2023年9月24日の説教要旨 アモス書8:1-7、テモテⅠ 6:1-10

              「世 の 富」       加藤 秀久牧師

*はじめに

本日のアモス書8章にはアモスの見た5つの幻のうち、4番目の幻が記されています。アモスの見た幻は、一籠の夏の果物でした。この果物は、いちじく又は、ぶどうであったと考えられています。主はアモスに「何が見えるか」と問いかけた時、アモスは「一籠の夏の果物(カイツ)です」と答えると、主は「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。」と告げています。夏の果物(カイツ)と最後(ケーツ)を記している言葉は、もとのヘブル語の独特の表現で、「夏が終わって、目を覚ます」という夏の終りが近づいていることを意味しているそうです。このことから、イスラエルの人々の犯した罪は明らかされ、イスラエルの裁きの時が熟したことをも意味しています。

では、私達はどのようにしてその時を知ることができるのでしょうか。

*イエス様の教え

 イエス様はマタイ福音書24:32~の中で、次のように語られています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのこと(注:24章前半の出来事)を見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」神様はイエス様を通して、私達が滅びの道ではなく、救いの道を歩むようにと勧めています。

*何が見えるか

 預言者エレミヤも、アモスと同じように神様から「何が見えるか」と問われて「アーモンドの枝が見えます」と答えています(エレミヤ書1:11)。

どちらもこれから起こる神様のご計画が示されている幻です。私達の中にも神様の促しのような預言や幻を見る方がいるかと思います。その神様からの問いかけを、しっかりと話し合える場所、祈り合う仲間、解き明かす仲間がいるかどうかが大切なカギとなるような気がします。

わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない

 4節には商人の不正がいかにひどいかを告げています。彼らの悪行は、祭壇や神殿の中にまで入り込み、神聖な場所を汚し、その罪はイスラエルの民全体に及ぼしていることを伝えています。富む者達は貧しい者達に苦しみを与え、農民逹をも押さえつけていたようです。商人は、秤や天秤、物差しに手を加えて儲かる仕組みを作り、くず麦さえも売りつけ、弱い者、貧しい者を靴一足の値段で買い取ったりしていました。神様はこれらを見過ごしにできず「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」と、人々に裁きの時、終わりの日が来たことをアモスを通して宣言します(7節)。

金銭の欲は、すべての悪の根

 本日のテモテ書6:2では、私達が働く時、主人(雇用者)が信者である場合、「自分の信仰上の兄弟であるから」と軽く見るのではなく、「むしろ、いっそう熱心に」その人に仕えるべきと教えています。神様は、神様を信じる主人の上におられ、主人は神様に愛され、その会社が祝福の内に守られていることが告げられているように思えます。

 他方、イエス様の健全な言葉や教えに従わない者は、さまざまな欲望に陥り、その欲望が人を滅亡と破滅におとしいれていきます。

確かにお金は大事です。けれども「この世の富」を愛することは、お金や物への執着心がつきまといます。その人達の行きつくところは、満たされることがない世界だということ理解しなければなりません。ここでは、「金銭の欲は、すべての悪の根です。」(10節)と教えます。

*大きな利得の道

信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならわたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持っていくことができないからです。食べる物と着る物あれば、わたしたちはそれで満足すべきです(6~8節)」。「この世の富」が私達にとって「イエス様である」ことを信じ誘惑に負けず、イエス様を見つめて行きましょう。

2022年7月24日の説教要旨  列王記上10:1-13・Ⅰテモテ3:14-16

「隠された真理」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

私たちにとって神様とはどのようなお方なのでしょうか。

神様は、遠くに感じられる時がある反面、すぐ近くにいて下さると感じる時もあるように思います。

昔、礼拝場所としての神殿がまだなかった時、ダビデの息子ソロモンは、ギデオンの地にある重要な礼拝場所であった高台に行って、千頭もの焼き尽くす献げものをささげました。これはソロモンの、神様に対する献身と感謝の表われと言えますが、この時のソロモンにとって、神様は、遠くにおられるような存在だったように思います。

何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(3:5)

ところがその夜、神様はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい」と言われました。その言葉に対してソロモンは、次のように答えています。

わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、このしもべをお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」 彼は、王として、日常の務めや礼拝に対する姿勢、王としての品性、民をまとめる能力が備わっていない不安を訴えたのでしょう。ソロモンは神様に、以下のように願い出たのです。

どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。

*主はソロモンのこの願いをお喜びになった。(同10節)

神様は、ソロモンが自分のために長寿や富を求めず、人々の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたことを喜ばれ、ソロモンに、知恵に満ちた賢明な心と、それに加えて、富と栄光、長寿をも恵みとしてお与えになる約束をされました。こうしてソロモンは、神様に出会い、神様が近くに、共におられる体験をしたのでした。そしてソロモンは、神様からいただく知恵によって正しい裁きを行い、人々は皆、王を畏れ敬うようになりました。

*シェバの女王の来訪

本日の10章では、ソロモン王の名声を聞き、難問でソロモンを試そうとやってきたシェバ(現在のイエメン)の女王が、香料や非常に多くの金や宝石をらくだに積んでエルサレムにやって来た出来事が記されています。女王は、用意してきたすべての質問にソロモンがすべて答えたその知恵や、彼の建てた宮殿を目の当たりにし、又、食卓の料理、家臣や給仕たち見て、息も止まるような思いであったこと、そして帰る時には、家臣たちが幸せであることや、ソロモンを王座に就かせた神様をほめたたえる言葉を残し、ソロモン王に多くの高価な品々を贈りました。

*神の家(=神の教会)でのあるべき生活

本日のテモテ書3章には教会の指導者や奉仕者たちの在り方について記されており、本日の箇所では「神の家」を次のように説明しています。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

私達が毎週、礼拝で集う「神の教会」は、先ず「真理=イエス・キリストに於いて現わされた神様の啓示」を「柱とし、土台としている」神様の教会であり、この神様は今も生きて働かれている神様であり「死んだ偶像ではない」ことを伝えます。そして16節は、「キリスト賛歌」からの引用と言われていますが、「信心(信仰)の秘められた真理=神様への畏敬と、それにふさわし生活態度」は、神様を信じる者たちに力を与え、十字架の死と復活と昇天を通して義とされ、霊の領域に移されたイエス様の、地上における世界的な宣教と勝利が歌われています。

*わたしたち

神の家で、神様を信頼し、神様と関係を持つ私達は「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている(9節)」ことが求められています。ソロモンは願い通りに、知恵に満ちた賢明な心が与えられ、神様の栄光を現し、シェバの女王もソロモンを通して神様の大いなる恵みを見聞して、神をほめたたえ、ソロモンから豊かな贈り物を受けました。

その神様が今、私達を祝福するために、一つ所に集まり礼拝することを求めておられます。私達は、信仰の秘められた真理を知らされています。

神様への畏敬と、神様の恵みにふさわしい礼拝者でありたいと願います。

2021年11月21日の説教要旨 サムエル上16:1-13・Ⅰテモテ1:12-17

「忠実な者への務め」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

 サウル王はイスラエル王国の最初の王でした。「神の民」を治める王として神様の恵みと召命を受けて、神様に仕える者として王座に就きました。しかしサウルは、預言者サムエルから油を注がれて(*)、王座に就いたにもかかわらず、主に従わず自分の考えで行動を起こしたため、神様は「わたしは王位から彼を退けた」(1節)と、サムエルに、次の王のための使命を与えます。(*油=オリーブ油・油注ぎ=聖別されて即位する)。

サムエルはこのことを嘆き、心を痛めていました。

*新しい使命

 本日のサムエル記では、神様がサムエルに「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしはあなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」と語られています。サムエルは、サウルがまだ即位中にもかかわらず、次の王となる者に油注ぎの儀式を行うことに躊躇(ちゅうちょ)して答えます。

「どうして私が行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」すると神様はサムエルに、「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげる時になったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、その時わたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」と言われました。サムエルは主が命じられた通りエッサイと息子達に身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きました。そして長男エリアブに目を留め、彼こそ主の前に王として油を注がれる者だと思いました。しかし神様は「容姿や背の高さに目を向けるな。・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(7節)と、人がうわべのかっこ良さや見かけで判断することに対して神様は「心」を見ることを伝えました。父エッサイは7人の息子達を一人ずつサムエルの前に進ませ紹介しましたが、どの息子も神様が選んだ人ではないと神様に告げられます。「あなたの息子はこれだけですか。」と父親に尋ねますと、「末の子が残っているが羊の番をしている」と答えました。サムエルが彼を連れて来させると、神様はサムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」と言われました。

このようにしてダビデは、神様に仕える者として聖別されました。神様からの油注ぎは、主の霊が注がれたしるしでもあります。

その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。」(13節)

