2023年9月3日の説教要旨 箴言25:1-7a ・Ⅱコリント11:7-15

             「主の誉れ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 イスラエルの王国はソロモン王の死後、北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となりました。しかし、B.C.721年に、北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダには北王国から多くの知識人が亡命して来たので、ユダ王国のヒゼキヤ王が、北からの伝承をも含む格言を集めて編集したものが本日の「箴言」です。25:1に「これらもまたソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」とあり、2節には「事を隠すのは神の誉れ。事を極めるのは王の誉れ。」とあります。つまり神様は隠し、王様はその隠されたことを探り、発見する(きわめる)と語られています。

*ヒゼキヤの父アハズとヒゼキヤ

ヒゼキヤ王の父アハズは、敵の侵略から身を守るために、外国に助けを求めました。神様は預言者イザヤを遣わして「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。(イザヤ7:4)」と伝えましたが、アハズはその言葉に耳を傾けることをしなかったため一時的には問題は解決をしたかのように見えましたが、最終的にはさらに困難や苦しみ(多くの貢物をするなど)によって国が揺れ動くこととなりました。

しかし息子ヒゼキヤの時代、ユダ王国のエルサレムもアッシリヤ王の率いる軍勢に包囲されるという危機的な時代となっていましたが、ヒゼキヤは箴言の編集作業をしたのです。このことは神様からの重要な霊的意味がありました。それは、ヒゼキヤが神様の代理者として立てられたことを意味し、又、ヒゼキヤが敵との戦いにおいて神様の言葉を優先したことにあります。ヒゼキヤは神様の隠された言葉から、神様の考えを見つけ出し、その言葉に従い、その言葉を用いて敵に戦いをいどみ、勝利すること。

それが神様の代理者としての王の務めだと考えたのです。 ヒゼキヤは、預言者イザヤの指導を受けながら、神様の言葉にしっかり立つことが敵に勝つ秘訣だと確信していきました。

*わたしたち

 このことは、現代を生きる私達にとっても同じことが言えると思います。神様の言葉が失われそうに感じた時(神様が遠くに感じられた時)、私達は立ち返って神様に心を向け、神様のなされること、なされようとすることに信頼をおく必要があります。それが私達にとっての神様に近づく近道、霊の回復の近道、神様からの勝利を得る近道となるからです。

 神様の言葉は、私達が想像するよりもはるかに越えた奥深い世界を見させて下さいます。その奥深さは秘密にされていて、私達は、神様の隠しておられる事柄を見つけ出して発見する(きわめる)ことが必要です。聖書の中で「探る」という言葉を調べてみますと、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味があります。

エレミヤ書29章には以下の言葉が記されています。

あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見い出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(12~13)」

*キリストに対する真心と純潔からそらせる偽使徒たちの存在

 本日のコリント書には、パウロたちが伝えたイエス様の教えと異なる教えや、受け入れるべきでない違った霊や福音を語る偽使徒達が教会の中に入り込み、そのため教会員がキリストに対する真心と純潔からそれてしまうことをパウロは心配し警告しています。そしてパウロの伝道と牧会は、彼らに負担をかけないため無報酬でやってきたと告げています(生活に不自由した時は、マケドニア州の兄弟(信者)逹が助けてくれた・・11:9)。 

私達の住む社会にも、キリスト教に近い、似たような教えや名前を使って活動をしている人達(カルトや占いや魔術的な事)がいます。パウロの時代も似たような人々が社会にいたからこそ、教会からの報酬を受け取らなかったのかもしれません。パウロの伝道目的は、イエス様の言葉、神様の愛の素晴らしさを伝えることでした。私は、パウロのような、宣教の為に全てを献げる人達に出会ったからこそ、その中の一人になりたいと思い、今ここに立ち、皆様に神様のことをお話しています。

2021年8月1日の説教要旨 箴言9:1-11・Ⅰコリント11:23-30

「主に感謝」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

先ほどお読みした箴言は、人が生きる中で「知恵」の生活を送ることが必要であり、「知恵」の重要さを宣言することから始まっています。そして「知恵」とは、単なる世の中にありふれているもの、この世の中にかかわったことで得た知恵ではなく、「主を畏(おそ)れること」に基づいていると、はっきりと述べています (1:7)。 この「おそれ」とは、私達が神様の前に罪を犯すことで神様からの仕打ち(罰)を受ける「おそれ(恐れ)」ではなく、神様の偉大な力、凄(すご)さをよく知り、理解することで、 神様の言葉と意志に敬意をもって服従することを意味します。

*命を得るため、分別の道を進むため(箴言9:6)

