9月2日の説教要旨 「世の終末と私達の希望」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 ルカ福音書21:20-28

 

 はじめに

今日の新約聖書の前半は、イエス様のエルサレムについての預言です。神の都と呼ばれたエルサレムが恐ろしい状況で滅亡するいう内容です。しかし、これは、聖書で証しされている神様が「御自分の気分で都を滅ぼす」わけではありません。神様は、ユダヤ人を「イスラエルの民(神の民)」として、選び、愛し、育まれました。そして、約2千年前に、「今だ!」ということで、御自分の御子イエス様を救い主として、この世に送ってくださったのでした。それも、「唐突に」ではなく、ずっと前から「神の民に救い主を送る」という預言を預言者達に授けていました。

 

 前に預言され、後に実現されるに至る「神様による人間の救い」

特に、旧約聖書のイザヤ書以降には、そのような預言が幾つか含まれています。旧約聖書にいつも触れていたのが、ユダヤ教指導者達です。祭司長や律法学者達です。彼らが居るのがエルサレム神殿を中心とするエルサレムという都です。ここで、イエス様が「救い主」として受け入れられれば、このエルサレムは「神様による人間の救い」を受け入れたことになります。そして、それまで人間が受けていた「この世の長サタンの支配」から抜け出て(救われて)、神様がユダヤ人を起点の民として、世界中の人間に御言葉を伝え、全ての民族がそれを信じ、この世の皆が神様の支配を受ける「神の民」となるように、神様は御計画されたのです。

 

 エルサレムのユダヤ教指導者達の頑なな拒絶

ところが、エルサレムのユダヤ教指導者達はイエス様を最初から排除しようとしたことが、ルカ福音書の記述から読み取れます。彼らは、民衆の支持を失わせようと論争を仕掛けましたが、イエス様の「神の知恵」溢れる答えによって負けてしまいました。それでも、彼らはイエス様を「神の御子・救い主」とは認めませんでした。また、それ以前に、イエス様は、憐れみ深い神様の御心を示していないという彼らの罪を指摘なさったこともあって、彼らは悔い改めず、イエス様を拒み続けました。「神の救いの御手」を拒んだ町には、神の裁きが徹底的に降る定めです。

 

 イエス様を救い主として受け入れないという罪とその罰

ユダヤ教指導者達は、目の前の「ナザレ人イエス」を救い主だと受け入れなくても大したことにはならないと油断していたのでしょう。ところが、実は、イエス様の到来で、神様の出来事である「人間の救い」は、既に始まっていました!彼らはそれを見逃しました!更に、指導者の決定的な判断ミスで、「身重の女とか乳飲み子を持つ女(23節)」という社会的弱者が大変苦しめられることになるとイエス様は預言なさいました。本来は、弱者を憐れむ神様がそうしないほど、神様の御子に逆らう罪は非常に重く、その罪への罰を「神の民」は必ず受けなければならないのです。

 

 神様から受ける罰=エルサレム滅亡は、実際に起こった!

神様からの罰を受ける預言は、数十年後に実現しました。紀元66年から70年まで「ユダヤ戦争」となり、エルサレム神殿を含むエルサレムの町全体は、ユダヤ人が「異邦人」と蔑んだローマ人達の強力な軍隊により、徹底的に滅ぼされました。その後、20世紀に入るまで約1900年間、エルサレムは異邦人達に支配され、ユダヤ人達は心の故郷エルサレムを回復できない「離散の民」として、世界中をさまようことになりました。

 

 天変地異の預言が例えていることと私達が持てる希望

更に、所謂(いわゆる)「終末」の預言として、エルサレム滅亡後には、天変地異が起こり、天体や地上や海上で大きな異変が起こるために、神様の御業を知らない「諸国の民」は「なすすべを知らず、不安に陥る(25節)」と、主は預言なさいました。しかし、「そのとき、人の子(救い主なるイエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る(27節)」と続きます。救い主イエス様と出会った時、私はそれまでの価値観が全く覆され、心の中で「天変地異が起きた」ように感じました。天変地異の預言は、福音との出会いで、以前の心の体系が大いに揺さぶられる経験を例えていると言えるかもしれませんし、それだけではなく、「終末の出来事」として実際に起こることかもしれません。ただ、信仰者はその出来事の有無を心配することから解放されています。イエス様を救い主と信じることによって罪を贖われた私達は、どんな状況でも神様につながっているという希望を持ちつつ、主の来臨を待っていられるからです!

8月26日の説教要旨 「命をかち取る」 平賀真理子牧師

出エジプト記4:10-12 ルカ福音書21:7-19

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の5-6節のやりとりが前提となっています。エルサレム神殿の素晴らしさをほめたたえる者達に対して、イエス様が「それはやがて崩れる」と預言されました。人々は、外側に表れたものを称賛しましたが、一方、イエス様のお答えは、実は、外側だけが崩れると意味しているのではなく、もっと深いのです。

 

 まだ建設中のエルサレム神殿の崩壊の預言

6節のイエス様の御言葉を聞いた人々は、壮麗な神殿の崩壊だけが語られたと受け取り、それがいつ起こるのか、そして、その前兆を教えてほしいと願いました。実のところ、この時、エルサレム神殿は、まだ完成していませんでした(紀元64年に完成)。まだ建設中の建物が崩壊するなんて、人々は想像できず、そんなことはありえないと思ったかもしれませんし、イエス様の預言が本当になったらどうしようと心配になって質問した人がいたかもしれません。

 

 エルサレム神殿を中心としたユダヤ教の信仰体系の崩壊

ここで思い出していただきたいのが、この頃のユダヤ教はエルサレム神殿を中心とした信仰体系になっていたということです。首都であり、神の都であるエルサレムにある神殿で、自分の罪を贖う動物の犠牲を献げて礼拝することが大変重要だと信じられていました。エルサレム神殿が崩れてなくなるとは、単なる建物の消滅ではなく、エルサレム神殿の権威の崩壊、そして、彼らの社会の崩壊、更には、この世の崩壊までを意味していたわけです。また、当時のユダヤ教では、この世の終わりを「終末」と呼び、「終末」にメシアが来て、人々を裁くと言われていましたから、「終末が来る時」を前もって知り、神様の裁きに備えたいと考える人も当然いたことでしょう。

