お知らせ

2019年6月9日(日)

仙台南伝道所 開設15周年 感謝礼拝プログラム (予定)
司会 横田 みゆき
奏楽 青木 優子(オルガン) 佐藤 由子(マリンバ)
前 奏    
招 詞   
讃 詠       546「聖なるかな」
交読詩編   121編(座席の前)
黙 祷   一週間の生活の感謝
讃 美 歌       66「聖なる、聖なる、聖なるかな」
ざんげの勧め 
ざんげの祈り  
ゆるしの言葉  
讃 美 歌      183「主のみたま降りまし」
聖  書    旧約聖書  エレミヤ書 14章11節~14節 
         新約聖書 マタイによる福音書 7章15節~20節
祈 祷
説 教    「良い木が良い実を結ぶ」  佐々木 哲夫 先生
祈 祷   
讃 美 歌   329「みまねきかしこし」
使徒信条   
献 金 
讃 美 歌   548「ささげまつる」
主の祈り    
讃 栄       541「父、み子、みたまの」
祝    祷   
後 奏

今週の集会(2019.5.19更新)

5月22日(水)

午後3時~   祈祷会小礼拝 
午後3時半~  聖書研究会 フィリピ書(担当:義子師)

来週の集会

・5月26日(日)
教会学校礼拝 午前9時半~  「マタイ5:33-37」 担当:由子姉
教会学校分級 午前9時50分頃~  幼小・中高/信仰問答・成人科
問43 第3戒は何ですか。
答「あなたの神、主の名を、みだりにとなえてはならない」です。
主日礼拝   午前10時半~ 
説教: 「自分で選びなさい」  佐藤由子伝道師
聖書: ヨシュア記24章  Ⅱペテロの手紙3:8-9
讃美歌:6,156(下),257番    交読詩編: 84編
  礼拝後 聖歌隊 讃美会/ 交わりタイム(コーヒー・お茶)

・5月29日(水)午後7時~ 祈祷会小礼拝 

◎予告:6月  9日(日)

・ペンテコステ・開設15周年感謝礼拝 

・説教者  佐々木  哲夫  先生

・詳細は、「お知らせ」をご覧下さい。

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。

☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、

  ご了承ください。1階礼拝堂中央左側扉を開けて出入り下さい。

★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。

☆ 982-0814 仙台市太白区山田字船渡前17-4 (022)243-6710

  教会の地図/e-mailは、下記リンクをクリックしてご覧下さい。

 http://sendaiminami.net/?cat=2

今週のみことば

★ 申命記:説教・律法・祝福と呪い
月曜日  1: 1~ 4:43 シナイ山から約束の地までの旅の要約
火曜日  4:44~18:22 律法(十戒・礼拝・祝祭日など)
水曜日 19: 1~28:68 律法(逃れの町・規定・命令など)
木曜日 28:69~30:20 契約の更新
金曜日 31: 1~34:12 ヨシュアの任命・モーセの最期
              
【申命記について】
申命記(Deuteronomy)という書名は、「律法の書を書き写し(申17:18)」の部分が、七十人訳聖書(LXX)において「第2の律法」と訳されたことによると言われています。また、ヘブライ語聖書の申命記の書名は、( デバリイム/言葉たち)です。
申命記はモーセ5書の最後の書物にあたり、特に出エジプト記とレビ記に記録されている律法を繰り返し語ります。モーセの人生の最後の数ヶ月にイスラエルに語った事柄として記され、シナイから約束の地までのイスラエルの民の旅の要約や後継者の任命、モーセの死が記されています。
また申命記は文学的には前の4書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記)より、次に続く歴史書(ヨシュア・士師・サムエル記・列王記)に位置づけられるとも考えられています。またヨシュア記から列王記(ヘブライ語聖書では前の予言者の部分)を合わせて、「申命記史書/申命記史家による歴史著作/申命記主義的歴史書」と呼ぶこともあります。(マクグラス,121頁・フォン・ラート『申命記(ATD)』、序論参照。)

