
2026年度 定期集会ご案内


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☆キリスト教学校の皆様へ:礼拝への出席は、私服でも制服でもどちらでも大丈夫です。聖書・讃美歌は教会のものをお使いいただけます。献金の時間は、自由献金となりますので、ご準備のない時は、そのままお待ちいただければ大丈夫です。その他、心配なことがあれば、お気軽にお問い合わせ下さい。
☆教会学校は、子供讃美歌、聖書紙芝居、分級等を行っています。
住所・連絡先・地図
〒982-0814 宮城県仙台市太白区山田船渡前17-4
Tel/Fax:022-243-6710
メール:sendaiminamichurch@gmail.com
仙台南ICから仙台方面に向かって約5分/山田ICより約1分。
286号線から、すき家/コスモ/引っ越しセンター0123の交差点を、富沢・D2/ヨークベニマル方面へ。
田んぼの真ん中の一軒家向かいが仙台南伝道所。
教会敷地内・教会隣接の臨時駐車場をご利用下さい。
最寄りバス停は、竹ノ内前(宮城交通)となります。
★初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。
☆礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、
どうぞお声がけ下さい。
★ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。
前 奏
・招きの詞
・讃 美 歌
黙 祷 一週間の生活の感謝
ざんげの勧め (司会者)
ざんげの祈り 週報(裏面)
ゆるしの言葉 (司会者)
・讃 美 歌
聖 書 (旧約・新約)
祈 祷
説 教/祈 祷
・讃 美 歌
・使徒信条 週報(裏面)
献 金 548番「ささげまつる」
主の祈り 週報(裏面)
・頌 栄
・祝 祷
・後 奏
仙台南伝道所の主日礼拝説教は、原則下記を交互に行っています。
教会備え付けの聖書は、新共同訳聖書を使用中ですが、聖書協会共同訳、新改訳などもお使いいただけます。讃美歌は、56年度版、讃美歌21を中心に使用しています。
2026年度
新約聖書:ルカによる福音書 連続講解説教
使徒信条の学び
2025年度
新約聖書:ルカによる福音書 連続講解説教
旧約聖書:ダニエル書 連続講解説教
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
説教聖書箇所:ヘブライ人への手紙11章
全能と言う言葉を使う機会はあまりないかもしれませんが、「なんでもできる」というニュアンスで、「万能」「オールマイティー」「無敵」と言う表現は使うことがあるかと思います。また最近は、「神だね」とか「神ってる」というような言い回しを聴いたことがあるかもしれません。
しかしこれらの表現は、私達が何か見た事柄に対して使用する場合がほとんどです。私達は、神様を見ることができません。それゆえに、私達は信仰によって、神様にできな いことは一つもないと信じる力が必要であり、その力は、聖書の言葉を通して日々与えられます。
それは本日のカテキズムの「全能の神を信じるとはどういうことですか。」との問いの答に、「神様にできないことは一つもないと、信じることです。人の力では愛せない者にまで、神様のすべてを与えてくださるほど、神様は自由で偉大な力を持っておられます。」と記されている通りです。
本日のヘブライ書11章1節の言葉「 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 」は、多くの方々の愛唱聖句の一つです。しかし2節以下を見てみますと、「信仰」とは、私達側のことだけではなく、神様がご覧になるものであり、神様との関係に大きく関わるものであるということに気づかされます。(11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。)
①の学びでは、私達は、天地創造の神について思いを巡らせ(11:3)、また毎年のペンテコス礼拝後には、兄弟姉妹の「証し」を聴くことが恒例となっていますが、ヘブライ書11章には、神様が造られたこの世界の中で、信仰に生きた人々の証しが記されていました。長いリストになりますが、ヘブライ書の箇所と旧約聖書の箇所を確認しながら、それぞれの話を思い出してみましょう。
11:4 カインとアベル:創世記4章 信仰によって、私達は神に、正しい者であると証明される。
11:5 エノク:創世記5章21節-24節 信仰は、私達を神と共に歩ませ、神に喜ばれる者とされる力を持つ。神に近づき、神の存在を確信する時、私達は、大胆に神を求め、その求めは必ず報いられる。
11:7 ノア:創世記6-9章 信仰は、世界を罪に定める力と、義を受け継ぐ力を持つ。
11:8 アブラハム:創世記12章~
創世記12章4節:「主の言葉」に従って旅だつ。13章14節:「さあ、目を上げて」との神からの励まし。15章6節:「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」⇒「信仰の父」
11:9、11:11 イサク誕生の予告は何度も繰り返される。18章では妻のサラも登場、21章で誕生。
11:17 イサク奉献:創世記22章。イサクとリベカ:24章、ヤコブの誕生:25章19節~「二つの国民」の誕生。
