2020年8月30日の説教要旨 詩編131編・マタイ18:1-5

「心の清い者」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに

本日の 詩編131編は、澄んだ敬虔に満ちた詩で、詩編の中でも最も美しいものの一つに数えられています。夕刻、太陽が谷の上を静かに照らしながら沈みかける情景と共に、それがまるで、夕べの鐘のように響きわたる光景を思い浮かべることが出来ます。その中で著者ダビデは、素直な、まっさらな心を持つ子供のように神の前に跪(ひざまづ)き、祈りを捧げている姿が想像できます。

この祈りは、若い時に苦労を得て大変な状況を乗り越えてきた後に、神様との交わりを通して平安を見出した人の心を表しています。ダビデが神様から与えられた安らぎは、神様と共にある魂の平安によるものでした。

*誰が一番偉いのか

本日の、マタイ福音書での弟子達の質問は、「天国、神の国では 誰が一番、偉いのでしょうか」です。弟子達の「神の国」のイメージは、人が住む社会と同じように、人々に対してそれぞれの地位や順序が与えられて生活していると考えていたのでしょう。そしてイエス様が弟子達の中からペトロ、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネの3人だけを選んで高い山に連れて行ったり(17章)、神殿税をペトロの分まで納めた(17:27)ことを間近に見て、他の弟子達も、自分達がイエス様から呼ばれる機会があるとの期待感、或は、劣等感のような感情が生まれ、それがきっかけで誰がこの中でより偉いのかという議論に発展したと考えることができます。このような思いは、自分を周りと比べた時に すぐに起こってしまう思いでもあります。

*幼い子供のように

「だれが一番偉いか」の質問に対して、先ずイエス様は「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」(2節)とあります。「子供」は、幼い子供を表す原語が用いられています。イエス様は弟子達に自分をまわりの人と比べることが大事ではないことをはっきり示され、心を入れ替えて、幼い子供のように自らを低くすることが大切であることを教えられました。

私にとって幼い子供のイメージは、自己主張が激しく、何かを要求する時、やって貰えるまでは泣き止まないなどの印象があったので、この「子供のようになる」というのは、あまりピンときませんでした。しかし子供がそのようにするのは、自分では出来ないことを知っているので助けを求めるサインとして、手を貸して欲しい人に、自らができる限りの表現で訴えているのだと考えることも出来るでしょう。イエス様が ここで一人の子供を呼び寄せて弟子達の中に立たせて、このたとえ話をしたのは、幼い子供は、与えられる教えや助けを、素直に受ける者だということを伝えようとしているのではないでしょうか。

*神様の願い

神様は私達に、今まで培った経験、知恵や知識、資格や評判などにとらわれずに、ただ子供のように神様に立ち返り、神様の望まれる救いの道へ向きを変え、心から悔い改めることで自分自身を見つめ直すことが必要だと言っているのだと思います。

この方向転換は、この世で生きる者にとっては難しいと思えるかもしれません。しかしイエス様は私達に子供のようになることを求めておられます。幼い子供は失敗するのが当たり前です。できなくても何度もチャレンジをして、そして出来ない時は、素直な気持で誰かに助けを求めます。

*子供を受け入れる者は、イエス様を受け入れる者(5節)

私達はこのような子供を受け入れ、愛していく心の準備はできているでしょうか。イエス様は、弱い小さく見える子供や、弱しく頼りがいのない人、何か助けを必要としている人達を受け入れなければ、神の国に入ることは出来ない、イエス様を受け入れる者にはなれないことを私達に伝えようとしています。私達は今、全てを捨てて神様の願う、神様が私達に与えて下さった本来の場所へ戻り、その道へ歩もうとするならば、素直な目で物事が見えるようになり、清い心で神様が示される、その道を歩んで行くことができると思います。 その一歩として、まずは私達のできることを神様に献げて行きましょう。

2020年8月23日の説教要旨 出エジプト30:11-16・マタイ17:24-27

「主イエスの贖い」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、神様に助けだされて、荒れ野での生活をしていたのは紀元前1200年頃といわれます。奴隷から自由な身となったイスラエルの民は、神様と『神の民』となる契約を結び、神様はモーセを通して、人々が聖(きよ)く正しく生きる道しるべとして律法、規則を授けました。