本日の箴言では、「知恵」が擬人化されています。「知恵」が自分の家を建て、食卓を整えて人々を招いています。1節で「知恵」は家を建て、七本の柱を刻んで立てたとあり、七本の柱は神様のための祭儀的場所として指示されていて、食事は祭儀的食事であり、「知恵」は食卓を整えました。そして侍女達を町の高い所に遣わして、招待していたすべての人に呼びかけ、宴席につくように招きました。イザヤ書40章9節には、以下のように記されています。「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神

*神に逆(さか)らう者と知恵ある人

「知恵」からの招きを受け入れる者は誰でも「命を得る(6節)」ことができるとされています。なぜならそこには「命の食物と命の飲み物としての知恵」と「物事を深く見通せる、優れた判断力」が与えられるからです。

ところが7節では、神様のことをばかにして笑う者達に神様のことを話そうとしても、聞き入れてもらえない、信じてもらえないことが記されています。逆にその人達は頑(かたくな)な態度を取ることになります。しかし、賢い人は、まだ自分には多くのことを学ばなければならないことがある、と知り、常に敬意を払いながら神様の言葉に耳を傾けて喜んで聞きます。

神様を畏れることは知恵を得ることの初めであり、この知恵を知ることが聖なる方を信じ受け入れることに繋(つな)がります。それは何が良く何が悪いかの正しさを見分ける力が与えられることです。「知恵」は自分の家で食卓を整えて、私達をその席へと招いて下さっているのです。

*主の晩餐の制定

本日のコリント書では、コリント教会の人達の、特に神様を礼拝する姿勢に問題があったので、パウロは、基本的な知識を身に付けるように手紙を書いています。その一つが「主の晩餐」の守り方です。教会内で「主の晩餐」の食事が感謝の心を持たずに行なわれていることに問題を感じ、自分が受けたものを人々に伝えるための言葉として、イエス様ご自身が発した厳かで変えることのできない儀式の仕方や信仰内容が語られます。パンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、「イエス様の救いの死」を思い出させるものであり、軽々しく受け取るべきではないことを伝え、特に神様を信じる者達は、自分達が裁かれないように自分自身を吟味する必要があることを教えます。又26節で、「主が(再び) 来られるときまで、主の死を告げ知らせる」とあり、27節からは、晩餐に与るために、ふさわしい在り方が語られ、コリント教会の人達が「主の体」のことをわきまえずに晩餐に与り、ふさわしくない態度でパンを食べ、ぶどう酒を飲んだことは、「主の体と血に対して罪を犯すことになる」と教え、教会内部で問題が起る結果を招いたことや、信徒の間では弱い者や病人が沢山いて、多くの人が亡くなったことなど、後半で語られます(30節)。

*わたしたち

神様を信じる者達には、意志の弱い者であれ、心に不安を抱いている者であれ、どのような者でも神様の食卓につくようにと招かれています。

その食卓で、イエス様と共に食事をし、神様からの力と励ましを受けて、私達は再び、この社会(この世の生活)へと戻って行くことができます。 今日この日、聖餐に共に与(あずか)れることを神様に感謝して、今週の歩みをして参りましょう。

2020年10月11日の説教要旨 箴言9:1-6・マタイ22:1-14

「神の招き」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

本日の箴言9章1節に、「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」とあります。「知恵」が、女性として人格化された形で使われています。

「7本の柱」は祭儀の場所として考えられ、2節の「食卓」は神殿での祭儀的食事と考えられ、食事の準備ができると「知恵」は侍女たちを高い所に遣わし「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」と呼びかけさせます。

人は、誰でも「この招き」を受け入れるならば、命を得て、分別の道を進むことが出来ます。なぜならそこには、命の食物と命の飲み物としての「知恵」と「物事を深く見通せる優れた判断力」が与えられるからでした。

*イエス様の招き

 このことは、イエス様が人々に、神様の御言葉を宣べ伝えるためにこの世へと来て下さり、多くの人々に福音を伝え、人々を神の御国に導こうとしている姿に似ていると思います。神様は、私達を、天の国に入ることが出来るようにイエス様を遣わして招待しておられます。

*「婚宴」のたとえ

 ある王様が王子のために婚宴を開くことを決めて招待状を出しました。婚宴の準備ができたので、王は家来達に、婚宴に招いた人々を呼んでくるように命じました。家来達は「招いておいた人々」を呼びに行きましたが、彼らは来ませんでした。そこで王様は別の家来達に「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と言うように命じました。しかし人々は、その言葉を無視して畑や商売に出かけ、他の人々は、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまいました。

