10月22日の説教要旨 「神様の憐れみ」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:20 ルカ福音書15:11-32
*はじめに
ルカによる福音書15章は3つの有名な例え話から成り立っています。
3つの共通点は、「見失ったもの」を「あるじ」が必死に探して見つけ出し、見つけ出したら、仲間や近隣の人々と共に大喜びし合うことです。
*前の2つの例え話と異なる点
今回の「放蕩息子」の例え話では、「二人の息子を持つ父親」というのが「あるじ」であり、「下の息子」(以降「弟」と表記)が「見失われるもの」です。この「見失われるもの」と例えられる弟は、父親に従わないという意志があるようです。この反抗的意志があることが他の例え話とは違います。この弟は、敬意や感謝を父親に示さず、財産の生前贈与を要求し(かなり失礼な事)、取り分をもらうとサッサと遠い国に行って、元々は父親のものだった財産を使って放蕩な生活を送りました。
*「弟」の罪の姿が比喩するもの
自分の欲望の虜となって、神様や周りの人への配慮や感謝を忘れてしまう姿になるとは、この弟だけが悪い性質なのでしょうか?もしも、私達も時間と資金が潤沢にある環境に置かれたら、この弟のような自堕落な生き方を一瞬たりとも絶対にしないと言える人がいるでしょうか。「あるじ」から離れて、その存在を忘れて、自分の欲望のままに好き勝手に生きたい!という誘惑を退けられる人はほとんどいないのではないでしょうか。日頃の自分の生活を見れば、自分がいかに欲望に弱いかわかりますね。
*放蕩の末に困り果てた「弟」
この弟は、財産を使い果たし、そこで大飢饉が起き、豚の世話係にまで身をやつしました(ユダヤ人にとって豚は汚れた生き物で、この仕事は屈辱的です)。欲望を満たそうと躍起になり、神様を平気で忘れ、挙句の果てには苦しむ人間の罪の姿が示されています。神様は、この愚かな弟をこのような困窮と屈辱に追い込むことにより、「あるじ」のもとに居ることがいかに素晴らしいことかを、骨身にしみて悟らせようとなさったのだと思います。
*「天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました」(18・21節)
この試練を通して、この「弟」は、神様に喜ばれるように変えられていきます。欲望まみれの自分の罪を深く自覚して「天にも、父親にも、罪を犯した」と言うと決意しました。そして、その悪い状況を引き延ばさず、惨(みじ)めな自分を晒(さら)しても「あるじ」である父親の元に帰ろうと決意できたのです(18節)。更に次のことが重要です。実際に、この弟は悪い状況から立ち上がり、親元に帰り、決意したとおりに、自分の罪を告白したのです!以前の彼なら、自分の罪さえ自覚しないし、たとえ自覚しても、うやむやに誤魔化し、親元に居座るようになったと想像できます。しかし、欲望に従った生き方の限界を知った弟は、無条件で愛してくれる父親の元で大歓迎を受けても甘えずに、自分の罪深さをしっかり言い表しました。神様から試練を与えられることによって成長させていただいたのだと思います。
*「神様の憐れみ」
例え話の「あるじ」である「父親」の方に目を向けると、「一日千秋」の思いで毎日毎日待っていたと推測できます。というのは、この弟息子が挫折の末に帰って来た時に「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」(20節)て大歓迎したからです。そして、父親が弟息子を「憐れに思い」(20節)という言葉に注目したいと思います。これは、聖書で語られる神様の御性質の一つです。単なる同情だけではありません。弱い立場で苦しみ、助けを求める人間を放っておけずに、同じ思いになり、その状況を根本的に解決するように実際に働いてくださる、それが「神様の憐れみ」です。ユダヤ教指導者達は神様を恐い冷徹な存在と強調しましたが、神の御子イエス様は、父なる神様の御性質をよく御存じで、この父親に「憐れみ深い父なる神様」の本質を重ねておられます。人間が欲望に引きずられて、本当の「あるじ」である神様の元を離れても忍耐して帰りを待ち続ける御方であり、一方、人間の苦しむ姿には耐えられず、御自分の民として生きる幸いをいつでも授けようと待ち構えていてくださる御方であります。
*「神様の憐れみ」を究極的に示したのが「主の十字架と復活」
今回の話の「兄息子」は直接的には「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(15:2)を例え、「弟息子」は「徴税人や罪人」を例えています。「あるじ」と例えられる「父なる神様」の御心に従い、イエス様は、神様から離れていた「徴税人や罪人」が神様の元に帰りたいと願うように彼らの中に入り、福音を宣べ伝えたのです。ファリサイ派や律法学者達が「自分達は神様側に居る」と言いながら、神様と共にいる恵みを感謝できずにいる姿を、イエス様は「兄息子」の様子で比喩なさいました。一方、イエス様は「神様の憐れみ」を理解して従う御方です。その「主の十字架と復活」こそ、罪に苦しむ人類を救いたいと切望する「神様の憐れみ」ゆえに為された御業です。私達は、その恵みに与って生きることを許され、感謝です!