*登録税

出エジプト記30章は、20歳以上の男子を対象とした人口調査の時の、登録税に関する規定が記されています。このお金は、人々の命の代償金として神様に献げられました。代償金は半シェケル(今のお金で約1日分の労働賃金)と定められました。この金額は、神様がイスラエルの人々の「命を贖(あがな)うための約束のお金」であったので、多く献げたり少なく献げたりは出来ないものでした。この神様との約束が基(もと)なりイエス様の時代には、同じ半シェケルを神殿税として毎年納めることになりました。このお金は神殿での献げものに使われ、イスラエルの人々の贖罪(人々の罪があがなわれる・赦される)の約束の意味を持っていたそうです。

*イエス様と神殿税

イエス様一行がカファルナウムに来た時、神殿税を集める者達がペトロに、「あなた達の先生は神殿税を納めないのか」と言いました。ペトロは、「納めます」と言って家に入りました。

私達の税金は、国民の生活や安全を守る警察・消防・道路・水道の整備、又、年金・医療・福祉・教育など公的サービスや、社会活動などに使われますから、社会で生活していく会費のようなものと言えるかもしれません。

それに対し神殿税は神殿の運営や修理費に用いられ、神殿税を納めることが神様に選ばれた民の一員であることの一つの「しるし」でもありました。

*地上の王と天上の王

家に入ると、イエス様の方から、「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子供達からか、それともほかの人々からか。」と言い出されました。ペトロは「ほかの人達からです」と答えると、イエス様は「では、子供達は納めなくてよいわけだ」と言われました。人間の王は自分の子供達からは税金を取り立てないのだから、天上の王(神様)の子供達も同じように、納税には自由であると言われたのでしょう。しかしイエス様は続けて「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。」と言われ、ペトロに釣りをして、最初に釣れたの魚の口の中にある銀貨一枚で、自分とペトロの分を納めるように言われました。イエス様は地上において「神の子」でありながらも「人間」としてへりくだり、全てにおいて正しく歩まれたのでした。

*私達の罪の代償・罪のあがない

神殿税は、毎年繰り返される罪の贖(あがな)いの「しるし」でした。

しかしイエス様は、終りのない、繰り返される罪の贖(あがな)いから私達人間を解放するため「一度きりの、あがないの代価」を払って下さいました。「私達の命の代償」としての保証金、納入金を神の御国に納めて下さいました。それはイエス様が私達の罪のために十字架にかかり、ご自分の命を捧げて下さったということです。そのことにより、私達人間の罪の代価が支払われて、私達は神様から自由にされているのです。

*神様とイエス様の私達への愛

神様は人を地のちりで形造り、その鼻に命の息を吹き込み、人は神様と共に生きる者となりました。しかし人は罪を犯して神様と共に生きられなくなりました。それでも神様は人間を見捨てることはなさらず、ご自分の独り子であられるイエス様を私達のもとに送り、再び神様と共に生きる者として下さり、イエス様を人々の命の贖いとされたのです。 これほどまでにして、神様は私達人間を愛して下さっています。イエス様が私達のために犠牲を払って下さったのですから、私達はイエス様の愛に包まれて歩む信仰を得なければなりません。それは私達がイエス様を信じて、イエス様は神の子であると告白することです。イエス様は、どんな時にも私達の隣にいて下さり、励ましを与えて下さるお方です。

2020年8月2日の説教要旨 詩編2編・マタイ福音書17:1-13

「主イエスの変貌」     加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編2編は、ダビデがイスラエルの王として、油を注がれた出来事(*)を思い起こさせています。(*油はオリーブ油。油注ぎ=油は神の霊の象徴でもあり、王や祭司の聖別、献身のしるしともなる)。7節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」は、イエス様が洗礼を受けられた時に聞こえた神様の言葉「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」、又、本日の、雲の中から聞こえた言葉「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(5節)と共通点がある言葉です。又ヘブライ書でも「キリストも、大祭司となる栄誉を・・『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」(5:5)との言及があり、大きな意味を持つ言葉であると言えます。

*弟子達と高い山

今日の聖書の「高い山」(マタイ17:1)は、神様ご自身が重要な啓示を表す場所、神様と出会う場所として用いられています。例えばモーセはホレブの山で「柴が火で燃えているのに燃え尽きない柴」を見て神様と出会い(出3章)、その場所で「十戒」を受け取りました(同19:20)。預言者エリヤも命を狙われていた時、み使いに励まされてホレブの山に着き、そこで神様に出会い(列王記19:3~)、彼の後継者エリシャに油を注ぐように告げられました。そして本日の聖書は、イエス様がペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れて登られたこの高い山に、モーセとエリヤが登場し、神様の啓示がなされています。イスラエルの人々は、モーセを通して与えられた教えを守り続け、主の日(マラキ書3:19~・終末の神様の裁きの日、イスラエルの人々にとっては救いと希望の日)が訪れる前に、エリヤが再び現れるという約束(同23節)を待ち望んでいました。ペトロ達は自分達の主であり師であるイエス様がこの二人と語り合っている姿に、どれほどの驚きをもって見つめたことでしょうか。

