が行うべき一連の規定を記しています。イスラエルの民が主の祝福を受けるためには、主との契約に忠実であり続ける必要があることが強調されています。

*「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(7節)。

この56章では、主からの祝福はイスラエルの民だけにではなく異邦人を含む全ての民に注がれると告げられます。つまり、イスラエルの人々は、諸国の人々に主のことを告げ知らせることにより、全ての人々が主の祝福を受けるようになり、その使命を担う必要があることを主は示しました。

ところがイスラエルの民は、本来、神様の律法を世界に向けて明らかに示さなければならないにもかかわらず逆に、神様から与えられた恵みを自分達ユダヤ人の、民族的特権として考えるようになってしまいました。

 私達はどうでしょうか。神様の存在が本当であることを他の人に伝えたり、神様から与えられている祝福を、他の人達にも分け与えようとしているでしょうか。 神様は人を造られ、身分に関係なく神様を求めたい、知りたいと思う人達を受け入れて、平安を与えて下さいます。又、私達が一つの所に集まり、聖(きよ)い心で祈ることを望んでおられます。その所には神の霊、聖霊が宿り、人々の上に留まります。それは神様が私達に教えようとしている「祈りの家」かもしれません。

*宮きよめ

 本日のマタイ福音書は、イエス様がエルサレム神殿の境内に入った時のことです。神殿の中にはユダヤ人ではない人々も入ることが許されている「異邦人の庭」がありました(注:婦人の庭・イスラエル男子の庭、と分かれていた)。「異邦人の庭」は、異邦人が神様を礼拝する場所でした。しかし、そこでは商売人や買い物をしている人達がいました。神殿はすべてが神様に献げられた神聖な場所です。イエス様はこの神殿の境内を、本来の姿に戻すために、商売人や買物をしている人達を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒しました。そして「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』と書いてある。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」と言いました。(イザヤ56:7)・エレミヤ7:11参照)

 神殿は、ユダヤ人が行いを正す場所として用いられ、正義を行なうことができるように心を改める場所でもありました。「正義を行う」とは、彼らが他国人、孤児、未亡人を虐待せず、罪のない人を罪に定めず、異教の神々に従うことなく、自分に不幸を招く行動はしないなどの意味も含んでいました。しかしイエス様は、彼らがその聖なる場所を汚し、「主の神殿、主の神殿」と言ってはいるが、その行動が伴っていないことを指摘され、まるで「強盗の巣」と預言者の言葉を用いられました。

*癒しと賛美

イエス様は施しを求めてその庭にいた目の見えない人や足の不自由な人達を癒され、子供達の賛美の声を喜ばれました。イエス様が神殿で行いたかったのは人々が神様を褒(ほ)め称(たた)え合うことでした。弱い人や病気の人達が癒される場でもあるべき神殿の姿から、人間はいつのまにか弱い立場にある人達を隅の方へ追いやり、力ある人、裕福な人、人脈がある人が神殿の境内を占領していました。同じような危険性が教会にあるかもしれません。私達を罪の誘惑へと陥れ、私達は思いやりや、へりくだる心を忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。

*「祈りの家」

 神様は、私達が心を込めて祈る祈りに、耳を傾け、その存在を私達に分かるように表して下さいます。祈りの時間がたとえ短くても、心を込めて祈り、神様に全てを委ねるのなら、神様はその祈りの中に存在して、その祈りに耳を傾け、その祈りの願いを叶えようとして下さいます。

神様は、私達の身分に関係なく全ての人に愛を示して下さるお方です。それゆえ神様の神殿は聖(きよ)く、全ての者の「祈りの家」でなくてはならないのです。私達の心の内に何か思い煩い、迷いの気持があるのなら、今、全てを主に委ね、信頼して、今週も共に歩んで参りましょう。

2020年9月13日の説教要旨 申命記24:14-15・マタイ福音書20:1-16

「全ての人に」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに     

本日の申命記には、貧しい人を働かせる場合の規定が記されています。彼らへの賃金は、(同胞イスラエル人であっても在留異国人であっても)日没前に支払いなさいと記されています。彼らはその日に得た収入でその日の食べ物を買い、生活する必要があったからです。神様はすべての人に目をとめ 人々が日ごとの糧(かて)を得られるように守って下さいました。

