礼拝・集会のご案内

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Tel/Fax:022-243-6710

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右側の田んぼの真ん中にある一軒家の道に入り、突き当たり斜め左が仙台南伝道所。車の駐車は教会敷地内にお願いいたします。

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
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2021年8月15日の説教要旨 詩編15編・ヨハネ福音書7:40-52

「真実なお方」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

詩編15編には、神様の家には誰が住むことができるのか、どのような人が聖なる山に住むことができるのかという問いかけから始まり、その条件が2節以下に記されています。「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人をあざけらない人。主の目にかなわないものは退け 主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人をおとしいれたりしない人。

これらの事柄は、礼拝するにあたり、ただ各自の態度や姿勢についての要求がなされています。すなわち私達が神様に礼拝することは、神様に犠牲の捧げ物を献げるよりも、自らが「献げ物」となる、「私自らを神様の教えに従わせる」ことが大事だと強調しています。

つまり私達は、神様に正しいとされる生活を送り、人の悪口を言わず、うわさ話に耳を傾けず、隣人を傷つけるような態度をとらず、悪とされるものから足を遠のけ、主に従う人達を大切にする。そして相手から損を受けたとしても、立てた誓いは変えない、賄賂を受け取って無実の人に不利な証言を間違ってもしない・・ならば、その人は神様から多くの祝福を得ることになるでしょう。

旧約時代の礼拝者は、この基準に沿って、神様の言われることを行ない、祭司に聖所の立ち入りを認められて、神様の前に出て礼拝をすることが許されたのでした。私達は、神様に近づく時、どのような態度、心構えで神様に礼拝を献げているのでしょうか?

*信じる者は、生きた水が川となって流れ出る(7:37~)

 本日読んだヨハネ福音書の少し前の37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とありますが、この祭りはユダヤ人の三大祝祭日の一つであり、一週間続く「仮庵(かりいお)の祭り」(申命記16:13:小麦の収穫が終り、穀物収納の感謝祭)のことで、ユダヤ人達は特別な儀式を行います。

それは「水を汲む祝い」と呼ばれ、神殿に仕える祭司達はシロアムという名の池に下りて水を運び神殿に持ち帰ります。人々はこの祭司達の後に従って楽器を鳴らし喜び歌いながら歩いて行くのです。そして祭司達はその水を祭壇に注ぎかけます。その時人々は祭壇の周りを歩きながら「ホサナ」と叫びます。これはヘブライ語で「どうか救って下さい」という意味です。祭壇の傍らには一本の柳の木の枝が置かれ、切り取られた柳の枝がすぐに水分を失い、わずかな時間で枯れてしまう様子を自分達に当てはめながら、柳の枝が水を必要としているように「私達にも神様の救い・助けが必要です。どうぞ私達の必要を満たして下さい」との願いを込めてこの儀式を行なっていました。この儀式の最中にイエス様は大声で、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と叫ばれたのでした。

信じる者信じない者

 この言葉を聞いた人々は、「この人は、本当にあの預言者だ」とか「この人はメシアだ」と言う者と、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫でベツレヘムから出ると聖書にあるではないか」との対立が生まれ、この対立は人々を神様を信じる者と信じない者とに分けました。信じない者は、神様はイスラエルの独立と栄光と義を回復するために人間を遣わすのであり、神様が人の姿でこの地上に現れるとは考えていませんでした。

イエス様は、私達人間を罪や悩み、様々な問題など神様との間に壁を作っている事柄から救い出す為に、この世に来て下さり、十字架にかかり、死なれ、甦られました。イエス様は「わたしを信じる(た)者は、その人の心の奥底から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われています。イエス様を一度受け入れたらイエス様から離れることは出来ません。イエス様はそれだけ、私達・あなたを愛しているからです。

なぜならわたしがイエス様を選んだのではありません。 イエス様が、あなたを形造り、あなたを選んだのですから…。

2021年8月1日の説教要旨 箴言9:1-11・Ⅰコリント11:23-30

「主に感謝」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

先ほどお読みした箴言は、人が生きる中で「知恵」の生活を送ることが必要であり、「知恵」の重要さを宣言することから始まっています。そして「知恵」とは、単なる世の中にありふれているもの、この世の中にかかわったことで得た知恵ではなく、「主を畏(おそ)れること」に基づいていると、はっきりと述べています (1:7)。 この「おそれ」とは、私達が神様の前に罪を犯すことで神様からの仕打ち(罰)を受ける「おそれ(恐れ)」ではなく、神様の偉大な力、凄(すご)さをよく知り、理解することで、 神様の言葉と意志に敬意をもって服従することを意味します。

