2019年6月9日ペンテコステ・仙台南伝道所15周年記念感謝礼拝の説教要旨

エレミヤ書14:11-14・マタイ福音書7:15-20

「良い木が良い実を結ぶ」   佐々木 哲夫

 

*滅亡の危機を目前にして 

聖書の民イスラエルは、歴史の中で国家存亡の危機を3度経験しています。1度目は、紀元前8世紀、アッシリア帝国によって北王国イスラエルが滅ぼされた時、2度目は、紀元前6世紀、新バビロニア帝国によって南王国ユダがバビロンに捕囚された時、3度目は、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された時です。ユダヤ人は、危機的な時代を神の言葉を礎(いしずえ)に生きました。本日の聖書は、2度目の危機の時代の預言者エレミヤの言葉と 3度目の危機を目前にした時代の イエスキリストの言葉です。

 *預言者の使命

預言者と呼ばれる人物は二重の使命を担っておりました。使命の第一は文字通り、神から預かった言葉を民に伝える働きです。時代は、新バビロニア帝国によって祖国が滅ぼされる危機的状況です。民の心は激しく揺れ動き、生きる方向を神の言葉に求めます。

その時、神からエレミヤに与えられた言葉が、11節 「主はわたしに言われた。『この民のために祈り、幸いを求めてはならない。…わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。』」でした。

なんと、国が滅ぼされると語るよう示されたのです。しかし、すでに、神はエレミヤに、預言を告げる根拠を示しておりました。「わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。」(11章 7節- 8節)。 神の言葉とはいえ、民の心は、戦争や滅亡ではなく平和や現状維持を求めます。民たちは、滅亡を預言するエレミヤにではなく、『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』(14章13節)と語る偽預言者の言葉に傾きます。

 *「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」

15年ほど前のことになりますが、当時の奉職先の学長先生が学長職を退任されるという時に、学長室に置いておられた数多くの名画の複製の中から、宗教部長を拝命していた私に一枚の絵をくださいました。複製といっても横60cm縦80cmという大きさの額縁に入っているもので、オランダの画家レンブラントが描いたエレミヤの絵です。光と陰の魔術師と呼ばれたバロック絵画の巨匠レンブラントが、預言者エレミヤを描いた名画です。絵の題名は「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」です。

自分の預言を信じてもらえない晩年の預言者が、体を横にして頬杖をついて、自らの想いの中に静かに浸っている姿が暗闇の中の光に浮かぶような構図で描かれている名作です。なぜ学長先生は、数あるお持ちの絵の中からこの一点を選んで私にくださったのだろうかとしばし考えさせられました。「君の悩みは預言者エレミヤの悩みの足元にも及ばないものだから忍耐が肝要」ということを教えようとしたのだという 勝手な自己解釈の学びをして納得したのでした。

 *二つ目の使命

  さて預言者が担っていた二つ目の使命は、民と神との関係を執(と)り成(な)すという務めです。預言の告知が、裁きを告げる義の業であるならば、執り成しは、救いをもたらす愛の業です。相反する義と愛の務めの狭間(はざま)で、エレミヤは「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく・・」と神に訴えています。

神の答えは、「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。」(14節)という厳しいものでした。

 *預言者イエス・キリスト

エレミヤから400年ほど後の時代になります。イエス・キリストの時代です。イエス・キリストは、三つの職務を担ったと教えられています。預言者(申命記18:14-22)としての務め、祭司(詩篇110:1-4)としての務め、(詩篇2)としての務めの三つです。本日の新約聖書の箇所は、預言者としてのイエス・キリストの言葉です。特に、18節に注目したいと思います。

良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない

イエス・キリストが弟子たちや群衆に語っている場面です。比喩を用いての表現です。この「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」の言葉に関し、宗教改革者のマルチン・ルターが次のように解説しております。

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正しい行いが 正しい人を作るのではなく、正しい人が正しい行いをする。

悪い行いが悪い人を作るのではなく、悪い人が悪い行いを生ずる。

どんな場合でも、良い行いに先立って人格が正しくなければならない。

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<木>自体が、重要だというのです。例えば「地の塩」と賞賛される行い、「世の光」と言われる行為が、その人を地の塩や世の光にするのではないのです。では、実ではなく木であるというならば、何をもって「良い木」となりうるのか。それが問題です。