2017・10月15日の礼拝説教要旨 「私の助けはどこから?」 佐藤 義子

詩編121:1-2・ヨハネ福音書3:16
*はじめに
今日は、一年に一度の子供と大人の合同礼拝です。教会学校では、旧約聖書ではアブラハムさんなど、聖書に出てくる人達がどのように生きたのかについて学んできましたし、新約聖書ではイエス様についてやイエス様がして下さった「たとえ話」などを学んできました。今日は、旧約聖書の詩編の言葉、そして新約聖書ではヨハネ福音書の有名な言葉のお話です。
*「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」
これは今、読んだ詩編の1節です。この時、これを書いた人は「助けてほしい」と思っていますね。私達が誰かに助けてほしいと思う時は、私達が困った時です。子供の時は、大人の人に助けてもらうことが多いですが、大人になっても困ることはいろいろ起こります。そういう時は誰かに助けてもらわなければなりません。この詩編を書いた人は、何に困っているのかというと、これから長い旅に出ることになり、その旅には沢山の危険が予想されていたからです。たとえば山の向こうまでいく道には、でこぼこ道や、急な坂、深い谷間があるだろう。沼や川や、途中でへびとかクマが出るかもしれない。又、強盗が待ち伏せして襲われるような危険な目に会うかもしれない・・などと考えたのでしょう。そのような心配が心の中に広がってきて、「わたしの助けはどこから来るのでしょう」と、誰かに聞いているようです。あるいは、自分の心に聞いているのかもしれません。
私達が今、生きている時代は大変な時代です。「テロ」とか「ミサイル」という言葉を何回も聞くようになりましたし、地震や津波や火山の爆発などの自然災害も多く起こっています。そのほか事件や事故も多く、そして、大人であれば、自分の健康のこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係や将来の進路などなど、先が良くわからないことについての心配や不安などを持っている人は、きっと沢山いることでしょう。それらを心配している人と、今、この詩編を書いた人・・遠くて長い、危険をともなうこれからの旅を前にして、山々を見上げ、不安な気持でいる人と、とても良く似ていますね。
*「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
「わたしの助けはどこから?」という質問の答えが、2節「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」です。「どこから?」と聞いている人が、この答えを出したのなら、この人は神様からの声を聞いたに違いありません。又、もし誰かに質問したのであれば、答えを返した人は、当時の「祭司」と呼ばれた信仰のリーダーでしょう。
*天地を造られた主
「主」とは神様のことです。なぜ助けは、天地を造られた神様から来るのでしょうか。それは、天と地上を造られただけでなく、世界中の人達すべて(私達も!)皆、神様が命を与えて生かして下さっているから、だから、人間を救う力も、もちろん持っておられるからです。
3節以下には、神様は、私達が生きていく上で足がよろめかないように(ふらふらしないように)助けて下さるお方であり昼も夜も眠ることなくいつも見守って下さるお方であり、いろいろな災いを遠ざけて下さるお方であり、どこに行っても守って下さるお方であると書かれています。この神様への信頼を持ち続けている限り、私達は決して倒れません。
*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
神様の独り子はイエス様です。神様はイエス様を、私達の住むこの地上に遣わして下さったことによって、私達は神様のことを正しく知ることが出来るようになりました。そして、それまで神様を正しく知らないで生きてきた「罪」を悔い改めて、イエス様を信じることにより、永遠の命をいただけることが、(ヨハネ福音書)3章16節に記されています。
私達が、「神様、助けて下さい」とお祈りする、そのお祈りは、実は、イエス様が、神様に伝えて下さっているのです。私達のお祈りが神様に届くようになったのは、イエス様が十字架で死んでくださって、神様が私達の罪を赦して下さったからなのです。神様は、イエス様を3日目に復活させて下さり、今は、神様の元に戻られています。そして毎日の私達の祈りを神様に伝えて下さり、聖霊を送って下さっています。
それで、私達は、お祈りの最後に、必ず、「イエス様のお名前を通して」とか、「イエス様のみ名によってお祈りします」と祈るのです。
*讃美歌301番
「山辺(やまべ)に向かいて我(われ)、目を開(あ)ぐ、助けは何処方(いずかた)より来(きた)るか、天地(あめつち)の御神より 助けぞ 我に来(きた)る」
今朝、歌った讃美歌301番は、121篇の「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」が もとになって作られました。最後に、この御言葉と共に歩まれた「山本つち先生」についてお話したいと思います。
山本先生は、私が卒業した女子学院という中学高校の女の院長先生です。先生は学校のすぐそばに住んでおられました。学校では毎朝「礼拝」があり、礼拝前にはいつも301番の讃美歌のチャイムが流れていました。ある朝の礼拝で山本先生は、詩編121篇を読まれて、学校が火事になった時のことを話されました。その後、火事について書かれた本なども読む機会がありました。それによると火事は1949年5月に起こりました(私の入学前です)。午後10時、先生が寝ようとしたその時、不意に聞こえて来た女の人の叫び声と窓ガラスにうつる炎に、先生の家にいた皆が燃える校舎に駆けつけました。その後,近所の方々や消防や警察の方々にも助けられ、ピアノや机いすなど出してもらったそうですが、あとはすべて焼けてしまいました。焼けた校舎は、以前、戦争で焼けた後に一年前、苦労してようやく建った新しい校舎でした。その校舎が再び今度は不審火による火事で失われてしまったのです。翌朝何も知らずに登校してきた生徒達はショックで泣いたりしていたそうですが、先生は、火事以後、祈られた夜を過ごし、朝には、凛として焼け跡に立ち、礼拝で詩編121篇を全員で読み301番を歌い、目には見えない神様への信仰を語り、火事によって一人のけが人も出なかったことに感謝の祈りを捧げたとのことでした。
ここに、121篇「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」を確信して、自分に与えられた重荷を担って前に進む信仰者の姿を見ます。
この伝道所にも礼拝を知らせるチャイムを求めていたところ、幸いにも、女子学院の鵜﨑院長のご紹介で、女子学院チャイムと同じ音源を使用する許可をいただきました。このチャイムを聴きながら、私達はこれから何が起ころうとも、ゆるぎない神様への信頼をもって歩み続けていきましょう。

