行事案内

★予告

◎11月24日(日) 礼拝後 クリスマスリース作り

◎12月22日(日)クリスマス礼拝・愛餐会

◎12月24日(火)子どもクリスマス  16時~

        クリスマス讃美夕拝 18時~

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、
  ご了承ください。1階礼拝堂中央左側扉を開けて出入り下さい。
★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。
☆ 982-0814 仙台市太白区山田字船渡前17-4 (022)243-6710
  教会の地図/e-mailは、下記リンクをクリックしてご覧下さい。
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イザヤ書

月曜日 1:1~ 39:8   第1イザヤ書 

  • イザヤ書預言への導入1章
  • ユダとエルサレムについての託宣2-12章

火曜日  

・ 諸国民についての託宣13-23章

  • イザヤの黙示録24-27章

水曜日   

・ ユダについての託宣28-33章

  • 来たるべき審判と救済34-35章
  • イザヤとヒゼキヤについての物語36-39章

木曜日 40:1~55:13  第2イザヤ書

金曜日 56:1~66:24 第3イザヤ書

【イザヤ書について】

イザヤ書は旧約聖書にある15の預言書(3大預言書と12小預言書)の冒頭に置かれ、ヘブライ語聖書においても、預言書の後半(後の預言者)の中の最初の書物です。

イザヤ書は大きく3つの部分に分けられるという考え方が、多くの学者達の見解です。1-39章は前8世紀の預言者イザヤの言葉を基本とした書物(第1イザヤ書)、40-55章は、前6世紀後半の無名の預言者の言葉を中心とした書物(第2イザヤ書)、56-66章は、バビロン捕囚後のエルサレムで活動した通常第3イザヤと呼ばれる預言者の言葉を含んだ書物(第3イザヤ書)と考えられてきました。

【第1イザヤ書の背景】

イザヤ書の冒頭1:1「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」とあるように、紀元前8世紀後半に活動したイザヤ(主は救い)という人物の幻であるとされている。またイザヤの召命記事(6章)によって、イザヤの預言活動は紀元前736年頃に始まったと考えられ、ヒゼキヤ王の在位年を前728-700年とすると、イザヤの預言活動はほぼ40年にも及んだ。この間、北イスラエル、南ユダ、そしてパレスチナ地方には次のような出来事があった。

733-732 シリア・エフライム戦争

722   サマリア陥落(北イスラエル滅亡)

713-711 アシュドトを中心とするアッシリアへの反乱(ユダ参加)

704   ユダ(ヒゼキヤ)、アッシリアへの反乱を主導

701   アッシリアによるエルサレム包囲

 ヒゼキヤ、アッシリアに降伏

【第2イザヤ書の背景】

紀元前587年、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされ、その指導者の多くはバビロニアの首都バビロンの郊外に捕え移された。その状態は前538年、新興ペルシアの王キュロスによって解放されるまで、約半世紀間続いた(バビロン捕囚)。第2イザヤはその捕囚末期に活動し始め、解放の時が近いことを告げ知らせ、捕囚の民がエルサレムを中心とする祖国に帰還することを強く促したのである。

第2イザヤ書は大きく二つの部分に分けられ、40-48章が解放以前の状況が背景であり、49-55章は解放後の状況が背景となっている。バビロン捕囚からの解放は「新しい出エジプト」として語られ、それが第2イザヤの使信の中核となっている。

【第3イザヤ書の背景】

第3イザヤ書は、第3イザヤと呼ばれる預言者一人の言葉に由来するものではなく、バビロン捕囚の終結からエルサレムへの帰還(前538年)、神殿再建(前515年)、エズラ・ネヘミヤによるユダヤ教団の形成(前5世紀半ば)に至る期間を背景に、様々な立場から語られた言葉の集成であると考えられている。しかし、その中心的使信は、捕囚後の混乱状況に苦しむ人々への希望の言葉であるとも言える。

(『旧約聖書略解』第1イザヤ、第2イザヤ、第3イザヤ参照。)

