11月24日の説教要旨 イザヤ書65:17-25・黙示録21:1-8

「聖書に示された未来」    平賀真理子

*はじめに「ヨハネの黙示録」を通して

 新約聖書は27巻の書物から成っていますが、もっと大きく分けると、「過去・現在・未来」という分類があります。その「未来」に分類される、唯一のものが「ヨハネの黙示録」です。今週は、教会暦では一年の終わりです。この時期に、聖書には、どのような「終わり」が示されているか、見てみたいと存じます。

 「黙示録」とは、隠されていることを明らかにした記録という意味があります。「ヨハネの黙示録」は、救い主イエス様が十字架で亡くなった数十年後に、ヨハネという人に神様から示された幻が記録されているわけです。無限の神様から示されたことを、有限な知識や感覚しかない人間が受け取り、限られた方法(この時代は文字による記録だけ)で残しています。ほんの一部を垣間見ることしかできないとは思いますが、この書物に、私達の未来が示されているなら、信仰者は知りたいと願うものでしょう。

*「新天新地」は神様からのプレゼント

今日の新約聖書箇所は、この書物の最後の部分の二つの章(21章と22章)の一部です。1節と2節で、私達の今、享受している天と地(最初の天と地)と「諸悪の根源」と考えられていた「海」がなくなって、新しい天と地が下ってくると書かれています。私達の社会では、何かを地上から積み上げた末に理想を築くという考え方をします。だから、その途中で積み上げようとしたことが壊されたり、中断されたりすることを非常に恐れます。それが、「神無き社会」の常識です。

 けれども、「新天新地」については、神様が人間にプレゼントとして与えようと前々から準備なさっていることがわかります。人間の努力等に関係なく、神様が決められた時が来たら、人間が思いも及ばない次元の世界が、神様の恵みとして、天から与えられるのです。神様は、自分勝手な人間を見捨てず、愛し続けておられることが暗示されています。信仰者は、自分勝手に心配せずに、信仰者にふさわしい生き方を守るべきでしょう。

*「人と共に住む(居る)神様」

 神様の特徴の一つに「人と共にいる」ことを望んでおられる御方であるということがあります。聖書によく記されている御言葉です。今日の箇所の3節にも「神は自ら人と共にいて」とあります。この望みのために神様は人間を含むこの世を作られたのですが、人間が自ら罪に陥って、神様が自分に親しく関わってくださる(「共にいる」)関係を壊したのです。この隔ての壁である「人間の罪」を壊して、神様と人間の親しい関係を修復なさったのがイエス様=十字架と復活によって「救いの御業」を果たされたイエス様です。そのイエス様を救い主と信じる者達は、主の恵みをいただき、神様との親しい関係を修復していただけるようになったのです。

私達信仰者は、この世では信仰生活を貫くにあたっては様々な困難がありますが、もはや神様によって、違う次元の恵みを既にいただき、それが永遠に続くことが保証されていることを、実は聖書は示していたのです。

*「わたしは初めり、終わりである」

今日の新約聖書箇所の後半の段落の6節では、神様が「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」とおっしゃっています。アルファとオメガは、新約聖書が書かれた元々の言葉ギリシャ語の最初の文字と最後の文字です。次の文「初めであり、終わりである。」と同じ意味です。また、この「初め」という言葉は「起源」を、「終わり」という言葉は「目的」という意味を含んでいます。つまり、神様が、人間を含むこの世すべての源であり、すべての目的であると示されています。人間の根源的な問い「どこから来て、どこへ向かうのか」への答えです。人間は、神から来て神に帰ってゆくのです。この「神」は私達人間を本当に愛して、この世が提供する「一時的な幸い」ではなく、神様の次元の「本当の幸い」を無償で(条件をつけたりしないで)与えたいと願っておられます。その恵みを受けるに相応(ふさわ)しい者達は、勿論、イエス様を救い主と受け入れて、この世で信仰生活を貫いた者と言えるでしょう。しかし、この世での大変な状況の中で信仰を貫けない者=臆病な者や信仰を止めた者、信仰者として相応しい生活をしなかった者は外されると8節にあります。逆に、信仰の戦いに「勝利を得る者」には、主の恵みが必ず与えられます。 私達の未来には、神様がご用意くださった世界での永遠の生があります!

11月10日の説教要旨 サムエル記上 30:21-25 Ⅰコリント10:23-31

「信仰から生まれる行為」 佐藤 義子      

*はじめに

聖書には、多くの人々が登場しますが、今朝は旧約聖書からダビデを、新約聖書からはパウロを取り上げて、神様を信じる信仰から生まれる行為に目を向けて学びたいと思います。

*ダビデ

ダビデの生涯は、旧約聖書 サムエル記上16章から約70頁にわたり記されています。本日の箇所は、ダビデがサウル王から嫉妬され、命までねらわれ、ダビデに従う兵士600人と共にイスラエルの敵であるペリシテ人の王アキシュのもとに逃げて身を寄せていた時の出来事です。

*ツィクラグ

アキシュ王は、ダビデのために「ツィクラグ」の領地を与えてくれたので、ダビデと妻、兵士達とその家族は、ペリシテ人の支配地域であったその場所に住み、そこから戦いなどに出て行きました。やがてペリシテ人は勢力を伸ばすため、イスラエル軍とも戦うことになりました。ダビデ達もアキシュ王と共にペリシテ軍の集結場所に出かけていきます。ところが途中で他のペリシテ人の武将たちが見慣れないダビデを見て、身元を尋ね、ダビデが、敵の民族イスラエル人であると知り、戦列に加わることを拒否し、帰るように命じます。仕方なくダビデは家来達とツィクラグに戻りますが、ツィクラグはダビデ達の留守中に、近隣に住むアマレク人の攻撃を受け、町は焼かれ、すべての男も女も捕虜として連れ去られていました。