10月8日の説教要旨 「天の大きな喜び」 牧師 平賀真理子

 エゼキエル書18:21-23 ルカ福音書15:1-10
*はじめに
ルカによる福音書の15章には、3つの例え話が書かれています。皆、教会の中では有名な例え話です。今回は、その1番目と2番目の例え話を学びたいと思います。それは3番目の例え話にもつながります。
*例え話が語られた状況
1つ目の話「見失った羊のたとえ」の内容に入る前に、どのような状況で語られたかが記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1節)のです。徴税人とは、当時この地域を支配したローマ帝国のために、同胞であるユダヤ人から税金を取り立てる仕事をした人のことです。それだけでもユダヤ人達は不快な思いを抱くはずですが、更に「徴税人」の多くは税金の金額よりも多くのお金を徴収し、差額を自分の懐に入れるという不正を行っており、「嫌われても仕方ない人」と見なされていたようです。また、「罪人」は、刑法上の罪よりも宗教上の罪を犯す人々のこと、具体的には安息日の礼拝を守れない人々を指します。農業・漁業・牧畜業に携わる人は仕事柄、自然が相手ですから、安息日に休めることは少なかったと思われます。また、それ以外にもその他の理由で安息日に来られない人々、例えば「娼婦」等も含まれていたようです。これらの人々を「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(1節)は、「神様から遠い、汚れた人々」と見なし、彼等と接すれば「汚れが移る」と言い、彼等を避けるよう教えました。だから、ファリサイ派や律法学者達から見れば、「ラビ(先生の意味)」と呼ばれたイエス様が、「徴税人や罪人と呼ばれる人々」の中に入っていく姿は、自分達の教えに従わない間違った姿勢、または「自分達への反抗」と判断したのです。しかし、イエス様は神の御子ですから、「聖なる御方」であり、「汚れが移る」ことはありません。
それに、ファリサイ派や律法学者達の教えが間違いだと気づかせたかったのでしょう。3つの例え話を語られました。
*2つの例え話が例えていること
まず、1番目、2番目の例え話の例えが具体的には何を指しているかを見てみましょう。「百匹の羊を持っている人」と「銀貨を十枚持っている女」(以降は「あるじ」とまとめて呼びます)は「神様、もしくはその御子イエス様」の例え、「あるじ」が見失った「1匹の羊」や「1枚の銀貨」が「徴税人や罪人」の例え、「99匹の羊」や「9枚の銀貨」は「あるじ」が見失っていない方ということで「ファリサイ派や律法学者」の例えです。(但し、これは、イエス様がファリサイ派や律法学者の考えに合わせた例えです。)そして、「あるじ」が一緒に喜んでほしい「友達や近所の人々」とは「神の天使たち」(10節)や信仰深く生きて天の国にいる「聖徒達」(13:28参照)とも言えるでしょう。
*見失っていた人間を見つけ出した神様の大いなる喜び
私達が理解しやすくなるように、イエス様は人間が見失った物を見つけた時の態度と、神様の態度は同じだと教えてくださっています。よくよく考えれば、人間は神様に創られたのですから、神様の方が源です。神様がそのような御方だからこそ、人間も喜びを分かち合いたいと思うのです。ただ、神様のスケールは人間のものとは比べ物にならないほど大きいので、「見失った物」と例えた「人間」を見出した時の神様の喜びは本当に大きいのだということを、私達は、ここで、再度思い起こしたいと思います。
*神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」こと
神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」ことについて考えたいと思います。神様が過失によって、大事な人間を見失うのでしょうか。そうではありません。人間自らが自己中心の罪に陥ったので、神様から見えなくなってしまったのです。そんな人間を、神様は救い出して御自分との関係
を修復しようとなさった、それが神様の人間に対する「救いの御業」です。
神様が人間を見失ったけれども、御自分から提供してくださった「見つけ出す」方法が、「まず、ユダヤ民族を救い、その救いを世界に広める」ことでした。しかし、それもまた、人間の罪でダメになった時に、神様が新たに救いの方法を考えてくださいました。「救い主をこの世に遣わし、その御業を信じた者が救われ、その救いが全世界に広まる」という方法です。
*「悔い改め」によって、神様に見つけ出された存在の私達
イエス様が福音を宣べ伝えた時の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)でした。救われるために、人間の方でしなければならないことは「悔い改め」です。「今までの、この世の方法、自己中心でいいじゃない!という生き方では救われない!神様の御心に適う生き方がしたい」と思い始めると、やがて、救い主の恵みによって、罪が赦され、神様に見守ってもらえる存在になります。「ファリサイ派や律法学者達」のように、この世では正しいように見えても、人間は誰もが罪深くて、神様からは見失われています。しかし、私達は救い主の恵みを賜って、罪赦され、「神様に見出された存在」とされていることに感謝を献げましょう。

10月1日の説教要旨 「主の弟子として」 牧師 平賀真理子

詩編51:9-19 ルカ福音書14:25-35
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト記20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

9月24日の説教要旨 「神の国への招き」 牧師 平賀真理子

詩編111:1-10 ルカ福音書14:15-24
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
 ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

