4月29日の説教要旨 「神の民であるということ」 牧師  平賀真理子

出エジプト記19:1-9 ヨハネ福音書15:1-10

はじめに

今日の新約聖書の箇所の5節の聖句「わたし(イエス様)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」は、キリスト教会の中で、多くの信仰者に愛されている箇所です。ただ、それだけでなく、イエス様の弟子達への遺言、いわゆる「告別説教(訣別説教)」の中にある御言葉だという理由で、信仰者である私達は重く受け止める必要があると思います。

この聖句は、もちろん、比喩=例えです。ぶどうの木と例えられるイエス様に、弟子達がつながっていなさいという教えです。それで、イエス様につながるとは具体的にどういうことかというと、直前の段落14章23節に「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」という御言葉があるので、イエス様につながることを求めている弟子達は、イエス様の御言葉を守ることが大前提だということがわかります。

 

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(15:1)

イエス様が御自分をぶどうの木と例えたのにはもう一つ、理由があって、それは1節「わたしの父は農夫である」という例えをおっしゃりたかったからではないかと推測できます。イエス様のこの世での歩みをすべて支配なさっているのが「父なる神様」であると、例えを用いて、弟子達にわからせようとなさったのだと思います。イエス様は御言葉を聞く弟子達の理解に合わせて、例え話をなさったのです。

 

つながっていながら実を結ばない枝と豊かに実を結ぶ枝

しかし、続く2節では、イエス様に例えられるぶどうの木につながっていながらも実を結ばない枝があるという表現に出会います。そういう枝は父なる神様が取り除かれると言われました。次に進むと、逆に、イエス様に例えられるぶどうの木につながって豊かに実を結ぶ枝もあると表現されています。どちらも、イエス様につながっている枝、つまり、弟子でありながら、父なる神様によって、滅ぼされる枝と、祝福を受ける枝があるということです。

 

滅びと祝福の差=「言葉(ロゴス)につながっているか否か」

では、この2種類の、正反対の結果になるものの差は何でしょうか。どちらもイエス様につながっている枝なのに、大きな差が出てくるのはどうしてでしょうか?それは3節にある言葉がキーワードです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」の「言葉」です。新約聖書の原語ギリシア語でこの単語は「ロゴス」となっています。ヨハネによる福音書の冒頭の1章では、イエス様が神様の言(ことば)(ロゴス)そのものであり、その言(ことば)がこの世に人間の肉となったと語られています。「ロゴス」は単に「話す言葉」」というよりも、神様の特徴とか特質、もっと言うと、神様の本質=神の真理であると言えます。だから、3節にあるように、神様の真理が、イエス様によってこの世に表現されることとなって、それを受け入れて従おうとする弟子達は、イエス様の話した言葉で清くされることが既に(本人達がわかっていなくても)起こっていたわけです。神の民として、もはや神様の祝福を受ける対象になっているという恵みが語られているのです。ぶどうの木と例えられるイエス様と本当の意味でつながれる枝とは、神の真理を現わすロゴスを守ろうとして聞く弟子達のことを意味しているわけです。

 

神の真理「ロゴス」とは何か?

「ロゴス」には、本当の神様がどんな御方かの特質も含まれますし、特に、救い主イエス様の十字架と復活という救いの御業も含まれていることを忘れてはならないでしょう。この「神様の救いの御業」の源に「ロゴス」という神様の本質=神の真理があるのです。イエス様の癒し等の愛の業を見て、その表面的なところだけをまねようとする人がいます。しかし、そこに「ロゴス」に対する信仰がなければなりません。それがない人は、2節の表現から言えば、徹底的に滅ぼされるわけです。

 

「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(15:7)

一方、7節にある「言葉」は「ロゴス」という単語ではなく、話す内容という意味の単語が用いられています。イエス様の出来事を「ロゴス」として理解するのは、実はかなり難しいです。せめて、イエス様の御言葉そのものや、この世での歩み等を学び、記憶し、生きる中心に据えて従おうと努めるのが「神の民であるということ」の要(かなめ)だと言えます。

4月22日の説教要旨 「新しい掟」 牧師  平賀真理子

レビ記19:9-18 ヨハネ福音書13:31-35

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の冒頭「ユダが出て行くと」とは、イエス様と弟子達の最後の晩餐の席から、ユダが反対派の方へ立ち去っていくことを意味しています。イエス様は、ユダの裏切りを事前に知りながら、容認なさいました。なぜなら、ユダの裏切りこそ、イエス様の十字架への道の始まりを示すものだったからです。

 

「今や、人の子は栄光を受けた」(31節)

まだ、この世においては「主の十字架」は実現していない段階でありながら、イエス様はそれが確定であり、しかももう既に始まっていると確信された上での「今」ということです。続いての「人の子」という言葉は、イエス様が御自分を救い主として語るときによく用いられた言葉です。ここでの「栄光を受ける」とは、「救い主」として人々の罪を贖う「十字架にかかる」ことであり、「受けた」という動詞によって、このことが確定したことを意味しています。イエス様が第一のこととした「父なる神様の御計画」が実現したも同然だというわけです。神様の御計画こそが実現するということは、聖書に証しされてきたことですが、それでも、「救い主」が命の犠牲を払うのは、イエス様御自身がそのことを受け入れて従順に従って初めて実現することです。イエス様は御自分に課せられた十字架がいよいよ実現する動きになっていることを、父なる神様からの視点で、喜んでおられるわけです。

 

「神が人の子によって栄光をお受けになった」(31節)

イエス様が従順に十字架への道を辿ることが、神様の御計画の実現、即ち、この世における神様の勝利を意味します。だから、イエス様の十字架への歩みこそが、神様に栄光を帰すことになるので、「神が人の子によって栄光を受けた」という表現を、イエス様はなさったのです。

 

「神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。」(32節)

32節のこの言葉こそ「イエス様の復活を意味するものだ」と後代の信仰者である私達は、そう教わっているのでわかります。しかし、当時のお弟子さん達は、何を意味するのかは、ほとんどわからなかったでしょう。(しかし、彼らは、これを記憶し、後代に伝え、聖書に記録されることになりました。このことも感謝です!)

