2020年7月19日の説教要旨 ヨブ記9:2-13・マタイ福音書14:22-33

「神への信頼」     加藤秀久伝道師

*はじめに

ヨブという人物は、長い間、神様から祝福された生活をしてきました。家族が祝福され、財産も豊かに与えられていました。しかしヨブはある日突然にすべてを失い、苦しみの中で、なぜ、このような状況にあるのかが分からず、その答を見出したいと求め続けていました。ヨブはそのような葛藤の中にあっても、神様がこの天地を支配する方であることを思い起こしています。「山も、大地も、太陽も、星々も、そして海の高波さえも、神様の命令に従う」と語ります。(ヨブ記9:5-8)

しかしまた同時に、ヨブは、神様がそばを通られても気づくことがなく、過ぎゆかれても悟らない、自分の愚かさを嘆きます(同11節)。

なぜ人は、神様が計りがたいほどの大きな業をなされ、数々の不思議な業を成し遂げられていることに気づくことができないのでしょうか。

*気付けなかった弟子達

弟子達は、舟で湖の向こう岸へ向かっていました。夜になる頃、舟は岸から何キロメートルも離れていました。しかし強い向かい風だったので、彼らは、波に悩まされていました。夜明け頃、イエス様は湖の上を歩いて弟子達のところに近づいて来ました。弟子達は、イエス様が湖の上を歩いてくるのを見て、「あれは幽霊だぁ」と言っておびえてしまいます。

彼らは恐ろしさのあまり、大声で叫んでしまいました。

彼らは、イエス様は「何でも出来る本当の神の子」であることを知っていたはずですが、イエス様が湖を歩いてくる姿を見ても、人が湖を歩けるはずが無いと思い込み、イエス様に気づくことができませんでした。

イエス様は弟子達に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と、怖がっている彼らの気持を落ち着かせ、励まし、安心させて下さったのです。その時イエス様に気づくことが出来たペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。ペトロも水の上を歩いてイエス様の所へ行けるようにして欲しいと頼んだのです。イエス様は、「来なさい」と言いました。ペトロは、その言葉を信頼し、水の上に立つと、イエス様だけを見つめて、歩いて行きました。

*「主よ、助けてください」

ところがペトロは、イエス様から目をはなし、風によって大きな波が立つのを見た時、又、恐ろしくなり、イエス様を信じる心が弱ってしまいました。その瞬間、ペトロの体は、水に沈み始めました。ペトロは、大慌てで「主よ、助けてください」と叫びました。そこでイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロをつかんで助けて下さり、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。そしてイエス様がペトロを連れて、舟に上がられた、その時、風がやみました。舟にいた弟子達は みな、イエス様を礼拝して言いました「確かにあなたは神の子です」と。

*主を求める

弟子達は、イエス様の奇跡をたくさん見て、イエス様が何でも出来るお方だということをよく知っていたはずです。この日もイエス様の奇跡を見たばかりでした(14:13~参照)。そのイエス様が、弟子達の舟がうまく前へ進むことが出来ないのを見て心配して近づいて来て下さったのに、弟子達は「幽霊だ」といって怖がり、ペトロも、始めはイエス様の力を信頼していましたが、波を見て怖くなってしまったのです。

私達の心もガリラヤ湖の湖のように、波のない、穏やかな時もあれば、荒れ狂う波が立ち、どうすることも出来ない感情の時があると思います。その私達の心に、平安、落ち着き、安らぎを下さるのは、神の子であるイエス様のほかに誰もいません。

私達がイエス様に対する信仰が弱いと感じる時こそ、「主よ、助けてください」と叫ぼうではありませんか。弟子のペトロでさえ、信仰が弱く、溺れかけました。しかしイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロを助けて下さいました。 イエス様は、信仰の弱い私達を助けて下さる 優しいお方です。イエス様は、私達が困っている時、そのことを一緒に悩み、悲しみ、側にいて、私たちを助けたいと願っているお方です。

2020年7月5日の説教要旨 出エジプト記16:6-12・マタイ福音書14:13-21

「人々を満たす神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

今日の旧約聖書にはイスラエルの民がエジプトを出て一ヶ月が過ぎた頃、荒野に入ると人々はモーセとアロンに向かって不満を言い出したことが記されています。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなた達は・・・この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)。 神様は人々の不平を聞き、『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。』とモーセに約束されました。その通りに毎日夕方になると、うずらが飛んできて人々はそれを捕まえて肉を食べ、朝になると宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると荒野の地表の上に薄くて壊れやすい物が大地の霜のように薄く残っていました。これが神様が与えられたパンであり(13-14節)、人々はそれを「マナ」と名付けました(30節)。7日目は安息日のため6日目に2日分の量を集めることが出来、人々はこのことを通して神様のことを知るようになりました。