 *本物と偽物

28歳の時に、私は新米の主任牧師として小さな教会に派遣されました。ある日、教会の信者さんで、はり灸治療院の先生をしておられた年配の方から「本物の宗教と偽物の宗教を、簡単に私にも判断できる方法を教えてください」と質問されました。目の不自由な方との会話では沈黙は良くないと教えられておりましたので「えー」とか「んー」とか とにかく声を出しながら考えていましたら、「私はこんなふうに考えます」というのです。聞いてみました。

「信者さんにお金を出すように要求する宗教は偽物で、逆に信者さんが自由に自主的に献金を捧げる宗教が本物だと考えますが、それで良いでしょうか」と言いました。なるほど、と教えられました。おかげで、その判別方法に今でも頷(うなず)くことがあります。               

羊の皮を身にまとってはいるが、内側が貪欲(どんよく)な狼は偽物です。外側の姿形や行いではなく、内側の存在が問題なのです。内側がどうあるべきかと考えさせられます。

答えの一つは、内側の自分が何をロールモデル(手本)にしているかであると考えます。外側に見えるところの行いではなく、内側の自分が何を信じて、この世で生きてゆこうとしているのかが大事だと考えます。ルターは、次のようにも解説しています。

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信仰は、その人を正しいものにすると同時に良い行いをも作り出す。

行いは、その人を正しいものにするものではないので、人は、行いをなす前に、まず正しいものとならねばならない。

信仰は、キリストとその言葉によって人を正しいものにするという恵みの祝福において、十分なものである。(『基督者(きりすとしゃ)の自由』36ページ)

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見える行いではなく、内側の自分が有する信仰が優先するというのです。

 *教会の時代

私たちは、預言者の時代でなく、イエスキリストが直接語った時代でもなく、教会の時代、すなわち、聖霊降臨(ペンテコステ)に始まった教会の時代に生きております。教会の時代は、聖書の言葉に聞き従って実を結ぶ時代です。使徒パウロは、テサロニケの信徒への手紙の中で次のように語っています。

 「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(2:13)

 仙台南伝道所は、開設15周年を迎えました。それは、神の言葉に連なっての15年であり、これからも継続する歩みでもあります。 そのことを感謝しつつ再認識したいと思います。 (文責:佐藤義子)

2019年 ペンテコステ礼拝

2019年6月9日(日)

仙台南伝道所 開設15周年 感謝礼拝プログラム (予定)
司会 横田 みゆき
奏楽 青木 優子(オルガン) 佐藤 由子(マリンバ)
前 奏    
招 詞   
讃 詠       546「聖なるかな」
交読詩編   121編(座席の前)
黙 祷   一週間の生活の感謝
讃 美 歌       66「聖なる、聖なる、聖なるかな」
ざんげの勧め 
ざんげの祈り  
ゆるしの言葉  
讃 美 歌      183「主のみたま降りまし」
聖  書    旧約聖書  エレミヤ書 14章11節~14節 
        新約聖書 マタイによる福音書 7章15節~20節
祈 祷
説 教    「良い木が良い実を結ぶ」  佐々木 哲夫 先生
祈 祷   
讃 美 歌   329「みまねきかしこし」
使徒信条   
献 金 
讃 美 歌   548「ささげまつる」
主の祈り    
讃 栄       541「父、み子、みたまの」
祝    祷   
後 奏

2019年6月2日の説教要旨

詩編62:8-9・フィリピ3:10-4:1

        「私達の目指すゴール」   佐藤 義子

*はじめに

フィリピ書は、パウロがローマの監獄に囚われていた時に書かれた獄中書簡と言われる手紙の一つです。イエス様が神の御子であり、私達を罪の支配から救い出すために十字架の死を引き受けられ、その後、神によって三日目に復活され、「聖霊降臨と再臨」の約束を弟子達に与えて昇天されました。今も私達に聖霊を送り続けて下さっています。この「福音」を、正しく宣べ伝えていくためには、いつの時代でも困難が伴ないます。が、パウロは私達の想像をはるかに越えた大きないくつもの困難の中で、伝道旅行を続け、教会をたて上げていきました。そしてそれらの教会の信徒達を心から愛し、育て、旅行先から、又、監獄からも手紙を書き、信仰を与えられたすべての人達が、信仰に堅く立って生きるように励ましました。

 フィリピ書は、フィリピの教会の信徒達に送られた手紙ですが、時代と場所を越えて全てのクリスチャン達に、そして私達にも届けられた手紙として、送り主であるパウロの熱い思いを感じながら読みたいと思います。