*ペトロの反応

 ペトロは、余りにもその光景が素晴らしかったので、イエス様達三人の為に仮小屋を建てたいと申し出ました。中近東の世界では大切なお客様をもてなすために仮庵(仮小屋)を建てる習慣があったようです。ペトロは突然の出来事に混乱しながらも、仮小屋を建てて歓迎し、そして少しでも長く、この素晴らしい出来事が続いて欲しいと願ったのでしょう。

*弟子達の恐れ

弟子達は、光り輝く雲の中から神様の声が聞こえた時、ひれ伏し、非常に恐れました。父なる神様は今弟子達に、父なる神様ご自身がイエス様と共にいて、イエス様を愛していることをお示しになり、「これに聞け」と語ります。イエス様が語る言葉は、まさに父なる神様の御心であり、神様の言葉であることを宣言したのです。

弟子達は、この神様の声に、神様の臨在に、非常に恐れて顔をあげることさえ出来なくなったのでした。するとイエス様は弟子達に近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言いました。

弟子達が顔を上げて見ると、イエス様のほかには誰もいませんでした。イエス様は山を下りる時、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と、弟子達に命じられました。

*神様の現れ

私達は、今、この主の栄光を見ることが赦されています。弟子達が神様の栄光、イエス様の真っ白く輝くその姿を見たように、私達にもご自身の姿を現わそうとして下さっています。

達の心の中には、聖霊が宿っています。その聖霊の助けによって、私達は、心の目で、霊の目でイエス様の姿を見ることが出来、感じ取ることが出来るのです。それは、日々の生活の中の祈りや、口ずさむ讃美の中で、又、礼拝の中や、心を合わせてお互いのことを祈る時に、神様の栄光や素晴らしさを感じ取ることが出来るのかもしれません。 私達が神様の前に静まり、心を向け祈る時、私達がどこの場所にいても、イエス様の姿や栄光、その現れ、その力を感じ取ることができるのです。

2020年7月19日の説教要旨 ヨブ記9:2-13・マタイ福音書14:22-33

「神への信頼」     加藤秀久伝道師

*はじめに

ヨブという人物は、長い間、神様から祝福された生活をしてきました。家族が祝福され、財産も豊かに与えられていました。しかしヨブはある日突然にすべてを失い、苦しみの中で、なぜ、このような状況にあるのかが分からず、その答を見出したいと求め続けていました。ヨブはそのような葛藤の中にあっても、神様がこの天地を支配する方であることを思い起こしています。「山も、大地も、太陽も、星々も、そして海の高波さえも、神様の命令に従う」と語ります。(ヨブ記9:5-8)

しかしまた同時に、ヨブは、神様がそばを通られても気づくことがなく、過ぎゆかれても悟らない、自分の愚かさを嘆きます(同11節)。

なぜ人は、神様が計りがたいほどの大きな業をなされ、数々の不思議な業を成し遂げられていることに気づくことができないのでしょうか。

*気付けなかった弟子達

弟子達は、舟で湖の向こう岸へ向かっていました。夜になる頃、舟は岸から何キロメートルも離れていました。しかし強い向かい風だったので、彼らは、波に悩まされていました。夜明け頃、イエス様は湖の上を歩いて弟子達のところに近づいて来ました。弟子達は、イエス様が湖の上を歩いてくるのを見て、「あれは幽霊だぁ」と言っておびえてしまいます。

彼らは恐ろしさのあまり、大声で叫んでしまいました。

彼らは、イエス様は「何でも出来る本当の神の子」であることを知っていたはずですが、イエス様が湖を歩いてくる姿を見ても、人が湖を歩けるはずが無いと思い込み、イエス様に気づくことができませんでした。

イエス様は弟子達に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と、怖がっている彼らの気持を落ち着かせ、励まし、安心させて下さったのです。その時イエス様に気づくことが出来たペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。ペトロも水の上を歩いてイエス様の所へ行けるようにして欲しいと頼んだのです。イエス様は、「来なさい」と言いました。ペトロは、その言葉を信頼し、水の上に立つと、イエス様だけを見つめて、歩いて行きました。