*荒れ野

今日の新約聖書には、洗礼者ヨハネが亡くなったことを聞いたイエス様が(マタイ14:1~)が、「舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」とあります。イエス様は、洗礼者ヨハネの身に起ったことの意味を思いながら神様に問いかけ、祈りを捧げたことと思います。「人里離れた所」は、元の言葉では「荒野」という意味があります。荒野は人が生活するには難しく飢えや渇きを覚え、生存していく保障のない場所でもありますから自ら荒野に入ることは珍しいことであったでしょう。更に、荒野は私達にとってみれば夢も希望もなく、ただ絶望的な場所に思えます。その荒野(人里離れた所)にイエス様が行かれたとを聞いた群衆は、方々の町から歩いて後を追いました。イエス様は、お一人で祈る時間をさえぎられたにもかかわらず、群衆を見て深く憐れみ、彼らの病気を癒されました。イエス様はいつも必要とされている人達に手を差し伸べ 寄り添いました。

*「それをここに持って来なさい」

夕暮れになり弟子達がイエス様に人々を解散させて欲しいと言いますと、イエス様は「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。しかし弟子達はパン五つと魚二匹しかないことを告げますと、イエス様は「それをここに持って来なさい」と言われて、群衆に草の上に座るようにお命じになり、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達にお渡しになりました。弟子達がそのパンを群衆に与えますと、「すべての人が食べて満腹し」(14:20)、残ったパンの屑は十二の籠一杯になりました。

*天を仰いで祈りをささげ、食べることができる

これは言い換えると、私達が聖書の言葉を読むと同時に、聖書のみことばを食べること・・まさに、こうして集まって神様のみことば、聖書の話を聞いて、霊によって満たされる(満腹)を意味しています。

イエス様が荒野の誘惑の中で語られた申命記8:3『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』が私達に意味ある言葉として、心の内に生きるエネルギー、活力として宿っていくのだと思います。

*わたしたち

では私達は神様からの食べ物、聖書の言葉を食べているでしょうか?

 みことばをお腹いっぱい食べているでしょうか? 又、聖霊の助けを待ち望み、心を燃やして日々の生活をしているでしょうか?

イエス様は、イエス様を方々の町から歩いて後を追いかけて来る人達に与えたように、「生きた神のことば」を私達にも与えたいと願っておられます。 復活されたイエス様が、エマオに向かう二人の弟子に現れて(ルカ福音書24章)、イエス様から聖書の説明を聞いている間、彼らの心が燃えていた時(24:32)のように、心の中から、わき上がる喜びや熱い思いを、神様は私達にも持って欲しいと願われておられます。この思いに応えて、今週一週間、聖書のみ言葉を読み、祈り、共に歩んで参りましょう。

集会案内

主日礼拝 毎週日曜日

前10時半(短縮礼拝プログラム)

教会学校礼拝 第2~第4日曜日 

午前9時半~10時頃

祈祷会

第1・3・5水曜日  午後6時

第2・4水曜日 午後3時

聖書研究会 第2・第4水曜日

午後3時半頃~4時頃

いずみ会(学びと交わり)

第2水曜日 午前10時半

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、ご了承ください。1階礼拝堂中央左側扉を開けて出入り下さい。
★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。
☆ 982-0814 仙台市太白区山田字船渡前17-4 (022)243-6710
教会の地図/e-mailは、下記リンクをクリックしてご覧下さい。
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2020年6月28日の説教要旨   エズラ記 7:25-26・マルコ福音書6:1-6a

「まことの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 律法学者であり祭司であるエズラは、神様に全き信頼をおいた人物です。

紀元前458年頃、エズラは、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民と共にエルサレムで、再び神の律法の書(トーラー)を拠(よ)り所とした新しい信仰共同体を形成するために貢献しました。

*バビロン捕囚

神様がイスラエルの人達を「捕囚民」とすることを許した理由は、彼らがまことの神を忘れ、異教の神を彼らの神としていたからです。もし彼らが捕囚の地バビロンへ行かなかったならば、「本当の神とは誰か」を思い起こすことが出来なかったのでしょう。神様は、イスラエルの民が、再び心を尽くして真の神様を捜し求め、神様を知ることで彼らの信仰が立ち直ることを願われたのです。 