 

「主の十字架と復活の予告」

このように見てくると、31節―32節もまさに、「主の十字架と復活」が示されていて、しかも、それは父なる神様の御心だから、実現されるということをイエス様が弟子達に教えておられた箇所だとわかります。

 

まもなく、この世を去るイエス様の弟子達への遺言

33節の第1文と第2文の間には、「わたし(イエス様)はまもなく、この世を去らなくてはならない」という一文を補って理解するとわかりやすくなると思います。十字架までのほんのしばらくは、イエス様はこの世におられますが、その後にこの世を去らなくてはならず、弟子達はイエス様を探し求めるようになると予め見抜かれたのです。(ユダヤ人にかつて語ったことはヨハネ福音書7章32節―36節に書かれています。)だから、愛する弟子達に新しい掟を遺言として残されました。34節です。

 

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 ここで注意したいことは「人間的な愛で愛し合いなさい」ではないことです。「わたし(イエス様)が愛したように」という条件が重要です。イエス様は弟子達を「神の愛」で愛されましたし、ここでの「愛する」という言葉も、「アガペー=『神の愛』で愛する」です。主の弟子達は、一般庶民出身で、イエス様の御言葉をすぐに理解できる能力のある者はほとんどいなかったようですが、彼らをイエス様は神様へ心を向けるように教え導いたのです。「人間の愛」は、自分の愛に応え得る者や、または自分の好みに合う者に対して注がれます。これを、倉松功先生は「自分の方に曲がった真善美への愛」であり、一方、「神の愛」は、人間を神様に向かうように変える力のある愛」と語られました。私達信仰者は洗礼を受ける際に「神の愛」で新たに造り変えられた経験があることを想起しましょう。「神の愛」は神様だけが注げますから、人間は神様から常に補充していただく必要があります。私達は、礼拝や聖書の学びを通して、「神の愛」を補充していただける、それも天から賜る恵みです!

4月15日の説教要旨 「まことの羊飼い」 牧師  平賀真理子

エゼキエル書34:7-16 ヨハネ福音書10:7-18

 

はじめに

今日の新約聖書の箇所は、キリスト教会では有名な箇所の一つで、イエス様が御自分が良い羊飼いであると証しされています。それも重要ですが、読み返すと、それ以外にも大変重要なことが語られていることがわかりました。そのことをお伝えしたいと思います。

 

前の9章を受け、「羊の囲い」(16)の例えを理解する

10章から読み始めると、いきなり「羊の囲い」の話が始まり、この1-6節の段落の話を受けて、今日の箇所の7節からは「羊の門」や「羊飼い」という言葉に続きます。イエス様は、「羊の囲い」に入る時に「門」を通らないでほかの所を乗り越えて来る者を、「盗人」や「強盗」とおっしゃいました。が、これは例えです。「盗人」「強盗」とは、その前の9章に書かれている「ファリサイ派の人々」を例えたものです。

9章では、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒して見えるようになさった出来事を通し、ファリサイ派の人々が、その明白な事実を、頑なに否定しようとする様子が記されています。彼らは、イエス様の癒しの御業が神様からの御力をいただいた結果だと認めるのは、イエス様が神様が遣わされた御方だと認めることになると知っていました。だから、癒された本人が「あの方は神のもとから来られた(9:33)」と証ししているにも関わらず、ファリサイ派の人々は、証言者の人格否定をして(9:34)、この証しも否定しました。ファリサイ派はユダヤ教指導者として、ユダヤの民衆(羊と例えられる)を導く使命を神様から与えられているはずなのに、彼らは、民衆を慰めたり導いたりすることに留意せず、弱い立場の人を助けずに無視し、民衆からは利益や尊敬を搾取することだけを主眼にしていたのです。それは、当時の宗教指導者だけの過ちではなく、昔から「牧者」と例えられる宗教指導者が犯してきた罪の姿だと、今日の旧約聖書の箇所からもわかります。ファリサイ派の人々は、民衆を神様に導くはずなのに、自分の方へ導こうとしていました。その姿は、「本当の救い」をもたらすためにこの世に来られたイエス様から見れば、「盗人」「強盗」と同じだったのです。「羊の囲い」とは本当の神様から全権委任されたイエス様の「救いの枠」、または「神の国」とも言えるでしょう。

 

「羊の門」を入った羊(人々)が「良い羊飼い」(イエス様)に導かれる

イエス様は御自分のことを「羊の門」であり、「良い羊飼い」であるとの2種類の言葉で御自分を再び゙例えようとなさいました。「羊の門」とは、具体的には、イエス様を救い主として受け入れることで、神様の救いを受ける基準を満たすことを表しています。「わたしを通って入る者は救われる(9節)」とあるとおりです。また、正しい門から入った羊だけが、牧草を見つけて豊かに生きるとは、イエス様の本当の救いに与る者だけが、神様から永遠の命をいただけることを意味しています。更に、イエス様は、御自分を表現なさるのに「羊の門」という「基準」を表す、旧約的な例えだけでは足りないと思われたのか、「羊飼い」という例えも重ねられました。これは、羊を所有する羊飼いなら、羊の命が危険な時は、自らが自分の命を懸けて羊を守る姿を例えたもので、「良い羊飼い」とはイエス様が、神様から救うべき人々を託され、命を懸けて愛する御姿の例えです。(一方、雇われ羊飼いは、責任を持っていないので、羊の命よりも自分の命を優先すると言われています。ファリサイ派の人々の例えです。)

 

十字架と復活の告知がここにも!