【シェマーとは】
申命記6章4-5節の言葉「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」はシェマー(聞け)/シェマーの祈りと呼ばれ、ユダヤ教の朝夕の祈りの中心です。主イエスも最も重要な戒めとしました(マタ22:34-40、マコ12:28‐34、ルカ10:25-28)。

 【愛の言語】
人は、それぞれの持っている愛の言語が違うと考えられています。愛を伝えたつもりでも、相手に愛していることが伝わらないのは、お互いに「愛されている」と感じる仕方が違うからかもしれません。
ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』いのちのことば社、2017年。によれば、愛には5つの言語があるとしています。
1. 肯定的な言葉(感謝・称賛・励まし・優しい言葉など)
2. クオリティ・タイム(相手の為だけに使う共に過ごす時間)
3. 贈り物(目に見える形や物)
4. サービス行為(相手がしてもらいたい事をやってあげる事)
5. 身体的タッチ(相手が必要としているスキンシップの形)
「愛する」とは、自分が愛したいように愛することではなく、相手がどのように愛されたいのかを理解し、相手に伝わる方法で愛することなのかもしれません。
主イエスが私たちに期待されることは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛し、隣人を愛することです。

今週のみことば

★ 民数記:シナイからカナンの地の入り口までの荒野の旅
月曜日  1: 1~ 4:49 第1回人口調査と氏族の詳細
火曜日  5: 1~10:10 規定の指示と幕屋
水曜日 10:11~20:13 シナイ出発と荒野での出来事
木曜日 20:14~26:65 迂回の歩みと第2回人口調査
金曜日 27: 1~36:13 後継者と主の命令・法

【モーセ5書/律法(Torah)全体の区分の一例】
1.創 1章-11章  「世界と諸民族の起源」
2.創12章-50章  「父祖とイスラエルの歴史のはじめ」
3.出 1章-18章 「エジプト滞在と脱出によるその結末」
4.出19章-民10:10 「イスラエルのシナイ滞在」           5.民10:11-申34章                          「シナイから約束された地の入り口までのイスラエルの行進」      (エドモン・ジャコブ『旧約聖書』白水社、2006年、41-42頁。)

【民数記について】
民数記は、ヘブライ語聖書の「荒れ野にて」という名の通り、約40年の荒野の旅の出来事を中心に、5書の特徴でもある様々な規定や暦、土地取得に関する話が記されています。約束の地を目前にしながら大きく迂回して、ようやくヨルダン川を渡る手前に辿り着くまでの話が記されています。またイスラエルの民族の数が多く記されているため、七十人訳聖書(LXX)ではἈριθμοί (アリソマイ=数・Numbers)とされ、日本語の聖書も民数記となっています。

【27章における2つの継承物語】
① 娘たちの土地継承
ツェロフハドには息子がなく娘たちだけでしたが(民26:33・1歴代7:15)、娘たちが指導者と共同体全体の前に進み出て、名の継承を申し出たことによって、一族の嗣業の土地(神様との契約の証し、祝福の証しでもある土地)の授与が約束されます(民27:1-11)。
このことは民数記36章において、「相続人が女性である場合の規定」として確立され、家族に息子がいない場合でも、主から与えられた嗣業の土地を氏族ごとに固く守ることが出来るようになりました。  
そして、ヨシュア記17:3-4において、確かにツェロフハドの娘たちが嗣業の土地を受け継いでいることが確認できます。
② モーセの死の宣告と後継者ヨシュアの任命・メリバの水
モーセの最期の物語とヨシュアの任命は、申命記31章からも詳しく記されていますが、死の宣告をされたモーセが、ここで真っ先に願ったことは、残される共同体の為に、次の導き手となる後継者が与えられることでした。主はこの祈りに応え、ヨシュアを任命しました。
モーセが約束の地に入れない理由として「メリバの水(民20:1-13)」の出来事が語られていますが、同じ理由でアロンも約束の地に入る前に亡くなっています(民20:22-29)。「メリバの水」とは、モーセとアロンの姉妹であるミリアムが死に、再び飲み水がなくなった民が、モーセとアロンに反抗した際の場面を指します。主はモーセに「・・・杖を取り・・・岩に向かって、水を出せと命じなさい・・・」と指示しますが、モーセは主の言葉に従わず、杖で岩を2度打って水を出しました。
主が最初にメリバで水を与えて下さった時は(出17:1-7)、「ナイル川を打った杖(出7章)を持って行き、岩を打てば水が出る」と指示され、モーセは杖に与えられた力を再び経験します。しかしこの経験の過信が、神の言葉を軽視する誘惑の一つになったのかもしれません。