*悲しみの中で

ダビデも兵士達も、すべてを失ったことを知り声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなったと聖書は伝えています。ダビデは苦しみの中で、神様に、アマレク人の略奪隊を追跡すべきか、追いつけるのか御心を問いました。ダビデが聞いた答は、必ず家族達を救い出すことが出来るというものでした。そこでダビデは600人の兵士たちと追跡の為、出発します。けれども、疲れていた兵士達の中からは落伍者が出てベソル川に来た時は400人になっていました。が、さらに200人は疲れすぎてベソル川を渡ることが出来ずそこにとどまり、残る200人で追跡を続けます。

*野原で見つけたエジプト人

途中、野原で一人のエジプト人を見つけます。彼は、町に火をつけたアマレク人の奴隷でしたが病にかかり主人から捨てられ三日三晩飲まず食わずで倒れていたのです。ダビデは彼に食事を与え、元気を取り戻させた後、略奪隊のところまで案内してもらい、略奪隊に追いつきます。略奪隊は奪った戦利品を前にお祭り騒ぎをしていましたので、ダビデ達は夕暮れを待ち、彼らを襲撃して奪われた物を奪い返し、捕虜として捕まっていた自分達の家族をすべて連れ帰ることが出来ました。

*ベソル川で

ベソル川まで戻ると、疲労の為 川を渡れずその場にとどまっていた200人の兵士達がダビデ達を迎えに出てきました。ダビデは彼らの安否を尋ねましたが、最後まで戦った兵士の一人が、その場にとどまった兵士達に向かい「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。ただ妻と子供を受け取り連れて行くがよい」と言いました。途中で戦列を離れた人と最後まで戦った人との待遇は違って当然、という一般社会(この世)の考え方です。

ところがダビデは「兄弟たちよ、主が与えて下さったものをそのようにしてはいけない。我々を守って下さったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。

*ダビデの信仰

ダビデは、すべてのものは神様のものであり、すべては神様から来ているとの信仰で生きた人でした。ツィクラグが焼かれて、すべてを失った中で、今、愛する家族と財産を取り戻せたのは、苦しみの中で祈り求めた結果、追跡する道へと導かれたからであり、又、自分達の家族と財産を取り返すために疲れ切っているにもかかわらず、兵士達がダビデの指示に従い、それぞれが自分の限界まで戦えたのも、神様からの力と励ましがあったからであり、追跡の途中でエジプト人に出会い、道案内を受けたことで追いつけたのも、すべては神様の導きと助けなくしてはあり得ないことでした。ダビデは常に、何をするにも「インマヌエル(神、我と共にいます)の信仰が土台であり、この時も「守って下さったのは主」「略奪隊を我々の手に渡されたのは主」との告白のもとで、「皆、同じように分け合う」との行為が生まれたのです。

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*菜食主義者と肉食主義者

次に、パウロを取り上げて、その言葉に耳を傾けたいと思います。

私達クリスチャンは同じ神様を信じており、このことにおいて一つになれます。しかし、それぞれ顔が違うように性格も考え方も違うため、パウロの時代(おそらく現代の教会も)、一人一人、その信仰の表し方が違っていました。パウロの時代、教会の中には菜食主義者と肉食主義者の対立がありました。菜食主義者が、肉にこだわったのは、市場に出回っていた肉の中に、偶像の神の神殿にささげられた肉がまざっていたからです。彼らの心配は、もし偶像に供えられた肉をキリスト者である自分たちが食べることで自分達は汚されるのではないか、と不安に思ったのです。その一方で、「キリスト者はすべてから自由にされた者である」と考える人達は、偶像に供えられた肉であってもキリスト者は神様の霊を受けて救われている者であり、この世のあらゆる束縛から解放されていると考えておりました。

*パウロの言葉

パウロは、8章4節で「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」と語り、たとえ、多くの神々がいるように思われていたとしても、私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出て、この神へ帰っていくこと、そして唯一の主イエス・キリストがおられ、万物も、私達も、主によって存在していると宣言しています。

ですから、パウロは、この世にあるすべてのものは、天地を造られた神様によって存在し、私達も又、この神様によって存在しているので、出された肉を食べても食べなくても、それによって自分自身が汚されたり汚されなかったりするということはないと語っています。

*パウロの、菜食主義者に向き合う行動

では、信仰のゆえに食べてはいけないと考えている人達に対してパウロは、どのように向き合っていたのでしょうか。もし食事に招かれた席で、菜食主義者の人から、「それは、偶像に捧げられた肉ですよ」と親切に教えてくれた場合は、パウロは食べないと答えています。

なぜなら、もし自分が食べれば、菜食主義者の人は、自分の良心を殺して、自由に食べる人達に合わせて無理して食べることになるかもしれない。それは、結果的に、肉を食べない人達の「良心を傷つける」という罪を犯すことになる、とパウロは指摘します。

*パウロの肉食主義者に向き合う行動

その一方で、パウロは、「すべてのことが許されている」と主張している人々に対して、キリスト者であることは自由を与えられていることであると同意します。しかし、『自由』を叫ぶ彼らの「自由」が、果たして、人々の救いに役立つのか、教会を建てあげていくための、教会に仕える自由であるのか、と、その「自由」の本当の意味を問うのです。