*「主よ、助けてください」

ところがペトロは、イエス様から目をはなし、風によって大きな波が立つのを見た時、又、恐ろしくなり、イエス様を信じる心が弱ってしまいました。その瞬間、ペトロの体は、水に沈み始めました。ペトロは、大慌てで「主よ、助けてください」と叫びました。そこでイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロをつかんで助けて下さり、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。そしてイエス様がペトロを連れて、舟に上がられた、その時、風がやみました。舟にいた弟子達は みな、イエス様を礼拝して言いました「確かにあなたは神の子です」と。

*主を求める

弟子達は、イエス様の奇跡をたくさん見て、イエス様が何でも出来るお方だということをよく知っていたはずです。この日もイエス様の奇跡を見たばかりでした(14:13~参照)。そのイエス様が、弟子達の舟がうまく前へ進むことが出来ないのを見て心配して近づいて来て下さったのに、弟子達は「幽霊だ」といって怖がり、ペトロも、始めはイエス様の力を信頼していましたが、波を見て怖くなってしまったのです。

私達の心もガリラヤ湖の湖のように、波のない、穏やかな時もあれば、荒れ狂う波が立ち、どうすることも出来ない感情の時があると思います。その私達の心に、平安、落ち着き、安らぎを下さるのは、神の子であるイエス様のほかに誰もいません。

私達がイエス様に対する信仰が弱いと感じる時こそ、「主よ、助けてください」と叫ぼうではありませんか。弟子のペトロでさえ、信仰が弱く、溺れかけました。しかしイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロを助けて下さいました。 イエス様は、信仰の弱い私達を助けて下さる 優しいお方です。イエス様は、私達が困っている時、そのことを一緒に悩み、悲しみ、側にいて、私たちを助けたいと願っているお方です。

2020年7月5日の説教要旨 出エジプト記16:6-12・マタイ福音書14:13-21

「人々を満たす神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

今日の旧約聖書にはイスラエルの民がエジプトを出て一ヶ月が過ぎた頃、荒野に入ると人々はモーセとアロンに向かって不満を言い出したことが記されています。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなた達は・・・この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)。 神様は人々の不平を聞き、『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。』とモーセに約束されました。その通りに毎日夕方になると、うずらが飛んできて人々はそれを捕まえて肉を食べ、朝になると宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると荒野の地表の上に薄くて壊れやすい物が大地の霜のように薄く残っていました。これが神様が与えられたパンであり(13-14節)、人々はそれを「マナ」と名付けました(30節)。7日目は安息日のため6日目に2日分の量を集めることが出来、人々はこのことを通して神様のことを知るようになりました。

*荒れ野

今日の新約聖書には、洗礼者ヨハネが亡くなったことを聞いたイエス様が(マタイ14:1~)が、「舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」とあります。イエス様は、洗礼者ヨハネの身に起ったことの意味を思いながら神様に問いかけ、祈りを捧げたことと思います。「人里離れた所」は、元の言葉では「荒野」という意味があります。荒野は人が生活するには難しく飢えや渇きを覚え、生存していく保障のない場所でもありますから自ら荒野に入ることは珍しいことであったでしょう。更に、荒野は私達にとってみれば夢も希望もなく、ただ絶望的な場所に思えます。その荒野(人里離れた所)にイエス様が行かれたとを聞いた群衆は、方々の町から歩いて後を追いました。イエス様は、お一人で祈る時間をさえぎられたにもかかわらず、群衆を見て深く憐れみ、彼らの病気を癒されました。イエス様はいつも必要とされている人達に手を差し伸べ 寄り添いました。

*「それをここに持って来なさい」

夕暮れになり弟子達がイエス様に人々を解散させて欲しいと言いますと、イエス様は「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。しかし弟子達はパン五つと魚二匹しかないことを告げますと、イエス様は「それをここに持って来なさい」と言われて、群衆に草の上に座るようにお命じになり、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達にお渡しになりました。弟子達がそのパンを群衆に与えますと、「すべての人が食べて満腹し」(14:20)、残ったパンの屑は十二の籠一杯になりました。

*天を仰いで祈りをささげ、食べることができる

これは言い換えると、私達が聖書の言葉を読むと同時に、聖書のみことばを食べること・・まさに、こうして集まって神様のみことば、聖書の話を聞いて、霊によって満たされる(満腹)を意味しています。

イエス様が荒野の誘惑の中で語られた申命記8:3『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』が私達に意味ある言葉として、心の内に生きるエネルギー、活力として宿っていくのだと思います。

*わたしたち

では私達は神様からの食べ物、聖書の言葉を食べているでしょうか?