*命を得るため、分別の道を進むため(箴言9:6)

本日の箴言では、「知恵」が擬人化されています。「知恵」が自分の家を建て、食卓を整えて人々を招いています。1節で「知恵」は家を建て、七本の柱を刻んで立てたとあり、七本の柱は神様のための祭儀的場所として指示されていて、食事は祭儀的食事であり、「知恵」は食卓を整えました。そして侍女達を町の高い所に遣わして、招待していたすべての人に呼びかけ、宴席につくように招きました。イザヤ書40章9節には、以下のように記されています。「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神

*神に逆(さか)らう者と知恵ある人

「知恵」からの招きを受け入れる者は誰でも「命を得る(6節)」ことができるとされています。なぜならそこには「命の食物と命の飲み物としての知恵」と「物事を深く見通せる、優れた判断力」が与えられるからです。

ところが7節では、神様のことをばかにして笑う者達に神様のことを話そうとしても、聞き入れてもらえない、信じてもらえないことが記されています。逆にその人達は頑(かたくな)な態度を取ることになります。しかし、賢い人は、まだ自分には多くのことを学ばなければならないことがある、と知り、常に敬意を払いながら神様の言葉に耳を傾けて喜んで聞きます。

神様を畏れることは知恵を得ることの初めであり、この知恵を知ることが聖なる方を信じ受け入れることに繋(つな)がります。それは何が良く何が悪いかの正しさを見分ける力が与えられることです。「知恵」は自分の家で食卓を整えて、私達をその席へと招いて下さっているのです。

*主の晩餐の制定

本日のコリント書では、コリント教会の人達の、特に神様を礼拝する姿勢に問題があったので、パウロは、基本的な知識を身に付けるように手紙を書いています。その一つが「主の晩餐」の守り方です。教会内で「主の晩餐」の食事が感謝の心を持たずに行なわれていることに問題を感じ、自分が受けたものを人々に伝えるための言葉として、イエス様ご自身が発した厳かで変えることのできない儀式の仕方や信仰内容が語られます。パンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、「イエス様の救いの死」を思い出させるものであり、軽々しく受け取るべきではないことを伝え、特に神様を信じる者達は、自分達が裁かれないように自分自身を吟味する必要があることを教えます。又26節で、「主が(再び) 来られるときまで、主の死を告げ知らせる」とあり、27節からは、晩餐に与るために、ふさわしい在り方が語られ、コリント教会の人達が「主の体」のことをわきまえずに晩餐に与り、ふさわしくない態度でパンを食べ、ぶどう酒を飲んだことは、「主の体と血に対して罪を犯すことになる」と教え、教会内部で問題が起る結果を招いたことや、信徒の間では弱い者や病人が沢山いて、多くの人が亡くなったことなど、後半で語られます(30節)。

*わたしたち

神様を信じる者達には、意志の弱い者であれ、心に不安を抱いている者であれ、どのような者でも神様の食卓につくようにと招かれています。

その食卓で、イエス様と共に食事をし、神様からの力と励ましを受けて、私達は再び、この社会(この世の生活)へと戻って行くことができます。 今日この日、聖餐に共に与(あずか)れることを神様に感謝して、今週の歩みをして参りましょう。

2021年7月18日の説教要旨 創世記21:9-21・ロマ書9:19-28

「全てのものの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

アブラハムは、神様の前に正しい人でした。神様はアブラハム祝福し、彼の子孫も祝福することを約束されました。けれども妻サラには長い間、子供が生まれなかったため、サラはエジプト人の女奴隷ハガルをアブラハムの側女としました。ハガルはイシュマエルという男の子を産みました。しかし神様はアブラハムに、「あなたの妻サラが、あなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」と言われて、サラから生まれる子供が、約束の子供であることを告げました。

*アブラハムから生まれたイサクとイシュマエル

 そしてアブラハムとサラに、主によって約束された子供・イサクが与えられます。子供が与えられることは私達を笑顔にさせてくれますが、この出来事は、イサクが乳離れをした頃に様子が変わります。サラはイシュマエルがイサクをからかうのを見て、アブラハムにハガルと息子を追い出すように願い出ます。アブラハムはこのことで苦しみましたが、神様はアブラハムに「苦しまなくてもよい。アブラハムの子孫はイサクから出る者が継ぐ。イシュマエルも一つの国民の父とする。」と、約束されました。