2019年10月6日・世界宣教の日の説教要旨

イザヤ60:1-2・コロサイ1:17-23 

「世界中に伝えられている福音」     佐藤 義子

*はじめに

本日は、「世界宣教の日」(日本基督教団・10月第一日曜日)です。福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス様の遺言でもあり、マタイ福音書の最後に、イエス様の語られた言葉が記されています。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 この言葉は、「大宣教命令」と呼ばれ、教会はこの言葉と共に歩みを続けていると言っても過言ではありません。教会の使命は伝道です。クリスチャンの使命も伝道です。誰に伝道するのでしょうか。聖書で語り伝えている神様もイエス様も知らない方達にです。家族、親族、友人、知人にとどまらず、神学校に導かれ牧師として、全く知らなかった地域で伝道している方々も多く、さらに、キリスト教主義の学校・病院・施設・幼稚園・保育園などで働きながら伝道している方々も多くおられます。(文書伝道・ラジオ伝道・インターネット伝道もあります)。

*世界宣教

目を国内から海外に向けて宣教師として伝道されている方々も多くおられます。私達日本人は「宣教師」という母国から海外伝道に派遣された方々によって福音を伝えられ、今や「イエス・キリスト」の名を聞いたことがないという人はいなくなり、迫害もなく、この山田の地でもこうして礼拝が捧げられていることは本当に感謝なことです。現在日本基督教団では、14ヵ国に20人の方々を派遣しており、子供も一緒の家族での派遣も、又、単身で赴任される方々もおられます。仙台南伝道所では、以前、聖書翻訳宣教師として働かれた虎川宣教師と、インディアン伝道をされているアメリカからウェイド宣教師をお迎えして説教を伺い、その内容は伝道所の「説教集」に収録されていますので、再び読まれることをお勧めします。

 *コロサイ書1章23節

本日の聖書の23節後半に、「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました」とあります。パウロが仕えた福音こそ、私達が教会で聞いて、信じて、今も、依って立つ信仰の基盤です。

 *信仰の基盤

  今日お読みした聖書の少し前の14節から、少し先の2章12節の間に、重要な言葉が五つ出てきます。①「罪の赦し」(14節)②「御子は教会の頭(かしら)」(18節)③「十字架の血」(20節)④「神との和解」(同)⑤「私達の復活」(2:12)。この5つの言葉をつなげますと、以下のような福音、私達が聞いて信じた福音の内容が明らかにされています。

*福音の内容

私達は、かつては神様から遠く離れ、闇の力の支配下に置かれており、神様から離れている(=罪)ことさえ意識していませんでした。しかし神様は私達を愛するゆえに、御子イエス様を遣わして下さり、私達が神様から離れて生きてきたそれ迄の「」を、イエス様が流された「十字架の血潮」(=罪のあがない)によって「赦し」て下さり、それによって「神様と私達との和解」がもたらされました。この福音を信じる信仰によって私達はバプテスマを授けていただき、それによって罪の中で生きてきた古い自分がイエス様と共に葬られ(死んで)、イエス様と共に「新しい自分へと復活」させていただき(=闇の支配の領域からキリストが支配される領域に移された)、「救いの恵み」が与えられました。「御子イエス様は、教会の頭(かしら)」であり、教会(=信仰告白共同体)は、イエス・キリストの体です(コロサイ書1:18節 / エフェソ書1:23)。

*正しい信仰とそうでない信仰

 パウロの時代には、違う福音理解を持ち込む危険な指導者達がいました。それゆえパウロは23節で、「揺らぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と記します。私達も聖書から、教会から、離れることなく、聞いて信じた福音に堅く立ち、伝道のために用いていただきたいと願うものです。

雅歌

  • 雅歌の通読に向けて

月曜日 1: 1        題名/1:2~ 2:7  第1の出会い

火曜日 2:8~ 3:5 第2の出会い

水曜日 3:6~ 5:1  第3の出会い

木曜日 5:2~ 6:3 第4の出会い

金曜日 6:4~ 8:4 第5の出会い/  8:5~ 8:14 結び

【雅歌について】

 雅歌のヘブライ語の書名は、 シール・ハッシーリームで、歌の中の歌=最も素晴らしい歌という意味がある。この書物は、ユダヤ教にとって最も大切な、出エジプトを記念する過越際で朗読される。