*ぶどう園の労働者の賃金

本日のマタイ福音書には、ぶどう園の主人に雇われて働いた人達の賃金についての譬え話が記されています。ぶどう園の主人は労働者を雇うために、夜明けに出かけて行き、一日一デナリオンの約束で彼らをぶどう園に送りました。その後、9時、12時、3時、5時と同じように広場に行き、同じ約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。やがて日が暮れて労働者達がその日の賃金を受け取る時間になると、ぶどう園の主人は、最後に働きに来た人から順に、一デナリオンずつ、同じ金額を渡しました。

*労働者の不平

最初に働きに来た人達は、後に来た人達より多く賃金を貰えると思っていたので、ぶどう園の主人に不平を言いました。この世の常識であれば、朝早くから来て働いていた人は、あとからの人達よりも多く貰えるはずと考えるのは当たり前だと思います。しかしこの譬え話の始めには、「天の国は次のようにたとえられる」と書いてあり、イエス様は弟子達に、「天の国」とは、どのようなものかを教えようとしています。

*ぶどう園の主人

ぶどう園の主人は一日に何回も広場へ出かけて働きたい人達を見つけては声をかけています。ぶどう園の主人が最後に広場を訪れた時にも、まだ人々が立っていました。『なぜ、一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言いました。主人は彼らに、『あなた達もぶどう園に行きなさい』と伝えました。

 主人は、日が暮れて働ける時間まであといくらもない5時にも、仕事を与えるために広場に出かけています。普通に考えればあり得ないことです。ここに、ぶどう園の主人の思いやる憐れみの心、優しさを見ます。

*たとえ話の意味

このたとえ話が、「私達の救い」についてだとしたら、どのような意味をもつでしょうか。父なる神様が何度も何度も私達を救いに導き入れようとしている姿が見えてくるのではないでしょうか。神様は一人でも多くの人々を、罪が存在する世界から導き出して、神の国の一員になれるように救いの手を差し出しているのです。イエス様は、何度も何度も広場へ足を運び、福音(神様の訪れ)を宣べ伝えています。

*夜明け・9時、12時、3時、5時

人々の雇われる時刻が様々であるということは、私達の救われる時期、救いに導かれる時は神様と出会った時期であり、神様の呼びかけに答えた時であるということができると思います。朝早く雇われた人とは幼い時か、若い時にイエス様に出会い、イエス様を救い主として受け入れた人ではないでしょうか。そして5時に雇われた人は、様々な事情により年をとってから、イエス様に出会い、イエス様を自らの救い主として受け入れた人を意味しているように思えます。

*「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(ヨエル書3:5)

神様は、天地創造の始めから人を造り、人に息を吹きかけ、人を生きる者とされました。神様は人に主(神様・イエス様)を知る霊を注いでいるのです。ですから私達人間は、主を求めるならば、主に出会うことができます。神様はすでに私達を招いて下さり、全ての人に「私のもとに来なさい」と呼びかけて待ち続けて下さっています。その招きに応えるかどうか、神様を受け入れる選択をするのは、私です。又、イエス様を受け入れた人であっても、私達の心が神様に向いていなければ、日々神様の霊によって新しくされていなければ、私達は神様の恵みを伝えるものとして働くことはできません。今週も、神様が共におられ、すべてのことにおいて、神様が「私の神」であられますようにお祈りを致します。

2020年8月30日の説教要旨 詩編131編・マタイ18:1-5

「心の清い者」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに

本日の 詩編131編は、澄んだ敬虔に満ちた詩で、詩編の中でも最も美しいものの一つに数えられています。夕刻、太陽が谷の上を静かに照らしながら沈みかける情景と共に、それがまるで、夕べの鐘のように響きわたる光景を思い浮かべることが出来ます。その中で著者ダビデは、素直な、まっさらな心を持つ子供のように神の前に跪(ひざまづ)き、祈りを捧げている姿が想像できます。

この祈りは、若い時に苦労を得て大変な状況を乗り越えてきた後に、神様との交わりを通して平安を見出した人の心を表しています。ダビデが神様から与えられた安らぎは、神様と共にある魂の平安によるものでした。