 

 「終末」に怯える人間が抱く恐れ、イエス様が人間に対して抱く心配

イエス様は質問者達の思惑をおわかりになった上で、「人々の恐れ」を利用して、「自分が救い主だ」とか「終末が近づいた」という偽キリストに従わないように警告なさったのです。また、恐れを抱えた人間は戦争や暴動のニュースを聞いただけで「終末だ」と怯えることもイエス様は御存じで、そうではないと教えてくださいました。更に、「民vs民、国vs国」といった対立や、地震・飢饉・疫病の頻発、恐ろしい現象や天に現れる著しい徴で、人間は「終末が来た」と恐れるようになるとイエス様は予見し、人間の誤解を指摘なさったのです。一方、当のイエス様が心配なさっていたことは、12節以下、つまり、イエス様を救い主として受け入れた人々が、受け入れない人々によって迫害されること、場合によっては「殉教者」として殺されることです。それは、人間的に見れば、大変恐ろしい「終わり」です。外側に表れる天変地異や人災ともいえる戦争や暴動の前に、信仰者の内側=心に、「終末」のような恐ろしい出来事が必ず起こるから、それに備える必要があると教えておられるのです。

 

 権力者の前での弁明の時に、主が「言葉と知恵」を授けてくださる

信仰者は、権力者達の前で信仰について語る機会が与えられるであろうとイエス様は預言なさいました。人前で語る教育を受けていない庶民出身の信仰者にとり、そんな機会は恐怖以外の何物でもないでしょう。そんなピンチの時、イエス様は信仰者に「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」を授けると約束なさいました!神様からの言葉や知恵は、人間を越えた、欠けのない、完璧なものです。使徒言行録には、実際にそのことが起こったという証しが幾つもあります。

 

 信仰ゆえに起こる「終末」を励ましてくださるイエス様

信仰者がもっと恐れるのは、家族や友人という親しい人々から迫害され、殺されるに至ることです。更に、「わたしの名のために」、つまり、「イエス様が自分の救い主」という信仰ゆえに、信仰者は「すべての人に憎まれる」と主はお語りになっています。何も後ろ盾がなければ、まさに「終末」のように恐ろしいことです。けれども、信仰者を「髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)ほど、主御自身が完璧な後ろ盾として守ってくださると保証してくださっています!信仰者はただ、どんな状況下でも信仰を貫くという「忍耐」によって、神様につながる「人間本来の命」をかち取るよう、主は願い、私達信仰者を励ましておられるのです。

8月19日の説教要旨 「内側を見る神様、外側を見る人間」 平賀真理子牧師

詩編4:3-6 ルカ福音書20:45-21:6

 はじめに

私達の主イエス様は、神の都エルサレムに入られてから、反対派の人々に論争を挑まれました。しかし、仕掛けた反対派の人々が、神様の知恵をお持ちのイエス様に完璧に負けてしまったという出来事が起こったのです。イエス様は「神様の知恵」によって、反対派が全く反論できない答えを示されました。その機会に、反対派の人々がその態度を悔い改め、イエス様を受け入れる機会を御自ら与えようとなさったと思えます。しかし、彼らは悔い改めずに、イエス様を亡き者にしようという決意を益々固めていきました。エルサレムの有力者達が頑な心のままで御自分を救い主として受け入れないなら、近い将来、大切な神殿が崩れるという裁きを受けるとイエス様は預言されました(21:6)。

 

 信仰深いと外側に装っている「律法学者達」

その前に、神様の御前に、間違った態度で信仰している律法学者と、神様に喜ばれる信仰を持つ人である「やもめ」を、イエス様が続けて示して教えてくださったように、ルカ福音書は記しています。

まずは、民衆を前に、イエス様はお弟子さん達に、律法学者の間違った態度を指摘して、彼らに気を付けるようにおっしゃいました。有力者の中でも「神様の御言葉」に最も詳しいはずの「律法学者達」は、その御言葉にではなく、周りの人間に自分が尊敬に値する人物だと見られることに最大の関心があることが、その行動からわかるからです。地位が高いことを示す長い衣を着て歩き回ったり、礼拝が行われる会堂でも、日常生活の中の宴席でも上座に座って偉い立場にあることを世間に示したがるのです。更に、イエス様が最も許せなかったのは、夫に先立たれた寡婦、社会的弱者の象徴として考えられていた「やもめ」から、宗教的・法律的アドバイス料、または祈祷料を名目に多額の謝礼を要求する律法学者が結構居たことです。神様の御言葉を知っている律法学者がこんな態度を取ることは、イエス様にとって許しがたいことでした。彼らの行動は、神様の御心とは全く真逆です。神様の御言葉を通して、御心を当然知っているはずの律法学者達が、それに従わないならば、必ずあると言われる「裁き」の時に、知らない人よりも罪が重いとされ、厳しい裁きを受けると言われたのです。律法学者の間違いを指摘なさるのは、御自分の死後、弟子達が、当時の律法学者のように、指導者になることを見越しておられたからでしょう。御自分の弟子達は、偽物の信仰者であってはならないというイエス様の思いがにじみ出ています。

 

生活費を全部神様に献げた「やもめ」

イエス様は、律法学者にいつも搾取されている「やもめ」達の内の一人で、エルサレム神殿での献金において、立派な信仰を示した女性をご覧になり、その信仰をとても喜ばれたことが2番目の段落に書かれています。レプトン銅貨2枚とは、現在で言えば、約100円~200円です。