「王」とは父なる神様、「王子」とはイエス様を指します。「招いておいた人々」はユダヤ人であり、王様の「家来」とは預言者達です。ユダヤ人は神様から選ばれた民であり、かつて奴隷であったエジプトから助け出された人達で、 神様の愛情が沢山注がれている民です。神様からの祝福を受けることができるように、「救いの日がもうすぐ訪れるので婚宴に出席して下さい」と呼び掛けられていたのでした。

*優先順位

 けれども彼らは王様の招待を断り、自分達の仕事を優先しました。彼らは、その日にやるべき仕事や忙しさに目を向けて、目に見えるものに心を奪われてしまっていました。現代を生きる私達にも当てはまることだと思います。私達は、周りから入る様々な情報の中で何が良いものかを見極め、判断していく必要があります。神様を第一にして、お金や物に執着せず、神様との交わり、一対一の関係を保つことが一番大事です。

*祝福は異邦人へ

 たとえでは、王様は招待を無視したことに怒り、彼らの町に軍隊を送り町を焼き払ってしまいます。これは、紀元70年頃にローマ軍によってエルサレムが破壊された出来事と重なります。そして王様は家来に「大通りに出て、誰でも婚宴に連れて来るように」と命じたので、婚宴の席は一杯になりました。すなわち選民ユダヤ人に用意されていた祝福は、何の条件もなしに、すべての人に用意されたのでした。

*ところが・・

 たとえでは、婚宴に招かれてきた人の中に、一人だけ礼服を着ていない人がいました。その理由を聞かれても返事がありません。そのため王様は彼を外の暗闇に放り出してしまいます。婚宴の席に座るのにふさわしくない・・この世の世界で生きることと神を信じる信仰との想いがあいまいの状態のまま入って来たので神様から裁かれる結果になってしまったと考えられます。私達はイエス様を受け入れ、信じようとしなければ神様の招きに応えることは出来ません。又、聖書を通して神様の力強い臨在を体験していかなければ、しっかりとこの社会に対応して生きていくことができません。私達は、自分自身をすべて明け渡して主イエス・キリストの言葉を聞く必要があります。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(14節)

3月10日の説教要旨

箴言2:1-12・ルカ福音書4:1-13

「世に打ち勝つ信仰への道」    佐藤 義子

*はじめに

キリスト教の暦では、先週の水曜日から受難節に入りました。受難節は、日曜日を除く40日間です。私達の伝道所では、この時期、「イエス様が私達の為に受けられたご受難を覚えて、克己、修養、悔改めの特別期間として過ごしましょう!と呼びかけています。皆様は、受難節をどのようにお過ごしになっておられるでしょうか。

*伝道するに先立って起こった出来事

 今日の聖書は、一般に「荒れ野の誘惑」として知られている出来事で、イエス様がバプテスマ(洗礼)を受けられた直後に、荒れ野に導かれて40日間の断食後、悪魔から3つの誘惑を受けられた時の話です。すなわちイエス様がこれから人々に向かって伝道していく、その大事業を始められる直前に、イエス様は悪魔から誘惑を受けるのです。

伝道とは、言い換えれば、神様から離れている人々に、神様の所に戻るように呼びかけることです。イエス様はこの伝道という大事業を始めるにあたり、どのような仕方(姿勢・方法)でなされるべきかを、この悪魔の誘惑への応答を通して私達に明らかにされています。そしてイエス様の昇天後も、この伝道の姿勢は弟子達から全世界の教会へと継承され、私達の伝道所も又、イエス様の教えに従って、伝道を続けていきたいと思います。

*第一の誘惑「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。

「石をパンに」の誘惑は、伝道の手段として食料(物質)を与えるという方法です。震災などで食料が不足していた時、どこかで「パンを配ります」の声が聞こえれば、たちまち多くの人々が押し寄せました。パンに限らず、いつの時代でも人々の関心は衣食住、すなわち物質に向けられています。悪魔はこのことを良く知っており、イエス様に、石をパンに変える奇跡をもって、ご自分を神の子と示せば、あなたは苦労しなくても、人々を神のもとに導ける、と誘惑したのです。この誘惑に対してイエス様は、(申命記8:3)「人はパンだけで生きるものではない」。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」を引用されました。この言葉は、神様がモーセを通して語られた言葉です。

*生きるのは、肉体だけではない

  私達は「生きる」と言う時「目に見える体の命」を考えます。それ以外に「魂」とか「霊」と呼ばれる目に見えない命があることまでは考えず、教えられなければ知らないままです。それを教えてくれるのが聖書です。ある神学者は「人には肉体の他に霊性が与えられているのに眠らせたままで死んでいく人が多い」と書いています。何ともったいないことでしょう。たとえ病気になり体が動かなくなったとしても、霊の命が健やかであれば、人間として生き生きと生き続けることが出来るのです。

