礼拝・集会のご案内

日曜日

主日礼拝】 午前10時半~11時20分頃 

(毎月第1日曜日は聖餐式・全体祈祷会)

【オンライン教会学校礼拝 】午後5時~

【聖書の学び】随時

◎水曜日:

☆聖書の学び/ 祈祷会小礼拝     (毎週)    午後1時~1時半頃

・第1  祈祷会小礼拝

・第2 説教演習(加藤秀久伝道師)

・第3 祈祷会小礼拝

・第4 エフェソ書の学び(佐藤邦廣兄)

☆祈りの時間(毎週) 午後5時~5時半頃 

☆いずみ会    午前10時半~12時頃(第2水曜日のみ)

住所・連絡先・地図

〒982-0814
宮城県仙台市太白区山田船渡前17-4
Tel/Fax:022-243-6710                                                                            メール:sendaiminamichurch@gmail.com

東北道仙台南ICから仙台方面に向かって約5分/山田ICより約1分。286号線から、すき家/コスモ/引っ越しセンター0123の交差点を、富沢・D2/ヨークベニマル方面へ(仙台・長町方面からは、イオン/はるやま交差点の次の信号)。

右側の田んぼの真ん中にある一軒家の道に入り、突き当たり斜め左が仙台南伝道所。車の駐車は教会敷地内にお願いいたします。

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、       何かありましたら、近くの方にお声がけ下さい。
★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。

2022年1月2日の説教要旨 詩編89:2-15・ルカ福音書2:41-52

*はじめに

イエス様誕生の喜ばしい知らせを受けたのは、ベツレヘムで人々からあまり良い評価を受けていない立場の羊飼い達であり、神様は、この羊飼いをイエス様誕生の出来事を言い伝える人として選ばれています(ルカ福音書)。

さらに東方では、ユダヤ人の王となる「星」を見つけた異邦人の、占星術の学者達がエルサレムにいるヘロデ王を訪れて、メシア誕生の場所を尋ねました(マタイ福音書)。ヘロデ王は、祭司長達や律法学者達に調べさせ、預言書からユダヤのベツレヘムであることを知り、学者達に伝えました。学者達が出発すると東方で見た星が前を進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者達はこうしてイエス様を拝し、贈り物を献げました。

*公現日

このように幼子イエス様はユダヤ人だけではなく、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)にも現れて下さいましたので、この時を「公現日」(顕現日)として記念し、クリスマスから12日後にあたる1月6日にお祝いします。

羊飼いや、東方の博士達がイエス様に出会い、喜ばしい知らせ、素晴らしい体験をしたのと同じような喜びが本日の旧約聖書に記されています。『主の慈しみを とこしえに わたしは歌います。 わたしの口は代々に   あなたのまことを告げ知らせます』(詩編89:2)。

告げ知らせます

元の言葉は「知る」、「理性的に知る、経験を通して知る、人格的に知る」という意味があります。人々が神様とのかかわりを通して、神様との体験、神様との出会いによって、神様のことを他者に告げる、知らせる、という意味です。つまり、わたしたち、神様を信じる者達が、神様と実際に出会い、神様が行われる 偶然とも思えるような出来事、素晴らしいわざ(しるしや不思議や奇跡)を、自らが体験する、その場所に入る、出会うことによって、本当の神様、生きたまことの神様、喜ばしい知らせ、聖書の言葉を、他の人にも教える、告げ知らせるということなのです。

 特に2節では、神様から与えられた私の口を使って、神様は真実であること、まことであること、本当で変わることのない絶対的な神様が存在すること、揺るぎなく、昔も今も、これからもずっと続く永遠の神様がいて下さると告白し、宣言することが大事だと記しているのです。

*神殿での少年イエス

 本日のルカ福音書には、イエス様の両親(ヨセフとマリア)は、毎年、過越の祭にエルサレムに行かれていたこと、そしてイエス様が12歳になった時、両親はイエス様を連れてエルサレムに行かれた時のことが記されています。<当時は13歳で大人の仲間入り(神の民の一人となる)をして、掟、律法を守って生きる(聖書に従って歩む)者となります>。

祭りが終りヨセフとマリアが帰路に着いた時、途中でイエス様がいないのに気づき、捜しながらエルサレムに引き返し、神殿の境内でイエス様を見つけました。心配して捜していたマリアに、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました(49節)。