*クリスチャンの目指すもの 

私達は、信仰が与えられ洗礼を受けてクリスチャンになった時、それはとても大きな大きな恵みの出来事であるゆえに、そこで何かを達成したような(もう、これで安心!)「誘惑」に襲われることがあります。けれども、今日の聖書では、クリスチャンには達すべき目標・ゴールがあり、すでに伝道者として歩んでいたパウロさえ、まだ達していないと告白しています。「わたしは何とかして、そのゴールに達したい。神様がお与えになる賞を得るために、そのゴールを目指してひたすら走る」と言っています。そのゴールとは、「死者の中からの復活」(11節)です。

*「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」(20節-21節)

すべてのことには初めがあり終りがあるように、この地上での私達の世界は「終末と再臨」が来ることをイエス様は語り、約束されました。その時には、信じる者は、天に属する霊の身体(復活体)が与えられることをパウロは、「Ⅰコリント書15:35-」でも丁寧に記しています。

*「キリストとその復活の力とを知り」(10節)

神様の力がどれ程のものかは私達の想像を越えています。この世界を、昼と夜に分け、大空と海と地に分け、地上には植物を、天には太陽と月と星を、海には魚を、空には鳥を、地には動物を、そしてこれらすべてを管理する者として人間を創られました。この神様の測り知ることの出来ない創造の力は、イエス様を死から命へと復活させた力にも現れました。「キリストとその復活の力とを知り」とあるように、クリスチャンは、この神様の絶大な力を知ることがゆるされています。ところで、私達は神様を過小評価していないでしょうか。天使ガブリエルはマリアに、「神に出来ないことは何一つない」と宣言されました。私達は、主イエス・キリストについてさらに深く知ると同時に、神様がイエス様を復活させた、その「復活の力」を知らされつつ、ゴールに向かって走り続けていますが、その道程において、イエス様の苦しみにも与(あずか)ります。

*「キリストの苦しみに与り

信仰を与えられると、愛する家族や親族、友人達に救いの喜びや神様の恵み、平安の中で過ごす素晴らしさを知って欲しいと願うようになります。しかし、イエス様のご受難に比べれば、はるかに小さいとは言え、私達の伝道も又、多くの困難や試練の中に置かれます。時に孤立し、無理解、誤解、偏見もあります。神様を知るがゆえの社会の不正や罪との戦いもあります。私達は、クリスチャンとして生きる大きな恵みの中で、イエス様の苦しみにも与る(つながる・連帯する)のです。「イエスの名の為に辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5:41)ます。

*「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走る

「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」(Ⅰコリント11:1)。この呼びかけに応えたいと願います。

今週のみことば

今週のみことば 
★ ヨシュア記:
月曜日   1: 1~ 5:15   土地取得の準備
火曜日   6: 1~12:24 土地取得
水曜日 13: 1~19:51  土地の分配
木曜日 20: 1~21:45  逃れの町とレビ人の町
金曜日 22: 1~24:33  ヨシュアの最期・告別とシケム契約

【ヨシュア記について】
ヨシュアは、「主は救い」という意味を持つヘブライ語の男性名です。(ギリシア語はイエス-ス。イエス様のヘブライ語名もヨシュアです。)
ヨシュア記では、40年の荒野の旅を終えて約束の地に入り、その地における最初の征服の物語と12部族への土地の分配が記されます。また主の約束がすべて実現したのち、ヨルダン川東岸の諸部族は自分の所有地に帰ります。ヨシュアの告別、シケムでの契約更新があり、ヨシュアの死、エジプトから携えてきたヨセフの骨の埋葬、アロンの息子のエルアザルの死の記述をもって、ヨシュア記は閉じられます。
ヨシュア記の冒頭には、神様からヨシュアへの言葉があります。「…私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。強く雄々しくあれ…(1:5-6)。」神様はいつも「恐れるな」と励まし続けてくださいました。
そして「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている(13:1)。」と年齢に関わらず、神様が与えて下さった使命を全うすることを望まれました。
ヨシュアもイスラエルの人々に向かって「あなたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主がすでに与えられた土地を取りにいくだけなのだ(18:3)。」と信仰の言葉をもって励ましました。
ヨシュア記は、主の戒めに忠実であることによって祝福がもたらされること、不従順に対しては主の怒りがあることなど、申命記で語られてきた主の祝福と呪いの両面が繰り返し語られている書物でもあります。
(参考文献:Hendrickson Bibles, The complete Jewish Study Bible, Hendrickson Pub./ Messianic Jewish Pub., 2016)