*誰が一番偉いのか

本日の、マタイ福音書での弟子達の質問は、「天国、神の国では 誰が一番、偉いのでしょうか」です。弟子達の「神の国」のイメージは、人が住む社会と同じように、人々に対してそれぞれの地位や順序が与えられて生活していると考えていたのでしょう。そしてイエス様が弟子達の中からペトロ、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネの3人だけを選んで高い山に連れて行ったり(17章)、神殿税をペトロの分まで納めた(17:27)ことを間近に見て、他の弟子達も、自分達がイエス様から呼ばれる機会があるとの期待感、或は、劣等感のような感情が生まれ、それがきっかけで誰がこの中でより偉いのかという議論に発展したと考えることができます。このような思いは、自分を周りと比べた時に すぐに起こってしまう思いでもあります。

*幼い子供のように

「だれが一番偉いか」の質問に対して、先ずイエス様は「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」(2節)とあります。「子供」は、幼い子供を表す原語が用いられています。イエス様は弟子達に自分をまわりの人と比べることが大事ではないことをはっきり示され、心を入れ替えて、幼い子供のように自らを低くすることが大切であることを教えられました。

私にとって幼い子供のイメージは、自己主張が激しく、何かを要求する時、やって貰えるまでは泣き止まないなどの印象があったので、この「子供のようになる」というのは、あまりピンときませんでした。しかし子供がそのようにするのは、自分では出来ないことを知っているので助けを求めるサインとして、手を貸して欲しい人に、自らができる限りの表現で訴えているのだと考えることも出来るでしょう。イエス様が ここで一人の子供を呼び寄せて弟子達の中に立たせて、このたとえ話をしたのは、幼い子供は、与えられる教えや助けを、素直に受ける者だということを伝えようとしているのではないでしょうか。

*神様の願い

神様は私達に、今まで培った経験、知恵や知識、資格や評判などにとらわれずに、ただ子供のように神様に立ち返り、神様の望まれる救いの道へ向きを変え、心から悔い改めることで自分自身を見つめ直すことが必要だと言っているのだと思います。

この方向転換は、この世で生きる者にとっては難しいと思えるかもしれません。しかしイエス様は私達に子供のようになることを求めておられます。幼い子供は失敗するのが当たり前です。できなくても何度もチャレンジをして、そして出来ない時は、素直な気持で誰かに助けを求めます。

*子供を受け入れる者は、イエス様を受け入れる者(5節)

私達はこのような子供を受け入れ、愛していく心の準備はできているでしょうか。イエス様は、弱い小さく見える子供や、弱しく頼りがいのない人、何か助けを必要としている人達を受け入れなければ、神の国に入ることは出来ない、イエス様を受け入れる者にはなれないことを私達に伝えようとしています。私達は今、全てを捨てて神様の願う、神様が私達に与えて下さった本来の場所へ戻り、その道へ歩もうとするならば、素直な目で物事が見えるようになり、清い心で神様が示される、その道を歩んで行くことができると思います。 その一歩として、まずは私達のできることを神様に献げて行きましょう。

2020年8月23日の説教要旨 出エジプト30:11-16・マタイ17:24-27

「主イエスの贖い」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、神様に助けだされて、荒れ野での生活をしていたのは紀元前1200年頃といわれます。奴隷から自由な身となったイスラエルの民は、神様と『神の民』となる契約を結び、神様はモーセを通して、人々が聖(きよ)く正しく生きる道しるべとして律法、規則を授けました。

*登録税

出エジプト記30章は、20歳以上の男子を対象とした人口調査の時の、登録税に関する規定が記されています。このお金は、人々の命の代償金として神様に献げられました。代償金は半シェケル(今のお金で約1日分の労働賃金)と定められました。この金額は、神様がイスラエルの人々の「命を贖(あがな)うための約束のお金」であったので、多く献げたり少なく献げたりは出来ないものでした。この神様との約束が基(もと)なりイエス様の時代には、同じ半シェケルを神殿税として毎年納めることになりました。このお金は神殿での献げものに使われ、イスラエルの人々の贖罪(人々の罪があがなわれる・赦される)の約束の意味を持っていたそうです。

*イエス様と神殿税

イエス様一行がカファルナウムに来た時、神殿税を集める者達がペトロに、「あなた達の先生は神殿税を納めないのか」と言いました。ペトロは、「納めます」と言って家に入りました。