聖書の話しとしては、アブラハムとイサク、イサクとヤコブという形で進んでいきますので三人が一緒に暮した様子については想い描くしかありませんが、創25:7でアブラハムの生涯は175年とありますので、単純に計算すると、約15年間、三人は共に神様の約束の地に住んだことになります。アブラハムの生涯は、信仰による歩みでした。その歩みは年を重ねてから始まったものでありましたが、その信仰の確信と力強い証しは、今も私達に大きな励ましを与えています。
11:20 イサクがヤコブとエサウのために祝福を祈った出来事は創世記27章、
11:21 ヤコブがヨセフの息子たちに祝福を祈った箇所は48章、
11:22 そして創世記は、50章において、ヨセフが最後まで、神の約束の地を信じて召されたことを告げて終わります。
私達は、創世記の出来事を通して、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であり、神様は、私達の信仰が揺らぐ時には、何度でも励まして下さる方であることを学ぶことができます。
モーセとイスラエルの信仰の歩み: 出エジプト記
11:23 モーセの両親の信仰、
11:24~ この世の名誉や富ではなく神の民として生きることを選び、神の言葉に従い、民を率いたモーセの信仰、
11:27~ 神の力、奇跡を信じる信仰、約束の地を目指した人々の信仰は失敗を繰り返しながらも、神に立ち帰り続けた歩みを伝えています。
11:30 レビ記、民数記、申命記にも、様々な信仰の話しが記されていますが、ヘブライ書では、モーセの信仰の次に記されているのが、「エリコの城壁」の話し(ヨシュア記6章/旧.346頁)です。またこの6章後半に登場するラハブについては、ヨシュア記2章での出来事が関連していました。
11:32 ギデオン、バラク、サムソン、エフタは、士師記に登場する士師ですが、バラクが4章から(旧.385頁)、ギデオンは6章から、エフタは11章から、サムソンは13章から記されています。
サムエルの誕生については、サムエル記上1章(旧.428頁)に記されています。まだイスラエルに王様がいなかった時代ですので、サムエルは士師の一人でもあり預言者の代表のような存在として解釈されることもあります。
そして王の代表として記されているのがダビデであり、サムエル記上の16章で「主は心を見る」として、ダビデに油が注がれる様子が記されています。
11章33節以降の出来事については、著者が誰を思い描いていたのかを断定することはできませんが、下記の人々ではないかとの解釈もあります。
11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、(ダビデ・ダニエル)
11:34 燃え盛る火を消し(シャドラク・メシャク・アベドネゴ:ダニ6)、剣の刃を逃れ(モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャなど)、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。(ダビデなど)
11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。(サレプタのやもめ:王上17、シュネムの女:王上4)他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。⇒復活の信仰をもって苦しんだ人々)
11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。(イザヤ、エレミヤなど)
11:37 彼らは石で打ち殺され(祭司ヨヤダの子ゼカルヤ:代下24)、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され(預言者ウリヤ:エレ26)、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、(エリヤ・エリシャなど) 11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
ヘブライ書には、預言書の他にも列王記や歴代誌の出来事が記されていました。つまり新約の時代に生きた人々は、旧約時代の何千年もの歴史をしっかりとを受け継いできたという証しでもあります。
私達は、この旧約聖書に記される圧倒的な信仰の歩みを通して、確かに、全てのものを創られ、全てを支配されておられる神に、できないことは一つもないと信じる信仰が強められるのではないかと思います。
そして今を生きる私達は、この全能の神が、その独り子であられるイエス・キリストを私達に与えて下さり、私達が再び、いつも神と共に生きることができるという驚くべき恵みの中を歩んでいます。
目に見えることのみが正しいことのように、科学や合理的説明が重要とされるこの時代に、人間の理解を超えたところにおられる「全能の神」に、できないことは一つもないということを信じて生きる信仰の歩みこそが、この世界に大きな希望と真理をもたらすことができるということを忘れずに、私達は、光の子としての歩みをなしてまいりましょう。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
説教聖書箇所:列王記上19章
私達は、この世界が神様によって造られたということを、日々の生活の中や美しい自然、人間の力を超えた出来事の中で感じることができるのではないかと思いますが、「そのすべてのものが神様のものである」ということを確信して生きることが難しい時があります。