*自由を与えられているキリスト者

私達がキリストにあって自由な者とされたことは確かです。そして、私達の自由が他人の良心によって左右されることはありません(29節)。しかし、その自由は、何でもしてよいという自由ではありません。

キリスト者はすべてのことが許されているけれども、すべてのことが益となるわけでも、自分を造り上げていくのでもなく、それをすべきかどうかは、人々の救いの為、自分の益ではなく多くの人の益を求める(33節)ことにあり「何をするにしても、すべて神の栄光を現すため」(31節)とパウロは、行為の原点に目を向けさせます。私達は聖書を通して信仰の先輩達に学び、確信をもって歩めるよう聖霊の導きを祈るものです。

11月3日・召天者記念礼拝の説教要旨

詩編23編・エフェソ書3:14-21 

        「三つの祈り」         佐藤 義子 

*はじめに

日本基督教団では、毎年11月の第一日曜日を「召天者記念礼拝」として守っています。私達の伝道所では3名の方々を覚えての記念礼拝ですが、この方々は、地上の生涯を終えるまで神様を信じて神様に従った方々です。  

私達は、先に召された方々の信仰生活を思い起こすことで時に励まされ、時に慰められ、又、時には「今いらしたら、きっとこう言われるでしょう」と教えられたりします。博子姉が後遺症で身体が不自由になり、つい不満を言いかけた直後、「『そんなことを言うなら、こちらにいらっしゃい』」と神様から言われてしまうわね」と良く言っていました。又、「私達(クリスチャン)は良いことが起こった時、神様に感謝するけれども、神様を知らない人は「運が良かった」と言って、時には威張ったりするのね。神様を信じているからこそ、私達は感謝できるのね」などの言葉を思い出します。 

平野兄で思い出されるのは、最後の日々を非常に穏やかに過ごされていたことです。ああして欲しい、こうして欲しいなどの不満は一切聞いたことはありません。訪問時、待降節の季節でしたのでクリスマスの讃美歌をたくさん、(おそらくご一緒に)歌った楽しいひと時が思い出されます。

石川兄はガンとの闘病生活を送られて63年の生涯でしたが、克明に闘病日記を記され、信仰のことや聖書の御言葉なども残され、看護婦さんにも伝道されていかれました。石川兄の記念礼拝には看護婦さんも福島から出席して下さり、以来「こころの友」を郵送しています。

神様を信じる者は、神の国の民とされて永遠の命をいただいていますので、肉体の死は天の国への入り口に過ぎません。終末の時、神様を信じる者達は、聖書で約束されているように「復活体」という霊の体が与えられます。そして「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~)。

*異邦人

本日の聖書は、パウロが獄中から、異邦人教会に宛てて書いた手紙です。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)は、それ迄、天地創造主のまことの神様を知らず、「律法」もなく生きてきた人達です。けれども神様の大きな愛はユダヤ人だけでなく信じる者すべての人を神の子とするために御子イエス様を遣わしてくださり、十字架で流された血によって、それまでの罪があがなわれ(赦され)、「神の家族」とされたことが、この手紙で語られています。私達日本人も異邦人ですが、「イエス・キリストを信じる」信仰により神の子とされました。これは大きな神様の恵みです。クリスチャンになった(とされた)私達は、神の国の民として新しく生まれ、新しい命が与えられました。新しく生れた者は、乳児から離乳食へ、そして固い物も食べられるように成長していきます。

*とりなしの三つの祈り

今朝の聖書箇所には、パウロが神様にささげた、「新しく生れたクリスチャン」達に対して「とりなしの祈り」が祈られている箇所です。

祈りの一つは、「あなたがたの内なる人を強めて下さるように」です。この祈りにつけ加えられて、「信仰によって心の内にキリストを住まわせ」「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」と祈られます。二つ目に、「キリストの愛を理解し、キリストの愛を知るようになるように」。です。三つめに「神様の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」との祈りです。

*強めて下さい

新しく生まれたクリスチャンが、神様の霊により、力をもって、「内なる人を強め」てくださるようにとの祈りですが、別の訳では「あなたがたのうちに与えられた新しい命を強くして下さるように」と訳しています。そして「キリストが心の内に住んで下さるように」とは、心の状態を、イエス様をお迎えして住んでいただける部屋に整えること、それには心を荒立てたり、怒りや憎しみの感情などは、外に吐き出しておかねばならないでしょう。

この箇所を、「イエス様があなた方の心に住み、喜んでそこに住み続けて下さいますように」と訳している聖書もあります。続いて「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」とあります。イエス様が心の内に住んで下さるならば、私達は、神様の愛という土壌の中に深く根を張ることが出来、そのしっかりした愛の土台に立ち続けて成長していけるのです。私達は、神の国の民として新しい命が与えられた(クリスチャンとされた)ことにとどまるのではなくて、成長していく道(=強くされていく道)が大きく開かれています。

*キリストの愛を理解し、キリストを知る道

パウロが捧げた二つ目の祈りは、神の子とされた者は、「キリストの愛を理解」するように、「キリストを知るようになる」ことを祈っています。パウロは、信仰の成長の為には、このことが不可欠であると考えているのです。神様の愛、キリストの愛は、広さ、長さ、高さ、深さでも、測ることが出来ない無限大であるゆえに、言葉で説明することは不可能です。