*ハガルと息子

 アブラハムは翌日の朝早く、パンと水の革袋をハガルに与えて息子と共に送り出しました。ハガルは荒野をさまよい水が無くなると、子供を灌木の下に寝かせ、自分は少し離れた所で死を覚悟して座ります。神様は子供の泣き声を聞き、天から御使いを遣わしてハガルに呼びかけます。「行ってあの子を抱き上げ、しっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と伝え、ハガルの目を開き、水のある井戸を見つけさせたので、彼女は窮地を脱しました。こうして神様が二人と共におられたので、彼は成長し、母ハガルはエジプトからイシュマエルの妻を迎え、イシュマエルは、イスラエルとは異なる民族の祖となったのでした。

*パウロの悲しみと痛み

 ロマ書の著者パウロは、同胞であるイスラエルの人々の魂の救いを心から願っておりました。9章2節には「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」とあり、パウロはイスラエルの人々の 少数の人だけがイエス様を信じて受け入れ、他の人々はイエス様を信じようとしなかったことに心を痛め、悲しみの感情に捉えられています。イエス様はイスラエルの人々の神であり、主であられます。イスラエルの人々には、神の子としての身分や律法、約束などが与えられており、肉によればイエス様も彼らから出られました。

しかし6節で「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない」とあるように、アブラハムの子孫だからといって皆が神様との正しい関係にあることの保証にはならないことを本日の聖書箇所 <焼き物師と粘土の関係> を通して教えています。

*「怒りの器」から「憐れみの器」へ

 焼き物師と粘土の関係を考えればわかるように、「すべてのことは器を造る造り主に権限がある」(21節)こと、私達は本来「怒りの器」として滅びることになっていた(22節)にもかかわらず、神様は寛大な心で耐え忍ばれ、それも、「憐れみの器」として栄光を与えようと準備しておられた者達に、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためだと語ります。

*焼き物師と粘土(ねんど)

 「造られた物が造った者に『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるだろうか」(20節)と、焼き物師である神様には造り主としての用途があることを示します。神様は人を不当に扱うことはなさらず、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言われます(15-16節)。滅びゆく道へと歩んでいた私達は、「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより、無償で、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:21-24)をいただいた、神様に造られた者達です。 この神様に信頼を置き、神様の示される道を今週も進んで参りましょう。

2021年7月4日の説教要旨 詩編143:1-6・マタイ福音書7:1-14

「神に祈ること」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編143編では、ダビデは様々な苦難や試練に会い、追い詰められた状況の中で神様に助けを求めています。自分の命をねらう人達から逃げなければならない放浪生活は、まるで出口の見えない暗闇に閉じ込められたような日々の中での苦しみや悩みでした。そのため4節で「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫(くじ)けます。」と訴えます。ダビデの神様へ向けた訴え、祈りは非常に切実なものでした。

1節「主よ、私の祈りを聞いてください。嘆き願う声に耳を傾けてください。あなたの真実、あなたの義によって、わたしに答えてください。

2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。」(聖書協会共同訳)

 私達もダビデのように、苦しみ・悩みから助け出して下さるように神様にお祈りをしたことはないでしょうか。

*祈る中で・・

ダビデは祈り続ける中で、心の中に変化が訪れます。それは神様から受けた昔の日々の出来事に思い巡らして祈ることで、神様の御手の業、神様の働きを考え始めたからです(5節)。ダビデは静かに心を落ちつかせて祈ることで、神様の優しさ・偉大さを思い起こすことが出来たのでしょう。そして6節で「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます」と祈り、ダビデは自分の身を隠すことのできる祈りの場に身を置くことで、神様を信頼するようになりました。

 私達も又、神様に思いを寄せて祈る時、神様のして下さった業、出来事を思い起こして神様に希望を置くことができ、神様を信じる道へと歩み出す力、進み出す力が与えられると思います。

*神様の国に入る心構え

 本日のマタイ福音書7章では、イエス様に従い、神様の国に入る者達の心構え、呼びかけの言葉としての締めくくる言葉が告げられています。

裁くな」と「求めなさい」です。「裁くな」には自分は裁かれている(批判されている)かもしれないという「恐れ」の思いや、自己嫌悪の気持が強いほど、逆に人を裁いてしまう傾向があるようです。「裁く」の元の言葉には「見下げる、判断する」意味があり、人のことをあれこれ考え、見下して評価してしまうような態度をとることです。

イエス様は、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われました。私達は自分の価値基準で人を量るのではなく、神様と聖書の言葉に目をとめて従うべきであり、神様がなさろうとすることに注意をはらうべきです。それは主にある私達が神様を仰ぎ、祈り求めていく一途な心を身につけることではないでしょうか。