 多くのキリスト教著述家は、これをキリストと教会の愛のアレゴリー(寓意・ある概念を他の具象的な事柄によって表現すること)と見てきた。また、これをキリストと個々の信徒との関係の比喩(つまり表象や象徴)と見てきた者もある。つまり、この作品は、人間の愛をたたえる賛歌というよりも、教会や個々の信徒達へのキリストの霊的な愛を語る詩的、あるいは比喩的なやり方と解釈される。

 雅歌はいくつもの部分に分かれ、そのうち、最も目立つのは、恋人達の5つの出会いである。最も役に立つ読み方は、一つずつの出会いをひと時に読み、恋人と出会うまでの期待と期待が実現したときの喜びを十分に味わうように努めることである。恋人達の出会いと喜びと、神の家に帰る信仰者の喜びの間には、疑いもない類似がある。

(『旧約聖書略解』720頁・マクグラス、277頁参照。)

【第1の出会い】

 愛する人との最初の出会いを楽しみに待つ一人のおとめは、彼が自分を好きになってくれるかどうかなどについ心配している。冒頭の重要な主題の一つは、人間は愛が必要だということである。

【第2の出会い】

 今や二人の関係は発展しているが、おとめは不安と疑いに悩む。愛する人は彼女を見つけ、一緒に田園に出ようと彼女を誘う。彼女の恋人は高貴な人であることは示唆されているが、彼は彼女を支配するのではなく、彼女を愛する人らしく彼女に接している。

【第3の出会い】

 前回の出会いでの心配は去り、おとめは今、恋人の一途な愛を確信している。彼女が恋人との結婚の準備をしている間に、彼女自身の地位はあがり、彼の地位と富を分かち持つことになる。このイメージは新約聖書でも繰り返され、信仰者がキリストの属性を分かち持つことが描かれている(Ⅱコリント5:21)。

【第4の出会い】

 恋人達は結婚したが、自分が愛する人に対して冷たくなっているのに気付き、その冷たさを悔やむ。しかし彼は行ってしまった。彼女は再び愛する人を探しまわる夢をみて、彼への愛を再確認する。

【第5の出会い】

 おとめは自分の愛する人との関係を考え、富や豪華さではなく、最初の愛の場所に戻りたいと願う。

【結び】

 物語は、人生に意味を与える愛の重要さと、愛はいかに手をかける必要があるかを語っている。最も愛し合う関係でさえも、世話と再生が必要である。雅歌は、信仰者たちがキリストとの関係を持続させ、それを当然と思わないでいる必要性を理解させてくれる。

(マクグラス、278-279頁参照。)

コヘレトの言葉

  • コヘレトの言葉通読に向けて

月曜日 1: 1~ 3:22  神なしの人生の無意味さ

火曜日 

水曜日 4: 1~ 8:15  神なしの人生の無益さ

木曜日 

金曜日 8:15~12:14 神なしの人生の不確かさ

【コヘレトの言葉について】

 コヘレトの書は、神なしの無意味さと聖書的信仰の欠如から不可避に生じる完全な絶望と冷笑的な見方についての力強く説得力のある注解と理解するのが最も良い。これは、神なしの人間の生活の惨めさと不毛さをさまざまと描いて見せ、神を完全に明らかにすることは人間の知恵にはできないのだということを表している。

 この書は、人生の無意さを語る劇的な宣言で始まる(1:2)。これは、あらゆる種類の出来事の分析で例示される(1:3-11)。すべてのものの意味は何なのか。死は人生を終わらせ、かつて生きていた者の記憶を消してしまう。このようでは、なぜ生き続ける意味があろう。キリスト者にとっては、これらの極めて陰鬱で荒涼とした言葉はイエス・キリストにおける永遠の命への復活の希望に超越される。コヘレトの言葉は神なしの人生がどれほどにまったく希望のないものか、私たちに理解させるようにその苦悶を描き出している。