当時の献金システムでは、献金者は名前と金額とその主旨を係の人に告げ、係の人が復唱していたようです。近くの人々に丸聞こえです。金額だけ聞けば、お金持ちの人々はもっと多くを献金できたことでしょう。しかし、イエス様は、金額ではなく、献金者の心の内側をご覧になると示されています。生活費の余りを献金するのではなく、生活費全部を最初に献金するほど、この「やもめ」は神様へ全幅の信頼を寄せています。主は、外側に示される金額ではなく、生活費に対する割合の切実さを、心の内側にある信仰に比例するものとして重要視なさっています。

 

「神の神殿」の内側にあるべきもの 

続く段落(21章5-6節)でも、人間が外側だけを重視することが明らかになっています。ユダヤ人が大事にしているエルサレム神殿で、人々が見ているのは、建物に使われた石と、奉納物による飾りです。神殿において、神様への信仰という内側ではなく、建物に現れた外側を人間は見ています。本当は、エルサレム神殿の内側には「イエス様を救い主とする信仰」が立てられるべきなのに、人間は外側に現れた形の美しさや数の多さを見ています。神様と罪深い人間とは、価値観が正反対です。新約時代においては、私達信仰者が「神の神殿」です。教会でも自分一人であっても外側を飾るのではなく、その内側に主に対する信仰が立てられているかを吟味し続けられよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

8月12日の説教要旨 「神様の知恵」 平賀真理子牧師

箴言81221  ルカ福音書202026

 はじめに

私達の主イエス様は、十字架にかかる定めを前にしながらも、神の都エルサレムに果敢に入っていかれました。一方、この都で権力を持っていた「祭司長や律法学者や長老達」(以下、「反対派」)は、自分達の座を簡単に明け渡さず、イエス様に論争を挑みました。民衆に人気のあったイエス様に対し、反対派の人々は、「面白くない」という感情や、自分達の既得権益を脅かされる危機感を持ったことでしょう。

 

「エルサレム神殿での活動は、天からの権威?人からの権威?」

まず、反対派は、イエス様のエルサレム神殿での宣教活動の根拠=何からの権威をいただいて、そのようなことをしているのかを、二者択一の形で尋ねました。それに対して、イエス様は、御自分について答えても、彼らの反対する気持ちは変わらないことを見抜き、洗礼者ヨハネの洗礼の権威をお尋ねになりました。何が何でも反対という感情から離れて、御自分を救い主と証しした洗礼者ヨハネの言葉を思い出させ、彼らに悔い改めを促されたと思われます。しかし、反対派は、悔い改めるどころか、「メンツがつぶされた」と感じたことでしょう。

 

同じパターンで仕返しを謀る反対派とその「回し者たち」

恥をかかされたと考えたであろう反対派の人々は、同じ二者択一の質問で、民衆のイエス様に対する期待を失墜させようとしました。しかも、1度目の質問で懲りたのか、自分達は隠れて、「回し者」と表現される人々を派遣しました。この人々は、実のところ、神様を大事に思っておらず、そのようなふりをした人々、そして、反対派の人々に取り入り、幾らかの利益を得ようとした人々と推測できるでしょう。

反対派の人々はこの回し者たちと共に、作戦を練り、イエス様に挑んだに違いありません。実は、反対派にとって、イエス様への2度目の挑戦です。一刻も早く、自分達の前からイエス様を消したいと願い、策を弄したのでしょう。彼らは、大人数という「数」と、自分達の「知恵」を武器に、神様から派遣されたイエス様に挑みました。彼らは、神様が示してくださった真実よりも、自分達の利益や名誉が大事とする「罪」に捕らわれており、しかも、卑怯です。結局、正しい人のふりしかできず、その本質は神様から離れた「罪人」であると示されています。

 

罪に罪を重ねる反対派の人々

反対派の人々は、常日頃は、異邦人であるローマ帝国の支配を憎んでいたのですが、イエス様に対しては、ローマ帝国の支配と権力を当てにしています。自分達の欲望のためには節操を簡単に捨てています!

 

イエス様は「真理に基づいて神の道を教えておられる(21)」御方

回し者達の発言の前半部分(21節)は、実は、反対派の人々がイエス様のことを、心の奥底では理解していたと示されています。これを本心から言うならば「信仰告白」です。けれども、ここではそうではなくて、相手を気持ちよくさせて油断させるためのお世辞(罠)だったわけです。

 

「ローマ帝国に税金を納めるべきか、否か」という質問の裏の悪意

異邦人の国ローマ帝国に税金を納めるべきか、否かという二者択一を迫る質問は、どちらを答えても、イエス様を追い込むことができると反対派は予想していました。「納めるべきである」と答えれば、税金に苦しんでいた民衆が、イエス様を「救い主」として受け入れられなくなるし、また、「納めるべきでない」と答えれば、ローマ帝国から派遣されている総督に訴える口実にできると狙っていたわけです。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

イエス様の答えは、彼らの知恵をはるかに超えていました!実際に税金徴収の時に使う「デナリオン銀貨」を確認させ、皇帝の肖像と銘があるものならば、それは皇帝の所有を意味するので、皇帝に返すように言われたのです。誰もが納得する答えです。更に、この後に続く御言葉「神のものは神に返しなさい」に、反対派は、自分達の愚かさを痛感し、主の知恵が人間の知恵を越え、非の打ち所がないと悟ったのです。実は、この御言葉は、時空を超えて、私達信仰者にも語られていると言えます。時空を超えた「神様」の知恵の御言葉だからです。信仰をはじめ、神様から賜るものを想起して感謝し、お返しするよう、求められています。