 みことばをお腹いっぱい食べているでしょうか? 又、聖霊の助けを待ち望み、心を燃やして日々の生活をしているでしょうか?

イエス様は、イエス様を方々の町から歩いて後を追いかけて来る人達に与えたように、「生きた神のことば」を私達にも与えたいと願っておられます。 復活されたイエス様が、エマオに向かう二人の弟子に現れて(ルカ福音書24章)、イエス様から聖書の説明を聞いている間、彼らの心が燃えていた時(24:32)のように、心の中から、わき上がる喜びや熱い思いを、神様は私達にも持って欲しいと願われておられます。この思いに応えて、今週一週間、聖書のみ言葉を読み、祈り、共に歩んで参りましょう。

集会案内

主日礼拝 毎週日曜日

前10時半(短縮礼拝プログラム)

教会学校礼拝 第2~第4日曜日 

午前9時半~10時頃

祈祷会

第1・3・5水曜日  午後6時

第2・4水曜日 午後3時

聖書研究会 第2・第4水曜日

午後3時半頃~4時頃

いずみ会(学びと交わり)

第2水曜日 午前10時半

★ 初めての方、一度だけ訪ねたい方、どなたでも歓迎いたします。 
☆ 礼拝中の入退出は、受付対応が出来ない場合がありますが、ご了承ください。1階礼拝堂中央左側扉を開けて出入り下さい。
★ ご質問がある方は、お気軽にご連絡下さい。お待ちしています。
☆ 982-0814 仙台市太白区山田字船渡前17-4 (022)243-6710
教会の地図/e-mailは、下記リンクをクリックしてご覧下さい。
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2020年6月28日の説教要旨   エズラ記 7:25-26・マルコ福音書6:1-6a

「まことの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 律法学者であり祭司であるエズラは、神様に全き信頼をおいた人物です。

紀元前458年頃、エズラは、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民と共にエルサレムで、再び神の律法の書(トーラー)を拠(よ)り所とした新しい信仰共同体を形成するために貢献しました。

*バビロン捕囚

神様がイスラエルの人達を「捕囚民」とすることを許した理由は、彼らがまことの神を忘れ、異教の神を彼らの神としていたからです。もし彼らが捕囚の地バビロンへ行かなかったならば、「本当の神とは誰か」を思い起こすことが出来なかったのでしょう。神様は、イスラエルの民が、再び心を尽くして真の神様を捜し求め、神様を知ることで彼らの信仰が立ち直ることを願われたのです。 

神様は、「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。わたしは捕囚の民を帰らせる。

(エレミヤ書29:12-14)と約束されました。イスラエルの民はバビロンにおいて苦しみ、嘆き、自分達のしてきた数々の罪を悔い改め、神様と神様の言葉(律法の書)を求めるようになりました。「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩篇1:2)になったのです。神様から離れてしまった民は再び神様に従う民へと変えられて、神様の約束は実現したのです。

*エズラ

エズラ記7:6に「主の御手が彼の上にあった」、7:9に「神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」とあり、28節に「わたしの神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私と一緒に上るイスラエル人のかしらを集めることができた」とあります。エズラには絶えず主が共におられたことが分かります。エズラは神様の律法を調べ、この律法をイスラエルの民に実行させるためには教育的事業が必要であり,神様はその為に必要な人材をも備えて下さったのです。エズラの歩みを通して,すべてが「神様の時に、神様の方法」でなされていくのを知ることができます。

*故郷でのイエス様 

本日の新約聖書は「イエスはそこを去って故郷にお帰りになった」と始まるので「そこ」とは、前の、神様の業がなされた場所(出血の止まらない女性の癒しと、会堂長の娘を甦らせた奇蹟)を指し、神様の偉大な力が示された場所です。イエス様は安息日に、故郷で会堂に入り、教え始められました。会堂に集まった多くの人々は話を聞き、「この人はこのようなことをどこから得たのか、この人に与えられた知恵や、手で行われる力あるわざは、一体何か」と驚きました。けれども人々は、イエス様を「この人」と呼び、イエス様を「神の子」として信じることが出来ない様子が伺えます。特にイエス様が大工の息子で兄弟や姉妹がいることも知っていたので、同じ人間としてしか見ることが出来ませんでした。イエス様が自分達の上に立つ事に納得がいかなかったのかもしれません。