【ヨシュア記24章より】
「…『あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。』民は応えた。『主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。』…」

今週のみことば

★ 申命記:説教・律法・祝福と呪い
月曜日  1: 1~ 4:43 シナイ山から約束の地までの旅の要約
火曜日  4:44~18:22 律法(十戒・礼拝・祝祭日など)
水曜日 19: 1~28:68 律法(逃れの町・規定・命令など)
木曜日 28:69~30:20 契約の更新
金曜日 31: 1~34:12 ヨシュアの任命・モーセの最期
              
【申命記について】
申命記(Deuteronomy)という書名は、「律法の書を書き写し(申17:18)」の部分が、七十人訳聖書(LXX)において「第2の律法」と訳されたことによると言われています。また、ヘブライ語聖書の申命記の書名は、( デバリイム/言葉たち)です。
申命記はモーセ5書の最後の書物にあたり、特に出エジプト記とレビ記に記録されている律法を繰り返し語ります。モーセの人生の最後の数ヶ月にイスラエルに語った事柄として記され、シナイから約束の地までのイスラエルの民の旅の要約や後継者の任命、モーセの死が記されています。
また申命記は文学的には前の4書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記)より、次に続く歴史書(ヨシュア・士師・サムエル記・列王記)に位置づけられるとも考えられています。またヨシュア記から列王記(ヘブライ語聖書では前の予言者の部分)を合わせて、「申命記史書/申命記史家による歴史著作/申命記主義的歴史書」と呼ぶこともあります。(マクグラス,121頁・フォン・ラート『申命記(ATD)』、序論参照。)

【シェマーとは】
申命記6章4-5節の言葉「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」はシェマー(聞け)/シェマーの祈りと呼ばれ、ユダヤ教の朝夕の祈りの中心です。主イエスも最も重要な戒めとしました(マタ22:34-40、マコ12:28‐34、ルカ10:25-28)。

 【愛の言語】
人は、それぞれの持っている愛の言語が違うと考えられています。愛を伝えたつもりでも、相手に愛していることが伝わらないのは、お互いに「愛されている」と感じる仕方が違うからかもしれません。
ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』いのちのことば社、2017年。によれば、愛には5つの言語があるとしています。
1. 肯定的な言葉(感謝・称賛・励まし・優しい言葉など)
2. クオリティ・タイム(相手の為だけに使う共に過ごす時間)
3. 贈り物(目に見える形や物)
4. サービス行為(相手がしてもらいたい事をやってあげる事)
5. 身体的タッチ(相手が必要としているスキンシップの形)
「愛する」とは、自分が愛したいように愛することではなく、相手がどのように愛されたいのかを理解し、相手に伝わる方法で愛することなのかもしれません。
主イエスが私たちに期待されることは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛し、隣人を愛することです。

今週のみことば

★ 民数記:シナイからカナンの地の入り口までの荒野の旅
月曜日  1: 1~ 4:49 第1回人口調査と氏族の詳細
火曜日  5: 1~10:10 規定の指示と幕屋
水曜日 10:11~20:13 シナイ出発と荒野での出来事
木曜日 20:14~26:65 迂回の歩みと第2回人口調査
金曜日 27: 1~36:13 後継者と主の命令・法

【モーセ5書/律法(Torah)全体の区分の一例】
1.創 1章-11章  「世界と諸民族の起源」
2.創12章-50章  「父祖とイスラエルの歴史のはじめ」
3.出 1章-18章 「エジプト滞在と脱出によるその結末」
4.出19章-民10:10 「イスラエルのシナイ滞在」           5.民10:11-申34章                          「シナイから約束された地の入り口までのイスラエルの行進」      (エドモン・ジャコブ『旧約聖書』白水社、2006年、41-42頁。)

【民数記について】
民数記は、ヘブライ語聖書の「荒れ野にて」という名の通り、約40年の荒野の旅の出来事を中心に、5書の特徴でもある様々な規定や暦、土地取得に関する話が記されています。約束の地を目前にしながら大きく迂回して、ようやくヨルダン川を渡る手前に辿り着くまでの話が記されています。またイスラエルの民族の数が多く記されているため、七十人訳聖書(LXX)ではἈριθμοί (アリソマイ=数・Numbers)とされ、日本語の聖書も民数記となっています。