8月5日の説教要旨 「『ぶどう園と農夫』のたとえ」 平賀真理子牧師

詩編80:15-20 ルカ福音書20:9-19

はじめに

私達の主イエス様の、この世での最後の一週間の出来事を読んでいます。神の都エルサレムでの出来事です。この都に居た権力者達は、イエス様に対し、反感を持っていました。彼らは、政治と宗教の両方に対して、最高権力を持つ「最高法院」の議員達です。具体的には、「祭司長や律法学者達や長老達」などです(以下、「反対派」と記す)。彼らは、イエス様に対する民衆の支持をなくそうとして、イエス様に論争を吹きかけ、失言させようと画策していったのです。

 

救い主(イエス様)と神の民(イスラエル民族)についての預言 

反対派が仕掛けた論争の最初の論争が、今日の箇所の直前の段落にある「権威についての問答」です。その論争の後に、イエス様は民衆の前で「ぶどう園と農夫」のたとえを語られました。反対派の人々もそこに居ました。彼らの多くは宗教指導者でもあり、旧約聖書の中の有名な「ぶどう園」のたとえを思い出したはずです。イザヤ書5章1-7節に記された預言です。この話の「ぶどう」とはイスラエル民族のたとえであり、このぶどうを植えたのが「わたし(ここでは「神様」)の愛する者」と書かれています。そして、結局、この「ぶどう」は良い実を実らせず、酸っぱい実しかならなかったと表現されています。神様の愛する者である御子イエス様が一生懸命宣教したにもかかわらず、イスラエル民族は「信仰の実」を実らせられなかったと、ずっと昔に預言されていたのです。イエス様は、御自分を認めないことを画策していた反対派に、御自分や御自分に託された神様の御心を悟ってくれることを願っておられたのだろうと思われます。

 

「僕」(預言者)は排除され、「愛する息子」(御子イエス様)は殺される

今回のたとえ話では、ぶどう園の持ち主の「僕」が3人出てきます。これは、イエス様以前の「預言者」達のたとえです。この話の中で「僕」は持ち主から派遣されていたにもかかわらず、そこで働く農夫達は、「僕」を追い出しています。「農夫」とたとえられたのが、ユダヤ社会の指導者達であり、かつて預言者達を排除する愚行、つまり、神様の御言葉や御心を拒否する不信仰を繰り返してきた姿をたとえています。イエス様は、反対派の人々に過去の失敗例を思い出させようとなさり、悔い改めない限り、「愛する息子が殺された」ように、彼らが御自分を殺すことになると御存じだったと思われます。その過ちの結果、イスラエル民族は、都エルサレムを滅ぼされ、国土を持たない「離散の民」とされることがイエス様には見えていて、その悲惨な将来を避けるために、イスラエル民族の指導者達に、悔い改めて、御自分を受け入れてほしいと切に願っておられたのだと思います。

 

「隅の親石」

「ぶどう園と農夫」の話に続いて、イエス様は「隅の親石」のたとえもお話しになりました。「隅の親石」は「家を建てる者の捨てた石」とも言われています。エルサレム神殿を中心とした「ユダヤ教の信仰共同体」を立てる役割のユダヤ教指導者達が「家を建てる者」とたとえられ、その人達が「捨てた石」とは、反対派が排除しようとするイエス様をたとえています。人間が不要と判断したものを、神様は重要として立てられるとされています(神様と罪の人間とは価値観が逆です)。そして、この「石」(イエス様)の威力に、人間は一たまりもなく、この「隅の親石」に反対する者は「死」しかないと言われています。ここで言われる「死」とは、医学的な死ではなく、神様から隔絶されること、神様と何の関係もないものとされるという宗教的意味の死です。これが、聖書で問題視される「死」です。

 

イエス様による「新しい救い」を受け入れることのできる恵み

反対派は、2つのたとえ話が自分達へ語られていると理解しながらも結局、受け入れず、悔い改めませんでした。更に、彼らは、神様を第一に畏れるべきなのに、それよりも人間を恐れました。これも「罪」の姿です。この「罪」も背負い、イエス様は十字架にかかられました。救い主の死が人間の罪を贖うとされるのが「新しい救い」です。反対派をはじめ、人間は、自分の力だけでは罪から解放されないのですが、神様の助けを受ける恵みを得て、イエス様を救い主と受け入れる人々は確実に増やされています。その証しとして、私達信仰者は立てられてもいるのです!

7月29日の説教要旨 「天からの権威、人からの権威」 平賀真理子牧師

出エジプト記11521 ルカ福音書2018

はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、イエス様が、この世で歩まれた最後の一週間の箇所に入りました。イエス様が神の都エルサレムに入った出来事を「エルサレム入城」、その後に、エルサレム神殿で商売人達をイエス様が追い出した出来事を「宮清め」と言います。今日は、その後に行われた、イエス様と反対派の人々との論争の箇所です。

 

エルサレム神殿を、神様の御言葉で満たしたイエス様

「宮清め」の後、つまり、エルサレム神殿で本来行われるべきでない商売を直接排除なさった後に、イエス様は、まず、中身として大事なことを行われました。それは、神様についての「本当の教え」、または、御自分の教えを信じることによる「救い」を民衆に伝えることです。エルサレム神殿を、この世の「金銭」ではなく、「神様の御言葉」で満たしていかれたのです。このことは、後の時代の信仰者の私達から見れば、なんと素晴らしいことをなさったのか!という思いにさせられますが、既に自分達に都合の権利を得ていた人々(反対派)の立場から見れば、イエス様を一刻も早く排除したいと思ったことでしょう。

 

反対派(祭司長、律法学者、長老達)からの質問とイエス様の逆質問

だから、彼らは、イエス様の言動の源について質問しました。イエス様が神殿内で教えている、その言動は、誰の許可を取って行っているのか?という問いです。そして、結局、誰からも権威をもらっていないことを明確にして、エルサレム神殿で教えさせないことをもくろんでいたと思われます。これに対して、イエス様は、逆質問する形をお取りになりました。しかも、その逆質問は、イエス様御自身の権威について直接の問いではありません。御自分ではなく、「ヨハネの洗礼」の権威についての質問でした。これに対して、反対派の人々は、「自分達の質問に答えず、逆質問する権利がどこにあるのか?」などと言わず、その質問に答えられなくて右往左往しています。イエス様からの逆質問は彼らの矛盾を深く突くものだったのです。

 

 「ヨハネの洗礼」の権威は、天から?、人から?