*わたしたち

私達がイエス様を、どのようなお方として向き合うのかということはとても大事なことです。主を待ち望みつつ向き合う時には御言葉に触れ、讃美し、祈る時、心の中から大きな感動がわき起こり、押さえようもない喜びで一杯になります。しかし自分の考えや経験、知識だけによって聖書を読むならば、神中心の生活は退屈っぽく、正当性を求めるだけのつまらないものになってしまいます。世の中すべてのものが自分の努力次第で手に入れられるように思えてきます。かたくなな心のままでは主に出会うことができません。 イエス様は、私達の生活のあらゆる面で今も生きて働いておられるお方です。周りの人々、周りで起こる出来事や世の変わり方を、御言葉を通して見ていく時、生きて働いておられる世の救い主としての主イエス・キリストに出会うことが出来ます。私達は、主が働いていて下さる礼拝で、さらにイエス様の声に耳を傾け、神様の愛を溢れるほど受けて、聖霊による豊かな喜びで満たされるよう、共に祈り求めていきましょう

2020年6月14日の説教要旨  イザヤ書 65:1-7・マルコ福音書 5:1-20

「罪からの解放」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

イエス様は、向こう岸に渡る途中、湖の荒れ狂う嵐を弟子達の前で静め、向こう岸に着く前に、信仰を持って心を整え、準備しなさいと弟子達を励まされました。向こう岸のゲラサ人の地方は異邦人が住む悪のはびこる町(世俗の生活)ともいえる場所でした。イエス様が舟から上がられると直ぐに、汚れた霊に取りつかれた人がイエス様の行く手をふさぎました。彼は墓場を住まいとし、昼夜関係なく墓場や山で奇声を上げ、自分の身体を石で傷つけ、あまりに凶暴さに足枷や鎖でつながれましたが、その度に、鎖を引きちぎり足枷も砕くので彼を縛っておくことは出来ませんでした。

*汚れた霊

汚れた霊は、人の心と身体、考え方など隅から隅まで入り込んで、彼を操っていました。現代の私達の社会でも、汚れた霊が人々の心の中に住み着き、その人の人格が変わってしまうということは起こり得ることです。汚れた霊はいつも誘惑する機会を探し、人々を滅ぼし殺そうとしている悪魔・サタンそのものです。 私達は神様から一人一人愛されている存在なのに「あなたは価値がない、この世にいなくても良い存在」と、否定的な声をかけてくるのはサタン・汚れた霊の仕業です。

*「汚れた霊、この人から出て行け」

イエス様が、このように言われると、汚れた霊は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。(6節・マルコ1:24 参照)」と、大声で叫びました。

汚れた霊は、イエス様を神の子であると見抜き、走り寄り、ひれ伏し、自らを守ろうとして「かまわないでくれ。苦しめないでほしい」と、懇願したのです。目に見えない霊の世界・闇の世界に住む者達が、この時すでにイエス様が神の子である、と知っていたとは大変驚くべきことではないでしょうか。汚れた霊は、自分達をこの地方から追い出さないでほしい。豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願いました。イエス様がお許しになったので、汚れた霊は取り憑いていた人から出て豚に入りました。

二千匹ほどの豚の群れは崖を下り、湖になだれ込み、おぼれ死にました。汚れた霊が、どのような力を使って他の者の言動をおさえつけたとしても、神様は、悪魔の行動を押さえつけ、代わりにご自分の栄光のために良い方向へと導いて下さることを、この出来事は証明したのでした。

*ゲラサ人の地方の人々

豚飼い達は逃げ出して町や村でこの出来事を話し、聞いた人達はやって来て、悪霊に取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て恐ろしくなり、イエス様にその地方から出て行ってもらいたいと言いだしました。人々は、悪霊に取りつかれた人が主イエスとの出会いによって大きく変えられたということよりも、彼らの財産である豚が犠牲になったという被害に目を向けてしまったのです。