今週のみことば


 ★ レビ記:幕屋・礼拝についての律法、規則
月曜日  1: 1~ 7:38 犠牲の制度
火曜日  8: 1~10:20 祭司の聖別
水曜日 11: 1~15:33 清いものと穢れたもの
木曜日 16: 1~16:34 贖罪日
金曜日 17: 1~27:34 イスラエルの民の生活についての規定

【レビ記について】
◎レビ記とは、幕屋での礼拝についての律法や規則について書かれ、レビ族(アロンとその子孫に与えられた幕屋の礼拝を執り行う任務やイスラエルの民の間で聖性を維持する責任が与えられた部族)に由来する。またレビ族に関しては、出エジプト記6:14-26、民数記26:57-62に記されている。

◎レビ記の中心的主題は「聖性」であり、神が聖であるように、神の民は聖でなければならない。レビ記は神の民の側の聖性がどれほど重要であるかを伝え、神との関係を損なう人間の罪の深さ、その罪の贖いが必要であることを教える。

◎レビ記の重要な主題である「犠牲」は、新約聖書において、イエス・キリストが人間の罪をあがなう完全な犠牲になったことへとつながっている。(cf.ヘブライ人への手紙、8章、10章など)

(A.E.マクグラス『旧約新約聖書ガイド』本多峰子訳、教文館、
2018年、96-97頁より引用・要約。)

【レビ記10章説教 関連聖書箇所】
① ロマ書14章「・・・主の為に重んじ・・・主の為に食べ・・・主の為に 食べない・・・主の為に生き・・・主の為に死ぬ・・・私たちは主のもの」

② 2テモテ4:2
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい・・・。」

③ 詩編119:105
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

④ ヨハネ1:1,17 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた・・・」

⑤ ヨハネ14:6,26-27 「イエスは言われた。『わたしは道であり、  真理であり、命である。』わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」・・・『父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和を あなたがたに残し、わたしの平和を与える。』

⑥ ヨハネ20:31 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、 イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

⑦ ヘブ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

今週のみことば

★ 出エジプト記:モーセの召命、出エジプト、シナイ契約・幕屋
月曜日  1: 1~ 7: 7 イスラエル苦しみとモーセの最初の80年
火曜日  7: 8~13:16 10の災いと過越祭、エジプトからの脱出
水曜日 13:17~18:27 葦の海の奇跡と荒れ野の旅のはじまり
木曜日 19: 1~24:18 シナイ契約
金曜日 25: 1~40:38 幕屋建設にむけての歩み

【出エジプト記について】
◎ 1章において創世記の時代からの移り変わりが示され、2章にはイスラエル人でありながらエジプト王家の一員として歩まなければならなかったモーセの最初の40年と逃亡先の異国の地でミディアン家の一員として歩んだ次の40年について記されています。そして7章8節からは、イスラエルの人々を約束の地へと導く為の出エジプトの出来事と荒れ野の旅を任されたモーセの最後の40年が始まります。