  この霊の命が目覚めて活動するのは、命の与え主である天地創造の神様に出会った時です。聖書を通しイエス様の言葉を通して、私達がイエス様を信じて、それまで離れていた神様の方に向き直り、神様を信じた時に、霊の命は眠りから覚め、私達に大きな変化をもたらしていきます。

 

*霊の命が目覚めると・・

田原米子(たはらよねこ)さんの証しを紹介します。米子さんは母親の死をきっかけとして、生きることに希望を見いだせず高校3年生という若さで、新宿駅のホームから終電車に向かって飛込み、鉄道自殺をしました。その後、救急車で運ばれ、一週間の昏睡状態のあと目覚めます。目覚めて見たのは、自分の両足も左腕もなく、右手の指3本だけでした。「こんな体では生きていけない」と、彼女は、医者から処方される睡眠薬をこっそりためて死ぬことだけを考え続けました。そのような彼女が、担任教師の知人という見知らぬ宣教師と通訳の二人の訪問を受けたことを通して、神様の言葉に触れます。やがて信仰が与えられて、その後に夫も与えられ、さらに娘二人にも恵まれ、家庭を通して、さらに伝道旅行を通して、神様のことを宣べ伝えています。(私も直接、彼女の証しを聞きました)。  

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4::4)のです。

*第二の誘惑「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしわたしを拝むなら」

 もしも悪魔に頭を下げるならば、この世界を自分の支配下におき、自由自在に自分の思い通りに動かすことが出来るようになる、という誘惑は、自分の内にある<神様の居られるべき場所>を、<悪魔に明け渡す>との交換条件を求められています。この誘惑に対してイエス様は、(申命記6:13)「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、そのみ名によって誓いなさい。」を引用されました。この申命記6章は「シェマー」(聞け)から始まっており、神様を唯一の主として日々告白することを命じています。それゆえ悪魔に頭を下げるということは、神様の御支配から抜け出して悪魔に仕えることを意味します。

*「主にのみ仕える

イエス様には神様への無条件の信頼と完全な服従がありました。神様が下さるものは、それが神様の栄光にあずかることであっても、逆に十字架への道であっても、それを「ただ受け取る」という生涯を歩まれました。 

私達日本の国は、数えきれないほど人間の手で作った偶像があります。又、ご先祖様を仏様として拝む対象としています。又、神社の鳥居をくぐる時も手を合わせる風景をテレビなどで見ます。神社では大木などを中心に、神の霊が宿っていると考えるわけですが、そのような文化、習慣の中に、私達日本人は置かれています。又、戦前は天皇も現人神(あらひとがみ)として生きた神として拝むことを強要されましたから、キリスト教徒は「主にのみ仕える者」として官憲からにらまれ、手を合わせないことで不敬罪は成立し逮捕されました。「主にのみ仕える」ことは、天地創造の神様、イエス様の父である神様以外は、神様として礼拝しない。私達の身の回りから、お守りやお札(ふだ)などを遠ざけることも含まれます。

*クリスチャンの戦い

家族の中で自分だけがクリスチャンの場合、悪魔は、あの手、この手で、この世と妥協するように誘惑してきます。そのような時、私達は祈りつつ神様からの知恵をいただかなければなりません。

信仰の決断とは、確信が与えられて決断したら、それ以外のものを捨てることを意味します。むつかしいようですが実はむつかしくないのです。信仰が与えられた時、そこに聖霊の働きも同時に起こります。聖霊が、私達のそれまで持っていたものへの未練や執着を、すべて取り払って下さるからです。パウロも言っています「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と。いつも共にいて下さるイエス様が、私達にも「主にのみ仕える」道を安心して歩いていけるようにいつも伴い、支えて下さいます。

*第三の誘惑「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。神は守り、支える。」

悪魔はイエス様に、高い所から飛び降りるよう勧めました。というのは、聖書には天使が支えるとの約束(詩編91:11-12)があるからです。悪魔は、あなたが神の子であるなら必ず聖書に約束されている奇跡(飛び降りても守られる)が起こるはずだから、神を信頼して、その奇跡を通して人々を導いたらどうだというわけです。イエス様のお答は、(申命記6:16)「あなた達の神、主を試してはならない。」でした。

 

*伝道の基本

1.神の言葉で生きる:私達の信仰と伝道は、御利益宗教ではないことです。伝道の先には、一人の人が、「新しくされて生きる」ことが待っています。この世の価値観から解放されて新しく生まれ変わることが出来る道が、すでに備えられているのです。

 2.主にのみ仕える:悪魔にひれ伏すことは、大きな見返りを手にするために聖書の言葉を曲げてこの世と妥協することです。悪魔は、巧妙に私達に近づいてきます。私達はいつも目を覚ましていなければなりません。