*汚れた霊と、わたしたち

現代の私達の生活と照らし合わせると、汚れた霊に取り憑かれた人は、気持が落ち込み、疲れ切って考える能力が弱くなっている時に、悪魔のささやきに耳を傾け、悪魔に心を開き、悪魔を受け入れてしまったそのような一人かもしれません。私達は社会にいて汚れに満ちた所にふと足を踏み入れていないでしょうか。悪魔の「大丈夫だよ、こっちにおいで」とのささやきに、引きずり込まれていないでしょうか。しかしイエス様は、罪から、暗闇から勝利されたお方であり、私達はそのお方のしもべなのです。たとえ自分がどうしようもなく弱い人間だ、だめな人間だとつぶやいたとしても、イエス様は決して見捨てることなく私達に行くべき道に光を与え、「わたしのもとに来なさい、わたしがあなたを癒してあげよう、わたしがあなたをゆるしますよ、」と言って下さっています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(新改訳 : コリント5:17)とあるように、私達がキリストの内にあるなら、すべてが新しくなります。今、神様の内に心を委ね、神様の臨在されるこの礼拝の中に、私達自身の身を横たえて、心を明け渡すのなら、私達は新しい者へと変えられるのです。今週も信じて祈り求めて歩んで参りましょう。

2020年6月7日の説教要旨 詩編 89:6-15・マルコ福音書 4:35-41

「主イエスを信じて進め」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとっての奇跡とは、どういうものですか。

今日の箇所から5章の終りまでは奇跡について書いてあります。

本日はその最初の奇跡の出来事を共に聞きましょう。

*「向こう岸」

この日、イエス様はガリラヤ湖のほとりで教えていました(4:1)。夕方になってイエス様は弟子達に、「向こう岸に渡ろう」と言われました。

5章1節には「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とありますので、「向こう岸」とは異邦人が住んでいる所でした。又、この地方の人々は豚を飼っていました(同:11節)。豚は、ユダヤ人から見れば、汚れたものとされていました。ですから、イエス様が示した「向こう岸」は、汚れた土地・場所を指していると言えます。

*「その日の夕方」

イエス様は御言葉を語ることが連日続き、疲れがたまっていたのでしょう。そのため夕方になってイエス様は、あまりの疲れからか群衆を避けて、弟子達に「向こう岸に渡ろう」と告げたと思います。ガリラヤ湖は、海抜マイナス213mの地点にあり、昼間強烈な直射日光を受け、湖面の水温が24度位まで上昇します。ところが夕方になると、東側の上空の空気が急に冷えて、それが絶壁の切れ目から突風となり、湖面に吹き付けてくる特徴を持っていました。突然荒れ狂うガラリヤ湖のことは、元漁師のペトロも知っており、夕方、沖へ出す危険も承知の上で舟を出したのでした。

*「イエスは、・・眠っておられた」

ペトロにとって、イエス様のお言葉は絶対的で、向こう岸に渡ることは何か意味があり、同時に、無事に岸に着くことも信じて安心していたと思います。一方イエス様は、お疲れになって『(とも)の方で枕をして眠っておられた』(38節)とあります。そんな中、突然の突風が起きました。

まるで私達が「近い内に地震が来るよ」と聞いているものの、まだ大丈夫と、安心仕切っている時に、突然、大地震に襲われるような状況だと想像できます。突然の激しい突風により弟子達はすぐさま反応して舟の舵を取ったことでしょう。しかし舟の揺れが激しくなり、波は高くなり、辺りの光景は凄まじさを増していきました。どうにもならないと判断した弟子達は、イエス様を起こして助けを求めたのでした。

*「清い生活の場所」から「世俗の場所」へ

「向こう岸」には汚れた町が待っていました。仮に弟子達の舟が「清い生活をする場所」としたら「向こう岸」は悪のはびこる町「世俗の生活の場所」と言ってもいいでしょう。だからこそイエス様は人々にたとえ話や、病の人を癒すことを弟子達に見せて、弟子達が信仰をしっかりと持つように教えられたのだと思います。

波が穏やかな時は、弟子達の心は平安に包まれ、ゆっくりのんびりした気持で、奇跡やたとえ話を思い起こしていたでしょう。しかし突風で、舟が波に飲まれそうになった時、弟子達はパニックに陥りました。それは丁度、私達の信仰生活にも照らし合わせることができると思います。不安な出来事や問題が起きた時、我を忘れて冷静な判断が出来なくなり、周りが見えなくなり、その問題だけに気が向いてしまう。そのような動揺した感情に、イエス様は「黙れ、静まれ」と言ったと思います。