私達の税金は、国民の生活や安全を守る警察・消防・道路・水道の整備、又、年金・医療・福祉・教育など公的サービスや、社会活動などに使われますから、社会で生活していく会費のようなものと言えるかもしれません。

それに対し神殿税は神殿の運営や修理費に用いられ、神殿税を納めることが神様に選ばれた民の一員であることの一つの「しるし」でもありました。

*地上の王と天上の王

家に入ると、イエス様の方から、「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子供達からか、それともほかの人々からか。」と言い出されました。ペトロは「ほかの人達からです」と答えると、イエス様は「では、子供達は納めなくてよいわけだ」と言われました。人間の王は自分の子供達からは税金を取り立てないのだから、天上の王(神様)の子供達も同じように、納税には自由であると言われたのでしょう。しかしイエス様は続けて「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。」と言われ、ペトロに釣りをして、最初に釣れたの魚の口の中にある銀貨一枚で、自分とペトロの分を納めるように言われました。イエス様は地上において「神の子」でありながらも「人間」としてへりくだり、全てにおいて正しく歩まれたのでした。

*私達の罪の代償・罪のあがない

神殿税は、毎年繰り返される罪の贖(あがな)いの「しるし」でした。

しかしイエス様は、終りのない、繰り返される罪の贖(あがな)いから私達人間を解放するため「一度きりの、あがないの代価」を払って下さいました。「私達の命の代償」としての保証金、納入金を神の御国に納めて下さいました。それはイエス様が私達の罪のために十字架にかかり、ご自分の命を捧げて下さったということです。そのことにより、私達人間の罪の代価が支払われて、私達は神様から自由にされているのです。

*神様とイエス様の私達への愛

神様は人を地のちりで形造り、その鼻に命の息を吹き込み、人は神様と共に生きる者となりました。しかし人は罪を犯して神様と共に生きられなくなりました。それでも神様は人間を見捨てることはなさらず、ご自分の独り子であられるイエス様を私達のもとに送り、再び神様と共に生きる者として下さり、イエス様を人々の命の贖いとされたのです。 これほどまでにして、神様は私達人間を愛して下さっています。イエス様が私達のために犠牲を払って下さったのですから、私達はイエス様の愛に包まれて歩む信仰を得なければなりません。それは私達がイエス様を信じて、イエス様は神の子であると告白することです。イエス様は、どんな時にも私達の隣にいて下さり、励ましを与えて下さるお方です。

2020年8月2日の説教要旨 詩編2編・マタイ福音書17:1-13

「主イエスの変貌」     加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編2編は、ダビデがイスラエルの王として、油を注がれた出来事(*)を思い起こさせています。(*油はオリーブ油。油注ぎ=油は神の霊の象徴でもあり、王や祭司の聖別、献身のしるしともなる)。7節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」は、イエス様が洗礼を受けられた時に聞こえた神様の言葉「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」、又、本日の、雲の中から聞こえた言葉「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(5節)と共通点がある言葉です。又ヘブライ書でも「キリストも、大祭司となる栄誉を・・『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」(5:5)との言及があり、大きな意味を持つ言葉であると言えます。

*弟子達と高い山

今日の聖書の「高い山」(マタイ17:1)は、神様ご自身が重要な啓示を表す場所、神様と出会う場所として用いられています。例えばモーセはホレブの山で「柴が火で燃えているのに燃え尽きない柴」を見て神様と出会い(出3章)、その場所で「十戒」を受け取りました(同19:20)。預言者エリヤも命を狙われていた時、み使いに励まされてホレブの山に着き、そこで神様に出会い(列王記19:3~)、彼の後継者エリシャに油を注ぐように告げられました。そして本日の聖書は、イエス様がペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れて登られたこの高い山に、モーセとエリヤが登場し、神様の啓示がなされています。イスラエルの人々は、モーセを通して与えられた教えを守り続け、主の日(マラキ書3:19~・終末の神様の裁きの日、イスラエルの人々にとっては救いと希望の日)が訪れる前に、エリヤが再び現れるという約束(同23節)を待ち望んでいました。ペトロ達は自分達の主であり師であるイエス様がこの二人と語り合っている姿に、どれほどの驚きをもって見つめたことでしょうか。

