11月11日の説教要旨 「実現する預言と弟子の備え」 平賀真理子牧師

イザヤ書53:6-12 ルカ福音書22:31-38

 

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所の前半の段落では、残念なことに、イエス様の一番弟子と目されるペトロさえ、サタンからの厳しい試練に遭うというイエス様の預言と、それに対して、ペトロ自身は、イエス様の預言よりも、自分の覚悟を信頼していたことが示されています。人間的に考れば、ペトロにいささか同情したい気もします。しかし、イエス様は、迫り来るサタン(の試練)に対して、弟子達に気づかせて、備えをさせることの大いなる必要に迫られていたのだと気づかされます。

 

 *ルカ福音書22章に度々現れるサタン

ルカ福音書では、4章13節にあるとおり、イエス様に対しても試練を挑んだサタンは「時が来るまでイエスを離れ」ました。そして、再び、イエス様の御許へサタンが来る時がいよいよ来たのです。22章でのサタンの動きは、3節では「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに入った」とあり、31節では「ペトロや弟子たちをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とあり、53節ではサタンは「闇」と表現されています。こうして、この世の長サタンがイエス様をこの世から排除し始めたことをイエス様は御存じだったのです。

 

 *神の御子・救い主イエス様や弟子達に必死で試みるサタン

もちろん、イエス様はサタンの支配するこの世に勝利されますが、しかし、サタンは負けまいと必死で抵抗することもイエス様はわかっておられました。その勢いは大変激しく、イスカリオテのユダの裏切り、ペトロの一時的な裏切りだけでなく、イエス様御自身も十字架で死ぬことにならなければ、サタンは納得しないというものでした。

 

 *主が、サタンの試練に弱い弟子達のために祈ってくださる!

すべてがおわかりだったイエス様は、サタンの試練に抗しきれない弟子達を責めるつもりではなく、励まそうとなさっていたと読み取ることができます。ペトロが(弱さ故に)イエス様を知らないと言ってしまう事態になっても、絶望しないでほしいとイエス様は願っておられるのです。なぜなら、「立ち直って、兄弟(信仰における仲間)を力づけてやりなさい」(32節)とペトロに主が期待されているからです。だから、イエス様はペトロのために「信仰が無くならないように祈った」とおっしゃいました。主は弟子のために祈ってくださるのです!実は、これは、時空を超えた弟子たる私達も該当します、つまり、私達は主に祈られているのです!

 

 *主は「弟子達すべてがサタンの試練を受ける」と心配なさった

ペトロと同じような試練が、他の弟子達にもあることを御存じのイエス様が、弟子達に語られたのが、35節以降の(今日の箇所の後半の)段落です。

かつて、サタンがイエス様を離れていた時になされた「弟子達の福音伝道旅行」の恵みを思い起こすように主は語られました。この時にはサタンの妨害はなく、主の恵みや御力が弟子達に及んだのです。ところが、主がこの世に不在となって、サタンの攻勢が激しくなれば、必需品を備えることすらも困難になると、イエス様は心配なさったのでしょう。御自分の救いの御業が完了するまでの間、弟子達は「犯罪人の一味」と見なされ、社会から疎外されて苦難の道を歩むことになると予知なさっていたのです。

 

 *主の御言葉と主の御心と弟子達の備え

もちろん、イエス様は犯罪人ではないし、罪もない御方です。しかし、イザヤ書の「主の僕の苦難と死」の預言(52章13節―53章12節)が、父なる神様の御心にある「救い主の姿」であるとイエス様だけが御存じで、37節にあるとおり、人間の罪を背負って苦難を味わう「救い主」の預言が、御自分の上に実現し、弟子達にその現実が迫り、彼らが試練を受けることを心配なさったのです。弟子達は、36節の主の御言葉を受け、特に、剣に注目して「二振りある」と答えました。イエス様は、弟子達が「主の不在」という不安の中、備えとして剣の所持を許可なさっただけで、その使用は望んでおられなかったはずです。しかし、すぐ後の「主の逮捕」時に使用され、被害者の癒しをイエス様がなさる出来事が起こります。主の御言葉に従うつもりでも、人間は、主の御心を理解できずに、自分の都合のいいように解釈して利用してしまう弱さが示されています。主の預言(御言葉)の奥にある「主の御心」を理解したいと祈り求めつつ、私達は、信仰上の備え(「霊の剣」=神の言葉 など ※参照:エフェソ書6:10-20)を怠りなく進めたいものです。

11月4日の説教要旨 「いつまでも主と共にいる」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 Ⅰテサロニケ書4:13-18

 *はじめに

 今日は、私達と共に信仰生活を送った後、この世での使命を終えて、天に召された方々、つまり、信仰における兄弟姉妹のことを覚える日です。在りし日のこれらの兄弟姉妹の信仰に基づいた歩みを想起し、この方々に信仰を与えてくださった神様への感謝を深めましょう。

 

 *使徒パウロのテサロニケの信徒への思い

テサロニケはギリシア北部のマケドニア州の町です。使徒パウロが伝道の旅で滞在した結果、福音を信じる人が一定数起こされ、教会ができました。各地で伝道したいと願っていたパウロは、テサロニケに長くはいませんでしたが、この町の信仰者達を、伝道の「良い実り」として心にかけ、愛していたようです。テサロニケの信徒への手紙一の1章から3章を読むと、そのことがにじみ出ていると感じます。更に読み進めると、4章からは「信仰者としてどのような生活をすべきか」について、パウロの教えが読み取れます。3節に「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となること」とありますし、また、7節にも「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるため」とあります。

続いて、パウロが強調しているのは、まだ信仰を与えられていない人達に対する証しとなる生活を信徒達がするようにということです。11節に「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くようにしなさい」とあり、彼らはこれが出来ていなかったか、それを持続するのが難しい状況だったと想像できます。当時、テサロニケは、経済的に潤っていました。景気が良いと人間は、自分で地道に働くことを軽んじ、時流に乗って、楽して儲けることに走りがちになります。人間は、自分の利益や一時的な流行を最優先してしまいやすいものです。おまけに、当時の社会では、労役を奴隷に押し付けていました。「自分の手で働きなさい」という教えは、奴隷制度を当然のこととしていた主人達を信仰的に目覚めさせたかもしれません。また、奴隷とされた人々にとっては、慰めを得ることになったでしょう。11節のような生き方をしなさいというパウロの教えは、この教会の人々に、主の証し人として生きる重要性を思い起こさせたことでしょう。

 

