2020年2月2日の説教要旨

詩編139:1-10・ヨハネ福音書1:35-42

        「最初の弟子達 ①」     平賀真理子先生

*はじめに

 仙台南伝道所の開設当初からの目標は、イエス・キリストの本当の弟子を目指すことです。私達の主イエス様の弟子と言えば、12弟子のことを連想するでしょう。彼らがイエス様に出会った後、主に従うようになったいきさつは、4つの福音書に書かれていますが、特にヨハネによる福音書を深く読むと、その葛藤を、他の福音書よりも読み取ることができます。

*洗礼者ヨハネの証しによってイエス様の弟子となった2人の弟子達

今日の新約聖書箇所に入る前に、直前の出来事からお話しする方がよいでしょう。神の民として旧約聖書を奉じてきたイスラエルの人々は、神様を大事にすることを何よりも重視し、神様への礼拝を司る祭司達を尊敬しました。この家柄に生まれ、イエス様を「救い主」と証しして洗礼を授ける役目を果たしたのが「洗礼者ヨハネ」でした。彼こそ、「神様が約束なさった救い主」と期待されたのですが、彼自身は「後に現れる救い主を証しする役割だ」と語り、それが実現したことを福音書は記しています。彼はイエス様を「神の小羊」と繰り返し呼びました。これは、イエス様が人々の罪を身代わりとして贖う「贖い主」という面を強調しています。この証しを聞いて真剣に受け止めたのが、元々は洗礼者ヨハネの弟子だった二人でした。人間的に見れば、最初の先生(洗礼者ヨハネ)の目前で、次の先生(イエス様)に従うのは、礼儀に欠けるように思えますが、彼らは人間の思いよりも神様の御心を尊重したことになります。

また、今日の聖書箇所に入ると、洗礼者ヨハネの証しは別の重要な働きもしたとわかります。即ち、旧約から新約への継承です。旧約の完成の象徴と言われる洗礼者ヨハネから、新約の主であるイエス様へ弟子達が引き継がれたということです。

*イエス様の2人の弟子達への最初の問い「何を求めているのか」(38節)

 この2人の弟子達は、しかし、イエス様に直接何か言って従ったのではなかったようです。もしかすると「救い主」を前に緊張して何も言えなかったのかもしれません。そんな彼らに対して、もちろん、イエス様は咎めたりなさらず、まず、「何を求めているのか」(38節)と問われました。この問いは、この2人の弟子達だけでなく、後の時代の私達信仰者への問いかけと受け止めるべき御言葉ではないでしょうか。私達は主のこの問いに対して胸を張って答えられる生き方をしているでしょうか。

*2人の弟子達の答え「どこに泊まっておられるのですか」(38節)

 今日の箇所に戻り、問いを直接受けた2人の弟子達の答えを見てみましょう。「先生、どこに泊まっておられるのですか。」(38節)です。これはイエス様の深い問いの答えとなっているでしょうか?ずれていますね。実は、この「泊まる」と訳された言葉の元々の言葉は、「宿泊する」という意味の根本に、「留まる」「存在し続ける」という意味を持っています。この弟子達は、イエス様の具体的な宿泊先を知りたかったかもしれませんが、彼らの心の奥にはイエス様が「神様と同じ存在として留まり続けておられるのか」、つまり、「本当に神様から遣わされた救い主かどうか」を知りたいと求めていることを、本人達ではなく、イエス様が既にわかっておられたと読み取れます。宿泊先だけなら、それを確認して帰宅させればよいと思えますが、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃった後、彼らと共に泊まったのです(39節)。その間、2人に対して、イエス様は御自分が神様と同じ存在として留まり続ける御方であるという言動をとられたのだと推測できるでしょう。

(ルカ福音書24章の「エマオでの復活の主と2人の弟子達の出来事」を想起させられます)。きっと、彼らは霊的な目が開かれ、「イエス様は救い主」だと確信したのでしょう。

*アンデレ=兄弟シモンや他の人々をイエス様の許に連れてきた弟子

この2人の弟子の内の一人は、初代教会の指導者の一人シモン(後のペトロ)の兄弟アンデレであり、アンデレが先にイエス様に出会い、兄弟を連れてきたと示されています。シモン・ペトロはイエス様の預言どおり、教会の岩=礎となりました。アンデレは、これ以降も様々な人をイエス様の許へ連れてくる働きをしました。私達も、自分自身が主の許に招かれ、主が救い主と分かったのですから、主の許に留まり、周りの人を主の許に連れて来られるように聖霊の助けを祈りましょう。

集会案内

主日礼拝 毎週日曜日 午前10時半~11時半頃

教会学校礼拝 第2~第4日曜日 午前9時半~10時頃

祈祷会 第1・3・5水曜日 午後6時~6時半頃

     第2・4水曜日 午後3時~3時半頃

聖書研究会 第2・第4水曜日 午後3時半頃~4時頃

いずみ会(学びと交わり)第2水曜日 午前10時半~12時頃

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、
  ご了承ください。1階礼拝堂中央左側扉を開けて出入り下さい。
★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。
☆ 982-0814 仙台市太白区山田字船渡前17-4 (022)243-6710
  教会の地図/e-mailは、下記リンクをクリックしてご覧下さい。
  http://sendaiminami.net/?cat=2

教会情報

礼拝・集会のご案内

◎日曜日

毎週日曜日 

主日礼拝】 午前10時半~11時半頃 

(毎月第1日曜日は聖餐式・全体祈祷会)

2日曜日~第4日曜日

【教会学校礼拝 】午前9時半~9時50分頃

【教会学校分級】 教会学校礼拝後~10時15分頃

◎水曜日:

祈祷会/小礼拝(第1・3・5)午後6時~6時半頃

祈祷会/小礼拝(第2・4)   午後3時~3時半頃

聖書研究会     (第2・4)      午後3時半頃~4時頃

・エフェソ書の学び 担当:佐藤邦廣(第2水曜日)

・パウロ書簡の学び 担当:佐藤義子牧師(第4水曜日)