しかし私達は福音書を通して、その愛の一端に触れることが出来ます。

*イエス様の愛に触れる

たとえば姦淫の現場を捕えた女性を、律法により石打ちの刑で裁こうとしていた群衆に対して、イエス様はただひとこと「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8:7)と、持っていた石を手離させ、ご自身もこの女性を罪に定めず、「これからはもう罪を犯してはならない。行きなさい」と女性をその場から去らせたイエス様の愛を思い起こします。ザアカイもイエス様の愛に触れた人でした。人々から「罪人」呼ばわりされ嫌われて、お金はあっても孤独であったザアカイに対して、イエス様から声をかけ、彼の家の泊り客となられました(ルカ19:5)。又、イエス様が自ら、私達を羊に譬えて、迷子になった、たった一匹の羊の為に、ほかの99匹を置いてでも見つかるまで探し続ける羊飼いであることを語られています(ルカ19:4)。又、善きサマリア人は犬猿の仲であったユダヤ人が強盗に遭い半死の状態で倒れていたのを見つけて、その人の傷の手当だけでなく宿に連れて介抱し、宿の主人に、治るまで宿において欲しいと宿賃を渡し、足りない時は、仕事帰りに払うと言いました(同10:25)。最後まで見捨てることのないこの愛こそイエス様の愛です。

さらに、地上で最後の十字架で息を引き取られる時、イエス様を死へと追いやった宗教指導者や群衆、総督ピラトはじめ多くの兵士達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、神様に執り成しの祈りを捧げられました。

パウロが手紙で、キリストの無限の愛の大きさを理解するように、そして、人間の知識をはるかに超えたこの愛を知るようにと祈った祈りは、信仰による新しい命が強くされていくこと、心の内にキリストに住んでいただくこと、神様の愛という土壌の中に深く根を張り、愛にしっかりと立つ者になることと、すべてがつながっています。

*「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

この祈りは、愛と恵みと力で満ちている父なる神様のもとへ、イエス様の愛が私達を導いて下さり、私達も又、神さまの豊かさで満たされますようにとの祈りです。

ある注解者は「もし、この祈りを教会が祈り、教会が神様から、この祈りの答を受けるならば、教会は神様の賜物によって満たされ、完成される」と言っています。具体的には、神の義が私達に与えられ、神の愛が私達に注ぎ込まれ、神の栄光が私達を照らし、神の平和が私達の心の中に住むようになる」と説明しています。

*私達の祈り

私達の日ごとの祈りは、置かれた立場にあって祈る課題もさまざまです。しかし日ごとの祈りは、私達の信仰を形づくり信仰の成長をも導いてくれます。私達は、パウロの執り成しの祈りを通して、先ず神様に何を祈り求めていくべきかを教えられます。内なる人が強められ、どんなことにも動揺せず、心にイエス様に住んでいただき、愛に深く根を張り、イエス様の愛の大きさを理解し、人知を越えたこの愛を深く知り、神様の満ち溢れる豊かさで満たされていくように共に祈っていきましょう。

行事案内

★予告

◎11月24日(日) 礼拝後 クリスマスリース作り

◎12月22日(日)クリスマス礼拝・愛餐会

◎12月24日(火)子どもクリスマス  16時~

        クリスマス讃美夕拝 18時~

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、
  ご了承ください。1階礼拝堂中央左側扉を開けて出入り下さい。
★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。
☆ 982-0814 仙台市太白区山田字船渡前17-4 (022)243-6710
  教会の地図/e-mailは、下記リンクをクリックしてご覧下さい。
  http://sendaiminami.net/?cat=2

イザヤ書

月曜日 1:1~ 39:8   第1イザヤ書 

  • イザヤ書預言への導入1章
  • ユダとエルサレムについての託宣2-12章

火曜日  

・ 諸国民についての託宣13-23章

  • イザヤの黙示録24-27章

水曜日   

・ ユダについての託宣28-33章

  • 来たるべき審判と救済34-35章
  • イザヤとヒゼキヤについての物語36-39章

木曜日 40:1~55:13  第2イザヤ書

金曜日 56:1~66:24 第3イザヤ書

【イザヤ書について】

イザヤ書は旧約聖書にある15の預言書(3大預言書と12小預言書)の冒頭に置かれ、ヘブライ語聖書においても、預言書の後半(後の預言者)の中の最初の書物です。

イザヤ書は大きく3つの部分に分けられるという考え方が、多くの学者達の見解です。1-39章は前8世紀の預言者イザヤの言葉を基本とした書物(第1イザヤ書)、40-55章は、前6世紀後半の無名の預言者の言葉を中心とした書物(第2イザヤ書)、56-66章は、バビロン捕囚後のエルサレムで活動した通常第3イザヤと呼ばれる預言者の言葉を含んだ書物(第3イザヤ書)と考えられてきました。

【第1イザヤ書の背景】

イザヤ書の冒頭1:1「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」とあるように、紀元前8世紀後半に活動したイザヤ(主は救い)という人物の幻であるとされている。またイザヤの召命記事(6章)によって、イザヤの預言活動は紀元前736年頃に始まったと考えられ、ヒゼキヤ王の在位年を前728-700年とすると、イザヤの預言活動はほぼ40年にも及んだ。この間、北イスラエル、南ユダ、そしてパレスチナ地方には次のような出来事があった。

733-732 シリア・エフライム戦争

722   サマリア陥落(北イスラエル滅亡)

713-711 アシュドトを中心とするアッシリアへの反乱(ユダ参加)