*「求めなさい」

神様が教えようとされているのは、山上の説教で語った話を心に留め、それらを守り行なうことができるように求めて、探して、門をたたきなさい、と言われていると思います。「求め、探し、たたく」は、神様の国を求める人々にとって、とても重要な言葉です。「私は人を裁いてしまうし、ふさわしくないから、神様の言葉を守ることができない」と感じるかもしれません。しかし神様はそのような人を救いの道へと導き入れ、神の国に入るのにふさわしいと者と考えておられます。なぜならその人は、すでに神様に対してへりくだりの心を身につけて、神様の国のことを考えているからです。「求める、探す、たたく」の元の言葉は「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい」と、諦めず何度も何度も求め続ける、探し続ける、たたき続けることが求められています。

*神の国

神の国は、喜びの源が私達の外側ではなく、内側にあることをいいます。私達の内側から生命の水・生ける水の川が流れ出るような世界であり(ヨハネ 7:38)、それによって神様に造られた者全てが活気づく世界なのです。<ダビデの詩編16:9-11を読みましょう。>人は、神様の力、神様の霊を受ける時、又、神様を感じる時、その心は喜び魂は躍ります。そして私達の身体は神様の霊の中で安心して休むことができるのです。

2021年6月27日の説教要旨 イザヤ49:14-21・使徒言行録4:32-37

「分かち合い」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のイザヤ書49章では、イスラエルの人々が捕囚の地バビロンから長年待ち望んだ故郷イスラエルへ帰ることが、預言者である第二イザヤ【注】を通して神様から告げられます。<【注】イザヤ書は、1~39章の著者はイザヤ、40~55章の著者は便宜上第二イザヤと呼ばれ、56~66章の著者は第三イザヤと呼ばれており、歴史的背景、文体などが大きく違っている。>エルサレム帰還のニュースは、イスラエルの人達にとってとても嬉しいことでしたが、一方、彼らを不安にさせることでもありました。それは捕囚地へ連行される前、町はバビロンによって完全に破壊されてしまったことでした。

*「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」(14節)

イスラエルの人達は、故郷エルサレムで再び神様を礼拝することを待ち望みつつも、「エルサレム帰還」を信じられず、心のどこかで、「エルサレム」の町はすでに神様に見捨てられたと考えていたのです。

*「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)

「見捨てられた」と訴える彼らに、神様は、そのようなことはあり得ず、それよりも、「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)と語ります。私達が手のひらに何か文字を書くように、神様の手のひらには、イスラエルの名前のみではなく、再建したエルサレムの姿をも刻んでいると言われます。神様は、自らが計画して選んだ民を忘れることがなく、速やかに行動し、かつての征服者たちは遠くへ追いやられ、立ち去り、散らされた民は再びエルサレムの地に呼び集められ、荒れ果てた地・エルサレムは、これから故郷に戻る人々の子供達の「住む場所が狭(せま)すぎます」(20節)との(嬉しい)声を聞くことになるだろうと語っています。

*聖霊降臨後の弟子達

使徒言行録2章では、聖霊が降る出来事(ペンテコステ)を通して弟子達は聖霊に満たされて神様の力を受け、大胆にイエス様のことを語り、聞いていた大勢の人々は、イエス様のなさった話を聞くことにより信じて信仰に入りました。しかし4章では、ペトロとヨハネはイエス様の復活を伝えていたことで投獄され、翌日、議員や律法学者達の前で質問を受けますが、二人の語る大胆な態度や、二人が無学な普通の人であることを知り、さらにペトロに足を癒やしてもらった人がそばに立っていたので、二人は釈放されて仲間たちの所に戻り、これらのすべての出来事を報告しました。集まっていた信徒達は、これから迫り来る出来事に立ち向かえるよう神様に力を与えてくれるように心を合わせて祈りました。祈り終えると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて大胆に神様の言葉を語りだしました。神様は集まっていた使徒達の祈りを聞かれ、大いなる力を表されました。

*「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(32節)

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。」(33節・聖書協会共同訳)

「神様の恵み」は、二人でも三人でも主の御名を求める兄弟姉妹、信じる全ての人たちが集まるところ、教会・共同体を作り出します。そこでは、お互いが家族のようであり、同じ使命を持ち、祈り合い、支え合い、持ち物を共有し合うことが自然に行われていきます。そこには、「神様の恵み」、癒やしの源である「聖霊の働き」が起こり、人々に力を与えて下さるのです。私達はこのような全てを満たす神様の恵みに出会いたく、神様の霊に触れたくて、毎週、教会の門をくぐってこの礼拝堂に来るのです。ここでの集まりの中で、私達は神様を感じ、神様に触れ、神様を体験しているでしょうか。神様が私(私達)と共におられなければ、現れて下さらなければ、神様を知ること、感じることはできません。私達はすでに神様の手のひらに私達の名前が刻まれていて、共に祈る場所、礼拝する場所が用意されているのです。ここは、神の家族、神の家です。