 ユダヤ社会においては、救い主誕生の前に、主の道を備える者(マラキ3:1)が現れると預言されていて、それが「洗礼者ヨハネ」だとルカ福音書は証しするべく、このヨハネの誕生や、彼が行った悔い改めの説教と洗礼が神様の御計画であると伝えています。「もしかして救い主では?」と期待された、このヨハネは、自分はそうではなくて、その前に主の道を備える者に過ぎないと事前に語り、イエス様が自分の所に洗礼を受けに来た時に、「この御方こそ救い主であり、神の子である」(ヨハネ1:29ー34)と証ししました。このことは当時のユダヤ社会で有名な話で、反対派の人々も知っていたはずです。だから、彼らは「洗礼者ヨハネの洗礼」は「天(神様の呼び名の別称)からの権威」と知っていたはずなのです。

 

洗礼者ヨハネも救い主イエス様も「天からの権威」

洗礼者ヨハネの洗礼が「天からの権威だ」と答えたならば、そのヨハネが「救い主」と証ししたイエス様を主と認めないのは「神様への不信仰」です。反対派の人々にとって「不信仰」とされることこそ、受け入れがたい不名誉です。だから、彼らはヨハネの洗礼を「天からの権威」とは答えられません。また、もう一つの選択肢の「人からの権威」と彼らが答えたならば、「洗礼者ヨハネ」を神様から遣わされた人物であると信じて、彼から洗礼を受けた、大勢の民衆が、指導者達は、自分達とは見解が異なると知って暴動を起こすだろう、そんなことは指導者として避けたいと考えたのでした。神様の御業を認めようともせず、民衆の評価と勢いを第一に恐れた彼らは、結局、イエス様の逆質問に答えないことを選びました。実は、この逆質問は、彼らへの悔い改めへの招きでした。この機会に、彼らはよく考えて、または、真摯に祈り求めて、イエス様を「救い主」と受け入れることもできたのです。けれども、彼らはそれを拒みました。そんな彼らに、救い主イエス様も答えを拒んだのです。

 

イエス様を「救い主」と受け入れる者達(私達)への大いなる恵み

天からの権威による「救い主イエス様」を知りながら、面と向かわない者は、結局、主の救いに与れません。一方、何の功績もない私達が、主の救いを受け入れるように導かれました。その恵みに感謝しましょう!

 

7月22日の説教要旨 「神の御言葉、とこしえに」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書40:6-8 ヨハネ福音書1:14

 はじめに

本日は、皆さんと一緒に、聖書の御言葉を味わいたいと思います。イザヤ書40章6節-8節に集中して、お話をしていきたいと思います。

 

 「草は枯れ、花はしぼむ」→この世の「栄枯盛衰」を表す

砂漠は温度が高い所ですから、朝に草が生えても夕方には焼けて干からびてしまいます。しかし、ここで、イザヤは植物のことを言いたいのではありません。栄えていたものもいずれは衰えます。企業も団体も国もそうです。これは万物の法則と言えるでしょう。栄枯盛衰はこの世界の定めです。この世界に全く変わらずにいつまでもあり続けるものがあれば、それは頼りがいがあるに違いありません。

 

 この世に、本当の意味で頼りがいがあるものがあるのか?

この世で頼りがいのあるものは何でしょうか?答えとして、今も昔も「お金」だったり、「幸福」とか「愛」とか「家庭」とか「健康」等があげられるでしょう。しかし、死にゆく時はすべて捨てていかなければなりません。この世で完全なものはありません。

 

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」

今日の旧約聖書の御言葉「神の言葉はとこしえに立つ」は、旧約聖書全般を通しての教えです。いつまでも神の言葉はなくならない、存続すると言っています。それはそれでわかりますが、何か頼りないと私達は感じます。言葉は、言いっぱなしで人をその気にさせますが、私達は手で触れて確かめることのできるものを信頼したいと思ってしまいます。

 

 人間が発するのではなく、神様からいただいた「預言」

このイザヤの預言は約2500年前になされましたが、この時代に頼りになったのは、多くの兵隊や軍隊、大きな要塞、豊かな食料や宝石などだと考えられた時代です。そんな時代に「神の言葉がとこしえに立つ」と宣言した教えは、この時代では、異様なことでした。これは人間には言えないことで、神様が預言者イザヤや民に教えてくださった大切な御言葉だと心に留めたいと思います。

 

 イスラエル民族の歴史を振り返って

イスラエルの民の国家であるイスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の時、大変栄えました。しかし、その王国もやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。そして、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国だけになりました。それもまた、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされました。南王国の王様と貴族は、バビロニアの都バビロンに連行されました。イスラエルの民にとってつらいことは、国を失っただけでなく、「神から見捨てられた」ことで、大変に絶望しました。アブラハムの時代から、神様にお前達は特別だと言われていた民にとって、ショックだったことでしょう。その時こそ、預言者達が活躍し、彼らは、イスラエルの神様に従わなかったことで不幸がもたらされたと言いました。こういう中で、イスラエル民族は、旧約聖書を巻物として整え、今まで気づかなかったことに気づいていくようになります。

 

 奴隷に自分達の神々の像を拝ませたバビロニア帝国

さて、バビロニアは、征服した敵国の人々を奴隷にして、都バビロンで繁栄しました。そのバビロニア帝国は、年2回のお祭りをして、バビロンの神殿(高さ90m)で、奴隷達をバビロンの神々の巨大な像の前で跪かせて拝ませました。イスラエル民族は神の像を刻まない民なのは幸いだったと言えるでしょう。ところが、約50年後にバビロニア帝国は東から興ったペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民は晴れて故郷に帰れるようになりましたが、故郷は廃墟と化し、復興の苦労が続きました。