「良い羊飼い」の箇所で、今回の発見の最大のものは、17-18節に「主の十字架と復活」が告知されているということです。イエス様が御自分の命を、再び受けるために、捨てること、それ故に父なる神様がイエス様を愛してくださり、再び命を受けることが、主の御言葉として述べられていて、「十字架と復活」の別の表現がなされていると改めて認識しました。新約聖書の大事な使信がここにもあると驚かされ、感動しました。

 

「囲い」に入っていない ほかの羊も導かなければならない(16節)

最後に、16節から、イエス様が救いたいと願う人々がユダヤ人だけでなく、全世界にいるのだとわかります。主の熱意を受け継いで、私達一人一人が福音伝道に励むようにとの、イエス様からのメッセージが送られています!そのために主によって用いられたいと祈り求めましょう。

4月8日の説教要旨 「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」 佐藤 義子

詩編145:1b-9,17-21 ヨハネ福音書20:19-29

はじめに

イエス様が復活した! 死人がよみがえった!   教会が知らせる、この素晴らしいニュースは、人知を超える出来事ですから、普通の感覚であれば、あり得ないこと、信じ難いこととして受け止められます。それゆえ、イエス様が十字架というむごい死刑で死なれたこと、しかも死で終らずに三日目に復活されたことが、伝道を困難にしていると考えて、もしも宣教内容を、イエス様の「十字架の死と復活」を背後にまわして、前面には「神の愛、キリストの愛、隣人愛」だけを大きな声で語り続けていくならば、教会は教会でなくなってしまうでしょう。キリスト教は確かに、私達人間が正しく生きる生き方を指し示していますが、その大中心にあるのはイエス・キリストの十字架の死と三日後の復活の出来事(その根源には神の愛・キリストの愛がある)であり、これこそキリスト教がキリスト教として立ち続けている土台です。

 

家の戸に鍵をかけていた弟子達

今日の聖書には、イエス様の十字架に伴うご受難と死と埋葬の出来事(18-19章)に続く、三日目に起こった復活の出来事が記されています。20章前半には、マグダラのマリアが復活されたイエス様と最初に会い、弟子達に、イエス様とお会いしたことと受けた伝言を伝えたことが記されており、今日の箇所は、同じ日の夕方、復活されたイエス様がトマスを除く弟子達の集まっている所に来て下さったこと、後半には、その八日後、再びイエス様が、今度はトマスもイエス様とお会いした出来事が記されています。 今日読んだ最初の19節には、弟子達がユダヤ人を恐れて家に鍵をかけていたとあります。弟子達は、今まで主と仰ぎ、先生と慕ってついてきたイエス様を失い、大きな失意と悲しみの中にいただけではなく、神を冒涜したとして処刑された犯罪者イエスの弟子・仲間であるとの理由で、イエス様を憎んでいたユダヤ人達から、いつ襲われるかもしれないという不安の中に、身をひそめて過ごしていたことでしょう。

 

シャローム(あなた方に平和があるように)

そこへ突然、復活されたイエス様が来られ、真ん中に立たれて「シャローム」と挨拶されました。復活体のイエス様は空間と自然を支配されておられます。「シャローム(あなたがたに平和があるように)」の平和とは、人間の全領域にわたっての、神様のご意志に基づいた真の望ましい状態をさす言葉です。イエス様は、この挨拶のあと,ご自分から十字架の釘あとが残る手と、兵士の一人が やりでわき腹を刺したその傷跡を弟子達にお見せになりました。それによって弟子達は、今目の前に立たれているイエス様が、三日前に死んで葬られた自分達の先生であるイエス様だと確認して、「弟子たちは喜んだ」(20節)とある通り、それまで部屋に満ちていた、おそらく暗い絶望的な空気を吹き飛ばすかのように大きな喜びが弟子達の間に満ち溢れたことでしょう。イエス様は再び「シャローム」と言われました。弟子達が、神様の御心に沿う望ましい状態の中で生きていくことを強く願われていたことを思わされます。そしてイエス様は、弟子達に大きな使命と権限を与えていかれました。

 

大きな使命と権限

大きな使命とは、イエス様が生前、父なる神様から派遣されて宣教してきたように、今度はイエス様から弟子達に派遣命令が出されたのです。弟子達は、これまでイエス様と共に宣教活動を行ってきましたが、その宣教をこれからも中断することなく引き継ぐことを命じられました。

そしてもう一つなされたことは、この宣教活動に不可欠な「聖霊」を、弟子達に与えられたことです。この聖霊が与えられたことによって、弟子達には「罪の赦し」と「罪の留保」(罪が赦されないまま残る)という、二つの権限が委託されたのでありました。

 

教会へ引き継がれる

ここで大切なことは、復活のイエス様が弟子集団に与えた大きな使命と権限が、この時以後、ペンテコステの出来事を経て、教会へと引き継がれ、私達の仙台南伝道所も又、一つの教会としてイエス様の派遣命令を受けて立ち、宣教の使命を果たすべく日々歩んでいるという事実です。

そして、聖霊の導きのもとに行われるバプテスマ式、すなわち「イエス様の十字架の死によって、自分の罪が贖われ、赦されたことを信じる」信仰告白に基づいて行われるバプテスマ式を通して、今も、すべての教会は、委託された罪の赦しの権限を正しく行使することが求められています。

 

復活のイエス様にお会いできなかったトマス

24-25節には、不在の為、復活のイエス様に会うことが出来なかったトマスと他の弟子達との会話が記されています。弟子達はイエス様とお会い出来た喜びの中で、仲間のトマスに、口々にイエス様のことを、興奮と感動をもって伝えたことでしょう。しかしトマスはこの嬉しい大ニュースを聞いて一緒に喜ぶことは出来ず、こう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

