「世 の 富」 加藤 秀久牧師
*はじめに
本日のアモス書8章にはアモスの見た5つの幻のうち、4番目の幻が記されています。アモスの見た幻は、一籠の夏の果物でした。この果物は、いちじく又は、ぶどうであったと考えられています。主はアモスに「何が見えるか」と問いかけた時、アモスは「一籠の夏の果物(カイツ)です」と答えると、主は「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。」と告げています。夏の果物(カイツ)と最後(ケーツ)を記している言葉は、もとのヘブル語の独特の表現で、「夏が終わって、目を覚ます」という夏の終りが近づいていることを意味しているそうです。このことから、イスラエルの人々の犯した罪は明らかされ、イスラエルの裁きの時が熟したことをも意味しています。
では、私達はどのようにしてその時を知ることができるのでしょうか。
*イエス様の教え
イエス様はマタイ福音書24:32~の中で、次のように語られています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのこと(注:24章前半の出来事)を見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」神様はイエス様を通して、私達が滅びの道ではなく、救いの道を歩むようにと勧めています。
*何が見えるか
預言者エレミヤも、アモスと同じように神様から「何が見えるか」と問われて「アーモンドの枝が見えます」と答えています(エレミヤ書1:11)。
どちらもこれから起こる神様のご計画が示されている幻です。私達の中にも神様の促しのような預言や幻を見る方がいるかと思います。その神様からの問いかけを、しっかりと話し合える場所、祈り合う仲間、解き明かす仲間がいるかどうかが大切なカギとなるような気がします。
*「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」
4節には商人の不正がいかにひどいかを告げています。彼らの悪行は、祭壇や神殿の中にまで入り込み、神聖な場所を汚し、その罪はイスラエルの民全体に及ぼしていることを伝えています。富む者達は貧しい者達に苦しみを与え、農民逹をも押さえつけていたようです。商人は、秤や天秤、物差しに手を加えて儲かる仕組みを作り、くず麦さえも売りつけ、弱い者、貧しい者を靴一足の値段で買い取ったりしていました。神様はこれらを見過ごしにできず「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」と、人々に裁きの時、終わりの日が来たことをアモスを通して宣言します(7節)。
*「金銭の欲は、すべての悪の根」
本日のテモテ書6:2では、私達が働く時、主人(雇用者)が信者である場合、「自分の信仰上の兄弟であるから」と軽く見るのではなく、「むしろ、いっそう熱心に」その人に仕えるべきと教えています。神様は、神様を信じる主人の上におられ、主人は神様に愛され、その会社が祝福の内に守られていることが告げられているように思えます。
他方、イエス様の健全な言葉や教えに従わない者は、さまざまな欲望に陥り、その欲望が人を滅亡と破滅におとしいれていきます。
確かにお金は大事です。けれども「この世の富」を愛することは、お金や物への執着心がつきまといます。その人達の行きつくところは、満たされることがない世界だということ理解しなければなりません。ここでは、「金銭の欲は、すべての悪の根です。」(10節)と教えます。
*大きな利得の道
「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならわたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持っていくことができないからです。食べる物と着る物あれば、わたしたちはそれで満足すべきです(6~8節)」。「この世の富」が私達にとって「イエス様である」ことを信じ誘惑に負けず、イエス様を見つめて行きましょう。