神様は、「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。わたしは捕囚の民を帰らせる。

(エレミヤ書29:12-14)と約束されました。イスラエルの民はバビロンにおいて苦しみ、嘆き、自分達のしてきた数々の罪を悔い改め、神様と神様の言葉(律法の書)を求めるようになりました。「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩篇1:2)になったのです。神様から離れてしまった民は再び神様に従う民へと変えられて、神様の約束は実現したのです。

*エズラ

エズラ記7:6に「主の御手が彼の上にあった」、7:9に「神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」とあり、28節に「わたしの神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私と一緒に上るイスラエル人のかしらを集めることができた」とあります。エズラには絶えず主が共におられたことが分かります。エズラは神様の律法を調べ、この律法をイスラエルの民に実行させるためには教育的事業が必要であり,神様はその為に必要な人材をも備えて下さったのです。エズラの歩みを通して,すべてが「神様の時に、神様の方法」でなされていくのを知ることができます。

*故郷でのイエス様 

本日の新約聖書は「イエスはそこを去って故郷にお帰りになった」と始まるので「そこ」とは、前の、神様の業がなされた場所(出血の止まらない女性の癒しと、会堂長の娘を甦らせた奇蹟)を指し、神様の偉大な力が示された場所です。イエス様は安息日に、故郷で会堂に入り、教え始められました。会堂に集まった多くの人々は話を聞き、「この人はこのようなことをどこから得たのか、この人に与えられた知恵や、手で行われる力あるわざは、一体何か」と驚きました。けれども人々は、イエス様を「この人」と呼び、イエス様を「神の子」として信じることが出来ない様子が伺えます。特にイエス様が大工の息子で兄弟や姉妹がいることも知っていたので、同じ人間としてしか見ることが出来ませんでした。イエス様が自分達の上に立つ事に納得がいかなかったのかもしれません。

*わたしたち

私達がイエス様を、どのようなお方として向き合うのかということはとても大事なことです。主を待ち望みつつ向き合う時には御言葉に触れ、讃美し、祈る時、心の中から大きな感動がわき起こり、押さえようもない喜びで一杯になります。しかし自分の考えや経験、知識だけによって聖書を読むならば、神中心の生活は退屈っぽく、正当性を求めるだけのつまらないものになってしまいます。世の中すべてのものが自分の努力次第で手に入れられるように思えてきます。かたくなな心のままでは主に出会うことができません。 イエス様は、私達の生活のあらゆる面で今も生きて働いておられるお方です。周りの人々、周りで起こる出来事や世の変わり方を、御言葉を通して見ていく時、生きて働いておられる世の救い主としての主イエス・キリストに出会うことが出来ます。私達は、主が働いていて下さる礼拝で、さらにイエス様の声に耳を傾け、神様の愛を溢れるほど受けて、聖霊による豊かな喜びで満たされるよう、共に祈り求めていきましょう

2020年6月14日の説教要旨  イザヤ書 65:1-7・マルコ福音書 5:1-20

「罪からの解放」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

イエス様は、向こう岸に渡る途中、湖の荒れ狂う嵐を弟子達の前で静め、向こう岸に着く前に、信仰を持って心を整え、準備しなさいと弟子達を励まされました。向こう岸のゲラサ人の地方は異邦人が住む悪のはびこる町(世俗の生活)ともいえる場所でした。イエス様が舟から上がられると直ぐに、汚れた霊に取りつかれた人がイエス様の行く手をふさぎました。彼は墓場を住まいとし、昼夜関係なく墓場や山で奇声を上げ、自分の身体を石で傷つけ、あまりに凶暴さに足枷や鎖でつながれましたが、その度に、鎖を引きちぎり足枷も砕くので彼を縛っておくことは出来ませんでした。

*汚れた霊

汚れた霊は、人の心と身体、考え方など隅から隅まで入り込んで、彼を操っていました。現代の私達の社会でも、汚れた霊が人々の心の中に住み着き、その人の人格が変わってしまうということは起こり得ることです。汚れた霊はいつも誘惑する機会を探し、人々を滅ぼし殺そうとしている悪魔・サタンそのものです。 私達は神様から一人一人愛されている存在なのに「あなたは価値がない、この世にいなくても良い存在」と、否定的な声をかけてくるのはサタン・汚れた霊の仕業です。