*父の家

両親にはこの言葉の意味が分かりませんでした。イエス様が父の家にいること、イエス様は父なる神様から生まれ、父が住まわれる聖なる神殿にいるのは当たり前であり、それ以外の場所は考えられないことを両親はまだ気付いていなかったからです。このことからも神様、イエス様は、神様が用意して下さっている場所、神様が備えて下さった礼拝場所には、神様がおられる、宿っていて下さることが分かると思います。

*わたしたちの教会

 私達ひとり一人、神様から造られた者達です。その神様から造られた者たちが一緒に集まる場所、神様がおられる所に集まるのは当然のことです。各々に与えられた場所で、個人的な神様との交わりの時間も必要ですし大事なことです。しかし、共に集まり共に祈る、共に励まし合い、教会「礼拝を共にし、主に在る交わりの場所」ではないかと思います。

クリスマス礼拝・2021年12月19日の説教要旨

詩編2:1-12・ヨハネ福音書1:1-14

              「輝 く 光」         加藤秀久 伝道師

*はじめに

 旧約聖書の創世記の初めには、神様が天地を創造され、その創造は混沌(こんとん)とした地の闇の中から神様の「光あれ」との言葉で始まったことを伝えています。その言葉により、地上は光と闇とに分けられ、神様は光を昼と呼び、闇を「夜」と呼ばれた(5節)とあります。

本日のヨハネ福音書は、「初めに言(ことば)があった」と記されています。

 この神様の言葉によって私達も今ここに存在しています。そして私達は今日、イエス様のお誕生の出来事を聞くために、又、お誕生をお祝いするためにここに集まって来ています。

*イエス様の誕生の出来事

イエス様は、父なる神様から出た「(ことば)」と共にあり、人の姿をした神であり、私達生きる者達に命を与えてくれるお方、輝く光となるお方です。神様はこの「(ことば)」を通して私達人間がお互いに意思や感情、考えを伝え合うことが出来るようにして下さいました。

 イエス様の誕生は、皇帝アウグストゥスの「住民登録をせよ」との命令から始まります。ナザレに住んでいたヨセフとマリアは、登録のために、ベツレヘムへ向かうことになりました。妊娠中のマリアにとってベツレヘムへの道のりはとても大変な移動であったに違いありません(約136km)。しかし神様はこうしてヨセフとマリアをイエス様の誕生の地ベツレヘムへと導いたのでした。そしてベツレヘム滞在中にマリアは月が満ちて、イエス様誕生の時を迎えますが、どこの宿屋もいっぱいだったため、家畜小屋に泊まることとなり、生まれた子供は「飼葉おけ」に寝かせることになりました。これがイエス様の誕生の出来事です。

*神様の定められた時

本日の詩編2編1-12節では、神様の定められた時に、来るべきお方、神様の子、イエス様が生まれることが述べられています。新約聖書の記者達は、この詩編は、神の子の到来を指し示していると考えます。

特に7節の「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」との「今日」は「その日」とも訳すことが出来、神様によって「定められた日」、神様によって「しるし付けられた特定の日」を意味していて、私達人間には変えることの出来ない神様の御計画の中で起こっている、前もって定めた「その日」があることを意味します。

本日のクリスマス礼拝も神様を礼拝する大事な「その日」でもあります。

12節では、「その日」を頼りにし、お祝いし、主を避けどころとする者は幸いであると私達に伝えているのです。

*「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)

 神様は、初めに私達に何を与えて下さっているのでしょうか。

神様は、神様の栄光をこの地上に輝かせるため、私達を罪から救うため、愛する独り子イエス様をお与えになりました。この救い主の誕生がなければ、私達の救いの出来事や救いの体験も起こりません。

 神様は、ご自身の約束に従って、神である御子をこの時=今日という時間の中へ(歴史の中へ)と送り込まれました。そして御子イエス様は人間として最も弱い立場である赤ちゃんとして生まれ、その生涯の終りには人間としての恥を受け、人々から見下されて、十字架に架かり、死ななければなりませんでした。この出来事はすべて、私たち生きる者のための、神様の御計画の中で起こったことでした。

*「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(5節)

「しかし、言(イエス様)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々  には神の子となる資格を与えた」(12節)

 人々は、この世の忙しさ 楽しさ 誘惑に心が奪われ、光として来られたイエス様を知ろうともしません。けれどもイエス様を受け入れて信じた者は「神によって生れて」(13節)「神の子とされ」ています。神の子とされた私逹の内にはイエス様が宿られていて、私達はイエス様の恵みと真理に満ちている御子の栄光を見ることが許されているのです!