2021年6月20日の説教要旨 申命記26:1-11・Ⅱコリント8:1-15

「主への告白」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イスラエルの民はエジプトを脱出後、主に導かれながら40年間の荒野での生活を送ってきました。その間、主なる神から天から降ってきた「マナ」によって養われました。しかしこれから入る嗣業(しぎょう・神様から賜った資産)のカナンの土地では、土地を耕し自らが農作物を作り、収穫しなければなりません。神様は、このカナンの地で新しい生活を始めるにあたり、幾つかの注意点を述べています。

*土地から取れた収穫物をささげる時の信仰告白(5節-10節)

先ず「初物」をかごに入れて祭壇に行き、祭司には「約束の土地・カナン」に入ったことを報告して「初物」のかごを祭司に渡す。祭司はそのかごを祭壇に備える。その後、「初物」をささげる者が神様に対して以下のように信仰の告白をする。『わたしの先祖は滅びゆく一(いち)アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐(しいた)げ、苦しめ、重労働を課(か)しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。

*嗣業の土地

「信仰告白」で大切なことは、『主がこの所に導き入れて、乳と蜜の流れるこの土地を与えられた、という点にあります。主が約束されて与えられ、主から相続した嗣業の土地で取れた、あらゆる地の産物や彼らの業績などは、彼ら自身の力と手の働きによるものなどと考えてはならず、むしろ主なる神を思い起こし、主の導きや守りによることへの神様への感謝と、彼らの信仰を、後の世代まで継承していくことを教えています。そこに神様に従い続ける忠誠心、献身力が養い育てられていくと思います。では、私達がささげる初物のささげ物とはどういうものなのでしょうか。

*新約時代の献金

本日のⅡコリント書では、コリントの教会に間違った教えが入り込み、信徒達は献金を集めることをやめていたので、パウロは信徒の人々に、献金再開のお願いの手紙を書いています。この献金はエルサレムの聖なる者達の中の貧しい人々を援助するためのものでした。そこでパウロは、マケドニア州の諸教会に与えられた神様の恵みについて書いています。マケドニアの信徒達は、苦しみによる激しい試練を受けていましたが、彼らは喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず溢れるばかりに豊かな真心をパウロ達に示しました。彼らは、それぞれ個人に与えられた力、能力に応じて、又、力以上に自ら進んで聖なる者達を助けるための奉仕に加わる恵みに与(あずか)りたいとしきりに願い出て、パウロ達が期待していた以上に自らを献げ、仕えました(8:2~)。彼らはパウロを通して神様の素晴らしさ、凄さを体験したので貧しい生活を送っていた者達でさえも惜しみなく、又、自ら進んで献金を献げました。

*わたしたち

私は日本には数多くの宣教師やクリスチャン達が訪れ、私達日本人のために彼らの時間、生活費を費やして、神様の言葉を伝えている人達のことを思い浮かべました。この方達は一度も顔を見たことも話したこともない人達の為に日本を訪れていますから、神様を信頼し神様の御国の建設のため、教会形成に自分も何かの役に立ちたいという献身の思いがなければ人々に仕え、御言葉を伝えることはできなかったでしょう。

献金は神様に献げられたもので、神様のために働く者達の為、神様を求めて教会に集まって来た人々の為、又、この教会だけに留めるのではなく、神様を信じる全ての者達のために用いられるべきものです。私達はこの伝道所へ神様に呼び出され、集められ、神様の前で罪の告白をし、祈り、讃美し、み言葉を聞き、この神様の愛に感謝して感謝のささげ物の献金をします。この中で私達の信仰を告白しようではありませんか。

2021年6月13日の説教要旨 イザヤ書60:19-22・フィリピ2:12-18

「命の言葉」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の旧約聖書の少し前に、『主は贖う者として、シオン(エルサレムのこと)に来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる』(59:20)とあります。ヤコブの子孫であるイスラエルの人々が、自分達の罪、神様に対しての背きの罪を認め、罪を悔い改めた時、主は彼らのもとに訪れると述べています。そしてイスラエルの人々が再び神様に立ち返るようになると、エルサレムの街は世界中の国々から注目されることになり、イスラエルの人々は、主の御名のために誉め称えられ、尊敬されるようになることが告げられています。そして彼らは、イスラエルの繁栄は、神様がとこしえに共にいて下さらなければ成り立たないことを知るようになる、と、預言者イザヤは神様の言葉を伝えています。