 

トマスの不信

トマスは、なぜ信じられなかったのか、と私達はトマスを批判することは許されないでしょう。と申しますのは、20章の最初には、マグダラのマリアからお墓が空になっていることを知らされたペテロと、もう一人の弟子が、お墓まで走って確かめに行くことが記されていますが、二人は、中にあった遺体がなくなっていることを確認したものの、イエス様の復活と結びつけることは出来ないまま帰宅しています。その行動に対して聖書は、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(9節)と説明しています。又、ルカ福音書24章36節以下には、復活されたイエス様が弟子達の所に来られた時、弟子達は、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記されています。 さらに、その前には、エマオへの途上で、二人の弟子が途中からイエス様と同行する出来事が記されていますが、二人とも食事をするまでイエス様のことが分からなかったことが記されています。さらに又、マルコ福音書に出てくる女性達についても以下のように記されています。「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(中略)さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:6-)

 

不信のトマスにイエス様は・・

トマスは八日間、不信の中で苦しんだことでしょう。彼は自分の前にイエス様ご自身の姿が現れて、自分に満足を与えて下さることに固執していました。ただ見るだけでなく、その姿が亡霊でないことを確かめるために、自分の手を使って直接その部分に触れることを望んだのです。再会されたイエス様は、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と、トマスが望んでいたことをするように許可されました。トマスは自分の願い通り、確認したのでしょうか? 聖書はそう書いていません。トマスは(おそらくそのお姿に圧倒されて)何も言えず、口から出た言葉は、ただ、「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。これは最も古い信仰告白の言葉とされています。私達も又、イエス様にこの告白の言葉を捧げた時、私達は新しく造り変えられていくのです。

 

「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」

イエス様はトマスに「見たから信じたのか」と、トマスの不信仰と、かたくなな心を おとがめになっています。そしてこのあと、「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。聖書に登場する弟子達や婦人達の姿の中に、私達は、私達の中にも入り込もうとする不信や、かたくなさや、自己主張や、弱さを見ます。にもかかわらず、イエス様は、すべてをご存じの上で、私達を赦し、聖霊を与えて下さり、教会を通して伝道へと派遣されておられます。イエス様から送られてくる聖霊の導きの下で、見ないで信じる幸いな多くのクリスチャンが、2000年以上たった今も尚、生れ続けており、私達の伝道所でも10人の方々が見ないで信じる幸いな人として加えられました。何と素晴らしい大きな恵みでしょうか。最後に、第一ペテロの手紙1:8-9(p.428)を読みます。

あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今、見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです。

4月1日の説教要旨 「キリストの復活」 牧師  平賀真理子

イザヤ書41:10-17 マルコ福音書16:1-8

はじめに

本日はイースターです。「主の復活」を共に祝えることを、心から感謝いたします。本日は、最初に書かれたと言われている「マルコによる福音書」の中で「主の復活」の証言を読んでいきたいと存じます。

 

マルコによる福音書の本編の最後

今日の新約聖書箇所マルコ福音書16章1節―8節の後に、聖書では「結び」として9節以降の記述がありますが、専門家の研究によって、後の時代の人々の付加だとされています。従って、今日の箇所が、マルコ福音書の本編の最終部分です。そして、この箇所を詳細に読むと、復活の主には、従ってきた者の誰もが、未だ出会っていないとわかります。証言の内容は、十字架上で亡くなったイエス様の御遺体を納めたはずの墓が空っぽだったこと、天使によって「主の復活」が宣言されたこと、そして、それを聞いた女性達が恐ろしいと思ったことです。

 

主の御遺体に香油を塗って差し上げたいと行動した女性達

イエス様が十字架にかかって息を引き取られたのは、過ぎ越し祭の週の金曜日の午後3時でした(マルコ15:34-37)。ユダヤ教では安息日は土曜日で、具体的には、金曜日の日没から土曜日の日没までです。安息日は労働することが禁じられたので、イエス様が亡くなった日の午後3時から夕方までの2時間程度しか、作業する時間がなかったことが想像できます。主の御遺体を十字架から降ろして運んで、横穴式の墓に納めるだけで精一杯の時間だったと思えます。主を信じ従ってきた女性達が香油を塗って差し上げたいと思っても実行不可能だったでしょう。安息日は土曜日の日没に終わりますが、当時のランプの弱い明かりでは、お墓の中での作業は難しいことから、彼女達は、香油を塗る準備を整え、日曜日の日の出を待ち、主のお墓に来たのでしょう。主の十字架を前に逃げた男性の弟子達とは違い、従ってきた女性達の中では、主への敬意を示そうと行動できた者達がいたのです。

 

人間の心配を先んじて取り除いてくださる神様

お墓へ来た女性達の道中での心配は、お墓の入り口にある大きな石を動かす力のある人を見つけねばならないだろうということでした。ところが、これはもう、事前に神様が取り除いてくださっていました。彼女達の望みは、主は死んだままではおられずに復活するという神様の御計画と一致していたため、神様が人間より先に働いてくださったのです。*天使の言葉「預言どおりにイエス様は復活なさった」

彼女達にとっての次の望みは、お墓の中の御遺体に香油を塗ることでしたが、それは叶えられませんでした。なぜなら、その御遺体自体が存在していなかったからです。そこにいたのは、白い長い衣を来た若者でした。これが「復活の主」かと思いきや、この人は天使です。原語では白く輝く上衣という意味があって、これは「天使」を暗に示しています。天使は、彼女達が探しているイエス様は復活なさり、死人のいる墓にはおられず、復活してガリラヤに行かれたので、そこでお目にかかれると弟子達に伝えなさいと告げました。それはイエス様の生前の預言「わたしは復活した後、弟子達より先にガリラヤへ行く」(14:28)の実現でした。(事前に言われた預言が実現することが神様であることの証拠です!)