9月17日の説教要旨 「奇跡の愛をあなたに」 キスト岡崎さゆ里 宣教師

ルカによる福音書8:40-48

*奇跡を求めて

本日の聖書箇所はイエス・キリストの奇跡の一つです。「奇跡」なんて眉唾(まゆつば)だと思いつつも、自分の力ではどうしようもない出来事や困難に直面し、無力を思い知らされるときには誰しも奇跡を求めないでしょうか。
本日のお話に出てくる一人の女の人、彼女もそうでした。この人は今でいえば、不正出血で12年間も苦しんでいました。それなりにお金持ちのお嬢様だったのでしょうに、医療費のために全財産を使い果たしても治らないままでした。
聖書の時代、舞台になっているイスラエルでは、この女性の病気は「不浄な病」であり穢(けが)れが伝染する病とされていました。だから誰も彼女のそばに寄りたくもありません。のけ者にされ、差別されていました。しかも病気の原因は?不品行の結果の性病とされ、つまり自分のせい。そして周りからそういう扱いを受けていると、身に覚えがなくても自分自身もそう思い込まされていきます。
その彼女が、治療奇跡を行うイエスの噂を聞きました。「今度こそ治るかも知れない!」と必死の思いで、皆に気づかれないよう大勢の中に身を隠して待っていました。しかしやっとイエスが到着したところに、ヤイロという男の人が来て「どうか私の娘を助けて下さい」と頼み、イエスはその願いを聞き入れてすぐに発とうとしたのです。ああ、イエスが行ってしまう。彼女は取り憑かれたように手を伸ばしました。そしてイエスの服に触れた途端、出血が止まった!確かにイエスの奇跡は本当だった!普通ならこれでハッピーエンドです。

 

*彼女を探すイエス
ところがお話はこれで終わらないのです。なぜならイエスが、自分に触った者を探し始めたからです。とんでもないことになった!穢れた自分が触ったのだ!彼女は、社会的にも地位の高い会堂長のヤイロと違ってイエスの御前に立って願いを申し立てるなど出来なかったのです。怯(おび)えている彼女をイエスはしつこく探す。なぜ?もう病気は治ったのに?
しかし主イエスは知りたかったのです。誰が、自分にさわったのか。服の房にすがりつくようにしてまで助けを求めた、その苦しみを分かってあげたかった。そしてどうしてもこの一言を言ってあげたかった。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 

*不安から解放する愛
「あなたを治した」ではなく、「救った」というのです。私たちは何から救われたいのか。病気や事故、老い、いろいろな障碍、いわれのないいじめや中傷、それらは私たちの心を弱くします。その苦しみが取り除かれることを求めて、お祓(はら)いやまじないまでして奇跡にすがります。しかし不安材料は無くならず、心の平安は訪れません。私たちの心底の願いは、たとえ何があっても一人の人間としての尊厳を持ちたい。そういうことではないでしょうか。だからこそ主イエスは病をいっとき癒やしただけでなく、自ら彼女を探してくださったのです。主イエスの奇跡は「力」そのもの以上に、愛なのです。

 
*光に導かれて
聖書の神は愛です。高い所から人間を見下し、運命を気まぐれに操っているような方ではありません。あなたが苦しんでいるのに耐えられなくて、本当に近くに来て寄り添ってくださった。それがイエス・キリストです。ですからキリストは人間の味わうあらゆる種類の苦しみを味わいました。親しい人にも理解されず、自分が骨身を惜しんで助けた人たちにも裏切られ、神の子なのに十字架に磔(はりつけ)になって死んだ。しかし、イエス・キリストは苦しみの果ての死から復活されました。キリストの復活は、私たちの苦しみを罪の罰とせず、その先に希望を与えてくださったのです。
仏教では人間の人生全体を四(し)苦(く)(生(しょう)老(ろう)病死(びょうし))といいます。ではこの苦しみをどう生きるか。先の見えない暗闇の中を迷いながら不安に行くのではなく、光に照らされて正しい道を歩みたい。キリストは光として愛をもって一緒に歩いてくださるのです。そして困難に遭うときもキリストを信じて手を引かれて歩んでいると、つらい道のりだが悪くない。必ず得るものがある、恵みがあり、成長しながら歩みを進めることが出来るのです。

 
*「信仰」も与えられる
最後に、私たちは最初からこの「信仰」があるわけではありません。しかしそれでいいんです。この物語の彼女ももともと迷信のようなものでイエスの奇跡を求めたにすぎません。しかし主イエスが、彼女の迷信を信仰に高めてくださいました。「あなたが私に信頼したので、あなたは一切の不安から救われた。これからは私がいつも一緒にいるから、安心して行きなさい。」と言ってくださったのです。この時初めて、彼女は本当の救い主に出会うことが出来ました。主は私たちを探して、自ら出会ってくださるのです。これが本当にアメイジング・グレイス、驚くほどの恵みなのです。

9月10日の説教要旨 「高ぶる者とへりくだる者」 牧師 平賀真理子

*はじめに
今日の新約聖書箇所は、まず、イエス様が安息日にファリサイ派と呼ばれる人々の有力者の私宅に招かれて病人を癒した出来事が記され、次に、その場での招かれた側と招いた側、各々の立場で垣間見えた人間の問題点をイエス様が指摘して、神の国の民として生きるために、どう
いう姿勢で生きるべきかを教えてくださったことが書かれています。

 