いずみ会    午前10時半~12時頃(第2水曜日のみ)

住所・電話・地図

〒982-0814
宮城県仙台市太白区山田船渡前17-4
Tel/Fax:022-243-6710

東北道仙台南ICから仙台方面に向かって約5分/山田ICより約1分

286号線から、すき家/コスモ/引っ越しセンター0123の交差点を

富沢方面へ(D2/ヨークベニマル方面)。

(仙台・長町からお越しの場合は、イオン/はるやまの交差点の次の信号)

右側の田んぼの真ん中にある一軒家の道に入り、突き当たり斜め左が仙台南伝道所。車の駐車は教会敷地内にお願いいたします。

 教会概要

  • 日本基督教団 仙台南伝道所
  • 東北学院・宮城学院・尚絅学院と同じプロテスタント教会
  • 伝道所開設 2004年6月13日(礼拝開始 2002年12月1日)
  • 会員数 9名  (礼拝出席数 7名-16名)
  • 連絡先メールアドレス:sendaiminamichurch@gmail.com

牧師紹介

仙台南伝道所 伝道師: 佐藤由子(さとう ゆうこ)

仙台市出身。日本基督教団補教師。上野山小学校/山田中学校/第二女子高校/ Johns Hopkins大学Peabody音楽院を卒業。音楽講師、英語講師として勤務。2015年4月東北学院大学編入学、2019年3月東京神学大学大学院卒業。

仙台南伝道所 協力牧師: 佐藤 義子(さとう よしこ)

東京都出身。日本基督教団正教師。1972年東京神学大学大学院卒業後、宮城学院聖書科教諭、名取伝道所伝道師を経て、 200212月より自宅隣にて開拓伝道を始める。また東北学院大学非常勤講師、東北学院榴ヶ岡高校非常勤講師も務めた。

2020年1月26日の説教要旨

詩編19:2-7 ヨハネ福音書 2:1-11

         「イエス様の宣教の開始」    佐藤 義子牧師

*はじめに

今日の聖書は、イエス様の「最初のしるし」(11節)と言われるガリラヤのカナという町で、イエス様が弟子達と共に村人の婚礼に招かれた時の出来事が記されています。この婚礼の場に、イエス様の母もおりました。カナは、イエス様家族が住むナザレの町からそれほど遠くなかったようで、おそらくマリアは、知人の家での接待を手伝っていたと思われます。

*「ぶどう酒がなくなりました」(3節)

結婚を祝う宴会の席で、飲み物の「ぶどう酒」が途中で尽きてしまったことから今日の聖書は始まります。花婿の実家は庶民の家で、裕福ではなかったようです。裕福であればぶどう酒は豊かに蓄えられていたことでしょう。マリアはぶどう酒が尽きたことに気付き、この状況を何とかしなければ・・と、息子のイエス様に助けを求めてきたことは想像できます。

お祝いで飲むぶどう酒がなくなったことが明らかになれば、主催者側の花婿や家族は恥ずかしい思いをするでしょうし、花嫁側の家族にしても、不本意でありましょう。喜びを共にしようとお祝いに来た人達にとっては興ざめとなるでしょうし、結婚という、人生の中でも最も喜ばしい祝いの席から喜びも半減してしまうかもしれません。マリアはこの窮状をイエス様に伝えることによって、イエス様は何らかの方法で助けてくれるに違いないとの強い信頼があったことを思わされます。ところが、イエス様のマリアへの返事は、期待を裏切るような言葉でした。

*「婦人よ、わたしと どんな関わりがあるのです。」

 イエス様は母マリアに対して「婦人よ」答えます。丁寧な呼びかけですが、親子の関係を絶ち切るような言葉でマリアと向き合われています。なぜでしょうか。それは、イエス様の使命をマリアに正しく伝えることにあったと思われます。イエス様の使命は、母マリアの為に仕えることではありません。マリアの願望ではなく、神の御意志が先行します。

神様から今、地上に遣わされている目的は、神の国の福音を宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、神様のもとへと帰るように促す「宣教」です。イエス様はこの使命を果たすために、弟子を選び、これから厳しい道へと歩みを進めていきます。御自分が人々の救いの為に神様の力をいただく時は、いつ、どのような時なのか、イエス様ご自身、神様の御意志を尋ねつつ祈りの中で決断していかれます。母マリアはそのことを理解して、息子との関係を新しい関係へと変えていかねばなりませんでした。

*「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(5節)

 母マリアのイエス様に対する信頼と確信は強く、イエス様にすべてを委ねた後、手伝いの人に、イエス様の言葉に従うように指示を出していきました。ユダヤの家庭には、常に自分自身を清く保つための、手を洗う律法のおきてがあり、そのための水が水ガメに用意されていました。

イエス様は手伝いの人に、水ガメに水を一杯入れるように命じました。

次にそこから汲んだものを世話役の所に持っていくように命じました。水が世話役のところに届いた時、水はぶどう酒に変えられていました。

*「喜び」の奉仕者として  

イエス様は、初めはマリアの願いを退けられたように見えます。しかし御自分が何をなさるべきか神様の御意志を仰いだ後、イエス様ご自身の決断でこの「しるし」を行われました。「しるし」とは神様が私達の世界に入ってこられた「しるし」です。イエス様がこのしるしを行われたのは、花婿への同情や母の言葉に仕える為ではなく、花婿の家の人達に対する「喜び」の奉仕者として仕えること、祝宴を全うさせることが御心であったということでしょう。世話役は花婿に「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、,酔いがまわった頃に劣ったものを出すが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれた。」と言いました。私達の社会では初めはみんな良いものを用意しますが、その状態を続けようとはしません。しかし神の国では最初は「ただの水」(私達)でも、神様の自由な裁量で力が働く時にぶどう酒!に変えられていきます。与えられた各自の信仰は、私達に新たな使命を与え、感謝と喜びの生活へと導いていくのです。