◎ 主の過(すぎ)越(こし)について12章から記されています。過越の祭りは、 ペサハ(過ぎる・過越)と呼ばれ、ユダヤ暦(現在は5779年)ではニサンの月(現代の3月~4月)に出エジプトの出来事を忘れないために毎年守られています(2019年は4月20日から27日)。
マタイ26:17-30(他マコ14、ルカ22、ヨハネ13)には、過越の食事の中で、主の晩餐がなされたことが記されています。またその中で主イエスは、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である(ルカ22:20)。」と語られました。

◎ 19章から24章を中心に、シナイ契約(シナイの山での結ばれた契約)と言われています。「十戒」については20章に記され(申命記4-5章にもあります)、24章において契約の祭儀と契約の食事がなされて、シナイ契約の締結となっています。

【契約についての一考察】
W.ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典‐響きあう信仰』小友聡/ 左近豊訳、日本基督教団出版局、2015年より抜粋。
「…(出19-24章にあるようにシナイ山で制定された)この双務的献身を約す契約は、聖書が根本的に(孤高の神ではなく)関係性の神について語っているものであることを確証している。この関係性は、旧約聖書の内に、興味深く、生成力を持つものを生じさせるとともに、信仰に関する困難をも生じさせる。YHWHによってアブラハムとの間(創15:7-21)、ノアとの間(創9:8-17)、そしダビデとの間(サム下7:1-16)に結ばれた片務契約は、この契約を補完するものである。…(ブルッゲマン、181頁)」

【出エジプト記24章より】
「モーセは血の半分を取って小鉢に入れ、血のもう半分は祭壇にうちかけた。そして契約の書を取り、民に読み聞かせた。すると彼らは、『主が語られたことをすべて行い、聞き従います』と言った。そこで、モーセは血を取り、民の上に振りかけていった。『これは、主がすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である』。
さて、モーセは、アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に上って行って、イスラエルの神を仰ぎ見た。…神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。」

今週のみことば

★ 創世記:世界の始まりと神様の契約・救いの物語
月曜日  1: 1~11:32 天地創造/世界の始まり
火曜日 12: 1~25:18 アブラハム
水曜日 25:19~26:35 イサク
木曜日 27: 1~36:43 ヤコブ
金曜日 37: 1~50:26 ヨセフ

【旧約聖書について】
◎ 旧約聖書は、もともとヘブライ語(一部アラム語)で書かれているため、新共同訳聖書の旧約聖書も、BHS(ベーハーエス)と呼ばれる、ヘブライ語の聖書から翻訳をしています。またギリシア語で書かれている旧約聖書は七十人訳聖書(LXX)と呼ばれ、パウロ書簡の旧約聖書の引用は七十人訳聖書からであると考えられています。

◎ 旧約聖書は、創世記からマラキ書までの39巻からなり、イエス・キリストが来られる以前の神の民の歩みが書かれています(「キリスト」はギリシャ語で「油注がれた者/王/祭司」などの意味があり、「救い主」を意味します。ヘブライ語では「メシア/メサイヤ」です)。 神の民は、メシアが来られることを待ち望み、この希望は、イエス・キリストが来られたことによって成就しました。旧約聖書の中には、イエス・キリスト到来の道備えが記されています。

◎ 私たちの使う旧約聖書は、大きく次のように分かれています。
1.モーセ五書/律法
創世記から申命記までの最初の5巻。
2.歴史書
 ヨシュア記からエステル記までの12巻。
3.文学書
ヨブ記から雅歌までの5巻
4.予言書
 イザヤ書からマラキ書までの17巻

◎ ユダヤ教の旧約聖書は、書物の数は同じですが並び順が少し異なり、律法(Torah)、予言者(Nevim)、諸書(Ketubim)と分類され、タナハ(TNK)と呼ばれています。旧約の時代、またイエス様の時代は、一つ一つの書物が巻物になっていたと考えられます。
例えば、死海文書と呼ばれる、イスラエルのクムランの洞窟で発見されたイザヤ書の写本は、完全な巻物の形で発見され、紀元前に書かれたものであることが分かっています。