主の霊はサウルから離れ、」(14節)と、記されています。

 

*神様の霊、聖霊を宿していたパウロ

 神様の力は、神様から与えられなければ知ることも感じることも出来ません。神様の力と知恵を自分勝手な解釈や理解によって使ったサウルは退けられ、一方ダビデは神様の言われること、なさろうとすることに従順に従い、守り続けようと努力しました。罪を犯した時には神様の前にへりくだり、犯した過ちは赦しを願い求めて祈りを献げています。

 本日のテモテ書Ⅰの1:12-17には、聖書の言葉の力、イエス様の愛の力によってパウロが勇気づけられ、励まされていることが記されています。パウロも、イエス様の霊との劇的な出会いにより過去の過ちから赦されて、聖霊をいつも心の中に宿していました。たとえ困難な問題・自分の生死にかかわる問題に対しても、イエス様に感謝して前を向き、イエス様が十字架上で血を流され、死なれ、陰府に下り、そこから復活され、天に昇られ、神様を信じる者達には罪の赦しと永遠の命が与えられることを宣べ伝え続けました。

*わたしたち

 わたしたちはどうでしょうか。私達はパウロと同じような主の恵みと祝福が(キリスト・イエスによる信仰と愛が)あふれるばかりに与えられているにもかかわらず、もっと助けて下さいと求め続けてはいないでしょうか。神様はすでに、私達一人一人の内に、神様の霊を注いで下さっています。それは時に力強く、時に優しく、時に頼りがいのある霊として注がれます。その神様の霊を感じながら、神様の霊に励まされながら、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

12月1日 礼拝開始17周年記念感謝礼拝・待降節第一主日の説教要旨

イザヤ書48:17-19 Ⅰテモテ6:17-19 

「神に望みを置く」 佐藤 義子(協力牧師)

*はじめに

本日、12月1日は、仙台南伝道で初めて礼拝が捧げられた記念の日です。佐藤博子姉の家の応接間からの出発でした。

礼拝を始めるにあたり、私の一番の課題は、この開拓伝道が、神様の御計画の中にあるのかどうかということでした。その時、浮かんだ御言葉が、使徒言行録5章38節の、ガマリエルの言葉です。ペトロや他の弟子達の宣教を禁止したにもかかわらず、やめようとしない彼らに対して殺そうとまで考えたユダヤ人達に対して議会で発言した言葉が「あの者達から手を引きなさい。放っておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」です。私自身の、単なる思い込みだけで伝道を始めるなら自滅するであろうと覚悟しました。ただ、神様・イエス様のことをお伝えしたいとの思いと、神学校で学ばせていただいた神様の恵みを無駄にしては、神様に申し訳ない・・との思いで、博子姉の協力を得て礼拝が始まりました。

*17周年

それから17年、今日で888回目の礼拝を迎えました(週報参照)。初めから祈っていた三つの祈り(後継者と奏楽者が与えられるように。会堂が与えられるように。)のすべてを神様は聞いて下さいました。そして何よりも感謝なことは、ここで神様と出会い、信仰を与えられた方々が10人を数えます。さらに今、ここにおられるすべての方を、神様が導き招いて下さっていることを思う時、17年間、ただただ神様の守りと導きと憐れみとお支えがあったことに感謝し、声を大きくして神様のみ名をほめたたえます。私達の生と死を支配されておられる神様は、私達の思いをはるかに超えて、昨日も、今日も、明日も変わりなく、神様の御業を起こし続けておられます。私達は信仰のアンテナを高く張り、その御業をキャッチしつつ、感謝を以って信仰生活を続けていきたいと願っております。

*牧会者

今年度の第一日曜日は、パウロの手紙から学んでおりますので、本日は、テモテに宛てて書いた手紙からご一緒に学びたいと思います。

テモテ書の、第一と第二、それに続くテトスへの手紙の三巻をまとめて牧会書簡と呼んでいます。牧会とは、教会を牧する・・教会の信徒を羊にたとえて、その方達をお世話する羊飼い役が牧会者です。

聖書では、イエス様を良き羊飼いと呼び、教会は、羊飼いイエス様のもとで養われる羊の群れです。ですから、牧師とは、イエス様を羊飼いと仰ぎながら、ペトロのように、イエス様から「私の羊を飼いなさい(ヨハネ21:17)」との役割を与えられた人のことです。