*ペトロの反応

 ペトロは、余りにもその光景が素晴らしかったので、イエス様達三人の為に仮小屋を建てたいと申し出ました。中近東の世界では大切なお客様をもてなすために仮庵(仮小屋)を建てる習慣があったようです。ペトロは突然の出来事に混乱しながらも、仮小屋を建てて歓迎し、そして少しでも長く、この素晴らしい出来事が続いて欲しいと願ったのでしょう。

*弟子達の恐れ

弟子達は、光り輝く雲の中から神様の声が聞こえた時、ひれ伏し、非常に恐れました。父なる神様は今弟子達に、父なる神様ご自身がイエス様と共にいて、イエス様を愛していることをお示しになり、「これに聞け」と語ります。イエス様が語る言葉は、まさに父なる神様の御心であり、神様の言葉であることを宣言したのです。

弟子達は、この神様の声に、神様の臨在に、非常に恐れて顔をあげることさえ出来なくなったのでした。するとイエス様は弟子達に近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言いました。

弟子達が顔を上げて見ると、イエス様のほかには誰もいませんでした。イエス様は山を下りる時、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と、弟子達に命じられました。

*神様の現れ

私達は、今、この主の栄光を見ることが赦されています。弟子達が神様の栄光、イエス様の真っ白く輝くその姿を見たように、私達にもご自身の姿を現わそうとして下さっています。

達の心の中には、聖霊が宿っています。その聖霊の助けによって、私達は、心の目で、霊の目でイエス様の姿を見ることが出来、感じ取ることが出来るのです。それは、日々の生活の中の祈りや、口ずさむ讃美の中で、又、礼拝の中や、心を合わせてお互いのことを祈る時に、神様の栄光や素晴らしさを感じ取ることが出来るのかもしれません。 私達が神様の前に静まり、心を向け祈る時、私達がどこの場所にいても、イエス様の姿や栄光、その現れ、その力を感じ取ることができるのです。

2020年7月19日の説教要旨 ヨブ記9:2-13・マタイ福音書14:22-33

「神への信頼」     加藤秀久伝道師

*はじめに

ヨブという人物は、長い間、神様から祝福された生活をしてきました。家族が祝福され、財産も豊かに与えられていました。しかしヨブはある日突然にすべてを失い、苦しみの中で、なぜ、このような状況にあるのかが分からず、その答を見出したいと求め続けていました。ヨブはそのような葛藤の中にあっても、神様がこの天地を支配する方であることを思い起こしています。「山も、大地も、太陽も、星々も、そして海の高波さえも、神様の命令に従う」と語ります。(ヨブ記9:5-8)

しかしまた同時に、ヨブは、神様がそばを通られても気づくことがなく、過ぎゆかれても悟らない、自分の愚かさを嘆きます(同11節)。

なぜ人は、神様が計りがたいほどの大きな業をなされ、数々の不思議な業を成し遂げられていることに気づくことができないのでしょうか。

*気付けなかった弟子達

弟子達は、舟で湖の向こう岸へ向かっていました。夜になる頃、舟は岸から何キロメートルも離れていました。しかし強い向かい風だったので、彼らは、波に悩まされていました。夜明け頃、イエス様は湖の上を歩いて弟子達のところに近づいて来ました。弟子達は、イエス様が湖の上を歩いてくるのを見て、「あれは幽霊だぁ」と言っておびえてしまいます。

彼らは恐ろしさのあまり、大声で叫んでしまいました。

彼らは、イエス様は「何でも出来る本当の神の子」であることを知っていたはずですが、イエス様が湖を歩いてくる姿を見ても、人が湖を歩けるはずが無いと思い込み、イエス様に気づくことができませんでした。

イエス様は弟子達に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と、怖がっている彼らの気持を落ち着かせ、励まし、安心させて下さったのです。その時イエス様に気づくことが出来たペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。ペトロも水の上を歩いてイエス様の所へ行けるようにして欲しいと頼んだのです。イエス様は、「来なさい」と言いました。ペトロは、その言葉を信頼し、水の上に立つと、イエス様だけを見つめて、歩いて行きました。