*安息日に病人を癒すこと
「ファリサイ派」の人々は、神様がくださった「律法」を守ることこそ信仰の証しだと教えていました。「律法」は、イスラエル民族の歴史上の指導者モーセが神様からいただいた「十戒」が基になっています。十戒は文字どおり十個の戒めです(出エジプト記20章1節-17節、申命記5章1節-21節)。この中でも、4番目の教え「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」を特に大事な教えとして、ファリサイ派は人々に守るように教えました。旧約聖書の創世記1-2章にありますが、神様は
6日間で天地全てを造ってくださり、次の7日目に「御自分の仕事を離れて、安息なさった」(創世記2:2)ので、人間も神様に倣い、7日目に安息するように教えました。但し、この7日目は、だらだらと休むのではなくて、神様の御業を賛美し、感謝を献げるために礼拝することに集中すべきであり、その集中をそらす労働などが禁止されたのです。「癒し」という医療行為は労働の一種と見なされ、安息日に行うことは、律法違反だとファリサイ派は教えました。
彼らのこの教えの方が間違いだと指摘なさったのがイエス様です。ルカによる福音書によれば、イエス様が安息日に癒しを行ったのは、今回が3回目です(1回目=6:6-11。2回目=13:10-17)。最初の癒しの業の時から、ファリサイ派は、イエス様に対して怒り、イエス様を排除したいと思い始めました。今回も、イエス様が病人を見るように、わざと画策して、彼らが教えている「安息日を守る方法」を、イエス様はやはり守るつもりはないと、再び確かめたかったのかもしれません。

 

*「十戒」「律法」の根底にあるもの
イエス様は神様の御子です。神様が「神の愛」、または「憐れみ」を根底にお持ちで、御自分がお選びになった「神の民」イスラエル民族に「十戒」を授けたことをよくご存じです。「十戒」や「律法」は、神様が人間を愛している証しであって、人間がこれを自分勝手に解釈して、苦しんでいる同胞を救わないでそのままに放っておくことこそ、神様の御心に背くという、重大な背信行為だとご存知でした。だから、イエス様は、安息日であろうがなかろうが、苦しんでいる病人と出会ったならば、その人を憐れんでいる「神様の御心」がわかり、即座に「癒し」を行ってくださったのです。そして、恐らく、イエス様を陥れようと画策したファリサイ派は、逆に、イエス様から自分達の律法適応の矛盾を指摘され、一言も発せられず、また、何もできずに終わらざるを得なかったです。

 

*「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)
更に、イエス様はファリサイ派に代表される「高ぶる」人間の生き方の誤った姿勢を指摘され、「神の国の民」のあるべき理想の姿勢を教えてくださいました。イエス様は「たとえを話され」(7節)、ここで「婚宴」の席での人間の傾向を語っておられます。「婚宴」とは、神の国で神様と人間が親しく心を交わせる状態を例えたものです。まず、8節~11節は「神様に招かれる」神の民ならどうするべきかが書かれています。前の段落にあるようなファリサイ派の人々の現状を観察なさったイエス様は、彼らが自分達こそ神様に高く評価されて、神様に近い上席に案内されるだろうと思っていることを暗に例えています。しかし、本当に神様の御心を知っている「神の民」ならば、自分の働きを高く評価しないで低く評価して、神様から遠い末席に座る性質を持つはずだと教えておられます。
次に、12節~14節で、ファリサイ派のような性質の人が誰かを招く時には、打算を働かせ、自分に高い評価や富をお返しできそうな人だけを招く傾向があることをイエス様は見抜かれました。本当の「神の民」ならば、この世での自分の評価や富を望みにせず、神様からの御褒美である「永遠の命」を望みとするはずだと教えてくださっています。自分で自分の評価を実際以上に高く見積もる(「高ぶる」)人は「神の民」ではなく、へりくだって低く見積もり、全てを神様の御心に任せることのできる人こそ、本当の「神の民」であり、そのようにへりくだる性質の人間を、神様は愛してくださり、神様が高く挙げてくださるのです。

9月3日の説教要旨 「苦難の道をたどられる主」 牧師 平賀真理子

詩編132:10-18 ルカ福音書13:31-35

 

*はじめに

ルカ福音書の9章で、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた(51節)」とありますので、人々の罪の贖いのために十字架にかかる場所「エルサレム」へ行く定めにあることを御自身は自覚なさっていたのでしょう。その途上で、イエス様御一行は、ヘロデ・アンティパスという領主の領地に入りました(31節から推測)。

 

 

*イエス様の反対派として結託していくヘロデとファリサイ派
ファリサイ派の人々は、ヘロデという領主の権威を笠に着て、イエス様を追放しようとしています。本当にヘロデが命令したのか、ファリサイ派がヘロデの意向を汲み取って先回りしているのか今やわかりません。
また、ファリサイ派の人々の中には、イエス様の身を本当に案じた人もいたのかもしれませんが、ここでは、イエス様の反対者達が次第に結託していき、勢力を強める際の、その端緒を見ることができると思います。

 

*ヘロデへのイエス様の伝言
イエス様は、そんな悪意に満ちた報告をしてきたファリサイ派の人々に対して、ヘロデへの伝言を頼みました。「あの狐」とはヘロデのことです。(狐は、当時のこの地方で、最も狡猾で、凶暴で、役に立たない動物と思われていて、それがまるでヘロデそのものだったからです。)伝言の中心「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)とは、イエス様の「救い主」としての御業を自らまとめ、それは神様が定めたものであり、決して変えられないとの思いが込められていると読み取れます。