3.主を試してはならない:全知全能の神様には出来ないことはないのだから、きっと神様はこのように答えて下さるに違いない、と自己流の聖書解釈と信仰理解に陥って行動するようにささやく誘惑があります。  自分の信仰の確信を優先させて、御言葉通りになるように思うのは、主客転倒です。「わたしの願いではなく、御心のままに」です。(ルカ22:42)

8月12日の説教要旨 「神様の知恵」 平賀真理子牧師

箴言81221  ルカ福音書202026

 はじめに

私達の主イエス様は、十字架にかかる定めを前にしながらも、神の都エルサレムに果敢に入っていかれました。一方、この都で権力を持っていた「祭司長や律法学者や長老達」(以下、「反対派」)は、自分達の座を簡単に明け渡さず、イエス様に論争を挑みました。民衆に人気のあったイエス様に対し、反対派の人々は、「面白くない」という感情や、自分達の既得権益を脅かされる危機感を持ったことでしょう。

 

「エルサレム神殿での活動は、天からの権威?人からの権威?」

まず、反対派は、イエス様のエルサレム神殿での宣教活動の根拠=何からの権威をいただいて、そのようなことをしているのかを、二者択一の形で尋ねました。それに対して、イエス様は、御自分について答えても、彼らの反対する気持ちは変わらないことを見抜き、洗礼者ヨハネの洗礼の権威をお尋ねになりました。何が何でも反対という感情から離れて、御自分を救い主と証しした洗礼者ヨハネの言葉を思い出させ、彼らに悔い改めを促されたと思われます。しかし、反対派は、悔い改めるどころか、「メンツがつぶされた」と感じたことでしょう。

 

同じパターンで仕返しを謀る反対派とその「回し者たち」

恥をかかされたと考えたであろう反対派の人々は、同じ二者択一の質問で、民衆のイエス様に対する期待を失墜させようとしました。しかも、1度目の質問で懲りたのか、自分達は隠れて、「回し者」と表現される人々を派遣しました。この人々は、実のところ、神様を大事に思っておらず、そのようなふりをした人々、そして、反対派の人々に取り入り、幾らかの利益を得ようとした人々と推測できるでしょう。

反対派の人々はこの回し者たちと共に、作戦を練り、イエス様に挑んだに違いありません。実は、反対派にとって、イエス様への2度目の挑戦です。一刻も早く、自分達の前からイエス様を消したいと願い、策を弄したのでしょう。彼らは、大人数という「数」と、自分達の「知恵」を武器に、神様から派遣されたイエス様に挑みました。彼らは、神様が示してくださった真実よりも、自分達の利益や名誉が大事とする「罪」に捕らわれており、しかも、卑怯です。結局、正しい人のふりしかできず、その本質は神様から離れた「罪人」であると示されています。

 

罪に罪を重ねる反対派の人々

反対派の人々は、常日頃は、異邦人であるローマ帝国の支配を憎んでいたのですが、イエス様に対しては、ローマ帝国の支配と権力を当てにしています。自分達の欲望のためには節操を簡単に捨てています!

 

イエス様は「真理に基づいて神の道を教えておられる(21)」御方

回し者達の発言の前半部分(21節)は、実は、反対派の人々がイエス様のことを、心の奥底では理解していたと示されています。これを本心から言うならば「信仰告白」です。けれども、ここではそうではなくて、相手を気持ちよくさせて油断させるためのお世辞(罠)だったわけです。

 

「ローマ帝国に税金を納めるべきか、否か」という質問の裏の悪意

異邦人の国ローマ帝国に税金を納めるべきか、否かという二者択一を迫る質問は、どちらを答えても、イエス様を追い込むことができると反対派は予想していました。「納めるべきである」と答えれば、税金に苦しんでいた民衆が、イエス様を「救い主」として受け入れられなくなるし、また、「納めるべきでない」と答えれば、ローマ帝国から派遣されている総督に訴える口実にできると狙っていたわけです。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

イエス様の答えは、彼らの知恵をはるかに超えていました!実際に税金徴収の時に使う「デナリオン銀貨」を確認させ、皇帝の肖像と銘があるものならば、それは皇帝の所有を意味するので、皇帝に返すように言われたのです。誰もが納得する答えです。更に、この後に続く御言葉「神のものは神に返しなさい」に、反対派は、自分達の愚かさを痛感し、主の知恵が人間の知恵を越え、非の打ち所がないと悟ったのです。実は、この御言葉は、時空を超えて、私達信仰者にも語られていると言えます。時空を超えた「神様」の知恵の御言葉だからです。信仰をはじめ、神様から賜るものを想起して感謝し、お返しするよう、求められています。