【27章における2つの継承物語】
① 娘たちの土地継承
ツェロフハドには息子がなく娘たちだけでしたが(民26:33・1歴代7:15)、娘たちが指導者と共同体全体の前に進み出て、名の継承を申し出たことによって、一族の嗣業の土地(神様との契約の証し、祝福の証しでもある土地)の授与が約束されます(民27:1-11)。
このことは民数記36章において、「相続人が女性である場合の規定」として確立され、家族に息子がいない場合でも、主から与えられた嗣業の土地を氏族ごとに固く守ることが出来るようになりました。  
そして、ヨシュア記17:3-4において、確かにツェロフハドの娘たちが嗣業の土地を受け継いでいることが確認できます。
② モーセの死の宣告と後継者ヨシュアの任命・メリバの水
モーセの最期の物語とヨシュアの任命は、申命記31章からも詳しく記されていますが、死の宣告をされたモーセが、ここで真っ先に願ったことは、残される共同体の為に、次の導き手となる後継者が与えられることでした。主はこの祈りに応え、ヨシュアを任命しました。
モーセが約束の地に入れない理由として「メリバの水(民20:1-13)」の出来事が語られていますが、同じ理由でアロンも約束の地に入る前に亡くなっています(民20:22-29)。「メリバの水」とは、モーセとアロンの姉妹であるミリアムが死に、再び飲み水がなくなった民が、モーセとアロンに反抗した際の場面を指します。主はモーセに「・・・杖を取り・・・岩に向かって、水を出せと命じなさい・・・」と指示しますが、モーセは主の言葉に従わず、杖で岩を2度打って水を出しました。
主が最初にメリバで水を与えて下さった時は(出17:1-7)、「ナイル川を打った杖(出7章)を持って行き、岩を打てば水が出る」と指示され、モーセは杖に与えられた力を再び経験します。しかしこの経験の過信が、神の言葉を軽視する誘惑の一つになったのかもしれません。

2019年5月5日の説教要旨

詩編118:5-9・Ⅱコリント12:1-10

「神の力は弱さの中で現れる」   佐藤 義子

*はじめに

今年度から、毎月第一日曜日は新約聖書のパウロの手紙を読んでいくことになり、本日はコリントの手紙からご一緒に学びたいと思います。

 私達は、2週間前の4月21日にイエス様の復活を記念するイースター礼拝をおささげしましたが、それから50日後にあたる来月の9日に教会の誕生日と言われている聖霊降臨日の(ペンテコステ)礼拝をささげます。イエス様が生前、弟子達に約束された聖霊が この日 弟子達に降り、聖霊に導かれて語られた説教を聞いた多くの人々がイエス・キリストを神の子・救い主と信じてバプテスマ(洗礼)を受け、教会が生まれました。

世界地図から見れば、小さなパレスチナ地方の都市、エルサレムから始まった教会は、2000年後の今日、全世界の各地に建てられ、今も絶えることなく、イエス様が神の御子・救い主であることを宣べ伝えております。そして、日本の、宮城県の、仙台の、山田の地にも教会は誕生し、こうして毎週、福音を聞き礼拝を捧げられる幸せを神様に感謝しております。

*コリントの信徒への手紙

本日の聖書は、使徒パウロと呼ばれる伝道者がコリントの教会の信徒達に宛てた手紙で紀元55年前後に書かれたと言われます。パウロはイエス様の直弟子ではなく、初めは熱心なユダヤ教徒でした。生前のイエス様に出会っておらず、キリスト教徒を目のかたきに迫害していたある日、突然天からの光に照らされ、地面に倒され、天からイエス様の声を聞くという体験をしました。その時以来、彼は180度転換してキリスト教に改宗し、さらにはキリスト教の伝道者になりました。それだけでなく、それ迄キリスト教の伝道対象はユダヤ人に限られていましたが、パウロは当時交際を禁じられていた異邦人(ユダヤ人以外の外国人)への伝道にまで広げて、弟子と共に外国への宣教旅行を行い、本日の手紙の宛先でもあるコリントの教会など、いくつかの教会を立ち上げていきました。聖書の後ろの地図(7番-9番)を見ると、彼の伝道範囲を見ることが出来ます。

*宣教旅行

パウロの宣教は、一年とか二年とか、時には三年かけて教会の基盤が出来ると、次の宣教地へ旅立ち、又そこで伝道して教会の基盤を作っていきました。パウロが去ったあとは(不定期にですが)巡回伝道者達が集会を訪問しては御言葉を語り、信徒達を励ましていたようです(使徒言行録18:23-参照)。パウロは自分達が立ち上げた教会については、愛と責任をもってかかわり続けました。教会が正しく宣教の使命を果たし続けられるように、又、信徒達の信仰が成長していけるように、時に応じて手紙を書き、励まし、助言し、その後も再び訪問し自分が行かれない場合には弟子のテモテやテトスを遣わしたりして支え続けました。