*「汚れた霊、この人から出て行け」

イエス様が、このように言われると、汚れた霊は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。(6節・マルコ1:24 参照)」と、大声で叫びました。

汚れた霊は、イエス様を神の子であると見抜き、走り寄り、ひれ伏し、自らを守ろうとして「かまわないでくれ。苦しめないでほしい」と、懇願したのです。目に見えない霊の世界・闇の世界に住む者達が、この時すでにイエス様が神の子である、と知っていたとは大変驚くべきことではないでしょうか。汚れた霊は、自分達をこの地方から追い出さないでほしい。豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願いました。イエス様がお許しになったので、汚れた霊は取り憑いていた人から出て豚に入りました。

二千匹ほどの豚の群れは崖を下り、湖になだれ込み、おぼれ死にました。汚れた霊が、どのような力を使って他の者の言動をおさえつけたとしても、神様は、悪魔の行動を押さえつけ、代わりにご自分の栄光のために良い方向へと導いて下さることを、この出来事は証明したのでした。

*ゲラサ人の地方の人々

豚飼い達は逃げ出して町や村でこの出来事を話し、聞いた人達はやって来て、悪霊に取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て恐ろしくなり、イエス様にその地方から出て行ってもらいたいと言いだしました。人々は、悪霊に取りつかれた人が主イエスとの出会いによって大きく変えられたということよりも、彼らの財産である豚が犠牲になったという被害に目を向けてしまったのです。

*汚れた霊と、わたしたち

現代の私達の生活と照らし合わせると、汚れた霊に取り憑かれた人は、気持が落ち込み、疲れ切って考える能力が弱くなっている時に、悪魔のささやきに耳を傾け、悪魔に心を開き、悪魔を受け入れてしまったそのような一人かもしれません。私達は社会にいて汚れに満ちた所にふと足を踏み入れていないでしょうか。悪魔の「大丈夫だよ、こっちにおいで」とのささやきに、引きずり込まれていないでしょうか。しかしイエス様は、罪から、暗闇から勝利されたお方であり、私達はそのお方のしもべなのです。たとえ自分がどうしようもなく弱い人間だ、だめな人間だとつぶやいたとしても、イエス様は決して見捨てることなく私達に行くべき道に光を与え、「わたしのもとに来なさい、わたしがあなたを癒してあげよう、わたしがあなたをゆるしますよ、」と言って下さっています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(新改訳 : コリント5:17)とあるように、私達がキリストの内にあるなら、すべてが新しくなります。今、神様の内に心を委ね、神様の臨在されるこの礼拝の中に、私達自身の身を横たえて、心を明け渡すのなら、私達は新しい者へと変えられるのです。今週も信じて祈り求めて歩んで参りましょう。

2020年6月7日の説教要旨 詩編 89:6-15・マルコ福音書 4:35-41

「主イエスを信じて進め」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとっての奇跡とは、どういうものですか。

今日の箇所から5章の終りまでは奇跡について書いてあります。

本日はその最初の奇跡の出来事を共に聞きましょう。

*「向こう岸」

この日、イエス様はガリラヤ湖のほとりで教えていました(4:1)。夕方になってイエス様は弟子達に、「向こう岸に渡ろう」と言われました。

5章1節には「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とありますので、「向こう岸」とは異邦人が住んでいる所でした。又、この地方の人々は豚を飼っていました(同:11節)。豚は、ユダヤ人から見れば、汚れたものとされていました。ですから、イエス様が示した「向こう岸」は、汚れた土地・場所を指していると言えます。

*「その日の夕方」

イエス様は御言葉を語ることが連日続き、疲れがたまっていたのでしょう。そのため夕方になってイエス様は、あまりの疲れからか群衆を避けて、弟子達に「向こう岸に渡ろう」と告げたと思います。ガリラヤ湖は、海抜マイナス213mの地点にあり、昼間強烈な直射日光を受け、湖面の水温が24度位まで上昇します。ところが夕方になると、東側の上空の空気が急に冷えて、それが絶壁の切れ目から突風となり、湖面に吹き付けてくる特徴を持っていました。突然荒れ狂うガラリヤ湖のことは、元漁師のペトロも知っており、夕方、沖へ出す危険も承知の上で舟を出したのでした。