11月19日の説教要旨 「時の転換点」 牧師 平賀真理子

箴言16:1-9  ルカ福音書16:14-31
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、イエス様のお話についてファリサイ派の人々の態度を記したところから始まっています。彼等はあざ笑ったのです。自分達の方が上だという判断をしていることが暗示されています。
*ファリサイ派の人々に顕著に表れた人間の最大の問題点
それに対し、イエス様は、ファリサイ派の人々の最大の問題点を指摘なさいました。それは「神様の目に映る自分ではなく、人の目に映る自分のことをまず考えている」ということです。15節で「神はあなたたちの心をご存じである」とイエス様が語られましたが、これこそ、本当に畏れ多いことだと痛感します。神の民として立てられているにもかかわらず、神様の目でなく、人間の目から見て自分がどう見えるのかを
まず考えてしまうという自分の心を懺悔しなければならないでしょう。
*神様の目を忘れてしまいやすい人間
ファリサイ派の人々は、神様がくださった律法に携わっているが故に、自分は神様に近いと誤認しやすいのでしょう。逆に言うと、自分自身について、神様の目を忘れやすい人間であることを常に自戒していかなければならないのです。それは、ファリサイ派の人々と現代の私達の間でも全く同じであると言えます。私達は日曜日ごとに礼拝を献げますが、主なる神様を忘れてしまう自分の罪を悔い改めて、それを許して神様が自分を招いてくださることに感謝し、神様を賛美しようという思いで溢れているかどうかが問われているのです。
*「律法と預言者」の時代が終わり、「神の国の福音」の時代が来た!
人間は神様を忘れるのに、神様は人間への愛を貫きます。まず、律法を与え、次には「救い主」を送る預言をなさって、それを実現なさいました!つまり、ファリサイ派が奉じていた「律法と預言者」が支配する時代が終わってしまい、次の時代、即ち、救い主であるイエス様がこの世に遣わされて「神の国の福音」が告知される時代が来たのです。但し、どちらも神様の御心を示したものに変わりありません。「律法や預言者」に示された御心は決して消えません。人の心を見抜くイエス様は、ファリサイ派の人々の心を見抜き、彼らが律法の中でも特に不都合だと感じていた「姦通の罪の規定」を例に挙げました。彼らは神様の御心に従おうとせず、自分達の欲望に都合のよい解釈をして良しとしていましたので、イエス様は、「人間が自分勝手な解釈を付け加えて曲げようとしても、律法の根本である『神の御心』は変わらない」と伝えたかったのだと思います。イエス様は、律法が人間の間違った解釈ではなくて、神様の御心に立ち帰って大事にされることを切望なさったのです。
*欲望のためにこの世に執着して「時の転換点」を察知できない人間
14節から18節までの段落は、別の見方もできます。ファリサイ派の人々の具体的な欲望=「金銭欲と名誉欲と色欲」が明らかにされています。この世での人間の欲望にまみれているために、目の前の救い主を見抜けずに悔い改められない者達の代表として、ファリサイ派の人々を見ることもできると思います。彼等は、欲望という「この世への執着」のために「救い主がこの世に来た」という「時の転換点」を察知できない愚かさを呈しています。一方、イエス様の言動は、父なる神様の人間への愛を正しく伝えたいという思いで溢れ、新しく立てられた救いの方法=「神の国の福音」を告知してこの世の人々を救いたいという思いで貫かれています。
*「金持ちとラザロ」の例え話におけるファリサイ派の誤りと私達
イエス様は、聞く相手を考慮してお話しをなさいます。この例え話も、聞くファリサイ派の人々を「金持ち」に例え、彼等が自分達の間違った姿勢を改めるように求めておられます。この「金持ち」はこの世にいる間、多く物で満たされ、一方、「金持ち」の隣人であった「ラザロ」という貧者には、食べ物も家も満足に与えられませんでした。「金持ち」はこの貧者の隣人に、自分の残り物すら施しませんでした。その後、二人ともこの世から死者の世界に行くことになり、ここで、ファリサイ派の人々の考え方を反映した描写がなされます。「ラザロ」がイスラエル民族の祖であるアブラハムの宴会に招かれているのに、「金持ち」はその世界から隔絶された別の世界で「渇き」の責め苦を受けるというのです。この世で与えられるものが少なかった者と、この世で多く与えられたのに隣人に分け与えなかった者は、死後の世界へ移された後は、全くの逆の立場になることが示されています。「金持ち」は後悔してもどうしようもないと思い知ります。結局、ファリサイ派は「死から復活する者(後の復活のイエス様を暗示)の教え」には従わずに、モーセや預言者達の教えに従うと言いつつ、実は自分の欲望に従い続けた結果、新しい時代においては後悔するのみであると警告されています。ファリサイ派のような誤りを主は信仰者に望まれません。新約時代の私達は、神様の憐れみにより、今や、救い主イエス様のおられる所に招かれています!その大いなる恵みに感謝いたしましょう。