*コリントの教会

コリントはギリシャの重要な商業都市であり、二つの大きな港を持ち、東西貿易の中継地でした。しかもローマを始め、ギリシャ、パレスチナ、エジプトなどからの植民も多く国際都市のようでした。教会はその地域に住む民族、伝統、文化などの影響を受けます。パウロはここで1年半滞在してコリント教会を立ち上げ導きましたが、コリントの文化の影響を受けた人達が集まることで教会の中ではいくつか問題が起こりました(第一:5:1-参照)。しかし本日の聖書は、それ迄の内部の問題とは異なり外部から来た人達によって起こされた問題が背景にありました。(第二10-11章参照)。パウロとコリント教会の信徒達は、深い愛と信頼関係で固く結ばれていましたが、ある巡回伝道者達がコリント教会を訪問し、その滞在中、パウロとコリント教会のつながりを切ろうとしたのです。外部からの人達はパウロのことを快く思っていなかったので、パウロが「使徒」であることを疑問視して非難中傷を始めました。彼らはエルサレム教会の指導者達(イエス様の直弟子のペテロやヤコブなど)を高く評価し、直弟子たちの体験(マタイ17章:イエス様の変貌)などを引き合いに出して、パウロの使徒職の資格や正統性を問題にしました。

*パウロの対応

彼らはパウロの「使徒としての権威」を認めなかっただけではなく、パウロが語った福音までも否定する言動があり(11:4-参照)、信徒達の中に動揺が広がりました。それを知ったパウロは、この状況を教会の危機、信徒達の信仰の危機ととらえ、自分が使徒であることの正当性と、伝えた福音の正統性を語り、信徒達が最初の信仰に立ち返り、正しい信仰に堅くとどまるようにこの手紙を書いています。パウロには、何のやましいこともなく清廉潔白でしたから、パウロだけが非難されるなら忍耐したでしょう。しかしパウロの宣教者の資格、および語る内容そのものの権威を失墜させ、すべての信頼を失わせようとするような、伝道の根幹をゆさぶる行為を見逃すことは出来ず、この戦いに負けるわけにはいきませんでした。

*「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と啓示して下さった事について語りましょう。」(12章1節) 

誇るとは自慢することです。パウロは「誇っても無益」と言っていますので、無益なことはしたくなかったでしょう。しかしここでパウロが誇らざるを得ないと考えたのは、自分の使徒職の権威は神様から与えられている確信を今一度明らかにせねばならず、自分の体験を語らざるを得ないと考えました。パウロが語ったのは二つのこと、「幻」と「啓示」です。

「幻」は実在しないのにその姿が実在するように見えるものです。

「啓示」は、私達人間の知恵や知識では知ることの出来ない隠されているものの覆(おお)いを、神様が取り除いて、その人に表し示して下さることです。

*主が見せて下さった「幻」

2節以下で語られた内容はパウロの実体験であるにもかかわらず、「キリストに結ばれていた一人の人」の話として語ります。パウロは14年前、第三の天(ユダヤ人の天を等級に分ける考え方。4節の楽園・パラダイス)にまで引き上げられ、しかも人が口にするのを許されない言葉を耳にしたのです。このような体験は、自分の努力や力とは一切関係しないゆえに、この幻が、神様から与えられた大きな恵みであることを彼は知っていて、これにより、神様の慰めと励まし、力を受け取りましたが、他者に言うことではなく、パウロ個人の体験としてとどまっておりました。ここでパウロは、自分自身については「弱さ」以外に誇るつもりはないと言っています(5節)。

*「啓示」 

今、教会を混乱させている外部の人達が、パウロの宗教体験の有無を問題にするならば、(本来誇るべきでない)14年前の体験を言わざるを得ないと判断しました。それを語ると同時に、この体験で自分が思い上がらないように「一つのとげ」が与えられ、そのことを通して神様の恵みを知らされたことを伝えます。彼は「とげ」を「自分を痛めつけるためにサタンから送られた使い」と言い、この使いを自分から離れ去らせるように三度も主に願ったとあります。このとげが、パウロの伝道活動を妨げていたのは間違いなく、それゆえサタンの働きと表現したのでしょう。