 *既に亡くなった信仰者達の救いについての疑問

ただ、パウロによってテサロニケの教会ができた頃から時間が経過し、既に亡くなった教会員もいるような状況になった時に、生き残っていた信徒達は「救い」について疑問を持ち始めました。彼らの多くが、自分達の生きている間に、イエス・キリストの再臨があると切迫感を持って信仰生活を送っていたのです。自分が生きている間に「主の再臨=終末」が来たら、自分達はイエス様の救いに与(あずか)れるにしても、死んでしまった人々は、その救いに与れないのではないかと心配する人が多くいたのです。

 

 *生死を越えた主の再臨の時に、信仰者達が受ける恵み

既に亡くなった信仰者達は救われないという彼らの思い込みによる嘆き悲しみは、福音の恵みを知らされずに希望を持てない人、主イエスを信じない人達のすることだとパウロは教えます。14節にあるように、主「イエスが死んで復活されたと信じているわたしたち(信仰者)」は、イエス様を死から復活させてくださった「父なる神様」が、イエス様だけでなく、イエス様を信じる者達も復活させてくださるのだと、パウロは証ししています。従って、主の再臨の時には「生死」は関係ないわけです。主の再臨の時に、既に死んでいたら、イエス様を復活させてくださった神様が、その信仰者をも復活させて「再臨の主」に出会わせてくださる(16節)し、その時に生きている信仰者は、生きた状態で「再臨の主」に出会える、しかも、空中に引き上げられ、雲に包まれ、とあります(17節。※「空中」は、神様の御座所である「天」に近づけられることを意味します。雲は、神様の栄光や神様の守りを表現しています)。生死を越えたイエス様から「いつまでも共にいたい」と愛される存在となって恵みを賜るからこそ、信仰者は、死の恐怖から解放され、天から降りてくる「救い」=「再臨の主」を希望の中で待ち望めるのです。生きている間に、主への信仰告白をして洗礼を授けられて「主の証し人」として歩んだ者は、先に召天した信仰者と共に、「再臨の主」に出会い、「神の民」として迎えられる希望が神様から保証されているのです!

10月28日の説教要旨 「新しい救い」 平賀真理子牧師

エレミヤ書31:31-34 ローマ書9:30-10:4

 

 *はじめに

 今から501年前、1517年10月31日に、キリスト教では、プロテスタントというグループが産声をあげました。その流れをくむ教会では、10月31日か、その直前の日曜日に「宗教改革記念礼拝」を献げます。

 

 *「宗教改革」の口火を切ったルター

宗教改革は、ドイツのマルティン・ルターが、当時のカトリック教会のやり方に対して疑問を表明したことから始まりました。カトリック教会は「免罪符」なるものを発行し、これを買った者は罪を帳消しにしてもらえると宣伝しながら販売していたのです。ルターは、悔い改め無しに罪が赦されるなどとは、聖書は言っていないと主張しました。

 

 *「神の義」についてのルターの新しい発見

更に、ルターには、カトリックの教えとは違う確信がありました。それは「神の義」についての教えです。ルターは、かつてカトリック教会の教えに従った修道院で修養を積んだのですが、そこでは、「義」を重んじる神様に対して善行を積まねばならないと教わってきましたし、何か欲望に負けたりしたら、償いの修行を行わなければならないとされていました。しかし、ルターは、善行を積めば積むほど、これでは足りないのではないかと思い、また、償いの修行をいくら重ねても、自分は神様に「義」とされないのではないかという恐れから逃れられませんでした。そんなルターは、大学で聖書の講義をするために、聖書を丹念に学ぶ中で、新たな発見をしました。それは、「神の義」とは、人間が善行を積み重ねた後に神様から与えられるものではなくて、憐れみ深い神様の方から、救われる方法を先に人間にくださっているということです。つまり、神様がこの世に御子イエス・キリストを「救い主」として、既に遣わしてくださったのだから、人間はこれを受け入れるだけで神様から「義」とされるということです。そこには、人間の行いという条件はありません。

 

 *2000年前の民の間違いの原因(1500年後に繰り返されます!)

今日の新約聖書箇所を含む「ローマの信徒への手紙」には、「神の義」が随所に記されています(特に、1章17節がルターを目覚めさせたと言われています)。今日の箇所の中でも、「神の義」について、しかも、その解釈の間違いについて、2か所も記されています。1つ目は、9章32節で、「信仰によってではなく、行いによって律法に達せられるように考えたから」とあります。2つ目の箇所10章3節では、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったから」とあります。この2つをまとめると、こうなるでしょう。「イスラエルの民は、律法を守る行いを通して、神様から良しとされる(救われる)と考え、熱心に律法に従ったが、イエス様がこの世に来られた後では、イエス様によって救われる訳で、イエス様を拒否する者は、律法の目標点でもあった『救い』に決して到達できない。」

 

 *神様に従う心から、神様に従う行いが出来る!

神様は、御自分に従順に従う、人間の心を求めておられます。心が神様に従った結果、神様の御心に従った行いができるのです。善行をした結果、神様に御自分の民として認められるという、それまでのカトリック教会の教えは、原因と結果が逆になっています。残念ながら、神様無しで済まそうとする、罪深い人間は、悪い心のまま、善行を装うことが出来てしまいます。心と行いとが一致しない、この状況を、神様は良しとなさいません。

 

 *真の「神の義」を人間に発見させ、「宗教改革」を導いてくださった神様

2000年前の間違いが、1500年後の宗教改革の時代に再現されてしまいました。つまり、見えない心ではなく、見える行いを善行という衣で包めば、神様から義とされると、人間の間違った解釈による正しくない歩みが繰り返されていたのです。そんな中、それを正しい方向に戻そうと、神様は、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者達を、この同時代に準備してくださり、豊かに用いてくださったと言えるでしょう。聖書(神の御言葉)に真剣に格闘した彼らは、新たな発見に導かれ、喜びに満ち溢れたのです。それは、罪深い人間の行いに左右されることなく、「神の義」が先に差し出されているということ、つまり、聖書に証しされているイエス様を救い主と受け入れることが「神の義」であるという発見です。そして、彼らは、過去の間違った教えから解放され、本当の救い=新しい救いを発見して、楽園に入ったような喜びを得たのです。その喜びが宗教改革の原点です。

10月21日の説教要旨 「聞き入れられた願い」 佐藤 義子

列王記下 5:9-14 マタイ15:21-28

 