 

 バビロンにあった、巨大な神々の像の末路

バビロンから解放される時、イスラエル民族は凄いものを見ました。それまで拝まれていたバビロンの神々の巨大な像を撤去せよということで、家畜を使って、多くの巨大な像が丸太の上を砂漠に向かって転がされ、砂漠の果ての死の世界にまで運ばれる様子です。彼らはこの時、「草は枯れ、花はしぼむ」ことが身に染みてわかったのです。この世の物、地上の物は土くれのように失われると教えられたのです。

 

 「神の言葉を心に刻め」

イザヤ書46章1節以降にそのことが表現されています。ここで言われる「ベル」は「マルドゥーク」というバビロンの最高神の別称ですし、「ネボ」はその息子と言われています。その巨大な神々の像が横たえられて、家畜によって運ばれ、重荷となり、沈んでいく、滅んでいく…。

ここに、繁栄したバビロニア帝国が滅びた様、神々を祭った人々の滅びが描かれています。地上のものを神と祭ってはならないとイスラエルの民は悟ったのです。砂漠で神の像を刻んだ宗教は全部滅びました。十戒にあるように「あなたがたはいかなる像でもって神を刻んではならない」のであり、「神の言葉を心に刻め」と「神の民」は言われていたのです。この戒めを守って生きていくことこそ、神の民に相応しいのです。これがイザヤ書40章になり、それが新約聖書に受け継がれました。

 

 旧約聖書を受け継いだヨハネ福音書:「神の言葉が肉となった」

ヨハネによる福音書1章14節には、「神の言葉」が肉となり、私達の間に宿られた、それが、イエス・キリストであるとあります。そのことをヨハネは感動の思いで記しています。民が長い間待ち望んだ神の言葉が、人間となったことが素晴らしいのです!

「イエス・キリストは偶像じゃないのですか」と問う人がいます。しかし、初期の教会の人々は、イエス・キリストを像に刻まず、偶像化しませんでした。その言葉や教えを心に刻みました。その御言葉を大事にすることを使徒パウロは「信仰」と呼び、ガラテヤ書4章で「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」という内容を記しました。この「形」は言葉です。この言葉を信仰として心に刻み、愛に満ちて生きていくように言われています。このように、イザヤ40章8節は未来に向けて語られた言葉であり、これがイエス・キリストに集約して、預言が完成して、新約聖書に記されています。

 

 福音書の疑問:主イエスが言葉を発するだけで実現するのはなぜ?

主が言葉が発するだけで、なぜ事実が伴うかという問いが生まれます。癒しにおいて、イエスが「清くなれ」と言うと相手は即刻癒されました。中風の人に床を担いで歩きなさいと言うとその通りになりました。

修辞学者でもあったアウグスティヌスは、言葉は何かを指し示すために使うものであると言っており、だから「言葉が肉を取り、イエスにおいて、言葉と現実が一つになったのだ」と言ってやまないのです。

一つの例として、主イエスが、ナインで一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、その息子に甦(よみがえ)るように言われて、そのとおりに生き返った出来事がありました。イエスの御言葉が素晴らしいだけでなく、現実にその通りになりました!人々は旧約の預言が、現実に肉となってイエス・キリストになったことに感動しているのです。旧約で教えられた「神の言葉」が、私達の中に現れたのが、イエス・キリストです。

 

 今や、「神の言葉」は主イエスの中に現れている!

 「言葉」とは出来事の葉っぱです。旧約聖書の時代では、神の言葉を頭につけたり、衣の裾に書き入れたりしていたのですが、今や、新約時代になりますと、イエス・キリストの中に神の言葉は凝縮されて現れたのです!人々は、この御方を心に受け入れて、生活を始めたのです。

 

 ヨハネ福音書における「主イエスの御言葉」

「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とは、何かの奴隷になっている私達を、真理(キリスト御自身)が解き放ってくださっていると言えます。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の御言葉も挙げたいと思います。主は、私達人間に、何かをしなさいとはおっしゃっていません。わたし(主イエス)自身が道であり、真理であり、命であるから、わたしの上を通っていけ」とおっしゃっいました。その他にも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)という御言葉もあります。人はその御言葉につながり、そのまま聞いて心に留めるべきであり、イエス御自身が貴い「神の言葉」です。また、死んだラザロも、主イエスに出て来なさいと言われて、甦りました!(11章)主イエス御自身も、3日目の復活を預言し、現実になりました。私達は新しい目や新しい心をもって、聖書を読むべきです。

 

 聖書の読み方

今日の旧約聖書箇所のイザヤの預言が、主イエスに具体的に示されていることが新約聖書に現れており、その恵みに私達は預かっています。私達はそのように受け止めて聖書を読んでいきたいと願います。

7月15日の説教要旨 「祈りの家」 平賀真理子牧師

イザヤ書56:1-8 ルカ福音書19:45-48

 はじめに

イエス様がついに神の都エルサレムに入っていく、いわゆる「エルサレム入城」直後になさったことは、エルサレム神殿に入られたことでした。この神殿は、イスラエルの民にとって大変重要な場所で、イエス様が最初にここに入られたことは、本当の「救い主」として御自分を公けにする証しとなるはずでした。

「救い主」についてのイスラエルの民とイエス様との認識の相違

「主なる神様」は人類の救いの起点として、イスラエルの民を選び、導いてこらました。それは、出エジプトの出来事やバビロン捕囚後の帰還許可の出来事として、歴史の上でも顕著に現れました。イスラエルの民は、あのダビデ王やソロモン王の時に繁栄したイスラエル王国のような国が建てられることが「救い」だと思い込み、「救い主」は国を建てる政治的力のある御方であると期待したのです。ところが、イエス様は、「救い主」の使命は、人間を「主なる神様」を第一として生きるように変えることだと御存じでした。そのために、「神の国の福音」を告げ知らせ、人々を神様へと目を向けさせたのでした。また、「神の国」の先取りとして「神様の御力」が人間に及ぶとどうなるかを知らせるために、癒しなどの奇跡を行ってこられたのでした。「救い主」は、決して政治的権力を求めて働くものではないことを示しておられました。