*主の栄光が輝くエルサレム 

本日のイザヤ書の箇所では、主の栄光がエルサレムに現れる時、イスラエルの近隣、又、他の国々の人達が、その主の照らす眩(まばゆ)い光の呼びかけに答え、その光を求めてエルサレムに集まって来るようになり、エルサレムは主を礼拝する人々の集まる場所、全世界の中心的な場所となる、と語られます。そして主の聖なる都市、新しいエルサレムには、主の栄光が輝き、その輝きの凄(すご)さで、もはや太陽や月の輝きまでもかき消してしまいます。それは、「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる」(19節)からです。

*「あなたがたも・・わたしと一緒に喜びなさい」(18節)

わたしたちは希望の持てない、失望感に満ちた所に足を踏み入れてはいないでしょうか。本日のフィリピ書には「共に主に在る喜び(18節)」が勧められています。著者パウロは、獄中に入れられながら、神様と良き交わりの時を持ち、絶えず感謝の気持を持つことができています。パウロが投獄された理由は(常に福音宣教のためですが)、使徒言行録16章では、伝道旅行中、占いの霊に取りつかれている女奴隷が後についてきて叫び続けたため、彼女から占いの霊を追い出したことで、彼女の主人逹がお金もうけの手段を失ない、訴えられたことが記されています。しかしパウロは獄中でも、神様を賛美して祈っていました。パウロは全ての出来事に感謝しています。なぜでしょうか。

それは、真実の主イエス・キリストを知っていたからだと思います。その時、突然大地震が起り、牢の扉が全て開き、パウロたちの繋がれていた鎖も外れてしまいました。看守は囚人達が逃げたと思い自害しようとしましたが、パウロ達は逃げず、看守に自害しないように伝え、神様の御言葉を語りました。この時、看守も看守の家族も皆、信じて洗礼を受けたのでした。ここに、神様の凄さ(すごさ)があります。神様の言葉には力があり、神様は人々に、命と生きる力を与えて下さるお方です。

*「自分の救いを達成するように努めなさい。」(12節)

獄中からパウロは、「自分の救いを達成するように努めなさい」と語っています。「神様は、信じている者達の心の中にすでに住んでおられる。共にいて下さるのだから、その神様の力を信じ、神様が働いて下さることを信じて歩みなさい。今ある状況を受け入れ、今ある願いが叶うと信じて祈りなさい。」と励ましているのです。パウロにとって、「捕われたこと」は、主イエス・キリストによってであり、「生きること」は、主イエス・キリストを通してであり、「イエス様のために死ぬ」ことは、とても名誉なことだと感じていました。

*「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神であるからです。」(13節)

私逹一人一人には神様から与えられた苦難や試練があります。もうこれ以上我慢できない、と思っても、その苦難や試練は、さらにもっと深い奥底まで私達を引きずり込んでしまうことがあります。しかしそのような状況に私達が陥ることを許したのも神様です。なぜでしょうか。

それは、神様は私達を愛し、信頼しているからです。私逹一人一人には神様が立てられたご計画があるからです。そのことを私達は信じますか。

最後にもう一度、本日のフィリピ書をお読み致します。(2:12~18節)

2021年6月6日の礼拝説教要旨 エゼキエル書18:25-32・使徒言行録17:22-34

「創 造 主」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエゼキエル書18章には、イスラエルの人々が「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」ということわざを繰り返し口にして、現在、彼らの身の回りに起る幸・不幸の出来事は、先祖が過去に行った様々な行為の結果であると考えていたことが伝えられています。それゆえ、捕囚という悲惨な出来事は、先祖の罪の行いの報いであると受けとり、神様の、自分達に対する扱い方は正しくないと主張しています。

そのようなイスラエルの民に対して、預言者エゼキエルは、現在彼らの身の回りに起っていることは、イスラエルの一人、一人、各個人に責任があるとの神様の言葉を伝えます。すなわち、正しい人が、そこから離れて不正を行なうなら、彼は自分の行った不正によって死ぬのであり、逆に、悪い人が自分の行った悪から離れて、神様の前に正義と恵みの業を行うのなら自分の命を救うことができる、との主の言葉を語ります。

そして主なる神は、「ひとりひとりをその道に従って裁く」(30節)、「悔い改めて、お前たちのすべての背(そむ)きから立ち帰れ」(同)「あらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(31節)わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(32節)と言われたのです!