*「イエスは、・・眠っておられた」

ペトロにとって、イエス様のお言葉は絶対的で、向こう岸に渡ることは何か意味があり、同時に、無事に岸に着くことも信じて安心していたと思います。一方イエス様は、お疲れになって『(とも)の方で枕をして眠っておられた』(38節)とあります。そんな中、突然の突風が起きました。

まるで私達が「近い内に地震が来るよ」と聞いているものの、まだ大丈夫と、安心仕切っている時に、突然、大地震に襲われるような状況だと想像できます。突然の激しい突風により弟子達はすぐさま反応して舟の舵を取ったことでしょう。しかし舟の揺れが激しくなり、波は高くなり、辺りの光景は凄まじさを増していきました。どうにもならないと判断した弟子達は、イエス様を起こして助けを求めたのでした。

*「清い生活の場所」から「世俗の場所」へ

「向こう岸」には汚れた町が待っていました。仮に弟子達の舟が「清い生活をする場所」としたら「向こう岸」は悪のはびこる町「世俗の生活の場所」と言ってもいいでしょう。だからこそイエス様は人々にたとえ話や、病の人を癒すことを弟子達に見せて、弟子達が信仰をしっかりと持つように教えられたのだと思います。

波が穏やかな時は、弟子達の心は平安に包まれ、ゆっくりのんびりした気持で、奇跡やたとえ話を思い起こしていたでしょう。しかし突風で、舟が波に飲まれそうになった時、弟子達はパニックに陥りました。それは丁度、私達の信仰生活にも照らし合わせることができると思います。不安な出来事や問題が起きた時、我を忘れて冷静な判断が出来なくなり、周りが見えなくなり、その問題だけに気が向いてしまう。そのような動揺した感情に、イエス様は「黙れ、静まれ」と言ったと思います。

黙れ」は、「ものを言うことをやめる、無言になる、自分の意見を主張しない」意味があります。イエス様は弟子達の感情を乱す原因になった嵐に対して「黙れ、静まれ」と命令することで、穏やかな湖に戻し、弟子達の心にも落ち着きを与えることができたと思います。

嵐を静めた後、イエス様は弟子達に「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」、他の福音書では、「信仰の薄い者たちよ(マタイ8:26)」「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25」と言われています。どれもイエス様は弟子達に、信仰の弱さ、足りなさを指摘し、「しっかり信仰を持ちなさい」と励ましていると思います。 私達も、嵐のような忙しい毎日の生活の中でイエス様の力強い助けがあることを信じ、祈り求めて一週間の歩みを進めて行きたいと思います。

2020年5月31日・ペンテコステの説教要旨

エゼキエル書 36:25-28・ヨハネ福音書 14:15-26

        「現臨する神様を伝える『真理の霊』」   佐藤 義子牧師

*はじめに

 今日は、ペンテコステの記念の礼拝です。社会ではクリスマスとイースターに比べてペンテコステはほとんど知られていません。ペンテコステはギリシャ語であり、日本語で「聖霊降臨日」と呼んでいた方が、もう少し広まったようにも思われます。しかし「聖霊降臨日」と聞いても、日常的な用語ではないことに加えて、イエス様は聖霊について次のように語られました。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(17節)

*「世は・・・受け入れることができない。」

2000年以上も前に、イエス様が聖霊降臨の予告をされた時に、「この世では、真理の霊(聖霊)を見ようとも知ろうともしないので受け入れることが出来ない。」と、すでに言われていたことに注目したいと思います。

 私達は、この世・この世界で、<限られた時間と空間>の世界を生きています。それゆえ多くの人達は、<時間と空間の世界を突き抜けて>天から聖霊が降るという出来事は日常を越えており、関心を持たずに受け入れられない、ということでありましょう。人は何かを見たい、知りたいと思えば、それを実現する為の道を考え実行します。けれども見ようとも知ろうとも思わなければ、どんなにそのものに価値があっても、それに触れることはなく、見ても、聞いても、ただ素通りで終ってしまうことでしょう。

*「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」

「あなたがた」とは、イエス様とまもなく地上の別れを迎える弟子達であり、そして今は、弟子達の信仰を継承している教会の私達クリスチャンのことです。そうです!私達クリスチャンは、世に属さず、聖霊を知っているのです。その証拠に、以下のみ言葉(コリント書12:3)があります。

聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです。

バプテスマを受けたすべての方々は、イエス様を「神の御子・救い主」と信じて信仰の告白をしました。この信仰は自分の力で信じたように思われがちですが、そうではなく、聖霊によって確信が与えられ、告白に導かれたことを、聖書は私達に教えています。

*「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)

 イエス様が地上を去られた後、弟子達は、罪のないイエス様を罪ある者として殺してしまう、この世の勢力に、押しつぶされてしまうのではないでしょうか。実際、復活のイエス様が弟子達の所に来られた時も、弟子達はこの世の権力を恐れて戸には鍵をかけていました。イエス様は弟子達の弱さをご存じでした。それでもなお、この地上に神の国を打ち立てていくためには、イエス様が地上を去った後もこれまで通り、神の国の福音は宣べ伝え続けられていかなければならず、この世の終りが来る迄に、一人でも多くの人達が救われることが神様の御心・御計画であるゆえに、弟子達には(そして勿論私達にも)「助け手」が必要でした。

*「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

「弁護者」と訳された原語には以下の意味があります。「助ける為にそばへ呼び寄せられた者、支持、弁護する為にそばに呼ばれて来ている者、肩を持ってくれる人、被告の友人で彼の性質について弁明し、同情を持って味方してくれる人、助け主‥等」。(後見人(後ろだて)」と訳す注解書もある。)イエス様は、「弁護者、すなわち聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)「この方は真理の霊である」(16節)とも言われました。

*私達の伝道

「聖霊・真理の霊」は、私達の心の内に真理を浸透させて下さいます。私達が真理の霊によって呼び起こされる時、私達の心に「真理」が支配し、それにより私達は罪や堕落から守られます。私達クリスチャンが、与えられた場所で、イエス様の教えを思い起こしつつ日々を歩む中で、その生き方から、何か「世」とは違うと感じられ、「それを知りたい」と、教会に導かれる方がおられたら、それは、共に働く聖霊のみ業です。

2020年5月24日の説教要旨 詩編103:1-5 マルコ福音書2:1-12

「主によって自由になる」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の聖書は、直前の、重い皮膚病の人の癒しから幾日かが過ぎて、イエス様が再びカファルナウムを訪れた時のことです。イエス様が、再び村にやって来たことが人々の間で広まり、数日前になされた癒しを見聞きした人々がこの癒しを求め、又、権威ある教えや話を聞くために、その家に集まって来ました。その家は戸口の辺りまで、隙間のないほどに大勢の人々が集まり、人々の中には奇跡を期待する人達や、直接話を聞きたい人達、又、イエス様の話に感動している人達など、その場はいろいろな思いで一杯だったに違いありません。

*4人の男と、中風の人

そのようなところに、4人の男が中風の人を運んできました。イエス様の所に近づこうとしましたが、群衆にはばまれて近づくことが出来ません。しかし4人の男達はあきらめたくありませんでした。なぜならイエス様なら、この人をきっと助けて下さる、イエス様は必ず何とかして下さると信じていたからです。彼らは、イエス様がおられるあたりの屋根をはがして屋根の上から中に入ろうとしました。当時の家屋の屋根は、おそらく横梁の上に角材を並べて、その上に木の枝や柴を編み、粘土で塗り固めた平屋根と思われますので、屋根をはがそうと思えば簡単にできたと考えられます。そこで4人の男達は屋根に上りイエス様がおられるあたりの屋根をはがし、病人の寝ている床をイエス様の所へ、つり下ろしました。

*「子よ、あなたの罪は赦される」

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。なぜ、「あなたの罪は赦される」と中風の人に言ったのでしょうか。この言葉を聞いた全ての人達は、イエス様の言われた言葉に戸惑いを感じたのではないでしょうか。人々は、イエス様の癒しの業を期待していたはずです。しかしイエス様は、人々の期待を裏切る形で、「罪の赦しの宣言」を行なっています。

つまり、人間は、「目に見える癒し」を求めていますが、本当に必要な癒やしは「罪の赦し」であることをイエス様はここで明らかにしているのです。人間を縛りつけているものは「病」ではなく「罪」であることを指摘しているのです。人々に、本当の「癒しと自由」を与える為には、何よりも「罪の赦し」が必要であり、「罪からの解放」が必要であることを、イエス様はここで告げていると考えることができます。