*はじめに

今日は一年に一度の、教会学校と大人との合同礼拝です。教会学校では毎週,子供達が来ることを祈って待っています。小さい時から神様のお話を聞いて育つことはとても幸せなことです。昔、新聞に 山で子供がたった一人で夜を過ごし 次の日に無事に見つかったという記事がありました。見つけられた子供は「怖かったでしょう」という質問に「神様が守ってくれるので大丈夫だと思っていた」と答えたそうです。迷子?になった理由などは覚えていませんが、子供が教会学校に通っていたことを知り、記憶に残っています。

信仰はどんなに小さい子供にでも与えられます。私の姉の孫は小学生の時にバプテスマを受けました。私自身は(感謝なことですが)中学生の時に信仰を与えられました。教会は、生まれた時(神様に導かれた時)から天国に行く時までの生涯、通い続ける場所であり、信仰が与えられ、守られ、成長していくところの、本当に大きな恵みの場所です。

 

*旧約聖書のおはなし

さて、今日の旧約聖書のナアマン将軍のお話は、私が教会学校で聞いた大好きなお話の一つです。ナアマン将軍は軍の司令官という大変 地位の高い偉い人でしたが、重い皮膚病で苦しんでいました。ある日、遠い外国に治してくれる人がいると聞き、家来を連れて沢山のお土産を用意して、エリシャさんという神様のことを人々に伝えるお仕事をしていた預言者に会いに行きます。ところが、エリシャさんの家に行ってもエリシャさんは出てこないで、お手伝いの人がエリシャさんの言葉だけを伝えました。その言葉は、近くのヨルダン川に行って体を7回沈めて洗いなさいというものでした。ナアマン将軍は、エリシャさんが自分の病気を直接見てさわり、エリシャさんの信じる本当の神様にお祈りして治してくれると期待していたので、会ってくれないエリシャさんに腹を立て、怒って帰り始めました。ナアマン将軍はいつもみんなから大切にされていたので、エリシャさんの言葉に素直に従うことが出来なかったのです。

聖書には神様の教えがたくさん記されていますが、その中の一つに、「へりくだり」があります。帰り始めたナアマン将軍に家来は言いました。「エリシャさんの言ったことはむつかしいことではありませんよ」。ナアマン将軍は,家来の言葉で自分の「ごうまん」に気付きへりくだって言われた通り7回、川に沈み 体を洗った時、皮膚病は治ったのです。

 

*新約聖書のおはなし

今日の新約聖書は重い病気の娘がいる母親のお話です。この女の人は、ユダヤ人ではありませんでした。イエス様はユダヤ人としてお生まれになり、神様から 先ず最初にユダヤ人の心が神様に戻る為に働くように言われていました。ユダヤ人以外の外国人(異邦人と呼ぶ)に対しては、ユダヤ人がみんな救われた後に・・という順番が決まっていたのです。

 

*「主よ、ダビデの子よ

さてイエス様は日々の忙しい時から離れて、静かな休息を必要とされて、ユダヤ人の住む地域から外国人の住むカナンという隣の地方に出かけました。人に知られないようにと思っていましたが、カナンに着くと、一人の母親がイエス様が来たことを知り、すぐ出て来てイエス様たちに向かって叫びました。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と。「主よ、ダビデの子よ」と言ったのは、この女の人がユダヤ人と同じように、イエス様のことを神の御子、救い主として信じていたことを表しています。外国人でもイエス様のことを聞いて、信じていた人達がいたのです。

しかしイエス様の時代は、ユダヤ人は異邦人とは一切付き合いませんでした。そして、異邦人もユダヤ人を嫌っていたのです。さらに昔は、女性から男性に声をかけることは滅多になかったので、この女の人は、勇気があったと言えるでしょう。

この母親はイエス様のうわさを聞いた時、自分の娘を助けてくれる人はもうこのお方しかいないと確信したに違いありません。そしてイエス様と弟子達に向かって叫んだのです。

 

*イエス様の沈黙

ところが聖書はこう記しています。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった・・」。「えっ。どうして?」と思いませんか。イエス様は、聞こえているはずなのに返事をなさらないのは無視されたのでしょうか。冷たい反応です。でも母親は、そのことを覚悟していたかもしれません。自分はユダヤ人でもないし、ユダヤ人のように律法を知らないし守ってもいないからです。でも母親はイエス様の後を叫びながらついていきました。母親があきらめなかったのは、この機会を逃したら、娘の病は一生続くでしょうし、それは娘にとって不幸なことであり、娘の不幸は自分の不幸でもあることを十分知っていたからです。イエス様が振り向いて下さらないなら、振り向いて下さるまで追いかけていこうという固い決心を、ここで見ます。

母親が叫びながらついて来るのを見た弟子達は、早く何とかして、この母親を家に帰らせたいと思い、黙って歩くイエス様に「母親を何とかして下さい」と頼みました。

 

*「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない

これがイエス様のお答えでした。イスラエルの家とはユダヤ人のことです。羊とは人間のことで、神様と御子イエス様は羊飼いです。つまり、「わたしは、羊飼い(神様)から離れて行った羊(ユダヤ人)たちを、神様のところに連れ戻すために、神様から遣わされて来たのです。」=それ以外の異邦人達を助けるように、との神様の命令はまだきていません。

 

*イエス様の、神様への従順

イエス様が弟子達にこのように答えられたのを母親は聞きました。それでも母親は、イエス様のそばにかけより、イエス様の前にひれ伏して、「主よ、どうかお助け下さい」とお願いしたのです。

「ひれ伏す」とは神様を礼拝する時の姿勢です。自分の心のすべてを神様の前に明け渡して、心の奥底まで神様の前に出し切り、すべてをお委ねして、神様はきっと最善にして下さると信じている態度です。それでもイエス様は、最初の言い方を変えて同じことを言われました。

子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない。

イエス様は、ご自分の使命を大切に(最優先に)されるお方ですから、神様が命じられている救いの順番を勝手に変えようとはされません。

「子供達」とはユダヤ人、「子犬」とは異邦人をさします。そして「パン」とは、神様の大きな愛と、恵みと、救いを意味しています。

 

*「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」

母親は、イエス様が、異邦人である自分の願いを拒否されたことも素直に「ごもっともです」と受け入れました。ナアマン将軍とは対照的な「へりくだり」の姿です。この母親は神様を信じ、イエス様を信じていましたので、助けていただける道が必ずあるとの確信を捨てませんでした。そしてイエス様のされた「たとえ話」を引き継いで、「子供がこぼしたパンくずであれば、子犬が食べても子供は困らず、お腹は満たされるし、子犬も又、そのおこぼれのパンくずで空腹を満たすことが出来る」と答えました。母親は、神様が下さるパン=神様の愛と恵みと助け は、それほど大きいのではありませんか・・と応答したのです。

 

*聞き入れられた願い

イエス様はこれを聞いて「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とおっしゃいました。そして、娘の病気はいやされたのです。イエス様がご覧になるのは、いつも信仰です。文語訳聖書では、「汝の信仰は大(おおい)なるかな」と、「大きい」という字が使われています。  

私達の信仰は大きいでしょうか?今はユダヤ人も異邦人もなく、全世界の至る所で神様の大いなる愛と恵みと救いが用意されています。私達はいつでも「主よ」と呼びかけてひれ伏し、どんな不可能に思える難題も乗り越える大きな信仰を祈り求めて、日々の歩みを続けましょう!!