1月19日の説教要旨 

ヨブ記38:4-6・使徒言行録 17:22-29

「神は天地の主」   佐々木哲夫先生

*はじめに:世界宗教人口

 世界の宗教人口は約60億と言われております。その中でキリスト教は20億、イスラム教は12億 ヒンドゥー教は8億、仏教は3億6,000万です。ユダヤ教を起源とする一神教のキリスト・イスラムは合わせると32億。他方、バラモン教をルーツとするヒンズー・シーク・仏教系は約12億です。世界宗教か民族宗教かという分類もありますが、何れにせよ、今日において、一神教の神と自然神の神が宗教の双璧(そうへき)になっています。

今朝は、聖書を通して私たちに知らされている神とはどのような神かについてご一緒に思いを巡らしたいと思います。

*アレオパゴスの説教 

使徒パウロは、第二次伝道旅行においてアテネを訪れております。アテネには、貴族たちの会議所が置かれていた小高い丘アレオパゴスがあります。パウロはその丘の中央に立って演説を行いました。というのはアテネの道を歩いている時に見たのですが、至るところに偶像があり、その中に『知られざる神に』と刻まれている祭壇を見つけたからです。パウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいる『知られざる神』についてお知らせしましょう」と語っています。アテネの聴衆は、ギリシア神話に登場する神々に親しみ、哲学者の議論する学説に心惹(ひ)かれていた人々で、耳が肥えていました。そのような人々に向かって本当に信ずべき神を紹介したのです。

*聖書の神

パウロは、聖書の神について二つの点を強調しています。

第一は、世界とその中の万物を造られた神であって、この天地を超越していることです。すなわち、人間の手で造られた神殿に安置され、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要がないのです。『知られざる神に』と刻まれた祭壇に納まる神ではないのです。

第二は、すべての人に命と息とその他すべてのものを与えてくださる神であることです。聖書の神は、人間の魂と身体の存在の根本原因、換言するならば、人間が寄って立つべき基盤であるのです。そのような関係が神と人とにあるのですが、人間は、この世で学ぶにつれ、また、身の回りの出来事を上手に対応管理するにつれ、神と人との関係を逆転させてしまいます。神を『知られざる神に』と刻んだ祭壇に納めて相対化し、他方、自らを自律する存在と考えてしまうのです。

*主客転倒

旧約聖書のヨブに向かって天地万物の創造主なる神は問います。

本日の旧約聖書の箇所です。「わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか」と問います。主客転倒の思いを問いただしたのです。

ヨブは、自分の存在起源である創造主なる神を再認識し「私は取るに足りない者、何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます(40:4)。私は自分を退け塵(ちり)と灰の上で悔い改めます(42:6)」と語っています。

*インダス文明の神

 他方、インダス文明の宗教であるバラモン教の神は、紀元前5世紀頃にヒンズー教の神として整えられました。インダス文明の担い手である人々は、世界と人間の存在に驚きと恐れを持ち、宇宙に偏在(へんざい)する神をあがめました。そして、自己の中にも存在するその神と自分(自我)とを同一化しようとします。禁欲と出家による修行によって、神と同一化しようと試みます。それは、人間の短い一生の間にはなかなか実現できない事なので、「同一化、悟り」は、輪廻(りんね)転生(てんせい)という永遠の中で試みられることになります。

*ヒンズー教・仏教

その流れの中から釈尊(しゃくそん)の仏教が出てきます。涅槃(ねはん)の境地に至った存在者である阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)、大日如来(だいにちにょらい)、薬師(やくし)如来(にょらい)などが住む極楽(ごくらく)浄土(じょうど)は、十万億土の彼方(かなた)に存在すると考えられました。

インドでは、仏教はやがてヒンズー教に戻り吸収されます。ですから仏教にも梵天(ぼんてん)や帝釈天(たいしゃくてん)などの神が存在します。仏教での神は六道の世界にある存在で、如来よりかなり低い存在です。

このような歴史を概観するならば、日本に仏教が伝来した後に、日本古来の民族宗教の八百万(やおよろず)の神を仏の化身(けしん)であるとする本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)が出てきた理由を見出す思いがいたします。

*シュメールの神

 ところで、創造神は、古代オリエントの神話やギリシャ神話においても登場しています。それら神は、すべて、人間から遠く離れた世界にいます。遠くから人間を眺め、人間世界に影響を及ぼしました。

例えば、古代シュメール神話の人間創造は、農作業などの雑務に追われた神々にかわって労働する者として創造されました。

次のような記載があります。

神々が集い、互いに言う。「…偉大な神アヌンナキたちよ。そなたたちは一体何を変革しようとするのかね。」 

その中の二人がエンリルに答えて言う。「 …あなた方は二人のラム神を殺して、彼らの血でもって人間を造るのです。 … (今まで)神々が(になってきた)仕事は(今や)彼ら(人間)の仕事でありますように。」

畑仕事、土木工事、家畜の増殖、神々の祭りの執行など、神のために働く人間が創造されたのです。

*ヒンズー教の原人

他方、ヒンズー教の教えでは、原人プルシャの身体から太陽神々 や人間など世界の全てが生まれたといいます。

古代インドの聖典の一つ『リグ・ヴェーダ』に次のように歌われています。

神々が原人を切り分かちたる時 その口はバラモン(司祭)となり。その両腕はラージャニヤ(武人)となり。その両腿(りょうもも)からはヴァイシャ(農民、商人)が、その両足からはシュードラ(奴隷)が生じた。 

これが人間を4つの身分に分類するカースト制度の由来です

*共にいます神

さて、第28代 日銀総裁(平成10年〜15年に在職)の速水(はやみ)優(まさる)さんという方がおられました。縁がありまして2004年(平成16年)に東北学院の教職員修養会の講演を担当しております。

基督者(きりすとしゃ)の速水さんは、日銀総裁人事の独立性、マクロ経済における円高基調の重要性などの難しい話をされました。

そしてもう一つ、日本の国の行く末を左右するとも言って過言でない重要な会議の連続において、いつも執務室から会議室に赴く時、壁に掲げられていた聖書の言葉「恐れるな。私はあなたと共にいる」(イザヤ43:5)の聖句を心に刻み、祈ってから出かけたことを話してくれました。