 

イエス様が「父の家」で見たこと=祭司長達の罪深さ

イエス様は12歳の頃、エルサレム神殿を「自分の父の家」とおっしゃったことがあります(ルカ2:49)。この神殿に祭られている「主なる神様」が送ってくださった「救い主」が「父の家」に帰還した時、それまでに管理を任されていたはずの「祭司長達」は、本来なすべき「主なる神様への祈り」ではなく、この世で権力を持つ金銭を儲ける「商売」に心を奪われ、第一のこととして考えていたのでした。彼らは、神殿税を徴収する時に手数料を必要以上にたくさん要求しましたし、また、罪を肩代わりさせるための犠牲の動物を、神殿内の祭司長一族の経営する店で高値で買わせるように仕向けて暴利をむさぼっていました。神様の名を利用して、自己の利益を図った上に、それを悪いとも思わない、なんと罪深いのでしょう。イエス様は、これは、父なる神様の御心とは全く逆だと、「主なる神様」の独り子として、明確に示す必要がありました。優しいイメージのあるイエス様も、このような不義を見過ごすことはなさいません。

 

「古い救い」から「新しい救い」へ

イエス様がエルサレム神殿で商売人達を激しく追い出されたことは、教会では「宮清め」という呼び名で有名です。祭司長達と、また、彼らと結託した商売人達の不義を明らかにして悔い改めさせるという目的以外に、もう一つ、この「宮清め」には大きな意味があります。それは、イエス様が「古い救い」を終わらせ、「新しい救いの到来」を公けにすることです。神殿を託されていた祭司長達は、結局は罪深さから解放されませんでした。そんな彼らが、民の罪を清めることなどできませんでした。神殿で祭司長が罪人の肩代わりの動物を犠牲にするという「古い救い」は、人間の罪によって実現できませんでした。そこで、罪のない「神の御子」であるイエス様の大いなる命の犠牲によって罪が赦されて神の民とされるという「新しい救い」がイエス様の救いの御業によって、実現されることになったのです。イエス様の十字架が「自分の罪の贖いである」と信じるだけで、何の功績のない私達、後の時代の信仰者までも、救いの恵みをいただけるとは、本当に感謝なことです!

 

今や、私達一人一人が「祈りの家」

私達は、自分の罪の赦しの源である「主の十字架」での受難を想起し、礼拝において、この呼び集められた礼拝堂で、感謝の祈りを より一層熱心に献げる群れとなりたいものです。聖日の礼拝だけでなく、日頃の生活でも、感謝の祈りをもっともっと献げるようになりたいものです。Ⅰコリント書3:16には「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。「新しい救い」では「私達一人一人が祈りの家」なのです!そこに不義が入り込んでいたら、聖霊によって追い出して清めていただき、救い主イエス様への感謝の祈りで満たすことができるよう、祈り求めましょう。

7月8日の説教要旨 「神の訪れてくださる時」 平賀真理子牧師

申命記32:39-43 ルカ福音書19:28-44

はじめに

イエス様と弟子達一群が、エリコの町からエルサレムに入っていく、そのことが記されているのが、今日の新約聖書の箇所です。

 

「ムナのたとえ」を踏まえた上での「エルサレム入城」

まず、最初に、直前の段落の「ムナのたとえ」をイエス様が語られてから、エルサレムに向かって出発したと、このルカ福音書は前置きしています。イエス様がお建てになる「神の国」は、ユダヤの民が期待したものとは、全く別次元のものであるということを「ムナのたとえ」を想起させつつ、主のエルサレム入城の話が進んでいきます。「ムナのたとえ」で意味されていることは、「神の国」とは、イエス様を憐れみ深い救い主として信じる者達は、主の僕としてその恵みを増やすように働く国であるし、一方、イエス様を救い主として全く受け入れる気のない者は、その恵みから完全に締め出される国であるということです。イエス様を救い主とする信仰があるか否かで分けられる国なのです。例え話にあるように、そこでは、主人が一度不在となり、僕達が恵みを増やす時間が必要です。ここで、イエス様がこの世で人間として生きて歩む「恵みの時」が近々終わることが暗示されています。人々の罪を贖うために、主は命を捨てる定めを全うせねばなりませんでした。

 

ゼカリヤ書の預言どおりのことが実現した!

30節から35節までは、ゼカリヤ書にある「救い主についての預言」が、「エルサレム入城」の時に、本当に実現したということを意味しています。子ろばの手配に選ばれた二人の弟子は、当時は、はっきりと意味がわかって行動したわけではないでしょう。イエス様に命じられたままに行動したら、そのとおりのことが次々と起こり、主の死後に「あれは預言の実現だ!」と思い至り、語り継いだのだと思います。人間には理解できないことも、神の御子であるイエス様には、神様の御計画として、御自分が「子ろばに乗る救い主」としてエルサレムに入っていくとわかっておられ、粛々と実行なさったのだと思われます。

 

 ルカ福音書における「エルサレム入城」の特徴

イエス様が救い主としてエルサレムに入られたことを、教会では「エルサレム入城」と呼び、4つの福音書全てに記されているように、重要視しています。その中でも、ルカ福音書における「エルサレム入城」では、他の福音書の記述とは異なる特徴が2つあります。一つは「弟子達の歓喜と反対派の反感が対比して書かれていること」であり、もう一つは、「結局はイエス様を受け入れなかったエルサレムが近い将来崩壊することをイエス様が預言なさっていること」です。