704   ユダ(ヒゼキヤ)、アッシリアへの反乱を主導

701   アッシリアによるエルサレム包囲

 ヒゼキヤ、アッシリアに降伏

【第2イザヤ書の背景】

紀元前587年、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされ、その指導者の多くはバビロニアの首都バビロンの郊外に捕え移された。その状態は前538年、新興ペルシアの王キュロスによって解放されるまで、約半世紀間続いた(バビロン捕囚)。第2イザヤはその捕囚末期に活動し始め、解放の時が近いことを告げ知らせ、捕囚の民がエルサレムを中心とする祖国に帰還することを強く促したのである。

第2イザヤ書は大きく二つの部分に分けられ、40-48章が解放以前の状況が背景であり、49-55章は解放後の状況が背景となっている。バビロン捕囚からの解放は「新しい出エジプト」として語られ、それが第2イザヤの使信の中核となっている。

【第3イザヤ書の背景】

第3イザヤ書は、第3イザヤと呼ばれる預言者一人の言葉に由来するものではなく、バビロン捕囚の終結からエルサレムへの帰還(前538年)、神殿再建(前515年)、エズラ・ネヘミヤによるユダヤ教団の形成(前5世紀半ば)に至る期間を背景に、様々な立場から語られた言葉の集成であると考えられている。しかし、その中心的使信は、捕囚後の混乱状況に苦しむ人々への希望の言葉であるとも言える。

(『旧約聖書略解』第1イザヤ、第2イザヤ、第3イザヤ参照。)

10月13日・神学校日・伝道献身者奨励日の説教要旨

エレミヤ書31:1-9・ヨハネ福音書11:38-44

 「神の逆接」      日高貴士耶(きしや)神学生

*はじめに

 エレミヤ書ではイスラエルの歴史の中で、最も痛みの深い時代に向けて語られた預言者の言葉が連なっています。エレミヤ書は、しばしば悲しみの書物であるように思われています。ダビデ王以来引き継がれてきたユダ王国の終わりの姿をまざまざと描きだしています。巨大な国家バビロニアが攻めてきて、その大きな暴力の中で国が滅んでいく、そのような時代に向けて、神の言葉を説き続けたのがエレミヤです。

この悲しみの歌を収めた哀歌は、しばしばエレミヤによって書かれたものであると理解されてきました。そのために私たちの聖書では、エレミヤ書のすぐ隣に哀歌が収められているのです。エレミヤ書の中にも、悲しみと痛みが渦巻いているところがあるからでしょう。

その悲しみのただ中に、エレミヤ書31章が刻み込まれています。この悲しみも、悲惨も、痛みにも、確かに神の言葉が届くということを宣言しているのかのようです。 「おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」(注*4節)悲しみの歴史が進み行くエレミヤ書のただ中で、希望の言葉が語り始められるのです。  (注*聖書協会訳)

*「その時には」(1節)

 新しい時代が来ることが、神様の言葉の中で、脈打つように宣言されています。 「その時には」。 あらゆるものが転換する時のことが語られるのです。エレミヤの目の前で繰り広げられる悲しみと苦しみの時代、果てしのない罪の時代は「その時」、神様の力によって転換されて行く。

私たちは一歩また一歩と神の民の歩みをここで進めながら、その時を待ち続けているのです。

クリスチャンでいることの幸せのひとつは、自分の人生をわたしの人生の中で全て実現する必要がないことです。多くの人が、この世界の中で、自分の人生を実現しようとして必死になっています。

人よりも良い生活をして長生きすることだけが、まるで人生の価値を決めることであるかのようです。

しかし、ここでは、教会では別の生き方が大切にされてきたのです。それは、私たちの人生の終わりを見据えながら生きるような生き方ではなく、ただ神様がわたしたちに教えてくださった「その時」が来るのを待ち続ける生き方なのです。その時、私たちは全てが神様の慈しみの中にあったことを見出すでしょう。その時、私たちは神様と顔と顔とを合わせるようにして、礼拝をしていることでしょう。その時、まことの慰めが私たちを包み込むでしょう。そしてその確かな希望の中で、またこの日の歩みを、神の民の歩みを、私たちは神様を礼拝し、祈りながら進めています。

*東京神学大学

「神学校日」として、私たちは一年のこの日を、特別に伝道者たちを養成している場所のために、特別に祈る日としています。私たち 日本キリスト教団の最大の神学校はわたしのいる、そしてまた由子先生が卒業された東京神学大学です。明治以来の日本の様々な神学校が合併して行く中で、きっとそこには深い祈りもあったことでしょう。それまでの様々な教派が持っていた神学校を一つにしようとして東京神学大学を生み出したのです。日本の教会が、祈りながら受け継いできた財産が、この東京神学大学に集められてきたのです。そしてそれは一つの流れになりながら、今この時に至っているのです。そこには困難なことが幾つもあったことでしょう。今も、東京神学大学は現職の学長を病で失うという悲しみと困難の大きい状況に置かれています。学生たちも教職員たちも悲しみが深い。しかし、そうしながら、それでも私たちは私たちの祈りを受け継ぎ、信仰と学びの財産を次の世代に受け渡しながら歩んで行くのです。

一人、また一人と、ここで伝道者が生まれ、福音の言葉を携えて、日本の地に出かけていきます。私たちはこうして信仰を受け継ぎ、祈りを受け継ぎ、そうしてまた新しい福音の言葉を語る者たちを立てて、育てて行くのです。神学校はそのような私たちの祈りと行いの明白に見える形のひとつでしょう。私たちのこの小さな歩みの一つひとつには神様の言葉があるのです。