*パウロのアテネ伝道

 本日の使徒言行録でパウロは、アテネの人々が至る所に人の手で造った神々(偶像)を置いてあるのを見て、この町が「偶像に満ちている」のに憤慨(ふんがい)しました。(原語では、パウロの心の中の霊がしきりに憤りを感じたとの表現)。そこでパウロは、会堂や広場でイエス様の復活の出来事を告げ知らせ、アテネの人々と論じ合っていました。その時、パウロと論じ合っていた人々が「あなたが説いている新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことを私たちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」と、パウロをアレオパゴスという評議所に連れて行きました。

*「知らずに拝んでいる神、それは創造主なる神」

パウロはアレオパゴスの真ん中に立ち、「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを私は認めます。道を歩きながら、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなた方が知らずに拝んでいるもの、それをお知らせしましょう。」と言って、彼らの持っている信仰を否定することなく、知らずに拝んでいる神様について説明を始めます。

 パウロは、「神様は世界とその中の万物とを造られた神」であり、「神様は、一人の人からすべての民族を造り出した」こと、「人が神様を探し求めさえすれば、神様を見出すことが出来る」こと、実際、「神様は地上に生きる一人一人から遠く離れているのではなく、近くにいて下さるお方である」ことを語ります。そして、「神様を、自分たちの手で造った像と同じものと考えてはならない」こと、今は、「御子によって正しく裁く日をきめられた」ので、人々が「悔い改めなければ、今までのような生活は長く続かず、必ず裁きの日がある」こと、「神様はこの御子を死者の中から復活させて、人々に証しされた」ことを語りました。

*わたしたち

死者の復活と聞いてあざ笑う者や、「それについては、いずれ又」と立ち去る者たちがいましたが、パウロについて行き、信仰に入った者も何人かいたことが記されています。現代は、昔になかった新約聖書などの良い環境が整っているにもかかわらず、街を行く人々は神様を知ろうとも見ようとも、探し出そうともしないのはなぜなのでしょうか。そして私達はどうでしょうか。私達もひょっとしたら神様以外の人(家族の誰かであったり、友人であったり)や、目に見えないものを「偶像化」しているかもしれません。今日、私達にかかわる人や物のすべてを横に置き、神様に心を向け、神様が私たちの心の中に訪れて下さり、すべての今ある問題、ストレス、重荷を取り除いて下さるようにお祈り致します。

2021年5月23日ペンテコステ礼拝の説教要旨 ヨエル書2:23-3:2 使徒言行録2:1-13

「魂の高鳴り」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のヨエル書2章12節以下は、主がイスラエルの民に向けて、現在の行いから離れ、悔い改めるようにとの呼びかけから始められています。この悔い改めは、主に対してうわべだけのしるし(衣服を裂くことなど)ではなく、一人一人が主の前に立ち帰り、心から自分のしたことを神様に打ち明けることでした。イスラエルの国の土地や建物は荒れ果てて、見るに堪えないような姿になってしまっているかもしれないが、彼らの悔い改めは、主に対して遅すぎることはないと告げています。そして人々が神様に立ち帰ることでイスラエルの国は回復し、土地は再び、穀物やぶどう酒や油を作り出すことができると述べています。

 この復興の約束は、イスラエルの人々に大きな希望を与えました。そして本日のヨエル書3章で、神様は、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。・・老人は夢を見、若者は幻を見る。」と約束され、しかも「主の名を呼ぶすべての人々が救われる」と約束され、この預言は、ペンテコステの日に成し遂げられることとなりました。

*ペンテコステ(聖霊降臨日)

イエス様は、天に昇られる前に弟子達に、父なる神様の約束されたものをエルサレムで待つように命じました。それは、聖霊が弟子達に降(くだ)り、力を得て、エルサレムばかりでなくユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てに至るまで、イエス様の証人となるということでした(使徒言行録1:3~)。

 本日の使徒言行録2章1-13節では、五旬節の日、エルサレムで弟子達が心を一つにして祈っていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現われて、一人一人の上にとどまりました。炎のような舌とは、火の粉のようなものが祈っていた人々に移り、炎を灯すような光景だったのではないでしょうか。すると弟子達は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだしたとあります。この聖霊の光は、始めは小さな光から、やがて弟子達の祈りが、神様に対する願いや思いが強くなればなるほど、輝きが大きくなり、聖霊の力が増し加わって、神様の凄さ、素晴らしさ、圧倒的な存在を感じたことでしょう。

 当時エルサレムには、あらゆる国から帰って来た信仰厚いユダヤ人が住んでいて、又、五旬節のために訪れたユダヤ人やユダヤ教への改宗者がいましたが、この大きな物音で大勢が集まる中、弟子達が、自分達の故郷の言葉で話しているのを聞き、人々は皆驚き、とまどい、「一体これはどういうことなのか」と互いに言いました。その一方で「あの人達は、新しいぶどう酒に酔っている」と言って、あざける者もいました。