 

十字架を乗り越えた女性達も「主の復活」の真実を前に圧倒された!

天使から言葉をかけられた女性達は「震え上がり、正気を失って、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)と証言され、ここで、この福音書は終わりです!最初に書かれた大事な福音書が、こんな表現で終わるのかと私は長年疑問でした。しかし、東日本大震災を経験し、7年たって落ち着いた今だから言えることがあります。自分の想定を超える圧倒な出来事について、あの時、本当に恐ろしかった、その思いをすぐには表現できず、平静を装っていたと。次元は違うかもしれませんが、自分の想定を超えた、神様が働かれた圧倒的な出来事に対し、人間はまず恐ろしくて、しかも、誰にも言えないと心を閉ざす反応をするのだと今ならわかります。「恐ろしかった」で終わるのは、この出来事が絵空事でなく、彼女達が本当に体験した事実だという裏付けです。「キリストの復活」は本当に起こりました!人間を圧倒する神様主導の出来事「主の復活」により、後代の私達信仰者も恵みを賜り、救われているのです。

3月25日の説教要旨 「十字架への道」 牧師  平賀真理子

ゼカリヤ書9:9-10 マルコ福音書14:32-42

はじめに

今日から受難週です。受難週は受難節の最後の週ですが、受難節の中にありますから、「克己・修養・悔い改め」という目標は継続されます。教会での礼拝でそのように決意しても、私達はこの世の生活に戻れば、迫りくる仕事や人間関係に埋没して、この目標を忘れることが多いのではないでしょうか。私達は忘れっぽさという弱さを抱えています。

 

エルサレムの人々の忘れっぽさと主の決意

イエス様がこの世を歩まれた約2000年前のユダヤ人達も忘れっぽいようでした。イエス様がエルサレムの都にお入りになった日に、この都の民衆の多くが、イエス様こそ神様が約束なさった「救い主」だと期待し、「大歓迎」の意を表す棕櫚の枝を振って迎えるという出来事がありました(「棕櫚の聖日」の由来)。ところが、その5日後には、彼らは宗教指導者達に扇動されて、イエス様を十字架につけるように叫び出したのです。何という忘れっぽさ、変わり身の早さでしょうか!

一方、イエス様はこれ以前から、一貫して、御自分は「人々の罪の贖いのために死ぬ定め」と弟子達に語り続けてこられ、十字架にかかる都に入る時も、「時が来た!」と決意をもって進まれたと思われます。

 

この時のイエス様御一行の「過ぎ越しの食事」=「最後の晩餐」

この時は、ユダヤ人達が「過ぎ越しの祭り」を祝う週でした。神様がユダヤ達を苦境から救ってくださった「出エジプト」という出来事を覚える祭りを行う時でした。特に、木曜日には「過ぎ越しの食事」を身近な人々と共に取る習慣がありました。イエス様御一行も、その食事をしました。これがいわゆる「最後の晩餐」と言われるものです。

 

ゲツセマネの祈り

この後、「ゲツセマネの祈り」の出来事が起こります。「ゲツセマネ」とはエルサレムの中心から少し離れた園で、イエス様一行はここで度々祈っていたと思われます。「十字架の時」が刻一刻迫る中、イエス様は、十字架の死を受け入れるために、祈りにおいての苦闘をなさいました。

 

模範となる祈り

イエス様は「十字架の死」が神様の御心だと重々御存じでしたが、一方では、神様がそれを避けるようになさってほしいという本心を注ぎ出す祈りを献げるためにゲツセマネに来られました。しかし、祈りを通して、主が最終的にたどり着いたのは、「御心のままに」という御言葉でした。イエス様の神様に対する、この祈りは私達信仰者の模範となる祈りです。本心を隠さず打ち明けていいのです。(これ程に苦しんだ御方に向かって私達は祈れるのです。同じ経験をされた主だから、苦しみをわかってもらえると信頼して思いを注ぎ出せるのです。)しかし、最後には「神様の御心のままに」と神様の御心に自らを委ねる姿勢が必要です。

 

主の必死の祈りに対して、主要な三弟子達は居眠り!

また、ここで注目したいのは、主に伴われた、主要な三弟子「ペトロ・ヤコブ・ヨハネ」の姿です。イエス様は、彼らに単に近くに居てほしいと言うだけでなく、御自分が悲しみ、苦しみ、悶えながらも必死に祈る様子を見せ、今後の出来事の重大性を認識する最後のチャンスをお与えになったと見ることができると思われます。イエス様が大事な祈りの間に3回も彼らの様子をご覧になりに来られたのです。ところが、彼らはこの重大な局面で眠ってしまっており、3回ともイエス様にそのことがばれてしまったのでした。「心は燃えても、肉体は弱い」(38節)とあるように弟子達は疲れていたと想像できます。また、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)の御言葉からわかるのは、霊的に、サタンが彼らを狙い、眠くなるように試みたと見ることもできるでしょう。弟子達が神様の御子を支えることを妨害しようとしたのです。

 

主を支えられない弟子達⇒主の孤独な十字架への道

神様の御計画を前に、地上で主を霊的に支える人が一人もいない、その状況下で、救い主の死が霊的に最終決定し、この世の現実として展開していったと私は思います。主の孤独な十字架への道が決定してしまったのです。しかし、私達はこの三弟子を決して責めらません。自分も同じような愚かさや弱さを抱えていると知っているからです。そのような「私」のために十字架にかかられた主に、更に感謝を献げましょう。