*「しかし、その時には」

私たちの歩みがその答えを見出すその時がやってくる。そう、私たちの人生はそのようなものです。喜びがどこまでも深い時にも、悲しみがどこまでも深い時にも、絶望が心を満たそうとしている時にも、神様の言葉が響きだす。 「しかし、その時には」。わたしたちの現実に働く神の力を聖書の言葉は確かに語っている。わたしたちの日々、進み続ける現実の物語に対して、「神の逆接」が勝利を収めるのです。

*神の逆接

説教題を「神の逆接」としました。礼拝の説教にしては少し変わった説教題かもしれません。しかし、まさに私たちが共に聞いたエレミヤ書の言葉は、まさに神様の逆接に満ちた箇所なのです。

逆接、それは文の間の関係性を、反対を意味するものとして提示する言葉です。わたしたちの世界の現実に対して、「しかし」という言葉が連なりながら、新しい現実が立ち現れてくるのです。

しかし、それは神の「しかし」なのです。エレミヤ書が語る言葉はそのような神の「逆接」、神の「しかし」に満ちています。エレミヤ書全体に対する逆接であるかのように、ここでは将来に待ち受ける救いと喜びの言葉が溢れ出している。神様が「しかし、その時が来る」、「あなたたちが再び立てられ、慰めを受けるその時が来る」とおっしゃる。 捕囚を前にして、ひとつの国が暴力の中に消え入れられようとしていた時に、神様はおっしゃったのです。「しかし、おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」。

*強制移住

巨大な帝国バビロニアがユダの国に侵略してきました。そこである者たちはバビロニアの国に強制移住をさせられました。自分の育った愛する土地から引き離されて、暴力的に他の国に移住させられたのです。

古代の中近東の世界では最も恐ろしい処置の一つでした。

またある者は滅びゆく国の姿を見て、逃げて行きました。その中には、かつてファラオの奴隷として暮らさなければならなかったエジプトまで逃げる者もいました。ユダヤ人たちは、この大きな帝国の力のもとに、世界中に散り散りになっていくしか方法がなかったのです。

新しい土地には幸福が待っている保証はありません。奴隷にされるかもしれません。外国人ですから、人並みの扱いをしてもらえる保証もありません。彼らは世界中に散らされていった。

*神の逆接の言葉

自分の弱さを思い知りながら、生きていかなければならない時がある。自分ではどうすることもできないほどの大きな力に押さえつけられるようにしながら 生きて行かざるを得ないと思っていた者たちの上に、神の言葉が、神の逆接の言葉が響きだしてくるのです。

「しかし」、神はイスラエルの民を再び集められる。

神の言葉は全てを転換させる力に満ち溢れているのです。

きっと皆さんの人生も、聖書の言葉の中で転換させられ、変えられてきたことでしょう。由子先生はまさに、そういう人だと思います。

聖書の言葉が、強い力をもって私たちを変えてくる。そして私たちの命をも、確かに蘇り(よみがえり)の命へと造り変えてくださった。

今日は、ラザロの蘇りの箇所も読んでいただきました。主イエスはラザロの墓の前で確かに宣言されるのです。

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)。

ラザロの姉妹マルタはその少し前に言いました。「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」。厳しい言葉です。現実と悲しみに満ちた言葉です。そこに主イエスが言われた、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」(同40節)。

神様は私たちの人生に大きな逆接の言葉を置かれるのです。 「しかし、あなたには復活の命がある。あなたには救いがある」。そして私たちは神様の逆接の中で、復活の生命をこの世界の中で生き始めているのです。

2019年10月6日・世界宣教の日の説教要旨

イザヤ60:1-2・コロサイ1:17-23 

「世界中に伝えられている福音」     佐藤 義子

*はじめに

本日は、「世界宣教の日」(日本基督教団・10月第一日曜日)です。福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス様の遺言でもあり、マタイ福音書の最後に、イエス様の語られた言葉が記されています。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 この言葉は、「大宣教命令」と呼ばれ、教会はこの言葉と共に歩みを続けていると言っても過言ではありません。教会の使命は伝道です。クリスチャンの使命も伝道です。誰に伝道するのでしょうか。聖書で語り伝えている神様もイエス様も知らない方達にです。家族、親族、友人、知人にとどまらず、神学校に導かれ牧師として、全く知らなかった地域で伝道している方々も多く、さらに、キリスト教主義の学校・病院・施設・幼稚園・保育園などで働きながら伝道している方々も多くおられます。(文書伝道・ラジオ伝道・インターネット伝道もあります)。

*世界宣教

目を国内から海外に向けて宣教師として伝道されている方々も多くおられます。私達日本人は「宣教師」という母国から海外伝道に派遣された方々によって福音を伝えられ、今や「イエス・キリスト」の名を聞いたことがないという人はいなくなり、迫害もなく、この山田の地でもこうして礼拝が捧げられていることは本当に感謝なことです。現在日本基督教団では、14ヵ国に20人の方々を派遣しており、子供も一緒の家族での派遣も、又、単身で赴任される方々もおられます。仙台南伝道所では、以前、聖書翻訳宣教師として働かれた虎川宣教師と、インディアン伝道をされているアメリカからウェイド宣教師をお迎えして説教を伺い、その内容は伝道所の「説教集」に収録されていますので、再び読まれることをお勧めします。

 *コロサイ書1章23節

本日の聖書の23節後半に、「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました」とあります。パウロが仕えた福音こそ、私達が教会で聞いて、信じて、今も、依って立つ信仰の基盤です。