【創世記15章より】
「恐れるな…わたしはあなたの盾である。…天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。…あなたの子孫はこのようになる。…私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたを…連れ出した主である。…日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに落ち、恐怖と深い闇が彼を襲った。…日が沈み、暗くなった頃、煙を吐く炉と燃える松明がこれらの裂かれた動物の間を通り過ぎた。こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。あなたの子孫にこの地を与える。」

2019年4月7日説教要旨

詩編19:2-15/ Ⅰテサロニケの手紙5:12-22       

「教会形成の原動力」    佐藤 義子

*はじめに
もう、30年も前になりますがイギリスに滞在していた時、ショックを受けたことがあります。それは、都合によりいつも行っている教会ではなく、近くの教会で礼拝を守ろうと計画した時のことでした。前日にその教会の礼拝時間を調べに行ったところ、中に入る庭の木戸には鍵がかけられ、広い柵をぐるりと一周回ってもほかに入口はありませんでした。そこでバスに乗り、近くの他の教会を探そうと試みたのですが、教会らしい建物を 見つけても礼拝している雰囲気はなく、後で知人に尋ねますと、木戸に鍵が掛けられていた教会は現在閉鎖中であること、バスから見つけた教会は、今は図書館になっていること、ほかにもレストランとして使われている教会もあるということでした。古い大きな建物のゆえなのか、教会維持が困難となり、教会が売りに出されるという大変衝撃的な現象が起きているのを知りました。かつては確かに、その場所で礼拝が守られてきた「生きた教会」であったはずなのに、歴史の流れと共に教会が教会でなくなって しまった(=その地域で、神様を礼拝する場所が失われてしまった)姿に、私は大変心が痛みました。


*教会が、教会として、歴史の中で生き続けていくために・・・
教会は本来、この地上が存続する限り、終末の時まで存続していくことを祈りつつ歩むべきと考えています。100年でも1000年でも2000年でも教会が教会であり続けるためには、そこで礼拝をささげているクリスチャンが、「教会は何を根拠として立ち続けているのか」、「宣教すべき内容の中心は何か」、「何があれば教会であり、それがなければ教会でなくなるのか」を正しく知り、理解し、信仰の確信をもって、次世代へと継承し続けていかなければならないと思わされました。 そこで今日は、聖書を通して教会の基盤について、ご一緒に学びたいと思います。

*教会成立の基礎は「聖霊」
教会が地上に成立したのは「ぺンテコステ」の出来事によります。
ペンテコステはイエス様が生前約束されていた「聖霊」が、イエス様の復活の50日後に、弟子達にくだった出来事です。その日3000人の人々が信じてバプテスマ(洗礼)を受けたことにより、キリスト教会では、ペンテコステを教会の誕生日として祝っています(使徒言行録2章を参照)。「聖霊」は、神様から送られてくる霊であり、教会が教会として立ち続けていくためには、この聖霊の導きが不可欠です。教会はイエス・キリストが頭(かしら)(エフェソ4:15)であり、信仰を与えられたキリスト者はキリストの体(Ⅰコリント12:27)として教会を形成しています。そして宣教の実りとして与えられるバプテスマは、聖霊の働きによるものです。「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。」(コリント第一12:3)


*教会の土台はイエス・キリスト
教会の頭であるイエス様は、同時に、教会の土台でもあります。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません」(Ⅰコリント3:11)。 キリストを土台とするとは、以下の信仰の上に立つということです。
① イエス様の受肉=神様の御子が人間として、私達を救うために
この世に誕生された。
② 贖罪=イエス様の十字架によって流された血潮によって、神様が私達の罪を赦して下さった。「キリストは、ご自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)。十字架によって私達の罪が贖(あがな)われた(ゆるされた)。
③ 復活=イエス様の死からの甦(よみがえ)り。「死は勝利に のみ込まれた」(コリント15:54)、「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」(Ⅱテモテ1:10)。死は私達の終りでも絶望でもなく、信じる者には、死に勝利して永遠の命に至る約束が与えられています。