 人間の知恵が何になるのか(1:12-18)。楽しみが何になるのか(2:1-16)。何かに苦労して何になるのか(2:17-26)。すべてまったく無益である(3:1-22)。しかし、これらの言葉を読むキリスト者は、喜びと共に復活の希望と、それがもたらす目的と平安の感覚に戻るであろう。

 (マクグラス、273-274頁より。)

 コヘレトという言葉は、「召集する」という意味のヘブライ語であり、そこから「召集するもの」、「集会で語る者」の意味に解され、「伝道の書」とか「伝道者の書」という訳がなされてきた。「コヘレトの言葉」という書名は、コヘレトを固有名詞と見なしたものである。「エルサレムの王ダビデの子」というのは、ソロモンを指すと考えられるため、箴言とコヘレトと雅歌はソロモンのものとされているが、表題は象徴的なものとも考えられている。

 「箴言」は知恵と倫理の重要性を説き、「ヨブ記」は不条理の現実を問題としているが、不条理を単に運命として忍従するのではなく、その背後にある隠された神の意志を問い詰める誠実さが称えられている。そのためコヘレトの言葉に接した場合、戸惑いを感ずる読者は少なくない。しかし、コヘレトの知恵は鋭く、また人生体験に裏打ちされた深い知恵と見るべきであり、表面上の矛盾を性急に批判したり戸惑ったりするのは誤りである。 

(木田献一監修「新共同訳 旧約聖書略解」日本基督教団出版局、2001年、706頁より。)

★コーヘレトは、ギリシャ語で「教師」の意味を持ち、ルターは「伝道者・説教者(Prediger)」と訳している。

【1ペテロ1:13-21】

「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。・・・

あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは・・・きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。・・・あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

箴言

  • 箴言の通読に向けて

月曜日  1: 1~ 9:18  知恵のすすめ

火曜日 10: 1~22:16 ソロモンの箴言

水曜日 22:17~24:34 賢人の言葉

木曜日 25: 1~29:27 ソロモンの箴言(補遺)

金曜日 30: 1~31:31 アグルとレムエルの言葉、有能な妻

【箴言について】

 箴言の目的は、人生の実際的な側面に光を当て、先代に蓄積された知恵を後の世代に伝えることにある。この知恵は、しばしば、日常生活の鋭い観察に基づいている。

 箴言の本論部分(10:1-22:16)は、ソロモンが語ったとされる短い格言的な言葉の集成からなる。ここで「箴言」と訳されているヘブライ語の言葉は、それに対応する英語(proverb)などよりもずっと広い意味を持ち、「ことわざ」や「神託」(どちらも、人間の知恵の集成に神が関与していることを示唆する)を意味することもある。

 聖書の伝承では、ソロモンは際立った知恵の持ち主だった。彼が「語った」格言は3000に上るとされる(列王記上5:12)。聖書の箴言に収められた格言はその7分の1にも上る。・・・

 箴言は、厳密に遵守されるべき律法として扱われるように意図されているわけではない。具体的な状況で人がどのように振る舞えばよいか、実際的な指針をあたえる為のものである。人間関係は非常に複雑なので、それに対処するためには識別力と知恵が必要である。

(マクグラス、264頁より)

【箴言の知恵】

 「知恵」がまず意味するのは、理論的・原理的な問題に答えることができるというよりは、日常生活でやっていける、物や人とうまくやっていくことができる能力である。・・・知恵とは一言で言えば経験知なのである。経験知は、生活の諸事象を観察し、比較可能なものを整理し、法則を認識することである。・・・知恵が目指すのは、危険と損害を遠ざけ、正しく、人々に認められる、成功した人生への道を見いだすことである。

知恵は、特殊イスラエル的なものではなく、オリエントに共通なものである。・・・知恵的思考というものは、長い歴史を持つ。それは、人生の経験を形成している個々の箴言(サム上24:14、箴10:1以下、25:1以下)からヨブ記の対話やコヘレトの言葉の中の長い、神学的な反省にまで及ぶ。

知恵は王の宮廷で培われたとも考えられるが、知恵はもともと家庭の中で、その教育にあったはずである。箴言の知恵は、誰でもが語りかけられており、特定の身分の者に対してだけではない。