12月12日の説教要旨 イザヤ書7:10-17・ルカ福音書1:26-38

「主イエスの誕生の予告」    加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日のルカ福音書は、洗礼者ヨハネの誕生予告の続きです。神様は天使ガブリエルを祭司ザカリアのもとに遣わし、妻エリサベトに子供が生まれるとの喜ばしい知らせを伝えました。ザカリア夫婦は長年子供が与えられず祈ってきましたが、今は二人とも年をとっていました。そのような時、天使ガブリエルによって祈りが聞き入れられたことを知らされました。

それは何よりも嬉しいことであったはずでしたが、ザカリアはこの知らせに戸惑い、素直に受け入れられず、しるしを求めたため、子供の誕生まで口が利けなくなりました。

おめでとう

 6か月目に天使ガブリエルは再び遣わされて、マリアのもとに来ました。そして「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げたのです。マリアはこの言葉に戸惑いながらも、この挨拶は何のことかと考え込みます。この「おめでとう」の元の言葉は「ご挨拶申し上げます」「こんにちは」などの挨拶の時の言葉です。しかし私達の聖書も他の日本語訳聖書でも、この言葉は「おめでとう」と意図的に訳されています。

この「おめでとう」の中には、マリアだけに与えられた喜びではなく神様に創造された全ての人々に対しての「喜びの知らせ」、神様を信じる者達にとってかけがえのない、待ちに待った「喜びの知らせ」となるはずです。

*聖書で用いられる「喜び」

 ルカによる福音書10章に、イエス様から派遣された弟子達が戻って、イエス様に報告する場面があります。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します(17節)」と喜ぶ弟子達に、イエス様は、「そのことに喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と答えられています。この言葉の中に、「喜びの根源」があると思います。本当の喜びは、私達の働きや行いによって与えられる喜びではなく、神様を信じる者達が、天に名前が書き記されていることを喜ぶ「喜び」、真実を知ることが出来る「喜び」、又、このような「わたし」でも神の国に入ることができるという信仰が与えてくれる「喜び」です。この喜びの「知らせ」を受けるマリアは、「おめでとう」と呼びかけられました。

*マリアの応答

 天使ガブリエルの言葉を聞いてマリアは戸惑いましたが、その言葉を心に納めて、この出来事の意味を考えようとしています。素直で純粋に、御使いの言葉をそのまま受け入れているように思えます。自分ではよく分からない事柄に対しては、すぐに答えを出さず、それを心の中に一旦納めて、慎重に考えてから答えを出す人物だったようにも考えられます。御使いは続けて「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。・・」と語ります。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と驚きますと、御使いは、親族エリサベツにも今、胎内に男の子が宿っていると伝え、「神に出来ないことは何一つない」と答えました。そこでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

ここにマリアの信仰(神様を畏れ、敬い、御使いの語る言葉を受け入れて、自分の身に成ることを待ち望む)を、私達は見ることが出来ます。

*わたしたち 

さて、私たちはどうでしょうか。主の御使いの「おめでとう」という言葉を、私たちはどのように受け止め、留めることができたでしょうか。

私たちには、イエス様の誕生日に共に集まり、心から「おめでとうございます!」と言い合える仲間や家族・友人がいるでしょうか。

又私達は、本当にイエス様のお誕生を心から待ちわびているでしょうか。

もし、この世界・この地上でイエス様の御誕生の出来事がなければ、私達を罪から救いへと至らせる道、神の国に入る道はなかったでしょう。

すべてはこのお方の登場で始まり、終わりがあります。今週一週間、私達はイエス様のことに思いを巡らせながら、共に歩んで参りましょう。

礼拝開始19周年記念感謝礼拝 2021年12月5日の説教要旨 申命記6:4-9・Ⅰコリントの信徒への手紙15:1-11

「告げ知らされた福音」     協力牧師 佐藤 義子

*はじめに

本日、礼拝開始19周年の感謝礼拝をお捧げすることができることを心から神様に感謝いたします。本日の申命記6章4-5は「聞け(シェマー)」から始まり、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と続きます。この御言葉は、私の教会学校時代の暗証聖句でもありました。申命記では、これらの言葉を寝ても覚めても心に留めて、子供達にも繰り返し教えるように命じています。今でもユダヤ教徒の方達は、毎日、朝晩2回、このシェマーを唱える他に、18の「祈祷文」に沿って、朝昼夜の3回、立って祈っておられるとのことです。

クリスチャンにとって「御言葉は食べ物、祈りは呼吸」と言われます。多忙な日々の中にあっても、一日の初めと終りに(あるいは毎日のどこかで)、わずかな時間でも、神様と共に過ごす大切な時を持てたらと思います。