*わたしたち

 神様は、聖霊を通して、私たちに様々な出来事について語り、忠告をして下さいます。「私はイエス様とうまく話せなし、聖霊を感じることが出来ないから普通の生活をしている方がいい、このままの自分でいい」と思っていないでしょうか。イエス様は、イエス様を信じるすべての人たちに、神様の霊をお与えになりました。

 この“霊”の注ぎかけは、現在も止むことなく、しかも霊の注ぎかけは水の流れのように、滝の水の流れのように力強く流れているのです。イエス様はこの聖霊を、信じる全ての者達に注ぎやすくするために、私たちの罪を背負い、十字架にかかり亡くなられました。

このイエス様の死を無駄にしないで下さい。

わたしたち信じて生きる者は、イエス様の証し人となるべきです。

イエス様は、今、このペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝の中で、神様の大いなる生きた霊、聖霊をいつもより力強く、激しく、心地よく、私たちに注いで下さっています。私たちは、この霊を思う存分、味わい、憩い、楽しむ必要があります。神様、イエス様は、ここにおられるからです。この素晴らしい日に、神様からの豊かな祝福と守り、導きがあり、今日から一週間の日々、神様が共におられますようにお祈り致します。

2021年5月16日の説教要旨 詩編93篇・ルカ福音書24:44-53

「主イエス・キリスト」  加藤 秀久伝道師

*はじめに

私たちが生きる世界や神話の世界では、人の手で作った神々や神格化された権力者達が多く登場します。しかし本日の詩編では、主である神様こそが王であることを宣言します。私達が信じる神様は、威厳と力を身にまとい、その支配は昔から変わることなく固く根を下ろし、決して揺らぐことがないと告白しています(1-2節)。又、潮や大水、海に砕け散る波(3-4節)という表現は、主の正しさを乱し、脅かす神話的な力、混沌とした無秩序な力を指し、しかし主は、その無秩序な力から更に高く、力強く、主の支配があることを告白しています。

 この「主」であり「王」である神様のおきては堅く立ち、人々が神様の律法を守ることにより、神殿の尊厳さは現実のものとなります。神殿には、神様に選ばれた人々の群れがあり、時の続く限り、永遠に神様を礼拝し、神様を称える神の国があることを伝えています。

*“必ず”

 本日のルカ福音書24章は三つの部分に分けることができます。一つは、準備した香料をもって墓に行った婦人達のそばに、二人の御使いが現れて、「イエス様が『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』と言われたではないか」と、婦人達に思い出すようにと言った出来事です。

 二つには、二人の弟子が「エマオ」の村に向かって歩いているとイエス様が近づいて来られた出来事です。しかし弟子達の目がふさがれていたのでイエス様と分からずに、イエス様の十字架での死や、お墓の中の遺体がなくなっていたことなどをイエス様に告げました。それを聞いたイエス様は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と彼らに告げて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されました。口語訳と新改訳では、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて・・」と、“必ず”と言う言葉が入って訳されています。

*「必ずすべて実現する」

 三つめの本日の箇所では、復活されたイエス様が弟子達に現れ、真ん中に立ち、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。(44節)」と言われて、メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活すること、イエス様のお名前によって罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられること、弟子達がこれらの証人となること、を宣言されました。

*すべてが現実に起った!

 以上24章では、三か所にわたり「どうしても~ねばならない(決定的にそうなっていて変えられない)」という意味の“必ず”という言葉が使われ、この中に、すでに神様によって「そうするように定められている、計画されている、一番ふさわしい方法で起って当然」という意味を含ませています。しかも、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した事実について、イエス様がすでに旧約聖書の言葉を解き明かし、ご自身の身体を通して神様の約束が現実に起ったと告げています。

*証人となった弟子たち

 イエス様はこれらの言葉を語った後、弟子達を祝福しながら昇天されました(50節~・使徒言行録1:3~11)。弟子達は、復活したイエス様を自分達の目で見たのですから、聖書に書かれていることが真実であることの証人となりました。

*わたしたち

 神様は私達にも、神様の告げた言葉や計画は、必ず実現すると約束しておられます。イエス様は、去った神様(の御子)ではなく、今も、いつも、心にすでに宿っているお方、共にいて下さるお方です。

聖書に目を留め、耳を傾け、静まってみて下さい。神様は今も、ここにおられます。神様は私達を一人にせず、たとえ拒んだとしても神様は離れません。なぜなら私達はすでに神様を受け入れ、信じているからです。

神様はそのことをご存じです。ここに希望があり、平安があります。