10月14日の説教要旨 「使徒たちへの愛」 平賀真理子牧師

民数記12:1-8 ルカ福音書22:24-34

 

 はじめに

 イエス様は、「最後の晩餐」の時には、御自分の十字架の使命を悟っておられました。それで、御自分の亡き後、信仰者たちが この時の「晩餐」の記念(「聖餐式」)を受け継いでいけるように示していかれました。それまで、イスラエル民族は「過越祭」を継承していましたが、新しい「過越の食事」として、イエス様御自らが「聖餐式」を定めてくださったのです。ここで注目したいことは、イエス様は使徒たちに、1つのパンを裂いて与え、1つの杯から葡萄酒を回し飲みするように、給仕なさったことです。

 

 一つになるべきなのに、早速、分裂し始める使徒たち

十字架で犠牲になった一人の主であるイエス様から恵みを分かち合うという意味を持つ「聖餐式」の制定時に、ルカ福音書では、主は使徒たちの中から裏切り者が出ると告げられたと記します。言われた使徒たちは、誰が主を裏切ろうとしているかについて論争を始めましたが、次第に脱線していきます。常日頃からの疑問「12使徒の内、誰が一番偉いのか」という問題です。「聖餐式」がこの世で行われるようになって、神様にとって喜ばしいことが始まったのに、この世の長であるサタンが早速、神様側の出来事を妨げ始めたのでしょう。1つの主から分かち合う喜びを味わったはずなのに、使徒たちは「競争心」に付け込まれ、もはや分裂の危機にあるのです。このことにイエス様はお気づきになり、そうであってはならない理由を新たに教えてくださったのです。

 

 「一番に偉くなりたい動議」

私達人間は「偉くなりたい!一番になりたい!」という願望を持ちやすいものです。偉くなって、世の中のために粉骨砕身頑張るつもりでしょうか?多くの人がそうではなく、偉くなって、自分の欲望どおりの生活をして、自分の力を示したいと考えるのではないでしょうか。しかし、欲望まみれの人間が次々と現われ、先にその座についている人を蹴落とそうとし、そのグループの団結は崩壊します。だから、ふつうは「偉くなろうと思うな!」という教えになりそうですが、イエス様はそうではなく、偉くなりたいという動機を神の民として正しい方向へ導かれたのです。つまり、偉くなるのは、周りの他の人々に仕えるためであると教えてくださったのです。そのように語るイエス様御自身が、「聖餐式制定」の時、御自分でパンを割き、杯を回す奉仕をなさって、模範を示されました。更には、「十字架上での死」こそが、究極の奉仕と言えます。自分の命を犠牲にして、私達のような罪深き人間に奉仕されたのです。

 

 「神の国の民」は分かち合ったり、仕え合ったりする喜びで満たされる

更に、イエス様は、神の国の偉くなりたいルールに従う者には、御自分と共に食事の席に着き、イスラエルを治める王座に座る権利をくださると約束してくださいました。しかし、ここで誤解してはなりません。神の国で欲望まみれの暮らしができるということではありません。イエス様の十字架と復活の恵みの素晴らしさを理解している信仰者は、イエス様と同じように、神の国のために何か奉仕をしたいと思う人間であるというのが大前提になっています。将来、好き勝手な生活が保証されるから信じるというのでは「御利益宗教」の域を出ませんし、イエス様の伝えた「神の国の素晴らしさ」は、そんな欲望に由来するものではありません。他の人々に奉仕したいと願う者が集まる群れで「主において一つ」となり、分かち合ったり、互いに仕えたりする喜びで満たされるのが「神の国」です。

 

 使徒たちに、謙遜で、限りない愛を示されたイエス様

「神の国」の民として、別の言い方では、「謙遜」という姿勢が求められると言えます。聖書での「謙遜」とは、ただ「腰が低い」というものではありません。悩み苦しむ者と同じ立場になり、そのような人々を救い出そうとする「本当の神様」が居てくださり、そのような神様なくして自分は存在しない、そのような信仰が「謙遜」と言われるのです。そのような神様を仰ぎ、そこから自らを省みてへりくだるのが、真の信仰者です。

先の問答の直後に、イエス様はサタンが使徒たちを試みるし、その一人シモン・ペトロもその試練を受けると預言なさいました。ペトロは、主の御言葉より、自分の言葉を信じようとしましたが、実際は、主の御言葉が実現しました。そんなペトロのために、主は祈り、励ましてくださいました。主は使徒たちに、謙遜で、限りない愛を注いでくださる御方なのです。

10月7日の説教要旨 「世界に広がる『主の晩餐』」 平賀真理子牧師

出エジプト記24:3-8 ルカ福音書22:7-23

 はじめに

 今日の新約聖書の箇所として、2つの段落が与えられました。1つ目が「過越の食事を準備する」、2つ目が「主の晩餐」と見出しがついた段落です。

 

「過越の小羊」

まず、1つ目の段落「過越の食事を準備するという段落を読みましょう。イエス様と弟子達一行は、イスラエル民族の大事な宗教行事である「過越祭」に合わせて、神殿のあるエルサレムに来られました。「過越祭」は、イスラエル民族が神様の助けによって救われた出来事を記念するお祭りです。彼らの祖先がかつてエジプトで奴隷として苦役を強いられていた時、神様の助けを祈っていたところ、実際に神様がモーセというリーダーを立て、数々の奇跡を起こし、イスラエル民族をエジプトから脱出させてくださったことを記念するお祭りで、代々伝えられていました。