*「主よ、助けてください」

ところがペトロは、イエス様から目をはなし、風によって大きな波が立つのを見た時、又、恐ろしくなり、イエス様を信じる心が弱ってしまいました。その瞬間、ペトロの体は、水に沈み始めました。ペトロは、大慌てで「主よ、助けてください」と叫びました。そこでイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロをつかんで助けて下さり、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。そしてイエス様がペトロを連れて、舟に上がられた、その時、風がやみました。舟にいた弟子達は みな、イエス様を礼拝して言いました「確かにあなたは神の子です」と。

*主を求める

弟子達は、イエス様の奇跡をたくさん見て、イエス様が何でも出来るお方だということをよく知っていたはずです。この日もイエス様の奇跡を見たばかりでした(14:13~参照)。そのイエス様が、弟子達の舟がうまく前へ進むことが出来ないのを見て心配して近づいて来て下さったのに、弟子達は「幽霊だ」といって怖がり、ペトロも、始めはイエス様の力を信頼していましたが、波を見て怖くなってしまったのです。

私達の心もガリラヤ湖の湖のように、波のない、穏やかな時もあれば、荒れ狂う波が立ち、どうすることも出来ない感情の時があると思います。その私達の心に、平安、落ち着き、安らぎを下さるのは、神の子であるイエス様のほかに誰もいません。

私達がイエス様に対する信仰が弱いと感じる時こそ、「主よ、助けてください」と叫ぼうではありませんか。弟子のペトロでさえ、信仰が弱く、溺れかけました。しかしイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロを助けて下さいました。 イエス様は、信仰の弱い私達を助けて下さる 優しいお方です。イエス様は、私達が困っている時、そのことを一緒に悩み、悲しみ、側にいて、私たちを助けたいと願っているお方です。

2020年7月5日の説教要旨 出エジプト記16:6-12・マタイ福音書14:13-21

「人々を満たす神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

今日の旧約聖書にはイスラエルの民がエジプトを出て一ヶ月が過ぎた頃、荒野に入ると人々はモーセとアロンに向かって不満を言い出したことが記されています。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなた達は・・・この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)。 神様は人々の不平を聞き、『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。』とモーセに約束されました。その通りに毎日夕方になると、うずらが飛んできて人々はそれを捕まえて肉を食べ、朝になると宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると荒野の地表の上に薄くて壊れやすい物が大地の霜のように薄く残っていました。これが神様が与えられたパンであり(13-14節)、人々はそれを「マナ」と名付けました(30節)。7日目は安息日のため6日目に2日分の量を集めることが出来、人々はこのことを通して神様のことを知るようになりました。

*荒れ野

今日の新約聖書には、洗礼者ヨハネが亡くなったことを聞いたイエス様が(マタイ14:1~)が、「舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」とあります。イエス様は、洗礼者ヨハネの身に起ったことの意味を思いながら神様に問いかけ、祈りを捧げたことと思います。「人里離れた所」は、元の言葉では「荒野」という意味があります。荒野は人が生活するには難しく飢えや渇きを覚え、生存していく保障のない場所でもありますから自ら荒野に入ることは珍しいことであったでしょう。更に、荒野は私達にとってみれば夢も希望もなく、ただ絶望的な場所に思えます。その荒野(人里離れた所)にイエス様が行かれたとを聞いた群衆は、方々の町から歩いて後を追いました。イエス様は、お一人で祈る時間をさえぎられたにもかかわらず、群衆を見て深く憐れみ、彼らの病気を癒されました。イエス様はいつも必要とされている人達に手を差し伸べ 寄り添いました。

*「それをここに持って来なさい」

夕暮れになり弟子達がイエス様に人々を解散させて欲しいと言いますと、イエス様は「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。しかし弟子達はパン五つと魚二匹しかないことを告げますと、イエス様は「それをここに持って来なさい」と言われて、群衆に草の上に座るようにお命じになり、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達にお渡しになりました。弟子達がそのパンを群衆に与えますと、「すべての人が食べて満腹し」(14:20)、残ったパンの屑は十二の籠一杯になりました。

*天を仰いで祈りをささげ、食べることができる

これは言い換えると、私達が聖書の言葉を読むと同時に、聖書のみことばを食べること・・まさに、こうして集まって神様のみことば、聖書の話を聞いて、霊によって満たされる(満腹)を意味しています。

イエス様が荒野の誘惑の中で語られた申命記8:3『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』が私達に意味ある言葉として、心の内に生きるエネルギー、活力として宿っていくのだと思います。

*わたしたち

では私達は神様からの食べ物、聖書の言葉を食べているでしょうか?