黙れ」は、「ものを言うことをやめる、無言になる、自分の意見を主張しない」意味があります。イエス様は弟子達の感情を乱す原因になった嵐に対して「黙れ、静まれ」と命令することで、穏やかな湖に戻し、弟子達の心にも落ち着きを与えることができたと思います。

嵐を静めた後、イエス様は弟子達に「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」、他の福音書では、「信仰の薄い者たちよ(マタイ8:26)」「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25」と言われています。どれもイエス様は弟子達に、信仰の弱さ、足りなさを指摘し、「しっかり信仰を持ちなさい」と励ましていると思います。 私達も、嵐のような忙しい毎日の生活の中でイエス様の力強い助けがあることを信じ、祈り求めて一週間の歩みを進めて行きたいと思います。

2020年5月31日・ペンテコステの説教要旨

エゼキエル書 36:25-28・ヨハネ福音書 14:15-26

        「現臨する神様を伝える『真理の霊』」   佐藤 義子牧師

*はじめに

 今日は、ペンテコステの記念の礼拝です。社会ではクリスマスとイースターに比べてペンテコステはほとんど知られていません。ペンテコステはギリシャ語であり、日本語で「聖霊降臨日」と呼んでいた方が、もう少し広まったようにも思われます。しかし「聖霊降臨日」と聞いても、日常的な用語ではないことに加えて、イエス様は聖霊について次のように語られました。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(17節)

*「世は・・・受け入れることができない。」

2000年以上も前に、イエス様が聖霊降臨の予告をされた時に、「この世では、真理の霊(聖霊)を見ようとも知ろうともしないので受け入れることが出来ない。」と、すでに言われていたことに注目したいと思います。

 私達は、この世・この世界で、<限られた時間と空間>の世界を生きています。それゆえ多くの人達は、<時間と空間の世界を突き抜けて>天から聖霊が降るという出来事は日常を越えており、関心を持たずに受け入れられない、ということでありましょう。人は何かを見たい、知りたいと思えば、それを実現する為の道を考え実行します。けれども見ようとも知ろうとも思わなければ、どんなにそのものに価値があっても、それに触れることはなく、見ても、聞いても、ただ素通りで終ってしまうことでしょう。

*「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」

「あなたがた」とは、イエス様とまもなく地上の別れを迎える弟子達であり、そして今は、弟子達の信仰を継承している教会の私達クリスチャンのことです。そうです!私達クリスチャンは、世に属さず、聖霊を知っているのです。その証拠に、以下のみ言葉(コリント書12:3)があります。

聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです。

バプテスマを受けたすべての方々は、イエス様を「神の御子・救い主」と信じて信仰の告白をしました。この信仰は自分の力で信じたように思われがちですが、そうではなく、聖霊によって確信が与えられ、告白に導かれたことを、聖書は私達に教えています。

*「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)

 イエス様が地上を去られた後、弟子達は、罪のないイエス様を罪ある者として殺してしまう、この世の勢力に、押しつぶされてしまうのではないでしょうか。実際、復活のイエス様が弟子達の所に来られた時も、弟子達はこの世の権力を恐れて戸には鍵をかけていました。イエス様は弟子達の弱さをご存じでした。それでもなお、この地上に神の国を打ち立てていくためには、イエス様が地上を去った後もこれまで通り、神の国の福音は宣べ伝え続けられていかなければならず、この世の終りが来る迄に、一人でも多くの人達が救われることが神様の御心・御計画であるゆえに、弟子達には(そして勿論私達にも)「助け手」が必要でした。

*「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

「弁護者」と訳された原語には以下の意味があります。「助ける為にそばへ呼び寄せられた者、支持、弁護する為にそばに呼ばれて来ている者、肩を持ってくれる人、被告の友人で彼の性質について弁明し、同情を持って味方してくれる人、助け主‥等」。(後見人(後ろだて)」と訳す注解書もある。)イエス様は、「弁護者、すなわち聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)「この方は真理の霊である」(16節)とも言われました。

*私達の伝道

「聖霊・真理の霊」は、私達の心の内に真理を浸透させて下さいます。私達が真理の霊によって呼び起こされる時、私達の心に「真理」が支配し、それにより私達は罪や堕落から守られます。私達クリスチャンが、与えられた場所で、イエス様の教えを思い起こしつつ日々を歩む中で、その生き方から、何か「世」とは違うと感じられ、「それを知りたい」と、教会に導かれる方がおられたら、それは、共に働く聖霊のみ業です。