その奇跡の中で、エジプト脱出直前の奇跡こそ、最も印象深い奇跡です。それは、「本当の神様」が、イスラエル民族の脱出を拒むエジプトの地で、初子が死ぬという災いを起こす計画を立て、モーセを通して事前に知らされたイスラエル民族だけが、「小羊の血の印」によって、「初子の死という災い」を過ぎ越したという奇跡です。エジプト人の方は、王様の初子である世継ぎの王子から庶民の初子まで、死ぬという災いを過ぎ越せずに、死んでしまったのです。エジプト王は「過ぎ越しの奇跡」を体験して、とうとうイスラエル民族が自国から出て行くことを許さざるを得なくなりました。イスラエル民族は、この時の出来事を象徴する物(食事など)を再現しながら、神様による救いを毎年思い起こしていたのです。

「過越祭」の際には、親しい人々と「過越の食事」をして、出エジプトの出来事を思い起こし、神様に感謝を献げます。イエス様も、この世における最後の「過越の食事」を愛する弟子達と共にすることを本当に望んでおられたようです。そして、この「最後の晩餐」がどのように行われるか、その様子が具体的に、既に見えておられたようで、その準備をどうすべきかを、二人の弟子に、確信をもって指示することがおできになったのです。そして、実際、そのとおりのことが実現したことが、1つ目の段落に証しされているわけです。将来のことを言ってそのとおりのことが実現していくのは、言った御方が神様である証拠となります。

 

「主の晩餐」

イエス様はこの「最後の晩餐」の挨拶で、まず、御自分が苦難に遭うことを告げておられます(ここでも「十字架の予告」)。その上で、使徒たちとの「最後の晩餐」を「切に願っていた」(15節)のです。主は、この「最後の晩餐」がこの地上における「神の国の食事」の最初として、とても意味があると思っておられたからです。それと同時にイエス様は、この世での「神の国の完成」の時に、弟子達との晩餐を味わおうと決心なさっておられ、それまでは「過越の食事は摂らない」と決意されている、それほど、神の国の完成を待ち望んでおられるということが16節と18節の御言葉から分かります。

更に、19節20節は、私達が「聖餐式」の時に宣言される式文の源の御言葉で、「主の記念」として聖餐式は行われるべきだと再確認させられます。

この意味を正しく理解する弟子達が晩餐に与(あず)かるのに相応(ふさわ)しい者達です。

 

わたし(イエス様)の血による新しい契約,

20節で、イエス様は御自分の血を表す葡萄酒が「新しい契約」を意味すると語られました。古い契約では、過越の小羊の血が、神様の救いの印と受け取られました。しかし、神様が新しく立てられた契約では、神の御子イエス様が十字架で流される血を、神様の救いの印として受け入れるように、神様は人間に期待なさっていると受け取れると思います。

 

 「聖餐式」に与かる人々が増えるようにという願い

 御言葉の理解も大事ですが、人間として生きたイエス様は、主の恵みを人間が感覚でも味わえるように「聖餐式」を制定なさいました。この大事な席で、使徒の中に裏切り者がいると主は語られました。それはイスカリオテのユダであり(22:3)、直接的には彼のせいで、主は捕まって殺されました。罪の頑なさに悲しさを禁じ得ませんが、そんな人間に対する主の愛は無限です。主は御自分の犠牲をも厭わず、神の国の完成を熱望しておられます。主の御心を実現するために「聖餐式」に与かれる人々が増えるように、また、私達信仰者がそのために用いられるように、祈り求めて参りましょう。

9月30日の説教要旨 「主があなたにしてくださったことを」遠藤尚幸師(東北学院中高 聖書科教諭)

詩編103:1-22 マルコ福音書5:1-20

 

 ゲラサ人の地方へ

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」

今日、私たちに与えられましたマルコによる福音書5章1節には、そのようにありました。何気ない1節です。もし、私たちが聖書の中から好きな聖句を選ぶとして、この1節を選ぶ人はまずいない。そんなふうに読み飛ばしてしまいそうになるような言葉です。しかし、私は、この1節には、聖書が、私たちに伝えようとする良き知らせのメッセージが凝縮されていると感じます。「一行」とあるのは、主イエス・キリストの一行です。「一行」というくらいですから、主イエスの他にも何人かいたわけです。直前の箇所を見てみますと、どうやらそれは、主イエスと主イエスの弟子たちだったことが分かります。前の頁の4章35節にはこう記されています。

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」

「夕方」ですから日が陰ってくるくらいです。夜の暗闇がすぐそこまで来ている。そんな時に、主イエスは弟子たちに、目の前にあるガリラヤ湖を越えて「向こう岸に渡ろう」と言ったのです。「向こう岸」には何があるのか。それが、「ゲラサ人の地方」と呼ばれている場所です。ゲラサ人は、当時のユダヤの人々から見れば、神様から見捨てられたと考えられていた人々です。ユダヤ人は、汚れを嫌います。もし、そんな土地に足を踏み入れたなら、間違いなく自分たちまでも汚れてしまう。通常なら、誰も近づきたくないと考える土地が「ゲラサ人の地方」と言われる場所です。しかし、今日の箇所では「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。主イエスの呼びかけにしたがって、弟子たちは夜の湖に船を出しました。彼らは、その湖で突風に会いました。船は波を被りました。弟子たちの中には漁師出身の者も複数いました。プロの漁師たちも慌てふためくような突風でした。船は水浸しになりました。主イエスが共にいましたが、自分たちの命を失うかもしれない、そんな経験をしました。そして船はたどり着きました。弟子たちにとって、決して希望満ち溢れる土地に着いたわけではない。彼らが自分たちの命を投げうってまで着いたのは、忌み嫌っていた土地、ゲラサ人の地方でした。

 

悪霊にとりつかれた人

そこには一人の人がいました。主イエスは、この人に会い、この人を救うために、弟子たちを連れてゲラサまで来ました。この人は、主イエスが船から上がるとすぐに「墓場」からやってきました。どうして墓場からやってきたのか。それはこの人が墓場に住んでいたからです。この人は、悪霊に取り憑かれていた人でした。それで、人々は何とか彼をつなぎとめようとしていました。それは家族だったのかもしれませんし、友人だったのかもしれません。しかし、彼は、その鎖や足枷をたびたびはずしてしまいました。「足枷」や「鎖」は否定的な言葉ですが、しかし、裏を返せば、彼をなんとか自分たちの傍につなぎとめておきたい。そんな周りの人々の思いが読み取れる言葉でもあります。しかし、人々にはどうすることもできなかった。それで彼は、人々から離れ、墓場を住処にするしか居場所がありませんでした。この人は、主イエスにかけよると、助けを求めるのではなく、こう言いました。実はこう言わせたのは彼の中にいた悪霊です。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないで欲しい」