*告げ知らされた福音

本日の、Ⅰコリント書15章1節から5節までをもう一度お読みいたします。 「兄弟達、私があなた方に告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなた方が受け入れ、生活の拠り所としている福音にほかなりません。どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなた方はこの福音によって救われます。さもないと、あなた方が信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

 最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私達の罪の為に死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れたことです。」

 パウロが最も大切なこととして伝えたことは、「イエス様が、私達の罪の為に十字架にかかり、死んで葬られて、三日目に復活された」ことでした。これまで仙台南伝道所で伝えてきた福音も、同じです。

イエス様は、「私達の罪の為に死んで下さった」ということは、本来なら、<自分が今迄、神様を神様とせず、自分を神として歩んできた罪の結果として私達は裁かれ、滅ぼされる定めにあった>ことを知り、にもかかわらず、私達がイエス様を信じることによって罪が赦されて、罪の裁きから解放されたことを意味しています。私達はこのことを信じて、受け入れ、生活の拠り所としています。

誰でも、どのような人生を歩いてこられた方でも自分自身と向き合い自分の人生を振り返る時、自分の罪に気付かされます。その時に十字架による「罪の赦し」がすでに自分に対して用意されていることを私達は聞いて、信じた時(信仰が与えられた時)、私達は救われます。

*古い人と新しい人

 シュネーダー宣教師(元東北学院長)は、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」との御言葉を引用して、それ迄の「古い人」と「新しく生れた新しい人」との変化を語っています。「古い人」は肉体に必要な物を第一とするが、「新しい人」は神の国と精神上の宝を求めていくこと、試練に会った時も、神の子としての、高尚なる生涯に上がる訓練として耐え忍ぶことが出来ること、「死」も、天国にいます神様と信仰者達との交わりの中に入る幸せなことであり、「世の旅 果てなば、死の河波をも、恐れず越えゆか(讃美歌294)」と歌いつつ世を去ると語っています。

*祈りの共有

私達の伝道所につながるお一人お一人の歩みが、信仰者(新しくされた人)として、良き証し人として、毎日イエス様と共に歩んでいきましょう。愛する家族も教会に導かれるように、愛する友人知人達の名前を挙げて救いの為に祈りましょう。求道者の方々がバプテスマに導かれるように、又、加藤伝道師一家の伝道牧会の働きが益々豊かに守られるように。そして仙台南伝道所が法人格を持つ教会へと成長させていただけるように祈っていきましょう。御心に適(かな)う祈りは必ず聞かれます。信じて希望と確信をもって歩みを続けていきたいと願うものです。

2021年11月21日の説教要旨 サムエル上16:1-13・Ⅰテモテ1:12-17

「忠実な者への務め」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

 サウル王はイスラエル王国の最初の王でした。「神の民」を治める王として神様の恵みと召命を受けて、神様に仕える者として王座に就きました。しかしサウルは、預言者サムエルから油を注がれて(*)、王座に就いたにもかかわらず、主に従わず自分の考えで行動を起こしたため、神様は「わたしは王位から彼を退けた」(1節)と、サムエルに、次の王のための使命を与えます。(*油=オリーブ油・油注ぎ=聖別されて即位する)。

サムエルはこのことを嘆き、心を痛めていました。

*新しい使命

 本日のサムエル記では、神様がサムエルに「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしはあなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」と語られています。サムエルは、サウルがまだ即位中にもかかわらず、次の王となる者に油注ぎの儀式を行うことに躊躇(ちゅうちょ)して答えます。

「どうして私が行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」すると神様はサムエルに、「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげる時になったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、その時わたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」と言われました。サムエルは主が命じられた通りエッサイと息子達に身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きました。そして長男エリアブに目を留め、彼こそ主の前に王として油を注がれる者だと思いました。しかし神様は「容姿や背の高さに目を向けるな。・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(7節)と、人がうわべのかっこ良さや見かけで判断することに対して神様は「心」を見ることを伝えました。父エッサイは7人の息子達を一人ずつサムエルの前に進ませ紹介しましたが、どの息子も神様が選んだ人ではないと神様に告げられます。「あなたの息子はこれだけですか。」と父親に尋ねますと、「末の子が残っているが羊の番をしている」と答えました。サムエルが彼を連れて来させると、神様はサムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」と言われました。

このようにしてダビデは、神様に仕える者として聖別されました。神様からの油注ぎは、主の霊が注がれたしるしでもあります。

その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。」(13節)

