7月24日の説教要旨 「救い主の御名」 牧師 平賀真理子

箴言212431 ルカ9:4650

 はじめに

今日の新約聖書は、イエス様の2度目の受難予告の後に続いて書かれた箇所です。救い主としてのイエス様は、御自分が人々から苦しみを受けて殺されるという受難予告の内容を、弟子達がすぐには理解できない様子をご覧になり、念を押すために数を重ねて語られたのでしょう。それでも弟子達は理解するどころか、他の集団と全くで、「順位争い」に心を奪われています。そんな弟子達の心の内をイエス様が見抜かれました(47節)。

 当時の「子供」に対する考え

そこで、イエス様が弟子達を教えるために、例えとして弟子達に見せたのが「一人の子供」です。現代の日本の私達は、「子供」は将来の希望の象徴であり、大事な存在だと知らされています。しかし、当時は、残念ながら、「子供」とは取るに足りない存在、大事ではないと思われている存在でした。このように、価値がないと思われていた「子供」を示し、イエス様は「御自分の名のために」受け入れる覚悟があるかを弟子達に問われたのです。

 「わたしの名のために子供を受け入れる」

「イエス様の名のために」とは、イエス様を信じて、喜んで従っていく生き方をするためにという意味です。「イエス様の名を信じる」とは、イエス様の呼び名である「神からのメシア(救い主)」が、イエス様の本質であるとわかり、イエス様が「神からの救い主」と呼ばれるに値すると確信し、その呼び名が示す事柄を必ず成し遂げることがおできになると信じることです。イエス様をこの世に送った「神」は、他の宗教で言われる「神々」とは正反対の性格をお持ちです。「神々」は「大きい者、強い者」を重要視しますが、聖書で語られる「神」は、「小さい者・弱い者」等、この世の基準では価値が無いと見なされる者を愛してやまない御方です。その「神」から送られたイエス様も、「小さい者・弱い者」等、この世では価値が無いとされる者を愛してくださる御方ですし、そのイエス様を「救い主」と信じる弟子達なら、同じように「小さい者・弱い者」等、価値が無いと思われる者の代表である「子供」を歓迎できるはずだと教えておられます。

 「子供」の比喩

実は、価値の無い「子供」という言葉は、もうすぐ「十字架」刑で死ぬイエス様御自身の比喩であると読み取れます。「栄光の救い主」ではなく、全く価値のない「苦難の僕」として死ぬイエス様は、この世の基準では価値の全く無い者です。「順位争い」というこの世の基準に浸っている弟子達に、「苦難の僕」の定めの御自分を理解して信じて従ってほしいと願われ、更に、弟子達が父なる神様の御心に適う者になるようにとの願いが込められているのだと思われます。

 「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。(48節)

この聖句には補足が必要でしょう。「あなたがた弟子達皆の中で、この世の基準で最も価値がないと思われる者こそ、神の国の基準では、最も偉大な者である。」自分のことを最優先するこの世で最も価値がないとは、自分のことを最優先しないということでしょう。そういう者こそ、神の国では偉大な者として神様に祝福されるのです。その期待をよそに、競争をやめない弟子達はこの世的です。

 「ただ、神の国を求めなさい(ルカ1231

そんな弟子達にイエス様がまず伝えたかったのは、「ただ、神の国を求めなさい」という教えであり、それが神の国の民の使命だということだと思います。イエス様が常にそうなさっていました。弟子達の順位争いの議論から始まった、今回の件では、イエス様の御言葉は、最後には「イエス様や父なる神様を受け入れる」ことを重要視した答えになっています。一見、的外れな答えのようです。しかし、神様の御心を最優先し、神の国の基準に従って生きるという御自分の生き方を、イエス様は弟子達も倣うように常に願っておられたのだと思います。

 「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。(50節)

続いて、ヨハネという弟子が、イエス様の御名によって悪霊を追い出す者を見つけ、やめさせようとしたと報告します。しかし、イエス様は放っておくように言われました。ヨハネは、イエス様の恵みをいただくには、自分達のように全てを捨てて従う犠牲を払うべきだという考えで壁を作っています。一方、イエス様は弟子達の福音伝道の将来を見据え、味方が必要だと思われ、壁を作るのをやめさせました。自分の基準を第一とし、合わない人を排斥することこそ、主を十字架にかける「人間の罪」の一つです。私達は、周りの「逆らわない人々=味方」に自ら壁を作らず、彼らが主の真の弟子となるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。