本日は、列王記上の19章をお読みしましたが、その直前では、エリヤが主の声に従って、大胆に勇ましく敵に立ち向かい、神様の大きな奇蹟の業がなされたことが記されています。
またその前の記されている箇所においても、エリヤは、数々の神様の奇跡を体験しながら生きていた預言者であることが記されています。しかし全知全能の神に近く歩んでいたエリヤさえも、人間の圧倒的な力や自分の命の心配へと目を向けて閉ったとき、「すべてが神様のご支配のもとにある」ということを忘れてしまいました。
エリヤは、ユダのベエル・シェバ、つまり北王国から南王国の果てまで逃げましたが、どれほど遠くまで逃げたとしても、エリヤは自分の力では平安を取り戻すことはできませんでした。そして自分の命を救うために逃げたはずのエリヤは、共に歩んできた僕とも別れを告げて、今度は、神の前に、自分の命が取り去られることを願いました。
「主よ、もう、じゅうぶんです。」とエリヤは力尽き果て倒れました。しかし、「もう十分であるかどうか」は、主が知っていて下さいました。神様は、御使いを使わして、エリヤを起こして食べさせました。それでもまだ眠り続けるエリヤに、神様は再び御使いを遣わして、エリヤに試練をも乗り越えることのできる力を与えました。そして四十日四十夜、神様の時間の中で歩き続け、神の山に辿りついたエリヤは、この夜、主の言葉を聴くことができました。しかし主の言葉は、「あなたはここで何をしているのか」という問いでした。私達は、この問いを自らの人生の歩みに問いかけてみたいと思います。
「わたしは、なぜ、今、この人生の道を歩いているのか?」
「わたしは、いったい、ここで何をしているのか?」
神様は、その全てをご存じでありながら、私達自らが、その問いに答えることを望まれています。エリヤは10節で次のように語ります。「エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。』」
エリヤの人生は、神を愛し、隣人を愛する歩みでした。しかし今は、ただ一人孤独に、命を狙われるほどの試練に直面しているとエリヤは訴えました。すると主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました(19:11)。主は、エリヤの前を通り過ぎられましたが、そのどこにも、エリヤは主を見つけることができませんでした。しかし、そのすべての後に、主の静かにささやく声を聴くことができました。ささやく声でありながらも、その圧倒的な声が語ったことは、エリヤがすでに聴いていた同じ言葉でした。
「あなたはここで何をしているのか」。
同じ説明を繰り返すエリヤに、主は、逃げて来た道を引き返しなさい、元の場所へ戻りなさいと語られました。そしてその道の中に、エリヤの新しい使命が待っていることが告げられました。神のご計画はまだ続いているのだと、その大きな計画が成される為に、エリヤが成すべき業があると、そしてその使命を担う次の後継者を見いだし、神に従う民もまた備えられていること、エリヤは決して一人孤独ではなく、エリヤの人生も決して無駄ではなかったことが教えられました。
19章最後では、エリシャが選び出された場面が記されていましたが、エリシャは、エリヤの呼びかけ、神に従って生きる為に、これまでの歩みを全てを捨てて、愛する人々との別れの時をもって、神のご計画がなされるために仕える道を歩き始めました。
このエリヤやエリシャの生き方は、本日のカテキズム問19の答、「目に見えるものも、見えないものもすべてが神様によって造られ、そのすべてのものが神様のものであると信じる」生き方ではないかと思います。時に迷い、時に見失い、時に後ろを振返りながらも、「あなたはここで何をしているのか」という、主の静かな声に呼び戻されて、主の道を歩き続ける。そのような生き方の繰り返しが、私達にできる信仰の歩みであるのだと思います。目に見えないものを見ることは難しいことでもあります。しかし私達は、いつも「永遠に存続するもの」に目を向けることを忘れずにいたいと思います。
「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二4章18節)
「我は天地の造り主 全能の父なる神を信ず」と告白する私達は、
①主なる神こそが、すべてを造って下さった方であること、
②神にとって、私たちは、かけがえのない大切な宝物であること、
③神は全てを支配され、私達は安心して主の平安に憩うことができる
ことを覚えたいと思います。
私達は、大きな出来事の中で、神様を見失ったり、またその中に、神様を探そうとしてしまいますが、神様の声は、静けさの中でこそささやく声であり、私達はすでにその言葉を与えられています。
本日の新約聖書(マルコ12章1-12節)では、「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。」ことが記されていました。私達は、静かにささやく主の声を聴かなければ、何か本当に大切なことなのかを見失ってしまいます。
この世界は、父なる神様が遣わして下さった「イエス・キリスト」を捨てました。しかし、「イエス・キリスト」こそが、この世界を救うことのできる唯一の救い主です。捨てられた隅の親石、Corner Stone(コーナーストーン)がなければ、神様の御業は完成しません。私達は、今日という日に、主をしっかりと私達の人生の中心に据えて、主の声に聞きながら共に歩んでまいりましょう。