速水さんのお話は、知られざる神ではなく、命と息とその他すべてのものを与えてくださる神が、今なお私たちと共に近くおられ、私たちの歩みを導いてくださる方であることを証(あかし)するものでした。

聖書を通して知らされている三位一体の神が私たちに近くある神であることを再認識したいと思います。

1月12日の説教要旨

詩編119:105・使徒言行録 17:10-12

「み言葉と共に歩む」      佐藤義子牧師

*はじめに

 私たちは毎週、礼拝の中で御言葉を聞き、学び、心にとどめ、そして家庭や社会に戻り日々の歩みを続けております。私たちは、時に「つぶやき」の誘惑に襲われます。「なぜ、私が・・」「なぜ、神様はこのような試練を」「私には無理。出来ません」など・・。

神様が遠くにおられるような錯覚に陥る誘惑です。そのような時、先週の礼拝で聞いたイザヤ書の御言葉が響きます。「あなたはなぜ、『私の道は主に隠されている』と、いうのか。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望みを置く人は新たな力を得、わしのように翼をはって上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

心が折れそうになった時、この御言葉が浮かぶならば、私達は、このみ言葉によって 励まされ、祈りを新たにすることが出来ます。

*ベレアの町の人々

本日の聖書は、使徒パウロの二回目の伝道旅行の時の出来事です。

パウロの伝道の前には、いつも、反対者、敵対者が立ちはだかり、時に、民間宗教とぶつかり、群衆の反感を買い、市の当局者にムチ打たれ、投獄までされました(パウロの受けた労苦参照:Ⅱコリント11:23-)。

フィリピの町で、教会の基礎が出来たあと、町を去るように言われ、次に訪れたテサロニケの町でも教会の基礎が出来ますが、ユダヤ人の嫉妬による暴動を起こされて追われ、そこから南西に約75キロ離れたベレアの町にパウロとシラスは逃れます。今日の聖書には、このように記されています。 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

キリスト教の命は伝道であり、ここにおられる方々も(私も)伝道によって救われ、さらに今は、救いが家族や友人にまで及ぶことを祈り願っております。

*求道者から信仰者へ

信仰は神様が与えて下さるものです。もと神学校の学長であった桑田秀延先生も、次のように書かれています。「罪とは神から離れ、失われていることであり、本当に礼拝すべき神を礼拝せず、神でないものを礼拝し、自己中心になり、物質中心になることである。・・・罪の救いは人間の側からは、なされない。人間は・・全く無力である。救いは神の側からくる。恩寵(*注)としてくるのである。」

(*注)恩寵(おんちょう)とは神の恵み、罪深い人間に神から与えられる無償の賜物のこと。

コリント書にも(12:3)「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」と、あります。

 以上のことを大前提としながら、今日のベレアの町の人々の、求道者としての姿勢を見て、伝道を考える時、いくつかのヒントを与えられると同時に、救われた後の私たち自身にも語りかけているように思います。

素直」とは、聞く耳を持っていることです。心の中が自分の思いや考えで一杯になっていたら、聞いても心に入らず、逆に、聞いた言葉を自分の考えで跳ね返してしまうでしょう。

又、彼らが「非常に熱心に御言葉を聞く」ことが出来たのは、自分の中に、真理・真実なるものを持ち合わせていないとの「謙虚さ」があり、それゆえにパウロの語る言葉は「聞くに値する言葉」であることを本能的に察知出来たのではないかと想像します。

その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」とは、当時旧約聖書しかありませんでしたから、パウロが語る「十字架にかけられたイエスこそ、メシア(キリスト)である」との宣教が、旧約聖書(イザヤ書53章)の預言の成就であるのかなど調べていたのでは、と推測されています。

*信仰者として生きる

私達も又、救われた時の「素直さ」、「熱心に御言葉を聞く」、「聖書を良く読む」など、御言葉と共に歩む生活を続けていくために必要な栄養を、日々求め、与えられていきたいと願うものです。

1月5日の説教要旨

イザヤ書40:27-31・テトスへの手紙3:1-11

「良い行いに励む」 

有馬味付子牧師(成増(なります)キリスト教会・東京)

*はじめに

 クリスマスの大きな恵みの中に、喜びと感謝にあふれて新しい年を迎えることができ、こうして共に礼拝をささげられますことを、深く感謝いたします。由子先生が入院なさっていて大変な中ですが、義子先生はじめ教会の方々が祈りを合わせ、力を合わせて、教会を守っておられることも感謝です。 私を用いて下さいましてありがとうございます。

共に御言葉からメッセージをいただきましょう。

*イザヤ書のみ言葉

 私たち人間の力は、元気も権力も、地位も、名誉もやがて衰え、弱り、倒れます。しかし主を待ち望む者には、どんな困難な状況にあっても、必ず「新たな力が与えられ」鷲(わし)が翼を張って、ゆうゆうと大空を舞うように、ゆうゆうとその困難の中を生きることが出来ます。

 今朝はまずこのことを深く心に覚えましょう。

*テトスへの手紙

 この手紙は、使徒パウロからパウロの愛する弟子テトスに宛てた手紙の形をとっていますが、研究者の大方の意見では、パウロよりも50年位あとの時代に書かれたものです。それで、この手紙の著者やテトスという弟子については、さておいて、この手紙が私たちに投げかけているメッセージを受け取っていきたいと思います。

*「テトスへの手紙」のメッセージ

 この手紙で教えていることは、まだ主イエスさまの十字架と復活が伝えられていない土地で、どのようにその福音を伝えていけば良いのかということです。キリスト教がどういう教えであるのか、全く分かっていないところで福音を伝えていくことが、どれだけ困難なことであるかは、仙台南伝道所の17年の歴史の中で、義子先生も邦廣先生も教会員の方々も、実感しておられると思いますが、この手紙のメッセージはそういう困難をよく承知の上でなお「勇気を失わないで伝道しなさい」ということです。

*「伝道するために、しっかりした教会をつくりなさい」

 そのために、長老を立て、監督を立てなさい。そして長老たるもの、監督たるものの資格が言われています。また教会員を育てなさい。そのために教会員はこうであるようにと勧められています。