 みことばをお腹いっぱい食べているでしょうか? 又、聖霊の助けを待ち望み、心を燃やして日々の生活をしているでしょうか?

イエス様は、イエス様を方々の町から歩いて後を追いかけて来る人達に与えたように、「生きた神のことば」を私達にも与えたいと願っておられます。 復活されたイエス様が、エマオに向かう二人の弟子に現れて(ルカ福音書24章)、イエス様から聖書の説明を聞いている間、彼らの心が燃えていた時(24:32)のように、心の中から、わき上がる喜びや熱い思いを、神様は私達にも持って欲しいと願われておられます。この思いに応えて、今週一週間、聖書のみ言葉を読み、祈り、共に歩んで参りましょう。

2020年5月17日の説教要旨 詩編107:17-21 マタイ福音書8:5-13

「御言葉の力」   加藤秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとってイエス様の言葉、聖書の言葉とは、どのようなものですか。私にとっては、時に厳しいと感じることもありますが、やはり優しく、温かいものであり、励まし、慰め、安らぎを与えて下さる言葉です。

詩編107編では、私達の愚かさ(無知、背き、罪)は、時に肉体にまで及び、病を起こすと警告しています。しかし主の癒しの言葉が人々の萎えた心、病人の病を癒します。主の言葉は癒しをもたらすと約束されているのです。そして私達がこの驚くべき御業を喜び、主の慈しみと憐みに感謝して主を称えようと呼びかけます。私達が信じる御言葉には力があります。なぜなら、御言葉には癒しをもたらす力があるからです。

*百人隊長の願い

本日の聖書は、カファルナウムの町で、一人の百人隊長がイエス様に助けを求めに来た時のことです。百人隊長は100人の兵士を統率するローマの将校で、彼は異邦人でした。ルカ福音書7章では、彼がユダヤ教の求道者であり、地域の人達のために会堂を建てるなど人格的に信頼されていたことが伝えられています。百人隊長はイエス様に近づいて「主よ、私の僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます。」と癒しを求めました。

「中風」は、身体的な機能を麻痺させる脳の疾患で、動きが制限されて、人の手を借りなければならず、生きる意欲を無くしてしまうほどの病です。「ひどく苦しんでいる」とは身体上だけでなく精神的な苦しみも含まれていると考えられます。隊長は動けなくなった僕の為に、癒やされる道を探していたのでしょう。そしてイエス様の噂を聞き、自ら町へ出向き自分が異邦人であることを承知の上で、イエス様のもとを訪れたのだと思います。

*イエス様の応答と百人隊長

 イエス様は百人隊長の願いに「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。すぐに百人隊長の家に行き、僕の病気を治そうとされたのです。ところが百人隊長は、イエス様と一緒に家に帰ることを拒みました。

なぜでしょうか。百人隊長は何を考えていたのでしょうか。

彼はユダヤ人が異邦人を「汚れた者」と考えていることを知っていました。そのため、イエス様を自宅の中にまで入っていただくことなど、とんでもないことだと思ったのでした。

*百人隊長の信仰

百人隊長は、権威ある者の言葉には人を従わせる力があることを承知していました。百人隊長自身も権威の下、命令には絶対服従であったのでしょう。そこで百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエス様に答えました。

イエス様も権威のあるお方ですから「治れ」といえば、どんな病気でも治る。イエス様のお言葉さえあれば、すべてのものはそれに従う…ということをよく理解していました。「ひと言おっしゃってください」は、イエス様に対する絶対的な信仰によるものでした。

*「あなたが信じたとおりになるように。」

この言葉を聞いてイエス様は「ユダヤ人の中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と感心されました。百人隊長の信仰は感嘆と賞賛に値するものでした。イエス様は百人長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、その時、僕の病気は癒されました。

今日の詩編、20節に「主は御言葉を遣わして彼らを癒し 破滅から彼らを救い出された。」とあり、33編9節には「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように立つ」とあります。

イエス様が、確かに父なる神様からの力を持って地上で活動され、 神様の約束を実現されることに気付かされます。そして11節に「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」とある「大勢の人」とは、おそらく百人隊長のようなイエス様を信じる信仰を持つ異邦人のことを指していると考えます。死に勝利したイエス様は、人の病をも癒す力を持ったお方です。そしてイエス様の癒やしは御言葉によってなされます。私達がこの御言葉を信じるとき、その御言葉は、確かに力をもって働いて下さるのです。