3月18日の説教要旨 「人の罪を贖う『主の十字架』」 牧師  平賀真理子

哀歌3:18-33 マルコ福音書10:32-45

はじめに

今日の新約聖書箇所は、見出しにあるとおり、イエス様が御自分の死と復活の3度目の予告の段落から始まります。「人の子(ここでは、イエス様を指す)」の死と復活こそ、人々を罪から救うために神様が御計画くださったことで、イエス様はその重大な意味を弟子達に伝えたいと願い、愛する弟子達に3度も宣言なさったのでしょう。

 

エルサレムに向かうイエス様の御姿

3度目の予告の前に、マルコ福音書では、イエス様が一行の先頭を進んで行かれたとあり、それを見た弟子達は驚き、従う者達は恐れたと書かれています。イエス様は神様の御計画が実現することを第一に歩まれたので、たとえ御自分が死ぬことになろうとも、それが、御自分の贖い主の使命であり、これが神様の御心だと確信しておられます。だから、自分が死ぬ定めの都へ敢然と向かうことがおできになったのです。

 

「救い主の死と復活」の予告の重大性を理解していない弟子達

イエス様は、御自分の救い主としての道が、まずは「苦難の僕」であり、それは、弟子達を始めとする人間達の救い主のイメージ「栄光の王」とは全く逆の姿であり、これが大きなつまずきになること予想し、3度も予告された訳です。しかし、予告は3度とも、弟子達は、その重大性を全く理解できていないことをマルコ福音書は書き残しています。1度目の予告(8:31)の直後に、一番弟子のペトロが予告の意味を理解できずにイエス様をいさめ、逆に主から叱責されたことが記されています。2度の予告(9:31)の直後には、弟子達が自分達の中で誰が一番偉いかを競っていたと書かれています。そして、3度目も、主要な弟子二人が、主の死を理解しつつ、その後の自分達の地位の約束を取り付けようと願い出ています。主の死を迎えるにあたり、主を思いやるのではなく、まず最初に自分達の利益を優先している姿を見て、イエス様は、弟子として大事な心構えを教えようとされています。

 

「杯」「洗礼(バプテスマ)」

「栄光の時に、主に次ぐ地位を望んだ」二人の弟子達に対し、イエス様は、まず苦しみを共にする覚悟があるかを尋ねたのです。御自分の飲む杯を飲み、御自分が受ける「洗礼」を受けることができるかと質問なさいました。この「杯」とは、旧約聖書に出てくる表現で、神様が一人一人にお与えになる「定め」「役割」を指します。また、ここでの「洗礼」も、(イエス様が洗礼者ヨハネから受けた「洗礼」を指すのではなく、)この世に来られたイエス様が天に帰られる前に果たさなければならない「血の洗い」を指します。つまり、「杯」も「洗礼」も、具体的には「主が十字架刑で死ぬ定め」の例えで、壮絶な受難を意味しています。主の弟子には、同じような苦しみを受ける覚悟で主に従えるかが問われるのです。

但し、「杯」という表現には、苦しい定めに限られるのではなく、本来は、「神様がくださる定め」として喜びなども含まれる場合があります。また、「洗礼」も一度死なねばならない訳ですが、しかし、そこから新しく生きるという意味があります。救い主はまず死ぬ定めですが、次にはよみがえるのです!3度の予告すべてで、主は「死」だけでなく、「三日の後に復活する」と予告なさっていることも覚えたいものです。

 

「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(45節)

救い主が最終的に栄光を賜るとしても、なぜ最初に死なねばならないのでしょうか?45節の御言葉「多くの人の身代金として自分を献げる」が、明確な理由として宣言されていることに注目したいと思います。これがイエス様の主要な役割(定め)です。「身代金」は現代の私達の間では、残念ながら、誘拐事件の時に聞くことになる言葉です。イエス様から見れば、この世で生きる人間は、サタンに誘拐されている者達と思われるのではないでしょうか。イエス様は、サタンに誘拐されている人間達を「神の国」に取り返そうとして、「救い主としてのこの世の御自分の命」、即ち、「とても尊い身代金」を献げてくださったと言ってよいでしょう。「身代金を払う」ことが「贖う」ということです。だから、イエス様は、私達一人一人の「贖い主」と言えるのです。受難節のこの期間、「主の十字架上の死によって、この私の罪が贖われた!」ことに、感謝の思いをより一層深められるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

3月18日の説教要旨 「人の罪を贖う『主の十字架』」 牧師  平賀真理子

哀歌3:18-33 マルコ福音書10:32-45

はじめに

今日の新約聖書箇所は、見出しにあるとおり、イエス様が御自分の死と復活の3度目の予告の段落から始まります。「人の子(ここでは、イエス様を指す)」の死と復活こそ、人々を罪から救うために神様が御計画くださったことで、イエス様はその重大な意味を弟子達に伝えたいと願い、愛する弟子達に3度も宣言なさったのでしょう。

エルサレムに向かうイエス様の御姿

3度目の予告の前に、マルコ福音書では、イエス様が一行の先頭を進んで行かれたとあり、それを見た弟子達は驚き、従う者達は恐れたと書かれています。イエス様は神様の御計画が実現することを第一に歩まれたので、たとえ御自分が死ぬことになろうとも、それが、御自分の贖い主の使命であり、これが神様の御心だと確信しておられます。だから、自分が死ぬ定めの都へ敢然と向かうことがおできになったのです。

「救い主の死と復活」の予告の重大性を理解していない弟子達

イエス様は、御自分の救い主としての道が、まずは「苦難の僕」であり、それは、弟子達を始めとする人間達の救い主のイメージ「栄光の王」とは全く逆の姿であり、これが大きなつまずきになること予想し、3度も予告された訳です。しかし、予告は3度とも、弟子達は、その重大性を全く理解できていないことをマルコ福音書は書き残しています。1度目の予告(8:31)の直後に、一番弟子のペトロが予告の意味を理解できずにイエス様をいさめ、逆に主から叱責されたことが記されています。2度の予告(9:31)の直後には、弟子達が自分達の中で誰が一番偉いかを競っていたと書かれています。そして、3度目も、主要な弟子二人が、主の死を理解しつつ、その後の自分達の地位の約束を取り付けようと願い出ています。主の死を迎えるにあたり、主を思いやるのではなく、まず最初に自分達の利益を優先している姿を見て、イエス様は、弟子として大事な心構えを教えようとされています。