非難される点がない、不従順であってはならない、など、それぞれの年代別に、男女別にたくさんのことが挙げられていますが、その中で浮かび上がってきたことがあります。それは「分別がある」ということと「不従順でない」ということです。

*「分別がある」ということ

 これは「思慮深く」や「慎み深く」という意味と同じです。

ある人は「人が見ているか見ていないかにかかわらず、悪いことはしないという精神だ」と言い、ある人は「自分の本能や情欲や欲望や快楽を完全に制することの出来る精神だ」と言っています。私たちは、「それはとても無理です」と即座に言ってしまいそうですが、これは、「主イエス様の十字架によって、私は罪から救われました。聖(きよ)められました」という、その心を「分別がある」という形で表しなさいということです。私たちが普通「分別がある」「思慮深い」という言葉からイメージするのは、人間同士の横の関係だけで、神様と私という縦(たて)の関係とは考えません。しかし、このテトスへの手紙では、「分別がある」ということは、神の恵みによるのだと教えています。

2章の11節から13節を読みましょう。

ここで11節の「神の恵み」というのは、イエス様の十字架によって私たちの罪が赦されることです。罪が赦されることによって、この世的な欲望を捨てて、分別ある生活が出来るのです。さらに、分別がある生活は、私たちの唯一の希望である「永遠の命」に直接結びついているのです。

神の恵みと行いがこれほど密接な関係であるというのは、このテトスへの手紙の大きな特徴です。

*「不従順でない」ということ

 不従順というのは反抗的だということ、言うことを聞かないことです。人の言うことを聞かないばかりでなく、ここでは神様のおっしゃることを聞かないということです。神さまのみ心を無視する、神さまのみ心に従わない、これはまさに罪ということです。このどうしようもない私たちの罪が赦されるために、イエス様は、十字架で殺され、死んで下さったのです。ですから「不従順でない」ということも、人間同士の横の関係ばかりでなく、神さまとわたし、神さまと私たちという縦の関係であるということを、しっかり心において、従順というものを追い求めて行きましょう。

*テトス3章3節

わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。

これが、神さまを、イエスさまを知らない時の私たちの状況です。

「いや、私はこんなにひどくなかった」と、思われるかもしれません。

しかし、イエスさまの十字架を知らない時、あるいは認めない時は、まさにこういう状態なのです。人間同士の関係ならまあまあ大丈夫でも、神さまと私との関係では、どんな人もこのような最悪な状態であるということを覚えたいです。

*神さまの慈(いつく)しみと、何ものにもまさって私たちを愛して下さる愛

 このような最悪の状況から私たちを救って下さったのが、神さまの一方的な愛と恵みです。これによって、私たちは永遠の命をいただくことが出来るのです。先日のクリスマスは、神さまの限りない愛と恵みを、イエスさまという私たちの目で実際に見ることができる姿であらわして下さったことを、心から感謝したところです。

*私たちの良い行いを見て

 2節に「すべての人に心から優しく接しなさい」とあります。私の頭にひらめいたのはAさんがBさんにされたことです。高齢のために自分では出来なくなっていたBさんのために、Aさんは仙台と東京を何度も往復して助けておられました。私にはとてもまねできないと思っていました。

「優しくする」とは、その人の弱さに対して思いやりを示すことです。

私たちの良い行いを見て、家族が、友人が、回りの人が、イエスさまを知ってくれれば、本当にうれしいことです。

 良い行いに励むことは、道徳的、倫理的なものを越えて、「私が聖(きよ)められること」です。

このことを覚えて歩んで行きましょう。

12月29日の説教要旨

エレミヤ書29:11-14a・ルカ福音書18:18-23

わたしのもとに来なさい」 

加藤秀久神学生(東京神学大学)

*はじめに

 イエス様は、「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と、呼びかけておられます。イエス様の呼びかけに応えること、イエス様に従うことは難しいことでしょうか? いいえ、イエス様に従うことは難しいことではありません。なぜならイエス様は、ただ幼子のように、私を信じ、従いなさい、と言っておられるからです。

*「善い先生、何をすれば・・」

本日の聖書は、この地上に富と財産を多く持つ大変な金持の議員が、イエス様に、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた場面から始まります。どうしてこの議員はイエス様に、「善い先生(優れた先生、価値のある先生)」と言ったのでしょうか。

私達が「善い、優れた、価値のある」との言葉を使う時、私達に出来ないことが、その人には出来る、という意味で使っているかもしれませんが、当時のユダヤ教指導者達の間では、この「善い」は、ほとんど使われていなかったそうです。なぜならこの「善い(優れた、価値のある)」は、神様だけが持っている「特別な性格」を表すと考えられていたからです。

*「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

これがイエス様の最初のお答です。イエス様はこの議員に「永遠の命を受け継ぐ」ことの質問よりも前に、「善い先生」と呼びかけてきた「善い」は、何を意味しているのかをよく考えるように悟らせようとしました。

はたしてこの議員は、イエス様がまことに神の子であることを信じて善いという言葉を使ったのか? イエス様は、まず始めに「あなたは私が神の子であることを信じているのか?」と投げかけたのだと考えられます。

*永遠の命を受け継ぐ  

この議員は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるかと尋ねています。この「受け継ぐ・相続する」という言葉は珍しい言葉で、同じルカ福音書にもう一箇所出てきます。「ある律法の専門家が、イエスを試そうとして『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」(10:25)の場面です。「永遠の命を受け継ぐ」との質問は、律法の専門家の間でも難しい質問でした。今日の聖書の直前には、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14節)「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(17節)と、語られたイエス様に対して、この議員も、どこか試すような気持を持ちながら質問したのかもしれません。

*「永遠の命を受け継ぐ」ためのイエス様の答え

イエス様は、先ず十戒の教え「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われました。つまりイエス様は、「神様の恵み」を受け取るための道は既に示されており、「あなたが知っている教えられている道を歩みなさい」と、この議員に告げたのでした。