 箴言の知恵は、経験を伝えるというその目的のために色々な語り方を使っている。それは、①事実を述べる言葉(マーシャル・格言ないし評決)、②比喩の言葉や直喩の言葉、③数を挙げる格言、④二つの事柄を対比させ、第一の事柄を肯定的に評価し、第二の事柄を否定的に評価する直喩のひとつの独特な形態(~ではなく、○○が良い)、⑤勧めの言葉などである。

 ソロモンの箴言は、おそらくもともと別々に集められたものから成り立っていて、箴言のテーマは多様である。しかし最終的には、神への畏れ-それは同時に神への信頼である-が正しい知恵である。

(シュミット、下巻224-233頁より)

【箴言1:7】 

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」

2019年9月1日の説教要旨

列王記下5:9-16・ロマ書6:1-14

「キリストに結ばれた『恵み』」      平賀真理子

*はじめに(前回8/4の礼拝説教のまとめ)

 前回招かれた礼拝(8/4)の説教では、ガラテヤ書3章26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」を中心にお話ししました。キリスト教会が果たすべき役割は「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることですが、パウロは手紙の読者である教会員も「神の子」と言えると主張しているのです。その根拠について、次の27節で「洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と続いて述べています。「キリストを着ている」教会員は、キリストの救いの恵み、人間を救いたいという「神の愛」を身にまとうことを許され、イエス様と同じように「神の子」と呼ばれ得るという大変大きな恵みが語られている箇所です。

*「洗礼」は聖霊(神様の霊)の導きを受けた証し

教会員は洗礼を受けた者です。洗礼を受ける前には、イエス様を自分の救い主と信仰告白しました。多くの信仰者は、そこに至るまでに(精神的または霊的に)格闘したと感じておられると思いますが、パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない(Ⅰコリ12:3)」と述べています。人間は自分の人生は自分で勝ち取ったと思いたがりますが、「何か自分でない者に導かれた」と後で気づく経験がある方も多いでしょう。「洗礼」「信仰告白」という主の救いに与る恵みを受ける経験は、実は、私達の人生に神様が働いてくださった証しでもあります。

*パウロが教会員に伝えたい「洗礼の意味」

パウロは、今日の新約聖書箇所ロマ書6章3節で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」とローマの教会員に教えています。ここには、そのような意味を理解せずに、洗礼後も、それ以前の罪多き生活を変えようとしない教会員がいたことを暗示していると読み取れます。

 「洗礼」の本当の意味、それは、この世の罪に染まった自分、神様に近づけない自分を霊的に死なせることです。教会員は「洗礼の恵みの源は主の死であり、自分も共に死ぬ定めを負った」ことを忘れてはなりません。勿論、決して罪を犯されなかったイエス様は、人間の罪を贖う意味で死の定めを負ったわけで、各々の教会員は、イエス様を死に追いやった自分を、受洗時に一度死に追いやる覚悟が求められたことを想起せねばなりません。そうして、死という定めを主と共にするからこそ、復活の主と同じ定め、即ち、永遠の命という新たな生が始まると自覚したいものです。人は苦悩は受け取らず、恵みだけを欲しがりますが、これも「罪」の様相の一つです。主の恵みを自覚した者は、昔の罪の生活を続けることはできないはずです。

*洗礼を受けた教会員は「罪の支配下」ではなく、「恵みの支配下」にいる

 ところが、今日の新約聖書箇所の冒頭やその直後には、パウロの教えまで曲解して、以前の自分、罪に染まった自分を変えようとしない教会員がいたことが記されています。人間の罪は何と根深いのでしょう!手紙で、パウロが何度も教えているように、洗礼を受けたという「神様主体の出来事」を身に受けた者は、本人の自覚の有無にかかわらず、もう既に恵みの下にいるのです。それは霊的に厳然たる事実です!そのことに気づかないのは、実にもったいないことです。この世の人間としての私達は、時間的にもエネルギーの上でも有限だからです。この世にいる間に罪の自分を霊的に死なせた上で、その後は「神の民」として、この世とは違う次元での命をもって生かされていることを、私達教会員が自覚して生きるならば、その言動は主の恵みの証しとなって、主の福音伝道に用いられるのです。