「杯」「洗礼(バプテスマ)」

「栄光の時に、主に次ぐ地位を望んだ」二人の弟子達に対し、イエス様は、まず苦しみを共にする覚悟があるかを尋ねたのです。御自分の飲む杯を飲み、御自分が受ける「洗礼」を受けることができるかと質問なさいました。この「杯」とは、旧約聖書に出てくる表現で、神様が一人一人にお与えになる「定め」「役割」を指します。また、ここでの「洗礼」も、(イエス様が洗礼者ヨハネから受けた「洗礼」を指すのではなく、)この世に来られたイエス様が天に帰られる前に果たさなければならない「血の洗い」を指します。つまり、「杯」も「洗礼」も、具体的には「主が十字架刑で死ぬ定め」の例えで、壮絶な受難を意味しています。主の弟子には、同じような苦しみを受ける覚悟で主に従えるかが問われるのです。

但し、「杯」という表現には、苦しい定めに限られるのではなく、本来は、「神様がくださる定め」として喜びなども含まれる場合があります。また、「洗礼」も一度死なねばならない訳ですが、しかし、そこから新しく生きるという意味があります。救い主はまず死ぬ定めですが、次にはよみがえるのです!3度の予告すべてで、主は「死」だけでなく、「三日の後に復活する」と予告なさっていることも覚えたいものです。

「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(45節)

救い主が最終的に栄光を賜るとしても、なぜ最初に死なねばならないのでしょうか?45節の御言葉「多くの人の身代金として自分を献げる」が、明確な理由として宣言されていることに注目したいと思います。これがイエス様の主要な役割(定め)です。「身代金」は現代の私達の間では、残念ながら、誘拐事件の時に聞くことになる言葉です。イエス様から見れば、この世で生きる人間は、サタンに誘拐されている者達と思われるのではないでしょうか。イエス様は、サタンに誘拐されている人間達を「神の国」に取り返そうとして、「救い主としてのこの世の御自分の命」、即ち、「とても尊い身代金」を献げてくださったと言ってよいでしょう。「身代金を払う」ことが「贖う」ということです。だから、イエス様は、私達一人一人の「贖い主」と言えるのです。受難節のこの期間、「主の十字架上の死によって、この私の罪が贖われた!」ことに、感謝の思いをより一層深められるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

3月11日の説教要旨 「死に勝利した復活」 牧師  佐藤義子

イザヤ書25:7-10 Ⅰコリント書15:54-58

はじめに

イエス様と弟子達は、ガリラヤ地方を拠点に伝道活動をなさっていました。この後、この一行がエルサレムへ向かうことも、「後の時代の信仰者」である私達は知らされています。ガリラヤからエルサレムへは南下するはずですが、今日の新約聖書箇所では、イエス様御一行は、逆の方向=北のフィリポ・カイサリアに赴かれたと記されています。

フィリポ・カイサリア地方で

この地方は2つのことで、イエス様御一行が従っている本当の神様とは、本来相容れない性質を持つ所です。一つは、ギリシア神話に出てくる神々の一つである「パーン」という神を崇拝する宮があったということ、もう一つは、ローマ帝国が後ろ盾となって代官に任じられたヘロデ大王の息子フィリポが、ローマ皇帝に献げるため、このフィリポ・カイサリアの都を造ったという経緯があることです。前者は異教の神、後者は権力を持つ人間のために造られた所だったというわけです。しかし、だからこそ、本当の神様とその御力を求めるユダヤの群衆からイエス様達は逃れることができたのかもしれません(ユダヤ教では異教の人々と交際すると汚れると教えていました。)。この静かな環境で、エルサレムに出発する直前に、イエス様は弟子達に大事なことが伝わっているか確認し、更に重要事項を教えようとなさったのです。

ペトロの信仰告白「あなたは、メシアです。」(29節)

イエス様は弟子達に、まず、人々が御自分を何者だと言っているかをお聞きになりました。(恐らく、次の質問の布石だと思われます。)人々はイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」「預言者エリヤ」「預言者の一人」と言っていると弟子達は答えました。「洗礼者ヨハネ」とは、神様によって、イエス様に洗礼を授ける役割を与えられた人です。この時点で、既に彼は権力者に殺されていたのですが、人々はイエス様を、立派だった「洗礼者ヨハネ」と同じくらいすごい御方だと感じていたことを示しています。また、「エリヤ」はユダヤ教の中で最高の預言者として敬愛されていて、イエス様はその人に近いと思われていたようでもあります。また、最小の評価としても、イエス様の御言葉や御力は、人々が神様の御力を感じるのに充分だったので、「預言者の一人」と考えて間違いはないだろうと噂されていたことが、弟子達の答えからわかります。

けれども、イエス様が弟子達に一番聞きたかったことは、「人々が」ではなくて、「弟子達が」イエス様のことを何者だと言うのか、でした。主の二番目の質問に、ペトロが「あなたは、メシアです。」と答えました! イエス様を「救い主」として理解し、信じ従う人間がいて、その人が天地に向けて公言できる、この「信仰告白」こそ、イエス様にとって、本当の弟子を立てることができたという証しとなります。そして、同じように信仰告白できる人を増やすことが福音宣教の目的でしょう。ところが、イエス様は、彼らの信仰告白の内容を他の人々に話さないように戒めました。これは、イエス様の本当の弟子達以外に明かされるのは非常に責任が重いので、彼ら以外には秘密にした方がよいと、憐れみ深い「救い主」であるイエス様が判断されたからだと思われます。