 *信仰の基盤

  今日お読みした聖書の少し前の14節から、少し先の2章12節の間に、重要な言葉が五つ出てきます。①「罪の赦し」(14節)②「御子は教会の頭(かしら)」(18節)③「十字架の血」(20節)④「神との和解」(同)⑤「私達の復活」(2:12)。この5つの言葉をつなげますと、以下のような福音、私達が聞いて信じた福音の内容が明らかにされています。

*福音の内容

私達は、かつては神様から遠く離れ、闇の力の支配下に置かれており、神様から離れている(=罪)ことさえ意識していませんでした。しかし神様は私達を愛するゆえに、御子イエス様を遣わして下さり、私達が神様から離れて生きてきたそれ迄の「」を、イエス様が流された「十字架の血潮」(=罪のあがない)によって「赦し」て下さり、それによって「神様と私達との和解」がもたらされました。この福音を信じる信仰によって私達はバプテスマを授けていただき、それによって罪の中で生きてきた古い自分がイエス様と共に葬られ(死んで)、イエス様と共に「新しい自分へと復活」させていただき(=闇の支配の領域からキリストが支配される領域に移された)、「救いの恵み」が与えられました。「御子イエス様は、教会の頭(かしら)」であり、教会(=信仰告白共同体)は、イエス・キリストの体です(コロサイ書1:18節 / エフェソ書1:23)。

*正しい信仰とそうでない信仰

 パウロの時代には、違う福音理解を持ち込む危険な指導者達がいました。それゆえパウロは23節で、「揺らぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と記します。私達も聖書から、教会から、離れることなく、聞いて信じた福音に堅く立ち、伝道のために用いていただきたいと願うものです。

雅歌

  • 雅歌の通読に向けて

月曜日 1: 1        題名/1:2~ 2:7  第1の出会い

火曜日 2:8~ 3:5 第2の出会い

水曜日 3:6~ 5:1  第3の出会い

木曜日 5:2~ 6:3 第4の出会い

金曜日 6:4~ 8:4 第5の出会い/  8:5~ 8:14 結び

【雅歌について】

 雅歌のヘブライ語の書名は、 シール・ハッシーリームで、歌の中の歌=最も素晴らしい歌という意味がある。この書物は、ユダヤ教にとって最も大切な、出エジプトを記念する過越際で朗読される。

 多くのキリスト教著述家は、これをキリストと教会の愛のアレゴリー(寓意・ある概念を他の具象的な事柄によって表現すること)と見てきた。また、これをキリストと個々の信徒との関係の比喩(つまり表象や象徴)と見てきた者もある。つまり、この作品は、人間の愛をたたえる賛歌というよりも、教会や個々の信徒達へのキリストの霊的な愛を語る詩的、あるいは比喩的なやり方と解釈される。

 雅歌はいくつもの部分に分かれ、そのうち、最も目立つのは、恋人達の5つの出会いである。最も役に立つ読み方は、一つずつの出会いをひと時に読み、恋人と出会うまでの期待と期待が実現したときの喜びを十分に味わうように努めることである。恋人達の出会いと喜びと、神の家に帰る信仰者の喜びの間には、疑いもない類似がある。

(『旧約聖書略解』720頁・マクグラス、277頁参照。)

【第1の出会い】

 愛する人との最初の出会いを楽しみに待つ一人のおとめは、彼が自分を好きになってくれるかどうかなどについ心配している。冒頭の重要な主題の一つは、人間は愛が必要だということである。

【第2の出会い】

 今や二人の関係は発展しているが、おとめは不安と疑いに悩む。愛する人は彼女を見つけ、一緒に田園に出ようと彼女を誘う。彼女の恋人は高貴な人であることは示唆されているが、彼は彼女を支配するのではなく、彼女を愛する人らしく彼女に接している。

【第3の出会い】

 前回の出会いでの心配は去り、おとめは今、恋人の一途な愛を確信している。彼女が恋人との結婚の準備をしている間に、彼女自身の地位はあがり、彼の地位と富を分かち持つことになる。このイメージは新約聖書でも繰り返され、信仰者がキリストの属性を分かち持つことが描かれている(Ⅱコリント5:21)。

【第4の出会い】

 恋人達は結婚したが、自分が愛する人に対して冷たくなっているのに気付き、その冷たさを悔やむ。しかし彼は行ってしまった。彼女は再び愛する人を探しまわる夢をみて、彼への愛を再確認する。

【第5の出会い】

 おとめは自分の愛する人との関係を考え、富や豪華さではなく、最初の愛の場所に戻りたいと願う。

【結び】

 物語は、人生に意味を与える愛の重要さと、愛はいかに手をかける必要があるかを語っている。最も愛し合う関係でさえも、世話と再生が必要である。雅歌は、信仰者たちがキリストとの関係を持続させ、それを当然と思わないでいる必要性を理解させてくれる。

(マクグラス、278-279頁参照。)

コヘレトの言葉

  • コヘレトの言葉通読に向けて

月曜日 1: 1~ 3:22  神なしの人生の無意味さ

火曜日 

水曜日 4: 1~ 8:15  神なしの人生の無益さ

木曜日 

金曜日 8:15~12:14 神なしの人生の不確かさ

【コヘレトの言葉について】

 コヘレトの書は、神なしの無意味さと聖書的信仰の欠如から不可避に生じる完全な絶望と冷笑的な見方についての力強く説得力のある注解と理解するのが最も良い。これは、神なしの人間の生活の惨めさと不毛さをさまざまと描いて見せ、神を完全に明らかにすることは人間の知恵にはできないのだということを表している。