前者では、他の福音書とは違って、エルサレム入城について、歓喜の声・賛美の声を上げるのは「弟子の群れ」(37節)です。それを止めさせるように、イエス様に要求したのがファリサイ派の人で、彼らは、イエス様が現れる前には民衆の尊敬を受けていた宗教指導者達でした。イエス様に反感を持つ彼らは、エルサレム入城も面白くなかったでしょうし、エルサレムの人々が、主の弟子達の歓喜に影響され、イエス様への人気が燃え上がることは避けたいと思っていたのでしょう。しかし、イエス様は、「エルサレム入城」は神様の御計画の実現だから、天地全体の喜びであり、弟子達を黙らせても、石が叫び出すと表現されたのです。

後者では、ファリサイ派をはじめとする宗教指導者達と、彼らに扇動された民衆とによって、イエス様が救い主として受け入れられなかったことが原因で、エルサレムの町とその住民が滅ぼされるという事態を、イエス様は先取りしてご覧になっていたことが示されています(約40年後、エルサレムはローマ帝国により、預言どおりに徹底的に破壊されました。)。エルサレム崩壊の様子が、大変悲惨だとイエス様は予めおわかりになり、泣き叫ぶほどに悲しまれたのです。

 

「神の訪れてくださる時」をわきまえる

破滅を逃れるには「神の訪れてくださる時をわきまえる」必要があると記されています(44節)。これは時空を超える神様の法則なので、私達にも該当します。信仰者には「神の訪れてくださる時」があります。過去には「洗礼を受けたい思いが与えられた時」、現在では「礼拝を献げる時」です。その恵みを理解して感謝する信仰者となれるよう、祈りましょう。

7月1日の説教要旨 「主の僕と主の敵」 平賀真理子牧師

マラキ書3:17-20 ルカ福音書19:11-27

はじめに

エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も、いよいよ目的地に近づきました。今日の新約聖書箇所は、直前の段落「徴税人ザアカイの悔い改め」の話が終わった後、それに続いて、イエス様がお語りになった例え話として記されています。

 

民衆の期待「イエス様はエルサレムで神の国を建ててくださる!」

イエス様がエルサレムに近づいておられることは、ユダヤの民衆にとり、期待が膨らむ嬉しいことでした。彼らは、イエス様がエルサレム到着直後に、自分達に圧政を強いてきた異邦人の国であるローマ帝国を追い出し、ユダヤ民族の国を実際に建ててくださると思い込んでいたのです。しかし、今日の箇所の冒頭の11節では、言外に「そうではない。人々が思い込んでいるとおりのことが実現するのではない。」という思いを汲み取ることができます。「ムナのたとえ」を知ると、イエス様が「神の国」について何をおっしゃりたかったかが見えてきます。説教題「主の僕と主の敵」という観点で、見ていきましょう。

 

「ムナのたとえ」の中の「僕」と「国民」

12節以下の例え話で、最初に登場するのは「王の位を受けるために旅に出るという立派な家柄の人」です。その人は、旅の前に、十人の僕に一ムナずつ渡し、これを元手に商売をするように命令します(「1ムナ」とは、100日分の賃金と考えられます)。更に読み進めると、この僕達以外に、「国民」がいて、彼らは、この主人を「王」として受け入れたくないと、人を介して主張したと説明されています(14節)。

 

それぞれの僕への賞罰と、王を受け入れない国民への裁き

王の位を受けて旅から帰ってきた主人は、僕達が自分の留守中に命令を遂行したか尋ね、1番目に報告した僕は10ムナ、2番目に報告した僕は5ムナの利益を上げたと報告しました。この2人に対し、主人は、利益の多寡ではなく、彼らが命令に忠実だったことを大変喜びました。問題は3番目に報告した僕です。主人が厳しい人だと自分で思い込み、失敗して損失を出すのを恐れて、資金の一ムナを布に包んでいたと報告しました。主人は彼を「悪い僕だ」とし、また、3番目の報告者の言葉どおりに「厳しい人」として「厳しい裁き」をしたのです。資金の一ムナを取り上げ、十ムナの利益を上げた僕に与えよと命令しました。主人のこの命令は、僕達にとってはすぐに納得できる内容ではありませんでした。それは、人間の考え方では不平等のように感じます。しかし、この主人は「持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(26節)と言ったのです。それだけではありません。この主人を王として受け入れたくないと言った「国民」を、自分が治める国から全く排除するのだと、この主人は宣告しました。

 

 「ムナのたとえ」は「神の国」の例え

 この例え話は「神の国」の本質が語られています。イエス様を救い主として受け入れるか否かによって、前者は「主の僕」とされ、恵みを増やすことに忠実かを問われ、後者は「主の敵」とされて排除されると白黒はっきりした結果が示されます。主を信じて従う者の国が「神の国」です。

例え話の謎解きをすると、立派な家柄の人であり、後に王の位を受けて戻ってくる人とは、「神の国」の主人、具体的に言うと、救い主イエス様の例えです。そして、王の位を受けるために遠い国へ旅するとは、イエス様が十字架にかかって、この世を去ることを例えています。一ムナずつ渡される僕達は、当時で言えば「使徒達」の例えですし、後の時代まで広げれば、神の恵みを受ける信徒達を例えていると考えられます。

また、この主人は旅から戻り、命令を忠実に果たしたかを問うことを忘れてはならないでしょう。私達「主の僕」は、救い主イエス様から受けた恵みを増やすために生きたかを必ず問われるという例えだからです。

別のグループ「国民」(14節)とは、イエス様を救い主と認めない者達、具体的には当時のユダヤ教指導者達の例えだと言えますし、主を十字架につけたユダヤの民衆も含まれると言えるでしょう。二千年たった今でも、主を受け入れない人々はおられます。彼らは「主の敵」(27節)と例えられます。しかし、主は「敵」を「僕」に変える「救いの御業」をなさいます。私達もそのことに僅かでも貢献できるよう、祈り求めていきましょう。