パウロがささげた三度にわたる祈りは、イエス様のゲッセマネの祈りに近いような、心の底から訴え出た祈りだったと想像します。そしてついに、パウロはこの祈りの応答を受け取ります。

私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。

イエス様は地上でのサタンの働きを知りつつ、それをゆるしておられた上で、パウロに対しては愛をもって、恵み深くあることを伝えられました。とげを伴う肉体の弱さを前提として、それが役立つように(思い上がりを制御する)神様の力は働いていたのです。パウロがこれまで歩んできた苦難(10節:侮辱・窮乏・迫害・行き詰まりの状態など)を通して神様の恵みは絶えることなく、その中で「力」として働いていたのです。

*「わたしは弱い時にこそ強い」(10節)

私達は夜空の星の輝きを「空を見上げない限り」見ることも知ることも出来ません。それと同じように、神様を仰ぎ見ない限り神様の恵みも見ることも知ることも出来ません。恵みとは、それを受けるのに値しない者であるにもかかわらず、神様の愛と赦しが与えられて、日々守られていることです。私達が自分に与えられている 担うべき苦難の中に置かれた時、私達は自分の無力さ・弱さを嘆くのではなく、神様にその苦難を訴える時、神様は私達の弱さを引き受けられたうえで神様の力が働いていることを教えて下さいます。今週も神様を見上げつつ、注がれている恵みを数えながら歩んでいきたいと願っています。

今週のみことば


 ★ レビ記:幕屋・礼拝についての律法、規則
月曜日  1: 1~ 7:38 犠牲の制度
火曜日  8: 1~10:20 祭司の聖別
水曜日 11: 1~15:33 清いものと穢れたもの
木曜日 16: 1~16:34 贖罪日
金曜日 17: 1~27:34 イスラエルの民の生活についての規定

【レビ記について】
◎レビ記とは、幕屋での礼拝についての律法や規則について書かれ、レビ族(アロンとその子孫に与えられた幕屋の礼拝を執り行う任務やイスラエルの民の間で聖性を維持する責任が与えられた部族)に由来する。またレビ族に関しては、出エジプト記6:14-26、民数記26:57-62に記されている。

◎レビ記の中心的主題は「聖性」であり、神が聖であるように、神の民は聖でなければならない。レビ記は神の民の側の聖性がどれほど重要であるかを伝え、神との関係を損なう人間の罪の深さ、その罪の贖いが必要であることを教える。

◎レビ記の重要な主題である「犠牲」は、新約聖書において、イエス・キリストが人間の罪をあがなう完全な犠牲になったことへとつながっている。(cf.ヘブライ人への手紙、8章、10章など)

(A.E.マクグラス『旧約新約聖書ガイド』本多峰子訳、教文館、
2018年、96-97頁より引用・要約。)

【レビ記10章説教 関連聖書箇所】
① ロマ書14章「・・・主の為に重んじ・・・主の為に食べ・・・主の為に 食べない・・・主の為に生き・・・主の為に死ぬ・・・私たちは主のもの」

② 2テモテ4:2
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい・・・。」

③ 詩編119:105
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

④ ヨハネ1:1,17 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた・・・」

⑤ ヨハネ14:6,26-27 「イエスは言われた。『わたしは道であり、  真理であり、命である。』わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」・・・『父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和を あなたがたに残し、わたしの平和を与える。』

⑥ ヨハネ20:31 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、 イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

⑦ ヘブ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

今週のみことば

★ 出エジプト記:モーセの召命、出エジプト、シナイ契約・幕屋
月曜日  1: 1~ 7: 7 イスラエル苦しみとモーセの最初の80年
火曜日  7: 8~13:16 10の災いと過越祭、エジプトからの脱出
水曜日 13:17~18:27 葦の海の奇跡と荒れ野の旅のはじまり
木曜日 19: 1~24:18 シナイ契約
金曜日 25: 1~40:38 幕屋建設にむけての歩み

【出エジプト記について】
◎ 1章において創世記の時代からの移り変わりが示され、2章にはイスラエル人でありながらエジプト王家の一員として歩まなければならなかったモーセの最初の40年と逃亡先の異国の地でミディアン家の一員として歩んだ次の40年について記されています。そして7章8節からは、イスラエルの人々を約束の地へと導く為の出エジプトの出来事と荒れ野の旅を任されたモーセの最後の40年が始まります。