 

*「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)
イエス様が悪霊を追い出す権威を与えられており、相手方の悪霊達がイエス様を「神の御子」と認めて去ったことは福音書に証しされています。病人の癒しでは、病いに苦しんでいる人々を目の当たりにした イエス様は憐れみを禁じ得ず、父なる神様から癒しの力をいただいて、彼らを救ったのです。この2つの内容は、イエス様が神様からの力をいただける「神の御子」であることの証しです。次に「三日目にすべてを終える」という御言葉に注目しましょう。「三日目に」とは、旧約聖書においても、神様の御心に適った人の「よみがえり」「復活」を暗示するものです(ホセア6:2、ヨナ2章)。後の時代の信仰者にとっては、「三日目に」とは、「主の十字架」の後の三日目の「主の復活」を想起させる言葉です。イエス様の救い主としての中心的な役割「十字架と復活」を果たすことは神様によって定められているという意味が隠されています。また、「終える」という言葉の元々の単語には「成し遂げる」という意味があり、「十字架と復活」を果たし、神様から託された救い主としての責務「すべてを成し遂げる」という意味を示しています。また、同時に、「三日目にすべてを終える」とは、ヘロデに都合のいい解釈もできます。それは、「領地に御自分(イエス様)が来て、領主ヘロデの勢力を脅かすような出来事は、あとわずか三日程で終わりますよ」という意味にも取れる言葉を用いておられるからです。

 

*「今日も明日もその次の日も、自分の道を進まねばならない」(33節)
イエス様は、ヘロデやファリサイ派などの反対派の人々に御自分の使命を語られたのですが、「十字架」にかかるにあたっては、人間として受けるならば、壮絶な苦痛があることを予め理解された上で、その役割を引き受けられたことがわかります。「進まねばならない」という御言葉の中に、主の苦しい思いがにじみ出ていると感じられます。(だから、説教題を「苦難の道をたどられる主」としました!)しかし、それが神様のご計画なので、イエス様は何よりも優先なさったのです!

 

*神様の恵みを受け続けるために
34節以降で、イエス様はイスラエル民族の中心都市エルサレムが、神様から遣わされた預言者を数多く殺した都であり、御自分も預言者の一人として、エルサレムで死ぬと預言され、神様の御気持ちを慮って嘆かれました(イエス様は「救い主」で、他の預言者とは別格ですが、神様から御言葉を賜って人々に伝える働きもされたので「預言者」とも言えます。)。イスラエルの民は、神様からの一方的な愛を受けて「神の民」として恵みを受けてきたにもかかわらず、神の御子である御自分を「救い主」とは受け入れず、これからも受け入れる人は本当に少ないとイエス様は見通し、そのため、イスラエルの民は、御自分の再臨の時まで、神様から見捨てられると預言なさいました。イエス様を「救い主」と受け入れない民は、神様から見捨てられるのです。私達は、神様の恵みを受け続けられるよう、イエス様を「救い主」として受け入れ、賛美する思いを新たにしましょう。

8月27日の説教要旨 「救われる者」 牧師 平賀真理子

詩編107:1-9 ルカ福音書13:22-30

*はじめに
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。(22節)」エルサレムで十字架にかかる、つまり、人々の罪を贖うという過酷なゴールに向かいつつ、イエス様は人々に「神の国とはどういうものか」を教える、宣教の旅を続けられたのです。

 

*「救われる者は少ないのでしょうか」(23節)
そこへ「救われる者は少ないのでしょうか。」という質問をする人が現れました。「救われる」とは、教会ではよく使われますが、「何から」救われると言うのでしょうか。それは「罪に染まり切っている状態から」です。更に言えば、「全知全能で良いもの全ての源であり、本当の愛を注いでくださる神様から離れている状態から」救われるということです

 

*神様が最初に造った姿とはかけ離れてしまった人間

聖書で言われている「神様」と人間とは、本来なら、人格的な交流ができるはずでした。ところが、人間の側で、神様の教えへの信頼よりも自分達だけの判断を優先したため、神様と交流できなくなる状態に自ら陥りました(参照:創世記3章)。本来、神様に繋がって生きることで幸いを感じるように造られた人間なのに、神様に繋がることをやめたなら、どんなにあがいても、本当の幸いには到達できません。様々な面で限界だらけの人間同士が自己中心で生き、限りある利益を自分の方へと奪い合う競争の世界、これが「罪の世界」「罪に染まり切っている状態」です。そして、人間は「罪のない世界」があることさえも知らされなければ、罪の世界を抜け出そうとさえ思えません。人間は知恵の上でも限界ある存在だと思い知らされます。

 

 

*人間が「救われて」、神様との本来の関係に戻るためには?
イエス様は、神の御子として「罪の世界」ではない世界=「本来、人間が置かれるべき、神様と繋がった世界、本当の幸いな状態」が確かにあると教えてくださったのです。罪の世界から人間が「救われて」本来の状態へ戻ることが起こりうると。それはイエス様を救い主として受け入れ、主の「十字架と復活」の恵みをいただいて神様に繋がれるということです。

 

*「狭い戸口から入るように努めなさい」(24節)