主イエスは真の神様です。真の神様の前で、悪霊が力をふるうことはできません。なぜなら、神様と悪霊は対等な立場で対立するものではないからです。もう既に勝敗は決まっている。神様が来たならば、悪霊は退かなければならない。聖書において悪霊とはそういう存在です。神様の前では無力です。悪霊はそのことをよく知っていたので、「汚れた霊、この人から出て行け」という主イエスの言葉に、逆らうことなく、「頼むから苦しめないで欲しい」と言いました。主イエスがこの悪霊に名前を尋ねると悪霊は自らを「レギオン」と名乗りました。レギオンとはローマ帝国で最も大きな軍隊の名前です。それほどこの悪霊は力がありました。しかし、キリストの前では、ローマ帝国最大の軍隊をもってしても無力です。

 

弟子たちと共に

主イエスはどうして、このゲラサに弟子たちを連れて来たのでしょうか。神の子ですから、ひとりでも十分だったはずです。その証拠に、この聖書の箇所に弟子たちの活躍の場は初めから終わりまで一つもありません。ではなぜでしょうか。キリストは、弟子たちに教えたかったのだと感じます。あなたがたの知らない世界がある。神様のご支配する世界がある。そしてその世界は、今この地上に実現している。そのことを教えたかったのだと感じます。忌み嫌う存在、汚れがうつるかもしれない存在。本当はそんな人はいないのだということです。主イエスがこの地上に人として生まれ、弟子たちと共に、人々と共に生きられ始めたその時から、もうこのゲラサの人もまた神の国、神様のご支配の中にいるのです。私たちは、この人にとって、神様のご支配は、主イエスが今、このゲラサにたどり着いた時から始まったと考えるかもしれません。しかし、それは違います。この人に対する、神様のご支配は、もっとずっと前から始まっている。キリストがこの地上に小さな赤ちゃんとして生まれ、成人し、そして「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたそのときから、このゲラサの人もまた主イエスの救いの射程の中に入れられたのです。主イエスはそのことを弟子たちに教えるために、ゲラサに着く前から、「向こう岸に渡ろう」と言って弟子たちをゲラサまで連れてきました。ゲラサにいたこの人だけではありません。この主イエスの救いの射程の中に、私たちもまたいるのです。私たちは、決して、足枷や鎖を引きちぎっているわけではありません。墓場に住んでいる訳でもありません。しかし、私たちだって、墓場を生きるかのような経験をすることがあるはずです。一人ぼっちで、苦しくて、どうしようもない、そんな辛い思いをすることがあるはずです。自分に生きている意味などあるのか、そんな暗闇を経験することがあるはずです。キリストはそういう私たちを、今、救いの射程にきちんと入れてくださっている。私たちの生きているこの生活の中にも、今、主イエスが来てくださっているのです。

 

悪霊の追放

主イエスはこの人から悪霊を追い出しました。その描写は聖書の記述の中でも、忘れることのできない描写です。「レギオン」と呼ばれた悪霊は、2000匹の豚に乗り移ると、その豚の群れは崖をくだっていき、湖になだれ込み、次々とおぼれ死んでいきました。この人の苦しみがどれほど大きかったのかが分かります。キリストはその苦しみを取り除いてくださった。この人はそれで正気になりました。興味深いのは15節の言葉です。

「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」

この人はただ悪霊が出ていってそれで正気になったというわけではありません。この人は今「座ってい」ます。どこに「座っている」のか。それは、主イエスの足元に座っています。私たちが真に正気になっていく、重荷から解放されていくということは、主イエスの足元に座る存在になるということです。そこで、主イエスの言葉を聴きつつ生きる。主イエスは神の子です。私たちに命を与え、私たちを愛し守り導きたもう神様の言葉を聴きつつ生きることこそ、私たちが真に正気になるということです。私たちにとって、この悪霊追放の出来事は、主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエスが、神の子でありながらどうして十字架につけられ死ななければならなかったのか。それは私たち人間の罪がそれほど深いものだったからです。私たちは自分のことをそれほど罪深い存在だと考えることがないかもしれません。しかし、キリストが十字架で、私たちの罪を背負い死んだことを知るときに、どれほど私たちの罪が深いのか、私たちは知ることができます。それは、2000匹の豚が、崖をくだり溺れ死ぬことにも勝る、私たち自身ではどうしようもなく深い罪の現実です。しかし、その暗闇に生きている私たちのところに、今日、キリストは来てくださっている。そしてご自身の十字架の死を通して、私たちの罪を豊かに赦し、私たちを神の子としてくださっている。このゲラサの人に起きている救いの出来事が、今私たちにも起きています。

 

主があなたにしてくださったことを

主イエスは人々に追いやられるように、その土地を去ることになりました。主イエスが船に乗りその場を去ろうとすると、この人は「一緒に行きたい」と願いました。主イエスと共に生きたい。この人の素直な思いが溢れています。しかし、主イエスはこの人にこう言いました。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい」。

「自分の家に帰りなさい」。それは、あなたにはあなたのするべき仕事があるということです。主イエスがあなたにしたこと、そのことを、このゲラサの地にあなたが伝えること。それが、この人の新しい生き方です。私たち教会も、するべきことは実はそんなに難しいことではありません。主イエスが自分にしてくださった出来事を、他の人に伝えること。これが、私たちが神様のことを伝えるということの根本です。20節には「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。福音はこのようにして広まって生きます。一人の人の救いを通して、その人の語る言葉を通して、「ああこんな自分も、神様に愛されていた存在なのか」と、気づかされていくのです。私たちは今日、ここで、その福音の恵みに触れています。主イエスが今日、私たちと出逢っていてくださっていて、今ここに、私たち一人一人の真の救いが実現しています。この美しい信仰の物語を聴いた後で、3節の言葉を読むと、最初に読んだ時とはまるで違った意味の言葉として受け取ることもできると、私は思います。つまり、「主の赦しによって罪から自由にされる人間」が、予兆として、前もって示されていると感じます。