*私達にも必要な「罪の赦しの宣言」

 私達の罪とは何でしょうか。どのような罪が原因で、イエス様のもとに近づくことを妨げているのでしょうか。それは、忙しさからくる神様との交わりのなさか、それとも知らずに行なってしまった隣人に対する無関心・無反応なのか、あるいは家族とのいざこざからくる自己中心的態度からなのか・・。どのような罪であるにしても、罪を犯し続けることは、身体の器官に病を冒すことになり、最終的には身体が不自由になってしまうというのです。それゆえイエス様は、病に対しての「癒しの宣言」ではなく、「罪の赦し」を宣言されたのだと思います。中風の人は皆の見ている前で立ち上がりました。そして床を自らの手で担ぎ、その場を去って行きました。人々はこの出来事に驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神様を賛美しました。

*私達もイエス様の十字架により自由にされた者

 神であるイエス様は、2000年前に私達と同じ人となり地上に来られました。それは私達人間の中にある罪を取り去り、自由にして下さるためです。この罪を取り去るために、イエス様は、ご自身で十字架に架かる必要がありました。罪のない方が、罪ある私達のために死なれる必要があったのです。それはイエス様が私達一人一人を大切に想い愛しているからです。罪は、絶えず私達の周りにあり、私達の心の隙間を見つけて入り込もうとしています。ですから私達は、悪い行いや考え、習慣があったとしても、日々、イエス様に赦しを求めてイエス様と共に歩んで参りましょう。イエス様は、今日も私達のそばにいて下さいます。 イエス様を求める その心を、神様は喜んで下さいます。

2020年5月17日の説教要旨 詩編107:17-21 マタイ福音書8:5-13

「御言葉の力」   加藤秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとってイエス様の言葉、聖書の言葉とは、どのようなものですか。私にとっては、時に厳しいと感じることもありますが、やはり優しく、温かいものであり、励まし、慰め、安らぎを与えて下さる言葉です。

詩編107編では、私達の愚かさ(無知、背き、罪)は、時に肉体にまで及び、病を起こすと警告しています。しかし主の癒しの言葉が人々の萎えた心、病人の病を癒します。主の言葉は癒しをもたらすと約束されているのです。そして私達がこの驚くべき御業を喜び、主の慈しみと憐みに感謝して主を称えようと呼びかけます。私達が信じる御言葉には力があります。なぜなら、御言葉には癒しをもたらす力があるからです。

*百人隊長の願い

本日の聖書は、カファルナウムの町で、一人の百人隊長がイエス様に助けを求めに来た時のことです。百人隊長は100人の兵士を統率するローマの将校で、彼は異邦人でした。ルカ福音書7章では、彼がユダヤ教の求道者であり、地域の人達のために会堂を建てるなど人格的に信頼されていたことが伝えられています。百人隊長はイエス様に近づいて「主よ、私の僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます。」と癒しを求めました。

「中風」は、身体的な機能を麻痺させる脳の疾患で、動きが制限されて、人の手を借りなければならず、生きる意欲を無くしてしまうほどの病です。「ひどく苦しんでいる」とは身体上だけでなく精神的な苦しみも含まれていると考えられます。隊長は動けなくなった僕の為に、癒やされる道を探していたのでしょう。そしてイエス様の噂を聞き、自ら町へ出向き自分が異邦人であることを承知の上で、イエス様のもとを訪れたのだと思います。

*イエス様の応答と百人隊長

 イエス様は百人隊長の願いに「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。すぐに百人隊長の家に行き、僕の病気を治そうとされたのです。ところが百人隊長は、イエス様と一緒に家に帰ることを拒みました。

なぜでしょうか。百人隊長は何を考えていたのでしょうか。

彼はユダヤ人が異邦人を「汚れた者」と考えていることを知っていました。そのため、イエス様を自宅の中にまで入っていただくことなど、とんでもないことだと思ったのでした。

*百人隊長の信仰

百人隊長は、権威ある者の言葉には人を従わせる力があることを承知していました。百人隊長自身も権威の下、命令には絶対服従であったのでしょう。そこで百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエス様に答えました。

イエス様も権威のあるお方ですから「治れ」といえば、どんな病気でも治る。イエス様のお言葉さえあれば、すべてのものはそれに従う…ということをよく理解していました。「ひと言おっしゃってください」は、イエス様に対する絶対的な信仰によるものでした。

*「あなたが信じたとおりになるように。」

この言葉を聞いてイエス様は「ユダヤ人の中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と感心されました。百人隊長の信仰は感嘆と賞賛に値するものでした。イエス様は百人長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、その時、僕の病気は癒されました。