*主の救いの素晴らしさを本当に知る者は、その証し人となる

今日の旧約聖書箇所では、異邦人ナアマン将軍が自分の皮膚病を癒されて「イスラエルの神」の力を知り、信仰に導かれたとあります。主の預言者が伝えた御言葉に従い、神が「聖」と定めたヨルダン川で、水の清めを受けたナアマンが、主なる神様の力の偉大さを知って、信仰告白へと導かれました。私達も、洗礼を通して、イエス様と同じ定めである「死と復活」を霊的に再現するように神様に導かれ、今は「神の子」と呼ばれる恵みを得ていることを再び思い起こしましょう。主の自己犠牲の愛を受けた私達は、今度は、自分を主なる神様に献げる番です。主の恵みの下で生きる素晴らしさを自分の体による言動で証しできるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

ヨブ記

  • ヨブ記通読にむけて

月曜日  1: 1~ 2:13  序・ヨブの紹介とヨブの試練の背景

火曜日  3: 1~14:22  ヨブの嘆きと第1回討論

水曜日 15: 1~21:34  第2回討論

木曜日 22: 1~31:40 第3回討論とヨブの潔白の誓い

金曜日 32: 1~37:24 エリフの弁論

土曜日 38: 1~42: 6  神顕現

    42: 7~42:17  終・ヨブの執り成しとヨブへの祝福

【ヨブ記について】

 ヨブ記は、旧約聖書のなかでは、どちらかといえば知恵文学に分類されますが、この書物は独特の形式を持ち、世界文学の中でも最も重要な作品の一つとして考えられています。ヨブ記は序と終の部分が散文的に、3:1~42:6の本文がヘブライ的韻文・詩文の形式で書かれ、それぞれの文が複雑に絡み合いながら、力強い表現で物語が進んでいきます。

 ヨブ記は人生の中の一つの重要な問題、「なぜ神は苦しみを許すのか」という問題提起をしています。しかし、ヨブ記が語る答えは、人生のあらゆる矛盾や混乱の中においても、「神は確かに存在される」ということです。神の御業、その御心は、人間が理解し得ないものであり、人間の憶測も議論も時にむなしいものでしかないことをはっきりと示しています。

 またヨブ記の物語は、イエス・キリストがなぜ死ななければならなかったのかという問いを私たちに思い起こさせます。その受難の苦しみの背後にある主の愛を少しでも知ることができる時、私たちは苦しみを許す神の深いご計画に触れることが出来るのだと思います。

(ATD11 ヨブ記緒論、マクグラス, 234-235頁参照。)

【ヨブ記の物語】

 ヨブは、無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていました。また7人の息子と3人の娘、豊かな財産とたくさんの使用人を持った東の国一番の富豪でした。またヨブは、もし子ども達が罪を犯したら、そのことが許されるようにと執り成しと聖別を行い、一家の祭司的役割も担っていました。

 ある日、天上の会議の中に、地上を巡回していたと語るサタンが現れ、主は、地上にはヨブほど正しく生きている者はいないことに気づいたかとサタンに問います。しかしサタンは、ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうかと問い返し、主はサタンがヨブの財産に触れることを許します。

しかしヨブは全てを奪われても、地にひれ伏して「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と語り、神を非難することなく、罪も犯しませんでした(1章)。

そしてまたしばらくたって、再び主とサタンがヨブについて話し、サタンはヨブの命以外に触れることを許されます。ヨブは、この主とサタンのやりとりを何も知らないまま、今度は頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかり、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしり、激しい苦痛の中に置かれることになります。

ヨブの妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言いますが、ヨブは、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と語り、罪を犯すことはしませんでした(2章)。

しかしやがてヨブは嘆き、自分の生まれた日を呪います(3章)。 

そして嘆くヨブに向かって友人達が次々と慰めを語ろうとしますが、いつしかその言葉は、ヨブへの非難、自分の考えをヨブに認めさせようとするヨブを苦しめる言葉へと変わります(4~37章)。