「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」

主イエスに救われた喜びは、この人を自由にし、足枷、鎖を真の意味でほどいていきました。この人は、もはやどのような鎖でも、どのような足枷でもつなぎとめておくことができないほどに、神様のことを伝える証人として歩み出していきます。キリストとの出逢いは、その人を新しく誕生させました。全く違った世界が、キリストとの出逢いのうちにはあるのです。(私は、使徒パウロの回心した姿を思い起こします。パウロだけでなく、)私たちもまた今日、今ここで、新たに生まれ出ます。どのような罪も、どのような神様に対する不誠実さも、不信仰も、私たちを縛り付けることはもはやできません。私たちは、大胆に、そして自由に、主イエスキリストの十字架の罪の赦しに、生きる者とされているからです。

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」

今日私たち一人一人にも、主イエス・キリストの福音が届きました。

9月23日の説教要旨 「主の支持者達と反対者達」 平賀真理子牧師

詩編70:2-6 ルカ福音書21:37-22:6

 

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半である21章37節と38節では、それ以前の様々な出来事を経た後でも、イエス様が相変わらず、民衆の支持を受けておられたとわかります。反対派から論争を仕掛けられたり、終末の徴を知りたがる人々を教え導いたりしながら、実は、イエス様は為すべきことを粛々と続けておられました。それは、神の御子として神殿で民衆に教えることです。また、夜は、エルサレムの町を出て「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされたとあります。イエス様がよく祈っておられたことは福音書の随所に出てきます。救い主としての使命である「十字架」が迫る中、主は益々熱心に父なる神様に祈りを献げられたのでしょう。

 

反対派に同調し、主を十字架に導いてしまった「イスカリオテのユダ」

一方、22章に入ると、エルサレムの実力者達は、相変わらず、イエス様を受け入れようとはせず、反対派のままだったとわかります。人々の面前で論争に負けたこともあり、ついに、彼らはイエス様の存在を消すこと、つまり、イエス様を殺すことを明確に目指すようになりました。しかし、表立って「ナザレ人イエス」を殺したのでは、イエス様を支持していた民衆の反感を買います。彼らはそれを一番恐れました。ユダヤ教指導者層が中心の反対派は、本来は神様の眼差しを第一に考えるべきでしたが、それを怠り、民衆が自分達をどう考えるか(「民衆受け」)を第一に考えていました。だから、民意に合わない「イエス殺害」を、民衆から隠れた所でコソコソと企てようとしたのです。彼らは、最初から反対派であり、イエス様の教えや知恵に出会っても、頑なに反対派に留まり続けたので、彼らの決意と企ては想定内です。しかし、想定外のことが起こりました。反対派に同意して手助けする役割をしてしまったのが、主の支持者の中にいたことです。その中でも、別格の存在、本来はイエス様と一体であるべき弟子、特に、その中でも、イエス様御自身が「使徒」と名付けて愛し育んだ中心的弟子の一人が、反対派に同調して、主を裏切る行動をしたのです。悪い意味で有名な「イスカリオテのユダ」です。

ルカ福音書では、どうしてそんなことが起きたのか、ユダの心理的原因を追究していません。ただ一言、「ユダの中に、サタンが入った」と記しています(22:3)。主の愛の中で慢心したのでしょうか。ユダは、自らの中にサタンが入り込む隙を与え、反対派の罪の中に巻き込まれ、主を裏切った末、後悔して自らの手で自らを裁くという罪を重ねていくのです。

 

主の支持者(神様の愛する者)を狙うサタン

振り返れば、サタンは、人間の始祖であるアダムとエバを誘惑して神様から引き離しました。それ以降、サタンは、神様が創造なさったこの世の主権を横取りし、神様が最も愛する人間達を支配してきました。そして、神様がいよいよ御自分の御子をこの世に送られて、その御子が福音伝道を始めようとするや否や現れて、神の御子を不遜にも誘惑しようとしました。これが「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1-13)であり、この時、イエス様の誘惑に失敗したサタンは、「時が来るまでイエスを離れた」と書かれています(13節)。それで、サタンは、救い主イエス様の歩みの上にそれからは手出しできなかったのですが、エルサレムのユダヤ教指導者達がイエス様を受け入れない現実の中で、再び活動できる時が来ました。こんな時、私達人間は、反対派の中にサタンが入るのではないかと予想しがちですが、サタンはそうしません。反対派はサタンが支配しているので、そういった人々の中に入らなくても、彼らはサタンの思うままに動くはずです。そうではなく、神の御子イエス様の愛する弟子の中にサタンが入ったことに、私達は注目し、留意する必要があります。

 

「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(Ⅰペトロ59)

サタンは、神様から主権を横取りしたこの世に、神様の愛の世界が広がることを一番嫌がり、イエス様を救い主として受け入れて「神の国の民」となった私達信仰者を、自分の方に取り返そうと必死に誘惑を仕掛けます。だから、教会生活を重んじることは有効です。「洗礼を受けて救われたのだから、それ以上は望まない」と言って、教会生活を軽んじる人は、サタンの攻撃の威力を知らず、備えるべき戦いの道具「武器」の手入れを怠る兵士に例えられます。祈り・御言葉の学び・礼拝を共にする信仰の友との交わり、これらによって、信仰の戦いに備え続けましょう。

9月16日の説教要旨 「神によって生きている」 平賀真理子牧師

創世記2:7-9 ルカ福音書20:27-44

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、聖書で証しされている神様の御心とこの世の人間の関心事がいかに食い違っているかが示されています。私達が、この世で生きていく中での問題、その多くを人間関係が占めているように思います。もっと集約すると、夫婦関係と親子関係です。その順番で、今日の箇所の前半と後半で、その問題が示されています。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の相違点と一致点 

イエス様は福音宣教の旅をなさり、都エルサレムに来られました。イエス様の語る御言葉や病いの癒しの御業は素晴らしく、民衆はイエス様を送ってくださった神様を賛美するようになりました。しかし、ユダヤ教指導者達は、イエス様にまつわる出来事を素直に受け止めることができませんでした。そのような指導者達には、大きく分けて2つのグループがありました。その一つが「ファリサイ派」ですが、「律法学者」と呼ばれる人々の多くが、ここに属していました。そして、都エルサレムには「サドカイ派」と呼ばれる人々がいました。この2つのグループは様々な点で見解が異なりました。今日の箇所に関連して言えば、「復活や天使や霊」について、ファリサイ派は肯定、サドカイ派は否定というふうに、です。但し、イエス様への反感という点では一致していました。

 