9月4日の説教要旨 「喜ぶべきこと」 牧師 平賀真理子

箴言832-36 ルカ101720

 はじめに

今日の新約聖書は、聖書での前ページに書かれている「七十二人の派遣」を受け、福音宣教の旅から帰った弟子達が、どういう報告をしたか、また、イエス様がその報告にどのように答えられたかが記されています。

 「七十二人の派遣」から読み取れるイエス様の憐れみ

イエス様は福音宣教へと弟子達を派遣する前に、いくつかの教えを語られました。中でも印象的なのは、初めて自分達だけで旅する弟子達の「受け入れられなかったら、どうしよう」という心配な気持ちに、イエス様が憐れみをもって寄り添ってくださっていることです。そのため、弟子達を受け入れない町には「自分達とは何の関係もない町である」という態度を取ることをお許しになりました。しかし、それでも「神の国はこの世の人々に確かに近づいた」と知らせるように教えておられます。

それだけではありません。人々が福音を受け入れても、拒否しても、人間の反応には全く関係なく、神様の救いの御業は進んでいることをイエス様は語っておられます。弟子達の伝える福音は、イエス様から弟子達に託され、更には、天の父なる神様から託されたもので、神様の御業です。だから、弟子達の福音宣教の旅の勝利を保証してくださったわけです。

 弟子達の福音宣教の旅の報告

イエス様はわかっておられたのですが、心配しつつ、旅に出た弟子達の福音宣教の旅が、良い成果だったことが17節から推測できます。「喜んで帰って来て」、「イエス様のお名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と報告しました。弟子達は、以前、イエス様と共に旅した時に見た主と同じ御業「悪霊を追い出すこと」が、自分達にもできて嬉しかったでしょうし、自分達に授けられたイエス様の御力と権能が本物だという確信を強めたことでしょう。しかし、ここで、イエス様は、その報告の中から、教え導く必要を感じ、語られました(18-20節)。

 イエス様とサタンとの戦いにおけるイエス様の勝利

18節で「サタンが稲妻のように天から落ちる」のを、イエス様は既にご覧になったとのことです。主がおっしゃりたかったのは、悪霊の頭であるサタン、そして、神様が造られたこの世や人間を横取りして支配してきたサタンが、神の御子・救い主イエス様の出現によって、神様のおられる「天」から激しく落とされた、そのことはもう既に確実に起こったことなのだということでしょう。(参照:ヨハネの黙示録12章)。「天」での勝利は、後には「地」でも必ず実現します。

 「敵」(サタンや悪霊達)に対して

イエス様がサタンに打ち勝つ光景をご覧になっただけでなく、その御力や権威を弟子達に授けたと19節ではおっしゃっています。だから、神様側にいる民として神様の救いの御業のために福音伝道に励む弟子達を傷つける者は、実際にはもう存在しないとイエス様は宣言なさいました。ここで、「敵に打ち勝つあらゆる権威」という言葉がありますが、この「敵」とは「憎むべき相手」という言葉が語源です。神様の御心に自分を合わせないサタンや悪霊達は、「神の民」を自分の方へ取り戻そうとあらゆる力や手段を使って挑んでくる「敵」です。そのような神様に反する勢力に引きずられそうになるなら、「神の民」は、神様の所へ避難してよいのです。神様から引き離されそうだと感じるなら、「敵」には一線を画する必要があるでしょう。日々の生活において、まだまだサタンや悪霊に引っ張られることが多いと思う方は、「敵」の攻撃に敏感にならなければなりません。

 「命の書」によって神様に覚えていただいている私達

だからと言って、「神の民」達は、サタンや悪霊達の反応に注意することを第一のこととしてはなりません。むしろ、神様が御自分の民として、私達信仰者一人一人の名前を「命の書」に記してくださっていることに感謝し、神様への賛美に専念することを第一のこととすべきです。(その表現の一つが礼拝です。)それが、本来の人間の真の喜びだと、イエス様は弟子達に想起させようとされたのだと思います。「自分の名前が天に書き記されている」とは、聖書に度々表現されています(詩編69:29、フィリ4:3、黙示録13:8、21:27等)。神様がお持ちの「命の書」には、救われて「神の民」となる者・永遠の命を得る者の名前が記されていると考えられています。その大きな恵みは、当時の弟子達だけではなく、私達にも与えられています。神様が私達信仰者一人一人の名前を覚えていてくださっているということこそ、私達が本当に喜ぶべきことです。そのような憐れみ深い神様の御心に自分を合わせ、神様の御心を第一として生きていけるよう、祈り求めましょう。