  
*教会の信仰
こういうわけで、教会の信仰は、聖霊の導きと、イエス・キリストの
受肉と贖罪と復活を信じる信仰が中心に在ります。また、教会は、「見える教会」と「見えない教会」から成り立つといわれます。同じ信仰を告白する「信仰告白共同体」とか、「信仰者の群れ」とか言われるのは、見える教会の部分です。

 見えない教会としては、信仰者の国籍は天にあり、信仰者は、主イエス・キリストが救い主として来られる再臨の時を待っている群れでもあるということです。又、教会は、神様によって聖なるものとされている団体であり、この聖性も見えない教会の部分です。

 私達は、旧約時代(BC・キリスト誕生以前)ではなく、救い主イエス様が「既に」この世に来られた時代(AD・主の年・紀元)に生きていますが、「未だ」再臨の時を迎えていません。私達は「既に」と「未だ」という中間時代を生きています。それだからこそ「今や恵みの時、今こそ救いの日」Ⅱコリント6:2)なのです。信じる者が救われる時です。しかし信仰は自分の力で獲得するものではなく、求める者に聖霊が働いて与えられるものです。私達は、愛する家族、友人、知人の救いの為に、聖霊の導きを切に祈り、この今の恵みの時を無駄にすることなく祈り求め続けていきたいと願っています。

 *テサロニケ書から学ぶこと
さて、今日の聖書には、私達の信仰共同体の目指す姿が記されています。この手紙は、パウロがテサロニケの教会の信徒達に宛てて教え勧めている手紙です。12節には、教会のリーダーに対しては愛をもって心から尊敬するようにと教えています。リーダーは常に目を覚まして自分自身と群全体とに気を配らなければなりません。又、罪と戦うように忠告することも時には必要です。又、不安や恐れの念をもって動揺している人がいれば、その弱さを共に担う立場に置かれています。それゆえパウロは、そのような教会の為の働きをする人達に、特別な愛を持つことを望んでいるのです。そして、勧めは以下のように続きます。

 <平和に過ごしなさい> 教会の中が平和であれば、リーダーは心おきなく、教会の仕事が出来ます。教会にとって一番警戒しなければならないことは分裂です。パウロはさらに、怠けている人達を戒め、気落ちしている人を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して忍耐強く接しなさい。悪をもって悪に報いることのないように、お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。と教えています。 
これらは教会の中が教会らしく、いつも平和であるための道しるべのように思います。相手がどうであれ相手の態度に影響されることなく、「すべての人に対して」「いつも」が大原則です。教会に導かれて、イエス様の十字架によって罪が赦された信仰者に向かって、「あなた方にはそれが出来るはず」とのパウロの願いと期待をここに見ます。


*「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ。」
時に実践は困難のようにも思えます。しかし「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」だと言っています。私達の愛する神様が、私に対して、このように生きることを望まれているのです。注目すべきは、「キリスト・イエスにおいて」です。イエス様が私の為に、こんな私の罪が赦されるために十字架で死んで下さった。それ故、私の罪は赦され、神の子とされ、永遠の命をいただき、この地上にいながら、神様のご支配のもとで生かされている。
この現実に目を留める時、私達は救われていることの喜びと、愛されていることへの感謝が内から沸き起こり、いつも共にいて下さる神様への祈りへと向かわせられるのではないでしょうか。信仰生活は「このようにしなさい」ではなく、そのようにさせて下さるお方と結びついているゆえに、そのように生きる道が用意されているのです。
19節「霊の火を消してはいけません」。聖霊の火が消えた時、教会は教会でなくなります。聖霊の火を勢いよく燃え続けていただけるよう共に祈りましょう。21節「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」22節「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」これら、すべての教えは、2019年を信仰者として生きる今の私達に語り続けています。