◎ 主の過(すぎ)越(こし)について12章から記されています。過越の祭りは、 ペサハ(過ぎる・過越)と呼ばれ、ユダヤ暦(現在は5779年)ではニサンの月(現代の3月~4月)に出エジプトの出来事を忘れないために毎年守られています(2019年は4月20日から27日)。
マタイ26:17-30(他マコ14、ルカ22、ヨハネ13)には、過越の食事の中で、主の晩餐がなされたことが記されています。またその中で主イエスは、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である(ルカ22:20)。」と語られました。

◎ 19章から24章を中心に、シナイ契約(シナイの山での結ばれた契約)と言われています。「十戒」については20章に記され(申命記4-5章にもあります)、24章において契約の祭儀と契約の食事がなされて、シナイ契約の締結となっています。

【契約についての一考察】
W.ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典‐響きあう信仰』小友聡/ 左近豊訳、日本基督教団出版局、2015年より抜粋。
「…(出19-24章にあるようにシナイ山で制定された)この双務的献身を約す契約は、聖書が根本的に(孤高の神ではなく)関係性の神について語っているものであることを確証している。この関係性は、旧約聖書の内に、興味深く、生成力を持つものを生じさせるとともに、信仰に関する困難をも生じさせる。YHWHによってアブラハムとの間(創15:7-21)、ノアとの間(創9:8-17)、そしダビデとの間(サム下7:1-16)に結ばれた片務契約は、この契約を補完するものである。…(ブルッゲマン、181頁)」

【出エジプト記24章より】
「モーセは血の半分を取って小鉢に入れ、血のもう半分は祭壇にうちかけた。そして契約の書を取り、民に読み聞かせた。すると彼らは、『主が語られたことをすべて行い、聞き従います』と言った。そこで、モーセは血を取り、民の上に振りかけていった。『これは、主がすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である』。
さて、モーセは、アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に上って行って、イスラエルの神を仰ぎ見た。…神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。」

今週のみことば

★ 創世記:世界の始まりと神様の契約・救いの物語
月曜日  1: 1~11:32 天地創造/世界の始まり
火曜日 12: 1~25:18 アブラハム
水曜日 25:19~26:35 イサク
木曜日 27: 1~36:43 ヤコブ
金曜日 37: 1~50:26 ヨセフ

【旧約聖書について】
◎ 旧約聖書は、もともとヘブライ語(一部アラム語)で書かれているため、新共同訳聖書の旧約聖書も、BHS(ベーハーエス)と呼ばれる、ヘブライ語の聖書から翻訳をしています。またギリシア語で書かれている旧約聖書は七十人訳聖書(LXX)と呼ばれ、パウロ書簡の旧約聖書の引用は七十人訳聖書からであると考えられています。

◎ 旧約聖書は、創世記からマラキ書までの39巻からなり、イエス・キリストが来られる以前の神の民の歩みが書かれています(「キリスト」はギリシャ語で「油注がれた者/王/祭司」などの意味があり、「救い主」を意味します。ヘブライ語では「メシア/メサイヤ」です)。 神の民は、メシアが来られることを待ち望み、この希望は、イエス・キリストが来られたことによって成就しました。旧約聖書の中には、イエス・キリスト到来の道備えが記されています。

◎ 私たちの使う旧約聖書は、大きく次のように分かれています。
1.モーセ五書/律法
創世記から申命記までの最初の5巻。
2.歴史書
 ヨシュア記からエステル記までの12巻。
3.文学書
ヨブ記から雅歌までの5巻
4.予言書
 イザヤ書からマラキ書までの17巻

◎ ユダヤ教の旧約聖書は、書物の数は同じですが並び順が少し異なり、律法(Torah)、予言者(Nevim)、諸書(Ketubim)と分類され、タナハ(TNK)と呼ばれています。旧約の時代、またイエス様の時代は、一つ一つの書物が巻物になっていたと考えられます。
例えば、死海文書と呼ばれる、イスラエルのクムランの洞窟で発見されたイザヤ書の写本は、完全な巻物の形で発見され、紀元前に書かれたものであることが分かっています。

【創世記15章より】
「恐れるな…わたしはあなたの盾である。…天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。…あなたの子孫はこのようになる。…私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたを…連れ出した主である。…日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに落ち、恐怖と深い闇が彼を襲った。…日が沈み、暗くなった頃、煙を吐く炉と燃える松明がこれらの裂かれた動物の間を通り過ぎた。こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。あなたの子孫にこの地を与える。」