*十戒の第5戒~第9戒

イエス様は、なぜこの十戒後半を示したのか。それは、議員の返答、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」にあると思います。この議員は、子供の頃から人一倍これらの戒めを大切にして、きちんと守ってきたという自信があり、世間からも良い評判の人であったことを、イエス様はご存じだったのでしょう。

イエス様はこの議員の返答を聞いて、「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われました。この議員の欠けていることは、持ち物を売り払って貧しい人々に施すことだ、と言われたのです。

*イエス様の言葉の意味

イエス様はこの議員に、もっと「善い行い」をすれば、永遠の命を受け継ぐことができる」と言われたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、「永遠の命を受け継ぐためには、根本的な考え方、あなたの考えにはない、発想の転換が必要なのですよ。」と議員に告げられたのです。「永遠の命を受け継ぐ」、「神の国に入る」ということは、善い行いをすることでも、自分の富や名誉の為に得るものでもありません。 

「神の国に入る者」とは「子供のように神の国を受け入れる者」です。ただ恵みによって主イエス・キリストの呼びかけに応え、自分の十字架を背負い、神を愛し、人を愛し、皆に仕えて生きる者です。

*議員の悲しみ

イエス様の答えを聞いたこの議員は、非常に悲しみました。なぜならこの議員は沢山のお金を持っていたからです。おそらく彼は、この地上に沢山の財産や富、また名誉や地位を築き上げることに多くの時間と努力を費やし、いつのまにか、それが自分の人生の一番大事なことになっていたのかもしれません。財産や富が悪いのではありません。一生懸命働いて、その富や財産を用いて、神を愛し、人を愛し、皆に仕える人々は大勢います。そのように用いられることは、神様からの祝福です。

 しかしこの議員は「永遠の命」の意味を理解せずに、自分の富や名誉をさらに豊かにするために「永遠の命」を自分の力で手に入れようと思っていたのではないでしょうか。もちろんこの議員は「そのような言葉は受け入れられない」と怒って立ち去ったのではなく、イエス様の答えを聞いて、「非常に悲しんだ」とありますので、イエス様の教えを真剣に受け止めようとした、この人の誠実さが伺えます。しかし彼は、イエス様の言葉を

実践する勇気がありませんでした。全てを主に委ねることができませんでした。この議員は、イエス様の「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」との呼びかけに、応えることができなかったのです。

*もしも・・

もしも、この議員が「永遠の命」が意味していることを十分に理解して

いたのなら、喜んでイエス様の教えに従ったに違いありません。もしこの議員が、イエス様こそ「善い先生」「まことの神」であると信じ、自分には出来ないと思ったならば、自分の弱さを悔い改めて、「天に富を積む道を教えて下さい」「イエス様に従わせて下さい」と、願ったのではないで

しょうか。

しかし、この議員は、イエス様の前から立ち去ってしまいました。この議員は、自分の力や、経験、行い、目に見えるものに心を向けてそれらを手放せませんでした。この議員は、天に目を向けてイエス様の言葉、神様の言葉を信じることができませんでした。

「永遠の命」こそが自分に必要なものであること、そして「イエス様こそが永遠の命を与えて下さるまことの神様」であることを信じることができませんでした。

*イエス様の呼びかけに応える

24節以降には、この悲しむ議員を見たイエス様の言葉が記されています。そして、神の国のために生きる時にこそ、本当の祝福が与えられることを教えて下さっています。

イエス様の呼びかけに応えることは難しいことではありません。

イエス様は、ただ「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけておられるのです。幼子が自分の名前を呼ばれたら、全てを放り投げて、その声がする方へ急いで走っていくように、私達も、ただイエス様のもとに走っていけば良いだけなのです。

*私達は・・

私達はこの一年を振り返った時に、私達の心は天を見上げて歩むことが出来たでしょうか。地上のものに心を奪われず、天に富を積み、天に宝を蓄えて、神の国の為に生きた、と言えるでしょうか。

イエス様は、私達一人一人に「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけて下さっています。イエス様は、私たちが本当に必要なものを、全て備えてくださっています。私達は、主の声に耳を 傾け、主の呼びかけに応え、幼子のように、主に従うものでありたいと願います。新しく迎えようとしている一年もまた、主の十字架を見上げ、イエス様こそが、まことの神であることを思い、主の溢れるほどの愛を受けて、共に歩んでまいりましょう。共に励まし合い、祈り合いつつ、神の国の為に生きる者として、喜んで主に従ってまいりましょう。

12月15日待降節第3主日の説教要旨  

マラキ書3:19-24・ヨハネ福音書 1:19-28

「荒れ野で叫ぶ声」  遠藤尚幸先生(東北学院中高 )

洗礼者ヨハネ

 今朝私たちに与えられている聖書の言葉は、「ヨハネ」という一人の人について書かれていました。ここで「ヨハネ」として登場する人物は「洗礼者ヨハネ」とも呼ばれる人です。この人は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに登場する人物でもあります。たとえば、マタイ福音書3:1-6ではこんな書き方をされています。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネによる福音書1:26でヨハネが「わたしは水で洗礼を授けるが」という言葉の背景にあるのは、まさにこの福音書が伝えるヨハネの姿です。彼は、当時のユダヤの人々に悔い改めを迫りました。それは、神様の前で自らの罪を告白し、神様の方を向き直しなさい、という呼びかけでした。当時の人々は、荒れ野で叫ぶ彼の声に導かれ、彼から悔い改めのしるしとして洗礼を授けられました。これが、ヨハネが「洗礼者」と呼ばれた所以です。興味深いことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はどれも、この洗礼者ヨハネから、主イエス・キリストが洗礼を授けられた場面を記していることです。主イエスは神の子です。本来、神様の前で罪を告白する必要のない方が、ヨハネから洗礼を受けて下さった。神の子が 最も低い姿で、私たち人間のところまで降りて来てくださった。