「受難の予告」を信頼する弟子達に知らせてくださったイエス様

弟子の代表としてのペトロの信仰告白により、この世にイエス様の福音宣教の基盤ができたことが示され、イエス様は、その信頼できる受け手である弟子達に向けて、御自分の近い将来の定めを告げたのです。即ち、「受難の予告」です。弟子を始めとする人間達は「救い主」と言えば「栄光の主」だと当然予想しますが、イエス様が父なる神様から示された「救い主」の姿は「苦難の僕」でした。これは、人間の思考とは全く逆で、弟子達がこの内容に決して躓いてほしくないとイエス様が願われたと思われます。でも、案の定、「信仰告白」という功績を立てたはずのペトロさえ、主の御言葉とその思いを砕くように、主をいさめ始め、躓いたのです。ペトロだけでなく、弟子達全体に向かい、イエス様は人間の考えではなく、神様の御心を第一に求めるように教えました。それは自分の考えや利益や名声を捨て、自分の十字架を背負い(捨ててではなく)、「十字架の主」に従う道です。しかし、主の十字架の果てに、主の復活があります!私達=主に従う弟子達はその豊かな恵みも賜わるのです!

3月4日の説教要旨 「受難の予告」 牧師  平賀真理子

イザヤ書48:6b-11 マルコ福音書8:27-33

はじめに

イエス様と弟子達は、ガリラヤ地方を拠点に伝道活動をなさっていました。この後、この一行がエルサレムへ向かうことも、「後の時代の信仰者」である私達は知らされています。ガリラヤからエルサレムへは南下するはずですが、今日の新約聖書箇所では、イエス様御一行は、逆の方向=北のフィリポ・カイサリアに赴かれたと記されています。

フィリポ・カイサリア地方で

この地方は2つのことで、イエス様御一行が従っている本当の神様とは、本来相容れない性質を持つ所です。一つは、ギリシア神話に出てくる神々の一つである「パーン」という神を崇拝する宮があったということ、もう一つは、ローマ帝国が後ろ盾となって代官に任じられたヘロデ大王の息子フィリポが、ローマ皇帝に献げるため、このフィリポ・カイサリアの都を造ったという経緯があることです。前者は異教の神、後者は権力を持つ人間のために造られた所だったというわけです。しかし、だからこそ、本当の神様とその御力を求めるユダヤの群衆からイエス様達は逃れることができたのかもしれません(ユダヤ教では異教の人々と交際すると汚れると教えていました。)。この静かな環境で、エルサレムに出発する直前に、イエス様は弟子達に大事なことが伝わっているか確認し、更に重要事項を教えようとなさったのです。

ペトロの信仰告白「あなたは、メシアです。」(29節)

イエス様は弟子達に、まず、人々が御自分を何者だと言っているかをお聞きになりました。(恐らく、次の質問の布石だと思われます。)人々はイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」「預言者エリヤ」「預言者の一人」と言っていると弟子達は答えました。「洗礼者ヨハネ」とは、神様によって、イエス様に洗礼を授ける役割を与えられた人です。この時点で、既に彼は権力者に殺されていたのですが、人々はイエス様を、立派だった「洗礼者ヨハネ」と同じくらいすごい御方だと感じていたことを示しています。また、「エリヤ」はユダヤ教の中で最高の預言者として敬愛されていて、イエス様はその人に近いと思われていたようでもあります。また、最小の評価としても、イエス様の御言葉や御力は、人々が神様の御力を感じるのに充分だったので、「預言者の一人」と考えて間違いはないだろうと噂されていたことが、弟子達の答えからわかります。

けれども、イエス様が弟子達に一番聞きたかったことは、「人々が」ではなくて、「弟子達が」イエス様のことを何者だと言うのか、でした。主の二番目の質問に、ペトロが「あなたは、メシアです。」と答えました! イエス様を「救い主」として理解し、信じ従う人間がいて、その人が天地に向けて公言できる、この「信仰告白」こそ、イエス様にとって、本当の弟子を立てることができたという証しとなります。そして、同じように信仰告白できる人を増やすことが福音宣教の目的でしょう。ところが、イエス様は、彼らの信仰告白の内容を他の人々に話さないように戒めました。これは、イエス様の本当の弟子達以外に明かされるのは非常に責任が重いので、彼ら以外には秘密にした方がよいと、憐れみ深い「救い主」であるイエス様が判断されたからだと思われます。

「受難の予告」を信頼する弟子達に知らせてくださったイエス様

弟子の代表としてのペトロの信仰告白により、この世にイエス様の福音宣教の基盤ができたことが示され、イエス様は、その信頼できる受け手である弟子達に向けて、御自分の近い将来の定めを告げたのです。即ち、「受難の予告」です。弟子を始めとする人間達は「救い主」と言えば「栄光の主」だと当然予想しますが、イエス様が父なる神様から示された「救い主」の姿は「苦難の僕」でした。これは、人間の思考とは全く逆で、弟子達がこの内容に決して躓いてほしくないとイエス様が願われたと思われます。でも、案の定、「信仰告白」という功績を立てたはずのペトロさえ、主の御言葉とその思いを砕くように、主をいさめ始め、躓いたのです。ペトロだけでなく、弟子達全体に向かい、イエス様は人間の考えではなく、神様の御心を第一に求めるように教えました。それは自分の考えや利益や名声を捨て、自分の十字架を背負い(捨ててではなく)、「十字架の主」に従う道です。しかし、主の十字架の果てに、主の復活があります!私達=主に従う弟子達はその豊かな恵みも賜わるのです!