イエス様は23節の質問を受けて一同に対して「『救い』に入る戸口は狭い」と言われ、「救われる者」が少ないことを暗示なさいました。そして、その狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われました。この「努める」という言葉は、元々は「苦闘する、戦いをくぐり抜ける」という意味を持っています。確かに、罪の状態で生きることが当たり前のこの世の中で、「神の国」の基準で生きるのは容易ではないと信仰者の多くが実感されているでしょう。まさしく「入ろうとしても入れない人が多い(24節)」のです。しかし、人間の罪深さにもかかわらず、神様が「救いの道」を用意してくださった、その深い愛に応えたいものです。

 

*神様が定めた「救い」のための時と方法に従える者は少ない!
25節―27節の話は、人々を救うためにこの世に来られたイエス様と、イエス様に出会った人々の例え話です。救い主イエス様は多くの人々が「救われる」ために町や村を巡り歩いて「神の国」に招いたが、いよいよ、十字架と復活の時になり、戸口を閉めると例えられる時になって初めて、事の重大さがわかり、「神の国」に入りたがる人が多いという例えです。彼らは、「主と一緒に食事をした」とか「教えを受けた」とか言い、知り合いだからと特別な温情をあてにして訴えます。しかし、救いの戸口を閉める時を決め、入る許可を出す権利は「主」にのみあるのです。「救い」のために神様が定めた時と方法に従える者は少ないのです。

 

*イエス様を救い主と受け入れた、新たな「神のイスラエル」として
主の御降誕以前の歴史では、神様からの召命を受けて信仰を貫いたアブラハム・イサク・ヤコブや預言者達は「神の国」にいるとイエス様はおっしゃいました。しかし、主の御降誕の後では、神様が先に救おうとされたイスラエル民族は、イエス様を「救い主」と受け入れなかったために、「救われる者」としては後になってしまい、神様の最初の計画では後回しになっていた異邦人が先に救われるようになる(30節)と、主は預言され、それは本当に実現しています!そして、今(新約時代)や、「イスラエル」とは、血統上の民族のことではなく、イエス様を救い主と受け入れる信仰を与えられた信仰者達を指すようになりました。主を信じる私達は、「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)という名にふさわしく、主の恵みを受けて、信仰の戦いに勝利し続けられるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

 

8月20日の説教要旨 「異言は己を、預言は人を造り上げる」 野村 信 先生(東北学院大学)