2020年4月26日の説教要旨 列王記下6:8-23 マタイ福音書4:18-25

「主イエスの呼びかけ」   加藤秀久伝道師

*はじめに

主は「わたしについて来なさい」と、どんな人にも呼びかけておられます。

*列王記下6:8-23

ここには、アラムの王様がエリシャ(BC9世紀の預言者)を捕えるため、ドタンに馬と戦車の軍隊を送ったと記されています。エリシャの従者(お供)はその大群を見た時、恐れと不安に陥り、慌てたとあります。エリシャは、従者に「恐れてはならない。私達と共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言い、従者の目が開かれように祈りました。すると従者の目は開かれ、エリシャを囲む火の馬と戦車があるのを見たのでした。次にエリシャは 攻めて来たアラム軍の目をくらますように神様に祈り求めました。神様が彼らの目をくらましたので、エリシャは彼らをサマリヤに導きました。再び神様に彼らの目を開くように祈ると、彼らは目が見えるようになり、サマリヤにいる自分達を見たのです。それはアラム軍の敗北の意味を含んでいました。北イスラエルの王(*)はアラムの軍隊を見てエリシャに「私が打ち殺しましょうか」と言いましたが、エリシャは逆に、もてなしてから帰すように命じました(23節:大宴会を催した)。

神様がエリシャを通して行なった行動は、善をもって悪に打ち勝ったと言えます。アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に来ませんでした。

(*)当時イスラエル王国は、「北王国イスラエル」と「南王国ユダ」に分裂。

*霊の目が開かれる

神様への信仰が成長するためには、神様がどのようなお方かを知る為の、霊の目が開かれる必要があります。エリシャの従者は目が開かれたことで天の軍勢が包囲しているのを見ました。霊の目が開かれたことによって、神様が必ず助け出して下さることを信じることができました「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人(主を信じる者)を守り助けて下さった。」(詩編34:8)。私達も霊の目が開かれる時、目には見えなくても確かに存在する神様が、必ず助け出して下さることを信じることができます。

*神様の宴会

神様はアラム軍に神様の偉大さを示されました。エリシャはアラム軍に「私について来なさい」(19節)と言いました。この様子は罪人であった私達が主からの招きを受けて主の盛大な宴会に招かれたことと似ています。なぜなら私達は神様の招きに応えることによって神様に出会うことが出来るからです。神様は敵であるように見える人々、かかわりたくないと思うような人達にも区別することなく主イエス・キリストの愛を示し、私達と同じように全ての人を主の宴会に招いているのです。

*「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:18-25)

イエス様の宣教は、カファルナウムというガリラヤ湖のほとりの町で始まりました。ガリラヤ湖では魚が沢山獲れたのでペトロとアンデレも多くの人々と同じように漁の仕事をしていました。その日も漁をしていましたが、イエス様は彼らに目を止められ「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。彼らがイエス様の呼びかけを聞いたのは普段と変わらない作業をしている中でのことでした。漁師にとり網や舟は何より大切な財産です。しかし彼らは全てを捨ててイエス様に従いました。大切な家族や仲間、自分の財産や生活よりもイエス様を第一にしたのでした。なぜそのようなことができたのでしょうか。

それは、「イエス様が人間をとる漁師にして下さる」のですから、その後の全ての責任をイエス様が取って下さるからです。イエス様は 私達にも「人間をとる漁師にしよう」と言われたはずです。イエス様を第一にして従っていくならイエス様が私達を、イエス様の愛を伝える者として変えて下さるのです。そしてイエス様は必ず大切な家族や仲間、そして私達自身の歩む道を守り導き祝福して下さいます。全てを捨ててイエス様に従うことは私達自身の力では出来ません。私達がイエス様の弟子となるために必要なことはイエス様が教えて下さり、少しずつ私達を訓練して下さいます。自分の弱さを見るのではなく、イエス様だけに頼ってついていくならば、イエス様は必ず、大切な家族や仲間、そして彼ら自身の歩む道を守り導き、大きく祝福して下さるに違いありません。