主の霊はサウルから離れ、」(14節)と、記されています。

 

*神様の霊、聖霊を宿していたパウロ

 神様の力は、神様から与えられなければ知ることも感じることも出来ません。神様の力と知恵を自分勝手な解釈や理解によって使ったサウルは退けられ、一方ダビデは神様の言われること、なさろうとすることに従順に従い、守り続けようと努力しました。罪を犯した時には神様の前にへりくだり、犯した過ちは赦しを願い求めて祈りを献げています。

 本日のテモテ書Ⅰの1:12-17には、聖書の言葉の力、イエス様の愛の力によってパウロが勇気づけられ、励まされていることが記されています。パウロも、イエス様の霊との劇的な出会いにより過去の過ちから赦されて、聖霊をいつも心の中に宿していました。たとえ困難な問題・自分の生死にかかわる問題に対しても、イエス様に感謝して前を向き、イエス様が十字架上で血を流され、死なれ、陰府に下り、そこから復活され、天に昇られ、神様を信じる者達には罪の赦しと永遠の命が与えられることを宣べ伝え続けました。

*わたしたち

 わたしたちはどうでしょうか。私達はパウロと同じような主の恵みと祝福が(キリスト・イエスによる信仰と愛が)あふれるばかりに与えられているにもかかわらず、もっと助けて下さいと求め続けてはいないでしょうか。神様はすでに、私達一人一人の内に、神様の霊を注いで下さっています。それは時に力強く、時に優しく、時に頼りがいのある霊として注がれます。その神様の霊を感じながら、神様の霊に励まされながら、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2021年11月7日の説教要旨 創世記15:1-18・ヤコブ書2:14-26

「神に選ばれた民」         加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日お読みした創世記には、神様がアブラハムに希望を与え、勇気づけることが記されています。

神様は、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と語られましたが、アブラハムは主に尋ねました。「わが神、主よ。わたしに何を下さるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と答えています。エリエゼルはアブラハムの家の僕であり、古代文書によれば、当時、子供のいない家庭では所有していた奴隷を養子にして主人夫婦の世話と埋葬を条件に、財産相続の制度があったようです。※(アブラハムの名前はこの時は、まだ、アブラム「高められた父、高貴な父」という名前でしたが、17章に入ると主からアブラハム「諸国民の父」という名前が与えられました)。

*「あなたから生まれる者が跡(あと)を継ぐ」(4節)

神様は、アブラハムの家を継ぐのは僕のエリエゼルではなく、アブラハムから生まれる者であること、12章では「あなたを大いなる国民とし」(2節)、13章で「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)、本日の15章では、「天を仰いで、星を数えて見るがよい。あなたの子孫はこのようになる」(5節)と約束されました。

続く6節で「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。「主を信じた」の元の言葉では「主によって信じさせられた」となります。アブラハムは、これから起こることに対する神様への期待感、将来への希望を持つことができ、神様のわざに同意することで信じたのです。アブラハムの偉大な信仰は、神様の言葉を素直に信じたところにあります。神様に出来ないことはないと素直に信じたアブラハムの信仰は、神様から「義」と認められた(神様の前に正しいと認められ受け入れられた)のです。(さらに7節で)、神様は、ご自分がアブラハムをカルデアのウルから導き出したことを告げ、この土地を与えて継がせると約束されました。

*約束の保証を求めたアブラハム

 神様の、土地を継がせるとの約束に対してアブラハムは「何によって(そのことを)知ることができましょうか」と約束の実現の保証を求めました。神様は、その求めに応じられ、契約の儀式に必要な「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひな」を持って来るように命じられ、アブラハムは、それらの犠牲を、契約の内容に沿う形でささげました。(エレミヤ書34:18-20参照)。

 このあと、アブラハムは深い眠りに襲われ、神様の声を聞きます。それは、アブラハムの子孫に将来起こる出来事(エジプトでの奴隷時代および出エジプト)の予告です。そして17節で、暗闇におおわれた頃「煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)」が、用意された動物のいけにえの間を通り過ぎたことで、神様との契約が結ばれたことが記されています

*信仰が行(おこな)いと共に働く

本日のヤコブ書には、アブラハムのことが記されています。

アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められたという聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれた」(23節)とあります。著者は、アブラハムが息子のイサクを献げたという行(おこな)いを取り上げて「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」(22節)と伝え、行いの伴う信仰こそ生きた信仰であると述べます。