今日の詩編、20節に「主は御言葉を遣わして彼らを癒し 破滅から彼らを救い出された。」とあり、33編9節には「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように立つ」とあります。

イエス様が、確かに父なる神様からの力を持って地上で活動され、 神様の約束を実現されることに気付かされます。そして11節に「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」とある「大勢の人」とは、おそらく百人隊長のようなイエス様を信じる信仰を持つ異邦人のことを指していると考えます。死に勝利したイエス様は、人の病をも癒す力を持ったお方です。そしてイエス様の癒やしは御言葉によってなされます。私達がこの御言葉を信じるとき、その御言葉は、確かに力をもって働いて下さるのです。

2020年5月10日の説教要旨 創世記2:18-25 ヨハネ福音書2:1-11

「婚礼での奇蹟」   加藤秀久伝道師

*はじめに

神様は、初めに天地を創造され、人を土のちりから造り、その鼻に神様からの命の息を吹き込んで人は生きるものとされました。命の息が神様より直接吹き込まれたことにより、人は他の生き物と違って特別に造られたこと、神様のかたちに似るように造られたことが記されています。

神様はエデンに園を設け、人を住まわせ、耕し守るようにされました。また神様は「人が独りでいるのは良くない」と、彼に合う助け手として彼のあばら骨の一部から女を造られました。それゆえ男は妻と結ばれ、二人は一体となりました。神様は天地創造の初めから、男の人と女が夫婦になることを定められました。このことは世界における結婚の始まりであり、結婚は、神様が定めて下さった祝福の一つであることを知ることができます。しかし創世記3章以下には、この最初の結婚も神様と人間との関係も、エデンの園での悪魔の策略により破壊されたことが記されています。<悪魔の攻撃は今も続いています>。破壊された神様と人間の関係の回復こそが、聖書全体に貫かれている神様の御心であり、このご計画を完成させるために「不思議」と「しるし」と「奇蹟」が行われているといえます。

*カナの婚礼での奇蹟・・ヨハネによる福音書2:1-11

 今日の箇所は、イエス様の、神様の御心を示す最初の奇蹟でした。ガリラヤのカナで開かれた婚礼に、イエス様の母マリアは助け手として招かれ、イエス様と弟子達も招待されていました。当時イスラエル地方の婚礼の披露宴は一週間も続き、又、申命記24:5では「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。」とあります。イエス様の時代の婚礼も、このような神様の祝福に溢れるものであったに違いありません。ところがお祝いの席の途中でぶどう酒が切れてしまいました。途中でぶどう酒が無くなるのは、喜びや楽しみ、神様の祝福がなくなってしまうようなことでした。皆さんでしたらこのピンチをどう回避しようとなさいますか?

*マリアの対応

マリアはこのことを知り、その家の人にではなく、来客の一人としておられたイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えました。

イエス様は「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」と言われました。これは「公の場にわたしがキリストであることを現わす日は、まだ来ていません。」との意味を含んでいましたが、マリアは召使い達に「イエス様が言う事は、何でもその通りにして下さい」と言いました。

*イエス様のなさったこと

イエス様は召使い達に「水がめに水を満たしなさい」と言われました。水がめは6つあり、一つの水がめには80ℓ~120ℓの水が入りますので、水がめを満たすには2ℓ入りボトルに換算すると360本分位必要です。それは大変な労力が必要で、何度も井戸に水を汲みにいかなければならなかったはずです。水がめが一杯になったのをご覧になったイエス様は、その水を汲んで世話役のところへ運ぶように言われました。世話役は、いつの間にか最高に美味しいぶどう酒に変わっていた水の味見をしました。この出来事を目の当たりにした弟子達は、イエス様を信じました。イエス様の凄さ、偉大さ、素晴らしさを体験したからです。

*神様は私たちにも・・・

私達は、このようなイエス様のなさった奇蹟を体験しているでしょうか。イエス様は、ただの水をぶどう酒に変える力を持っておられます。時に私達は困難な出来事や問題が、空から降ってくるように、又、隣の人から投げつけられるような形で突然に起こります。特に家族や親族や友人から与えられた問題には心が痛み悩むものです。しかしこのような試練がある時こそ、御言葉に帰り、神様に祈り、静まり、委ねることが大事であり、神様に、その問題を明け渡すことが必要です。「あなた方の会った試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることの出来るように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(新改訳聖書Ⅰコリント10:13)