*テモテ第二の手紙3:16

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことが出来るように、十分に整えられるのです。

私達が聖書を神の御言葉と信じてイエス様に従っていくためには、聖書に親しみ、御言葉を学ぶことを喜び、心の内に御言葉を蓄積し、日々の歩みの中でも、ことあるごとに御言葉が先だって私達の行動の指針となっていくならば、私達の生涯はきっと、表面的には厳しい局面でさえも、心は平安の内にそれらを乗り越えていくことが出来ると確信します。

*今日の聖書「テモテ6:17-19」

今日の聖書は、すらすらと読める箇所ですが、非常に大切なことを教えています。17節「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」です。

「この世で富んでいる人」とは、「この地上」で、「今の時代」に富んでいる人のことです。やがて、この世の終りが必ずやってきます。再臨の時、今、富んでいる人達が「来るべき世界」でも富んでいるというわけではありません。この世における富が私達にもたらす「危険」について、パウロは、テモテに教えるように勧告します。

「危険」とは、自分のことを大いなる者、力ある者と思い、どんなことでもすることが許されると思い込むことです。富を希望の基(もと)とし、富が自分を助け、幸いをもたらし、やることはすべて成功すると信じるのです。そのように富は人を迷わします。 私達は富が与えられたとしても、いつまでも手元にある確証はないことを知り、それを希望のよりどころにしてはなりません。

*神に望みを置く

それとは反対に、「神様は私達の希望の正しい根拠」であられて、私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださるお方であるとパウロは教えます。私達はパウロのように、神様のことを、「すべてのものを豊かに与えて楽しませて下さる神様」と告白しているでしょうか。 私が幼稚園の時に覚えた歌があります。「うるわしき朝も、静かなる夜も、食べ物着物も下さる神様」という歌詞です。私は朝のすがすがしさの中で深呼吸する時、その朝を与えて下さっている神様のことを思って感謝しているだろうか。又、あわただしく一日が過ぎても、夜の静けさの中で休むことが出来ることを神様に感謝しているだろうか。又、命をつないでくれる食事が与えられ、寒さをしのぐ衣服が与えられていることを、この讃美歌のように神様に感謝しているかと反省させられました(讃美歌454番)。

私達は、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持っていくことは出来ないからです。食べる物と着る物があれば、私達はそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲はすべての悪の根です。」(テモテ6章7節~)

*18節

善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」

富は、用い方で、多くのことを実行に移すためのなくてはならない大きな有力な手段となり得ることを私達は知っています。ここでは、与えられている富をもって、善を行い、良い行いを積み重ね、分かち合いの道を教えています。富は罪ではなく、非常に大きな責任を伴うものでもあります。「物惜しみをする」ことは魂が貧弱になることであり、逆に分かち合う時には豊かになります。地上の財産が天の祝福に変えられるのです。

*19節

真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築く」 聖書でいう「未来」とは、この地上の生活の延長線上にある将来のことではなく、ヨハネの黙示録21章で示されているように、全く次元が異なり、これまでの天地は去っていき、新天新地(海がなくなり、新しい天と新しい地が天から降って来る)の未来を指します。神様を信じる者は、今ある世界だけしか見ないのではなく、やがて来るところの世界を知らされています。その「未来」に備えて、パウロはテモテに、(与えられている今の命を維持管理するだけでなく)「真の命を得るために堅固な基礎を築く」ように教えることを命じています。

真の命を得る」を、ある聖書は「本当の祝福を神からいただく」と訳しています。又、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と表現している聖書もあります。

私達が、それぞれ、自分に与えられた地上の命を終えて、聖書が伝える未来になった時、神様から「忠実な僕よ、よくやった」と喜んでいただくために、今は、堅固な基礎作りの時であることを知らされます。

*待降節

アドベントは、御降誕をお迎えする心を整える時であると同時に、週報にありますように「再臨」の時を覚える時です。

神様が私達を愛するゆえにイエス様を遣わされ、イエス様は私達の罪を神様から赦していただくために、贖いの供え物として私達に代わって死んで下さいました。そして三日目に死に勝利して復活されて、それによって私達が罪の支配から解き放たれ、神の子とされて今、歩むことが出来ています。

この恵みを、待降節の4週間、日々覚えて歩みたいと願います。 それと同時に、再臨の時をも緊張感を持って覚え、今日学んだ御言葉と共に歩んでいきたいと願うものです。