*召天者記念礼拝

 本日は、11月第一聖日にもたれる召天者記念礼拝でもあります。前に飾られた写真の方々の信仰を思い起こしつつ共に集まり、礼拝を献げる日でもあります。信仰の先輩達は、信仰の歩みを続けていく時、ここにいる私達と同じように、神様の前で悩み、苦しみ、恐れ、神様を見失いそうになったこともあるでしょう。しかし、そのような中にあっても、周りの人達を思いやり、気にかけ、お祈りに覚えて下さり、イエス様と同じような眼差しで私達を見ていて下さいました。先輩達は神様を見続け、顔を上げて前を向き、神様に感謝の気持を持ち続けていました。私達も同じように、神様に望みを置き、今週の歩みを始めて参りましょう。

2021年10月31日の説教要旨 創世記4:1-10・Ⅰヨハネの手紙3:9-18

「愛するものたちへ」     加藤秀久 伝道師

*はじめに

 アダムとエバはエデンの園を管理する者達でしたが、神様の「園の中央にある善悪を知る木の実を決して食べてはならない」とのご命令に従わず蛇の誘惑により食べたことで、エデンの園から追い出されてしまいました。

その後アダムは、妻によってカインとその弟アベルが与えられ、アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。時が流れて、兄のカインは「大地の実り」を主へのささげ物とし、弟アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を主の献げ物として持って来ました。主は、弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。カインは、激しく怒り、顔を伏せてしまいました。

*神様への献げ物

神様は、なぜ弟アベルの献げ物だけに目を留められたのでしょうか。

考えられるのは、それぞれの礼拝の姿勢、向き合い方です。

この神様への献げ物に関して、ダビデの、次のような言葉があります。

いや、私は代金を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物を私の神、主に、ささげることは出来ない」(旧約聖書サムエル記下24:24)。

この言葉は、ダビデ王が神様の前に大きな罪(人口調査)を犯して、その結果、民衆に大きな災いが降った時に、その罪の赦しを得るために祭壇を築き、いけにえの献げ物を捧げようと、土地の所有者に売買を申込んだ際、所有者から「祭壇を築く土地も、犠牲の動物も、すべてをダビデ王に無償で差し上げる」と言われた時の、ダビデ王の返事です。「神様を礼拝する」ということは、神様に向けた正しい心が伴っていなければなりません。

神様を礼拝する人の心が正しくなければ、神様は、その人にかかわりのある他の人達までも巻き込んで、滅ぼしてしまう裁きを行うことを私達に教えていると思います。又、神様は、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)とあり、神様の御前では、どんなに小さな罪、悪い行い、考えをも隠すことはできません。それらはいつか神様によって全てのものが明らかにされてしまいます。神様は、アベルとその献げものに対して、神様に対する礼拝の心・信仰・姿勢をご覧になり、目を留められたと考えられます。

*怒りで顔を伏せたカイン

 神様はカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言われます。心にやましいことがなければ、私達は神様の前にしっかり顔を上げられるはずです。仮に、これまでカインの行動が正しくなかったとしても、今、悔い改めればすぐにでも受け入れられることを伝えようとしたのかもしれません。しかしカインは、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」と告げられた通り、野原に弟アベルを誘い出して殺してしまいました。

私達も、小さなきっかけから心に怒りを抱いてしまうことがあり、その感情を放置していると、やがてその感情が大きくなり、自分でコントロールできなくなり、大きな罪に発展してしまう可能性があります。

神様はカインに、罪を犯したことを自らの口で告白し悔い改める機会を与えましたが、カインは「知りません。私は弟の番人でしょうか?」と神様に応えた結果、彼は地上をさまよい歩くさすらい人になりました。

仮に私達が罪を犯してしまったら、素直に悔い改めることが大切です。

神様は必ず赦して下さいます。実際に神様は、「私の罪は重すぎて負いきれません」と言ったカインを見捨てることなく、逆に神様はカインをあわれみ、誰も彼を襲うことのないよう、約束しています(4:13~15)。

*宗教改革記念日

本日は宗教改革記念日です。私達は、「聖書のみ」、「恵みのみ」、 「信仰のみ」との宗教改革の三大原理を受け継ぎ、「神様を第一」として、ルターが掲げた「95ヶ条の提題」のように、神様の前に真実な者、正しい者であり続けていく者たちへと変えられていくことを祈りましょう。私達は、私たちの外側を立派に見せるのではなく、私たちの内側が、いつも神様に喜ばれるように礼拝を献げていきましょう。