7月24日の説教要旨 「救い主の御名」 牧師 平賀真理子

箴言212431 ルカ9:4650

 はじめに

今日の新約聖書は、イエス様の2度目の受難予告の後に続いて書かれた箇所です。救い主としてのイエス様は、御自分が人々から苦しみを受けて殺されるという受難予告の内容を、弟子達がすぐには理解できない様子をご覧になり、念を押すために数を重ねて語られたのでしょう。それでも弟子達は理解するどころか、他の集団と全くで、「順位争い」に心を奪われています。そんな弟子達の心の内をイエス様が見抜かれました(47節)。

 当時の「子供」に対する考え

そこで、イエス様が弟子達を教えるために、例えとして弟子達に見せたのが「一人の子供」です。現代の日本の私達は、「子供」は将来の希望の象徴であり、大事な存在だと知らされています。しかし、当時は、残念ながら、「子供」とは取るに足りない存在、大事ではないと思われている存在でした。このように、価値がないと思われていた「子供」を示し、イエス様は「御自分の名のために」受け入れる覚悟があるかを弟子達に問われたのです。

 「わたしの名のために子供を受け入れる」

「イエス様の名のために」とは、イエス様を信じて、喜んで従っていく生き方をするためにという意味です。「イエス様の名を信じる」とは、イエス様の呼び名である「神からのメシア(救い主)」が、イエス様の本質であるとわかり、イエス様が「神からの救い主」と呼ばれるに値すると確信し、その呼び名が示す事柄を必ず成し遂げることがおできになると信じることです。イエス様をこの世に送った「神」は、他の宗教で言われる「神々」とは正反対の性格をお持ちです。「神々」は「大きい者、強い者」を重要視しますが、聖書で語られる「神」は、「小さい者・弱い者」等、この世の基準では価値が無いと見なされる者を愛してやまない御方です。その「神」から送られたイエス様も、「小さい者・弱い者」等、この世では価値が無いとされる者を愛してくださる御方ですし、そのイエス様を「救い主」と信じる弟子達なら、同じように「小さい者・弱い者」等、価値が無いと思われる者の代表である「子供」を歓迎できるはずだと教えておられます。

 「子供」の比喩

実は、価値の無い「子供」という言葉は、もうすぐ「十字架」刑で死ぬイエス様御自身の比喩であると読み取れます。「栄光の救い主」ではなく、全く価値のない「苦難の僕」として死ぬイエス様は、この世の基準では価値の全く無い者です。「順位争い」というこの世の基準に浸っている弟子達に、「苦難の僕」の定めの御自分を理解して信じて従ってほしいと願われ、更に、弟子達が父なる神様の御心に適う者になるようにとの願いが込められているのだと思われます。

 「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。(48節)

この聖句には補足が必要でしょう。「あなたがた弟子達皆の中で、この世の基準で最も価値がないと思われる者こそ、神の国の基準では、最も偉大な者である。」自分のことを最優先するこの世で最も価値がないとは、自分のことを最優先しないということでしょう。そういう者こそ、神の国では偉大な者として神様に祝福されるのです。その期待をよそに、競争をやめない弟子達はこの世的です。

 「ただ、神の国を求めなさい(ルカ1231

そんな弟子達にイエス様がまず伝えたかったのは、「ただ、神の国を求めなさい」という教えであり、それが神の国の民の使命だということだと思います。イエス様が常にそうなさっていました。弟子達の順位争いの議論から始まった、今回の件では、イエス様の御言葉は、最後には「イエス様や父なる神様を受け入れる」ことを重要視した答えになっています。一見、的外れな答えのようです。しかし、神様の御心を最優先し、神の国の基準に従って生きるという御自分の生き方を、イエス様は弟子達も倣うように常に願っておられたのだと思います。

 「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。(50節)

続いて、ヨハネという弟子が、イエス様の御名によって悪霊を追い出す者を見つけ、やめさせようとしたと報告します。しかし、イエス様は放っておくように言われました。ヨハネは、イエス様の恵みをいただくには、自分達のように全てを捨てて従う犠牲を払うべきだという考えで壁を作っています。一方、イエス様は弟子達の福音伝道の将来を見据え、味方が必要だと思われ、壁を作るのをやめさせました。自分の基準を第一とし、合わない人を排斥することこそ、主を十字架にかける「人間の罪」の一つです。私達は、周りの「逆らわない人々=味方」に自ら壁を作らず、彼らが主の真の弟子となるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。