3月31日の説教要旨 

エレミヤ書31:31-34 ルカ福音書24:36-53

「主の十字架と復活と昇天の証人」平賀真理子牧師

 *はじめに

ルカによる福音書の最終章24章の35節までを振り返りましょう。まず、復活なさったイエス様について、天使の証言「あの方(イエス様)は復活なさった」という「御言葉」がありました。しかし、弟子達の多くは、それだけではすぐには信じられませんでした。次に、復活のイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子達に現れましたが、彼らも弟子でありながら、「復活の主」にすぐには気づけませんでした。主の死で絶望していた彼らに対し、「復活の主」自らが、聖書の御言葉と生前の御自身の教えを思い起こさせ、「主は復活なさった」と二人を導き、希望を与えられました。エルサレムに引き返した彼らは、自分達だけでなく、一番弟子の「シモン・ペトロ」も「復活の主」に出会ったことを知らされました

*今の御自分は「復活の主」だと弟子達に悟らせようとなさるイエス様

神の都エルサレムで、イエス様の弟子達が「主が復活された」と確信を持ち始めたその時、何と当の「復活なさったイエス様」が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶なさったことが36節にあります。これは、かつて、72人の弟子達を福音宣教に派遣する時、イエス様が弟子達にまず、そう挨拶しなさいと教えた御言葉です(ルカ10:5)。主がかつて教えた御言葉を聞いて、弟子達は、この現れた人が「復活したイエス様だ」と悟れるはずだったとも思えます。ところが、彼らはすぐには悟れず、「亡霊だ」と恐れおののき、うろたえ、心に疑いを持っているとイエス様に見抜かれました。ここでイエス様は、人間の亡霊に対する「肉も骨もない」という思い込みを逆手に使い、御自分の今の姿には「肉も骨もある」とお見せになりました。更に、「食べ物を食べる」様子をお見せになり、御自分の今の姿は、人間が今まで見たこともない「復活の主の姿だ」と悟らせようと導かれました。

*神様の出来事を悟らせるために弟子達の心の目を開いた「復活の主」

そして、「モーセの律法と預言者の書と詩編」と表現される「旧約聖書」に書かれたことは、神様から派遣された救い主である御自分のことであり、神様の御計画は必ず実現するとお語りになりました。十字架は人間的な目で見れば敗北に見えても、神様の目では勝利であり、それは神様の御栄光を現わす「復活」につながり、今、「復活の姿」でイエス様が現れたことは、これまで実現してきたことが神様の御計画であることの証明だと説明なさいました。けれども、無限なる神様の出来事を理解する知恵を、有限なる人間は持っていません。主から助けていただかなければ、悟れないのです。それで、イエス様は弟子達の「心の目を開いて」(45節)、自ら、聖書の解き明かしをしてくださったのです。

*罪の赦しを得させる悔い改めがイエス様の御名によって広まる

 旧約聖書は「救い主の受難と死と復活」を預言しているが、そのような父なる神様の御心に従ったイエス・キリストの御名のゆえに、悔い改めた全ての人間の罪の赦しが可能になり、それが世界に確実に広がるのだとイエス様は預言なさいました。同時に、「復活の主」に出会った弟子達こそがイエス・キリストの御名による救いの証人となると預言されました。しかし、そのために、弟子達は、人間的な力を出して頑張る必要はありません。イエス様による救いは、神の都エルサレムにいる弟子達が、父なる神様から与えられると約束されたもの「神の霊=聖霊」を受け取った後に広められるようになるとイエス様は預言なさいました。これは、ルカ福音書の続編である「使徒言行録」の1章―2章に証しされています。そして、約二千年かけて福音が世界に広まった歴史、その中でも特に、時間も距離も離れた私達が、イエス様の御名によって救われた事実を見れば、主の預言が確かに実現していると理解できると思います。

*主の十字架と復活と昇天の意味を知り、主の証人として用いられる
最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!


 最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!