 この書は、人生の無意さを語る劇的な宣言で始まる(1:2)。これは、あらゆる種類の出来事の分析で例示される(1:3-11)。すべてのものの意味は何なのか。死は人生を終わらせ、かつて生きていた者の記憶を消してしまう。このようでは、なぜ生き続ける意味があろう。キリスト者にとっては、これらの極めて陰鬱で荒涼とした言葉はイエス・キリストにおける永遠の命への復活の希望に超越される。コヘレトの言葉は神なしの人生がどれほどにまったく希望のないものか、私たちに理解させるようにその苦悶を描き出している。

 人間の知恵が何になるのか(1:12-18)。楽しみが何になるのか(2:1-16)。何かに苦労して何になるのか(2:17-26)。すべてまったく無益である(3:1-22)。しかし、これらの言葉を読むキリスト者は、喜びと共に復活の希望と、それがもたらす目的と平安の感覚に戻るであろう。

 (マクグラス、273-274頁より。)

 コヘレトという言葉は、「召集する」という意味のヘブライ語であり、そこから「召集するもの」、「集会で語る者」の意味に解され、「伝道の書」とか「伝道者の書」という訳がなされてきた。「コヘレトの言葉」という書名は、コヘレトを固有名詞と見なしたものである。「エルサレムの王ダビデの子」というのは、ソロモンを指すと考えられるため、箴言とコヘレトと雅歌はソロモンのものとされているが、表題は象徴的なものとも考えられている。

 「箴言」は知恵と倫理の重要性を説き、「ヨブ記」は不条理の現実を問題としているが、不条理を単に運命として忍従するのではなく、その背後にある隠された神の意志を問い詰める誠実さが称えられている。そのためコヘレトの言葉に接した場合、戸惑いを感ずる読者は少なくない。しかし、コヘレトの知恵は鋭く、また人生体験に裏打ちされた深い知恵と見るべきであり、表面上の矛盾を性急に批判したり戸惑ったりするのは誤りである。 

(木田献一監修「新共同訳 旧約聖書略解」日本基督教団出版局、2001年、706頁より。)

★コーヘレトは、ギリシャ語で「教師」の意味を持ち、ルターは「伝道者・説教者(Prediger)」と訳している。

【1ペテロ1:13-21】

「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。・・・

あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは・・・きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。・・・あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

箴言

  • 箴言の通読に向けて

月曜日  1: 1~ 9:18  知恵のすすめ

火曜日 10: 1~22:16 ソロモンの箴言

水曜日 22:17~24:34 賢人の言葉

木曜日 25: 1~29:27 ソロモンの箴言(補遺)

金曜日 30: 1~31:31 アグルとレムエルの言葉、有能な妻

【箴言について】

 箴言の目的は、人生の実際的な側面に光を当て、先代に蓄積された知恵を後の世代に伝えることにある。この知恵は、しばしば、日常生活の鋭い観察に基づいている。

 箴言の本論部分(10:1-22:16)は、ソロモンが語ったとされる短い格言的な言葉の集成からなる。ここで「箴言」と訳されているヘブライ語の言葉は、それに対応する英語(proverb)などよりもずっと広い意味を持ち、「ことわざ」や「神託」(どちらも、人間の知恵の集成に神が関与していることを示唆する)を意味することもある。

 聖書の伝承では、ソロモンは際立った知恵の持ち主だった。彼が「語った」格言は3000に上るとされる(列王記上5:12)。聖書の箴言に収められた格言はその7分の1にも上る。・・・

 箴言は、厳密に遵守されるべき律法として扱われるように意図されているわけではない。具体的な状況で人がどのように振る舞えばよいか、実際的な指針をあたえる為のものである。人間関係は非常に複雑なので、それに対処するためには識別力と知恵が必要である。

(マクグラス、264頁より)

【箴言の知恵】

 「知恵」がまず意味するのは、理論的・原理的な問題に答えることができるというよりは、日常生活でやっていける、物や人とうまくやっていくことができる能力である。・・・知恵とは一言で言えば経験知なのである。経験知は、生活の諸事象を観察し、比較可能なものを整理し、法則を認識することである。・・・知恵が目指すのは、危険と損害を遠ざけ、正しく、人々に認められる、成功した人生への道を見いだすことである。

知恵は、特殊イスラエル的なものではなく、オリエントに共通なものである。・・・知恵的思考というものは、長い歴史を持つ。それは、人生の経験を形成している個々の箴言(サム上24:14、箴10:1以下、25:1以下)からヨブ記の対話やコヘレトの言葉の中の長い、神学的な反省にまで及ぶ。

知恵は王の宮廷で培われたとも考えられるが、知恵はもともと家庭の中で、その教育にあったはずである。箴言の知恵は、誰でもが語りかけられており、特定の身分の者に対してだけではない。

 箴言の知恵は、経験を伝えるというその目的のために色々な語り方を使っている。それは、①事実を述べる言葉(マーシャル・格言ないし評決)、②比喩の言葉や直喩の言葉、③数を挙げる格言、④二つの事柄を対比させ、第一の事柄を肯定的に評価し、第二の事柄を否定的に評価する直喩のひとつの独特な形態(~ではなく、○○が良い)、⑤勧めの言葉などである。

 ソロモンの箴言は、おそらくもともと別々に集められたものから成り立っていて、箴言のテーマは多様である。しかし最終的には、神への畏れ-それは同時に神への信頼である-が正しい知恵である。

(シュミット、下巻224-233頁より)

【箴言1:7】 

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」