この大きな喜びを三つの福音書は伝えています。

しかし、それらと比較して気づくことは、このヨハネによる福音書だけが、この大いなる喜びとも言える主イエスの洗礼の出来事を記していないということです。ですから私達はむしろ、このヨハネ福音書を通して、洗礼者ヨハネという人を知る時に、他の福音書とは少し異なる形で、このヨハネの姿を見ている、ということができます。

福音書が四つあるというのは、このような豊かさを知る時でもあります。

 

*光を証する者

 では、ヨハネによる福音書において「洗礼者ヨハネ」はどのように描かれているのか。それが、1:19にある「証し」という言葉です。ヨハネの役割はヨハネ福音書において、この一点に集約されると言っても過言ではありません。ヨハネは証しをするために来た。彼は何を証するために来たのか。それは、少し前の、1:6以下に記されています。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

 ヨハネの役割は、光について証しをすることであった。これが、ヨハネによる福音書が伝えるヨハネの姿です。光とは、この世界すべてを照らす光である主イエス・キリストを指します。主イエスの到来に先立って、ヨハネは現れた。そしてこのヨハネが、主イエス・キリスト到来の道備えをした。光を指し示した。ヨハネは、当時影響力のあった人物でした。 彼は人々から、来るべき救い主、もしくは、当時 救い主到来の直前に来ると言われていた預言者エリヤの再来、もしくは民を導く指導者的な預言者かと噂されていた人物でした。19節後半に「祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして」とあるのは、エルサレムの権力者たちが、彼のもとへ使者を遣わしたということです。ヨハネはこの人々から、「あなたは、どなたですか」と問われ、メシアか、エリヤか、預言者かと質問されていきます。

*わたしはキリストではない

 ヨハネは、「あなたは、どなたですか」と問われた時に、「わたしはメシアではない」と言い表しました。「メシア」とは、原文では「キリスト」です。「わたしはキリストではない」。言い換えれば、「私は救い主ではない」ということです。ヨハネの証の第一声は、自らがキリストではないと言い表すことにありました。「わたしはキリストではない」「わたしの後から来る方、ナザレ出身のイエスこそキリストである」。これは彼の信仰告白そのものです。私は救い主ではない。それは、目の前にいる祭司やレビ人、その他のユダヤ人に対して、ということでもあるでしょうけれども、ヨハネ自身についてもそうだということができます。

私自身を救う者も、私ではない。神様の前に罪を告白する。神様の方を向き直す。悔い改める。これらの出来事を、真の意味で完成してくださるのは、わたしではなく、主イエス・キリスト その方のみである、ということです。神様ご自身の御手によって、私自身の救いが成し遂げられるということです。私自身が神様から最も遠い状況にあるときですら、神様は私たちを決して見捨てず、私たちを救うことができる。私たちは、神様の御手の中に、自らの不誠実さ、弱さ、欠けを委ねることができる。

この恵みの内に生きることができる幸いこそ、私たち一人一人に与えられた信仰であり、喜びです。そういう意味で、ヨハネは、自らの内ではなくて、神様ご自身にのみ、救いがあることを ここで大胆に語っています。

彼が生きているのは、律法第一主義のユダヤの社会でした。律法を忠実に守らない者は救われないと考えられていた社会です。罪人は、神様に近づくことなど決して不可能だと考えられていた社会です。その社会のただ中で、ヨハネは大胆に、主イエス・キリストその方の恵みを、恐れず公言するのです。救いは主イエス、その方にこそある。 私たちもまた、自らの手の内に救いがあるのではありません。主イエスが私たちを救ってくださる。何の功(いさお)のない私たちを愛し、十字架でその命を捧げ、ただ一方的な恵みによって私たちを神の子とし、救いに入れてくださった方が主イエス・キリストその方です。

この方の恵みのうちに、私たち一人一人の人生はあります。

誰一人、この恵みからこぼれ落ちる者はいません。

*主イエスとの出会い

 今日、私たちは、ヨハネの証を通して、主イエス・キリスト その方と出会います。ヨハネだけではありません。あの主イエスを裏切り、見捨てた弟子たちもまた、後に、ヨハネと同じように、ただ主イエス・キリストを伝える「声」としての働きを始めました。皆、主イエスが十字架につけられる時には、主など知らないと言って逃げ去った弟子たちです。ユダヤの指導者たちに、まっすぐに、主イエスを証したヨハネの足元にも及ばない、弱さ、欠けをもった弟子たちです。しかし、彼らもまた、主イエスとの出会いを通して、ヨハネと共に「わたしはキリストではない」ということを知りました。弟子たちもまた、主イエスの十字架の恵みを知り、この罪深い自分もまた、ただ一方的な恵みによって救われていることを知り、全世界に、主イエス・キリストの福音を伝え始めたのです。彼らだけではありません。弟子たちの次の世代も、その次の世代も、2000年後の今の私たちの世代も、皆、ヨハネや、主イエスの弟子たちと同じように、それぞれの時代に、主イエス・キリストの証人として立たされているのです。

*共に礼拝を守る

 共に礼拝を守る時、私たち一人一人が主イエスの証人です。私たちは、今日、一人一人がこの時代に、ヨハネのように、主の弟子たちのように、公言して隠さず「わたしはメシアではない」と、この世界に言い表しています。たとえ明日、自らの地上の生涯が終わろうとも、私たちはキリストの証人としてここに立つのです。私たちが誰かを救うのではない。私たちが自らを救うのでもない。あの方が、クリスマスの夜ベツレヘムの飼い葉桶の中で、この地上の誰よりも低く生まれ、十字架の死に至るまで、徹底して、私たち一人一人を愛し抜いてくださったキリストが、私たちを救います。主イエスが来られます。今、私たち一人一人は、 この方の証人として生かされているのです。

12月8日 待降節第2主日の説教要旨

詩編27:1-6・ヨハネ1:14-18   「神を示された御子」佐藤 義子(協力牧師)