しかし、ついに沈黙していた主が力強くヨブに語られます(38~41章)。


そしてヨブは、「あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。・・・わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」と主に応えます。

主は、正しく語らなかった友人達に対しても怒りますが、ヨブが友人達の為に執り成しの祈りを献げると、主はヨブを元の境遇に戻し、そしてヨブは以前にもまして、主に祝福された生涯を過ごしました(42章)。

エステル記

  • エステル記通読にむけて

月曜日  1: 1~ 2:23  王妃の交代とモルデカイの働き

火曜日  3: 1~ 4:17  ユダヤ民族絶滅計画とモルデカイの信仰

水曜日  5: 1~ 8: 2  エステルの働きとハマンとモルデカイの逆転

木曜日  8: 3~ 9:19 ユダヤ民族の救いと復讐

金曜日  9:20~10: 3 プリム祭の制定とモルデカイの栄誉

【エステル記について】

聖書の中で、女性の名前が書物のタイトルになっているのは、このエステル記とルツ記の2つだけになります。エステル記はルツ記と同じように、ヘブライ語聖書においては「諸書」に分類され、「メギロート(巻物)」と呼ばれる五つの祭日に朗読される書物の一つです。(雅歌:過越祭、ルツ記:七週祭、哀歌:アブの月の9日・神殿破壊記念日、コヘレト書:仮庵祭、エステル記:プリム祭)

エステル(ヘブル語名は「ハダサ」でミルトスの意)は、ペルシア帝国スサの町(ネヘミヤが滞在していたとされる町)に、捕囚民として住むモルデカイ(ベニヤミン族)の養女として育てられましたが、ユダヤ人でありながら、ペルシア王の王妃としての地位が与えられます。

1章では、なぜエステルが王妃になることができるのかを説明する物語として王妃ワシュティーの退位物語が語られますが、2章からはエステルの歩みと並行して、モルデカイの物語が続きます。異教の地で、主なる神のみを礼拝するユダヤ民族の試練にあって、王や権力に近い場所に置かれた二人が、ユダヤ民族の代表としてどのように行動し、どのように決断していくのかを知ることができる書物です。また同時に、ヨセフ物語やダニエル書にも共通する、主の摂理とご計画、主によって与えられている信仰と知恵が豊かに描かれている書物でもあります。

【プリム(Purim)】

 プリムとは、ユダヤ暦においてアダルの月の14日に挙行される春の祝祭である。この祝祭はその聖書的な根拠を与えているエステル記と密接に関連しており、おそらく、ペルシア時代に生じたのであろう。エステルの物語の中で祝われている祝日としてプリムが再現するものは、ユダヤ人のアイデンティティとユダヤ人共同体に対する帝国の脅威、その帝国の脅威に対する勇ましくて巧妙な抵抗、ユダヤ人の驚くべき救出と名誉の回復である。プリム祭は、ユダヤ人の運命を決定した「くじ(ヘブライ語でPur)」を投げることからそう名付けられており、シナゴーグにおけるエステル記の朗読は当然なくてはならぬものとなっている。しかしながら、そのようなことを通り越して、この祝祭は解放されたユダヤ人のアイデンティティと自由を思う存分祝い喜ぶカーニバル気分を誘い、行為で表現する・・・。

比較的後代にユダヤ暦に入れられたこの祝祭は、ペルシア時代にユダヤ教が直面した脅威を映し出しているが、より広い視野で見れば、それはユダヤ人共同体が絶えずさらされていた支配的文化の脅威を映し出している。従ってプリムとは、ユダヤ人のアイデンティティが完全に解放されてもう恐れる必要がなくなった現実を、十分かつ公に明らかにするべく定期的に祝われる祭典であり、ユダヤ人のアイデンティティを抑制し制限し黙らせることを拒絶し、慣習的な政治的要請や社会的期待に服従させられることを拒絶する祭典なのである。(ブルッゲマン、388頁抜粋。)

【エステル記4章から】 「『この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。』エステルはモルデカイに返事を送った。『・・・私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。・・・私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。』」