 「復活にあずかる者はめとることも嫁ぐこともない」

エルサレムに来られたイエス様は、この反対派の人々から論争を仕掛けられました。彼らは論争でイエス様を負けさせて、人々のイエス様への期待を消し去ろうと企てました。まず、ファリサイ派を中心とする人々が質問しましたが、イエス様は「神の知恵」で、彼らを論破なさいました。そこで、サドカイ派の出番です。サドカイ派が常々疑問に感じていた「復活にまつわる問題」について質問しました。もし、復活があるなら、7人の兄弟と結婚した女性は、復活の時に誰の妻になるのかという内容でした。ここでサドカイ派は、今まで主張してきたように、結局、復活は無いという答えをイエス様から引き出したかったと思われます。しかし、イエス様は、サドカイ派の質問の大前提が間違っていると指摘なさいました。サドカイ派は、次の世でも、人間はこの世と同様に結婚すると考えました。しかし、神の御子イエス様は、違うとおっしゃったのです。次の世ではめとることも嫁ぐこともない、即ち、この世の夫婦関係は次の世まで続くものではないし、人間は一人一人に対して、もっと大事なことが課せられていると述べようとなさっています。

 

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」

この35節には、見逃してはならない条件が含まれています。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる」という条件です。誰がそれを認定するのでしょうか。神様です!「神の国の主」=「聖書で証しされる神様」が、御自分の御心に従おうとした人間一人一人に対して、「神の国」で復活する価値があると認定してくださり、永遠の命を与えられるのです。だから、「死ぬことがない」とも言えるのです。

 

 「すべての人は神によって生きている」

続いて、イエス様は、サドカイ派が尊敬する「偉大なる指導者モーセ」も、御自分の証しする「神様」に出会ったのだと話されました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は御自分を名乗られましたが、多くの人々はこれを「ユダヤ人の先祖を守り導いた神の証し」と思っていました。しかし、イエス様は、遠い昔に肉体的には死んでいたとされた「アブラハム・イサク・ヤコブ」は、死んだ後の世界で復活して神様と共に生きていると証しした御言葉だと理解し、「生きている者の神」と言われました。そして、「すべての人は神によって生きている」と締めくくられました。人間は、本来、神に相対して一人一人が生きている、神の基準で生きる存在であると、イエス様は教えようとなさったのです。

 

 この世の人間関係よりも、救い主に謙虚に従うことを優先!

次に、イエス様からの質問を通して、偉大なダビデ王さえ、子孫として生まれると預言された救い主に対して、謙遜だったと示されました。神様と神様が送られる救い主に対し、人間は謙遜であるべきです。その姿勢が反対派には欠けていました。親子関係等の様々な人間関係よりも神様から賜った救い主に謙虚に従うことを私達は優先したいものです。

9月9日の説教要旨 「神の国の到来に備えて」 平賀真理子牧師

イザヤ書24:17-23 ルカ福音書21:29-36

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様による預言の後半部分です。この前にもイエス様は預言なさっていて、その内容は、エルサレムの滅亡と天変地異ということでした。一見恐ろし気な内容ですが、しかし、イエス様を救い主と受け入れて生きた者は、その出来事の果てに、主が再臨なさる希望が持てるという内容で、それを踏まえた上での後半です。

 

 「いちじくの木のたとえ」

小見出しは「いちじくの木のたとえ」とありますが、今日の箇所ではいちじくの木だけでなく、「ほかのすべての木」も30節以下のこと、つまり、木の葉っぱが出始めると、人間は夏が近いと悟るという事実を主は挙げておられます。当時の一般庶民は、暦や時計を持っておらず、自分達の感覚で分かる変化を認識して初めて、時の変化を知ることができました。特に、農業・漁業・林業・牧畜業に従事していた人々は、その現象に敏感であり、その知識を継承していたという背景があります。イエス様は、御自分の最大の関心事「この世に神の国が到来する」前にも、同じように「徴」が現れることを、語っておられるのです。この直前に語られた恐ろし気な現象が起こった時に、信仰者のない人々が怯えても、御自分を救い主と受け入れた信仰者達には、神様の絶対的な守りがあり、かえって希望が持てると主は語られてこられました。なぜなら、都の滅亡と天変地異と主の再臨こそが、地上に「神の国」が到来する「徴」となるからであり、「神の国の到来」こそが、父なる神様と御子なるイエス様の最大の関心事、かつ、喜びであり、「終末」は終わりを意味するのではなく、その先に、信仰者が神様と共に喜べる世界の到来という意味があるのだということを主は教えてくださっているのです。

 

 「この時代は滅びない」(32)

「この時代」とは、イエス様がお語りになった当時だけを指すのではなく、「同じ時代の人々」という意味があります。また、それだけでなく、御自分を救い主と受け入れた人々のことだと思われます。「主と心を同じくする人々」のことです。だから、これは、現代の信仰者である私達も決して滅びないと、主が保証してくださっていることでもあります。

 

 「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」(33)

主が預言なさった「都の滅亡と天変地異」は、「天地が滅びる」ようだと受け取る人もいるでしょう。また、33節を言葉通りに読むと、天地は、神様が造られた被造物なので、滅ぶこともあり得るとも言えます。その一方、永遠なる神様(父なる神様と御子イエス様と「主の御言葉」)は決して滅びることはないのだから、主を信じて結ばれている弟子達も決して滅びないと、イエス様は弟子達に熱心に伝えようとなさっておられます。

 

 「心が鈍くならないように注意しなさい。」(34)

但し、人間をよくご存じのイエス様は私達に宿題を出されていると感じます。34節-36節を見ましょう。人間は、救われたと言われると安心し切ってしまい、放縦や深酒や生活の煩いなど、信仰を持つ前と同じ問題によって、信仰心が鈍ることがあると主は見抜いておられます。だから、信仰者に対し、「終末の日」が不意に罠のように襲うから、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命令なさいました。信仰者として、心の準備が整った状態で「終末=主に出会う日に備えてほしい」という、イエス様の願いが現れています。

 

 「いつも目を覚まして祈りなさい」(36)

ここでの「目を覚ます」とは、もちろん、肉体的に眠らないで起きているということではなく、「信仰において」目覚めているということです。教会生活を続けていると、「洗礼によって、罪の赦しを受けたのだから、その後は教会には行かない」と言って、俗世間に戻ってしまい、教会での信仰の訓練を避けようとする人を時々見かけます。彼らは、信仰的に成長するチャンスを逃しており、それは主の御心ではありません。

また、キリスト教での「祈り」とは「主との対話」で、私達日本人が行う「願い事の羅列」は、「祈り」とは言えません。主に自分の思いを打ち明けても良いのですが、祈りの最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主の御心を聴いて従う姿勢が求められます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:39)に倣って、私達も祈り続けましょう。