*はじめに

待降節に入り、2本目のローソクに火が灯りました。今朝はイエス様が私達の住むこの世界に来て下さったことについて、ヨハネによる福音書の1章から学びたいと思います。

 ヨハネ福音書は、ほかの三つの福音書とは違い、その書き出しは非常に強烈な、インパクトのある表現で始まります。

初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」

一瞬、何を言っているのか、わからずに読み進んでいきますと、言(ことば)とは、イエス様のことであることが分かります。そして「初めに」という言葉も、初めの初め、まだ天地が造られる前の、「初め」だというのも分かってきます。創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」とある、この「初め」に、イエス様はすでに神様と共におられた、ということです。

私達は「見える世界」に住んでいて、しかも時間(歴史)の中の、ほんのわずかの一時期しか、この地上に存在することは出来ません。けれども、聖書は、私達に見えない世界のこと、時間、空間を越えた「永遠の世界」があることを教えてくれます。

 ここで、言(ことば)と表現されている神の御子イエス様は、天地創造以前、永遠の世界で、父である神様と共におられました。ところが、今日読んでいただいた1章14節に「(ことば)は、肉となって、私達の間に宿られた」とあるように、「永遠の世界」から、「時間と地上の世界」に、神様から遣わされて来られました。

肉となって」との表現は、肉体を取る・・私達と同じ人間になるということです。永遠の、見えない世界におられた神の御子イエス様が、見える時間の世界に来られた、人間として誕生されたのです。人間は、肉体を持つゆえの誘惑があり、罪も宿り、さらには「死ぬ」定めを負っています。

神の御子イエス様は、人間になられたことにより、罪と死のある領域の中に、住まわれたのです。

ヘブライ人への手紙5章7節以下に、こう記されています

キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」さらに、フィリピ書2章6節以下には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と記されています。

*御子イエス様が地上に来られた目的

神の御子が私達と同じ人間として生まれられた、その目的は何だったのでしょうか。12節以下に書かれています。

言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 イエス様が来られたのは、この地上の暗闇に、「光」としてすべての人を照らすため、そして一人でも多くの人々を「神の子とする」ためです。この、イエス様の働きを引き継いだ弟子達によって教会が生まれ、私達の小さな群も又、弟子達と同じように、まことの光として来られた救い主イエス様のことを、そして愛する御子を私達の為に遣わして下さった神様のことを伝え続けています。

*「わたしたちはその栄光を見た」(14節)

地上でのイエス様は「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)の姿が象徴しているように、この世の権威や権力から離れた世界に身を置き、最後は、十字架で殺されるという悲惨な最後で地上での生涯を終えられました。しかしヨハネ福音書の著者は、イエス様に隠されていた「栄光」を見たと証言しています。その栄光は父(神)の独り子としての栄光であって、「恵みと真理とに満ちていた」と伝えています。

イエス様は生涯、父である神様と霊で結ばれて、神様と共に歩まれました。神様はイエス様を通して自らを現わされました。イエス様の中には、偽りも憎しみもなく、真理の明るい光の中にすべての思いと言葉がありました。

*「私達は皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16節)

「恵み」とは、それを受けるのに十分な理由も、価値もないのにもかかわらず、神様から一方的な愛、神様からの全く自由な愛が与えられることです。本当ならば受けるに値しない「神様からの恵み」です。讃美歌271番の最初で「功(いさお)なき我を、血をもて贖い(あがない)」と歌いますが、神様の前に、功績といえるものを何も持たない私達が、一方的な神様の愛によって、イエス様の流された血潮により罪が赦された、というこの讃美歌は、神様の大いなる恵みを讃美している讃美歌です。

*救いの恵みに与った(あずかった)者の歩み 

そして、救いの恵みに与った私達の、その後の歩みに於いて、恵みは、私達を立ち上がらせ、生き生きとさせてくれます。私達の人生には苦難がいろいろな形で押し寄せてきます。経済的困難、思いがけない病、自然災害、又、愛する人との別れ、人間関係におけるさまざまな問題などなど・・。それにもかかわらず、神の子とされた信じる者達の歩みは、一つの恵みに、やがて新しい恵みが加わり、恵みから恵みへと導かれていくことが語られます。

異なった環境で、異なった恵みがいつもそこにあるのです。順境の時と、逆境の時、青年時代と老年時代、自分の重荷を負う時と人の重荷を負う時、それぞれの時に、信じる者には、16節にあるようにイエス様の満ち溢れる豊かさの中から、恵みをいただき続けます。神様の恵みは、同じところにとどまっているのではなく、私達が生きる現場に応じて次々と形を変えて注がれます。そして、どのような困難の時にも押しつぶされない勝利が約束されているのです。聖書は真実です。恵みが途切れることはありません。もし、神様が用意されている恵みがわからず、苦しい時には、神様に、「信仰の目を開かせて下さい」と祈ることも良いでしょう。私達が受ける試練が、あとになってからその意味を知ることもあります。

*私の証し

私は、主人の母の介護を通して、神様の恵みを感じることが多々ありました。が、ある時期、神様の恵みを感じることが困難でした。それは母に幻視(ないものが見える)が起こっていた時期でした。母は昔、幼い娘を亡くした体験からか、小さい女の子がそばにいたのにいなくなったと捜す症状でした。何日も続くと私自身も寝不足になります。もう家での介護は限界かなと考え始めていた時です。母は別の症状に移ったことがきっかけで、小さい女の子を捜し回ることは終りました。困難な仕事と思えることでも神様は必ず助けて下さり、どんなに大変なことでも、ぎりぎりになって「神様、もう出来ません」と祈ると、必ずそこから又、新しい状況が開かれていくという経験を何度もしました。それ以来、何か大変なことが起こっても、私が引き受けられるから、神様はそのような状況に私を置かれていると自然に思えるのです。そして、その場その場で「ああ、守られている」と神様の恵みを実感し、感謝の日々です。

*「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(18節)

 イエス様が十字架にかかられる前に、弟子達に「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と言われました。その時、弟子の一人が、「私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。イエス様は、「私を見た者は父を見たのだ。なぜ、『御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」と答えられました。 イエス様は永遠の世界から、私達の住む世界に、私達を神の子とするため、私達に神様を示すために来て下さった!のです。クリスマスの本当の意味を一人でも多くの方達に知って欲しいと心から願うものです。