詩編145:8-16 Ⅰコリント書14:1-5
*はじめに
今日の新約聖書箇所から、使徒パウロが二つのことを述べていることがわかります。「①愛を追い求めなさい。②何よりも霊的な賜物を熱心に求めなさい。」ということです。しかし、この二つは実は一つのことです。
*霊的な賜物とは?
体が疲れた時、私達は栄養ドリンクを飲みます。霊的な賜物とは、心の栄養ドリンクのようなものです。かつて、私自身、どん底の状態にあり、沈んでいましたが、霊的な賜物をいただいたおかげで、生き返った体験をしたので、是非語りたいのです。しかし、これは私だけの体験ではなく、大勢のクリスチャンが書き残した物からも読み取ることができます。
*パウロと「異言」
まず、パウロが書いた「今日の聖書箇所」から見てみると、霊的な賜物には2種類あると言っています。異言と預言です。この2つは重なっているけれども、パウロは際立たせて区別しています。「異言」は聖書の元々の言葉であるギリシャ語では「グロッサ」と言い、「舌」とか「言語」という意味の言葉ですが、パウロは以下の2つの意味を含んだものを指していると見ることができます。一つは「異なった言葉」(例:使徒言行録2章にあるペンテコステの出来事)と、もう一つは「神秘を語る」ということです。14章2節でパウロが「異言を語る者は、人に向かってではなく、
神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っています。」と言ったとおりです。異言は聖霊によって語られた「言葉にならない言葉」です。私達は、「神秘」や「異言」を極めて非聖書的と考えがちですが、パウロは違います。同じ書の4章18節で、パウロは自分について「最も異言を語った」と述べています。
*「預言」が重点的に語られてきた末に
また、14章3―4節を見ると、預言は人に向かって語られ、人を造り上げるのであり、異言は自分(=己)を造り上げるとあります。この箇所が説教で語られる場合、多くの牧師は「預言」の方を重点的に語ってきたように思います。歴史的に見て、伝道において未熟な日本で、しっかりした教会を造り上げたいと願って、そのように語られたと言えるでしょう。しかし、21世紀に入った今、立派な建物の教会に、信者達が集まらず、そのために教会を閉めざるを得ない状況が世界中で起こっています。カトリック信者も少なくなっていますが、特に、プロテスタント信者の数の減少に歯止めがかかりません。同様に、私達が所属する日本基督教団の信徒数も減り続けています。何か根本的な
問題があると考えざるを得ないと思います。「預言」だけでいいのでしょうか。
*「異言」によって私達一人一人が活き活きと変えられる
長らく「異言」は不可解で怪しげだから、「預言」を重んじようと教えられてきました。「預言」はとても大切です。なぜなら、人を造り上げ、教会を造り上げるからです。しかし、今、教会に集う私達一人一人が、家庭でも職場でも、キリスト者として活き活きと生きているでしょうか。私自身も、かつては、聖書の教理とか教義、すなわち「預言」を語り続けてきましたが、10年ほど前には、かなりひどく落ち込んでいました。それは精神的な病気と症状は似ていましたが、違います。信仰の問題でした。信仰によって喜びや力が全然湧いてこないという状況でした。数年後に立ち直り、今や、神様のためにずっと働き続けても元気!となりました。己を造り上げることができたからです。しかし、私の周りを見渡しても、牧師や神学者の中に、つまり、「預言」を語る専門家達の中に、燃え尽きて抜け殻のようになっている人々がいることを知っています。(但し、預言=教理や教義は、300~400年かけて生み出されたキリスト教の柱であり、大切なものです!)
*パウロによる教えの再発見
パウロは、今日の聖書箇所で、「異言」を語る大切さを教えていたのです。すなわち、聖霊の働きの中で神様と語り合うこと・神秘を語ることは、「己を造り上げる」ことだと教えてくれます。私達は神様に向かう、または神様と語り合うということの大切さに気付かなくてはなりません。その中には、人間の言葉にはならず、人にはわからないものもあるかもしれませんが、神様に祈る・神様と語り合うことで、自分を造り上げることをおろそかにしてはならないのです。
*「異言」とは? ―歴史を振り返り、数々の著作や著者から―
では、具体的に「異言」とはどのようなものでしょうか。どのように行(おこな)ったらいいのでしょうか。歴史を振り返ると、優れた信仰者達を例として挙げることができます。彼らはしっかり書き残してくれたので、私達が知ることができます。彼らは、異言を存分に語って、力強く、立派な信仰者の生涯を送り、神様と人間に仕えて生きたことがわかります。
その筆頭はパウロです。パウロの書いた手紙の中に、パウロの「異言」と思える箇所がいくつもあります。例えば、「十四年前に第三の天にまで引き上げられた」(Ⅱコリント書12:2)とか、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ書8:22)等です。
また、今日の旧約聖書箇所に挙げた詩編145編でも、この詩人は「造られたものすべて(万物)」が神様に感謝すると謳っていて、これも「異言」と言えます。
アウグスティヌスというキリスト教の立役者は、『告白』という名著を残し、自分の愚かしい、恥ずかしい過去を美しい文体で書きました。
普通の感覚ならば書けないような、自分の醜い過去を神様に告白する、つまり、神様に向かって語るという「異言」となっているのです。
アンセルムスという人も中世の思想家として名高い人ですが、『モノロギオン』『プロスロギオン』という著作の中で、「異言」が多くあります。
さらに、サン・ビクトールのフーゴーという修道士は、民衆達と一緒に聖書を読むために「絵巻物聖書」を作りましたが、彼の『魂の手付金の独語録』という本は、神様への燃えるような賛美を献げる中で、ほとんどが異言を語っていると言わざるを得ない内容です。
私の専門である宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』という有名な教理的な書物を書き、ほとんど毎日1時間の説教をした人です。この説教を聴いていた、当時の1500人程の人々は、霊的な喜びと感動に満ち溢れていたのです。研究者達でこの説教の翻訳を続けています。
地味で飽きてくる内容ですが、これが「異言」です。よくわからない、あるいはあまりにもありふれたものなのに、実際は、霊的であり、神秘的であり、神の世界が広がっているような一時と言えます。
現代で、私達の知っている日本人では、八木重吉というクリスチャンの詩人がいます。彼は短い生涯の中で二千もの詩を残しましたが、「霊感の人」と言ってもいいでしょう。神秘の中で不思議を語った人です。
20世紀を生きた人に、神谷美恵子という人がいました。彼女は結局キリスト教の洗礼を受けませんでしたが、ほとんどキリスト者であると言えるような天才的な人でした。この人の日記の中には、不思議な神秘的な語りが何度も出てきます。また、著作『生きがいについて』で「変革体験(本当は「神秘体験」と名付けたかったらしい)」という箇所があり、これも「異言」の一種と言えるでしょう。
それから、カトリックの神父で、八ヶ岳で庵を編んでいた 押田成人という方がいましたが、彼の著書『遠いまなざし』も、ほとんど異言と言えるような不思議で神秘的な話です。私は、自分自身が霊的なものに触れて立ち直った後に、この方の本を読んだところ、内容が理解できるようになってきました。
*「異言」によって、己を高め、強めることができる!
今まで述べてきたように、「預言」は建徳的であり、人や教会を造り上げるものですが、「異言」は霊によって語られるもので、自分を造り上げるものです。一人一人が取り組むべきものであり、他人にはわからなくても、自分を高め、強めるものです。だから、パウロは「霊的な賜物を追い求めなさい」と言っているのであり、私達一人一人は、神様との対話の追求を行(おこな)っていきたいものです。
*「神の愛」を追い求める私達に、霊的な賜物が注がれる
今日の聖書箇所の直前のⅠコリント書13章は「愛の賛歌」と呼ばれる、愛についてのパウロの語りが出てきます。そして、14章の初めの第1節で、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物を熱心に求めなさい。」とあります。
ここでの「愛」とは、「アガペー」とギリシャ語で呼ばれる愛であり、それは「神の愛」を指しており、神の御子イエス・キリストが十字架で死ぬことによってもたらされた「人間の罪の赦し」に示された「神様の無償の愛」のことです。
ですから、14章1節の「愛を追い求めなさい」とは「神様を・キリストを追い求めなさい」と同じです。神様と愛とは直結しています!だから、「神の愛」を追い求めると、そこから派生して、神様の豊かな、様々な霊的賜物が私達の上に注がれます。神様から賜る私達へのプレゼント、つまり、異言や預言をいただけて、神様に繋がります。実は、Ⅰコリント書の12章から14章までずっと霊的賜物について書かれており、神様を追い求めると、神様との交わりを持てると言えます。言い換えると「証し」です。これが自分にとってのかけがえのない神秘となり、私達一人一人は霊的な力を得て、活き活きと生きていけるのです!