3月24日の説教要旨

詩編34:16-23  ルカ福音書24:28-35

「主の復活③」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、13節の前の見出し「(イエス様が)エマオで現れる」の記事の後半部分です。前回の説教で話した前半部分を思い出しましょう。エルサレムから北西に離れたエマオ村への道中で二人の弟子達が「復活の主に出会った」のですが、もったいないことに、彼らはその御方がイエス様だと気づかないままでした。

*エルサレムの出来事への弟子達の無理解

 「主の十字架」「御遺体の埋葬」「3日目の空(から)の墓」「『イエス様は復活なさった』という天使の証言」等の出来事は、その二人の弟子達にとって、大変衝撃的な体験でした。後の時代の私達は、「だからこそ、神の御子救い主イエス様!」と思えます。本当の神様からの救い主であるイエス様は預言どおり「苦難の僕」として歩み、その極致として「十字架」に付けられたこと、更には、御自分の苦難を前にしても、父なる神様に従う従順さを示したので、未だ誰にも与えられなかった「復活の栄誉」を神様からいただいたことを私達は知っています。ところが、エマオへの道中の弟子達はそうとは知らず、「暗い顔をしていた」(17節)のです。生前のイエス様御自身から「受難と死と復活」について3度も聞いたにもかかわらず、彼らはその本当の意味がわかりませんでした。彼らが特別愚かだったのではなく、「意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できないようにされていた」(18:34)とルカ福音書にはあります。

*神様の御業を理解できない弟子達に助けの手を差し伸べる主

 エルサレムでのイエス様にまつわる一連の出来事は、神様がなさった出来事であって、それは、限界のある人間の理解力だけでは、到底理解できないことです。無限の神様のことを有限である人間が理解するためには、神様側からの助けがなければ無理です。それで、「復活の主」が愛する弟子達の所に自ら来てくださり、落胆した彼らが本当の意味を理解できるように、助けの手を差し伸べてくださったのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(一つ目)「主の御言葉」

 その助けの一つが「主の御言葉」です。旧約聖書にある「主の御言葉」=預言者達の預言、及び、先述のイエス様御自身の預言(受難と死と復活)を「復活の主」(彼らはまだ気づいていませんが)自らが解説してくださったことが、神様の特別な助け(一つ目)なのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(二つ目)=「パン裂き=聖餐式」

 食事の時に、イエス様は、二人の弟子達に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)のです。「すると、二人の心の目が開け、イエスだと分かった」(31節)とあります。「主」がそうなさったと言えるでしょう。同時に、人間的に考えても、彼らが復活の主と気づいたことは説明はできます。祈ってパンを裂くという御様子を見て、彼らは「5千人の給食」(ルカ9:16)や「主の晩餐」(ルカ22:19)での主の御姿を思い起こしたのでしょう。特に、「主の晩餐」で、主は十字架上で裂かれる御自分の肉体を想起させるものとしての「パン」、そして、十字架上で流される血潮を想起させるものとしての「葡萄酒」、これらを味わうことを聖礼典として弟子達が継承するように制定なさいました。この聖礼典、即ち「聖餐式」は、主の十字架だけでなく、主の復活の栄光をも示し、神様の救いの御業の恵みを弟子達が理解するために主が用意なさった助けであると捉えられます。

*「復活の主」との出会いによって、朽ちぬ希望に満たされた弟子達  

ここで、彼らが「復活の主と出会った」と認識した瞬間に、主の御姿は消えたのに、彼らは今度は絶望しなかったことに注目です。彼らは「復活の主」と出会った後は「心が燃えていた」(32節)と自覚し、朽ちぬ希望を得たと感じたのです。それだけでなく、彼らはエルサレムから離れるのを止め、逆に戻りました。180度の方向転換です!更には、一番弟子でありながらイエス様を3度も知らないと否認した、罪深いシモン・ペトロにも「復活の主」が現れてくださった恵みが知らされました。「復活の主に出会った」という弟子達の2つの証言により、「復活の主」が弟子達に現れてくださる恵みが真実だと認識され、弟子達の心は絶望から希望へと変えられました!